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ローファンタジー世界で冒険!避難所

384教皇フランディーノ ◆OzeGYYLSp.:2013/10/28(月) 02:14:51 ID:W3ht2Q6A0
フランディーノは支援が必要との言葉を、資金援助の要請だと読み取った。
先にユーフェンが衝撃的な話を持ち出したのも、スムーズに資金を引き出す為の技巧なのかとも考える。
しかし、アルティヴィツェで紛争が起きたのは事実であろう。
破倫の行いが各地で頻発することも予見され、何も手を打たずして良いわけも無かった。
それに孤児の保護は前々から自分が進めていた事案で、反対する理由も無い。
資金を投じる理由としては、むしろ正当なものだ。

「財務部に話を通しましょう。
 私も幼少の頃、三主教の僧院に預けられました。
 従って、困難な状況にある子供達を支援する必要性も少しは分かっております」

己も少年期に僧院へ預けられた過去を思い出し、教皇は言う。

「左様でしたか。
 私も孤児院で育ちましたので、身寄り無き少年少女の境遇……に関しては把握しております。
 奉仕の果実を受け取った者の責務として、私も奉仕の果実を与えなければなりません。
 子供達が人らしく生きられるように」

「お願い致します」

霊狐の司教は腰を上げると微笑みを浮かべ、僅かに顎を引いて頷く。
それに伴って長い睫毛が動き、銀の瞳も僅かに翳った。
聖職者としての清楚さを繕ってはいるが、どうにもこの女司教の姿態から妖艶さが香るのは否めない。

「全ての悩めるもの、苦しむものに祝福あらん事を」

一礼したユーフェンが執務室から退出してゆく。
謁見を終えると、教皇は疲労を息に乗せて静かに吐き出した。
窓の外を見れば白い雲、アルティヴィツェから流れてきたのであろうか。
その雲がエヴァンジェルの空に辿り着いた頃、次の執務を持って来た助祭が扉を叩く。
短い休憩の終わりを告げるノック音を聞くと、教皇は椅子に座り直して午後の執務へと備えた。

385司教ラオ・ユーフェン ◆ZnFkzg9flY:2013/11/10(日) 07:03:38 ID:WaKOo3Og0
大聖堂での諸用を済ませたラオ・ユーフェンは、聖都を発つべく黒塗りの公用車へ乗る。
転送施設の存在する隣都までは、一時間もすれば着くだろう。
明日、バニブルから訪れる使節団も其処を介してエヴァンジェルに訪れるはずだった。

「……此処は暑い。クーラーを付けて」

温帯の気温で疲労した体を柔らかな後部座席に委ねると、女司教は眠るように瞳を閉じた。
運転手が車を走らせると、程なく車内には冷気が満ちてゆく。
涼やかな風を受けて瞼の裏に思い描くのは、羽毛のような薄い氷片が天から降り注ぐ光景。
寒冷な地方の厳冬期に見られる、散氷鵬(フィーヴルユージャ)と呼ばれる自然現象だ。

どれほど昔の事だったのかも忘れる頃。
今はラオ・ユーフェンと名乗る女が、まだ無力な少女だった時代。
アルティヴィツェ北方の寒村が戦乱に巻き込まれた。
あの時も、確か氷の羽毛は天から舞い散っていたと……女司教は思い返す。

戦禍に見舞われた小さな村は、酸鼻を極めていた。
戦闘行為で死傷者は数多。四方数キロに渡って家屋も完全に壊滅。
目に見えるのは、恐怖を煽るかのように燃え盛った赤い炎。
耳に聞こえるのは、耳を塞ぎたくなるような悲鳴と断末魔。
道端に倒れる半裸の女を蹂躙したのは、銃を持つ暴漢だろうか……それとも大鎌を持つ死神?

全てが終わりを告げた村の中で、一人の少女が走る。
砲弾の怒号が聞こえないほど遠くまで逃れた頃には、疲労で目が霞み、足も動かない。
降り積もる雪に埋もれた少女は、ただ凍えながら死を待つのみ。

――――亜人の女か。

冷たさに薄れてゆく意識の中で声。

――――たす、け……て。

見知らぬ人物に助けを乞い、車に乗せられて、行き着いた先は孤児院を装う娼館。
戦乱の収まらない国で、無力な女が食べてゆける術は他に無い。
少女は客を取り続け、やがて最後に自分を買った司祭の口添えで富裕の家の養子となり、新しい姓名を得た。

ラオ・ユーフェンは治癒の術でも癒せぬ病に蝕まれている。
美しいもの、無垢なものを傷つける事を何よりも好むのだ。
かつての己の写し身のような者たちを。

蒐集して、執心して、自分の体に刻まれた経験と、心に刻まれた観念を刷り込む。
ああ、そうだ……彼らも自分と同じ目に会わなければ不公平ではないか。
だから、幾つも造り上げた名ばかりの孤児院で、少年少女を性的に搾取し、訪れた富豪へ養子という形で売り払う。
これが人類。これが運命。これが世界。受け入れて生きよ。

「綺麗なものが、綺麗なままでいるのは……狡い」

女司教は呟き、そのまま凍てつく夢に墜ちてゆく。
彼女を乗せた漆黒の車は市街門を越え、流れる雲を追いかけるように西の彼方へ消えて行った。
そして、一つの駒が聖都という舞台の上から取り除かれる。
泥の心を隠し遂せたままに――――。

386ミリア ◆NHMho/TA8Q:2013/11/11(月) 00:37:03 ID:wHJGL4YM0
正午を過ぎると疎らな雲が空を飾り、太陽から降り注ぐ日差しの矢の勢いを弱めた。
若干歩きやすくなったエヴァンジェルの大通りには、数々の飲食店から入り混じった濃厚な香りが漂う。
鼻腔を擽られた往来の人々たちも足を止め、窓越しに香りの源を覗き込む。
レストランのペスカトーレ、カフェテラスのコーヒー、あるいはパン屋の棚に並べられたパンを。

「いらっしゃい、ませッ」

ロルサンジュのカウンターでは、花柄エプロンと黄緑の三角巾を身につけたミリアが接客に勤しむ。
慣れない仕事をフロレアに付き添われ、却って足を引っ張っている有様ではあったのだが。

「あの、これとこれは何が違うんですか?」

トレーに二つのパンを乗せた若い男子がミリアに問い掛ける。

「右はシーフードベネディクト。
 赤瞑海で獲れた海老と貝にポーチドエッグを乗せて、特製ソースで味付けしたマフィン……だったはず。
 左のはベジタブルベネディクトで、海産物の代わりにアボカドとトマトを使ってる……よね」

自信無さげなミリアが確認の為にフロレアの顔を見ると、返ってきたのは微笑みと頷き。
紙袋にシーフードベネディクトを包むとすぐに次の客、鳥のような羽を持った妖精種が続く。

「すみません、十二枚切りのパンってありますかー?」

「えっと……八枚切りまでしか無いような。
 こういう場合はアタシが切ればいいのかな。
 ま、今ならタイムサービスって事で一枚多い十三枚切りに……しちゃうと薄くなっちゃうか」

ミリアは棚の食パン一斤を台に置き、ブレッドナイフで褐色のクラストに刃を入れる。
刃先が波型の薄い刃はステンレスと鋼の合金で、力を込めずともパンを容易に切り裂く。
ミリアとて決して不器用では無いのだが、出来上がった十二枚切りのパンはやや不揃い。
苦笑いしたフロレアはブレッドナイフを手に取ると、新人アルバイトに代わってパンの切り分けを鮮やかに行う。

「あれ、いつもの子じゃないねぇ?
 これとこれとこれとこれ、良いかい」

三人目の客は直立した栗鼠のような獣人種。
カウンターに立つミリアをしげしげと眺めながら、鯨のような絵柄が描かれた紙幣を差し出す。
リドル(R$)、赤瞑海沿岸の国家で構成される国家連合・アドリア圏で流通する統合通貨だ。
西方で広域に普及している通貨なので、このエヴァンジェルでも見かける事は少なくない。

(いつもの子……リンシィのことか)

「アタシはアルバイトでね。いつもの子はちょっとお休み。
 トリスブレッドとクロワッサン、クイニーアマンにハムサンドが二点、と。
 ちょうど十リドル、お買い上げありがとうございます。又お越しくださいませッ」

続く四人目は体格が良い褐色の男で、作業着から街の補修工事を請け負う工人だと窺い知れる。
短い髪は染めたような赤紫で瞳も濃紺、どこか異国風の面立ちだった。

「サンドイッチ三個、お願いネ」

「この硬貨は……ええっと……」

騎士の図柄が刻印された銀貨に困惑するミリア。
惑いの原因は、聖都に近隣国複数の通貨が数十種類も流通していて、為替レートの把握が困難なこと。
他国の通貨はリドルくらいしか触れる機会の無かったので、見慣れぬ通貨を出されると咄嗟の計算にも詰まる。

(……計算も満足に出来ないとか、リンシィには見せられないな)

387ミリア ◆NHMho/TA8Q:2013/11/11(月) 00:43:46 ID:wHJGL4YM0
「ミリアちゃん、それはペラル銀貨。二枚で五リドルくらい」

フロレアの助け舟でサンドイッチの販売を無事に乗り切ると、ミリアは小さな溜息を吐く。
カウンターの前を見れば十人ほどが並んでいて、滞留の原因は自分の対応の遅さであることも明白だった。

「……ちょっと店も混んで来たし、このままアタシが接客担当だと店の邪魔だよね。
 アタシは単純労働に回るんで、悪いけど接客はフロレアさんが代わってくれないかな。
 明日までにはもう少し色んな事を覚えて、もう少しマシな戦力になるから」

ミリアからカウンターを譲られたフロレアは、流れるように来客を捌く。
ただ早いだけではなく、待っている客にも笑顔で声をかけていた。

(ちょっと時間が空くと、拭き掃除とか店外からの窓掃除もしてるし、無駄な時間が無いな……)

気配りの効いた接客は、人付き合いに疎いミリアから見てもスキルの高さを感じさせるものだった。
それを真似るべく、ミリアもフロレアの仕事振りを観察しながら己の分の仕事をこなす。

やがて忙しい時刻も過ぎ、西の空が赤く溶け始める。
パン屋の扉にも営業終了の札が掛けられると、食事に入浴、温かな家庭のひととき。
それも終わると、ミリアもフロレアに付き添ってリンセルを介護する。

「……フロレアさんはさ、どんな経緯でレナードさんと結婚したの?」

問いかけられたフロレアは、怪訝そうに黒い瞳を見つめ返す。

「私とレンが結婚した理由?」

レンとはレナードの愛称で、ロルサンジュの店主は妻からそう呼ばれている。
フロレアも夫からフローと呼ばれているのだが、さすがに知り合って日も浅いミリアがこれらの愛称で呼ぶことはない。

「あ、えっと……ちょっと気になっただけだけど……。
 どういう気持ちで伴侶を選んだのかなー、とか。
 アタシ、割と人付き合いとか苦手な方だから……何かの参考になればなって」

ミリアは手を止めて言葉を濁す。
強く好意を向けてくる相手――――魅了した相手とどう接すれば良いのか知りたい、とは言わずに。

「劇的な出会いじゃないけど、ミリアちゃんが恋人を選ぶ参考になるなら頑張って話そうかな。
 レンと初めて知り合ったのは二十年くらい前、同じ中学校の一つ上の先輩だったわね。
 十八才の時、母の具合が悪くなって……お金が入り用になったからアルバイトを始めたの。
 その店でパン職人の修行してるレンと再会して、色々と相談するようになったのが付き合う切っかけ。
 この人と結婚するんじゃないって予感がしたのは、それから一年くらい経ってからね」

「困ってる時の相談から仲良くなって……って感じか。
 確かにレナードさんは頼り甲斐ありそうだしね」

「そうね、寡黙だけどいざって時は勇者様って感じですっ。
 あ、でもレンがパン作りで悩んでる時、私が逆に相談に乗ったりすることもあったのよ。
 やっぱり好きな人の力にはなりたいでしょ?」

「……まあ、ね」

ミリアは濡れタオルでリンセルの体を拭き、新しい寝間着に着替えさせた。
白い肌はまだ瑞々しく、薄い唇にも病の翳りは見られず、今日も大丈夫だったと安堵する。
しかし、明日はどうなるのだろう? 明後日は? 五年後、十年後は?
このままの状態が続き、ある日別れは突然に……と考えると気が滅入りそうになってしまう。

「ミリアちゃんは好きな人……いるの?」

気鬱な瞳を察したのか、沈黙を破ってフロレアが問いかけた。

388ミリア ◆NHMho/TA8Q:2013/11/11(月) 00:49:10 ID:wHJGL4YM0
「え、まっ、まあ……嫌いじゃない人ならいる、かも」

「だぁれ? 知りたいなー」

語尾を上げて微笑むフロレア。
意図しての明るい振舞いなのだが、その配慮にミリアが気づいた様子は無い。

「ん、えっと……少し前に知り合った聖堂騎士と助祭の兄弟で――――」

「ミリアちゃん、私は……?」

悲しげに遮る声と縋るような瞳。
しかし、これもまた沈んだミリアの気持ちを見抜いての振舞い。

「も、もちろんフロレアさんも好き……だよ。
 どんな種類の好きかってのは自分でもよく分かんないんだけど……。
 母親ってのとは違うし……姉って感じなのかな……たぶん」

慌てたように付け加えると、フロレアはふふっと笑い声を漏らす。

「私もミリアちゃんのこと、好きよ」

魅了の力で精神を捉えているのだから、必然の答え。
だけど、愛に飢えた心にとっては蜜の甘さ。
心は弾む。微笑みを向けられるのが嬉しい。どうしようもなく。

「あ、ありがと……アタシ、やっぱ年上に弱いのかも……凄く」

俯いて返す言葉は、気をつけないと聞き逃すくらいの声。
リンセルの世話が終わると、ミリアはカーテンを閉める為に窓へ寄った。
頬に感じる熱を冷ましたくて、そのまま窓辺に留まって外を眺める。
すでにエヴァンジェルには夜の帳。光の余韻を失った空には微かに瞬く光の点が幾つも。

「あら、もうこんな時間?」

「明日に備えて寝た方が良いね。
 アタシは此処にマット敷いて寝るからフロレアさんは…………どうしてアタシのマットで寝てるの?」

ミリアが振り返ると、床に敷かれたマットレスの上にフロレアが横たわっている。

「リンシィの自宅療養は今日が初めてだもの。
 容態が急変したりしないか、気になるでしょ?」

「あ、そっか、そうだね。それじゃアタシはどこで寝よっかな。
 まさか、レナードさんと二人きりで寝るって訳にもいかないし」

花柄の軽やかな綿毛布を広げてフロレアが答えを示す――――私の隣で眠りなさいと。

「えっと、それ、少し狭いんじゃないかなー……」

そう言いながら、ミリアは魅了の魔法に掛けられたように毛布の中へ滑り込んだ。

389教皇フランディーノ ◆OzeGYYLSp.:2013/11/17(日) 12:01:02 ID:6HG/U1Cs0
明くる日、聖都はバニブルからの使節団を迎えた。
黒い公用車から降りた壮年の男が、大聖堂に向かって静かに歩いてゆく。
外貌は怜悧の一語で、肩まである黒髪を温かな微風に靡かせ、真紅の瞳は周囲の壮麗な建築を見据えている。
装いは華美にして絢爛。金糸の刺繍を施した赤い服を纏い、襟周りを宝石で彩った青いマントを羽織っていた。
彼の後ろにはスチールグレイの軍服を着込む四人の近衛兵、それに随行の吏員らしき黒髪の女が続く。
これら東方の図書国家から送られた使節団との謁見は、大聖堂の執務室にて行われた。

「お初にお目に掛かります、教皇猊下。
 バニブルの外交司書、ラクサズ・イレアード・イヴンスディールと申します。
 私の事は、どうか気軽にラクサズとお呼び下さい」

絢爛なる男の名乗りは歌うように、声高らかに。
そして、軽やかに頭を垂れての一礼。

「私は三主教の第三百十代教皇フランディーノ・セレゼット。
 今日、遠国からの訪問者とお会い出来て、実に嬉しく思います」

教皇が培ってきた長年の劣等感が、ラクサズの大仰な動作と、瞳の光に此方への微かな侮りを感じさせた。
驢馬にも似た悪相、枯れ木の痩身、容貌の美的な貧しさを侮蔑して来た者と同じ瞳だと。
しかし、教皇は柔和さを繕った表情を崩さない。
対面する相手の気質を読み取ろうと、外交司書の一挙手一投足に目を光らせる。

両者の挨拶は部屋の中央で行われ、その後は部屋の一角を占める長卓に会談の場所を移した。
マホガニーの長卓は側面と脚に美麗繊細な彫刻が施され、光沢を備えた表面も鏡のように美しいもの。
落ち着いた色彩と深みのある古艶は、年月を経た木材と長年の摩擦やワックス掛けの賜物である。
この重厚な長卓に二つの椅子が置かれ、フランディーノとラクサズが席を占めた。

「ラクサズ司書、人類は今、暗闇の荒野を彷徨っています。
 世界は暗く、道を灯す叡智の光を必要としております。
 知恵ある旅人は、この光を兄弟と分かち合い、良き生き方を示さなければなりません。
 幸いにも、バニブルは数多くの光を備えています。
 司書として従事する多くの国民の一人一人は、彷徨える旅人の足元を照らす知の灯火と言えないでしょうか。
 貴国の方々が一人でも多く平和を祈り、悩める者の一助となって頂ければ人類の幸いです」

「猊下、我がバニブルの理念は知の共有。啓蒙も知者の使命ゆえに厭う事などありません。
 我が国は図書国家として知られていますが、書とは数多の先人が積み重ねた知恵と経験。
 筆者の人生そのものと言っても良いでしょう。
 己が生きた証を筆致に残せば、定命の者とて永遠に、永久に、死後も書物の中で生きられる……だから人は書く。
 そして、書いたものが読まれる事を欲する。
 読者の心に自己の断片を刻み、遺伝子さながらに遺志が拡散して、後世の人々に継承されるよう――――。
 我が国土を埋め尽くす蔵書もまた、己の叡智を後胤たる現代人が使う事を望んでいるのです。
 どうして、バニブル人たる私が啓蒙を促す教皇の求めに否と言えましょうか」

言葉は流れるように朗々と。
バニブルの理念と共に吐かれた。
そして、男は憂うな表情で続ける。

「ですが、我が国とて蒙の霧が湧き出る事はあります。
 その件を猊下に御説明したいのですが、此方に映像を再生できる機器はございませんか?
 映像を御覧になって頂ければ判りますが、これは三主教にとっても無関係な話ではありません。
 いえ、寧ろバニブルとエヴァンジェルは相似の立場にあるとも言えましょう」

「……誰か、映像を再生できる機器の用意を」

教皇が人間族の青年助祭トビアーシュに目線を送ると、彼は深みのある赤褐色の鏡台の戸を緩やかに開く。
魔力付与専門の魔術師でもあるラクサズは、鏡台の象嵌細工から一目でそれが魔術具である事を看破した。

「ほう……やはり魔術の品は俗な機械と違い、気品と趣があって良い。
 機械は魔力を操る素養の無いもの達が作るだけあって、どうにも美観と品位に欠けるのがいけません。
 イアハート調査司書、刻針晶を助祭の方へ」

390教皇フランディーノ ◆OzeGYYLSp.:2013/11/17(日) 12:01:49 ID:6HG/U1Cs0
ラクサズが随行官の一人、黒髪の女に呼び掛けると、彼女は鞄の中から掌に収まる程度の水晶を選んで助祭へ手渡す。
六角柱の水晶は金紅石にも似ていて、透明ながら内部で幾筋もの針状結晶が金色に光り輝いていた。
この水晶は記憶媒体として使われる物で、映像再生用の魔術具に嵌め込む事で過去の光景を映し出させるのだ。
トビアーシュが静かに象嵌細工の窪みへ水晶を嵌め込むと、鏡台の鏡は表面に色彩豊かな光を浮かび上がらせる。

「……ラクサズ司書、これは?」

「世界中を航空する独立都市、交響都市艦フェネクスの中央コンサートホールです」

映し出されたのは音楽祭。
和えかな白煙が霧のように漂う中、光の群舞が舞台を照らし、紙吹雪が舞い、透明な歌声が響く。
歌と楽を競い合う祭典は、星霊教団の教主代行を決定する場だった。
沸き返る会場では、精霊楽師が憑かれたように歌い、熟練の弦楽奏者が観衆を蟲惑し、美麗な歌手が熱狂を生み出す。
客席に溢れ返った人種の混交は、供される音楽と歌に酩酊していた。

しかし、程なく宴の陶酔は断末魔を上げる。演奏曲目を狂乱と怒号の不協和音へ変貌させて。
鏡面の映像は、八腕それぞれに人の五指を備えた異形の巨大蜘蛛が、無数の黒宝珠をばら撒く光景へと変っていた。
会場では暴動の狂騒が演じられ、さらには観衆が生気を失ったように崩れ落ちる阿鼻叫喚の図が。

「フェネクスでも大規模な虐殺が起きたとの報告は受けましたが……何とも傷ましい。
 華やかな祝典が、一転して惨禍に変貌した日の聖都を見るようです」

「惨劇の指揮者は、この男――――」

ラクサズの声に続き、鏡面の世界に蒼眼蒼髪の若い男が映し出された。
蒼き人物は飾り立てた宝飾品を照明の光に煌かせ、豪奢なローブを翻し、一振りの長剣を高らかに掲げて宣言を始める。

『――――俺の名はマモン。この世界を支配し、この世界を〝俺達〟のルールで染めることを望むもの。
 俺達は枢要罪、嫉妬を持たぬ原初の罪。俺達を束ねるのは、全て持つものの嫉妬、光への妬みッ!
 聞け、俺達の名を。そして望め、俺達の打倒を、俺達への勝利を、世界の平和を、世界の平穏を、世界の調和を……ッ!』

マモンと名乗った人物の言葉は、聞き手の心を裂いて入り込む。
映像を通してすら、物理的な圧力と感じられる程の暴力的な圧迫感。注視は不可避。

『我らは〝レヴァイアサン〟ッ! 嫉妬の全竜にて、罪を以て世界を制する者――――!
 かかってこい、全世界。今宵より俺達は世界に挑む。
 罪に支配される世界を望まぬなら、正しき世界を望んで立て!
 障害がなければ面白くない。だから、俺達を楽しませるために――――なァ?』

殺戮と共に行われたのは、世界に向けての宣戦布告。
エヴァンジェルの通信機関が災厄で被害を受けていなければ、この凶報は今より広く都市へ浸透していた事だろう。
実際、主催たる神魔コンツェルン・星霊教団の影響力が大きい地域では、受けた驚愕も聖都の比では無い。
遠くの国の出来事と楽観視するものもいる事にはいたが、概ねの者の感性では映像の衝撃が上回っていた。

無論、教皇とて虐殺に動揺は隠せない。
会場内へ雨霰と播き散らされる黒い宝珠。
あれは、前教皇が降神の邪法に用いた宝玉と同じものではなかったか……?
三つでも聖都に甚大な被害を与えた代物をあれだけ保持しているのなら、影響範囲が何処まで及ぶのかは想像も付かない。

「猊下、次の場面は音声と映像を拡大してありますので、注意して御覧下さい」

ラクサズの喚起が、三主降臨の日へと沈みかけた教皇の意識を執務室に引き戻す。

『〝傲慢〟イブリース、ヴェルザンディ。
 ……久しぶりね、あなた達。……ああ、一人では無いのよ。懐かしい存在が、居るかもしれないから』

鏡面の中の舞台に映っているのは、一冊の書物を手にした白眼白髪の女。
枢要罪を名乗る他の七人同様、異形の巨大蜘蛛の掌に乗り、硬く冷たい声質で誰かへ向けて語りかけている。
ヴェルザンディと名乗った女の服にあしらわれるのは、今日の使節団と同様の意匠。
色無しの髪と瞳を除けば、顔の造形からも使節団とは近似な印象が感じられ、彼女もバニブル出身者であると思われた。

391教皇フランディーノ ◆OzeGYYLSp.:2013/11/17(日) 12:02:15 ID:6HG/U1Cs0
マモン、ヴェルザンディに続き、魔術具の鏡台に映った第三の人物は、眼光炯々と鋼の双眸を光らせる男。
彼の身を包む純白の衣装は、三主教の司教ならば見間違いようも無い。

『〝虚飾〟ベリアール、ミヒャエル。
 ……済まぬな。まだ、私は諦めきれない。だから、試させてもらう。この、世界を――ッ』

厳かな衣装で身を包む男は、鏡の中から森厳に宣した。
同時に執務室の三主教徒が一斉に響動めく。
側近の助祭が絶句して鏡面を食い入るように眺め、壁際の聖堂騎士もその一瞬は警護の任を忘れた。
内心を隠す術に長けた三主教の首座のみが、醜貌に驚愕の表情を加えずに平静を保っている。

「ミヒャエル・リントヴルム……」

誰かが呻くような声で前教皇の名を口にした。

「彼が蘇ったというのか? 蘇生の魔術で」

自問したフランディーノは、昨日受けた報告を思い起こす。
大広場で乱射事件が起きた際にも、ミヒャエルを名乗る人物は現れたとの報告を。
それを、教皇庁は三主教に対立する団体が前任教皇を装い、示威運動を行ったものと判断した。
ミヒャエルの凶行を考えれば、求心力が低下した三主教に抗議活動が行われたとしても不思議ではない。

「誰かが……前教皇を装っているのではないでしょうか?
 写し身の魔術を習得した者なら、姿を似せる事も不可能ではありませんが……」

同じように考えた助祭の一人が口を挟む。
――――にも関わらず、フランディーノは映像の人物が偽者とは思えなかった。
彼方を見据えるような瞳、清冽にして凄烈な威圧感、まだ私は諦めきれない……との言葉。
容貌の一部に差異はあれど、鏡面に映る人物が醸し出す雰囲気は、前代教皇が纏う空気と同質。
拒みようのない程の現実感を伴って、ミヒャエル・リントヴルムの再来を諒解させる。
そして、画面は再びマモンへと切り替わった。

『――半年。それが貴様らに与えられた猶予だ。
 それまでに何処まで抗えるか、俺は楽しみにしているよ。
 何か言いたいことがあれば聞いてやろう。聞くだけだが――なぁ?』

傲然と笑みを浮かべ、蒼髪の殺戮者が終止符の刻限を定める。
半年後に何か……おそらくは、今回を上回る程の大規模な虐殺を行うとの意思表示なのだろう。
今までの振る舞いからして、この人物がレヴァイアサンなる武装勢力の首領なのだと誰もが心に感じた。

コンサートホールの全景を見渡せば、暴動と騒乱の影響で瓦礫が散乱しており、数百もの死傷者が倒れている。
生存者すら殆どいない有様ではあったが、会場に居合わせた何人かはまだマモンへの抵抗を続けていた。
その中には星霊教団の教主たる星の巫女の姿があり、三主降臨の日に大広場で一瞥した精霊楽師の姿もあった。
しかし、その戦闘もフィナーレまでは記録されず、誰かの叫び声で唐突に途切れてしまう。

『集え、創世の光よ!』

鏡面から響く男の声と共に、星誕祭を記録した映像は白一色の光に糊塗されて――――鏡は元の鏡へ戻った。
長卓の上で両手を組んだラクサズは、今は室内を映すだけの鏡台から教皇へ視線を向ける。

「何かの魔力が映像機器に干渉したらしく、記録は此処で途切れておりますが……今ので把握は充分でしょう。
 見ての通り、レヴァイアサンなる武装勢力が世界へ向けて宣戦を布告しました。
 嘆かわしい事にバニブルの前元首、ヴェルザンディ国家司書もそれに加担しております。
 三主教の第三百九代教皇、ミヒャエル・リントヴルムと共に」

同じ問題を共有している事を示す意図なのだろうか
ラクサズは殊更にミヒャエルの存在を強調する。
そして、聞き慣れない単語で会談を続けた。

「彼らはアイン・ソフ・オウル――――と呼ばれる存在です」

392教皇フランディーノ ◆OzeGYYLSp.:2013/11/17(日) 12:02:40 ID:6HG/U1Cs0
「アイン・ソフ・オウル……とは?」

教皇が問い掛けると、ラクサズは背後の若い女に目を向けた。

「イアハート調査司書、建国王フラター・エメトとの謁見で知った事実を教皇猊下にも」

イアハート調査司書と呼ばれた黒髪の吏員は、ラクサズの指示を受けると長卓へ近づき、彼の横に立つ。
彼女が着ているのはフォーマルな黒いスーツながら、胸元にバニブルの国章と思しき独特の複雑な意匠が刺繍されていた。
面持ちには若干不安そうな色が含まれてはいたが、近衛兵の一人に視線を向けて頷き、深呼吸すると表情は一転。
至極、落ち着いたように教皇へ向かって喋り始めた。

「はい、それでは御説明させて頂きます。
 まずフラター王に拠れば、人間や妖精、妖魔、獣人に魔獣、竜や神に至るまで。
 全ての意志ある存在は、一つの小さな世界とも言えるらしいのです。
 その中でも、稀に保持する世界像が他の生命体に比べて桁違いに高い存在が現れます。
 彼らは独自の世界律、法則すら自己に内在していて、文字通り自分自身が一個の小宇宙。
 アイン・ソフ・オウルとは、そのような存在群の総称なのです。
 そして、フラター・エメトその人も知識のアイン・ソフ・オウル。
 高名な歴史家にして、様々な魔術を発見された大魔術師でもありますから、教皇様も御存知でしょう」

ラクサズは御苦労――――と黒髪の吏員を労い、今の説明に補足を加える。

「つまり、レヴァイアサンの首謀者が言い放った、世界を俺達のルールで染める、とは文字通りの意味。
 アイン・ソフ・オウルが己の世界律を外界にも広げれば、今の世界を塗り替える事すら不可能ではないのです。
 まさに神の所業とでも言えましょうか」

「なるほど。
 アイン・ソフ・オウルとは世界に直接干渉し、独自の普遍的な事象を作り出す力を備えた存在……。
 何やら、若い頃に目を通した魔術や心霊学の論文を思い出しますね。
 人の心は物理的な力を持ち、共時性(シンクロニシティ)等の現象も、想いが物質世界にまで濃縮した結果であるとの説を。
 祈りが現実になった時の説明として、一般的に三主教徒は神の働きと考えますが」

フランディーノが十年以上前、様々な書籍を読み耽った時代を思い出して応える。
聞いたイアハート調査司書は教皇の言葉から、無意識と時空の関わり、との論文名を脳裏に浮かべて顔を輝かせた。

「あっ、その論文もダァト……じゃなくて、多分フラター王の著作。
 アイン・ソフ・オウルなら、感情や意志でこの世界に十二分に影響を与え、奇蹟のような結果を引き起こせる。
 ……って、フラター王は仰ってました」

バニブル人の専門とも言える書物の話題になったせいか、イアハート調査司書の口調が素に戻ってしまっていた。
ラクサズも鷹揚に頷いてはいたが、目線で黒髪の女吏員に下がるよう伝え、話題をフェネクスの事件へ戻す。

「あの黒い宝玉についてですが、強力なアイン・ソフ・オウルの残滓で“厄災の種”と呼称されております。
 三主教の先代教皇も獲得に動いて、さらには実際に使用されたので、危険性に関しては猊下も御存知かと。
 あれは、数個の欠片ですら一都市を滅ぼすに足る……。
 となれば、力あるアイン・ソフ・オウルがどれだけ危険な存在であるか、猊下にも想像が付きましょう。
 しかし、バニブルも三主教も主席の暴走を招いた以上、事態の収束に力を注がねば各国からの批判は免れません。
 猊下もレヴァイアサンを非難する声明を打ち出し、三主教が世界の人々と共にある事を示さねば」

「……フェネクスの他、全ての無分別な暴力の犠牲者の為に祈りましょう。
 人々も悪に屈する事なく、正義と自由に満ちた安全な社会を構築できるよう戦わねばなりません。
 教皇庁も厄災の種や武装勢力への対応を、より強化する必要があります」

「我が国は書の分析や研究に長けていますが、他国の探索へ回す人員は決して多くありません。
 ですが、三主教は世界中に多くの信徒を抱えている。
 両国が一致協力して足りない部分を補えば、間違いなく相互の利益となるでしょう」

バニブルの外交司書は、薄く微笑を浮かべて言葉を継いだ。
相手に独力で対処できない問題を突きつけ、危機意識を抱かせてから、助力の提案を出すのがラクサズの外交戦術である。
そして、両者は厄災への対応策や、共有する情報の範囲等などの具体的な協議について入り始めた。

393ミリア ◆NHMho/TA8Q:2013/12/07(土) 21:01:01 ID:FVNsleRI0
夜、十二時も過ぎて聖都が静まり返った頃。
ミリアは同衾する相手が気になって、眠りに墜ちることも出来ず、ただ仰向けとなっていた。
己の胸を打つ鼓動が、やけに大きく感じられる。

(……眠れない)
(えーと、母でも友達でもないなら姉が近いって思ったけど……このドキドキは恋愛感情ってじゃないよね)
(一応、少し想像して確かめてみた方がいいのかな……)

ミリアはフロレアの姿を思い浮かべた。
微笑まれて、見つめられて、両腕で抱き締められる――――嬉しい。
抱き返す、頬への軽い口づけ、膝を枕にしての眠り――――心が休まる。

(あ、割と嫌じゃない……かも)

妄想は膨らみ、ミリアの脳裏に月下の夜が描かれた。
月明かりに優しく溶かされた闇には、二人分の白く柔らかな輪郭が浮かぶ。
フロレアの指先が、微かに汗で濡れるミリアの肌を撫で、濡れた舌と舌は何度も絡んだ。
一糸纏わぬ二人は首筋に顔を埋めて濃密な愛を――――。

(いや、こ、これは違う違う違うッ)

弾かれたように上半身が起こされ、妄想は掻き消された。

(フロレアさんは好きだけど、とりあえず、そういった事したいわけじゃないのは分かった)
(第一、そんな関係になったらステンシィ家が家庭崩壊の危機……だし)

ミリアは呼吸を落ち着かせると、静かに目を瞑って眠り直した。
やがて睡魔の囁きに応じて、目蓋の裏に夢の雫が染み出す。
時が経つ程に夢はそこかしこに溢れ、ミリアを飲み込んで、無意識の対岸へと連れ去った。

――――……。

394ミリア ◆NHMho/TA8Q:2013/12/07(土) 21:02:05 ID:FVNsleRI0
朝、カーテン越しの薄暗い光でミリアは目覚める。
まだ働きの鈍い頭を傾けて目覚まし時計を確認すると、長短二つの針は六時半を示していた。
パン屋の起床時間としては遅きに過ぎる時刻で、当然ながら隣を見てもフロレアの姿は無い。

「ん……ぅ……二度寝って訳にはいかないし、アタシも起きなきゃな……」

立ち上がって窓辺へ近づいたミリアが、淡いピンクのドレープカーテンを束ねて窓を開ける。
今日の空は明るく澄んでいて、微かな雲の白が遠くに散るだけの快晴。
眩しい陽の光を浴びて、暖かな風を部屋に迎えると、睡魔も一瞬で溶けてゆくようだった。
そして、ベッドの少女へと振り返るミリア。

「おはよ、リンシィ。
 今日はバニブルの使節団が聖都に訪問するんだって。
 何か治療の件に進展が出るといいんだけどね」

一階へ降り、さらりとシャワーを浴びて眠りの残滓を追い払うと、ミリアはワンピースに着替えた。
服のデザインはクラシカルで色は深みのある青、ゆったりとして着心地も良い。
着替えの後は、髪を櫛で梳かして後ろで束ね、鏡の前で一回転。

(こういう服も結構悪く無いかな……)

ダイニングに向かうと、いつものように短い朝食の時間。
メニューはトーストに昨夜のポトフの残り、カフェオレとヨーグルト。
温かな食事を堪能すると、メモ帳を見ながら開店まで仕事の習得時間に充てる。
その甲斐あってか、ミリアも昨日よりほんの少しだけ、要領良く店を手伝うことが出来た。

「ところでレナードさんがパン作り、フロレアさんが販売で、リンシィが外回りって役割分担ならさ。
 リンシィが学校に行ってる時は、配達ってどうしてたの?」

ミリアは壁のスケジュール帳を見ながら、ふと浮かんだ疑問をフロレアにぶつけた。

「平日はアルバイトの子に配達を任せてたの。
 でも、パレードの日から行方不明になってて……何とか連絡が取れれば良いんだけど」

フロレアの瞳に影が差し、暖かな光も抜け落ちてゆく。
前教皇ミヒャエルの就任日に殺戮された住民の中で、亡骸を残した者は少ない。
ほとんどは醜い肉塊のような怪物に呑まれるという、おぞましい死に方をしたのだ。
そのような話は聖都のどこでも聞かれ、だからミリアも行方不明と死が同義なのは理解していた。
敢えてそれを口にして、憂い顔のフロレアをさらに消沈させる気にはならなかったが。

「そっ……か、早く見つかると良いね。その人。
 それまではアタシが代わりを務めるよ」

ミリアが見知らぬ前任者の代役を名乗り出ると、フロレアも瞳は悲しげなままに笑みを浮かべる。
物憂げな表情、誰を想っているのかが気になった。
人間なのか他の種族なのか、男か女か、年齢や性格は、アタシに比べて好かれる奴なのか……。
好きな人の役に立ちたい気持ちと独占欲、その二つは心の中でせめぎあって暗い感情を露にした。

(最悪だ……前のバイトにジェラシー感じて、帰ってきたらアタシの立場が無くなる……なんて、今そんなこと考えた)

知人の安否を案じてフロレアが悲しんでいるのに、前任者が帰ってこないだろう事に安堵する自分。
そんな自己嫌悪を悟られたくなくて、ミリアは焼きたてのパンが詰められた箱に視線を転じる。
平たい木箱の中には、繊細な表皮のクロワッサンが綺麗に整列。
息を吸い込めば、バターと小麦の芳醇な香りが肺をいっぱいに満たす。
何度か深呼吸しているうちに、知らず識らず暗い淵に沈みかけた気持ちも紛れ、やや気持ちも落ち着いていった。

「それじゃ、さっそくお願いしてもいい?
 まずは大聖堂にクロワッサンを二百個、十一時半までに届けて欲しいのだけど……ちょっと多いかしら」

「ううん、大聖堂までは遠くもないし、往復しても時間内に運べるよ」

395ミリア ◆NHMho/TA8Q:2013/12/07(土) 21:05:44 ID:FVNsleRI0
ミリアはクロワッサンを詰めた箱を抱え持つ
ロルサンジュの厨房から細い路地へ出ると、箱を自転車後部の荷台へ載せて固定。
パン二百個と箱五つの重量は合計二十キロで、ずっしりと重く、運ぶのは苦労しそうだった。
しかし、魔術を使えば運搬も少しは楽になるかもしれない。
そう思案して、ミリアは右手の指で宙に複雑な印を描き、力の充足をイメージしながら呪文の詠唱を始める。

「根源なる二つの力よ 我が望みしは強靭なる四肢 肉体に潜む力の開放。
 半ばを眠らせる五体を霊素で補い 己の内に潜みし力は目覚めん “力強き体躯”」

魔術とは波動や素粒子を制御する技法だとされるが、ミリアも詳細な理論を知っているわけではない。
それでも魔術は正常に機能して、彼女の手足に力が漲るような感覚を与えてくれた。
今、この場で用いられたのは、強化魔術の基本とも言える肉体強化《フィジカル・エンチャント》。
一時的に筋力や持久力、平衡感覚や敏捷性など、身体能力全般を向上させる魔術である。

「……これなら、全部いっぺんに運んでも問題なさそうだな」

荷物の軽さに魔術の効果を実感したミリアが、自転車のサドルに跨ってペダルを漕ぎ出す。
速度を上げるに従って、古風な街並みも後ろへ向かって流れていった。
灰色の後ろ髪も、風を受けてふわりと浮かぶ。

目的地の大聖堂はメインストリートを真っ直ぐ西に進んだ先、街の中心部にある。
補修が続く城門を越えて大広場に入ると、最初に物悲しげなヴァイオリンの旋律が聞こえた。
音源を捜して視線を彷徨わせれば、噴水の前に鎮魂曲を奏でる辻音楽師の姿。
献花台で死者を悼む者も数多く、親の無い子は忘失したように佇み、子を失った親は悲嘆に沈んで蹲っている。

(あの辺りだっけな……ライザに撃たれたのは)

ミリアは献花台の辺りを一瞥すると、雑踏の密度から走行は無理と判断して自転車の座席から降りた。
そのまま、車体を押しながら人混みの迷宮を歩いて、僧院への通用路を目指す。
大聖堂にパンを届けると言っても、実際の搬入口は信徒たちの生活空間である僧院なのだ。
広場の喧騒から外れた通路に入り、石畳を進むと、すぐに蔦の絡んだ鉄柵門へ至った。
俗界と僧院を区切る門には、魔術具の呼び鈴が設置されている。
半透明の青い呼び鈴を鳴らすと、ほどなくして助祭トビアーシュ・レシェティツキが門を開けて出てきた。

「クロワッサンの搬入に来ました……ってトビアか」

「御苦労様です、ミリアさん。
 箱越しにもパンの良い香りが漂ってきますね」

「ま、ね。
 ロルサンジュのパンは他と一味違うよ」

ミリアは荷台の紐を解きながら、若干誇らしげな様子で笑みを浮かべた。
短い間とは言え、今までパン職人であるレナードの手間をかけた仕事振りをつぶさに見てきたのだ。
毎日あれほど努力して作られたロルサンジュのパンが、美味しくないわけがない。
だから、ミリアも自信を持って勧める。

「それは、昼食が楽しみになりますね。
 バニブルの方々の好みにも合えば良いのですが……。
 彼らとの午前の会談はフェネクスの事件に費やしましたので、治癒魔術探求の件は午後に話し合うでしょう」

「そっか。それでフェネクスの事件ってのは……ええと。
 確か、新聞には武装勢力が市民を殺害したとか書いてあったような」

「ええ、また大勢の民衆が殺戮された事件です。
 ある都市で三千、ある国で数万、ある集落で五百、ある地域で数千。
 死後、数字だけで語られる人々にも、一人ひとりに名前や人生があり、大切な人がいて、叶えたい夢もあった筈。
 無辜の命を無造作に奪う彼らの暴挙は、決して許すことなど出来ません……」

若き助祭は、茶色の瞳に静かな怒りを湛えていた。

396ミリア ◆NHMho/TA8Q:2013/12/07(土) 21:10:01 ID:FVNsleRI0
蘇生術が普及した世界だけに、永遠の別離を即座に受け入れられる者は多くない。
何か救命の手段があるのではないか……そう考えてしまう。
ミリアもまた同じく。

「虐殺の犠牲になった死亡者って、蘇生術で蘇らせられないのかな。
 ローファンタジアみたいに死体すら残ってないケースならともかく、フェネクスは違うみたいだし。
 それに直前まで星霊教団がイベントを開いてたなら、誰かしら蘇生を試みてもおかしくはないと思うけど……」

(いや、事件を起こしたのが厄災の種を持つ奴なら……無理か)

苦味を帯びた呟きを口にしてから、ミリアもすぐに察した。
今、世界各地で騒乱を起こしている“厄災の種”は魂喰らいの性質を持つ。
厄災の種の所持者に殺されれば、その場で魂を取り込まれるのだ。
魂を奪われた犠牲者に蘇生の魔術が有効だとは思えない。

「もちろん蘇生を依頼する方も少なくなかったようですが、成功例はほとんど無かったとか。
 蘇生の技法は星霊教団と新魔コンツェルンに拠る複占状態なので、外部の者に原因までは分かりませんが」

トビアーシュの返答も、ミリアの推論を裏付けるものだった。

「蘇生が失敗した原因は魂の喪失だろうね。
 厄災の種ってのは周りに死者の魂が漂ってれば、それを取り込むからさ。
 アレに魂を取り込まれたんなら、蘇生なんて成功するはずないよ」

何気なく意識に上った考えを口にしながら、ミリアは僧院の敷地内に置かれた運搬車へ荷箱を移す。

「…………なぜ、ミリアさんが厄災の種の性質を知っているのでしょうか?」

トビアーシュは搬入の手伝いを止め、怪訝な表情で疑問をぶつけた。
瞳に不審げな、それでいて案じるような色を宿して。
想いを寄せる相手が、危険なことに関わっていないかと心配しているのだ。
だから、ミリアの表情に浮かんだ困惑も見逃さない。

「え、あ、それは……えっと……」

予期せぬ質問を返され、ミリアが答えに窮していると、トビアーシュはより明確な形で問いを重ねた。

「厄災の種を所持しているのですか」

「……………………まぁ、ね」

今さら知らない振りをする訳にもいかず、ミリアも肯定の言葉を返す。

「あれは一介の人間が扱うには随分と危険な物のようですが、性質について詳しく把握しておられるのでしょうか」

「おおまかに幾つか……今の所、扱いに困ってるって事もないけど……」

助祭の口から呆れたような細い溜息。
無計画にも程がある、との言葉は辛うじて飲み込まれた。

「ミリアさんも魔術が使えるようですが、過信は禁物です。
 前教皇は禍神を地上に呼び降ろして数千の死傷者を出し、自らも命を落としたのですから」

「まぁ……何か困ったことが起きたら……相談するよ」

「いえ、困る前に相談して下さい。
 危険性を鑑みれば、問題が起きた時には手遅れの可能性が少なくありませんからね。
 手に余る事態になってから相談されても、おそらく誰もミリアさんを助けられないでしょう」

「そうかもしれないけど……何をどこまで話せばいいのかな……」

397ミリア ◆NHMho/TA8Q:2013/12/07(土) 21:11:23 ID:FVNsleRI0
「では、まず厄災の種をどこに保管されているのか、教えて頂けませんか。
 住み込み先の家に厄災の種を置いているのでしたら、安全上の問題が看過できません。
 彼らが危害に見舞われるのは、ミリアさんも望まないことと思われますが」

どうすべきかを決めかねたように立ち尽くし、逡巡する様子のミリア。
しかし、ステンシィ一家のこれから先を考えれば、意を決するのは早かった。

「アレなら、ここにあるよ」

ミリアの人差し指が、自らの胸を指差す。
細い指先に押されて作られるワンピースの陰影をじっと見つめると、トビアーシュは躊躇いがちに口を開いた。

「まさか、胸に挟んで持ち歩いてるのですか……厄災の種を」

「違う違う、胸の奥――――精神世界とか、無意識の領域って言えばいいのかな。
 アタシが手に入れた厄災の種はね、見つけたその日にアタシの中に入り込んだんだよ。
 そして、すぐに発芽して、今はアタシの内なる世界ってやつに霊的な根を下ろしてる。
 生存戦略なのか、厄災の種もそれぞれ微妙な個体差があるってことなんだろうね。
 アタシのは、キャパシティが小さい代わりに芽吹くのも早い奴だったってとこか。
 ま、そのおかげで種が保持してた知識の断片を手に入れて、学んだわけでもない魔術も使えるわけだけど」

「精神の内部で……発芽。
 そのまま厄災の種が成長した場合、どうなるのですか」

「さぁね、心の中がお花畑になる……とか?」

お手上げとでも言うかのように両手を広げて、おどけるような仕草の少女。

「重要な事ですから真面目にお願いします。
 精神に寄生するような代物でしたら、育つに連れて意志を持ち、宿主を支配するのかも知れないのですよ」

「……ま、そうなる前に自分でけりを付けるつもりではいたけどね。
 父さんの理想を叶えたら、アタシはそこで終わりって」

「つまり、貴女の事を大切に思ってる人を手酷く裏切るつもりでしたか」

ミリアは咎められて拗ねる子供のように視線を逸らす。

「ただ……エヴァンジェルに来てから、それが出来るかどうかは少し自信が無くなってきてる……かも。
 生きて幸せになるのは、死んだ父さんへの裏切りだと思った時期すらあったってのに……」

「心境に変化が生じているのなら何よりです。
 不幸な幕引きを思い留まってくれるなら、私は何度でも神に祈りましょう。
 手を差し伸べられた時には、どうか振り払わないで頂きたいものです。
 それで……芽吹いた厄災の種を除去する方法は御存知なのですか?」

問い掛けの答えとして首が横に振られた。
一瞬遅れて、後ろで結わえた灰色の髪も左右に揺れる。

「前例なんてのも無いだろうし、そんなの分かんないよ。
 物理的な実体が無いみたいだから、引っこ抜くってわけにはいかないと思うけど……」

「そうですか……やはり、困る前に話をしておいて良かった。
 リンセル・ステンシィの他にも、救済の必要な人が見つかったわけですから。
 ミリアさん、厄災の種については教皇猊下の耳へ入れても宜しいですね?」

「……うん」

簡潔かつ素直な返答が述べられ、助祭も安堵した様子を見せ――――それで二人の会話は終わった。
ミリアは荷を降ろした自転車を引いて帰路へ就き、トビアーシュは受け取った荷を持って僧院へ向かってゆく。

398教皇フランディーノ ◆OzeGYYLSp.:2013/12/22(日) 20:43:10 ID:bM9wc.UU0
正午、バニブルからの使節団は迎賓室に迎えられていた。
瀟洒な部屋には落ち着いた色合いの絨毯が敷かれ、中央には大きな円卓が鎮座。
白麻のテーブルクロスで飾られた卓上には、十人分以上もの昼餐が彩りも鮮やかに並ぶ。
献立は羊肉の炭火焼きにジャガイモの塩茹で、クロワッサン、栗のポタージュ、ルッコラのサラダ、葡萄の果汁。
さらに、デザートとして林檎のゼリーが用意される。

「聖堂蔵書《エクレシア・コレクション》を千冊以上も貸与して頂けるとは思いませんでした」

そう言って、バニブルの外交官ラクサズは銀杯を傾け、葡萄の甘さと酸味を堪能した。
同席する教皇も、クロワッサンを二つに裂いて口元へ運ぶ。
褐色のクラストには歯応えがあり、白い生地も柔らかで、噛み締めるとバターの風味が鼻へと抜けてゆく。
ラクサズが杯を置いたのを見計らうと、教皇は口を開いた。

「聖典や古文書を他国へ預ける事は迷いました。
 ですが、今の情勢で有用な知識を活用できないとなれば、弊害の方が大きいでしょう」

「バニブルは書の研究について専門。
 ご希望の治癒魔術の発見にも尽力いたしますので、御心を安んじてください。
 お預かりした稀書も内容を解読次第、教皇庁へ返還いたします。
 それと、我が国の医療司書を聖都へ派遣したいのですが……宜しいでしょうか。
 術師としての能力は聖都の司祭が優れると思われますが、膨大な症例を把握している者がおりまして」

「バニブルの協力を感謝いたします」

ラクサズは頷き、黒髪の吏員に視線を移した。

「イアハート調査司書、マディラ文字程度ならば読み解く事は容易いが、図形や象徴で己の成果を残す魔術師も多い。
 優れた魔術師でもあるフラター王の助力が必要となった時は、貴女へ仲介をお願いしたいものだ」

「…………はい」

イアハートはフラター王を利用したいとの意図に傲慢さを感じて逡巡を見せたが、国益を考えれば断り難い。
やや遅れて返ってきた受諾の言葉を聞くと、ラクサズも教皇へ視線を戻す。

「ああ、それとバニブルの責務として、貸与された書物には写本が作られるでしょう。
 とは言え、我が国の書庫は管理も厳重であり、容易に浅慮な者へ拡散することはありえません。
 もし、お望みとあらば前教皇が解読したという書。
 邪神降臨の秘術が描かれた暗黒の地図も、バニブルにお預け下されば安全に保管いたします」

教皇は静かに首を振った。

「いえ、あの呪わしい書物は三主教の手で閉ざします。
 いずれ、焚書にすべきかどうかも決めなければならないでしょう」

「焚書……三主についての真実を永遠に葬るために?」

ナイフとフォークを優雅に操って羊肉を切りつつ、ラクサズは探るような瞳で教皇に問う。
その紅水晶の如き瞳の奥に、教皇は冷たい炎を感じた。

「前教皇の所業から目を背ける意図はありません。
 人類が扱うには危うい知識だからです、ラクサズ司書」

「猊下、知識自体には善悪などありません。
 悪しき者が用いるから、有益な知識も危険となり得る。
 人々に叡智が行き渡れば、禍き神を喚ぶ術とて、いずれは世を救うものへと転じるかも知れない。
 もし、必要な時に知識が失われる事となれば、焚書は未来に対して罪を負う。
 他国への内政干渉など致したりはしませんが、個人的には賢明な判断を望みます。
 ましてや、バニブルの者にとって書を焼く事は一つの生命を焼くも同義」

「熟慮はしますが、御期待に添えない場合もあるかもしれません」

399教皇フランディーノ ◆OzeGYYLSp.:2013/12/22(日) 20:44:40 ID:bM9wc.UU0
意見の相違を端緒として、ふと歓談が途切れた。
迎賓室も沈黙に包まれ、ナイフやフォークの音だけが控えめに響くのみ。
クリーム色のスープを湛えた皿は涸れ、焙り肉がナイフで割かれ、サラダの緑も淡々と消えてゆく。
しばらくして、助祭の一人が沈黙を破って口を開いた。

「猊下、少し宜しいでしょうか。
 バニブルの方に依頼したい件がありまして――――」

フランディーノが発言者へ目を向けると、トビアーシュ・レシェティツキが背後に佇んでいる。

「何でしょうか、レシェティツキ助祭」

問われたトビアーシュは教皇衣の襟元へ顔を寄せ、会話が漏れぬようそっと囁く。
内容は先ほど聞いた話、ミリアの内なる世界で厄災の種が発芽した件である。

「……う、む」

聞いた教皇は、滅多なことでは変わらない表情を歪めて唸った。
ミリアこそが最愛の人間との感情を刷り込まれているのだから、これも当然の反応であろう。
憂慮で険しさを加えた悪相は、ラクサズに向けられる。

「バニブルは厄災の種の性質について、どこまで御存知なのでしょうか」

声音に微かな緊張を含む教皇の問いかけ。
その挙動から違和感を感じ取ったラクサズは、瞳に好奇の色を浮かべて問い返す。

「我々もそれほど詳しい訳ではありませんが、何かお困りの事態でも……?」

「厄災の種を発芽させた女性がいるのです。
 物理的な形ではなく、内なる世界に根を降ろすとの形で。
 ですが、それがどのような影響を及ぼすのか分からない」

「それで我々の協力を仰ぎたい……と。
 なるほど、厄災の種のデメリットは予想して然るべき事でした。
 芽が出る種ならば、時を経れば大樹に育つのは必然。
 アイン・ソフ・オウルの欠片たる性質からすれば、成長に必要なのは生命や魂、それらを含む根源的な力でしょうか。
 将来的にローファンタジアでの神魔大帝のようになるのか、あるいは別の形となるのかまでは分かりませんが」

ラクサズは危機感を煽った。
種火の如き懸念が、不安と恐怖を振りまく炎へ成長するように。
無論、自国の輸出品目たる知識の商品価値を最大限に高める事こそ、己の務めと考えてである。

「この件についてもバニブルの助力を願えれば幸いですが」 

教皇の依頼を聞いたラクサズは即答せず、目線を落として考え込む。
厄災の種が制御不能になった際の被害は大きいが、調査の場がバニブルでなければ問題にはなるまい……と。
沈黙に焦れて教皇が懇願の句を継ごうとした時、ラクサズは口を開く。

「調査すべきものを知らないままですと、我々とて動きようが無い。
 まずは、対象について正確に知らなければなりません。
 厄災の種を発芽させた女性へ直接お会いしたいのですが……それは可能でしょうか」

「私も今聞いたばかりの事案。現状を充分に把握している訳ではありませんので即答はしかねます。
 とりあえず、今はそういったケースが存在する事だけを知って頂ければ……」

「いえ、急かすような真似は致しませんとも。
 そちらの用意が整うまでは、ゆっくりとお待ち申し上げます」

ラクサズは薄く笑んで言葉を切ると、クロワッサンの一切れを口へ運ぶ。
それを最後として卓上から料理の彩りも消え、歓待の時間は終わりを告げた。

400眠れる少女は異なる地平の夢を見ている ◆Ac3b/UD/sw:2013/12/30(月) 00:27:23 ID:YTKqyL8I0

★★★

http://upup.bz/j/my93348OKOYtFi4W9cgg3_2.png

リンセル「じゃーん! 良いツールを見つけたので、私とミリアさんとライザをモンタージュしてみましたっ」
ミリア「……ローティーン用っぽいせいか、アタシは微妙かな」
リンセル「あれっ? ミリアさん、何か元気ないですよ?」
ミリア「もうずっと頭が鈍くなってて、何も書けない……」
リンセル「えっ、えっと、とりあえず苺デニッシュでも食べて元気出して下さい」
ミリア「うん……」

★★★

401名無しさん@避難中:2014/02/08(土) 00:55:40 ID:HuzkpCHE0
【図書国家バニブルの地下書庫の一冊、その一頁】

◆魔術
魔術とは世界が創造される際に定められた法則に沿って、人為的に神秘を起こす技法。
手法に関しては、オーソドックスな呪文詠唱、石にルーンを刻む、果ては魔術具に演算処理させる等、千差万別。
無数に細分化された系統が存在するが、一般には下記の十系統が良く知られる。

 魔力に働きかける基礎魔術(ソーサリー)、物体の創造と破壊を行う創成魔術(クリエーション)、幻を操る幻覚魔術(イリュージョン)。
 生物の機能を拡大縮小する強化魔術(エンハンス)、物体に魔力を付与する付与魔術(エンチャント)。
 霊魂に働きかける死霊魔術(ネクロマンシー)、信仰に依存する神聖魔術(テウルギア)。
 自然現象を支配する元素魔術(エレメント)、精神に作用する精神魔術(アストラル)、別の空間の存在を呼ぶ召喚魔術(サモン)。

魔術は神秘である。
同じ系統でも遺失した呪文や、使い手が少ない呪文ほど、魔術は効率的かつ強力な性能へ変化する。
逆に誰もが知るような魔術は、用水路を増やせば増やすほど個々の流水量が減るように威力も劣化する。


◆禁術
イストリア共和国で結ばれた国際条約にて、倫理面、犯罪への転用、社会的影響力から国家や個人での使用を禁じた魔術。
下記の禁術は条約加盟国の外で使用しても、使用が発覚すれば加盟国へ入国した際は罪に問われる。

 1.時間操作(停止と逆行。さらに広域空間を対象とした加速や遅延も含む)
 2.生命操作(ゾンビ作成や人造生命創造がこれに当たる。蘇生に関しては一般に医療行為の延長と看做されている)
 3.精神操作(人権を鑑みて支配や憑依などが禁止される。精神医療の分野では一部が解禁)
 4.地形操作(地震などの広域災害、島や大河の創造、大規模な天候変化など。土木工事の補助としての使用は国の許可制)
 5.毒の生成(ウィルス、麻薬、細菌、瘴気など、生物や環境を持続的に汚染する魔術は禁止されている)

条約の中には無いが、透視もプライバシーの観点から一般人が濫りに使う事は許されない。
殆どの国では魔術を用いた犯罪行為は、通常の犯罪と同等の刑罰が科されるのではあるが。
精神操作については、魔術に神秘を保つ必要性がある事から、頻繁に行われているのではと懸念されている。
なお、イストリア条約は魔術師以外が中心となって作った条約なので、実際には使用困難な術も少なくない。

402名無しさん@避難中:2014/02/08(土) 00:57:08 ID:HuzkpCHE0
【ある空想家の光についての考察】

種族や性別、年齢を問わず、ある種の人々は固有の識別色で光を放つ。
この状態の彼らは、他への干渉力を増し、外から加えられた物理的・霊的な干渉をも弱化させるようだ。
結果として、これは彼等の攻撃力と防御力の増大という形で現れる。

赤い絵の具の量が多ければ、少しくらい別の色を加えられても赤いままだし、逆に他の色を赤くすることも出来る。
……とでも表現するのが適切だろうか。絵の具ではなく光だが。
発光条件は研究段階だが、強い感情や意志を抱く事、或いは生命へ危機が及ぶ場合と見られる。

403ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/03/13(木) 23:54:16 ID:0e.JNwMY0
間もなく、正午に差し掛かろうという時刻。
太陽は聖都に強い日差しを投げかけていて、屋根や樹木の下に鮮やかな黒を描いている。
次第に人の流れを増してゆく大通りには、ミリアの姿も混じっていた。
周囲の喧騒も上の空といった感じで、自転車を押しながら帰路に就いている。

(……厄災の種を持ち続けてれば、いずれアタシはアタシじゃなくなるかも知れない)

石畳の歩道を歩きながら、ミリアは己の今後について考えていた。
思索の沼に沈み、足取りは迷い子のそれ。
時折、通行人へぶつかりそうになって、その度に慌てて避けている。

(厄災の種を失えば、アタシは得た魔力を失う。
 力を失って、魅了で築き上げた関係も消えれば、残るのは無力で嫌われものの女が一人……)

厄災の種から得た力を失えば、望みを叶える手段だけでは無く、聖都で得た繋がりをも失う。
魅了した対象への依存と執着を強めている今のミリアにとって、この選択は取り難いものだった。
しかし、厄災の種は破滅の道を歩ませるかも知れない代物。
神魔コンツェルンの総帥のように巨樹の森と化すか、あるいはその前に命を断つ必要に迫られるのか。
幾つかの未来を思い描いてみても、そのどれもが積極的に選べないような光景だった。
だから、出口の無い迷路へ閉じ込められたかのように、何度も思考が同じ場所を彷徨う。
結局、ミリアは何も結論を出せず、胸に重さを抱えたままロルサンジュの戸を潜る事となった。

「ご苦労様、ミリアちゃん」

フロレアの優しげな眼差しに出迎えられると、迷子の果てに見知った場所へ辿り着いたようで、ふっと気が緩む。

「うん……ただいま。
 ロルサンジュの焼き立てパン、ちゃんと大聖堂に届けてきたから」

「元気ないみたいね? 出先で何かあったの?」

フロレアは張りの無い返事に訝しさを抱き、ダイニングへ抜けようとするミリアに声を掛けた。
搬入先で、落ち込む事態にでも陥ったのかと考えたのだ。

「あ、いや……何にも」

厄災の種の事など言えるはずもなく、ミリアは言葉を濁す。
ただでさえリンセルの昏睡で心労を受けているフロレアに、余計な負担を掛けるわけにはいかないと考えて。

「あったのね? クロワッサンを落として崩れちゃったとか?」

にこやかな顔ながらフロレアは引き下がらず、気遣う瞳となって聞き返してくる。

「え、いや、まあ……そうじゃないよ。
 ちょっとね、いつまでこうしてられるのかな、とか考えちゃったりしてさ……。
 アタシ、勿体無いくらいに良くしてもらってるよね。
 お店に置いてもらって仕事手伝わせてもらったり、一緒に食事させてもらったり、同じ部屋で寝たりとか」

「いつまで? 私は今日も明日も明後日も、ずっとミリアちゃんと居たいわ」

迷いのない温かな言葉。
それが魅了の魔力の影響と知るミリアは、好意に後ろめたさを覚えた。
今の台詞は、本来フロレアの愛娘へ向けられるべきものを掠め取っただけなのだから。
もし、彼女の心を捕らえる磁力が消失すれば、きっと今日と同じ台詞は聞けない。

404ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/03/13(木) 23:54:57 ID:0e.JNwMY0
「そう出来れば良いけど……どれくらい一緒にいられるかなんて分からないよ。
 何の心の準備も無くたって、ある日突然、何もかも終わりなんて事だってあるし……」

ミリアは父親との別離を思い出し、胸に締め付けられるような痛みを感じた。
またあの時と同じ想いを味わうのは堪え難いが、力を手放せばそれは容易くやって来るのだ。

「そうね、それでもミリアちゃんが一人でも大丈夫って思えるまでは一緒に居させて」

日差しの声音を向けるフロレアを見つめ返せず、曇天の瞳は足元の景色を写す。

「アタシがこんなに優しくしてもらえるのって……不当に価値があるように見せかけてるからだよね。
 好かれるような偽りの皮を被ってるけど、中身は汚い……。
 本当はフロレアさんにも、レナードさんにも、リンシィにも、誰からも……愛される価値なんて無い」

曖昧に濁した告白が、ミリアの口に出来る精一杯。
魅了の存在を知られなければ、互いを繋ぐ不可視の力が途切れても今の関係を続けられるのではないか。
そんな淡い望みが、核心を口にしようとする意志を押し潰してしまった。
たとえ盗んだ衣服だったとしても、凍えるような冷たさに晒されると分かっていれば……手放したくない。

「愛される価値って、私が決めちゃダメ?
 私はね、もうミリアちゃんが大切な家族の一人としか思えないの」

「その気持ちだって……硝子を宝石と偽るような詐欺で抱かせたもので。
 本当の姿を知ったら同じことなんて言えない……きっと何もかも嫌になるっ」

「ならないわ――――」

憂悶の表情で沈むミリアを温かな両腕で抱き締め、フロレアは言葉を重ねる。

「――――私ね、ミリアちゃんが何に苦しんで、辛い気持ちになってるのか分かりたい。
 簡単には解決しないものだとしても、私も一緒に悩んだり出来ればなって思うの。
 だって、家族が苦しんでたら放って置けないもの」

「アタシなんて、家族の振りしたカッコウの雛だよ……」

「ミリアちゃんは、私やレンやリンシィのことは好き?」

「好きだよ……それは嘘じゃない……けど」

「私もミリアちゃんのこと大好きだし、こうして好きって言える相手がいることは幸せなことよ。
 そしてね、ミリアちゃんの苦しそうな顔を見てると悲しい。
 だから、幸せな顔になれる方法を私たちにも一緒に探させて」

ミリアは何かを答えようとしたものの、見えざる手に喉を潰されたように押し黙ってしまう。
自分の内面を白日の下に晒せば全て終わってしまいそうな気がして、何も答えを返せなかった。
今の居心地の良い空間が破局を迎えることは怖い。

「ええっと……パン、いいですか」

唐突に掛けられた声に振り向くと、カウンターの外で怪訝な顔の男が二人のやり取りへ目を向けていた。
話の途切れを見計らって、店に訪れた客が声を掛けたのだろう。
今は客が最も訪れる正午であり、ミリアが仕事の邪魔になっているのは明らかだった。
それを察したのと、答え難い答えから逃れたい気持ちも有って、ミリアの方からフロレアの手をそっと離す。

「ご、めん……早く店を手伝わなきゃね。
 今の話は自分から話せるようになるまで待ってて」

405ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/03/13(木) 23:55:18 ID:0e.JNwMY0
「お買い上げありがとうございます。
 フィッシュサンドとクロワッサンとシナモンロール、三点で合計7R$になります」

接客が再開されると、カウンター前で滞る列も動き始めた。
背中でフロレアの声を聞きながら、ミリアも店舗を後にしてダイニングへ向かう。
繁忙の音から切り離された暖かな広間に入ると、時間の流れも緩やかに感じられた。
ミリアは南から差し込む陽射しを浴びながら身支度を整え、しばしの時間を心の整理に充てることとする。

(我ながら最悪だ……肝心なことは言わないのに、辛いですって雰囲気だけはチラチラ見せて)

自己嫌悪と共にスタンドミラーに映る顔を睨むと、ふと胸元の首飾りが目に止まった。
指先で銀色のチャームを開くと、父と幼い自分の姿が露わとなる。
刻印の魔術で祖父の姿をコラージュしたものの、写真の景色は変わらないままで、眺めていると故郷を思い出す。

(……アタシ、父さんを忘れつつあるのかな。
 父さんのいない世界で生きてることなんて考えられなかったのに……こうして普通に生きてられるってことは)

故郷の小さな街にいた頃は、父親こそが唯一無二の存在だった。
大きくなったらパパと結婚する、と言う子供の頃のままにミリアは父を愛していた。
愛する相手から肉体を求められる事こそ無かったものの、もし求められたなら応じていたかもしれない。
必要なら、目でも腕でも足でも骨でも血でも心臓でも上げられた、とも思う。

当然、父が病死した際は蘇生を願い出た。
しかし、ミリアの出生国であるイストリア共和国は、社会秩序に関わる魔術の適用が特に厳しい。
父であるドニ・スティルヴァイも、反社会的活動を行ったということで蘇生許可が下りず、遺体も火葬に付された。

唯一の支えを失い、自分も生きていられないと思った。
それなのに……今の自分は新しいコミュミティを得たことで、父親の存在が小さくなりかけていないだろうか。
今の生活に馴染めば馴染むほど、父親を愛していた過去の自分は遠ざかり、思い出も薄れてゆく……?
それは嫌だ……あまりに寂しく悲しい。

(違う、違う、忘れたわけじゃない……父さんを忘れたわけじゃない。
 父さんを愛する気持ちと、ステンシィ家の人を好きな気持ちだって矛盾しない)

己へ言い聞かせるように心の中で呟き、ミリアは静かにチャームを閉じた。
そして、フロレアを手伝いに営業中の店舗へと戻ってゆく。

(今、優先するべきなのは、リンシィを目覚めさせることだよね。
 フロレアさんとレナードさんにとってのリンシィは、アタシにとっての父さんと同じだったはずだから……)

406ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/03/13(木) 23:55:43 ID:0e.JNwMY0
夕刻、ロルサンジュの業務を終えたミリアが、リンセルとの共用部屋へ戻る。
フロレアが夕食を準備する間、自分がリンセルの介護をした方が良いだろうと思って。
部屋の窓からは夕陽の光が入り込み、ベッドで眠り続ける少女の顔も落日の朱で染まっていた。

「……傷だけなら完全に癒えたはずなんだけど、なんで起きれないんだろうね」

ミリアはいつもと同じような呟きを繰り返し、いつものようにリンセルの身の回りの世話を始める。
まずは部屋のカーテンを締めてから、紙製の吸水パンツを脱がせて排泄物の処理。
お湯で絞ったガーゼを用いて、消化管や泌尿器の出口付近を丹念に拭き、清潔さを保つ。
吸水パンツを替えると、医療品店で買い求めた消臭スプレーを部屋に撒く。

スプレーの噴霧から間を置かず、部屋は森林の香りで満ちた。
この変化は排泄の臭気と混ざることで、花のような香りに変える消臭加工技術で為されるらしい。
同じ部屋で寝起きをする以上、どうしても必要な措置だった。
何より、自分がリンセルの立場なら、そのままにしておかれる方が絶え難い。

続いて全身を拭き、髪を洗い、着替えさせ、身体を揉み解してから、最後に輸液を交換する。
全てを終えた頃には、聖都の空から夕映えの色が拭われていた。
負担に感じはいけないと思いつつ、ミリアは細く長い溜息をついて椅子に腰掛ける。
リンセルが入院していた時に比べれば、精神的な疲労が増した感は否めない。
これを何ヶ月、何年も続けられるだろうかと考えると、どうしても重い気分になってしまう。

回復する見込みさえあるのなら、どんな労苦でも耐えられる。
しかし、状況が好転せず、終わりも無いと考え始めたら……もう頑張れないだろう。
もし、寝ているのが父であり、介護も自分一人きりで行っていたとしたら、きっと堪えられないはずだ。
その時の自分は何をするのだろうか……。
ミリアは頭を振って、心に立ちこめた暗鬱の霧を追い出すと、リンセルの髪を梳きながら一方的に語らう。

「どうしたいのか、何をすべきなのか……アタシは迷ってばかりですぐに見失う。
 怖がって逃げてばかりじゃ、結果なんて何も出ないのにね」

返答を期待しての問い掛けではなかったが、予期せずミリアに応えを返すものが現れた。
オルゴール風の聖歌のメロディが。

「……なにこれ、何の音?」

訝しむミリアが音源を目で探すと、机の上の携帯端末タブレットが着信ランプを点滅させていた。
それで、何日か前に連絡用の通信機器をフロレアから借りたことを思い出す。
魔術的な素養が全く無いステンシィ家の人間たちが、通話機器に機械類を使っていたことも。
聖歌の着信メロディもタブレットの本来の持ち主、リンセル・ステンシィが設定したものである。

(あ、電話か……確かアレクとトビアにも番号を教えといたっけ)

ミリアは立ち上がり、ライラックカラーのタブレットを手に取った。
父親の逝去以来、ミリアはこの手のものに触れて来なかったので、使い方には若干の戸惑いがあった。
やや迷いながら画面上の通話アイコンに触れると、スピーカーからトビアーシュの声が流れて来る。

「ミリアさんですか?
 ご依頼のリンセル・ステンシィの件ですが、まずは患者の症状を見たいとのことです。
 明日の昼過ぎ、バニブルから医療司書を派遣して貰えることとなりましたので、ご用意をお願い出来ますか」

「ありがと、トビア。
 あ、一つ希望を述べるなら、リンシィの身体を色々調べるんなら男の医者じゃない方がいいな。
 アタシなら、そうして欲しいからってことだけど……ま、あんまり無理は言えないか」

「分かりました。
 希望が通るかどうかは分かりませんが、バニブルの方へは伝えておきましょう」

「……色々、便利使いして悪い。
 ちょっとは心苦しく思ってるんだけどね」

407ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/03/13(木) 23:56:10 ID:0e.JNwMY0
心苦しさの原因は、魅了の魔力で相手の運命を握っているとの自覚だ。
好意と愛は得たいが、相手の心を意のままにすることには引け目を感じてしまう……。
身の丈に合わない能力を持って、それを持て余しているのが今のミリアだと言えるかもしれない。

「いえ、私のことは便利使いしても一向に構いませんのでお気にせず。
 それと厄災の種の件ですが、教皇庁に厄災の種を専門に扱う司祭が置かれました。
 ミリアさんの問題も解決したいので、明日にでも浄災祓魔局で診てもらいたいのですが……宜しいでしょうか?」

念を押すかのようにトビアーシュは伺いを立てた。
彼の言う浄災祓魔局《じょうさいふつまきょく》とは、主に災異の記録と収束を担当する機関。
教皇庁の行政組織である八省の一つ、検魔聖省の下部組織だ。
バニブルとの会談後、この局には厄災の種が引き起こす様々な問題の担当官――――律種司祭が置かれている。

「それは、リンシィが治ってからの方がいいかな。
 アタシは今すぐどうこうって状態でも無いし……」

ミリアは部屋に横たわる少女を見つめたまま言葉を返し、相手からの返答を待つ。

「ミリアさんの意志は尊重しますが、リンセル・ステンシィが治るのはいつになるか分かりません。
 出来れば、すぐにでも診て頂きたい」

トビアーシュは若干の抗議めいた響きを含ませて言う。
執着するものが、いつ掌から零れ落ちるか分からない不安からだった。
恋情に胸を押される助祭には、リンセルの完治よりミリアの治療の方が優先度が高いのだ。
ミリアもそれを察するが、今は他のことに気を取られたくなくて曖昧に答えを返す。

「う……ん、リンシィを診察した後で時間があったら……ね。
 医者が家に来るんなら、リンシィの両親にも話を通さなくちゃいけないし……今日はこれで」

通話を切ってトビアーシュとの会話を終えると、ミリアは階段を降りてダイニングに向かい、夕食の席へ着く。
テーブルに並ぶのは豚肉のハーブロースト、トマトの赤で可愛らしく彩られたブルスケッタ。
さらにコーンスープ、酢とオリーブオイルで味付けしたパンに野菜を加えたパンツァネッラだ。

「今日も美味しそう。
 いつまでも輸液ってのも可哀想だし、早くリンシィもフロレアさんの料理を食べられるといいよね。
 あ、それでリンシィのことなんだけど……さ。
 知り合いになった三主教の人に話してみたら、バニブルの医療司書に症状の診断をしてもらえそうなんだよね。
 明日の午後、家へ来てもらっても大丈夫かな……」

