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詩・歌・管・弦 part 2

1千手★:2007/07/20(金) 23:01:14
「詩・歌・管・弦 part 2」を作ります。やはりわたしたちの思考はこのまわりをまわっている。

40千手★:2007/08/05(日) 00:53:12
>>38
私の述べ方が悪かったのですが、第一音はすでに存在するのです。
そしてまだ言っていないのですが、第二音によって第一音との「間」が形成され、
第二音が自己表示するリズムの中に第一音が組み込まれるのです。
>>35の引用少し間違ってましたね。「そこのは」→「そこには」。
第二音が第一音に対する贈与だというのならその通りだと思います。
リズムによる異質性の贈与であり、異質なリズムの贈与であり、
それは同時に浸透でもあると言えるでしょう。
でもそれは無に存在を与えるというようなことでしょうか? 
そうではないだろうし、そうではないからこそベルグソンと何らかの親近性があるのでしょう。

41千手★:2007/08/05(日) 01:00:25
継続+異質の湧出=持続
という風にp.26の論は読めますが。

キリスト教的な神による創造行為の説明であるp.15の論議を
持続に近づけて解釈しようとするのは、議論が混乱するだけなので、止めた方がいいと思います。

42E嬢★:2007/08/05(日) 01:11:44
>>40
>第一音はすでに存在するのです。

たとえば、なにかの絵が完成するには、真っ白なキャンバスの存在があるとは思うのですが、
punktierenから、白紙の状態を破壊する最初の色が必要だと思います。
punktierenの行為を行うのは、
創造するひとのキッカケがなければ始まらないと考えるからです。

最初から存在が認められているのでは、創造は生じないと思います。
画家の最初の一筆、指揮者の最初の一振りなど、
無を破壊する行為としてpunktierenがあるのではないのですか?

43E嬢★:2007/08/05(日) 01:12:56
書き込むのが遅かったようです。
>>42は、違っています。

44千手★:2007/08/05(日) 01:17:33
私にとって重要なのは、「punktierenを鋭くすること」と「リズム的差異(手足のリズム/分子のリズムetc.)」との関連を
「間」を作るという問題において明確にしてゆくことです。

E嬢のいう「間」は、「ゆらぎ」の中のpunktierenの問題として整理できそうな気がしています。
一応基本的な間があって、それをどう生かすかというような問題として。
直観音楽の問題は、基本的な間というものが予め一切存在していないところで、「間」を創造してゆく
という問題だと思います。
あるいは「基本的な間」というものが(音楽的意識の中で)想定されれば、それを鮮明に破壊し、「創造的なエクスタシー」
へと覚醒させてゆくことでしょう。

45千手★:2007/08/05(日) 01:20:08
ちょっと本を見ていたらあったのですが、シュトックハウゼンは1966年のお水取り
の時に、東大寺に来ているのですね。連行衆と一緒に写っている写真がありました。

46E嬢★:2007/08/05(日) 01:20:13
>>41
Creator(創造)に冠詞がつくと、〈神〉になるから、ヤヤコシイのだと思います。

47E嬢★:2007/08/05(日) 01:23:34
>>45
う〜ん、恐るべしシュトックハウゼン・・・
日本的直感音楽の偵察でしょうか?

48千手★:2007/08/05(日) 01:34:54
紹介しておきます。
Musikalische Meditation ist keine Gefühlsduselei, sondern Überwachheit und --- in den lichtesten Momenten --- schöpferrische Ekstase.
(K.Stockhausen, AUS DEN SIEBEN TAGEN)
「音楽的メディテーションとは、感情的なたわごとではなく、超覚醒であり、そして---最も輝かしい諸モメント(諸瞬間)においては---創造的なエクスタシーなのである。」(拙訳)

49千手★:2007/08/05(日) 01:36:48
>>48
訂正:
schöpferrische→schöpferische

50千手★:2007/08/05(日) 01:58:00
東大寺のすごさを感じます。
そしてシュトックハウゼンの大きさを。

51千手★:2007/08/05(日) 11:15:58
>>48
の「創造的エクスタシー」がシュトックハウゼンに直観音楽にはあり、
それが彼の音楽の類を絶した魅力であることであることに同感できるなら、
その直観音楽は、
ベルグソン的な「持続」の現在における異質性の湧出のところの、
絶対的異質性の湧出を、現実に形あるものとして見せてくれる、ものであり、
それは創造的な瞬間であるということ。
そのような見通しをもって、ベルグソン=篠原理論は読んでゆけるだろう、と思います。

52千手★:2007/08/05(日) 15:38:48
異質性というと、お水取の音響。突然遠慮会釈もなしに、音が出て来てしまう。
ほら貝も、澄んだ音も、ガチャガチャいううるさい音も、下駄の踏み音も、何もかもが、遠慮なしに
突発して、襲ってくる。
異質性の闖入で、あんな楽しいものはない。

53千手★:2007/08/06(月) 00:45:40
こういう問いが出せるのでしょう。
創造的エクスタシーにおいて生じる絶対的な新しさはどんなリズム的分節も絶したものなのか。

yes、と答えたい気がします。

それを「無限に」は語っている!
「自分は好きなだけ多くの時間と空間をもっている」という確信をもって弾かれる一つの音は、分子のリズム、原子のリズムを越えた
新しい端緒を開きうるはずです。新しい端緒を開くこと、それが創造的エクスタシーであるはずです。

54千手★:2007/08/06(月) 00:49:10
ベルグソンのいう「浸透」は、この(端的な創造的)端緒の後の「調整」のような作用のことではないでしょうか。

55千手★:2007/08/06(月) 01:36:15
>>37-54 の纏めをしておきます

シュトックハウゼンの「創造的エクスタシー」
<img src ="http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/004/588/19/N000/000/000/SeyaSigeharuKokeshiMini.jpg&quot; alt="瀬谷こけし">
「七つの日より」と題された文章の中でシュトックハウゼンはこう言います。
"Musikalische Meditation ist keine Gef&uuml;hlsduselei, sondern &Uuml;berwachheit und --- in den lichtesten Momenten --- sch&ouml;pferische Ekstase."
(Karkheinz Stockhausen, "AUS DEN SIEBEN TAGEN",Texte zur Musik 1963-1970, Verlag M.DuMont Schauberg, S.125)
「音楽的メディテーションとは、感情的なたわごとではなく、超覚醒であり、そして---最も輝かしい諸モメント(諸瞬間)においては---創造的なエクスタシーなのである。」(拙訳)

この「創造的エクスタシー」がシュトックハウゼンに直観音楽にはあり、
それが彼の音楽の類を絶した魅力であることであることに同感できるなら、
その直観音楽は、
ベルグソン的な(「継続」と「異質性の湧出」からなるものとしての)「持続」の、
「現在における異質性の湧出」のところの、
絶対的異質性の湧出を、現実に形あるものとして見せてくれる、ものであり、
それは創造的な瞬間であるという、
そのような見通しをもって、ベルグソン=篠原理論は読んでゆけるだろう、と思います。
(篠原資明『ベルグソン』(岩波新書1040)p.26参照)

こういう問いが出せるのでしょう。
シュトックハウゼンの言う
創造的エクスタシーにおいて生じる絶対的な新しさは、どんなリズム的分節も絶したものなのか?

