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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える
1215
:
「訊け」管理人
:2011/10/27(木) 15:37:28 ID:???
>さて様
名前を誉めるを実行しましたが・・・素晴らしいですね。
これからもいろいろなご指導を宜しくお願い致します。
1216
:
トキ
:2011/10/27(木) 16:22:14 ID:8XOns2P6
>>1211
さて様
すばらしい内容だと思いました。相当、伝道をされているのでしょうね。
私も、伝道するときは、先ず、相手の立場を最優先しました。仕事で講習会に行けない、という人に
無理矢理、参加をお願いした事はありません。「御仕事、頑張って下さいね。」と笑顔で言うように
しました。
その他、いくつか心がけている事はありますが、おいおいと投稿したいと思っています。
そう言えば、モルモン教の人と話していたら、イースターや盆踊り(!)などのイベントを教会で行い
近所の人が遊びに来る様にしているそうです。また、無料英会話を教会で定期的に実施しているのも有名
で、こういう「親しまれる」努力は必要だと感じました。
合掌 ありがとうございます
1217
:
さて
:2011/10/27(木) 23:28:43 ID:8GtsBrrs
今日もなにか良いことをしようと思っていたら、なにやら「ありがとうございます。」がいいらしい。
今日はありがとうございます。で埋め尽くそうと思い、ことある毎にありがとうございます。と心の中で言い続けていた・・・がしかし、まったく個人的なことではあるが、私にとってはかなりイタイ出来事が・・・・。これはまいった・・、と昔ならばひるむところ、なぜか良いことにつながる一歩に思えたのが不思議である。
早速この出来事をいつもお世話になっていて母親のような存在でもある知人に報告してみたが、何故か不思議とすごく元気に話している自分がいる。
つい先日その方(知人)の孫娘のお写真をメールで頂いていた。なにかにっこりと笑うような感じになって最近やっと人間らしくなってきた。なにかその笑顔を見ていると、他人の子なのに、その方の心から嬉しい気持ちが伝わってくるような気がしていた。そういえばこの子が生まれた時に、すごくいい名前だな〜と思った。すべてをやさしく包んでくれるようなとてもいい名前だと感じた。 名前というのは親のまごころがこもっていて、それ自体が意味があるのかなと感じた。
その子が生まれる前はツンツンケンケンとその子の両親(知人の娘夫婦)も事ある毎に夫婦げんかしていたのに、母親になってからは、まるで菩薩様のような変わりようである。名前のようにすべてを包み込むような雰囲気がその家族全体を包んでいるかのようである。そのくったくのない笑顔になりかけの笑顔の表情を見ていると、他人の子とは言え、まるで自分のことのようにうれしく感じる今日この頃である。
以前雅春先生の教えを知ったばかりの時に、どうしても伝えたいと思ってある本を買ってその方(知人)に差し上げたが、すべて受け入れられないと言って突き返されたことを思い出す。たしか清超先生の親と子の話の本だったかな・・・。
今に至るまで伝道という意味では見事に失敗しているわけであるが、今では家族みたいに、同じその孫を思う気持ちが分かるようになっただけでそれだけでうれしいのだ。
おっと忘れていた。ちょっとこまったこの事態に対処しなくては・・・。
とりあえず自分では解決できないと思い、いつもお世話になっている大先生に相談してみた。今日はたまたま ありがとうございます。の日だったわけだけれど、
この事態に感謝の念を持って祈りなさいと教わった。今までもただ言われるままに実行していくとなぜか事がスムーズに運ぶことが多くなった。
その中で必ずうまくいくはずだった出来事だったが・・・・・・・・しかしどうやら、
こんな時こそありがとうございますなのだ!!!。
感謝の波動は感謝の縁を引き寄せる。大切な言葉を教えていただいた。(暗唱!!)
(これまた達人になると、モノが壊れた時も、今までありがとうと感謝すると一層良いモノが手に入るらしい)
おかげで何か身を引き締められたような気もする。もっと身辺を整えよう!!
伝道のコツをさりげなく大先生に聞いてみると、なんと自分は雅春先生だとおっしゃっていた。・・・??・・なんのことだと思いすかさず聞き返すと、自分では何を言ったかは考えていない。ただひとの悩みをひたすら聞いて、我(が)を捨てて、経験と真理をもとに語るだけだとおっしゃっていた。さすがに古くからのしろはと地方講師の経験が深いと言うことがすごい。
おかげ様!!と思って、おかげを伝えているだけだそうである。
(一応念のため付け加えるが、自動書記とかいうたぐいのものでは一切ない!!らしい)
そういえば四部経の 続々甘露の法雨の雅春先生の講義を清超先生が纏めた聖典がある。どうやら雅春先生御生誕百年記念のすばらしい本である。
はしがきには、やはりありがとうございます。が大切って書いてある。良くわからないが明日は清超先生ありがとうございます。とひたすら言い続けてみようかな・・。
久しく聖経もちゃんと読んでいないので、今日明日にかけてしっかり心を込めて読んでみるとしよう。 なにごとも感謝と真心がたいせつなのかな!!
ゆえ雅春先生の古事記の講義は今日はいったんおやすみだ・・。
1218
:
役行者
:2011/10/28(金) 07:38:56 ID:GoOoUu9s
> さて さま
今回も素晴らしいコメント、ありがとうございます。
早速、使わさせていただきました(^-^)
とくに、下記文章が印象に残りました。
>感謝の波動は感謝の縁を引き寄せる。大切な言葉を教えていただいた。(暗唱!!)(これまた達人になると、モノが壊れた時 も、今までありがとうと感謝すると一層良いモ ノが手に入るらしい) おかげで何か身を引き締められたような気もす る。もっと身辺を整えよう!<
如意宝珠の極意ですね。
欲するもの、好ましきもの、自ずと集まり来たり、欲せざるもの、好ましかざるもの、自ずと去る!
アリガトウと感謝の念は、大切に、やさしく、あたたかく扱い、接するヒト、モノ、コトを引き寄せて、周囲を円満解決へと、導く。
そうですね。
ありがとう!ありがとう!との感謝の言葉をあげて、感謝行を行いましょう!(^^)!
ありがとうございま〜す!
ありがとうございま〜す! ・・・・・・
1219
:
志恩
:2011/10/28(金) 07:46:39 ID:psrFh/ZU
さて様
すばらしいお話、ありがとうございます。「ありがとうございます。ありがとうございます。。。」は、生長の家の基本中の基本ですものね.私は、生長の家は永いのですが、いまも、その基本を実行しています。
私の母は、一生、「ありがとうございます」と「神様、神様」と「だから よかった。」が、口ぐせの人でした。
さて様のお話をうかがいますと、心がリフレッシュされます。
さて様の生長の家の真理のお言葉は、世界に響いています。
わたしも、同感です。
「ありがとうございます」=「よろこぶ」・・この人生、ちょっといいことがあっただけでも、たとえ無くても うんと喜ぼう。喜ぶことは気持ちがいいし、免疫力もあがる。
ありがとうございます。を実行すれば、くだらないことも忘れることができる。
そして、精神が高まるほど、ささやかなもの、繊細なものをよろこべる。なぜなら、人生には、多くの楽しい事が
まだまだ隠されているから。それらを発見するつど喜ぶようになっている。「ありがとうございます」を実行して、精神が高まれば、繊細なものを見分けることができる。喜びを引き寄せることも出来る。喜びの極みも味わえる。
〜誰もが喜べる喜びを(『力への意思』より)〜
わたしたちの喜びは、他の人々の役に立っているのだろうか。
わたしたちの喜びが、他の人の悔しさや悲しさをいっそう増したり、
侮辱になったりしてはいないだろうか。
わたしたちは、本当に喜ぶべきことを喜んでいるのだろうか。
他人の不幸や災厄を喜んではいないだろうか。
復讐心や軽蔑心や差別の心を満足させる喜びになってはいないだろうか。
1220
:
うのはな
:2011/10/30(日) 22:59:39 ID:iM0b0bt6
生活技術をもつ強さ 横井庄一展を見て
横井さんがグァム島で二十八年の穴居生活をしながら、生き残っていたことは世界の人々を
驚かしました。マスコミは、発見された当時の横井さんの旧軍人らしい言動をとりあげて、二十八年間、
横井さんを支えてきたものは「生きて虜囚の辱しめを受けず」という戦陣訓の思想だと解説し、なかには
横井ブームは軍隊的根性教育の復活につながる危険があると、したり顔で説く進歩的文化人もいた。
しかし、私には職業軍人でもない横井さんが、軍隊に行ってから叩き込まれた戦陣訓が、そんなに深く
横井さんのバックボーンを形成しているとはどうしても考えられなかった。
「捕虜になれば殺される」という恐怖感はあったでしょうが、それは別に戦陣訓の思想でもなんでもない。
それにそういう恐怖感だけでは、二十八年もの長い間を餓死や病死をしないで生き抜いたほどの逞しい生活力が
生れるはずがないのです。
そんな疑問を漠然と感じていたところ、たまたま、大丸百貨店で開かれていた横井庄一展を見る機会がありました。
会場に展示されていたのは、横井さんが現地で使用した手製の日用品、道具、衣服などでしたが、
いずれも不自由な条件の下でよくつくったと感心させられるものばかりでした。
原料に竹を利用したものが多いのには、熱帯地方に竹ということで、ちょっと意外でした。
しかし、竹細工は日本では昔から日用雑貨品のなかに広く使われていて、農家なら、箕や箒、はたき、笊、
などの竹製品を手製でつくるのが普通でした。また小学校の工作でも、竹を使う細工が多くあって、
竹とんぼ、凧、紙切りナイフ、などを作りました。
子供の遊びの中でも、竹馬をはじめ、竹を使うものが少なくありません。
1221
:
うのはな
:2011/10/30(日) 23:36:53 ID:iM0b0bt6
>1220 続き
こう考えてきますと、横井さんが竹を利用して日用品をつくったのはむしろ自然だったと
いえます。しかし、もし横井さんが大学出のインテリであったら、こんなに器用に竹細工を作ることは
できなかったに違いありません。
やはり、横井さんがものをつくる職人であったという点が、あんな穴居生活の中にも生活の技術を持ち込む
ことができた大きな理由であったと思います。つぎつぎに現れてくる展示品は、そうした横井さんの逞しい
生活技術の冴えを示していました。
最初、新聞で横井さんのことが報道されたときには、穴居生活をしていたということなので、
とても人間らしい生活ではなかっただろうと思っていましたが、ここに展示されている日用品の一つ一つは、
いずれも実用本位の間に合わせの代用品というものではなく、実に丹念に製作され、しかも美しく磨き上げられた
品物ばかりなのです。
もちろん、金属製品こそ少ないが、展示された品物は、いずれもそこにいわば“横井文化”とでもいえる文化が
存在していたことを証明するものばかりです。
ここに至って、私は、抱いていた横井さんの穴居生活二十八年の謎が解けたように感じました。
つまり、横井さんが生き抜いて来られたのは、戦陣訓というようなイデオロギー的なものではなく、
むしろ応召前は洋服の仕立て職人だったといわれるように、彼が生活を自分の手でつくり得る技術の
持主であったことによるところが大きいと思います。
一言でいえば、大工や細工師などの職人がもっている生活技術のたしかさ、これが横井さんの生活を
支えたのです。
職人は商人やサラリーマンとは違って、人を相手にする職業ではなく、ものを相手にして、自分の想像力を
実現して行くだけです。だから、仕事をしているときは、本質的に孤独な存在です。
横井さんがひとり暮しの淋しさに耐え得たひとつの理由は、彼が孤独を忘れて打ち込める仕事を持つことができたということが
挙げられると思います。私は展示されている手製の日用品を見ながら、恐らく名作をつくる職人にも似た打ち込みようで、時日の
経つのも忘れて励んでいる横井さんの姿を見たような気がしたのです。
戦後の教育は国民にこうしたたしかな生活の技術を身につけさせるということを忘れてきたのではないでしょうか?
竹細工にかぎらず、一般に、最近では、子どもの頭と手を同時に働かせて、ものを創作するということを
あまり重視していないようです。とくに、自然の中から材料をとってきて、工作するということは少なくなりました。
その代わりにすでに材料が揃えてあり、つくり方まで説明してあって、ただそれを組み立てるだけになっているモデル玩具のようなものが
圧倒的に多くなりました。しかし、これはものをつくるということからは、ほど遠いものです。
自分の頭で考えたことを、自分の手によって実際に実現するという仕事は、それ自身、極めて創造性に富むものであり、
また地に足をつけた実際的なものです。
工作は、どんなに素晴らしいアイディアでも、自分の手で実現しなければ何にもならないことを教えてくれるし、
また現実の制約を無視しては何もつくれないことをも教えてくれるのです。
横井さんの生活技術は、本を読むことばかりで頭だけが大きくなって、実際には何ひとつや役に立つことができない
人間をつくる傾向にある今日の教育に、大変貴重な反省の機会を与えたといえるのではないでしょうか。
『母親は何ができるか』 生活のなかの教育 東京教育大学・鈴木博雄 先生
P69−73 日本教文社
1222
:
木綿豆腐
:2011/11/01(火) 05:39:43 ID:psrFh/ZU
『善悪の彼岸』フリードリヒ・ニーチェより
〜話し合いの効用〜
対話、それも、何か決まった事柄についてのじっくりした話し合いは、とてもたいせつだ。
なぜならば、そういう話し合いによって、自分が何をを考えているのか、何を見落としているのかがはっきりわかってくるし、
問題の重要な点がどこなのかも今までになく見えてくるからだ。そうして、1つの考えというものが形としてまとまってくる。
独りでぐずぐず考えてばかりだと、とめどがないばかりで何もまとまらないものだ。
だから、話し合いは、互いに考えの産婆となって助け合うことでもあるのだ。
『曙光』より
〜安定志向が人と組織を腐らせる〜
類は友を呼ぶというけれど、同じ考えの者ばかりが集まり、互いを認め合って満足していると、そこはぬくぬくとした閉鎖空間となってしまい、
新しい考えや発想が出てくることはまずなくなる。
また、組織の長が、自分の考えと同じ意見を持つ者ばかりを引き立てるようになると、その者も組織も、確実にだめになってしまう。
反対意見や新しい異質な発想を恐れ、自分たちの安定のみに向かうような姿勢は、かえって組織や人を根元から腐らせてしまい、
急速に頽廃(たいはい)と破滅へ向かうことになる。
1223
:
木綿豆腐
:2011/11/01(火) 06:03:46 ID:psrFh/ZU
『悦ばしき知識』より
〜読むべき書物〜
わたしたちが読むべき本とは、次のようなものだ。
よむ前と読んだあとでは、世界がまったくちがって見えるような本。
わたしたちを、この世の彼方へと連れ去ってくれる本。
読んだことで、わたしたちの心が洗われたことに気がつかせるような本。
新しき知恵と勇気を与えてくれる本。
愛や美について新しい認識、新しい眼を与えてくれる本。
『人間的な、あまりに人間的な』より
〜批判という風を入れよ〜
キノコは、風通しの悪いじめじめした場所に生え、繁殖する。
同じことが、人間の組織やグループでも起きる。批判という風が吹き込まない閉鎖的なところには、必ず腐敗や堕落が生まれ、大きくなっていく。
批判は、疑い深くて意地悪な意見ではない。批判は風だ。頬には冷たいが、乾燥させ、悪い菌の繁殖を防ぐ役割がある。
だから、批判は、どんどん聞いたほうがいい。
1224
:
木綿豆腐
:2011/11/01(火) 06:31:22 ID:psrFh/ZU
『漂泊者とその影』より
〜木に習う〜
松の木のたたずまいは、どうだろう。耳を澄まして何かに聞き入っているかのようだ。
モミの木は、どうだろう。まんじりともせず何かを待っているようだ。
この木々たちは、少しもあせってはいない。慌てず、いらだたず、わめかず、静けさの中にあり、じっとしていて、忍耐強い。
わたしたちもまた、このような松の木とモミの木の態度に見習うべきではないだろうか。
1225
:
木綿豆腐
:2011/11/01(火) 07:05:57 ID:psrFh/ZU
『ツァラトゥストラはかく語りき』より
〜絶えず進んでいく〜
「どこから来たか」ではなく、「どこへ行くか」が最も重要で価値あることだ。栄誉は、その点から与えられる。
どんな将来を目指しているのか。今を越えて、どこまで高くへ行こうとするのか。どの道を切り拓き、何を創造して行こうとするのか。
夢を楽しそうに語るだけで何もしなかったり、そこそこの現状に満足してとどまったりするな。
絶えず進め。より遠くへ。より高みを目指せ。
1226
:
義春
:2011/11/01(火) 13:41:42 ID:SjZg29/2
>>1222
木綿豆腐様
そういえば、総合紛争解決センターで(玄関破壊・抗がん剤治療中の私を病院送り等々)色々あった弟と話し合って、お互い、かなり誤解していたのが判明しました。
最初はお互い『何じゃ!?お前(怒)』だったのではあるのですが、話し合いをしている最中、弟が足の中指を骨折しました。
働けないと知って、こりゃヤバいとなり、慌てて、きちんと話し合ってみると、お互いがお互い、相当な規模での誤解がわかりました。
で、弟にしてみれば『俺、お母ちゃんから縁切られるんじゃないか?』と疑心暗鬼になって暴れた様でした。
それだから、金銭的な事は然程、重要ではなかったみたいで、後は(多忙の為、話し合いに欠席していた)母と12月の話し合いをすれば、それで終了となりました。
まぁ…母も弟は我が子だから愛情がありますし、これで丸く治まれば良いなぁと思ってます。
話し合うというのは、どんな事になっても大事であると、つくづく痛感いたしました。
1227
:
木綿豆腐
:2011/11/01(火) 14:45:09 ID:psrFh/ZU
義春さま
前々からの懸案でいらした弟さんと話し合って、誤解だったことも判明されたようで、よかったですね。
義春さまは、高度な課題を与えられておられても、つぎつぎに真摯に乗り越えられて、いつも尊敬しています。
あと、
昼メシが、義春さまは、最近、うどんのようですが、あれだと、すぐお腹へるでしょう?