テーブルの上で両手の指を合わせ、そう切り出すミリア。
期待を持たせて診察を受けさせたのに進展が無い場合を考えると、語尾が小さくなってゆく。

「リンシィの治療に繋がりそうな事なら拒む理由は無い。
 むしろ、此方からお願いしたいくらいだ」

「もちろん大丈夫よ、ミリアちゃん」

娘の回復を待ち望む両親に断る理由はなく、即座に二人分の承諾が返って来た。

「あ、最初は単なる検診だけみたいだから、そんなに期待はし過ぎない方が良いかも……。
 ロルサンジュの仕事にも穴は開けられないし、来客の応対はアタシがするね」

ミリアが述べて――――翌日の午後、リンセルの部屋にバニブルの医療司書がやって来る。

「犬のように這いつくばって、わたしの足を舐めて」

それが、妖しいほどに幼く見える女が放つ第一声だった。

408医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/03/14(金) 00:23:52 ID:2VHe4yVI0
名前:コーデファー・コトン・フラスネル
種族:人間
性別:女
年齢:186才
技能:魔術・科学を問わず医術全般
外見:青紫の瞳、真っ白な長い髪、色素の無い皮膚、体型は7才程度で身長112cm/体重20kg
   服装は民族衣装風の緑の上着とスカート、赤い帯、その上にバニブルの国章がデザインされた白いポンチョ
装備:防護術衣(ポンチョ)、自動治癒の術式を施した銀の首輪、懐中時計型の通信魔術具、タブレット端末、医療道具
身分:二級医療司書
出身:湖上都市リン・リグア

【人称】わたし
【傾向】幼児めいた傍若無人さ。好き嫌いが激しい。死への恐れ
【願望】快を得る事とその持続。スキルアップ。自立
【得意分野】医術と診察
【苦手分野】戦闘や肉体労働全般
【最終目標】永久に己を保ち、世界の全てを識ること
【生育環境】バニブルに移り住んだ抗老化学の研究者、家族はいたが現在は孫に至るまで死亡している

409医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/03/14(金) 00:31:33 ID:2VHe4yVI0
バニブルの二級医療司書、コーデファー・コトン・フラスネル。
彼女の容姿や背丈は、十歳に満たないと思えるほど幼い。
腰まで伸びる頭髪は生糸の白さを持ち、皮膚も白で、眉や睫毛すらも色彩を欠く。
色を持つ部位と言えば、紫水晶を嵌め込んだかのような瞳だけ。

黒髪黒目の者が多いバニブル人と、欠色のコーデファーが人種的に異なる事は一目瞭然だった。
彼女の出身は大陸の北西域に位置した国家である。
遥か東方のバニブルまで移り住んだ経緯は、不老不死の術を探し求めて知の宝庫へ来たというもの。
そう、この永遠を欲して様々な知識を蒐集する女は、決して見た目どおりの年齢ではない。

「んー……っ! なんで、わたしがこんな所まで来なくちゃいけないのよっ」

三主教の女助祭に伴われたコーデファーが、文句を放ちながら公用車を降りると、ロルサンジュの前に立つ。
服装は緑の胴衣と膝上までのスカート、赤い帯、その上からバニブルの国章をデザインした白いポンチョを羽織っている。
雪のように真っ白な姿は眩い陽射しに輝いていたものの、表情は対象的なまでに曇りを見せていた。

不機嫌の主成分は、全身に溜りに溜まった疲労だ。
コーデファーを含めて、バニブルの医療者は全員が連日不休で診療を行い、疲労を極めている。
都市の地下書庫に封じられていた憤怒のアイン・ソフ・オウルが復活し、広範な区画に被害を与えた影響だった。
バニブルもヴェルザンディ国家司書の離職後、まだ完全に政治的な安定を得た訳ではないのだ。
その上、遠くまで往診させられたものだから、コーデファーも不機嫌になるのだが、ラクサズの依頼なので断れなかった。
彼が、かつての自分自身で選んだ庇護者だけに。

「バニブルの医療司書、コーデファー・コトン・フラスネル様です」

ロルサンジュのダイニングに入ると、付き添いの助祭がリンセルの両親とミリアにコーデファーを紹介する。
当の医療司書は虫の居所が悪そうに黙ったまま。

「今日は遠い所を御足労頂きまして、ありがとうございます。
 どうか、娘を宜しくお願いいたします」

家長のレナードが一礼して挨拶を返し、続いてフロレアも口を開く。

「初めまして、フラスネル様。
 お医者様には診てみらったのですが、娘の昏睡の原因は分からず困り果てていました」

幼女めいた外貌の司書にも頭を垂れ、丁寧に応対するステンシィ夫妻。
常と変わらぬ態度で日々を送ってはいても、内心は藁にも縋る心境なのかも知れない。
しかし、ミリアの態度は違う。
あまりに頼りなげな姿の医療司書に疑いの眼差しを向けていた。
己への敬意の不在と技量への不信を感じ取ったのか、コーデファーもキッと鋭い視線でミリアを刺し返す。
そして、睨みつけた相手に先導されて辿り着いた部屋で、ついに今まで燻っていた彼女の不満は爆発する――――。

「犬のように這いつくばって、わたしの足を舐めて」

ミリアに向けられたのは、純白の容姿さながらの冷ややかな言葉。
幼げな姿の医療司書はリンセルの部屋で椅子に座ると、ルームシューズと靴下を脱ぎ捨て、小さな素足を晒す。

「そしたら、この娘を診てあげてもいい」

唇の端を嗜虐の笑みで歪め、試すような瞳のコーデファー。
この言動や感情の幼さこそが、彼女が不老の代償として得たものだった。
いや、コーデファーの長生はベニクラゲのような退行で為されるので、不老ではなく若返りの繰り返しと呼ぶべきか。
彼女の薬物を用いて若化する方式は、その度に記憶の一部が欠損する難点を持つ。
それは思い出や過去の情景など……エピソード記憶と呼ばれる記憶領域の殆どを喪失させてしまっていた。
百年以上の日月を経て、数多くの医術の知識を保持しながら、コーデファーの精神が年齢相応に成熟できない理由だ。

「なぁに? 聞こえなかったの? 早くわたしの足を舐めなさぁい♪」

年齢に比して異様な若さを持つ医療司書は、凍れる鈴の声を投げて楽しげに笑った。

410ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/04/03(木) 22:02:52 ID:e3ZW6BgE0
リンセル・ステンシィの部屋にいるのは五人。
寝台に横たわる少女と、その横で佇む母親、椅子に座って素足を晒す医療司書、部屋の隅で見守る女助祭。
そして、硬い表情を浮かべて医療司書の前に立つミリア。
家主であるレナードはロルサンジュの仕事に加え、宗教都市の住民らしく異性の診療という事で席を外した。
医療司書の付き添いとして女助祭が寄越されたのも、その辺りの配慮からであろう。

この部屋を包む空気は、お世辞にも和やかとは言い難い。
フロレアは当惑の表情を浮かべており、付き添いに訪れた女助祭も同様。
往診に訪れたはずの医療者が、わたしの足を舐めて等と発言すれば当然の反応ではあったが。

「足を舐めろ……ね。
 まず、その麗しいお御足を舐めるかどうかを決める前に聞きたいんだけど。
 コーデファーちゃんは本当に医療司書さんかなぁ?
 今日はベテランの医療司書が診察してくれるって話で、お医者さんごっこに付き合う予定じゃなかったんだよね。
 聞き違いか、さもなくば何かの手違いで、児童本の司書が来たってことかなぁ?」

ミリアは幼児を諭すかのような口調で言った。
コーデファーを見て、ミリアが受けた率直な印象は“駄々を捏ねる子供”というものだ。
容貌は十歳にも満たない程度で、幼児めいた要求からは医療者としての精神性を感じられない。
何らかの意図で、無能な者が派遣されたのだろうかと疑問を抱くほどに。

「この凡愚っ。
 わたしはね、186年も生きてるんだから! おまえよりずっとずーっと年上なの!」

ミリアの侮りに対抗するよう、コーデファーは怒気を滲ませて己の年齢を誇る。
容貌が幼げな所為で迫力こそないものの、反駁の言葉は種族差について失念している事をミリアへ思い至らせた。
妖精や妖魔や侏儒など、この社会には長い寿命を持ちながら子供のような容姿の種族も存在するのだ。
最も有名なのは数百歳とも数千年歳とも伝えられる星霊教団の教主、星の巫女だろうか。
コーデファーもそのような種族の一人であれば、外見に反して優れた医術を備えていても不思議ではない。

「186才ってことはコーデファー……さんは人間じゃないよね」

長命な異種族なのだろうかとの推量を持って、やや態度を和らげたミリアが聞き返す。
しかし、問われた相手は瞳に冷たい嘲りを浮かべ、小さな唇から罵りを漏らした。

「なに言ってるの? どこからどう見ても人間でしょう?
 おまえは牛みたいな胸に全部の栄養が流れて、脳がスポンジになっちゃってそうね!」

「いや、だって普通の人間が若いまま186年も生きられるなんて思えないし。
 もちろん、吸血種になっての不死化やら、肉体の機械化やらで延命を試みてる奴らがいるのは知ってるよ。
 でも、そういう奴らって、見た目からして人間とは違ってるじゃない」

「この無知っ。
 そんな視野の狭い物の見方しか出来ないから、狂牛病の疑いが掛けられるのよ。
 わたしは特殊な減齢法を自分の身体に施してるから、とっても若い姿なのっ」

「減齢? ああ、若返りってことね。
 伝説だけなら良くある話だけど、目にするのなんて初めてだし……」

「ようやく理解できたようね。
 それでどうするの? 地面に這い蹲ってわたしの足を舐める気になった?」

411ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/04/03(木) 22:03:41 ID:e3ZW6BgE0
コーデファーは椅子に座ったまま、上目遣いでミリアの顔を覗き込む。
声には出さずとも、口元に描かれた緩い弧が、お前を屈服させたら少しは気晴らしになるだろうと告げていた。
恥を掻かせて楽しむのが目的だから、人払いするわけにも、後でという訳にもいかない。
今、此処で、跪かせて足を舐めさせなけば気が済まないようだ。
知識量と吊りあっていない彼女の精神は、相当に屈折しているようと見えた。

「…………アタシが言えた話じゃないですけど。
 重ねた歳月とか経験を示したいのなら、司書様はもう少し慎ましさを身に付けた方がいいじゃないですか」

ぎこちない追従の笑みを口の端に浮かべて、ミリアは敬意の篭もらない敬語を返す。
リンセルの快癒が最優先事項だとしても、出来ればミリアも他人の足など舐めたいものではない。

「つまり嫌ってこと?
 それなら、診療も他の医者に診てもらえばぁ?
 わたしの診療を拒否するなら、ここにいても時間の無駄だし、帰り支度をさせてもらうわね」

コーデファーは声の温度を下げ、関心が失せたように瞳を逸らす。
ふんと小さく鼻を鳴らして椅子から立ち上がり、本当に帰り支度を始めようともしていた。

「ちょっ、ちょっと待って!
 アタシがコーデファー……様の足を舐めたら、本当にリンシィの診療をしてくれますか」

ミリアはコーデファーの細い腕を掴む。
此処で医療司書にバニブルに帰られてしまえば、リンセルの治癒も遠のきかねないとの焦りからだ。
しかし、その意志を遮るようにフロレアが進み出た。

「そんなことしちゃダメよ、ミリアちゃん。
 フラスネル様、ご自分が足を舐めなさいなんて言われたら、どう思われますか?
 自分が言われて嫌なことや、悲しくなったりすることは、人にも言ってはいけませんよね」

フロレアは膝を落として目線の高さをコードファーに合わせると、青紫の瞳をしっかりと見据える。

「あら、わたしにお説教? へぇ。
 娘が治らなくても良いなんて酷いママ」

「リンセルに治って欲しいとは思ってますが、無理を推してまで診てもらうつもりはありません。
 それに今のフラスネル様は、心も身体もお疲れのようですから」

「疲れてるに決まってるでしょう。
 毎日、おまえたちみたいな凡愚の相手をしなくちゃいけないんだもの」

「でしたら、少しお休みになられてはどうでしょう?
 病を診るべき方が心身を疲れさせていては、お仕事にも差し支えます。
 もうじき憩餐《シンシューレ》の時間ですから、ダイニングに何かご用意いたしますね」

そう言ってフロレアはダイニングに降りてゆき、部屋の入り口近くに佇んでいた三主教の女助祭もそれに続く。

412ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/04/03(木) 22:05:23 ID:e3ZW6BgE0
フロレアの言う憩餐《シンシューレ》とは、大陸西域部の中でも温帯や乾燥帯に多く見られる食文化だ。
正午を過ぎて少し経った頃に甘いものや軽食を取り、紅茶やカフェ・ラッテを嗜んで、午後の活力を養う。
要するにアフタヌーン・ティーやコーヒー・ブレイクの時間である。

「そういえば、何か食べるにはちょうどいい場所ね。
 でも、わたしの機嫌を取った所で患者は診ないわよ。
 だぁって、そっちが診ないで良いって言ったんだもの」

診療の放棄を口にしてミリアを見上げ、クスクスと楽しげに笑うコーデファー。
その傍若無人な有様を見て、ミリアは心を奪う力の行使を決めた。

(人間相手なら……アタシの力で心を捕らえられるはず)

「いつまでしがみ付いてるの、見苦しい」

コードファーが自分に取り縋るミリアへ視線を移した。
刺すような一瞥で射られたミリアは、腕を掴む手に力を込めつつ青紫の瞳に正対する。
今、この部屋には邪魔する者は誰もおらず、魅了の力を用いるにも好機だと感じられた。
悲鳴を上げられても、誰かが階段を登ってくる前に事を済ませられると。

(腕力は無さそうだし、無理やりにでも唇を奪って……言う事を聞かせるしかない)

ミリアの魅了は、体液を媒介として相手の体内に魔力的なフェロモン受容体を作り出す事で為される。
しかし、構造の本質は“世界”の株分けに他ならない。
己が“世界”の一部を伐り出して“小世界”を作り、それを標的に植え付けて心を侵すのだ。
革命のアイン・ソフ・オウルの“世界”を花畑に例えるなら、株分けされた“小世界”は一輪の花とも言えようか。
その己が分身たる一輪の花をコーデファーに挿す為、ミリアは舌で唇を湿らせながら標的の両手首を掴む。
焦りはミリアを拙速な行動に駆り立てさせていた。

「やっぱり、フラスネル様を舐めさせてもらう事にしたよ。
 舐める場所は可愛いらしいあんよじゃないけど、ねッ」

ミリアの意図が分からず、今まで優越の笑みを浮かべていたコーデファーは狼狽する。

「なっ、なんのつもり!?」

「キスするつもりッ」

「は、離してっ! この変態! 変態! 離しなさい! 触らないで!」

答えを聞いたコーデファーは悪罵を吐き捨て、ミリアから顔を背けて海老反りとなる。
眉根に皺を寄せて首を左右に振りながら背を反らし、ついには体勢を崩して床へ押さえつけられた。
掴まれた両腕を振り解いて逃れようとするものの、両者の体格の違いからそれは叶わない。
さながら、鼠を捕らえた猫といった有様だろうか。

「……人に足を舐めさせようとする方が、よっぽどだと思うけどね!?」

互いの優位と劣位が逆転すると、ミリアは組み敷いた相手に言葉を投げ返す。

「ん〜! う〜!」

ミリアが唇を半開きにして濡れた舌を伸ばすと、コーデファーは顔を背けながら口を堅く閉じて懸命に拒む。
しかし、“世界”の力の他に“世界”の力に対抗する術は無い。
閉じられたコーデファーの唇を抉じ開け、強引にでも唾液を捻じ込めば、ミリアの魅了も完遂するだろう。

413Miryis stalemate ◆NHMho/TA8Q:2014/04/03(木) 22:09:41 ID:e3ZW6BgE0
本編でアイン・ソフ・オウルの設定が整備されつつあるし、アタシも能力関係について纏めてみようかな。
……ほとんど死に設定になりそうだけど、ね。

◆蝕界草光《Svjetlo trava/スヴィエトロ・トゥラヴァ》
革命のアイン・ソフ・オウルが絶命に至りそうな時、或いは強い意志を抱いた時に現れる固有光。
若草色の光で描かれた植物文様として、ミリアの全身に浮かび上がって纏わりつく。
この状態のミリアは、外界への干渉力(攻撃力)と自らの干渉排除力(防御力)を増す。
攻防力の上昇は、内在する世界観の律を実相世界に表出させて、外界侵蝕と自己防護を同時に行う結果。
それゆえに革命のアイン・ソフ・オウルが受け入れる意志を持たねば、有益な干渉であろうと無効化する。

基本的に蝕界草光を相殺可能なのは、魔術・奇跡などの“世界”の力のみ。
非アイン・ソフ・オウルに拠る機関銃などの兵器、炎などの自然現象では、光の防護に阻まれて傷一つ付けられない。
ただし、核爆弾のような超巨大な破壊力であれば影響を排除しきれず、攻撃執行者が誰であろうと蝕界草光も貫かれる。
(※この設定は此処だけの設定であり、本編の世界設定に影響を与えるものではない)
(※それでも整合性を取るなら、革命のアイン・ソフ・オウルが核爆弾に耐える人間のイメージを描けず)
(※その破壊力を通す世界観を構築してしまっている事が、本来通らない筈の力で絶命してしまう事の適切な理由となる)

◆愛香播種《Miris ljubavi/ミリス・リュバヴィ》
革命のアイン・ソフ・オウルの力で、煽動家としての面の発露。
標的の体内に混入させた体液から魔力的なフェロモン受容体(小世界)を形成し、ミリアに魅了された状態とする。
同時に脳内物質を操作し、若干だが身体能力を向上させる作用も持つ。
対象人数には限界が存在し、魅了した者達の“世界”の総量が術者の許容量を越えた時点で、全員への影響も消失する。
魅了の影響が消えた者の肉体には耐性が発生して、二度と革命のアイン・ソフ・オウルから影響を受けることが無い。
革命のアイン・ソフ・オウルの遺志で、人間以外の種族は最初から対象外となる。
体内器官なので見えないが、小世界たるフェロモン受容体は常に若草色の光《オウル》を灯す。

◆喰魂《soul eater/ソウルイーター》
厄災の種の性質で、周囲の空間に浮遊する魂を引き込んで喰らい、力を増してゆく。
なお、力を得るのはミリア自身では無く、ミリアを苗床とする厄災の種である。
厄災の種は個体差があれど、保持した力の断片を宿主に与え、善悪を問わず感情の増幅も行う。

◆魔術《wizardry/ウィザードリィ》
厄災の種からミリアが得た知識で、習得したのは二十余りの強化魔術と低級の基礎魔術が幾つか。
魔術士としての区分は、生物の機能を拡張させる強化魔術師(Enhancer/エンハンサー)。
魔力を絵筆として、自らがイメージした機能を対象生物に上書きし、別の姿にデザインする魔術師たちである。

呪文の詠唱開始から効果発動までは、十秒程度が基本。
古式ゆかしく、呪文には精神集中しながらの詠唱、確固たるイメージ、宙に指で印を描く動作が必要。
呪文に一字でも誤字や不明瞭な発音があったり、痛みや動揺で精神を集中できなければ魔術も発動しない。
ミリアが使用できるのは厄災の種が蓄えていた知識のみで、新しく魔術を習得するには通常と同じ修養期間が必要。

※(強化魔術)
視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚強化/肺活量増強/身体能力強化/速度変化/三半規管強化/精神力増大
水中呼吸/乾燥・寒冷環境耐性/不眠/毒耐性/有毒化/飢餓耐性/免疫強化/声質変化/可視領域拡大/治癒力促進
肉体の軽量化/肥満体化/爪や歯や皮膚の硬化/器官作製/分泌物操作/仮死状態/臭気変化/腕の両利き化/痛覚遮断

※(基礎魔術)
持続時間延長/魔術消去/魔力感知/魔力防護/文字・映像の刻印/使い魔の簡易使役

◆魔術具の杖《Teves/テーベス》
巡礼用の杖に似せた攻撃魔杖で“杭打つ者”の意を持つ。製作者は屍鬼狩人のダネシュティ一族。
価格と取得難度は高価な工芸品と同じくらいで、治安が良い国や術具規制の強い国では手に入らない。
テーベスに魔力を込めれば先端に光の杭が生み出され、槍にも似た使い方が出来る。
ただし、術具として扱うには魔術師の基本、魔力を操る技法を習得していなければならない。

414名無しさん@避難中:2014/04/10(木) 01:38:41 ID:PpVg3LbE0
ksks

415 ◆Tio/Ue.LMI:2014/04/13(日) 14:38:45 ID:uKN02lFU0
【獅子の夢/Episode 1.発見】

大陸西域の地中海――――赤瞑海に浮かぶ島の一つ、キュレリア島、その最南端地区ミルヒシャサ。
一面が密林に覆われた熱帯性気候の地であり、古代マディラ文明の残滓が色濃く残る土地でもある。
島を一巡りすれば、罅割れた石柱や、樹林の中に立ち並ぶ獣頭人身の神像などが幾つも見つかることだろう。

それら古代遺跡を守護するような緑の樹木を越えて、道なき道を二人の人物が歩いている。
一人は人間の成人男性、穏やかな顔つきで、漆黒の髪と褐色の肌を持ち、ゆったりとした東方風の民族衣装を纏う。
もう一人も同族と思しき黒髪褐色の風貌と衣装なのだが、まだ年は若く十代半ばといった所だろうか。
先導する青年は疲れた様子も見せず、深い密林の中を歩き続けているものの、道連れの少年はそうではない。
膝までの下生えに加え、不快な暑気と無数に蠢く虫蛇の類に歩みを阻まれながら、青年の後を遅れないように着いてゆく。

「ティーオ、私たちが生きる此の世界は、無数の小さき世界が集ったもの……と教えた事は覚えていますか?」

薄暗い闇の森を杖で突いて歩きつつ、褐色の青年は言った。

「はい、誰の心にも……その深奥には全ての根源となる“世界”が広がってるんですよね、先生。
 人の強い想いに拠って、無限に強く光り輝くような“世界”が。
 そして、その個体群が細胞のように集まって、僕らが目に見る実相の大世界、森羅万象を構成している」

疲労の息を何度も吐きつつ、質問から随分と遅れてティーオと呼ばれた少年が答えを返す。
それを聞くと、師である青年は静かに頷いた。

「格段に大きな“世界”を持つものが動けば、それは地震や波のような歪みを生んで周囲に影響を及ぼします。
 キュレリアで起きた異変も、おそらく枢要罪と称するものたちの出現が切っ掛けでしょう」

「フェネクスで大勢の人たちを殺した奴らが、キュレリア島にも来たんですか?」

「いいえ、おそらくは違うでしょう。
 巨大な力を持った“世界”は、この地で生じて、急速に膨れ上がっています。
 それは、星誕祭の日も島から遠ざかる事はありませんでした」

「島の外から来た者ではないんですね」

「ええ、おそらくは島の者のはずです。
 その者の“世界”は時間を掛けて広がり、己の秩序と法則を築き、重く確固としたものになろうとしている。
 放って置けばキュレリアを飲み込み、冷たく昏い冥府の輝きで、島の全てを塗り潰してしまうかも知れません。
 貴方には感じ取れませんか? この先から薄く伸びてくる黒耀石《オブシディアン》の気配が」

青年の言葉通り、熱帯の森には異様な雰囲気が漂っている。
随分と前から此処に立ち入る島民が誰もいないのも、密林全域に漂う不可視の重圧に心が竦むからだ。

「そういえば、密林に入った時から体が一回りくらい重くなったような……。
 確か、この先ってターグレッティ石窟群でしたよね?
 今から数千年前に獅子皇帝ギルヴィが落命した土地」

歩みを進める少年の言葉と共に緑の森が開け、唐突に鈍い色彩が現れた。
瞳に映る灰色は、密林の緑に埋もれながらも現代に威容を残す、獣頭神マーディトを祀った古代神殿の岩壁だ。

416 ◆Tio/Ue.LMI:2014/04/13(日) 14:39:42 ID:uKN02lFU0
【獅子の夢/Episode 2.遭遇】

褐色の少年と彼の師は、巨岩を穿って造られた神殿に足を踏み入れる。
異教的な装飾で彫刻された巨大回廊が数層にも連なった内部は広大であったが、二人は進み続け、やがて最奥に辿り着く。
石室の暗闇には、獅子の獣皮を纏う魔的な男が蹲っていた。
白い肌に獣血で不可思議な文様を描き、獣骨と黒宝玉で装飾した出で立ちは、さながら古の神を崇める神官のよう。
この異形の男の眼窩に嵌った空色の瞳が、自らの領域に踏み込んだ二人の侵入者を捉える。

「……誰だ」

石造りの遺跡に巣食う男は、闇の中から敵意の篭もった重苦しい声で問い質す。

「ぼ、僕たちは島の異変を平定する依頼を受けたものです。
 キュレリア島で発生した人を襲う魔獣。その源を辿って此処に来ました」

答えたのは、褐色の少年ティーオ。
彼は師であるカルナ・ダネシュティと共にキュレリア島に現れた魔獣、黒耀の獅子を討伐するために訪れていた。
しかし、島の各地で遭遇した黒獅子たちは、殺しても殺しても悉く黒耀色の燐光と化して消え去ってしまう。
常識の生物でないのは明らかで、発生原因を付き止めねば島に安寧が訪れないのも明白。
彼らは未知の魔獣の影を追い、寝座を求め、探し当てた先が密林に佇む石窟神殿というわけだった。

「貴方からは、獰猛にして粗暴な“世界”を感じ取れます。
 そう、これはまるで……獣の心で観た景象」

ダネシュティが弟子の言葉を継ぐ。
彼の黒い瞳には、異形の男が描く心象の“世界”が、五感を越えた超感覚で感じ取れているのだ。

「獣の世界……間違ってはいない。
 俺は獅子皇帝の末裔、獣の王だからな」

来訪者の言葉を肯定して、獣王を名乗る男は獅子のように獰猛な笑みを浮かべた。

「古代皇帝の末裔たる獣の王……。
 キュレリアに出没した魔獣を使役しているのは貴方ですね」

「然り、エルロイの姦計で葬られた父祖の世を取り戻す為、我が尖兵たる魔獣は躍る。
 今の人類が綴った暦法を終わらせ、時の彼方に消え去りし往古の暦を蘇らせ、我らの歴史を刻み直すまで。
 邪魔をするならば、何者であろうと滅ぶと知れ」

「ギルヴィにエルロイ……数千年前に過ぎ去った時代を夢想する獣よ。
 貴方の“世界”は重く、堅過ぎて、今の世界には溶けず、馴染むことも決してない。
 このミルヒシャサから各地に広がってゆけば、厄災として周囲を毀すのみでしょう。
 貴方が伝説の世界を蘇らせると言うのなら、伝説の殺戮者である我が一族が滅します。
 ……ティーオ、下がっていなさい」

褐色の青年が手に持つ杭魔杖《テーベス》を水平に掲げると、その一瞬で先端から光の杭が伸びた。
白銀光に輝く円錐を備えた杖は長槍のようであり、凄烈な光の輝きは魔を滅ぼす聖的な光を連想させる。

「はい、先生もお気をつけてっ」

師の戦闘態勢と同時に弟子が戦闘に巻き込まれないよう遠ざかり、時を同じくして獣王も人ならざる声で吼えた。

「オ、オ、オオォォオオォォッ!」

咆哮を戦いの合図として、獣の王が疾駆する。

417 ◆Tio/Ue.LMI:2014/04/13(日) 14:40:19 ID:uKN02lFU0
【獅子の夢/Episode 3.開戦】

先に仕掛けたのは獣王。
異様に長い腕を振り上げ、対峙する青年の右の肩口から左の脇腹までを漆黒の爪で引き裂こうとした。
左手の爪が弧を描いて大気を切り裂き、悲鳴のような音を空間に刻む。
しかし、ダネシュティの邀撃は迅速に為された。
杭魔杖《テーベス》を流麗に動かして、巧みに爪の軌道へ光の錐を合わせる。

「……ハッ」

気合いと共に吐かれた息と、音叉を思わせる激突音が重なり、石窟神殿の闇に響いた。
左腕に感じた衝撃から自らの攻撃が防がれたと気づき、獣王は残った右腕で追撃を仕掛ける。
ニ撃目は初撃とは逆の軌道で、ダネシュティの左脇腹から右の肩口までを狙う爪撃。

「貴様の得物は一本、此方はニ爪! 防がれる道理はないッ!」

獣の王が吼えた。
が、鋭い爪が切り裂いたのは虚空に残る残像のみ。
必殺を確信して繰り出された追撃は、流水の動きで躱される。

「貴方の理に従う謂れはありません」

ダネシュティは背後に短く跳び退り、槍の間合いを作ると三度の刺突を繰り出す。
宙に閃く銀光は全てが獣王の異装を刺し貫き、赤い飛沫を散らせた。
獣染みた身体能力を持つ獣王からすれば然程の速さとも思えないのに、光の錐は回避行動に合わせて軌道を変える。
ならば、と攻撃に移って爪撃を試みても結果は同様。

「俺の動きが見切られている……ッ!?」

獣王が不快な呻きを漏らすと、ダネシュティは涼しげな表情のまま、杭魔杖《テーベス》の先端を敵対者の心臓に向ける。

「ええ、私には貴方の動きが手に取るように視えます」

「貴様は俺の動きを読めるというのか。
 ならば、躱すことが出来ないくらい攻撃を集中させれば良いだけだ。
 いかに小賢しく動こうと、無数の眷属の動きを読んで、躱しきることなど出来はしまい。
 来たれ……マディラの聖獣たちよ!」

手負いの男の身体から、殺気と共に黒耀石の燐光が立ち上る。
石室全体へ拡散してゆく光の粒子は、瞬く間に十数点を中心として集い、獣皮に黒耀の色を宿す獅子を十数匹も形作った。
これこそが、島を蹂躙する魔獣の群れの正体。
獣王の内なる“世界”の住人とも言える存在たち――――顕現《アヴァター》。

418 ◆Tio/Ue.LMI:2014/04/13(日) 14:41:42 ID:uKN02lFU0
【獅子の夢/Episode 4.滅夢】

石室に出現した十を超える魔獣は包囲の陣を作り、前列の四頭が一斉にダネシュティ目掛けて襲いかかった。
前後左右からの同時攻撃で、残る黒獅子も包囲網から逃れようと飛び出す瞬間を狙い済ましている。
どれほど緊密な個体同士でも不可能と思える程の正確無比な連携攻撃は、歴戦の武術家ですら回避困難だろう。

「先生、後ろからも魔獣が!」

ティーオが叫び、死角への注意を促す。
しかし、警告は杞憂。

「案ずることはありません。
 獣の王が己の“世界”を持つように、私も己の“世界”を持つ」

ダネシュティは背中に目があるかのように杭魔杖《テーベス》を己の背後を通して薙ぎ、再び前方に構えた。
その途中、杖の先端に宿る光の錐が射ち出され、背後の黒獅子の一頭を眉間から臀部まで貫く。
負傷した事で実体を保てなくなったのか、魔獣は光の粒子となって消えていった。

「襲えッ」

王命を聞き、後列で控えていたニ頭の魔獣が攻撃陣形の欠落を埋めようと疾駆する。
それに合わせて、敵の陣形も一瞬毎に変わってゆく。
その流動する複雑な軌跡をダネシュティは正確に見据えていた。
先程まで漆黒だった瞳を、今は白銀に輝かせて。

「暴力的なまでに溢れる戦いの意志は、貴方たちが身体を動かす前に空間へ思念の軌跡を残しています。
 私の“世界”は、それを捉え、この白銀の双眸へ移す事で相手に先んじる」

ダネシュティが速度に勝る相手を体術で凌駕し続けた根拠は、相手を見極める眼。
この天眼とも言うべき力が、今までに幾多の禍物を狩って来た彼の本当の武器なのだ。

魔獣の狩人は、再び杭魔杖《テーベス》に光の錐を灯らせ、杭と化した武器を左翼の獅子へ突き刺す。
頭部を光の粒子として散らせる黒き魔獣。
そのまま、ダネシュティは獅子の包囲を駆け抜けた。
敵意の軌跡を読み、変転する敵の陣形に生まれた僅かな隙を縫う。
銀光の杭を自由自在に振るって戦場を駆ける様は、一陣の死の旋風の如し。

「馬鹿な……王となるべき俺が……これほど容易く……死ぬ……など」

白銀に輝く旋風は、獣の王を終点として止まっていた。
ダネシュティが振るった光の杭は獣皮の衣装を突き破り、心臓を貫いて、獣の夢をも穿つ。
獅子皇帝の末裔を名乗る男は紅い噴血を撒き散らし、キュレリアの石窟神殿に倒れた。
彼が身に付けていた黒い宝玉も静かに転がって、夢の終わりを告げるかのように虚ろな音を鳴らす。

419 ◆Tio/Ue.LMI:2014/04/13(日) 14:43:59 ID:uKN02lFU0
【獅子の夢/Episode 5.凶兆】

「終わった……んですよね?」

ティーオが己の師へ問い掛けるものの、ダネシュティは警戒を解かない。

「いいえ……まだです。
 王が倒れたにも拘らず、飼われていた黒耀の獅子が消えません」

顕現《アヴァター》は、夢見るものが覚めれば、夢像の光景が消えてゆくように滅すべき儚きもの。
それが、奇怪な事に主が斃れた今も、確固とした実体を保ち続けている。

「うぁぅっ」

グロテスクな光景に少年は悲鳴を漏らした。
魔獣の群れに目を向ければ、その全てが床に散った造物主の鮮血を舐めている。
それを見て、ダネシュティは近くの一匹を光の杭で屠った。
凶兆が明確な厄災となる前に、異変の源を葬り去るつもりなのだ。

「……黒獅子が崩れて、新たな像を作ってゆく」

「い、いったい何に? 誰の意志でっ? こんなの自然に起こるはずがないっ!」

事態の収集は遅きに失していた。
魔物狩人の青年と、その弟子は続く異変の発生を目の当たりとしてしまった。
血溜りに浮かぶ黒宝玉を飲み込んだ一頭の獅子が、粘土のように姿を崩してゆく様を。
透明な腕で捏ねられるかのように獅子であった肉塊は蠢き、新たな像を形成する。
程なくして出来上がったのは、雪のような肌に金髪碧眼の美貌を持ち、両肩に生きた獅子の頭部を生やす裸体の青年。

420 ◆Tio/Ue.LMI:2014/04/13(日) 14:47:43 ID:uKN02lFU0
【獅子の夢/Episode 6.敗走】

「……これが、今まで感じていた黒耀石《オブシディアン》の気配の源」

「両肩に獅子頭って……ま、まさか獅子皇帝ギルヴィ……が蘇った?
 で、でも星霊教団が伝える蘇生魔術も、神魔コンツェルンの蘇生技術だって、躯がなければ不可能なはず。
 いくらギルヴィが死んだ土地だからって……」

超常の工芸を披露された観客の一人は目を細めて呟き、もう片方は纏まらない考えを垂れ流す。
石窟神殿に新しく現れた謎の人物は、伝承で伝えられる獅子皇帝の姿そのものだった。
それは、ただの肉塊の像でない事を示すように厳かな声を発する。

「余は還って来た。
 此の男の血脈の中で継がれていた遺志と、強き想いが奇跡を生んだのだ。
 世界を統べる王として、余は今より奇跡を起こした民の祈りに応えるとしよう……世界を我が手に取り戻す」

三頭一身の魔人が腕を翻すと、まだ石窟神殿に残っていた数頭の黒獅子が光の粒子に変じる。
それは室内を渦巻きながら美貌の男に纏わりつき、漆黒の衣装として再構成された。

「言語も法も常識も……万物は常に流転し、変化を続けています。
 ですが、重く確固とした“世界”を持つ者ほど、自ずから変わる事が出来ない。
 だからこそ、彼らは変化してゆく実相の世界から取り残され、新しき世代に追われて座を明け渡す。
 私の眼には……貴方の世界も重すぎるように見えます、獅子皇帝ギルヴィ」

今までに感じた事のない重圧を全身に受けつつ、ダネシュティは言う。

「下賎が皇帝の名を呼ぶとは不遜、余の事は陛下と呼べ」

咎めたギルヴィが不敬を表す者に向かって、ゆっくりと歩む。
意志の軌跡を視る力が、ダネシュティに続く獅子皇帝の行動を伝える。
と、同時に己の弟子が恐るべき力を避けられない事も悟ってしまう。
そして、弟子を守れば己を守れず、逆に己を守れば弟子を守りきれないとも。

「ティーオ、私が全ての力を賭して奴の攻撃を防ぎます。
 貴方は直ぐに此処を離れ、巨大な“世界”を持つものを探して、あれの脅威を報せるように……!」

取捨選択は即決だった。
杭魔杖《テーベス》の先端から伸びた光の円錐が砕け、強い輝きとなって周囲の空間に刻まれてゆく。
師である兄より小さい“世界”しか持たないティーオの眼でも、今ならば師と同じ“世界”を視る事が出来た。
白銀の光で造られた進むべき路と、死を宿して近づいてくる黒耀の光の軌跡が。

「……兄さんも一緒にッ」

普段は先生と呼ぶようにと言われていた事も忘れ、声を涸らして師を誘うティーオ。
しかし、攻撃の軌跡を先行して視る力を得たからこそ、兄である男が奈落に墜ちる事も分かってしまう。

「早く行きなさい、光の道を辿って!」

再度ダネシュティが叫ぶ。もはや時は無い。
少年は兄の言葉に込められた硬い決意を悟り、その決断を無駄にはしないと誓い、涙を堪えて白光の避難路へ飛び込む。
一瞬遅れてギルヴィの生む力が、石窟神殿を埋め尽くした。
不可視の力で束縛されたカルナ・ダネシュティの五体が、雑巾を絞るように容易く捻じ曲がってゆく。
“世界”の全てを羈束するような圧力。
常軌を逸した苦痛を受けながらも、彼の白銀の瞳は絶命するまで光を失わなかった。
例え肉体が消え去っても、自らの“世界”に宿る想いを継ぎ、無限に光り輝かせるものがいると信じていたから。

【獅子の夢.Fin】

数時間後――――古の遺跡を越え、深い密林を抜けた少年が近隣の村に辿り着く。
村人から名を問われると、彼はダネシュティとだけ名乗った。

421Rinsyi ◆Ac3b/UD/sw:2014/04/14(月) 01:34:35 ID:6e1ocbtc0


リンセル「ふわぅっ! 獅子の夢? こ、これは何でしょうか?」
ミリア「もうずっと集中力が低下してて何も書けない状態で……最初から起承転結を決めた挿話なら書けるかなと思って」
リンセル「えっ、えっ、何も書けないって? まさか私たちは打ち切り!?」
ミリア「あ、いや……ちょっと療養中って所だよ」
リンセル「幼女と遊んでるだけなのにリハビリが必要なんですか!? ミリアさんは!?」
ミリア「ごめん、頭が鈍い時は自分で書いた文の意味すら、よく分からないくらいで……脳細胞が死につつあるのかも」
リンセル「なんなんですかその言い訳は!? ロスト・スペラーを見習って欲しいですっ」



リンセル「あと、獅子の夢の話はあのまま終わりなんですか?」
ミリア「うん、あの程度の事なら世界中で起こってるってのを示しただけの挿話だから、あれで完結だよ」
リンセル「つまり、投げっぱなし……! 私の事も投げっぱなしにしないか心配です!」



リンセル「ところで、世界って単語は割と使いますよね」
ミリア「ま、それなりに使うような気もするけど」
リンセル「私たちが生きてる世界(ネバーアース)と、それぞれ個人が持つ世界との区別が難しくないですか」
ミリア「んー……世界って表記だけだと、そうかも」



リンセル「アサキムさんが能力設定でヘルプを求めてますけど、私たちに何か出来る事は無いでしょうか?」
ミリア「負を正に転化させられるかって話?」
リンセル「はい、そうです」
ミリア「陰陽道には、陰陽転化(循環律)って考え方があるけど、その辺りで煮詰めればどうかな」
リンセル「陽極まれば陰極まり、陰極まれば陽極まるって考え方ですね」
ミリア「ま、本質自体を変えるんじゃなくて、ペンキで塗り潰すだけなら力があれば何とでも出来そうだけど」
リンセル「本質を変えるって、どういうことですか?」
ミリア「リンシィ、赤って色を青って色に変えるには、どうすればいいと思う?」
リンセル「えーと……あっ、そういうことですねっ」



リンセル「そういえば、ダァトさんの設定に根源の渦《アカシック・レコード》の一部分に成りつつ有るってあります!」
ミリア「無《アイン》や無限《アイン・ソフ》と、根源の渦が同じかは知らないけど、アタシらよりは答えに近そうな存在だね」
リンセル「属性変更に関しては、ダァトさんを頼ればよさそうですね」
ミリア「自信満々に憤怒の封印は数十年は持つとか言ってて、三日も持たなかった魔術王ダァトさんをね」
リンセル「しーっ……言っちゃダメです」



422医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/05/02(金) 23:30:47 ID:mkl28vCY0
>>412
コーデファーはミリアが豹変した理由も意図も分からないものの、自らが不本意な状況に置かれた事だけは理解した。
こうして両腕を掴まれ、床に押さえ込まれてしまっていれば嫌でも分かる。

「おまえっ、キスですって? いきなり何のつもりなの!?
 足なんか舐めなくて良いから、さっさと退きなさい!」

切迫の表情で喚き、何とか逃れようと暴れるコーデファー。
しかし、体格も膂力も幼児のものに過ぎない身では、覆い被さったミリアを跳ね除けるのは難しい。
細い足をばたつかせた抵抗の成果も、床を鳴らす打音のみである。

「退けっ、退けったら! ひぃやっ」

ミリアの舌で頬が濡れた不快な感触に、思わずコーデファーが呻きを漏らす。
この女は何なの? なぜこんな真似をするの?
格好からしてこのパン屋の下働き。
それなら、これは患者を診察しないと言った報復?
そうだ……きっとそうに違いないと、コーデファーは結論付ける。

「そ、そこの娘を診て欲しいんでしょ!? だ、だったら直ぐに止めなさい!」

ミリアの動きが逡巡で止まった。
時間の猶予が生まれると、冷静さを取り戻したコーデファーは今の状況を打開する手段について思い出す。
身に纏う白いポンチョコートが秘める呪衣の防護魔力に。
護身用としてバニブルの医療司書へ支給される官衣の魔力を起動させれば、相手が猛獣であろうと撃退出来る。
しかも、通常の魔術とは違って発動にも複雑な動作を必要しない。
こんな女の言う事を聞く必要など無いのだ。

「Teyurera Pio Naples」

思い至ると同時に行動は為され、コーデファーの唇から不可思議な言葉が漏れた。
呪衣の防御力を発揮させるキーワードだ。
瞬間、呪衣の魔力が励起してコートの表面は蒼白く光った。
魔力から生まれた強い反発力は、自らに覆い被さるものを不可視の障壁で弾き飛ばす。

423ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/05/03(土) 00:29:55 ID:Zo.CJCrE0
「かぁ、ふぅっ……痛っ……」

魔力で弾き飛ばされたミリアは仰向けに転がり、声と息とを吐き出した。
視界が朦朧と白く霞み、全身も電流が走ったかのような痺れで痛む。
数度の呼吸を経て、意識が明瞭さを取り戻すと、目の前には蒼白い霊光を纏ったコーデファーの姿がある。
弾き飛ばされる直前に何かを詠唱した様子から、防御の魔術を発動させた事は一目瞭然だ。
ミリアは己の目論みが失敗に終わった事を悟り、内心で臍を噛む。

「な、何を企んでたか知らないけど、凡愚の分際でわたしにキスしようだなんて、み、身の程を知りなさいっ」

起き上がったコーデファーが、胡乱なものを見る目でミリアを見下ろす。
バニブルの医療司書が魅了の魔力を行使しようとした事を悟れば、問題が拗れて状況を悪化させるのは必至。
この場を穏便に収めるには先の行為への弁解が必要だった。悪意を持たない証明が。
ミリアは苛立ちや全身に走る痺れを堪えて、床に両膝を付いて頭を下げる。

「ご……ごめんなさい、今のは魔が差したって言うか……アタシ、可愛い子を見るとキスしちゃいたくなる性格で。
 それで、どうせキスするんなら唇の方がいいかなって思って……」

「はぁ? ごめんで済めば警察は要らないって言葉、知ってる? 嫌がる他人にキスなんかしたら犯罪なのよ!
 そんな性格直しなさい! この犯罪者予備軍! なに考えてるの!?」

「足を舐めて欲しいって言ってたから……そんなに嫌がるなんて思わなかった……です」

「おまえ、なんか勘違いしやすい上に調子に乗りやすい性格のようね。
 ちょっとでも優しくされると、誰にでも尻尾を振る犬みたい」

為された釈明に一応は納得したのか、コーデファーは呆れたような侮蔑を投げつけ、螺旋階段から一階に降りてゆく。
意気沮喪したミリアが少し遅れて続くと、ダイニングではフロレアが来客を遇する場を設けていた。
テーブルの上には青装飾の皿を並べ、陶器のポットに茶葉を入れている。

「ミリアちゃん、上で大きな音がしたけど……だいじょうぶ?」

「う、うん、まぁ、別にたいしたことはなかったから……。
 レナードさんだけだと、一人で切り盛りするのは大変なはずだし、アタシはお店の方を手伝ってよっか?」

まだ背に残る打撲の痛みを隠して、ミリアはそう申し出る。
コーデファーの不興を買った自分が接待の場にいても、諍いを起こすかもしれないとの考えもあった。
司書の呪衣から霊光は失せていたが、防護の力は消えておらず、着用者を守るべく魔力で覆い続けているとも感じられた。
軽挙から先走って警戒されてしまった以上、迂闊に魅了の術を仕掛ける訳にもいかない。

「客足の減る時間だから、レンだけでも大丈夫だと思うけれど……。
 そうね、手が足りないようなら手伝ってあげて」

フロレアに言われて、ミリアは店舗へ向かう。
レナードは厨房で作業をしながら、ベルで呼び出し音が鳴る度にカウンターに立って販売を行っていた。

「レナードさん、大変そうだからアタシが売り子するよ」

「ああ、それなら此処はミリアに頼もう。リンシィの様子はどうだ?」

「バニブルから来たのがちょっと難しいみたい人で、今は憩餐でご機嫌取りってとこかな。
 と言うか、えっと、ごめん……たぶんアタシのせいでご機嫌損ねちゃった」

ミリアは自分の言葉でレナードの表情が曇ったように感じた。
言葉を濁しながらも、伝えた内容が診療の不調である以上は当然かもしれない。

「そうか……まあ、あまり気にすることはない。フローが上手く取りなすさ」

慰めの言葉を掛けられ、ミリアは己の不甲斐なさと申し訳なさで目を伏せる。
レナードが厨房へ向かうと、カウンターに入ったミリアは接客を担いつつ、状況を好転させる方法を考え始めた。

424医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/05/04(日) 11:49:31 ID:43wzJX.k0
憩餐の準備が整った。
彩りも鮮やかなメニューを見て、甘い物好きなコーデファーの顔は綻ぶ。
フルーツサンドにハムサンド、ナッツ入りブラウニークッキー、甘いパンが数種類、木苺や栗のカップケーキ。
パンや焼き菓子の類は、全てロルサンジュ自慢の品だ。
その周りには砂糖とジャムの瓶、陶器製ティーポット、四人分のティーカップと輪切りのレモン、ピスタチオのジェラート。
ティーポットの注ぎ口からは、爽やかな香気が薫って卓上に広がっている。

「……ミルクはどこ? 無いと飲めないでしょ」

コーデファーはテーブルに視線を走らせると、怪訝な顔でフロレアに問いかけた。
ミルクと砂糖がなければ、コーデファーの舌に慣れた味を作れない。
乾燥した気候や水質の違いもあってか、バニブルでは紅茶にミルクや砂糖をたっぷりと使うのが主流なのだ。

「あら、ごめんなさい。
 今、ご用意いたしますね、フラスネル様。
 エヴァンジェルには紅茶にミルクを入れる習慣が無いから、うっかりしていました。
 せっかくですから、私もミルクティーにして頂いてみますね」

柔和な微笑みを浮かべ、フロレアは冷蔵庫から牛乳を取り出して陶器の小瓶に注ぐ。
エヴァンジェルでは紅茶にミルクや砂糖を入れることは稀で、主にレモンを絞って香りを付ける。
ミリアの故国、イストリアでは蜂蜜やチョコレートを添えられる事も珍しくない。
紅茶の飲み方も各地で作法が違うということだ。

「紅茶に砂糖とミルクを入れるのは常識よ、常識。
 まったく……紅茶の美味しい飲み方も知らないなんて田舎者ね」

「そうですね、確かにエヴァンジェルは大都市ではありません。
 いい所はたくさんあるのですけれど」

コーデファーが殊更に優雅さを繕って陶器の小瓶を持ち、ティーカップに牛乳を入れた。
フロレアが用意したのは、繊細な香りを持つ紅茶。
本来ミルクティー向きではないのだが、牛乳と砂糖は構うことなく大量に注ぎ込まれてゆく。
澄んだ紅茶の琥珀色は一瞬だけ複雑な白い模様を描き、すぐさまベージュ色の濁りに変わった。

「いい所? 名所なんて壊れかけの大聖堂くらいじゃない」

聖都を貶すコーデファーの物言いに、付き添いの女助祭が微かに眉を動かす。
しかし、口を差し挟むつもりは無いようで、席に着いたまま静かに紅茶を嗜んでいる。

「エヴァンジェルのいい所は名所ではありません。
 パン屋としてはパンを誇りたい所なんですけれど、それを作る人たちの方が私にとっては自慢です。
 原材料の小麦を育ててくれた人、作るための器具を作ってくれた人、パン作りを教えてくれた人。
 パンを食べたいと思って足を運んでくれる方たちがいなければ、パンを作ろうとは思わなかったでしょう。
 例えばこのパン一つを取っても、私たちだけでなく様々な人たちが関わらなければ出来上がりません」

そう言って、フロレアはハムサンドを指で千切って口へ運んだ。

「そんなの、どこだって同じじゃない」

「はい、どこでも同じだと思いますよ。
 人は一人では生きられませんから」

「ふぅん、わたしは説教臭い話は好きじゃないの。覚えておいて」

コーデファーは透明な硝子器に盛られたジェラートをスプーンで掬い、ピスタチオの風味を味わいながら舌で溶かす。
鼻白んだ様子の話し相手を見て、フロレアも話題を変えることにした。
そもそも、フロレアは子供のような容姿と性情のコーデファーに大きな期待を寄せている訳でも無い。
今は憩餐を通じて、少しだけ互いの理解が深まれば、それで良いと考えている。
だから、エヴァンジェルについて知ってもらいたいし、コーデファーの背景についても知りたい。
先ほど、ミリアに己の足を舐めろと言い放った感情の裏側に何があるのかも。

425医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/05/04(日) 11:50:24 ID:43wzJX.k0
「ところで、フラスネル様は百年以上を生きてらっしゃるのですよね」

「そうよ。
 でも若返る際にセマンティック記憶の一部を残して、エピソード記憶はほぼ消えるわ。
 凡愚に難しい説明はしないけど、思い出みたいな記憶はほとんど無くなるってこと」

「若さと引き変えに今までの人生を忘れてしまう……何だか悲しいですね」

「そんな感傷は凡庸な大衆の考えに過ぎないわ。
 人は死ねば終わり、自分の命に代えられるものなんて何もないもの。
 あっ、死っていうのは蘇生できる段階を過ぎた本当の死のことね」

「死ねば終わり、なのでしょうか……?
 私は何かに想いを残せば、自分が去った後にも誰かの心に留まることができる気がしています」

「それ、三主教の教え?」

「ええ。子供の頃、聖堂で司祭様に聞いたことを今でも覚えています。
 木の幹は枝を伸ばして、その枝からは芽が出て、芽は花を咲かせて、やがて実を結ぶ。
 そうして出来た新たな種が幹について知らずとも、幹が枝に己の愛を分け与えていれば、きっと種まで想いは伝わるって。
 先ほど聖都の名所と仰られた厳かな大聖堂も、それを造ろうと思った人たちは、もう誰も居ません。
 ですが、彼らが街や大聖堂を造った時の想いも、きっと私の心を構成する一部なのだと思います」

「そっ……上の階で眠ったままの娘が、おまえの想いを受け継ぐものってわけ?
 わたしは自分が死んだ後の世界になんて、何の興味も無いわ。
 何かを残したところで、自分がいなければ意味なんか無いもの」

冷たく言い放ったコーデファーがティーカップを口元に運び、乳白色に近くなったミルクティーを飲む。
大量の砂糖が添加されたミルクティーは甘ったるいものだったのだが、コーデファーの表情は満足そのもの。
客人の喉を潤したカップが受け皿に置かれると、フロレアは再び問い掛けた。

「フラスネル様に子供はいらっしゃらないのですか?」

「若返る前の私が付けてた記録を見る限り、ずっと前にはいたみたいね。
 と言っても、自分以外には延命法を施してなかったようだから、子供どころか孫までとっくの昔に老衰で死んでたわ」

興味なさげに答えたコーデファーは、パン・オ・ショコラに手を伸ばす。
温められた四角いクロワッサン生地の中には、舌を楽しませる二筋のチョコレート。
その微かな苦味を帯びた甘さを、小さな舌が存分に堪能する。

「お孫さんまで儲けられていたのなら、少なくとも子供が巣立つまで見守る事は出来たはずです。
 たとえ、もう覚えていなかったとしても、かつてのフラスネル様は子供を愛していたのだと思いますよ。
 フラスネル様なりの愛し方で。
 子供の記録を残しておいたのも、忘れたくない気持ちがあったからではないでしょうか」

「どうかしら。覚えてないから子供への思い入れなんて微塵も無いのだけれど。
 わたしが子供を愛してて、忘れたくなかったのなら、なんで子供の記憶を捨てる決心が出来たというのよ?」

「多分、もう自分がいなくても大丈夫と判断したからこそ。
 フラスネル様は、ご自分の道を進む決心を付けられたのでしょう。
 もちろん、ご自身の研究への揺るがぬ信念や、心の強さもあってのことだと思われます」

コーデファーは窓の外を見つめ、無くした記憶を探すかのように遠い眼差しで考え込む。
しかし、肉体を作り変えることで失われてしまった脳内の記録が、その程度の作業で還るはずもない。
無駄な試みを放棄したのか、すぐに彼女の視線はナッツとチョコレートを塗したドーナツへ向けられた。
小さな指で摘まれて、三回ほども齧られると円形だったドーナツも弧の形。

続いて味わわれるのはフルーツサンド。
大粒の赤い苺、南国産のマンゴーやキウイ、赤瞑海沿岸で栽培される青い果実・ソリュアラが使われ、彩りも鮮やかだ。
果実の甘さを強調するため、クリームの甘さは控えめで口当たりも軽い。

426医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/05/04(日) 11:54:22 ID:43wzJX.k0
「パン屋だけあって、パンやケーキの味は悪くないわね」

甘い物を食べている内に機嫌も直って来ていたのだろうか。
真冬の精を思わせるコーデファーの容貌も、やや和らいだ印象だ。

「気に入って頂けたのでしたら嬉しいです」

「おまえ、パン作りだけは凡庸でもないようね。
 わたしにキスしようとした頭のおかしなアルバイトは気に入らないけど、憩餐のお菓子は気に入ったわ。
 お土産に甘い物を贈ってくれるなら、娘の一人くらいは診てあげようかしら」

急に診療するとの言葉が出たのは、ロルサンジュのパンを気に入ったからなのだろう。
まだ手を付けられていないお菓子も少なくないが、コーデファーは満腹のようで未練に満ちた眼を向けている。

「感謝いたします、フラスネル様。
 ロルサンジュのパンや焼き菓子がお気に召したのでしたら、お帰りになる際にお包み致しますね」

フロレアは素直に謝意を述べた。
そして、先ほど上の階で響いた大きな音の原因も理解する。
ミリアがコーデファーにキスをしようとしたのだろうと。
リンセルが事故で意識を失った翌日、ミリアはフロレアにもキスをしている。
混乱や寂しさから取った行動だとしても、相手構わずにキスを迫れば無用なトラブルに巻き込まれかねない。
ミリアの性癖を懸念し、戒める必要を感じながら、フロレアは席を立った。

「それじゃ、鞄を持ってちょうだい。
 色んな診療の道具が入ってるから重いのよ、あれ」

コーデファーは付き添いの女助祭に命じると、足取りも軽やかに螺旋階段を登ってゆく。
彼女は、いつか今日の出来事も一睡の夢の光景として、記憶の中から消してしまうのだろうか?
殊更に他者へ冷淡なのも、その辺りを自覚しているからかもしれないと、フロレアは小さな医師の背を見て漠然と感じた。

「まずは、覧界視での診療ね。
 その女の服は邪魔だから適当に脱がせといて」

リンセルの部屋に戻ったコーデファーは診療の準備を指示しつつ、鞄から奇妙な形の道具を取り出す。
形状は単眼のオペラグラスにも似ていて、透明度が高い幾つもの奇石を一列に連ね、筒の中に嵌め込んだ物のようだ。
これは古代マディラ帝国期に地質や土地の霊格を判断する分析器として使われた魔術具、“覧界視”。
幼げな容姿を持つバニブルの医療司書は、この観測鏡を身体分析の魔術具として使う。

魔術具も魔術と同様に一つの神秘である。
だから、投じられた魔力や製作者の技量にも拠るのだが、基本的には古く、造られた数も少ない程に力を持つ。
覧界視も一点ものの骨董品で、売却すれば邸宅が建てられるような価格が付く代物だ。
これを含む幾つかの希少な魔術具の保持が、ラクサズがコーデファーを保護する理由の一つでもあった。

コーデファーは単眼鏡の魔術具を静かに覗き込み、リンセルの体内気脈の巡りや、各部位の活力を診る。
生きた人間なら様々な色の霊気が見えるはずなのだが、この昏睡する娘の様子は違っていた。
視えたのは空洞のように虚ろな暗さ。
まるで屍のようで、この状態で生身の人間が生きていられる理由が分からない。
覧界視から眼を離すと、コーデファーはリンセルの腕に針を刺したり、冷やしたり、色々と試しながら思案を続ける。

「……違う、氷心病でも無い。屍鬼化でも無いわね」

やがて、診察を続ける医療司書はリンセルの肉体に微かな変化を捉えた。
覧界視での観測を続けていると、六等星よりも弱い霊気の光が微かに生まれては消えてゆく。
コーデファーは即座に脳内に残す膨大な症例から類似例の一つを見つけ出し、芳しくない結論を導き出した。

「おまえの娘は、もう死んでると言っても良いわ」

鈴のように軽やかな声が、リンセルが眠る寝台の上で冷たく、重く響いた。

427ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/05/22(木) 22:33:40 ID:imOD15A20
陽は僅かに西へ傾き始めていた。
飲食店にとって忙しい時間帯は過ぎたものの、ロルサンジュの客足が途絶える程ではなく、それなりに店は忙しい。
ミリアもカウンターで接客しながら、話し掛けてくる客に対応していた。

「ねぇ、あなた。パン・ド・ミを六枚切りにして頂けます?」

「あっ、はい。ただいまっと。
 えーと……此方のお客様の胡麻クリームサンドとバゲットは、合計5R$になりますね」

ミリアは若い学生への会計を済ませると、ブレッドナイフを使って六枚切りにしたパンを中年の女に渡す。
それを終えると、今度は三主教徒と思しきエルフ族の接客だ。

「獣の肉や乳を使っていないパンはありますか?
 教義上の理由で口に入れる事はできないものですから……」

「あぁ、確か三主教には肉や卵を食べない宗派の人もいるんだっけ。
 ロルサンジュは誰にでも対応出来るようにしてたはずだけど……。
 そうそう、そっちの緑の棚がベジタリアン向けだよ」

ミリアは求めの品を指し示す。
フロレアに比べれば遅いが、客捌きも次第に慣れてきたようで、昨日に比べれば列が捌けるのも早かった。
誰かの役に立っている実感があると、やはり嬉しい。
客が途切れて時間が空くと、ミリアは聴覚強化の魔術を使い、背後のドアに隙間を開けて憩餐の会話に聞き耳を立てた。
今の生活を破壊されるような予感に駆られて、胸が騒ぐ。

――――覚えてないから子供への思い入れなんて微塵も無いのだけれど――

ドア越しに聞こえて来る微かな声は、医療司書の冷たい言葉。
彼女が若化と引き換えに捨てたものには、自らの子供の記憶も含まれている。
親から忘れ去られてしまうなど、ミリアにとっては想像するだけでも胸を掻き毟られような心地だ。
果たしてどのような気持ちだったのだろうかと、見も知らぬコーデファーの子に憐憫を覚える。
さらに仕事を続けて時が過ぎ、街並みが夕陽に沈む頃になると、ロルサンジュの営業時間も終わりを迎えた。

「今日は、これで閉店だよね。
 ところで、フロレアさんもバニブルの医療司書さんも、ダイニングから出て来ないんだけど……どうしたんだろ。
 憩餐が終わったら、すぐに帰るようなこと言ってたのに」

「リンシィを診察してくれてるんじゃないか」

「あの我儘そうな司書さんが?
 自分の中から子供の記憶まで消しちゃえるような人が、簡単に心変わりなんてするのかな……」

レナードの意見にもミリアは否定的だ。
初対面のやり取りを思い返すと、コーデファーが善意から診療を始めたとは考え辛い。
ストレス解消の玩具が自分からフロレアに移ったのだろうか。
或いは、さっき自分がされたのと同じ要求や、もっと酷い要求をされているのでは、と嫌な想像ばかりが広がる。

「……ちょっと様子を見てくる」

そう言って、ミリアは廊下を通り、ダイニングの扉を開けた。
数時間前まで憩餐が行われていた場所に、今は人の気配が無い。
玄関に視線を送っても来客の靴は残ったままなので、コーデファーと助祭が屋内にいるのは間違いないようだ。
ミリアはダイニングの螺旋階段を静かに登ると、リンセルの部屋の前で聞き耳を立てた。

――――おまえの娘は、もう死んでると言っても良いわ――――

扉の向こう側で下される宣告を耳に入れ、ミリアは顔色を変えた。
反射的に扉を開けて、リンセルの診察を行うコーデファーへ問い質す。

「リンシィが死んでるって……どういうこと」

428医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/06/03(火) 07:49:23 ID:hCwzHIwE0
扉が開く音。続いて問い掛けるミリアの声。
コーデファーは闖入者を小馬鹿にした視線で射ると、呆れたように息を吐く。

「おまえ、なに勝手に入ってきてるの? 
 変質者に近寄られると不愉快で落ち着かないから、今すぐわたしの視界から消えなさい」

自らの叱責でミリアが素直に視界から消えると、コーデファーは小さく鼻を鳴らして椅子に腰掛けた。
視線はベッドで横たわるリンセルに戻したものの、背中は警戒心を漂わせたままだ。
最初に会った時から、この医療司書はミリアに不快感を覚えている。
霊質の高さが、ミリアの持つ高い魔力に反応して、見えざる圧迫感を感じさせるのだ。
呪衣の防護力には自信を置いているものの、無意識に警戒が向く。
もう一度ドアを見て、ミリアが近寄ってこないのを確認すると、コーデファーはリンセルについての説明を再開した。

「例えるなら、この娘は吹雪に晒されて凍りついた命ってところ。
 だけど、完全に凍りつく寸前に僅かな火種が身体の底から生み出されて、辛うじて生と死は拮抗してる。
 一瞬毎に凍っては、僅かに溶けて、また凍りつく。
 その連続が肉体を生にも死にも傾かせず、全ての活動を静止させてるわけよ……分かった?」

コーデファーは、リンセルの心臓の辺りに手を押し当てて言った。
胸の鼓動は鈍く、注意深く聞き取ろうとしなければ感じ取れないほどに弱い。

「僅かな火種……。
 私たちが見つけられるように……リンシィも頑張って火を灯していたのね……。
 フラスネル様、娘がまた元気に笑顔を見せてくれる見込みは……あるのでしょうか?」

言葉を詰まらせながら、フロレアが快癒の可能性を問う。
平静を保とうとはしているようだが、搾り出すかのような声は細く震えていた。
ドアの陰から顔だけ出して部屋を除くミリアも、憂慮の視線をリンセルに向ける。

「助かる見込み? さぁ?
 生きてるとは言えない状態だから、目覚めの魔術は効かない。
 だけど、死んでるわけでもないから蘇生の魔術も効かない。
 肉体に活力が生み出されてる理由も分からない。
 いつまでこの状態が続くかも分からない。
 要するに、分からないことだらけってことだけが分かっただけよ。今のところは」

コーデファーは両手を広げてお手上げのポーズを取ったものの、青紫の瞳には好奇の光を宿らせている。
生死の間を漂うリンセルの不安定な状態は、永遠の生命を求めるコーデファーの関心を引き寄せた。
身体中の生命力が枯渇したように見えるリンセルから、なぜ活力が生み出されているのか。
死に抗える原因が、完全な不老不死に繋がるのではないかとの妄想を生む。

「ともあれ、昏睡の理由を調べようにも、パン屋の二階なんかでは無理ね。
 だから、それなりの設備を備えた所に移す必要があるわ」

言葉を凍らせたまま娘の手を握るフロレアに、コーデファーが提案した。
リンセルの状態についても、本格的に調べるつもりになったのだろう。
手持ちのタブレット端末を操作して、医療施設のリストアップを始めている。
しばらく検索した後、コーデファーは液晶画面に移った地図を見ながら言う。

「エヴァンジェルから五時間ほど南西に行った場所に、サナトリウムを兼ねた研究施設があるようね。
 ドイナカ村のトリフネってとこ……変な名前。 
 わたしが連絡を入れるから、許可が降りるようなら移送しなさい……って、聞いてるの?」

黙り込むフロレアがハッとしたように頷く。

「……あっ、はい、でもまず、レンと相談してから決めたいと思います」

相談の必要から、ステンシィ家のダイニングで家族会議が行われることとなった。
一足先にミリアが階下へ降りてゆくと、室内に残った人物たちも続く。

429ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/06/04(水) 19:52:07 ID:rQZtFMTs0
四角いテーブルに座るのはレナード、フロレア、ミリア、コーデファーの四人だ。
フロレアの説明で娘の状態について一通りを把握すると、レナードは改まった様子で医療司書に問う。

「フラスネル司書、娘の入院費用や期間はどれくらいになるのでしょうか」

「さぁ? 一通りの状態を調べるなら三ヶ月程度。
 外部の研究者が施設を利用させてもらうなら30000R$は必要じゃないの」

そっけない物言いで告げられたのは、見映えの良い新車が買える程度の金額。
金銭面で全く力になれそうもないことを理解して、ミリアは嘆息する。

「30000R$って言っても予想に過ぎないから、実際の出費は多めに見積もった方がいいね。
 それに離れた所にある病院だと、頻繁に様子を見に行くって訳にもいかないけど……」

そう口を挟むミリアをコーデファーが冷笑する。
浮かぶ笑みは膨大な医術知識を持つ事と、自分の他に治せる者などいないとの自負からだろう。

「嫌なら止める? わたしはそれでも結構よ」

「いえ、お願いします」

コーデファーに視線を向けられたレナードが受諾の意思を述べ、フロレアも同じ言葉を返す。
不可解な状態に置かれた娘の両親にとって、現状を変える選択肢はあまりにも少ない。
いつリンセルの生命力が枯渇するのか予期できない以上、早急に治療法を見つけてもらわねばならないのだ。

「そう、まあ当然ね。
 有象無象の凡愚ごときでは、治すどころか何が起きてるのかも理解できるはずないもの。
 せいぜい、自分の手には余るってことが分かるくらいね。
 あ、入院は早い方が良いから移送も明日にして。
 手続きがあるから、この家の人間も誰か来てちょうだい」

「私が行きます」

フロレアが応じると、ミリアも間髪入れずにテーブルへ身を乗り出した。

「アタシも行く。聖都の外は治安も心配だし。
 これでも少しは魔術も使えるから、気休め程度のボディガードにはなれるよ。
 ロルサンジュの販売担当がいなくなっちゃうけど……」

懇願の瞳をレナードに向け、胸を衝き上げる憂慮を口から吐く。
本来、聖都近郊の治安はそれほど悪くないのだが、この数週間の間は大きな事件や事故が立て続けに起こっている。
レナードも心配なのは否めなかったが、強い意志を宿したミリアの瞳を見ると諦めたように頷く。

「……分かった。ミリアもフローとリンシィに付き添ってやってくれ。
 明日の手伝いは、これから何人かの知り合いを当たるから心配しなくていい」

「迷惑かけてごめん、レナードさん」

ミリアの随伴が決まると、コーデファーは眉を顰めて苛立ちを示した。
動物嫌いの人間が、大きめの獣に近づかれた時の感覚が近いだろうか。

「こっちに来ても迷惑になるのは同じでしょうし、その女は別に来なくてもいいのだけれど。
 あ……そういえば、わたしの医療用具や患者を搬送する雑用があったわね。
 まあ、貴重な術具に傷はつけないでちょうだい。
 お前ごときじゃ、一生掛かっても払えないだけの価値あるものだから」

リンセルの入院に関する結論が出ると、コーデファーは庇護者であるラクサズに連絡を取った。
バニブルへは戻らず、リンセルの研究のためにエヴァンジェル近郊の医療施設に向かいたいと。
その許可は降りた。懐中時計の形をした通信魔術具からは構わないとの答えが即座に返された。
全てを終えると、コーデファーは助祭を引き連れてステンシィ家を出て行く。

430医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/06/10(火) 05:38:27 ID:iXm7IHA60
家族会議の翌日、ステンシィ家はリンセルを出立させる準備を整えた。
搬送にはエヴァンジェル病院の救急車を用い、約半日を掛けて南西の村に向かう。
ドイナカ村までは急行すれば五時間の道程だが、病体のリンセルを搬送する以上、車を飛ばす訳にもいかない。

「それでは行ってきますね、レン」

「ああ、二人を任せる」

レナードは短く言い、ストレッチャーで車両の中に移される娘の頬から手を放した。
ステンシィ夫妻が短い出発の挨拶を交わすと、救急車は大通りを西に進み始め、そのまま市街を抜けて城壁の外へ向かう。
この車両は赤を基調としていて、三主教の所属だと示すように白黒青の三色ストライプが車体中央に引かれていた。
運転席には病院の運転手が座して、助手席にはコーデファー、車両後部にはリンセルと付き添いの二人が乗り込む。
内部は一応の医療設備が整っていたが、最先端というほどでもない。
これは聖都での医療技術が、神聖魔術を用いた治療を行うまでの一時的な措置としか看做されていないことに拠る。
神聖魔術でも治らない場合は神の意志で治らないので、病を受け入れるべきだという宗派も存在するくらいだ。

「……ちょっ、ちょっと止めて。
 こんな、でこぼこした道路を走る、ものだから、すっかり車酔いしたわ」

広大な緑野に伸びた道路を一時間ほど走った頃だろうか。
コーデファーが朴訥そうな若い男性運転手に車を止めるよう命じた。
運転手は路肩に停車すると、青褪めた顔の同乗者を気遣うように問い掛ける。

「大丈夫ですか?
 私も魔術医ですから、神聖魔術で復調させることも可能ですが?」

「おね、がぁい。
 こんな田舎道を走るって分かってたら、酔い止めを持ってくれば良かっ……ぅぷ、気持ち悪……」

数時間置きに何度も休憩を挟んだ後、救急車は目的地たるドイナカ村に辿り着いた。
此処は薬効が高いと噂の温泉が湧く土地で、閑静な保養地でもある。
聖都を出発したのは朝だったが今は夜。長閑な田園風景も温かな闇の中に沈む。
仄暗い村道を車はゆっくりと進み、ほどなく真っ白なコンクリート建築の前で停車した。
入り口の表示プレートには、公用語で第拾弐号中央精神医学研究施設“トリフネ”と書かれている。

「ようやく着いたようね……。
 今日は疲れたから、わたしはゆっくり寝るわ……研究も明日から。
 おまえは患者を病室まで運んでおきなさい。
 こういった、頭を使わない肉体労働をするために連れて来たようなものなんだから」

コーデファーはミリアに患者の搬送を命じると、研究所付属の宿泊施設へ向かっていった。
居丈高な物言いは相変わらずなものの、乗り物疲れでやや足取りは覚束ない。
残された三者は、ストレッチャーに横たわるリンセルを車内から搬出して病室まで運ぶ。
トリフネでは扉の開閉がコンソールで行われており、簡素な内装も含めて全体的に無機的かつ機械的な印象だ。

「ご家族の方、私は翌日六時に救急車を聖都へ回送させますので、同乗して下さればお送り致します」

患者の搬送を終えると、運転手が帰還の予定を述べた。
ドイナカ村には空間転移の施設が存在するものの、直接聖都には通じていない上に利用料金も高額。
タクシーをチャーターしようにも、五〜六時間乗れば200〜300R$は必要。
村営バスなど公共交通機関を乗り継いで節約する手もあるが、地理や各都市の運賃に秀でない身では返って煩雑だ。
従って、彼の申し出はロルサンジュに帰る上では好都合だった。

「ありがとうございます。それではそうさせて頂きますね」

フロレアは礼を述べると、リンセルの横で佇むミリアに話しかけた。

「ミリアちゃん、今夜だけは病院の宿泊設備を使わせてもらえるみたい。
 今夜は此処に泊まって、エヴァンジェルに帰るのは明日の朝ね。
 しばらく会えなくなるから、今夜は出来るだけリンシィと一緒にいてあげましょう」

431ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/06/15(日) 07:35:40 ID:Fc.kcVHo0
リンセルの病室は近代的な造りで、天井に設置された蛍光灯が部屋の隅々を白光で照らす。
ミリアはストレッチャーからリンセルを抱き上げると、病室のベッドに寝かせた。
それを見て、フロレアは今後の予定を述べる。
今夜は出来るだけリンセルと一緒にいてあげましょう、と言い添えて。
ミリアが頷き、何か出来ることがないかと探し始めると、背後から金属質な声が聞こえた。

「入院準備、私ノ仕事。
 付キ添イ親族、休憩推奨、風呂食事ノ用意アリ」

ミリアが部屋の入り口に視線を向けると、看護婦用の服を着た背の低い女が立っている。
身長はコーデファーより頭一つ高い程度なのだが、顔つきは妙齢の佳を備え、決して子供のものではない。
頭部から覗く触角と、メタリックな光沢を帯びる豊かな巻き髪を備え、象牙色の肌は陶器のような質感。
一目見れば、ミリアにも彼女が異種族であることが分かった。

「此処の看護婦さん?
 人間じゃないみたいだけど、異種族の扱いとか大丈夫なのかな……」

「私、アデライド=べリシャリッツ・ルテニウム。
 金属カラ子孫作ル妖精種、鉱精《コルフィリド》。職歴十二年、心配無用」

看護婦はミリアの不安を払拭するように種族名や職歴を語った。
言葉の端々からぎこちなささが見られるのは、公用語の会話が不得手だからなのだろう。
アデライドが属するコルフィリドとは、身長120-140cmの小人で、鉱物を起源とする知的種族だ。
寿命は300年程度で霊質も高く、魔力的な手段で金属から子孫を作る。
名前の長さは、個体名+親の個体名、素体となる金属で名前が構成されるためだ。

「勤続十年以上のベテランさん……ね。
 じゃ、ここは看護婦さんに任せて、アタシたちは食事と入浴くらいは済ませてこよっか。
 せっかく用意してくれたみたいだし」

ミリアが疲労を癒すことを促すと、フロレアも頷き、鉱精の看護婦に向かって一礼する。

「娘をよろしくお願いいたします、アデライド様」

「万事諒解」

自信ありげな返事を聞くと、フロレアもミリアに続いて病室を出て行く。
様々な心労と慣れぬ場所への不安からか、ミリアの手を握り、歩幅を合わせて。
二人が向かった先は、一階東側の食堂棟。
白を基調とした内装で天井は高く、床は木材のフローリング、四人掛けの白いテーブルが整然と並べられている広間だ。
庭に面した食堂の中では、まだ何人かの先客が遅い夕食を取っている。

432ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/06/15(日) 07:36:24 ID:Fc.kcVHo0
「病院食だからって味付けに手を抜くのは、料理人の怠慢だわ」

食堂では子供用の補助椅子に座るコーデファーが、もぐもぐと口を動かしつつ料理の内容に文句を垂れていた。
此処での食事は地域の特色を生かした山菜がメインで、野菜の味を堪能できるように薄い味付け。
それがバニブルの医療史書の口に合わないようで、唇から吐き出される文句の源となっていた。

「フラスネル様、ご一緒しても宜しいですか?」

フロレアに相席を打診されたコーデファーは、嫌そうな瞳をミリアに向けた。

「フロレアだけならいいけど、そっちの女はお断り」

同席を拒まれたミリアは、一つ離れたテーブルを選んで着席する。
すでに八時を回っているせいか、食堂も閑散としており、座れそうな場所には事欠かない。
相席を頼んだ手前か、フロレアはコーデファーと同じテーブルに座った。
来訪者に用意された献立は野菜スープ、ライ麦ベーグル、山菜のサラダ、川魚の香草蒸し、林檎、ルイボスティーだ。

「体脂肪が減りそうなメニュー。ダイエットには良いかも」

「まるで、草を食べさせられる羊の気分。
 こんなメニューをありがたがるのなんて、ダイエットが必要な肥満体くらいだわ。
 明日は、もう少しましな食事が取れる場所を見つけなくてはいけないわね」

ミリアのダイエットという台詞が聞こえたのか、コーデファーは聞こえよがしに吐き捨てた。
甘味の足りなさで口寂しいのか、彼女はルイボスティーに砂糖とミルクを入れてミルクティーを作っている。

「フラスネル様、リンセルの病室に持参したパンや焼き菓子を置いてありますので。
 明日にでも、どうぞ召し上がってください」

フロレアの申し出を受けて、コーデファーが瞳に喜色を浮かべた。

「気が利いてるわね、フロレア。
 初日から不味い料理を食べさせられてうんざりしてたところだもの。
 ありがたく、わたしが頂いてあげるわ」

そして、エヴァンジェルからの来訪者たちが空腹を癒すことしばらく。

「……三主の恵みに感謝いたします」

あっさりしたメニューと手早く食事を終わらせる習慣から、フロレアが一番早く食事を終えた。
続いて、コーデファーとミリアも夕食を終わらせると、空のトレーを炊事場に戻して食堂から出て行く。

433ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/06/15(日) 07:38:09 ID:Fc.kcVHo0
フロレアとミリア、コーデファーの三人は片側が硝子張りとなった廊下を南に進み、浴場まで辿り着いた。
此処の利用者は職員と軽度の入院患者で、男女とそれ以外の性別で三つのエリアに分かれている。

「おまえ、なんでさっきからわたしの後を着いてくるの? ストーキング?」

コーデファーは苛立ちを込めた視線でミリアを刺す。

「別に後を付けてるってわけじゃないよ。
 アタシらも食事や入浴がしたいってだけ。
 改めて考えてみれば、到着が同じ時刻なんだから予定も同じなのは当然でしょ」

脱衣所に入ったミリアはクラシカルな服を脱ぎ、リボンバレッタを外しながら、問い掛けに言葉を返した。
隣のフロレアもシニヨンを解いて長めの髪を揺らしつつ、真っ白なドロワーズを脱ぐ。

「ふん……少しばかり胸が大きいだけで、それほど大人というわけでもなさそうね。
 フロレア・ステンシィもリンセル・ステンシィも生えてるのに、おまえには生えてないもの」

ミリアが白い肌を露にすると、コーデファーは目敏くフロレアの下腹部と見比べて呟いた。

「あのね、これは身嗜みとして処理してるだけ。
 その方が清潔だし、アタシの国じゃ常識なの。
 お医者様なら、それくらい分かりそうなものだけど」

「あっそ……それ、すごく頭悪そうに見えるわ」

「そう言うコーデファー様も、生えてないじゃない」

「煩い。若化の術を施してるんだから生えてないのは当たり前でしょう。
 相変わらず、栄養が全部胸に吸い取られたような鈍い頭!」

罵りを後に残して、浴場の扉を開けるコーデファー。
熱気で満たされた湿度の高い空間には、半埋め込み式の広い浴槽とシャワー設備が設置されていた。
浴槽を満たす温水は、薬効が高いと評判の村の温泉と同じものだ。

「黙ってればアンティークドールみたいで可愛いってのにね……まったく」

閉口の溜息を吐きつつ、ミリアも浴場を包む温かな靄の中に足を踏み入れた。

「ミ、ミリアちゃん、水着は着けないの?」

白い水着を着けて浴場の中に入ったフロレアが、素裸のミリアを訝しんで聞く。
聖都の住人に公共の場で裸体を晒す習慣はない。
他の地域の人間に比べれば羞恥心も強いので、浴場に全裸で入るのには抵抗があるようだった。

「えっ、なんで? プールじゃないんだし、お風呂で水着なんて着けないよ。
 それに水着なんて着てたら、体だってしっかり洗えないでしょ」

問われたミリアは不思議そうな顔で答える。
故郷であるイストリアでは、公衆の浴場で水着を着ける者など誰もいなかったので当然のことだろう。
ミリアも大きな二つの膨らみの間に銀色のペンダントだけを残して、一糸も纏っていない。
コーデファーも同様なのか、ビスクドールを思わせる白皙の裸身をそのまま晒していた。
入浴中の女性職員や患者たちも一人残らず裸で、水着を纏っているのはフロレアのみ。
そもそも、肌を他者に見られたくない者は個室のバスユニットを使うので当然ではあったのだが。

「で、でも……周りにたくさん人がいる所で……を見せるなんて……」

「混浴ならともかく、ここの浴場は男女でエリアが分かれてるんだから、別に恥ずかしがることもないよ。
 フロレアさんも体を洗う時くらいは、水着を取った方がいいんじゃない?」

フロレアは頬の高潮した顔を激しく横に振って、水着を外すことを頑なに拒んだ。

434ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/06/15(日) 07:38:35 ID:Fc.kcVHo0
パステルカラーのバスチェアに座るミリアが、泡立つスポンジを手に取って肌を擦り始めた。
泡で真っ白になったスポンジは足の裏から首筋まで、ミリアの全身を隅々まで巡ってゆく。
丸みを帯びた丘を駆け抜け、細い谷を通り、白い道を残して。
その泡の道筋も、最後には雨のようなシャワーで残らず洗い流された。
肌に溜まった疲労の跡を全て落とした後は、大きな浴槽に胸まで浸かって温水の心地よさを堪能する。

「リンシィと一緒にお風呂に入った時も、やけに恥ずかしがってたっけ。
 エヴァンジェルの人たちって、みんなこんな感じなのかな」

ミリアは聖都で過ごした期間を思い出して疑問を呟く。
リンセルが恥ずかしがっていたのは、エヴァンジェルの気風だけではない。
当人たちの自覚は薄いものの、魅了の力に囚われた影響でもある。
今のフロレアもリンセルと同じく魅了の影響下にあるので、どうしてもミリアを意識してしまう。
濁った目で見ないよう、フロレアは努めてミリアの裸へ視線を向けないようにしていた。

「……ええ、そう、ね」

「そっか。 
 やっぱり三主教の中心地だと、その辺りも硬い感じなんだ。
 言われてみれば、聖都で肌を露出してる人ってのも、あんまり見なかったような……。
 イストリアの方だと五ヶ月ほど海水浴が出来るってくらい暖かいから、タンクトップも珍しくないけどね。
 バニブルとかは、その辺りどうなんだろ」

ミリアは東の国から来た小さな司書を目で追う。
髪と体を洗い終えたコーデファーは、浴槽に浸からず、浴場内から足早に出て行こうとしている所だった。
脱衣所へ向かう小柄で真っ白な後ろ姿を見て、ミリアはハッと気づく。

(あ……そういえば、今ならコーデファーが魔術具のコートを着てないから、防護の力に阻まれない。
 いや、でも周りには他人もいるし、下手に動いて魅了に失敗したら今度こそ拙い……か)

短慮を悟って、すぐに考えを打ち消すミリア。
真意こそ分からないものの、今のコーデファーはリンセルの治療に前向きな態度だと見えた。
それを安易に壊しかねない行動を取るのは賢明ではないだろう。
思いつきを断念したミリアは髪を洗って浴場を出ると、仮眠室には行かず、フロレアと共にリンセルの病室へ戻った。

「ね、たびたび此処まで来るのが難しくなるなら、今の内にリンシィの写真を撮っておいた方がいいんじゃない。
 結構大切だよ、こういう日々の記録を残しとくのって。
 写真が残ってるから顔は思い描けるけど、アタシはもう父さんの声を正確には思い出せない」

ミリアが殊更に優しげな笑みを作ってリンセルを眺めると、フロレアも労わりの笑みで応じた。

「そうね……それじゃ、可愛い笑顔をいっぱい取っちゃいましょう」

携帯端末タブレットを持った二人が、リンセルの寝顔を写すこと数分。
ミリアの言葉で始まった即席の撮影会は、同じくミリアの言葉で中止される。

「フロレアさん。
 やっぱりリンシィが心配だからさ、此処でもう少し経過を見てたいんだけどいいかな?
 イストリアを出る時に持ち出した2000R$が残ってるから、しばらくだったら村にも滞在できるし。
 ロルサンジュの方は手伝えなくなっちゃうけど……」

ドイナカ村の一日の滞在費用は旅館なら50R$、マンスリーアパートなら食費を抜いて一日あたり25R$が相場。
1R$の価値はハンバーガー1個分や、自動販売機の缶ジュース1本分といったところだ。
野宿で一日一食の生活なら1R$で済ませられるのだが、それはフロレアが絶対に許さないだろう。
ともあれ、予期せぬ出費を考えても一ヶ月程度は村に滞在できるはずだと、ミリアは試算していた。

「ダメ、知らない村に女の子が一人で暮らすなんて」

真剣な顔つきになったフロレアが、即座に提案を却下する。
ミリアに魅了されたと言っても、安全に関わる案件は妥協しないようだった。

435医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/07/01(火) 18:48:27 ID:GGe8u1FI0
コーデファーがドイナカ村に到着した翌日の朝。
彼女が就寝する一室で、目覚まし時計のアラーム音が鳴り始めた。
ベッドの上で眠る部屋の主は、耳障りな電子音を聞いて苛立たしげに唸るが音は止まない。
睡眠妨害の波形パターンを持ったアラームは、ひたすらに鳴り響く。
小さな身体で一分ほども寝床の中を這いずると、コーデファーはようやく瞳を開けた。

「んぅ……はわぁ……ぁ」

上体を起こすとカーテン越しに薄く陽が差し込む部屋を眺め、小さな欠伸。
ベッドの上から見える景色は内装もシンプルな狭い個室で、壁も床も白一色である。
トイレとシャワーとクローゼットこそあるものの、寝るためだけの場所といった印象だ。
家具もデスクとベッドくらいしか置いていない。

(……そういえば、辺境の村に来ていたのだったわ)

起き上がったコーデファーは、無造作に電子時計を掴んでアラームを停止させた。
そのままカーテンを開けて朝陽を浴びると、身だしなみを整え、自分に割り当てられた部屋を出てゆく。

「フラスネル医療司書、御早ウ御座イマス」

リンセルの病室へ向かう途中のコーデファーを見て、廊下を歩く鉱精《コルフィリド》の看護婦が一礼した。

「そこの看護婦、ここには他人の精神を調べる機器があったわね。
 今から昨日運ばれた患者、リンセル・ステンシィを調べるから研究室まで運びなさい」

「了解、研究室マデ、患者ヲ配送」

コーデファーは軽快に返事を返す看護婦を付き従え、目的地である一般病棟へ向かった。
この施設の構造は一般病棟、研究棟、閉鎖病棟、特異病棟の四つに分かれている。
今、リンセルが眠るのは、一般病棟の大部屋。
此処は魔術や異能の力が関わらない患者の中で、他者に危害を加えたり、自傷を行う恐れの無いものが入棟する。
他の病棟も疾患を抱えた患者の入院設備で、残る一つの研究棟は神経や精神に関わる症例の研究所だ。

「おまえたち、まだいたの?
 今から患者の研究に入るから、もう帰っていいわ」

リンセルの病室へ入ったコーデファーが、付き添う二人を見て言葉を投げる。
フロレアが娘を案じるようにベッドの脇で佇み、ミリアはベッドの端に凭れて眠っていた。

「はい……娘をよろしくお願いいたします、フラスネル様」

振り向いたフロレアが応えると、ミリアも周囲の気配に気づいて虚ろな瞳を開く。

「このわたしに任せるというのに随分と不安そうな顔ね、フロレア。
 おまえは余計な心配なんてしないで、家に戻ってパンでも焼いてなさい。
 それじゃ患者を乗せて、アデライド。
 ベッドに寄りかかった邪魔者は、適当に蹴り飛ばしていいわ」

コーデファーに命じられたアデライドがリンセルを抱え、苦もなくストレッチャーに移した。
体躯こそ小さいものの、鉱精たちは頑健で筋力も高いのだ。

436ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/07/10(木) 00:03:48 ID:HeMxprZk0
病棟の一室に清涼な風が吹き込み、ぶ厚い遮光カーテンを揺らす。
身体を洗う朝の空気は新鮮で、木々の香りも強く、ミリアに此処が地方の村であることを実感させた。
リンセル・ステンシィは、妖精種の看護婦に乗せられ、車輪付き寝台車の上で横たわっている。
これから彼女はこの施設の研究室に運ばれ、様々な検査を受けるのだ。

「あのさ、治療の見学とかって出来ないかなー……」

ミリアは研究棟への搬送に付き添いつつ、廊下を歩くコーデファーに問い掛けた。
施設への入院に関しては、昨夜に医師から一通りの説明は受けていたのだが、どうにも不安は晴れない。

「はぁ? 常識で考えなさい。
 研究や手術を一般人に公開する病院なんてあるわけないでしょう。
 ああ……頭の軽そうな女に常識を期待する方が間違ってたわ。
 それとね、研究棟は関係者しか入れないから、お前たちはここまでよ」

コーデファーはミリアと目も合わぬまま歩き続け、頑丈そうな扉の前で立ち止まる。
そして、壁に設置されたコンソールを操作して扉を開けようとするのだが、手を伸ばしても指が届かない。
ジャンプして手を翳しても、一瞬の事では指紋認証カメラも個体識別を行えないようだった。
何度かの無駄な挑戦を経た後、コーデファーは不機嫌そうにミリアを見上げる。

「おまえ、馬になりなさい」

「馬? アタシ、変身の魔術は使えないんだけどなぁ」

「おまえの頭は脳味噌の代わりにプリンでも詰まってるの?
 本物の馬じゃなくて、四つん這いで台になれと言っているの」

「開閉スイッチに手が届かないなら、抱っこしてあげよっか」

「なんで、わたしがおまえなんかに抱っこされなきゃいけないのよ。
 そんな不遜な真似をしたら、一昨日のように魔力で跳ね飛ばしてやるわ」

「ま、台くらいならいいけど、スリッパは脱いでね。滑ると危ないし」

薄い笑みを浮かべたミリアが、両手両膝を床に付く。
すぐさま背に柔らかい重みを感じた。
感触からして、一応スリッパは脱いでくれたようである。
これなら、わざと背中を揺らす必要も無いか……。
そんなことを考えている間に、研究棟と一般病棟を隔てる扉は開いた。

「看護婦、次からここに台を置いておきなさいっ」

高圧的に吐き捨て、コーデファーが台から降りる。
扉の開放を待っていた寝台車も緩やかに動き始め、カラカラと車輪の音を床へ残す。

「……待ってるからね、リンシィ!」

別れを告げるミリアの言葉と共に、リンセルを乗せた寝台車が扉の向こうへ消えてゆく。
それを押す看護婦と、患者を診療すべき医療司書も一緒に。

437ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/07/10(木) 00:04:44 ID:HeMxprZk0
時計の針が六時に近づき、救急車が回送を始める時刻。
ドイナカ村までリンセルの付き添いに来た二人は、揃って病棟を出てゆく。
敷地内の駐車場では、救急車が小さなエンジン音を響かせて、患者の親族が乗り込むのを待っていた。

「それじゃ家に帰りましょう、ミリアちゃん。
 せっかく乗せて下さるのだから御好意に甘えて」

フロレアに乗車を促されるのだが、ミリアは立ち止まったまま動かない。
足を止めたまま、怪訝な顔で此方を窺う瞳を見つめ返す。

「ごめん、フロレアさん。
 やっぱり、もう少し此処に残りたいな……」

ミリアは此処に残りたい原因を自分自身に問い掛けた。
初めて出来た友達だから執着するのか。医者の技量や人格を信じていないからか。
魅了の術で心を捕らえた罪悪感からか。自分で治療を試みて失敗した後悔からか。
或いはその全てなのだろうか……?

「此処に残ってどうするの?」

「うん、まず……住む所を見つける。
 一ヶ月は余裕で滞在できるくらいの資金はあるし、その辺りは大丈夫なはずだよ。
 あ、それと何か仕事が見つかれば、バイトもすると思う。
 これ以上、ステンシィ家に負担をかけるような真似はしたくないし」

「ミリアちゃん、大切なのはそこじゃないでしょ」

フロレアは静かに首を振って諭す。
表情こそ険しげだが、自分を心配して気遣ってくれている、とミリアも感じた。

「もちろん、分かってるよ。
 危なそうな場所や人には近づかないし、夜遊びだってしない。
 仕事も内容を選ぶし……それでもダメ?
 この村でリンセルのことを真剣に考えて守れるのはアタシだけだよ。アタシしか出来ない」

ミリアの瞳に哀訴の色。縋るような光が浮かぶ。
だから、フロレアもどうしたものかと迷い、困ったような表情で沈黙する。

「…………」

「リンシィを父さんみたいに失いたくないんだ……傍に居れなくて後悔したくない。
 アタシが治療に貢献できるってわけじゃないけど……お願い、フロレアさん。
 せめて、入院や治療の様子に納得出来るまでで良いから、リンシィの傍に居させて」

さらに重ねられたミリアの言葉。
昨夜よりも強い響きに聞き手の心が揺らぐ。
もはやフロレアに嘆願を拒む言葉は無いようで、諦めたように小さな頷きを返した。

「……ちゃんと一日一回は近況報告の連絡を入れてね、ミリアちゃん。
 ううん、朝と昼と夜の三回。困った時はいつでもよ」

「ありがと、大好き!」

顔に明るさを取り戻したミリアが、手荷物を取り落としてフロレアを抱擁する。
その頬にキスを。首を傾けて自分にも返答を求める。頬にキスが。そして別離。エンジン音が高く鳴った。
フロレアを乗せた救急車は聖都に帰還するため、朝日の方角へと遠ざかってゆく。

438ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/07/10(木) 00:05:27 ID:HeMxprZk0
ドイナカ村に一人残ったミリアは、現状を確認する。
まずは自分の持ち物からで、服装は白のカットソーに青いベスト、チェック柄のグレーのスカート、黒のレギンス。
ポニーテールを纏めるのが薄紫のリボンバレッタに変わった他は、初めて聖都を訪れた時とほぼ同じ格好だ。
旅行用のスポーツバッグに入っているのは、財布とパスポート。タブレット端末に充電器。数日分の衣料品など。
道中に危険はなかったものの、護衛を買って出たので魔術具の杖も持って来ている。

続いて村の確認。
施設の敷地を出て周囲を眺め渡すと、全体的に草木の色が広がっていて、村の中心部を除けば建物の密度も薄い。
ドイナカ村の大部分を占める緑地にはロッジ風の建物が点在し、そこかしこに草を食む牛や羊の姿が見られる。
地面には建物同士を繋ぐ道路として、灰色の砂利道が伸びていた。
空は明るく澄んでいて、遠くには青々と連なる山の影。
いかにも、田舎の村という風景だ。

まず、最初に生活の拠点となる住まいを決めなければならない。
ミリアは、一ヶ月近い滞在なら旅館よりマンスリーアパートの方が安価だと、事前に調べを付けていた。
だから低価格帯のアパートを探しに、建物が密集する村の中心部へ向かう。
右手にバッグ、左手に杖を持って、五分も砂利道を歩き続けていると、次第に擦れ違う人の姿も増してきた。
村の中心部は石畳で舗装され、往来も雑多で、様々な人々が行き交う。
辺鄙な村ではあるものの、どうやら観光客は少なくないようだ。

ミリアは看板を眺めながら、村を練り歩く。
建物が集まっているとはいえ、たいした規模でもなく、三十分も歩けば見る所もなくなりそうだ。
周囲の緑地と不似合いなコンビニエンスストアや、ファーストフードショップなども見られる。
果たして採算は取れるのだろうか……そんなことを考えながら歩いていると、近くでカランと音が鳴った。
何気なくミリアが振り向いた瞬間、高級そうなスーツを着た赤髪の男が踏鞴を踏み、此方に倒れ込んでくる。
手に持つバッグの重みで、咄嗟には避けられない。
よろけた男が立ち竦むミリアの胸に顔から突っ込む。

「――悪かった。
 これでも、バランスを崩してから倒れ込む刹那の間に、最悪の事態を避ける努力は試みたと主張したい。
 いや、今の俺が言っても説得力は感じられないかもしれないが、誓って嘘じゃない」

「いいから、さっさとどけっ」

幸いにも杖があったので、ミリアは辛うじて転倒を避けられた。
ぶつかってきた側の人物も、軽やかな所作で崩した体勢を戻して顔を上げる。
見た限り二十代後半の人間のようで、端正な顔と乾いたバリトンを持つのだが、どことなく胡散臭い雰囲気だ。
体に染み付いた煙草らしき匂いも、不快で仕方がない。
ミリアは軽快に石畳を転がってゆく空き缶と、男の碧眼を交互に睨みつける。
彼が狙って胸に顔を埋めたのなら杖で殴打すべき所だが、今のは空き缶で足を滑らせての過失だろう。
どちらにしても、初日から余計なトラブルは避けるべきだと判断した。

「……足元には気をつけなよね」

冷たい視線で咎めの言葉を吐き、ミリアは足早に赤髪の男の前から立ち去る。
まずは住居を確保しなくてはならないのだ。面倒事に関わってはいられない。
ほどなく、ミリアは建物の合間にそれらしき看板を見つけた。
近寄って田舎風の素朴な建物を眺めると、住宅の間取りが書かれた紙が幾つもガラス窓に張りつけられている。
不動産の取り扱い店舗だろうと当たりをつけて、ミリアは入り口の扉を開けた。

「あのー……この村で部屋を借りたいんですけど、ちょっといいですか?」

「スターホーム・ドイナカ村支店にお越しいただき、ありがとうございます。
 当店はお客様に都会で味わえない、自然溢れる村での生活をサポートさせていただいています。
 ご予算や、ご要望の方を、お伺いさせて頂いてよろしいでしょうか?」

応対した店員は犬の頭部を持つ亜人の男。
ふさふさとした白い毛皮がマルチーズ種に似ていて、背丈は140cmといったところか。
ミリアは椅子に座ると滞在予算を確認をするべく、バッグから財布を出そうとして、すぐに試みを頓挫させた。
星屑柄の青いスポーツバッグの中からは不思議なことに――――皮の財布だけが影も形もなく消えていたのだ。

439ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/07/17(木) 01:07:13 ID:noqkB3ds0
ミリアは旅行バッグの中に収めていた物を全て取り出し、テーブルの上に置く。
並べられるのは、先ほど確認したばかりの物だ。
当惑と焦燥に満ちた表情で荷物を丹念に探し直すが、やはり皮の財布だけが見つからない。

「無い、病院を出た時は確かにあったんだけど……何で……何で?」

頭の中が真っ白になったミリアは、原因を求めてバッグをひっくり返す。
しかし、バッグに穴は開いておらず、どこかで落としたとの可能性も潰えた。
ミリアの狼狽を見て、店員もトラブルを察して立ち上がる。

「どうかされましたか、お客様」

「いや、一ヶ月ほど部屋を借りようと思ってたんだけど、2000R$は入ってたはずの財布が無くて……」

「お荷物を紛失された場所に心当たりは?」

店員に問われたミリアが思い浮かべるのは、先ほど通りで接触した胡散臭い男。
今にして思えば、道端の空き缶に転んで此方側へ倒れ込んで来たのも不自然だと思える。
気づくには、少々遅過ぎたが。

「心当たり……さっきの赤い髪の奴……に掏られた?」

「スリ? 盗難でしたら駐在所に届けを出されては如何でしょう。
 この店を左手に向かった先、コンビニエンスストアの近くにありますが」

店員は毛皮に覆われた顔を左に傾け、駐在所へ向かうよう助言した。
狼狽したままのミリアも頷き、乱暴に旅行バッグへ荷物を収めると、店の扉を開けて外へ出てゆく。

「ありがと。
 財布が戻ったら、また来るから」

ミリアは念のために通りを見回してみたが、茶髪や金髪の人物ばかりで、赤髪の男は何処にも居ない。
普通に考えれば、もう近くにはいないだろう。
ミリアは憤懣やるかたない様子で石畳を踏みつけつつ、村の通りを進む。
財布を掏った相手もだが、危険を警告されていたにも拘わらず、無警戒に過ぎた自分が腹立たしい。

(セーブオン……聞いたことないコンビニだな)

素朴な建物が並ぶ通りを進めば、見慣れないコンビニエンスストアがあった。
その向かい側を見れば、木製看板に“ドイナカ村駐在所”と書かれた建物が建っている。

440ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/07/17(木) 01:07:44 ID:noqkB3ds0
駐在所とは、過疎地域の治安を担う警備官の詰め所だ。
ドイナカ村の駐在所は民家風の作りで、官舎を兼ねた二階・三階は警備官と家族が居住する。

「あー、本当に盗られたとしてだ。
 財布の中にあんたの髪の毛や爪なんか入れとらんの?」

年老いた警備官、ウィムジー・サンプティアが財布を掏られたと訴えるミリアに問い返す。
彼の服装はダークブルーのスーツに制帽で、腰にはサーベルを佩いているが鷹揚な雰囲気だ。

「え、いや……どうして?」

答えるミリアの表情は怪訝なものだった。

「そりゃ、失くし物へ探索の術を掛けるためだよ。
 鮮度にも拠るんだが、肉体の一部がありゃ術で痕跡を辿れるし。
 そうするように警察でも推奨してんだけどねえ。
 防犯対策を取ってないんじゃあ地道に探すしかないが、財布を掏ったって相手の特徴は覚えてねえか?」

「赤い髪で青い目、年は二十代半ばかな? 服装はストライプのスーツ、背はアタシより一回り高い」

「赤髪青目で二十代の男ねえ。
 そいつぁ村のもんじゃあなさそうだし、観光客を装ったスリかもなあ。
 まずは旅館に連絡して、宿泊客の中に似た奴がいないか調べとこう。
 警邏中の息子にも、それらしい奴を見かけたら知らせるよう伝えとかんとな。
 あー、で、あんたの名前と連絡先は?」

連絡先を聞かれてミリアは言い澱む。
ロルサンジュに連絡が行けば、帰ったばかりのフロレアが迎えに来てしまうだろう。
あれだけ大言壮語を吐いて、こんな不甲斐無い有様は知られたくはなかった。
フロレアに信頼を向けられたままでいたい。レナードにも失望されたくない。
だから、ミリアは偽りの名と経歴を警察官に述べる。

「名前はミーリィス・ステイルメイト、年は20才で本籍はバイタル。
 此処には良い温泉があるって聞いたから、観光に寄ったんだよね。
 連絡先は……これで、いいかな」

ミリアはバッグから取り出したタブレット端末を示す。

「あー、はいはい、いいよ。
 でも、女一人で観光ってのは狙われ易いから、気をつけないとねえ。
 それでバイタルまでの帰宅はどうするん? 誰かに連絡して迎えに来てもらう?」

「あ、えっと……村に知り合いがいるから、交通費くらいは貸してもらえる……と思う」

テンションの低い声でミリアは言う。
確かにコーデファーは知り合いではあるものの、滞在費や交通費を貸してくれるとは思えない。
エヴァンジェルには戻り難く、村に留まる資金の当ても無く、お腹まで空き始めた。
そんなミリアの苦境を知らず、ウィムジーは納得したように頷く。

「あー、そう、村に知り合いがいるなら大丈夫かね?」

「ええ、まあ……それじゃ盗まれた財布の捜索、お願いします……」

「おう」

ウィムジーから応諾の言葉を聞いて、ミリアは駐在所を背にする。
目下の懸念は、どこで寝泊りと食事をするかだった。
全財産の入った財布を掏られてしまった以上、食事も宿泊も出来ないのだ。
野宿の必要に迫られる前に事態を解決すべく、自分でも先程の男を探すべきかもしれない。
そう考えたミリアは焦慮に駆られつつ、窃盗犯の影を求めて長閑な村の中を歩き始めた。

441ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/07/25(金) 08:10:37 ID:RVzLKaes0
ミリアは赤髪の掏り師を探して、村を眺めながら彷徨う。
温泉客を見込んだ観光業に力を入れているせいか、大都市から遠い僻村にも観光客の姿は多かった。
雑多な人の集まる往来で聞き込みを繰り返しつつ、放浪すること数時間。
大通りを何往復しても、掏り師も目撃者も見つからず、次第にミリアの足取りは重くなってきた。

(疲れた……お腹減った)

さらに村を歩くこと数時間。
午後三時を越えると観光客の姿はめっきり減って、村も閑散とした雰囲気を取り戻す。
ミリアは空腹と徒労感で、ファストフードショップ・ラスティックバーガーの前に置かれたベンチへ座り込んだ。
ここだけは田舎特有の清涼な空気の匂いではなく、焼いた肉や揚げたポテトの香りが漂っている。
店内を覗き込むと、田舎料理に飽きた何人かの客がハンバーガーやコーヒーを堪能していた。

(お腹減ったな……ハンバーガー食べたい)

店内で接客するアルバイトと目が合ったミリアは、物欲しげに見つめてみるが、返されたのは営業スマイルのみ。
もちろんだが、笑顔でお腹は膨れない。

(ポテトだけでも食べたい……)

ミリアはベンチから立ち上がると、鉛の足を引き摺って捜索を再開することにした。
表に人通りが少なくなって来たので、今度は人の居そうな建物へ入っては客を見定める。
最初に立ち寄ったのは、白い漆喰壁で三階建ての建物、冒険者の店。
扉を潜って眺めれば、広間に円卓が点在していて、窓際には四人掛けの木製テーブルが整然と並ぶ。
コルクの壁からはランプが突き出していて、暖色の照明で店内を照らしていた。
一見すればガストロ・パブにも見えるこの店なのだが、冒険者の店は上階で武装や雑貨も扱っている複合商業施設だ。
広間奥のカウンターでは、黒シャツにエプロンというラフな格好の男性マスターが客と雑談に興じていた。

(お腹減った……)

ミリアが店内を見回すと広間には十人程が屯していたが、その中に赤髪の掏り師は見当たらない。
誰もが何処となく、胡散臭い雰囲気を漂わせていたのは同じであったが。

「いらっしゃい。
 依頼? 買い物? 食事? あっ……と未成年にアルコールは提供してないけどねー」

恰幅の良いマスターは佇むミリアへ視線を向けると、親しげに声を掛けた。
歳は中年、風貌は堀りの深い赤ら顔、目尻の下がった青色の瞳と丸い鼻と口髭が、のんびりとした温厚な印象を与える。
頭部は禿げ上がっていて、僅かな茶色が側部に残るのみだ。

「お腹空いてるけど、お金無いから食事も買い物もちょっと……。
 ここって、冒険者の店ってとこだよね?
 話だけはならよく聞くんだけど、冒険者って何して稼ぐの? アタシでもなれたりする?」

冒険者が簡単に日当を稼げる仕事なら、宿代や食事代も得られると考え、ミリアはマスターに問い掛けた。

「冒険者が生計を立てる方法?
 んー、この時代、未踏遺跡や秘境で冒険なんて中々できないもんだし、雑事の代行業務がメインかね。
 家事や引越し草むしり、恋人の代理、家のリフォーム、ビットコインのサルベージなんてのもあったかなー?
 後は紛争地へ傭兵や護衛として派遣されたり、魔術が必要な作業でどっかの企業に呼ばれたりか。
 まぁ協会に依頼が来たら、私らで適した人物を斡旋して派遣するわけだ。
 だから、お嬢さんが冒険者になるにも、まず冒険者協会に所属しないと!
 あ、履歴と適性試験が必要で、就労ビザも兼ねた冒険者カードの交付には料金が掛かるよ」

「お金掛かるんだ……じゃあいいや……」

ミリアは悄然とした様子で立ち去り、冒険者の店を後にする。
その後、数軒の店舗を眺めてみたものの捜索の成果は無く、やがて陽も傾き始めた。

(お腹減った……)

442ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/07/25(金) 08:12:42 ID:RVzLKaes0
夕刻、ミリアは疲弊しきってベンチに座り込んでいた。
場所は巡り巡って、再びラスティックバーガーの前だ。
昼間の気温は比較的温暖な上、朝からずっと歩き続けているので、下着も汗ばんできて不快極まりない。
徒労感に空腹も相まって、どうしても気持ちが沈む。

(もう帰りたいな……)

無為に人の流れを眺めていると、不意に荷物を収めたバッグの中からオルゴールの電子音が流れて来た。
ベンチに腰掛けるミリアは、鈍い動作でバッグからタブレット端末を取り出す。
慣れた手つきで通話アイコンに触れると、スピーカーからフロレアの声が聞こえて来た。

「ミリアちゃん、こっちはエヴァンジェルに着いたばかりだけど、そっちはどう?」

「あ、うん……順調だよ。
 今日は旅館に部屋を取って、本格的に住む場所は時間掛けて探すつもり。仕事もね。
 フロレアさんも無事に戻れたみたいで良かった。
 それで、えっと、これから丁度リンシィの様子を見に行くところ」

ミリアは窮状を悟られないよう、努めて明るく答える。

「それなら良かったわ。
 リンシィのことも心配だけど、ミリアちゃんも心配してるのよ。
 近くに居れないから、こうして電話できる時に言ってくれないと分からないもの……。
 困ったことがあったら無理しないで、直ぐに相談してね」

「ありがと。
 でも、アタシ割と世渡りは上手い方だと思うし、あんまり心配いらないよ。
 コンビニがあるから生活に不便ってことも無さそうだし……あ、冒険者の店って知ってる?」

他愛も無い会話は五分ほども続き、またの連絡を約して終わった。
途端に雑踏の孤独へ取り残されて一人。
遠いロルサンジュに向かっていたミリアの意識と心も、僻地の村へ引き戻される。
状況に好転の兆しが見られず、焦りも募り、泣きたい気持ちで溢れる現実に。

(疲れた……お腹……空いた……)
(もう、こうなったら適当に金持ってそうな奴を魅了してでも……)

ミリアは粘りつくような視線を雑踏に這わせ、道行く人の身なりから懐具合を値踏みし始めた。
誰か、裕福な人物を魅了して自分の信奉者に作り変えれば、事態は一気に良くなるだろうと考えて。

(いや……財布代わりを手に入れ為だけに魅了するんじゃ、あの掏り師と変わんない……)

自分が掏り師のような精神で通行人を見ていると自覚して、ミリアは苛立ちを感じた。
夕風で瞼に掛かった髪を掻き上げて深呼吸。荒れた心を落ち着かせようとする。
魅了で現状を変える事も、最初から頭の中にあるにはあった。
しかし、ステンシィ一家と過ごす中で感じた、魅了への困惑が実行を躊躇させる。
今は、己の力をどう捉えるべきか掴みかねているのだ。

(そうだ……面会時間が終わる前にリンシィの様子を見に行かなくちゃ)

リンセル・ステンシィの為に村へ留まるのだから、彼女の状態には気を配らなければならない。
自分はいざとなれば帰れるが、リンセルは違うのだ。
ミリアは座り心地に慣れた木製の長椅子へ別れを告げると、病院へ向かって歩き始めた。
疲れもあってか、時折石畳の上で立ち止まり、歩みも緩やかではあったが。

(今日中に生活費の調達も考えないと……)

漆喰の壁に夕陽色が混じる建物の間を進みながら、ミリアは数年前にイストリアの中学校で聞いた噂話を思い出す。

(服の上からおっぱい触らせるだけで50R$って話、あれホントかな……)

443医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/08/08(金) 23:51:48 ID:Zc13ILwo0
夕映えの赤みを帯びて静かに佇む僻村の病院。
医療機器の並ぶ研究棟の一室では、真っ白な検査服を着せられたリンセルがカーボン樹脂台へ寝かせられている。
全身には接続コードが伸びる何本ものベルトを巻かれていた。

その隣室では、回転椅子に座ったコーデファーが大型ディスプレイを眺めている。
画面に映っている映像は、リンセルとミリアだ。
二人は並んで歩いたり、食事をしたり、唇を触れ合ったり、同じような場面を何度も繰り返し演じている。
ディスプレイの内容はリンセルの深層意識であり、夢の視覚化と言っても良い。
精神研究の施設であるトリフネは、脳内の電気信号を変換して生物の心像を映す機器をも備えているのだ。
他人に意識や思考を覗き見られるなど耐え難いことであろうが、昏睡状態のリンセルに抵抗する術は無い。

「こんな状態でも精神が動いてるとは思わなかったけれど……あの女のことばかりね。
 両親ですら、あの女と一緒のシーンだけにしか映らないなんて」

コーデファーは、うんざりした顔でディスプレイ内のミリアに吐き捨てた。
生と死の狭間を漂うリンセルは意識の働きが弱く、大半の映像は明瞭な場面を描く前に崩れ落ちてしまう。
鮮明な映像はミリアと過ごした数日間のみ。
常人より強い干渉力を持つ事と、魅了の影響から、今もミリアはリンセルの心を占めているのだ。
映像から判断する限り、リンセルは砂漠で水を求めるようにミリアを求めていた。

「この女、エッチなことしか考えないし……分析するのもバカらしくなってきたわ」

親密そうにじゃれ合うリンセルとミリアの姿を見せられ続け、コーデファーはイラついた様子だった。
完全な不老不死を求める医療司書が研究結果として欲するのは、このようなものではない。
コーデファーは深層意識の映像から視線を外し、別のディスプレイ――――覧界視の拡大映像に視線を向ける。
リンセルの体内気脈を映した虚ろな闇には、視認すら困難な光が浮かんでは儚げに消えていた。
この弱々しい明滅状態からは何も変化がない。
退屈の欠伸を漏らしたコーデファーは、気分転換に回転椅子で回りつつ別の診断法を検討し始める。
無言の思案は暫く続けられたが、不意に室内スピーカーから流れる硬い声で医療司書の沈思は砕かれた。

「フラスネル医療司書、患者、面会希望者出現」

「患者の親族って誰? フロレアなら今朝エヴァンジェルに帰ったはずでしょう」

アデライドの呼びかけを聞いたコーデファーは、小型集音機を口元に当ててスピーカーの向こうに問い返す。

「面会希望者名、ミリア・スティルヴァイ」

ナースステーションの看護婦は、患者への面会希望者がミリアだと告げる。
夢の中のリンセルが何度も呼ぶ名前であり、コーデファーが聞き知る限り、ロルサンジュのアルバイトだ。

「ミリア・スティルヴァイ……あぁ、あの女ね。
 許可を出す必要なんて無いわ。
 診療中だって言って、さっさと追い払いなさい」

片手を払って追い払う動作をしながら、コーデファーは不快げに吐き捨てた。

「了解、即刻、退去要請」

アデライドと交わす会話が、隣室で眠るリンセルにも聞こえたのだろうか。
ミリアのフルネームが呼ばれた瞬間、覧界視の拡大映像で映される微かな光点が若草の色を帯びた。
すると、甘い夢の景色にも僅かな変化が――――。

444リンセル ◆Ac3b/UD/sw:2014/08/09(土) 00:29:21 ID:RCNAosiU0
無始無終の夢は、どこからが記憶の再現で、どこまでが妄想なのか判然としない。
時折、掠れた記憶が絵筆となってリンセル・ステンシィの心のキャンバスに濃い色を付ける。
夢を再現したディスプレイの景色は白とピンクの可愛らしい厨房で、登場人物はミリアとリンセル。

「人の心を取り込める特別なパン酵母なんて本当ですか、ミリアさん?
 もしかして、これって危険ハーブ……とか入ってませんよね?
 クックックッ、このパンがもっと欲しいなら私の言うことを聞くんだーっ、みたいなのが……」

映像の中でパンを捏ねるリンセルが、隣で佇むミリアに話しかけた。

「それが、どんなドラマのシーンか知らないけど、酵母に入ってんのはアタシの体液だよ」

「た、体液って……ダメじゃないですか!
 手作りバレンタインチョコに血を入れるなんて話は聞いたことありますけど、衛生的にも汚いですし……あっ!
 も、もちろん私は原料ミリアさんのパンが焼き上がったら残さず食べますよっ。
 汚いなんて微塵も思いませんから、美味しく完食ですけど!
 なんだったら、原料のまま食べたっていいんですよ!」

「いや、生憎だけどリンシィに食べて欲しい訳じゃなくて。
 今のアタシの血肉は少しばかり特別でね……女王蜂とか女王蟻のフェロモンみたいな力を秘めてんのさ。
 もし、これを使って特別な力を持ったパンが作れるなら、きっと教皇庁の人間だって取り込める」

リンセルの記憶がミリアの秘密を露見させる。
どこまでが真実なのか判然としないまでも、コーデファーは会話の内容に興味を覚えた。
夢を織り成すのは過去の断片であり、そこには必ずリンセルの見聞きした記憶も含まれている。
この会話とミリアの姿しか映らない不自然な映像を見れば、リンセルが魅了の影響下にある可能性は高い。
一部の医療従事者を除き、自由意志を毀損する術はイストリア条約で禁じられているにも拘らず。
その術の影響こそが、リンセルに今の状態を齎しているとも考えられた。

「き、教皇庁を取り込んで……どうするんですか?」

鬼気迫るミリアの視線に気圧されるような映像内のリンセル。
コーデファーも関心の度合いを増して、二人の会話を注視する。

「アタシ一人じゃ出来ない事に関して、ちょっとばかり力を貸してもらう。
 父さんの理想を叶えるためなら、アタシはどんな手も使うし悪魔にだって魂を売るよ」

「ミリアさんのお父さんの理想って、まさか世界征服とかじゃないですよね?
 私もパンで世界を征するつもりでしたけど……」

「父さんの理想は人間って種族の進化、だったのかな。
 あらゆる種族で均衡の天秤を保てば、どっか一つだけに負担が掛かるなんて事もなくなるからね。
 アタシは、その理念を受け継ぐよ。勇者ボルツの失われた名誉を回復するって遺志もね。
 そして、イストリアの全てにお前たちが間違っていて、父さんが正しかったんだって事を思い知らせてやる――――」

夢の会話が途切れると、次第にディスプレイの映像は溶けて別の形を取り始めた。
リンセル以外にとっては無価値な、甘い夢に。

コーデファーはディスプレイ内のミリアを睨み、しばしの思案を置く。
ミリアが用いた術はどのような種類と系統であり、己の役には立つのだろうかと。
まずは、リンセルの記憶の断片が事実であるかを調べなければならない。
しかし、相手は正体不明の能力を用いる魔術師。防備の無いまま応対する訳にもいかない。
ミリアとの接見は、魔術に対して万全の体勢を築いた後だ。
方針を定めると、コーデファーは再び小型集音機を手に取った。

「……看護婦、聞いてる? 患者の面会は明日の夕方なら出来るって、ミリア・スティルヴァイに伝えておきなさい」

「五分前、面会希望者、退去完了」

「さっさと追って、通達なさい」

445ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/08/22(金) 19:10:29 ID:1N0MIodg0
病院のロビーでリンセルが面会謝絶である旨を告げられ、ミリアはソファーに座り込んでいた。
心身の疲弊は限界に近く、夢魔から囁きかけられているかのように瞼も重い。

(もういいや……ここで寝ようかな……)

疲れ切ったミリアが睡魔に身を委ね、ソファーをベッド代わりにすること五分。
眠りの淵に墜ちた肉体が、唐突に何者かの手で揺す振られる。
ミリアが薄っすら瞼を開くと、己を覗き込む紫の瞳と目が合った。
この病院に勤務する看護婦で、金属質の銀髪を持つ妖精種、アデライドだ。

「リンセルステンシィ、明日夕方、面会可能、担当医許可」

病院の看護婦は単語を羅列して、患者への面会が可能な期日と時刻を告げた。
アデライドが共通語に不慣れなのは分かっているので、ミリアも頭の中で単語を反芻して意味を整理。
半覚醒の鈍い頭で出した結論を口に出す。

「……アタシは明日の夕方、リンセルと面会できるって事でいいの?」

「肯定」

「じゃ、今日の所は出直す……」

アデライドに出直すと言いながらも、ミリアはソファーに腰を沈めたまま立ち上がらない。
睡魔に負けて再び目を瞑り、病院への入館が制限される午後八時まで眠ってしまった。

「……ん」

気が付けば夜が訪れている。
閉館時間となって病院を追い出されたミリアは、まだ明かりが灯るドイナカ村の中心部に向かって歩き始めた。
夜の村は人通りが絶えているものの、観光施設の集中する区域は明るい。
逆に牧草地や森は人工の灯りから恩恵を受けられず、頼りなげな月の光が照らすのみだ。

「これから、どうしよっか……はぁ」

ミリアは力の無い溜息を吐きつつ、明日の夕方までの時間をどう過ごすべきか考える。
早急に解決すべきなのは、生存に必要な衣食住の三つだ。
旅行バッグの中に衣類の替えはあるが、無一文なので食料と住居の問題は解決が難しい。

(あ、いや、そういえば飢餓耐性の術があったっけ……これ使えば、お腹空き過ぎな問題は何とかなるか)
(治癒力促進の魔術もあったな……術で少しは足がマシになるといいんだけど)

ミリアは現状打破に役立ちそうな呪文を脳内でリストアップ。
農道の真ん中で立ち止まると、渇いた喉を咳払いで整え、続いて見繕った呪文の詠唱を始める。

「螺旋為す根源なる力よ 我が望みは飢渇せぬ肉体 湧き出る泉の活力。
 臓腑は霊素で満たされ 全身の血肉とならん “飢えざる胃腑”」

今更ながら、空腹の応急措置が図られた。
魔術で解決しようという発想に半日も掛かったのは、飢えは食事で癒すものという固定観念からだ。
ミリアが魔術に触れた期間の浅さや、疲労と空腹で頭が回らなかった事もあるのだが。
ともあれ、治癒力促進の魔術は鉛の足を軽くして、飢餓耐性の魔術は飢えた肉体を癒す。

「あっ……こんなんなら最初から使っとけば良かったな」

己の中から飢餓感が急速に消えてゆくのを感じてミリアは呟く。
永遠に魔術で空腹を誤魔化し続ける事はできないだろうが、差し当たって今日明日は凌げそうだった。
食事の心配が無くなると幾分か気も楽になる。
後は宿泊の用意だが、これはミリアの習得する強化魔術では解決できない。
とは言え、鈴虫が鳴く牧草地を寝床として、星を観ながら横臥するつもりにもなれなかった。
だから、自然と足が向くのは明るい光が灯った村の中心部だ。

446ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/08/22(金) 19:11:28 ID:1N0MIodg0
ミリアは灰色のポニーテールを揺らしながら、村の大通りを歩く。
人通りは少ないものの、温泉帰りと思しき人影がちらほらと見えるので、心細さは感じられない。
ミリアはラスティックバーガーの前に辿りつくと、テラス席代わりのベンチに座った。
スポーツバッグを脇に置き、魔術具の杖を壁に立てかけて。

(寒くないし、ここで寝ようか……)
(いや、宿無し女が夜のベンチで寝てたら警備官に通報されるね)
(結界張ったり城を造ったりなんて魔法でもなきゃ、ただで泊まれる所なんて作れないし、どうしよっか……)

立ち並ぶ漆喰壁の建物に目を向ければ、どれも街灯の光で染まった薄暗いオレンジ色だ。
その中でファストフードショップだけが不自然に眩く、コントラストを作って周囲の寂しさをより際立たせている。
稀に話し声が聞こえるものの、すぐに途切れ、止まないのは虫の音ばかり。
夜の村は孤独で、その孤独感がミリアの頭にライザ・フェリーシャの事を過ぎらせた。

(今のライザ……イストリアにいた頃のアタシと同じような状況だよな……きっと)

自分の存在で人生を狂わされた少女は、発砲事件を起こしてエヴァンジェルの監舎に投獄されている。
あれから、彼女はどうなったのだろうか。
今の自分よりも、孤独と無力感に囚われているのは確かなはずだ。
魅了の力で三主教の要職の心を捕えている以上、正当な捜査は行われず、彼女の言葉は誰にも届かないのだから。
せめて家族が支えてくれれば良いのだが、アレクサンデルの口からライザと両親の不仲を聞いている。
ならば、彼女にはたった一人の味方もいないのだろう。

あの少女にも魅了の力を行使しておくべきだったのだろうか。
そうすれば、投獄しなくても口を封じてはおけたはずだ。
いや、そもそも魅了の力がなければ、彼女が凶行に及ぶことは無かった……のだろうか。分からない。
ミリアは頭を振って、ライザの境遇を頭から追い出そうとする。

(いや、今は考えても仕方ない……)

影の差した心でベンチから立ち上がり、壁に立てかけた杖を握った瞬間、ミリアは杖の金銭的な価値に思い至る。
この杖は、実家を出る際に家財の一部を処分して手に入れた代物で、高価な工芸品程度の価値があったはずだと。
魔術具を処分すれば、当座の資金は捻出できるだろう。
唯一の護身武器を手放すのは惜しいが、現状の困窮を打開する手段も他に考えつかない。

(護身って言っても、まず安全に寝る場所を得るのが最大の護身だしね)
(冒険者の店が、閉まってなきゃいいんだけど……)

夕方立ち寄った店の一つに目を向け、ミリアはそちらへ足を運ぶ。
店内を見るとまだ営業中のようで、何人かの男たちがテーブルに陣取り、思い思いにジョッキを傾けていた。
特に武装している訳でもないので、冒険者なのか一般客なのかは判別がつかない。
ミリアはテーブルに座った男たちの横を抜けると、カウンターの前で足を止めた。

「今晩は、さっきのお嬢さん。
 女の子が一人で歩き回るには、ちょっと遅い時間じゃないかなー」

ビアホールの親父然とした赤ら顔のマスターが、空ジョッキを布で磨きながらミリアに話しかける。

「あ……うん。
 まあ、色々あってね。
 ところで、この杖なんだけど引き取って貰えるかな? 魔術具なんだけどさ」

ミリアは握った杖を軽く掲げ、店のマスターに下取り出来るかを問いかけた。
魔術具は大量生産が難しく、基本的には一つひとつが職人に拠る手作りだ。
当然、ミリアもそれなりの値段の提示を期待する。

447ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/08/22(金) 19:12:01 ID:1N0MIodg0
冒険者の店のマスターは客が差し出す杖を受け取ると、さっそく鑑定を始めた。

「魔術具の買取? 構わないけど身分証はある? 免許証とかパスポートとか。
 冒険者なら、冒険者カードを提示してくれればいいんだけど」

質問をぶつけながら、マスターはミリアの表情を観察していた。
海千山千の冒険者を相手にする仕事柄、彼も人物観察に少しは自信がある。
盗品を持ち込んだのなら、見抜けるはずだと思うくらいには。
鑑定は品物だけでなく、持ち込んだ人物も込みで行うのだ。

「パスポートだったらあるよ」

ミリアは旅行バッグからパスポートを取り出して広げる。

「ん……ミリア・スティルヴァイ、人間族の17才。
 ほー、イストリア共和国とは随分遠い所から来たじゃないか。
 それで、この魔術具を護身用に持って来たってわけかな? 魔術師には見えないけど」

提示されたパスポートを眺めつつ、店のマスターは中央大陸の地図を脳裏に描く。
イストリア共和国は大陸の中心部からは、やや西域部に寄った位置にある小国家だ。
さらに西の方にあるドイナカ村やエヴァンジェルとは、数ヶ国を挟む。
少女と言って良い年齢の女が一人旅をするには少々遠い距離なので、護身武器を持ち歩いても不自然ではない。

「それが、こう見えても幾つか魔術は使えるんだよね。
 と言っても、たいした腕前じゃないけど。
 掏りに財布を盗まれて、温泉観光どころじゃなくなった程度ってとこ……」

「掏りの被害に? そりゃ大変だったねー。
 あぁ、ところで魔術具購入の証明書はあるかな?」

「確か、捨ててなかったと思う」

ミリアは旅行バッグの内ポケットを漁り、一枚の折り畳まれた紙を取り出す。
それを受け取った店主は片手で紙を広げつつ、もう片方の手でスマートフォンを操作して相場を調べた。

「商品名は杭魔杖《テーベス》、作成者はダネシュティで、遠近両用の攻撃用マジックロッドねー。
 販売相場が1200R$って所だから、買取は500R$になるけど、どうする」

カウンターのキャッシュトレイに紙幣が置かれる。
示された金額は、旅館で十日の滞在ができる程度。
これでは、当座を凌ぐことしかできない。

「もうちょっと、おまけして欲しいなぁ……」

ミリアは上目使いで媚を売ってみるものの、マスターの表情は渋いまま。
魅了の力を使わなくては、誑し込むのも無理そうだ。

「んー、と言っても、こんな田舎だと魔術具を売るのも大変だしねー……。
 需要の薄い品を抱え込む訳にもいかないし、やっぱり相場通りの値段って事で」

マスターの言い分は尤もで、ドイナカ村で魔術具を売るのは至難だろう。
今の村で脅威となりうるのは近隣の山野に棲息する獣くらいで、それも猟銃があれば事足りる。
わざわざ、扱い辛い魔術具を必要とするものはいない。

「……分かった。500で良いよ」

物足りない金額ではあるものの、ミリアも不承不承頷く。
村内で他に魔術具を買い取ってくれる所も無さそうなので、提示された額で妥協するしかない。
ミリアはカウンターに置かれた500R$分の紙幣を掴むと、メモ帳の間に挟み、スポーツバッグの中に仕舞う。
取引が成立すると、店の主人はミリアを慮ってか、女一人の宿泊先として手頃そうなペンションの名を告げた。

448ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/08/22(金) 19:13:15 ID:1N0MIodg0
ドイナカ村の中心部、雑貨店や飲食店が立ち並ぶ一角にペンション・セプテットは建っている。
二階建てで浅い茶色の煉瓦壁とストーングレイの屋根を持つ、この村ではありふれた宿泊施設の一つだ。
白い玄関扉を見れば、左右に壁掛けランプが煌々と灯っていて、夜の闇を温かく溶かしている。
ミリアが玄関の呼び鈴を鳴らすと扉が開き、宿の主人セザール・サンプティアが客を出迎えた。
セザールは金髪碧眼、三十台と思しき落ち着いた雰囲気の男性の人間だ。
細身の身体にチェックの上着とスラックスという格好である。

「お泊りですか?」

「うん、今から泊まりたいんだけど空き部屋ってある?」

「ええ、ありますよ。
 宿泊料金は朝食込みで一泊45R$、シャワーやトイレは共同になりますが」

想定より一割ほど安い料金を聞いて、ミリアは今夜の宿を此処に決めた。
宿泊記帳が済むと、ペンションのオーナーはミリアに鍵を渡し、着いて来るよう促す。
彼が客に案内した部屋は、階段を登った先の一室。
やや広めの部屋は白を基調とする内装で、小さな窓に厚手のカーテン。
大きめのベッドが中ほどに置かれていて、他の調度品は木製の机と室内をオレンジに染めるランプくらいだ。

「このペンション、客室が七つだね。
 だから、七重奏ってわけ?」

「そうです。
 一人で経営していますので、これくらいが丁度良いのです。
 お客様が多過ぎても目が行き届きませんからね。
 それでは、何かありましたら、お手数ですが一階までお越し下さい。スティルヴァイさん」

「あっ、オーナー。
 出来ればアタシのことはミリアって呼んで欲しい……かな」

スティルヴァイ家の一員であることの自覚は、ミリアに複雑な感情を呼び起こす。
今の自分が、そう呼ばれる資格があるかとの自問を。
かと言って、母親の姓であるカステリットを名乗りたくも無い。
記帳には偽名を書くべきだったかとの考えが過ぎるものの、今更だろう。
冒険者の店の主人には、本名を知られているのだ。
彼の紹介でペンションに来たので、そちらへ伝わって魔術具売却の件を変に勘繰られるのも好ましくない。

(そういや、偽名の使い方とか、今までちょっと適当すぎたかな)
(あんまり関わりたくないから、警備官には偽名を名乗っちゃったけど……)

「分かりました。
 それでは私のことも、セザールと呼んで下さい。
 朝食は翌朝八時にダイニングで始めますので、遅れないように。
 お休みなさい、ミリアさん」

セザールは目尻だけで薄い笑みを浮かべると、客室から静かに立ち去ってゆく。
冒険者の店の主人に比べると、佇まいは優雅な印象だ。
ミリアは一人になると机の上に旅行バッグを置き、中から薄緑のパジャマを取り出した。

「今の所持金は455R$で、エヴァンジェルまでの旅費が約200。
 帰りの事も考えると、村にいれるのは五日が限界ってとこか。
 とりあえず、シャワー浴びて寝よう……。
 あ、そだ、フロレアさんにも連絡しとかないと……」

魔術で肉体の疲れこそ軽減されたものの、まだ眠りへ誘うのに充分な程の精神的疲労が残っている。
だから、シャワーを終えたミリアも、客室に戻るとすぐさまベッドへ倒れ込み、深い眠りに就いてしまった。
翌朝、ペンションのオーナーが部屋の扉をノックするまで。

449医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/08/30(土) 06:47:17 ID:uWa2Q9C60
空気の済み切った僻地の村は、夜空も綺麗だ。
蒼白い月と無数の星々も、自らの姿を強く主張して、虚空のキャンバスを絢爛に彩っている。
草地に囲まれて立つ病院もまた、窓から漏れる暗橙光で夜の闇に浮かび上がっていた。
暗いオレンジ色は、照度を落とした常夜灯の光だ。
その薄暗い光で満ちた長い廊下の端、外来研究者用の宿泊室の一つからは若い男の声が漏れる。

「――――魅了の術を使う女、か。
 ならば、フラスネル医療司書が担当する患者に加え、その両親も術の影響を受けた疑いが強いな。
 三主教の中にも、術に囚われた者が何人か紛れているかも知れない。
 術者が昏睡する患者の快癒を望んでいるとすれば、狙うのは病院や医療を司る宣教聖省の関係者か。
 少なくとも、私ならばそうする。
 此方で先んじて事の経緯を調べ上げて対策を具申すれば、教皇庁に対して優位に立てるだろう。
 フラスネル医療司書、聖都の動きやミリア・スティルヴァイの経歴も三日後までには調べておく。
 選定した護衛の派遣と、魔術具の用意も三日後だ。
 それまでは充分に警戒して、彼女への接触は控えるように」

艶のあるバリトンは、バニブルの外交司書ラクサズ・イレアード・イブンスディールの声。
コーデファーが庇護者であるラクサズと、今後の連絡を取り合っているのだ。
近代の機械技術を嫌う付与魔術師が相手なので、通信には懐中時計型の魔術具が用いられている。

「三日後ですって? 遅過ぎるわ。
 明日の夕方にはあの女が来るのだけれど、それまでに準備は済ませられないの」

コーデファーが蓋を開けた懐中時計に目を落として言い返す。

「残念ながら、魔術王ならざる身では全ての準備を一日で終えるのは難しい」

「もっと要領良くやりなさいよ。
 あなたが凡俗でも愚図でも、地位はあるんでしょ」

通信具を通した向こう側にラクサズの冷笑を感じ、コーデファーは不快げに吐き捨てる。

「地位はあるが、外交司書ともなると対面を重んじなければならない。
 魔術具の持ち込みや、武装許可一つ取っても、書類が必要なのだ
 治安の悪い場所なら許可など必要ないが、其方はそうではあるまい」

「面倒なものね。
 それなら、この件は此処の警備官にでも通報すればいいの?」

「そうだ。
 とは言っても、魔術関係は小村の警備官などの手には負えないから、対応するのは地区警察の魔術対策課だ。
 但し、対策課が検討した上で術師の力量が足りないと判断されれば、冒険者協会などへも応援要請が行く。
 腕の良い魔術師を確保するのは、どの行政も苦心している所だからな。
 従って、我々が身分を明かした上で協力の意志を伝えれば、援護の要請は此方へ為されるだろう」

「そう……でも、警備官への連絡は明日で充分だわ。
 どうせ、動くのは三日後なんでしょう。
 明日のミリアの訪問も、監視だけして引っ込んでるわ。
 思い返してみれば、無理やりキスしてこようとしたのも、わたしを術に掛けるつもりだったのね」

声音に怒気が篭もった。
己の意思を他者に委ねる事は、運命を握られる事に等しい。
それゆえに精神を支配する系統の魔術は、イストリア条約で禁術に指定されている。
コーデファーの言葉に滲んだ怒りも、人権を鑑みれば正当なものだと言えよう。

「まだ相手の正体は知れない。慎重を期して短慮は慎むように」

ラクサズの念押しを最後として、ドイナカ村とバニブルを繋ぐ通信は切れた。
会話の相手が居なくなると、コーデファーは机に懐中時計を置き、柔らかな寝床へ転がって瞼を閉ざす。
診療で疲れた医療司書が眠りへ落ちるのに時は掛からず、程なく狭い部屋にも寝息が立ち始めた。

450ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/09/07(日) 02:28:49 ID:E4WKg1xA0
翌朝、ミリアは木製扉を叩くノック音で目覚めた。
頭の中は明瞭で、朝食の準備が出来たと知らせるペンションオーナーの声もしっかりと聞き取れる。

「あ、すぐ行きますっ」

ミリアは扉の外のセザールに返事を返しつつ、寝巻きを着替えた。
今日の装いはエヴァンジェルから持って来たクラシカルな服で、元はリンセルのものだ。
洗面所で顔を洗ってリボンバレッタで髪を結ぶと、ミリアは階段を降りてダイニングへ向かった。
十人以上が寛げるような広間には、四つのテーブルに食器が並べられている。

まずはダイニングを眺め回して空席を探した。
近くの卓には翼人《エルユジャス》の四人一家が座っていて、奥まった場所には四人の侏儒《ドワーフ》族。
窓際の卓には、猫人《シャパリュー》と翅を持つ妖精《フェアリー》の姿。
とりわけ背の低い卓には、二人組の小柄な兎人《ミフィアン》が席に着く。
すでに朝食を食べ始めている者も少なくない。

(なにこのアウェイ感……アタシしか人間がいない)

全てのテーブルを確認してみても、食器の置かれた空席は一つのみ。
必然的にミリアも其処が自分の席だろうと判断して、猫人族と妖精種が座る卓に混じった。
人間以外の種族しかいないダイニングには居心地の悪さを感じるが、朝食を放棄するつもりは無い。

「……どうも。
 昨夜から此処に泊まってるミリアです」

緊張した面持ちのミリアは相席する二人へ、ぎこちなく自己紹介を述べた。

「宜しく、俺は観光雑誌のライターでメーレット・プラヴァ。
 君が昨夜来たのなら、三号室の俺とは斜向かいの筈だ」

高い椅子に腰掛けた猫人が、高い声で挨拶を返す。
メーレット・プラヴァは猫の頭部と黒い毛並みを持ち、背はミリアよりも頭一つ低い程度だ。
聖都のブティックで見かけた猫系亜人と違って、見た目は直立歩行する猫そのもの。
白いブラウスと、サスペンダー付きのショートパンツを身に着けていなければ、大型の猫と言っても通るだろう。
猫人の雑誌記者に続いて、繊細な容貌をした妖精族もミリアに顔を向ける。

「こっちもよろしく。
 私はドリームフォレスト。長いからドリームって呼んでね」

夢の森を名乗る妖精が、朗らかに述べた。
ドリームフォレストの外見は十代に満たぬ子供のようで、背の翅が邪魔なのか腰掛けるのは背もたれの無い椅子。
体には星霊教団製の薄い呪衣を纏っているものの、白い生地を通して華奢なシルエットが透けてしまっている。
性別を持たない種族だからこそ、薄布一枚という服装も許されているのだろう。
少なくとも、ミリアが同じ格好をすれば周囲の困惑を呼ぶのは間違いない。

(……名前の通り、夢の住人ってとこか)

ミリアの着席を確認すると、セザールが料理皿をトレーに乗せて運んで来た。
メニューは、ブラウンソースの掛かった焼き立てソーセージ、大麦とベーコンの煮込みスープ。
パンとチーズ、カリカリに焼いたハッシュポテト、付け合わせの山菜サラダ、林檎の炭酸飲料だ。
素材に自信があるのか、或いは面倒だったのか、これといって凝った調理のものはない。

「グッドアペタイト(良い食事を)」

「ありがと」

オーナーの言葉を合図として、ミリアも食事を始めた。
凄く美味しいというわけではないが、一日ぶりの食事となると舌の上の刺激も懐かしい。

451ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/09/07(日) 02:35:11 ID:E4WKg1xA0
メーレット・プラヴァは料理を口にするたび、三点、二点などと数字を小さく口から漏らす。
もちろん、此処の料理も雑誌の記事にするので、料理の内容を評価しているのだ。
一通りの点数を付け終わると、彼はソーセージを刺したフォークを口に運びつつ、ミリアに話し掛ける。

「人間の年齢や性別はよく分からないが、ミリアさんは成人されているのかな。
 見た処は一人のようだが」

「……いえ、十七だから成人はまだ。それと女です」

返された言葉は簡素。
掏りの被害を受けたばかりの状況で、気心知れない相手との会話ともなれば、ミリアの口調も硬い。

「そうか、猫人で十七と言えば中年と言ってもおかしく無いが。
 まあ成年と未成年の境ってものは、年齢で決めるものじゃない。
 誰かの庇護を必要とせず、自力で社会と関わって生きられるかどうかだ」

「働いて生計を立ててる訳じゃありませんから、やっぱり未成年です」

イストリアでは人間の成人年齢が十八才と規定されている。
年齢に加えて、自立できてるかという基準に合わせても、未成年だと答えざるを得ない。
ミリアが弾まない会話を止めてスープを口にすると、もう一人の同席者が口を開いた。

「大人と子供の境かぁ。
 子供になりたいと思った時が、大人なんじゃないの?
 子供になりたいってことは、子供じゃないわけだし」

ドリームフォレストの言葉を聞いて、メーレットは肩を竦める。

「さぁて、どうなのかね。
 働かずに遊び歩けるなら、俺も子供になりたいもんだが」

皮肉を察してミリアも鼻白む。

「一応、アタシにも就労の意志はありますけどね。
 それに昨日、財布を掏られたばかりで遊び歩ける立場って訳でもないですし」

「それはご愁傷様だ。
 早く悪漢が捕まるよう、俺も祈っているよ。
 とは言え、この辺りはスリが居ても平和な方だ。
 就職口さえ見つかれば、住むには良い環境かも知れない。
 フェネクスみたいに、テログループの標的にはならないだろうからね」

話題にフェネクスの虐殺事件が混じると、陽気そうな妖精族も声の調子を落とす。

「……嫌な事件だったね。
 星霊教団主宰のイベントで起きた死傷事件なのに、誰一人犠牲者を蘇生できなかったらしいし。
 教団じゃ、フェネクスドームに降った黒い宝玉が死者の魂を奪ったから、蘇生も出来ないって見解みたい。
 あの黒い玉に関わった事件の死者は、ほぼ復活も無理だって事だね」

ドリームフォレストから蘇生事情を聞いた猫人は、フンと鼻を鳴らしてスプーンを置く。

「しかし、魔術絡みのテロってのは本当に厄介なもんだ。
 瞬間移動の術があれば、安全な場所なんてもんは無いからな。
 いきなり現れて破壊の術をぶっ放し、すぐに瞬間移動で離脱されると、もう誰にも手の打ちようが無い。
 発電所や政庁には消呪区域が設置されてるが、高位魔術師を擁した武装集団なんて止めるのも困難だ。
 その上、ご丁寧に蘇生を出来なくする手段まであると来た。
 結局、狙う価値の無い場所にいるってのが、一番安全なのかもしれない」

話し込む猫人と妖精。
ミリアは温かなソーセージを頬張りつつ、同席の二人が交わす会話に耳を傾けていた。

452ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/09/07(日) 02:36:12 ID:E4WKg1xA0
観光雑誌の記者と、人当たりの良さそうな種族だけに話が尽きる様子はない。
ミリアが黙々と卓上の料理を減らす間にも、猫人と妖精は世間話を続けている。

「……虐殺って言えば、この地方に近いエヴァンジェルでも起こったね」

「ああ、あったな。
 トチ狂った教皇が、救済と称して化け物の群れを呼んだんだったか……。
 死ぬのが救いってんなら、勝手に一人で死にやがれってんだ。
 他人の命を使わない分、政治的主張を通す為にガソリンで焼身自殺って輩の方が、まだ可愛げがある。
 あんな奴をトップに選んだんじゃ、少なからず三主教への信頼も揺らいだろうな」

「あの事件、犠牲者に蘇生術を掛けて欲しいって依頼が何件もあったけど、私には誰も助けられなかった……」

ドリームフォレストが眉に憂いを作って溜息を吐くと、メーレットは意外そうに相手の顔を眺めた。

「あんた、蘇生術師だったのか。
 何件も術に失敗したとか、村の蘇生事情が不安になるような情報だな」

「ちゃんと成功例もあるって。
 一年に二人くらいは、熊に襲われた人の蘇生もしてるし。
 数週間前にだって、体が一部しか残ってなかった遺体を二人も蘇生させたんだよ」

「そうか、それなら不慮の事故に見舞われても安心ってわけだ。
 そういや、エヴァンジェルの虐殺でも黒い宝玉が使われたって話を聞く。
 大方、ドリームさんの蘇生術失敗もそのせいだろうさ」

「なんだろね、あの黒い宝玉って」

「ドリームさんは星霊教団の人間なんだろう? あんたらでも分からないのか」

「何個か手に入れて調べてるみたいだけど、専門分野じゃないからね。
 ほら、うちのメインって精霊思想の普及とか、自然の摂理の把握とか、環境保護じゃない?
 それに星の巫女が行方不明で、組織の方針も現状維持って感じだしさ」

「世界中に教会を置く思想集団も、トップが消えちゃあ迅速には動けんか。
 いや、大規模だからこそ意見も纏まらんのかな」

「代理を立てるって話も、レヴァイアサンの虐殺事件で流れちゃったしね。
 色んな事を何とかしたいのは、みんな同じなんだけど」

「それなら一つ、まずは手近な所で俺の仕事を何とかして欲しいとこだな。
 村で蘇生師やってんなら、観光ガイドに載ってない穴場なんかに詳しくないかね。
 地元のお奨めも聞いておきたいんだが」

「ドイナカ村に穴場なんて無いよ?
 中心地に温泉と観光施設でしょ、その周囲は農地と牧草地、さらに外側は森と山があるくらいだもん。
 だいたいの観光ガイドには、もう全部載ってるよ。
 楽しみ方も森林浴、渓流釣り、温泉、山菜料理、トレッキング、バードウォチッングってとこかな。
 森に飽きないんだったら、割と良い環境かなって思うけどね」

「変わった風習とか、イベントなんかは無いのか?
 ローカルアイドルとか、変なマスコットを作るのが当世の流行りだが」

「アイドルはいないけど、夏至と冬至、春分と秋分で一年に四回のお祭りがあるよ」

「そりゃ……ありきたりだな」

「ありきたりも良いものだよ」

蘇生師の妖精はそう言って、林檎の炭酸水を飲んだ。

453ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/09/07(日) 02:41:24 ID:E4WKg1xA0
メーレットは雑誌記者の端くれだけあって世情に明るいが、皮肉めいた物言いをする人物。
ドリームフォレストは星霊教団の蘇生師で、人当たりは良い。
これがミリアの二人に対する第一印象だ。

「あ、ドリーム……さんはこの村の人ですよね。
 アタシ、この村にしばらく滞在したいんですけど、あんまりお金がなくて働きたいんです。
 ドイナカ村で仕事の募集ってしてますか」

ミリアは村の就職環境について質問した。
世事に疎そうに見える妖精でも、村民の一人なら少しは就職事情に通じているかもしれない。
期待を込めてドリームフォレストの顔を見つめる。

「ミリアちゃんだっけ。
 ドイナカ村で仕事……ねえ?
 冒険者の店は冒険者資格が必要だし、酪農も狩猟も農業も初心者には難しいしなあ。
 ラスティックバーガーとかコンビニのバイトとか、後は旅館なんかどう?」

妖精が助言すると、猫人の雑誌記者も髯を引っ張りながら意見を述べ始めた。

「若い女なら、それなりの需要がありそうだし、接客業なんかどうかね。
 ローファンタジアじゃ、JKお散歩なんて女子高生が一緒に散歩するだけの接客業も成立してたそうだぞ。
 まあ、市場規模の小さい村じゃ難しいかもしれんが」

今日の予定を決めつつ、ミリアはアドバイスを述べる二人に軽く頭を下げた。
予定は午前から正午に何件かの店を巡って、夕方はリンセルの見舞いだ。

「……ありがとうございます、色々回ってみます」

ミリアが椅子から立ち上がり掛けると、妖精の蘇生師は、あっ……と声を掛けて呼び止めた。

「ところでさ、ミリアちゃんは人間族だよね?
 さっきからとっても強い魔力を感じてて、ずっと気になってたんだけど」

「えっ」

動揺で息を飲む。
思いも寄らぬ一言を聞き、意表を付かれて狼狽した。
ドリームフォレストは、誰も知らぬ間に自分の魔力を計っていたのだろうか……何の為に?
疑念に駆られたミリアは、目前の顔を覗き込む。

「アタシの魔力? な、なんでそんなことが分かるの?」

丁寧な言葉を使うのも忘れて、上擦る声で妖精に問い掛けた。

「あー、私たち妖精《フェアリー》は魔力知覚が鋭敏だからね。
 特別な術を使わなくたって、他人の魔力を計ることは難しくないんだ。
 で、ミリアちゃんの魔力は精霊にも比肩する程だから、珍しいなあって思ってさ」

「え、えっと……魔術師……だから、魔力が高いのかな」

ミリアは曖昧に言葉を濁す。
厄災の種について悟られた訳ではないようだと、ほっと胸を撫で下ろして。

454ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/09/07(日) 02:43:42 ID:E4WKg1xA0
安堵するミリアにメーレットが視線を送った。

「おや、ドリームさんだけじゃなく、ミリアさんも魔術師だったか。
 せっかく魔術が使えるんだったら、そっちを生かしちゃどうかね。
 村に何か、そういった仕事の口は無いのかい?」

横から投げられた質問に、ドリームフォレストは首を振る。

「ドイナカ村で魔力が必要な職なんて、魔術医と蘇生術師と転送ゲートの管理官、後は冒険者くらいだよ。
 ただ冒険者って言っても、小さい村だから依頼がじゃんじゃん入ってくる訳でもないみたい。
 山林ガイド専属の精霊使いが、比較的安定してる程度かな」

「そっか、でもアタシが使うのは強化魔術《エンハンス》だから、精霊とかは詳しくないんだよね……。
 それじゃ、アタシはこれで」

ミリアは別れの挨拶を残して、ダイニングから足早に立ち去った。
妖精族が人間と異なる感覚を持つ事を示されただけに、ドリームフォレストの前にいるのは落ち着かない。

「セザールさん、ちょっと仕事探しに行ってきますね」

「ええ、良い結果になることを祈っていますよ」

炊事場のオーナーと挨拶を交わすと、ミリアは準備のために自室へ戻った。
まずは、持ち物を小さめのウェストポーチに移す。
クラシカルな服装にウェストポーチは似合わないが、さすがに着替え一式を詰めた旅行バッグは持ち歩けない。
持ち歩く所持金も100R$と決め、昨日の警備官の言葉を思い出してポーチやメモ帳に髪の毛を一本忍ばせる。

