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エスペラント改造論

268松戸彩苑:2008/06/07(土) 14:16:16
>>267 の続き)

それから、1900年ごろに執筆されたと予想されている「国際語思想の本質と将来」のなか
にも、次のような箇所がありました。

  もっと便利な形にした方がよい単語がいくつかあるのは事実だ。だが、そういう単語はご
  く少数だ。エスペラント以後に現れた多くの言語案のどれ一つを取っても、語彙の少なく
  とも六〇パーセントはエスペラントと同じ形になっていることを見れば、この点がよく分か
  る。さらに、付け加えれば、残りの四〇パーセントの単語がエスペラントと形が違ってい
  るのも、言語案の作者が国際語の種々の重要原則に留意しなかったとか、まったく必要
  もないのに語形を変えたとかいう理由によるにすぎない。だから、容易に出て来る結論
  としては、もっと便利な形にするためエスペラントとは異なる語形になった単語の実際の
  数は一〇パーセント前後を越えることはないと言える。だが、このようにエスペラントの
  文法はほとんど変える必要がなく、語彙も一〇パーセント程度変えればすむとしたら、か
  りに新人工語が創造され、あらゆる分野で実用に役立つとして、そういう新しい人工語は
  いったいどんな姿となるのだろうか。そういう言語は、じつは新言語ではなく少し修正した
  エスペラントにすぎないことになるのではないか。したがって、国際語の将来に関する問
  題は、エスペラントを変更なしに採用するか、それともいくぶん修正を加えて採用するか
  という選択の問題にほかならなくなるだろう。だが、こういう問題は、エスペランチストに
  とっては、もはやまったく意味がない。彼らは、個々の人間が思いつきで勝手にエスペラ
  ントを変えることに反対しているだけなのだ。だから、権威ある会議や学士院のような機
  関がエスペラントに部分的修正を加える決定をしたら、エスペランチストはその決定を歓
  迎しても何も損にはならない。そうなっても、新しい難しい言語をはじめから学び直す必
  要はなく、一日か長くても数日かけて修正部分を習得するだけですむのだ。

  我われエスペランチストは、自分たちの言語がぜったいに完璧で、それよりすぐれた言語
  は存在するはずがないなどとは、まったく主張していない。事実はその反対だ。権威ある
  会議が開催され、その決定が全世界に効力を有することが分かれば、エスペランチスト
  たちは、言語全体の見直しや有益な改良を任務とする委員会の設置を、みずから進んで
  その会議に提案するであろう。そのけっか、エスペラントが原型をとどめないほどに変更
  されても、異議はないのだ。だが、そういう委員会にその仕事が果たしてできるのか、際
  限もなく長い年月がかかるのではないか、委員の合意によって首尾よく決着がつくのか、
  できあがった言語は実際に役に立つかなどについては、まったく予想がつかないのが現
  状である。したがって、もしその委員会が事実上あらゆる点で完結し試験ずみのげんに
  ある言語をしりぞけ、問題の多い将来の言語を採用するとしたら、もちろん、それは愚か
  で許しがたい行為だ。だから、エスペラントは不適当だという結論に達したとしても、選定
  会議が決定できることは、たかが知れている。つまり、さしあたってエスペラントをいまの
  ままの形で採用し、これと並行して委員会を任命して、エスペラントの完成か、またはもっ
  と理想的な新言語の作成にあたらせる。そして、委員会の作業が首尾よく終わり、できあ
  がった言語がいろいろと試してみてじゅうぶん役に立つと分かったときに、そのとき初めて
  「現在の形の国際語は時代おくれだから、その代わりに新しい形の言語が登場した」と発
  表できるのだ。選定会議はもっぱらこのように運営されるべきだということに、良識ある人
  なら誰でも同意するだろう。したがって、未来の世代の言語がエスペラントではなく、これ
  から作成される言語になるとしても、その新言語はかならずエスペラントを経由して作られ
  るはずなのだ。

  (同書85〜89ページ)

269松戸彩苑:2008/06/07(土) 14:18:31
>>268 の続き)

