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(´・_ゝ・`)白天、氷華を希うようです('、`*川

39名無しさん:2024/01/01(月) 00:57:59 ID:yFlHhZ5Y0
今回は一旦ここまで。
2024年最初のブーン系作品の座は貰ったぜ!

40名無しさん:2024/01/01(月) 01:03:54 ID:rAYKjh6U0
乙!最初どうなるかなって思ったけど凄く良かった!

41名無しさん:2024/01/01(月) 19:55:57 ID:xIIsttdA0
乙……続きものか!?

42名無しさん:2024/01/01(月) 23:09:14 ID:yFlHhZ5Y0
>>41
短編ですが、一応続きものです。
数日後にまた続き投下するので、よろしくお願いします〜。

43名無しさん:2024/01/19(金) 00:06:17 ID:KKTQDt7.0



静かに、それでいて轟々と迅速に国道を駆ける車の助手席。
頬杖を突きながら、凄まじいスピードで窓の外を流れていく景色をじっと眺める。
かすかにガラスに映った自分の顔は、それはそれはさぞ不機嫌そうであった。

(´-_ゝ-`)「――さっきから、なにを不満そうにしているんだ」

社長の車に乗り込み、目的の駅に向かって走り出すこと数十分。
車内に充満する沈黙に耐え兼ねたのか、無言のまま車を運転していた社長がようやく口を開いた。

(‘、`#川「不満“そう”じゃありません。不満なんです」

窓から視線を外さずに返答をする。
視界の先では、この街を代表する観覧車がどんどん小さくなっていくのが見える。
ふと、見覚えのあるビルが通り過ぎるのが見えた。ということは、この車が目的地に到着するまであと十分といったところだろう。

44名無しさん:2024/01/19(金) 00:08:21 ID:KKTQDt7.0

(´・_ゝ・`)「だから、なんでだ。今回は何も問題なくスムーズに終わっただろう?」

('、`#川「商談自体はそうでしょうけどねっ」

溜息交じりの発言にカチンときて、私はさっと運転席に向き直る。
彼にとっては慣れた道だ。多少私が隣で文句を言ったところで、事故を起こすような集中力を切らすことはないだろう。
そう勝手に結論付けた私は、感情のまま言いたい事を言うことにした。

('、`#川「30分ですよ!?30分!あなた方お二人が呑気に家具選びをしている間、あのちょ〜大企業の社長さまと、その秘書の方を一人でお相手してたのは誰だとお思いで!?」

煮えくり返りそうになる腸を必死に理性で抑えつつ、言いたいことを吐き出していく。
うちの企業は確かに目を見張る急成長を続けているとはいえ、昭和の初めからこの令和に至るまで存在し続け、ついにはこの国を代表するほどになった大企業とは比べるべくもない。

そんな大企業を動かす社長と、それを支える秘書。対してこちらは役員でも重役でもないどころか、多少記憶力が良いだけのギリギリ30歳にすら満たない小娘。
サバンナを生き抜いたライオンたちを前に、動物園育ちのウサギが相対するようなものである。
どれだけ私の胃が痛んだか、人並みの優しさを持つ人なら想像は易いはずだ。

45名無しさん:2024/01/19(金) 00:09:33 ID:KKTQDt7.0

(´・_ゝ・`)「たかが30分程度雑談してただけで何を怒る必要があるんだ?そもそも、この国を代表する企業の代表取締役様が、数十分遅れた程度でキレるような人間な訳ないだろう?」

(-、-#川「……はぁ〜〜〜……」

あぁそうだ。残念ながら隣でハンドルを握っている彼は、“人並みの優しさ”すらない男なのであった。

淡い期待が弾けると共に、背凭れに預けていた背中がズリズリと滑る。とても一企業の代表権を持つ取締役の発言とは思えない。
“何百人もの従業員を雇っている社長としての自覚がまだ身に付いてないのか”と思うやいなや、腹の底からマグマのような熱がせり上がってきた。

('、`#川「普っっ通は!!キレるん!!ですよ!!私が怒らないようにず〜〜っと間を保たせてたから許して頂けただけです!!」

(;´・_ゝ・`)「ちょっ、痛っ……殴るな!運転中だぞ僕は!」

('、`#川「ならさっきからチラチラ株価見るのもやめなさいよ!」

ポカポカと彼の左肩を叩き、カーナビの前に置かれたスマホを取り上げる。
人が真面目に説教をしているというのに何を見ているのか。そもそも運転に集中しろ。

46名無しさん:2024/01/19(金) 00:11:30 ID:KKTQDt7.0

('、`#川「ああいう人たちの…というか、他人の時間がどれだけ貴重なものかまだご理解が足りないんですか!?はぁ〜あ!」

(#´・_ゝ・`)「ちっ…たかだか数十分ご歓談してただけの身分で随分と偉そうだな!そもそも、今回の商談を取り付けたのも、無事円満に終わらせたのも、お前ではなく僕だろう!」

('、`#川「デルタさんにこっそりフォローしてもらってたくせに!」

(;´・_ゝ・`)「うぐっ…!い、いや、省庁とのやり取りについてはあいつの担当というだけで……」

('、`#川「それに社長、お相手さんの秘書の方のお名前、一瞬ド忘れしましたよね?助け舟を出したのはどなたでしたっけね?まさか、それもお忘れですか?」

(;´・_ゝ・`)「…いや、まぁ、それは……」

私の追加口撃に社長はにべもなく黙り込む。
別に、社長の記憶力が悪い訳ではない。というか、寧ろ良い方だ。
人格的欠点が多すぎるのは事実だが、単純な能力や才能という面から見れば、寧ろ彼に出来ないことや苦手なことを見出す方が難しい。

47名無しさん:2024/01/19(金) 00:12:57 ID:KKTQDt7.0

だが、こと“対人関係”という点に着目すれば、あれよあれよと粗が見つかる。
一際特徴的なのが、人の記憶だ。
彼は昔から、興味のない人間の顔と名前を覚えようとしないのである。

大学生活を経て高校時代に比べれば随分とマシにはなったものの、それでも社会人としては合格と言えるレベルではない。
にもかかわらず一企業の社長業をしているのだから、傍から見ている私からすれば常にハラハラものだ。
毎日、薄氷の上でタップダンスをする子どもを見ている親のような心境である。

(-、-#川「……次回の会議は来月です。それまでに、向こうの取締役全員の顔と名前くらいは把握しておいてください」

(;´・_ゝ・`)「ぜ、全員!?いくらなんでも過剰だろ!どうせデルタやお前も出席するんだ、なんでそんな無意味なことを僕が……!」

喚く社長に何か言うことはなく、ただ無言で彼を睨みつける。
私の眼光に怯んだ彼は瞬時に押し黙り、悔しそうに眼前に視線を戻した。

48名無しさん:2024/01/19(金) 00:13:33 ID:KKTQDt7.0

(;´-_ゝ-`)「……一応言っておくが、僕はお前が勤めている会社の社長だぞ?」

('、`#川「最低限のご自覚はあるようで何よりです。これからは、その役職に恥じない言動をより心掛けてください」

“より”の部分を厭味ったらしく協調し、私は再び口を閉じる。
ついに何か言う気力もなくしたのか、蚊の鳴くような声で彼は「……はい」と呟いた。どうやらお灸程度の効果はあったらしい。
ふんと鼻を鳴らして窓の外を見てみれば、既に目的地に入るところであった。

目に飛び込んできた、“新横浜駅”と書かれた大きな文字。
わざわざ東京まで行かなくても新幹線に乗れるのは、個人的にとてもありがたいことだった。

49名無しさん:2024/01/19(金) 00:15:19 ID:KKTQDt7.0

車のスピードが落ち、路肩に止まる。周りにはタクシーやバスもない。
ようやく到着した、降りなければ。
そう思うと同時に、横から“なぁ”と声をかけられる。
隣に視線を移すと、社長は前を向いたまま、少し遠慮がちに口を開いた。

(´・_ゝ・`)「今日の僕は、何点だった?」

唐突な彼の質問に、私の口からはふふっと小さな笑い声が漏れた。
高校時代から変わらない。
彼が何かを成すたびに、その都度私に聞いてくる“採点結果”
私の悪癖である“採点”に端を発する、私と彼の“決まり事”だ。

('、`*川「うーん……“65点”!」

(;´-_ゝ-`)「…今回の減点事由は」

('、`*川「商談中にお相手の名前をド忘れ、スーツの背中側の汚れ、専門用語についての説明の欠如。…なにより、30分の遅刻で大幅減点です」

(;´-_ゝ・`)「…なぁ、そろそろ加点方式に変えてくれないか?受験生のニーズに応えてやり方を変えるのも採点側の義務だろう?」

('、`*川「採点の趣旨を鑑みると、減点方式の方が適切なので」

ハンドルに両腕をかけたまま、彼は小さな溜息をつく。
今までの最高得点は78点。これでも、企業を立ち上げた大学生の頃に比べれば、倍以上に点数は伸びた方だ。

50名無しさん:2024/01/19(金) 00:16:34 ID:KKTQDt7.0

いつものやり取りも終わり、シートベルトを外す。
「ありがとうございました」と声をかけて車を降りようとした途端、視界の中心に大量の紙の束が差し出された。

('、`;川「……なんですかこれ」

女性の私ですら羨ましくなりそうなくらいに、白く、それでいて力強そうな手。
それに握られているのは、私の鞄にギリギリ入るか怪しいレベルの量のプリント。

(´・_ゝ・`)「デルタから頼まれてたんだ。明後日の会合に来る奴らのリストと、各部署への通達についての注意書きだ。全部暗記しておいてくれ」

('、`;川「……PDFにしてくれれば…」

(´・_ゝ・`)「あー、あとお前のサインが必要なやつも混じってるらしい。僕はよく知らないが、ま、それも含めて確認して欲しいんだろ」

悪びれもなく答える様子にまた苛立ちを覚え、軽く舌打ちをしてから奪うように紙の束を受け取る。
“デルタさんから頼まれた”ということは、少なくとも今日昨日に決まったことじゃない。遅くとも、1週間前には出来上がっていた書類だろう。
“もっと早く渡せ”と言いたいが、仮にも相手は上司、それも社長である。いくら元クラスメイトとはいえ、そんな文句を軽々しく言える立場ではない。

51名無しさん:2024/01/19(金) 00:17:53 ID:KKTQDt7.0

('、`#川「もっと早く渡せやボケ…」

(´・_ゝ・`)「口に出てるぞ」

口に出ていたらしい。それも中傷も含めて。やっべ。
反射的に口を抑えたがもう遅い。というかまぁ、別に取り繕う意味もないだろう。

足元に置いていた鞄に書類を丁寧に入れ、車のドアに手をかけ開く。念のため、大きめの鞄にしておいて正解だった。
未だに少し慣れないヒールに少しふらつきながら、私はゆっくりと車を降りた。

最低限、二言三言かけてから行こうと車の方に振り向く。
夕暮れの茜色が車体に反射して少し眩しい。二ヶ月前に購入したばかりの社長の新車。
今回は赤。この前はコバルトブルーの車を買っていた。車など一台で充分だと思うのだが。
もう知り合って10年以上経つが、金持ちの思考、とりわけ“盛岡デミタス”という人物の思考は未だに理解できないままである。

('、`*川「それじゃ、行ってきま……」

(´・_ゝ・`)「待て」

開かれた窓から掛けた挨拶が、彼の低音に遮られる。
なんだろう。まだ何か用事があるのだろうか。
目を瞬かせながら待っていると、彼は先ほど渡されたものと同じくらいの紙の束を出してきた。

52名無しさん:2024/01/19(金) 00:20:00 ID:KKTQDt7.0

('、`;川「うわっ…!?ま、まだあるんですか!?こういうのは早めに出してくれって言ってるでしょ!?まとめて一気に出されるのが一番困るんですって…!!」

(´・_ゝ・`)「仕方ないだろ。それは昨日やっと完成したばかりなんだから」

('、`#川「やっぱり最初のやつは早めに出せたんじゃないですか!バカ!無能!」

(;´・_ゝ・`)「む、む、無能!?こ、この僕が、む、むむ、無能!?おま、お前、お前な、言って良いことと悪いことが…!」

(-、-;川「あーもうはいはいすいません。…で、なんですか、コレ」

突然バグりはじめた社長を尻目に、渡された紙の束を見る。
そこで、ふと小さな違和感を覚えた。

('、`*川(……なんか、良い手触り)

ただのコピー用紙とは違う。ツヤツヤとしていて、それでいて丈夫さを感じる。
最初に渡された束や、普段から業務で使っているどの紙とも違う。

だが、覚えがあった。それも視覚だけでなく、触覚でも。
私は数回、こういう紙に会社で触れたことがある。
…思い出した。これは確か、大切な契約の締結の際に使うような――。