そういうときは、トウフを一丁買っといて、あとで、かつお節の粉と醤油をかけて、食べておくと、結構お腹が保ちますよ。
りんご1個、かじるのもいいしね。
真空パック入りの1袋100円の、サラダ豆、あるでしょう。そのまま食べられる。あれも便利です。わかめも毎日食すると、健康にいいです。
私は、20代のころから、東條百合子さんの玄米・菜食に凝りにこってた時期が有りまして、
弟妹たちにも、勧めまして、一同で、凝りまくってた時期が有りますが、今は、たまには、すきやきとか、とんかつとかも食べてます。
いただく命に合掌して。
アメリカに住む、妹と妹の旦那さまが、いまだに肉食べません。アメリカ在住ですのにね。
今,アメリカで『eat to live』という本が売れているそうです。
アメリカでも"eat to live"(生きる為にたべる。つまり、順調に働けるように、体調を
維持するように食事をしている人が,すこしずつ増えているそうです。アストラル界についての認識はないようですが・笑)
人間には、"live to eat " の人と、 " eat to live"
(食べる為に生きる。味わうことが好き、食べることにはまっている) (生きる為にたべる人)
と、2種類の人がいるのだというのが、妹の持論ですが、経済的な理由で言えば、肉が一番経済的でもありますから、肉抜きで,生きられる人は、
経済的に余裕のある裕福な人たちではないかと、思ったりしています。
1228
:
義春
:2011/11/01(火) 21:24:21 ID:iu5Ar./Q
>>1227
木綿豆腐様
まぁ、ホントに頭が痛い事でした。
本当に一時は弟を逮捕して貰うか迄考えも致しました。
今となれば、それをしないでよかったと心から想います。
それで、食事のアドバイス有り難う御座います。
昨日は月見、今日はきつね…と、うどんはバリエーションに富みますよね。
豆腐ですか…その店にはそれがないないので、残念ですが、これから朝飯に食べますね。
私はその店では、鮭の握り飯と、ジャガイモのコロッケを食べるのが常です。
まぁ…ぶっちゃけ、あんまり考えていないのです(汗)
私自身は生きる為に食べるという感じでしょうか、省みれば、1日何も食べてない時もあります。
痩せているくせに食べてないと、速攻でフラフラになるのですが、身体が欲しない時は食べない。
それが普通になっております。
まぁ…これは、初回の癌で1ヶ月も絶飲食を経験したからでしょうけどw
それだから、金持ちの友人が旨いものを食べたという話を聴いても、
それがそれだけの事なのかなぁ…と想ったりもするのですね。
舌の上からこぼれたら、味も消えるだろうって想うのです。
それよりも良い景色を見て、風を感じている方が、ずっと心躍ります。
特に江の島や宮島の夕焼けを1人でボォーと観ている時こそが、人生の至福の時ですね。
何て言うか、それだから、肉食もしていたのですが、さすがに動物に悪いなと想ったから止めました。
そこまでして生きたくもないなって感じなのです。。
1229
:
さて
:2011/11/02(水) 00:33:37 ID:0IMe0CaU
、そういえば例の知人(
>>1217
)がもう一つなにか言っていた。
以前は心労が絶えなくて、毎日がストレスの嵐で、大きな十円ハゲが出来るほどのすごさだった。旦那さまも一度倒れているし、こんなにストレスばっかりでは自分もそんなに長くは生きれないかも・・・・なんて弱音を吐いていたと思う。
しかしである。あのかわいい孫娘の笑顔をしょちゅう見ている内に何か言うことが変わってきた。この子をずっと見守っていきたいな〜とおっしゃるではないか。まだ全然お若いので、しっかりと気をつけて生活していけば、当然相当先まで大丈夫のような気はする。 その子を眺めているだけで幸せで、ストレスなど吹っ飛んでいるのであろうが、夫婦そろって普段から、食事や体のことを気遣いはじめているようである。夢や希望の力はすごいのではあるか、やはり具体的に出来ることからしっかり実行していくことは大切だ。あの子が成人になるまで、みんなずっと幸せに過ごして欲しいな〜と思う。では五十年後はどうだろう・・・・。
そう言えば、生長の家が1930年に創立されて以来、既に八十年余りが過ぎ去った。まだ雅春先生の寿命ほどにも時は経っていない。あと十年後はどうだろう。 あと八十年後、百年後、千年後、一体どんな社会になっているのかな。きっと科学の進歩はものすごい勢いであろうな。世界各地の人口はどんなことになっていることやら・・・・。人類の愛はどのような形であるだろうか。
世界中のみんなが聖経『甘露の法雨』をあげているのもどうかとは思うが、日本にも世界中にももっと広がっている方がいいだろうな。皆がすべての人類のために生長の家の祈りを捧げている必要もないと思うが、多くのひとが自分以外のひとの幸せを祈って微笑みあう世界であって欲しい。 日本は、科学技術と精神世界の調和した世界のリーダーであり、世界の皆様のためにお役に立てる素晴らしい方々が多く活躍しているのだろうな。
ところで生長の家と言えば神の子であるが、なぜ、なにを持って神の子なのだろうか・・。生長の家やってないと神の子になれないのであろうか。生長の家をやっていると特別な神の子になれるのであろうか。 みんな同じ神の子として、手を取り合っていけたら良いかもな。これからも、ずっとずっと先の将来だって手を取り合って、神の子無限力!!なんかカッコいい???な〜〜。
遠い未来だって一瞬一瞬の時間の積み重ねでやってくるんだから、そのつどそのつど努力していくしかないな!!ほんの少し先の将来から、一歩一歩祈りを持ちながら一歩一歩、毎日毎日、いまその瞬間。体と心と頭を使って、自分のために出来ること、周りを見渡し、自分以外のためにできること、ひとつひとつ積み重ねていくしかないのかな。
みんなで心をむすびつけると一人の神の子のちからが、なんかすごくおっきな力になるんじゃないかな。一人一人が皆神の子なんだから、自分の無限力信じて、できるとこから一歩一歩よろこびにつながることをしっかりと重ねていけばいいのかな。
一人一人知恵を引き出して進んでいかないといけないな。
一人では出来ないことでも、みんなで同じことをやったらおっきなちからになる。
一人では気づかないことでも、みんなで知恵を出しあったら大きな気づきになる。
一人では届かない祈りでも、みんなで祈ったら必ず叶う夢がある。
あらゆる機会を通して、ひとりひとり努力していかないといけないし、その努力は必ずなにかしっかりと形あるものをむすぶと思う。
ひとのこころをむすぶ、つなぐ、そんな一歩が、この十一月からはじまるといいな。
生長の家にとってとても大切なものが多く生み出されてきたこの十一月から・・・。
一人一人に出来ることを、心でひとつになって出来ることから始めればよい。ちょっとだけ自分の得意な分野を用いて、さらに磨いて出来ることから始めればよい。
今までのカラを破って自分の外にちょっとだけ目をやってみると、もっと出来ることがあるかもしれない。ちょっとだけ声をかけてみたらいい。ちょっとだけ、意識を変えてみるだけで、神さまってのはいつだってホラそこそこ早く気づきなされ・・・とやさしくいつでも見守ってくれていたりするもんだ!!なんか、いろんなところに、思ってもみない解決策がころがっていたりするもんだ!!。
それにしても、いったい人間どこまで生きれば生き切ったって言えるのかな・・・・、いったいどこまで人類は生きていくのかな・・・・、
まあむつかしいことは置いておいて、とにかく一歩一歩なのかな。20一一年一一月。
一が沢山列ぶ年の一が沢山列ぶ月、みんなでよろこびというこころの歩調を合わせて身近に出来ることから一歩一歩が大切だろうな!!!
1230
:
木綿豆腐
:2011/11/02(水) 04:21:26 ID:psrFh/ZU
義春さま
癌医療は、近年、著しく進化しているそうですが、治療は続けなければならないので、根気がいりますね。
義春さまは、お仕事をこなしながら、前向きに生きていらして、ほんとうにすばらしいお方です。
先のお話させていただいた東城百合子氏著「家庭で出来る自然療法」が、私の部屋の本棚にありました。この方は、重い結核に罹られたのですが、
玄米菜食の食事療法で、結核が全治されまして、あなたと健康社という会社を立ち上げられて、いまもお元気でご活躍中だとうかがっております。
生長の家人です。
義春様は、今、お肉を絶たれたそうですが、治病食としても、それは正解のようですよ。主食は玄米が一番なのですが、あれは、慣れないと続きません。
せめて、副食を切り替える。この本にも、病気を治すには、動物性の肉より、植物性の大豆、豆製品、小魚、木の実、ごま、海草、野菜は色の濃い青菜や
人参、ごぼう、ハスなど、、と書かれてあります。
つまり、朝食か夕食のおかずに、トウフの上に 戻したワカメと 豆を乗せていただくのを加えれば、いいのでは。
それにしても、義春さまの親友の訊け君は、どうされましたかね。
最近、ここで おみかけしてませんが、、
ブログのほうは、毎日チェックして拝見していますけれどね、、
1231
:
役行者
:2011/11/02(水) 08:18:21 ID:.c7ckQ3Y
>>1229
さて さま
またまた、すばらしい投稿文、ありがとうございます。
初心に戻ろう、近視眼的な見方から離れ、もっと、大局的な視点からものごとを観てみようと 心を新たにできました。
ありがとうございます。
>では五十年後はどうだろう・・・・ そう言えば、生長の家が1930年に創立さ れて以来、既に八十年余りが過ぎ去った。まだ 雅春先生の寿命ほどにも時は経っていない。あ と十年後はどうだろう。 あと八十年後、百年 後、千年後、一体どんな社会になっているのか な。きっと科学の進歩はものすごい勢いであろ うな。世界各地の人口はどんなことになってい ることやら・・・・。人類の愛はどのような形 であるだろうか 世界中のみんなが聖経『甘露の法雨』をあげ ているのもどうかとは思うが、日本にも世界中 にももっと広がっている方がいいだろうな。皆 がすべての人類のために生長の家の祈りを捧げ ている必要もないと思うが、多くのひとが自分 以外のひとの幸せを祈って微笑みあう世界で あって欲しい。 日本は、科学技術と精神世界 の調和した世界のリーダーであり、世界の皆様 のためにお役に立てる素晴らしい方々が多く活 躍しているのだろうな<
>遠い未来だって一瞬一瞬の時間の積み重ねで やってくるんだから、そのつどそのつど努力し ていくしかないな!!ほんの少し先の将来か ら、一歩一歩祈りを持ちながら一歩一歩、毎日 毎日、いまその瞬間。体と心と頭を使って、自 分のために出来ること、周りを見渡し、自分以 外のためにできること、ひとつひとつ積み重ね ていくしかないのかな。 みんなで心をむすびつけると一人の神の子の ちからが、なんかすごくおっきな力になるん じゃないかな。<
>むすぶ、つなぐ、そんな一歩 が、この十一月からはじまるといいな。 生長の家にとってとても大切なものが多く生み 出されてきた。この十一月から・・・ 一人一人に出来ることを、心でひとつになって 出来ることから始めればよい。ちょっとだけ自 分の得意な分野を用いて、さらに磨いて出来る ことから始めればよい 今までのカラを破って自分の外にちょっとだ け目をやってみると、もっと出来ることがある かもしれない。ちょっとだけ声をかけてみたら いい。ちょっとだ
け、意識を変えてみるだけ で、神さまってのはいつだってホラそこそこ早 く気づきなされ・・・とやさしくいつでも見 守ってくれていたりするもんだ!! それにしても、いったい人間どこまで生きれ ば生き切ったって言えるのかな・・・・、いっ たいどこまで人類は生きていくのか な・・・・ まあむつかしいことは置いておいて、とにかく 一歩一歩なのかな。20一一年一一月 一が沢山列ぶ年の一が沢山列ぶ月、みんなでよ ろこびというこころの歩調を合わせて身近に出 来ることから一歩一歩が大切だろうな!!<
1232
:
八百比丘尼
:2011/11/02(水) 08:34:59 ID:j8iOdie.
本当にね、「訊け」監督、どうしていらっしゃるのかしら。
『部室板』が出来たら帰ってくる予定なのでしょうか。
義春さん、メールしてみたら?鈴夜も寂しがっているってね。
義春さん、辰巳芳子さんの「命のスープ」ご存知?
玄米スープや干しいたけのスープがおすすめよ。
不二子ちゃんもこのごろストレスから、体調を崩してて
しいたけや玄米が良いというので、研究中よ。
You Tubeでも作り方出てるから、いっぺん試してみて。
1233
:
さくら
:2011/11/02(水) 10:26:31 ID:ua9dGoJI
命のスープ、わたしも今度、作ります、
訊けさまとは、「エマニュエル…」とかいう、
ラブコメの映画のお話をした以来、お見かけしてません…
TSUTAYAで、また新しいラブストーリーのDVD借りて、
見まくってるのかしら、
1234
:
義春
:2011/11/02(水) 11:45:50 ID:SjZg29/2
木綿豆腐様
ビクニ姐さま
さくら様
今日は朝から会議で書記でヘトヘトでありますが、取り急ぎトイレから。
メールでは相変わらず、お元気な様でしたよ。まぁ…あの方がくたばるなんて想像もつかないのですけど、正直、私も寂しかったりします。
又、呼びかけてみますから、もしかすると、ご登板されるかと想いますというか、登板してくだされ…と。
では、仕事に戻ります。
1235
:
木綿豆腐
:2011/11/02(水) 11:46:06 ID:psrFh/ZU
「命のスープ」よさそうですね。私も早速作ってみます。風邪気味のときとか、胃が弱ってるときには、特に最適ですね。
いいの、教えて下さって、ありがとね。ママ。うれしいです。
私自身は、主食は,今でも玄米を食べています。今は、圧力釜もいいのが発売されていて、私は、"new圧力名人"というのを愛用していますが、
自動で玄米ごはんが炊けますので、べんりな時代になりました。でも,若い働き盛りの人は、朝は早く出勤し、帰宅も遅いし、玄米は、好みもあり、
続けるのは,なかなかかなぁと,思って。
私は、朝は、ミキサーに、濃い色の青菜とりんご、バナナ、緑効青汁、米ぬか、豆乳などを入れて。野菜ジュースをこさえて、飲んでいます。黒砂糖をほんの少し入れると
飲みやすくなります。
これも、面倒な人は、面倒だと思えるでしょう。簡単じゃないと、若い人は、続かないし。
とにかく、血液浄化は、血液を酸性からアルカリに変更することにありますから、粉になってる青汁だけでも、飲めるといいのですけれどね。
先にお話ししたトーフにワカメと豆を乗せて食べる方法は、いそがしい妹がやってる方法です。仕事してるので、いつもではないけれど、
いそがしいときの食事法です。かけるものは、中華ドレッシングとか、あれこれ変えてみると、飽きないと思います。
私も、ときたま、それを食べてます。美味しくはないけれど、まずくもないですよ。・笑
でも、義春さま、たま〜には、お肉も召し上がって。
私の個人的意見だけれど、たまには、いいと思うわ。
そうでないと、却ってストレスになるかもしれません。
人間は、この世に生きているだけで、知らず知らずにさまざまな罪を犯している。
神さまは、そのぐらいのことで、罰を下すような狭量なお方では、ございません。..と,私は、思っております。^^
1236
:
義春
:2011/11/02(水) 13:45:28 ID:SjZg29/2
続報が入りました。
えー…訊けさあ『この頃、キャバ嬢のメールがいっぱいで大変』…だとことです(-_-;
1237
:
「訊け」管理人
:2011/11/02(水) 14:03:46 ID:???