このなかで目を引くのは

  権威ある会議が開催され、その決定が全世界に効力を有することが分かれば、エスペラン
  チストたちは、言語全体の見直しや有益な改良を任務とする委員会の設置を、みずから進
  んでその会議に提案するであろう。そのけっか、エスペラントが原型をとどめないほどに変
  更されても、異議はないのだ。

という部分と

  だから、権威ある会議や学士院のような機関がエスペラントに部分的修正を加える決定を
  したら、エスペランチストはその決定を歓迎しても何も損にはならない。そうなっても、新し
  い難しい言語をはじめから学び直す必要はなく、一日か長くても数日かけて修正部分を習
  得するだけですむのだ。

という箇所だと思います。

ということで、ザメンホフは終始一貫して「決められた手順を踏んだ改造」について論じていた
んですね。
こういったことを知っていれば、>>263 で言及したザメンホフじしんによる改造案についても、
なんらおかしくないということが納得できると思いますね。

(終わり)

270松戸彩苑:2008/06/07(土) 16:22:11
これまでの話に、さらに補足をさせていただきます。

1910年にワシントンで開催された第6回UKでの演説のなかでも、ザメンホフは「エスペラ
ントの改良」について長々と論じていました。

  さて、国際語問題の決定のために、虚構ではなく現実的かつ強大な実力をもつ委員会
  が設置されたと、しましょう。すでに述べたように、そういう委員会が自分の決定をまっ
  たく無価値に終わらせたくないのなら、エスペラントかエスペラントによく似た言語を採
  択するほかはありません。きっといまのままの形のエスペラントを採択するはずだと、す
  でに申しあげました。そこで、委員会がそういう決定をしたくない場合を考えてみましょ
  う。ほかにどんな行動を取るでしょうか。委員会は、「生存能力のある言語の創造のた
  めには、学識ある人がいて、「じゃあ、作ってみよう」と言うだけでは不十分で、注文に
  応じて数週間のうちに仕立てることはできず、長期にわたる熱心な献身的な愛情のこ
  もった努力や実験や感情移入が必要なことを」よく理解するようになるでしょう。また、
  委員会は、「多くの人びとが久しい以前から尽力し、長年の歴史と完全な生命をもつ言
  語があること、この言語はりっぱに機能し、問題点はごくわずかしかないこと」を知るよう
  になるでしょう。そういうわけで、もし委員会がこの課題を真剣に取り扱うとすれば、ぜん
  ぜん新しい言語をあえて創造したり、存続できるかどうかもまだわからない言語案を採
  用したり、この問題でこれまで尽力してきた人びとに対し無用で軽率な反対行動に出る
  ような態度を取らず、エスペラントを採択し、必要な改変をほどこすことでしょう。

  では、委員会は、誰にこの改変を委託するのでしょうか。はじめの準備期間の段階では、
  どんな言語を選ぶべきかという問題を原則的に決定する必要があります。この段階では、
  委員会は、その決定を誰にまかせてもよろしい。ただし、無党派の良識人で、引き受け
  た責任をじゅうぶん認識している人を選ぶように配慮しなければなりません。しかし、採
  用すべき言語が選定され、改変をほどこす決定がなされたら、その仕事について誰の
  助言を求めたらよいのでしょうか。少しでも良識があり、学問的方法を理解している人な
  ら、「そういう仕事では、外部にあってその言語を知っている人ではなく、まず何よりも内
  部にあってその言語を知っている人に助言を求めるべきである。つまり、その言語のた
  めに最も尽力し、最もよく実用に使い、したがって最も経験が深く、実際上の不備を最も
  よく知っている人のことだ」と、言うでしょう、誰でもよくわかっていることですが、言語に
  改変をほどこす際に、ただ外見を目安にするだけで、その言語を熟知する人の助言を求
  めないのは、じつに愚かな行為です。委員会は、その課題を真剣に扱う気があり、陰謀
  をたくらむ人びとにそそのかされたのでなければ、そんなことはけっしてできないはずで
  す。