YES、と答えたい気がします。

それを「無限に」(『七つの日より』の中の)は語っている!
「自分は好きなだけ多くの時間と空間をもっている」という確信をもって弾かれる一つの音は、分子のリズム、原子のリズムを越えた
新しい端緒を開きうるはずです。新しい端緒を開くこと、それが創造的エクスタシーであるはずです。

「無限に」(UNBEGRENZT)は次のような指示による曲です。

UNBRGRENZT

Spiele einen Ton
mit der Gewissheit
dass Du beliebig viel Zeit und Raum hast

無限に

音を一つ弾け
好きなだけ多くの時間と空間をもっているという
確信をもって
(拙訳)

シュトックハウゼンの直観音楽、『七つの日より』という曲の本質は
この「無限に」の曲に極まるでしょう。
創造的エクスタシーを端的に語る言葉でしょう。
これが曲の指示です。


*注
「リズム的分節」:『七つの日より』の中の「上に向かって」「下に向かって」等を参照してください。そこに区別されるべきいろいろなリズムの差異が示されています。

56毛蟹★:2007/08/06(月) 10:18:02
>>52
これを超える日本製の音楽を僕は知りません。聴衆は、下駄や法螺貝の音に度々不意打ちを食らわされるのですが、それらの音によって集中が妨げられるのではなく、反対にそのつど感覚が鋭敏に研ぎ澄まされていきます。空間に、そして声明のリズムに新たな活性を与え(草むらのバッタを驚かせるように)、そうして更に深さと透明度と感度を増した空間に、生まれ出た赤子の泣き声のように、はじめて聴かせる音のように、下駄や法螺貝を鳴り渡らせます。あの声明は、実によく出来たコミュニケーション・プラットフォームなんです。「『いのち』の肯定の最高の様式」@中路正恒を日本人は持っていたんです!あぁ、素晴らしきかな東大寺。でも奈良って何であんなにダサダサなんだ?町の造りもファッションも地方都市の典型じゃないか。もうちょっと昔の人間から学べよと言いたくなる。

57毛蟹★:2007/08/06(月) 12:03:00
奈良博周辺に縄張りを持つ鹿達と鹿せんべいを売ってるおじさん達のベタベタな共生関係にもトホホです。店仕舞いの時間が来ると「ホイ今日も一日ご苦労さん、また明日ね」てな具合に両者が姿を消すのです。奈良の鹿は獣じゃない。

58E嬢★:2007/08/06(月) 14:43:38
>>57
>奈良の鹿は獣じゃない
実は商売繁盛の神さんなんだと思います。(笑)
いや、違うなぁ〜、サクラ教育を受けた鹿?!

59千手★:2007/08/07(火) 01:49:20
>>56
「お水取り」
図図しさ。音の物質性。存在感。
洗練された楽音ではない音たちが、堂々と拳骨をつき出すように突き出てくる。
あの鉦の音もすごい。
その物質性をたっぷり備えた音たちが、その存在を堂々としてしてくる。
次にはそれが堂々と輝いた存在になって、場をしっかりと表示し、主張し、次の音を招く。
そんな音の饗宴。
 音に関しては、外陣の回廊から中をのぞきながら聞いた方がより生々しく、生き生きと、新鮮で、激しい音が聞ける。
そう、あのお堂の中のダッタンの火遊びもそうだが、
こんなことありか? というようなものがつき出されてくるのは音も同じだ。
ありか? というような音が平気で出てくるのだ。そして肯定される。されている。
 前回のE嬢の「鍋ぶた」もそんな感じのある音だった。
存在の堂々たる強さ。

60千手★:2007/08/07(火) 19:00:38
東大寺二月堂ではあの乾燥した空気感も音の響きにかかわっていると思う。
からっとしていて、湿りを引きずらない。
しめっぽい余韻というものがない。
(この印象は日によって違うかもしれないが、八年前に初めて聞いた時の印象だ)

61E嬢★:2007/08/07(火) 20:30:34
来年の二月は、東大寺二月堂に向かわねばっ!!
知らないことが多すぎて、大変です。(笑)

62千手★:2007/08/08(水) 16:35:43
お水取は三月です。お節介ですが。

63E嬢★:2007/08/08(水) 16:39:46
あっ、すみません。間違わなくって済みました。(笑)

64千手★:2007/08/11(土) 05:22:38
彗星は翼ある蛇 メキシコの伝承のごと尾のなびきたり
   山中智恵子『玲瓏之記』

E嬢さん、メキシコにはこういう伝承があるのですか?

65E嬢★:2007/08/13(月) 10:52:31
翼のある蛇の伝説というか、実話なのか、ありますよ。

ユカタン半島にあるチチェンイツァでは、「ククルカン」と呼ばれ、
メキシコ中央高原では、「ケツァルコアトル」と呼ばれていた、
蛇人間というか、神様です。

「尾のなびきたり」から、チチェンイツァの「ククルカンの神殿」のことかと思います。
マヤ人は天文学に詳しかったらしく、一年を260日とした暦を使っていたこと、
海王星や天王星まで知っていたこと(A.C300-A.C1250)、春分と秋分を知っていたことがあります。

春分と秋分の日、「ククルカンの降臨」がみることができます。
それは階段状ピラミッドに飾りつけられた蛇の影に、羽が生えるとか、
物凄く長い影になるとか、そんな工夫がされているそうです。(まだ、見たことありません…)

彗星からは、メキシコでなにがあるのかわかりませんが、もう少し、調べてみます。

66千手:2007/08/14(火) 01:52:26
>>65
>春分と秋分の日、「ククルカンの降臨」がみることができます。
>それは階段状ピラミッドに飾りつけられた蛇の影に、羽が生えるとか、
>物凄く長い影になるとか、そんな工夫がされているそうです。(まだ、見たことありません…)

ありがとう。おもしろそうですね。
翼があれば蛇も空を飛んでゆけるのでしょう。彗星が蛇とは!
チチェンイツァの「ククルカンの神殿」、行ってみたいところが増えました。

67千手:2007/08/18(土) 11:41:55

尾をひきてわがゆくときを逢ひたるは尾なききみかもわが恋ふるきみ
  山中智恵子『青扇』「宇宙(コスモス)昏し」

蛇はちょっと偉いみたいですね。

68E嬢★:2007/08/20(月) 22:08:19
暑さのあまり、書き込みしてませんでした。(笑)やっと、復活です。

蛇がなんで偉いのかと同じぐらい、ケツァルコアトルの別名は、
「羽毛の蛇」と呼ばれています。蛇に羽毛・・・食後?

あと、ジャガーも大切みたいです。ワシもいますね。
ちなみに、風の神さんは、カッパとお猿さんのハーフみたいです。

スペイン人が来るまでは、生贄文化だったのですが、太陽の神さまだけではなく、
雨の神さん:チャクが参加していたそうです。
尾なききみ・・・誰なのかわかりません。。。

69E嬢★:2007/08/21(火) 22:15:02
いま、鳩小屋図書館にあった、「マヤ・アステカ神話宗教辞典」を読んでいるのですが、
神話というのは、どこも似ているものなんでしょうか?
名前が違う、日本神話みたいです。

70千手★:2007/08/23(木) 00:01:20
>>67
今札幌です。一仕事終えて。
北海道の熊猟師、姉崎等さんと、飛騨の熊狩りをする猟師橋本繁蔵さんとの
二日間にわたる対談をセットして、姉崎ファミリーの恩恵によって、
すばらしいものを得てきたところです。おかげで、何人かの新しい友人ができました。
有難いことです。
それで
>尾なききみ・・・誰なのかわかりません。。。
これはなんでもないことで、人間のことです。
人間=尾なき生物 として ちょっと下にみられているんです。
とりあえず以上で。
レス感謝。

71E嬢★:2007/08/23(木) 00:22:33
えぇ〜っ!!札幌ですか?!
オドロキというか、ビックリというか、テレポーテーション???
千手さん、もしかして、分身の術とか使っているのですか?