53名無しさん:2024/01/19(金) 00:20:52 ID:KKTQDt7.0

(´・_ゝ・`)「あぁ。婚約証書だ」

('、`*川「はぁ、婚約………」

“婚約”。オウム返しのように口に出してみた途端、脳が単語の意味を理解する。
私の言葉の認識に、誤りが齟齬がないのなら。
婚約、こんやく、つまり、要するに、それは――


('、`;川「――婚約!?」


自分でも驚くくらいの大声が、新横浜駅中に木霊した。

周りを歩いていた人たちの視線が、一気にこちらに注がれたのが分かる。
だが、社長はそんな周囲の様子にも、私の狼狽にも気付いていないかのように、「そうだ」とだけ言って頷いた。

54名無しさん:2024/01/19(金) 00:21:59 ID:KKTQDt7.0

('、`;川「は、はぁ、そうですか…婚約…へ、へぇ……」

全く動じてなさそうな社長の様子に、却って冷静になってきた。
頭に昇った血と熱が、サッと引いていくのが分かる。

そうだ。いくら人の気持ちが分からない傍若無人な男といえど、世間から見れば江戸から続くあの森岡家の長男であり、御曹司。
そして今や、学生時代に立ち上げたベンチャーを10年足らずで時価総額3500億の企業にまで成長させた、天才若手社長。
寧ろ、そんな男がまだ結婚していないという、今までの状況がおかしかったのだ。

( 、 ;川「……お、おめでとう、ござい、ます。はは……」

なんと言っていいか分からず、形だけの祝いの典型文だけが零れ出る。
ふと、無意識に書類を力強く握っている自分に気が付き、慌てて書類を持ち替えた。

('、`;川「…で、でも、私なんかに知らせて、いいんですか?…こんなのまで、見せようとして」

声の震えを必死に隠そうとしつつ、書類を自分の顔の前に持ってくる。
……どうしてだろうか。気を抜くと、すぐにでも泣いてしまいそうだった。

55名無しさん:2024/01/19(金) 00:24:48 ID:KKTQDt7.0

(´・_ゝ・`)「……いや、だから、中身をお前にも確認しておいて欲しいんだが」

( 、 ;川「…私にではなく、デルタさんとかの方が、良いでしょう」

泣きそうな顔を見られまいとしながら、必死に言い訳を探す。
書類の内容のチェックなどは、私なんかより、いくらでも適任がいる。
誤字脱字のチェックも、PDF化した書類をスキャンすればすぐだろう。

それなのに、どうしてわざわざ私に見せようとするのか。
嫌がらせか。それともまさか今回も、本当に何も考えていないのか。

瞬きをする。世界が途端に水分で滲む。
あぁ、ダメだ。何か、何か違うことを考えなくては。

そうだ、もうそろそろ新幹線の時間なのではないか。
とりあえず、乗ったら化粧室に行かないといけないな。取引先に行くまでに顔、直さなきゃ。

別の思考を巡らせて自分を騙そうとするも、すぐに嫌な考えが脳を塗りつぶしていく。
水中に垂らされた墨汁のように、真っ黒な感情が広がってしまう。

……私、この後もちゃんと仕事出来るかな。向こうでいきなり泣いたりしないかな。
明日以降も、いつも通りでいられるかな。

56名無しさん:2024/01/19(金) 00:25:40 ID:KKTQDt7.0

(´・_ゝ・`)「…?いや、デルタにはもう見せた。後はお前の確認が欲しいんだ」

( 、 川「………」

あぁ、なんで、どうして、こんなにデリカシーがないの。
なんで今なの。こんな、意味分かんないタイミングで、意味分かんないもの見せようとしてくるの。
私が、本当に、ただの義務感とか元クラスメイトのよしみとかだけで、君の隣にいると本当に思ってるの。

( 、 川「………」

書類を握る手に力が籠る。大事な書類だと、丁寧に扱うべきだと、そんなことは理解しきっているのに。
目頭が熱い。胃の中のものが、全て逆流しそうになるような吐き気すら感じる。
地面のアスファルトが溶けたみたいに、立っていることすら辛くなってくる。

あぁ、いっそ、はっきりと。
「お前に興味なんかない」と、もうこの場で、言ってくれたら――。

57名無しさん:2024/01/19(金) 00:26:40 ID:KKTQDt7.0

(´・_ゝ・`)「…とにかく、読んで何も問題なければ、サインして持ってきてくれ」

( 、 #川「……っ、だから」

( Д #川「だから、なんで、わたしがっ…!?」

書類を下げ、顔を上げる。
瞳に溜まった涙が零れないよう、必死に上を向く。
眼前には、予習していない範囲について先生から質問された生徒のような、そんな困り顔をしている社長の顔がある。

彼は私の顔を見た後、ゆっくりと首を傾げる。
何を言おうか考える素振りを見せた後、彼はゆっくりと、瞬きをしながら口を開いた。

(´・_ゝ・`)「…なにをそんなに怒ってるんだ?そりゃあ、いるだろ。だって」



(´・_ゝ・`)「――お前との婚姻なんだから」



('、`;川「…………………へ?」

58名無しさん:2024/01/19(金) 00:28:13 ID:KKTQDt7.0

溢れそうになった雫は垂れず、瞬きと共に奥へ引っ込んでいった。

今、彼はなんと言ったのか。
自慢の記憶力を頼りに、数秒前の発言を再生する。

まさか、この馬鹿社長は、目の前にいるこの唐変木は。
“お前との婚姻”と言ったのか?

“お前”とは誰だ。誰のことだ。
周りをキョロキョロと見る。人こそちらほらと見えるものの、みな我関せずといった風体で駅構内へと入っていく。
社長の視線も、まっすぐにこちらに向いている。
そして、社長と会話をしているとみられるような距離感に現在いる人間は、たった一人しか認識できない。

それは、なんというか、要するに、つまり。
彼の、婚約の相手というのは、それは――。

σ('、`;川「………わた、し?」

書類を下げ、社長を見る。
運転席に座ったままの彼は、まるで出来の悪い子どもを見るような目つきでこちらを睨んでいた。

59名無しさん:2024/01/19(金) 00:29:37 ID:KKTQDt7.0

(´・_ゝ・`)「他に誰がいる。そうでなければ、お前にわざわざ見せるはずないだろ」

(´・_ゝ・`)「…それじゃ、読んで文句なければ、サインと印鑑押してから持ってきてくれ。おかしな所があればその都度教えろ。どんな些細なことでもいい、遠慮するな」

放課後に公園で遊ぶ約束をした小学生みたいな声色で、とんでもないことを言う社長。
そして、その発言に理解が追いつかず、呆然としたままの私。
あれだけ零れそうだった涙はいつの間にか、一滴残らず引っ込んでいる。

(´・_ゝ・`)「…というか、あと10分足らずで新幹線出るぞ。急げよー」

間延びした声が鼓膜に届くと共に助手席の窓が閉まり、静かなエンジン音と共に発進する車。
瞬く間にスピードを上げ、駅から遠ざかっていく赤い光沢を、私は呆としたまま見つめ続ける。

('、`;川「…………え?」

左手にある書類の重さを感じながら、空いている方の右手で頬をつねる。同時に、鋭い痛みが頬の神経を伝って響く。
“痛い”と思うと同時に、コートのポケットに入れていたスマホが鳴る。
液晶画面を見てみれば、そこには今から乗る予定の新幹線の時刻のリマインドが表示されている。

11月の夕方特有の、少し肌寒い風が頬を撫でる。
“婚姻”と”婚約”という二つの熟語で茹った顔の熱がさっと冷えていく。



……少なくともここは、夢の中ではないようだった。

60名無しさん:2024/01/19(金) 00:31:28 ID:KKTQDt7.0



从^―^从「はいはーい!それじゃ…カンパーイ!!」

( "ゞ)「かんぱーい」

('、`*川「……乾杯」

从'ー'从「いやテンションひっくぅ〜〜!!!」

義務的に上げたジョッキに勢いよく同僚のジョッキがぶつけられる。
テーブルに散らばったビールの泡も気にせず、彼女はその可憐な容姿からは想像もつかない飲みっぷりを発揮した。

“渡辺アヤカ”。年齢が1つ下の、大学時代の後輩であり、今はデルタさんの部下でもある。
その類稀な言語能力とコミュニケーション能力に目を付けたデルタさんが、既に幾つも内定を持っていた大学四年の彼女を口説き落としたというのは本当の話。
庇護欲を搔き立てられるそのふわふわとした見た目に反し、れっきとした才女である。

61名無しさん:2024/01/19(金) 00:32:58 ID:KKTQDt7.0
从'ー'从「いえ〜い唐揚げいただき〜!あっ、お刺身も〜!!」

('、`*川「それ、ナベちゃんが頼んだやつ?」

( "ゞ)「いや俺のだね。あ、結構がっつり持っていくね…」

ジョッキの中身を一気に飲み干したかと思えば、稲妻の如きスピードで料理に箸を伸ばす彼女。
ちびちびとビールを含みながら彼女の隣を見ると、デルタさんがも黙々と電子パネルを操作しているのが見えた。
ちなみに、追加されていた生ビールの数は”3”。言わずもがな、全てナベちゃんの胃に入る予定である。

( "ゞ)「…まぁ、今月もお疲れ様でした。伊藤さんも」

('、`*川「あ、うん。ありがとう、デルタくん」

( "ゞ)「…やっぱり、タメ口の方が安心感あるタメ」

ジョッキをぶつけて軽く鳴らし、お互い顔を見合わせて笑う。
“関ケ原デルタ”。あの盛岡デミタスの右腕であり、弊社の取締役執行役員の副社長。

社長と同じくらいの背格好であるが、その大人びた顔つきと雰囲気は、応対した人間全てに安心感を覚えさせる。
謙虚さとハングリーさを併せ持ち、対局を見通すその目でずっと社長を支えてきた、うちの二本柱の一角。
彼もまた、社長に勝るとも劣らない時代の傑物の一人に数えられるだろう。

だが、それはあくまで世間からの評価の話。
私にとっては、尊敬する友人で、高校時代のクラスメイトで、大学の同期で、そして。
一人の傍若無人な天才に、10年以上振り回されている稀有な同士であった。

62名無しさん:2024/01/19(金) 00:34:04 ID:KKTQDt7.0

从'ー'从「あ!先輩のそれ、美味しそう!いっこも〜らお!」

(; "ゞ)「だから、食べるなら自分で頼めって……」

苦笑いを浮かべながら、優しく後輩を嗜める彼の横顔は高校時代と変わらない。
優しい眼差しを後輩に向けつつ、空いた手で汚れたテーブルを巧みに拭いているその様は、なんとも手本にしたい見事な気遣いであった。

('、`*川(…こうして見ると、普通の人たち、だよねぇ)

真っ赤な顔でグビグビとビールを呷る後輩と、楽しそうに軟骨の唐揚げを咀嚼する友人。
こうして見ると、方や一企業の副社長で、方や五か国語を操るマルチリンガルだとはとても見えない。

能力だけの話に留まらない。
デルタくんは言わずもがな、ナベちゃんもまた目を見張るほどの美人だ。
首元まで丁寧に揃えられたサラサラの髪、パッチリとした二重に、通った鼻筋。
身長も150cm前半と小柄。まさに、“男性が想像する理想の女性像”をこれでもかと詰めたような外見だ。

楽しそうにケラケラと笑う後輩の指先を見た後、自分の手に視線を落とす。
彼女と違い、必要最低限に手入れしかされていない手。
可愛らしいネイルもない。さほど白くも細くもない。毎日大量の紙を捲ったせいか、よく見れば細かい傷跡が残っている。
…高校生の頃から、何ら進歩していないままの指先。

もし、私が彼女のような見た目なら。
彼女のように、女の子らしい長所が何か一つでもあれば。
もし、そうだったなら、あの人も――。

63名無しさん:2024/01/19(金) 00:35:21 ID:KKTQDt7.0

从'ー'从「…せんぱーい、聞いてますかぁ?」

('、`;川「……へ?あ…ごめん、なに?」

从'へ'从「あ〜!やっぱり聞いてなかったぁ〜!」

いつの間にか呆けていたのか。
すっかり出来上がってしまっている後輩に向き直り、慌ててただ持っていただけのジョッキを置く。
あれほど綺麗に立っていた泡は既にほとんど消え去っていた。
どうやら自分はそこそこ長い間、物思いに耽っていたらしい。

从'ー'从「だからぁ、先輩は何か最近、面白い話ないんですかぁ〜!?」

('、`;川「お、面白い話…?」

おじさんみたいに枝豆を貪りながら、とんだむちゃぶりを投げかけてくる。
これが年配の男性上司なら舌打ちをした後すぐさま人事にぶちこむのだが、可愛い後輩となれば話は別だ。

顎に手を当て考える。
記憶力には自信がある。最近どころか、物心付いた頃からならば日付を含めた些末なことまで思い出せる。

だが、巡っても巡っても特に彼女の興味を惹けるような話など見当たらない。
ここ最近は、新しく決まった大型業務の対応で手一杯だったのだ。
それに加えて、省庁への応対や社長のスケジュールの修正まで並行してこれまで通りにやらねばならないのだから、それはもう大変で――。