  そこで、委員たちがエスペラントに改変をほどこす決定をした場合には、どこを改変した
  らよいのでしょうか。たとえば、「この単語は一千万人が話す言語から採用したものだ
  から不採用にして、一億二千万人が話す言語から単語を採用しよう」とか、「実際には
  よく役に立つ"estas"(「〜である」)という単語は気に入らないから、"esas"に代えよう」
  などと委員たちが言うとしたら、それはまったく愚かなことで、真剣な人びとはきっと容認
  しないでしょう。長年のあいだ存続している言語に、単なる思いつきや、理屈にばかりこ
  だわり実際にはぜんぜん無価値な動機から大量の単語を改変するのは無意味なこと
  だと知っているからです。委員たちの役目は理屈をもてあそぶ言葉の遊びではなく、実
  際的な仕事だということを念頭におけば、改変を加えるべき単語や語形も、おのずから
  限定されてくるはずです。つまり、それ自体が無条件に不適切で、言語を使用する人び
  とにひじょうに不都合な単語や語形のことです。

271松戸彩苑:2008/06/07(土) 16:23:12
>>270 の続き)

  過去二三年間にエスペラントに対してさまざまな批判がなされてきました。何千という人
  たちがエスペラントに批判を加え、どんなに小さな欠点も残らず明らかになっています。
  しかし、そういう批判に目を通してみると、その大部分は個人的思いつきによっているこ
  とがわかります。ほんとうに実用的価値のある改変の提案はごく少数で、全部ならべて
  も一枚の紙切れにおさまり、半時間もあれば覚えることができるでしょう。しかも、このご
  く少数の改変提案のうち、最も重要な提案は一見すると改良のようですが、よく考えて
  みるとじつは改悪となるかも知れないのです。たとえば、学習者の悩みを取り除き普及
  を促進するために字上符や対格語尾を廃止したらどうかという提案があります。これは、
  すでに一六年前に私が提案し、げんに改革論者の大部分も要求しているものです。し
  かし、現在の時点で、しかも政府が設置し、したがって権限を有するはずの委員会の立
  場からは、こういう提案はまったく容認すべきではありません。なぜなら、それは、外部
  の傍観者の機嫌をとるためにエスペラントの内的価値を損ない、必要かつ重要な音声
  や自由な語順や明晰性を取り去ることになるからです。しかも、その理由といえば、印
  刷屋がいくらか経費の節約になり、初学者が多少てまがはぶけるというだけなのです。

  私たちに反対する人たちがエスペラントの信用を落とすためにエスペラントで書いた論
  文を見ると、ほとんどいつも気がつくことが一つだけあります。複数語尾の"j"が大量に
  使われていることです。この不幸な"j"は、美しいギリシア語にあってもあえて文句をつ
  ける人はいませんが、私たちに反対する人たちに言わせれば、エスペラントでは諸悪
  の根源になっているのです!

  簡単に言えば、みなさんがすぐわかるように、政府が設置する委員会がエスペラントに
  改変を加えることになり、その委員会が真剣に任務にとりくむとしたら、改変すべきとこ
  ろはごく、ごくわずかしかありません。委員会の改変を受けたあとのエスペラントは、そ
  れ以前のエスペラントと言語としてはまったく同じです。ただ現在の語形のいくつかが
  古語となり、もっと便利な語形に取替えられるかも知れませんが、それによって言語の
  連続性が断絶したり、これまで達成した成果の価値が無に帰することはけっしてありま
  せん。これは、私たちがそうなって欲しいと思っているからではなく、ひたすら論理と良
  識の当然の帰結です。これに対しては、本気でやる気がある委員会としては、その仕
  事の実際的成果が皆無になることを望まなければ、あえて反対しないことでしょう。

  さて、ここで、お話ししたことをまとめてみましょう。この問題を論理的に検討したけっか、
  結論は次のとおりとなります。

  一、国際語は、エスペラント以外にはあり得ない。

  二、おそらくエスペラントの発展は、その他の言語と同様に、自然の成り行きにしたがっ
     て、すなわち新語と古語の交替という不断の過程に則して、おこなわれてゆくだろう。