「尾なききみ」は、人間だったのですね。
ちょっと、読めてきました。ありがとうございます。

72千手★:2007/08/30(木) 23:37:35
「京都自由大学院」HPの「研究公開」コーナーに
野間亜太子さんからの寄稿エッセイ「<山中智恵子と水原紫苑>―微笑ましいエピソード―」を掲載しました。
野間さんの略歴は: 歌誌「詩歌」「日本歌人」を経て現在「かばん」、詩誌「歴程」を経て現在「地球」。現代連歌誌「フーガ」。ということです。
歌誌、詩誌、連歌誌のそれぞれに所属しているということす。
私が京大短歌会のメンバーだっとき、京女短歌会の先輩として何人かでお宅に押しかけたことがあります。
今回の寄稿は日本歌人の故山中智恵子さんの縁で、特別にお送りいただいたものです。<br>
URLは以下。
http://fuunichi.hp.infoseek.co.jp/Studies/Noma1CM.html

73千手★:2007/08/31(金) 03:15:31
野間さんの方から次のメッセージがきました。
>少し困ったのは、「幻想派」の頃のことだ、とぞんじます。
>「現代詩手帖」の<新人欄>に書いていた頃でもあります。京女の大学院に通っておりましたが、クラブはどこにも入っておりません。従って京女短歌会にも入っておりません。ただし、お招きをうけ京大短歌会に楽友会館に伺いました。ただし、高槻にいた頃、来られたのは覚えております。
>>72の「京女短歌会の先輩として」のところ、訂正します。

74千手★:2007/09/03(月) 03:23:50
石狩海岸の「青い家」 拙短歌三種
http://25237720.at.webry.info/200708/article_13.html

75千手★:2007/09/04(火) 21:03:15
星は医師と誰か言ひけむ こはれゆく銀河を仰ぎとどめむものを
                山中智恵子『青扇』

 この「こはれゆく銀河」という思考は、『虚空日月』のころの山中智恵子にはなかった。
脱することの困難な境位だと思う。

76千手★:2007/09/07(金) 00:05:55
夏神楽終りぬ天つ日のめぐり思ひつめたるうつせみの空
   山中智恵子『虚空日月』「虚空日月二の抄」

 昭和四十九年刊のこの歌集。この歌は、神の死ということを歌っているのだが、
>>75の歌、「こはれゆく銀河」は、神の死の意味をさらに一歩進めていることになるだろう。
そのことに何の嬉しいことがあるわけでもないのだが。

77E嬢★:2007/09/07(金) 00:28:58
山中さんにとって、銀河は神のことなんですか?

78千手★:2007/09/07(金) 01:35:19
銀河はわれわれのいる宇宙なのでしょう。

79千手★:2007/10/02(火) 03:23:36
拙論「山中智恵子論<10> ---歌のちぎり・その掌に死ねと・果無山」が出ました。『日本歌人』2007年10月号です。
とりあえずこれで連載終了です。12ヶ月の苦行でした。

話は違うけど、今日、佐藤真さんは自殺だったと聞いた。
ちょっとショックだった。
「生きていてもいいですか」という問いに、Noと答えたのでしょう。
私なら死なずに、懺悔をします。

80Pentatonics★:2007/10/02(火) 09:57:56
その後ネット上のニュースを見ていると、
佐藤さんが入退院を繰り返していたのは「鬱病」によるものだということが判ってきましたた。

なんでも大量の抗鬱剤を過剰摂取してしまい病院に運び込まれ、
そこから転院する際に周囲の隙をついて近所の団地の階段を駆け上り、
4階と5階の間の踊り場から飛び降りたのだということです。

なぜあのゆったりとした温和な人が、と思うけれど、むしろそういうものなのかもしれません。
何が佐藤さんを追いつめたのかは判らないが、身につまされます。

人間理解の深さは、その人自身を救わなかったということでしょうか。
それともこういう形で自らを救ったのでしょうか。

(ブログ「馬鹿と煙」コメント欄より引用)
http://plaza.rakuten.co.jp/goingkyoto/diary/200709060000/

81毛蟹★:2007/10/02(火) 10:01:54
>>79
>私なら死なずに、懺悔をします。

死は本人のものではないとはいえ、酷な発言だと思いました。

82千手★:2007/10/04(木) 22:21:33
>>81
私が、「no」という答えを自分に見出した時の態度のことです。

83千手★:2007/10/05(金) 01:05:04

ただよひてその掌(て)に死ねといひしかば虚空日月(こくうじつげつ)夢邃(ふか)きかも
                 山中智恵子『虚空日月』「虚空日月」

山中さんのこの歌を読み解くのに、およそ三十五年かかった。
 読み解いた時、山中さんはわたしを嫌ったと思う。憎んだかもしれない。
 (山中さんから返事がなかったのはその一回だけだった)


だが、そして果て無しの山に入った。
・・・・・・・・・・

84千手★:2007/10/05(金) 01:17:01
>>80

「鬱病」って何ですか、と聞いても仕方がないか。
じゃ、ききなおすと、
「鬱病」って「生きていてもいいですか」と自問することではないんですか。
「生きていてもいいですか」と自問することとどう関係するのですか。

>人間理解の深さは、その人自身を救わなかったということでしょうか。
>それともこういう形で自らを救ったのでしょうか。

これは何を言いたいんですいか? 「自らを救う」とはどういうことなのですか?
カッコイイ、しゃれた言い方ではありますが。

85千手★:2007/10/05(金) 01:19:01
>>84
訂正
>これは何を言いたいんですいか? 

これは何を言いたいんですか?

86E嬢★:2007/10/05(金) 10:03:50
>>84

まだ読みもしていない本のことを書くのは、気が引けるので、
あえてタイトルは伏せておきますが、その本のなかに、

戦時中恋焦がれた女性に何年かぶりに会うのですが、カノジョに老いの影がさしてたコトで、
十何年かの恨みが消失した… 云々
恨みは愛とともに消失し、愛と恨みが消失したとき、残るのは一つの記憶のみ。
じゃないの?って話なんですが、

佐藤さんの問題とは関係ないにしても、「自らを救う」っていうのは、
紙一重の問題(死ぬと生きる、愛と憎しみみたいな)は、常に一対で、
片方だけではないと思うのです。その感情が別の感情や思いに変わったとき、
初めて「自らを救う」ことが出来るんじゃないでしょうか?

87千手★:2007/10/05(金) 18:59:56
>>86

その話、「鬱」と何か関係するのですか?

88E嬢★:2007/10/05(金) 22:07:42
「自らを救う」について書いたのですが、「鬱」につなげないとダメなんですね。
失礼いたしました。

89Pentatonics★:2007/10/05(金) 22:35:47
>「鬱病」って「生きていてもいいですか」と自問することではないんですか。

そうだと思います。
さらに言えば、そう問うと同時に常にひりひりと「否」が聴こえているような状態なのではないでしょうか。
「生きていてもいいですか」と問うこと自体は、病ではないと思います。

>これは何を言いたいんですか? 「自らを救う」とはどういうことなのですか?

答えになっていないかもしれませんが、私は自殺を否定しないのです。
本当にそこしか出口がなかったのなら、それもまた然るべき選択だったのではないかと思うのです。
そしてそこからしか出られない、ということは、本当にあるのだと思います。
「生きていればなんとかなるのに」という第三者のことばが、まったく無効であるような地点が。
外で生き残ったものが、「死ぬなんて馬鹿だ」とか「自殺は無意味だ」ということほど、
死者のこころから遠くはなれたものはないと考えます。
その人にとってその死は十分に意味を持っていたのだと思いたいところがあって、
あのようなことば遣いをしたのです。

>カッコイイ、しゃれた言い方ではありますが。

この一行は余分だと思いました。
私は佐藤さんの死を弄んだつもりも茶化したつもりもありません。
他のところからもってきた文章で、やや場違いだったかとは思いますが。

90千手★:2007/10/06(土) 07:22:48
>>89

わたしは「鬱病」について一人称で語る語り方を求めていたのです。

>答えになっていないかもしれませんが、私は自殺を否定しないのです。

答えになっていないと思います。中島みゆきの歌では「生きていてもいいですか」は、
人にききたい、人に尋ねたい、という形をとっており、おそらくこれがほんとなのです。
その問いにだれも答えてくれない。「yes」、とも「no」とも。そのことをもっと深い「no」として
<私>は受け取るのです。