祭がバンバン入ってまして、掲示板にはなかなか参加できません。しかし
私は元気です。
ちなみに先日、鹿児島で「妙円寺詣り」がありました。これは島津勢の敵
中突破を記念した祭りでありまして、そして歌などありまして、そしてその
歌は22番までありまして、今年、22番までの歌詞を暗記出来た小学生は
54名だったそうな。以下は、彼ら小学生の歌う関ヶ原「前進撤退(敵中突
破)」ごあす。これ聴くと、泣けてくるんだよなあ・・・(谷口あかり姫に
も捧ぐw)
まあしかし・・・400年もこんなこと、未だにやっている地方って南九
州くらいでしょうね(笑)
妙円寺詣りの歌(伊集院徳重神社)
http://www.youtube.com/watch?v=uwzIIfhZvz0
1、明くれど閉ざす雲暗く 薄(すすき)かるかやそよがせて 嵐はさっと吹き渡り 万馬いななく声高し
2、銃(つつ)雷(いかずち)ととどろけば 太刀稲妻ときらめきつ 天下分け目のたたかいは 今や開けぬ関ヶ原
3、石田しきりに促せど 更に動かぬ島津勢 占むる小池の陣営に 鉄甲堅くよろうなり
4、名だたる敵の井伊本多 霧にまぎれて寄せ来るや 我が晶巌ら待ち伏せて 縦横無尽にかけ散らす
5、東軍威望の恃みあり 西軍恩義によりて立つ 二十余万の総勢の 勝敗何れに決戦や
6、戦い今やたけなわの 折しも醜(しこ)の小早川 松尾山をかけくだり 刃(やいば)返すぞ恨めしき
7、前に後ろに支えかね 大勢すでに崩るれど 精鋭一千われひとり 猛虎負嵎(もうこふぐう)の威を振るう
8、蹴立てて駒の行くところ 踏みしだかれぬ草もなく 西軍ためにきおい来て なびくや敵の旗の色
9、家康いたくあらだちて 自ら雌雄を決っせんと 関東勢を打ちこぞり 雲霞の如く攻めかかる
10、かかれ進めと維新公 耳をつんざく雄叫びに 勇隼人の切先の 水もたまらぬ鋭さよ
11、払えば叉も寄せ来たり 寄すれば叉も切りまくり 剛は鬼神を挫けども 我の寡勢を如何にせん
12、運命何れ生か死か ここを先途と鞭ふるい 奮迅敵の中堅に 活路(みち)を求めてかけ込ます
13、譜代恩顧の将卒ら 国家(くに)の存亡この時と 鎬(しのぎ)をけずる鬨(とき)の声 天にとどろき地にふるう
14、篠を束(つか)ねて降る雨に 横たう屍湧く血潮 風なまぐさく吹き巻きて 修羅の巷のそれなれや
15、薙げど仆(たお)せど敵兵の 重なり来たる烏頭坂 たばしる矢玉音凄く 危機は刻々迫るなり
16、骸も染みて猩々緋 御盾となりし豊久を見るや敵兵且つ勇み 群り寄する足速し
17、賜いし御旗ふりかざし 阿多長寿院駈け入りて 兵庫入道最期ぞと 名乗る雄々しき老いの果て
18、欺かれたる悔しさに 息をもつかず忠吉ら くつわ並べて追い来しが 返す我が余威また猛し
19、牧田川添いひと筋に 行く行く敵をけちらして 駒野峠の夜にまぎれ 伊勢路さしてぞおち給う
20、献策遂に容れられず 六十余年の生涯に 始めて不覚をとらしたる 公の無念や嗚呼如何に
21、興亡すべて夢なれど 敵に背(そびら)を見せざりし 壮烈無比の薩摩武士 誉は永久に匂うなり
22、無心の蔓草(つるくさ)今もなお 勇士の血潮に茂るらん 仰げば月色縹渺(ひょうびょう)と うたた往時のなつかしや
1238
:
義春
:2011/11/02(水) 15:26:13 ID:SjZg29/2
>>1237
訊けさあ
登板、有り難うございます。
妙円寺詣りの歌、戦国いい話悪い話に出てましたなぁ…。
今日はかなり疲れモード入ってるので、木綿豆腐様とビクニ姐さまのレス、夜に返します…もしかすると、クタバって眠ってしまって明日の朝かも。
1239
:
義春
:2011/11/02(水) 17:28:00 ID:SjZg29/2
やっとこさ、ちょっと休憩です(-_-;
パソコン仕事は眼が痛くなります(泣)
>>1230
木綿豆腐様
まぁ…問題から逃げても、アレは逃げたら追ってくるから、逆に、此方から問題に襲いかかっているだけです。
今日は同僚で同じく癌をやっている人が治療の合間に来社されました。癌治療は大変だなぁという話から、癌に負けたくない!という事で話してました。
アドバイスを今晩から活かして身体を慣らすのに一苦労ですが野菜中心に変えていきます!
肉はちょっと止めときます、私は弱い人間、それだから蟻の一穴は避けたいので…。
>>1232
ビクニ姐さま
それで普段、忙しくて料理しないので、存じ上げませんでした。又、調べて頑張って作ってみます!(ただ、私が作ると悪魔のスープなりそう…。)
1240
:
義春
:2011/11/02(水) 17:33:13 ID:SjZg29/2
>>1229
さて様
素晴らしい御文章、有り難うございます!休憩中ゆえ、取り急ぎのレス、お許しください。
>多くのひとが自分以外のひとの幸せを祈って微笑みあう世界であって欲しい。 日本は、科学技術と精神世界の調和した世界のリーダーであり、世界の皆様のためにお役に立てる素晴らしい方々が多く活躍しているのだろうな。
真にそうあって欲しいです!又、そのような社会の在り方を提唱出来るのは、日本以外にないとも存じます!
又、7時以降に書かせて頂きます。
1241
:
八百比丘尼
:2011/11/02(水) 18:16:59 ID:j8iOdie.
ーー鈴夜 魔女のスープで死にかけるーー
《 義春どの、無理をするな。
疲れているときは、ゆっくり休まれよ。
オレはな、この前比丘尼の作った「魔女のスープ」で殺されかけたぞ。
身体に良いからと、わけの分からん物を(はっきりいえば、残り物だ)
鍋に放り込んでグツグツ煮込んでいてな、食えと出された。
すぐに逃げて、その夜は一晩、外で過ごした。
桃太郎のメシだけは、忘れるなよ。 》
1242
:
うのはな
:2011/11/03(木) 00:59:48 ID:iM0b0bt6
本流で削除になったりする投稿を見るたび、それならヘレンケラーは
どうなるの?と思ったりしてたが、よく考えると今の教団は三重苦のような
ところがあるから、ヘレンケラーのように困難(今教団)を乗り越えよう、という
メッセージがあったのかもしれないな。
秘められたるメッセンジャーデントーってやつだろう。
1243
:
義春
:2011/11/03(木) 01:31:45 ID:iu5Ar./Q
さて様
御返事遅くなって、真に真に申し訳ありません!
さて様の御文章には、深い祈りと愛があって、拝読していて身に染みるあまり、
御返事返せないばかりになってしまっております。何卒、何卒お赦し下さいます様、お願い申し上げます。
> しかしである。あのかわいい孫娘の笑顔をしょちゅう見ている内に何か言うことが変わってきた。この子をずっと見守っていきたいな〜とおっしゃるではないか。まだ全然お若いので、しっかりと気をつけて生活していけば、当然相当先まで大丈夫のような気はする。 その子を眺めているだけで幸せで、ストレスなど吹っ飛んでいるのであろうが、夫婦そろって普段から、食事や体のことを気遣いはじめているようである。
夢や希望の力はすごいのではあるか、やはり具体的に出来ることからしっかり実行していくことは大切だ。
あの子が成人になるまで、みんなずっと幸せに過ごして欲しいな〜と思う。
では五十年後はどうだろう・
あぁ…もう色んな意味で身に染みる話でありますね。
夢や希望の為に、今出来る事を具体的に一歩一歩、本当に一歩一歩…
地道なんでしょうが、その地道さこそが偉大でありますね。
私は長生きしないといけなくなりました…正直申せば、自分の事では長生きしたくないのです。
逆にそう生きるのが嫌気すら差しています。もし自分がそうであるならば、今すぐ此の肉体を滅したくすらあります。
だけど、自分の為じゃなくて、誰かの為、人類の為…それに再び神から頂いた人生を生きてみたい。
我ながら馬鹿だと想います。だけど、それで良いのだとも想っております。
それだから、趣味はと訊かれれば【生きている事】と答える様になりました。
癌で痛みを味わうのは、自分にはこんな感覚があったのかとか、人工肛門から便が落ちる様を
観察するのも、面白さに溢れておりますから・・・。
>一人一人知恵を引き出して進んでいかないといけないな。
一人では出来ないことでも、みんなで同じことをやったらおっきなちからになる。
一人では気づかないことでも、みんなで知恵を出しあったら大きな気づきになる。
一人では届かない祈りでも、みんなで祈ったら必ず叶う夢がある。
あらゆる機会を通して、ひとりひとり努力していかないといけないし、その努力は必ずなにかしっかりと形あるものをむすぶと思う。
ひとのこころをむすぶ、つなぐ、そんな一歩が、この十一月からはじまるといいな。
生長の家にとってとても大切なものが多く生み出されてきたこの十一月から・・・。
一人一人に出来ることを、心でひとつになって出来ることから始めればよい。ちょっとだけ自分の得意な分野を用いて、さらに磨いて出来ることから始めればよい。
今までのカラを破って自分の外にちょっとだけ目をやってみると、もっと出来ることがあるかもしれない。ちょっとだけ声をかけてみたらいい。ちょっとだけ、意識を変えてみるだけで、神さまってのはいつだってホラそこそこ早く気づきなされ・・・とやさしくいつでも見守ってくれていたりするもんだ!!なんか、いろんなところに、思ってもみない解決策がころがっていたりするもんだ!!。
本当の意味で皆が一人一人心から祈り、智慧を出さないといけない時代になってきたと
痛感しております。既存の色んな社会システムが限界に達しました。
後ほど、別スレでも立てますが、福島の原発では再臨界が起きてしまったようです。
ここまで人類の今までのありようは間違っていると、あからさまに示されてしまうと、
ちょっと困ったなというのと、だったら新しく作っていこうかという2つの想いがあります。
そういえば、今までは雅宣先生の祈りの言葉に然程想いが至らなかったものですが、
今日のニュースを観ていて「自然と人間の大調和を観ずる祈り」は、確かになと頷ける様にもなりました。
順序が逆になりますが…
>みんなで心をむすびつけると一人の神の子のちからが、なんかすごくおっきな力になるんじゃないかな。
一人一人が皆神の子なんだから、自分の無限力信じて、できるとこから一歩一歩よろこびにつながることをしっかりと重ねていけばいいのかな。
なんで、さて様の御文章はこんなに染みるのでしょうかね…本当に温かさに溢れていて、
深く切なる温かな想いが伝わってきます。現象では色々な疎ましい出来事がありますが、
今はそんな時じゃないんだ、本当の意味で生長の家に真を捧げようと思います。
1244
:
せい
:2011/11/04(金) 00:56:37 ID:9O3c0Yd2
生長の家の食事
聖書に吾らが祭壇に対して供物(そなえもの)を献ずるに当っては、先(ま)ず兄弟と仲直りしなければならないと云(い)うことが書いてある。吾らは食事をとるに当っても矢張りこれと同じことをしなければならないのである。何故なら食事は自己に宿る神に供え物を献ずる最も厳粛な儀式であるからである。一椀を手にしては是れ今迄過ちて人に対して憎み怒りし自己の罪が神によって許されんがための供物(そなえもの)であると念(おも)いて食せよ。二椀を手にしては是れすべての人の罪が神によりて許されんがための供物(そなえもの)であると念(おも)いて食せよ。三椀を手にしては是れ神の護りによりて自己が再び隣人を憎み怒るの罪を犯さざらんが為の供物であると念いて食せよ。而(しか)して一杯の飲料を手にしてはすべての人の罪をこの水の如く吾が心より洗い流して心にとどめざらんがための象徴(しるし)と思いて飲め。若(も)し病人にして医薬を服用する者あらんにはそれを四口(よくち)に分けて飲み、この同じ想念をなして飲めば病(やまい)必ず速(すみやか)に癒えるのである。すべての他の人の罪を恕(ゆる)すは、吾らの過(あやまち)をも亦大生命なる神より恕(ゆる)されんがためである。若(も)し吾等(われら)が心を閉じて他を恕(ゆる)さなければ、大生命の癒能(いやすちから)もまた閉ざされて吾等に流れ入ることは出来ないのである。
(昭和五年十一月四日神示)
<神示講義>
神の赦しを得るための祈りの供養
そして、一椀を手にしては、私達は多くの人達をうらんだり憎んだり、腹立てたりしておったその心の間違いを思い出し、それを捨て浄めるために「今迄過ちて人に対し〜〜念いて食せよ」と教えられているのであります。即ち、最初御飯の一椀を手にして、それを額のところへ頂くようにして「今迄私が、過ちて人を憎み怒りました自分の罪が神様によって、これによって赦されますように」と念じて、それから食せよというのであります。
次に「二椀を手にしては是れ〜〜念いて食せよ」とありますが、自分の罪が赦されることを念ずるだけでは一種の合理主義でありますから、全ての人々の罪が赦されるように祈るべきであります。だから「どうぞ全ての人々が、この供え物によって、それぞれの罪が赦されますように」と、念じて二椀目を食せよと教えられているのであります。それから三椀目を食しては、「是れ神の護りによりて自己が再び隣人を憎み怒るの罪を犯さざらんが為の供え物をいたします。どうぞ、二度と人を怨み怒る罪を再び重ねませんように、どうぞお護り下さいませ」という祈りをして、それから食せよとかう教えられているのであります。
これはキリスト教の"主の祈り"に「吾らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え」と祈れとあるのに一致いたします。それから御飯の次ぎには飲料のことが書いてあります。一杯のおつゆでも、或るいはお茶でも、此の「飲料」の中に含まれていると考えてよろしい。「一杯の飲料を手に〜〜思いて飲め」と言って教えられております。「罪はない」と言っても、心につかんでいる間は「心の世界」にそれは「ある」のですから、心から、それを放ち去らなければ消えないのです。と言って、心から放そうと思っても、ただそれを潜在意識に押し込むだけになり易いので、それを「洗い流す」象徴的行事を行う方が一層ハッキリと罪を消すことができるのであります。その洗い流しの象徴的行事として飲料をもって口中を洗い流して、此処に教えられている通り念ずるとよいのであります。この行事は大変効果があるのですが、古い生長の家の誌友諸氏でも実際に実行している人が少ないのであります。
人を赦して得られる無上の開放感
それを実行した人がありましたが、以前その人は或る人を非常に憎んで怨んでおられました。そしてその相手を殺したい位に思っておったと言うのであります。御自分の体験談で「私はこの『生長の家の食事』の神示を読んで、その通り毎日実行致しました。毎日毎日その通り実行しているうちに、もう殺したい位に憎んでおった人を、全然憎む心が消えてしまいまして、その結果、まるで憑きものがとれたように人生が本当に明るくなりました。本当に感謝いたします」と言って喜ばれたのです。
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1245
:
いま
:2011/11/04(金) 00:59:15 ID:9O3c0Yd2
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今でも時々恩を忘れないで、私に手紙をよこされるのであります。人間が人を怨んだり憎んだりしていて、それを本当に赦す心ができたときには無上の開放感を覚えるものでありまして、この人はその喜びをいつまでも深く心に感銘して、時々感謝の手紙を寄こされるのであります。肉体の病気が治るということよりも、こういう「人を憎む」という心の病気の治ることの方がよっぽど素晴らしい功徳なのであります。肉体の病気なんかたとひ治っても、その肉体は十年先か二十年先か知らぬが、やがて死んでしまう。けれども、人を怨んだり憎んだりしておったら、その人の肉体は死んでも、魂が霊界に往ってからも、まだ怨んだり憎んだりしておって、それこそ、その人の霊魂は地縛(じばく)の亡者になって彷徨(さまよ)わなければならんということになるのであります。「それなのに、自分が人を怒り憎み怨んでおった其の怨み憎みが自然と解消するように導いていただけたのは生長の家のお陰である。ありがとうございます。」というので、この人はいつまでも感謝を忘れないのであります。この人は以前出版会社に勤めていたこともあり、日本教文社の確実な校正係が欲しいと思いまして、紹介してあげたことありますが、テストの結果は、一点一画の間違いもないような立派な校正ぶりで、完全でありました。
ともかく、此の人は立派な人格者である、と私も今でも尊敬しているのであります。此の人のように、恩を知り、感謝を忘れないということはその人の人格の高い証拠で、まことに尊敬すべきことであります。
潜在意識を浄化する象徴的行事
さて、此の神示にある通りに毎日毎食実行しておられましたら、潜在意識が浄化せられますから、心の病気が治るだけではなく、単に心が安まるというだけではなく、実際に肉体の病気も治るということになるのであります。大体すべての病気は、人を憎み怒りした心の歪み----即ち「精神身体医学」で言うところのストレスが原因になっていると言ってもいい訳であります。まだ其のほかにも、「恐れる」とか「悲しむ」とか「嫉妬心を起こす」とか「むさぼる」とか「高慢な」とか、いろいろの間違いの心で肉体の病気を引き起こすこともありますけれども、大部分は、怒ったり憎んだりしていることが病気のもとになっているのでありますから、三椀の食物を手にしては「再び自分が人を怨んだり憎んだりするところの罪を犯しませぬようにお護り下さい」と祈り、一杯の飲料を手にしては、「今迄人を怒り怨みましたところの罪がこの飲料によって、流し浄められますように」とこう念じて、今までの心の習慣を洗い流すようにして飲むのがよいのであります。そうすると、そう念じただけの功徳が出て来るのです。そう念じないで、ただ物質の水であると思って飲めば、渇(かつ)を癒す物質の水だけの功徳が出てくる。けれども、それでは魂のかわきは治らないのであります。
次に「若し病人にして医薬を〜〜癒えるのである」と書いてあります。其処には「必ず」と書いてありますから、必ず治るにちがいありません。時々、「先生、どうしたら此の病気が治りますか」と言う人があるけれども、先ずこの教えを実行してもらうことが肝腎であります。ここにも示されております通り「すべての他の人の罪を〜〜許されんがためである」斯うして他の人を許したとき、自分自身の心が自己解放されることになるのであります。キリストも「汝等、人を審(さば)くことなかれ。その同じ尺度にて汝等も審かれん」と言っているのであります。自分が人を審いたならば、自分は又、ひとから審かれることになる。他人(ひと)に対して怒ったならば、自分は他人(ひと)から腹を立てられます。他人からだけではなく、神様からも審かれるということになるのであります。吾々人間は知らず識(し)らずのうちにいろいろの罪を犯したり、過ちを犯したりしています。その癖、その過ちに気がつかないことが多いのでありますけれども、「与えたもの」は与え返される法則で、知らず識らず自分の不測の災過(わざわい)となって自分に返って来るのであります。併(しか)しながら、私たちが他人(ひと)の過ちをも本当に寛大なる心で許して上げたならば「亦大生命なる神より許される」ことになるのであります。すなわち「許しを与えれば、自分が許される」という法則に当てはまるのであります。「若し吾等が心を閉じて他を許さなければ、大生命の癒能(いやすちから)〜〜出来ないのである。」と此の神示に書かれてあるのも結局は、「許さない者は許されない」「人の欠点をそっと包んでやる者は自分の欠点も包まれる」という法則によるのであります。
1246
:
義春
:2011/11/04(金) 01:14:20 ID:iu5Ar./Q
せい様
身に染みる様な御文章、有り難う御座います!