  三、しょうらいエスペラントに改変を加える必要が生じたときは、その改変は互いの合意
     のうえでエスペランチスト自身がおこなうか、またはエスペランチストと完全な合意の
     うえで有力な機関がおこなう。

  四、しょうらいエスペランチスト自身か、または有力な外部機関がエスペラントに改変を
     加える決定をした場合は、その改変はきわめて小規模にとどめ、これまでの我われ
     の成果との連続性を損なったり、過去・現在・未来にわたる我われの努力を無に帰
     するものであっては、けっしてならない。

  (水野義明(編訳)『国際共通語の思想』266〜272ページ)

272松戸彩苑:2008/06/07(土) 16:27:21
>>271 の続き)

まず最初に言っておくべきなのは、このむやみに長い話が、UKの開会演説のなかでなされ
たという事です。

史上初のアメリカでのUKということで、みんな大いに盛り上がっていたと思うんですが、なぜ
かザメンホフは、こんな「エスペラントの改造に関する話」を長々としてるんですね。

1910年といいますと、Ido 騒動にウンザリしている人も少なくなかったはずなのに、こんな話
をしてるんですから、これはどう考えても「ザメンホフじしんが新しい語形を導入したがってい
た」と判断するしかないんですね。

引用文のなかに

  ほんとうに実用的価値のある改変の提案はごく少数で、全部ならべても一枚の紙切れに
  おさまり、半時間もあれば覚えることができるでしょう。

と書いてありますが、これが、ザメンホフが提案した改造案のことなのだろうと私は推測して
おります。

(終わり)

273松戸彩苑:2008/07/19(土) 07:06:26
エスペラントには intern-ulo(寄宿生、医学研修生)という表現があります。

これは英語の intern やフランス語の interne などと見かけが似ているのでとっても憶えや
すいのですが、しかしよく考えてみますと、英語で言うところの insider(内部の人間)をどう
やって表わせば良いんだろう?という疑問がわいてきます。

本来ならば、こっちのほうが intern-ulo と表現されるべきではないですか。
実際「insider、内部の人間」の反対語である「部外者」は ekster-ulo と言うんですよね。

Peter Benson の『Comprehensive English-Esperanto Dictionary』を見てみますと、inside
の項に insider が載っていて intern-ulo が訳語になっています。

つまり Benson 氏は intern-ulo に第3の意味をつけ加えようと提案しているのだと思いま
すが、しかし一つの表現にあまりにも多くの意味を与えますと、どの意味で使っているのか
判らなくて困るんじゃないかと思うんですね。

そこで私は「insider、内部の人間」を en-ulo としたら良いんじゃないかと考えました。
---

この他にも、「中身」とか「食品などの具」のことを en-aĵo と表わすこともできますね。

また「トッピング」のことは sur-aĵo と言うことができるでしょう。
Benson の辞書の top の項のなかに topping があり、sur(verŝ)aĵo という訳語が与えられ
ていますが、sur-aĵo で充分だと思います。

274松戸彩苑:2008/07/19(土) 09:47:39
ombrelo(傘)という単語があるのは良いんですが、考えてみますと「傘をさす」というのを
どう表わすのかが判らなかったりします。

で、『日エス』の「かさ【傘】」のところを見ますと sin @irmi per ombrelo と書いてありました。
もちろん間違ってはいないと思うんですが、しかし直訳しますと「傘で自らを覆う」ということ
であって、少し重苦しく、長ったらしいような気もします。

『エス日』の ombrelo の項を見ますと

  kun 〜o 傘を差して

というのが載ってるんですが、しかし、これが「傘を持って」である可能性は無いんでしょう
か。
また「彼は傘をさしている」は Li estas kun la ombrelo. と言えば良いんでしょうか。