「そういえば、掏られた財布……戻ってないかな」

外出の準備を終えると、ミリアは一縷の期待を抱いて駐在所に向かって行った。

455医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/09/21(日) 10:58:52 ID:ClEAEMQA0
朝の村は陽射しの強さに伴って、人の動きも活発さを増す。
コーデファーが目覚めたのは、道行く観光客で大通りに雑踏が作られる頃合いだ。
遅い朝食を摂った彼女は病院のロビーに赴くと、看護士から駐在所の電話番号を聞きつつ受話機を取る。

「警備官、仕事をお願い出来るかしら。
 この村に凶悪な犯罪者がいるの」

と、切り出すコーデファー。
その声は若化の影響で余りに若々しく、子供の声にしか聞こえない。
だから、応対する老警備官、ウィムジー・サンプティアもあやすように答える。

「ほうほう……凶悪な犯罪者ねえ。そりゃ大変だ。
 それで、お嬢ちゃんはどこのどちらさんだい?」

「あなた、もしかしてわたしを子供だと思って馬鹿にしてない?
 わたしはね、コーデファー・コトン・フラスネル。
 バニブルの医療司書で、今はこの村の病院の外来研究者なのよ」

「こりゃ失礼、お医者さんだったか。
 で、この村でどんな悪事が行われてるのかね?」

「この病院の患者に精神操作の禁術が使われた形跡を見つけたの。
 魔術を使った疑いがあるのは、ミリア・スティルヴァイって女なのだけれど」

「ふーむ、もう少し詳しくお願いできるかな」

「一から十まで説明しないと分からないなんて鈍いわねえ、もうっ。
 病院に運ばれた患者を診て、深層意識の異常に気付いたのよ。
 魅了の魔術が使われたらしいってことにね。
 放置しておいたら、術者は何をするか分からないわよ」

「魅了てぇと、掛けられたもんが惚れちまうって術だろう。
 まあ、なんていうか……もてない奴が血眼になって覚えそうな術じゃなぁ。
 名前からして女なんだろうが、そのミリアってのはどんな奴なのかね」

ウィムジーはホラー映画に出てきそうな怪女を思い浮かべた。

「エヴァンジェルのパン屋で働いてたみたいだけど、出身は……この辺りじゃなさそうね。
 中央大陸の人間だとは思うけど、顔形の特徴なんて説明するのも面倒だわ。
 病院の監視カメラに映ってるはずだから、そっちを見て確認してちょうだい」

「おうよ、そいじゃあすぐ行くから支度しよう。
 だが、俺は魔術なんぞ使えんから、コーデファーさんの話が本当ならそっちの備えをせんとなあ」

老いた警備官は顎を弄りながら考え込む。
魔術の絡んだ事件は、一般駐在員である自分の手には負えない。
こういったケースでは地区を統括する警察署に連絡を入れて、魔術対策課の人員を派遣してもらう。
しかし、現状は各地で多発する異変への対応に追われて、数少ない魔術習得者は酷使されている状態だ。
高度な魔術に対応できる人員の派遣も、いつになるか分からない。

「そう、それならバニブルの外交司書に頼んで魔術師を派遣してもらうから、手続きをお願いできる?
 民間の魔術師を臨時職員扱いとして使うケースもあるんでしょ?
 こっちへの到着には二日くらい掛かるけど、魔術師相手に確実を期すなら人数だって多いに越したことはないわ」

コーデファーの提案は、人手不足の警察署にとっては渡りに舟の申し出だ。
しっかりした身分証明がある人物なら、臨時職員に迎えても問題はない。

「そりゃ助かる。
 上に連絡してもすぐにはダメそうだったら、冒険者協会に頼もうかと考えとったからな。
 あー、でも金一封が目当てなら、たいした額にはならんよ」

456ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/10/06(月) 01:05:11 ID:nUOmiozM0
ミリアは八時過ぎに村の駐在所へ辿り着いた。
民家風の建物の近くに寄れば、矍鑠とした声が大通りにまで漏れ響くのが聞こえる。
窓から内部の様子を窺うと、電話で応対中の警備官ウィムジー・サンプティアが見えた。
彼は足を組んでパイプ椅子に座り、有線の受話器を持ちながら相槌を打っている。

「おう……さすがはお医者さんだ……うむ……うむ」

(電話中か、どうしよ)

しばらく建物の外で佇むミリア。
やがて、駐在所を窺う気配に気付いたのか、ウィムジーが窓へ視線を向けた。
ミリアと目が合うと、老警備官は駐在所の椅子を何度か指差す。
電話が終わるまで、中に入って待つようにとの意だろう。
頷いたミリアが駐在所に入ると、マスカットのような香りが鼻腔をくすぐった。
香りの源はスチールデスクの上で湯気を立ち上らせる紅茶のようで、横には齧りかけのチョコレート。

(これ、朝食かな)

疑問に思いながら、ミリアもパイプ椅子に腰掛けた。
そのまま通話の邪魔をしないように黙っていると、狭い駐在所にはウィムジーのしわがれた声だけが響く。

「分かっておるとも。
 まあ、俺は魔術に詳しくないが、魔術師相手ならそういったもんも必要になんだろうさ」

嫌が応にも会話が耳に入ってしまい、ミリアも耳をそばだててしまう。
会話の相手が医者のようなので、魔術師が事件を起こして誰かが病院に運ばれたのだろうかと想像を巡らせる。

「いやいや、やる気はあるとも……そう慌てなさんな。
 今、ちょうど来客があったんで少し遅れちまうが、ちゃんと行くとも。
 なぁに、病院までは近いから三十分も掛からん」

ウィムジーが会話を締め括って受話器を置くと、ミリアが口を開いた。

「あの、何かあったんですか?
 魔術師って聞こえたんですけど、まさか村のどこかで魔術師が暴れ回ってたり?
 友達が病院に入院してるんで、ちょっと心配なんですけど……」

「おう、ミーリィスさんだったかな。
 さっき、村に悪い魔術師が潜んでるらしいって通報があってね。
 まだ怪我人が出たって話は聞かんが…………ん?
 ミーリィスさんは、村に来たのが初めてじゃないのかね。
 此処の病院に友達が入院してるってことは」

警備官の性なのか、思わず口をつくミリアの不安にウィムジーが反応した。
彼にとっては、バイタル出身のミーリィスが温泉観光へ来た事になっているのだ。

「あ、えっと……村に来るのは初めて。
 友達が此処に入院したって聞いて、見舞いついでに観光しようかなって……」

ミリアは動揺を抑えるのに苦心しつつ、昨日の設定との辻褄を合わせた。
しかし、ウィムジーも病院が精神研究を専門としていることを知っているせいだろうか。
あまり触れられたくないことだとでも思ったのか、質問を重ねる様子は無かった。

「そうだったか。
 まあ病院の監視カメラには犯人が映ってたらしいから、すぐに解決すんだろう。
 ちょうど、これからその映像を確かめに行こうってとこだ。
 明後日には村外から応援の魔術師も来るだろうから、それほど心配はいらんよ。
 お、そうだ、病院へ行く前に昨日の事件の進展も伝えといた方がよいかな」

思い出したようにウィムジーが問う。

457ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/10/06(月) 01:06:00 ID:nUOmiozM0
偽りの経歴から話題が移り、ミリアは密かに胸を撫で下ろした。

「あっ、掏りの件って何か分かりましたか?」

「ううむ……色々と当たっては見たんだが、残念ながらこっちの犯人は全く目撃報告が無い。
 こりゃ、かなり手慣れた奴に違いないわな
 となると、狭い村ん中に留まってる訳もねえだろうから、もう村を出ちまったのかもしれん。
 転送ゲートの管理官も見とらんそうだし、何処へ行ったのやらだ」

ウィムジーは皺深い顔に渋面を描いて頭を掻く。

「やっぱり無理かぁ……」

ミリアの唇から溜息が漏れた。
想像はしていたが、やはり解決の見込みは薄いようだ。

「済まんな。
 とりあえず、近隣の村にも連絡を入れておく。
 バニブルから魔術師が来たら、何か良い手がないか相談してみよう」

うな垂れるミリアの肩をぽんと叩き、ウィムジーは立ち上がった。
腰にサーベルを佩き、警帽を被って身支度を始める。

「魔術師の応援ってバニブルから? こんな遠くの村まで?
 警察の制度ってよく分からないけど、他の国から魔術師の応援を呼ぶものなの?」

警備官の口から何気なく発された国名が、ミリアに違和感を感じさせる。
バニブルは古今東西の書物が収蔵された国家。
優秀な魔術師がいてもおかしくはないのだが、ドイナカ村とは離れ過ぎている。
転送ゲートか転移魔術、航空機を使わなければ、明後日に到着するのが不可能なくらいには。

「ああ、いや、応援の魔術師は病院のお医者さんの伝手でな。
 通報してきた際に協力を打診して来たんで、ありがたく受けたってわけだ。
 地区警察は人手不足だから、普段は冒険者協会の手を借りとるが、いつもひよっ子ばかり送ってきよるからな」
 
「バニブルの魔術師に伝手のある医者って……。
 もしかしてコーデファー・コトン・フラスネル?」

ミリアがバニブルに伝手を持つ医者と聞いて、彼女が思い浮かべる名前は一つしかない。

「確かそんな名前だったが、ミーリィスさんの知り合いかな?」

「ええ、お見舞いの時にちょっと」

予想が当たったにも拘らず、ミリアは訝しく思う。
コーデファーの身勝手そうな性格からして、積極的に治安維持へ協力するイメージは湧かない。
自分の時と同じように、病院内の誰かとトラブルを起こして駐在所へ通報したのだろうか。

(まさか、まだエヴァンジェルでのキス未遂を根に持ってて、アタシを通報……ってことはないか)

「じゃあ、俺はそろそろ行くぞ」

ウィムジーが『警邏中、俺に用事がある奴は此方の番号まで』と書かれた札をデスクに置く。
駐在所を留守にしている間も、携帯電話で連絡を取れるようにだ。
老警備官は一旦は建物の裏手に消えるものの、すぐに警邏の用意を済ませて大通りへ現れた
乗っているのはパトロールカーでもオートバイでもなく、背の高い栗毛の馬。
ミリアも周囲の観光客たちと同じく、物珍しげな顔で注目する。

「この村の警備官って、馬でパトロールするの……?」

458ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/10/06(月) 01:06:27 ID:nUOmiozM0
ウィムジーは自慢の愛馬の鬣を撫でつつ、得意げに笑った。

「おおそうとも、警邏は馬に限るぞ。
 狭っこい路地も入れるし、牧草地や森ならバイクなんぞより、よっぽど速い」

馬首を病院に向けた警備官が栗毛の馬を闊歩させると、ミリアも早足で後を追いかけた。

「友達に怪我が無いか知りたいから、アタシも病院の様子を見に行こうかな。
 あっ、さっき、たいした額を出すとか出さないとか言ってたですよね。
 もしかして、悪い魔術師の逮捕に協力すれば協力金みたいなものが出る?」

「重犯罪者の検挙や情報提供に関しては、貢献の度合いに応じて報奨金が出るぞ。
 確か、俺の聞いた中じゃ300000R$が最高だったか」

「300000R$……!」

想像した以上の金額を聞いて、声が裏返るミリア。
その様子を見て、ウィムジーは報奨金について教えた事を後悔する。
所持金を失った身では、端金とて飛びつきかねないと考えてだ。

「ただな、魔術師相手なら素人はあまり首を突っ込まん方がいい。
 奴らは呪文の一言、二言で簡単に人の命を奪い、心すら操れるからな。
 報奨金と言っても、大々的に報道されてないような奴なら1000R$がせいぜい。
 そう簡単に一攫千金とはいかんし、とてもじゃないが犯す危険にも見合わん。
 何かあったら親御さんも悲しむぞ」

犠牲者が増えぬよう、釘を刺す警備官。
職責もあるが、老齢の彼としては孫ほどの年の少女が事件に巻き込まれるのは忍びない。

「……親なら死んだよ、二年前」

ミリアは視線を前に向けたまま、口重たげに呟く。

「ん、そうか。
 知らん事とは言え、悪い事を言っちまったな。
 だが、残された子供まで若くして死んじまったら親も浮かばれん」

警備官の言葉を聞いてミリアが思うのは、父が死んでから何ヶ月も見続けた夢。
父さんが居なければ生きていけないと泣いて父の胸に縋り、その父から後を追っては駄目だよと諭される夢だ。
もし、あの夢を見なければ、自分は此処でこうして生きていられたのだろうか。分からない。思い返すと胸が痛む。

「……分かってますけど、今は先立つものが無いですから。
 それに魔術師の正体と手の内さえ分かれば、アタシにだって勝算が無い訳じゃないですよ。
 魔術師って言っても、要は呪文を唱えさせなけきゃ良いわけですし」

(アタシも魔術を使えるってこと話すのは……止めとくか、経歴とか聞かれそうだし)

観光客が行き交う大通りの中、石畳を歩く馬の横をついて行くミリア。
魔術具の杖を手放して戦力を大幅に落としたとはいえ、まだ手札は残っている。
手持ちの強化魔術を組み合わせれば、相手を無力化できるかも知れないし、種族が人間なら魅了の対象だ。
しかし、ミリアの魔力を知らない警備官としては危ぶむ態度を変えられない。

「村のもんに魔術師の正体を教えられるかは、上に相談しないと分からんぞ。
 慌てて指名手配すると、逃げちまったり、変な術で暴れ回る恐れもあるからな」

牧草地に囲まれた砂利道を雑談しなが進む内に、ウィムジーとミリアは病院まで至った。
奇妙な状況だった。
コーデファーの通報した魔術師とはミリアのことだ。
しかし、通報を受けた警備官はミーリィスが経歴を詐称したミリアとは知らず。
ミリアを捕まえる気のミリアを伴って、病院へやって来てしまった。

459医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/10/13(月) 18:02:11 ID:h.wGX6aU0
トリフネは一般の総合病院と違い、研究機関としての側面がある。
午後は研修や回診、授業、手術と時間を割かれるので、外来の患者を受付けているのも午前中のみだ。
従って、まだ九時近くではあったがロビーに人の姿は多い。
ウィムジーも足腰や目の治療で何度か病院に足を運んだ事があるせいか、慣れた様子で受け付けへ向かう。
勤務中の看護婦の中に馴染みの顔を見つけると、早速コーデファーとの面会を申し出た。

「おう、アデライドさん。
 フラスネルってお医者さんから通報を受けたんだが、此方におられるかね」

「フラスネル医療司書、応接室待機、私、案内開始」

「ありがとさん。
 病院に変わった事は無いかね?
 村に悪い魔術師がいるらしくて、こっちのお嬢さんが心配しとるんだが」

ミリアの懸念を晴らすべく、ウィムジーは病院の状況を問う。

「病院、異常無し、平常運転」

「……だそうだ、ミーリィスさん。
 この様子なら、病院には何かあったって訳でも無いだろう。
 じゃ、俺はちょっくら事情聴取に行って来るから、また後でな」

アデライドに伴われたウィムジーは、ミリアをロビーに残して廊下の奥へ進む。
ほどなく、バニブルの医療司書とドイナカ村の警備官は応接室で面会した。
来客用の部屋だからか、さすがに応接室は無機質な印象も無い。
真新しいフローリングの床にレトロなソファーが置かれ、窓から差し込む光が鉢植えの観葉植物を緑に輝かせる。
壁には大型ディスプレイと掛け時計、書類棚がレイアウトされていた。
低い木製テーブルの上には、ミルクで濁ったハイランド地方産のハーブティーと、ロルサンジュの焼き菓子。
その前では、ビスクドールを思わせる可憐な幼女がキャラメルクッキーを齧っていた。

「フラスネル医療司書、警備官、到着」

「見れば分かるわ。
 お前は仕事に戻ってて」

コーデファーが素っ気無い指示を出すと、アデライドも下がってゆく。
横柄な言葉でも気分を害する様子が無いのは、人の感情の機微に疎い妖精種だからだろう。
ウィムジーは踵を返す看護婦に帽子を取って会釈し、それからソファーに腰掛けた。

「あんたがコーデファーさんかい?
 俺より年上だとは聞いとったが……いやー、まったくそうは見えん。
 おお、そうだ、身分証なんかを見せてもらってもいいかね。
 面倒だとは思うが、上に話を通さなきゃならんのでな」

「……これだから、真偽の分からない凡俗は嫌なのよね」

不満を洩らしつつも、コーデファーは医療司書の免許をテーブルに置く。
幼げな容姿の彼女は年齢や能力を疑われるのも日常茶飯事なので、医療司書の免許は常に持ち歩いていた。
年齢や資格の記載された免許証に目を通すと、ウィムジーも感心したように小さく唸る。

「ほぅ……妖精族なら100や200は珍しかないんだが、人間で186才ってのはたいしたもんだ」

「そ、わたしは特殊な施術で若い姿を保ってるの。
 無駄な雑談をするつもりは無いから、さっさと用件だけ伝えるわ。
 ディスプレイを見て頂戴、これが村に潜んでる魔術師、ミリア・スティルヴァイ」

コーデファーがリモコンを操作すると、大型ディスプレイの黒い画面に映像が現れた。
これは監視カメラをダビングした映像で、一昨日に来たフロレアと搬送中のリンセルも映っている。

460医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/10/13(月) 18:05:02 ID:h.wGX6aU0
映像は拡大されたミリアの姿で停止して、其処に知った顔を認めたウィムジーが髯の剃り残しを撫でる。

「あー……こりゃ参ったな。
 昨日、財布を掏られて駐在所に被害届けを出して来た子だ。
 バイタル出身のミーリィス・ステイルメイトって名乗ってたんだが、ありゃ偽名だったか」

「……本当に呆れたものね。犯罪者の分際で警察に被害届けなんて。
 頭の中身が足りないとしか思えないわ。
 わざわざ偽名なんか使ってるってことは、疚しい自覚だけはあるようだけど」

「で、このミリアって娘が人の心を誑かす魔術師だってのは本当なのかね?
 見た感じ、あんまり凄腕魔術師って印象はなかったんだが」

ウィムジーが疑いの言葉を挟む。
コーデファーの言葉と監視カメラの映像だけでは、ミリアが魔術師かどうかの判断はできない。
彼としても、誤認逮捕などという事態は避けたかった。

「証拠が欲しいって事? それなら被術者の記憶映像があるわ」

コーデファーは慎重な警備官に若干の不満を表しつつも、ディスプレイの映像を切り替える。
昨日見た光景、ピンク色の厨房でリンセルとミリアが会話を繰り広げる場面に。
ウィムジーも映像を眺めながら、二人が交わす言葉の一通りを聞く。

「……………………ふーむ、フェロモンみたいな体液か。
 人間が働き蟻みたいになっちまうってんなら、そりゃ厄介な代物だわな。
 でもよ、唾とか汗とかに気をつけてりゃいいんだろ。
 雨合羽とかマスクとかゴーグルなんかで、身を守れないもんかね」

まだ得心が行かない様子ながら、ウィムジーも感想を述べた。
ミリアの魅了は体液を媒介とするので、物理的な防御はそれなりに有効な手段となる。
老齢の警備官とは言え、戦闘経験が皆無の相手ならば、制圧するのも不可能ではないはずだ。
しかし、独力で解決されては困るラクサズの意向を汲んで、コーデファーは脅威の喧伝を始めた。

「魔術の素人は単純なものね。
 精神に作用する物質を生成できるってことは、この女は強化魔術師か異能者なのよ。
 能力だって、他人を魅了するだけじゃないかもしれないでしょう。
 不審に思われて知覚や身体能力を強化されたら、監視や逮捕だって簡単じゃないわ。
 素直にバニブルから応援が来るのを待ちなさい」

「相手が魔術を使うとなると、やっぱり明後日まで様子見しなきゃならんか。
 現行犯以外じゃ、俺が独断で逮捕することも出来んしなぁ。
 まずはイストリア条約違反の証拠を地区警察に提出して、国際逮捕手配書の送付を待たないといかん。
 とは言え、被害者の記憶映像ってのは証拠として成立すんのかねえ……。
 家宅捜索や通信傍受も無理だから、もうちっとばかし聞き込みしなきゃならんかもな。
 外国人となると、本籍や経歴まで洗えるかは分からんが」

「エヴァンジェルのパン屋で働いてたけど、そっちも調べられないの?」

「あそこは独立都市だから、うちが独自に捜査すんのは無理だ。
 教皇庁に協力を要請してから、合同で捜査って形になんだろうさ」

「……なんか、本当に面倒なのね」

「警察なんて、どこもそんなもんさ。
 ミリア・スティルヴァイは、あんたが通報した事を知っちまっとるが、通報された魔術師が自分とは思っとらん。
 今のところは知らん振りをしつつ、それとなく情報を仕入れるとしよう」

「そう、目ぼしい映像と患者のカルテはメモリーカードに入れといたから、後の検討はそっちでやって」

コーデファーは大型ディスプレイの端子部に差し込まれていたカード端末を引き抜く。

461医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/10/13(月) 18:05:57 ID:h.wGX6aU0
九時半を過ぎ、ウィムジーが話し合いを終えてロビーに戻ると、まだミリアの姿が残っていた。
魔術師捕獲での一攫千金を目論んでいるのなら、真っ先に警備官から情報を得たいはずだ。
対応をどうしたものかと考えながら、ウィムジーはソファーに座るミリアへ近づいた。

「おう、ミリ……ィスさん、まだ残っとったか。
 犯人について知りたいのかも知れんが、危険魔術防止法の規約ってやつでな。
 まだ公開捜査になっとらん魔術師の情報は公にはできん、悪いな」

ウィムジーは、知ったばかりのミーリィス・ステイルメイトの本名を寸での所で飲み込んだ。
ミリア自身が容疑者であることも、適当な名目を述べて煙に巻く。
彼としては、容疑者の周辺環境を知る必要があったから、詳しく話を聞き出す為にも同道を申し出る事とした。

「これから、何か予定はあるかね?
 もし、泊まってるとこに帰るんだったら俺が送ってやろう。
 どこに魔術師が潜んでおるか分からんしな」

ウィムジーが帰りの付き添いを申し出る。
たとえ拒まれたとしても、彼は村の宿泊施設を一つひとつ当たるつもりだ。
ミリアが何も対策をしていない以上、セプテットを本拠としている事は午後にも知られるだろう。

「ああ、ところでミーリィスさん。
 余計な世話かも知れんが、交通費の都合は付いたかね。
 困っとるんなら相談に乗るが」

病院を出た所で、警備官のさらなる問い掛け。
あからさまな事情聴取は行えないので、ウィムジーは案じる態度を装って情報を引き出すつもりだった。

462ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/10/22(水) 00:56:49 ID:EVJh8gkg0
このまま病院に残ってもリンセルと面会できるのは夕方なので、ミリアも警備官の背に続く事とした。
建物の玄関口から出ると、ウィムジーは交通費の都合は付いたかね、と問いかけて相談を促す。
財布を紛失したばかりの来訪者が帰国出来るのかどうか、案じるような様子だ。

(どうしよ……冒険者の店に魔術具売って資金調達したってのは、知られない方がいいか)

ミリアは警備官への返答を考えつつ歩く。
身元が割れたり、辻褄の合わない答えは避けるべきだと考えながら。

「だいじょうぶ。
 滞在費も交通費も、ちゃんと用意できましたから。
 ま、これ以上の相談事は起きない方がいいですけど、何かあったらお願いしますね」

偽った履歴が明らかになる懸念から、ミリアは無難な答えを返す。
たとえ違和感があっても、ウィムジーの方は気付かぬ振りをして話を合わせるつもりだったが。

「おう、何でも相談するといい。
 で、この村には、まだしばらくいんのかね?
 よけりゃあ、晩飯くらいは奢ってやるぞ。
 財布を掏られて、がっくりしたまま帰るってのもあんまりだからな」

再び馬上の人となった警備官が言う。
捜査を兼ねての提案なのだが、それを表情に出すことはない。

「飯って、齧りかけのチョコだったりしない?」

夕食の誘いを受けたミリアが言葉を返す。
何の事かと考えるウィムジーだったが、駐在所に置きっぱなしのチョコレートを思い出して笑った。

「ん? ああ、ありゃおやつだ。
 この年になると朝が早いんで、朝飯も早くなってな。
 ちと小腹が空いた時には、糖分たっぷりのもんを摘まむってわけだ。
 心配せんでも、夕食にはちゃんとしたもんをご馳走するぞ」

迷うミリア。
魔術師に関する情報は非開示とされ、報奨金を手に入れるのは難しいだろう。
警備官と長くいるのは避けたいが、食費が惜しい身にディナーの誘いは魅力的だった。

(アタシの本名を知ってるのは、コーデファーと冒険者の店の主人だけだったっけ。
 後はセプテットのオーナーと、あそこで知り合った二人……ま、だいじょうぶか。
 異種族なら人間の個体識別も難しいはずだし、店を持ってる人なら外での鉢合わせも無いよね)

「それじゃ、ご馳走になろっかな」

「おう、かみさんが腕を奮って手料理作っとるから、駐在所へ六時に来な。
 駐在所って言っても、俺の家だから畏まらんでいい。
 そこらの小洒落た場所なんぞより、うちの方がよっぽど寛げる」

「えっ、あ……うん」

夕食の予定が伝えられ、ミリアが曖昧に頷く。
レストランや食堂への招待を想定していたのだが、意に反して招かれる場所は警備官の自宅。
官舎である駐在所に赴くのは気後れするが、今さら断り辛い。
ウィムジーも断りにくい雰囲気を醸し出すので猶更だ。

463ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/10/22(水) 00:59:47 ID:EVJh8gkg0
草の香りが漂う暖かな陽射しの中、ドイナカ村の砂利道を進む二人。
微風が吹くと、左右の牧草地には草の波。

「そういや、ミーリィスさんはバイタル出身だったな。
 よくは知らんが、どんな国かね?」

馬上の警備官が語らい掛け、問われたミリアは考え込む。
バイタルに行った事は無く、どんな国かはテレビの旅番組や旅行記事で断片的に知っているのみだ
しかし、まさか自分が住んでいた場所を聞かれて知りませんとは答えられない。

「え……えっと、改めて問われると説明するのって難しいな。
 研究機関とか学校が多くて学術都市って感じ? 街全体が学校みたいって言うか」

うろ覚えの知識でバイタルについて答えるミリア。
その様子から得られるものは無いと察して、ウィムジーも別の話題に切り替える事とした。

「学校か。
 俺が警察学校にいたのも随分と昔のことだったなあ。
 刑務所なんて揶揄されるくらいには厳しい所だったから、二度と行きたくはねぇが。
 ミーリィスさんはどうだ? もう卒業して働いてんのかね?」

さりげなく、話題が身分や職業について移った。
ウィムジーは最初に自分の事を話して、ミリアの警戒を解しつつ話を振る。

「あ、はい。学校は卒業しましたけど、仕事の方はちょっと……。
 前はパン屋で働いてましたけど、今は国を出ようかなって考えてて」

実際のミリアの学歴は、四年制の中等教育を一年ほどで中退というものだ。
働いた経験も、ロルサンジュの手伝いくらい。
これをそのまま答える訳には行かないので、アレンジが加えられた。

「ほう、国を出ちまうのか。
 御両親が亡くなったってことだが、ちゃんと行く当てはあんのかね」

「まだ決めてないですけど、幾つか候補はあります」

「そうか、それならいいんだが」

雑談を続ける二人は砂利道を抜けて、村の中心部に戻った。
住処の場所を知られたくないミリアが、別れる口実を切り出そうと立ち止まる。

「あ、買い物とかあるんでアタシは此処で。
 えーと……駐在さんの名前は何でしたっけ」

「ん、そういや名乗ってなかったか。
 ウィムジー・サンプティアだ」

(サンプティア……ってオーナーと同じだけど、この辺りじゃ多いのかな)

「それじゃまたね。ウィムジーさん」

背を向け、去ってゆく馬とは別の方向に足を向けるミリア。
時刻は十時、今から十七時くらいまで求職活動に励まねばならない。

464ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/10/22(水) 01:03:48 ID:EVJh8gkg0
就職先を求めるミリアは、最初にロッジ風の旅館を訪れた。

(出来れば、住み込みの仕事を探したいな……。
 セプテットで暮らし続けるなら、一日に45R$は稼がないといけないし)

木の香りが漂う建物の中。
不安と期待の入り混じった顔のミリアを迎えるのは、地元の人間らしき中年の女性従業員だった。
彼女は笑顔を作って玄関の来客に一礼する。

「いらっしゃいませ。シャモア荘にようこそ。
 当旅館はアメニティとしてお部屋にテレビとインターネット設備、エアコン、バスルームを完備。
 ベッドルームは全室で山を眺めることが出来ます。
 一部屋で一泊230R$になりますが――」

「い、いえっ、宿泊じゃなくて此方で働けにゃいかな、と、お、思い、ましてっ!」

(マズ、緊張しすぎて噛んだ……)

「申し訳ありませんが、今は新規の従業員を募集してないんです。
 異常気象の影響にゃんですかねえ……。
 村の観光客が減りそうなんで、うちも様子を見てるんですよ」

意気込むミリアに断りの言葉が返された。
緊張を解そうとしたのか、従業員も同じような台詞の噛み方をする。
ミリアとしては、むしろ居た堪れない気分となったので、無用な気遣いではあったのだが。

「そう、ですか……ありがとうございます」

一件目の就職活動は撃沈した。
幾分かテンションを落として旅館を出ると、溜息めいた深呼吸。
その後もミリアは新しい職を探しに旅館を巡るのだが、どれも結果は芳しくなかった。
以下はホテル・オリーブドラブの事務室で行われた、ミリアとホテルマネージャーの会話である。

「スティルヴァイさんの特技は強化魔術だそうですが、強化魔術とは何ですか?」

「はい、五感や身体能力を強化する系統の魔術です。
 毒の耐性や水中呼吸や暗視みたいな、他の動物が持つような能力も持たせられます」

「……で、その強化魔術は当ホテルにおいて働くうえで何のメリットがあるとお考えですか?
 少なくとも、毒の耐性や水中呼吸や暗視は当社の業務に必要ありません。
 人並み外れた身体能力もですね」

「で、でも、爪を硬化したり、痛覚の遮断だって出来ますから強盗に襲撃されても応戦できます!
 それに不眠と飢餓耐性の魔術を使えば、不眠不休で働けますから!」

「いや、そういう問題じゃなくてですね……。
 まず労働基準法がありますから、社員を不眠不休で就業させれば、当社が責任を問われます。
 だいたい、魔術ってのは精神を集中して呪文を唱えなくちゃいけないでしょう。
 強盗に遭遇したとしても、相手は悠長に詠唱が終わるまで待ってくれるんですか?」

「え、いや……」

「今、入ってもらいたいのは集客プランを持っている経験者ですが、宿泊業の実務経験は?」

「……無い、です」

村の人間は観光客の減少を見越していて、職探しも簡単にはいかなかった
どの旅館も判断は同じようで、従業員を新規募集している所は見つからない。
最後の方は強化魔術をアピールポイントとして挙げてみたが、たいした利点と判断されなかったようだ。
気付けば昼も過ぎて夕刻。ウィムジーとの約束の時間が近付いていた。

465収集司書スフェルザ ◆LAXUZPoHKY:2014/10/31(金) 18:31:35 ID:SwHMMsyY0
エヴァンジェルの大通りに店を構えるベーカリーショップ、ロルサンジュ。
この瀟洒な店舗の前に、二十台前半の男が立っていた。
顔つきは彫りが深く、浅黒さを持つ黄色の肌を持ち、その上に紋章がデザインされた黒いスーツを着込んでいる。
彼はバニブルの外交使節団の一人であり、名前はスフェルザ・エデラス・コーデッサロットと言う。
スフェルザは書籍蒐集と搬入を専門とする司書で、ラクサズ門下の魔術師でもあった。

「此処が例のパン屋か。
 イヴンスディール司書も面倒な仕事を押し付けてくれる」

ミリアの調査命令を受けたことについて、スフェルザは愚痴を零す。
自分の業務は教皇庁の管理文書を移送する事で、決して人物調査ではないと。
しかし、ラクサズの政治的な立場と、門下である自身の関係を鑑みると拒否権は無い。
スフェルザは小さく舌打ちすると、追加業務を遂行すべく、魔力を持つ金の耳飾りを片耳に装着した。
これは、相手の自覚に反応して会話の真偽を図る魔術具、真実の耳飾りである。

「いらっしゃいませ」

落ち着いた声と香ばしいパンの香りが、ロルサンジュを訪れる来客を優しく迎えた。
店舗中央の長卓には様々なパンが並べられ、壁際の棚にも所狭しとパンが置かれている。
カウンターでは三十半ばと思しき細身の中年女性――――フロレア・ステンシィが佇んでいた。
スフェルザは周囲を眺めつつ、ゆっくりとカウンターに近づいてゆく。
店にはフロレアしか従業員がおらず、ミリアに関しての情報も彼女から聞き出すしかないと考えて。

「この地方独自のものがあれば貰いたいのだが、お勧めはありますかな」

話の取っ掛かりとしてスフェルザが切り出したのは、当たり障りの無い会話だ。
さも、店にあるパンの種類が多くて、何を食べようか決めかねるといった風情である。

「そうですね。
 では、トリスブレッドはどうでしょう?
 三つ編みにした生地の中に果物を挟んで、砂糖と塩の味付けで焼き上げたパンです。
 塩が海の恵み、果実が大地の恵み、卵が天の恵みを意味します。とっても美味しいですよっ」

カウンターを出たフロレアが、棚の一つを指し示す。
艶やかな木製トレーの上には、繊細に編まれた小麦色のパン。
店毎に細かな差異はあるものの、トリスブレッドはエヴァンジェル独自のパンだ。
顔を近づけると、果実の入り混じった香りが鼻の奥を通って、舌すらも甘く撫でる。

「では、それを貰おう。
 甘いものだけではバランスが悪いので、ハムサンドも一つ。
 ああ……西方の通貨は持ち合わせてないのだが、べラス銅貨でも良いですかな。
 エヴァンジェルに来たばかりで両替を失念しておりましてね」

財布の中身を見ながら、スフェルザは言うのであった。

「銅貨なら十八枚になります。
 失礼でなければ、どちらからお越しになられたのか、お聞きしても宜しいですか。
 随分と遠くからお越しのようですけれど……」

「バニブルです。
 先日、使節団に同行して訪れたのですが、しばらく残ることとなりまして。
 此方には、知人から美味しいとの評判を聞いて訪れました。
 時に……先日、灰色の髪をした若い売り子をふと見かけたのですが、今日はおりませんな」

店内を見渡しつつ、スフェルザが本題に入る。
此処から、出来るだけミリアの話題を引き伸ばさねばならない。

466収集司書スフェルザ ◆LAXUZPoHKY:2014/10/31(金) 18:35:05 ID:SwHMMsyY0
来客から売り子について聞かれると、フロレアはミリアの顔を思い浮かべた。
アルバイトを雇う事はあっても、灰色の髪をしているのは彼女一人しかいない。

「ミリアちゃんのことかしら?」

「貴家の御令嬢ですかな」

「いえ、ミリアちゃんはお爺様の訃報を聞いて、エヴァンジェルまで訪れた子です。
 うちの娘と親しくなった縁で店を手伝ってくれて、今では家族同然に思っております。
 病の娘に付き添ってくれていますので、今は此処にいませんけれど……」

娘の診療を行っているのがバニブルの医療者だけに、フロレアも来訪者への親しみを持って答える。
魔術具は反応せず、スフェルザも言葉に虚偽がないと判断した。
ただし、ミリアの行方はすでにラクサズから伝えられている情報に過ぎない。
知りたいのは、ミリアがどのような魔術師なのかや、特殊な力の有無、誰が魅了の影響下に置かれているかなどだ。
出合って間もないミリアを家族同然に思っている点からして、フロレアも魅了されている可能性はあった。
静かに頷きつつ、スフェルザはどう会話を誘導したものかと思案する。

「そうでしたか。
 ちらと見かけただけの見立てではあるが、ミリア嬢からは強い魔力を感じました。
 魔術師として、かなりの才能があるように見受けられますが」

何も知らぬ風を装って、ミリアが強い魔力を持っていると述べられた。
実際はフロレアが魔術に疎そうなのを幸いと、適当を述べているだけだ。
そもそも魔術師であるスフェルザとて、魔術を使わずに魔力を視認したり、多寡を計ることは出来ない。

「そうなのですか?
 魔術が使えるとは言ってましたけれど、私は魔術のことはよく分かりませんので……。
 あっ、トリスブレッドもハムサンドも焼き立てですので、お早めに召し上がると美味しいですよ」

フロレアが袋に詰めたパンを差し出す。

「では、そうするとしよう。
 件のミリア嬢だが、三主教の司祭を目指されるのかな?
 何日か前にも、大聖堂の近くで三主教の方と親しげに話しているのをお見かけした。
 高い魔力を生かすのなら、三主教団の司祭も悪い選択ではありますまいが」

包みを受け取りながら、スフェルザが述べる。
三主教の関係者で、ミリアに魅了された者がいないかを探る意図で。
実際にレシュティツキ兄弟との会話を見られていたわけではない。

「どうなのでしょう。私は三主教徒の方に知り合いがいると聞いたくらいですから……。
 以前、大聖堂にパンを配達してもらったので、その時にどなたかと知り合ったのかしら?」

魔術具はフロレアの言葉に反応しない。
スフェルザはさらなる雑談を続けようとしたが、後ろに別の客が並び始めたのを見て断念した。
パンの包みを受け取ると、彼は一礼して店を出て行く。
魔力感知の術を用いて窓から店内を眺めてみたが、魔力を発するものは何も視認できない。
これ以上得られるものは無いと判断して、スフェルザは速やかにロルサンジュから立ち去った。

続いて、調査に励む男は何人かの住民に聞き込みを行い、旧市街でボルツ・スティルヴァイの名を知る。
分かったのは姓名と性別、年齢、職業、種族、容貌、人柄、経営していた店舗、死亡時期など。
エヴァンジェルでスティルヴァイの姓は珍しく、彼がミリアの祖父との判断も容易だった。

他に情報が得られそうな場所として、スフェルザは聖エヴァンジェル病院に思い至る。
リンセル・ステンシィが入院していた場所なら、ミリア・スティルヴァイも面会に来た可能性が高い。
ただし、普通に見せてくれと頼んだところで、面会記録は得られないだろう。
当節は然るべき手続きを経なければ、個人情報など得られるものではないのだ。
主治医であるコーデファーに資料を請求させねばならない。
自動書記の魔術具で一次報告をラクサズに送ると、ようやくスフェルザは遅い昼食としてパンを口に運んだ。

467ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/11/23(日) 22:59:43 ID:f42jrfyY0
午後五時。
夕食の時間まで一時間の猶予があるので、ミリアはリンセルを見舞うつもりで病院に赴いた。
まずはロビーの受付に向かうと、面会申請を行う為に人間族の若い看護婦に話しかける。

「リンセル・ステンシィのお見舞いに来たんですけど、病室は何処ですか?」

「ご家族の方ですか?」

「いえ、友人です」

「ステンシィさんは特異病棟に移されたので、面会制限が掛けられています。
 特異病棟への出入棟の際には、主治医の許可と随伴、手荷物検査と身体検査、精神鑑定が必要になりますが」

「身体検査に精神鑑定までするんですか……?
 なんか、凄く警備が厳重な感じですね。
 そんな所に移されるほど、リンシィの具合って悪かったんですか」

「主治医の判断ですので、看護婦の私には詳しい病状までは分かりません。
 特異病棟は、一般の病棟では対応が難しい症例を持つ患者用の施設です。
 主に超自然現象や魔術が関わる患者や、自らの異能力を制御できない方に入棟して頂いています。
 超常の力の中には、他者の精神に負担を与えたり、変質させる種類のものもありますから。
 そういったものからの影響を防ぐ為、患者を隔離するわけです。
 外部からの影響を遮断して、初めて症例の原因を特定できるケースというのもありますので」

看護婦の説明を聞いて、ミリアの表情に憂鬱な暗い影が差した。
また一歩、リンセルが自分から遠ざかった気がして。

「主治医のコーデファー・コトン・フラスネルと会えますか。
 特異病棟に行くには、彼女の許可が必要なんですよね」

看護婦が内線電話を掛けて連絡を取ったが、コーデファーは魔術師の準備が整うまでミリアに会うつもりはない。
だから、適当な口実が設けられて、リンセルへの面会許可も降りなかった。

「……申し訳ありませんが、病室の準備を整えるのに忙しく、会うのは難しいそうです。
 今日中には終わらないそうなので、明日またお出で下さい」

いかに友人の顔を見たくても、こう言われてしまっては引き下がるしか無い。
ミリアは虚しく病院を後にして、気の晴れない顔のまま砂利道を引き返した。
リンセルの両親に余計な心配を掛けたくはないが、此処で嘘をつくと転院等の判断を誤らせてしまうかもしれない。
タブレット端末を出すと、ミリアは務めて明るい声を作って通話を始めた。

「あ、フロレアさん。
 リンシィだけど特異病棟ってとこに移される事になったんだって。
 なんだか準備が大変みたいで、今日は顔も見れなかったんだけどね。
 明日には落ち着くような口ぶりだったけど、どうなるやらってとこかな――――」

468ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/11/23(日) 23:01:16 ID:f42jrfyY0
夕映えが村を照らす午後六時。
ミリアはサンプティア家の夕食に招かれていた。
場所は駐在所の二階で、素朴な造りのダイニングルームである。
部屋の中央には低い木製テーブルが置かれていて、弾力の無いクッションが椅子代わりに敷かれていた。

「さ、座布団に掛けてくれ。
 こっちがかみさんのティトリスで、そっちは娘のロードレッタと義理の母さんのモルダードだ。
 息子も二人いるんだが、だいぶ前に家を出ちまってな……。
 男が俺だけになっちまってからは、手狭じゃなくなったのは良いものの肩身が狭くて叶わん」

ウィムジーは薄いクッションへ着席するよう促しつつ、家族の紹介を始めた。
ティトリスは五十過ぎの女、金髪を後ろで一つに束ねて、ふくよかな顔と体つきをしている。
娘のロードレッタは三十ほどの年齢で体型は母親似、髪は茶色のボブヘアで、化粧に若干の濃さがあった。
モルダードは白髪を紫に染めていて、小柄だがどっしりとした印象の体格を持つ。
彼女らのファッションはシャツブラウス、ワンピースにショールなどで、色合いは若干だが派手なものだ。
ミリアが特異能力を持つらしい事は、事故的な体液摂取を防ぐ為にも全員へ伝えられている。

「この度は夕食の席にお招き頂き、真にありがとうございます。
 私はミリ…………ミーリィス・ステイルメイトです」

ミリアは畏まった様子で挨拶すると、隣席のロードレッタを真似て膝を折り畳み、薄いクッションの上に正座した。
真っ白なテーブルクロスの上には村の名物が並ぶ。
山菜料理やオールド・アイベックスのロースト、野菜スープ、パン、チーズ、炭酸林檎ジュースなどだ。
オールド・アイベックスは古くから狩猟されてきたヤギ属の偶蹄類で、柔らかな肉は非常に美味である。

「よろしく、ミーリィスさん。
 あー……ちょっと触っていい? 肌、若っ。すっべすべじゃん。良い化粧水とか使ってる?」

「えっ、いや……特に何も使ってませんけど」

ロードレッタが無遠慮に手を伸ばして、隣に座るミリアの頬を撫でた。
転勤の多い父親の職業が影響してか、彼女は人見知りをしない。

「ロドリー、お客様に失礼ですよ。
 お前は慎みというものを何処かに置き忘れたのですか」

母親のティトリスが顔色を変えて、娘の馴れ馴れしさと無警戒を叱責する。

「はーい、しっつれいしましたー」

反省の色を見せずに娘が応えた。
さりげなく取り出したハンカチで指先を拭いているので、汗でも採取しようとしたのだろうか。
ウィムジーは手を引っ込めたロードレッタを睨みつけつつ、余計な事はするなよと視線のみで念押しした。
万が一にも家族が魅了の魔力に当てられるような事となれば、事態が混乱する事この上ない。
魔術対策課の鑑識に回すべき体液も、食器に付着した分を採取すれば事足りるのだから。

そもそも、ウィムジーは娘も義母もミリアに対面させるつもりはなかった。
しかし、我の強い娘は捜査への協力は警備官の家族の義務だとまで言い張り、義母も一人離れる事を拒んだ。
かくして、捜査に協力的な家族たちを加えて、夕食会は五人で行われたのだった。

469ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/11/23(日) 23:02:39 ID:f42jrfyY0
妻は家事と義母の世話に忙く、耳が遠い義母もあまり会話に加わらないので、客人と話すのは娘が中心となった。
家長のウィムジーは専ら聞き役として、ミリアの様子を窺いながら相槌を打つのみである。
表面上は夕食会も和やかに進み、やがてメインディッシュも各々の腹の中に姿を消した。
最後に振る舞われるのは、クリームと苺が添えられ、硝子の器に盛られた緑のアイスクリームだ。
ロードレッタは金属のスプーンでアイスの塊を掬いながら、ミリアに視線を向ける。

「そいえばさぁ。
 ミーリィスさんは、この村でお財布盗まれちゃったんだよね。
 今はどこに泊まってるの? 知り合いの家? それとも旅館?
 旅館は、たまーにぼったくり価格のとこがあるから気をつけなよ〜」

「アタシが泊まってる旅館は45R$で朝食付きですから、その辺はだいじょうぶです。
 ところで、この緑のアイスクリーム……不思議な味ですね。
 ミントでもピスチタチオでも無さそうですけど」

話題を変えるべく、ミリアは見慣れない氷菓について問い掛けた。

「これ? これは抹茶のアイスクリーム。
 東大陸で取れる茶葉の粉をフレーバーにしてるの。
 最近流行ってるんだけど、ミーリィスさん知らない?」

「初めて聞きました」

「そっかー、バイタルの辺りじゃ、ぜんぜん流行ってないんだ。
 え、あれ? もしかして口に合わなかった?」

「いえ、今まで食べたアイスの中で一番美味しいです」

「でっしょー? そうよねー!
 私ん家なんか、毎日2リットルサイズを一箱消費してんのよ!
 あ、お代わりいる?」

「いえ、もうお腹一杯です」

ロードレッタが笑顔で勧めてくるが、ミリアは腹を摩りつつ断りを述べた。
サンプティア家の女たちの体型を見ると、太りやすい体質ではないミリアとて追加オーダーを躊躇う。

「そういえば、ミーリィスさん、髪が少し傷んでなぁい?
 せっかく髪が長いのに、枝毛だらけなんてダメよ。
 私、美容師やってるから、少し毛先を整えてあげよっかー?」

「おう、そうしとけ。
 この村で床屋と言やぁ二人しかおらんから、こいつの腕もそれなりになってんだろ。
 別に金なんか取ったりせんから、遠慮せずやってもらえ」

ウィムジーは娘の意図が毛髪の入手だろうと気付いて、口添えした。
体液以外にも魔力が宿っているかは不明だが、検体が多いに越したことは無い。

「それじゃ、お願いします。ロードレッタさん」

ミリアは椅子に座らされ、首にカット用のクロスを巻かれた。
ロードレッタが鮮やかに鋏を捌くと、幾本かの灰色の筋が床へ敷かれた新聞紙に落ちる。

「あ、もし良かったら縦ロールとかやってみる?」

「……出来れば、そのままにしといてください」

470ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/11/23(日) 23:03:56 ID:f42jrfyY0
午後七時、村は暮色に沈む。
薄暮れの中を眺め渡せば、どの窓からも暖かな灯りが漏れていた。
時計を見たミリアも暇を告げて立ち上がり、ダイニングを出ようとする。
しかし、ドアノブに手を掛けた所で不意に足を止めると、大きく息を吸い込んだ。

「……やっぱり言っとこう!」

不可解な言葉と共に振り向くミリア。
サンプティア一家は客人に視線を集めると、次の言葉を待った。

「あのっ、アタシの名前なんですけど。
 本当はミーリィス・ステイルメイトじゃなくて、ミリア・スティルヴァイって言います」

言い終えたミリアは、大きく息を吐いて周りの反応を窺う。
本名を明かしたのは、何処か別の場所で知られるよりは、自分から口にした方が良いとの判断だ。
小さな村に長く滞在していれば、いずれは偽名を使っていた事も知られる。
そもそも、セプテットでも冒険者の店でもパスポートを出していたので、今さら名前を使い分ける意義も薄い。

「ミーリィスさんじゃなくて、ミリアさん?
 へぇ、偽名なんか使ってたの? なんで? どうして?」

ロードレッタは興味深げな様子を装い、ミリアに向かって問い掛ける。

「それは……家に連絡されるんじゃないかと思って……思わず。
 あっ、家って言っても出身のイストリアじゃなくて、何日か前までお世話になってた所ですけど……。
 実はそこの子が病気で入院する事になって、容態が心配でアタシも村に残ったんです。
 なのに、財布を盗まれて自分まで困ってます、なんて言い難くて……」

消え入りそうな語尾で語るミリアを見て、ウィムジーは首を振った。

「あー、いかん、そういった隠し事は余計な心配を掛けるだけだ。
 とりわけ、若くて金の無い娘が目の届かん所にいるってのは、親にとって心配なもんだからな。
 早く言ってくれりゃいいのに、より状況が悪くなってから泣きを入れられたら叶わん。
 なあロドリー、そうだろう?
 で……ミリアさんの方は知人に貸して貰ったって金や、泊まってる場所の方に嘘はないのか?」

「泊まってる場所は、セプテットってペンションです。
 宿泊費は誰かから貸して貰ったんじゃなくて、魔術具を売って用意しました。
 イストリアから持って来た物だけど、使ってないから手放しても問題なかったですし……」

「セプテット……セザールのとこか。
 とりあえず財布の紛失届けだけは作り直さんと、公文書の偽造になっちまうな」

「……済みません」

ミリアは申し訳無さそうに頭を下げる。
その様子からは魔術師としての能力や狡猾さは感じられず、大それたことを仕出かすようにも見えない。
ウィムジーも、この少女が本当に危険な魔力を隠し持った魔術師なのかと疑問を抱いた。
確かに魔術具の所持や、病院で見た映像など、気に掛かる点は幾つもあるのだが……。

「魔術具を持ってるってことは、ミリアさんは魔術師だよね?
 ね、ね、どんな魔術を使えるの? 教えて教えてっ!」

ウィムジーがどう聞こうか迷ってる間に、捜査協力の意欲が高い彼の娘は、さっさと質問をぶつけてしまった。

「アタシが使えるのは、生物の能力を拡張する魔術です。
 一時的に筋力を増加したり、暗視能力や水中呼吸を身につけたりとか……まあ、幾つかですけど」

ミリアは就職活動の際に述べた魔術を幾つか上げる。
これくらいの範囲なら明かした所で問題ないと思って。

471ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/11/23(日) 23:07:17 ID:f42jrfyY0
しかし、ロードレッタは話題を際どい方向に誘導してゆく。

「つまり、他の生き物みたいな能力も身につけられる魔術ってわけ?
 蟻の蟻酸とか、電気鰻の電気とか、虫のフェロモンとかも?
 うーん、新しい歯が生える鮫とか、プラナリアの分裂能力とかも便利そーねー」

「あ、いえ、魔術って言ってもアタシが知ってるのはほんの少しで……。
 蟻酸とか電気鰻の能力を使える呪文なんて、あるのかどうかも知らないです」

「じゃあじゃあ、フェロモンがドバーって出るような術は?
 金持ちの男を引っ掛けて、社交界デビューなんて出来ないの?」

「それは……」

言い掛けようとしたミリアが、言葉を切って沈黙する。
彼女が知っている範囲の強化魔術では、他者の心を虜とするのは不可能だ。
ただし、魔術ならざる力を用いれば可能ではあった。

「おい、俺はお前をそんな娘に育てた覚えは無いぞ、ロドリー。
 他人様の心を操ろうなんて術は、国際条約で禁止されてるのも知らんのか。
 人を軽んじるような術で、分別なく男漁りするくらいなら、まだ老嬢でいてくれた方がましってもんだ。
 第一だな、軟弱な馬鹿野郎に自分が無理やり惚れさせられたらどうなんだ?」

「そんなの嫌に決まってるでしょ〜。
 あっ、白馬に乗った王子様ならいいかも」

「随分とまぁ、身勝手なもんだな。
 心を覗こうだの、いいように操ろうだなんて術、俺はあるだけでも気に入らん。
 諂う奴を大量に生産するなんざ、カルト紛いじゃねえか」

ウィムジーの説教はミリアの痛い所を突く。
それはロードレッタに向けられた態を取りつつ、別の人物に向けられているものだ。

「私、魔術なんて使えませんしぃ。言ってみただけですぅ。
 あ、でもでもミリアさんなら出来たりするの?」

憎まれ口を装いつつ、ミリアに質問が向けられた。
この状況ではミリアも応か否か、答えざるを得ない。

「え……その……使えません」

顔を紅潮させ、言葉に詰まるミリアを見て、ウィムジーは内実を察した。
すぐバレるような偽名や経歴を使った事と言い、詐術に関しては年齢相応か、それ以下だ。
一喜一憂が顔に出るなど、詐欺師の真似事をするには拙い。
小心で、かつ場当たり的に行動しているようでもあり、犯罪者としては小物であろう。
ただ、それでミリアの危険度が低いとは断じられない。
本当に他者を操る力を持っていて、それを使ったと見られる以上は。
武器や権威を手にしたことで、凡庸な人間が残虐な行為に手を染めていくなど犯罪史では珍しくもない。
多少なりとも後ろめたさを感じているようなのが、救いではあるが……。

「あの、もう遅いのでお暇します……」

すっかり萎縮したミリアが暗い表情で挨拶を述べ、サンプティア家を後にしてゆく。
一食分と引き換えに、様々な情報を漏らしたことも知らずに。

472医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/11/26(水) 06:01:08 ID:ztipe5pE0
ラクサズが魔術師を派遣すると通達してから三日後の朝、予定通り三人の魔術師がドイナカ村に来訪した。
黒い瞳に意志の強そうな光を宿す男、アルサラム・ファラー・アゼルファージ。
端正な顔を持つが軽薄な印象の男、ヴェクス・ロタール・フィユーディティ。
長い黒髪を腰まで伸ばした女性、エクレラ・サーナ・ピアスティラ。
三人目とも年の頃が二十代前半のバニブル人であり、外交司書ラクサズの門下たる付与魔術師たちだ。

彼らは転送施設の“門”から現れた。
この村の転送施設は駅舎に似た外観の建物で、内部には三メートル程の高さを持つ門形の空間転移装置が置かれている。

「魔術具が二十以上!
 あんたら、どっかで戦争でもおっ始めるつもりか?」

転送施設利用者の審査を行う管理官は、驚きを隠せなかった。
書類で持ち込みを申告された魔術具の数は多く、用途も攻撃や探索と多岐に渡っている。
ちょっとしたマフィア程度なら、壊滅に追い込める程度の質と量だ。

「ああ、そんな所だ。
 世の中に害を為す罪人を社会から駆除する為に来たからな」

「違う違う、駆除じゃなくて捕縛だ、ファラー。
 まさか、相手が若い女性だってこと、忘れてないだろうな?」

「アルサラムと呼んでくれ、ヴェクス。
 親しくもない奴から、呪名で呼ばれたくない。
 もう三十回くらい言った筈だが、改めるつもりが無いと考えていいのか。
 それに相手が若い女だからといって、犯した罪が減じることも無い」

アルサラムとヴェクス、二人の男が軽い口論を始める。
いや、生真面目で沸点の低いアルサラムが、軽佻浮薄なヴェクスを一方的に嫌ってると言うべきか。
此処で些細な言い争いの原因となった名前のことについても、簡単に説明しておこう。
バニブル人の人名は礼名・呪名・家名の三つに分けられる。
礼名は個人を識別する名称であり、家名は己の出自や家系を示すものだ。
呪名は霊的な名前のことだが、魔術師でない層にも風習が広まった現代では、単なる愛称としての意味合いが強い。
そして、公式の場では家名と役職を組み合わせて呼ぶのが一般的である。

「二人とも、此処に来た役割だけは忘れないで下さいね」

残る一人の女、エクレラが穏やかに宥める。
彼女は魔術師としての能力は三者の中で一番低いが、従妹という血縁ゆえの信頼をラクサズから得ている。
主な役割は監察であり、アルサラムとヴェクスの調整役と言っても良い。

「もちろんだとも、サーナ。
 手早く終わらせて、美容に良いって噂の温泉に入ろう。
 この村には混浴もあるそうだから、是非とも御一緒したいな」

「またまた御冗談を。
 まずは村の警備官やフラスネル司書と打ち合わせましょう、ヴェクス」

呪名で呼ばれたエクレラは笑顔を作りつつ、ヴェクスと礼名で呼び返す。
お前も礼名で呼びやがれ、と言外の意味を込めてだ。
スタスタと転送施設を出てゆく彼女をヴェクスが追いかけ、アルサラムも続く。
三者が向かったのは病院で、ほどなく連絡を受けたウィムジーも応接室で合流した。
小さな駐在所は大通りに面して人目にもつくので、作戦会議には向かないとの判断からだ。
面倒ではあるが、目立つ事を好まない魔術師たちの協力を得るには、その辺りも配慮しなければならない。

「来たのはエクレラとヴェクス?
 後の一人は知らないけど、ラクサズが送ってきたってことは、それなりの魔術師なのでしょうね。
 それじゃ、さっそく警備官とミリア捕獲作戦を始めて」

長椅子に座るコーデファーは、いつもと変わらぬ横柄な態度でバニブルの僚友を迎えた。

473医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/12/12(金) 19:38:33 ID:aCBEk2Hg0
最初にウィムジーから報告が為される。
ミリアの唾液は地区警察に送られ、鑑識官が魔術解析の術を掛けたものの正体は掴めなかったと。
しかし、魔力を感じる事だけは出来たらしい。

「魔力隠蔽の術を掛けて、付与魔力の正体を隠匿したのでしょうか?」

報告を聞くと、エクレラは眉を顰めて呟いた。
魔術解析の術は毒物やポーションのような液体であろうと、付与された魔力の性質を読み解く。
それが阻まれたのなら、何らかの隠蔽措置を施したと考えるのは当然だ。

「いや、それでは条理に合わない。
 魔力隠蔽の術を掛けたのなら、それを上回る魔力で鑑定しない限り、魔力すら感知できないからね。
 おそらく、我々の知る魔術とは別系統の力が働いているから、正体を掴めないのさ。
 東大陸で発展した道術や方術、あるいは何らかの異能力で、魔力解析を阻害したんだろう。
 後はイヴンスディール司書の言ったアイン・ソフ・オウル……考えられるのはそんな所だね」

ヴェクスは、すぐさま妥当と思える可能性を幾つか述べた。
彼は軽佻に見える人物ではあるが、別に頭の回転が鈍い訳でもない。

「アイン・ソフ・オウルとは何だ? 新手の犯罪組織か何かか?」

ウィムジーは聞き慣れない単語を復唱しつつ、魔術師同士の会話に割って入る。
村の治安に関わる事態とあっては、警備官としても仕事を丸投げは出来ない。

「力ある存在群……と説明するのが良いでしょうか。
 先史時代に存在したと伝えられる氷鵬王、古代マディラ帝国を作った獅子皇帝
 あるいはバニブル建国の魔術王フラター・エメト。
 これらの歴史に名を残した英雄なども、アイン・ソフ・オウルであると言われております」

エクレラがラクサズからの受け売りを簡素に説明する。
ウィムジーはミリア捕縛の法的根拠を用意する人物なので、無碍にも出来ない。
とは言え、今一つ理解が薄かったようで、ウィムジーの顔は曇ったままだ。

「要は、神や悪魔に成り掛けてるか、すでに成った連中ということだ。
 奴らは独自に理や法則を作り出して、世界へ敷衍させられるそうだからな。
 ……理解が及ばないなら、人の領域を超えた輩とでも思っておくが良い。
 この村にいるミリアとやらが、アイン・ソフ・オウルかまでは分からないが」

アルサラムが吐き捨てるように追補したが、ウィムジーは首を振る。

「あの娘が神や悪魔とは、ちょっと思えんなあ……」

「しかし、魅了の力を使うのだから小悪魔ではありそうだ」

ヴェクスが口の端に笑みを浮かべると、コーデファーが冷たい視線で刺した。

「余計なお喋りは良いから、さっさとあの女の対策を立てて」

脱線しかけた作戦会議が仕切り直される。
口火を切るのはアルサラムだ。

「そうだな……まずは用意した魔術具の確認をするとしよう。
 近接戦闘用には魔槌と新星の指輪、防護の指輪、硬壁の指輪。
 相手の動きに付いていけなくては話しにならないから、身体能力強化の術を封じた腕輪もある。
 使い魔は戦豹と霧獣と軍蜂、虚霊炉。
 後は拘束用の鋼縛索に、透明化の首飾り、自白用の真実の雫、治癒石、遠見の鏡、透視の瞳、幻霧筒。
 魅了への対策としては、護心の首飾りと解毒の霊薬、消呪の杖……といった所だな」

474医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/12/12(金) 19:38:53 ID:aCBEk2Hg0
口頭で魔術具の一覧が示された。
これらはラクサズの一門たる付与魔術師《エンチャンター》達が製作したもので、その全てが美麗な意匠の逸品である。

「僕ら自身も魔術を使える訳だし、これだけあれば足りないという事はないだろう。
 小悪魔ちゃんの捕獲は人目に付かない場所が良いのだが、適切な場所はあるかな、警備官殿」

ヴェクスはミリアを捕獲するのに最適なポイントを聞く。

「んゥむ……そうだな。
 観光コースから少し外れれば、近くの森には殆ど人がおらん。
 誰かを巻き込むことも無かろう」

「森より、此処の特異病棟は?
 リンセル・ステンシィの見舞いに来る筈だから、誘い込む手間も省けるわ」

ウィムジーは決行の場所に近隣の森を挙げ、コーデファーは特異病棟を押した。
特異病棟の建材には、異能全般に反作用として働く魔封石が用いられている。
建物の外側もコンクリート塀で囲まれて、出入り口となるのも別棟の三階から通じる渡り廊下だけ。
魔術や異能が関わる患者の療養施設だけあって、物理的にも霊的にも堅牢だ。
仮に戦闘となっても、外部への影響は殆ど無いだろう。

「ですが、消呪区域の内部では此方の魔力も抑えられてしまいますね。
 互いに魔術が無ければ、有利なのは数の論理。
 近隣の警備官を召集して対処すべきでは?」

テーブルに置かれた特異病棟の資料に目を通しつつ、エクレラが問いかける。

「消呪区域といっても、一定量の魔力を減らすだけよ。
 異能の強度を十段階に分けた場合、体感では完全に魔力の発動を封じられるのは下から三段階くらいまで。
 もし、あの女の魔力が高ければ、数合わせなんか却って被害を増やすだけかも知れないわね」

コーデファーが答えた。
彼女はリンセルの主治医として特異病棟に足を運び、自分の身でも魔術の減衰効果を試している。

「な僕とファラーなら魔術が使えなくなることも無さそうだし、特異病棟の方が良さそうだね。
 あまりに不安があるようなら森へ陣を構築しよう。
 どちらにせよ五時間あれば充分。夕方には動ける。
 コトン、魅了使いの魔術師への連絡と誘導、それと病院側への折衝も頼めるね。
 警察への連絡も必要だろうから、そちらは警備官殿に。
 段取りを詰めるのは、建物の構造を見てからと言う事でどうかな」

「おう、分かった。
 ただ、あんた方も地区警察の臨時職員って事は忘れんでくれよ。
 あくまでも、目的はあの娘を拘留して事情を聞く事だ。
 魔術師相手には魔術師の手を借りなきゃならんとしても、あまり手荒に事を進めてもらっちゃ困る」

ウィムジーは魔術師たちに注意喚起を促しつつ、ヴェクスの要請に応諾した。
アルサラムとエクレラも異論は無いと頷く。
ミドルネームを呼ばれたコーデファーは嫌な顔をするものの、やはり了承した。

475ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/12/21(日) 23:03:47 ID:cxFCtnJw0
三人の付与魔術師たちがドイナカ村を訪れたのと同日、アレクサンデル・レシェティツキも村を訪れる。
彼はミリアが聖都を離れた経緯を知ると、すぐに休暇手続きを取って後を追った。
ミリアの信奉者たる事を強いられた身では、愛の対象が目の届かない場所にいる事は何よりも耐え難い。
バスを乗り継ぎ、タクシーを利用して、正午近くには彼も遠地の僻村へと辿り着いていた。
ダークブラウンのスーツにベージュのコートを纏い、休暇中の聖堂騎士は人波を縫って歩く。
程無くして、アレクサンデルは村内の大通りでミリアと再会した。

「ミリア、探したぞ」

声を掛けられたミリアは足を止め、予期せぬ人物を眺める。
見慣れた聖堂騎士の格好ではないので、自分を見つめる顔も直ぐには分からなかったくらいだ。

「アレク……どうして此処に?
 まさか、アタシに合いたくなったから追って来た、とか?」

この聖堂騎士が聖都から五時間も離れた村に来た理由について、他に思い当たる節は無い。
距離が離れ、時が経っても、魅了の魔力は消えてなど居ないのだから。

「そのまさかだ。
 急に出立するなど、何か拙い事でも起こったのかと思ったよ」

そう言って、アレクサンデルはミリアに駆け寄ると軽く抱擁した。
こうして誰かに抱き締められるのは何時以来だったろうかと、暫し、ミリアは父親の温もりを思い出す。
見知らぬ場所で過ごす中で感じていた孤独感が、少なからず癒されるのは否めない。
体が離れる時は、若干の名残惜しさを感じた程だ。

「ところでアレク、聖堂騎士って警察みたいなものだよね?
 エヴァジェルから離れても大丈夫なの?」

「ああ、引継ぎをして休暇を取ったから暫くは大丈夫」

「街に変わりは無い?」

「まだ少なからず動揺は残っているが、三主教の中心部だ。
 これといって大きな問題は無い。
 ミリアの方は?」

「ま、なんとかやれてたよ。
 事前の予定通りには行かなかった部分も多いけどね」

476ミリア ◆NHMho/TA8Q:2014/12/21(日) 23:04:37 ID:cxFCtnJw0
セプテットに戻る道すがら、ミリアは村で起きた一連の出来事を話す。
始めは鷹揚な態度で聞いていたアレクサンデルだが、会話が進むたびに顔が険しくなってゆく。

「……やはり、来て良かった。
 擦り師に財布を盗まれ、魔術具は売却、無意味な偽名、賞金稼ぎの真似、就職活動も不調。
 挙句の果てには魔術で空腹を紛らわせる。
 此処まで問題だらけとは思わなかった。
 ステンシィ家や俺を頼る選択肢は無かったのか」

「それは、ちょっと決まりが悪いって言うか……」

「体裁など考えずに頼ってくれ。
 もし、もっと酷い状況になっていたらと思うとゾッとする。
 特に如何わしい仕事まで検討していたというのは勘弁して欲しい所だ」

「一緒に散歩するだけでお金が貰える仕事ってのは、魅力的だったんだけどな」

アレクサンデルは呆れた顔だ。
いや、此処に来たのが他の誰かであっても呆れ顔をされた事だろう。

「散歩するだけで高額の報酬を払う、なんて奴の思惑を考えてもみろ。
 体が目当てに決まっているだろう」

「ま、まあ、そうかも知れないけど……。
 結局、止めたんだから良いじゃない」

「良い訳があるか。
 全く……もう少し安心させて欲しいものだな。
 とりあえず資金面に関しては俺が面倒見るが、これは断らせないぞ」

「はい……お世話になります」

「他に気になる点と言えば、フラスネル司書が警備官に通報したという魔術師か。
 念のために俺もミリアと同じ宿に泊まるとしよう」

アレクサンデルはセプテットに着くと、一室だけ残っている空室を宿に取った。
その後は昼食の時間となり、二人して近くの郷土料理店に入ってゆく。
この間、バニブルの魔術師たちも手を拱いている訳ではなく、しっかりと魔術の眼で監視していた。

477医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2014/12/22(月) 00:07:28 ID:8AM9gakU0
ヴェクスとアルサラムが特異病棟に向かい、応接室に一人残ったエクレラがミリアの動向を見張っている。
監視の手段は遠見の水晶球。
この魔術具は魔力の視覚を飛ばして、水晶球に映像を映す。
遠見の水晶球は個々の性能が大きく違うものなのだが、これは影響範囲が狭い代わりに持続時間の長い物だ。
だから、エクレラはもう数時間にも渡ってミリアの動きを継続して監視している。
朝、セプテットから出て就職活動に向かい、現在、アレクサンデルとの昼食を済ませた所まで。

「エクレラさん、口に合うかは分からんが昼飯を持ってきたぞ。
 ん……この男は誰だ?」

午前の業務を終えて病院の応接室に戻ってきた警備官が、エクレラの凝視する水晶を横から覗き込む。
彼の手には菜食中心の料理が乗ったトレー。
魔術を使った監視で手を離せないエクレラに気を利かせて、病院の食堂から持って来た物だ。

「確証は有りませんが、あの魔術師が魅了した相手かも知れません。
 単なる相席にしては親しげにも見えますもの」

エクレラは魔力の流れが途切れないように気を付けながら返答する。
会話に集中して魔術具の映像が途切れてしまっては、笑い話にもならない。

「やや年がいっとらんか?
 三十過ぎ……下手すりゃ親子ほど離れとるが」

ウィムジーは渋い顔で言う。
三十を越えた男が未成年の少女に魅了されるというのは、彼にとっては眉を顰めるようなシチュエーションだ。

「取り巻きに三十過ぎの男がいても不思議ではないでしょう。
 無制限に魔力を使える訳でもなければ、術を掛ける相手だって選ぶはずですから。
 当然ですが、まずは地位や資産、戦闘技能を持ってる者を優先するのではありませんか」

「あぁ、そういや魔術で魅了しとる可能性があるんだったか。
 しかし、魅了ってことは、そのだな、そういう関係にもなっとるのか?」

「さあ……そこまでは。
 ただ、そういう関係でも不思議はありません。
 対象の魅了に体液を使う性質上、最初に事に及んで魅了したとも考えられますし」

主語を暈してはいたが、互いに内容は理解している。
暫くは微妙な雰囲気の中、エクレラが昼食を摂る音のみが応接室に響いた。

「しかし、どうも腑に落ちん。
 一昨日までは、あの娘も金に困ってとる様子だった。
 誰かを魅了出来るなら、俺に紛失届けを出すより、まず金を持ってそうな奴を魅了せんか?」

ウィムジーの疑問は尤もだ。
自らの正体を隠したいであろう魅了使いの魔術師が、律儀に駐在所へ財布の紛失届けを出すだろうか。

「……魅了の術には、何か使用条件でもあるのかも知れませんね。
 それも、捕らえて尋問すれば分かる事です」

エクレラがトレーの食事を半分ほど片付けた所で、ヴェクスとアルサラムが戻って来た。
その後には背丈の小さな医療司書の姿も見える。
どうやら、ミリアを捕獲する為の準備が万端整えられたようだ。

「消呪区域に陣を構築するのは無理そうだが、魔術や魔術具を使えないという事もなさそうだ。
 後は獲物が網に掛かるのを待つのみ。
 コトン、魅了使いの魔術師に連絡を頼むよ」

ヴェクスが言うと、コーデファーは細い指で携帯端末を操り始めた。
昼食の時間を削られたせいか、不機嫌そうな様子を隠そうともしなかったが。

478ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/01/15(木) 21:12:03 ID:omEXX8fE0
特異病棟へ向かう渡り廊下には、対魔術処理を施した二重の金属扉がある。
物理的にも魔術的にも内外部を隔てる防壁であり、異常と正常を分かつ境界線だ。
この威圧感のある厚い扉の前には、真っ白な容貌を持つ小柄な女が立っていた。
頑健な鉱精《コルフィリド》の看護婦を伴い、防護の呪衣を纏って、完全防備といった風情のコーデファーが。
彼女は微かな緊張を含んだ面持ちを以って、ミリアに随行する男へ目を走らせていた。

「そっちは誰?」

「アタシの知り合いで、アレクサンデル・レシェティツキ。
 リンシィが怪我した時、最初に治療してくれたエヴァンジェルの聖堂騎士でね。
 わざわざ見舞いに来てくれたんだよ」

紹介を受けたアレクサンデルが、軽く顎を引いて一礼する。
しかし、彼が病院まで来た理由は、リンセルを見舞うためではない。
ミリアを一人で異能関係の施設へ赴かせるのは不安という保護心からだ。

「諸事に関して宜しくお願いする、フラスネル医療司書」

「エヴァンジェルの聖堂騎士が、こんな遠くの村まで……ご苦労なこと。
 扉の先は検査室になっているから、まずはそこで一人ずつ検査を受けなさい。
 身体検査と精神鑑定は義務だから、誰であっても受けてもらうわ。
 最初はミリアで、そっちの男は控え室で待機」

特異病棟へ向かう際に検査が必要なのは、ミリアの捕獲を試みる側にとって幸いだった。
それを口実として、ミリアを同行者から引き離す事が出来る。

「ああ、そういえば身体検査と精神鑑定をするとかって言ってたね。
 そこまでする必要あるの? アタシはリンシィの見舞いをするだけなんだけど」

「不細工な顔を引き攣らせないでちょうだい。
 納得できないなら、入棟中の患者を何人か、あなたたちに紹介してあげるわ。
 マーク・マーチ、狂時症、周囲の体感時間を狂わせる。
 アストレア・バークレー、心象漏洩症、周囲数メートルの空間に心象風景を投影する。
 イーベル・カルベロッティ、空想模倣症、空想したものに成りきる――」

「空想したものに成りきる病気とか、別に問題無さそうなんだけど」

「人が喋ってる途中に口を差し挟むなんて、育ちの悪さが透けて見えるわ、あなた。
 その男、イーベルは鳥に成りきったら物理法則を無視して飛ぶの。
 象に成りきってる時は、体重が変わらないのに踏んだ奴を圧死させるわ」

「不可思議な話だね」

「あらそう?
 知性体の精神が物理的な力として作用するなんて、魔術師なら常識ではなくって」

「そうかもしれないけど……」

「しかも、始末の悪いことに患者は空想動物園の演者を増やそうとするの。
 特異病棟に隔離するまでの感染者は、二週間で三十人ってところね。
 これを聞いても、あなたが検査を受けたくないないのなら、入棟をご遠慮頂くわ」

コーデファーは認証コンソールを操作する指を止め、脅すように背後を振り返った。

「分かった、分かったよ。
 此処まで来て、引き返したりしないって」

ミリアは諦めたように同意を述べる。
厄災の種と魅了の魔力を隠し持つ事は、他者に知られれば面倒な事態となりかねない。
可能ならば、入棟に当たっての身体検査を回避したかったのだが、そういう訳にもいかないようだ。
とは言え、ミリアは厄災の種の力なら他の魔術で性質を読まれる事はないだろう、と楽観的に考えてもいた。
何よりも、リンセルに会いたい気持ちの方が勝った。

「それよりさ、ここの病院ってセキュリティは大丈夫?
 監視カメラに指名手配の魔術師が映ってたって聞いたけど」

「警備なら万全よ」

コーデファーが心の中だけで冷たく笑む。

479ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/01/15(木) 21:15:20 ID:omEXX8fE0
ミリアを含む四名は一つ目の金属扉を潜り、特異病棟の玄関口に入ってゆく。
まずは小さな控え室があり、アレクサンデルは此処に留められる事となった。
コーデファーから「検査で全裸にもなるから一人ずつよ」と言われれば、彼とて付いて行く訳にも行かない。