>この一行は余分だと思いました。
失礼とは思いますが、「自らを救う」ということをキーにした対句表現に美的な満足を覚えてらっしゃるのかと思いました。
「自らを救う」というのは漠然とした概念です。

91Pentatonics★:2007/10/06(土) 08:10:22
>中島みゆきの歌では「生きていてもいいですか」は、
>人にききたい、人に尋ねたい、という形をとっており、おそらくこれがほんとなのです。
>その問いにだれも答えてくれない。「yes」、とも「no」とも。そのことをもっと深い「no」として
><私>は受け取るのです。

そうでしょうか。鬱者には誰もが(口は出さなくとも)「no」と言っているように感じていると思います。
「なすべきこと」が出来ず、「今まで出来ていたこと」も出来なくなる。
世の普通の鬱者は、それまで自分が世の中と共有していた(と思われる)に照らし、
自分のそこからの脱落を感じ、己の無能力(実際に能力は落ちます)を自覚し、
そこから自身の無価値感・無意味感に苦しむのです。

この落ち込みの過程は壮絶な独り相撲ではありますが、そこにはほとんどの場合「社会が決めたノルマ」とか「能力基準」
より正確にいえばそれらがその人に内面化されたものが関わっています。
それは、「ものさし」の形で単純化された社会なのかもしれません。
鬱者自身はその「ものさし」に問い訪ねては
「no」を返される、という経験を繰り返しているのです。

この「no」が、「より深い」noであるかどうかは、わからないと考えます。
もしかしたらまちがった「ものさし」を参照しての早合点に過ぎないのかもしれませんし。
これを「深い」問いに差し替えられるのは、一部の優れた人だけでしょう。
一人称のうちで「no」を聴くことができるのならば、それはすでに鬱病ではないような気がします。
それは力強い回答というべきでしょう(あるいはもっと先に行った病です)。

多くの鬱者は手近な「ものさし」に取り替えることで、やりすごそうとします。
繰り返される転職や「自分探し」は、そういうことの現れなのだと思います。
「深いno」として受け取るには、この「ものさし」を自家製のものに入れ替えることが多分必要なのでしょう。

ほとんどの鬱者は、外部の「ものさし」をおびえながら参照していると感じをもっているはずです。
そしてそこでは「客観的」なもの(たとえば「成績の数値」など)に自分自身が浸食されていき、
自らの主観は貶められ希薄になっていっています。
私の考えでは、鬱病は三人称的な一般論を生きることであり、遠方の第三者の視線を恐怖することです。
これを一人称で語ることには困難を感じます。

92千手★:2007/10/06(土) 20:06:37
>>91
私はほとんど何を言っているの理解できないのですが、pentaさんのおっしゃることが「鬱」なら、
中島みゆきが「エレーン」で歌っていることは鬱ではないと思います。そして彼女が歌っていることと関係がないのなら、
私は「鬱」に全く関心をもちません。
 そしてpentaさんにお聞きしたいのは、この「鬱」についての叙述を、あなたは佐藤真さんの死の前の状態にあてはめて、
あるいは想定して考えている、と理解してよいのですね、ということです。
とりわけ次のような「鬱」理解のことをです。

>世の普通の鬱者は、それまで自分が世の中と共有していた(と思われる)に照らし、
>自分のそこからの脱落を感じ、己の無能力(実際に能力は落ちます)を自覚し、
>そこから自身の無価値感・無意味感に苦しむのです。usw.

佐藤さんに関わる形でこれ以上論にかかわることを私はやめますが、私自身にあてはめて考えれば
私があなたにあなたの上記の意味での「鬱」だと思われるとすれば、そのこと自身が私にはきわめて
鬱陶しいことになるでしょう。

93毛蟹★:2007/10/07(日) 01:20:27
お二人のやりとりに口を挟んで申し訳ないのですが、千手さんの質問に対するPentaさんの(僕が思うに極めて誠意ある)回答が「私には極めて鬱陶しい」という千手さんの発言は、返答してくれたPentaさんに失礼だと思います。自分の期待する返答しか欲しくなければ、そのような質問はすべきではないと思います。

>>92
>私自身にあてはめて考えれば私があなたにあなたの上記の意味での「鬱」だと思われるとすれば、そのこと自身が私にはきわめて鬱陶しいことになるでしょう。

その当時(あるいは現在)の「私」が鬱であった(鬱である)と確定できますか。

94千手★:2007/10/07(日) 08:05:06
>>93
>その当時(あるいは現在)の「私」が鬱であった(鬱である)と確定できますか。

ずいぶん勘違いをされているようです。
佐藤さんのこととするのは失礼だから、私が誰かから「鬱病だ」と言われたとした場合のことを想定してみただけのことです。
私が「鬱」でないからかもしれませんが、私が誰かから「お前は鬱だ」と言われたら、私はそれを非常に鬱陶しいことだと感じるでしょう。
これは二人称の相手に対して感じる鬱陶しさです。
もしpentaさんの説くように、
>>91
>私の考えでは、鬱病は三人称的な一般論を生きることであり、遠方の第三者の視線を恐怖することです。
が「鬱病」の真相を衝いているとしたら、この「定義」は鬱病者が自分を鬱病と認識するのに役立つと思います。
それゆえそれは充分一人称的だと思います。
ですがそういう世界は、はたからみて非常に鬱陶しい世界です。自分の人生に踏み出していないようにみえるからです。
結局「鬱病」とは、「おれはだめだ」と世間の中で考えることなのでしょうか。
それなら中島みゆきの「エレーン」の世界とはずいぶん異なっているでしょう。
むしろ石川啄木の作品の主調ではないかと思います。
ニーチェが記述するルサンチマンの生理状態(『この人を見よ』)とも関連しそうです。

95千手★:2007/10/07(日) 08:19:36
>>91

鬱者は自分を「悪人」とは思わないわけですね。「無価値な人間」と思うだけで。
羊のように生きてきただけで。

そうだとすればそれは「羊型」の生き方(羊を理想とする生き方)の末期的な形に思えます。
世界史的な意味をもつでしょう。

96毛蟹★:2007/10/07(日) 09:53:11
>>94
>私が誰かから「鬱病だ」と言われたとした場合のことを想定してみただけのことです。

そのような想定は無意味です。想定で「病」という扉をくぐることは不可能です。僕は勘違いをしていたのではありません。千手さんに対して最大の敬意を払ったまでのことです。

>ですがそういう世界は、はたからみて非常に鬱陶しい世界です。自分の人生に踏み出していないようにみえるからです。

もし鬱が「選択された生き方」であればそのように言うこともできるでしょう。

97毛蟹★:2007/10/07(日) 12:14:34
僕の身の回りの人間が「軽度の鬱」と診断されました。その人間は僕のような怠惰な人間ではなく、間違いなくその正反対の人間でした。僕はその人間のあまりの変わりようにうろたえました。そのような変化を自ら選び取るような人間ではなかったからです。幸い転院先の医師との相性が良かったらしく全快したように見受けられますが治療は一生続くと思われます。
今思い返すと、その時その人間は己を相手に必死で戦っていました。僕が思うに鬱は生き方ではなく、病です。鬱者に世界史的な意味があるのではなく、あるとしたら鬱者を取り巻く世界の側にあると思います。

98毛蟹★:2007/10/07(日) 12:25:44
鬱者を人類の類的進化(退化も含めて)の体現者とみなすことには無理があると思います。

99千手★:2007/10/07(日) 15:11:34
例えばアルトーが自分の現状を称して「病気」と呼んだものに到達する人間が何人いるでしょう。
生き方ではなく病だと言うことにどんな意味があるのでしょう。
「鬱」を「病気」と見なす場合の病気の意味が分かりません。
アルトーの「病気」の意味が分からないのと同じように。