それから、同じところに

  malfermi 〜on 傘を開く

というのも載っていますが、「傘を開く」と「傘をさす」とではちょっと違うわけですね。
「傘を開いたけど、ささない」ということもあるわけですから。

それからNPIVの ombrelo の項を見ましたが、ここには「傘をさす」に相当する表現はまった
く載っていませんでした。

このようにエスペラントというのは、日常生活に必要なモノを表わす単語はあったとしても、
「傘をさす」といったコロケーションになると、とたんに怪しくなるんですね。
こういった点がしっかりしていないせいで、エスペラントは本来持っていて良いはずの能力
を発揮できないでいるのだと思います。
また逆に言えば、こういう点を直していけば、今以上に役に立つ言葉になるに違いないん
ですね。

こういう問題を「大したことではない」「使っているうちに自然にできる」などと考えていたの
では、エスペラント運動が今以上に盛り上がることは無いでしょうし、また、まかり間違って
エスペラントが世間で大々的に実用されることになれば、こういった簡単な表現がアイマイ
なせいで大弱りをすることになると思うんですね。

ですから、そうならないように、今のうちから少しずつ考えておく必要があるわけです。

私も「傘をさす」を表わす簡潔な表現についていろいろと考えてはおりますが、この問題に
ついては皆さんにも考えていただきたいと思いますので、私の案は書かないことにします。

(終わり)

275松戸彩苑:2008/07/19(土) 09:49:13
>>274 の3行目

@irmi を ŝirmi に訂正。

276松戸彩苑:2008/07/19(土) 17:26:42
エスペラントで「見ること」は vid(ad)o ですが、それでは「見られること」はどのように表現す
れば良いのでしょうか?

日本語ですと「見ること」「見られること」、英語ですと「seeing」「being seen」と簡単に表現
できるんですが、意外なことにエスペラントでは簡単に表わすことができないんですね。

vid-at-ado ではヘンですし、vid-at-eco というのも苦しいわけです。

vid-iĝo で良いのかなとも思いましたが、『エス日』を見ますと vid-iĝi は「現れる」の意味だ
と書いてあります。

さんざん考えて ago esti vid-ata なら良いのかなと思いましたが、しかしよく考えますと「見る
こと」は「動作」ですが「見られること」は「動作」ではなく「状態」なのではないかと思いました。

ということで最終的に stato esti vid-ata という表現が得られたわけですが、皆さんは「見ら
れること」をどのように表現したら良いと思われますでしょうか。

人によっては「vid-at-ado も許容できる」とお考えになるかもしれませんね。

(終わり)

277松戸彩苑:2008/07/23(水) 00:07:35
>>276 の補足ですが、考えてみれば「見ること」は vidi という動詞の不定形のかたちでも
表わすことができるんですよね。

そうすると「見られること」は当然 esti vid-ata で良いということになります。

「見られること」を 〜o というかたちでは表わすことが出来なくても、esti vid-ata でありとあ
らゆる場合に対応できるというのであれば問題ないわけですが、どうなんでしょうかね。

278松戸彩苑:2008/07/26(土) 17:06:40
「色白の人」をエスペラントでどう表現すれば良いんでしょうかね?

エスペラントには blank-ulo とか blank-haŭt-ulo といった表現がありますが、どちらも「白
人」の意味で使われてると思うんですよね。

「色白の人」という表現は、日本語にかぎらず、黄色人種や白色人種が使う言語にはある
と思われますので、エスペラントにも必要だと思うんですが、今のところエスペラントには無
いみたいですね。

pal-ulo とすれば良いのかな?と思ったんですが、考えてみると pal-ulo には「青白い人」
という否定的なニュアンスがあるんですよね。
昔だと俗に「うらなり」と言ってたのに相当するんだと思うんですね。

これとは違って「色白の人」という場合には、むしろ称賛の意味が込められているように思
われますので pal-ulo とは区別したいなぁと思いましたが、しかし残念ながら具体的な案は
ありません。

(終わり)

279松戸彩苑:2008/08/30(土) 13:26:06
エスペラントで「オートマ車」「マニュアル車」のことをどう表現すれば良いのでしょうか。

おそらく「オートマ車」は

  aŭto kun aŭtomata transmisi-ilo (または rapid-umo)