64名無しさん:2024/01/19(金) 00:37:16 ID:KKTQDt7.0

『婚約書類、確認したらサインと印鑑押して――』

('、`*川「――あ」

考えないよう、頭の奥底に仕舞っていた記憶を引き出してしまい、無意識に言葉が漏れる。
慌てて口を塞ぐも、もう遅い。
さきほどまで胡乱な目をしていた筈の後輩の両眼が、星空のような輝きを放って爛々とこちらを向いていた。

从*'ー'从「ちょっとその反応!なんですなんです!?」

('、`;川「い、いや…別に、面白くはないから…!!」

从*'ー'从「隠そうとするってことは、私が面白く感じる話でしょ〜!?白状して下さいよ〜!」

“迂闊”という漢字二文字がグルグルと脳内を回る。完全にやらかしてしまった。
“よく分からないプロポーズをされた”、そんな恋愛色の強い話は彼女の極上のエサになることなんて容易に想像がついたというのに。

少しでも情報を漏らせば最後。根掘り葉掘り聞かれることになるに決まっている。
そうなれば二軒目…いや三軒目までハシゴすることになるのは明白。
良くて終電逃しタクシー帰宅コース、下手すれば始発で朝帰りコースだ。

65名無しさん:2024/01/19(金) 00:40:15 ID:KKTQDt7.0

視線を横に移し、助けを求めようとデルタくんにアイコンタクトをとる。
あの唯我独尊男の隣に10年以上立ち続け、果てには副社長となった男だ。
彼のその有望ぶりは仕事だけにとどまらず、人付き合いでも遺憾なく発揮される場面を何度も見ている。
あの頭の固い官僚や役人ですら忽ち篭絡させるその手腕、いま頼らずにいつ頼るのか。

私の念が通じたのか、デルタくんは小さく、それでいてしっかりと頷く。
よし、勝った。これで後は彼が話の流れを上手く私から逸らしてくれる筈。
その後はナベちゃんを飲ませ続ければ終電帰りも夢じゃない。

('ワ`*川(ごめんねナベちゃん……でも、勝った…!)

明日も定刻通り仕事なのだ。ただでさえ最近はまともに寝ていないし、少しでも睡眠時間は確保したい。
ナベちゃんには悪いが、ここで流れを断たせてもらおう――。

66名無しさん:2024/01/19(金) 00:41:58 ID:KKTQDt7.0

( "ゞ)「…あー、そういえば」

( "ゞ)「伊藤さん、デミタスからのプロポーズどうだったの?返事した?」

('ワ`*川

('、`*川

('、`;川

从'ー'从「……………ぷろぽーず?」

一瞬だけキョトンとしたナベちゃんの顔が、みるみる内に明るく変わっていく。
まるで、花が開く瞬間をハイスピードカメラで見ているかのように。

騒がしい居酒屋の中、私たちのテーブルだけが途端に静寂に包まれる。
急に閑かになった雰囲気にようやく違和感を覚えたのか、デルタくんは「あれ?」とでも言いたげな顔をする。

彼が自身の発言のミスに気が付いたのと、ナベちゃんが立ち上がったのは、全くの同時であった。

67名無しさん:2024/01/19(金) 00:43:27 ID:KKTQDt7.0

从;*'ワ'从「プロポーズ!?!?!?!?」

店の中で、一際大きな叫び声が響き渡る。
同時にこちらに向けられた驚きと非難を込めた視線の数々。
私とデルタくんは慌てて周りに頭を下げるも、ナベちゃんは構わず話を続けた。

从*'ワ'从「えっえっ、つ、ついにですか!?社長から!?うわ、うわうわうわ〜!!」
('、`;川「しっ、しーー!!ナベちゃん止めて!お店だからここ!ねっ!?」

わざとらしく口に手のひらを当てながら、少女のように燥ぐ彼女に頭が痛くなる。
隣に恨みがましい視線を向けると、デルタくんは縮こまりながら両手を合わせてこちらに頭を下げていた。
もう遅い。今度絶対仕返ししてやる。

68名無しさん:2024/01/19(金) 00:46:24 ID:KKTQDt7.0

从*'ー'从「え〜!?どんな感じだったんですか!?やっぱりあの人のことだから、ちょ〜お高いレストランで…とか!?」

从*^ワ^从「あ、分かった!社長室だ!あそこからなら綺麗な横浜の夜景一望できますもんね〜!!うわわ、ロマンチック〜〜!!」

('、`*川「……え、あ、いや、そういうのじゃなくて」

('、`*川「なんか車で、“はい”って書類渡されただけだけど」

从*^―^从「え〜!?車で!?いいじゃないですかそういうのも……」


从'ー'从「……え、書類?何それ?」


火力を最大まで上げたヒーターよろしく盛り上がっていた彼女の熱が一気に冷める。
あぁよかった。あまりにも普通に渡してきたから、逆に私の感覚がズレているのだろうかと心配だったのだ。

('、`*川「いやだから…いきなり“サインと印鑑押しとけ”って言われて、書類の束渡されて…中身はちゃんとした、婚約についての文章だったけど」

从;'ー'从「へ……書類の束?え?花束の間違いじゃなくて?」

('、`*川「いや紙だったけど」

从#'ー'从「おいどういうことだ保護者」ドゴッ

(; "ゞ)「うぐっ!?」

無表情になったナベちゃんがノールックのままデルタくんを小突く。
彼の箸に捕まれていた唐揚げは無常にもテーブルを転がり、重力に従ってそのまま床へと落ちていった。

69名無しさん:2024/01/19(金) 00:48:35 ID:KKTQDt7.0

(; "ゞ)「ど、どういうことって…そのままだよ。デミタスと伊藤さんが婚約関係になるにあたっての、色々細かい条件とかを決めた証書を……」

从'ー'从「いや諸々すっ飛ばしすぎでしょ。えっ、先輩ってもうあの人と付き合ってたんですか?」

('、`*川「ううん全然」

从#'ー'从「保護者、説明」

(; "ゞ)「いやそれは俺も言おうとしたけど…ちょっと待って箸を目に向けないで」

ナベちゃんの持つ箸先は、容赦なく、見事にその直線状にあるデルタくんの両目を捉えている。
彼の頬には本気の焦りの汗が伝っていた。ナベちゃんのことだ、彼女はマジで狙っている。

(; "ゞ)「と、とにかく…伊藤さん、結局なんて返事したの?俺も最近忙しくて、デミタスとはニアミスばかりで話聞けてないんだよね」

デルタくんの震えた声に、私は少し言い淀む。
脳裏に浮かぶのは、自室の机の上に置かれたままの婚約に関する書類のこと。

('、`;川「えっと、……それが、その」

('、`;川「……まだ、何も返事して、なくて」

私の返答に、デルタくんの目が丸くなる。
おそらく彼は、認容するなり却下するなり、何かしらの返答はした筈だと思っていたのだろう。
今までの私ならそうだ。面倒そうなことほど先に対応する。
だが今回に限っては、あの日から二週間以上たった今でも、私は何の結論も出せずにいた。

70名無しさん:2024/01/19(金) 00:49:54 ID:KKTQDt7.0

( "ゞ)「…どうして?やっぱりなにか書類におかしなトコあった?一応、俺も確認したんだけど」

从#'ー'从「おい確認してたんなら止めろや!何そのままGoサイン出してんだ仕事しろぉ!」

(; "ゞ)「痛っ、ちょ、痛い痛い!!髪はやめて!!髪は!!」

助けを訴えるデルタくんを尻目に、受け取った書類の文章を脳内で暗誦する。

社長から書類を渡されたあの日の夜。泊まったホテルの部屋ですぐに内容を確認した。
最初こそとんでもないことが書かれているのではとか、ドッキリの類なのではないと勘繰ったが、中身は至って真面目な婚姻に関する契約書であった。

いや、真面目どころではない。
ただの婚姻についての同意に留まらず、互いの家が持つ資産への言及、婚姻後に私が“盛岡家”に縛られることのない旨の保障、万が一離婚した際の財産分与についての規定まで。
どれもが緻密に規定されており、それでいて、どれもが私に有利になるような文面だった。

彼の家柄のことも考慮すると、ここまで手が込んだ書類をイタズラでも作る訳がない。
それこそ成年になる前から、嫌と言うほどに由緒正しい家のお嬢さんとの縁談の話が持ち上がっていた筈だ。
“婚姻”という言葉の意味を、彼は単純な法的効力以上に重く捉えているはずなのに。

更には、最後のページに記されていた書類作成者の名義人には、大学の後輩で、今は東京で弁護士をしている友人、“新塚ニュッ”の名があった。
彼も関わっているということは、おそらく本当にこの書類に記されていることに誤りや、私を陥れる意図などはないのだろう。

71名無しさん:2024/01/19(金) 00:52:08 ID:KKTQDt7.0

('、`*川「ううん、内容に問題はなかったの。そもそも新塚くんが作った書類なら大丈夫だろうし、一応私なりに確認したけど、大丈夫だった」

从'ー'从「うわ、ニュッのやつも一枚絡んでるんですか?うげ〜今度会ったらイタズラしてやろ」

( "ゞ)「一応聞くけど、具体的に何するつもりなんだ?」

从*^―^从「デレちゃんの前で“やっぱり私とは遊びだったのね”って泣き喚く♪」

( "ゞ)「聞いてよかった。絶対やるなよ」

('、`*川「新塚くんはマジで訴えてくるだろうね」

“半分冗談です〜”という発言の後、残っていたビールが不満げに飲み干されていく。
半分、という単語については聞かなかったことにしておいた。

“デレちゃん”というのは、新塚くんの幼馴染の彼女のことだ。
時々話を聞くが、実はこの中で私だけはまだ会ったことがない。
大学の時から話だけは聞いているのだが、いつか挨拶したいと思いながら数年の時が経ってしまった。

ナベちゃん曰く、“あんな根暗法律オタクにはもったいなさすぎる良い子”とのこと、
容姿と違って少し捻くれたところのある彼女にこれだけ言わせ、更にはあの新塚くんを心底夢中にさせるのだから、相当な良い子なのだろう。

72名無しさん:2024/01/19(金) 00:54:08 ID:KKTQDt7.0

( "ゞ)「…でも実際、伊藤さんはデミタスのどこが嫌なんだ?」

('、`;川「い、嫌って訳じゃ……」

( "ゞ)「確かにデミタスはよく人のことバカにするし、社員たちの名前も碌に覚えないし、株主に対してもすぐ喧嘩売ったりするけど、悪いやつじゃ…いや悪いやつか……?」

途端に難しい顔をしながらテーブルを見つめ出すデルタくん。
こうして特徴を挙げていくと、寧ろプロポーズを断らない理由を見つける方が大変かもしれない。
というかアレがそもそもプロポーズといえるかどうかも疑わしい。
私が常日頃思っていることは間違いではないのだと思うと、少し心が軽くなった。

( "ゞ)「……でも、まぁ、結婚相手としては悪くないだろ?」

( "ゞ)「由緒正しい家の本物の御曹司だし。家に頼らずとも資産はあるし、何より……」

( "ゞ)「…あいつは、伊藤さんなら絶対大切にすると思うよ。これは副社長としてじゃなく、あいつの10年来の友人としての意見だけど」

真剣な眼差しと、真面目な声色が心に刺さる。
確かにそうだろう。社長は善人とは間違いなく言えないが、かと言って悪人でもない。
それぐらいのことは、いくら私でも分かっている。

73名無しさん:2024/01/19(金) 00:55:39 ID:KKTQDt7.0

从'ー'从「…まーでも、確かに盛岡先輩はメチャ優良物件ですよね〜。喋らなきゃイケメンだし、背も高くてスラっとしてるし、お金持ちだし!」

从'ー'从「私の周りでもキャーキャー言ってる女の子ばっかりですよ?私はいくらお金持ちのイケメンでも、あんな変人まっぴらごめんですけど〜」

('、`;川「あ、あはは…まぁ、変わってはいるよね……」

ナベちゃんの言う通りだ。
家柄良し、見た目良し、学歴も社会的地位も良し、おまけに個人資産は優に200億を超えている金持ちときた。
あまりこの言い方は好きではないが、間違いなく極上の“優良物件”なのだろう。

彼が結婚する女性というのはどういう人なのだろうと、考えたことがないわけじゃない。
偶にだが、持ち込まれた縁談を面倒そうに断っている彼の姿を見たことがある。
一度だけ、こっそり相手の写真を確認したことだってある。そこには、自分では足元にも及ばないほどに、綺麗な女性が写っていた。

結局、どんな人が社長と結婚するかは検討がつかずに終わった。
事務次官の娘か、元財閥の令嬢か、海外のセレブの女性か。候補としてはこんなところだろうか。
…まぁ、少なくとも、私ではないということだけは、確実だろう。
そう結論付けてからは、あまり考えないようにしていた。

