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詩・歌・管・弦 part 2

1千手★:2007/07/20(金) 23:01:14
「詩・歌・管・弦 part 2」を作ります。やはりわたしたちの思考はこのまわりをまわっている。

37千手★:2007/08/05(日) 00:23:11
p.23に関しては、浸透のしあいとして時が流れるということはわかる気がします。
しかしそこに「質的多様性」が出てくるとよくわからなくなる。「純粋持続とは、
明確な輪郭もなく、……、融合し合い、浸透し合う質的変化の継起でしかありえないであろう」(p.24)
ということわかります。そかしこのことは「間(ma)」とどう関係するのでしょうか?
こうした純粋持続において「間」はどう定義されうるのでしょう? あるいは、
純粋持続において「間」はどのように構成されうるのか?
punktierenによる概念構成に役立つものがそこから汲み出せるでしょうか?
何かは汲み出せそうですが、それは持続とリズム的差異を総合することによってだと思います。

38E嬢★:2007/08/05(日) 00:31:43
>>35
>「無に存在を贈与する」ということがそもそも理解できない。
  無が何かを受け付けるのか??

千手さんがいうpunktierenの行為につながるのではないでしょうか。
音のない空間=無に「音」という存在を与えること。
そこから、無は「音」の存在を受け付け、音楽が始まると思います。

第一音の使命が、無に存在を与えることであるのなら、
それは、音でも、色でも、言葉でも、punktierenの行為が、
「贈与する」につながるのではないでしょうか?

39E嬢★:2007/08/05(日) 00:42:44
>>37
ここは、千手さんとまだ整理されていない部分なのですが、
わたしの考える「間」が、音のない音の部分としてとらえる時、
「間」はリズムに書き表せない技巧的表現の空間とします。

ひとつの音楽が純粋に持続させていくには、「間」は表現を与えると考えるからです。

音に対して間は、融合し、浸透しなければ、音楽を持続させることができず、
また、間の存在がなくては、音は自然消滅し、音楽を持続することができないと考えるからです。

この場合、「質的多様性」は、
芸術的に豊かな表現を行うために「間」は多様化されるのではないかと考えたからです。

40千手★:2007/08/05(日) 00:53:12
>>38
私の述べ方が悪かったのですが、第一音はすでに存在するのです。
そしてまだ言っていないのですが、第二音によって第一音との「間」が形成され、
第二音が自己表示するリズムの中に第一音が組み込まれるのです。
>>35の引用少し間違ってましたね。「そこのは」→「そこには」。
第二音が第一音に対する贈与だというのならその通りだと思います。
リズムによる異質性の贈与であり、異質なリズムの贈与であり、
それは同時に浸透でもあると言えるでしょう。
でもそれは無に存在を与えるというようなことでしょうか? 
そうではないだろうし、そうではないからこそベルグソンと何らかの親近性があるのでしょう。

41千手★:2007/08/05(日) 01:00:25
継続+異質の湧出=持続
という風にp.26の論は読めますが。

キリスト教的な神による創造行為の説明であるp.15の論議を
持続に近づけて解釈しようとするのは、議論が混乱するだけなので、止めた方がいいと思います。

42E嬢★:2007/08/05(日) 01:11:44
>>40
>第一音はすでに存在するのです。

たとえば、なにかの絵が完成するには、真っ白なキャンバスの存在があるとは思うのですが、
punktierenから、白紙の状態を破壊する最初の色が必要だと思います。
punktierenの行為を行うのは、
創造するひとのキッカケがなければ始まらないと考えるからです。

最初から存在が認められているのでは、創造は生じないと思います。
画家の最初の一筆、指揮者の最初の一振りなど、
無を破壊する行為としてpunktierenがあるのではないのですか?

43E嬢★:2007/08/05(日) 01:12:56
書き込むのが遅かったようです。
>>42は、違っています。

44千手★:2007/08/05(日) 01:17:33
私にとって重要なのは、「punktierenを鋭くすること」と「リズム的差異(手足のリズム/分子のリズムetc.)」との関連を
「間」を作るという問題において明確にしてゆくことです。

E嬢のいう「間」は、「ゆらぎ」の中のpunktierenの問題として整理できそうな気がしています。
一応基本的な間があって、それをどう生かすかというような問題として。
直観音楽の問題は、基本的な間というものが予め一切存在していないところで、「間」を創造してゆく
という問題だと思います。
あるいは「基本的な間」というものが(音楽的意識の中で)想定されれば、それを鮮明に破壊し、「創造的なエクスタシー」
へと覚醒させてゆくことでしょう。

45千手★:2007/08/05(日) 01:20:08
ちょっと本を見ていたらあったのですが、シュトックハウゼンは1966年のお水取り
の時に、東大寺に来ているのですね。連行衆と一緒に写っている写真がありました。

46E嬢★:2007/08/05(日) 01:20:13
>>41
Creator(創造)に冠詞がつくと、〈神〉になるから、ヤヤコシイのだと思います。

47E嬢★:2007/08/05(日) 01:23:34
>>45
う〜ん、恐るべしシュトックハウゼン・・・
日本的直感音楽の偵察でしょうか?

48千手★:2007/08/05(日) 01:34:54
紹介しておきます。
Musikalische Meditation ist keine Gefühlsduselei, sondern Überwachheit und --- in den lichtesten Momenten --- schöpferrische Ekstase.
(K.Stockhausen, AUS DEN SIEBEN TAGEN)
「音楽的メディテーションとは、感情的なたわごとではなく、超覚醒であり、そして---最も輝かしい諸モメント(諸瞬間)においては---創造的なエクスタシーなのである。」(拙訳)

49千手★:2007/08/05(日) 01:36:48
>>48
訂正:
schöpferrische→schöpferische

50千手★:2007/08/05(日) 01:58:00
東大寺のすごさを感じます。
そしてシュトックハウゼンの大きさを。

51千手★:2007/08/05(日) 11:15:58
>>48
の「創造的エクスタシー」がシュトックハウゼンに直観音楽にはあり、
それが彼の音楽の類を絶した魅力であることであることに同感できるなら、
その直観音楽は、
ベルグソン的な「持続」の現在における異質性の湧出のところの、
絶対的異質性の湧出を、現実に形あるものとして見せてくれる、ものであり、
それは創造的な瞬間であるということ。
そのような見通しをもって、ベルグソン=篠原理論は読んでゆけるだろう、と思います。

52千手★:2007/08/05(日) 15:38:48
異質性というと、お水取の音響。突然遠慮会釈もなしに、音が出て来てしまう。
ほら貝も、澄んだ音も、ガチャガチャいううるさい音も、下駄の踏み音も、何もかもが、遠慮なしに
突発して、襲ってくる。
異質性の闖入で、あんな楽しいものはない。

53千手★:2007/08/06(月) 00:45:40
こういう問いが出せるのでしょう。
創造的エクスタシーにおいて生じる絶対的な新しさはどんなリズム的分節も絶したものなのか。

yes、と答えたい気がします。

それを「無限に」は語っている!
「自分は好きなだけ多くの時間と空間をもっている」という確信をもって弾かれる一つの音は、分子のリズム、原子のリズムを越えた
新しい端緒を開きうるはずです。新しい端緒を開くこと、それが創造的エクスタシーであるはずです。

54千手★:2007/08/06(月) 00:49:10
ベルグソンのいう「浸透」は、この(端的な創造的)端緒の後の「調整」のような作用のことではないでしょうか。


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