1つ1つの行ないにもっと丁寧に真心を込めていこうと感じております。
そういえば、癌で1ヶ月絶飲食の後に初めて冷たいお水を飲んだ時の、
あの喉に染みる嬉しさは忘れられません。
私もまた、人に怒り憎むの罪を往々にあり、昨晩も一晩怒りっぱなしでありました。
人の世の甚だ浅ましきを観るに嘆かわしい想いでありました。
私も、そういったものに囚われようともしておりました。
その事に、せい様の御文章を拝読し赤面の至りで重ね重ね至らぬところを反省し人を赦し、
また、心を安らげ、これからの在り方に全身全霊で向かっていきたく存じます。
真に有り難う御座います!!
1247
:
ある女性
:2011/11/04(金) 18:37:21 ID:iM0b0bt6
> 訊けさあと私を貶めた者に対してそれ相当のことをしております。
何か我の正義か友情かに波立つものがあれば、いきなり殴りかかるような
ことしかいえない。
でも猫に蹴られるタマがあるだけ私なんかよりずっと立派な人みたいだ。
なんだかお釈迦様の自分自身や法を拠り所にせよ、という話を思い出した。
1248
:
せい
:2011/11/04(金) 23:55:38 ID:Z8wtfwcM
<生長の家の食事 神示講義> <<1244 <<1245 の続き
大体、生長の家の教えは、神示がもとになっているのでありまして、神示の通りに実行しておれば病気もどんな不幸も無いということになるのであります。今回講義するのは生長の家の食事の作法に関する神示であります。
着衣喫飯みな佛法
この神示には、吾々が食事をとる時、どういう作法をもって食事をしなければならないのであるかということが示されているのであります。三度の御飯を食う位のことはただ無雑作に食えばいいんだと思う人があるかも知れませぬけれども、生活の作法というものは其のまま精神に影響するものでありますから非常に大切な事なのであります。道元禅師は「威儀即佛法」ということを言われたのであります。"威儀"と言うと、生活の"作法"のことであります。"作法"そのままが"佛法"であると言うのであります。在るいは"着衣喫飯、みな佛法"とも言われております。着物を着るのでも、飯を喫(く)うのでも、それが法に則(のっと)るとき、みなこれは佛法であるのであります。"法"というものは物言わずとも其のまま生活に実現すべきものであります。佛教と佛法とは異なるのであります。佛教というものは佛(ほとけ)の教え、又は佛になる教えであり、それは教えであるから時にはむつかしい理論を滔々(とうとう)と述べることがありますが、佛法というものは、"法"でありますから其のまま"生活"に現成(げんじょう)すべきものであります。"日常坐作進退、ことごとく法(のり)にかなう"というのが「威儀即佛法」であります。日常生活がくずれているようなことでは、いくら理論の上で滔々と悟りの心境を述べてみましても、それは謂わば野狐禅(やこぜん)で口真似をしているだけで駄目であります。飯を喫(く)うには飯を喫う作法があるのであります。そう言うと、何か型にはまって窮屈なようでありますが、別に型にはまらないでも宜しいのであります。否(いな)、型にはまらない方が「法」が自然(じねん)として出て来るのであります。その心が「法」にかなえば自然と型になって現れて来るのであって、型が先にあって人間がそれに嵌るのではない。心が自然に「法」にかなって型そのものがい!の!ち!を得て来るということになるのであります。
諸方へ講習会に行きますと、諸方のお茶の先生が私にお茶を立てて下さることがある。私はお茶の作法を習ったことがありませんから、どういう訳か知らぬが巧みな手つきで茶碗をまわすのも、「あれは何遍廻したら良いのだろう」と思ったりしても訊くのも決まりが悪く、窮屈で仕方がない。柄杓みたいなものをシューと茶釜に水を注いで「此れを見てくれ」と言わんばかりにやっているのであるが、こっちは喉が渇いているから早く出せばいいのになどと思うこともあり、こう型にはまったことをやられたのでは、面倒くさいこと限りなしと思っていたのです。
大自然が茶室の中に入って来た
このように茶道というのも型に嵌って窮屈に思っておりましたが、あるお茶の宗匠がお茶を淹れて下さるのをまためんどくさいことをおやりになるのだろうと、初めは面倒くさい感じがしていましたが、それを見ておりましたら、私は始めて解放されたような楽な良い気持ちになれたのでした。「これこそ本当の茶道だ」と思いましたね。一茶という俳人の名前をとった一茶流の宗匠でありまして、その宗匠が茶を点てているのを見ていると「そ!の!ま!ま!」という感じがするのです。少しも「構える心」がない。自然の「そのまま」という感じなのです。無理に茶の「型」をやっているという感じがしないのですね。従って、少しもぎ!こ!ち!ない感じがしないで、それを見ているとこちらの精神がゆったりして構えがなくなり、自ずから精神が統一して来て、何となしに静かな気持ちになって来るのです。そして茶のたぎる音が松風のやうにスーッと静かな響きをたてる。そして柄杓で水をくんで、やや高い目のところから落とす音が、何とも言えない渓谷にながれるせせらぎの音のようにきこえる。それをきいていると、大自然そのままが、そこにスーッと幻灯のようにパノラマのように、私の心に浮かび上がって来るのでした。その時私は始めて「茶というものはいいもんだなあ」と思ったことがあるのです。この宗匠の茶は型を行じながら型を超えて自然そのままになっているのです。お茶でも何でも型にはまっている間は駄目であります。
↓↓ ↓↓ ↓↓↓
1249
:
ざさ
:2011/11/04(金) 23:58:29 ID:Z8wtfwcM
↓↓ ↓↓ ↓↓↓
坐作進退悉く法にかなう
また別のところである煎茶の先生にお茶を淹れていただいた時に、私のところに持って来るときに手がブルブルと震えて茶をこぼしてしまったことがありました。これは宮本武蔵が細川候の御前で絵を描いて見せよと言われて、絵を描こうと思うと固くなって上手に描けなかった話と一対であります。宮本武蔵のような人でさえも「上手に描こう」と思って「構える心」になるとかえって下手になってしまうのですが、何事をするにも構える心を捨てて「そのまま」の自然(じねん)の心にならんといかんのであります。「座作進退、法にかなう」というのでなければならぬのです。座るも動くも進むのも退くのも自然に法にかなうのでなければなりませぬ。
長崎へ行きましたときに、生長の家の花嫁学校の生徒だったあるお嬢さんが茶を淹れてくれたのでした。例によって茶椀をまわして置いて下さいましたとき、いつもの作法通りに過ぎなかったのですけれど、それなのに私は始めて「これは何のために茶椀をまわすのか」という意味が分かったのです。それまでは「何回まわすのが規則なのか」と思っていたのです。ところがそのお嬢さんのまわし方には、精神がちゃんとこもっていたために、「なるほどそういう意味で茶椀をまわすのか」とわかったのです。茶の湯の茶椀には表と裏があって、表のところを尊敬する客人のところへ向けて出すのであります。愛敬の意味の表現として茶碗の表を私に向けたいという意味が、それをまわしているお嬢さんの全体の動作の上にそのまま表れていたのでした。それで初めて、そういう意味で茶碗をまわしているのだったら、こちらも少しも窮屈ではない。というわけで、のんびりとお茶を飲むことができたのであります。
そういう風に我々の動作というものは、誠心(まごころ)がそこにあると、自然とその動作が、い!の!ち!が生きている動作になって、人を感動せしめたり、ゆったりと打ちとけた感じを人に与えることも出来るようになるのであります。
食事の意義について
ところでこの食事をいただくというのは、単に肉体にカロリーを補給し、ビタミンを補給し、蛋白質を補給するというだけの意味で、食物をたべていますと、その物質によって補給せられ、その物質がかためられて人体というものになっている気がして来ますから、どうしても物質的に人間を見て来ることになります。食物で養われる人間も、摂取される食物も、それはただの物質である、というだけのことになります。「物質」が物質を食べて「人間」というものになっている。そう思って食べても毒にはならんけれども、其処には物質を超えた霊的な価値というものは出て来ない。物質は物質としてただそれだけの値打ちしかない訳であります。ところが、私たちがいただくところの食物を、そういう風な、単なる物質的カロリーの補給だとか、物質的栄養素の補給だとかだけに思わないで、その奥にある霊的生命を観て、それに感謝して食物をいただくとき、内在価値が展開してくるのであります。「人間は、肉体に非ず、物質に非ず」ということを、皆さんは、すでに『生命の実相』を読み、聖経『甘露の法雨』を読んで感得しておられる訳であります。それが既に感得されていますと「ここに斯うして聖霊が天下っているのが人間である」とわかるのであります。その「聖霊なる神の生命(いのち)」に対して、供え物を献納するところの行事が、三度の食事であるというのであります。だから其の実相を知れば、これはまことに荘厳極まりなきところの行事である訳です。だからその荘厳極まりなき行事を、そのつもりになって、食物をいただくことになれば、それはそれだけの荘厳なる功徳があるのは当然であります。
われわれは認めただけの功徳しか受け取ることが出来ない。心で受け取ったものだけが自分に摂取される。だから食物をただの食物の物質の栄養分であると思う人にはそれだけしか自分に受け取れないけれども、食物を神の恵みと観、霊的実在として観るとき、それ以上のものを受け取ることが出来るのであります。人間自身が「神の子」なる"聖霊"であって、その"聖霊"が神の恵みを供養され献上される、その荘厳極まりなき行事がお食事である----こう思って食せよ、と書いてあるのであります。
此の講義をお聴きになった今日から、皆さんはそう思って食事をいただいて欲しいのであります。そうすれば物質なる「肉体人間」から「霊的人間」に生まれ更(かわ)る第一歩が其処に出来ている訳であります。
(掲載の都合上、本筋変化なきよう一部訂正省略箇所有り。)
1250
:
義春
:2011/11/05(土) 00:02:11 ID:iu5Ar./Q
せい様
有り難う御座います!!丁度今、食事について記していたところなのです!!
物質が物質を食べるのではない…そこを私は見落としていました!
早速使わせていただきます!!!有り難う御座います!!!