74名無しさん:2024/01/19(金) 00:56:50 ID:KKTQDt7.0

そんな人が、意図は分からないが私に婚約を申し込んできた。
何の取り柄もない、強いて言うなら、気味の悪さすら感じるほどの記憶力だけ。
家柄は中途半端で、見た目もせいぜい十人並みの、可愛らしさの欠片もないこんな女に。
本来なら、こんな女を選んでくれたことに感謝すらするべきなのだろう。

…だけど。

从'ー'从「……というか、そもそも先輩は嬉しくないんですか?」

从'ー'从「だって、先輩、ずっとあの人のこと――」

ナベちゃんの質問は、終ぞ最後まで言われることはなかった。
愛想のいい店員のお兄さんが、これでもかと盛られた刺身の盛り合わせを持ってきたからである。

言葉を途中で止め、“待ってました”といわんばかりに箸を刺身へと伸ばす後輩。
彼女に苦笑いを浮かべつつ、心配そうにこちらに目を向ける副社長の視線には気が付いてないフリをする。

(-、-*川(………本当に)

(-、-*川(どうしたらいいのかしらね、私)

美味しそうに料理を味わう可愛い後輩を見ながら、すっかり温くなったビールを呷る。
冷たいのだが温かいのだか分からないそれは、ひどく苦いものに思えた。

75名無しさん:2024/01/19(金) 00:59:19 ID:KKTQDt7.0



( "ゞ)「……じゃあ、俺たちはこっちだから」

('、`*川「うん。ナベちゃんのこと、お願いね」

( "ゞ)「伊藤さんも気を付けて。…やっぱり、伊藤さんの分のタクシーも呼ぼうか?」

('、`*川「ううん、ちょっと歩きたい気分だから。それに、まだ終電まで余裕もあるし」

( "ゞ)「…そっか。じゃあ、お疲れ様。おやすみなさい」

('ー`*川「うん、お休み。……ナベちゃんも、またね」

从- -从スピー グーー

背負われたまま、一向に起きる気配のない後輩の頭をサラッと撫でる。
長い睫毛とサラサラの髪に、なんとも言えない愛らしさ。
私がもし男性なら、このままお持ち帰りしていただろうなとも思った。それでも毎回酔いつぶれた彼女を送っていくのはデルタくんなのだから、彼の鉄の理性には恐れ入る。

店の前に止まったタクシーに乗り込んだ二人を見えなくなるまで見送ってから、私は踵を返して歩き出した。
ここから駅まで10分もかからない。改札までの距離と、最寄りについてからの徒歩を含めても午前1時前には家に着ける。
そこから化粧落としやシャワーの時間も考えると、ギリギリ5時間は眠れる筈だ。

76名無しさん:2024/01/19(金) 00:59:59 ID:KKTQDt7.0

路地を抜け、大通りに出る。
日付が変わりそうなこの時間帯でも、私と同じような飲み会帰りの社会人がちらほら見られ、並ぶ店の前では若いお兄さんたちが呼び込みを続けている。
その賑やかさは、新宿や池袋などの都心と比べても遜色ないものだろう。

道中、一組のカップルが目に入った。否、よくよく辺りを見れば、一組どころではない。
道の端や、飲食店の入り口付近まで。少し離れたところで、色んなカップルたちが乳繰り合っているのが見えてしまった。
慌てて目を逸らすも、無駄に良い記憶力だけはいい脳が勝手に視界を思い返してしまう。
考えるなと自身に言い聞かせながら、必死に足を速く動かす。

('、`*川(………恋愛、かぁ)

いくら夜中とはいえ、街灯や建物の明かりがあるのによくやるものだ。
早くここを抜けてしまおうと速度を上げる両脚と共に、思考もまた速く巡り始める。
この28年間、全くといっていいほど私の人生において“恋愛”なんてものが入る余地はなかった。

77名無しさん:2024/01/19(金) 01:01:19 ID:KKTQDt7.0

高校の頃も、大学に上がってからも、社会人になった今も。
いつの頃も、あの変人についていくだけで精一杯だった。恋愛なんて、縁もゆかりも、そもそも耽溺する時間的余裕すらなかった。

圧倒的経験不足。だからだろうか。
私は未だに、“彼”に抱くこの感情が、“そういうこと”なのかについても自信がない。
恋情なのか、尊敬なのか、少し特殊な友情なのか、はっきりと分けることが出来ないでいた。

言い訳にはなるが、それが当然だろうと開き直る自分もいた。
あれだけ強烈な個性を持つ異性がいれば、どうしたって意識してしまう。
もういい年した大人なのに。そんな自己嫌悪が胸中を纏わりついて離れない。

('、`*川(……父さまたちは、喜ぶんだろうな)

婚約証書と実家のことを思考の天秤に乗せる。家柄と金と体裁が大好きなあの家族のことだ。
“盛岡家”との繋がりが出来ると知ればすぐに手のひらを返し、地面に頭を擦りつけてでも私に言い寄ってくることだろう。

78名無しさん:2024/01/19(金) 01:02:47 ID:KKTQDt7.0

……実際、一体私は何を不満に思っているのだろうか。

盛岡くんが、彼自身のことが嫌なのだろうか。
なら、彼が別の女性と結婚するのだと早とちりしたあの時、どうして私は泣きそうになったのか。

婚約証書に書かれていたことに文句があるのだろうか。
それもきっと違う。何度も何度も内容を確かめたが、盛岡くんに不利になりそうな規定はあれど、私が嫌な目に遭うようなことはなかった。
それこそ、些細な可能性すら重箱の隅をつつくかのように潰されていた。

じゃあ、私は一体、何をそんなに、迷って――。

('、`*川「…………あれ…?」

道中、ピタリと足が止まった。
それと同時に、視界内の照準がとある一点に固定される。
視線の先には、先ほどと似たような一組の男女がいた。

“またか”とか“よそでやれ”とか、内から湧いてくる怒りのなりかけみたいな感情を抱いたのは、ほんの一瞬。
足を止めたのは決して文句を言おうとしたからでも、別の道に進路を変えようとしたからでもない。



(´・_ゝ・`)ζ(゚ー゚*ζ



その男女の片方に、ひどく見覚えがあるからだった。

79名無しさん:2024/01/19(金) 01:04:24 ID:KKTQDt7.0

('、`;川(………だ、れ)

片方は、すぐに分かった。
見間違いであって欲しい。ただの他人の空似であって欲しい。
そんな淡い希望を、他ならぬ私の記憶力が全否定する。

暗がりなど関係ない。背格好も雰囲気も、着ている服も、視認できる全ての情報を基に、私の脳は彼を盛岡くんだと判断した。
社長だ。盛岡くんだ。私がよく知る、彼だ。

じゃあ、隣の女性は誰なのか。
私の記憶にはない。ということは、私が一度も会ったことのない人物ということだけは分かる。

ζ(゚ー゚*ζ

とても可愛らしい女性だった。
ナベちゃんに勝るとも劣らない。嫉妬すら欠片も浮かばないほどに、可憐な女の子。
私より若そうに見えたが、着ている服は色合いを含めてとても落ち着いている。
牡丹のような少女性と、芍薬のような大人の女性らしさを上手く両立しているような、そんな人。

80名無しさん:2024/01/19(金) 01:05:48 ID:KKTQDt7.0

立ち止まったまま二人を見続ける。
どうしようか。このまま立ち去るべきだろうか。それとも、思い切って声をかけるべきだろうか。
そもそも私に、声をかける資格などあるのだろうか。

動かない両脚とは対照的に、脳は高速で回転する。
彼が綺麗な女性と並んでいるところを見るのなんて別に初めてじゃない。寧ろよくあることだ。
というかそもそも私は別に、盛岡くんの彼女という訳じゃない。
私はあくまで、ただの部下で、元同期で、元クラスメイトで、友人の一人に過ぎなくて――。

――だから、なんだ。

無意識に歩き出していた。
頭の中は未だごちゃごちゃで、整理なんて少しも出来ていない。

あの女性は誰なのか。
彼女なのだとしたら、なぜ私に婚約の誓約書など渡してきたのか。
どうしてこんな時間に、こんな所にいるのか。
私は、彼のことをどう思っているのか。
彼にとって、私は一体何なのか。

声をかける。かけてやる。
この10年で積もりに積もった疑問を、ありったけぶちまけてやる。

81名無しさん:2024/01/19(金) 01:07:03 ID:KKTQDt7.0

死地に向かう兵士みたいに、速度を緩めることなく近づいていく。
もうそれほど距離もない。仮に石を投げたなら、私の筋力でも十分届く距離。
声をかけよう。そう思って息を吸い、吐き出そうとした、その瞬間。


(;´・_ゝ・`)ζ(゚ー゚*ζ

(;´-_ゝ・`)ζ(゚ワ゚*ζ

(*;´・_ゝ・`)ζ(^ー^*ζ




( 、 川


――私の記憶にない、顔が、見えた。

82名無しさん:2024/01/19(金) 01:09:40 ID:KKTQDt7.0

( 、 川(あ)

( 、 川(あ、ああ、ああ あ)

声が出ない。それどころか、上手く息さえ吸えやしない。
足が止まったまま動かない。あれだけの勢いが、風船みたいにしぼんで消える。

( 、 川(なにか、いわなきゃ)

『何を言うの。お邪魔虫になるだけじゃない』

( 、 川(なにか、きかなきゃ)

『見て分かったでしょ?あなた、彼のあんな顔、一度だって見たことある?』

( 、 川(違う、そんな、でも、じゃあ、なんで)

『遊ばれたか、揶揄われたか。有力なのは、単なる“圧力をかけてくる家や世間への体裁作り”ってとこかしら』

脳裏に響く声が、幾重にも鼓膜で反響する。
今までの人生で一番聞いた声が、一番聞きたくないことを言おうとしている。

83名無しさん:2024/01/19(金) 01:10:21 ID:KKTQDt7.0

『あなたみたいな凡人が、彼の隣にいられること自体、奇跡みたいなものだったのよ』

『ずっと昔から気付いてたでしょ?なのに、何年も気付いてないフリしてた』

『特に何かアクションを起こす訳でもなく、ただただ、ぬるま湯に浸かるみたいに隣にいられることに甘んじてた』

( 、 #川(やめて…やめて!うるさい!やめて!!)

『もう終わり。時間切れ。サッカーじゃないんだから、ロスタイムなんてものはない』

『…いえ。大学卒業から今までが、ロスタイムだったのかもね』

呼吸も瞬きも出来ないまま、頭に響く声を聞かされるまま。
目の前の景色は変わらない。ただひたすら、意中の男性が、仲良さげに私ではない女性と話し込んでいる。

動かなきゃ。逃げなきゃ。とにかく今は、ここにいちゃダメだ。
頭では理解しているのに、金縛りにあったように身体が動かない。

問い質したい。ここから逃げたい。彼と話したい。顔も見たくない。
相反する感情がごちゃ混ぜになる。動かなきゃいけないのに、脳が上手く身体を操作しない。
急げ、彼に気付かれる前に。早く、早く、一秒でも早く。
とにかく足を動かさなければ。祈るように、慎重に、右足を後ろに下げた、その瞬間。

84名無しさん:2024/01/19(金) 01:11:46 ID:KKTQDt7.0


ζ(゚ー゚*ζ「………?」

―――目が、合った。



( 、 ;川「――――っ!!」

気が付けば、私は走り出していた。
今まで歩いた道を、泥棒みたいにみっともなく。

離れていく。駅から、家から、彼から、思い出から。
視界が滲む。街灯の明かりがぼやけて、自分がどこにいるのかも分からなくなっていく。



…一体どれだけ走ったのか。
息を切らしながら、痛む足を抱えながらよろよろと壁にもたれかかる。
周囲を見る。誰もいない。それどころか、全く見覚えのない場所だった。

85名無しさん:2024/01/19(金) 01:12:41 ID:KKTQDt7.0

ぼやけた頭で、ほぼ無意識にスマホを取り出す。
表示された時間は午前1時に差し掛かろうとしている。
疾うに、終電はない。

(*;´・_ゝ・`)ζ(^ー^*ζ

少しでも気を抜いたその途端、あの二人の光景がフラッシュバックする。
消えろ消えろと呪詛を吐きながら、何度も何度も頭を叩く。

けれども消えない。消えてはくれない。
私には一度も向けてくれなかった彼の笑顔が、網膜に焼き付いて離れない。

( 、 川「……」

( 、 川「…………」

( 、 川「………………」

( 、 川「………………………」

( 、 川[決めた」

誰にも聞こえない、きっと、神様にだって聞こえない囁き声が口から洩れた。

86名無しさん:2024/01/19(金) 01:13:16 ID:KKTQDt7.0

何を迷っていたのだろう。何を悩んでいたのだろう。
少し考えれば分かったことだ。最初から、私に選択肢など、必要なかった。

楽しい日々だった。夢のようだった。
振り回されるのも、怒るのも、呆れるのも、見惚れるのも、慕うのも、憧れるのも。
彼の隣にいられただけで、私はとても幸せだった。

けれど、もう、充分。
あまりに心地よかったから、いつからか、とんでもない勘違いをしていたみたいだ。

身の丈に合わない仕事をするのも。
必死に誰かをフォローする生活も。
目の下のクマを必死に化粧で誤魔化す日々も。
ロボットみたいに、機械的に淡々と彼を支えるのも。
ちょっとでも、彼の役に立てていると、自惚れながら息をする毎日も。