>>96
>想定で「病」という扉をくぐることは不可能です。
鬱に病という扉が、どういう意味であるのか。器質的な病因があるのか?
ないなら何をもって扉とするのか。
その扉はなぜくぐる必要があるのか。
勘違いでないなら別の前提を持ち込んでいる。

100毛蟹★:2007/10/07(日) 15:48:45
>>99
>鬱に病という扉が、どういう意味であるのか。器質的な病因があるのか?
ないなら何をもって扉とするのか。

「あるのか、ないのか」僕にはわかりません。

101ドングリ★:2007/10/07(日) 19:26:09
残念な事に私はこれまで、身内を含め何人かの大切な方を「鬱」からの
自殺という形で失ってきました。
また本当に明るく、陽気な方も更年期に入り、突然鬱になられました。
女性の場合、ホルモンの関係で鬱状態に入る方もおられます。
そういう意味では、私自身いつ鬱に取り付かれるかわかりません。
「鬱に病という扉」と言うと、自分の前や横、(この場合後ろという感じはありませんが)
に扉があり、そこには境界線があるような印象をうけますが、鬱病を含めて私たちは
あらゆる病に取り囲まれ、常に侵食されているように思われます。

102毛蟹★:2007/10/07(日) 20:42:27
>>101
>「鬱に病という扉」と言うと、自分の前や横、(この場合後ろという感じはありませんが)
>に扉があり、そこには境界線があるような印象をうけますが、鬱病を含めて私たちは
>あらゆる病に取り囲まれ、常に侵食されているように思われます。

僕の表現が不適切でした。お詫びします。僕が96で言いたかったのは、「鬱は鬱者が自らの意思で選択した生き方ではないと思う」ということです。

103千手★:2007/10/07(日) 21:00:34
>>97
>鬱者に世界史的な意味があるのではなく、あるとしたら鬱者を取り巻く世界の側にあると思います。

おそらく両方にある、とわたしは想定しています。

104毛蟹★:2007/10/07(日) 21:16:09
疲れました。

105千手★:2007/10/08(月) 03:01:41
>>103

それはニヒリズムの別名だろうからです。

106千手★:2007/10/08(月) 03:36:01
『生きていてもいいですか』(中島みゆき)が届いて、聞いた。これまではレンタルでしか聞いたことがなかった。
こんな歌詞、
「世界じゅうがだれもかも偉い奴に思えてきて/まるで自分ひとりだけがいらないような気がする時……」(「蕎麦屋」)

「人を捨てるなら九月 誰も皆 冬をみている夜の九月/船を出すのなら九月 誰も皆 海を見飽きた頃の九月」(「船を出すのなら九月」)

「エレーン 生きていてもいいですかと誰も問いたい/エレーン その答を誰もが知ってるから 誰も問えない」(「エレーン」)

前から疑問だったのだが「誰も問いたい」というのは、誰もがエレーンに問いたいということでいいのだろうか。
それとも、エレーンも含めて、人はみな問いたい、ということなのだろうか。

まずは前者、それから後者に広がってゆくということでいいのだろうか。

107Pentatonics★:2007/10/12(金) 11:04:12
長文失礼

>結局「鬱病」とは、「おれはだめだ」と世間の中で考えることなのでしょうか。
>それなら中島みゆきの「エレーン」の世界とはずいぶん異なっているでしょう。

私は鬱とはそういうものだろうと思っています。当人がそれまでどんなに克己心をもって自律して生きてきたとしても、どんなに誰もが認める優れた仕事をなしてきていても、唐突に「おれはだめだ」の暗闇に落ち込んでしまうことがあると思うのです。
私は佐藤さんの人柄や仕事を貶める気は毛頭ありません。むしろその反対です。
ただ、入院するほどの「鬱」であれば、おそらく当人は強い疲労感と焦燥感、無力感(「おれはだめだ」感)を感じていたろう(これは「鬱病」と呼ばれるものの一般的な症状です)、辛かったろうと慮るのみです。

>ですがそういう世界は、はたからみて非常に鬱陶しい世界です。
>自分の人生に踏み出していないようにみえるからです。

佐藤さんが「自分の人生に踏み出していな」かったなどとは、とても言えません。むしろ映画製作の実践を通して、さまざまな「生き方」に迫って行った人だし、それは佐藤さん自身の生きることの確かめとも深く結びついていたように思います。佐藤さんの映画からはそういうものが強く感じられます。

ただ「鬱」には、自分が自分の人生から急に遠ざけられてしまう感じというのはあると思います。
他の人にはとやかく言えることではありませんし、私にはとてもではありませんが「鬱陶しい」とは言えません。しかしながらだれよりも、鬱者当人が「自分の人生を歩いていない」と感じているでしょう。

それは毛蟹さんが繰り返し書かれているように、「生き方」として選択したりできるものではないし、「必要」があってその扉をくぐるというようなものでもなく、きっかけはあるのだと思いますが、本人の意志や選択に関わらず、それは否応無くやってきてしまうものです。「病気」にかかるように、そういう状態に落ち込んでしまう。それが「鬱病」だと思うのです(※)。

- - - - - - - - - - - -

千手さんが「エレーン」から考えようとしていることについては、私はあまり理解できていませんが、「エレーン」的鬱とでもいうべきところを通って、より深い認識(?)に至る経路があり、そうした鬱への肯定的な考えがあるのかな、という風に読みました。
そして私は当初、それについていけないものを感じたのです。現代日本に蔓延する「鬱」の実感からは遠いものだと感じました。
そこで、
>>89
>>91
のような書き込みをしたのでした。
判りにくいものだったかもしれませんが、
「鬱病は三人称的な一般論を生きることであり、遠方の第三者の視線を恐怖することです」
というのは、現代日本の鬱を言ううえではそんなに外していないのではないかと思います。

ただ一連の議論を受けて少々反省したのですが、客観主義、数値至上主義、市場至上主義のようなものが世を支配するようになる以前にも鬱というものがあったはずで、それについてはこの言い方はほとんど無効だと思いました。「遠方の第三者」ではなく、なにか別の普遍的なものを恐れるような「鬱」があったのかもしれません。そして「エレーン」的な鬱というのも、そうしたところにあるのかもしれないと思うようになりました。ただその頃の鬱は、世間に生きる一般の市民の病ではなかったのかもしれません。ある超俗的な立場で普遍的なものを問い尋ねる人の病だったような気がします(この辺は想像でものを言っています)。

ただ、そうした高踏的な鬱であれ、サラリーマン的な鬱であれ、なにか自分の内側に作った「ものさし」というか「則」のようなものとの齟齬のようなものがあるのではないかという気はします(真面目な人ほど鬱になりやすい・・・)。

- - - - - - - - - - - -

(オマケ)
鬱を「病気だから仕方ない」で済ましてしまうのがよいのかどうか。
 ・がんばらなくていい。
 ・今のままの、ありのままのあなたでいいのです。
 ・とにかくお医者さんのアドバイスを聞いて薬を飲みなさい。
の3点セットが、鬱を直す唯一の道のように言われます。
これでなんとか症状を抑え込んで、労働市場に帰還したところで、その人は救われたことになるのか。
これは一種の洗脳なのではないか。
「そのままの君でいいんだよ」教(どう考えても退嬰的です)に帰依する以外の経路で、生き抜く道はないのか。

108千手★:2007/10/12(金) 17:46:08
あるテキストから:

「映画もだめ。人物も三流。立派すぎてつきあいきれない。だいたい分かってもないくせにニタニタすんな。」

出典も何もお教えしません。紹介する意図もです。

109Pentatonics★:2007/10/13(土) 23:33:55
当分自重します。

110千手★:2007/10/23(火) 02:04:53
原田禹雄さんから次の歌をいただいた。私の「山中智恵子論<十>」の縁でだ。
まずはここで紹介したい。

  とりとめも
    なき夢はてて
      悲しみは
 夜半にめさめし
   身にしむるなり

「悲しみ」がうらやましい。

111千手★:2007/11/01(木) 20:45:38
今年の1月から『日本歌人』誌に連載していた拙論、「山中智恵子論」が10月号をもって完了しました。
それで、本日11月になったことで、わたしのホームページにUPしました。