「マニュアル車」は

  aŭto kun (per)mana transmisi-ilo (または rapid-umo)

とでも言えば良いのでしょうが、しかし考えてみると、あまりにも長いんですよね。
これでは、車について気軽に会話をすることも出来ません。

ですから私は「オートマ車」は aŭtomata transmisi-ilo の頭文字のATをとって AT-aŭto(発
音は「アタウト」)あるいは aŭtomata rapid-umo から AR-aŭto(発音は「アラウト」)のように
して、「マニュアル車」のほうは man-aŭto(発音は「マナウト」)とでもすれば良いんじゃない
かと考えています。

ずいぶん乱暴な短縮方法だと私じしんも思いますが、しかしこのくらい思いきって短くしない
と、気軽に会話ができる言葉にはならないと思いますね。
もちろん、もっと良い短縮方法があるかもしれませんが。
---

「縦列駐車」をエスペラントで何というんだろうと思って『日エス』を調べてみたんですが、「縦
列駐車」の項はありませんし「縦列」「駐車」の項には「縦列駐車」は載ってないんですね。

そこで英語で何というのか調べてみましたら parallel parking って言うんですね。
ですから、これをなぞって paralela parkado とでも言えば良いのかなと思いました。

(ちなみに Benson の英エス辞典の parallel と park の項を調べてみましたが、parallel
parking は載っていませんでした)
---

しかしつらつら考えてみますと、エスペラント界においては、こういった単語・表現をどんどん
決めていこうという発想がほとんど無いんだなぁと痛感せざるを得ません。

自動車なんてものは、先進国であれば個人で所有していることが多いわけでして、何十年も
前から完全に一般人の日常生活のなかに入っているものです。
それなのに、エスペラント界というのは、こういった単語や表現を整備していこうという気がま
るで感じられないわけです。

結局エスペランティストというのは、こういった単語や表現がまったく必要とならないレベルで
の言語活動しかしていないってことなんでしょうか。

そういや前から気になっていたんですが、エスペラントでは「自動車のハンドル」のことを stir-
rado ということが多いですね。
これは英語の steering wheel などと同様の表現ですのでまったく問題ないように思われます
が、しかしよく考えてみますと stir-ado と発音がよく似ているんですよね。
ですから私は stir-rado よりも stir-ilo のほうが良いんじゃないかなと思っているんですが、い
かがでしょうか。

(終わり)

280松戸彩苑:2008/08/31(日) 13:42:11
>>18 や他のところでも少しふれましたが、私は「長すぎる語根や表現を短くする」というこ
とに挑戦してるんですね。

私は不思議に思うんですが、どうしてエスペランティストというのは長ったらしい語根や表現
が好きなんでしょうか?
また、どうして短くしたり略語を作ったりしようとは思わないんでしょうか?

私が考えた短い語形をいくつか紹介してみます。

agrikulturo → agriko (agrik-ilo 農機具、 agrik-aĵo 農作物)
biblioteko → biblo (bibl-isto 図書館員)
sekretario → sekro
diskriminacio → diskrimo
okcidenta → okcia
orienta → oria
bi-ciklo → bico
motor-ciklo → moco
medikamento → mediko
maksimumo → makso
frekventi → freki
renkonti → renki

281松戸彩苑:2008/09/14(日) 10:41:32
「テスター(回路計)」のことをエスペラントで何と言うんだろうと思って『日エス』を調べたん
ですが kontrolilo、ekzamenilo って書いてあるんですね。

「ほんとにこんなので通じるのかな?」と思ったので、今度は英エス辞典で調べるために、
英語で「テスター」を何と言うのかを Wikipedia で調べてみたんですね。
そうしたら multimeter と書いてありました。

で、試しに他の言語も調べてみたんですけれども、フランス語 multimètre、ドイツ語 Multi-
meter、スペイン語 multímetro、イタリア語 multimetro、ロシア語 мультиметр と、
欧米各国語では共通なんですね。