87名無しさん:2024/01/19(金) 01:13:40 ID:KKTQDt7.0


( 、 川(夢は、もう、いいや)


――見るのも、醒めるのも、もう御免だった。

88名無しさん:2024/01/19(金) 01:14:29 ID:KKTQDt7.0



(´ _ゝ `)「………」

('、`*川「…なにか、御用でしょうか、しゃちょ――」

(´ _ゝ `)「何だコレは」

社長室は、重苦しい雰囲気に包まれていた。

12月の寒い空気が理由なのか、はたまた、空調が壊れているのか。
原因はどちらでもない。この空気を生み出している原因は、今まさに、社長が机に叩きだしたものだ。

私の言葉を遮りながら、乱暴に出された紙の束。
乱雑に丸められたそれは、処々に乱暴に破かれた痕が判然と見受けられる。
まるで、子どもがイタズラで破いた紙クズのよう。というか、もはやそれにしか見えない。
一種の執念すら見受けられるほどに破かれまくったそれを、私は冷ややかな目で見つめていた。

89名無しさん:2024/01/19(金) 01:18:00 ID:KKTQDt7.0

('、`*川「…見てお分かりいただけませんか」

(´ _ゝ `)「お前こそ、僕が何を聞いているのか、本当に分かってないのか」

決して少なくない怒気を含んだ声が部屋に響く。
珍しいほどに怒っている彼を前に、私は一切怯まず言葉に応じた。

('、`*川「…それが私の返事です。一応、契約書の性質を有するものである以上、今後悪用されることのないように破いただけですが」

(´ _ゝ `)「………これが、“返事”?」

('、`*川「そうです。…他に用がないなら、これで失礼……」

(#´ _ゝ `)「ふざけてるのか」

彼が立ち上がると同時に、乱暴な音を立てて椅子が倒れる。
声も表情も、まるで何の感情も乗っていないみたいにのっぺりとしている。
それでも、彼がはっきりと怒っていることだけは分かる。
“こんなに怒っている彼を見るのは初めてだな“と、どこか冷静に見ている自分がいた。

90名無しさん:2024/01/19(金) 01:18:50 ID:KKTQDt7.0

(´・_ゝ・`)「……僕は、内容を確認して、サインと印鑑を押して持ってこいと言った」

(´・_ゝ・`)「納得いかない箇所があれば、その都度教えろ、とも言った」

(´-_ゝ-`)「…お前は、記憶力が良い。頭も悪くない。だが、流石に法律は専門外だろう。何かを勘違いした可能性もある」

(´・_ゝ・`)「だから、もう一度だけ、確認する」

トントンと、彼は机の上の紙屑を叩いた。

(´・_ゝ・`)「…………これは、何だ?なんのつもりだ?」

氷みたいに冷たい視線が、容赦なく私の全身を射抜く。
けれど、私の心は動かない。
凪いだ海の波みたいに、いや、凍った化石みたいに、ピクリともその感情は動こうとしない。

視線を机上の紙屑にやる。
いくつもの文章の下に、ちらりと見える署名欄。
乱雑に破いたにしては、何故かそこだけ綺麗に残っている。

……無論、私のサインは、ない。

91名無しさん:2024/01/19(金) 01:20:01 ID:KKTQDt7.0

('、`*川「……要するに」

('、`*川「“お断りします”、ということです」

一切の震えもないまま、何の想いも籠っていない声色で、そう言った。

('、`*川「質問には答えました。ご用件は以上ですよね」

('、`*川「それと、本日のスケジュールですが、今朝社内メールで連絡した通りです。詳細は関ケ原副社長か、私の部下の誰かにお聞きください」

('、`*川「それでは、私はこれで失礼しま――」

(#´ _ゝ `)「―――いい加減にしろ!!!」

一度だって聞いたこともない怒号が、周囲の全てをかき消した。

踵を返し、部屋を出ようとしていた足が静止する。
私は背を向けたままの体勢で、彼の次の言葉を待った。

92名無しさん:2024/01/19(金) 01:21:02 ID:KKTQDt7.0

(#´ _ゝ `)「……断る、のは、別にいい。だが、これはなんだ。どういうことだ」

(#´ _ゝ `)「ただそのまま返せばいいだけの話だろうが。それを、なんだ」

(#´ _ゝ `)「…この一ヶ月、僕を避け続けた挙句、ビリビリに破いた紙屑を持ってくるとは」

(#´ _ゝ `)「一体、どういう了見なんだ」

背中を見せたまま、私は動かない。
後ろから伝わってくる怒りが、夕暮れ時の驟雨みたいに背に降り注ぐ。
だが、何も言わない。何の言い訳をすることもない。
私は人形のように黙ったまま、彼の怒りを聞いていた。

(#´ _ゝ `)「…言いたい事があるなら、はっきり言えよ!!」

(#´ _ゝ `)「いつも、ずっと、お前は僕にそうしてきただろうが!!それがっ…それが今更、なんだ!!」

( 、 川「………」

何も言い返さない。最初から、何か反論する気など欠片も持ち合わせていない。
どれだけ怒りをぶつけられようと、私の決断は変わらない。

93名無しさん:2024/01/19(金) 01:22:21 ID:KKTQDt7.0

そもそも、もっと早くにこうするべきだったのだ。
心のどこかで分かっていたのに、今日までズルズルと伸ばしてきたのは、私の責。

( 、 川(…今日が、終われば)

胸に忍ばせた封筒をぎゅっと握った。

(#´・_ゝ・`)「……だんまりか」

(#´・_ゝ・`)「…あぁそうだ。昔からそうだな、お前は」

声のトーンが更に下がる。
無言のまま、私は眼前のドアを見つめ続ける。

言いたいことがあるなら、言えばいい。
私だってそうだ。やりたかったからやった。破りたかったから、破いた。

彼が怒ることなんて、分かり切っていた事象だ。
署名をせずに、“悪用されないため”なんて小学生のような詭弁を使って、破いて突っ返すなど怒るに決まっている。

94名無しさん:2024/01/19(金) 01:23:06 ID:KKTQDt7.0

(#´・_ゝ・`)「頑固で、面倒で、言いたい放題言う癖に、本当に言いたい事は何も言わずに僕が察するのを待つんだ」

(#´・_ゝ・`)「それも、僕がそういうことを苦手なのを承知の上でだ。何度も何度も煮え湯を飲まされた」

言えばいい。ぶちまければいい。
何を言われたって、私の心は動かない、変わらない。

(#´-_ゝ-`)「確かに、僕はお前を振り回してきた。自覚はある」

(#´ _ゝ `)「……だが、それに見合う報酬や給料は与えてきたはずだ。世間から称賛されるような地位も、金も、仕事も!」

部屋にある家具が、彼の激高を反射して小刻みに震える。
彼の頭にある豊富な語彙が、怒りというフィルターを通して、全て私に向けられている。

別に何を言われようと今更堪えない。反応する必要もない。
固辞したまま、背を向けたまま、彼の裂帛をじっと聞いているだけの時間が流れていく。

答えは出た。これ以上ないほどに、100点満点の解答が。
あとは、案山子みたいに彼の癇癪を聞くだけでいい。

別に昔からやっていることだ。男性の怒号など、子どもの頃から慣れている。
それが、彼からの言葉でも、変わりは――。

95名無しさん:2024/01/19(金) 01:23:36 ID:KKTQDt7.0



(´ _ゝ `)「……ずっと、今まで、そうやって」

(´ _ゝ `)「僕を馬鹿にしてたのか」



( 、 川

変わりは、ない。

そのはずだった。

96名無しさん:2024/01/19(金) 01:24:09 ID:KKTQDt7.0

(#´-_ゝ-`)「…あぁ、そうだ。思い返せば、昔からか」

(#´・_ゝ・`)「お前に挑んでは、負けて、ムキになって勉強して、それでも最後まで負け続けて」

(#´・_ゝ・`)「…さぞ、面白かったろうな?懲りずに勝負を挑んでくる世間知らずのボンボンに、勝って、嗤って、変な採点して、馬鹿にする日々は」

純粋な怒りから一転、彼の話し声にヘラヘラとした薄笑いが混じる。
自嘲、後悔、羞恥、諦観、批難。
多種多様なマイナスの感情が、背中越しに伝わってくる。

だが、私はそんな変化にも対応できずにいた。
いや、正しくは。

…意味が、分からなかったのだ。

97名無しさん:2024/01/19(金) 01:25:02 ID:KKTQDt7.0

(#´・_ゝ・`)「要するにこれは、僕に対する、お前の最後のあてつけって訳だ」

(#´・_ゝ・`)「なんだ。怖いお父上から、別の男との縁談でも決まってたか?…我ながら、咄嗟の推定にしては良い線いってそうだな」

(#´・_ゝ・`)「それを利用して、最後に僕がみっともなく喚く姿でも見ようってか。…ははっ、全くふざけた――」

さっきから、彼は一体何を言っているのだろうか。

脳は動いている。彼の言った言葉の意味を理解しようと、必死に稼働を続けている。
だが、演算処理が終わらない。ずっとずっと、一つの単語を認識したまま、その先に移行しようとしない。

何を言ってるのか。何を話しているのか。
何を主体にして話しているのか。誰に向かって言っているのか。


ずっと。ずっとずっとずっと。


人を、馬鹿にしてたのは。

98名無しさん:2024/01/19(金) 01:25:54 ID:KKTQDt7.0

( Д #川「――馬鹿にしてたのは、どっちよ!!!」

叫び声が響いた。

同時にようやく後ろに振り返る。
すると、眼前には、目を白黒させた彼が一人。

刃物で引っかかれたみたいな痛みが喉を走る。
違和感を覚えて喉に手を伸ばそうとすると、その前に、手の甲にポタリと何かが落ちた。

落ちてきた“何か”を確認しようと、視線を下ろす。
同時に、手の甲だけでなく、ポタポタと何かが無数に零れて、床を濡らす。

(;´・_ゝ・`)「……い、伊藤……?」

突然、世界が滲んだ。
ガサガサの自分の手も、毎日我慢して履いているヒールも、見慣れた筈の、目の前に立っている彼の顔すら上手く見えなくなる。

ああ、そうか。
あまりにも久しぶりすぎて、理解が遅れてしまっていた。



(;、;*川



泣いてるんだ、私。

99名無しさん:2024/01/19(金) 01:26:39 ID:KKTQDt7.0

(;、;#川「そっちこそ……!!そっちこそ、今まで、楽しかった!?