「山中智恵子論<9> ノヴァリス・巫女・をなり神」
http://www2.biglobe.ne.jp/~naxos/ChiekoYn/YamanakaChieko09.htm

「山中智恵子論<10> 歌のちぎり・その掌に死ねと・果無山」
http://www2.biglobe.ne.jp/~naxos/ChiekoYn/YamanakaChieko10.htm
です。
 この連載が、本年のわたしの最も大きい仕事でした。
 閲読いただければ幸いです。

112千手★:2007/11/05(月) 20:58:12
あのもっそりしたティンパニーが一番いい。一番おもしろい。
クナッパーツブッシュの話。ベートーヴェン8番の話。ブラームスの2番でも。
やおら出てきて、それまでの一応は存在しているテンポを全く無視したように、
自分のテンポとリズムで叩くのだ。
このティンパニがクナッパーツブッシュの「指揮」なるものを一番よく表わしているのではないだろうか。

113千手★:2007/12/13(木) 09:09:35
>>108
出典を示します。
佐藤真「東北の壁」、『東北学』Vol.5、p.256

114千手★:2007/12/13(木) 09:28:06
鬱病……
身近だったYさんのことから考えれば
引受ける必要のない責任まで引受けてしまっていたことが大きすぎる負担になっていたのだと思う
しかしそれを選んでしまう環境があったと思える
誰かが引き受けなければならない問題が生じていた
別の仕方で解決すべき問題だったと思うのだが

115千手★:2007/12/13(木) 09:46:26
自己意識の問題として問題を整理しても何の解決にもならないのではないか。
病気認定は、荷下ろしにはなるのだろう
「もう頑張らなくていい」という安心。
しかし過剰な義務と責任がある人にかかるようにする環境がありうる。
ダブル・バインドにさせられることもあるだろう。
ちょっとした意地悪で人をダブル・バインド状態に落とし込むやり方があるだろう。

116千手★:2007/12/16(日) 22:24:21
>>113
>>108が佐藤さんの著作からの引用だということを知らない、あるいは思いもよらない人と
相手をしているとは思いもよりませんでした。
佐藤さんの出発点になっている経験のはずです。

117千手★:2008/01/06(日) 21:43:18
>ぐずぐずしていれば、いずれ、しみったれた臆病風に見舞われる……
  『地獄の季節』

このスレも過去ログ倉庫に入れようと思っています。

118千手:2008/03/16(日) 02:44:55
[短歌]

○ 笠ヶ岳純白のその雪嶺は連なり悲し雨降りしもの
               拙詠

どうでしょう?

 (このスレッド、生かしておきます)

119千手:2008/03/18(火) 01:27:45
>>118
訂正
雨→天

120千手:2008/05/17(土) 01:12:20
わたしがこれまで見た能の中で、最も素晴らしいと思った舞いは、春日御祭でみた宝生太夫さんの舞いだ。
羽ばたく腕の振りが宇宙を舞い行く舞いに見えた。

121千手:2008/06/01(日) 00:50:40
私のブログにアップしたものを再録しておきます。
http://25237720.at.webry.info/200805/article_5.html

 そして畑中の道を旅人は歩きぬ*

 そんな詩行が島崎藤村の詩の中にあったとおもう。こんな情景が自然に浮かぶようになったのは一乗寺向畑町(京都市左京区)というところに長く下宿していたせいだ。大学に合格して、藤沢(神奈川県)の家から、京都に日帰りで行って、大学の学生課で斡旋してくれているところを見て、自分で決めてきた下宿だ。西村アパートという名の学生アパートだ。二階の西の端の四畳半の部屋で、部屋の扉には、しごく簡単なものだが一応鍵がかかる。窓は北向きで、そこから北の方に畑が広がっていたのだ。その畑の中にはあぜ(畦)があり、夕方の買い物時など、そこを地元の人がよく歩いて通っていた。その細いあぜ道をわたしは長いこと通ることがなかったのだが。
 そのアパートに住んだことは、わたしにはとても幸せなことだったとおもう。その窓からは、少し身を乗りだせば右手に比叡山が見える。頂上まで見えるのだ。わたしが半紙と墨と硯と筆を買って、南画風の絵をまねて画いたりしていたのも、その比叡山に見惚れていたためだ。わたしが自分で画きたくなって何かを画いたのはそれが最初のことだった。大雅を模範にして画いたと言えばかっこいいが、実際はまったく画き方の初歩も知らない下手くそな画だった。だがその入学した年の十一月に姉が亡くなったときには、その中の一番よいものを棺に入れさせてもらった。

     ◇   ◇
 
 その窓からは大家さんの畑が近くにあった。大家の西村嘉三郎さんはまったく無口で、用があってアパートの隣のその家を訪ねたりしたときには、すぐに奥さんを呼びにゆくのだったが、多分京都の中でも田舎の訛りというのがあったのだろう、その「家のを呼んでくるからちょっと待っててくれ」という意味のはずの言葉も、ほとんど聞き取れなかった。ほんとうにまっすぐなお百姓さんという印象の人だった。背は高かった。その大家さんが、夕方時分、畑の中で、鍬の小尻に上体をもたれかからせるようにしてじっと動かずにしているさまをよく見掛けた。まるでミレーの画のように、である。もう今日の仕事を終える時刻になっていたのだろう。何ともいえず美しいのである。
 その大家のおじさんは、だがきっと何かを見ていたのだ。何かをじっと見ていたのだ。それが何かはよくわかる。美しい夕方の景色である。そういえばいつも西の方を見ていた。西日に照らされる畑の土や、作物や、畦の木々や、そして西方の山々や。そして夕焼けの空と雲。美しい景色がいつもあった。あたりまえのようにあった。そして疲れ果てるまで畑仕事をして、そうしてほっとして見る夕景は、人生そのもの、人生の喜びそのものといえるほど美しいものであったに違いない。わたしはその姿にいつも人生の充実というものを感じていたのだった。こうしてわたしはミレーの絵を見る目を得ていったに違いない。
 そしてもう一つだ。ヘルダーリンの次の詩だ。

   そして小川にはよくつくられた橋がかかっている。  (「春」)
  Und &uuml;ber einen Bach gehen wohlgebaute Stege. ("DER FR&Uuml;HLING"**)

 このヘルダーリンの晩年の詩の素晴らしさも、この西村アパートの窓の景色から学んだものだった。(京大)短歌会の友人だった鮫島君とこの詩の訳のことで少し話しをした覚えがある。「橋がかけられている」と訳したらどうだろう。その方がよいのではないか、とわたしが尋ねた。彼は、そのまま"gehen"のままのほうがもっとよくわかる、と言った。それはそうなのだ。よく作られた小橋がいくつか通っていること、そのことはとてもすごいことなのだ。神聖な事なのだ。



* 藤村の詩は、「千曲川旅情の歌」の、

  旅人の群はいくつか
  畠中の道を急ぎぬ

の詩句のことだった

122千手:2008/06/01(日) 00:51:52
(つづき)
** ヘルダーリン晩年の「春」の詩を上げておく。できれば近々日本語訳を試みたい。

DER FR&Uuml;HLING

Wie seelig ists, zu sehn, wenn Stunden wieder tagen,
Wo sich vergn&uuml;gt der Mensch umsieht in den Gefilden,
Wenn Menschen sich um das Befinden fragen,
Wenn Menschen sich zum frohen Leben bilden.