1251
:
さて
:2011/11/06(日) 02:16:23 ID:MrB7WSBw
、食事の神示であるが、生長の家に関わる方で、これを知らない方はおそらくいないであろう。<<1244-1245 <<1248-1249
十一月四日のこの神示は雅春先生が一番最初に発表された神示であり、非常に大切なものだと感じていている。私が日頃お世話になっている大先生でさえ、この一節を改めて読む時までその大切さに気づかなかったのであるが、とても大切だということで教えていただき自分でもこの本文を読んでその大切さを知ったので実行している。
本文中の方のように、私自身どうもこの祈りを続けているうちに、いろいろな方とのしこりというものが心の中からす〜と消えていった感じがする。心の中ではっきりとそう感じるし、実際の機会を通してどういうわけか解消されていくのだ。
特に大切なポイントは普段の日常生活の中で、各自が実践できる形で用意されているということである。生長の家の原点がそこにあるように思える。本来のすがたをしっかりと気づくために練成会などは必要であろうが、実際にそれを生かし、さらに伸ばせるかどうかは日常の生活にあるのである。いや日常生活こそが各自の本当の鍛錬の場であるだろう。当然日々忙しさに追われているのが現状ではあろうが、それだからこそ日常の中でひとつひとつ学びを実践していくことが大切であろうと思うのです。
毎食前はむりとしても神示を読む時にその実践があるのではなく、椀をとって、一口、二口、・・そして飲み物をいただいているその瞬間に、その気持ちを持っていただくということの方が大切であろうと思うのです。どなたかと相席して楽しく会話しながらも、その椀を持った手、口に運ぶその箸、そして一噛みごとにちょっとだけ感謝と懺悔の気持ちを持ちながら、心を込めてご馳走をいただくのである。私も覚えてはいるが、許せる限りにおいては、しっかりと原文を見ながら心を込めて読んでから食事をいただくことを常として、いまやその習慣はかなり大切なものだと感じている。正直なところ、最近は食べている最中は懺悔というよりは、おいしいな〜と味わいながら、お世話になっている方々にありがたいな〜と拝むような気持ちで一口ずつ噛みしめながら食べる方が実際には多いと思われる。
雅春先生御自身が反省されておりますように、目の前のことに自分の欲するところばかり気がいっていると、なぜそうなっているのかが分からないこともあるが、その方を感じて、なぜそうされているのか、行いの中に隠れた真心として見てみると新たな発見があるのかもしれない。良く見ればいたるところにひとをもてなす心、日本人の大切にしてきた真心の表れがあるだろうと思う。また普段の生活の実際の行動の中に、真心を持って行うこと自体が良きいのりのようなものであろうと感じる。実際に動いて実感として感じてみないとなかなか肉体人間は分かろうとしないし、すぐ都合のわるいことは忘れようとするもんな。忘れる間もなくただ実践あるのみだろうか。
シャワーを浴びる時、水で流しながら、自分の罪と我(が)を洗って生まれ変わる時間が私のお風呂の時間である。そうはっきりと意識することで体がきれいになるだけでなく、心もなにかリフレッシュされる気がしている。ちなみにお湯に浸かっているときは、無限の幸せに包まれているイメージである。食事、お風呂、お掃除、そして、睡眠こんな必ず毎日行う日常の生活の中に、意識することで魂の生まれ変わり(のようなもの)を実践できるのではないかと感じている。
学びを深め、日常生活のあらゆる機会で個人的に、対人的に、社会的に実践する。まず生長の家人として個人個人が出来ることは、そんなことではないであろうか。生長の家人としては、外の方からの学びも生かし、良きものは広げていく。御教えの内外に関わらず意識して良い型を学ぶ。良いと感じる型の背後にあるものを感じとり、そこに学び皆とともに生長していく。日々日常が行じるということであろうな。
生長の家人でない人でもそういう日本の良い伝統や作法が整っている方とふれ合い、逆にそんな型のしっかりとした方と御教えに関係なく普段の知恵やその背後の精神性をお互い理解することで、より深くつながっていくのかもしれない。そのご縁を通して、より真理に触れる機会があるのかもしれない。
人間のもつ肉体的側面と霊的側面の両方から意識して、工夫創意と自覚で両方の面からものごとを整えていく必要があると感じる。雅春先生でさえも日々学びの連続なのであり、どなたでも敬うべきは敬うという気持ちがはっきりと読むにつけ感じられ改めてこの文はとても気に入りました。最後に茶道でもなんでも、極めきるところは全て道でひとつにつながっているようである。別々のことをやっているようでも最後は、ひとつの精神性にたどりつくようである。真心とひとを敬う気持ちを持ちながら日常を通して学びを大切にして日々道を極めていくことが大切なのであろう。
1252
:
義春
:2011/11/06(日) 03:39:24 ID:SjZg29/2
>>1251
さて様
御教導、有り難うございます。さて様には真に感謝しております。
これから私は組織としての生長の家から去り、自分自身の人生の課題に取り組む所存でございます。
これを為せば長生きも出来ると信じてもいます。ただ、為さざる時は没するのみとも感じております。
その課題に取り組むに当たって、さて様の御教導を胸にあらゆる事から学び、又、新生すると感じて生きていく所存でございます。
合掌、有り難うございます。
1253
:
志恩
:2011/11/06(日) 20:22:44 ID:psrFh/ZU
義春さま
義春さまは、温泉行きではなく、ご静養のためにここから旅立たれるのですか?
袖すり合うも,,,と言いますが、ほんの数ヶ月のご縁でしたけれど、お別れとは、さびしいものですね。義春さまのこと、わすれません。
貴方から、私も たくさん、たくさん、ためになることを教えていただきました。ありがとうございました。
朝夕、陰ながら義春さまの全快をお祈りさせていただきます。
でも、ここを旅立たれた皆様が、また帰っていらしているように、出来ましたら、また帰って来て欲しいと思っております。
私も、いつまで、ここにお邪魔しているか、わかりませんが。
なんたって、親友の訊け君が、一番さびしく、心細くなるわね。
おげんきで!お母様を一層おたいせつに!!
お返事のご心配なく、、、
1254
:
さて
:2011/11/07(月) 01:40:08 ID:96LDMBi6
いつもありがとうございます。
あなたさま(
>>1252
)は特にくれぐれもご無理はなさらぬよう御慈愛くださいませ。ついででは失礼かとは存じますが、今までお返事いただいた方はじめ掲示板の全てのみなさま、そして読んで下さっている方にお礼を申し上げておきます。そしてこのスレ最近私が占めてしまっておりますことをどうぞお許し下さいませ。
さて
、生命の実相の件、確かに第一の神殿であり非常にその意義は大きいのですが、さらに第二の神殿があるのでございます。いや第三までと言った方が良いのでありましょうか。ここが非常に大切なところだと考えています。
とにかく生長の家とは、実践がかなり大切なところだと思っております。
話に聞くところ(あくまで聞いた話なのでそのつもりで・・)、清超先生の時に
一般の書店に置いて欲しいという要望があったようであるが、『生命の実相』は本屋に出すと余計な経費がかかるとかで、それほど一般的には書店に出ていないようである。
今精神面を見直す流れに世間はあるようなので、一般の書店に多く出回ればそれだけでどんどん売れるのかもしれない。
とにかくは広告塔は生長の家の信徒であったわけですが、なにせ40冊と多すぎるのと、その内容の深さゆえ、分かる人には分かるが分からぬ人には何のことやらさっぱりということもあろうかと思います。ある程度の機会や素地のようなものも必要かと思います。
さらに一人では分からぬところを補う意味でも所謂誌友というものが必要であるのだと思います。
『生命の実相』それ自体の解釈になると、また人それぞれで体得のレベルによって実はこの文のここはこれこれこうだということがあり、直接体験を通してか、教えの中で知るしかない部分もあるかと思います。
さらに宗教色というものは一般的に(特にある時期以降)敬遠される傾向にあるのは、いたしかたないところで、これは完全な真理だと万民に向かって言ってもかえって聞き入れられないところはあると思います。おそらく、その意味が伝わるのは、ひととのふれあいを通して通じ通い合ったときに自ずと伝わるものではないのかと思われます。ある意味その過程を通してそこに神の愛が表れているのかもしれません。
生命の実相は古事記と密接に結びついており、古事記を分からぬことにはその本当のところは分からぬ。そんなものであろうと思います。そういった最も基本でありながら、その基本すらなおざりにされる中本質が失われていっているのではないかと思います。
古事記 すなわち 日本人の本質的な生き方をしっかりと学ぶ中にすべてがつながってくると思っております。ちなみに古事記の解釈は様々でありましょうが、前提として雅春先生の解釈の古事記という話となりましょう。
生長の家自体の一切が、古事記の解釈と実践であると雅春先生が捉えている限りは、やはり古事記は欠かせぬものでありましょうが、いろいろな諸事情により、古事記を語れぬ状況が生じてきた。
そもそも古事記イコール生命の実相であるからして、古事記がいらぬなら、生命の実相も必要ないということになるのでしょうか。
まあ、それほどまでしても今やらなくてはいけないことが何であるのかというところにも目を向ける必要もあろうかと思います。
私自身は、すべて古事記とつながっていると信じており、もっと学びを深めなくてはならぬと思っております。
↓↓ ↓↓ ↓↓↓
1255
:
さて
:2011/11/07(月) 01:42:17 ID:96LDMBi6
↓↓ ↓↓ ↓↓↓
生長の家のことに関して大先生と語る機会が多いのですが、
まあ『生命の実相』と『甘露の法雨』のない生長の家は生長の家ではない(同感)。
どんな理由があれ、用いないのはよほどのぱあ竹林で話にならん。とおっしゃっておりまして。一部聖典どころか『生命の実相』(当然『甘露の法雨』も)用いないということに関しては、さすがにどんなことになるか笑って見届けましょうとおっしゃっております。
私も笑って見届けたいところですが、さすがにそうは行かずとりあえずここに書かせていただいております。
ちなみに総裁先生の考えていることには、私自身含め大先生も理解は示しております。
(当然全面理解ではないが、森のオフィスなどの意義は大きいと感じている)
さて問題の本質はなんなのでしょか。
その本質が理解できぬ状態にあることが原因のひとつであろうと思われます。
そこまで、生長の家の本質が表面上変わってしまったことにも原因があろうが、そろそろ変わる機会も必要であろうと思います。ただし、大きく変わろうにも、現状ではなにやらいろいろな障害が存在しているのは確かでしょう。
どうも、もう一度体質から変えていく必要もあろうが、生長の家とはいったいなんなのか、どうやって始まって大元はどうなのかということを一人一人が考え始めないといけないところに来ていると思います。人類光明化運動、それは将来に渡って教団として取り組まなくてはいけない問題であり、肉などのことについても生長の家はブラジルでの信徒数などを考えるとブラジルでその動きを作るのは当然必要で、ブラジルの森林伐採の問題を考えると当然だまって見過ごしてはならずその影響力は大きいかと思います。
ただし、そのために聖典、聖経をすてるのか・・・そこはなにかあまりにもおかしいのではないかと思います。おそらくネットを利用できる世代の信徒様、そして新参者様は情報の多くをネットから利用することが多いのではないかと思います。その中でネットの情報に左右されることもあろうかと思います。
私は、自分で考えきれぬ部分は必ず大先生と相談しています。私自身ただ従うのみで聞くだけでなく、自分の新たな気づきなどは伝え、その意味を問うたりしてさらに深めています。多くの方を救ってきた経験を通して色々お互いに参考になるところを出し合っている感じです。
いろいろと具体的に動けるところは直接言えるところに伝えるということは欠かせぬようであります。学びあい、良く知るということは必要であろうかと思います。(出来るところから)古きと新しきが良く交わり理解を重ね互いに乗り切る必要があろうかと思います。それさえも、出来ない体質が既に存在しているのが問題とも言えるが、それでも何か出来ることはあろうかと・・。この山を皆で乗り越えるところに、神の見えないなにか(大愛)が大きくそのすがたを現すのではという感じもしています。努力に必ずこたえてくださるのが神と信じております。
1256
:
役行者
:2011/11/07(月) 19:06:38 ID:odX3izAU
>さて さま
いつも、適切で、しかも、的確なご指導、ありがとうございます。
文章に重みがあるのです。不思議な存在です。
今回特に、下記二点に、注目しました。再三、沈思黙考させていただきます。
>その本質が理解できぬ状態にあることが原因のひとつであろうと思われます。
そこまで、生長の家の本質が表面上変わってしまったことにも原因があろうが、
そろそろ変わる機会も必要であろうと思います。ただし、大きく変わろうにも、
現状ではなにやらいろいろな障害が存在しているのは確かでしょう。
どうも、もう一度体質から変えていく必要もあろうが、
生長の家とはいったいなんなのか、どうやって始まって大元はどうなのかという
ことを一人一人が考え始めないといけないところに来ていると思います。人類光
明化運動、それは将来に渡って教団として取り組まなくてはいけない問題であり、
肉などのことについても生長の家はブラジルでの信徒数などを考えるとブラジル
でその動きを作るのは当然必要で、ブラジルの森林伐採の問題を考えると当然だ
まって見過ごしてはならずその影響力は大きいかと思います。<
>多くの方を救ってきた経験を通して色々お互いに参考になるところを
出し合っている感じです。
いろいろと具体的に動けるところは直接言えるところに伝えるということは
欠かせぬようであります。学びあい、良く知るということは必要であろうかと思
います。(出来るところから)古きと新しきが良く交わり理解を重ね互いに乗り
切る必要があろうかと思います。
それさえも、出来ない体質が既に存在しているのが問題とも言えるが、
それでも何か出来ることはあろうかと・・。この山を皆で乗り越えるところに、
神の見えないなにか(大愛)が大きくそのすがたを現すのではという感じもして
います。努力に必ずこたえてくださるのが神と信じております。 <
人と人とのふれあいの中、気付くこともあるのですね。
私も、ここの掲示板の方々とふれあう中、いろいろ、気付かされたことがあります。
また、お気づきだと思われますが、底知れぬ情も湧いてきているのです。たかだ
か、ネットなのに、不思議です。
また、もっともっと、この掲示板をとおし、古きと新しきが交わる必要性があるかと、存じます。初心者さまが仰るよう、共有と共感がこの危機を救ってくれると信じてます。
微力ながら、人類の光明化にお役に立ちたいと思ってますので、これからも、ご指導のほど、お願い申し上げます。 合掌
1257
:
さて
:2011/11/07(月) 23:56:56 ID:HLwGhoCk
、今日はさかなになってみた。
えっさかな?と思われるでしょうが
さかなを食べながらさかなになってみたのである。
ちょっと何か作ってみようと買い物に出かけたところ
鮮魚コーナーに足が止まった。特に閉店間近でちょっと家計にやさしい値。
鰯の山が目に止まり、久しぶりに食してみよう
最近ありがとうございます。がクセになっていて食べながらも
ありがとうございます。と言っている。
実のところ、なにがありがたいのか、分からずに言っている時が多いのだが、
少し考えながら食べてみた。
小イワシは小骨が沢山あって、箸でつまみながら少しずつ頂いて
ちょっと丁寧に扱いながらじっ〜と眺めていると、少しありがたくなるような・・・。
まさかこいつの魂のいのちを食して自分のいのちにしているわけもない・・・・はずではあるが、栄養はいっぱいであろうが、細胞一つ一つにいのちが詰まっているのだろうか?いや既に死んでいる状態で買ったわけで、さらに焼かれて細胞とて生きているはずはない。
そういえば隣で生蟹を販売していて、あっ生きてると思った。
だけどあれだって生でかじれるわけではなかろう。
ゆでた瞬間にいのちは無くなっているはずである。
ゆでたてホヤホヤだとまだ魂が少し残ってるからうまいのかな・・・・。
おっとこれ以上は余計なことは考えないでおこう。
そういえば、食事をいただくということは、ただ目の前のモノを食べているだけでは
ない・・という本当にありがた〜い話があったな〜と思いながらこいつを見つめてみた。
するとそのさかなの辿ってきた道のりを遡っている内に・・・、
なんと自分自身が魚の群れに混じって泳いでいるではないか・・・。
そのまま群れといっしょに泳いでいるとなにか向こう側に光輝くきれいなたてものが
見えてきた・・・・・・はっと我にかえり気を取り戻して目の前の鰯を見つめた。
ずいぶんと長い道のりをここまでやってきたのだね と感謝のありがとうございます が魚の辿った道のすべてについて気持ちがこもった。
さて、この魚の運命について考えてみた。どうして、こいつは目の前にいるのかな。
ここにいなかったら、どうしていたのだろう。
別のひとに食べられてしまったかな。
とりあえず、私に食べられたばかりに数え切れない中の一匹として、なんと海の中まで引き戻されてしまっている。
まあ私はこいつのおかげで栄養元気をもらえてる。焼かれていのち無いのにそれを食べて私は生かされている。こいつに生かされているんだな〜。
そういえばどうやら、隣で泳いでいたお魚君は網をくぐり抜け逃げ切ったらしい。
でもずっと一生逃げ切ったら、どうやって死んでいくのだろう。
きっとやっぱり最後は別の魚につつかれるか、海の底で何かのえさになるのだろうな。
どれだけ豊かな生物で満ちあふれていることだろう。特に日本は海の幸がほんとに豊富だな〜。
そう考えると魚を育んできた海にも感謝だな。当然漁師さんにも、その船を造って下さった皆様にも・・・。この魚を漁って生計を立て、大事な家族など大切ないのちを養っている。沢山のひとが、この一匹(ちょっとおおげさかな)に支えられ、生かされている。
実はいのちってのはなんかこんなつながり、つらなり自体を言うのかな。
そんな
いのちをぜんぶ乗っけちゃうと小イワシが鯨よりも大きな存在に感じてきた。
なんかちょっと想像力をふくらますだけで感謝しきれないほどになってしまうな・・・
なにかありがとうございます がちょっとほんとにありがたくなってきた。
さっきまでこいつと思ってた目の前の鰯さまが光っているようにも見える。
そうそうそういえば何故いまこの板にいるのだろう。
ずっと続く大切ないのちのつながりのひとつがここなのかな。
いろいろあってのいまここなのだろうが、出来る前とか、さらにもっともっと
ずっ〜〜〜と遡るともとはどこにあるのかな。
自分でもできそうなことに、いまいのちを使わせていただいている。まあ感謝だな。
いつも一生懸命書いて下さる方、読んで下さる方。ネットの技術もすごいな。
これってほんとにまるで魔法だな。
あっそうだ、龍宮海・・・。
きっとキラキラとりっぱだろうな〜。
1258
:
トキ
:2011/11/08(火) 11:22:49 ID:hKCzLzOI
>>1257
さて様
すばらしいご投稿、ありがとうございます。
人間は食物連鎖の頂点に存在しています。生きているだけで、たいへんな他の生物の命を頂戴しています。
こういう事が許されるのは、何か意味があるように思います。
そうすると、今、私達は、頂戴した命に感謝すると同時に、生きている意味を考え、何かのお役に立つ
必要があると痛感します。それが神様の意思だと思います。そういう事をあらためて気づかせていただき
感謝しております。
今後とも、宜しくお願い申し上げます。
合掌 ありがとうございます
1259
:
神の子さん
:2011/11/10(木) 23:14:22 ID:Q0k8TAks
生命の実相が無くても 365日シリーズとかの日本教文社の書でなんとかなりそうな気もする。
さて問題は聖経「甘露の法雨」が無くなったとしたら。本山や道場での宗教的行事には大きな支障があるでしょう。
1260
:
役行者
:2011/11/11(金) 00:50:19 ID:YEUC93mw
確かに!