(;、;#川「記憶力しか取り柄のない地味なやつ煽てて、傍において、便利に使って、あんたの掌で踊ってるバカ女見てて、楽しかった!?」

(;、;#川「楽しいわよね!?こんなっ…こんな、紙切れごときに動揺してる小娘見て、自分は綺麗な女の子と夜まで一緒にいて!!」

(;、;#川「嗤って、馬鹿にして、困ったときだけ使って、それで、それで、今度は、こんな……」

言葉が嗚咽に詰まる。
口が脳についていかない。
言いたいことは上手く出てくれないのに、涙だけは溢れて止まらない。

あぁ。違う。そうじゃないのに。こんなはずじゃなかったのに。
出来るだけ穏便に済ませて、君の前から消えるはずだったのに。

…こんな情けない姿、最後まで、見せるつもりじゃなかったのに。

100名無しさん:2024/01/19(金) 01:27:57 ID:KKTQDt7.0

( 、 #川「……君にとって、私ってなんだったの?」

10年間、ずっと聞けなかったことが、涙にまみれて口を零れた。
怖くて怖くて、聞きたかったけれど、聞けなかったこと。

(;、;#川「元クラスメイト?単なる知り合い?ちょっと便利なメモ帳?女除け?……それとも、全部?」

(;、;#川「別に……別に、なんだっていいわよ。友達だとすら思われて、なくても、女の子として、見られてなくて、も」

(;、;#川「……君の横にいられるなら、君の役に立てるなら、それだけで、よかった」

文脈の間に吃逆が混じる。秘めていた想いが、あまりにみっともなく漏れていく。
ずっと隠していた、言うつもりもなかった。
考えないようにすらしていた、そんな、本音。

101名無しさん:2024/01/19(金) 01:28:49 ID:KKTQDt7.0

(;、;#川「それでも…それでも、ちょっとくらい、特別に想われてるかもって、浮かれてた」

(;、;#川「でも、違う。違った。君にとって私は、やっぱりただの、便利な道具でしか、なかったのね」

心の隅でひっそり抱えていた望みが、蝋燭の火みたいに容易く消える。
想っていた。望んでいた。少しくらいは私のことを、特別に見てくれてるんじゃないかと。
…そんな訳、なかったのに。彼の目に、私なんか、映るわけなかったのに。

あぁ、なんてみっともないんだろう。
“弁えてます”みたいな顔をして、一人でずっと舞い上がって。

その始末が、コレだ。
いい年した女が、ボロボロと涙を流して、顔をぐしゃぐしゃにして、夢見がちな女子中学生みたいな願望を嗚咽交じりに吐き散らす。
もういっそ、消えてなくなってしまいたいと思うほどに、自分が情けなくて仕方がなかった。

102名無しさん:2024/01/19(金) 01:29:52 ID:KKTQDt7.0

(;、;#川「…家から、“結婚しろ”ってせっつかれた?ずっとそういう話はあったもんね。それくらい知ってたわよ」

(;、;#川「手頃な私で、済ませようと、したんでしょ?…私なら、他の女の子と遊んでも怒らないと思った?ついでに、便利な記憶装置を、傍におけると思ったの?」

(;、;#川「私の家の事情だって利用すれば、ずっと私のこと使えるものね。そもそも、私に有利な条件つけたところで、よく考えれば、君は痛くも痒くも、ないもんね」

言えば言うほど、吐けば吐くほど、自分の置かれた立場が鮮明になっていく。
言葉を紡げば紡ぐほどに、私と彼の違いを思い知ってしまう。

“婚約に関する契約書”。あれにどれだけ私に有利な内容が書いてあっても、彼にとってはなんてことはない。
父たちの圧力がかかるであろう私から、離縁など申し出る訳もない。例え理由が、不貞であったとしても。
百歩譲って離縁することになったとて、数千万の手切れ金など、彼にとっては少し良い万年筆を買う程度の出費だ。そんなこと、少し考えれば分かった筈だ。

それでも、分からなかった。考えないようにしていた。ずっと、意図的に目を逸らし続けていた。
少しでも長く、夢を見続けていたい一心で。

103名無しさん:2024/01/19(金) 01:31:30 ID:KKTQDt7.0

(;、;#川「…一瞬、それでもいいって思った。君の助けになるなら、別に、それでも……って…」

“彼の役に立ちたい”。それは、偽らざる私の本心だ。
彼と同じ大学に進んだのも、彼が立ち上げた会社に入る道を選んだのも。
隣にいたい、彼のためになることがしたいと、心の底から願ったから。

それが叶うのならどんな形でもいいと、本気で思っていた“つもり”だった。
その覚悟で、10年以上、ずっと彼の近くにいようと、必死に走り続けていた。

なのに。

( 、 川「……でも、ごめんなさい。…やっぱり、無理、です」

……見てしまった。そして気付いてしまった。
あの夜に。迷いながら歩いていた、あの晩に。
彼が、自分に見せないような顔を、他の女性に向けているのを見た瞬間に。
自分の奥の奥にある、自分勝手で、あまりにも、黒く濁ったその感情に。

例え、君の隣にいられるとしても。
君の横を歩けるとしても。君の役に立てるとしても。

君が選んだのが、私じゃないのなら、もう――。

104名無しさん:2024/01/19(金) 01:33:35 ID:KKTQDt7.0



( 、 川「…………今まで」

(;ー;*川「……今まで、お世話になりました」



震えた手で、胸元に入れていた封筒を出す。
表側には、“退職届”という三文字が、涙が落ちても消えないようにボールペンで書かれていた。

(;´・_ゝ・`)「はっ…?ちょ、ちょっと待て伊藤、"俺"は――」

(、; 川「………しつれい、しま、す………!」

(;´・_ゝ・`)「………っ!お、おい、待てっ………!?」

必死に声を絞り出しながら、彼のネクタイに無理やり封筒を押し付ける。
地面に落ちたそれを拾うこともなく、彼の制止の声に応じることもなく、私は走って部屋を出た。

105名無しさん:2024/01/19(金) 01:34:57 ID:KKTQDt7.0

廊下を走る。
エレベーターに乗り、降りる。
廊下で色んな人から声を掛けられたが、全てを無視して自分のデスクに向かう。

この一ヶ月で、業務の引継ぎは終えていた。
無駄な書類や備品は、全て昨日までに処分しておいた。

鞄を手に取り、嵐のような勢いで部署を出た。
階段を転がるように1Fまで降りてロビーゲートをくぐり、無用の長物となったカードキーを投げ捨てる。
途中ですれ違った同僚にも、上司にも、後輩にも、警備員の人にも、一切挨拶しないまま逃げるように進んでいく。

106名無しさん:2024/01/19(金) 01:35:19 ID:KKTQDt7.0

( 、 ;川「きゃっ………!?」

ふいに、足元が歪んだ。

地面に強打した膝を見てみれば、ものの見事に出血している。
痛みを感じながら振り向くと、ヒールが綺麗に折れていた。

いや、ただ痛いだけじゃない。なぜか顔だけじゃなく、足がべっとりと濡れている。
何故だろうと思いながら、足に走る痛みに歯を食いしばり、未だ目から溢れる涙を拭う。
鮮明になった視界を数度瞬きしてようやく私は、いつの間にか外に出ていることに気が付いた。

地面には、雪が積もっていた。
空を見上げると、ゆらゆらとした雪がゆっくりと、それでいて無数に降下してきているのが見える。
息を吐くと、瞬く間に白く濁り、空中へと霧散していった。

帰らなければ。一刻も早く、ここを離れなければ。
雪景色の中、脳内で繰り返される命令に従って足に力を入れる。

107名無しさん:2024/01/19(金) 01:36:37 ID:KKTQDt7.0

( 、 ;川「…あっ……」

立ち上がろうとした、その瞬間。
運の悪いことに、全く雪が積もっていない地面に向かってポケットからスマホが落ちてしまった。

耳障りの良くない音を立てながら転がるスマホを追いかけ、拾う。
壊れたのか、ヒビは入っていないだろうか。確認しようと慌てて表を向け、液晶を表示させようとタップする。

( 、 川「……あぁ………」

『(´・”_ゝ・`)///v('ー`*川』

案の定、画面には大きなヒビが入っていた。

高校生の頃、修学旅行で訪れた遊園地で撮った、彼との写真。
覚えている。あれは、集合時間まであと5分もないと、二人で園内を走っていた時だ。

途中にあったフォトポイントが、夕日を反射する雪と相まって、あまりに綺麗に見えたものだから。
傍にいた遊園地のスタッフさんに頼んで、撮ってもらったのだ。

テストの点数勝負の結果と、たった一度の修学旅行という口実を使い、撮れた唯一のツーショット。
“写真は嫌いだ”と渋い顔をする彼と、にこやかにピースサインを掲げる私。

そんな過去の私たちを分断するように、中央を走る大きなヒビ。

108名無しさん:2024/01/19(金) 01:37:29 ID:KKTQDt7.0

( 、 川「……うぅ」

(;、;*川「…あぁ、ああ………」

(;Д; *川「あぁ、あ、ああ、……ああぁ……!」

一瞬は止んだ雨が、更に強さを伴って、また降り注ぐ。
決壊したダムみたいに、ボロボロと涙が零れていく。

どうすればよかったんだろう。私は、一体どこで間違ったんだろう。

何も考えず、彼との婚約を受け入れれば良かったのだろうか。
彼の傍で働くことが、間違いだったのだろうか。
彼と同じ大学に進んだ時点で、失敗していたのだろうか。

あんな風に思われていたなんて、知らなかった。
馬鹿にしているなんて、そんなこと、彼に対して思ったことなんて一度もないのに。

109名無しさん:2024/01/19(金) 01:38:29 ID:KKTQDt7.0

私なんかが、彼と会ったこと自体、ダメだったのだろうか。

いくら泣いても答えは出なくて。
擦りむいた膝よりも心が痛くて、鬱陶しい雪も涙も、一向に止んでくれなくて。
スマホに映る、幸せそうな過去の私が、彼の隣で笑っている私が、妬ましくて仕方がなくて。


( 、 川(――ごめんなさい)

( 、 川(あんなに怒鳴って、ごめんなさい。思い上がって、ごめんなさい)


どうしていいか分からない。
涙の止め方も、明日からの息の仕方も、何もかもの検討が微塵もつかない。
ぐちゃぐちゃになった思考のまま、ただ只管、祈るみたいに、想い人への謝罪だけが募っていく。

110名無しさん:2024/01/19(金) 01:39:31 ID:KKTQDt7.0



(;、;*川(―――私、なんか、が)

(;、;*川(好きになって、ごめんなさい)



当然、答えはない。返答も、救いも、何もない。
勝手に期待しただけの痛い女には、部分点すら与えられる余地はない。



0点女のみっともない泣き声が、降り注ぐ雪に埋もれて消えた。

111名無しさん:2024/01/19(金) 01:40:28 ID:KKTQDt7.0
前半はここまで。
来週くらいに後半を投下します。よろしくお願いします。

112名無しさん:2024/01/19(金) 09:14:53 ID:6UqyCAwU0


113名無しさん:2024/01/19(金) 13:11:55 ID:uELU9.uM0
乙、、、

114名無しさん:2024/03/19(火) 00:32:07 ID:4hRpiPzg0

*

(´∩_ゝ `)「………」

机の上に置かれた書類をただ眺めるだけで、どれくらいの時間が経ったのだろうか。

やらなくてはいけない業務も、目を通さなければならない書類も、文字通り山のようにある。
自分がやるべきことをやらなければどれほどの損害が出るのか。どれだけの人間が困るのか。その責任についても十分に理解している。
だというのにここ数週間、手も脳も、まるで意欲的に動こうとはしてくれなかった。

一年半かけて選んだ自分好みの椅子に深く背中を預ける。
目の前に置かれた書類の文章を手に取って読もうとするも、意味が全く頭に入ってこない。
これは“読む”とはいえない。ただ眼球が文字を追っているだけだ。

書類を手放し、如何とも言葉にし難いイラつきの衝動に駆られて頭をガシガシとかく。
そうこうしながら書類と詮無き睨めっこを続けていると、ガチャリとドアが開く音がした。

( "ゞ)「……まだ不貞腐れてるのか」

音がした方向に目をむける。そこに立っていたのは無二の親友であった。

115名無しさん:2024/03/19(火) 00:33:10 ID:4hRpiPzg0

そもそも、顔を向けて確認せずとも分かることだ。

社長室兼作業部屋であるこの部屋に入るには、社員すら持ってない特殊なカードキーが必要である。
それを持っていて勝手にここに入れるのは自分を除けば、デルタと、あの口うるさい腐れ縁くらいのもので――。

脳裏に浮かんだ女性の姿を払うが如く、再び頭を掻きむしる。
考えまいとすればするほどより濃く影を落とす残像の、その存在感は日ごとに増していた。

(; "ゞ)「いい加減やることやってくれ、業務が滞って仕方ない。下からの苦情に取引先へのフォロー…社員たちを誤魔化すのもそろそろ無理だ。俺にも限界ってもんがある」

(´∩_ゝ `)「……やる気が起きない」

( "ゞ)「大学生みたいなこと言うな。ほら、追加だ。さっさと目を通せ」

ただでさえ山のように積まれていた書類の上に、更なる紙の束が置かれる。
ペーパーレスが進むこの時代に、何故こちらが古い企業に合わせて紙を使わなくてはならないのか。
若い頃に飲み込んだつもりの不条理だが、やはり如何とも理解しがたい。

116名無しさん:2024/03/19(火) 00:34:26 ID:4hRpiPzg0

更なる苛立ちの泡が浮いてくると共にダラリと身体がずれる。
汚いモノでも摘まむかのように一番上の紙を捲ったのはいいものの、面倒な単語が並んだ文章に気が滅入ってすぐに戻す。

( "ゞ)「おい」

あからさまな溜息交じりの注意が耳に入るも、やる気が出ないものは仕方ない。
というか、やる気が出ないのは仕事に限った話ではない。
二週間以上前のあの日から、碌な生活を送っていなかった。

食事も、睡眠も、ただ服を着るという行為ですら面倒で仕方がない。
今では家に帰ることも億劫で、シャワーを社員用のものを使い、夜は社長室の隅にあるソファで寝泊まりする始末。
“どうでもいい”という感情のみが、自分の胸中を占めていた。

( "ゞ)「おいデミタス。まだやる気が出ないところ悪いんだが、お前にお客さんが来てるぞ」

(´∩_ゝ `)「…今日は面会謝絶だ。誰だか知らないが、帰ってもらって…」

「ここまで呼んどいてそれはないでしょう。先輩」

声が聞こえた瞬間、目を見開いてバッと上体を起き上がらせる。
デルタではない声色だった。だが、ひどく馴染みのある声。
そして、今は二番目に聞きたいと願っていた声だった。