Wie sich der Himmel w&ouml;lbt, und au&szlig;eonander dehnet,
So ist die Freude dann an Ebnen und im Freien,
Wenn sich das Herz nach neuem Leben sehnet,
Die V&ouml;gel singen, zum Gesange schreien.

Der Mensch, der offt sein Inneres gefraget,
Spricht von dem Leben dann, aus dem die Rede gehet,
Wenn nicht der Gram an einer Seele nabet,
Und froh der Mann vor seinen G&uuml;tern steht.

Wenn eine Wohnung prangt, in hoher Luft gebauet,
So hat der Mensch das Feld ger&auml;umiger und Wege
Sind weit hinaus, da&szlig; Einer um sich schauet,
Und &uuml;ber einen Bach gehen wohlgebaute Stege.

123千手:2008/06/17(火) 21:45:48
ペーター・ルーカス・グラーフのあの昔のフルートソナタ(バッハ)が聞きたくて、CDを探していて(LPはあるのだが)
いたら、娘さんとの共演なのだろうか、面白いCDが手に入った。
CLAVES・50-2511だ。2005年の演奏らしい。
本当に聞きたいのは一曲だけ。ホ短調BWV1034の第三楽章だ。
あの静謐ななかに暖かさの沁み出ているような感じの演奏が気に入ってたのだが、この新しい演奏ははじめかなり違和感があったものの慣れてくると聴けるようになってくる。
昔のものに比べればけれん味のあるところがかなり目立つのだが、だがヨーロッパ人の演奏と思えば聴けてくる。
ソロの曲はどれも非常によい。そして上記のホ短調第三楽章アンダンテも聴けるようになってくる。フレーズのめりはりはいい感じに出ていると思う。
そこでニコレ/リヒターの演奏を出してきて聞いたのだが、あのニコレの、殺気を匂わせたままそれを出してしまわないような演奏は、何か非常に聞き苦しいものだった。この演奏が現代でもこの曲の演奏の標準になっているものだと思うが、聞いていると雰囲気だけの絵を見せられたような気になってしまうのだ。ニコレのこの演奏は今や聴けるものではないのではないだろうか。
残酷なものだ。三十年前には一世を風靡していたはずだが、今や過去に信じられたものの遺物にしか感じられない。
どうしてなのだろう。多分グラーフの昔の演奏は今でもきちんと聴けるはずだ。
最も深い感覚、最も深い思考、それ以外のものは何の価値も無くなってしまうのだ。
もっともバッハがニコレの最高の仕事ではないのだと思う。多分シリンクスの方が彼の最高の演奏なのだと思うので、そのことは付け加えておきたが。
しかし、ニコレもリヒターもはっきり古びてしまっている。
残酷なものだ。たとえばそれらより約10年後の演奏だが、グールドのイタリア・コンチェルトは今も何一つ古びることなく私の耳と胸に掴み掛かってくる。

124ほかいびと:2008/06/17(火) 23:20:35

去年からペルセポリスを見るときは弟に借りた
VLADIMIR ASHKENAZYが弾くピアノの
「SCRIABIN piano sonatas」を
PCで聴きながらいろいろ考えたりしています。
ピアノの鍵盤を12色の色で染め表したという作曲家です。

シュトックハウゼンについてはBEATLESの「サージェントペパー・・・」に
出てた人ということくらいしか知らなかったのですが、
宮澤賢治と共にこれらの芸術家は最近は「共感覚」の保持者だということで若い世代に知られていたんですね。

クラッシックは不得意ですがグールドの「ゴールドベルク変奏曲」だけは
有名な録音のやつを以前何度か聞いてましたが、
晩年に録音されたLPのも最近聴いていました。

トルコ行進曲もそうですがゆっくり味わい深く演奏したことが、
クラッシックに興味の薄い私のようなものにも良さが伝わってくる
原因だろうかとおもっていました。
しかし、晩年の「ゴールドベルク変奏曲」は
意識的に味わい深くゆっくり弾いてるというのを少し越えた、
なんていうか、情感豊かな無意識が弾いてる、
自意識なんかもうないグールドの自律神経が弾いてるとでもゆうような、
おだやかさを感じました。

雪舟の画にもその辺に大事ななにかがあるのかもしれませんが、
演奏でも鑑賞でも無意識状態にあるというのことはベストな状態なんでしょう。

125千手:2008/06/18(水) 19:37:08
>>124
ほかいびとさん、グールドはぜひとも聞いて下さい。雪舟と関係があるかは分かりませんが。
シュトックハウゼンはなかなか聞けないと思いますが、ともかく機会があったら「短波」をぜひとも聞いて下さい。少し劣った録音でもいいなら私の方からCD−Rをお送りすることもできます。
それで少し話しは違いますが、>>123のニコレのBWV1034の演奏、よく聞いてみると私がすきでない第一の理由が分かりました。
ほとんどすべての音をビブラートをかけて吹いていることです。それがとても不快なのです。
何を聞かせたいのか、という疑問がたまってしまうのです。隅々まで不要な色づけが施されているように聞えるのです。そしてバッハから音楽として本質的な何を聞取っているかというとそれがあるように思えないのです。
グラーフの旧版の方も聞いて見ましたが、ファゴットを使った音色構成も落ち着いて素晴らしいのですが、アンダンテに関してはグラーフの新版が一番納得して聴けます。
旧版の方がLPで今一歩よい音で聞けないせいかもしれませんが。
グラーフの新版はちょっとオーバーな表現が無いわけではないのですが、それでも彼が「バッハから掴んだもの」ききとることができる気がします。
こんなことも素人談義ではありますが。

126ほかいびと:2008/06/19(木) 07:30:11
>>125
「短波」のご紹介ありがとうございます。

シュトックハウゼンについては、
アメリカの動画サイト「YOU TUBE」で去年からたくさん見てます。
直感音楽はまだ良さがわかりませんが
「オクトフォニー」は概念として面白いなとおもいました。

127千手:2008/06/20(金) 00:28:43
>>126
むむ、なんとも研究熱心な。
けど、直観音楽は聞くものそして演奏するものです。
音楽家になる最短のコース。

次の演奏日がなかなか組めないでいます。
6月29日(日)は空いているんですが、どうでしょう?
もうひとつの案は、曜日に関係なく、毎月9日(命日)を直観音楽演奏日にするということです。

みなさんからご意見をいただければ幸い。

128毛蟹:2008/06/26(木) 01:42:37
千手さん、皆様、お久しぶりです。
突然ですが、近頃気になるニュースがありました。
「磯にクーラーボックスを忘れたから取ってきて」・・・釣り人からの110番通報。
「子供を病院に連れて行きたいが、夕飯をこしらえていて手が離せないから連れて行って」・・・母親(たぶん)からの119番通報。

こういった事例が急増しているとのこと。これはどういうサインなんでしょう。社会的なセーフティーネットも平気で食いつぶす。日本は(たぶん世界も)餓鬼地獄になりつつあるようです。子供たちには本当に過酷な時代が到来しました。

6月29日の直観には参加できます。毎月9日というのは、夜遅くでないとメンバーが集まらないでしょう。やはり練習後に次の練習日を決めるという従来の方法がいいのでは。

129Pentatonics:2008/06/26(木) 10:18:28
29日であれば参加できます。
7/9であれば参加できません。

130千手:2008/06/26(木) 22:41:55
ご意見ありがとう。6月29日(日)の18時からやりましょう。
場所は京都造形芸術大学陽陽館。

このところ「神さま」に会う道を考えていました。一つヒントが見つかって。まだ途中ですが。
多分「刃物研ぎ」でも「神さま」に会えるような気がします。
感覚の研ぎが必要です。演奏のレベルを一段上げるためには。