訪問者の検査を行うのは検査室。様々な医療機器が並ぶ大きめの部屋だ。
室内には脳波測定器やレントゲン機器があれば、魔術具らしき古めかしいアーティファクトもあった。
その他、部外者では理解しかねるような器具も数多。
コーデファーはミリアに診療台へ寝るよう命じると、己は年代物の金属筒を手に取った。
彼女が最も信頼する医療器具――――覧界視である。
検査を口実として、この機会に出来るだけの情報を集めようという魂胆だ。
そして、覧界視は厄災の種が発する魔力を見逃さない。

「……呆れる程の魔力ね。
 あなた、人外の血でも混じってるの?」

魔術協会の門主たちにも比肩しかねない保有魔力を見れば、コーデファーの疑念も当然だろう。
たかだか十七年しか生きてない人間が持つには、あまりにも不自然な魔力量だ。

「アタシは純然とした人間だよ。
 魔力の高さは……たぶん、体内に内臓してる魔術具の賜物じゃないかな。
 生憎、取り外しは出来ない物だから見せられないけどね」

ミリアは予め用意していた答えを返す。
これで乗り切れると思っていたミリアだが、ひとしきり考え込んだコーデファーは別の質問をぶつけてくる。

「まさか、妊娠はしてないわよね?
 いえ、ここ数ヶ月以内に性行為はした? 相手はさっきの男?」

「な、なんで、そんな事まで答えなくちゃっ……!」

いきなり不躾な質問をぶつけらたミリアは、憮然として抗議する。
三主教徒たちに比べれば倫理観も緩いとは言え、こんな質問をされれば致し方ない。

「お腹に胎児でもいれば、病棟内で影響を受けるかもしれないからよ。
 生まれながらの異能力者になるようなケースがね
 なに? わたしが俗物どものように下世話な興味から聞いたとでも思ったの?
 そんなわけ無いでしょう」

コーデファーは小馬鹿にしたような表情で、ミリアに教え諭す。
相手の態度は不満だが、胎児に影響が出るとの言い分も一応は尤もらしいので、無言を貫くわけにもいかない。

「そういった事になるような経験は、まだ誰とも無いですけどぉ」

不承不承といった態ではあるが、ミリアも声音も低く答えた。

「じゃあ、体に埋めてる魔術具が原因なのかしら……」

声音に冷たい熱を宿らせて、思わせぶりな台詞を発する医療司書。
何かを掴まれたのか、或いは何も掴まれていないのか分からず、ミリアは不快な焦燥を感じた。

「……アタシに何か問題でも?」

「いいえ、何も」

探りを入れようにも、コーデファーの答えはそっけない。

「何も無いなら、検査は終わりってことでいいよね」

「まだに決まってるでしょう。
 子供のように怖がってないで、おとなしくしてなさい」

480ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/01/15(木) 21:17:15 ID:omEXX8fE0
「ここで出来る程度のことは、これで終わりよ」

「ようやくって感じ……」

ミリアは診療台から立ち上がって伸びをする。
結局、全ての検査が終わったのは一時間後のことだった。
出身や住所の記載も今さら誤魔化せないので、そのまま書いている。
この検査は本来は必要の無い項目を幾つも混ぜられていたのだが、ミリアには気付く由も無かった。

「次は聖堂騎士の検査だから、先に行くというのなら看護婦に案内させるわ」

「どうしよ、アレクの検査も終わるまで待ってようかな。
 終わるのが五時くらいになりそうだけど……」

アレクサンデルの存在は監視役のエクレラから他の三者にも伝わっている筈だが、邪魔は少ない方が良い。
合流はさせず、ミリアだけで特異病棟へ向かわせるべき。
そう考えて、コーデファーは不安を煽る事とした。

「ああ……それから一つ言っておくけど、リンセルの病状は芳しくないわ。
 今の時点で分かるのは、おそらく自力で生きてるわけじゃないってことだけね。
 あの娘をこの世に繋ぎ止めてる力も、いつ尽きるのか分からない有様だもの」

ある程度はあったミリアの警戒心も、この一言で一気に削がれてしまう。

「ちょっ、ちょっと待ってよ! リンシィが死ぬっていうの!?」

顔色を変えたミリアが詰め寄ると、コーデファーの呪衣に薄い魔力光が宿った。
触れたものを反発させる防護魔術が発動したのだ。
それを見て、ミリアも手酷く吹き飛ばされた記憶が蘇り、寸での所で蹈鞴を踏む。

「あるいは……そうね。
 あの娘は生と死の狭間にいるもの。
 常に死に続けては、何かの要因で生の側に引き戻されてるって感じに」

「死に続けてるって……ど、どういうこと!?」

「悪いだけど、まだ病状を調べてる段階よ」

「そうだ、さっきアタシの魔力が高いとか言ってたよね!
 何かの治療にアタシの魔力を使えないの!?」

「同じことを二度も言わせないで。馬鹿なの?
 病状を調べてる段階なんだから、治療法だって見つかってないに決まってるでしょう。
 で……あなたは聖堂騎士の検査が終わるまで待ってる?
 待ってる間にどうなるかまでは知らないけど」

「すぐ行くッ」

面会した所で病状が好転する訳でもないのだが、そんな事はミリアの頭に無い。
思い浮かべるのは、我が子を失ったフロレアやレナードの姿。
彼らがリンセルの葬儀に参列する事を考えてしまえば、平静ではいられなかった。

481ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/01/15(木) 21:20:49 ID:omEXX8fE0
看護婦が二つ目の金属扉を開けると、ミリアは早足で検査室から出てゆく。
目の前は全面がライトグリーンに塗装されたロビーで、通路は前方と左右の三つ。
窓の無い頑丈な造りのせいか、色合いは明るいのに閉塞感があって重苦しく、印象としては監獄か要塞。
道が三つに分かれているのを見たミリアは、行き先に迷って看護婦のアデライドを睨む。

「……どっち?」

「左通路、B-4号室」

行き先を聞いて、ミリアは即座に駆け出す。
看護婦が指し示したのは左の通路、棟内では魔力減衰の大きいエリアだ。
中位の魔術師が放った火球でも、人を殺せないレベルにまで威力を低下させられる。

「廊下、疾走禁止」

注意の言葉で速度を落としつつ廊下を歩み、右折した所でミリアは立ち止まる。
この病院では、全ての扉の開閉に認証コンソールの操作が必要なのだ。
病室の前まで辿り着いても、看護婦に開けてもらわねば中へ入れない。

「此処? リンシィが入院してるのは? 開けて! 早く!」

ミリアは追い付いて来た鉱精に、悲鳴のような声で呼び掛ける。

「…………」

看護婦は何も答えず、無言のままコンソールを操作した。
その態度を不審に思うよりも先に、ミリアは開いた扉へ駆け込む。
奥行きがある広い病室は、不要な装飾品の類なども一切無く、設備は備え付けのベッド程度だ。
ミリアは殺風景な部屋の中を歩き、リンセルが眠っていると思しき場所まで近づいた。

「リンシィ……?」

訪問者が呼び掛けた瞬間、聞き慣れない声が響く。

「――――縛せ」

「誰ッ……?」

ミリアの誰何に応えたのは銀色の旋風。
足元から伸び上がった鎖が一瞬で竜巻のような螺旋を形作り、瞬く間に収束する。
全身に絡み付く鉄鎖に体を締め付けられ、ミリアはバランスを崩して転倒した。
鎖の正体は、単体を対象とする拘束用の魔術具、鋼縛索。
一度、呪縛されてしまえば、象ですら逃れる事が出来ない程の拘束力を持つ。
棟内の魔力減衰作用で威力が落ちたとしても、人間程度の筋力では逃れるべくも無い。

「くっ……な……何、これ?」

訳も分からぬままに身動き封じられたミリアは、首だけを動かして周囲を窺う。
状況を確かめようにも、簀巻き状態では芋虫のようにしか動けないのだ。

「それは罪人を捕らえる裁きの枷だ。
 なに、お前が持つ心を誑かす魔力に比べれば、遥かに害は少ない」

再び先程のテノール。
声の主は黒いロングコートを纏い、冷淡な瞳で見下ろす男。
アルサラム・ファラー・アゼルファージは透明化の首飾りを外し、病室の中に姿を現した。

482巡検司書アルサラム ◆FarahLxH6M:2015/01/19(月) 21:46:45 ID:jhEe8gLs0
アルサラム・ファラー・アゼルファージ。
バニブルでは巡検司書を担当していた魔術師だ。
彼は妖異の蔓延る地下書庫を巡回して、目録の作成や書物の保全、遭難者の救助などを行う。
迷宮的な書庫を歩き回るだけに、当然ながら腕も立つ。
ラクサズから他国に派遣する人員として選ばれたのも、戦闘の技量を見込まれてのことだ。
彼は己の足元に転がる捕縛対象、ミリアを侮蔑の視線で刺していた。

「すでに姦計の手練手管は割れている。
 まさか、他者の精神操作が国際条約違反だと知らない筈も無いだろう……魅了使いの魔術師。
 それ以前に、他者の心を魔術で掌握する輩など悪でしかない」

室内に沈黙が作られた。
その張り詰めた緊張を破るのは、二つの靴音。
バニブルの魔術師が扉に横目を向けると、同輩の魔術師と警備官の二人が病室に入って来ていた。

「うん? 割とあっけなかったようだね。
 さて、もう自分が置かれた状況は理解しているよね、お嬢さん?」

黒髪黒目で灰色のロングコートの男、ヴェクスが白い歯を見せて微笑む。
対して、村の警備官であるウィムジーは渋い顔だ。

「オイ、手荒にせんでくれと言ったろう」

「手荒? 魔術協会の制裁よりは遥かに優しいつもりだ」

ウィムジーがアルサラムを諭すも、彼の態度は変わらない。
御し難さに息を吐くと、警備官は屈んでミリアと目線を合わせた。

「ミリアさん、フラスネルって医療司書さんがあんたの国際条約違反を見つけたそうだ。
 患者の治療中に人の記憶を映すって機器でな。
 こんな形となって悪いんだが、精神操作の容疑が掛かってる以上、俺としても尋問せにゃならん。
 まずは護送車で地区警察に運んで、取り調べってことになる。
 俺も間違いであってくれれば良いんだが、ちぃと疑いが強くてなぁ……」

幾分か済まなそうな顔をしたウィムジーだが、この職業意識の強い男は職務は職務として必ず遂行する。
真偽を曖昧にしたまま、嫌疑の掛かっているミリアを見逃す事は決して無い。
それはアルサラムも同様で、しかも彼は誰かに物事を託したり、委ねる事を好まなかった。

「警備官、尋問なら此処でも事足りる。
 虚偽感知の術は、消呪区域内でも何ら効果に変わりは無いからな」

そう言って、アルサラムは虚偽感知の呪文を唱える。
真偽を判別する耳を手に入れると、彼はウィムジーからミリアに視線を移し、尋問を開始した。

「……ミリア・スティルヴァイ、お前が魔術師であるのは間違いないな?
 他者を魅了する力を行使した事も。
 手段と目的は何で、精神操作を施したのは何人だ?
 お前は首謀者なのか? それとも背後に誰かが居るのか?
 前もって言っておくが、魔術師相手に下手な詐術は無駄だ。
 此方が優しい顔を見せている内に吐いた方が良い」

483ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/01/30(金) 00:59:59 ID:M9i/mhRs0
拘束されたミリアは、腹這いのまま周囲を眺める。
部屋の間取りはロビーと同じ程度の広いもので、全体の内装は薄い緑、窓は無い。
扉は通路に面した出入り口と、トイレや浴室に通じるものの二つ。
次に自分の状態を確かめてみるが、ミリアが渾身の力を込めても体を縛する鎖は緩まなかった。
むしろ、少しでも緩みそうになると、独りでに締まって束縛を維持する。

「クソッ……魔術具?」

「そうだ」

ミリアの呟きに答えたのは黒い髪と瞳を持ち、黒いコートを纏った男、アルサラム。
彼は魔術協会の次席導師級すら無力化する魔力減衰帯の中で、正常に魔術を発動させていた。
これは、ヴェクスやエクレラにも出来ない芸当だ。
風貌や服装こそ普通だが、魔術具を操った以上は魔術師なのだろうとミリアも認識する。
そして、彼が何者なのかは見知った老警備官の姿が教えた。
此処まで来れば、遅まきながらミリアもコーデファーの通報した魔術師が誰のことか気付く。

(こいつら、アタシを捕まえる為に集められた魔術師か……)

すでに魅了の力が露見しているのも、間違いないだろう。
そして、それを知りながら一昨日の夕食会は行われたのだ。
さぞ滑稽に感じた事だろうと心中で毒づきながら、ミリアは警備官を睨む。
少しは彼に心を許し、ある種の快さすら感じていた自分を思い返すと、悔しさに舌が震える。
食事に招いたのも今の下準備で、自分を陥れる為だけのものだったのかと。
ウィムジーは職務を遂行しているだけなのだが、どうしても裏切られた感覚は否めない。

しかし、今重要なのはそんな事ではなかった。
まず確かめなければならないのは、リンセルの安否だ。
若干、怒気を抑えるのに苦心しつつ、ミリアは目前のアルサラムを見上げる。

「……リンセル・ステンシィは何処? 具合はどうなの?」

「この部屋にはいない」

「何処にいるの」

「まずは、俺の質問に答えろ。
 お前の背後には誰かが――――」

「リンシィは何処ッ」

ミリアは先程より強い語調で質問を繰り返し、黒コートの魔術師を不機嫌に睨む。
質問を遮られたアルサラムも視線の矢を返し、互いに睨み合う。
険悪さを見かねてか、すぐにもう一人の魔術師が両者の間に割って入った。
無用な衝突を避け、穏便に懐柔しようとの意図からだろう。

「君に掛かった精神操作の嫌疑を考えれば、すぐに合わせられないのは分かるだろう、ミリア君。
 ああ、一応名乗っておくと、僕はヴェクス・ロタール・フィユーディティ、二十四才独身、彼女募集中。
 そっちの無愛想がアルサラム・ファラー・アゼルファージ。
 どちらもバニブルの魔術師だが、此処には地区警察の要請で来たから、今は正式な警察の一員でもある。
 患者の病状に関しては好転も悪化も無いようだが、僕らは医者じゃないんで、まぁ無責任な事は言えない。
 そして、これは重要な点なんだが、知人を回復させたいのなら君も協力しなければならないよ。
 彼女の状態を把握するには、影響を与えている全ての原因を知らなければいけないからね……違うかい?」

何を話して、何を黙すべきか、ミリアは考え込む。
捕まって拘留されたくはないが、リンセルを持ち出されると心は揺れた。
人の力を増す己の力の性質は、リンセルの覚醒について役立つ可能性もあり得る。
しかし、コーデファーも含めて、彼らは信頼の置ける相手ではない。
他者を魅了する能力を知られた以上、このまま囚われれば隔離されるのは確実だろう。

484ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/01/30(金) 01:02:36 ID:M9i/mhRs0
「自分に危険が迫れば、奴隷は切り捨てるか」

不信と迷いで沈黙するミリアをアルサラムは詰った。

「リンシィは奴隷なんかじゃない……何も知らない癖にッ」

ミリアは激昂して言い返す。
アルサラムの辛辣さは悪を憎む心から発したものだが、ミリアにとっては己に向けられた敵意でしかない。
再び険悪となった両者にヴェクスは閉口するが、アルサラムに構う様子は無かった。

「確かにお前たちについては何も知らないな。
 では、教えて欲しいものだ。
 リンセルという少女が、お前にとってどんな存在か」

「リンシィはアタシの友達だよ……初めてと言っても良いね!」

アルサラムは鼻で笑う。

「俺の知っている友達とは、随分形が違う。
 友と言うのは、互いに対等な者の間で作られる関係だ。
 心を弄って作った関係など、奴隷と何ら変わりない」

「そんなんじゃァない!」

ミリアは憎憎しげに怒鳴った。
彼女の主観では、リンセルは奴隷などではなく友達だ。
少なくとも、そう思いたいのは間違いない。
だから、虚偽を検知する魔術にも反応はしなかった。

「魔力で得た奴隷を友と信じ込む醜悪さは聞くに堪えない。
 罪を自覚しない者とは、実に性質が悪いものだ。
 改める事も出来ないのだから。
 自分に都合の良い奴隷を作るつもりでないと言うなら、なぜ魅了の術など掛けた」

ミリアが出来るだけ考えないように避けていた点を、アルサラムは突く。

「それは――――」

ミリアは端緒を思い返す。
リンセル・ステンシィと出会ったのは、エヴァンジェルだ。
あの街を訪れた時の心情は、もう何処にも居ない父親を追って、微かな足跡を探すようなものだったろうか。
心細い不安の中で最初に出会ったのがリンセルで、彼女を手元に置きたいと思ったのは確かだ。
力を使った理由は……それが、父の望んだ通りの世界に繋がると考えて……の筈だ。
そうだ、父の望んだ通りの世界を創る事が自分の存在意義。
迷える娘は、見失いかけた父親の足跡を見出す。

「――――人間って種を変える為。
 人間が強い種族に変われば、人間の心の在り様も変わるからね。
 そう……アタシは人間全てを変えて、父さんの望んだ世界を作り上げてみせる」

自分は好意を持った者を理想の世界に加えようとしたのだ。
搾取と使役ではなく、好意と庇護。
他者の精神を変容させた事実も、ミリアの中で綺麗に折り合いが付く。
そして、唇の片端を鋭く吊り上げての笑み。
意味不明な言動と相まって、アルサラムには魔性の笑みと感じられた。

「世迷言で悪行を正当化するつもりか。
 さっさと今まで魅了したものの術を解け」

「出来ない」

485ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/01/30(金) 01:05:01 ID:M9i/mhRs0
「それは俺に従うのが嫌だという意味か。
 或いは、自分でも解除が出来ないのか?」

「どっちもだよ」

吐き捨てるようなミリアの応え。
虚偽を語っていないのを魔術で聞き分け、アルサラムの瞳は険しさを増す。

「……無責任な話だが、虚偽感知の術が反応しない以上はそのようだな。
 正式な魔術師なら、自分で掛けた術を解けないというのは有り得ないものだが」

同僚の言葉を聞き、ヴェクスは解呪不可の原因を考えた。
そして、すぐさま魔力を持つ体液の存在に思い至って、己の推論を述べ始める。

「そういえば、魅了に体液を使っているんだったか。
 体系的な魔術じゃないとは思ってたけど、どうやら体内で毒を生成しているというのが近いようだね。
 吸血鬼は血を吸って仲間を増やすものだが、彼女は毒液を与えて仲間を増やすわけだ。
 主な方法はキスかな? 若い女性のキスを拒める男はそうそういないからね。
 いや、まったく羨ましいと言うべきか、世の男どもにとっては悪辣な手段と言うべきか」

ヴェクスが推測したように、ミリアの魅了は魔術ではなく、常時発動している力の副産物だ。
ミリアの意思であっても、革命の扇動者たる地位は降りる事が出来ない。
そして、魅了する方法についての考察も概ねだが合っている。

「術者が解呪出来ないなら、俺たちで不正義の始末を付けるしかないようだ」

アルサラムは言った。
リンセルに働き掛ける力の排除を試み、ミリアにも裁きを下すつもりで。

「いや、それはコトンやイヴンスディール外交司書と相談の上でだ。
 そこまで凶悪な条件を課したとは思いたくないが、魅了の魔力が解ければ死ぬなんて設定も有り得る」

自らでも穿ち過ぎとは思いつつ発せられたヴェクスの一言。
しかし、それは奇しくも真理の一端を言い当てている。
本来、死ぬ筈のリンセルを生かし続けている奇跡は、ミリアが施した苗木のように小さな――――世界だから。
この小さな切れ端程度の力が、リンセルを覆う昏い死の色に抗って、少しずつ塗り替えようとしている。
魅了の影響が消え失せれば、ミリアとの繋がりは切れるものの、この少女もまた、死ぬべき者として死ぬ。
今は、誰も知らぬ事実だが。

「確かに倫理観が壊れた女なら、何をするか分からない。
 子を養いて教えざるは父の過ち。
 訓導して厳ならざるは師の惰なりと言う。
 この女を見る限り、父親も、魔術の師も放縦懶惰の輩だと分かる。
 本国の調査で分かった事だが、祖父のボルツも名の知れた重犯罪者で国外追放を受けたらしいな。
 遺伝とは言わないが、教育の欠如が子にまで連鎖したといった所か」

「クソッ、クソッ、知った風に勝手なことを! 外せッ! 外せッ! 外せよッ!」

父親の罵倒は最も耐えがたい。
ミリアは反感を込めて吼え、再び鎖の拘束を解こうとした。
しかし、魔術具の拘束力は強く、ミリア如きの膂力で破れるほど柔でもない。
結果は数十センチ、床の上を無様に転がっただけだ。
アルサラムの足首に噛み付こうともしたが、これもあっさり避けられて失敗に終わった。
すぐに無駄な試みは諦めざるを得ず、ミリアも荒い息を吐く。

(クソッ、ダメか……せめて、アレクが気付いてくれれば)

魔術に必要な身振りを取れないので、肉体の強化や変質も不可能。
誰かと連絡を取ろうにも、特異病棟に手荷物は持ち込めないので、通信用タブレット端末も控え室。
主導権は完全に相手が握っていて、状況も全く動かせなかった。

486医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2015/02/13(金) 19:53:25 ID:zYarGhO20
ミリアの検査が終わって数分後、アレクサンデルも検査室に入った。
最大の関心事が見当たらないせいか、表情には若干の苛立ちがある。

「フラスネル医療司書、ミリアは何処だ?
 控え室には戻って来なかったが、まさか一人で病棟に入ったのか?
 よく分からない施設だから、先走らずに俺を待てと言ったんだがな」

「患者が心配みたいで、看護婦を伴って先に行ったわ。
 あなたとあの女は、さして付き合いが長いようには思えないけど……そこまで心配?」

「ああ、ミリアには軽率な面があるから心配で仕方がない。
 こんな治安の悪くない地域でさえ、掏りの被害を受けたようだしな。
 もし、赴いた先がアルティヴィツェやカルディアなら、今頃は不逞の輩に暴行されていたかも知れん」

「まるで、父親のような案じ振りね」

「父親は俺の望む関係ではないがな」

苦笑いを浮かべた聖堂騎士が診療台に座ると、コーデファーは覧界視を手に取って覗き込む。
被験者の体内魔力は濃く、炎のように揺らいでいて、霊的資質の高さを窺わせた。
これが元来の形質から来るものか、ミリアの影響かは不明だ。
しかし、ミリアが行使可能な力の性質を考えれば、アレクサンデルが魅了されている可能性は高いと思えた。
彼をどうすべきかが、コーデファーにとって目下の懸案事項。
術者のミリアに比べれば重要性が低くとも、リンセルとは異なった検体程度の価値はある。
拘留するのが最善とも判じたが、予定に無かった人物なので拘束用魔術具の用意は無い。
だから、代わりに即効性の睡眠作用を持つ錠剤と、水入りのコップが出された。

「飲みなさい」

「……これは何だ?
 此処の性質を考えれば、何がしか精神に影響するものじゃないだろうな」

一粒の白い錠剤を受け取ったアレクサンデルは、眉を顰めて思案する。
彼の懸念はミリアに魅了された状態が、何らかの変化をするかもしれない点。
現状を受け入れている以上、ミリアとの繋がりを他の影響で絶たれるのは避けたい事態だ。

「検査に必要な薬よ。
 子供のように怖がってないで飲みなさい」

「昔から魔術医の世話になっていたせいか、どうにも薬は性に合わない」

そう言いながらもアレクサンデルは薬を口に含み、水を喉に流し込んだ。
五分程して、診療台に横たわった男は瞼を閉じる。

「……即効性にしては少し利きが遅かったけれど、ようやく眠ったようね。
 どうせ、あの女に魅了されてるのだろうし、このまま拘束しても問題無しだわ」

診療具を置いたコーデファーは、被験者の顔を窺いつつ呟く。
同意を得てはいないが、リンセル同様に精神探査で深層意識を探るべきだと心に決めて。

「いや、生憎だが眠ってなどいない」

目論みは早々に頓挫した。
アレクサンデルの右手が素早く伸び、細い首輪が巻きつくコーデファーの喉笛を締める。
無論、呪文を詠唱させないようにだ。

487医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2015/02/13(金) 19:54:00 ID:zYarGhO20
一般的に魔術で防御を行うのは難しい。
攻撃動作を認識してから呪文を詠唱しても、間に合わないからだ。
特にアサルトライフルを初め、近代銃は一秒にも満たない間に致死攻撃を連続で行える性能を持つ。
敵を目前にしてから、呪文詠唱で魔術を展開するのは非現実だ。
当然ながら、防御魔術の起動問題については魔術師たちも無策ではない。
コーデファーがバニブルの同輩たちから受け取った防護の指輪も、その結実の一つ。
この飾り気の無い金の指輪は身に着けている間、常に体表へ不可視の膜を張って外部からの衝撃を防ぐ。

「薬が効かない……いえ、飲んだ振りをしてたのね。
 医者から出された薬を疑って飲まないなんて、クランケ失格だわ」

首を掴まれたコーデファーは驚愕の顔を浮かべるものの、直ぐに落ち着きを取り戻していた。
防護の魔力で、首に圧迫感を感じないからだ。
さらに守りを固めるべく、彼女は呪衣の起動キーワードを唱える。

「Teyurera Pio Naples」

しかし、魔力が励起した時には、すでに相手も診療台から飛び退って数歩先の距離。
アレクサンデルは警備職に従事しているが、今は武装しておらず、初歩の神聖魔術を習得するのみ。
対するコーデファーも己の研究に役立つ魔術しか習得していないが、魔術具を所持している。
状況はアレクサンデルの側に不利だったが、彼に撤退の選択肢は無い。
ミリアの従僕たる男が考えるのは、女主人の奪還のみだ。

「精神に影響を及ぼす薬かと思ったが、どうやら単なる睡眠薬だったようだな。
 しばらく、そちらの様子を窺っていて正解だった。
 ミリアは特異病棟か」

アレクサンデルは氷刃の声で聞き、舌の裏に留めていた錠剤を口から吐き出す。

「ええ、そうよ。
 危険な毒蜘蛛を放し飼いにしておく訳にはいかないもの」

体躯に勝る相手を前にしても、魔術具を持つコーデファーは恐れない。
薄い笑みを浮かべて、ゆっくりとアレクサンデルに近づく。
病院の扉は個人認証のコードがなければ開かないので、検査室の外には逃げられない。
このまま接近して触れるだけでも、相手を簡単に吹き飛ばせる。
アレクサンデルは無言のまま、掴んだコップをコーデファーの顔に投げつけた。
その結果は、投擲物が目標に触れる前に破裂し、微細な硝子片となって室内に散ったのみ。

「防護の魔力光が見えない?
 そんな物なんか、効く訳がな――――」

コーデファーが笑みを凍らせて絶句する。
先程まで診療具として使っていた覧界視が、男の手に握られていたから。
彼はコップを投げつけたのと同時に診療具が置かれた台まで跳び寄って、魔術具を奪い取ったのだ。

「――――覧界視を返しなさいっ!
 それは、現存する物が二桁と無い貴重な魔術具なのよ。
 あなた如きなんかじゃ、一生働いたって買えないものだわ」

「魔術具だとは思っていたが、思ったより高価だな。
 ミリアの身柄と交換で返還する条件はどうだ」

手にした金属筒を剣のように構えるアレクサンデル。
覧界視は武器ではないものの、形質保持の魔力を帯びているので容易くは破損しない。
とは言え、呪衣の防護障壁とぶつかってまで無事かは分からなかった。
貴重な魔術具を武器として振り回す愚か者も、そうそういない。

「無理よ、ふざけないでちょうだいっ」

488医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2015/02/13(金) 19:54:27 ID:zYarGhO20
コーデファーが拒絶した瞬間、アレクサンデルは床を蹴る。
格闘経験を持つ者の体術に学者が対応できる訳も無い。
一息で距離を詰められて、小さな肩は鋭く衝かれる。

「ふぇうっ!」

「むっ」

放電にも似た衝撃音。
両者は短い呻き声を上げ、数メートルも吹き飛ばされた。
呪衣の魔力はアレクサンデルを撥ね飛ばしたが、魔力を帯びる物体の干渉を完全には防げない。
速度に体重を乗せた打撃は二重の魔力防護を通って、鈍い痛みに変換されている。

「な、なんなの……馬鹿なの……?
 覧界視で殴りかかるなんて」

右肩の痛みは弱かったが、コーデファーは戦闘員ではない。
絶対の安全圏を崩されてまで、単独で戦うなどという意志は持てなかった。
動揺しつつ、慌てて起き上がり、特異病棟側の扉へ駆け寄るとコンソールを操作する。
手練の魔術師であるヴェクスとアルサラムがいれば、相手が誰であろうと負ける事は無いと考えてだ。
何より、下手な打ち合いを続けて高価な魔術具を壊されては堪らない。
扉が開くと、彼女は特異病棟の中に飛び込みつつ叫ぶ。

「エクレラ! 見ているんでしょう! さっさとあの二人に連絡して!
 いえっ、違うわ! その前に配置してる使い魔を早く動かしなさい!」

すぐ背後に追跡者の姿を認めると、コーデファーは扉の閉鎖を諦めた。
魔力減衰の影響で呪衣の微光も弱くなってゆくが、気にも留めない。
アレクサンデルから距離を取るべく、薄緑の廊下を脱兎の如く走り出す。

489巡検司書アルサラム ◆FarahLxH6M:2015/02/14(土) 23:55:46 ID:mhk5/j/60
エクレラからの連絡を受け、ヴェクスはタブレット端末を手にしたまま、警備官に視線を向ける。

「ミリアの付き添いをしてた中年男がコトンを襲撃して、彼女を追い回しつつ此方へ向かってるようです。
 幼女を追い回す中年男、拙い、実に拙い構図だ。
 それはさて置き、彼の目的は我々が確保したお姫様でしょう。
 もちろん容疑者を渡す訳にはいきませんし、このままコトンが捕まって事案発生も困ります。
 相手は警備職の経験がある屈強な男な上、此処は即座に入院可能な病院。遠慮はいらない気もしますがね」

若干、丁寧な口調を使ってはいるが、ヴェクスの言葉が意味する所は武力行使に他ならない。

「うゥむ……応も否も無く心を操られてんのなら、のしちまうのは気の毒だが」

「彼が説得に応じてくれれば良いのですが、現状を判断する限りは期待薄でしょう」

「あんたらがそう判断すんのなら、そうなんだろう。
 公務執行妨害で、どうにかするか」

ウィムジーは腰に佩いたサーベルの柄を指で撫でつつ、あまり気乗りしない風で扉に向かう。
魔力も魔術も異能も精霊も超能力も、彼にとっては等しく『訳の分からないもの』だ。
そっち関連のトラブルは勘弁してくれ、というのが本音である。
それでも、職責を重んじる彼は職務を放棄したりはしないし、きっとこれからもそうだろう。

「警備官、俺も行こう。
 病棟の中で魔術の発動が可能なのは、俺だけだからな。
 その前にあの女へ手錠を掛けた方が良い。
 後、数分で鋼縛索の持続時間が切れる筈だ」

アルサラムが警備官を呼び止め、ミリアの再拘束を促す。
頷いたウィムジーは片膝をつくと、芋虫状態のミリアの背を起こして、細めの手首に手錠を掛けた。
これで、緊縛が緩んでも魔術に必要な動作は出来ない。

「いや、本当に悪いが、ちぃと辛抱してくれ」 

ウィムジーはミリアを宥めつつ立ち上がり、廊下へ出たアルサラムを追い掛けてゆく。
広い室内に残ったのは、ヴェクスとミリアの二人のみ。

「……退屈だし、世間話でもしようか」

沈黙を破って、先に話し始めたのはヴェクスだ。

「他所の国にはレンタル恋人や、お友達契約なんて、耳を疑うものがあるそうだが、知っているかい?
 指定の料金を支払って、時間制限付きで恋人や友達になって貰うものらしい。
 とは言え、これは少なくとも当人同士が合意の上で契約するから、まだ良い。
 しかし、ミリアちゃん好き好き契約書は君が無断で判を押してしまう。これは宜しくない。
 昔、婚姻届を勝手に役所へ出す女と付き合ってたんだが、あれよりも酷い」

女難を嘆く男は、お手上げのポーズを取りつつ苦笑する。

「ミリア君の目的は、人間って種を変えるって事だったっけ。
 具体的な方法としては魅了した人間を使って、影から社会を操るってとこかな?
 大勢で遺伝子操作なり、強化魔術の研究なりをやれば、まあそれなりの成果は出るだろう。
 宗教やら人権やら倫理やら、面倒な問題が出てくるのは否めないけどね。
 で、そこまでの面倒を負ってまで、大望を掲げる動機は何なんだい? 是非知りたいものだな」

490ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/03/01(日) 04:26:08 ID:dvXRnVE60
「アンタに答える必要なんか無いね」

ミリアは嫌そうな目で長身の男を見上げた。
アルサラムに散々罵倒された後では機嫌が良くなりようも無く、表情も実に不快げだ。
睨みつけられる男の方はミリアの瞳を覗き込むと、そこに微かな怯えと疑心暗鬼を認めた。
攻撃性を他に向けて糊塗しようとしているが、現状に不安を抱いているのは間違いない。
警戒心を緩めるのも骨が折れそうだと感じつつ、ヴェクスはご機嫌取りを開始した。

「まあ、そう拗ねないで。
 折角の可愛い顔が台無しだ」

「アタシが可愛い、ね。
 それならキスの一つでもしてみる? 今なら何しても誰にも言わないけど」

ミリアは唇を舐め、挑む時の目つきで男を煽り立てる。
挑発を受けたヴェクスは座り込み、じっと黒い瞳を見つめ返して考え込む素振りをした。
魅了の魔力を警戒してか、顔を近づけまではしない。

「うーん……是非にと言いたい所なんだが、それは遠慮せざるを得ないな。
 神に仕える聖堂騎士すら盲目にしてしまう、魔性のキスだからね」

「あっそ」

辞退は当然のことだ。
手札の割れた種で誘っても、誘惑に応じる筈が無い。
緊縛の身では他に打つ手も無く、ミリアは詰まらなそうに目を背けた。
しかし、会話を続けたい男の方は話を止めない。

「ところで、その力は自分でも制御出来ないって話だけど、生まれつき持ってたもの?
 もし、チュッってしただけで効果があるのなら、最初に心を捕らえた相手は御両親かな……いや、待て。
 親を魔力で魅了するのは、倫理的に拙いな。
 父と娘が出来てたりしたら、確実に夫婦喧嘩が起きる」

瞬時にミリアの瞳が不快の色を溜めた。
親の事は他人に土足で触れられたくない点の一つだ。

「下らない心配、本当に下らない。
 そもそも、この力を手に入れて一月経ってないし、父さんは……二年前に死んでるし」

「あぁ、そうだったの。それは失礼した。
 しかし、魅了の魔力を得て一月も経ってないのなら、本当に最近の事だ。
 時期的には各地で異変が頻発し始めた頃か……。
 もしかして、君の力の切っ掛けは黒い宝玉?」

「だったら何」

憮然とした表情のまま、ミリアは答える。

「強い魔力を持つって報告の割りに、魔術師らしくない雰囲気が気になってたけど、これで得心が行った。
 ミリア君の力の源は、偶然手に入れた黒い宝玉の一つだったわけか。
 あれは厄災の種という代物で、アイン・ソフ・オウルの力の欠片だ」

ヴェクスは一旦言葉を切って、ミリアの様子を見た。
そして、相手がアイン・ソフ・オウルという単語について、何も聞き返さない事を確認してから話を再開する。

「厄災の種は、所持者の魔力を増幅する性質を持っててね。
 総数は知らないんだが、相当な数が世界各地へ散らばったらしい。
 今、世界各地で起きてる異変の何割かにも、おそらく厄災の種は関わっているだろう。
 我が国では、前国家司書のヴェルザンディが地下書庫に甚大な被害を与えてくれてね。
 エヴァンジェルでも、傷ましい事に前教皇ミヒャエルが千を越える犠牲者を出したとか」

491ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/03/01(日) 04:27:03 ID:dvXRnVE60
「……つまり、何が言いたいのさ。
 厄災の種を持ってたら、アタシもトチ狂って大量殺人を行うかも知れないって?」

不機嫌さを隠さないミリアだが、ヴェクスは軽い頷きを返す。

「まあ、そんな所かな。
 君の目的と対立する相手は、決して少なくない筈だ。
 大多数の人間は二十年も生きてない君一人に自分の種族の行く末なんか、左右されたくないだろうしね。
 ミリア君が本気で目的を遂げるなら、対立した他者を悉く排除しなけりゃならない。
 魅了した人間を尖兵として、違う思想を持つ人達と争えば、双方には大量の死者が出てしまうだろう。
 そうなれば、アルティヴィツェで起きてる民族紛争のように泥沼の殺し合いだ」

「アタシは別に殺し合いなんか望んでない!
 アタシの……父さんの思想は人間全ての為になる!」

「うんうん、そうかも知れないね。
 ただ、いくら理念が良くっても、手段を間違えれば望む結果は得られないものだよ。
 漏れなく魅了される副作用が付くのってのも、ちょっと宜しくない。
 君への愛から相手は服従するしかないし、自爆や道連れの殉死にだって応じかねない。
 此処に来る聖堂騎士の男も、ミリア君の為なら命すら投げ出すんじゃないかな?
 君がどれくらいの見返りを与えられるのかは知らないが、損得の天秤は釣り合いが取れてないように思える」

自覚があるだけにミリアは黙り込む。
ステンシィ家とは違って、三主教の聖職者たちは明確に立場を利用しようという意図で取り込んだのだ。
利用し、搾取していると非難されても言い返せない。
彼の言っている事も結局はアルサラムと同じなのだが、攻撃的な態度ではないだけに敵意も返し難かった。
考え込む相手を見て、ヴェクスは厄災の種に話題を戻す。

「先に挙げたヴェルザンディと、ミヒャエルの二人だけどね。
 フェネクスで起きた大量虐殺事件の映像に、テロ組織の一味として姿を残している。
 姿を眩ましたヴェルザンディのみならず、事件後に肉体が崩れ去ったミヒャエルまでもね。
 仲間が蘇生させたとも考えられるが、風化した肉体の蘇生というのもあまり聞かない。
 となれば、復活の原因として厄災の種が関わっていると考えるのも、不自然ではなさそうだ。
 すでに人外の存在へ変質している可能性だって、まぁ無くもない。と言うか高い。
 おそらく、厄災の種は入手した時から、少なからず彼らの肉体と精神を蝕んでいたんだろう」

「仮にそうでも……アタシはこの力を手放すつもりは無いよ」

「力を失いたくない気持ちは分かるけど、厄災の種の摘出は試みられるんじゃないかな。
 制御が出来ない異能なんてのは、行政としても放置しがたいからね。
 君に生じた変化も、今は魅了の体液だけかも知れないが、これから危険度を増すとも考えられる。
 しかし、幸いにも君はまだ誰も死なせてないようだ。
 リンセル・ステンシィは危うい状況にあるが、コトンも珍しく診療に尽力している。
 取り返しのつきそうな間に救いの手が差し伸べられたのは、むしろ幸運だ」

「余計なお世話をありがとう、ヴェクスさん」

ミリアが素っ気無く吐き捨てる。
ヴェクスの方は冷えた言葉にも堪える様子など見せず、膝を伸ばして床へ座り込んだ。

「参ったね。冷たい目で睨まないで欲しいなあ。
 僕は女性の不機嫌な顔を見るのが、好きじゃないんだ。
 ちなみに若くて綺麗な相手だと、がっかり度も比例して上昇する」

「勝手にがっかりすれば? 悪いけど、アタシはアンタと馴れ合う積もりなんか無いよ。
 あの警備官みたいに、捜査の為だなんてのは分かり切ってるし」

ミリアは苛ついた息を吐くと、ヴェクスの無視を決め込む。
親しげな癖をして全く心が篭もってなさそうな会話は、此方の手の内を探る手管に過ぎないとも考えた。
この馴れ馴れしい態度の魔術師も、ウィムジーと同じくミリアの捕縛に加わっていた者の一人なのだから。

492ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/03/01(日) 04:28:06 ID:dvXRnVE60
今は、ただリンセルの顔が見たかった。
目の前の魔術師は厄災の種の影響で、肉体の風化した男が蘇ったと言う。
それならば、とミリアは考える。

(厄災の種がもう一つあれば、リンシィを今すぐ目覚めさせられるかも……)

リンセルの快癒を考えて、ミリアは黙り込んだ。
彼女の関心を自分に引き戻すべく、ヴェクスは幾つかの世辞を思い浮かべる。

「ま、確かに此処に来たのは仕事なんだけど、それはそれだ。
 綺麗な女性と仲良くなりたいってのと、仕事とは別の話だからねっ。
 しかし、ミリア君は本当にスタイルが良いなあ。
 アッシュ・グレイの長い髪も綺麗だし、実に大人っぽい雰囲気だ。
 古臭い魔術師なんかより、モデルでもやった方が間違いなく大成するよ。
 怪しげな黒い石じゃなく華やかな宝石……そうだね、エメラルドやサファイアの方が似合いそうだ」

ミリアの反応は黙殺だ。

「ああ、それと目にも力がある。
 まるで吸い込まれそうな……あ、もしかしたら今、魅了の魔力とか使ってない?」

またも黙殺。

「この村には、療養している友達を見舞いに来たんだっけ?
 ミリア君は猫のように孤高な印象があるけど、親しい人には優しそうだよね」

幾度か褒め言葉が投げかけられるものの、ミリアの堅く閉じた口は開かない。
献じられた空疎も、即座に忘却の河へ流されるのみ。
迷った末、ヴェクスは反応が期待できそうな話題を持ち出す事にした。

「ボルツ・スティルヴァイ。
 君の祖父に当たる人物をネットや古い新聞で調べてみたが、少しは知られている名前のようだ」

鍵を掛けようした心に隙間風が入り込む。
ミリアはヴェクスが何を言うのかと、僅かに動揺を見せた。

「数十年前にはイストリア近隣で竜種群を撃退し、英雄視もされていたが、その後はクーデターを画策。
 国家転覆罪で手配されて国外逃亡……こんな感じかな。
 後は彼の妻が政治家だった事くらいか。
 国許に残った家族の詳細な情報は無かったが、重犯罪者の親族だけに苦しい立場だったのは予想できる。
 殊更、愛国心や国家への忠誠を強調する必要もあっただろう。
 しかし、人間は己の血統や家族にも誇りを持ちたいものだ。
 ボルツ・スティルヴァイを悪人とは思いたくない……。
 では、何が悪いのか、何を改めるべきなのか。
 君のお父さん、ドニ・スティルヴァイが人間って種を変革する思想に行き着いたのも、その辺りが原因かな。
 彼の意志を尊重するのも良いけど、君は君で、父親の付属物じゃない」

「黙れっ、いい加減なことを勝手に言って!」

岩の唇が動き、室内の空気が震えた。
怒気に当てられた所為か、或いは単に持続時間が切れただけなのか、鋼縛索までが力無く緩む。
殺意すら宿っていそうな視線を受けて、ヴェクスは宥めの言葉を考えた。
しかし、それを口に出そうとした矢先、彼のタブレット端末が軽やかな音で鳴り響く。
ディスプレイの受信元はエクレラ。アレクサンデルの鎮圧に決着がついたのだ。
ヴェクスはミリアから少し距離を置くと、タブレット端末を操作して仲間からの連絡を聞き始める。

「……………………ファラーに任せたのは、失敗だったか」

今まで、軽薄な笑みを絶やさなかったヴェクスの顔に初めて険しさが浮かぶ。
搾り出すような彼の声は、苦い色を帯びていた。

493医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2015/03/22(日) 18:55:44 ID:YRbksS5g0
壮健な聖堂騎士と、肉体的には幼児の医療司書では脚力も雲泥の差。
即ち、逃走者が追跡者に追いつかれ、回り込まれるのにも十秒と掛からなかった。

「フラスネル医療司書、ミリアを監禁しているのは何処だ」

アレクサンデルは立ち竦むコーデファーに問う。
無機質な廊下には遮蔽物もなく、運動能力の格差を考えれば、再び逃走しても無駄なのは明白。
逃がれられぬ事実を悟って、コーデファーも前方を塞ぐ男を悔しげに見上げた。

「あなた、あの女に精神を操られてるのよ。今は正気じゃないの。
 精神が汚染されて、全ての判断基準にバイアスが掛かってるの。分かってる?」

「ああ、少なくともミリアが他者を魅了する力を持っていて、俺が影響を受けた認識もある。
 その上で、ミリアの望むように世界を変えて行くつもりだ。
 悪いが、医療司書の身柄は確保させてもらおう。
 この期に及んで手段を選んでもいられないからな」

アレクサンデルが数歩近づく。
コーデファーは歯噛みしながら後ずさり、窮地を脱する手立てを探した。
幸か不幸か、コーデファーの脳細胞は相手の動揺を誘う言葉を見つけてしまう。

「一つ、残念なことを教えてあげる!
 あなたがどんなに想っても、ミリアがあなたを顧みることはないのよ!
 だって、あの女……もう、お腹に子供がいるんですもの!」

「出任せで時間を稼ぐつもりか」

男の足が止まり、瞳に剣呑な光を宿らせる。
彼は直ぐに相手の意図を見抜いたが、聞き逃してしまうには意味が大き過ぎる言葉だった。

「いいえ、本当のことよ。
 詳しく聞きたい? 聞きたいでしょう?」

コーデファーは探るような瞳で囁く。
唇には微かな笑みを湛え、細い指で己の腹を優しく撫で始めた。

「話したいのなら止めはしない」

「あなたが今持ってる魔術具、覧界視で調べた結果よ。
 ミリアの中には、本人以外の精神活動が存在してたわ。
 人体に二つの精神活動が存在するケースなんて、まあ胎児くらいでしょうね。
 反応は微弱だから、まだ胎芽のようだけれど……お相手は誰かしら!
 魅了の力を持ってるなら、相手なんかよりどりみどり!
 父親は誰だか知らないけど、あなたじゃないのだけは確かで――――」

アレクサンデルは聞き終える前に覧界視を握り締め、全体重を掛けて突進した。
コーデファーがもう少し言葉を選べば、或いは目論見通りに時間を稼ぐ事も出来たかもしれない。

「――――んきゃあぅふっ!」

甲高い悲鳴。
またも反発の呪力が生まれるが、予め予想していた聖堂騎士は弾かれつつも踏み止まる。
が、コーデファーの方はそうも行かない。
金属筒の魔術具を鳩尾に突き立てられると、床に崩れ落ちて意識を遠のかせた。
二度の魔力発動で残存する防護魔力を消費したのか、白い呪衣を包む光も失せてゆく。

494巡検司書アルサラム ◆FarahLxH6M:2015/03/23(月) 07:23:58 ID:gVL2TxMM0
「ミリアに子供だと」

渋面のアレクサンデルが呟いた。
コーデファーの言葉を鵜呑みにはしていないものの、心には昏い感情が渦巻く。
誰か知らない男がミリアの腰に手を回す光景を無意識に思い描き、吐きそうな不快感すら覚えた。

「はぁ……ふ」

床に倒れる女の吐息が、男の意識を引き戻す。
まずは、速やかに呪衣を剥ぎ取って防護の魔力を奪い取り、彼女の身柄を確保しておくべきだと。
白いケープが速やかに脱がされると、長広の袖を持つカフタン風の服が現れた。
袷仕立てで前開きの白いガウンは捲れていて、ゆったりした下穿きのズボンが覗く。
この緩やかで風通しが良い服装は、乾燥地で気温の高いバニブルの気候に適応した服装だ。

「ともあれ、真偽はミリアに問えば分かる事だ。
 悪いが、身柄は確保させてもらおう。
 認証がなければ扉を開けられない、不自由な建物だからな」

聖堂騎士は覧界視をコートのポケットに捻じ込むと、コーデファーを小脇に抱えた。
その瞬間、背後に気配を感じて振り向く。
気配の主は瞳に鋭さを宿す男、アルサラム・ファラー・アゼルファージだった。
横には警備官のウィムジーも引き連れている。

「誰だ? そちらは村の警備官のようだが、もう一人は違うな。
 見た限り、医療関係者でも行政関係の人物でもなさそうだが」

アレクサンデルの誰何を受け、老いた警備官は手帳を取り出す。

「あぁ、俺らは地区警察でな。
 こっちの若いのは臨時職員の魔術師さんだ。
 何しろ、魔術の絡んだ事件となると普段の人員じゃ、とても手に負えんからな。
 で、そっちの医療司書さんはどうした? まさか死んじまってんじゃアないだろうな」

「フラスネル医療司書には、少し口を噤んで頂いてるだけだ。
 それで……ミリアを捕らえたというのは、お前たちか? 地区警察ということは」

バニブルから来た魔術師が頷く。

「そうだ、聖堂騎士。
 他人の心を誑かすような魔女に、自由を与える訳には行かないからな。
 あの女を放っておけば他人を誤った愛に溺れさせ、世界に害を為す。
 貴様に少しでも理性が残っているのなら、魔女を世界の中心として生きる愚は犯さない事だ。
 まずは、その医療司書を引き渡し、おとなしく同行してもらおう。
 俺は此処でも魔術を使えるが、貴様は使えない……抵抗した所で無駄だ」

「大地を統べる偉大なるものよ、我に岩をも穿つ不可視の拳を与えたまえ。我が敵に裁きを」

魔術師の説得に返されるのは、突き出された掌と神聖魔術の詠唱。
アルサラムもコーデファーも基本が煽っていくスタイルなので、説得の不調は致し方ない。

「なるほど、確かに神聖魔術が発動しない。
 三主から女神に宗旨替えすれば、消呪区域に踏み入った程度でも使えなくなるのは必然か」

妙に納得したような顔で聖堂騎士は言うが、アルサラムは冷笑を返す。

「悪辣な魔女が女神とは笑止だな。聞くに堪えない。
 硝子を宝石と見誤る目でも、あの女が芋虫のように這う姿を見せてやれば、少しは晴れるのか」

そう言って、魔術師は暴徒の鎮圧に最適な魔術を思い浮かべた。
対象を傷つけずに無力化する魔術なら、コーデファーが人質となっていても構わずに放てる。

495巡検司書アルサラム ◆FarahLxH6M:2015/03/23(月) 07:24:51 ID:gVL2TxMM0
周囲の言い争いが、朦朧とした意識を覚醒に導く。
コーデファーが体をくの字に折り曲げつつ、小さな呻きを上げて瞼を開いた。

「んぁ……ふぅあぅ……ぅう……む……」

「おお、気付いたな。
 怪我はしとらんか?」

ウィムジーが安否を問い掛けると、コーデファーは首を動かして視線を四方に散らす。
そして、自分の置かれた立場を理解すると、すぐさま手足を振り回して暴れ始めた。

「こ、この莫迦っ、わたしにこんなことして許されると思ってるの!?
 さっさと離しなさいっ! ロリコン! 誘拐犯!
 アルサラム、警備官、あなたたちも愚図愚図してないで、さっさとわたしを助けなさい!
 惚けっと突っ立ってるだけなら、案山子以下よ、本当に使えないわね!」

口撃の反応は警備官が呆れ顔で、魔術師は黙殺、聖堂騎士は少し考え込む。

「確かにミリアとは年齢差もあるが、誤解を招くような表現は……いや。
 フラスネル医療司書、悪いが少し黙っててくれないか。
 もう一度昏倒させるのも気が引ける」

内心では罵倒を気にしたのか、アレクサンデルの言葉は冷たい。
黒髪の魔術師の方は救助を促された為でもないだろうが、腕を水平に上げる。

「……俺が纏めて黙らせてやろう。
 警備官、詠唱を中断されないように前を固めてくれ」

「おう、そりゃ構わんが……」

魔術師の言葉に警備官は懸念を抱き、同じ懸念を聖堂騎士が口に出す。

「良いのか? 攻撃魔術を放てば俺が抱えた医療司書まで危険に晒されるぞ」

「そ、そうよ、わたしまで巻き込む気!? ふざけないでっ!」

やや怯えを見せてコーデファーは激昂するが、抗議にも拘わらず呪文の詠唱は為された。

「根源なる二つの力よ 我が望みしは夜の停滞 万物の深き眠り。
 生命の至要たる大気は霊素で変じ 意識を奪う迷妄となれ。“昏睡の霧”」

アルサラムが唱えたのは空気に麻痺成分を付与する呪文、昏睡の霧。
魔術で変質した空気を吸引すれば、麻酔を嗅がされたように意識は喪失する。
しかし、アレクサンデルも治安維持を職業とするだけあって、相手の手段は予想していた。
最初から殺傷を試みるのではなく、束縛や眠りや麻痺……そういった方法を取るのではないかと。
だから、彼は詠唱を聞くと同時に呼気を止め、精神を集中して、魔術の抵抗に専心する。

「けほっ!」

「ウ……ム?」

周囲一体の空気は、一瞬きの間に生物を昏睡させる霧と化した。
何も備えていない医療司書と警備官は、苦味を帯びた霧を吸い込み、一瞬で昏倒する。
一人、事態を読んでいたアレクサンデルは、重い荷物から手を放して疾駆。
武器が無く、呪文も使えないので、格闘でアルサラムを叩き伏せるつもりだった。
接近戦に持ち込む事が出来れば、次の呪文を詠唱させる事もない。
だが、アルサラムも戦闘職であり、身体能力強化の術を封じた腕輪まで身につけている。
顎を狙った拳の突き上げを避け、渾身の蹴りは腕で防ぎ、容易く倒されない。

496巡検司書アルサラム ◆FarahLxH6M:2015/03/23(月) 07:25:41 ID:gVL2TxMM0
「俺は眠りを齎す魔力の中でも眠らない。
 貴様は息を止めたまま、どれだけ動ける? 一分か? それとも二分か?」

アルサラムは精神活動を守る魔術具、護心の首飾りを身に着けていた。
生物を昏睡させる空気の中でも、彼の精神は正常を保つ。
対して、アレクサンデルの方は無呼吸で動かねばならない。
息を切らした瞬間に一呼吸で無力化してしまう……筈だった。

「……なぜ、まだ動ける?」

無言で繰り出される攻撃の連続。
経過時間は二分を越え、アルサラムの体捌きにも鈍さが現れ始めた。
さらに一分が経過し、防戦していれば充分と考えていたアルサラムも疑念を抱く。
無呼吸のまま、人間が三分も機敏に動けるものかと。

「魔術で心肺機能を強化……いや、違う。
 この空間で、貴様程度の魔術が三分も持続するわけはない」

鋭い攻撃は連続的に魔術師の急所を狙う。
アルサラムは両腕で十字の盾を作り、首筋への正拳突きをガードした。
が、アレクサンデルの一撃は防御を打ち砕く。
相手の腕の骨を折り、体勢を崩す所へ追い討ちを掛け、側頭部に容赦無く重い蹴りを放った。

「がふっ!」

衝撃で頭蓋を揺らし、アルサラムは唸声を上げて床に倒れる。
聖堂騎士の勝因は体術で勝っていた事もあるが、やはりミリアの施す力が大きい。
魅了も身体能力の増強効果も、革命のアイン・ソフ・オウルの理で保護され、消呪区域の影響を受けていない。
建物の消呪措置で魔力が失せてゆく原理や法則より、革命のアイン・ソフ・オウルの理が勝ったのだ。
世界をチェスに例えるのなら、彼らアイン・ソフ・オウルとは何に当たるのだろうか。
新しい動きを持つ駒として現れ、自らルールを付け加え、それを広め、いずれは盤の形すら変えてしまう異分子?

アレクサンデルは障害を排除したと見るや、傍で倒れるコーデファーを背中に担いで走り始めた。
昏睡の霧は発動瞬間こそ階全体を覆っていたものの、消呪区域の影響を受けて次第に効果範囲も狭まっている。
10m程を駆け抜けると、空気の質に違いを感じてアレクサンデルは荒い息を吐いた。
悲鳴を上げる肺も全力で動き出して、新鮮な空気を取り込む。
いかに心肺能力が強化されようと、人間の限界まで越えた訳ではないのだ。
三分近くも無呼吸で動けば、頭痛や嘔吐感に襲われるのも否めない。

「……ミリアが囚われているのは、奴らの来た方向だな。
 医療司書の指だけでも、扉を開けられると良いんだが」

一呼吸を吐けたアレクサンデルだが、回復するのはアルサラムの側も同じ。
彼が身に付けた護心の首飾りは、着用者が夢魔と戯れるのを拒むのだ。
標的を昏倒させると確信した聖堂騎士の蹴りも、意識を刈り取るには至っていない。

「クッ……甘い考えなど捨てるべきだった。
 限界を越えて動けるのは、魔女への盲目的な狂信……いや、肉体そのものを弄られていたのか」

アルサラムは顔に苦痛と苛立ちを浮かべ、右腕で頭を押さえながら体を起こす。
折れた左腕は、だらりと痛々しげに垂れ下がっていた。

「無理をするな、腕の骨が折れている筈だ」

「たかが片腕の骨を折ったくらいで、傀儡風情が良い気になるな」

「もはや、身振りが必要な魔術は使えないだろう」

「種切れの心配なら無用だ。
 そもそも、不法と妥協をするなどありえん」

497巡検司書アルサラム ◆FarahLxH6M:2015/03/23(月) 07:27:26 ID:gVL2TxMM0
魔術師はコートの内側から香炉風の金属容器を取り出すと床に置き、慣れた手つきで一枚の札を入れた。
刹那、金属器から薄い煙が立ち上り、それは瞬時に色と重さと実体を備える。
現れたのは、銀色の甲冑を纏う古代兵士の一団だ。
槍を持つ十人の兵団が前列に五人、後列に五人の隊伍を組んで廊下に陣取った。
古代の兵士を作り出した小さな金属容器は、虚霊炉という魔術具だ。
封入した絵を術者の魔力を介して実体化させる機能を持つ。
そして、入れられた札はクレド・マディラ、中央大陸で広く流行するカードゲームの一つ。

「使い魔か」

再戦か後退かの判断を迫られたアレクサンデルは、即座に再戦を選んだ。
魔術師からの逃走は難しく、両手両足をへし折るくらいしないと、自由には動けないだろう。

「マディラの槍兵隊、攻撃せよ」

アルサラムの命令を受け、魔力で具現した古代槍兵たちが長槍を構える。
蘇生術が広く普及した現代社会では、強硬手段の敷居も低い。
相手の逃走を許すくらいなら、人質ごと攻撃して、死んでしまったら蘇生措置を取れば良いとの決断だった。

「医者ごと……だとッ」

十本の槍が次々に前方へ投擲される。
アレクサンデルは常識の土台が宗教なので、人が死んでも蘇生させれば良いとまでは割り切れない。
だから、コーデファーを抱えたままの回避。
彼女に死なれたら、扉の認証も有効に機能するのか分からない懸念もあった。
投槍の投擲速度や威力は、術者の魔力を十体の使い魔に分散させた結果、低下している。
アレクサンデルも致命傷だけは避けられそうだと判断した。
全ての攻撃を躱し切ったら、コーデファーを捨てて近接戦闘に持ち込むのも可能だと。
しかし、十の槍は続く一撃への媒鳥。

「――――beandaz」

魔術師が起動呪語を発音した。
アレクサンデルの背後で、中空に鈍い煌めきが出現して凝り固まり、長大な鉄杭と化す。
鉄杭の正体は、起動呪語で実体化し、瞬時に敵へ打ち込まれ、攻撃後は再び非実体化する魔術具、魔槌だ。
本来は対人用の武器ではなく、大型魔獣用の兵器である。
屈強な男の腕ほどの太さを持つ鉄杭は、出現するや否や高速で風を切った。
前方からの攻撃に集中している聖堂騎士には躱せない。

異変を感じる間もなく、死の気配を孕む呻きが上がった。
魔槌はコーデファーごとアレクサンデルの背を突き破って、串刺しとする。
進入した硬質の異物は皮膚を裂き、肉と骨を突き破って、夥しい真紅の鮮血を床に散らせた。

498ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/04/08(水) 05:53:44 ID:aE19SoAU0
ヴェクスは苦い舌打ちをするものの、普段の明晰さまでは失わなかった。
エクレラの報告を聞くや否や、険しい顔のまま指示を返す。

「ミリアは厄災の種の保持者だ。
 恐らく、今二人に死なれたら蘇生は出来ない。
 手遅れにならないよう、サーナは三分以内に医者を検査室へ集めてくれ。
 特異病棟の外には僕らで運ぶ」

「何か……あったの」

通話の内容から異変を察し、ミリアは不安混じりの声で聞く。

「ああ、ファラーに腹をぶち抜かれて聖堂騎士とコトンが絶命寸前だ。
 君に可能なら、厄災の種で魂を奪う真似は止めてくれよ」

「アレクが絶命寸前!? 魂を奪うって……厄災の種が? 魔術じゃなくて?」

衝撃を受けたミリアは手錠の存在を忘れて立ち上がろうとするが、縛めに引き戻されて無様に体勢を崩す。

「知らないなら良い。
 心臓が止まっても、脳死するまでは死亡扱いじゃないと良いんだが」

一秒を惜しむヴェクスはミリアの疑問に答えず、室内から出てゆく。
ミリアが厄災の種を制御出来ないのなら、長話に興じてる暇など無いということだ。
目下、彼が優先すべきなのは、コーデファーとアレクサンデルの救命。
二人が死ねば、バニブルと他国の関係が微妙になる恐れもあった。
ヴェクスとしては外交官の上役から派遣された身なので、こういった失態を犯すのは避けたい。

「ちょっと待って! 良い訳ないだろ! 外せよ、手錠! アタシも連れてけッ!」

喉を振り絞る叫びに応えは無く、ミリアは室内に取り残された。
二重の金属扉と手錠があれば、拘束には事足りると判断されて。
実際、ヴェクスの見立て通り、ミリアは部屋を脱出する術を見出せなかった。
高い魔力を持ってはいても、発露する手段が限られている。
魅了は体液を媒介としなければならず、手錠で身振り手振りを封じられた身では魔術も使えない。

「クソッ、アレクが死ぬ? 厄災の種があると蘇生出来ないって? ふざけんな……!」

ミリアの悪態は誰にも聞かれることなく、壁に吸い込まれて消えた。
拘束を解こうと腕を打ち振っても、手錠はびくともしない。
腕力の強い種族にも対応できるよう、高張力鋼を材質としているので当然のことだ。
仮に魔術で筋力を強化したとしても、元の筋力が低いミリアでは外せるかどうか怪しい。
無駄を悟って動きを止めると、今度は耳に痛い程の静寂。
焦れた心が瞬時に冷やされ、不安も増幅されてゆく。

(さっきの口振りじゃ、体に穴が開くような大怪我……)
(此処の医者に任せて大丈夫なの……)

襲い来る不安の中、十日程前の光景が蘇った。
体に鉄骨が突き刺さって、瀕死に陥ったリンセルの姿が。

(リンシィ……)

心に刺さった棘が痛む。
ミリアはリンセルの治癒を試みたものの、焦りからか魔術も不首尾に終わっている。
以来、リンセルは生死の境を彷徨い続けて、昏睡したまま目覚めない。
自分が冷静に行動していれば、今頃リンセルは家族と過ごせていたかも知れないのに。
そして今また、同じような状況が巡って来たにも拘わらず、今度はこんな場所で待つことしか出来ない。

(あの時のアタシは無様に失敗して、今度は何も……出来ない! クソッ!)

499ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/04/08(水) 05:58:52 ID:aE19SoAU0
後、数分が経過すればアレクサンデルは死ぬのだろうか。
魅了の魔力に惑わされ、心を奪われ、最後には厄災の種で魂まで奪われて。

(これじゃ、アタシは本当に悪の魔女だ……どうして……こんなはずじゃなかったのに)
(さっきの魔術師、厄災の種が魂を奪うって言ってた)
(確か、セプテットでも星霊教団の術師が同じ話をしてた……)
(あれって厄災の種を利用した魔術じゃなくて、厄災の種そのものが魂を集めるってこと?)
(まさかリンシィが目覚めないのも、アタシの持ってる奴が魂を奪ったせいじゃ……)
(いや違う、リンシィは死んじゃいない)
(ああ……でも、アレクは死ぬ? アタシの所為で)

困惑した心には自責と恐怖と、己への呪いが吹き荒れていた。
祈るように閉じた瞳からは、涙が溢れる。

(どうしたらいいのか分かんないよ……誰か……父さん……)

何もしなければ良かったのだろうかとの考えが、頭を擡げた。
この世界に何かを求めようとせず、父親の後を追っていれば良かったのではないかと。
それ以上は思考が混濁して、何も考えられない。

「父さん……助けて……」

弱々しい声で救いを求めると、不意に室内の空気が変わった。
異変を感じて、ミリアも弾かれたように瞼を開く。
涙で滲んだ視界は、薄緑の光で彩られていた。
強い光ではなく、蛍のように熱を持たない柔らかい光だ。
ミリアが瞳を見開いて視線を下げると、全身に若草色の植物が纏わり付いていた。
ホログラフィーのように浮かび上がる光の蔓草が。

「な、何、これ?」

ミリアは光の蔓に触れてみようとするものの、水のような感触があるだけで掴めない。
不可思議な現象の正体は、依然として不明だ。
しかし、ミリアには助けを求める自分へ父親が応えたようにも思えた。
試しに腕を強く振ってみると、少し力を込めただけにも拘わらず、手錠で牽引されてベッドが動く。
しかも、手首に痛みは無い。
それなら……と思い立ち、ミリアはベッドに足を掛けると渾身の力で腕を引っ張った。
すると、今までベッドの鉄パイプとミリアの手首を固定していた手錠の鎖が、玩具のように弾け飛ぶ。
手首に残った手錠の輪も、指を差し込んで力を込めるとロック部分が壊れて床に落ちた。

「魔術も使ってないのに……これも厄災の種の力?」

奇異に思いながらもミリアは立ち上がり、入り口の扉を見つめる。
部屋を閉ざす扉は二重構造の金属製で、二枚の扉を左右に分けてスライドさせる引分タイプ。
開閉には認証コンソールを操作しなければならず、無理に開けるなら切削工具が必要な代物だ。
しかし、今のミリアに暗澹とした無力感は無い。
金属扉を破壊することも、以前は不首尾に終わった治癒魔術も、成し遂げられる気がしていた。

(今度は失敗しない……父さん、アタシに力を貸して)

「根源なる二つの力よ 我が望みしは強靭なる四肢 肉体に潜む力の開放。
 半ばを眠らせる五体を霊素で補い 己の内に潜みし力は目覚めん “力強き体躯”」

ミリアは右手の指で宙に印を描きつつ、身体能力強化《フィジカル・エンチャント》の魔術を詠唱。
手足に筋力の充足を感じると豹のように走り出して、助走の勢いを乗せた拳を扉に放つ。

「……ヅアァァァァッ!!」

渾身の一撃は、雷鳴のような凄まじい音を響かせた。

500ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/04/08(水) 06:03:15 ID:aE19SoAU0
殴打の感触は金属製のナックルダスターを嵌めて、空き缶を殴ったものが近いだろうか。
但し、ミリアの覆うものは金属の拳鍔ではなく、アイン・ソフ・オウルが持つ結界光。
さしもの頑丈な扉も人の力を遥かに超える干渉力までは阻めず、圧力で変形して中央付近を窪ませた。
ミリアはその凹みに両指を差し込むと、強引に扉を左右へ押し分ける。
続く外扉も力尽くで抉じ開けると、再度の疾駆。

(凄い血……これ、アレクとコーデファーの……?)

廊下に広がった血溜まりを見て怯み掛けるが、ミリアは足を止めない。
先程のヴェクスは、三分以内に治療を開始するよう指図していた。
ならば、もう殆ど猶予は無いはずだ。
病棟入り口の扉も病室の扉と同じように強引に抉じ開け、ミリアは検査室へと躍り込む。
扉の向こう側には十人近い姿があった。
バニブルの魔術師が三人と、警備官のウィムジー、妖精種の看護婦、白衣の医者が五人。
コーデファーとアレクサンデルは、吐血と出血で真っ赤に染まった診療台に寝かされている。
見ただけでは、二人に息があるかどうかの判断は付かない。

「アレクの治療はアタシがやる。邪魔するな」

ミリアは自分へ向けられる十の視線を睨み返し、アレクサンデルが寝かせられた診療台に近づく。
治療を始めようとする二人の医者は、困惑顔ながらも場所を空けた。
全身に光の蔓を纏う異様な雰囲気に気圧されただけでなく、魔術での治療補助を期待してだ。

「戯言を。
 他人の心を操るような魔女の好き勝手など、認められる訳が無いだろう」

アルサラムは即座に臨戦体勢を取ろうとするものの、ヴェクスが素早く腕を伸ばして遮った。
今のミリアに警戒心を抱いているのは彼とて変わらないが、重傷者の治癒を優先したいのだ。
特に体の小さなコーデファーは負傷の影響も甚大で、もう呼吸すら止まっている。

「待て、ファラー! 此処で戦えば二人とも死ぬ!
 まずは重傷者の治癒を優先してくれ。
 コトンの出血が酷い。君の魔力で補助しなければ一分と持たない。
 サーナに病棟を封鎖させるから、ミリアの捕縛は後にしてくれ!」

「駄目だ」

ヴェクスの要請は無碍に拒まれた。 
己の世界を持つアイン・ソフ・オウルには及ばないものの、アルサラムも強固な信念の持ち主。
彼は悪と認めた者には如何なる妥協もしないし、交渉にも応じない。
優先されるべきは断罪で、それは犠牲者が出たとしても為されねばならないとの思考だ。
アルサラムは得体の知れない光を纏うミリアを無力化すべく、同輩の腕を振り払い、魔槌の目測を合わせる。
対するミリアは、既に治癒魔術の詠唱を行っていた。

「根源なる二つの力よ 我が望みしは賦活の源 繁茂する緑の再生。
 傷つきしものは 霊素を埋め 骨肉を充填せよ “緩やかなる賦活”」

アレクサンデルの体内に投じられていた光《オウル》が、ミリアの魔術を切っ掛けに増幅される。
小さな若草色の光点は蔓草にも似た形状へと変化しつつ、植物の繁茂さながらに深い傷痕を埋め始めた。
続いて血も固まり始め、緩やかに肉体の修復が始まってゆく。

501巡検司書アルサラム ◆FarahLxH6M:2015/04/15(水) 05:10:57 ID:bJYOm/Ho0
ミリアが傷病者の治療を行うと嘯いても、アルサラムは攻撃を思い留まらない。
起動呪語を唱えるや、再び魔槌を三次元空間に実体化させた。

「beandaz」

長大な金属の杭は中空に現れた瞬間、銀色の稲妻と化して標的を襲撃する。
治療魔術に専心しているミリアでは、避けるべくもないような速度だ。
魔槌は犠牲者の肩口に突き刺さり、そのまま肉体を貫くかにも見えた――――が、鋭い杭は破砕する。
ミリアの体に纏わりつく光の蔓に触れた瞬間、杭の先端は炸裂して粉塵を撒き散らし、長大な柄も裂け割れていた。
無論、凶悪な魔術具を破壊したのは強固な防護結界である。
光の蔓という形で表象したアイン・ソフ・オウルの理が、免疫機構のように外界からの干渉を排撃したのだ。
この程度の魔術具では、条理を越える結界の力は破れず、ミリアも微動だにしていない。
しかし、室内には動揺が広がった。

「キャア!」

「く、糞野郎、何考えてやがる!」

アレクサンデルの隣で回復を見守る医者たちが、悲鳴や非難の声を上げて飛び退く。

「魔槌が砕ける程の防御、か。
 どうやら、一撃で終わるほど甘い相手ではなかったようだ。
 あれから目を離したのは、判断の誤りだったな」

周囲から向けられる冷たい眼差しなど物ともせず、魔術師は鉄の声で言った。
魔術具が破壊されるなど余りに異様な光景だったが、日頃から魔窟的な書庫を徘徊するアルサラムに驚きは無い。
物理攻撃を阻まれても、ミリアの行動を封じる別の手段を模索するまでだった。
昏睡したウィムジー、アレクサンデル、コーデファーの三者を運んだ使い魔、マディラの槍兵隊の具現は解除済み。
虚霊炉も再び使える状態だ。
魔力減衰帯の外ならば、特殊な能力を持つ使い魔でも再現させられるだろう。
ミリアが防御魔術で守っていても、呼気を必要とするのなら、大気を変質させる魔術も有効かもしれない。

「アルサラム、今は治療の邪魔をするのは賢明ではありません」

次なる攻撃の気配を感じてエクレラが説得したが、武闘派の魔術師は反論を返す。

「治療? あの女が本当に治療だけを行っていると思うのか?
 魔女から施術を受けた男が、そのままの姿で目覚める保障など何処にも無い。
 肉体を更に弄られ、より強力な尖兵に変貌しないとも限らないだろう。
 他者の心を操る者の言葉など、善意から出たものと受け取るべきではあるまい」

「罪無き、聖堂騎士やコトンが死んでもかい?」

ヴェクスが言葉を添えるが、結論は変わらない。
アルサラムは飽く迄もミリアを無力化するつもりだった。

「例え善人が不利益を蒙っても、悪人に利益を与えてはならない。
 甘い選択で一つの悪を野放しにすれば、百の害となって猖獗を極める。
 あの聖堂騎士とて、背教を強いられ続けるより、殉教する方が本望だろう」

余りにも自然な語調で話される言葉を聞き、エクレラもヴェクスも説得の不可能を悟った。
このままアルサラムの行動を止めるのに傾注すれば、コーデファーは確実に死ぬ。

「サーナ、もう議論している暇は無い」

ヴェクスはアルサラムの助力に見切りを付け、コーデファーの治療を促す。
彼の魔力を治療に使えない以上、次善の策として他の人物がコーデファーを治療するしかない。
治癒魔術と科学医療を同時には行うのは難しいので、まずは施術者と術式を選定する必要があった。
血管の縫合中に治癒魔術を掛ければ、切開した部位まで塞がれてしまう。
こういった医療事故を防ぐ為にも、最初に治癒の手段を魔術か医術かに統一しなければならないのだ。

502巡検司書アルサラム ◆FarahLxH6M:2015/04/15(水) 05:11:35 ID:bJYOm/Ho0
「では、ヴェクスが治癒石での治療を行い、魔力が尽きたら医師の治療に任せましょう」

エクレラの提案にヴェクスが頷く。

「それが妥当な所かな……魔術の即効性は科学医療の比ではないしね。
 ただ、此処まで酷い傷だと損傷した血管に臓器、骨、失われた血液、全て修復するのは無理だろう。
 僕の魔力が尽きたら後は頼むよ、ドクター」

治癒の魔力を持つ白い石を握り締め、ヴェクスは一人の医者に目を向けた。
魔術師ゆえに魔術の優位を信じ、彼らも同意するだろうと思って。
しかし、医師から同意の言葉は返って来ない。

「あのね、いくら魔術師だからって、先端医療を嘗めて見てもらっちゃ困るわ。
 あなたたちが悠長に話し込んでいる間に、もうメディ・ジェルで出血なんか止めちゃったわよ。
 AAT(Abdominal Aortic Tourniquet・腹部大動脈止血帯)を使おうとも思ったけど、此方の方が早いもの。
 このジェルはね、患部に塗れば血液が線維素を生成して、10秒も掛からずに止血しちゃうのよ。
 どう? 科学医療を見直したのなら、患者の治療も最後まで私たちに任せて欲しいのだけれど」

塗布用シリンジを持った黒髪の若い女医、アルテナ・ポレターナが顎を向けてコーデファーを指し示す。
鮮血の溢れる深い傷口は、彼女の言葉通りにゲル状の物質で塞がれていた。
ゲルは植物由来のポリマー成分を原料とし、身体組織に似た構造を形成して血液の凝固作用を高めるものだ。

「魔力を使わず即座に傷を塞ぐとは……驚いた。
 魔術師としては複雑な気持ちだが、どうやら君たちの技術を少々軽く見ていたようだ。
 此処は医療のエキスパートに任せるとしよう」

鮮やかな治療の手並みを見て感嘆し、ヴェクスは傷病者の施術をアルテナに譲った。
ラクサズのような科学技術を嫌う伝統的な魔術師と違って、この辺りの柔軟性は高い男だ。

「ええ、任せてちょうだい。
 それと迷惑だから、そっちの分からず屋が暴れないようにして」

アルテナは言った。
室内で魔術戦を始められてしまっては、患者の手術どころではない。
ヴェクスも要請に応じて、直ぐに同輩の魔術師へ注意を向ける。

「根源なる二つの力よ 我が望みしは夜の停滞――――」

一方、ミリアの抑止を最優先するアルサラムは、周囲の危惧する通りに魔術の詠唱を始めていた。
周辺一体の大気に麻痺成分を付与する術、昏睡の霧の呪文を。

「手術中、攻撃魔術、不許可」

妖精種の看護婦が動く。
ミリアの力を知らない医療従事者たちにとっては、手術を妨げるアルサラムの方が脅威だった。
アデライドは小柄な肉体で這うように突進し、魔術師の腹部目掛けて正拳突きを喰らわせようとする。

「邪魔をするなッ」

魔術師は詠唱を中断して蹴りを突き出し、突進を迎え撃った。
リーチの違いから拳は届かず、アデライドは顔面から足に突っ込む。
動きを止められたアデライドは足を掴もうとするが、アルサラムは直ぐに足を引き、そのまま足払いを掛ける。
戦闘技術を修めた彼と、頑健な種族とは言え看護婦に過ぎないアデライドでは、戦闘センスに雲泥の差があった。
両者が対等に戦える筈も無い……が、アデライドが盾役となった事で室内での格闘は止まる。
ヴェクスがコートの下に携行する蜂型の使い魔、数十匹の軍蜂をアルサラムに向けて放っていた。

「ファラー、お医者さんが手術中には暴れないで下さいってさ」

標的の死角から放たれた何匹もの蜂が、首筋や手首に取り付き、一斉に針を突き刺す。
注入された睡眠毒は、即座に意識から明晰さを奪って眩暈を引き起こし、アルサラムに膝を突かせた。

503名無しさん@避難中:2015/04/15(水) 22:01:41 ID:WD6jpzIA0
頑張れアルサラム巡検司書 善良な人々を誑かす魔女に負けるな

504Miryis stalemate ◆NHMho/TA8Q:2015/04/28(火) 03:40:28 ID:4SqGrx9.0
えっ、嘘……人が見てる……。
誰もいないと思って安心して一人エッチしてたら、実はずっと見られてましたみたいな……。

それはともかく、自己中ヒロイン兼ラスボスを打倒する道程は険しいかもね。
まず、原則として二次創作スレで世界設定の根幹を決める訳にはいかない。
なので、覚醒の具体的な原理や条件が分かるまでは、一般人がアイン・ソフ・オウルになる描写も出来ない。
これは迷った挙句、リンシィやライザをアイン・ソフ・オウルにしなかった理由でもある。
もちろんアルサラムも例外じゃないから、設定が明らかになるまでは彼もアイン・ソフ・オウルになれない。
……って感じだからね。

ま、最下級のアイン・ソフ・オウルなら、条件次第では倒せそうだけど……。

505ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/04/28(火) 03:41:41 ID:4SqGrx9.0
アイン・ソフ・オウルの力で増幅されたミリアの魔術は、何倍にも効力を増す。
若草色に輝く光が泡立つ血を肉に変え、血管を作り、臓器と繋げ、骨すらも癒合させた。
瞬く間にアレクサンデルの傷痕は埋められ、断裂した神経も肉の中で根のように伸びる。
肉体の再生に伴って呼気が緩やかとなり、ミリアも安堵の息を吐いた。

「これで大丈夫……だよね」

当面の難局を乗り切ると、現在に意識が向く。
魅了《エンスロール》の存在が露見して地区警察に伝わり、自らを捕縛する魔術師までが投入された現実に。
人の尊厳を脅かす精神操作の魔術は、社会通念上でも非常に忌み嫌われている。
治安行政が、それを行う自分の捕縛を諦めるとは思えなかった。
強引に此処を切り抜けたとしても、指名手配の身となるのは間違いない。

(此処で捕まったら警察の拘置所? それとも異能者用の拘禁設備?
どっちにしたって、捕まれば自由なんか無いに決まってる。
アタシは父さんの理想を叶える為に生きてるんだから、それが出来ないんじゃ生きてる意味も無い)

ミリアは顔を上げ、警戒すべき相手の様子を窺う。
アルサラムは強烈な睡魔で床に膝を付きながらも、瞳に熾火のような光を宿らせてミリアを睨んでいた。
視線は熱した針。怯みそうになる。無意識の後退り。

(この魔術師、確か……さっき何か呪文を唱えようとして、仲間に止められてたな)

ミリアはアルサラムの横に立つ魔術師へ目を移す。

(人死にを出したくなかっただけなら、あっちの魔術師もアタシの逮捕を諦めたって訳じゃないよね……)

この優男はと言えば、ミリアの予想に反して早々と捕縛の継続を諦めていた。
相手の力を魔術師としての眼で推し量り、光の防護が魔槌すら退けたのを見て。
強力な魔力を持たないせいか、ヴェクスは戦いの見切りが早く、勝てない相手とは戦わない。
それ故に監視の使い魔を残して退却し、さらなる人員と武装を用意すべきとの結論に達していた。
自分たちまで魅了される危険性も少なくない、との危機感を持っていたので尚更だ。

(部屋の隅の女は、服装が医者のものじゃない……あれも魔術師?)