117名無しさん:2024/03/19(火) 00:35:23 ID:4hRpiPzg0

( ^ν^)「…うわ、なんすかこの無駄に広い部屋、入りづら…」

どこかいけ好かない細んだ目と、性格が伺える針金のように歪んだ口元。
一学年下の後輩であり、大学を卒業した今でも頼りにしている弁護士。
“新塚ニュッ”。
ロースクールに進むことなく在学中に司法試験を突破し、早期卒業制度を使って自分たちと同時期に大学を出た白眉である。

だが、何故このタイミングで奴がここに来たのかが疑問だった。
確かに聞きたいことはあったが、彼に連絡はまだしていない。
不思議に思いながらデルタの方を見ると、彼はさも当然といった様子でスマホを操作し、メッセージアプリのトーク画面を表示する。
そこには数日前になされたらしき、デルタとニュッの会話が記録されていた。

(*´・_ゝ・`)「〜〜っ!でかしたデルタ!よし、よく来たなニュッ!入れ!座れ!話聞け!!」

( ^ν^)「命令系のオンパレードかよ」

部屋の中心にあるソファに二人が座る間、机の引き出しに入れていた書類を取り出す。
出した紙の束を持ちながら早足で二人に近付き、自分との間にあるテーブルの上に置いた。

118名無しさん:2024/03/19(火) 00:40:03 ID:4hRpiPzg0

( ^ν^)「…なんすか、このビリビリのゴミ」

(´・_ゝ・`)「お前に依頼して作ってもらった、伊藤との婚姻証書だ」

(; ^ν^)「はっ?……え、これが!?破ったんすか!?俺がどれだけ必死に作ったと…!」

( “ゞ)「違う。破られたらしい」

(; ^ν^)「破られっ…!?それってつまり、ふ、振られ…」

(;´・_ゝ・`)「わざわざ言うな!とにかく、もう一度これ全部見直してくれ!」

見るも無残なほどに、ビリビリに破られた紙の束。
紙の一片に至るまで念入りにズタボロにされたそれを、一つ一つ、丁寧に修復する作業には骨が折れた。
とんでもなくアナログな重労働と、そんな時代遅れな作業を他ならぬこの自分がやる羽目になったというストレスのお陰でここ数日は睡眠不足である。

119名無しさん:2024/03/19(火) 00:41:05 ID:4hRpiPzg0

( ^ν^)「…だから、何度も言ってますけど、完璧な契約書なんてこの世に存在しないんですよ」

(# -ν-)「そういう注文をするアホが未だに蔓延ってるから、俺ら弁護士はいつまでも苦しんで……」

(;´・_ゝ・`)「そんな話はいい!早く!」

心底嫌そうな顔を浮かべるニュッに、無理やり書類を押し付ける。一瞬だけ聞こえた舌打ちのような音は気のせいだということにして流した。
テープで継ぎ接ぎに修復されたそれを、彼は再び破れることがないよう、丁寧に一枚一枚確認していく。
時間にして、およそ30分ほどは経過しただろうか。
空調と紙が捲られる音だけが響く部屋を一新するかのように、長い長い溜息が流れた。

( -ν-)「……終わりました」

(;´・_ゝ・`)「…!ど、どうだった。一体どこに問題が…」

( -ν-)「ないっす」

ほぼ反射的に「は?」という声が漏れる。
ニュッは酷使した眼球を労わるように目頭を抑えながら、疲れた声色で話を続けた。

120名無しさん:2024/03/19(火) 00:42:11 ID:4hRpiPzg0

( ^ν^)「変なトコも、誤字脱字の類もないっすよ。形式的には何の問題もないと思います。婚約に関してって点に限ればっすけど」

( "ゞ)「…それじゃあ、つまり」

( ^ν^)「断言は出来ないっすけど、十中八九、この契約書が問題なんじゃない」

( ^ν^)「やっぱ、問題があるのは婚約云々じゃなくて、盛岡先輩の方――」

(#´ _ゝ `)「――ンな訳あるか!!」

社長室に罵声と、勢いよく机を叩いた音が響き渡る。
気が付けば、自分は無意識に立ち上がっていた。

(#´・_ゝ・`)「僕と……この僕との婚約だぞ!?一体、何の問題が、デメリットがある!?」

(; ^ν^)「うわビックリした……」

(#´・_ゝ・`)「僕には資産も、社会的地位もある!あいつがずっと苦しんでる家絡みの問題も解決できる!!」

(#´・_ゝ・`)「僕自身に問題なんてあるはずがない!!ここに、この書類になにか不備がある筈なんだ!!それさえ見つければ、そうすれば、アイツは……!!」

頭を掻きむしりながら、再び書類を手に取って睨む。
ここにこそ、何か原因があるはずなのだ。

121名無しさん:2024/03/19(火) 00:42:37 ID:4hRpiPzg0

結婚相手の男性として、“盛岡デミタス”という人間にどれだけの価値があるか、それを伊藤が理解していない訳がない。
自分なら、盛岡家の力も借りず、散々アイツを無碍に扱っていた伊藤家から遠ざけてやれる。
アイツがずっと苦しんでいた原因を、根っこから取り除くことが今の自分になら出来るのだ。

日本で一番とされる国立大学に入り、死に物狂いで経営を学んだ。
空いた時間はほぼ全て、アプリ開発や起業に関することに費やした。
海外に向けて展開した学生向けのファイナンシャル事業も成功させ、自分の家に一切頼らなくてもよくなった。

欲しかった手札は集めきった。10年かけて、必要なものは全て揃えた筈だった。
なのに、ダメだった。一体何がダメなのかも分からず、部分点すら得られず、自分は今こうしてみっともなく地団駄を踏んでいる。
一体、どこに、この盛岡デミタスに、どんな失態があったというのか。

( ^ν^)「…つーか、そもそもどうやって伊藤先輩に告白したんですか」

ニュッが何気なく呟いたのであろう一言に、文字を追う眼球が止まる。
顔を上げると、ニュッは腕を組みながら不思議そうにこちらを見ていた。

122名無しさん:2024/03/19(火) 00:43:54 ID:4hRpiPzg0

( ^ν^)「婚約証書(こんなもの)を俺に作らせたってことは、結婚してもいい段階まで来たってことでしょう?…そもそも俺は、お二人が付き合ってたことも最近まで知りませんでしたけど」

( ^ν^)「付き合う時はどんな風に言ったんです?こんな形式ばったもの使わなくても案外、その時と同じようにした方が上手くいくかも――」

(´・_ゝ・`)「……いや、付き合ってないが。何言ってるんだ?」

今度は、彼が「は?」と言う番であった。

急に彼の口から出てきた質問に、僕の脳は追いついていなかった。
付き合うも何も、僕と伊藤はそういう関係ではない。

関係性という観点から話すのであれば、色々と名前を付けることは出来る。
友人、元クラスメイト、大学の同期、上司と部下、知人、腐れ縁、その他諸々。
だが、その中に“恋人”という単語はない。そうであったことなど今までの人生で一秒すらない。

自分たちがそういう関係ではない事を、この後輩は知っていた筈なのに、一体どうしてそんな的外れな質問をしてきたのか。
それが自分には全く分からなかった。

123名無しさん:2024/03/19(火) 00:47:31 ID:4hRpiPzg0

(; ^ν^)「……え?付き合ってすら、ないの?」

(´・_ゝ・`)「ない。そんな打診をしたことすらないな」

(; ^ν^)「………なのに、“結婚しよう”って言ったんすか?」

(´・_ゝ・`)「そうだが。身分関係の変更で重要なのは入籍だと言ったのはお前だろ?なら、わざわざ交際関係を経る必要ないだろ」

(´・_ゝ・`)「まぁ、流石に時間的担保はあった方が良いだろうから婚約という形にしたが」

僕の発言を聞き終わると、ニュッは再び長い溜息をつく。
顔を両手で覆った彼は、指の隙間から隣に座っているデルタを睨みつけた。

( ∩ν∩)「……どういうことですか」

(; "ゞ)「……違うんだ。その、こいつが聞く耳持たなくて……」

(# ^ν^)「そこをどうにか聞く耳持たせるのが関ケ原先輩の役割でしょう!?立派な任務懈怠ですよこれは!」

(; "ゞ)「いや、まさかここまで暴走するとは思わないだろ!?」

僕を置いてけぼりにして、二人は突如として言い合いを始める。
自分の発言が端緒であることは何となく察しているが、一体何か問題があったのだろうか。

124名無しさん:2024/03/19(火) 00:49:36 ID:4hRpiPzg0

(# ^ν^)「いくらなんでも非常識すぎる!!何なんすかアンタは、人生RTAでもやってんすか!?」

(;´・_ゝ・`)「あ、あーる……??」

(; ^ν^)「意外な無知…!!」

( “ゞ)「こいつ、自分自身はゲームとかやらないからな」

僕の混乱を他所に二人は聞き慣れない単語を交えて会話を続ける。
何を言っているのか要領を得ないが、少なくとも褒められてないことだけは確実だろう。

( "ゞ)「とにかく…原因ははっきりした。間違いなく、書類云々じゃなくお前自身が問題だ」

( ^ν^)「ですね」

(;´・_ゝ・`)「はぁ!?デルタまで…!」

目の前のソファに腰掛けている二人から分かりやすい批難の視線が向けられる。
誰かのフォローを貰おうにも、配慮と記憶力に長けるいつもの部下はいない。
文字通りの孤軍奮闘。善戦を望みたいが、相手がこの二人となれば流石の僕でも分が悪すぎる。

125名無しさん:2024/03/19(火) 00:51:01 ID:4hRpiPzg0

(;´-_ゝ-`)「…………何がダメだっていうんだ」

潔く白旗を上げ、降参の意を告げる。
この二週間、仕事も商談も放り投げて一人で考え込んだ結果、何も成果を挙げられなかったのだ。
ここで詰まらない意地を張っても仕方ないし、この二人に対してなら猶更というもの。
負け戦に挑むなどという詮無き趣味は、とうの昔に、高校時代で飽きている。

(; "ゞ)「…いや、何がダメっていうか」

( ^ν^)「もう、何もかもがダメですよね。常識なさすぎです」

(;´・_ゝ・`)「だ、だから何に問題があるんだ!?」

後輩からの辛辣な批評に思わず目が点になる。
フォローが得意なデルタからの支援もないどころか、深く頷いている始末。

( ^ν^)「普通、恋人って関係を経由してから結婚について考えるんですよ」

「何を今さら」とでも言いたげな様子で放たれる、溜息交じりの教え。
昔からこの生意気な後輩は言葉を選ぶということをしない。仕方なく敬語を使ってやっているという態度が見え見えの声色と話し方に青筋が立ちかける。
が、今回ばかりはそれを指摘する余裕も立場もない。

126名無しさん:2024/03/19(火) 00:53:43 ID:4hRpiPzg0

(´・_ゝ・`)「……いや、それは知ってるが、要らないだろ」

( ^”ν^)「はぁ?要らない訳ないでしょう?」

(´・_ゝ・`)「だって、それは一般的な男女の場合だろ?僕と伊藤は高校からの知り合いなんだし、お互いのこともよく知ってる。なら別に、”恋人”って関係はスキップ可能な筈だ」

(´・_ゝ・`)「それに、”僕”だぞ?僕と結婚することのメリットなんて、それこそ伊藤が分かってない筈がないだろ。考える時間がそこまで必要か?」

(; "ゞ)「…本当にRTA知らないのか?走者じゃないのか?」

(;´・_ゝ・`)「だから何なんだその、あーるなんとかってのは!」

(#´・_ゝ・`)「…大体、ニュッだって大して長く付き合ってないくせに、もう結婚するつもりなんだろうが!僕に説教できる立場か!?」

(; ^ν^)「うげっ!?な、なんでもう知って……!?」

(´・_ゝ・`)「先月、偶然出会った津島さんに聞いた。お前、デルタには相談してたくせに僕には何も言わないようにしていたらしいな」

127名無しさん:2024/03/19(火) 00:56:00 ID:4hRpiPzg0

ニュッの幼馴染であり、彼女でもある”津島デレ”さんと偶然出会ったのは一ヶ月以上前のことだ。
夜遅くにフラフラと歩いていた彼女を見つけ、「良ければ」と声をかけて駅の近くまで送り、少しだけ雑談をした。
お互いの近況や仕事の話、共通の知り合いであるニュッの話、そして付き合って一年が経った先月にニュッからプロポーズを受けたこと。

「まだ付き合って一年しか経ってないのに、せっかちですよねアイツ」と口では言いながらも、その表情は彼女が作る洋菓子のように甘ったるいものだった。
嬉しそうに式の予定を話す彼女に「自分、何も伝えられてないな」と後輩に不満を抱きつつも、そんな二人をよく見ていたからこそ、自分も結婚しようと思うようになったのだ。