トーキングスティックボードで、そのことも、話題にしましょう。
ヒント、ありがとう。
1261
:
さて
:2011/11/11(金) 23:53:11 ID:GtIcEXlo
、どうやら龍宮海に行ってきたようである。
群れから離れてキラキラと光る見事な門をくぐると、
そこではなぜか雅春先生が道案内をされておりました。なぜそこにおられたのか分からぬが、それほど気にもとめずにハイ分かりました。とただ道案内に従った。
数え切れないほど多くのひとが誰もが満面のえがおでありがとうございま〜す。と言っている。
なぜだか分からないが、心の底からそう言っているとはっきりとそうわかるのである。なにがありがたいのか分からないが、みんなで互いにありがとうございます。って言い合っている。
何か一体感に包まれて、すべてがみたされた感じがする。何本もの立派な柱を通り抜けて行くと、そこには草木が広がっていた。
何か聞こえてくるので耳を傾けると草一本にいたるまで、ありがとうございま〜す。と言っている。
耳をすますと、いろいろな草が一本一本違う声を発していて全体で見事なハーモニーを奏でていた。
近くに行ってよく見ると なんと草がにっこりと笑っていた。
じ〜っと(目を閉じて)聞き入っていると吸い込まれるような感覚に包まれて豊かな音階がまわりを取り囲んでいた。
ふと気づくと、あたりには光る大きな柱が何本も立っている。どうやら草一面の深い樹海の底に降り立ったようである。そのまましばらくの間心地良い音階の中で、それに合わせて無心にリンリンと鳴いていた。
ちょっと鳴くのをやめてみると、それに合わせて一斉に静まった。
それとともに草の海の表層で草の穂先がさわさわと心地良いなんとも言えぬ音ならぬ音を奏でているのが聞こえる。
そうだ。いつのまにか、深〜い草むらの樹海の底で、リンリンと鳴くムシになっていたのだ。遠くに自分と同じムシの音がかすかに聞こえる。もうひと月早い時期ならば、そこら一面にこだましていただろう。そのかすかな音を頼りに意識して音を響かせると応えてくれるように音を返してくれるのが分かる。
ふと上を見上げると、とてもきれいなお月様が空に光っていた。
澄んだ空気を感じながら、お月様をじ〜と見ているとなにかほんわりとあったかいものに包まれている感じがした。
そのあったかな雰囲気に浸りながらかすかな音と音を探り合うようになぜか互いに響き合わしている。向こうも同じように月を見上げているのを感じる。
そのうちになにか分からぬがなみだがあふれてきた。
特にかなしくもなく、くるしくもなく、くやしくもない。
ただそこにいるあたたかさを感じ、ただそこにいるだけで幸せな気がする。ただただとめどなく涙があふれてとまらない。
そのままじ〜とお月様を見ているうちにいつのまにか寝入ってしまったようである。
何か大きな音が聞こえて意識が戻ってきた。あっそうか、寝てしまっていたのかと自分で気づいて、おそるおそる目を開くとそこはいつもの寝室だった。
すこし寒いと思ったら窓を開けっぱなしのままである。閉じようと窓辺に寄ると窓辺からほのかな月の光りが差し込み、やや遠くから虫の音がかすかに聞こえた。
きっと貨物列車が通り過ぎた音だったのだろう。遠ざかっていく音がかすかに聞こえ、またはるか彼方に海の上の船だろうか、汽笛の音もかすかに響いている。
夢だったのだろうか。ただ、ほほとまくらがしっとりとぬれていた。なにかいっさいのものがひとつになってただありがたい。とかんじるとともに、なにかいっさいをつつむようなそのあたたかさのなかにとてつもなくおおきなちからをかんじた。なぜだかよくわからないけど、確かにそう感じた。
1262
:
うのはな
:2011/11/12(土) 00:15:50 ID:iM0b0bt6
カミ・コメ・ツチ・ヒト、その有り様
現代の日本人のどれほど多くの人間が、自己愛という名の執着に翻弄されているかを考えると、
気が遠くなる思いをする。
自己中心、自分本意、利己主義、とそれに関連する言葉を幾らでもある。
一体、何故このようなことになってしまったのか?
この件の一因として、日本人の「群れ」として帰属すべき「場」の崩壊と「場」を
中心とする「社会」の凋落が挙げられる。
ここで、日本の「場」「カミ」「社会」などについて大まかに触れてみたい。
古来、日本人は「カミ」を怖れ、敬い、奉って来た。
宗教という名を当てはめるには、あまりにも原始的なそれは、しかしカミの「心」の
支えであり、規範であり糧でもあったのだ。
当時の人々の奉る「カミ」は、大自然の威力であり、穀物の収穫の多寡を決定する者であったのだ。
(多くのアニミズムのカミがそうであるように・・・)
人々は収穫を少しでも多くしたい、その行為には「カミ」の気に入るように生活することが
必須条件、と自分たちの生活に規律を設けたが、基本的に農耕民族であったので、集落的な作業を伴うことが多く、
自然に規律も自己と他者との協同生活に於けるノウハウという意味での規律であった。
『カミ・コメ・ツチ・ヒト』 北川恵子 著より つづく
1263
:
うのはな
:2011/11/12(土) 00:35:49 ID:iM0b0bt6
1262 つづき
今のようにマスメディアの発達もなく、知識や知恵の伝達者は「長く生きた者」として「長老」連中が
当たって来た。従って、夫婦単位に分裂した小さな単位の家庭ではなく、かなり大きな単位の家庭が営まれてきた。
良きにつけ悪しきにつけ、人々はモノを考える時にいつも『自分と社会』を意識してきたのだ。
この当時の「社会」は「ムラ」であった。
人々が「群れ」を成して生活する「場」を「ムラ」と呼ぶのは至極自然だ。
ヒトが多く協同生活を送る時には、そこに個人単位の欲望を剥き出しのまま持ち込むことは出来ない。
「ムラ」には長老を核とした、権力構造もある。
このシステムに不平不満を抱いた者も多く、それらの者は「ムラ」を外れて放浪した。
放浪した先に自分が長となれる別のシステムを持とうとする者もいた。
しかし、大多数の人々は「ムラ」の相互扶助システムを自ら捨てる者であり、従ってその恩恵に浴することはない。
「ムラ」を外れるには、それだけの覚悟と力が無ければ無理な話だった。
しかも「ムラ」は「カミ」を奉る、「カミ」を頂点とした組織であった。
これを自ら捨てる者は、大変な苦労を覚悟で捨てたのだった。
この「ムラ」のシステムの中に、不合理・不条理・非能率的な部分がある、と
人々が最初に気付いたのは、明治維新の頃だった。
しかし、当時は未だ「カミ」の威信が強かったので、相互扶助システムの外で生きてゆく自信と
覚悟と力を持つ者は少なかった。そして、これは大切なことだが、「ムラ」のシステムは人々を
規律で縛る反面、その恩恵を分け与える面を忘れてはいなかったのだ。
つづく
1264
:
うのはな
:2011/11/12(土) 01:21:10 ID:iM0b0bt6
1263 つづき
大自然の力「カミ」も、その後の科学の発展で人間に制御出来ると思われ始めた。
明治以降、欧米の人間のやり方を学んで来た日本人は、科学力による工業・商業発展の
足を引っ張ると、日本の「ムラ」の不合理・不条理・非能率的な側面を嘆いた。
旧システムである「ムラ」を出ることは、「カミ」を頂点とする相互扶助システムから
はみ出ることであっても、「カミ」に代わる「科学」があるではないか、と人々は話し始めた。
「カミ」は科学の力の前には、結局、無力なんじゃないか、と人々は思い始めた。
天皇は「カミ」の代弁者であり、「カミ」の力の権威そのものだ、と人々は教えられたし、
その通りであった事実もたくさんある。
しかし、「カミ」の威信が薄れると同時に天皇の威信も少しずつ薄れて行った。
特に第二次世界大戦後、天皇は「アラヒトカミ」からただの「ヒト」におとしめられた。
同時に、人々は「カミ」を捨てた。
「科学」という新しい神の前に「カミ」は、成す術もなく沈黙していたかに見えた終戦当時の
日本の姿は、人々に「ムラ」を捨て「カミ」を捨てることの良心の痛みを忘れさせるいい口実になった。
日本人は、こぞって「科学という名の神」を奉り始めた。
何しろ「科学という名の神」を奉った国に戦争で負けてしまったのだから・・・と
人々は暗に感じてもいた。
工業・商業を発展させる為には、「カミ」を奉る農業的視野を捨てなくてはウマク行かないと人々はいいはじめた。
確かに「カミ」「ムラ」「イエ」「ヒト」という、大きい「場」から小さい「場」への流れというシステムを
遵守していては、現代日本のような工業や商業は発展しなかったかも知れない。
しかし、人々は古い習慣と呼んできたものからの恩恵を忘れはしなかっただろうか?
工業化・商業化の為に、大きい単位から小さい単位へと切り詰めてきた人々の単位。
「場」であった「ムラ」や「イエ」を、切り刻んできた結果何があったのか。
個人の欲望を剥き出しにしても、それが最小単位の夫婦の間でのことだから、
誰もその最小単位に口出し出来る故もない。
つづく
1265
:
うのはな
:2011/11/15(火) 12:54:51 ID:iM0b0bt6
おかげを数える
「感謝の心が高まるほど、それに正比例して幸福感が高まっていく」
そんな言葉を残しているのは、私の尊敬する経営の神様・松下幸之助さんです。
私はこの言葉が大好きです。
人は、自分が恵まれていないと感じるとき、あるいは、他の人たちのほうが幸せに
恵まれているのを目にしたとき、運命を悲観したり、神様に文句を言いたくなったり、
すべてがいやになったりすることもあるものです。
しかし、本当にそうでしょうか?本当に?本当に?
そんなときは、指折り数えてほしいのです。
自分がこの宇宙に愛されていることのささやかなサインを、確かに守られて恵まれていた出来事の数々を!
どんなささいなことでもいいから思い出して、数えてみると、
感謝で胸がいっぱいになってきて、涙があふれてくることでしょう。
いいことも、うれしいことも、楽しいことも、数えてみれば、いっぱいあったとわかるはず・・・・。
もしも、痛むことや、辛いこと、悲しいことのほうが多かったとしても、
今日、こうして、ここにいて、この本を手に取っているということや、
なんとかもっとうまくいく人生をと、もっと成功する人生をと、もっと幸運な人生をと、
思う自分がここにいたとしたならば、すべては辛い道のりのおかげだったのです。
なんというありがたいことでしょう。
すべては、あなたの人生を好転に導くために、よりよく輝かせるためにあったということなのです。
“おかげを数えてみる”というそれだけで、あなたの中に感謝の思いが充ちあふれ、
大きな功徳の力がふりそそぎ、奇跡のドアが開くのです!
ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます!
こんなにも、こんなにも、こんなにも、私のことを守ってくださって、
本当にありがとうございます。感謝しています。
佳川奈未 著
1266
:
うのはな
:2011/11/15(火) 13:10:05 ID:iM0b0bt6
ある知り合いの予備校の先生で、学校をたびたび首になる先生がいた。
彼は若くて、教える情熱と学力を持ち合わせた熱心な教師である、にもかかわらずである。
彼には一つ悪い癖があり、それは自分の教えている学校、そして、以前に教えた学校の悪口を
誰かれかまわず、しかも、自分が教えているクラスの生徒にさえいうことであった。
つまり、「自分はこんなに一生懸命に教えているのに、この学校は自分を評価してくれない」とか、
「前の学校はひどい学校だった」などと嘆くのである。
彼が学校を首になった原因の一つは、その彼の愚痴のせいだと私は思っている。
私たちが現在関わっているもの、それが職場であれ、友人であれ、住宅であれ、それはすべての自分の分身、
または、自分の延長であると考えることができる。
だから、現在自分がどんなにそれを嫌っているとしても、それを非難することは、自分自身の悪口をいうのと
同じことである。
自分の悪口をいう人が、豊かになるのは難しい。
もし自分が今関わっている何かが好きになれなかったら、それが自分の中の何を反映しているかを問い、
そして、そこから受け取っている最もよいものに感謝するとよいと思う。
それが、そこから抜けだす最も早道である。
高木悠鼓 著
1267
:
うのはな
:2011/11/15(火) 21:01:57 ID:iM0b0bt6
総裁と総裁代理人と書かれてる人の似ている点
いつでも自分が正しいかのように、他から批判でもなにか異見をいわれると、
他の人達に遠まわしに話題をそらす。他へ行かせたり、他の掲示板へ誘導しようとする。
これを2ちゃん的にわかりやすくいうならば「田代一!鏡!鏡!」
キケさあを貶めたものにたいして相当のことしております、ひとりごとですが?
次から実際現場で話してるつもりで書け!と怒鳴ると、
僕はもうすぐ組織をやめます、僕は傷病者リストに入っています、というように、
側近みたいなのが頼りない。
1268
:
うのはな
:2011/11/15(火) 21:33:16 ID:iM0b0bt6
あるソープランドの社長が泡姫たちを連れてよくホストクラブで遊ばせていた。
そこのホストがある日、社長と話したとき、「いつも女性陣をねぎらっていい社長さんですね」と
感心すると、その社長は「ソープランドで働く女性というのは、最初借金をかかえて
その返済のために必死で働く。しかし、そういう真面目でよく働く子ほど早期に借金を返済する金額を
貯めこみ、店をやめようとする。経営者にとってはそういう女性にやめられると損だから、
彼女達があともうすこしで借金全額返せるわ、とひといきついたあたりをねらって、ホスト遊びを教える。
そうすると今まで仕事一徹だった彼女たちはそこにはまってまた借金をつくる。
そしてまたソープで働く、というように循環するから、こうやって、女の子たちを
ホストクラブで接待しているのだと、打ち明けたという。
あちこちの掲示板であちこちの投稿記事を掲載し、議論をふっかけ、こちらへ来ませんかとばかり
誘う人もいるし、何の目的か工作かしらないけれど、世の中には色んな人がいるものだな。
1269
:
神の子さん
:2011/11/15(火) 22:35:16 ID:SHfEsqPc
ソープ嬢へのホストクラブの接待と「あちこちの掲示板であちこちの投稿記事を掲載し、議論をふっかけ、こちらへ来ませんかとばかり
誘う人もいるし」との共通点が私には解りません。
うのはなさん、あなたも自分に落ち度はないということをこの掲示板に何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も書いているではありませんか。
世間ではそのような人をネットストーカーとかアラシと呼ぶのですよ。
正直、あなたの書き込みを見るたびに嫌な気持ちになります。今までガマンしていましたが、もううんざりです。
皆、そう感じていると思いますよ。
1270
:
うのはな
:2011/11/15(火) 22:39:36 ID:iM0b0bt6
>1268
別に共通点があるとは書いてませんよ。
>1269 神の子さん、わたしもあなたのカキコミをみるたび、また、
キケさんになんだかんだといわれるたび嫌な気持ちになります。
訊けサンブログに私の文が勝手に掲載されてますが、みられないほうがいいと
思います。ここでも「うのはな」の名をみたら見ないようにされたらいいですよ。
1271
:
神の子さん
:2011/11/15(火) 22:49:36 ID:SHfEsqPc
この掲示板は、『生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える』がテーマでしょ?
うのはなさんのカキコミの多くは「訊けさん」の批判ではないですか?
