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詩・歌・管・弦 part 2
91
:
Pentatonics★
:2007/10/06(土) 08:10:22
>中島みゆきの歌では「生きていてもいいですか」は、
>人にききたい、人に尋ねたい、という形をとっており、おそらくこれがほんとなのです。
>その問いにだれも答えてくれない。「yes」、とも「no」とも。そのことをもっと深い「no」として
><私>は受け取るのです。
そうでしょうか。鬱者には誰もが(口は出さなくとも)「no」と言っているように感じていると思います。
「なすべきこと」が出来ず、「今まで出来ていたこと」も出来なくなる。
世の普通の鬱者は、それまで自分が世の中と共有していた(と思われる)に照らし、
自分のそこからの脱落を感じ、己の無能力(実際に能力は落ちます)を自覚し、
そこから自身の無価値感・無意味感に苦しむのです。
この落ち込みの過程は壮絶な独り相撲ではありますが、そこにはほとんどの場合「社会が決めたノルマ」とか「能力基準」
より正確にいえばそれらがその人に内面化されたものが関わっています。
それは、「ものさし」の形で単純化された社会なのかもしれません。
鬱者自身はその「ものさし」に問い訪ねては
「no」を返される、という経験を繰り返しているのです。
この「no」が、「より深い」noであるかどうかは、わからないと考えます。
もしかしたらまちがった「ものさし」を参照しての早合点に過ぎないのかもしれませんし。
これを「深い」問いに差し替えられるのは、一部の優れた人だけでしょう。
一人称のうちで「no」を聴くことができるのならば、それはすでに鬱病ではないような気がします。
それは力強い回答というべきでしょう(あるいはもっと先に行った病です)。
多くの鬱者は手近な「ものさし」に取り替えることで、やりすごそうとします。
繰り返される転職や「自分探し」は、そういうことの現れなのだと思います。
「深いno」として受け取るには、この「ものさし」を自家製のものに入れ替えることが多分必要なのでしょう。
ほとんどの鬱者は、外部の「ものさし」をおびえながら参照していると感じをもっているはずです。
そしてそこでは「客観的」なもの(たとえば「成績の数値」など)に自分自身が浸食されていき、
自らの主観は貶められ希薄になっていっています。
私の考えでは、鬱病は三人称的な一般論を生きることであり、遠方の第三者の視線を恐怖することです。
これを一人称で語ることには困難を感じます。
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