(; ^ν^)「いや、その、盛岡先輩には式の日取りが決まってから話そうと…え、てか、来るんすか?えー?」

( "ゞ)「あ、本当に呼びたくないんだ……冗談かと思ってた…」

(´・_ゝ・`)「二度と僕に常識がどうだのとほざくなよお前」

(; ^ν^)「と、とにかく!俺らは幼馴染だから例外として、普通はちゃんと…」

(´・_ゝ・`)「おい何サラッと自分を棚に上げてんだ」

( "ゞ)「一気に説得力なくなったな」

先ほどまでの悠々とした態度はどこへやら。
恥じるように顔を両手で覆ったニュッはすっかりソファの隅に縮こまる。
一転して意気消沈してしまった後輩を見て、小さく息を吐いたデルタが身をこちらに乗り出してきた。

128名無しさん:2024/03/19(火) 00:57:16 ID:4hRpiPzg0

( "ゞ)「まぁ、とにかく…世間一般の女性からすれば、交際相手じゃない異性からいきなり”結婚しよう”なんて言われても、“はい”なんて言う訳がないんだよ。付き合いが長いとか、そんなのは関係ない」

( "ゞ)「相手がお前みたいな金持ちであってもな。伊藤さんが至って普通の感性を持つ女性だっていうのは、誰よりもお前が知っているだろう?」

(´・_ゝ・`)「…………」

こちらの反論を想定しきった旧友の言葉に。僕は何も言えず黙り込むしかなかった。
いつもなら例え伊藤が居たとしても何かしらの反撃をするのだが、今回ばかりは何も反論が思いつかない。

本気で何の問題もないと思っていた。
自分にも、伊藤にも、大きなメリットしかない素晴らしいアイデアだと。
だが、どうやらまた失敗らしい。それも幾度も気を付けるよう注意を受けていた点を思いっきり突く形のミス。
つくづく自分の常識の無さが嫌になる。多少はマシになったと自負していたが、とんだ思い上がりだったようだ。

129名無しさん:2024/03/19(火) 00:58:22 ID:4hRpiPzg0

(´ _ゝ `)「……僕は、ここからどうすればいい」

我ながら本当に情けない小声が、自慢の社長部屋の中に響いた。

今まで、どんな問題があろうともあの手この手で対処してきた。
会社を立ち上げた時も、銀行からの融資を渋られた時も、大手から足元を見られた時も。
「今度こそ終わりだ」と世間から指を差される度に、その都度、困難を乗り越えてきた。

だが、今回ばかりは何も浮かばない。本当に、何をどうすればいいのか分からない。
原因は分かっている。結局、僕は一人では何も出来ないのだ。

詰まるところ、僕は天才などではなかった。
どこかの誰かみたいな、圧倒的記憶力も、コミュニケーション能力も、情報整理能力も持ち合わせていない。
いつもいつも、近くにいる人の助けを得て進んできた。それは、一企業の社長となった今でも情けないことに変わらない。
たった一人の友人との仲直りする方法すら、僕は自分一人では思いつけないのだ。

130名無しさん:2024/03/19(火) 01:02:10 ID:4hRpiPzg0

( "ゞ)「……連絡はしたのか?」

(´ _ゝ `)「…電話も、メッセージも、全部ダメだった。メッセージは既読すらつかない」

( "ゞ)「家には?」

(´ _ゝ `)「…一回だけ行った。居留守なのか、本当にいなかったのかは、分からなかったが…」

( "ゞ)「こういう時、どうするんだ?」

(;´・_ゝ・`)「いや、だからそれが分からないから」

( "ゞ)「違う。お前じゃない」

顔を上げ、デルタの顔を見る。
そこには自分の右腕ではなく、ましてや副社長でもなく、自分のただの友人としての顔をしたデルタの姿があった。

( "ゞ)「伊藤さんも落ち込んでる筈だ。泣いてたんだろ、彼女」

( "ゞ)「彼女は落ち込んだ時、何をするんだ。どういう所に行くんだ。どういうものに縋るんだ」

( "ゞ)「この10年、お前は彼女の何を見てきたんだ。どういう所を好きになって、どういう所に焦がれたんだ」

( "ゞ)「……お前が一番、伊藤さんのこと知ってるんじゃないのか」

131名無しさん:2024/03/19(火) 01:04:37 ID:4hRpiPzg0

(;´・_ゝ・`)「……」

(;´-_ゝ-`)「……………」

目を瞑り、思考を巡らせる。
確かに。そうだ。そうだった。言われて今更思い出した。

自分が一番、彼女のことを見てきた。知ろうとしてきた。
何が好きなのか。何が嫌いなのか。
喜んでいる時の笑みも、怒っている時の表情も、悲しんでいる時にすることも、気を抜いて居眠りをする時の横顔すらも、何一つ取りこぼさないように見てきた筈だ。

彼女は昔から、嫌なことがあったら一人で抱え込むタイプだった。
他人を責めることに慣れていない彼女は、自省するため、静かな所で一人で泣こうとする。
それでも、無音に耐えられるほど強くはないから、少しだけ外の音や誰かの声が聞こえるような場所を選ぶ。
高校生の頃はよく、グラウンドに近い教室の隅で放課後、偶にこっそり佇んでいた。

132名無しさん:2024/03/19(火) 01:05:16 ID:4hRpiPzg0

あとは何だ。何で絞れる。
思考を進ませ、大学生の頃の記憶を漁る。
そうだ、確か地元から彼女の両親が口を出しに来た日があった。
その日の夜、少し心配になって電話をかけたら、酔っぱらったような声色で当たり障りのない返答をされたことがある。

あの時、自分はどう思ったのか。
酒に逃げると安直だなとぁ、口調がへべれけだとか、他の人の声が少しうるさいとか。
聞き慣れないジャズのせいで、彼女の声が聞き取り辛かったとか――。

(´・_ゝ・`)「………なぁ、デルタ」

頬から手を離し、顔を上げる。
すると、目の前に座っていた彼は、僕が何かを言う前にひらひらとスマホをこちらに向けていた。

( "ゞ)「とりあえず、明日の午前までは空けたぞ」

相変わらず、痒い所に手が届く奴だと内心で舌を巻く。
やるべきことは思いついた。それを実行するための時間も、今まさに有能な旧友が確保してくれた。
あとは、自分がなりふり構わず動くだけ。

133名無しさん:2024/03/19(火) 01:06:12 ID:4hRpiPzg0

(´・_ゝ・`)「ありがとう。…あと、一つだけ、用意して欲しいことがある」

( "ゞ)「なんなりと」

演技染みたニヒルな笑みを浮かべる彼に、こちらも自然と口角が上がる。
僕はポケットからスマホを取り出し、一枚の画像を見せた。

(´・_ゝ・`)「これ、用意しておいてくれないか」

僕が見せたスマホの画面を見て、ニュッは嫌そうに顔をしかめ、デルタは嬉しそうに破顔した。

( ^ν^)「…相っ変わらず常識知らずですね……いや、外れって言った方が正しいか?」

( "ゞ)「それでも”やると決めたらやれる”ってのが“盛岡デミタス”だよなぁ。…いいよ、なんとかしてみる」

(´・_ゝ・`)「ありがとう、任せた」

( “ゞ)「任された。行ってこい」

134名無しさん:2024/03/19(火) 01:06:37 ID:4hRpiPzg0

互いに作った握りこぶしを合わせ、僕は勢いよく立ち上がった。
デルタが「なんとかする」と言ったのだ。それならば、例えどれだけ無茶な注文でも確実に実現してみせる。
僕がそこに注意を向ける必要も心を配る必要もない。

社長室を出て廊下を進み、早朝のサラリーマンみたいにエレベーターへ乗り込んだ。
上着や最低限の現金が入った予備の財布など、大事な物は車の中。
スマホは今持っているから、外で動くのに支障はない。

液晶パネルに表示されていた、階数の下の時刻を見る。
今は夕方の17時。そろそろ日が沈み始め、冬空の茜が瞬く間に黒へと変わる頃。

エレベーターの液晶パネルが地下の駐車場を示し、静かに扉が開く。
今までにないくらい高鳴る心臓を自覚しながら、僕は止めてある自分の愛車へと走り出した。

135名無しさん:2024/04/03(水) 21:52:46 ID:VP0Da38U0

*

グラスの中で、カランと甲高い音が鳴った。

項垂れていた視線を向ける。さっきまで綺麗に積まれていた筈の氷塔が崩れていた。
中に入っていた琥珀色の液体は、溶けだした氷の水と混ざって薄くなっている。
手を伸ばし、中途半端に残っていた酒をやるせなさと共に一気に飲み干す。

“ズブロッカ”という酒がある。
ポーランドにある“パイソングラス”という非常に珍しい草を使用して作られたウォッカのことだ。
特徴的なのは、洋酒であるにもかかわらず桜餅のような爽やかな風味。高いアルコール度数とは裏腹に、酒にあまり慣れていない私でもスルリと飲める。
酒好きにも、普段はあまり飲まない私のような人間にも人気の酒だ。

( 、 *川「……すいません、おかわり。ダブルで」

¥・∀・;¥「…伊藤ちゃんどうしたの?流石に今日は飲みすぎじゃない?」

(-、-*川「だーいじょうぶです。どーせ明日も、明後日も、ずーっとお休みなんで」

この店の店主であるマニーさんからの注意にも耳をかさず、手をひらひらと泳がせるのみ。
すると、1分もしないうちに新しいグラスが二つ眼前に置かれた。
右は私が頼んだズブロッカのお代わり。左は頼んだ覚えのないミネラルウォーター。

136名無しさん:2024/04/03(水) 21:55:52 ID:VP0Da38U0

¥-∀・¥「せめて合間に飲んで。酔った女の子の相手はいいけど、アル中患者の相手は御免だから」

( 、 *川「………どうも」

以前、両親から口を出されて嫌な気分になった時もここに来たことを思い出す。
その時もこうして水を貰ったなと思いながら、苦笑いと共に差し出された気遣いを一口含む。
酒で火照った身体と脳の熱が、キンキンに冷えた水で中和されていくのを感じた。

少し冷えた頭でぼんやりと最近の日々を振り返る。
会社から、あの人から逃げた日から既に二週間以上の時間が経過していた。

最初の数日こそ楽しんでいた。
昼間に起き、化粧も碌にせずに近所をあてもなく散歩し、ずっと気になっていた店に入って食事を楽しむ。
特に理由も無く高いホテルに泊まったり、大浴場に浸かったり、プロのマッサージを受けたり。
多忙な日々の中、無駄に貯まっていた蓄えはまだまだある。しばらくは何も考えず、今までしたくても出来なかったことをしてみよう。
そう思い、色んな物を食べたり、色んな所を巡る悠々自適な甘い生活。
……まぁ、そんな夢に見た生活も僅か7日目で、見事に終わりを告げたのだが。

137名無しさん:2024/04/03(水) 21:56:27 ID:VP0Da38U0

社会人になってからずっとやってみたいと思っていたことは、蓋を開けてみると僅か1週間で済んでしまうことだった。
私はこれほどまでに詰まらない人間だったのかと落胆すると同時に、無常にも襲ってくる不安感。

勢いで会社を辞めたが、これからはどうするのか。
貯蓄こそ確かに平均以上はあるだろうが、それでも一生分には到底満たない。なんとなくしていた投資や定期預金も、すぐに現金に変えられるものではない。
再就職はどこにするのか。いつするのか。その目途が立ってから辞めるべきだったのではないか。

家にいると、そんな考えばかりが埃のように湧いて出てくる一方であった。
かといって外に出る用事も大して思いつかない。家で出来る趣味を見つけようと思ってなんとなく買った最新ゲームも、操作が複雑すぎて想像していたほど楽しめなかった。

何をすればいいのかに対して答えは出せないどころか、何がしたいのかについても模範解答は出てこない。
ただただ家で、形容し難い将来への不安と過去への後悔が積もっていくのを眺める日々。
そんな毎日に嫌気がさし、こうしてデルタ君から以前紹介されたお気に入りのバーで一人寂しく酒をかっくらっている訳である。

138名無しさん:2024/04/03(水) 21:57:01 ID:VP0Da38U0

(-、-*川「…あー、おいしくない……」

¥-∀-;¥「ならもう止めときなさい。はいお水二杯目」

(-、-*川「やだぁ、現実はもっとおいしくない……」

マニーさんからの注意も耳に入れず、ちびちびとだが確実に酒を減らしていく。
明日はどうしようか。次は日本酒でも飲みにいってみようか。
そんな詮無いことを考えていると、ふと、周りの喧騒に耳が向いた。
意識していた訳ではない。だが、なんとなく聞き慣れた単語が聞こえた気がしたのだ。

グラスから視線を外し、いつの間にか来ていた人たちの集団に目を向ける。
そこでは、私と大して年が変わらなさそうな人たちが、スーツ姿で騒いでいるのが見えた。


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