あなたが掲示板の管理人ならともかく、「見ないようにされたらいい」というのはおかしいと思います。
あなたと訊けさんの争いは、本来のテーマに沿わないと言っているのです。
管理人様やほかの人の意見もお聞かせください。
1272
:
うのはな
:2011/11/15(火) 22:52:03 ID:iM0b0bt6
つづき
というか、色んな人のいろんなコメントがキッカケで、この掲示板では
本流派(ということばは適切でもないかもしれないが)と思われる方たちが
遠ざかり、「訊け」さんのように本流の人達からあらしといわれてるような人や、
そんな人達の姿が目立つようになりました。
「訊け」さんは以前、統一の動画をここで紹介したり、元統一のスパイだったとかいう人の
話をよく引き合いに出して、彼女は迷惑なんじゃないか、みんなの迷惑になてるんよばかり
私にいってきます。そして他の人達から、どっちも迷惑だ、見苦しいといわれます。
だからたぶん、わたしもここから追い出したいだろうと思いますが、それは
あるとき自然の流れで、ここからいなくなるときもあると思いますから、
楽しみにしててください、といったところでしょうか。
1273
:
うのはな
:2011/11/15(火) 22:54:41 ID:iM0b0bt6
>1271
わたしの多くが「訊け」さんへの批判だというのは間違ってると思います。
それに最近は「クレーム室」とかで反論してますよ。
ここの投稿者の意見にたいして、ここで意見してというのが普通だと思っています。
1274
:
神の子さん
:2011/11/15(火) 22:59:14 ID:SHfEsqPc
>1267
>1268
は、名前を出さないまでも批判しているのでは?
訊けさんの肩を持つわけではありませんが、
少なくとも私はそう思いますよ。
1275
:
うのはな
:2011/11/15(火) 23:04:36 ID:iM0b0bt6
そしてまたここでのコメントを「訊け」ブログに転載されるんですよ。
何が楽しいのかしらないけど。
ここで訊けさんとの争いといわれてますが、朝、久し振りに見た愛国本流での
記事に関して感想した。むこうの人達が訊けさんをいやがってる気持ちがわかるから
そんな感想を書いただけで、その日は、は新嘗祭のこととか生長の家の古い雑誌のこととか
かくつもりだったんです。
それがこれはどうだあれはどうだと訊けさんのレスがはじまったんですよ。
そういう経過をしっかり読んで、みてから、争いだとか、批判ばかりだと
評価してもらいたいです。
1276
:
うのはな
:2011/11/15(火) 23:08:28 ID:iM0b0bt6
1267,1268は名を出さないまでも批判していると思いますが、
訊けさんのほうから、ここで何回も同じ事でからんできたり、訊けブログで、
ここの記事を転用して私への批判や、他のコメント者の批判も載せているのです。
私がそんな訊けさんのことをここで書いたらダメなことはないと思います。
訊けさんにも意見してください。
1277
:
神の子さん
:2011/11/15(火) 23:13:00 ID:SHfEsqPc
>むこうの人達が訊けさんをいやがってる気持ちがわかるから
そんな感想を書いただけで、
大きなお世話ですよ。
訊けさんのレスって当初はあったと思いますが、最近ではこの掲示板状でレスをしたら
皆の迷惑になるから自分のブログでとことん議論をしようということで「クレーム室」を
作ったのだと理解しています。
「クレーム室」で反論してらっしゃるのなら、気の済むまでそこで反論してください。
訊けさんのことはもうこの掲示板であなたが取り上げる必要はないのでは?
1278
:
神の子さん
:2011/11/15(火) 23:16:43 ID:SHfEsqPc
あなたの論法をお借りすると、私のカキコミは、この掲示板をご覧になっている
多くの人々があなたのカキコミに対して不快感を抱く気持ちが解るから、そんな
感想を書いただけです。
嫌な気持ちになるでしょ?
1279
:
うのはな
:2011/11/15(火) 23:18:49 ID:iM0b0bt6
> 1271
私が見ないようにしたらいいといったのは、この掲示板のことじゃなくて、
「うのはな」という名をみたら、その投稿はみないようにしたらいいという意味ですよ。
別に、自分が掲示板の管理人かのように勘違いしていません。
そして、争いがイヤなら「訊けさんブログ」でのクレーム室というところでも、
私の文が掲載されていて、訊けさんがなんだかんだと私に言ったり、おかしな絵を
載せたりして遊んでるから、それもみないほうがいいだろうといっただけです。
1280
:
うのはな
:2011/11/15(火) 23:20:51 ID:iM0b0bt6
訊けさんの記事に関しても1278の神の子さんの論法は適用できますね。
嫌な気持ちがわかるでしょ?
1281
:
うのはな
:2011/11/15(火) 23:25:36 ID:iM0b0bt6
>1278
》大きなお世話ですよ。
何か他のブログに載ってる記事を読んだ感想なり、意見なりをかくのは
自由だと思うし、キケさんでもだれでもやってることだと思いますが。
愛国本流に同意の意見を書こうかなと思ったけど、だいぶ下のほうになってる
カキコミだったし、向うもそんな意見の連続だったり、またむこうで訊けさんが
反論して出てきたりするといやだろう、こっちの方がかきやすいと思ったから
書かせてもらいました。
1282
:
神の子さん
:2011/11/15(火) 23:25:54 ID:SHfEsqPc
うのはなさんと訊けさんの争い自体はどっちもどっちだと思っています。
っていうか、興味ありません。
でも、訊けさんは争いの場を自分のブログを使っています。
それは彼がネット上でのマナーを心得ているからです。
うのはなさん、あなたはどうですか?
多くの人々が訪れるこの掲示板に訊けさんの批判をいつまでも
ネチネチとカキコミをしているではありませんか?
私が言いたいのは、マナーを守れということです。
生長の家人以前に人としてどうなのよ?ってことです。
1283
:
神の子さん
:2011/11/15(火) 23:28:39 ID:SHfEsqPc
>1281
感想や意見は、ね。
>1276で
1267,1268は名を出さないまでも批判していると思いますが、
と、「批判している」ことをあなた自身が認めています。
あなたのカキコミは感想や意見ではなく、批判ととられても仕方がないと思います。
1284
:
うのはな
:2011/11/15(火) 23:33:26 ID:iM0b0bt6
だから、わたしは訊けさんがここから去るとかいってから、そんなに
あなたがいわれるほど、昨日のカキコでもネチネチ何回もそればかり書いていません。
わたしは、昨日のカキコミから訊けさんのレスがあったことについて話してたつもりなんですけど。
それを「訊け」さんがクレーム室で人をからかうような、指図するような言い方をしたり、
十九日間なんだかんあだと以前の私のカキコを出して、ネチネチ何回もおなじことを
いわれてるんです。
興味がないなら口を出さない。口をだすならよく読んでからにしてもらえませんか。
1285
:
うのはな
:2011/11/15(火) 23:37:24 ID:iM0b0bt6
だから、わたしとしては感想意見のなかに批判もあるんですけど。
それはともかく、訊けさんも他の人も批判や感想を書かれていますよ。
あなたのは批判ととられても仕方ないと思いますって、別に仕方なく
思っていません。あたりまえというか、キケさんもみんなされていることだと思います。
訊けさんが私に対して批判を書かれていますよ。人としてどうなのよ?って。
訊けさんにも意見してください。
1286
:
神の子さん
:2011/11/15(火) 23:37:43 ID:SHfEsqPc
結局は私は悪くないの一点張りで堂々巡りですね。
不毛なやりとりでした。もう私はこれ以上は口出ししません。
管理人さん、あなたの信条に反するかもしれませんが、
何らかの策をとった方がいいと思いますよ。
1287
:
うのはな
:2011/11/15(火) 23:42:34 ID:iM0b0bt6
結局は私は悪くないの一点張りで堂々巡りですね。
それで、私が訊けさんにどれだけ迷惑してるかの気持ちがわかってもらえたと思います。
次からは、神の子さんのような意見は、訊けさんブログでやられたらいいと思います。
1288
:
うのはな
:2011/11/16(水) 00:09:44 ID:iM0b0bt6
それに以前、ここでの調和とは「訊け」さんの意見に何でも同意することなのかどうかという
ことを私は、書いていますよ。
どうやら、誰かの思惑通りに、元本部職員、志恩さん、他の方たちのように
わたしもここからしばらく消える事になるのかな、、、(笑)
1289
:
うのはな
:2011/11/16(水) 01:27:51 ID:iM0b0bt6
>1267
>1268
神の子さんから、上記のカキコは訊けさんの批判だ、ここは生長の家の掲示板だと
書かれていたので、今さっき読み返してみたが、、、、
生長の家の話でも、ふくまれてるじゃないか、、、隠し味みたいに。。。
泥酔しながらでも普通に打つタイプといわれただけあって、
私もけっこうしっかりしてるわ。。。。
1290
:
うのはな
:2011/11/16(水) 02:45:34 ID:iM0b0bt6
神の子さんへ
昨日、今日のここでのカキコミで私が何回も何回もキケさんの批判を書いてると
誤読されてたようですが、どっちにしても、アレ以来、そんなに何回も批判してません。
また、訊けさんブログでということで、訊けさんとこでもずいぶん反論してますよ。
訊けさん以上にあなたのような外野の干渉が多いので。
それに、むこうでは私のカキコミを転載しまくっておちょくられてるので、
これからは逆に、こっちで向うのことを反論批判することもありえます。
今のところ予定はしていませんが、柵越えやこっちで批判でも何でも書いてる訊けさん
の自業自得でしょう。
そして、以前に私が訊けさんのことではない(キケさんに対して関係ないと思われる
数行程度のカキコミの直後、神の子さんはまた人の批判がはじまるのですか、、
いい加減にしてくださいねとか、口を挟んでましたが、別にあの程度の投稿で人の批判だとか、
悪いことのように言われたり、アラシかなにかのようにいわれるなら、
最初からここには、何も書かなかったと思います。
その時は、そのあとで用事をすませてからでも、職場に行ってからでも、三連くらいの
雅春先生の日めくりについて書くつもりだったのです。
昨日の訊けさんとのやりとりでも、これから今日も訊けさん話をするぞ、というものではなく、
たまたま愛国本流のことを批判記事に同意するみたいなことを書いたつもりです。
そのあと新嘗祭のことを途中で書きかけてやめたんですよ。訊けさんからいろいろ
かきこみがあって。
キケさんとの争いに興味がないって、最初からあなたは興味があって、私の非難を
書いてるじゃないですか。決め付けたように。
わたしも、あなたのカキコミを見ると、気分が悪くなってさっきは家人にどうして
そんな鬼のような顔になってるんだ、相手にしないことだと、なだめられました。
1291
:
うのはな
:2011/11/16(水) 07:47:23 ID:iM0b0bt6
神の子さんへ
そして、あなたがいわれるように、ここには生長の家の掲示板とは大して
関係ないことを書かれている人が多くいますが、その方たちに注意されないのはなぜですか?
1292
:
「訊け」管理人
:2011/11/16(水) 08:12:26 ID:D0Kb5yw.
>神の子さま
あまり述べられませんが、いろいろとご○○をおかけしまして、申し訳
ありません。
どうぞ、こちらでお願い致します。これ以上、当トキさま掲示板にご迷惑
をおかけするわけには参りませんので・・・
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65605964.html
1293
:
初心者
:2011/11/16(水) 10:05:32 ID:X1fDhvjY
それにしても訊けさまは、『生命の實相』を拝読しておられるにしては、
トラブルが多すぎません?
1294
:
「訊け」管理人
:2011/11/16(水) 13:09:15 ID:MPQg3/HY
>校長殿
ぎゃああ・・・・
ですがこれ、トラブルではありません。
自壊作用
と申します(笑)
って今、作成中の記事(ある人の相談に乗っている内容)に関連するのです
が、うのはな様曰く
「これは何度も何度も本流掲示板に行ったことの自業自得」とか。
反省反省反省(笑)
1295
:
初心者
:2011/11/16(水) 13:25:40 ID:X1fDhvjY
訊けさま
他人を巻き込んでの自壊作用。
これは、ちょっと問題ではないですか。
1296
:
「訊け」管理人
:2011/11/16(水) 13:40:47 ID:MPQg3/HY
>校長殿・・・
一応、昇華させている途上であります(笑)こんな経験を、他人のお役に
たって欲しいものだ・・・切に願う次第。
●事業の行方を悲観する、ある経営者
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65606243.html
追伸
インコース攻め、厳しいですね(笑)
1297
:
トキ
:2011/11/16(水) 13:54:06 ID:TDtTBIyk
すみません、登場が遅れました。
管理不行き届きですみませんです。うのはな様、訊け管理人様、どうか、このあたりで
「和解」をお願いできないでしょうか? 最終的な責任は管理人にありますから、私から
お二人にはお詫びしますが、やはり皆様が仲良く使って欲しいので、宜しくお願いします。
合掌 ありがとうございます
管理人敬白
1298
:
「訊け」管理人
:2011/11/16(水) 14:05:15 ID:MPQg3/HY
>トキさま
和解の件、了解しました。
先ほど、うのはなさんからの愛の告白を受けました。
<弊ブログ・コメント欄より>
63. 卯の花様のご要望2011年11月16日 11:08
ひと目合ったその日から 恋の花咲くこともある
パンチで訊け!
私は和解です。
人を変えようとするな。
人を喜ばせるようにせよ。
これで行きます。
(ただし、妻子ありのため、ご要望には応じられません)
1299
:
さくらDJ
:2011/11/16(水) 14:14:36 ID:UrNBw35U
うのちゃんに、贈ります。
http://www.youtube.com/watch?v=NswAtU5rWvg&feature=youtube_gdata_player
あ、部室棟ができたら、部室で、しますね、はい。
1300
:
「訊け」管理人
:2011/11/16(水) 14:21:47 ID:MPQg3/HY
あっ、オレが歌ってる・・・
1301
:
初心者
:2011/11/16(水) 15:06:25 ID:X1fDhvjY
人を変えようとするな。
人の喜ぶことをなせ。
これもよいですが、わたくしは、
『他者を自己実現の手段にするな』
これでいきます。
1302
:
さくらDJ
:2011/11/16(水) 15:11:44 ID:T/77sMGw
『他者(福山)を、自己実現の手段(オレが歌っている…)にするな』
1303
:
「訊け」管理人
:2011/11/16(水) 16:33:15 ID:l8v59LII
>DJさくらマネ
馬車を、事故実現で示談するな・・?おおっと、私としたことが。
校長談はこういうことでしょうかね。まあ、他者、いや、たとえばマシャ(福山)
の歌を歌い(利用し)女を口説き、そしてその後、そのラヴソングとは正反対の
邪な世界へ誘うような行為、これを指しておられるんでしょうか・・・
また別のマシャ(谷口)を利用し、「これが御教えだぁぁ!!!」とか叫び
ながら、邪なことを実現しようとする輩もおります。これを指しておられるの
か?
以上、宮崎のマシャからの独り言ですた。今日はこれから、嫁がパーマ
行くんで育児です。
1304
:
うのはな
:2011/11/16(水) 20:49:51 ID:iM0b0bt6
すべての状況の必然性に感謝する
私は、いまの人生にとても感謝ぜずにはいられません。
前述のように、病気の子供もいますが、そのことにもすべて感謝なのです。
私には3人の子供がいますが、すべての子供が私の人生においてとても重要な意味を持っていて、
必然的に私のもとに生れてきてくれたのです。
こんな私のような未熟な人間のもとに、3人もの天使たちがやってきてくれたというのは、
なんとありがたいことでしょう!