部屋の隅には若い女、エクレラが立つ。
若いと言ってもミリアよりは年上だが――――彼女は胸元の首飾りを指で弄りつつ佇む。
視線は冷たい熱を帯び、ミリアの挙動を油断無く窺っていた。

(この場の魔術師は三人……まだ外に居るかも知れないけど)

警備官のウィムジーは魔術の眠りに墜ちたまま、ベッドの一つで横臥している。
彼に外傷は無く、ミリアも眠っているだけなのだろうと判断した。
その他の医師や看護婦たちは、重症に陥ったコーデファーの手術中だ。
無論、医学的な知識が全く無いミリアでは、手術の経過も患者の容態も分からない。

「そっちの医療司書は助かるの?
 アレクと同じくらいの怪我なら、いつ死んでもおかしくない筈だけど……」

ミリアはコーデファーの容態を案じて、やや不安げに問う。
やはり、自分が原因となって人が死ぬ事になれば、彼女とて後味は良くない。

「私だって必ず治すとまでは言い切れないけど、医者として全力を尽くすわ。
 それで、そっちの男性は? 大口叩いて術を掛けたんだから快方に向かってるんでしょうね」

手術危惧を操るアルテナは、患者の腹部に視線を落としたまま問い返す。
ミリアは振り返って聖堂騎士の顔色を確かめ、心裡にて先程の感覚を思い返した。

「……治したって手応えはあるよ。
 後は目覚めないなんて事が無いよう、祈るだけかな」

506ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/04/28(火) 03:44:54 ID:4SqGrx9.0
「それなら即刻、部屋から出て行きなさい。医者以外は全員。
 このまま部外者に居座られると、手術の邪魔だもの。
 怪我人なら、私たちが必要な処置をして病室へ移すから心配いらないわ」

「え……あ……うん」

ミリアは退去に同意するが、病院の医師たちを信用して良いかは迷った。
彼らが何処まで事情を把握しているかは分からないが、自分の存在は既に治安行政へ知られているのだ。
この状態を放置したままでは、逮捕される危険が残ってしまう。

(結局、アタシの力を知ってる奴は全員、口を塞ぐしかない……か)

事件を隠蔽しようとするなら、ミリアに思いつく手段は一つのみ。
魅了の力で関係者全ての心を捕らえ、自分が有利となるように動いてもらねばならない。
ミリアが対象の吟味を始めると、不穏な気配を感じたのだろう。
ヴェクスが己の肩にアルサラムの腕を掛けて立ち上がらせ、エクレラも外部へ通じる金属扉を開けた。
彼らは扉へ向かって緩やかな後退を始めつつ、ミリアに自首を促す。

「病人を気遣ってくれて有り難いね。
 それじゃ、次は此方の話にも同意を貰いたいな。
 君の行っている行為……魔術での魅了は国際条約違反なので、法を尊重して警察へ同行して欲しい。
 無論、君にも弁護士を付ける権利は保証されてるから、その点は安心して良いよ」

ヴェクスの台詞は本来ウィムジーが言うはずなのだが、警備官はまだ夢の中だ。

「嫌だね」

ミリアは強気に拒む。
絶対に安全なシェルターの中に居る気分であれば、ミリアとて強気になれるというものだ。
何しろ、今の彼女は鉄扉を素手で破り、魔術攻撃すら軽い振動にしか感じない程の結界で覆われている。
おそらくは、高位古代語呪文《エルダーエンシェント・スペル》でも無ければ、傷を与える事は難しいだろう……。

「その光は随分と強固な魔術防御のようだが、それも厄災の種の力かな?
 それとも、それがアイン・ソフ・オウル(無限光)?」

「さぁね……そんなこと、どうだって良いと思うけど」

「高い能力を持つ者こそ、社会秩序を守って欲しいなあ」

ヴェクスがアルサラムを肩で抱えると、ミリアも逃走の気配を感じて診療台を回り込みながら躙り寄る。
村内の医師の口を封じるより、外部から来た魔術師を逃がさないのが先決だった。

「生憎だけど、間違った社会が作った条約なんて従えないよ。
 そう……社会の方が間違ってて、父さんの方が正しい。
 だからアタシは父さんの遺志を受け継いで……この世界を変える」

「物理で?」

「とりあえずアンタを逃がさない為には、そうするよッ」

ヴェクスが背を向けて廊下に跳び出ると、ミリアも歩調を速めて廊下へ飛び出す。
対する逃走者は銀の指輪が嵌った左手を突き出し、防衛を意味する起動呪語を唱えた。

「difaac」

魔術具の効果はさして珍しいものではなく、透明な魔力障壁を張るものだ。
しかし、見えざる壁が追跡者の動きを鈍らせたのは僅か数秒。
ミリアが強引に突き進むと、宙に留まった魔力は瞬く間に若草色の光で侵食され、霧散してゆく。

「足止め? こんなもの!」

507ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/04/28(火) 03:48:14 ID:4SqGrx9.0
ミリアは体に粘りつくような魔力を突き破り、その勢いで蹈鞴を踏んだ。
慌てて体勢を立て直すと、追跡を再開すべく魔術師の背を視線で追う。
アルサラムを抱えたヴェクスは渡り廊下の窓を開け――――その瞬間、真っ白な気体が広がった。
突如の妖霧に阻まれ、ミリアも二人の姿を見失う。

(煙……霧……何、これ?)

霧の正体は、周辺数キロに渡って霧を広げる魔術具、幻霧筒。
先行したエクレラが逃走補助の煙幕として用いたものだ。
小さな筒から噴き出す濃霧は陽光を遮り、村の光景を一面の白に沈め始めた。

「またね、ミリア君」

ヴェクスの捨て台詞と共に、渡り廊下から人の気配が消える。
アルサラムを肩で抱えたまま、窓から飛び降りたのだ。
普通なら大怪我をしかねない愚行だが、彼らには魔術具での身体強化があった。
窓から飛び降りた魔術師は、霧を味方として全力で走り始める。
彼には霧を見通す透視の魔術具があり、抜かりなく移動経路も設定していたので、逃走に支障は無い。

「マズッ」

ミリアも慌てて窓に駆け寄るが、下を覗き込んでも影を追う事すら出来なかった。

(どうしよう……病院の方を先に片付け……いや、魔術師を追うのが先!)

僅かに逡巡するものの、ミリアはすぐさま迷いを捨てて窓の外へ身を躍らせた。
現在、追う者と追われる者の立場は逆転しているが、此処で相手を逃がせば、再び追われる立場に戻るのだ。
自分の力を知る者は外部へ逃す訳にいかない。
数瞬の浮遊感の後、ミリアは足の裏に固い感触を感じた。

「痛ッ……くない」

痛みの無い着地に安堵して周囲を見渡したが、四方は全て白い闇。
視界不良の霧に閉ざされた中では、闇雲に追っても追いつけないだろう。

(視界は五メートル以下……霧で何も見えないんじゃ、使えそうなの耳くらいか)

「根源なる二つの力よ 我が望みしは魚の息を聞く鋭き耳 音の波を捉える聴こえの器。
 聞こえざるものは 霊素を鳴らして 耳を澄ませ “共鳴りの調べ”」

ミリアは聴覚拡大の呪文を詠唱すると、精神を集中して異音の伝播に耳を澄ませた。

508装幀司書ヴェクス ◆xNodesigng:2015/05/05(火) 21:27:00 ID:dl3rE25Q0
白の帳は農地や牧草地を越え、ドイナカ村の中心部や周囲の森林地帯にまで広がっていた。
明らかに自然物ではない霧の発生に村内も騒つく。
水道管の破裂だ、花火だ、いや有毒ガスかも知れないと想像も逞しく、慌てて転ぶ者まで現れる始末だ。
体に粘りつくような濃霧の中、魔術師ヴェクスはアルサラムを担いだまま、音を殺して建物の裏へ回り込む。
霧など無いかのような素早い動きは、透視の瞳と名付けられた眼鏡の賜物だ。
無論、普通の眼鏡などではなく、流した魔力量に応じて着用者の視界を晴らす魔術具である。
今の彼が確保している視界は百メートル以上で、逃走にも不足は無い。

霧の中を走りつつ、ヴェクスはミリア自身が追って来るケースを想定していた。
強化魔術師の特性からして、追撃の際には視力や聴力を拡大する公算が大きい。
周辺一帯が濃霧に覆われているからといって、無策の逃走は避けるべきだった。

ならば、どうすべきか?
普通に考えるなら、遠距離移動には転送施設を使う。
だが、突如として村が霧に覆われた今、異変を理由に出国要請は通らないかも知れない。
警備官のウィムジーがいなければ、管理官の説得も時間が掛かりそうに思えた。
そして、此方が転送施設を使う可能性はミリアとて考える筈だ。
思考を巡らせたヴェクスは、芝生の上で佇む薔薇班《ロゼテッド・タビー》の猫の元に駆け寄り、短く命令する。

「建物の反対付近に回り込み、呪文詠唱を聞いたら転送施設へ向かえ。
 相手の視界に入らないよう、距離は常に三十メートル以上を保持。
 標的が来たら迎撃して足止めだ――――wake up Miss Elh?m」

起動呪語の直後、虎猫の体は瞬く間に膨れ上がって巨躯の豹となり、主人が命令した通りに疾駆を始める。
先程まで小さな猫であったものの正体は戦豹。第四種魔術具に当たる擬似生命体だ。
普段はただの猫にしか見えないが、起動呪語を唱えれば即座に豹の姿へと変貌する。
この使い魔を媒鳥(おとり)として使い、その間に村を離れるのだ。

「その前に……」

ヴェクスはタブレット端末で同輩の女魔術師に連絡を入れた。

「サーナ、静かに建物の裏手へ。
 対象は転送施設へ誘導を図ってみる
 ファラーは逃走用のレンタルカーに押し込んどくから、五分後に村を離れてくれ」

「アルサラムを起こさないのですか? 解毒の霊薬はあるでしょう」

「ファラーを起こしたら突っ込みそうだから、もう少しグッタリしてて貰うよ。
 おそらく、あの光の蔦は高位古代語呪文《エルダーエンシェント・スペル》じゃないと通らない。
 火力の高い奴を失うのは避けないと」

「……それで貴方は?」

「リンセル・ステンシィを保護する。
 相手さんは場数を踏んでなさそうだし、逃げた筈の相手が再び同じ場所へ戻って来るなんて思わなそうだ」

エクレラも意図を察した。
保護名目で昏睡の少女を拉致して、切り札にするのだろうと。
ミリアが快癒を望んでいた以上、リンセル・ステンシィに何がしかの価値を置いているのは間違いない。

「ファラー、そろそろミリアも動くだろうから、気取られないように頼むよ」

通信を切ると、ヴェクスは白いセダンの後部座席にアルサラムを押し込み、建物の裏口から病院へ入り直す。
そして、階段を登り、渡り廊下を進み、コーデファーの治療が行われている部屋に入って行く。
無論、此処では医者たちが忙しく手術を行っているのだが、彼は何の遠慮もせず手術中の医者へ話しかけた。

「……余り時間が無いし、そちらも忙しそうなので用件だけお話しする。
 リンセル・ステンシィとアレクサンデル・レシェティツキを保護したいので、引き渡して頂きたい。
 病室の解除コードはフラスネルから聞いてるが、一応、其方側にも伝えねばと思いましてね」

509装幀司書ヴェクス ◆xNodesigng:2015/05/05(火) 21:28:22 ID:dl3rE25Q0
「フラスネルさんが手術中なのは見えないの?」

ヴェクスに応答したのはアルテナ・ポレターナだ。
声音には微かな苛立ちが込められている。
医者が精密作業の最中に集中力を乱されれば、不機嫌になるのも致し方ないだろう。
或いは、病院側の権限を軽んじるような不躾さも、彼女の不機嫌に拍車を掛けているかも知れない。

「見えてはいるが、一刻の猶予も無いので許して欲しいね。
 何せ、さっきの光る蔦を纏わせた女、ミリアが戻って来れば全てはお仕舞いだ。
 彼女は自身の体液を触媒に使う、魅了使いの魔術師なんだよ。
 リンセルとアレクサンデルの二人も、彼女の魔力で洗脳を受けている。
 ミリアが戻れば、貴方がただって精神操作の口封じを受ける可能性が高い。
 何か対策を取らねばならないだろう」

そう言いながらヴェクスは眠る老警備官に歩み寄り、懐から取り出した小瓶を傾けて透明な雫を垂らす。
この透き通った液体も魔術の産物で、解毒の霊力を秘めた秘薬だ。
摂取した事で、ウィムジーの体内に残る麻痺成分は数分で抜けるだろう。

「魅了の魔術? それは厄介な相手だけど……。
 この病院だって信頼して貰って治療を任されたのだから、おいそれと患者を放り出すなんて出来ないわ。
 患者を転院させるには、主治医に病院長、それに家族の許可だって必要よ」

「残念だが、可哀想なリンセルちゃんの家族は魅了使いの手に落ちたようだ。
 主治医は見ての通り、瀕死の重傷。
 地区警察の臨時職員としては、国で保護を行うのが妥当だと思うね。
 詳しい話は、サンプティア警備官が起きたらって事になるが……後、三分って所か」

「ルーラルダで保護するの?」

アルテナは血管を縫合しながら聞いた。
この村の正確な所在地は、ドイナカ村デンエーヌ地区ローカルナ州ルーラルダ連邦となる。
国で保護と聞いて普通に連想するのは、当然ながらルーラルダ連邦だ。
しかし、ヴェクスは主権の所在については明言しない。

「最優先は安全確保が出切る所だ。
 それと、この場に居合わせた医師も直ぐに身を隠してもらいたい。
 僕たちや警備官、医療司書と同じく、君たちが標的になるのも間違いないだろうからね。
 此処の防衛能力では、厄災の種を持つ魔術師から患者を守り切れるとは思えない。
 色々な許可に関しては、緊急避難を終えてからの事後承諾にしてもらおう。
 それとも、まさか沈む船から逃げ出す時まで誰かの許可がいるのかい」

「……切迫した状況なのは分かったけど、フラスネルさんの治療は中断出来ないわ」

「救急車両で手術を行う事は?」

「山間の集落へ行く時に備えて最低限の設備はあるから、出来なくはないけど……」

「では、そうして貰いたい。
 標的と成り得る人物は、早急に安全な場所へ移らなければいけないからね。
 さっきの女はいつ戻って来るか分からないが、甘く見積もって十分って所だろう。
 ああ、そっちの中年男は暴れかねないから、寝ている間に拘束した方が良い」

「看護婦、ストレッチャーを用意して! 止血処置をしてフラスネルさんを移すわ!」

医師の指示で看護婦が搬送器具を用意するのを横目に見ながら、ヴェクスは特異病棟へ足を向けた。
使い魔が媒鳥役を果たすように祈りつつ、リンセル・ステンシィの病室へ。

510装幀司書ヴェクス ◆xNodesigng:2015/05/14(木) 23:35:29 ID:BOZaQZbQ0
ふと、ヴェクスは微かな懸念を抱いた。
先程の自分は、起動呪語を正確に発音出来ていたのだろうか……と。

起動呪語は魔術具を発動させる際のキーワードである。
従って、通常の呪文詠唱と同じく、例え一音節でも誤字や脱字、言い間違いがあれば、正常な発動はしない。
普通の会話と違って、魔術に関係する言語は常に正確な発音を為されなくてはならないのだ。
機械のパスワード同様、環境依存文字が表示されなかった等という弁解も通じない。
そして、彼の発音に関する懸念は現実である。
一音だけ起動呪語に不明瞭な箇所があって、設定したエルハームとは発音されていないのだ。
そして、既に使い魔が彼の言葉を聞けない位置まで離れた以上、起動呪語の訂正も不可能である。
運命の女神はダイスの振り直しを認めない。

――――wake up Miss Elhām(目覚めよ、閃光嬢)。
――――wake up Miss Elhaam。
――――wake up Miss Elha-m

心裡にて起動呪語を繰り返すこと三度。
これらを発音できていれば、ヴェクスが期待する通りの完全な機能も得られただろう。
しかし、繰り返すが呪文は一文字のミスであろうと許されない。
一見すれば正常に起動したかに見えても、言霊を過てば相応の報いを受ける。
リンセルの治癒に際して、ミリアが呪文の欠字で望む結果を得られなかったように。

「此処か、リンセルの部屋は」

ヴェクスは扉の前で立ち止まると、急いで認証コードを入力した。
内部は医療器材が青い光を灯らせるだけで仄暗い。
部屋の奥には一人の少女――――リンセル・ステンシィが診療台で横たわっていた。
着ているのは、胸元にフリルがあしらわれたローズレッドのパジャマだ。
細い手足には電極が装着されていて、心電図までコードが伸びている。
長かった栗色の髪はバッサリと切り落とされており、今は三つ編みを編めない程に短い。
検査の邪魔とばかりに、コーデファーが短く切ってしまったのである。

「さ、僕と来てもらおう」

リンセルは手早くコード類を外され、魔術師の背に移された。

511enchanter ◆xNodesigng:2015/05/14(木) 23:42:02 ID:BOZaQZbQ0
◆ルーラルダ連邦
国名:ルーラルダ連邦
位置:中央大陸のやや西寄りの地域
言語:共通語
首都:フールサット
体制:連邦制、直接民主制
行政:二十の州で構成された連邦政府
主席:大統領
面積:約4万km2
人口:約700万
気候:四季があり、起伏にも富んでいて、地域毎の気候はかなり異なる
地形:丘陵や山岳が多い
主食:パン、ジャガイモ
産業:観光業、酪農が中心
交易:中立外交が中心
通貨:大陸西域で広く普及するR$(リ・ドル)、R¢(リ・セント)の他、周辺国家の通貨も使用可能
信仰:星霊教団、三主教など
歴史:幾つかの州が自治を守る為に盟約を結んだ国家連合として始まり、後に連邦国家へ移行
備考:州毎の自治権は強い。ドイナカ村はローカルナ州デンエーヌ地区に属する

◆魔術具
魔術具とは魔力を封じた道具で、主に付与魔術師が作成する
魔道具、魔導具、魔法具、術具など呼称には微妙な差異がある。
司祭や神が作ったものは祭器や神具とも呼ばれたりするが、本質的には余り違いも無い。
猶、付与魔術師の人口比率は伝統希少工芸の職人と同じか、それ以下で、一州単位で一人二人なのはザラ。
これは神秘を保つ為、魔術師たちが徒弟制度に近い方式でしか魔術の伝承をしない事による。

◆魔術具の区分
・第一種魔術具……特定の機能が常時発動している道具
・第二種魔術具……所持者が魔力を流すと、機能が発動する道具
・第三種魔術具……設定した起動呪語(キーワード)で、機能が発動する道具
・第四種魔術具……擬似生命体(使い魔や知性を持つ魔剣など)
・特殊魔術具………それ以外の魔術具

◆起動呪語
魔術具の起動、機能変更、停止など、操作を行う際のキーワード。
一語でも過てば十全の機能を発揮しない……どころか逆に作用する場合すら有り、ミスは厳禁。
第一種や第四種の魔術具でも、起動呪語で機能が変化する品も作成可能。
一個の魔術具に複数の機能を持たせるのは、製作者に高い技量が必要となる。

512ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/05/15(金) 00:11:37 ID:rh73CTdk0
霧の中で耳を澄ませるミリアは、幾つかの音を捉えた。
弱い風と揺れる草、虫の鳴き声、開いた窓からは何人かが話す声。
最もミリアの注意を惹いたのは、スプリンター並の速度で遠ざかってゆく足音だ。

(遠ざかる重い音……砂利道を蹴るような足音が四つ……速い。
 さっきの魔術師の男と女……二人組が村の方に走って行く? 人混みに紛れて逃げるつもり?)

「……逃がすかッ」

ミリアは濃霧を突き破って砂利道へ飛び出ると、路面を駆けて足音の主を追う。
戦豹の走力は最高で時速100kmにも達し、恐怖心を持たず、視界不良の中を全力で走れる。
たとえミリアの身体能力が四倍に強化されようと、追いつけない筈だった。

しかし、運命は非情。
幸運の女神は豹の使い魔に微笑まず、代わって憐れみの涙を流した。
不完全な起動呪語で動く戦豹の動きは、主人の想定より遥かに鈍かったのだ。
胸が光の蔦で抑えられて揺れず、さして走力が落ちない事もミリアに利した。

(あの影、人間のものじゃ……ない?)

霧に映る影は人型のシルエットではなく、明らかに獣のものである。

「豹ッ?」

追走を続けて五メートル圏内まで接近すると、ミリアも影の正体に気付いて戦慄した。
強靭でしなやかな肉体を持ち、全身に黒斑を散らせた黄色の毛並み――――この地域に存在する筈も無い豹だ。
捕捉された戦豹は即座に体を反転した。
迎撃体勢を取り、ミリアに飛び掛かって首筋へ牙を突き立てようとする。

「フッ……ぁうッ」

疾走していたミリアは、急停止できない。
相手が人間なら、恐れ無く反撃したかもしれないが、相手は豹である。
獣の姿形は本能的な恐怖を与えて、ミリアの顔を反射的に背けさせた。
これでは、軌道を変えての回避も不可能。

「……ぅ、あ」

心臓を氷の手で握られるような衝突の一瞬。
本来ならば、ミリアは一撃で首を噛み千切られる筈だった。
しかし、足を止めるミリアが見たのは己の死ではなく、光の蔦越しに獅噛みつく獣の姿。
大型の獣に圧し掛かられたにも拘わらず、猫に抱きつかれる程の感触すら感じない。

「ひ、い、いやっ!」

息が触れる程の距離で肉食獣の顔を見て、ミリアは錯乱したまま左手の拳を振り回す。
それが戦豹の最期。獣の牙は届かなかった。
媒鳥を命じられた使い魔は頭部を粉砕され、人造の血と骨と肉を無残に散らせる。
砂利道はドス黒い血で濡れて、霧の中にも錆臭い香りが立ち込めた。
ミリアの左腕に絡んだ光の蔦も鮮血を浴び、血斑の間に変色した黄色い微光を覗かせている。

「えっ、うっ、嘘……死んじゃったの……。
 ど、どっかの飼い猫……じゃないよね、これ……。
 でも、猫にしては大き過ぎるし……やっぱり豹?」

呆然と使い魔の死骸を見つめるミリア。
だが、錯乱した心も時間が経過するに連れて平静な状態へ戻ってゆく。

「じゃ、じゃない……よく考えろ、アタシ。
 こんな村で豹なんかに遭う訳ないし、あいつらの使い魔に決まってる」

513ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/05/15(金) 00:19:55 ID:rh73CTdk0
ミリアは獣形の残骸に目を落とした。

(使い魔に足止めさせて、逃げる時間を稼ぐつもりだったって事だよね。
 でも、アタシを足止めした後は?
 村で車を調達するか、転送機を使うかして地区警察に向かう?
 そうだ、村に向かう理由は転送機……空間跳躍で手の届かない所に逃げるつもりだ)

しかし、この仮定には違和感を覚える。
なぜ、使い魔は村の方へ逃げようとしたのか?
ミリアの追走を許せば、村まで導いてしまったかも知れないのに。

(単に逃げただけ? いや、使い魔が命惜しさに逃げるなんて無いはず。
 って事は、村の方へ向かおうとしたのは、本当の逃走ルートからアタシの目を逸らす為?
 でも、それじゃあアイツらは何処へ逃げる? 山? 森? それとも裏を掻いてやっぱり村?)

そもそも、相手の狙いは本当に転送施設なのだろうか。
ミリアも其処を疑い、車での逃走説に焦点を当ててみる。
霧で視界を塞いだとは言え、人を抱えながらの長距離移動は困難だ。
移動手段として、車を使う可能性は少なくないと思えた。
付近で車を調達できそうなのは村か病院だが、病院付近でエンジン音がしていたらミリアも真っ先に狙う。
ならば、車の用意が出来るのは村しかない筈だ。
魔術師の目的地は、やはり村なのか?

……だが、豹が村の方へ向かった事は腑に落ちない。
では、とミリアは考えを変え、村以外の場所で車に乗るならどうすれば良いかと考えた。

(アタシに悟られないよう車を動かすには……音を消す……騒音を増やす……後は……アタシの方を遠ざける?)

「そうだ、豹の目的は足止めじゃなくて、アタシを病院から引き離す事ッ!」

穴は多いが、使い魔の起動呪語が完璧なら至らなかった結論だ。
ミリアをミスリードしようというヴェクスの目論みは、脆くも崩れた。

(病院の方に……聴覚を集中……)

強化された聴覚は、調節すれば数百メートル先の音すら捉える。
研ぎ澄まされた耳に一際大きく聴こえるのは、期待通りのエンジン音。
コーデファーを乗せる用意をすべく、駐車場の救急車が駆動したのだ。
村に向かって駆けていれば聞き逃したであろう音を捉え、ミリアの口角が吊り上がって歪む。
濡れた腕を激しく振って多量の返り血を落とすと、ミリアは風の速さで砂利道を引き返した。

病院の駐車場では、車内設備を起動させる為に救急車のエンジンが掛かったばかりだ。
その音を目印としてミリアは一直線に近付き、車の影が見えると勢いを殺しつつ突っ込む。

「み……魅了使い!?」

窓へ張り付く女を見て、運転席に座っている男は驚きの声を上げた。
光の蔦を纏い、さらには血飛沫で汚れた女が霧の中から現れれば、声の一つも上げたくなるだろう。
彼の口から漏れる言葉から、能力の露見をミリアも悟った。
躊躇い無く、血飛沫を落としきれていない腕で車の扉を開け、運転席の人物を引き摺り出す。
ミリアが掴んだのは人間族のようで、年齢は三十程、小太りで茶色い髪の男だ。

「魔術師も警備官もいない……。
 アンタ、さっきの部屋にいた医者だよね?」

ミリアは相手の胸倉を掴んだまま、軽く凄んだ。
魔力の正体を知る男は、怯えたように顔を背けて逃れようとする。

「た、た、助けふェ」

514ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/05/15(金) 00:24:49 ID:rh73CTdk0
掠れた懇願に耳を貸さず、ミリアは苛立ちを込めて男の顎を掴んだ。
そのまま、厚ぼったい唇の間に親指を差し込む。

「悪いけどさ、余計な遣り取りしてる暇とか無いんだよ。
 うざい抵抗するなら、アンタの顎を砕いて、両手両足へし折るだけだから」

恫喝のせいか、すんなりと男の唇は抉じ開けられた。
ミリアは強引に相手を引き寄ると、唾液を溜めた舌を押し入れる。
暴力で言う事を聞かせるより、欺かれない魅了の方が信頼できたから。

「んぁ、む」

「ふ……ぅ、はぁ……」

吐息と濡れた音。
常人に過ぎない男性医師が結界を越えられたのは、ミリアが受け入れる意志を示したからだ。
舌が絡み合い続けると、次第に男の目も陶酔を帯びた虚ろなものへ変わってゆく。
やがて、向こうの方から舌を動かし始め、無骨な手が胸の膨らみに伸びて来た。
ミリアも男の心を捕らえたと確信して、柔らかな唇を離す。
無意味な報酬を与えるつもりは無い。

「で、魔術師や警備官は何処?」

「え……あ……はい……魔術師の一人なら戻ってきて、特異病棟に入って行きました。
 そ、そう、なんかチャラ男っぽい方の男。
 リンセル・ステンシィを保護するって……。
 怪我した男と小さい子も、あなたが離れてる隙に救急車へ移せって言ってまして、それで僕が車の用意を。
 もうすぐ、怪我人の二人を連れて皆も来るんじゃないかな……。
 その他の魔術師は、戻って来なかったので分かりません。
 警備官は僕が部屋を出た時は、まだ寝てましたけど」

「つまり、リンシィとアレクを確保した上で逃げ出すつもりだった訳か。
 人質にでもしようって事? させないけど」

此処で選択肢が分かれる。
居所の分からないアルサラムとエクレラを探すのか、病院内のヴェクスとウィムジーを追うのか。

(確実に居所の分かる奴を魅了して、そいつを動かすのがベストだね。
 アレクとコーデファーを救急車に乗せるつもりなら、こいつにも動いてもらうか)

ミリアは即座に決断を下すと、男に目を向けた。

「アンタは、このまま何事も無かったように動いてて。
 状況が落ち着いたら、バレないようにアレクサンデル・レシェティツキと相談すれば良いから」

「あっ、僕、ヨードル・アークジーン」

男は名乗ったが、ミリアに名前を覚える気は無く、指示を出し終わると即座に駆け出す。
途中、口の中に残る他人の唾液も不快げに吐き捨てられた。

515ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/05/15(金) 00:33:46 ID:rh73CTdk0
ストレッチャーで患者を運ぶ医師団は、エレベーターで移動している。
従って、階段を駆け上がるミリアは彼らと擦れ違わずに検査室へ辿り付いた。
蹴り破った扉の先には、少女を背負う魔術師の姿。
傍らには魔術の眠りから目覚めたウィムジーが立っていて、その他に人影は無い。

「裏を掻こうとしたみたいだけど、残念だったね。
 リンシィは返してもらうよ。二人とも逃がさない」

少年のような髪型となったリンセルが視界に入ると、ミリアの瞳に険しい光が宿った。
全身を覆う光の蔦も一際、妖しげな輝きを増す。

「ヴェクスとか言ったっけ?
 もしリンシィを傷つけたら、アンタを殺すから。
 さっきの話通り、厄災の種が魂を吸うものだったら、蘇生できないんじゃない?」

ミリアが目を据えて歩き出すと、ウィムジーが動く。
彼は盾のように立ち塞がって、拳銃を構えた。
リンセルを背負ったままでは、ヴェクスが動けないと踏んだのだ。

「止まれッ」

警備官は制止を命じた。

「銃? 撃ちたきゃ撃てば?」

ミリアは冷ややかな声を漏らす。
ウィムジーが今までに出合った、どの魔術師や犯罪者も持たない圧迫感を伴って。
警告でも歩みが止まらないのを見て、警備官は床を狙って引き金を引く。
乾いた発砲音が鳴るが、今さら威嚇射撃で止まるミリアではない。

「人なんざ、撃ちたかないんだが――――」

ウィムジーは照準をミリアの足に変えて、二度目の弾丸を放った。
しかし、確かに命中した筈の弾丸はミリアを傷つける事なく、推進力を奪われて床へ落ちた。
警備官が狙った部位は蔦の無い部分だったのだが、防護結界は蔦自体を物理的な障壁としている訳ではない。
光の蔦は別世界の理が具現しているものであって、結界の防護範囲は全身に及んでいる。
アイン・ソフ・オウルの結界で守られた者は、この世界にありながら、別の世界に存在すると言っても良いのだ。
それ故、世界へ干渉する力でなければ、どう足掻いても働き掛けられない。

「――――面妖な、これだから魔術ってのは好かん!」

「どきなよ、ウィムジーさん。
 今のアタシに殴られたら、きっと死ぬから」

ミリアは低い声で言うと、片手を伸ばして警備官の腕を掴む。
さして力を込められたようには見えないものの、ごきりと嫌な音がして、掴んだ腕は半ばから垂れ下がった。
拳銃が取り落とされ、ウィムジーも呻きを上げて蹲る。
体を張って盾となった警備官が崩れ落ちると、双眸は再び黒髪の魔術師を映した。

「アンタの魔術も通らないよ」

ひたと視線を据えたまま、ミリアは老警備官を横切ってヴェクスに近付く。
発散される精神的な圧力は、項の毛を逆立たせ、肌に粟を生じさせ、心まで塗り潰す程に重い。

516装幀司書ヴェクス ◆xNodesigng:2015/05/24(日) 18:13:50 ID:6Ue6X/RM0
ミリアは警備官の腕を生木の枝のように折ると、ヴェクスの方へ近付く。
視線は敵意が篭もったもので、体を覆う光の蔦は悪夢が具現したかのように妖しい。
その異様さはヴェクスとて重圧を感じる程のものだが、彼は顔を引き攣らせつつも笑みを浮かべた。

「……お年寄りは大切にしようよ」

「今は年寄りの心配より、リンシィを気にすべきだと思うね。
 もしリンシィに傷を付けたらアンタを殺す。脅しじゃない」

感情を抑えた低い声音。
しかし、獅子の咆哮にも匹敵する威圧。
ミリアの全身を覆う蔓も、内面の怒気に反応したのか無音のまま蠢く。

「リンシィ! それ、可愛い愛称だよね!
 僕もリンシィって呼んで良い?」

「無駄口叩いてないで、アタシのリンシィを返しな」

ミリアが進む分だけ、魔術師は後退した。
強固な防護結界を纏った女に対して、彼が打てる手は極めて少ない。

「しかし、エルハームも頑張ってくれると思ったんだが、少しばかり見通しが甘かったか。
 アレ、オリンピック優勝選手に速度倍化の術を掛けても、追いつけない性能だったんだけどな。
 君が予想外に速かったのか、使い魔が予想外に遅かったのか……。
 いずれにしても、信頼と実績のイヴンスディールの家名には傷を付けてしまったようだ」

「エルハームってのは豹の事? あれなら一撃で殴り殺したよ」

苛立ち、吐き捨てるようなミリアの言葉。
それを聞き、ヴェクスは皮肉げな笑みのまま、戯けた口調で迎える。

「淑やかさに欠けるのは良くないな。
 豹を殴り殺す女の子ってのは、ちょっとワイルド過ぎる」

「アンタの好みなんか、知った事じゃない。
 知った事じゃないけどね、これから嫌でもアタシの事は好きになってもらうよ」

ミリアが唇を舌で濡らす。
今までに何度か行ってきた、魅了の準備だ。

「ワァオ、何とも情熱的な告白」

「時間が無いからさ、無駄な抵抗はしないでね」

「いや、そうもいかない――――」

ヴェクスは背中の少女を素早く前に回して抱きかかえると、その細い首筋にナイフの先端を押し当てた。
続いて、刃のように尖った声音を発する。

「――――こう見えてシャイなんでね。
 少し、心の準備をさせて欲しい」

517装幀司書ヴェクス ◆xNodesigng:2015/05/24(日) 18:19:21 ID:6Ue6X/RM0
「うゥヌッ……オイ、そりゃいかんぞ!」

ウィムジーが己の激痛も忘れて叫ぶ。
リンセルを殺せば拙いというのは、誰かに言われるまでもなくヴェクスも理解していた。
だが、手元の少女は現状で使えそうな唯一のカードだ。
まずは、札の価値を確かめなければならない。

「治安行政側の人間が取るべき手段ではないのは分かっているが、此方も脅しじゃない。
 倫理観に関しては、本職ほど高くもないんでね。
 自分の心を誰かの手に委ねるくらいなら、刺し違えてでもって感じかな」

途端、室内の大型医療機器が振動音を立て始める。
ミリアの怒りが膨れ上がる魔力の波動として現れ、周囲の空気を震わせたのだ。

「もし、リンシィに傷を付けたら……殺してやる。
 アンタを殺すのなんか、三秒だもいらない。
 ご自慢の使い魔と同じように、一撃で頭を叩き潰してやる」

凄むミリアを他所に、ヴェクスは心中で見えざる笑みを浮かべ、聞こえざる笑い声を上げた。
どうやら、手持ちの札での勝負は可能らしい。

「それは有り難い。
 一撃で叩き潰されれば、痛みも感じないだろうからね。
 しかしだ、僕がこの子の首にナイフを刺すのだって三秒いらない。
 僕を殺した後、君は致命傷を受けたリンセルを確実に治癒出来るのかな?」

「リンシィを……道連れにでもするつもり?」

「そうならないことを願ってるよ。
 ただ、僕は恋の奴隷に為るつもりは無いとだけ言っておこう。
 後腐れの無い恋人だったら、いくらでも欲しいんだけどね」

ヴェクスの優先度は自分の命、自分の精神、ラクサズ、バニブル、同門の魔術師、警備官、リンセルの順だ。
人質を殺して、自分まで殺されるつもりは無かった。
魅了されても回復の可能性が残る精神より、不可逆の生命の方が優先度も高い。
しかし、それを表に出してしまっては交渉にならない。
だから、余裕ある態度と表情。
ミリアも宣言が本気かブラフか分からず、焦り、迷う。

「リンシィを無傷で置いてくなら……アンタは……見逃してもいい」

ミリアは口惜しげな表情で妥協を口にしたが、交渉相手は譲歩を見せない。
むしろ、弱みを衝いて更なる好条件を引き出せると思っただけだ。
手札が良ければ、賭け金は吊り上げるのみ。

「それを信じるのが難しい事くらいは分かるよね?
 君の人格は置いとくとしても、立場を考えれば敵対者は口を封じた上で利用したい筈だ。
 室内から出た途端、背後から襲い掛からないとの保証も無い。
 ミリア君が大人しく捕まってくれるのが、ベストだと思うけど……どうかな」

518ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/05/27(水) 06:03:19 ID:QOY/h.gM0
突きつけられたのは、ミリアにとって飲めない要求。
だが、リンセルの身を考えれば拒む事も出来ない要求。
背反のジレンマで思考は固まり、逡巡で悪戯に時間が過ぎてゆく。
やがて、室内スピーカーから女性のアナウンスが流れ始めた。

「――――院内の皆様方、先ほど病院内で起きたトラブルを鑑みて、緊急の非常放送をさせて頂きます。
 本日、魔術で不法行為を行う人物を拘束すべく、村の警備官が出動いたしました。
 ですが、容疑者女性は激しく抵抗し、現在警備官の手を逃れて病棟付近を徘徊しているようです。
 容疑者の特徴は十代後半、黒い瞳で灰色の髪、体にホログラム状の植物が浮かび上がっている可能性も有り。
 鉄の扉を素手で壊せる程に肉体を強化していて、自分の体液を摂取させて対象を魅了する能力も持っています。
 医師や患者の皆様は充分に気を付け、目撃された場合は速やかにメール等で地区警察へ連絡して下さい。
 猶、外の霧は有害なものではないので、ご心配されませんように」

聞こえたのは、アルテナ・ポレターナの声。
病院の医師たちも、ただ己の身を守ろうと逃げるだけではない。
同僚や患者たちにミリアの脅威を周知させようと、事務室から危険の告知を行ったのだ。

「さっきの……女医?」

ミリアの顔が動揺で青褪める。
秘密裏に行動したい彼女にとって、情報の拡散は最も恐れるべき事態だ。
何しろ、魅了は性質を知る者ほど危険視する力。
事態を隠蔽しようにも、院内の通信機器、患者や医師の携帯端末、それら全てを即座に止めるのは不可能だ。

「僕らは、誰が魅了されているか分からないから情報を漏らさない方が良いと判断した。
 だが、病院側の判断は違ったようだ――――」

ヴェクスの答えを聞き、ミリアはギリッと音を立てて歯軋りする。
一人ずつ口止めする労力と、情報の拡散、どちらが速いかなど言うまでも無い。
睨むミリアにヴェクスは言葉を続ける。

「――――で、どうする?
 僕としては、増援が来るまで特異病棟の空室にでも篭もってて貰いたいんだけどね。
 君が扉を破れるのは分かってても、他に適切な場所が無い」

要求が伝えられた。
但し、デンエーヌの地区警察でミリアに対応可能かは疑問が残る。
だからこそ、其処に他の組織が力を捻じ込む余地も生まれて来るというものだが。

「……拒めば?」

「此方は退かない。
 何度も同じ事を言わせないで欲しいね」

ヴェクスは緩やかに動き、進路を開けた。
そして、決意を促すようにナイフの腹で人質の顎を押し上げる。
柄の螺鈿細工が美しく、装飾用にも見えるが、ヴェクスのナイフは切れ味を鋭す術が掛けられた逸品だ。
抵抗できないリンセルを切り裂くなど、実に容易い事だろう。

「魔術師、いかん!」

ウィムジーが必死の形相で立ち上がるが、ヴェクスの方針は変わらない。
リンセルの首筋には、鋭利な刃が当てられたままだ。

「警備官殿、現状でミリア君の暴挙を止められるのは、リンセル・ステンシィだけです。
 ミリア君は鉄の扉や使い魔を破壊する力を持ち、銃も魔術具も効かず、魔術師ですら捕らえられない。
 此処でこの少女を手放してしまえば、我々は二人とも魅了の魔力に囚われ、彼女の尖兵となってしまう」

「言い分は分かるさ。
 だがな、一般市民の安全が最優先だ。
 あんたとミリアさんは切った張ったの覚悟だってあんだろう。無いとは言わせん。
 だが、その子は他人の身勝手な都合で、何の謂われもなく生きる権利を奪われんだぞ。
 そんなこと、あって良いはずがねェだろう!」

519ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/05/27(水) 06:05:04 ID:QOY/h.gM0
リンセルを抱えた男は警備官の言葉に頷く。
彼も警備官の主張は尤もだとは思うのだが、状況を有利に進めるにはリンセルを使うしかない。
もはや、不意を突いてミリアから逃げる事など、全くの不可能なのだから。

「……だそうだ、耳が痛くないかい? ミリア君。
 魔力で利用されて、糞のような駆け引きの道具に使われて。
 最後には何も分からないまま殺されるる少女……うん、実に悲劇だ。
 しかし、君は悲劇を避ける決定権を持つ」

魔術師は交渉相手に囁く。
父親の理想とリンセル・ステンシィの命を天秤に掛けよ、と。

「よ、よくもそんなふざけた事……クソ、クソッ!」

三主は、神は、なぜこんなにも残酷なのだろう。
崇める者が大勢いる聖都に何度も嫌がらせをしておいて、それに充分耐えて苦しんだ者たちも執拗に苦しめる。
神など何処にも存在しないから、地上を省みる事など出来ないのだろうか。
それとも、聖都に現れたという巨大な怪物が、やはり三主神だったのだろうか。
怪物なら怪物で、最初からそう名乗れと、ミリアは三主に理不尽な恨みを向けた。

「さ、借り物の理想と、紛い物の友人、どちらかを選んでくれないか。
 まあ……紛い物とは言っても、いずれ本物になる可能性も無くはないがね。
 君の選択次第では」

ヴェクスが択一の選択を迫るが、どちらか一方などミリアには選べない。
リンセルは失いたくないが、父親への思慕だって捨てられるものではない。
ならば、両方を一遍に掴む事は?

(ダメだ……リンシィの背後に隠れた奴を殴り飛ばすより、ナイフを刺す方が絶対に速い。
 そんなのダメだ……どうすれば……クソッ。
 この二人さえ魅了すれば、まだ間に合うはず! 逃げた仲間の所へ案内させられるのに!
 残った医者だって、さっきの男を使えば……!)

思考が縺れるミリアに魔術師は追い討ちを放つ。

「そういえば、僕が死んだらリンセルの御両親には謝罪が出来ない。
 もし、ミリア君がそうするつもりなら、君の方から謝っておいて欲しい。
 御令嬢は残念でしたが、代わりにまた元気な子を産んで、可愛がって下さい。
 きっと、御令嬢も天国から見守ってくれるでしょう……って。
 ああ、いや、リンセルの代わりには君がなればいいのか。
 父を亡くした娘と、娘を亡くした親で、ぴったりじゃないか」

魔術の槌は完璧に阻んだミリアだが、言葉の槌には打撃を受けた。

(リンシィが殺されて……そんな残酷な言葉で慰められる……そんな馬鹿なこと……出来るか。
 アタシはリンシィの代わりにはなれない……。
 レナードさんやフロレアさんの心に入り込んでも……決してリンシィにはなれない。
 だって、父さんの代わりだって誰もなれないんだから……)

ミリアにとって父親が唯一無二であるように、リンセルの両親にとって娘は唯一無二の存在だ。
少なくとも、そうあって欲しい。
彼らから愛されるのは嬉しいが、彼らがリンセルへの愛を忘れてしまったら、きっと自分の心は切り裂かれてしまう。

「リンシィの代わりなんて……いない」

言葉に出した事で、ゆらゆらと揺れていた選択の天秤がリンセルに傾く。
リンセルの両親であるフロレアやレナードの悲しむ姿は、想像するだけで耐え難いものだった。
自分に向けられる優しさも、愛も、絆も、魅了の力で作られた嘘の塊だとは分かっている。
でも、心に刻まれた楽しい風景は余りに鮮明で、彼らを嘆きの底に突き落とすなど、とても出来なかった。

520ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/05/27(水) 06:05:39 ID:QOY/h.gM0
ミリアは涙を零す。
父親の理想を捨て去ったという想いが、彼女を打ちのめした。
それは、昨日まで生の目的として大切に持っていたものだったから。

「……ごめん、ね……父さん……ごめんなさい……」

泣きながら、ミリアは夢遊病者の足取りで歩き始めた。
無残に破られた金属扉を潜って、向かう先は薄緑の廊下の奥だ。
ミリアが遠ざかるにつれて、精神的な重圧が軽くなっていくのを感じ、交渉に勝った魔術師は安堵の息を漏らす。

「どうやら、少しは君の事を考えてくれたらしい」

リンセルに言葉が掛けられた。
眠れる少女は、周囲の錯綜を他所に変わらぬままだ。
彼女の為の奇跡が起こらない限り、決して目覚める事も無いだろう。

「父さん……ぅ……ぅ……父さん……ごめんなさい……」

怪物たちを閉じ込める監獄の中、か細い嗚咽が虚ろに響く。
ミリアは父の理想の実現を諦めてしまった。
しかし、父たるドニ・スティルヴァイは――――革命のアイン・ソフ・オウルは理想を諦めない。

ミリアの全身を覆う蔓草が、色の濃淡を彩と揺らす。
同色の草葉の間には、先程まで無かったはずの光の球花が幾つも姿を覗かせていた。

521装幀司書ヴェクス ◆xNodesigng:2015/05/31(日) 04:10:29 ID:P45YHKFw0
車を運転していたエクレラは、村から5km先の山間部で携帯端末のコール音を耳にする。
それがヴェクスからの通話だと目の端で確認すると、彼女は直ぐに路肩へ停車して連絡を受けた。
濃霧の中で通話しながら車を走行させる運転技術を持たないので、当然の事だ。

「サーナ、そちらはどうだい?」

「エヴァンジェル方面に向かっていて、もうすぐ霧の圏内からも出ますが、そちらは?」

「リンセルちゃんを人質に取ったら、ミリア君は快く病棟内へ戻ってくれたよ。
 それにしても信用無いね。
 向かっているのは、アクノス方面のようだけど」

「貴方が魅了されている可能性を考えれば、最初から正確な情報など出せません」

「なるほど、確かに」

「此方の位置は、探具の魔術で調べたのですか?
 念の為に魔力封緘は掛けていたのですが」

「いや、タブレットの位置特定アプリ」

「位置を特定する……プログラムですか。
 本当に気持ちが悪いですね」

「念の為に聞くけど、気持ちが悪いって機械のことだよね?」

「それはともかく、対象を確保したのなら迅速に処置しましょう。
 直ぐに私たちも其方へ戻ります」

「……いや、まだミリア君の気が変る可能性は少なくないと思う。
 君らはバニブルに戻って対策を練った方が良い。
 彼女がその気になったら、誰も対処出来ない状態は変わってないんだからね。
 最低でも、一つは対抗手段が無いと話にならない。
 ファラーに高位古代語呪文《エルダーエンシェント・スペル》を授与してもらえるよう、従兄殿へ頼んでおいてくれ。
 コトンは当初の予定通り、他の病院に移動させた方が良いだろう」

「では、事後処理をお願いします、ヴェクス」

「ミリア君が怖いから、出来れば僕も戻りたいんだけど……ま、仕方ない。
 ところで、ファラーは怒ってない?」

「アルサラムなら意識が途絶する寸前まで、貴方への呪いの言葉を吐いていましたよ」

そう言って通話を切り、エクレラは再び車を走らせた。

522装幀司書ヴェクス ◆xNodesigng:2015/05/31(日) 04:11:12 ID:P45YHKFw0
所変わってドイナカ村。
ヴェクスとウィムジーは病院長室に向かいながら、事後処理の会話をしていた。

「地区警察は応援を寄越してくれそうですかね」

「いや、魔術対策課は殆ど斃っちまって余裕が無いとか、泣き言抜かしやがった。
 上に言わせりゃ、魔術絡みの案件は鰻上りに増えちまって、もうこの規模の事件なんぞ珍しくないんだとさ。
 なもんで、そっちは民間から腕の良い魔術師を探して対処しろ、だとよ」

「それは、なんとも無茶な要求を言ってくる……。
 上司と言うものは、どこも同じようなものなんですかね」

「ウム、悪ぃがもう暫らく手を貸してくれんか」

「ええ、それはもう。
 最初から、そのつもりで派遣されたものでして……上司から。
 しかし、さっきのアナウンスで村にも混乱が広がったでしょうから、まずは警備官から説明しなくては」

ヴェクスの危惧どおり、緊急アナウンスが流れた後、ロビーでは幾つもの安否確認が始まっている。
その中に、ミリアが魅了使いではないかと疑う男たちもいた。
湯治で村を訪れ、暫らく前からセプテットに滞在する四人組の侏儒《ドワーフ》族の二人だ。
一人は水質が肌に合わずに被れた皮膚を診てもらうべく病院を訪れ、もう一人は付き添いである。

「黒い瞳で灰色髪の女。
 確か、宿の朝食で何度か見かけたな。
 人間族の年齢ってのは分かり難いが、まだ若そうな感じだったから年も合っとるかもしらん。
 何より、村に来たばかりの様子だったのが気になる。
 グライグとゼドッゾにも知らせた方が良いんじゃないか」

他種族からは双子のように見える侏儒は、厳しい顔を見合わせた。

「左様だな。
 時に携帯電話は此処で使っても良いのか」

「何、禁止の張り紙は無いから大丈夫だろうよ。
 それに緊急事態でそんなことは言っていられん」

侏儒の男が太い指を操って電話を掛け、かくして病院からの一報はセプテットに届いた。
それは、常ならぬ霧の発生を怪しんでダイニングに集まっていた宿泊客の全員に伝わる。
特に関心を示したのは猫人《シャパリュー》の雑誌記者、メーレット・プラヴァだ。
予期せぬスクープに遭遇してジャーナリスト魂を刺激されたのか、丸い瞳を爛と輝かせている。

「魔術で不法行為を行う女?
 この小さな村に灰色の髪で黒い瞳、おまけに年齢まで一致した女魔術師が二人もいるとは思えない。
 決め付けるようだが、ミリアさんは限りなく黒に近いグレーだと思うね。
 彼女は自分で強化魔術《エンハンス》の使い手だと言っていたが、奴らは獣や虫の能力を肉体に付与できる。
 普通の魅了なら精神魔術の領域だが、体液を使う魅了ってことは強化魔術で作った毒かも知れない。
 精神に作用する魔術なら、イストリア条約違反の恐れもありそうだが……」

事件を記事にするつもりなのか、猫人はボールペンとメモ帳を取り出して、何かを書き始めた。

「ともあれ、詳しい情報が欲しいな。
 確か年齢は十七で……苗字は何だったか……」

523巡検司書アルサラム ◆FarahLxH6M:2015/06/10(水) 00:09:58 ID:M.fc9DxQ0
図書都市バニブル、素描すれば書架の迷宮。
建物という建物は書物の陳列場で、管理者たる人間は蒐集と保存に忙しない都市。
この街に戻ったアルサラムは古風な塔の一室、重厚な調度品が並ぶ部屋で師のラクサズと対面していた。

「……あの魔女を無力化する可能性はあった」

アルサラムの口惜しげな言葉を聞くと、ラクサズは机上に置かれた水晶に手を翳してミリアの姿を映す。
視点はエクレラの首飾りからで、場面は魔槌で攻撃を仕掛けた瞬間だ。
雷速で打ち込まれた長大な金属杭が、破砕音を鳴らして爆ぜ割れる、まさにその時。

「過信も嫌いではないが、魔術師なら彼我の力量を正確に把握しなければなるまい。
 君の魔力は人間という種の中では高い方だが、ミリア・スティルヴァイはそれ以上だ。
 鑑みるが良い、石魔《ガーゴイル》を貫く魔槌も彼女には全く通用しなかった。
 ヴェクスの機転がなければ、我々は高い代償を支払う事になっただろう」

「機転……機転、か。
 現状は鍵の無い檻に入れただけで、根本的には何も解決していない。
 魔女が気を変えれば、すぐにでも被害は拡大する」

「然り、人の気持ちなど容易く変わる。
 厄災の種を持つ者を、いつまでも貧弱な檻の中には留め置けまい。
 あの漆黒の宝玉は人の感情を歪め、増幅し、浅学菲才の輩を一夜にして練達の魔術師に変える。
 魔術の不正使用で彼女に責任を取らせるとしても、このまま事が運ぶとは思えない。
 あのような類型は破綻するまで嘘と保身を重ね、時には自分すら騙す」

ラクサズが言葉を切り、相手の発言を促す。

「相手が人ではなく、人の姿をした何かなら、周囲を汚染する前に殺してでも排除すべきだ」

アルサラムは憤りを込めて吐き捨てた。
言葉に滲む感情は、治安行政の担い手たちが当たり前に持つような正義感や、悪へ対する怒りではない。
凶悪犯罪の被害を受けた当事者が加害者に抱くような、殺意混じりの特殊な憎しみだった。

「バニブルは法治国家だ。
 法に則らない私刑を行う訳にはいかない。
 被疑者の身柄が国外では猶更」

「では、法整備を進めて欲しいものだ。
 貴方も政治家の一員だろう」

「無論、各所に働き掛けて進めてはいる。
 しかし、仮に司法が認めたとしても彼女の殺傷は難しいだろう。
 ミリア・スティルヴァイは、アイン・ソフ・オウルの可能性が高い。
 彼らは伝説で描かれる竜、秘境の巨人族、或いは半神半人の英雄たちにも比肩する存在だ。
 小手先の戦術では、差を埋める事など出来まい」

「ラクサズ・イレアード・イヴンスディールなら、その差を埋める術を知っているんじゃないのか」

「最も簡単な術は、自らもアイン・ソフ・オウルと為る事だ」

「アイン・ソフ・オウルと言うのは、保持する世界の規模や質が高い者の総称……だったな。
 人類の一人ひとりが、己の世界を持つというのは分からなくもない。
 大宇宙に比して、個人を小宇宙に例える思想など珍しくもないからな。
 だが、人為的に己の世界を広げて、存在の質を高める手段など存在するのか」

「それについては、詳しいと思しき者が一人いる」

「誰だ」

「Daath(ダアト)」

524enchanter ◆FarahLxH6M:2015/06/10(水) 00:15:53 ID:M.fc9DxQ0
◆世界の樹形図

円環多元世界群《リース》

├世界群体(世界群体がネバーアース?)
│├ネバーアース(初期設定では、もう一つの地球の呼称がネバーアースだったように思う。惑星の名前?)
││├アイン・ソフ・オウル(知的生命が持つ独自の世界の中で、規模が大きく、周囲と混じらないもの)
││└知性体(彼らも各々の中に小世界を持ち、それが他者の小世界と混ざり合って世界群体を構成する)
│├仙界(世界群体の下位領域)
│├魔界
│├天界
│├地獄
│└etc.

├ガイア(ネバーアースとは別の法則に基づく平行宇宙の一つ)

├地球(様々な惑星や銀河団を含む三次元宇宙。正確には"地球が存在する宇宙"と表現すべきか)

└etc.

525enchanter ◆FarahLxH6M:2015/06/10(水) 00:27:39 ID:M.fc9DxQ0
◆細分化した位階

天位、地位、人位のアイン・ソフ・オウルのそれぞれを上中下の三つに分割して分類。
等級一つの差は大人と子供の差にも等しく、対等な条件で格上に勝利するのは至難の業。
ただし、様々な自然法則に縛られる無位級の戦いなら、単純に物理攻撃力の高い方が有利かもしれない。

■×13・神位、世界群体の全界に己の理を敷ける存在
■×12・天位上級、一界や一惑星を統べられる存在
■×11・天位中級、複数の国〜大陸規模の影響を及ぼせる存在
■×10・天位下級、一国の守護神に相当する存在
■×9・地位上級、一郡から州レベルでの影響を持つ神に相当、地位の等級で別格と称される存在
■×8・地位中級、一市程度を司る都市神に相当
■×7・地位下級、村や泉や山の土地神などに相当
■×6・人位上級、神話の英雄に比肩し、条件次第では地位下級に勝ち得る可能性を持つ
■×5・人位中級、歴史上の英雄に匹敵
■×4・人位下級、大国の競技大会で優勝できるレベル
■×3・無位上級、魔術師や異能者等、世界への干渉手段を持つ者(非アイン・ソフ・オウル)
■×2・無位中級、世界への干渉手段を持たない一般人(非アイン・ソフ・オウル)
■×1・無位下級、感情の弱い種族や獣(非アイン・ソフ・オウル)

526enchanter ◆FarahLxH6M:2015/06/10(水) 00:35:39 ID:M.fc9DxQ0
◆キャラクターの能力(参考)

【■=基本能力】【□=魔術やアイテムで強化した状態】【☆=アイン・ソフ・オウルの力が発現した状態】

■□☆は、1つ分がソードワールド1.0での能力値6点分程に相当。
目安として、人間の筋力は■×2が平均で最高は■×4、人間大のストーンゴーレムが■×5。
経験は■1つが約10年、2つが約20年、3つが約40年、4つが約80年分の経験に相当して……以後は倍々。
□が多いのは事前準備で強くなるタイプで、☆が多いのはアイン・ソフ・オウルとしての能力が高いタイプ。

『リンセル・ステンシィ』
筋力:■■
魔力:
器用:■■■
敏捷:■■
知性:■■
体力:■■
世界:■■
経験:■

※ミリアのドーピングで若干能力が底上げされているので、普通の女子中学生にしては高めの能力。
  陸上の全国大会では勝ち抜けないが、手芸やパン作りの大会なら持ち前の器用さで上位を狙える。

『アデライド=べリシャリッツ・ルテニウム』
筋力:■■■■
魔力:■
器用:■■■■
敏捷:■■
知性:■■■
体力:■■■■
世界:■
経験:■■

※北欧神話のドワーフに近いイメージの鉱物妖精なので、肉体的な能力は全般的に高め。
  知識量は低くないものの、感情の弱い種族なので保持する世界は人間より小さい。

『アルサラム・ファラー・アゼルファージ』
筋力:■■■□
魔力:■■■■
器用:■■■■□
敏捷:■■■□
知性:■■■
体力:■■■□
世界:■■■
経験:■■

※普通の人間の中では最高レベルの魔力と器用さの上、他も平均して高く、武闘派として充分な能力。

『ミリア・スティルヴァイ』
筋力:■□□☆☆☆
魔力:□□□□☆☆
器用:■■□□☆☆
敏捷:■□□☆☆
知性:■■☆
体力:■□□☆☆☆
世界:■■☆☆
経験:■

※人位の位階では下級だが、厄災の種と強化魔術の補助で、巨人や竜にも見劣りしない能力。
  ただし、何も強化されていない状態であれば、能力はほぼ一般人と変わらない。
  なお、神や仙人の跋扈する本編なら、能力を最大に強化しても瞬殺。

527装幀司書ヴェクス ◆xNodesigng:2015/06/18(木) 07:23:25 ID:LyiFb6eo0
トリフネの病院長は人間族で、五十台半ばの男性だ。
彼は恰幅の良い体を皮張りの椅子に沈めながらヴェクスの報告を聞き、不快そうに顔を歪ませていた。
自分の半分程度しか生きていない若造が、我が物顔で事を仕切っているのが気に入らないのだ。
口には出さないものの、苛立ちの現れとして人差し指でデスクを叩き続けている。

「つまり、危険な異能者を病室に追い込んだけど、いつでも脱出される状態だって……そういう事?」

「まあ、そういう事です。
 頑丈な金属扉も異能封じの設備も、彼女のキャパシティが高過ぎて抑えられない。
 言うことを聞かないと友人を殺すと脅かして、ようやく動きを止められたくらいでして。
 ただ、こういった遣り方は恨みを買うものですから、爆発してしまった時が怖い」

詰問を受けた黒髪の魔術師は、お手上げだと言うように肩を竦める。

「だったら、のんびりしてないで警察が迅速に動くべきでしょう! ねぇ!
 此処は医療とか研究が目的の施設なんだから、拘置所代わりに使ってもらっちゃ困るよ!
 外国人犯罪者なら本国へ強制送還でしょ? だよね? 税金で犯罪者を養うなんて有り得ないし!」

「仰る事は尤もですが、彼女を安全に拘留したり、護送したりするのは難しい。
 イストリア大使館に連絡するとしても、必要な手続きを踏むのに数日は掛かります。
 それまでは此処に隔離して拘留するしかありません。
 村長や周辺住民への告知と、病院の封鎖も必要でしょう。
 それと、無駄な被害者を増やさないよう、現在入院している患者は他の医療施設へ転院して頂かねば。
 特に強制入院中の異能者たちを魅了されたら、最悪の事態となりかねない」

目下、これが最大の懸念だった。
理性の働かない異能者集団が盲目的にミリアを愛するようになれば、周囲に及ぼす影響は計り知れない。
危険を早急に取り除かなければならなかったが、院長は顔色を変えてヴェクスの要請に反対する。

「とんでもない話だ! キミはウチに潰れろと言ってるのか!?
 高価な設備を幾つも壊された上、全ての患者を転院させろだって! 
 損失の保障は誰がするの? ミリアとかいう女? そいつに支払い能力あるの?」

経営を預かる身としては、医療設備の被害保障は大きな関心事だ。
ミリアが破壊した二箇所の特殊金属扉も、設置に約20万R$が必要な代物である。
これは大企業を二十歳から定年まで勤めた際の退職金にも等しい。
当然、泣き寝入り出来るような金額でもない。

「冒険者の店で魔術具を売り払った記録があるので、さして個人資産は無いと思われます。
 彼女の財産や家族構成は調査中ですが、父親は死んでるようなので返済能力の有無は何とも……。
 その辺りの交渉をするなら、母親なり他の親族なりになるでしょうね。
 あぁ、損害保険には加入されてませんか?」

「特異病棟はね、保険の適用外なの!」

「それは残念」

528装幀司書ヴェクス ◆xNodesigng:2015/06/18(木) 07:24:07 ID:LyiFb6eo0
初老の病院長はデスクを挟んで立つ二人を睨みつけ、悪態を吐く。

「まったく……好意で警察に協力したら、このザマだ!
 あんたたちで無理だってんなら、軍隊でも何でも動かしてさっさと対処してよ!
 その為に高い税金払ってんだからさぁ!」

愚痴を零す院長の態度に堪えかねたのか、ウィムジーが顔を近づけた。
不快ではないが恐しい、厳父の如き形相で。

「アンスバーグさん、あんたも医者なら損得より患者や村民の安全を考えてくれんか。
 今、病院の医者を迅速に動かせるのは、院長のあんただけだろう。
 俺は悪くない、俺に責任は無い、他の誰かがやるべきだ。
 ……警備官の俺にだって、そんな魔物が囁きかけてくる事はあるさ。
 だがな、力や知恵のある奴は無い奴を守らなきゃならん。
 今起きとるのは、初期対応が拙けりゃ大惨事になりかねん案件だ。
 危険を知ってて何も対処せなんだら、病院にだって責任問題が行く。
 グダグダ言って患者を見殺しにする病院に、患者を預けたいと思う奴なんか誰もおらんぞ」

老警備官の声は低く、ドスの聞いた声と表現するのが適切だろう。
凄みを利かせた態度に威圧されてか、院長も意気消沈してブツブツと呟き始めた。

「べ、別に何もやらないとは言ってないよ……言ってないでしょう」

病院は即日、封鎖される。
ドイナカ村の村長は、特定危険魔術師指定法を適用して、ドイナカ村を警戒区域に指定。
病院周辺の数百メートルは、関係者以外の立ち入りが禁止される。
住民には村会の連絡で現状が告知され、観光客も大まかな事情を知った。
院内の事務員も一般患者を別の医療施設へ移すべく、関係各所へ連絡を始める。

「ああ、院長センセイ。
 特異病棟ですけど、患者の世話はどうしてるんですかね?」

疑問を抱いたヴェクスは病院長を呼び止め、質問を投げる。

「廊下は監視カメラで全部カバー。室内は一部だけしか映せない。人権問題で煩いからね。
 重度の患者とは直接接触しないよう、遠隔操作で医療介護ロボットにやらせてるよ」

忙しさから院長は投げやりに答えた。

「では、彼らの監視は僕がやりましょう。
 何か異変があれば知らせますから」

「ああそう、じゃあそうして!」

応諾は得られた。
ニュアンスとしては勝手にやってくれ、というものではあったが。

「……逃げるのすら難しい相手なんか、本当は近寄りたくないんだがね」

警備官は村長や地区警察への報告で忙しい。
必然的に現場へ残されるのは臨時職員の魔術師だ。
ヴェクスは病院長室を出ると、特異病棟に隣接する狭い部屋へと移動した。
此処には二十以上ものモニターが並び、棟内の全区域を映している。
それらを一通り眺め、魔術師は苦い笑みを浮かべた。
無機質な病棟が、僅かばかりの時間経過で様子を一変させていたから――――。

529フロレア・ステンシィ ◆d/Florean2:2015/07/04(土) 23:27:46 ID:i/F/jYMs0
患者の転院について説明する連絡は、ステンシィ家にも届く。
電話のコール音が鳴ると、ロルサンジュのカウンターで接客中のフロレアが受話器を取った。

「…………娘を転院? もしかして容態が悪化したのでしょうか」

病院の事務から報告を受けた母親は、緊張感に満ちた声を絞り出す。

「いえ、そういう訳ではありません。
 付近が警戒区域となりましたので、患者さんたちを他の病院へ搬送する事になっただけです。
 警察の調査が終わるまで詳しい事情は分かりませんが、魔術関連の事件が起きたようですね」

とりあえず、娘の容態に変わりはないと理解して、フロレアは心を落ち着かせた。
そして、娘を引き取るなら、夫と共に車で迎えに行くべきなのだろうかと考える。
魔術でどのような現象が起きているのかは分からないが、安全でない状態なら急いで迎えに行かねばならない。

「では、すぐに娘を迎えに行きますので、対応の窓口を教えて下さい。
 警戒区域ということは、村の近くに避難所を設けられているのでしょうか」

娘の身を想ってか、普段は温厚なフロレアがやや語気を荒げて聞いた。
彼女らしからぬ態度を見て、店内の常連客も何事が起きたのかと不安そうに様子を窺う。
惨劇を経験して一ヶ月も経たぬ彼らが、警戒区域と聞いて身構えるのは当然の事だ。

「此方に来て頂いてもお会いする事は出来ません。
 名簿に拠るとリンセル・ステンシィさんは……アクノス研究所の付属病院へ運ばれたようですね。
 まだ搬送中かもしれませんが、後はそちらに連絡して下さい。
 其方の電話番号は――――」

フロレアは直ぐに教えられた番号へ掛けたものの、やはり救急車は到着していないようだった。
続いて、ミリアにも電話を掛けるものの、拘留中の彼女から応答などある筈もない。
容疑者の私物を保管している押収品ケースの中で、タブレットが虚しくコール音を鳴らすのみだ。
現状把握を求めて村の役場にも電話を掛けるが、此方は全くの無駄に終わった。
村議会が警戒区域指定の対応に追われているため、一向に電話連絡が付かないのだ。
ドイナカ村で何が起きているのか掴めず、フロレアの不安は膨らむばかりだった。

「あのー……注文、良いですか?」

「あっ、済みませんっ」

遠慮がちに声を掛ける客の姿に気付き、フロレアは慌てて応対に戻った。
急いで接客を終わらせると、彼女は厨房のレナードと話し合う。

「レン、リンシィの入院している病院が警戒区域に指定されたみたいなの。
 アクノスの病院に転院されたらしいけれど、まだ着いてないって……。
 それにミリアちゃんとも連絡が付かない」

「タブレットの電源を切ったまま、リンセルに付き添っているんじゃないか」

「ううん、電話が鳴るのに繋がらないの。
 魔術で事件が起きたみたいだから、もしかしたら巻き込まれてるのかも……」

「ミリアの泊まっていた場所は何処だ? そちらには連絡出来ないのか?」

フロレアはハッと気付いたように、電話口まで向かう。
ミリアから聞いて、セプテットの電話番号をメモしているのを思い出したのだ。
もどかしく思いながらも、彼女はメモの数字通りにプッシュボタンを押す。

「お忙しい所失礼致します。
 ドイナカ村のペンション、セプテットでしょうか?」

「はい、セプテットのオーナーですが、宿泊の御予約でしょうか?」

530フロレア・ステンシィ ◆d/Florean2:2015/07/04(土) 23:38:28 ID:i/F/jYMs0
警戒区域の対応に急がしい村の議会と違って、セプテットは直ぐに電話が通じた。
応じたのはペンションオーナーのセザールだ。

「いえ、安否確認の取れない身内が、そちらへ宿泊されていたのを思い出して、お電話致しました。
 申し遅れましたが、私はエヴァンジェルのベーカリー店員で、フロレア・ステンシィと申します。
 所在確認をしたいのはミリア・スティルヴァイという女の子なのですが、そちらに居りませんか?
 何か事件に巻き込まれたのではないかと、心配で心配で……」

フロレアは不安を滲ませた声で、縋るように言った。

「確かに彼女は此方へ泊まっていましたが、今は外出しております。
 警戒区域指定のアナウンスから随分と時間が経っているのに、まだ帰って来られないようですね」

「済みませんが、そちらの村では何が起きているのでしょうか。
 村の役場は何度電話を掛けても繋がらなくて、何が起こってるのか、よく分からないものですから……」

「警察が不法行為を行う魔術師を病院に拘留したと聞きました。
 ですが、いつでも脱出されかねない状態なので、地区警察が移送を終えるまで警戒区域に指定したそうです。
 当該魔術師は鉄の扉を壊せる上に、体液を媒介として他人を魅了する能力も備えているとか。
 聞く限り……容疑者は黒い瞳と灰色の髪を持つ十代後半の少女のようです」

セザールが迷いつつも言った台詞の意味を、フロレアも直ぐに読み取る。
しかし、彼女にはミリアを信じたい気持ちの方が強い。
理性が“危険な魔術師”の特徴はミリアに酷似していると告げても。
ミリアが何かの隠し事をしていると、以前から感じていても。

「あの……ミリアちゃんが間違えて拘留されているという事は無いのでしょうか?
 彼女も魔術が使えると言っていましたから、間違えて逮捕されたなんて事は……」

「容疑者の顔や名前は発表されていませんので、私には分かりません。
 もし、誤認逮捕の疑いがあるのなら、デンエーヌ地区警察に連絡を取ってみては如何でしょう?
 宿泊客の事ですから、此方でも安否確認はしてみますが」