だったらエスペラントでも multimetro として良さそうなんですが、こういう単語は、NPIVにも
『Nepivaj Vortoj』にも『Neologisma Glosaro』にも収録されていません。

また Benson の英エス辞典、Jacques Le Puil と Jean-Pierre Danvy の仏エス辞典、Krause
の『Wörterbuch Deutsch-Esperanto』(独エス辞典)、Minnaja の伊エス辞典も調べてみまし
たが、いずれの辞書にも収録されていませんでした。

考えてみれば、テスターなんてものは、電気関係の仕事をする人ならみんな持ってるでしょ
うし、学校の理科の実験なんかでも使うもののはずなんですよね。
そういう身近なものであるにも関わらず、辞書に載ってないというのは困ったことだと思いま
した。
欧米人や欧米語に堪能な人であれば困らないんでしょうが、そうでない人にとっては不便
なわけです。
---

「かなしばり」のエス訳はあるかな?と思って『日エス』を引いたんですが、「かなしばり」の
項はあったものの「起きようとしても動けなくなる」というのに相当するエスペラントの表現は
載ってなかったんですね。

そこで Wikipedia を調べてみましたら、英語では sleep paralysis と言うんですね。

それから他の言語の記事を見てみたんですが、フランス語 paralysie du sommeil、ドイツ語
Bewegungsunfähigkeit im Schlaf、スペイン語 parálisis del sueño ということで、どの言語
でも「寝ているときの麻痺」みたいな言い方をするということが判りました。(ドイツ語の場合
はちょっと違って「寝ているときの運動不能」みたいな言い方になってますが)

ですからエスペラントでも dormo-paralizo と言えば良いんだと思うんですね。

282松戸彩苑:2008/09/21(日) 10:45:46
英語には to slurp 「ズルズルと音をたててすする」という単語があるんですが、これに相当
するエスペラント訳語はあるのかな?と思って Benson の英エス辞典を引いてみたんです
が、slurp の項が無いんですよね。

Wells の辞書の英エスの部や Fulcher&Long の英エス辞典なんかも見てみたんですが、
これらにも slurp の項がありませんでした。

それで今度は『日エス』で「すする」を調べてみたんですが、そこには suĉi、trink-eti、lek-
trinki といった訳語がならんでいました。

suĉi は「吸う」、trinketi は「ちびちび飲む」、lektrinki は「犬・猫のように舌で舐めるように
して飲む」という意味ですね。
ということで、どうも「ズルズルと音をたててすする」というのにピッタリの訳語が無いという
ことになります。

これじゃあ自分で作るしかなさそうだなと思っていたんですが、あるとき、こんなふうに考え
たんですね。
まず最初に zum-ante suĉi という表現を思いついて、次に zume suĉi でも良いなと思った
あとで、最終的に zum-suĉi だと思いました。

これならば「ズルズルと音をたててすする」というのを正確に表わすことが出来ていると思い
ました。

出来てしまえば当たり前のようですが、いわゆる「コロンブスの卵」というやつでして、思いつ
くまでが大変なのです。

283松戸彩苑:2008/09/21(日) 12:16:13
私は、脇山怜(著)『改訂版 海外・暮らしの用語事典』(1983年 ジャパンタイムズ)とい
う本を持ってるんですが、これは日常生活で必要となるような英語の単語・表現を集めた
本なんですね。

この本の「まえがき」には次のように書かれています。

  海外生活に辞書は欠かせませんが、ふつうの和英辞典だけでは不十分な場合がかな
  りあります。私も日々の暮らしの中で、どれだけ辞書を繰っても出ていない単語、学校
  で習わなかった単語にしばしばぶつかり、もどかしさを感じたものでした。

  そこで生活に根ざした単語を8000語ほど集めて『海外・暮らしの用語事典』を編んだの
  ですが、初版からすでに4年、さらに2000語を加え、またあらたに「学校教育」の項を設
  け、ここに改訂版を出すことになりました。