星の数ほどいる人間の中から、母親候補にする人間が地球にはごまんといるなか、それでも、
子供たちは、天から私をみつけて、「あの人のところに生まれよう!」と、
私を選んで生まれてきてくれたのですから。
だから、私は自分の子供に毎日「ありがとう」という言葉を必ず言います。
言わない日は、まったくありません。
彼らが、勉強ができるとか・できないとか、お手伝いをするとか・しないとか、
何か名誉なことをするとか・しないとか、そんなことにまったく関係なく、ただ、
こうして元気にいてくれることが何よりもの幸せであり、よろこびであり、感謝なのです。
実際、私が、こうして、自分の好きな場所に出かけられるのも、彼らという大切な子供たちが、
ただ、元気にそこにいてくれるからです。
私が生きる力を持てるのも、この子たちがいるからこそなのです。
ときどき、私がハードに仕事しているのを見た人が、「お子さんが3人もいたら
大変でしょう。よく子供が3人もいるのに、お仕事できますねぇ。足手まといになりませんか?」
などと、聞いてくることがありますが、まったく勘違いです。
この子たちがいるからこそ、がんばれるのです!私ひとりだったら、こんなには
がんばれません。だから、子供たちは無条件で宝物なのです。
私は、子供たちが、ときに、学校で先生に叱られたり、いやなことに遭遇したり、試験がうまく
いかなかったり、学校を辞めたいと泣いたり、病気で調子が悪かったり、反抗期であったり、
精神的に落ち込んだり、ふさいだり、いろいろあったりするときには、必ず、
「あなたはママの宝物だから!いつでもママが守るから大丈夫!」と、言います。
そして、「ママはあなたたちのような宝物に恵まれて、本当にうれしいよ。ありがとう」
と、伝えます。
3人とも男の子なので、口に出してはお上手もなにも言いませんが、大切なことは伝わっていると
思います。子供が教えてくれることはいっぱいあって、子供がいるからこそ親になれるのだとも思います。
相したら、自分をそんなふうに人間として深めてくれるのだから、感謝なのです。
ありがたいのです。おかげさまなのです。
だから、私は、幼児虐待なんて、信じられません!なんで小さな子供にひどくあたれるのか、
こんな天使のようなかわいい存在に!
泣いてばかりで憎らしいなんて、虐待する理由になりません。家が貧しくてついカッとなったなんて、
虐待の理由になりません。
あなたを選んで生まれてきたことに、子供に感謝してみてください。
子供はみんな天使だから、大好きなお母さんに「ありがとう」をもらえるだけで、
う〜んといい子になっていくのです!
そこに難しい教育論も、教科書もいりません。子育てや何かしらの専門家に自分の子供の非行を
相談しに行く前に、子供にひとこと、心をこめて「ありがとう」と目を見て、優しく、言ってあげるだけでいいのです。
ありがとうは、すべての必然性を輝かせる魔法の言葉ですから。
佳川奈未 著
1305
:
てん
:2011/11/17(木) 08:50:11 ID:Yh5T.I1U
天皇の「絶対無」への還帰
『古事記』に『无間勝間之小舟(まなしかつまのおぶね)』とあるのは『日本書紀』には『無目堅間(めなしかつま)』と書かれてあります。この、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)が無目堅間の小舟(めなしかつまのおぶね)にお乗りになって龍宮海(りゅうぐうかい)にお渡りになったというところに、日本天皇の御天職であるところの"絶対無への還帰(げんき)"ということが象徴されているのであります。天皇といえども、現象界に肉体をもってお生まれあそばした限り、肉体的な生理作用もおありになれば、肉体的な五官の欲求もおありになるのは当然のことであります。しかし国家の重要な問題に関して「海辺に立ちて泣き患(うれ)い給う」ような問題に面せられますと、"絶対無"の小舟(おぶね)にのって「龍宮海(りゅうぐうかい)」即ち一切を「ウミ出す本源・實相の世界」に渡られまして、そこから其の問題解決の「無限智」を導き出されるのであります。「無目堅間の小舟(めなしかつまのおぶね)」の「目無し(めなし)」ということは、時間の目盛りがないこと、即ち「無時間」を象徴しているのであり「堅間(かつま)」ということは空間が堅く鎖(とざ)されて無空間であるということであります。「小舟」の「小(お)」は無時間・無空間の縦横(たてよこ)十字の交叉点の極微「無(む)」の一点であり、未だ時間発せず、空間生ぜざる「無」の一点であります。「小舟」の船はそれに乗ると彼岸に渡ることができる「如来の願船(がんせん)」であり、それに乗るとは、絶対無の世界に還帰(げんき)することであります。
この"絶対無"の小舟(おぶね)に乗るということを、ここでは「無目堅間の小舟に乗せまつりて」というふうに象徴的に表現されておりますが、具体的にかみくだいて解り易く申しますと、全然「我(が)」というものも「我欲」というものも「我(が)の所有」というものもなくなって「無」になり切ってしまう、あの大東亜戦争の終戦の時に「わたしの体はどうなってもよい、国民を救(たす)けたい、できるだけ多勢(おおぜい)国民に生きておって貰(もら)いたい」と今上陛下が仰せられたその「天皇の生き方」そのものの中に示されているのであります。(『日本を築くもの』)こうして国家の重大事に際しては「無」になり切って龍宮海(りゅうぐうかい)----即ち實相世界の智慧と結合せられる----この事を『古事記』には次のように書かれているのであります。
〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜
ここは『古事記』の文章のうちで最も美(うるわ)しき文章であります。こうして天皇は『絶対無』の世界に還帰(げんき)せられまして、龍宮無限供給の世界と結婚せられることになったのであります。無我になることが無限供給を受ける道であります。龍宮海(りゅうぐうかい)即ち「生(ウ)ミの底(ソコ)」(創造の本源世界)には、失われたるものは少しもないのでありますから、『古事記』神話には一尾の鯛(たい)が喉(のど)その鉤(つりばり)をもっているのを見つけて、それを吐き出させられたことになっているのであります。さて間もなく豊玉姫(とよたまひめ)は懐妊なさいました。
1306
:
sate
:2011/11/17(木) 08:55:57 ID:Yh5T.I1U
!よきひびをともにきずこうか!
!しあわせいつぱいであんしん!
!はるのひかりさきそよぐかぜ!
!るりいろのいのちかがやかん!
!ふくがつねにみちみつるいえ!
!あいのちからすべていやさん!
!いのりひびきなりわたるいま!
!ともよつねにしあわせたらん!
『ただただあたえん』
1307
:
役行者
:2011/11/17(木) 09:39:29 ID:Xtz8.cdE
>てん さま
見事に素晴らしい御文章をプレゼントしてくださり、恐悦至極でございます。
般若心経の最後の経文!
ガーテー ガーテー ハーラーガーテー ハーラーソーガーテー ボージーソワカ
般若心経
渡ったものよ、渡ったものよ、彼岸に渡ったものよ。彼岸に完全に渡ったものよ。
おおいなる祝福を賜れ!
思いっきり、意訳でした!
めなしかつまの小舟
如来の願船
確かに、ここがポイントなのかも知れません。
心より、合掌を捧げます!
1308
:
ハマナス
:2011/11/18(金) 00:46:23 ID:u5mC.eb2
てん様
『古事記』の美(うるわ)しき文章をありがとうございました。
ここに、『古事記と現代の予言』ソデ書きを、抜粋いたします。
異常に発達した文明は、人間から直観力と直観把握の価値とを奪い去ってしまった
ように見える。神話は、古代日本民族の優れた直観把握によって創造された、雄大
一大叙事詩に見える。『古事記』はそれを読む人の力量によって、その文章の奥に
ある秘義を捉える度合いがきまると言われている。
誰よりも祖国を愛し,憂える著者は『古事記』の中に、古代日本人のとらえた宇宙
創造の原理、日本の本質、日本民族を貫く理想、日本の進むべき方向を見出し、
日本人がいかに平和な民族であり、日本国がいかに優れた国であるかを説く。
著者の言霊学的解釈により、『古事記』の秘められた意味を開いてゆくとき、なぜ
戦争はなくならないのか、なぜ人間同志が相争う『古事記』のか等、現代の数々の出来事が
起こるべくして起こったことが明らかになってくる。まさに『古事記』は、現代の
予言書なのである。
本書の『古事記』解釈によって、今までくらまされていた日本国の理想、民族の
使命を自覚したあなたは、日本人としての喜びと誇りに目覚めるだろう。
国の前途が憂えられている今日、まさに心の底からの感動を呼び起こす愛国の書である。
感謝合掌
1309
:
うのはな
:2011/11/18(金) 17:57:15 ID:iM0b0bt6
今回の夫とのこの共著を読まれて、ある人は「生長の家」のあり方について
考えてみる機会となさるかもしれない。またある人は、つまらない内部論争として
お取りになるかもしれないし、だから宗教は嫌いだと非難されるかもしれない。
私たちは、自分たちの信じるものがあったとき、少なくとも信仰の対象をそのままの姿で、
形で、この目で確実に見続け、そして変わることのない真理であるとの確信を得た時その信仰を
持続しようと思い、誇らかな指標ともし、かつ他の人にも力強く伝えることができる。
それは特定の団体とか組織に入っていなければ出来ないというものではなく、ただ一人でも信じた
ことを実行することは出来る。
組織化するメリットは、本当に正しい宗教である場合は、迅速により数多くの人々に布教できることである。
もし、自分の信仰心がうなずかない宗教になってしまった場合には、自らの信仰を曲げてまで組織に束縛されている人々の
心の内には、葛藤が生じるはずである。今そのような内心の葛藤に悩む信徒が多い。
しかし、その葛藤と恐れずに対面し、正しいと信じる行動に勇気を持って踏み出すことが、
私達の本当の新生につながり、信仰者としての生き甲斐と法悦を見出す道であると信じる。
私達はただひたすらに、谷口雅春先生の心理の把握が、広く世間に公表・開示され、堂々と講演のテキストとして
流布され、多くの信徒の方々の指標とも喜びともなって広がり、さらに新しい世代の方々への希望の光となることを願うばかりである。
『谷口雅春師に捧げる誓いと信仰』 宮沢潔・宮沢壽美 共著 ジュピター出版
1310
:
うのはな
:2011/11/18(金) 22:13:36 ID:iM0b0bt6
昭和十七年一月十七日 別府から東京へ
恵美子さん 父より
御手紙有りがたう 拝見いたしました。学校をつづけるかどうかについて色々心配して
いらつしやる由ですが、そんなに心配しないで、お母様のおつしやるやうにお続けなさい。
私があまり、私の考へをつかみ過ぎてゐたので、お母様との間に板挟みになつて、心配させて済まなかつたです。
女の子はお母様の被仰るやうになさると好いと思ひます。
私のあとつぎは筆をとらねばならぬと云ふこともない。
書くだけのことは私が書いて置いたとも云へる。文学者なら名文で何か創作しなければならないかも
しれないけれども、宗教方面のことは文章が旨かつたところが致し方もない。
生活が神の子らしい生活になることが必要で、これからは私の書いたことを生活に行ずることが、私にしても
貴女にしても必要なことであつて、何か生活するために書かねばならぬと云ふこともない。
生活が生きねばばらないのである。
『生命の實相』は今も用紙の統制もあるけれども、結局今までのあのすばらしい人生光明化や治病の実蹟のシニセと
云ふものは消へることはなく、永遠に続いて、それは売行きを失はないと思ふし、家族が生活すること位は、今まで売れた
十分の一売れるだけでも、その印税で生活できるのです。
(編集者注 『生命の實相』の印税は昭和二十一年一月八日以降、戦災孤児救済等のために設立された
生長の家社会事業団に寄附され今日に至っています。)
だから生活するために、文章を書かねばならぬといふこともない。
人間が、本当にマジメに宗教的に(と云ふことは本当にまごころで)生きて行くことが出来たならば、
若しそのことが本当に出来るならば、その生活が断片的にでも書かれても、それは人の心を打つだらうが、
書くために書くと云ふやうなことは、それほど大した価値のあることではない。
貴女に何か書いてくれと云つたのも、何も生活のためでもないし、書いたものを読んだ人が喜ぶから書いてくれと
云つただけで、別に書かねばならぬといふこともない。
私が書け書けと「縛る」やうに云ふものだから、貴女も一層「縛られた」やうで書く気にならず、
両親の板挟みになつて苦しんだのだらうと思ふ。或いはもつと役に立つ学校があるなら、その方へ移つても好い。
免状やそんなものは必要はない。ものは実力があれば好い。
『こころの旅路』 谷口恵美子 先生編著
1311
:
うのはな
:2011/11/19(土) 06:32:17 ID:iM0b0bt6
永遠の価値につながる道
宗教をやるのは、諸君でも同じことでありますけれども、永遠の価値というものを
求めるからであります。物質の富は、いくら集めておいても結局はくだけるものであります。
百億万円の富を積んでおいても、死ぬときには持ってゆけないから、永遠の価値のものではないのであります。
ある期間のものに過ぎません。そうすると、本当に永遠の価値というものは、どこにあるかというと、
神のみが永遠の実在であるから、永遠の実在とつながるほかに道はない。
それには神の御心を吾々自身の生活に成就しなければならない。
成就するという字は成る(就る)という字であります。
神の御心の「鳴り」ひびきをわが生活に実現するときに、はじめて吾々は、神がここに実現していると言うことができるのであります。
自分の生活に於いて、神なる永遠価値が、そこに実現していることーこれが宗教生活であります。
宗教といえば、福徳を貰うために拝むのだと思っている人があるが、そんなのが宗教ではない。
永遠の生命がこの自分を通して実現する道を示すのが、宗教であります。
「日に日に生きるのが宗教である」と『智慧の言葉』には書かれておりますが、私たちの生活の日々に、
永遠の生命が、「今」即「久遠」の生命を、そこに生きることが宗教であります。
『人間そのものの発見とその自覚』 谷口雅春 先生著
1312
:
うのはな
:2011/11/19(土) 17:05:03 ID:iM0b0bt6
>> 1309 誤字訂正
下から3行目 心理× 真理○
1313
:
神の子さん
:2011/11/20(日) 01:24:27 ID:Tdh76SPc
ブータン国王、国会での演説(全文)
天皇皇后両陛下、日本国民と皆さまに深い敬意を表しますとともにこのたび日本国国会で演説する機会を賜りましたことを謹んでお受けします。衆議院議長閣下、参議院議長閣下、内閣総理大臣閣下、国会議員の皆様、ご列席の皆様。世界史においてかくも傑出し、重要性を持つ機関である日本国国会のなかで、私は偉大なる叡智、経験および功績を持つ皆様の前に、ひとりの若者として立っております。皆様のお役に立てるようなことを私の口から多くを申しあげられるとは思いません。それどころか、この歴史的瞬間から多くを得ようとしているのは私のほうです。このことに対し、感謝いたします。
妻ヅェチェンと私は、結婚のわずか1ヶ月後に日本にお招きいただき、ご厚情を賜りましたことに心から感謝申しあげます。ありがとうございます。これは両国間の長年の友情を支える皆さまの、寛大な精神の表れであり、特別のおもてなしであると認識しております。
ご列席の皆様、演説を進める前に先代の国王ジグミ・シンゲ・ワンチュク陛下およびブータン政府およびブータン国民からの皆様への祈りと祝福の言葉をお伝えしなければなりません。ブータン国民は常に日本に強い愛着の心を持ち、何十年ものあいだ偉大な日本の成功を心情的に分かちあってまいりました。3月の壊滅的な地震と津波のあと、ブータンの至るところで大勢のブータン人が寺院や僧院を訪れ、日本国民になぐさめと支えを与えようと、供養のための灯明を捧げつつ、ささやかながらも心のこもった勤めを行うのを目にし、私は深く心を動かされました。
1314
:
神の子さん
:2011/11/20(日) 01:25:14 ID:Tdh76SPc
私自身は押し寄せる津波のニュースをなすすべもなく見つめていたことをおぼえております。そのときからずっと、私は愛する人々を失くした家族の痛みと苦しみ、生活基盤を失った人々、人生が完全に変わってしまった若者たち、そして大災害から復興しなければならない日本国民に対する私の深い同情を、直接お伝えできる日を待ち望んでまいりました。いかなる国の国民も決してこのような苦難を経験すべきではありません。しかし仮にこのような不幸からより強く、より大きく立ち上がれる国があるとすれば、それは日本と日本国民であります。私はそう確信しています。
皆様が生活を再建し復興に向け歩まれるなかで、我々ブータン人は皆様とともにあります。我々の物質的支援はつましいものですが、我々の友情、連帯、思いやりは心からの真実味のあるものです。ご列席の皆様、我々ブータンに暮らす者は常に日本国民を親愛なる兄弟・姉妹であると考えてまいりました。両国民を結びつけるものは家族、誠実さ。そして名誉を守り個人の希望よりも地域社会や国家の望みを優先し、また自己よりも公益を高く位置づける強い気持ちなどであります。2011年は両国の国交樹立25周年にあたる特別な年であります。しかしブータン国民は常に、公式な関係を超えた特別な愛着を日本に対し抱いてまいりました。私は若き父とその世代の者が何十年も前から、日本がアジアを近代化に導くのを誇らしく見ていたのを知っています。すなわち日本は当時開発途上地域であったアジアに自信と進むべき道の自覚をもたらし、以降日本のあとについて世界経済の最先端に躍り出た数々の国々に希望を与えてきました。日本は過去にも、そして現代もリーダーであり続けます。
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