「お忙しい所、色々と心を砕いて頂いてありがとうございます。
 またお電話させて頂くと思いますが、宜しくお願い致します」

礼を述べて通話を切り、静かな溜息。
彼女の心の負荷は重くなるばかりで、一向に軽くならない。
続いての連絡先は、地区警察署の警務課だ。
まず、フロレアは自分の姓名と職業を名乗り、それから用件に入った。

「ドイナカ村の事件について、お聞きしても宜しいでしょうか。
 警戒区域指定の原因となった女性魔術師についてなのですけれど……」

「ドイナカ村の事件ですね。どうぞ」

「もしかして、身内が間違って拘留されているかも知れないんです。
 そちらで調べて頂く訳にはいかないでしょうか」

「その方のお名前は」

「ミリア・スティルヴァイです」

「ミリア・スティルヴァイさん……ですね。
 ただ今、魔術対策課へ確認致します」

ミリアの名前を聞いても、警務課受付の反応は事務的だ。
未知の現象が絡むと言っても、地区警察から見ればミリアの事件も数ある犯罪の一つ。
むしろ、人死にが無いだけに優先度も低く、署員の誰もが知るという程の事件では無い。
フロレアの問い合わせから暫らく経つと、受話器から低い男の声が聞こえて来た。

531フロレア・ステンシィ ◆d/Florean2:2015/07/04(土) 23:44:14 ID:i/F/jYMs0
「……お待たせ致しました。
 魔術対策課の警部ファドルカ・ジキレスです。
 あの、ステンシィさん。
 先ほど仰ったミリアという方の親族でしょうか」

電話に出たのは先程の警務課受付とは別の人物で、ファドルカ・ジキレスと名乗った。
魔術対策課と言うのは、魔術犯罪への対処を専門とする警察の部署で、全員が魔術師である。
職業柄、彼らは犯罪に転用できる魔術について、極めて造詣が深い。

「血縁ではありません。
 けれど、ミリアちゃんには一週間ほどですけど住み込みで仕事を手伝って貰いました。
 今では私も娘同然に思っています」

「知りあって一週間ほどで? 娘同然に思えるものですか?」

「想いと時間は関係ありませんっ!」

ジキレス警部は、事情を説明して良いのものか迷った。
フロレアは拘留中の容疑者と無関係ではないようだが、親権者や後見人という訳でもない。
更には、ミリアの能力と今の台詞を考慮すれば、魅了の影響を受けている可能性も高そうに思えた。
いや、状況から判断すれば、ジキレスにはミリアがステンシィ家の乗っ取りを図っていたようにしか思えない。
此処でミリアを拘留していると伝えてしまえば、魅了された者たちは容疑者の開放に動くだろう。
警察としては事実を偽りたくはないが、正直に拘留してますとも言い難い状況だった。

「……ええ、まあ、落ち着いて下さい。
 それで先程の件なのですが、部外者には事件について何もお教えする事が出来ません。
 何しろ魔術が関わる案件なものですから、どのような影響が出るかも予測が難しい。
 ただ、警察としては事件解決へ向けて適切に動きますので、どうかご理解下さい。
 ミリアさんに関しても、しっかりと保護致しますので」

ジキレスは無難な言葉を返すが、フロレアは納得せず、何とか手掛かりを得ようと食い下がる。
無論、警察側は答えられないの一辺倒で応答するだけだ。
結局は何の進展も得られず、不信と違和感だけを残して、問い合わせは終わった。

「やっぱりおかしい……。
 ミリアちゃんとの関係まで聞いておいて、何も教えてくれないなんて。
 もし拘留した魔術師がミリアちゃんじゃなかったら、別人だって教えてくれると思うの。
 ううん、きっとそうするはず……それなのに……。
 レン……ロルサンジュは暫らくお休みしましょう。
 娘の行方も安否も分からないまま、普通に働き続けるなんて私には無理……」

フロレアはレナードの胸に頭を埋め、精神の限界を吐露した。
娘のリンセルは知らぬ間に別の病院へ搬送され、ミリアの行方も把握できない。
リンセルを聖都の病院へ預けたままにしていれば良かったのだろうかと、後悔が心を刺す。
彼女たちも、三主降臨の事件で禍物に拠る虐殺を目の当たりにした一人だ。
身内が何かの事件に巻き込まれたのではと考えると、とても平静ではいられない。

「……ああ、家族を失ってからでは遅い。
 他国の警察が頼りにならないなら、弁護士や教皇庁にも相談した方が良いかもしれないな。
 とにかく、傍観していてはいけない」

思い悩む妻の姿を見て、レナードも家族を取り戻す意志を固める。
程なくして、ロルサンジュの玄関扉には臨時休業の札が掛けられた。

532ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/07/26(日) 00:01:35 ID:IimECF.w0
異能者を日常から隔離し、拘束する為の施設は、密林の様相を呈していた。
廊下の天井が厚い葉の茂りで覆われ、頑丈なコンクリート壁には草色の蔦が這い、タイルの床も太い根で隠れる。
その全てはミリアから表出する光の蔦と同じく、光子で作られた非実体のものだ。
植物を装う光が無機質な空間を浸食して、非現実的な光景に変えている。

異常な事態の元凶、ミリア・スティルヴァイは病棟の一室で倒れ込んでいた。
未成熟な肉体と精神が、今までの過度な負荷に耐え切れず。
深い眠りの中で彼女は心の底へ底へと沈み込み、無意識の海を漂う。
程なく、曖昧だった記憶の断片が色と形を得て、夢の中で像を結び始めた。



舞台は灰色の空の下。
一人の少女が家路を辿り、足早に街の通りを歩いている。
今より少し幼い、十四才のミリアだ。
肌は仄かな赤みが差した白、灰色の長い髪は後ろで束ねられ、切れ長の目に嵌まった瞳は黒い。
服装はアッシュグレイのTシャツに、黒いデニムレギンス。
晩秋まで暖かいせいか、開放的な服装が多いイストリア人の中では、比較的地味な格好だと言える。

「はぁ……ぁ」

夢の中の少女が心の重さを溜め息に変えて吐き出す。
彼女の悩みの種は、父親のドニ・スティルヴァイだった。
ミリアの父は体が強くないものの、意志は強く、こうと決めたら決して自分を曲げない。
過去の資料を調べ、当時の関係者にも聞き込む事で国家反逆罪の祖父が冤罪であると確信し、様々な活動を行う。
その結果、イストリア政府からは反体制的な活動者と見做されてしまった。

政府から睨まれた者を雇用する事業者は少なく、ドニに真面な働き口は無い。
その場限りの仕事はあっても、将来の見通しが立つようなものは見つからない。
加えて、海外渡航やウェブ閲覧にも制限があって、当局からの監視もあった。
政治団体や外国の組織……いや、祖父のボルツと結びつかないかを警戒されているのだろう。

「私たちが嫌いなら、さっさと国から追い出せばいいのに。
 そうすれば、こんな生活とはお別れだもの。
 行政も、近所の人も、あの人も、全てうんざり」

無駄と知りつつ、ミリアが父親を疎外するものたちに愚痴を吐く。
仮想敵のリストに記載されている"あの人"とは母親の事だ。
母のキアラ・カステリットはミリアが十二才の時にドニと離婚して、スティルヴァイの姓も棄てて家から出て行った。
娘に残されたのは見捨てられた想いだけだ。
だから、ミリアは無責任な母親に代わって家の事を務めねば、と考える。

「……やっぱり私が働くしかないか。
 父さんは中等学校に進めって言ってくれるけど、あんまり体も丈夫じゃないし」

国外に出て状況を改善する事が出来ない以上、自分に出来るのは父親の傍にいて、父親を助けることだけ。
父は自分の立つ大地にも等しく、もしも居なくなれば自分も共に奈落へ落ちるしかない。
過去のミリアは、そう考えていた。

「あっ、そういえば今日はパスタが安い日だった」

思い出したような少女の呟き。
すると、町並みの光景は歪み始め、夢の舞台も変じてゆく――――どこか、別の場面へと。



この夢を見るのは、一人だけではなかった。
ミリアの追憶を体験する者が、もう一人。
魅了の際にリンセルの小世界へ根を張った革命のアイン・ソフ・オウルの端末が、共振現象を引き起こしたのだろう。
同じように無意識の海を揺蕩うリンセル・ステンシィも、夢の中でミリアの回想を覗き見る。

533名無しさん@避難中:2015/07/27(月) 00:39:15 ID:QFb2FHZo0
枢要罪の能力について、なんとなくの妄想を投下。

◆ヴェルザンディ
《傲慢》(ハイペリファニア)
自分以外の世界観を拒絶し、認めず、軽んじる事で、他者の世界へ重圧を掛ける力。
この力は自然法則や、他のアイン・ソフ・オウルの異界則へも影響を及ぼす。
従って、たとえ音速や光速で動く物体であろうと"ヴェルザンディが捕捉可能な範囲"まで速度が落ちる。
同様のデバフは筋力/魔力/耐久力/五感にも掛けられるが、知性/経験/判断力/精神力/感性などは変化させられない。

《神を蔑する天使》(イブリース)
全能感に近い絶対的な自信で自己変革を行い、人間の限界を遥かに超えたステータスを持つ。
肥大化した自我は他者からの精神干渉を阻み、無効化する。

《独壇場の演説者》
周囲の世界に干渉して攻撃や野次の意思を弱め、自らの台詞を聞くよう強制する。
具体的には呪文を詠唱している間や喋っている間は、攻撃や奇襲などで台詞を中断される事が無い。

《記憶の書架》
今までに閲覧した無数の書物の文章を一言一句、過たずに諳んじる能力。
博識な司書の一人として、舌戦の際にも様々な書物から引用を行う。

《高位古代語呪文》
ダァトが開発したとされる魔術体系の中で、伝承者が極端に少ない呪文。
かつては魔力不足で扱えなかったものも、枢要罪の今では問題なく使用できる。
傲慢と独壇場の演説者の影響で、呪文を詠唱している途中に魔術を潰すのは困難。

◆ミヒャエル
《虚飾》(ケノドクシア)
生成した幻で空間/物質/生物/概念など、ありとあらゆるものの状態を欺く。
この幻は世界そのものを誤認させ、物理的な影響をも与える。
そして、たとえ自らの肉体を失っても、自分自身の幻を生成して自らの存在を維持できる。
されど幻は幻。ミヒャエルの世界が消失すれば作り出したものの一切は夢のように消滅する。

《虚栄の神像》(ベリアール)
世界各地に伝わる神々の伝承や像で己を上書きして、擬似的にその神として振舞う力。
使用するには模倣が出来るくらい、対象の神について熟知していなければならない。
神として振る舞って信仰を自分へ向けさせれば、信者たちの小世界を共用する事も可能。

◆バアル=ペオル
《怠惰》(カタスリプシ)
範囲内の存在の精神活動を低下させ、対象を無気力化させる。
力の強度を高めれば生物や無生物の別を問わず、電子や原子の動きすら遅延に導く。

《不働の魔神》(ベルフェゴール)
己の苦しみを他者へ転嫁し、押し付ける力。
毒/呪詛/負傷/眠気/病気など、自らの精神や肉体の苦役を任意の対象へ移す。

534リンセル ◆Ac3b/UD/sw:2015/07/29(水) 23:12:15 ID:dgFDYIVk0
ルーラルダ連邦の北部、アクノス州アクノス市。
此処は約四十万の人口を抱え、金融と工業を中心として発展した地域だ。
法人税率が低いせいで、海外企業が本社を設置する際には、必ずと言って良いほど候補地に名が挙がる。
アクノスに拠点を持つ投機家集団は多く、国際市場に大きな影響力を持つ者も少なくない。
彼らの集う金融街は、財を毟り取られた貧者達から恨みを込めて、悪の巣《イーヴィルネスト》の愛称が贈られている。

富の集積地から少し離れた場所には、巨大な六芒星形の建物が建っていた。
魔術的な建築というよりは、ポストモダンといった印象で、現代建築家が作った神殿と表現するのが適切だろうか。
とは言え、屋上には確りとヘリポートも備え付けてあり、他の病院と比べて機能や利便性が劣る事はない。
この奇妙なデザインの建物が、リンセルの搬送された第一号中央精神医学研究施設ヘルメース・附属病院である。

「後で研究所の方に移すとして、とりあえずは此処で良いわね」

アルテナ・ポレターナは六人用の病室に入ると、昏睡の続く少女をストレッチャーから寝台の上へ移す。
リンセルの新たな寝床は、カーテン付きの電動リクライニングベッドで、コーデファーが眠る寝台の隣となった。

「レセ……レシェ……レシェティッキさんだっけ?
 そっちはどう? 魅了の魔力で洗脳されてるって聞いたけど」

アレクサンデルの措置について、アルテナが他の医師へ聞く。

「ええ、ですから隔離病棟へ移しました。
 魔術科の医師が診ると思いますが、まずは意識の回復を待ちましょう」

答えたのはミリアが魅了した男性医師、ヨードル・アークジーンだ。
年齢は彼の方が上だが、アルテナが研究所長の娘なのもあってか、どこか態度に気を使う様子が見られる。

「聖堂騎士って話だから、エヴァンジェルの教皇庁にも連絡しないといけないのよね……」

「ええ、そちらも私がやっておきます」

「こっちの女の子はアイン・ソフ・オウルが関わってるって話だから、まず主治医を回復させないと駄目よね。
 今の状態じゃ、まーくんを使って良いのかすら分からないもの。
 フラスネルさんの怪我は深いけど、特殊な症状は無いから二日もあれば復帰できるでしょ」

アイン・ソフ・オウルの関与については、病院長から伝えられた情報だ。
ヴェクスの推論をウィムジーが調書にして、地区警察へ上げた情報でもある。

「アイン・ソフ・オウル……とは?」

ヨードルが少しでも情報を得ようと、聞き慣れない単語について問い返す。

「想いで超常の現象を引き起こせる、人類の限界を超えた存在たちよ。
 彼らの力の源は世界――――最も根源的な要素にして、究極の力。
 本当かどうか知らないけど、物質界っていうのは、あらゆる生命が持つ小さな世界の集まりで出来てるんですって。
 フォトモザイクって、小さな写真を組み合わせて大きな絵を作るアートがあるけど、そんな感じなのかしら……。
 それが本当なら、アイン・ソフ・オウルは自分の世界にアクセスして、物質界の構成要素に干渉してるって事よね?
 ああーっ、こんな事ならアイン・ソフ・オウルについて、もう少しあの少年から詳しく聞いておけば良かったわ!」

アルテナが独り言ちる間も、輸液や医療機器の用意が行われた。
暫くして、入院の準備が完了すると、医師団も患者を残して退室してゆく。
転院するのはリンセル一人だけでもないので、これからの彼らは忙しい時間が続く事だろう。



リンセルは変わらずに眠り続ける。
生と死の狭間で揺れる彼女は、精神の働きも限りなく低下していたが、完全に死に絶えてしまった訳ではない。
ミリアと過ごした日常の光景が、切れ切れの夢に浮かぶ。
しかし、程なくして夢は変貌した。
自分自身ではない、別人の記憶で構成された夢に。

535リンセル ◆Ac3b/UD/sw:2015/07/29(水) 23:13:40 ID:dgFDYIVk0
意識の虚ろなリンセルでは、不可解な現象にも抗う事は出来ず、他者の記憶に囚われ、迷い込むしかない。
ミリアの心象が描く舞台は、石造りの外壁とオレンジの屋根を持つ家の中だった。
白とベージュを基調にしたキッチンで、十四歳のミリアが鍋の前に立っている。

「父さん、シーフードパスタで良い?」

「ミリアさんの作ってくれたものなら、何でも構いませんよ」

微笑みでミリアに応えたのは線の細い、理知的な印象の男。
ミリアの父親、ドニ・スティルヴァイだ。
髪はミリアと同じく癖の無い灰色で、黒い瞳には強い意志が、唇には優しさが灯る。
服装は真っ白なシャツにグレーのスラックスで、年の頃は三十後半と言った所だろう。
夢の登場人物なのもあって、この世の人ではないような、何処か儚げな雰囲気があった。

「飲み物は?」

「フィーバーフューをお願いします」

「頭、痛いの?」

ハーブティーの注文を受けたミリアが、心配そうに聞き返す。
フィーバーフュー(夏白菊)は頭痛に効能があるものの、強い苦みを持つハーブだ。
頭の痛みに悩まされていなければ、わざわざ飲もうという人間は少ないだろう。

「予防的なものですから、今は大丈夫ですよ」

「それなら良いけど……。
 ただでさえ身体が丈夫じゃないんだから、気を付けてね」

不安げだったミリアが安堵したように言う。

「……安心して下さい。
 決して、ミリアさんを一人にするような事はありませんから」

ドニは静かに約束した。
この約束は後に言葉を違えず果たされる。
例え、彼が死したとしても。

「お待たせましたっ」

パスタが茹で上がると、ミリアがテーブルに料理皿を置いた。
メインメニューはシーフードパスタ。生地は薄く延ばして巻いた筒状で、フジと呼ばれるものだ。
具は海老などの魚介類で、その上に刻んだバジルが散らされており、オリーブの香りも漂っていた。
サイドメニューは野菜がふんだんに入ったフィッシュスープである。

「では、頂きましょう」

二人の食事。
父と一緒にいる瞬間だけが、安堵のひと時。
場面は緩やかに進むが、夢の中でのリンセルは姿を持たず、何かを思う事もない。
意識の働きは余りに弱っていて、夢の映像も流れるままに受け取るだけだ。
ドニの視線が一瞬、ミリアからリンセルの方向に逸れたとしても。

やがて、周囲の景色が歪み始め、夢は色と形を失ってゆく。
ミリアの目覚めに伴って、追憶の舞台劇も閉幕を告げられた。
リンセルの曖昧な意識も途切れ、再び闇の中へ沈む。

536装幀司書ヴェクス ◆xNodesigng:2015/08/03(月) 02:21:40 ID:u/02I.Ww0
ミリアが眠りに就いてから一日が経過し、病棟からも多くの入院患者が立ち退いた。
監視用の小部屋では、警備官と魔術師がモニターを眺めている。
彼らの目に映ったのは、緑の燐光が植物の繁茂を描く幻想的な光景。

「ありゃ何だい? CGじゃねぇよな?」

ウィムジーが目を細め、疑問を口にした。
超常の現象は彼の専門外なので、病棟の異変については魔術師から聞くしかない。

「睡眠中に無防備とならないよう、周囲へ防護結界を構築したって所でしょう」

ヴェクスが推論を口にした。
魔術師の彼とて、口に出来るのは推論しかない。

「結界ってこたぁ、あの中には入れねぇのか」

言いながら、ウィムジーは差し入れの朝食を置く。
ダブルチーズラスティックバーガーと、スエスモシュトゥ(林檎ジュースと炭酸水のブレンド)の紙コップを。
差し入れはファストフード店で買ったもので、若者はこういった物が好きだろうと、彼なりに気を利かせた代物だ。

「僕なら毒蜘蛛が巣を張る植物園には立ち入らない。
 肉体や精神を囚われる危険を考えればね」

「ああ……魅了って厄介なもんがあったんだったな。
 中には他の患者もいたはずだが、そいつらはどうしてる?」

「殆どは個室でおとなしくしてますよ。
 ただ、ミリアの部屋に近い何室かは、扉や壁を透過した光の蔦の浸食を受けてましてね。
 どうやら、あの光は速度こそ早くないものの、浸透力はかなり強いらしい。
 当然ですが、入室患者も関心を示して興奮状態だったり、逆に放心してたり。
 何も悪影響が無ければ良いんですが……さて、どうなるやら」

ヴェクスが紙コップのジュースを一息で飲み干そうとして、慣れない炭酸に顔を顰めた。
止む無く、口の中に溜まった炭酸を少しづつ喉に流し込む。

「どうにかして、特異病棟の患者を外へ出せないのか」

「グプッ……無理でしょう。
 此方から病棟内に足を踏み入れる事が出来ない以上は。
 そもそも、あそこの患者たちは準備も無しに外へは出せない」

「あんたも魔術師なら、どうにかならんのか?
 もう二人ほど魔術師がおった筈だが、昨日の奴らは何処へ行った?」

「ファラーとサーナでしたら、バニブルに戻しましたよ。
 状況が致命的な悪化を見る前に、対抗手段を持って来ると期待して。
 もし、ミリアがアイン・ソフ・オウルなら、通常レベルの魔術で対処するのは困難ですからね」

「アイン・ソフ・オウルってのは何だ? 異能者の種別か?」

「その前に警備官殿、この世界の仕組みは御存知ですか」

急に話題が飛んだので、ウィムジーは戸惑う様子を見せた。
しかし、何とか記憶の中から宇宙論や物理学の欠片を引っ張り出すのに成功したのだろう。
自信無さげにではあるが、自分の認識について喋り始める。

「あン? 世界の仕組みだと?
 うゥむ……あらゆる物質は原子で出来とるとか習ったな、確か。
 原子の構成は、原子核の周りを電子が回っとるんだったか?
 テレビ番組か何かで、他にダークマターってのがあるとも聞いたような……」

537装幀司書ヴェクス ◆xNodesigng:2015/08/03(月) 02:24:28 ID:u/02I.Ww0
「それも世界の一面ですが、魔術や哲学の分野では別の説で世界を捉えます。
 人は誰でも魂の奥に世界を内包していて、意志ある生命は一個の世界であると、ね。
 それらの小さな世界が他者の世界と溶け合い、雲のように重なり、砂のように混じり合って、我々の見る現象界が創られる。
 この考えを突き詰めれば、僕らの姿も一個の世界が人という形で表現されたものだと言えるでしょうね。
 そして、この内なる己の世界が巨大なものたちを、アイン・ソフ・オウルと呼ぶんですよ」

「分かったような……分からんような。
 つまり、心の中にデカい世界を持ってて、異能の力や魔力が強い連中って事か?」

ウィムジーはピンと来ない様子で、ヴェクスの言葉を単純化して消化する。
元より、神秘とは程遠い駐在の警備官に魔術師並みの理解力を期待するのは酷というものだ。
己の世界について、自らの心や感覚で実感した事が無い者では、理解するにも限界がある。
それは、今しがた解説を行ったヴェクスとて同様だ。

「彼らの力の源が一個の世界だと考えれば、発揮できる力の程は御察しの通り。
 別の世界のルールを使っているのなら、魔術の作法や物理法則を無視しているかのような超常の力も不思議では無い。
 いずれにせよ、アイン・ソフ・オウルたちは感情で世界を歪め、想いで奇跡を起こすそうです」

「感情で世界を歪める……ねェ。
 何とも物騒な響きだが、空間が歪むって事かい?」

「上司の受け売りですが、彼らが己の世界で現象界を浸食する事の比喩でしょう。
 適切に例えるのは難しいのですが、リバーシ(オセロ)にチェスのルールを持ち込む感じですかね。
 リバーシでの対戦中にチェスのルールであるキャスリングを使えば、リバーシというゲーム自体が揺らいでしまう」

「そりゃ、インチキめいとるなァ。
 病棟に蔓延った植物のような光も、異界的な力の産物かも知れねぇって事か」

「或いは、そうかも知れませんね。
 あの光の蔦が一種の異界と考えれば、ファラーの攻撃に不可侵を保ったのも納得が行く」

「そんじゃあ、今は打つ手無しって事か」

「残念ながら、とても強力な力でなければミリアに干渉するのは難しい。
 我々に出来るのは、彼女が目覚めた時に備えて逃走や足止めの手段を用意するのと、村民を避難させる程度。
 後はリンセル・ステンシィが人質として機能し続けるのを、神に祈るのみですかね」

「……うゥむ」

「警察側の進捗はどうでしょう?」

「お前さんたち魔術師が秘密主義なもんで、警察が抱える魔術師は絶対数が少ねぇんだわ。
 とは言っても、それなりに人員確保の手は打っとるぞ。
 特殊武装班に神魔コンツェルンだか何だかの武器を配備したって話だからな。
 まあ、今の所は死者も出てねェから、此処の優先度が低いってことには代わりねェが――――オイ、光が消えるぞ」

警備官が言葉を止め、モニターを注視する。
ミリアから現れた緑光の植物群は薄らぎ、陽炎のように揺れながら消えてゆく。

「結界で身を守る必要がなくなった……要するに、お目覚めなんでしょう。
 防護結界が無ければ食事くらいは運べるかも知れませんから、看護用のロボットでも入れてみますか?
 隔離施設の食事は、機械を遠隔操作して運ぶそうですからね。
 スピーカーとカメラを内蔵してるから、一応は会話も可能らしいですよ」

「俺が持ってくってのは駄目か?
 どうにも、遠隔ロボットだのドローンだのは好かん」

「……流石にそれは遠慮して頂きたい」

ウィムジーの提案にヴェクスは引き攣ったように笑んだ。

538ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/08/07(金) 02:45:51 ID:PPqgYxgE0
「此処は――――」

病室内で目覚めたミリアは、朦朧としながら上体を起こして周囲を見回す。
部屋には窓も時計も無く、四方の壁にも時間の経過を示すものは何も無い。
ただ、強い空腹感から、少なくとも数時間は経過しているように思えた。

「――――病室、か」

漸くミリアの脳が働き始め、置かれた状況を思い出す。
リンセルの安全と引き換えに自ら特異病棟の一室に入った事を。
ヴェクスと名乗る魔術師の本気度は不明だったが、少なくとも賭けをする気にはなれなかった。
治安行政に関わってはいても、相手は魔術師なのだ。

「蔦が無い……?」

視線を下に落とすと、今まで全身を覆っていた光の蔦が、いつの間にか消えている。
ミリアは確認の為に床を拳で叩いてみたが、衝撃と振動も薄い皮膚を通して骨まで響く。

(……ってことは、魔力の防護も働いていないってことか)

再び蔦状の光子が現れるように念じてみるものの、何も変化は起こらなかった。
ミリアは自らの心と知覚で、己の世界を感じ取り、内奥に触れた訳ではない。
従って、アイン・ソフ・オウル特有の力も自在には使えない。
そもそも、光の結界はミリア自身の世界を淵源としている訳ではないので、自らの意思で扱えないのも当然だ。

急に心許なさを感じて、ミリアは室内の確認を始めた。
手の届かない天井には、小型のエアコンと火災報知器、四つの埋め込み型の照明。
鉄の扉は二つあって、廊下に面したものと、部屋側面の浴室とトイレに通じるものがある。
廊下に面した扉はミリアが壊してしまっていたが、開閉用のコンソールは無事だ。
近くでコンソールを覗き込めば、小型スピーカーと豆粒程度のカメラレンズが設置されているのが確認できた。

(……こいつで、今までアタシを監視してた?)

「誰か見てる?」

ミリアはレンズの向こう側に聞く。

「もちろん見ているとも、ミリア君」

スピーカーからヴェクスの声が流れると、ミリアは心の中に獰猛なものを覚えた。
リンセルの奪還を考えるのなら、彼は放置出来ない存在だ。
可能なら、どんな手を使ってでも取り込まねばならない。

「ヴェクス……だったっけ?
 まあアンタの名前なんてどうだっていいけど。
 アタシが聞きたいのは一つだけ。
 今、リンシィは何処でどうしてる?」

「無事とだけ言っておくよ。
 君が檻の中に留まっている限り、危害を加える理由も無いからね」

「まだ、この病院にいるの? それとも救急車で何処かに移した?」

「詳細に答えられないのは分かっているだろう?」

「……卑怯者ッ」

「いやいやいや、ちょっと待ってよ。
 それを君が言うのかな?
 今まで、魅了の魔力で良いように人の心を操ってた君が」

539ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/08/07(金) 02:52:59 ID:PPqgYxgE0
ヴェクスがダブルスタンダードを突っ込むと、ミリアの表情に苛立ちが浮かぶ。

「別に良いように操ってたわけじゃないし!」

「隷属化の術と違って、対象の認識を歪めるだけの魅了の魔力は、そういった自覚も薄いのかもしれないね。
 でも、君は相手から事前に承諾を取ったり、公言はしてなかっただろう?
 後ろめたさや、反社会的な行為をしてる自覚はあったはずだ。違うかい?」

「間違った社会を変えるには、手段なんか選んでられない!」

「うんうん、御立派な覚悟だけど、それで傷つく人間も少なくないんじゃないかな?
 例えば、あの聖堂騎士。アレクサンデル・レシェティツキ。
 君を信奉する事と三主への信仰が釣り合う筈もないから、彼は信仰を棄てたに違いない。
 いや、魔力で価値観を変えさせられて、信仰を棄てるように強いられた。
 これで魅了の魔法が解ければ、どうなるだろう?
 彼は、他者を心の中へ踏み込ませてしまった自分に苦しみ、君に加担した事を後悔するに違いない。
 しかも、君を奪還しようとした際、命に関わるような怪我をした訳だけど、その責任は確り感じているのかな」

「勝手なことを! アレクの怪我は……アタシが治した!
 それに怪我させたのは、アンタたちだろ!」

「だが、怪我の原因を作ったのも君だ。
 ミリア君に振り回されなければ、今頃は彼も聖都で平穏に暮らせたかも知れない。
 まあ、直ぐに三主教が引き取りに来るとは思うけどうね。
 そうしたら、もう二度と君の元には戻らない」

「……そう」

(残念! 医師団の中にも三主教の中にもアタシが魅了した奴がいるから!)

あるかなしかの薄い笑みが、ミリアの口角に浮かぶ。
一連の会話で、ミリアの側も協力者がいた事を思い出したのだ。
あの小太りの男性医師が、アレクサンデルやリンセルを確保してしまえば存分に暴れ回っても問題ない。

(なんて名前か、忘れたけど)

魔術を使えば今すぐの脱出も可能だが、強引に病棟を抜け出てもリンセルに危害を加えられては無意味。
とは言っても、監視する相手の居場所を掴んで、魅了の魔力で捉えるような手立ては思いつかない。
結局は、人頼みで状況が変わるのを待つ方が好転の可能性も高そうだと思えた。

「シャワー浴びるからさ。朝御飯と着替えくらいは用意してくれるよね」

ミリアはそう言うと、不貞腐れたようにカメラレンズの前から踵を返す。
部屋の中を数メートル歩き、もう一つの扉を開けると、中には縦横五メートル程度の部屋があった。
小さなユニットバスと洋式便器が、ぽつんと寂しげに置かれている浴室だ。

「……誰か聞いてる?」

念の為に無人の浴室に向かって聞く。

「もちろん聞こえてるよ。
 残念ながら、人権上の問題から浴室にカメラは無いけどね」

返って来ると思わなかった応答は、直ぐ横の壁から流れて来た。
ミリアが音源に目を向けると、タイルと同色のスピーカーが壁に埋め込まれている。

「気持ち悪……」

見えざるヴェクスに悪態を吐くと、ミリアは汗や霧や戦豹の疑似体液を吸って汚れた服を脱ぐ。
程なく、広い浴室にはシャワー音が響き始めた。

540巡検司書アルサラム ◆FarahLxH6M:2015/08/09(日) 05:02:13 ID:x5JjfWiU0
図書国家バニブル・東ソプト区。
此処の図書保管センターは、バニブルの中でも特に現代的な印象を持つ。
金属製の書架は高い天井まで伸び、それは余りにも整然としていて、コンピューターの内部構造を思わせた。
館内は情報技術化が進められていて、本の貸し出しは蔵書検索や予約が行える機械を使い、返却は返却用のポストに投函する。
慣れた者ならば、カウンターの司書と顔を合わせずとも本を借りる事が可能だ。
改修や増築の容易い地上階層は、このように最新設備が整えられている。
そして、この先進化の著しい空間には不似合いな人物が二人、入口の辺りで佇んでいた。

「イアハート調査司書、此処から王の執務室に向かうのか」

アルサラムが隣に立つ女、ヴォルアナ・ヴァルン・イアハートに聞く。
彼女はラクサズの紹介で手配された案内人で、ダァトこと、フラター・エメトとの面会許可を持つ数少ない人物だ。
結婚してからは東ソプト区に居住し、家庭に入っていたのだが、少し前に調査司書の身分を得ている。

「ううん、地下書庫を一階ずつ突破する必要は無いわ。
 私はフラター王から転送の魔力を持つ霊符を頂いてるから、一気に執務室のフロアまで行けるの」

ヴァルンは得意げに答えた。
彼女の恰好は国章の刺繍を入れた赤いドレスと黒いコート。絹のベルト。頭部には白いヴェール。
アルサラムの方はバニブルの国章を刺繍された黒い丈長のコートとロングブーツで、暗赤色のベルトには儀礼短剣を吊るす。
いずれも古い時代の装いで、中世期から迷い込んで来たかのような印象を抱かせる。
無論、この時代錯誤の服装はフラター・エメトとの謁見に備えた礼装だ。

「そうか……頼む身分で悪いが急いで貰いたい所だ。
 俺は邪悪な存在を討つ為、一刻も早くアイン・ソフ・オウルの域にまで届く力を得なければならない」

「邪悪な存在?」

「魅了の魔力を使う魔女だ。
 他人の心を捻じ曲げ、自由意思を奪い、都合良く動かしては、労せずに上澄みだけを掬う」

「な、なんて女なの! それは許せないわねッ」

ヴァルンは魔術で夫の心を奪われた苦い経験を持つ事から、我が身の災難を重ね、我が事のように憤った。

「ああ、必ず罪の清算をさせねばならない。
 犯した罪には、相応しいだけの罰を」

「そうね、頑張って!
 イストリア条約では精神操作の刑罰は禁固三年以下で、規模が広くて封じる手段も無ければ終身刑も有り。
 操られた被害者が犯した罪も、基本的には術者へ加算。
 他者の精神を変容させて、自らの犯罪を実現した者は間接正犯となる。
 ただし、裁判で犯罪防止や自己防衛に使った事を示せれば、罰金刑で済む可能性もある……だったかしら」

「刑法について語るつもりは無い。
 王に謁見する必要性を納得して貰ったのなら、迅速に転送の準備を」

「ええ、分かったわ、アルサラム……って呼んでいいの?
 それとも、アゼルファージ司書って呼んだ方が良かったりする?」

「好きに呼んでくれ」

「それじゃ、貴方の事はアルサラムって呼ぶわ。
 私の事はヴァルンでお願い。
 アルサラムの準備が出来てるのなら、直ぐにでもフラター王の元へ行きましょう。
 少しだけ変わった見た目をしてるけど、くれぐれも非礼の無いようにね――――ペテ・エスタイ」

ヴァルンが魔力が込められた符を取り出すと、起動呪語を舌に乗せる。
次の瞬間、二人の姿は陽炎の如く掻き消え、一瞬きの間に地下深くの階層まで到達した。

541enchanter ◆FarahLxH6M:2015/08/09(日) 05:12:10 ID:x5JjfWiU0
書き手の世界構造に関する知識が不十分な段階で、限りなく全知に近いダァトと接触させれば基本設定との齟齬が出かねない。
拠って、本編の設定を整理して書き手の認識を再確認しておく。

◆世界の歪みに関して
造物主はネバーアースを創造した後は永遠に去り、一切の干渉をせず、観測者としてのみ存在している。
しかし、管理者の存在しない世界群体には歪みが生まれる。
最初の異変として、異質で強大な力を持つ個体が誕生した。
それこそが、原初のアイン・ソフ・オウルたる枢要罪と八大竜王。
彼らは世界の覇権を掛けて争い、戦いの果てに魂を散華させて互いを根絶し合った……とされる。
その際に生まれた世界の歪みが、アイン・ソフ・オウルとしての力を覚醒させる理由となっている様だ。
大いなる厄災が近づくに連れてアイン・ソフ・オウルの強大化や発生が起きるのも、世界の歪さが増しているから、で説明がつく。

◆アイン・ソフ・オウルへの覚醒について
設定には、世界の歪みがアイン・ソフ・オウルとしての力を覚醒させる理由となっている様だ、とある。
また、世界自身の防衛機構が世界の歪みを平定するべくアイン・ソフ・オウルを生み出す、とも。

1.人口過剰な地域や強大なアイン・ソフ・オウルが存在する空間は、世界の器に掛かる負担も高く、歪みも発生しやすいと仮定する。
2.アイン・ソフ・オウルが感情で世界を歪める存在である以上、強い意志と感情を覚醒の起点としても不自然ではなさそうでもある。
3.無論だが、感情の強度だけを覚醒の条件にしては、アイン・ソフ・オウルでない一般人は強い感情を持たない事になってしまう。
 (強い感情を持った時点で、誰でもアイン・ソフ・オウルになってしまう訳はないので)
4.世界の歪みが発生する場所で使命感や殺意、生命への危機感などの強い感情を持つこと……が覚醒条件の候補と考えられる。
5.大量の魂(世界)を取り込む、という方法でも自分だけの世界の規模を大きく出来そうではある。
6.前提からして間違っていた場合、以上の仮説は全て崩れ去る。
7.小宇宙《コスモ》を燃やせ。

542装幀司書ヴェクス ◆xNodesigng:2015/08/13(木) 04:58:48 ID:n/j7HWKE0
ミリアが浴室に消え、監視用モニターに映るのは無機質な部屋だけとなった。
浴室とトイレにはカメラを設置されていないので、ミリアの様子も音でしか分からない。

「警備官殿。
 アクノス市警に連絡して医師団の全員を拘束できますか?」

ヴェクスはスピーカーでシャワー音を聞きながら、ウィムジーに話しかけた。

「アクノスに向かった医者の中にスパイがいるってことか、魔術師」

警察関係者だけあって、ウィムジーも相手の真意に気付いたようだ。

「ええ、聖堂騎士を三主教に引き渡すと言った時、彼女の表情には余裕が見えました。
 つまり、聖堂騎士が三主教の管理下に移される状況も、さして都合が悪くない。
 要するに外部協力者が存在するのでしょう。
 ミリアの魔力で魅了され、手先として動くものがね。
 おそらく、それは聖堂騎士を拘束している医師団か、引き渡される先の教皇庁の中にいる」

ミリアの反応を観察していたヴェクスは、彼女の表情に嘲笑うような余裕を感じていた。
魔術師も警備官も、世慣れていないミリアが簡単に出し抜けるほど甘い相手ではない。
それなりの洞察力を持ち、相手の出方を考え、手を打つという当然の事を行う。

「なるほど、話は通しておこう。
 上にも管轄が違うなどとは言わせん。
 しかしな、三主教の方はうちでも手が出せんぞ。
 教皇庁に要請して動いてもらわんと、どうにもなるまい」

「すぐに対処して貰いたい所ですが、確実に信頼できる相手を選んで話さなければ、悪化しかねないのが難点ですね。
 聖堂騎士の一人を魅了した事実がある以上、精神汚染の規模も思ったより広がっているかも知れませんし。
 ミリアがエヴァンジェルに滞在した時間を鑑みると、魅了被害者は最大で数十から百人以上の規模と考えるのが妥当かな。
 そこまで魔力が持つかという問題は、厄災の種が解決する」

「ううむ……信奉者が数十から百人か。
 ちょっとしたカルト教団だな。
 魔術ってのは、つくづく厄介なもんだ」

警備官は苦虫を噛み潰したような表情で吐き捨てる。

「確かに魅了は厄介な力ですが、あの女が持つ最強のカードじゃないでしょうね」

「ふゥむ、もっと厄介なもんといやぁ、さっきの植物みたいな結界か?
 普通の魔術じゃ破れんとか言っとったしな」

「あれも堅牢な障壁だとは思いますが、違いますね。
 いや、違う事もないかな?」

「おいおい、どっちなんだ」

「じゃあ、正解としておきましょうか。
 僕は、あの光の結界が、強固な意志や強い感情が生む副産物ではないかと推測してまして。
 心の壁というか、境界というか……要するに他者の価値観を拒み、己の常識を守る精神の具現ではないかとね。
 感情で世界を歪める存在について考えていたら、ふとそんなインスピレーションが湧いたんです」

「つまり、結界を作るような強い意志や感情が、一番強いカードってぇ事か?」

「ミリアに関しては、死んだ父親の理想を叶えようという意志、なのでしょう。
 彼女が事件を起こした動機にして、あらゆる不法を正当化する免罪符でもある。
 これを叩き潰さなければ、おそらく事件は解決しない。
 ですが、リンセル・ステンシィの命で揺らいだ程度の意志ですから、不落の要塞という訳でもないはず。
 希望的観測ではありますがね」

543装幀司書ヴェクス ◆xNodesigng:2015/08/13(木) 05:00:01 ID:n/j7HWKE0
ミリアには、淡いピンク色の病衣が着替えとして用意された。
反省の意を見せずとも、血のようなものがベットリ付いた服を着続けろとは言えない。
服の替えを運ぶのは、看護の意味を持つ自動搬送ロボット“プロセドリアー”だ。
看護婦を模した人型の機械だが、妙にアニメチックな造形である。
長い金髪と碧い瞳、不必要なまでのプロポーションの良さを持ち、気のせいか星の巫女にも似ていた。

「……まぁ、何とも言えないデザインだ」

検査室に置かれた機械人形を見て、異郷の魔術師は呆れたように言う。
如何に高性能医療機器でも、見た目が等身大のアニメフィギアでは異様な印象も否めない。
ドイナカ村の警備官も同意したように頷く。

「多分、院長の奴の趣味だろう。
 そう言えば、車に同じような絵を描いとる奴もおったな。
 痛車とか何とか言っとったが……何を考えとるやら。
 あぁ、俺は役場の様子を見てくるから此処は頼んでいいか」

「ええ、何かあったら連絡しますよ。
 何も無ければ、それに越した事はありませんが。
 三主教の方は此方の上司に連絡しますので、御案じなく」

ウィムジーが出てから数分後。
プラスチックのバスケットにタオルと服を詰めたプロセドリアーが、病棟の廊下を歩いてゆく。
人工知能の発達で近年の医療ロボットは生物の感情を認識し、高い判断能力を持つ。
細かい指示を下さずとも、大抵の事はやってくれるのだ。
頭の螺子が外れた相手でも、精神を擦り減らさないで会話出来る点から、特異病棟では特に重宝されている。

(千年前には付与魔術師しか為しえなかった神秘を、いとも容易く大衆が操る。
 まったく、堪ったものじゃないね)

現代の付与魔術師は浴室の前で佇む機械人形を見て、そんな感想を抱いた。
実際、ここ数百年の機械工学は進歩が目覚ましく、高度な人工知性を持つ機械も先進国では珍しくない。
例えばインペリア。彼の完全管理都市は機械を国家元首として戴き、市民を統治させている。

(機械が人の上に立つ光景なんか、ラクサズが見たら憤激しそうだ。
 ああ……教皇庁の内部にミリアの手先がいるかも知れない件は、今の内に連絡しておくか)

ヴェクスは魔術通信具を使って、ラクサズに必要事項を伝える。
それは手短で、プロセドリアーが浴室前の扉で佇む頃には終わっていた。

「ミリア君、着替えとタオルを用意したよ。
 浴室の外で看護用のロボットに持たせてるから、シャワーを済ませたら受け取ってくれ。
 ところで……まさか、シャワー音に紛れて壁なんか掘ってないよね?」

スピーカーで着替えの用意が整った事を伝えつつ、策謀の有無も問う
ミリアは魔力減衰帯でも魔術を使えるので、他人に悟られぬ時間を利用して何かしている可能性はあった。
強化魔術の使い手なら、爪を硬化させて壁を削るくらいは可能なはずだ。

「一応言っておくけど、他の部屋や廊下にもセンサーを備えた監視カメラがあるから。
 気づかれずに抜け出すのは不可能だよ」

内心では杞憂と思っていたが、それでもヴェクスは警告を行う。

(……機械人形の瞳にも監視カメラはある。念の為に起動させておくか)

プロセドリアーの撮影機能が起動して、管理室のモニター画面に撮影中の映像が転送された
今、重要視すべきなのはミリアの人権より、事件の解決だ。
だから、ヴェクスに疚しい気持ちは無い。おそらく。

544ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/08/20(木) 07:07:44 ID:O2xX6Z/U0
ミリアがシャワーを浴びていると、浴室のスピーカーから声が聞こえて来た。
コンクリート壁の掘削に励んでないかというヴェクスの確認だ。

「……別に壁なんか掘ってないけ、ど――――」

ミリアは向けられた疑いに文句を返しつつ、浴室の扉を少し開け、顔だけで外を覗き込む。
目の前には、アニメ調の等身大フィギアが静かに佇んでいた。
この場合、表情を強張らせて絶句するのは当然の反応かも知れない。

「――――何これ?」

尤もな疑問がミリアの口を衝く。
その疑問に答えるのは、金髪碧眼で真っ白なナース服を着た人形自身だ。

「初めまして、私は自律型の医療支援ロボット、プロセドリアー、です。
 あなたの、名前は、何ですか?」

高音の合成音声には抑揚がついていて、挨拶にも感情らしきものが表現されていた。
笑顔のつもりなのか、瞼が閉じ、それに合わせて口元も緩やかな弧を描く。
技術の高さを感じさせる仕草だが、やや不気味だ。

「……ミリア、だけど」

あからさまに警戒したまま、ミリアは恐る恐る自らの名を名乗る。
本当に自分へ向かって話し掛けて来たのか、確かめるように。

「ミリア、さん、ですね。
 タオルと、お着替えを、用意いたしましたので、どうぞ、着替えてください」

人型の看護用ロボットが、着替えの入ったバスケットを床に置く。
ミリアに用意されたのは、ピンク色で足首まであるワンピースの病院着だ。
外を歩き回るには目立つ恰好だが、血塗れにしか見えない服よりはマシではある。

「そ、そう、ありがと……」

「どう、いたしまして。
 もし宜しければ、着替えの、お手伝いを、致しましょうか?」

明るい調子の音声で介助を申し出るロボットだが、ミリアは首を振った。

「生憎だけど、アタシは介助が必要な重病人じゃないの。
 それくらい一人で出来るから、着替えの手伝いもいらない」

「それは、失礼いたしました。
 他に何か、御用はありませんか? ミリア、さん」

「あっ、あー……それなら電気シェーバーってある? 無ければ剃刀でもいいんだけど……」

ミリアは躊躇いがちに要求する。
一昨日辺りから暫く剃っていない箇所が衣擦れして、激しく動く度に気になっていたのだ。
出来れば早く剃って、元の滑らかな状態に戻したかった。

「電気シェーバー、ですね。
 もしかして、ムダ毛の処理、ではありませんか?
 デリケートゾーンは、皮膚が弱く、自己処理も、難しい場所です。
 毛の埋没や、色素沈着、毛嚢炎のトラブルが多い箇所ですから、自己処理は、オススメしません。
 宜しければ、私がお手伝い致しましょうか?」

プロセドリアーが背中に手を回して、電気シェーバーとジェルの容器を取り出す。
直ぐに電気シェーバーのスイッチを入れたようで、ヴヴヴヴヴ……と低い電動音が鳴る。

545ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/08/20(木) 07:08:32 ID:O2xX6Z/U0
「……そ、その前に。
 さっき自律型って言ってたけど、アンタの中に誰かが入ってるって事は無い? 着ぐるみみたいに」

この等身大フィギアらしきものが、スーツアクターである可能性を考えてミリアは聞いた。
イストリアでもエヴァンジェルでも、自律型の機械は一般的でない。
馴染みの薄いものに対して疑いを持つのは、無理からぬことだ。
他人に局部を見られるのは嫌だという、人として当然な理由もある。

「私の中には、誰もいません。証拠を、お見せします」

プロセドリアーは手首を取り外して、開口部からコードや精密部品が内蔵される内部構造を突き付けた。
続いて己の看護婦用の服を捲り、腹部に医療器具や衛生用品が収納されている様も。
ミリアも感心したように内部を覗き込む。

「へー……ロボットってのは本当だったみたいだね。
 で、アンタは自我とか感情はあるの?」

「はい、あります。
 私たちは、感情認識/生成プログラムを、搭載しています。
 近くに、信頼出来る人がいれば、安心しますし、暗くなると、不安になります」

「ほんと?」

「信じて頂けなくて、残念です」

疑いの眼差しを向けられ、プロセドリアーは悲しげなトーンで言葉を返す。
しかし、悲しげな反応を返したからと言って、感情を持っているという証左にはならない。

「裸見られると恥ずかしい、とか思ったりする?」

「いいえ、私たちに、羞恥心は、ありません。
 ですが、社会のルールに、反するので、無闇に裸になるような事も、ありません」

「ふーん……そこら辺は、やっぱり機械って事か。
 患者の下の処理もするのなら当然だろうけど。
 ま、こっちも恥ずかしがる事ないみたいだし、やって貰おうかな」

ミリアは看護用のロボットを浴室に招き入れる。
先ほどの言葉通り、室内を見ても魔術を利用して壁を破壊したような跡は見つからない。
ミリア自身はと言えば、素裸のままで、シャワーで上気した肌には微かに赤みが差している。
上から順に眺めれば、腰まで垂らした濡れた髪。豊かな胸と桜色の乳首。
柔らかな曲線を描く肉体。薄青の茂み。程よい肉付きの足……そんなものが見える。

546ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/08/20(木) 07:09:05 ID:O2xX6Z/U0
ミリアは浴室の床に座って両足を大きく開く。
プロセドリアーも跪き、電気シェーバーを持ったままミリアの局部に顔を近づける。
人が相手なら恥ずかしい体勢だが、所詮は機械相手だ。
ゴム手袋を嵌めた指先で下腹部に万遍なくシェービングジェルを塗られても、比較的恥ずかしさは少ない。
しかし、繊細な部分に慣れない刺激を受ければ声は漏れる。

「ん……っ」

「痛い、ですか?」

「痛くは無いけど、変な感じ。
 足の裏を自分で撫でても何ともないのに、他人に触られるとくすぐったくて仕方ないようなものだと思う」

「他人に足の裏を触られると、とても、くすぐったいんですね、覚えました。
 それでは、ミリアさんの、ムダ毛を剃ります。
 危ないですから、出来るだけ、動かないでください」

「分かってるよ」

機械人形はミリアの肌を指で引き伸ばすと、電気シェーバーを当てて短い毛を刈り取ってゆく。
これ一つで、どんな部位や状態にも対応出来る最新機器なので、ザラザラとした剃り跡なども残らない。

「痛みは、ありませんか?」

鋭利な刃がミリアの肌の上を滑ってゆく。
少しずつ上の方から毛を剃られ、その後を蒸しタオルで拭き取られる。
機械なので丁寧にやってくれるが、皮膚の薄い箇所に近づくと緊張するのは否めない。

「……だ、大丈夫。
 ところでアンタさ、リンセル・ステンシィって患者の居場所を知らない?
 昏睡のまま寝たっきりだから、もしかしたら看護した事あるんじゃないかと思ったんだけど」

ミリアは自分の両足の間で作業する相手に囁く。
声を潜めたのはヴェクスに聞かれたくないからだが、どのみち機械人形の瞳も耳もモニター室に通じているので意味は無い。
無論、今の様子を撮影されている事など、ミリアの与り知らない事だが……。

「済みませんが、患者さんの個人情報は、お教えできません」

トーンを落とした相手の答えにミリアも溜め息を吐く。
相手がロボットでは、脅しても賺しても望む答えを引き出せるとは思えなかった。

「そっか……。
 ま、期待はしてなかったから良いけどね」

ミリアは何度か体勢を変えさせられつつ、下腹部の毛を刈られてゆく。
程なくして、青い草原も更地に戻った。

「終わりました、ミリアさん」

「まあまあかな、ありがと」

剃り跡を撫でたミリアは、肌の滑らかさを確認すると礼を述べた。

547ミリア ◆NHMho/TA8Q:2015/08/20(木) 07:09:24 ID:O2xX6Z/U0
機械人形も笑顔を模した表情を作る。

「どういたしまして。
 また御用がありましたら、御遠慮なく、申し付けてください」

「……それなら、一つ質問。
 アンタって口から水分を摂取したら壊れる?」

「防水加工が、されていますので、平気です」

「そっか。
 なら問題ないね」

ミリアは医療用ロボットの頭を抱き寄せ、その唇に濡れた舌を差し込む。
人の感情を理解するようなものなら、魅了で精神に影響を及ぼせないかと考えたのだ。
これを操って利用すれば、外界に干渉できるかも知れないと。

「乱暴は、止めて、下さァい」

人工音声が困惑の色を帯び、心持ち非難がましいものに変わった。
しかし、ミリアは機械人形の頭部を両手で押さえつけ、ゴムのような感触の舌を舐め回す。

「これは乱暴じゃなくて、親愛の証だよ。
 主に人同士でするもんだけどね」

「キス、ですね」

「そうだよ、キス。
 で、キスされて何かアンタの感情に変化は無い?」

「困惑を、隠せません」

結果から言えば、ミリアの行為は全くの無駄に終わった。
魅了の魔力は無機物に効かない、という検証結果を得ただけだ。
特異病棟で医療用の自律機械が使われるのは、精神に干渉されないからなので、少し考えれば自明の事である。

「……クソッ、やっぱりダメか」

試みが期待外れに終わり、他に打てる手も考え付かない以上、後は普通に収監されているしかない。
ミリアは浴室の中で着替えると、病室兼監獄に戻った。
一連の行為が筒抜けである事など、思いも寄らず。

548医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2015/08/28(金) 20:55:34 ID:jldd9I/I0
アクノスの病院に搬送された翌日、コーデファーは漸く意識を取り戻す。
昨日こそ瀕死の彼女ではあったが、今は腹部の裂傷も完全に消え去り、肌は白磁の美しさを取り戻していた。
傷の快癒は医師の手際に起因するものではなく、コーデファーが常に装着する首飾りの魔力だ。

「……ん、ぁ?」

医療司書は瞼を開けると、まず見覚えのない六人部屋の病室に困惑した。
窓を眺めると高層ビルと高架で描かれた風景が嵌まっていて、明らかにドイナカ村ではない。
困惑しつつもコーデファーがナースコールを掛けると、直ぐにアデライドが駆け付けた。

「看護婦、此処は何処」

「アクノス、第一号、中央精神医学研究施設、ヘルメース、附属病院」

「アクノス州の病院……とりあえず、今の状況を教えなさい」

コーデファーはアデライドに聞き返す。
実際、眠っている間に致命傷を受け、移動させられ、知らぬ間に完治していた彼女は状況がよく分からない。

「了解、説明開始」

アデライドの説明で、コーデファーが知った事は以下の通り。
まずはアルサラムの魔術で眠らされ、アレクサンデルごと攻撃を受けて死にかけた事。
元凶のミリアは拘留されたものの依然として危険な存在であり、警察の手に負えるかは怪しい事。
彼女による被害の拡大を想定して、患者たちを転院させ、ドイナカ村も警戒区域に指定された事。
ミリアの異常な魔力に対抗する為、アルサラムとエクレラはバニブルに戻り、病院では最小限の人員が事後処理に当たっている事。
その他はリンセルが隣のベッド、アレクサンデルが隔離病棟に運ばれた事くらいだ。

「――――アルサラム! 恐ろしく愚劣で野蛮な男ね! わたしごと殺そうとするなんて!」

コーデファーは怒りで顔を歪めた。
実際、金属杭で体を貫かれたのだから彼女の怒りも正当なものだとは言える。

「激怒厳禁、安静必要」

「そんなこと分かってるわ……!」

コーデファーは怒りの収まらない様子で言い返す。
目の前にアルサラムがいれば、そのまま聞くに堪えないような悪口雑言を吐く所だが、看護婦相手に怒った所で無益。
すぐに冷静さを取り戻すと、今聞いたばかりの話を脳内で反芻し始めた。

(あの女、ミリアは魅了しただけではなかったのだわ。
 まだ何か……別種の作用を持つ力を隠し持ってる。
 きっと、それがリンセル・ステンシィの延命の原因ね。
 魔槌を防いだ不可思議な光を作り出したのは、体内に埋め込んだとかいう魔術具?
 少なくとも、意志を持ってる物が体の中にあるのは間違いないはず……)

優先すべきは、自己を劣化させない技術を完成させ、完全な不老不死を成就させる事。
その為にはリンセルではなく、不可思議な現象の源に近い存在こそを調べなければならない。

「看護婦、電話を用意して」

549医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2015/08/28(金) 20:56:50 ID:jldd9I/I0
ヴェクスからの応答を待つ間、コーデファーはふと疑問を浮かべた。
なぜ、自分は不老不死を欲するようになったのかと。
しかし、幾ら思索の糸を手繰り寄せても、端緒となる記憶を引き寄せる事が出来ない。
おそらくは、若化の際に脳内から失われてしまった情報なのだろう。

(……別に思い出せなくたって問題ないわ。
 死は生物として最大の苦痛だから、最大限の努力で避けようとしても不自然ではないもの)

「電話、準備完了」

程なく、看護婦が携帯電話を持って来た。
既に通話状態で、耳元へ持っていくと五秒も経たずにヴェクスの白々しい声が聞こえて来る。

「無事なようで嬉しいよ、コトン。
 僕も勇気を奮って、君を救った甲斐があるってものだ」

「失点を嫌っただけのくせして恩着せがましいわね。
 で、もうあの女の尋問はしたの?
 ミリアが体内に隠し持つ魔術具は何? あれが謎の光の原因?」

「臨時職員とはいえ、今の僕は警察の一員。
 捜査情報にも、一応の守秘義務があるんだけどね」

「そんなこと、どうだっていいわ。
 どうせ、ラクサズだか誰だかの意で動いてるんでしょう?
 彼は未知の力について知りたい。わたしは未知の力を調べたい。
 お互いの利益になるのに、何か不都合があって?」

受話器の向こうから苦笑の気配。

「例えば、僕が正体不明の飴を持っているとしよう。
 綺麗で美味しそうに見えるが、製造メーカーも原材料も分からない飴をね。
 これが食べられるかどうかは知りたいが、そのまま食べるのも不安だ。
 非常に美味しいかも知れないけど、特定の種族には猛毒って場合もあるからね。
 しかし、成分を調べさせる相手として、飴玉を見て瞳を輝かせる子供ってのは不安が否めない」

「無駄に回りくどい物言いって本当に腹が立つわ……死ねばいいのに。
 要するに、わたしがあの女に魅了されてないかを疑ってるの? それなら無駄な心配。
 人の形をしただけの害虫に、愛情なんて微塵も湧かないから」

「かも知れないが、とりあえず治療に専念した方が良い」

「治癒の首飾りを付けてるから、一日も経ってればもう大丈夫。
 身体が動くのに、黙って寝てるつもりなんか無いわ。
 わたし、時間の浪費って大っ嫌いなの」

「君の主義はともかく、猛牛も闘牛場へ追い込んだだけで、鎖で拘束したわけじゃない。
 闘牛士に頑張って貰わなくちゃ、とてもじゃないけど美味しく食べられないよ」

「まったく、情けない話ね。
 付与魔術師の名門たちが、二十年も生きてないような女に手も足も出ないなんて」

「世の中の広さを知るね。
 央漢の故事で、井底の蛙とか言ったかな」

コーデファーとヴェクスが電話越しの会話を続ける中、二人の人物が静かに病室へ入って来た。
黒いスーツの上にロングコートを羽織った青年と、紺色のスーツを着た十八くらいの女。
どちらも医者ではなく、患者に面会するといった雰囲気でもない。
彼らは地区警察からの要請で動いた連邦刑事局の刑事だ。

550医療司書コーデファー ◆COTONz2BNI:2015/08/28(金) 20:58:52 ID:jldd9I/I0
現在、この病室には六人の女性が入院している。
彼女たちの視線も一斉に闖入者へ集まったが、謹厳そうな青年は気にした風もなく、アデライドへ近づく。

「失礼、ローカルナ州から来た看護婦ですね。
 私は連邦刑事局のクラウス・ロットナー。
 ドイナカ村の事件について、詳しく事情を知りたいので同行願えますか」

ロットナーと名乗る刑事は警察手帳を掲げつつ、硬い声でアデライドに同行を要請した。

「確認、任意同行」

「任意だが、起きた事件の重大性を考えて協力して頂きたい」

任意と言いつつ、ロットナーは有無など言わせない。
彼らの目的は、ミリアに魅了されている可能性を持つ人物全員の拘留なのだから当然だ。

「了承」

アデライドは即答で同行を応諾した。
感情の動きが少ない顔からは、事件について検討したかまでは窺い知れなかったが。
続いて、ロットナーの視線は病室の新参者へ向けられた。

「そちらは医療司書のコーデファーさんかな」

「何? 警察への任意同行ならお断りよ。
 わたし、大怪我したばかりで今日はベッドから一歩も動けそうにないの」

もちろん嘘だ。

「先程、体は動くと聞こえたが」

刑事に嘘は通用しなかった。

「……立ち聞きしてたの?」

「偶然、聞こえまして。
 体が動くなら、捜査協力をお願いしたい」

「もしかして、あなたもわたしが洗脳されてないか疑ってる?
 あんな女に誑かされたって思われるのは心外だわ」

「精神魔術の厄介な点は、影響を受けているか否かを即座に判別出来ない事でね。
 検査でオールグリーンと出るまでは隔離させて貰いたい。
 とは言え、さして時間は取られないでしょう。
 未知の魔力は検知出来ずとも、嘘や偽証の判別は此処でも出来るそうですから」

刑事たちは病院に来て三時間も経たず、ドイナカ村から来た全員を隔離病棟へと送り込んだ。
そこで、心理分析ソフトと精神波測定を利用して、尋問と虚偽判定が行われる。

結果は、その日の内に出た。
医師団の一人、ヨードル・アークジーンが見事に引っ掛かったのだ。
彼は逃走を図ったものの、ロットナーに軽く捻られて捻挫を受け、そのまま隔離病棟へ拘禁された。
これでヨードルが教皇庁への連絡を遅らせ、アレクサンデルの解放を目論んでいた事も判明する。

警察の動きは速い。
同日、ルーラルダ連邦刑事局から教皇庁へ連絡が入り、アレクサンデルが精神操作を受けている事実も伝えられた。
エヴァンジェルの治安維持を司る都護聖省も、提供された情報を元にロルサンジュへ聖堂騎士を派遣。
しかし、ステンシィ夫妻への事情聴取は適わずに終わる。
ベーカリーに訪れた聖堂騎士アリアード・レーシャルは、明りの無い店舗に臨時休業の張り紙を見つけただけだった。

551装幀司書ヴェクス ◆xNodesigng:2015/09/03(木) 22:39:24 ID:jhx5I9Ow0
舞台は再びドイナカ村の病院に戻る。
管理室のヴェクスは、モニターでミリアの様子を眺めていた。
現在、病室と廊下との境界には、破壊された鉄扉の代わりにkee poutと書かれたテープが張られている。
破るのは容易いテープではあっても、一応は障壁としての役割を果たしているようだった。
入浴後のミリアも暇を持て余すように寝転がり、監獄として定めた範囲からは出ない。
焦燥も緊張感も見せないのは、魅了したヨードルの動きを待っているからだろう。

しかし、ミリアの元に朗報など来ない。
彼女の尖兵は既に拘束されたのだから。
無論、ヴェクスも懇切丁寧に経緯を教えるつもりなど無い。
自分の試みが順調に進んでいると夢想させていれば、ミリアも動かないと考えて。
怠惰に寝そべる囚人を監視しつつ、看守の方は先程の映像に効果的な使い道が無いか検討していた。

(さて、この自殺案件の映像はどうすべきか。
 脅迫で動きを封じられればいいが、逆上して後先考えずに暴れられても堪らない。
 いや、そもそもリベンジポルノの真似事をすれば、地区警察に手を貸したバニブルまで名声を地に落とす。
 証拠が残るような方法で脅すのは好ましくないな)

ヴェクスは何かを思いついたようで、電話を掛けるべくタブレット端末を手に取り、指先を動かす。
彼は通話先の相手に幾つかの魔術具を送付するよう依頼し、程なく要件を終えて電話を切った。
続いて、コーデファーの検査が終わった頃を見計らい、アクノスにも電話を掛ける。

「やあ、コトン」

猫撫で声に生理的な嫌悪感を抱き、コーデファーは無言で通話を切った。
しかし、ヴェクスはあからさまな拒絶に引き下がることなく、即座に電話を掛け直す。

「いきなり電話を切るなんて酷いなぁ。
 そう邪険にしないでよ」

「わたし、何時間も検査を受けたばかりで疲れてるの。
 少しは気遣いなさい。
 ……で、何の用?」

コーデファーは面倒臭そうに言った。

「報復の絞首紐《リプリサル・ギャロット》を送るから、リンセル・ステンシィに装着させて欲しい」

「あれを保険にするつもり?
 其処まで外道な手段を使うっていうのも情けないわね」

「悪魔と戦う時は、悪魔よりも悪魔的にならねばならないって言うだろう。
 ともあれ、ブラフよりは実行性のある方が良い。
 まあ、世の中の為だからセーフじゃないかな」

「理念のためなら不法も正当化されるって論理、あの女も使ってなかった?」

「もちろん、使ってたよ。
 あらゆる侵略行為は、目的で手段の正当性を担保するものだからね。
 まあ、彼女の主張は裁判で聞くとして、まずはそれが可能な状況を作るのが肝要だ。
 罪を問う奴がいれば、そいつにミリアの管理をさせたい」

「まぁ、いいわ。
 せいぜい、お得意の口先で宥め賺して自暴自棄にさせないことね。
 それと、其方に覧界視が置きっぱなしになってるから、すぐに此方へ送って頂戴」

突き放した様子で言うと、コーデファーが通話を切る。
用を終えたヴェクスがモニターに目を移せば、医療用ロボットが病棟に夕食を運んでいた。
時刻も夜に差し掛かったのだろう。

552巡検司書アルサラム ◆FarahLxH6M:2015/09/05(土) 20:50:45 ID:Aa/MmyRA0
図書国家バニブルの地下書庫、その深層。
無数の書架が林立する闇の迷宮に力強い濁声が響く。

「ホンマに来よったか!
 あの婆はんに見せられた通りの奴やな」

「ダァト……ではないな。誰だ」

アルサラムは不審に思い、書物の森に向かって誰何を響かせた。
それに応えて、一人の男が本棚の影から現れる。
真っ黒な髪で類人猿を思わせる強面、齢は三十を超えた程度のようだが、明確な国籍や人種は不明。
黒いスーツを着て、サングラスを掛け、右手で黒い宝玉――――厄災の種を弄んでいる。

「ワシは蜘蛛《スパイダー》」

「喋る虫とは珍しいな」

「アホ、蜘蛛が喋るか!
 蜘蛛は通り名や! 通り名! 本業は探偵!」

即座の訂正が飛ぶ。
蜘蛛《スパイダー》を自称する男は、バニブル市街に居を構える私立探偵であり、ヴァルンが面識を持つ相手だ。
当然ながら、ヴァルンも見知った相手の存在に気付く。

「マサトシ! なんでこんな所に居るの!?」

ヴァルンが素っ頓狂な声で驚く。
彼女が呼んだマサトシというのが、探偵の名前なのだろう。
言葉の響きは極東の一部で見られるものだが、彼が東大陸の出身なのかは誰も知らない。

「ヴァルンの知り合いか」

アルサラムは同行者に確認を取る。

「うん、ハー君が魔術で操られた時、弟子入りしようとした私立探偵」

ヴァルンの他己紹介に男も、そやそやと言いながら頷いた。

「それで、市井の探偵が何の用だ」

アルサラムは改めて相手の目的を問う。
謎めいた第一声からして、此方に用事があるのは間違いない。

「あァ……兄さん。
 悪いが、こっから先は進まんといてぇや」

進路の妨害は想定していたものだった。
現在、不安定なバニブルの政局を掻き乱すべく、どの派閥が暗躍していても不思議ではない。
アルサラムは眉を跳ね上げ、声音の温度を一段下げる。

「貴様の雇い主は、国家司書の地位を狙うラクサズの政敵といった所か」

「政敵ぃ? ちゃうちゃう。
 ワシの依頼人は、イシュタルって占い師の婆はんや。
 ざっと調べた限り、バニブルの政治家や官僚との繋がりはあらへんな」

蜘蛛《スパイダー》はニヤッと笑い、掌を横に振って否定のジェスチャー。

「では、横槍を入れる理由は占い師の戯言か」

553巡検司書アルサラム ◆FarahLxH6M:2015/09/05(土) 20:52:50 ID:Aa/MmyRA0
「まぁ、そうやな。
 フェネクス虐殺の前日辺りやったか?
 ラングルード地区で大陥没が起きたのは覚えとるやろ」

「忘れる訳がない」

私立探偵の言う大陥没とは、バニブルのラングルード地区で起きた、類を見ない程に大規模な崩落現象である。
被害は地階数十層にまで達し、倒壊した建物や負傷者・行方不明者は数知れず、影響範囲も100平方キロ近くに及ぶ。
原因こそ調査中だが、近衛隊長ハーラルの報告からバニブル政府が推測するのは容易だった。
地下書庫の底にはダァト――――建国王フラター・エメトの手で強大な禍物が封じられていると言う。
その封印に綻びが生じたか、或いは解けてしまったと考えるのが自然だ。

「兄さんが行こうってしとる所は、枢要罪“憤怒”に最も近い場所でな。
 先の大陥没も、そいつの力の一端が吹き出ただけぇって話や」

「それと俺に何の関係がある」

「で、だ――――その“憤怒”と兄さんは属性や相性が近いらしい。
 つまり、禍物から影響を受けて、そっち側に染まられちゃ困るって話やな。
 もし、そないなっちまったら、バニブルが受ける被害は大陥没の比じゃあらへん」

「その占い師の心配は無用のものだ。
 俺の心は悪しき禍物の色になど染まらない。
 運命の在り様は予言でなく、人の意志によって定まるものだ……退け」

「不可避《アドラステア》の称号を持つ予言者の予言やなけりゃ、ワシも聞き流したかもわかれへんがなぁ。
 ま、口でぇ言うても無駄やちゅうこっちゃか、兄さん。
 それやったら、ワシも破滅を防ぐ努力をせなあかんな」

私立探偵は黒宝玉を弄ぶ手を止めた。
口笛のような甲高い音を響かせて息を吸い込むと、彼は全身から薄墨色の陽炎を迸らせる。
蜘蛛《スパイダー》の通り名を表すが如く、暗い魔力の揺らぎは瞬く間に蜘蛛の形を取り始めた。

「予言は予言。
 未来は己の手で切り開く。
 正義の執行を阻むものがあれば、押し通るまで」

アルサラムもカードデッキを手にする。
付与魔術で特殊処理を施したクレド・マディラこそが、彼の最も使い慣れた武器だ。
ドイナカ村では虚霊炉の内臓魔力を用いてイラストを実体化させていたが、件の魔術具はラクサズの元で魔力の充填中。
従って、今は己の魔力だけでカードの絵を具現化しなければならない。

「ちょっ、ちょっと待ちなさい! 待って! こ、この脳筋っ!
 アルサラムが憤怒のアイン・ソフ・オウルに乗っ取られるのを防ぐだけなら、別に戦わなくてもいいでしょ!」

ヴァルンの制止が地下空間に響いた。
しかし、既に臨戦態勢の両者は止まらない。

「怪我をしたくなかったら下がっていろ」

アルサラムは同行者へ下がるように促すと、視界を埋め尽くす相手を眺めた。
呪力で作られた無数の影蜘蛛は、一匹一匹が中型犬ほどの大きさ。
それが、今やびっしりと石床を埋め尽くし、書架や天井にも張り付く。
実に悍ましい光景だが、普段から魔境染みた地下書庫を巡検する司書は鋼の意志を揺らがせない。

「ディオラオスの金狼――――進路を塞ぐ虫どもを蹴散らせ」

アルサラムが空中にカードを投げると、描かれた狼のイラストが抜け出す。
美々しい絵は、アルサラムの魔力で質量を備えて実体を持ち、象にも匹敵する巨躯の金狼となった。
イラストを失ったカードには『神に逆らって狼に変えられたディオラオス王の末裔たち』とのテキストだけが残る。

554巡検司書アルサラム ◆FarahLxH6M:2015/09/05(土) 20:57:24 ID:Aa/MmyRA0
「ウォォオオォォオオ!!」

一声吠えて駆け出すと、巨大な狼は黒い大蜘蛛の群れを踏み潰しながら猛然と書架の間を突き進んだ。
丸太のように太い前肢と鋭い牙で、蠢く影蜘蛛の波を割り、さながら除草機のように刈ってゆく。
圧倒的な質量の生物が眼前に迫って来る戦慄すべき光景だが、蜘蛛の主は怯まない。

「阻め!」

影蜘蛛の全てが蜘蛛《スパイダー》の思念に呼応して動き、一斉に漆黒の糸を吐き出す。
幾百もの魔力糸は黒い驟雨の如く宙を疾って網を作り、突進する魔獣を糸檻の中に閉じ込めた。

「……掛かったようやな」

蜘蛛の繰り手が勝ち誇る。
瘴気の網は体表を焼き、捕えた獲物の内部へ呪力の毒素を流し込み、全身に拡散させて肉体を冒す。
影蜘蛛の毒は生物の中枢神経を狂わせ、使い魔の機能を浸食し、霊体であれば維持魔力を失わせる。
金毛の巨獣も毒素で引き裂かれるような激痛を刻まれ、暴れ狂った。
古びた大気が鳴動し、付近の書棚は衝撃で倒れ、死蔵に飽いた居住者たちを吐き出す。
もし、保護魔術が施されていなければ、この短い間で幾つもの貴重な知識が永久に葬られた事だろう。

「ガァ! グォォッ! ハァフッ!」

地に引き摺り倒された魔獣は叫びながら暴れ続けるが、それでも蜘蛛の束縛は破れない。
影蜘蛛の網に強度を与えているのは、人では持ちえない程の異常な魔力だ。

「……その玩具はどうやって手に入れた」

魔術師が探偵に聞く。
アイン・ソフ・オウルの高みまで至った者を除けば、純粋な魔力でアルサラムを上回る人間は多くない。
そして、己に勝る魔力を持つ者が黒い宝玉を掴んでいれば、嫌でも思考は一つの可能性に辿り着く。

「厄災の種か? これやったら依頼主からもろたわ。
 これがあらへんと、ワシが勝てんとかゆうてな。
 せやけど兄さん、厄災の種なんて、ほんま物騒な名前やんなぁ」

闇を孕んだ球を摩りつつ、蜘蛛《スパイダー》は歯茎を剥き出して嗤った。

「それは探偵風情の手には余る代物だ」

「魔術師風情がゆうもんやな。
 自慢の使い魔は網ン中やってのに。
 とっとと降参して引き返せや、ワレ!」

「多寡が一度の攻防で、勝利を確信したつもりか。
 ディオラオスの金狼に熾天の炎を重ね――――出でよ、メルジェの獣王」

再び、アルサラムがカードデッキから一枚を抜き取る。
それは間髪を入れず中空へ投げられ、瀕死の巨狼に向けて赤光の筋を噴き出した。
瞬間、狼の毛皮は赤黒く染まり、火蜥蜴《サラマンダー》のように全身が紅蓮の炎に包まれる。

「使い魔の姿が変化したやと!?」

蜘蛛《スパイダー》はサングラスの奥で目を見開いた。
金狼が姿を歪め、体色を変え、鬣を伸ばし、暗赤色の大獅子に変貌してゆく。
獣の全身から噴き出す灼熱の炎は、瞬く間に影蜘蛛の網を焼き切り、幾筋もの白煙を登らせていた。
形勢を盛り返したアルサラムは、デッキから更に一枚のカードを抜く。

「メルジェの獣王が攻撃に成功したから、カードをドローさせて貰うぞ」

「待て、なんやその俺ルール!」

555巡検司書アルサラム ◆FarahLxH6M:2015/09/09(水) 05:34:09 ID:Pt1wfvVk0
アルサラムの従僕《サーヴァント》は、新たな肉体を得て悠然と立ち上がる。
赤獅子の全身に絡みつく瘴気の網も、噴き出す火炎で焼き切られ、瞬く間に枷としての役目を終えていた。