演奏日、急ですがメーリングリストで回します。

131Pentatonics:2008/06/28(土) 12:53:03
諸般の事情により、欠席させていただきます。
すいません。

132千手:2008/07/09(水) 11:37:56
ペーター・ルーカス・グラーフは狂暴なひとなのだ。BWV1034を聞いていて、その第三楽章の一ヶ所、一瞬、それを感じた。
それは非常に強いものだ。
穏やかさと静謐を基調とした演奏が何故か、ということをも一瞬のうちに理解させてくれた。
ここにはグールドが弾く克明な緩徐楽章に匹敵するものがある。

133千手:2008/07/11(金) 22:32:23
>>124
>トルコ行進曲もそうですがゆっくり味わい深く演奏したことが
これ、わたしとは印象が違います。
「ゆっくり」、それで世界から出てしまうのです。そしてその世界の外の小径を
、その辛さともども、克明に辿りなおしているのです。辿っているのです。
 グールドの「ゆっくり」、そこにはいつもひとり我慢して進まなければならない道を進む辛さがあります。この辛さを辿った先にしか、善はなく、歓喜はないのです。
そんなメッセージをいつもグールドからは聞き取ります。禁欲の辛さ、我慢の辛さ、そしてそこに見えるもの。それが「グールドのゆっくり」です。わたしにとっては。

134千手:2008/07/25(金) 07:13:22
拙論:「鶴見和子歌集『回生』」を紹介します。これもいつ削除するかわかりません。

 ある方から鶴見和子の歌集『回生』(藤原書店)を送っていただいた。入院して歌を作りはじめたということは新聞などで紹介されていて知っていたが、実際に目にしたことはなかった。
 手にとって読んでみると、素晴らしい。その一端を紹介してみよう。こんな歌たちだ。
一、我もまた動物となりてたからかに唸りを発す これのみが自由
二、水、水、といいてウランの火に灼かれしヒバクシャの惨苦あらせてはならぬ カタストロフィ カタストロフィ
三、楡若葉そよぐを見れば大いなる生命(いのち)のリズム我もさゆらぐ
四、猿も鹿も猪も棲むとう七沢に片手片足(へんしゅへんそく)の我 山姥(やまうば)となれり
五、玄関の扉(とびら)開けば山々を渡り来(こ)し風はそこに待ちてあり
六、フル・スピードもて燕(つばめ)自在に飛び交えど衝突せぬを不思議と思う
七、花道を杖もて歩む静(しずか)われ 昔を今になすよしもがな
八、おおらかに死を語りあう友のありてかがよい熄(や)まず我が老いの日々

135<削除しました>:<削除しました>
<削除しました>

136千手:2008/07/25(金) 07:59:52
<承前>
 こうして八首を上げてみると、この歌集の特質の幾つかは見えてくる気がする。第一首にあげた「我もまた」の歌は、ベッドに拘束される入院という状態の中でも自分に思いっきり自由にできることを発見するのである。それが「唸る」こと。ただこの自由を得るためにはみずから人間の枠を壊し、動物への変身を果たさなければならない。作者はそれを断然やってしまうのである。その素晴らしさ。その肯定的な、生ることへの明確な姿勢に瞠目させられる。
 「水、水」の歌も入院中のみずからの渇きをもとに発想されている。ヒバクするとはこうして渇くことなのだ。「ヒバクシャ」を片仮名で記す修辞は、一瞬思考を中絶させ、読者を「ウランの火に灼かれた」ひとびとの現実の苦しみに直面させてくれるものだ。「被爆者」といってしまったら、あの広島、長崎の被爆者のことね、とあっさりと出来合いの概念だけでことを捉えてしまうだろう。それではあのたまらない「渇き」に、直面しがたくなってしまうはずだ。必ずみずからの身体感覚を出発点にして、そこから物事を考えてゆくこと、この姿勢がすばらしい。ニーチェ的な方法だ。
 三首目の「楡若葉そよぐを見れば」の歌には直観音楽的なものがある。あとがきで言われる「経験と歴史とをへて到達した「実存」ともいうべき新しい境地」とは、まさにこの一首の中に言われていることだ.。宇宙のリズムを感じ、そして呼応する、そういう営みだ。この世界がどれだけ豊かなものであるか、ご存命であればお伝えしたいことだ。
 山姥宣言の歌は、痛快なものだ。みずからを山姥と名乗って恥じないひとは極々まれだ。半身不随の異形になって、作者ははじめてその地位を手に入れた。山姥になるとは、悲惨と栄光を同時にわがものにすることなのだ。
 五首目の「山々を渡り来し風」の歌はこの上なく爽やかな歌だ。五月に時々感じることのできるその風は、山々の緑を渡って遠くからやってくる風で、日本の季節の味わいの最良のものの一つのはずだ。この風を、わが師、山中智恵子も歌っていた。「風とほくわたらふ五月」と(『虚空日月』)。この歌集のこの歌で、わたしははじめて山中智恵子の歌った五月の風が再び捉えられたと感じた。
 六首目の、フル・スピードもて自在に飛び交う燕の歌に関しては、わたしは多少の疑問を感じるところがある。これもまた五月であろう。この国に渡り来て、巣場所を見つけ、そして全力で飛び交う燕たち。それもまた五月のめざましいできごとであるが、それを彼ら燕たちはペアリングの行動としておこなっているのだ。激しさも当然である。全力、全速力も当然である。伴侶を得た喜びもそのフル・スピード飛行にはある。この歌で物足りなく思うのは、そのペアリングの必死と歓喜を作者が見落としているところだ。わたしはまた燕の歓喜も感じ取りたいと思う。
 七首目の「静」の歌はまことに巧みに詠まれた歌である。左注によれば作者は国立小劇場で「賤(しず)の苧環(おだまき)」を観たという。静御前の思いと我が思いを重ねてうたう歌は、どこかに(詩歌管弦の)遊びの愉しみを隠していて優雅である。
 わたしが先に引いた最後の八首目の歌である。「かがよい熄まず我が老いの日々」。こういう姿勢をもってみずからの老いを祝福する姿には感動するほかはない。われらはみなこうありたい。われもまたこうありたいと思う。
 最後にもう一首だけ付け加えておこう。多分目立たない歌である。
・ほとほとと病室の扉(と)を叩く音 三日つづきて直輔昇天を知る
 この「ほとほと」は折口(信夫)が説くまれびとの来訪を告げる音だろう。こんなところに、こっそりと、さりげなく、作者のしっかりとした民俗的感性をみることができる。作者はたぐいまれな稟質をもった方なのだと知られる。
   ◇   ◇
 こうして数首あまりを取り出しただけで、この歌集が、生まれることの稀な、秀逸な歌集であることがわかるだろう。ここには感覚と身体によって感得されたのっぴきならないことだけが歌われている。歌い方は過剰、過度なところがまったくなく、すべてが的確を旨として歌われている。この歌集は、わが国の歌壇にとって、またわが国の歌の歴史のなかで、記念され、そして後の歌人によって必ず学ばれるべき一集である。このような歌集が生まれ、そしてそれに触れられたことを、わたしは率直に喜びたい。

137千手:2008/07/25(金) 08:01:36
>>135 一ヶ所訂正のため削除しました。

138毛蟹:2008/07/28(月) 01:46:16
>134,136
ご紹介頂いた歌ですが、僕には「うなり」を発することも、「いのちのリズム」を見出すこともできませんでした。つまりこの歌人が感得した(かもしれない)「のっぴきならない」ことを僕の身体で追体験することはできませんでした。
本当に「のっぴきならない」ことが、変身の瞬間が、この歌人に訪れたのでしょうか?「うなり」の質(それはどんな声だったのか?)の記述、「リズム」の質の記述はありません。葉がそよぐリズムが「のっぴきならぬ」ものであったのなら、その「のっぴきのならなさ」を記述しなければリズムを捕捉したことにはならないと思います。

139毛蟹:2008/07/28(月) 01:52:06
僕が鈍いのでしょうか。確かにこのごろ意図的に感度を下げて想像力の働きを抑えていますが。


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