「メルジェの獣王、影蜘蛛の使い手を狙え」

アルサラムの言葉で、獣魔の瞳が蜘蛛《スパイダー》に向く。
使い魔に宿るのは敵意でも殺意でもなく、純粋な戦意だ。
それを感じ取り、標的たる探偵も防御の意志を固めた。
しかし、巨体の獣相手と正面から打ち合うには、小さな影蜘蛛では余りに力不足。
接近すれば蟻の如く踏み潰され、網で拘束しようにも輝く焔と呪力の影は相性的に最悪。
ならば、蜘蛛《スパイダー》の取るべき手は一つ。

「影蜘蛛ども、重なって阻め」

術者の命令で数多の影蜘蛛が近くの影蜘蛛に近寄り、蠱毒の要領で同化を重ね、翳りの濃さと体躯の大きさを増してゆく。
瞬く間に虎程の大きさとなった影蜘蛛たちは、突進してくる獅子の足に取り付いて進撃の阻止を図った。
別の個体は先程よりも強力な魔力糸を吐きかけ、再度の拘束を図る。
そして、これらは全てが無駄に終わった。
漆黒の糸は炎獣から噴き出す熱で瞬時に燃え尽き、足に取り付いた個体は猛進に引き摺られるのみ。

「ぐ、ぬぬ……ワシの影蜘蛛が!」

蜘蛛《スパイダー》は動揺の言葉を吐き捨て、慌てたように後方へ下がってゆく。
開いた空間に大獅子が進むと、書架の影から新たな影蜘蛛が湧き出すものの、それらも次々と焼滅される。

「此処まで押されるんか!」

影蜘蛛の瓦解で更に退く探偵。
呪術と魔術の攻防は魔術師側が圧倒しているかに見えたが、この二度目の撤退でアルサラムは不自然を感じ取った。

(……退き続けている割に、奴は俺を恐れていない。
 攻め込んでも決定打は与えられず、瓦解した先に進めば新手が阻む。
 形勢の不利を装って、俺に力押しさせるつもりか)

アルサラムは相手の棒演技の台詞から、持久戦の意図を汲んだ。
厄災の種から膨大な魔力供給を受けられる蜘蛛《スパイダー》と違って、彼の魔力は有限。
迅速な戦術の切り替えが必要だった。

(俺の見立てでは、奴の保持魔力は俺の倍か、それ以上。
 このまま使い魔《サーヴァント》での一進一退を続ければ、此方の魔力切れが先だ)

アルサラムの瞳に浮かんだ色を探りつつ、蜘蛛《スパイダー》が口を開く。

「やーや、ほんま強いなぁ……。
 せやねんけど、戦いは数や!
 なんぼ強かろうが、そっちの使い魔は一匹! ぎょうさんの影蜘蛛には適わへんでぇ!」

耳障りな大声に呼応して、書架の上から五匹の影蜘蛛が音も無く降って来る。
その異様な気配を察知して、アルサラムは全力で疾駆。
鞘から短剣を抜き、鮮やかな剣捌きで一匹の影蜘蛛を切り裂くと、そのまま影蜘蛛の密度が薄い場所まで駆け抜ける。

「破ッ」

(蜘蛛の強化に対抗して、下僕《サーヴァント》を増やすか?
 いや、それとも……それが奴の狙いか)

「なぁ……兄さんは戦いになったら、無駄口を叩かん主義やねんか?
 さっきから、喋ってるんはワシ一人だけやがな」

蜘蛛《スパイダー》は少し寂しそうに愚痴を漏らした。

556巡検司書アルサラム ◆FarahLxH6M:2015/09/11(金) 00:26:08 ID:qxDutRJ60
アルサラムは疾走しながら短剣を縦横に振るう。
刀身は磨き抜かれていて、反りの無い両刃。
銀の閃光が軌跡を描けば、影蜘蛛の頭が裂かれ、脚が切り落とされ、胴を薙がれる。
進路を阻む虫魔たちは次々と呪力を断ち切られ、後は溶けるように崩れてゆくのみ。
この魔術師らしからぬ武技は、卓越した資質と修練の賜物だ。

(使い魔を幾ら倒した所で、術者が補充するなら無意味。
 ……直接攻撃で仕留めるしかない)

数瞬の合間にアルサラムは戦術の方針を組み上げた。
しかし、防御に専心する相手の陣形を正面突破する事は、如何に熟練した能力を以てしても至難の業。

(蜘蛛の頭を潰す媒鳥がいる。
 敵の目を逸らし、攻撃を分散させる要員が)

アルサラムは次なるカードの具現を決め、幾つかの候補を心中に思い描く。
まず、前提としてクレド・マディラはカードの質に応じて、五等級のレアリティが設定されている。
アイアン(黒鉄)/ブロンズ(青銅)/シルバー(白銀)/ゴールド(黄金)/アダマス(神鉄)の五種の等級に。
先ほど使ったディオラオスの金狼と熾天の炎は、どちらも第二位の級であるゴールドだ。
このクラスのカード再現は、一枚につき全魔力の四分の一を使う。

(二度のゴールドで、残存魔力は約半分。
 同程度のカードを使えるのも後二回。
 一つは蜘蛛の足止め。もう一つを己か敵に使うのが最善)

「抜札《ドロウカード》――――冥界の軍隊蟻」

左手で握ったカードデッキから、蟻の群れが描かれるカードが中空へと滑った。
絵札の中から新たに現れるのは、青白い霊気を放つ大蟻の群れだ。
個々では影蜘蛛に劣る程度の力しか持たないが、数だけは只管に多い。
物量での目晦ましには、恰好の下僕《サーヴァント》だ。

「近くの蜘蛛を手当たり次第に襲え」

アルサラムは大蟻の群れを近くの影蜘蛛に向かわせた。

「ほーぉ、新手の使い魔やな。
 せやけど、烏合の衆なんざ影蜘蛛の餌食になるだけやで……迎え撃て!」

アルサラムの使い魔《サーヴァント》が、探偵の使い魔《サーヴァント》に襲い掛かるものの、使い魔の強さは魔力量が物を言う。
魔力を分散させて召喚した使い魔では、より高い密度の呪力で練られた使い魔には敵わない。
冥界の軍隊蟻が一体の敵を仕留める間に、影蜘蛛の方は三体も敵の数を減らす。

「あっちのライオンくらいのパワーなら厄介やが、雑魚を増やした所でこんなもんや!
 ワシの魔力も一向に尽きる気配があらへん!
 こっちは、兄さんが力尽きるのを待ってればええだけやな!」

蜘蛛《スパイダー》は勝ち誇るように言葉を続けた。

――――自らの狙いが、アルサラムの魔力切れを待つ事だと思わせる為に。

557巡検司書アルサラム ◆FarahLxH6M:2015/09/11(金) 00:27:46 ID:qxDutRJ60
戦況は優勢と退勢が交互に訪れ、まだ趨勢も読み難い。
メルジェの獣王に目を移せば、獅子は群がる蜘蛛を噛み殺し、焼き消し、彼らの主たる蜘蛛使いに跳躍していた。
しかし、寸での所で無尽蔵に湧き出す影蜘蛛と、呪力の黒糸で進撃を阻まれる。
緩やかな退き戦は、ジリジリとアルサラムの使い魔《サーヴァント》から炎の魔力を削ってゆく。

「おおっと、危ない! ひゃっひゃ!」

探偵は服の裾を焦がすも、間一髪で後方へ退避。
炎と霊気で照らされた空間に冷笑が響く。
一方、アルサラムは敵の死角を衝くべく、書架の影から蜘蛛《スパイダー》の側面へと回り込んでいた。
ドイナカ村でも装着していた身体能力強化の腕輪は、そのまま。
魔力が齎す隔絶した体術で短剣を一閃し、勢いを殺さぬまま影蜘蛛の胴を浅く削ぎ、脚を奪う。
黒血の如き呪力の影が飛散する中、魔術師はただの一瞬も留まらず、戦場を流麗に駆け抜けた。

視線の先には黒服の男。
流水の動きで蜘蛛《スパイダー》の側面に忍び寄ったアルサラムが、その心臓目掛けて刃を突き出す。

直前、魔術師は項の毛が逆立つのを感じた。
直後、魔術師の刃が止まる。

そして、色の無い糸が浮かび上がった。
いつの間にか、探偵の周囲には影蜘蛛の網が張り巡らされ、結界のように空間を満たしている。
アルサラムは其処に突っ込み、刃を突き出した姿勢のまま粘り付く糸に囚われたのだ。

「隠の糸、か。
 網を張って待つのが蜘蛛の流儀だったな」

アルサラムの口から呟きが漏れる。
彼が蜘蛛《スパイダー》の主を狙ったのと同じように、相手の側もアルサラムへの直接攻撃を狙っていたのだ。
己の周りに視認できぬ程の極細糸を張り、透明な罠でアルサラム自身を絡め取ろうというのが、蜘蛛使いの真の狙い。
呪力で姿を消していた糸も、今や炎の照り返しで光輝き、巨大書庫に鮮やかなイルミーションを描く。

「そないいうこってや。
 蜘蛛の糸は、これから兄ちゃんが気ぃ失うまでぇ全身を締め上げる。
 国の為やから、再起不能くらいにはさせてもらうぜェ!」

魔力糸で全身を絡め取られる魔術師を見て、蜘蛛使いは己の勝利を確信した。
そして、決め台詞。

「ワシら探偵に必要なものは三つある。観察力、行動力、決断力や。
 兄さんは一つばかし足りんかったようやなぁ……うっひゃひゃひゃひゃひゃあ!」

蜘蛛使いは声を上げ、笑った。
巡検司書は音も無く、嗤った。

558巡検司書アルサラム ◆FarahLxH6M:2015/09/15(火) 06:46:40 ID:lCS1mxWg0
アルサラムが使い魔を増やしても、無尽蔵に近い影蜘蛛を刈り尽くすのは困難。
蜘蛛《スパイダー》自身に攻撃魔術を掛けても、厄災の種で強化された魔力抵抗を破らなければ敗北が確定する。
此処までは両者共に読んでいる。
だからこその魔力に頼らない剣撃と、それを封じる蜘蛛の巣。

「縛れっ!」

蜘蛛《スパイダー》は網に掛かったアルサラムを締め上げようと、周囲の糸に呪力を流した。
縦横無尽に張り巡らされた糸が煌めき、ヒドラの触手のように動く。
当の魔術師はと言えば、切迫の危機にも動じず、冷静な表情で左手のデッキから一枚のカードを滑らせた。

「抜札《ドロウカード》――――戦界崩滅《ヴァースブレイク》」

カードが静かに床へと落ちる。

「まだ、悪足掻きする気が残っとったか?
 せやけど、今さら新しい使い魔を召喚しても無駄やで」

蜘蛛《スパイダー》は落ちたカードに警戒を見せるが、其処から新たな使い魔《サーヴァント》は現れない。
代わって地下書庫に現れたのは、血の輝きを持つ魔力線の放射。
数百もの赤い光線が床を走り、それは壁面から天井へと伝導して、血管や葉脈のように複雑な模様を地下書庫に描く。
一瞬遅れて、線に沿って大きな亀裂が生まれた。

「な、なんやと!?」

魔術師が選んだ切り札は、地形を破壊するカードだ。
それを具現すれば、当然ながら周囲の地形や建築物は崩壊してゆく。
恐ろしい速度で砕けてゆく床や天井を見て、蜘蛛《スパイダー》の背筋には怖気が走った。
アルサラムを拘束した呪力の糸を解いて、崩落から身を守る為に使わねば死ぬ。
しかし、蜘蛛糸での拘束を解いてしまった瞬間、目前の敵には無防備な姿を晒さねばならないのだ。

「ぐぬ、糞がっ!」

上層の床が巨大な岩塊に姿を変えて、頭上から降り注ぐ。
崩落の速度は極めて速く、迷う時間など一瞬たりとも無い。

「ちょっ、ちょっと何考えてるの! アっルっサっラっム〜〜っ!!」

後方で袖手傍観していたヴァルンも、巻き添えを気にしない同行者の姿勢を非難しつつ、全力で遠ざかる。
元より戦闘区域から離れていた彼女なので、此方は無事に安全圏まで逃れられるだろう。

「支えろ!」

蜘蛛《スパイダー》は崩落からの防御を優先した。
アルサラムの桎梏を解き、解いた糸を手当たり次第に壁や書架に伸ばす。
張り直された魔力糸の屋根が巨大な瓦礫群を受け止めるのと、アルサラムが矢のように突撃したのは同時だ。

「ま、待てぇっ……ぶぉっぐぅっ!」

探偵の助命嘆願は最後まで発されなかった。
正義の執行を阻むものは悪であり。悪を正すのは善。そして善意に歯止めは無い。
アルサラムは全く躊躇なく、水平に寝かせた短剣を標的の喉へ突き刺し、横に払う。
人を殺す事への心理的な抵抗が無い一撃。
蜘蛛《スパイダー》の頸動脈は断ち切られて、首から噴水のような血飛沫を流す。

559巡検司書アルサラム ◆FarahLxH6M:2015/09/15(火) 06:49:08 ID:lCS1mxWg0
戦闘が終了してみれば、惨憺たる有様だった。
周囲には凄まじい量の粉塵が舞い上がり、原型を留める物は何も無い。
膨大な書架は過半が倒れ、天井の崩落で上階の一部も雪崩落ちている。
壁や床は魔力と衝撃で広範囲が破砕され、移動するのも困難だ。
その中で形質保持の魔力で保護された書物だけが、破れも痛みも燃えもせず、冗談のように無事な姿で散乱していた。
使い魔たちを見れば、影蜘蛛の群れは一匹残らず消え去り、大蟻の軍団も崩落で潰れ去っている。
ただ一匹、暗紅色の炎獣だけが瓦礫の下敷きになりながらも辛うじて消滅を免れていた。

凄まじいばかりの被害だったが、隣室や通路にまでは崩壊の魔力も及んでいない。
ヴァルンも逸早く難を逃れたようで、どこにも目立った負傷は無かった。
崩壊が収まった頃を見計らい、彼女は瓦礫の上を這うようにして元の場所まで戻って来る。

「ア、アルサラム、なんて事してくれるの!?
 此処の瓦礫を片付けて修復するのにどれくらいの費用と手間が………………き、きゃあああ〜〜!」

惨状を目の当たりにして、ヴァルンが悲鳴を上げた。
蜘蛛《スパイダー》は強靭な蜘蛛糸を操って崩落の直撃は免れたものの、上半身が朱に染まっている。
致命的なのは、アルサラムの短剣で裂かれた首だ。
これを必死に魔力糸で繋ごうとしている蜘蛛《スパイダー》だったが、苦患の中では血管縫合はおろか、呪術の維持すら不可能。
意識を混濁させ、膝をつき、急速に命の灯を弱めてゆく。
迅速に高位の治癒魔術を掛けなければ、死を待つだけなのは明らか。

「死、死……マサトシが死んじゃう……なんで、どうして!
 剣で首を裂くなんて、此処までする必要あったの!」

ヴァルンがアルサラムに詰め寄る。

「完全に無力化する必要はあった。
 この男はヴェルザンディやミリア。
 あの危険な魔女たちと同じ、厄災の種の持ち主だ。
 仕留めなければ、此方が討たれる可能性も高い」

アルサラムは瓦礫の上に転がる宝玉を睨みつけ、そう呟いた。
実際、厄災の種は感情や欲望を増幅して、柔軟な思考を難しくする機能も秘める。

「あんまり知らない人だけど、こんな所で死んじゃうなんてあんまりよ。
 貴方、治癒魔術は使えないの!?」

「治癒石の手持ちはあるが、致命傷を癒せるだけの物は無い」

冷静に死の告知を返され、ヴァルンは落胆の表情を浮かべつつ瀕死の探偵へ近寄る。
一時は世話になろうとした人物だけに、目の前で死なれるのは極めて後味が悪い。

「何か他の手は…………あっ、フラター王なら助けられるかも!
 この階層にいるはずだから、どうにか其処まで持たせられれば助けられるわ。
 内蔵魔力が少なくても良いから、治癒石があるなら出して」

「――――確かに幾万もの魔術を収めたフラター・エメトなら、この男の治癒など造作も無いじゃろう。
 だが、彼の魔術王の手を煩わせるには及ばぬ。
 その男の命を繋ぐに足るだけの治癒石なら、わしが用意しておいたので遠慮なく使うが良い。
 起動呪語は何の捻りもなく、ヒーリングじゃ」

唐突な援助の申し出は、第三者から為された。
ヴァルンに治癒魔力を秘めた石を差し出したのは、地味な茶色いローブの上に赤いストールを羽織った老婆。
種族は人間のように見え、皺だらけの顔に白い長髪といった容貌で、ありがちな占い婆さんといった印象を受ける。
不可解な事に、この老婆は何の気配も予兆も無く、崩壊著しい地下空間の中心部へ現れた。

「あ、ありがとう……って誰!? い、いえっ、それは後ねっ! ヒーリング!」

ヴァルンが蜘蛛《スパイダー》の首の傷口に拳大の透明な石を押し当て、内包された魔力を開放する。

560巡検司書アルサラム ◆FarahLxH6M:2015/09/15(火) 06:54:09 ID:lCS1mxWg0
透き通った石からは、淡い白光が浮かび上がった。
治癒石とは、名前の通りに治癒の魔力を封じた石で、それなりに高価な代物だ。
込められた魔力次第で色や大きさは異なるが、老婆が提供した物は大振りで内蔵魔力も高い。
当然、それを使われた被術者の深傷も目に見える速度で塞がれていった。

「……随分と用意の良い事だ。
 尤も、貴様が蜘蛛使いを俺に差し向けた張本人と考えれば、段取りの良さにも得心が行く。
 馬鹿げた予言を根拠に俺の妨害をした真意は何だ、詐欺師イシュタル」

アルサラムは得体の知れない老婆に刺すような視線を向けた。
予言者ではなく、詐欺師と悪し様に呼んで。

「真意も何も嘘は無いぞ、アルサラム・ファラー・アゼルファージ。
 貴殿が憤怒の意志に惹かれた時、この国は崩壊する。
 ダァトに封印されている身と言っても、あれは神にも等しい力を持つ。
 更にアイン・ソフ・オウルの中で最も苛烈にして、最も正義を希求するものだ。
 思想の方向も貴殿と近いだけに同調を拒み続けるのは難しかろう」

イシュタルは答えたが、魔術師は微塵も納得しない。

「俺が狂わされると言いたいのか」

「左様、想いの渦に近づけば飲まれる。
 アイン・ソフ・オウルに抗せるのは、アイン・ソフ・オウルのみ」

老婆の断言を聞き、アルサラムが拳を握り締める。

「そのアイン・ソフ・オウルに至る為、俺は此処までやって来たのだ。
 無力な正義など、理不尽な暴力の前には屈するのみだからな。
 俺は正義を遂行する為、誰よりも力を持たねばならない。
 邪魔をするならば、誰であろうと排除するまで。
 第一、仮に貴様が予知能力を持つとしても、それが実現する保証など何処にも無い」

「予言は未来の儂――――枢要罪〝憂鬱〟アスタロトが教え、過去の儂――――占い師イシュタルが識る。
 競馬や宝籤の数字からローファンタジアの崩壊まで、今までに誤った事は一度も無いぞ」

「不可避の予言とやらか。
 だが、蜘蛛使いの派遣は無駄に終わった」

「少しばかり、試してみたのじゃよ。
 厄災の種であれば、僅かでも変化が訪れるのではないかと期待しての。
 もし、何か一つでも予知を変えられれば、バタフライ効果で未来も加速度的に変わってゆくであろうからな」

老婆は厄災の種を拾い上げると、灰色の瞳に微かな憂鬱を見せた。
運命の抗えぬ圧力に屈した時、人はこのような顔を見せる。

「ならば、俺が詐欺師の戯言など覆して見せよう。
 不吉な予言も成就させはしない。
 もう退け、これ以上道を阻むなら容赦しない」

「……では、一つだけ捨て台詞を残して退散させてもらおうかの。
 地上で起きる争いの大半は、大切な何かを失う恐怖に駆られてのものじゃ。
 仲間や家族の平穏、国家や宗教などのコミュニティ、法に人権、理想……それらを守る為に人は誰かを攻撃する。
 貴殿の正義を貫こうという意思も尊いものだが、他者にも貴殿とは異なる視点の正義や想いがあろう」

「何を言いたい」

「なぁに、単に愛を持てと言った所じゃよ」

老婆は曖昧に笑うと、舞い上がる粉塵の中に姿を消した

561enchanter ◆FarahLxH6M:2015/09/16(水) 05:56:01 ID:V/dyFW320

本編が再開するのか、凍結したままなのかは、気に掛かる所だ。

もし、凍結の理由が「乗っ取り紛いの所為でやり難い/継続意欲を失った」というものであれば、俺たちも向き合わねばならない。

562フロレア・ステンシィ ◆d/Florean2:2015/09/24(木) 05:54:17 ID:czcrj7pE0
ステンシィ夫妻はバスや鉄道を乗り継いで南西に向かい、途中で都市国家アパサに辿り着いた。
此処はエヴァンジェルを含む都市国家群“十ニ都市同盟”の一つで、海神であるツルア信仰の厚い港湾都市だ。
南に広がるサラキア海を眺めれば、コバルトを溶かしたような青色の上にボートやクルーザーが幾艘も浮かぶ。
生活排水が少ないのか、水の透明度も極めて高く、海底に船影が見える程だ。
この綺麗な光景が瞳の端に映っても、フロレアの顔は物憂げだった。
実の娘のリンセルと、実の娘同然と刷り込まれているミリア、二人共いないのだから当然かも知れない。

アパサからはルーラルダ連邦まで長距離高速列車を使い、アルバン市からバスかタクシーで南下するのがドイナカ村への最短経路である。
何事も無ければ半日で着くはずの行程だが、残念ながら事件は起こった。
国境を越えようという所で唐突に車内が暗くなり、列車も線路上で急停止する。
減速で体が引っ張られ、通路を歩いていたものは蹈鞴を踏む。
ボックスシートでステンシィ夫妻の向かい側に座っていた少女も、投げ出されるようにしてフロレアの胸に顔から飛び込んで来た。

「だ、大丈夫?」

「これは失礼致した、奥方。
 どうにも、この姿では踏ん張りが効かぬ」

華奢な少女は蒼白い顔を上げると、黒い瞳でフロレアを見据えた。
古風な喋り方をした少女は人間族らしき風貌で、年齢はリンセルと同じくらいに見える。
黒いワンピースを着ていて、足首までありそうな長い飴色の髪が印象的だ。
彼女が元の席に座り直した所で、不安がる乗客へ向けて車掌のアナウンスが入った。

「乗客の皆様。
 只今、路線の周囲で何らかの異常が起きたようです。
 当列車は路線の安全が確認できるまで、停止いたします」

列車が停止する旨を聞き、フロレアは不安げな顔で夫を窺う。

「何が起きたのかしら」

「フロー、外を見てみろ。
 詳しくは分からないが何か異常な事態が起きたようだ」

レナードが車窓に目を移した。
先程までは真昼の海が見えていた筈なのだが、今は違う。
外は真夏の夜のように薄暗く、赤や緑や黄色に輝く光の塊が、星のように宙を浮いていた。
日常から一変した非現実的な景色は、明らかに魔術的な空間浸食である。

「どう見ても……普通の景色じゃないわね」

開け放たれた窓からは潮の香りも消え、漂うのは異質な冷気と気配。
外を見た乗客たちの唇からも、次々に驚きや恐怖の声が漏れる。
聖都での虐殺事件を経験した者の中には、恐慌を起こす者すらいた。

「然り。
 ルーラルダで頻発している異変の一つが範囲を広げ、国境を越えたものと存ずる」

ボックスシートの向かいに座る少女は車外の異変にも動じず、落ち着き払った顔だ。
こんな現象は珍しくない、とでも言わんばかりの態度である。

「ルーラルダの異変?
 確か、ミリアちゃんのいる村も警戒区域になっていたけれど……。
 そう言えば貴女は魔法使い? それとも冒険者なのかしら?」

「我は一介の錬金術師。
 パラケルススとでも呼ぶが良い」

少女が名乗った錬金術師とは、一般に贋金師の類だと思われている。
その錬金術師を名乗られれば反応に困る所だが、フロレアは気にした風もない。

563フロレア・ステンシィ ◆d/Florean2:2015/09/24(木) 05:58:28 ID:czcrj7pE0
「そう、錬金術師のパラケルススちゃんね。
 私はエヴァンジェルのパン屋でフロレア・ステンシィ。
 こっちは夫よ」

「ああ、レナード・ステンシィだ。宜しく。
 今は昏睡状態なのだが、私たちにも君くらいの年の娘がいてね。
 アクノスに転院したようなので、これから手続きに向かう所だ。
 それと、最近もう一人の娘が出来たのだが、そちらもドイナカ村から行方が分からない。
 一刻も早く、リンシィとミリアの安否を確かめなければならないというのに……」

己の無力を感じてか、夫妻の顔は暗い翳りを帯びた。

「難儀であるな。
 だが、闇雲に動くのは危険。
 貴殿らは己の身を守るだけの力があるようにも見えぬ。
 この異変に関しては、周囲の様子を見つつ、己の身を最優先とするのが得策と存ずる」

パラケルススの言葉にフロレアも頷く。

「そうね。
 電話があるけれど、パラケルススちゃんは使う?」

無事に異変が収まる保証も無いので、フロレアとて不安は否めない身だ。
しかし、彼女は務めて明るい顔を作り、隣席の少女に問う。

「気遣いは忝いが、通信は試みるだけ無駄であろう。
 どうやら、この空間は魔法的に外界と切り離されたようだ。
 即ち、我らは大海の孤島へ流されたにも等しい身。
 まずは車掌にアナウンスさせ、乗客の中から事態を打破できる戦力を募らねばなるまい。
 魔術師や冒険者、或いは我のような者を」

パラケルススは立ち上がり、三歩進むと膝から崩れ落ちて床に手を付いた。

「ど、どうしたのっ?」

フロレアは屈み、少女の様子を窺う。

「……急に立ち上がったので貧血のようだ。虚弱な体が恨めしい」

「この混雑の中を一人で行くのは無理よ。私たちが付き添うわ」

フロレアは優しく付き添いを申し出た。
現在の車内は非常に混乱していて、少しでも事情を知ろうと運転室や車掌室に向かって乗客が殺到している。
果ては、異変はレヴァイアサンの仕業でフェネクスのような虐殺が起きると、憶測でデマを流す者まで現れる始末。
もし虚弱そうな少女を一人で混乱の中に行かせれば、怪我をしかねない。

「済まぬ」

レナードが人込みを掻き分け、開いた隙間をフロレアがパラケルススを抱えるようにして進む。
その間にも車内の空気は不穏さを増していった。
不安に駆られた乗客が車掌へ質問を飛ばし、それが詰問や難詰、怒声に変わるまでも速い。
フロレアたちが最後尾の車両に辿り着いた時には、そこかしこから怒号が飛んでいた。

「糞っ、なんで電話が通じねぇ!
 外の様子も変だし、魔術テロじゃないのかよ!?」

「何が起きているか説明しろ! 車掌の義務だろ! 早く出て来い!」

車掌室の前は不穏な空気が立ち込め、もはや暴動の一歩手前の状態。
乗客の何人かが車掌室の扉を蹴り破ろうとして、車掌は錯乱しながら通じない無線を何度も弄っているような有様だ。

564Froh ◆d/Florean2:2015/09/24(木) 06:32:21 ID:czcrj7pE0
◆エヴァンジェル近辺の地図

http://upup.bz/j/my53577uhVYtja1IyseRbq2.jpg

565フロレア・ステンシィ ◆d/Florean2:2015/09/26(土) 00:29:20 ID:057zsX1Q0
「取り急ぎ、周囲の錯乱を落ち着かせねば。
 この人数なら、アンゼリキウムで酢酸リナリルの効果を高めるのが最適か」

パラケルススは乗客不在の空席を見つけると、其処に座り、鞄の中から金装飾が施された白い筒を取り出した。
一見すれば万華鏡や証書ホルダーにも見える金属筒は、側面や底面に幾つもの収納スペースを持つ。
蓋の一つを開ければ、中にはボールペン程の透明な小筒が何本もホールドで固定されていた。
別の面にも錠剤や針やコットンやライターなど、様々な物が小分けされて入っている。
形状こそ円筒ではあるものの、まるで多機能筆箱のようだ。

「何をするの?」

化学物質と思しきものを使う意図を察して、フロレアが問う。

「芳香で鎮静を図るのだ、奥方。
 暴動寸前の状態では、誰も聞く耳を持つまい」

パラケルススは短く説明すると、透明なシリンダーに一粒の錠剤を入れ、中の液体と馴染ませるように軽く振った。
程なく、周囲には淡い柑橘類の香りが広がり、芳香の拡散と共に怒声も小さくなってゆく。
芳香が拡散を開始してから三分程が経った頃だろうか。
やや騒めきが収まった頃を見計い、パラケルススは前方の群衆に向かって語り掛ける。

「皆、聞け!
 車掌を責めても事態は解決せぬ。
 彼の仕事は列車を安全に運行させる事であり、怪異を鎮める事に非ず。
 まずは専門家たる者を乗客の中から募り、安全を確保するのが肝要。
 それが出来る車掌の邪魔をしてはならぬ」

調合された香料の作用だろうか。
見も知らぬ少女の声が、不思議なまでに聴衆の心へ響く。
今まで必死に扉を蹴り破ろうとしていた者も、なぜ自分は怒声を飛ばしていたのかと恥じ入った。

「あ、ああ……誰かにそうかも知れないな、済まん」

「誰か、こういった事に詳しい奴はいないのか?」

「いやぁ、俺はさっぱりだ」

落着きを取り戻した人が次第に座席へ戻り始め、人込みも緩やかに割れてゆく。
パラケルススの方はフロレアの手に引かれて通路を進み、車掌室の前まで辿り着いた。

「車掌殿、この列車は歪んだ空間に囚われたものと存ずる。
 至急、乗客の中から魔術師や冒険者を募るのが良策」

少女の要請で車掌が無線機から顔を上げる。
先程までは乗客の怒号に怯え、泣きそうな表情だったのが、今は幾分かの冷静さを取り戻した様子だ。

「ぼ、冒険者が……集まるだろうか?」

「一両に八十人が収容できる車両で五両編成だから、乗客は最大で四百人。
 魔術師や異能者の割合を人口の二百分の一と仮定すれば、我の他に一人は戦力がいると期待したい。
 もし招集が無駄に終われば、我一人で対処しよう」

パラケルススは乗客のパニックを防ぐ為、敢えて自信有り気に振る舞う。
車掌も安堵したように頷き、車内アナウンスを流す。

「緊急の放送を致します。
 お客様の中に冒険者や魔術師の方はおられますか?
 もし、おられましたら、最後尾の車掌室まで御出で下さい。
 早急な異変解決の為、是非とも協力をお願い致します」

566フロレア・ステンシィ ◆d/Florean2:2015/09/26(土) 00:30:11 ID:057zsX1Q0
車掌の招集要請は二人の冒険者を集めた。
一人は屈強そうな熊獣人の大男、ラクフォズ・ダッジム。
もう一人は彼の連れで、森エルフの女精霊使い、珊瑚樹のルパイネドーラ。
各々が自己紹介と能力の説明を行った所で、車掌が協力の要請を始める。

「皆様、集まって頂き、本当に有難うございます。
 それでは、パラケルススさんとラクフォズさんとルパイネドーラさんの三人で班を組んで貰って……な、何か」

熊の頭部を持つ獣人にズイッと顔を近づけられ、車掌が言葉を飲む。

「オイラの事はラクフォズじゃなく、ダッジムって呼んでくれ。
 ラクフォズっつーのは、フォズの息子って意味なんでな。
 ま、それも間違っちゃないんだが、俺自身の名前で呼ばれた方がしっくり来る」

「は、はぁ……はい」

車掌は小さな声で応諾した。
ダッジムは頭部も完全な獣形で、見た目はズボンを穿いただけの黒熊。
彼に一片の悪気が無くとも、凄まじい威圧感なのだ。

「ダッジム、貴方は顔が怖いのだから大人しくしてなさい」

「おいおいドーラ、種族差別は止めてくれや。
 こんなフレンドリーで愛嬌ある顔なんざ、大陸中を探したって――――」

「今が非常事態だって分からない?
 これ以上、無駄口を叩くなら蜂蜜を残らず棄てとくわ」

「待て、分かった!」

連れを窘めるルパイネドーラは緑の瞳と髪を持つ人型の妖精族で、背はフロレアと同じくらいだ。
二十代半ばにも見えるが、長命種族なので外見から正確な年齢までは分からない。

「両者とも宜しなに。
 まずは各々の見解を聞かせて頂きたい」

パラケルススは挨拶を一言で終わらせ、全員の理解度を問う。

「そ、そりゃあ……誰かが魔法を使ったんだろうさ、お嬢ちゃん」

獣人が頭を掻く。
車掌やフロレアでも魔術への理解が浅いと分かる態度だ。

「幻覚魔術や精神魔術で、異質な光景を見せている訳ではないでしょう。
 召喚魔術で別の空間に呼ばれたか、或いは空間を変質させて異界化させたか。
 いずれにしても、事の元凶は異常な魔力の持ち主です」

エルフの推論を聞き、パラケルススも頷く。

「ルパイネドーラ殿は精霊王を召喚できまいか?
 急造の異空間なら不安定な筈。
 上位精霊なら空間の維持魔力に干渉して、結界を破壊できるやも知れぬ」

「ごめんなさい、まだ精霊王との交感は無理なの」

「ならば、異変の源を突き止めるしかあるまいな」

パラケルススの結論を聞くや、ダッジムは己の出番とばかりに扉へ手を掛けた。

「列車の外に出てかい?」

567フロレア・ステンシィ ◆d/Florean2:2015/09/26(土) 00:31:34 ID:057zsX1Q0
気短かな獣人の行動にパラケルススは首を振る。

「ダッジム殿、急くでない。
 乗客の中に術者が潜んでいる可能性も有ろう。
 我は列車内から捜索するのが賢明と存ずる」

「おっ、なるほどね。頭良いな!」

ダッジムが感心した風にパラケルススの頭を撫でる。
大きな掌での撫で摩りは、虚弱体質の錬金術師の身体を傾げさせるに充分だったが。

「ひゃふっ……ん」

膝をつく少女を見て、周囲から大柄な熊男に非難の目が集まる。

「悪ぃ悪ぃ」

斯くして、列車内の探索が始まった。
まずはルパイネドーラが霊的な力の感知に秀でた精霊を先行させ、異常な力の有無や流れを探るのだ。
風の精霊は放たれると、最後尾から調査を進めてゆく。
四両目、三両目、二両目と、列車の何処にも異常は見つからない。
異変の震源は列車外ではと疑う精霊使いだったが、やはり原因はパラケルススの推測通り、列車内にいた。

「……該当しそうな奴がいたわ」

「どんな奴だ?」

低く抑えた獣の声。
ダッジムの瞳に獰猛な肉食獣の気配が宿る。

「精霊力《オーラ》の形から判断して矮躯、小人種か幼児くらいの背丈のようね。
 右手の指先から異常なまでの力と明るさを感じる。
 サーモグラフィー程度しか分からないから、容姿まで知るなら先頭車両に赴かないと無理よ」

ルパイネドーラの返答を受けて、パラケルススが考え込む。

「相手が小人であれば、強力な魔法を操る妖精種であろう。
 幼児ならば、強力な異能者が自覚なく能力を発動しているのやも知れぬ」

異常現象の原因が車内にあると聞き、先程から車掌の表情も驚きと不安が綯交ぜだ。

「まさか事件の犯人が列車内にいるなんて……そんな。
 そうだ、先頭車両の乗客はどうしましょう!
 避難させないと、危険なのではありませんか?」

「そうね。
 水や食料を配給するとかアナウンスして、先頭車両の人に少しずつ後尾へ移って貰うのはどう?
 犯人は前の方の座席だから、後ろの方から少しずつ人が減っても、気付かれ難いと思うわ。
 風の精霊を操れば、犯人付近の乗客も騒がせずに動かせる。
 水の精霊を使って水人形の表面に乗客の姿を映せば、即席の分身も作れるけれど……」

精霊使いが提案を述べる。

「その辺りは車掌殿とルパイネドーラ殿の手腕に任せよう。
 我らは減った乗客の代わりに先頭車両へ紛れ込む」

「……気を付けてね、パラケルススちゃん」

心配げなフロレアが見送る中、三者は先頭車両へ向かって行った。

568フロレア・ステンシィ ◆d/Florean2:2015/10/12(月) 00:07:04 ID:aQ0L7z220
宵の薄暗さの中で、色鮮やかな光は刻一刻と変化してゆく。
虚空に煌めく光の球は形を変え、鳥や蝶や鯨の姿となって羽ばたき、舞い、泳ぎ始めた。
黒曜石のような黒い大地も隆起して、粘土のように歪みながら出鱈目に色を塗られ、牛や馬や豚の姿を象る。

外界から閉ざされた空間は不思議な奇景を描くが、どこか楽しげな雰囲気や美しさもあった。
少なくとも、撮影に勤しむ乗客たちが現れる程度には。
好奇心から外に手を伸ばす者もいて、即座の危険は無さそうにも感じられる。
フロレアも座席に戻ると、暫く窓の外に視線を向けていた。

「綺麗ね……。
 フェネクスの夜景みたい」

「ん、行った事があるのか」

「ううん、テレビでイルミネーションを見ただけよ。
 でも、これを作ったのは誰なのかしら?
 自然現象では無さそうだけど、魔術師の仕業にしては遊び心があり過ぎるように見えるの」

「ああ、単純なテロでも無さそうだな」

とりとめも無い夫妻の会話。
そのまま、十分程が経った頃だろうか。
やや落着きを取り戻したフロレアは、車内の変化へ目を向ける。

「レン、何かしら……これ?」

フロレアは床に白い石が転がっているのに気付き、拾い上げて夫に見せた。

「鉱石……だろうな。
 石英か珪灰石じゃないか」

妻の掌に乗った白い石に値踏みの目を向け、レナードは見たままを答える。
それは親指程度の小さな、何の変哲も無い、山や河原にも転がっていそうな物だ。
さして、価値あるものには見えない。

「さっきは無かったら、誰かが落したのね」

「そうだとは思うが……。
 ああ、錬金術師の子の物じゃないか?
 確かこの辺りで転んでいたから、その時に落としたんだろう」

「あっ、そうね。
 きっとパラケルススちゃんの物ね。
 錬金術師なら、鉱物を持ってても不思議じゃないもの。
 もしかしたら重要なものかも知れないから、私が届けに行って来るわ」

パラケルススの調合を見ていたフロレアは、石が薬の素材である可能性に思い至った。
調合の素材なら、あり触れた物であっても欠ければ困る筈だ。

「この状況では不測の事態が起こらないとも限らない。私も行こう」

レナードも立ち上がり、ステンシィ夫妻は連れだって先頭車両へ向かった。

569フロレア・ステンシィ ◆d/Florean2:2015/10/12(月) 00:08:24 ID:aQ0L7z220
列車の先頭車両では、乗務員たちが乗客を食堂車まで誘導する真っ最中だ。
混乱を鑑みて車内放送は用いておらず、何人かが個別に声を掛けて、一人ずつ連れ出してゆく。

「避難行動について説明しますので、責任ある方は食堂車まで来て下さい。
 乗務員の指示に従って、慌てず、順番にお願い致します」

人が一人減ると、ルパイネドーラが貯水槽の水を人型に変え、乗客に偽装した傀儡を作って元の座席へ送り返す。
彼女は熟練の精霊使いらしく、手並みも鮮やか。
風の精霊を使った再音の術で騒めきを再現して、本物の乗客が車両から少しずつ減ってゆく違和感も与えない。
先頭車両の非戦闘員を食堂車に集め終わると、ルパイネドーラも先頭車両へ入ってゆく。

「御苦労さん。
 後は此処を封鎖すれば、遠慮なく暴れられるって訳か。
 ちょっと近づいて見たが、標的は人間族のガキだな。
 ぼーっと真っ白な画用紙を見てるだけだが、異様な気配だけはしやがる」

先頭車両で見張りをしていた獣人は、大き過ぎる小声で相棒の女エルフに言う。

「じっとしててって言ったのに近づいたの?」

「後ろから覗き見しただけだ。
 気取られちゃいねぇって」

「……まあいいわ。
 隣の席に座ってた自称保護者を連れて来たから、詳しい事情は彼女に聞いて」

ルパイネドーラが首を傾ける先には、三十半ばらしき人間族の女が佇んでいた。
彼女は異変の容疑者である少年の隣に座っていた人物で、保護者と名乗る女だ。

「ガキ一人で長距離列車に乗るってのも考え辛いし、連れくらいはいるわな。
 で、アンタは誰だい?」

ダッジムは見知らぬ中年女性に問い掛ける。

「私はNGO組織Ark to shineのメンバーでホノラウと申します。
 今は不幸にもフェネクスでの虐殺に巻き込まれた、リノ・セラミスタ君をルーラルダに連れてゆく途中ですが」

「……Atsか」

女が所属する組織の名を聞き、ダッジムは渋い顔となった。
アーク・トゥー・シャインは難民支援の非営利組織として知られ、こういった組織の例に違わず、人権侵害に煩い。
もしも、攻撃的な異能を使おうとした子供に攻撃すれば、後で訴訟を行ってくる筈だ。
その面倒な事態を考えれば、渋い顔になろうというものである。

「ええ、そのAtsの者ですが、私を連れて来た理由は何ですか。
 乗務員は避難行動の説明をすると言ってしない。
 食堂車では、先頭車両に異変の原因があるかも知れないから戻るなと言う。
 そして、そちらのエルフはリノ君との関係を聞くから付いて来いと……振り回されるばかりで、とても困惑しています。
 とりあえず、先頭車両が危険なのでしたら、リノ君も食堂車まで退避させて貰えませんか」

NGO職員の視線からは不審が滲み出ていた。
外の異変や、乗客が水の魔術で再現された異常な状況を考えれば、当然の反応でもあるが。

「その辺りは聞いてねぇのか。
 生憎だが、オイラたちは異変の原因をそのリノってガキだと見て、下準備の真っ最中だったんだよ。
 そんで、ようやく容疑者以外を全員退避させ終わったってわけ。
 アンタの話を聞いた限りじゃ、フェネクスの虐殺事件ってのが異能発現の切っ掛け臭えなぁ。
 ルーラルダ近辺では異変が多発してるらしいから、不安定な空間の影響を受けて覚醒したとも考えられるが……。
 ま、いつ能力が覚醒したかなんてこたぁ、どうだっていいか。
 対処しなきゃならんって事には変わりねぇしな」

570フロレア・ステンシィ ◆d/Florean2:2015/10/12(月) 00:09:48 ID:aQ0L7z220
女は獣人の説明に面食らったが、すぐさま不快げな表情を顔に出す。

「両親を亡くしたばかりの子供に虐殺を生き残ったから異能者、異変の容疑者とレッテルを押し付ける。
 自分がどれだけ差別的な行為を行っているかの自覚も無い態度には、呆れるばかりです。
 超能力に関する基礎データは? 無いですよね? 無責任な言い掛かりで決めつけてるだけですよね?
 御自分に異変を解決する能力が無い事を認めたくなくて?
 だから、他人に悪しきレッテルを貼って、それを解決する立ち位置を演じなければ、アイデンティティを保てない。
 さながら、魔女狩りのようです」

語調も荒く、否認するNGO職員。
理解しがたいものへの不審が、ありありと瞳に浮かんでいる。

「……言いたい放題だな。
 基礎データなんざ、あるわきゃねぇだろ。
 だが、あのガキが異能を持つのは間違いねえよ。
 精霊が異常な力を感知したらしいし、俺も危険な気配をビンビン感じたからな」

「隣に座っていた私は、何も感じせんでしたけど?
 それで、貴方がたはリノ君をどうするつもりです」

「決まってんだろ、オバハン。
 無理にでも異変を止めて貰うのさ。
 でないと、元の場所に戻れねぇし」

「貴方がたは不確かな推測を元に、罪の無い子供に暴力を振るうつもりですか?
 無知と混乱に付け込んで子供を傷つけるような事があれば、私たちは冒険者協会に厳重な抗議を致します」

「だから……まず、ガキの異能を止めるのが先だっつてんの!
 抗議も何も、空間が異界化してちゃ、電話なんか何処にも通じねぇだろ」

「では、私がリノ君と話して超能力者でない事と安全を確かめます。
 暴力での解決しか頭にないような方には、とてもではありませんが任せられませんので!」

冒険者への不信感からか、或いはオバハン呼ばわりが火に油を注いだのか、女は憤慨したように息巻く。

「止めとけ、ガキってのは獣に近い。
 暴力がうんたらかんたら言ってるが、その暴力を抑える理性は訓練しないと身につかねぇ。
 つまり、子供の異能者ってのは理性が働かねぇから猛獣と同じなんだよ。
 アンタにはあんのかい? 噛み殺される覚悟が」

「脅迫紛いのネガティブな先入観を周囲に植え付けて、暴力を正当化しようとする。
 まったく、最低そのものの態度ですね。
 尤も、リノ君は得体の知れない超能力者じゃありませんから、的外れな妄言ですけれど」

説得は聞き入れられない。
歴史ある魔術に比べて、超能力や異能に対する一般人の理解が薄い事も災いした。
NGOの女職員は獣人の話を疑い、止める間もなく先頭の座席へと踵を返す。
ダッジムの頭に、この女の腹に一発入れて気絶させてやろういう考えが浮かぶものの、すぐに霧散した。
炭鉱の金糸雀として消えて貰う方が、後腐れが無いと考えたのだ。

「熊に殺られる動物愛護団体のようにな」

「ダッジム殿、如何したか」

パラケルススが不審な顔で聞き返す。

「いや、あのオバハンの説得が成功したら良いなって祈ってただけだよ」

苛々した靴音が遠ざかると、入れ替わるようにしてステンシィ夫妻がやって来た。

571フロレア・ステンシィ ◆d/Florean2:2015/10/12(月) 00:11:29 ID:aQ0L7z220
フロレアは座席の近くで拾った白い石をパラケルススに差し出す。

「パラケルススちゃん。
 もしかして、これを落とさなかった?
 必要な物だと思って、持って来たのだけれど…」

「……賢者の石?」

錬金術師は呟き、己のポシェットに手を入れて弄る。
そして、ようやく其処に有るべきものの不在に気付いた。
注意深く白いポシェットの内側を見ると、蓋の留め金が折れており、カパカパと開く状態だ。
いつから、この状態だったのかは不明だが、ポシェットの不具合が所持品を紛失した理由なのは明白だ。

「感謝する、フロレア殿。
 これは賢者の石。万物を完全な姿へ導く霊薬だ。
 まだ完成形の赤化には至らぬが、それでも卑金属を銀に変成させる程度の力は持つ」

パラケルススは小さな石を受け取り、それが未完成の賢者の石であると語った。
伝承では、これを得た者は万物を黄金に変え、病を癒し、神にも等しい力を持つと伝えられる。
製造過程は、腐敗を示す黒化、復活を意味する白化を経て、最後に赤化した石が現れるとの説が一般的。
つまり、パラケルススの言う通り、白い石は未完成品だ。
とは言え、製造には莫大な労力とコストが掛かっていたので、別にフロレアへの感謝が色褪せる事もない。

「良かった! やっぱり薬だったのね。
 それで……この異変は止まりそう?」

フロレアは外の景色に視線を向けた。
夜空には赤光の鳥が群れを為し、青い光の蝶や緑の燐光を放つ魚が軽やかに輪舞する。
その光に照らされる下を、動物隊がユーモラスに行進していた。
フェネクスに赴いたことがある者ならば、彼の芸術都市のイルミーションを連想する景色だ。

「異変が止まるかどうかはともかく、異変の正体には見当が付いた。
 想像の具現化で間違いあるまい。
 リノ・セラミスタが、想像界の風景を現象世界に照応させているのだ」

「リノ・セラミスタ……?」

「フェネクスの星誕祭で虐殺事件に遭い、難民となった少年と聞く。
 おそらくは、在りし日のフェネクスを周囲の空間へ投影しているのであろう」

子供の落書きのように変化する空間を観察し続けて、パラケルススは異変の正体を看破した。
その推理を聞くと、ダッジムが会話に割り込んで来る。

「はん? 想像の具現化だって?
 じゃあリノってガキを気絶させりゃ、この怪現象も収まるって事か……。
 しかし、力の規模と範囲がやたらでかいな。
 周囲の空間全てを塗り替える能力なんて聞いた事ねぇぞ」

ダッジムは車窓から外の魔境を眺め、呆れたように感想を漏らす。

「確かに影響範囲は広いが、範囲を広げれば広げるほど、威力の方は低下するものだ。
 強引に作った不安定な空間ならば、少しの切っ掛けで砂上の楼閣の如く崩れ去ろう」

「ステ振りは範囲だけだと願いたいが、どうなんやら。
 無力化を図る順番としちゃ、オバハンの説得が最初で、それが無理ならパラケルススの薬。
 それもダメならオイラの腕力とドーラの精霊魔術……こんなもんか?」

「それで良いが、我も短い間なら接近戦で戦えるやも知れぬ。
 恐らく、ダッジム殿にも引けは取るまい。
 そうならぬ事を期待してはいるが」

572フロレア・ステンシィ ◆d/Florean2:2015/10/12(月) 00:13:15 ID:aQ0L7z220
「ほぉ……切り札有りかい? 期待してるぜ」

虚弱な錬金術師に嘯く、巨躯の獣人。
本来なら、両者が格闘で互角に戦える筈もないが、バラケルススは自身有りげだった。
大まかな手筈が決まると、バラケルススは手慣れた指使いで薬を調合する。
出来上がったのは、大型の猛獣でも一呼吸で昏睡させる睡眠薬だ。

「ルパイネドーラ殿、風の精霊を操って、対象だけに睡眠薬を吸引させる事は可能であろうか」

「ええ、出来るわ」

エルフが頷くと、緩やかな風がバラケルススの頬を撫でた。
水の精霊で数十の傀儡を作りつつ、風の精霊も同時に操っているのだから、ルパイネドーラの力量の高さが窺える。
車両後方で動く冒険者たちを他所に、難民支援組織の女職員はリノに向かって話し掛けていた。

「リノ君。
 今、外で起きている現象が、貴方の所為だって言い掛かりをつける人たちがいるの。
 でも、もちろん違うでしょう? そうよね?」

少年の返答は無い。
座席に腰を下ろしたまま、大きく見開いた瞳で白い画用紙帳を指でなぞり続けるだけだ。
陶酔する芸術家の如く、心は此処に有らず。

「リノ君、聞きなさい。
 これは冒険者協会から賠償金を請求出来る機会なのよ。
 人生を取り戻すチャンスを逃しちゃ駄目。
 幸運の女神は誰の元にも訪れはしないの」

女が肩を揺すると、空想に耽っていた少年も現実に引き戻された。
もし、この職員が真摯に少年と向き合っていれば、此処で異変は終わったかも知れない、
が、それは無理な注文だ。
そもそも、そうであれば、この異変自体が起こらなかったのだから。

「……ママじゃない」

虚ろな瞳に理性の光が宿ると、次第に怯えが浮かぶ。

「ママは……ママは何処?」

少年は不安に苛まれた顔で周囲へ視線を走らせるが、探す相手の姿は無い。
フェネクスの星誕祭で消えた二人の姿は、何処にも無かった。
その事実をホノラウは伝える。

「何度も教えたでしょう? 貴方のママもパパも、もう居ないって。
 ね、だから、これからの事を考えなくちゃ駄目よ。
 これから行くルーラルダは各地で難民が大勢発生し続ける中で、受け入れに消極的な国なの。
 でも、貴方の訴えが市民の間に広がれば、政府も動かざるを得ない。
 貴方も同じ街に住んでた人たちを助ける事が出来たら、とっても嬉しいでしょう?」

リノは頭を両手で抱え、瞳から涙を流す。
脳裏には巨大な人腕蜘蛛が厄災の種をばら撒き、周囲の群衆が事切れてゆく場面がフラッシュバックしていた。
心を引き裂かれ、世界の全てを奪われるような恐怖と共に。

「パパ! ママ! 何処ッ! 何処ッ!?
 わああぁぁああぁぁ! 誰か、助けてぇぇぇぇ! ああぁぁああぁぁ! 」

少年の悲痛な叫びを合図として、周囲の心象風景は苦悶の色彩を帯び始めた。
楽しげですらあった光景は終わりを告げ、彼の心が描いた生物たちは不気味に変貌してゆく。
外の動物たちも溶け合い、奇妙に複合しながら、人の腕を生やす巨大蜘蛛の姿へ変わり始めた。
フェネクスの悲劇を再現したかのように黒い驟雨も降り始め、それは屋根を溶かして車内へと滴り落ちて来た。

573フロレア・ステンシィ ◆d/Florean2:2015/10/12(月) 00:15:56 ID:aQ0L7z220
「ひっ!」

短い悲鳴。
説得すると息巻いていたNGO職員が真っ先に黒い雨を浴び、力無く倒れ込む。
乗客を模した水人形たちも、天井から漏れる黒雨の水滴を浴びて次々と形を崩していった。

「気を付けられよ。
 我の見立てでは、この黒い雨はフェネクス虐殺の記憶を具現化したもの。
 迂闊に触れれば、精神を塗り潰されよう」

パラケルススの警告で、二人の冒険者とステンシィ夫妻は慌てて雨漏りの箇所を見上げる。
フロレアもレナードも元の席に戻り損ねていたのだが、後ろの車両へ戻れていても状況に変わりはなかっただろう。
背後の車両でも、乗客の悲鳴は響き渡っていたのだから。

「ドーラ、やれッ」

車内に広がってゆく阿鼻叫喚を聞き、ダッジムは吠えるような指示を出す。
ルパイネドーラも即座に風の精霊へ思念を伝えた。

「シルフよ、標的を風の輪に閉じ込めなさい」

使役精霊のシルフは、パラケルススのシリンダーから粉を吸い上げる。
そして、列車内の大気を掻き乱しつつ旋回。
環状の風を作って、そのまま前方へと突進する。
眠りの微片を含んだ旋風は少年の気管に入り、神経に作用して、意識を奪う――――筈だった。

「やったのか?」

ダッジムが誰にともなく問うものの、答えは否だ。
確かに睡眠薬を吸引させたにも拘わらず、夢魔の囁きは届かない。
視界の先で小さな影がゆらりと動くのを見て、錬金術師は目論みの不首尾を認めた。

「即効性の麻酔だが、影響を受けておらぬようだ。
 今の少年は、肉体的にも通常生物の範疇に無いのであろう」

少年は幽鬼のように席から立ち上がると、振り返り、車両の後方を睨む。
瞳には攻撃的な拒絶の光が浮かび、とても七歳児とは思えない圧迫感だ。
誰もが肌を粟立たせ、強い敵意に気圧された。

「ママを返せぇぇ! 悪者ぉぉっ!」

臨戦態勢を見せる相手たちを視界に捉え、リノは喉を枯らして叫ぶ。
それは聞くものの心に世界から除かれるような重圧を与え、骨が震える程の恐怖を刻む血の咆哮だった。
途端に黒い雨の勢いも増し、天井の各所にも掌ほどの穴が次々と開く。

「おぉい坊主、落ち着けッ!」

「煩い煩い煩い! みんな嫌い!嫌い!大嫌い!」

ダッジムが説得を試みるものの、相手の敵意は膨れ上がり、心的な重圧も増すばかり。
ルパイネドーラは説得は不可能と逸早く判断し、残存する水人形を一斉にリノの元へ向かわせた。
水の精霊を相手の肺に潜り込ませて、意識を奪う意図だ。
麻酔同様に意識を奪えなければ、もはや溺死させるしかない。

「やっぱ、やるしかねぇか!」

覚悟を固めたダッジムも一瞬遅れて続く。
彼の思考も冒険者としては珍しくないもので、死なせても蘇生魔術で復活させれば良い、だ。
巨体に似合わぬ俊敏な動きで黒い雨雫を器用に避けつつ、ダッジムは標的に迫り――――唐突に消える。
数体の水の精霊と共に。

574フロレア・ステンシィ ◆d/Florean2:2015/10/12(月) 00:19:41 ID:aQ0L7z220
列車の天井を突き破り、通路に鉄色の壁が現れていた。

「な、何っ!」「うきゃうっ」「きゃっ」「うっ」

地震のような衝撃と振動が列車を揺らし、エルフと錬金術師とステンシィ夫妻の四人が体勢を崩す。
異臭に気付いたルパイネドーラが、顔を上げると赤い飛沫が一面に広がっていた。
水の精霊たちの気配も、今は感じられない。
視界を塞ぐ鉄の壁は何なのか? 巨漢の獣人は壁の向こう側なのか?
状況が飲み込めず、精霊使いは仲間に問い掛けた。

「ダッジム?」

混惑する精霊使いの問い掛けには、事態を把握したパラケルススが答える。

「ルパイネドーラ殿、あの壁は巨大ロボットが振り下ろした剣のようだ。
 信じ難いが、あれもリノ少年の想像で創り出されたものであろう」

ルパイネドーラもフロレアもレナードも視線を窓の外に向け、謎の金属壁の正体を確認した。
先頭車両の通路を塞ぐ壁の正体が、体高三十メートル級のロボットが振り下ろした剣であると。
客車を一刀両断した二十メートルの刃を側面から目にした所為で、通路に壁が現れたかのように誤認したのだ。
ステンシィ夫妻は非現実的な光景に声も無い。
いや、巨大な人型ロボットの出現には誰もが戦慄を隠せなかった。
熟練の冒険者も、窓から外を見てしまった数百の乗客たちも。

「巨大ロボット……。
 あんなものを七歳の少年が異能で作れるって言うの!?
 でも、範囲を広げれば威力は落ちるはずじゃ……」

精霊使いは絶望に満ちた否認を口から漏らす。
三十メートル級のロボットは、一般的なアイアンゴーレムの四倍程度。
包丁を巨大化させたような剣など、振り降ろされれば斬られたでは済まない。
数十トンもの衝撃を受ければ、人の肉体など簡単に四散してしまうだろう。
異能を操る少年への攻撃意思が急速に萎え、恐怖と逃走の感情が頭を擡げるのも致し方ない。

猶、この巨剣の持ち主について改めて語れば、フェネクスの虐殺の場で召喚された異世界の人造兵器である。
全身が銀色で、背に翼を持ち、中世騎士の甲冑にも似たフォルムと大剣を持つ人型の機械。
それを、リノは恐怖と破滅のイメージとして記憶していて、この空間に再現したのだ。
外見を想像で模した物なので、本来の性能は再現されていないが、危険度の高さに変わりはない。

「彼我の力に絶対的な差があるようだ。
 力の規模が桁違いであれば、我らにとって膨大な量でも、リノ少年にとっては微小な減少率なのであろう。
 地を這う蟻では、象が犀に変わっていたとて判別など付くまい」

「そんな……何か手は無いの! このままじゃ殺されるわ!」

「力量の差は顕著。
 神経に干渉する事が出来ず、物理的にも止められぬ。
 もはや、打つ手は一つか……」

パラケルススは切り札の使用を決意したが、それを実行する暇までは無かった。

「ミ、サイルッ!?」

窓を見て、掠れた悲鳴を上げる精霊使い。
少年の想像で実体化するロボットは、容赦なくミサイルでの追撃を仕掛けてきた。
正確にはミサイルを模したエネルギーかも知れないが、どちらであっても結果など変わるまい。

「シルフッ!」

精霊使いの絶叫は、耳を劈く轟音と赤い閃熱の中へ消えた。

575フロレア・ステンシィ ◆d/Florean2:2015/10/12(月) 00:22:43 ID:aQ0L7z220
誰の物とも知れない叫びの中で、紅蓮の炎塊が紫陽花のように咲く。
それは、幼児が全力で虫を叩き潰すような過剰な攻撃力だった。
爆発の圧力で屋根や壁は砕け散り、先頭車両もほぼ全壊の有様だ。
後続の車両も衝撃で横転し、今度は壁と窓が黒い雨に晒されて、溶け始めてゆく。
風の精霊を守りに回せたルパイネドーラと、その背後にいるステンシィ夫妻は辛うじて爆発の直撃を免れていた。
床に倒れ伏すフロレアの喉からも、微かな吐息が漏れている。

「う……ぅ……」

但し、無傷ではない。
粉砕された車両の破片が全身に突き刺さり、熱波を浴び、天井が吹き曝しとなった事で黒い雨にも打たれている。
ルパイネドーラも似たような状態で、全身から血を流して失神。
男性であるレナードだけが、僅かな体力の違いからか、甚大な負傷を受けても意識を保っていた。

パラケルススとホノラウの二人は即死だ。
数千度の爆炎で焼かれ、髪も皮膚も肺も一瞬で黒焦げにされていた。

爆音が消えれば、炎の音に混じって無数の悲鳴が聞こえて来る。
子供を抱えた母親が助けてと叫ぶ声。神へ縋る老人の祈り。若い男女の苦痛の叫喚。子供たちの苦悶の呻き。
外へ逃げようとした男は漆黒の雨に心を塗り潰され、恐怖の中で意識を途絶させた。

死神が跳梁し、絶望が勝利したフェネクス虐殺。
その限りなく正確な再現が此処に。

この暴力的な力こそが、アイン・ソフ・オウル。
彼らの感情一つで、年齢も、経験も、思想も、善悪も関係なく、台風や津波の如き圧倒的な力で理不尽に薙ぎ払われる。
つまりは、熟練の冒険者たるダッジムも判断を誤っていた。
相手は猛獣に等しい脅威ではなく、神災にも等しい脅威だったのだ。

小さき神が味わった虐殺の記憶は――――誰にも生存の奇跡など起こさせない。

576enchanter ◆FarahLxH6M:2015/10/25(日) 06:35:14 ID:GDNk2S7c0
……言葉が足りなかったようで、それは本編の書き手たちへ深く謝罪したい。

まず、俺には本編を進めている書き手に乗っ取りと思われているのではないか……という懸念がある。
此処で設定を増やしている事が本編の書き手に継続意欲を失わせ、その所為でスレを停止させたのではないか、という懸念が。
本スレで書かずとも、此処のレスが本編を停止させているのなら、乗っ取りと何が違うのだろう?という訳だ。
だが、俺は自分が原因となってスレッドが止まるのは本意じゃない。

つまり「俺たちは向き合わねばならない」というのも、この避難所での投稿を止めるべきではないのか、という己への問い掛けだ。
今後はレスをウェブ上に投稿せず、自分の為だけの話として静かに終わらせる方が望ましいのではないか?
そう迷っていたので、あの発言が出たという訳だ。

勿論、俺自身が本編のキャラクターたちを動かして、創発板のスレッドを進めようと考えているわけではない。
さすがに其処まで厚かましくはないが、そう受け取られても仕方なかったとは思っている。

猶、此処での設定、枢要罪アスタロトは現在は存在していないものだ。
名前も知れない占い師が未来の自分がなると称してはいるが、成否の知れない予言という形で描いている。
本編と食い違っても良いように。
本スレに別の憂鬱の枢要罪が出たら、彼女の予言は成就しなかった、という寸法だ。
俺が憤怒の枢要罪になるかのような台詞も、同様に回避可能かもしれないものとして描いたつもりだ。
そう見えないとは思うが、なるべく根幹の設定には触れないようにしようとは考えているんだ。
しかし、このような設定を出して意図の不明な台詞まで吐かれれば、不安にもなるな。本当に済まない。

それと……俺が本編の避難所に書き込まない理由は、個人サイトの専用掲示板に警戒心を抱いているからに他ならない。
この点は、陰で物を言う奴と受け取られても当然だと、我ながら思う。

何か、他に聞きたい事があれば遠慮なく聞いて欲しい。
此処でなら会話も可能だが、どこか別の場所で発された質問でも真摯に応えたい。

577フォルテ ◆uVQKW6f//c:2015/10/25(日) 11:34:23 ID:B40SDoH60
>>576
こちらこそ気を遣わせてしまって申し訳ないです。
あの彼が言ってる乗っ取りは全然関係ない雑談スレみたいなところで
「放置スレがあるから再利用しようかな〜」的な発言を見かけたのかな?と自分は解釈しました
(ざっと探してみたもののソースは発見できなかったけど)
4か月も止まってればなな板だったらとっくに落ちているところなのでそういう話が出てもそらそうだわなーという感じです

こっちは元々本編と連動してもいいし矛盾してもおkの番外編(俗に言うパラレル設定?)という前提でやってもらっているので
その前提でいけばアイディアの元になることはあれど邪魔になることはあり得ないハズ
本編が止まっている原因はひとえに単なるサボリでございますw
これだけのクオリティがあれば本編の存在知らなくてこちら側に独自に付いた読者さんとかいそうなのでその人達のためにも存分にやってくださいませ!

個々の掲示板の管理人の信頼どうこう以前に個人掲示板自体に書き込むのに抵抗がある人も多いのは理解してますよ〜
なので本当は本編にも参加してほしいところだけど無理には勧めませんw

578enchanter ◆FarahLxH6M:2015/10/25(日) 23:29:45 ID:GDNk2S7c0
>577
気を遣わせているのは此方こそで、汗顔の至りだ。
それどころか、多大な配慮に甘えさせて貰っている。
ただ、この件は慎重に判断したいので、もう少し考える時間は持ちたい。

サボりに関しては、運営を主導している立場での悩みを案じていた。
他の書き手にレスの督促や、今後の運営方針を窺う事で、却って離脱を招いてしまうのではないか。
……という懸念から、それらを発信し難いのではないかと。
その点に関して此方にも良い案は無いが、他の書き手と話し合いを持つのは、きっと有用な事だと思う。

また、敵側の目的や思想に不明な点が多いので、何も思い浮かばなかったとも推察している。
生前のミヒャエルは真なる三主を仮想敵とする事で、人類を結束させるという目的があった。
彼がネバーアースの理や仕組みに気付いていれば、大勢の意思を統一させる事で大いなる厄災を乗り切ろうとしていた可能性もある。
ヴェルザンディもまた、理想の世界を作る意志を持っていた。
それらが、枢要罪に変化した事でどのような変化があったのか? 彼らの新しい方針、実現の手段、最終目的は何か?
この辺りを未設定として、触れないまま進めようとしても、なかなか動かし難いものだ。

アヤカシの扇動もミヒャエルの仕業なのかどうか、明らかでない。
鬼が言う「綺麗な心をした邪悪な奴」は山上の男女と別に表現しているので、第三のアイン・ソフ・オウルの存在も読み解ける。
俺はマモンと予想したが、別の奴かも知れないし、やはりミヒャエルなのかも知れない。
これらに関しては、ある程度設定する事で書きやすくなる可能性はあると思う。

そして、本編への正式な参加に関して。
これは初期から何度も検討していたのだが、やはり迅速な意思疎通が難しいと思われる点。
加えてパワーバランスの高さから断念した。
元々の説明ではアイン・ソフ・オウルの位階はソードワールド2.0で例えられているが、余り2.0は詳しくない。
其処でギリシャ神話に変換してイメージしている。
人位が英雄、地位が下位神、天位がオリンポスの神々、神位がゼウスといったように。

これは個人的な捉え方だが、位階二つの差は余りに大き過ぎて、相対した時に即死するイメージしか湧かない。
世界交錯という現象もあるが、天位級の枢要罪を倒していく流れで進めるなら、人位では力不足。
潤滑な進行には、地位級程度の力量は必要と思われるが、この時点で既に神の領域だ。
どちらかと言えば、市民生活周りをメインに据えたい俺に本編は向かないだろう。

力になれず遺憾な所だが、其方が上手く行くようには祈っている。

579フォルテ ◆uVQKW6f//c:2015/10/26(月) 22:41:10 ID:92HSW/dg0
>サボリの原因
噛み砕くとそんな感じかもしれない
一行にまとめると「もう少しだけ待ってみようかな?」を無限ループ→いつの間にか今に至る
という感じですねえ\(^o^)/
せめて導師様が残ってる間にどうにかしてればよかったなあ…
でもエスさんだけでも残ってくれてたのが救いですね

>本編参加
避難所だけの問題なら公共性のある板に引っ越しもアリなんだけどそういうことなら難しそうですね…
とりあえず持ち直せるように頑張ってみます

580Miryis stalemate ◆NHMho/TA8Q:2015/12/11(金) 00:03:36 ID:mVzftu6I0
ずっと黙ってるのも不誠実だし、アタシも結論を書かなくちゃね。
結論から言えば、>>273のリンセルのその後から、>>575の事件までの一連の流れは終了する。
レスの続き自体は列車消失事件の結末までがあるけど、今後は此処に投下しない……と言うのが結論だよ。

スレ主さんは、彼の言葉は全然関係ない雑談スレでの発言を指すんじゃないかなって言ってくれたけど、そんな場所があるとは思えないしね。
あれは明確に此処の書き手を指していて、しかも文面からすれば相当な不快を与え続けていた……と捉えるのが自然だと思う。
おそらくは無神経、無理解に物語の上澄みを掬っていた事で。
それなら止めるのが最善。不快な思いを与えていたのならゴメンね。

波乱は望まないから、アタシへの言及や返レスは無用でお願い。
物語的には、本編で起きた因果律の混沌で消えたってのが整合性のある説明、かな。
仮に厄災の種がバラ撒かれてない事になってるのなら、アタシは事を起こさず、ミリア事件も始まらない。
三主事件が起きず、ボルツ・スティルヴァイも死んでないなら、イストリアを出る事だって出来ないはずだしね。

ただ、アタシなりにあの世界を愛してはいたから、誰の目にも触れなくてもミリア事件とでも呼ぶべきものの終わりまでは書くかもしれない。
魔術対策課を交えたリノの処遇、異変の犠牲者を絡めた蘇生関連の話、当然リンセルの行方も。
色々長くなっちゃったけど、アタシも本編の続きは楽しみに待ってるよ。

……それじゃあね。

581エスペラント ◆hfVPYZmGRI:2015/12/11(金) 22:50:43 ID:ULzlp2so0
すいません、返答が不要と書かれていましたが
いろいろ漁っていた際に発見し、自らの発言により起こったことの為
敢えて言わせていただきます。

本当に申し訳ありません。
私としては正直此処に関しては余り目を通していませんでした
聞いた経緯に関しては詳しい事は言えませんが本当に平身低頭の限りで誠意を見せるつもりです。
今更綺麗事と言われる覚悟で、ローファンタジーに書き込む形が違うとは言え
同じ設定を広げ、書いているのは仲間だと言っても差し支えない事だと思います。

なので消えることは無いですし、本当だったら私は消えていた身分ですが
此処の方に助けられた事を恩を仇で返すという最悪の形にだけはしたくない最低の自己保身もあります。
しかし本当に感謝しています、ありがとう。

もういないのであれば意味は無いですし、自分は最低の事をした事には変わりありませんので
忘れないようにしながらこれからも参加し続けようと思います。
それでは、お嫌でしょうがまたいつか

582ひとりごと ◆uVQKW6f//c:2015/12/12(土) 11:35:30 ID:Xr2sXq5s0
エスさんなら反応してしまうだろうなと思ったw
まあ隠れスレの更に隠れスレで波乱も置きようもないから大丈夫でしょうw
本編での大幅な世界改変はいっそ別の時間軸として切り離してしまうことで
こっちの書き手も気楽にできるようになるかな?との意図もありました
(もちろん心機一転仕切り直し&新規が入りやすくなるように、との意図がメインですが)
無理には引き止めないけど戻りたくなったらいつでも戻ってきてね〜

583Miryis stalemate ◆NHMho/TA8Q:2015/12/13(日) 04:19:58 ID:D2PS773Q0
来ちゃった……って言うんだよね、こういう時は。

>>581
まず、アタシは返事を聞かずに立ち去るほど短気じゃないから、もう何処にもいないなんて事はないよ。
繊細でもないから、傷心で塞ぎ込むような事だってない。
ただ、本編の書き手を傷つけてまで、此処を継続するつもりが無かったってだけ。

これが、何かしらの誤解から生じたものなのかは分からない。
迷探偵の回らない頭には、スレの乗っ取りを企てる者は自分を指すって結論しか出てこなかったから。

・もし本編が停止したまま倉庫行きになれば、此処だけがネバーアースを描く事になって実質的に乗っ取ったと言える点。
・キャラテンプレに操作可能と明記してあるNPCや、本編出演のモブに名前を付けて、此処で動かしている点。
・どうしても本編が動かないなら、アタシが枢要罪を操作した方が良いんじゃないかって考えが、何度か頭を過った点。
・此処の書き手が乗っ取りという単語を口にして、意味不明な態度を取った点。
・此処の書き手の発言全てにアタシは責任を持つ点。
・数か月も停止してたスレを、部外者が動かすとは考え難い点。

……うん、我ながら危惧や複雑な感情を抱かせてもおかしくないし、アタシに非無しと言えるかは怪しい。
でも、詳しい事情を説明出来かねるなら、無理に口を開かせる事も無いよ。
消えることは無いって言ってもらえるのなら、素直に甘えさせてもらおうかな。
アタシのあざとーく、しおらしーい態度で、仏心を出してもらえたって思って。
長々とやり取りが続くと、本編を進める為の気力まで削っちゃうかもしれないから、これにて一件落着!
殊更に自責で卑下するなんて、以ての外だからね。
むしろ、楽しんで書いて。

>>582
アタシは箱庭を作る事に楽しみを見出すタイプの書き手かも知れない。
だから、本編の書き手がやり難くならないようにって意図で支流のIF世界って口にしたけど、実際は本編と矛盾する設定は描けないと思う。
……ちょっと賢者の贈り物みたいな感じだね。
ただ、その辺りは因果の混沌が起きる時間をミリア事件の後にすれば、設定上の問題も起きないから大丈夫。
色々な気遣い、ありがと。
最近は常に朦朧としてて考えが纏まらない感じだけど、余裕が出来たら再投下を考えるかも。
誰かに見てもらおうって意図で始めた訳じゃないから、止めてもダメージを受ける訳じゃないんだけど、
起承転結の転の部分で止めたままってのも微妙だしね。

あ、それとブルースプリングスの設定投下場所は空想のコキュートスの12レス目だよ。
前の避難所に投下してたのは、その前身設定と思しき子供の国カイコだったかな。

584エスペラント ◆hfVPYZmGRI:2015/12/16(水) 00:24:08 ID:CeEtYI6I0
今は忙しいので、避難所への返信は後にしてこちらをまず先に

>>582
本当に申し訳ありません。
ただ何と戦ってるんだって言われそうですが
何処で火種として拾ってくるか分からないのは此処とは別の掲示板でよく分かっているので

>>583
ただ前に見た時に乗っ取り紛いの行為とも書かれていましたし
それは自分を指しているのであれば聞き捨てはならないというのもあります。
これは大部分でもあるのは本当の事で自ら思った事として言わせていただきます。
全部明かせないということに関して触れて頂かないのは助かります。

ありがとうございます。
ただ一つ言いたいのは余りに他の方の設定とかに矛盾とか出ることを気にするのは
皆で作っていくものである以上疑問を持っていたので
少なくても参加して作っていく権利がある以上ある程度の整合性云々は気にしなくても良いと思います。
それは設定した主だけが考えて作る事が許されるとか公言とかしているのは別だとは思います。
これは別に商業作品でもないわけで、設定が違うだのなんだの言う輩はいないでしょうし
久しぶりに覗いて思った事なので戯言程度に聞いていただければと

あとブルースプリングスに関して教えて頂きありがとうございます。
カイコの事も正直言われるまで忘れていましたが、覚えて頂けてるとは思いませんでした。
ちょっとうれしいですね。

とりあえずこれで終わりにします
今はいろいろ考えたり荒らしの類が居るので書き込みタイミングや
また忙しいのもあり何時になるかは分かりませんが書かせて頂きます。
それでは

585名無しさん@避難中:2016/06/29(水) 18:21:59 ID:H9YY95Z60
ksks


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