ということで、日常生活に必要な語が10000語ほど収録されてるんですけれども、この
10000の単語が次のように分類されているんですね。

  第1章  住まい
   1 住宅・不動産   2 家具・インテリア   3 寝室・寝具   4 バスルーム
   5 庭・園芸(樹と花の名前)   6 雑貨・住まいの手入れ

  第2章  食生活
   1 調理器具   2 食器   3 料理の動作   4 料理の名前   5 デザート・
   パン(お菓子)   6 飲みもの   7 肉類(牛肉 豚肉 家禽)   8 魚介類・海草
   9 野菜・果物・穀類   10 乳製品(チーズの種類 ミルク・乳製品)   11 調味料
   12 和食・中華の料理名(日本式の切り方いろいろ)

  第3章  衣類
   1 婦人服・紳士服   2 下着・靴下   3 生地・柄・色   4 洋裁・手芸
   5 装飾品   6 衣服の手入れ   7 ヘアスタイル   8 美容・化粧品

  第4章  育児
   1 育児・子供服(おもちゃ・遊び)   2 学校教育・文房具(青少年活動)

  第5章  病気
   1 内科   2 小児科   3 外科・整形外科   4 産婦人科   5 泌尿器科
   6 耳鼻咽喉科   7 眼科   8 皮膚科   9 神経科・精神科   10 歯科
   11 医薬品

  第6章  交通
   1 交通規則・免許   2 車の構造・修理   3 公共交通機関・旅行(エンタテイメ
   ント)

  第7章  通信・銀行・買物
   1 郵便・電話   2 銀行・買物

こういうのを見ても「日常生活に必要な語彙・表現というのは、ずいぶん多いものだなぁ」と
いうことがよく判ると思います。

それに加えて「私がこれまでにこのスレで論じてきたものの中には、この分類には収まらな
いものもけっこうある」ということにも気づいていただきたいんですね。

そういったことがあるから私は「日常生活に必要な語彙・表現を、みんなで少しずつ作って
いくことが必要なんだ」と主張しているわけですね。
---

最近になって気がついたんですが、「日常生活に必要な語彙・表現」という言葉を聞きます
と、多くの人は「海外旅行をしたりする際に必要となるような、必要最小限の外国語の知識」
のことだと思ってしまうみたいですね。

しかし私がエスペラント運動のありかたについて語る際に言っている「日常生活に必要な語
彙・表現」というのは、当然のことながら、そういうものではないんですね。

私が言ってるのは「外国語を使う場合の日常会話」というレベルではなく「母語を使う場合の
日常会話」のレベルのことなんですね。

たとえ教養のない人であっても、日常生活のなかで母語を使う際には、それなりに多種多様
なことを言ってるはずなんですね。

私はそういうレベルのことを言ってるわけですので、誤解の無いようにお願いいたします。

284松戸彩苑:2008/09/21(日) 14:45:48
私が「日常生活に必要な語彙・表現」を整備することの重要性を訴えつづけても、いまひと
つ判っていただけない理由がほかにもありましたので、説明しておきます。

私の見るところでは、人間というのは「難しい」ことが出来るようになると「簡単」なことをバ
カにするようなメンタリティを持ってしまうことが多いと思うんですね。

エスペランティストというのは高学歴の方が多く、難しいことが大好きな人たちばかりです
ので、それが災いして「日常生活に必要な語彙・表現」みたいなものはどうでもいいや、み
たいな感じになってるのではないでしょうか。

しかし、そんなことをやっているから、現代ヘブライ語やトク・ピシンにも負けてしまうんだと
思いますね。

やはり、誰もが知っている「日常生活に必要な語彙・表現」を整備することというのが、きわ
めて大切だと思いますね。

285松戸彩苑:2008/09/21(日) 15:51:18
なぜ私が「日常生活に必要な語彙・表現」を重視するかというと

  多くの人たちにとって必要となる可能性が高い。

ということもありますが、このほかにも

  エスペラントで書かれたレベルの高い文献があんまり無い。
  また、こういう文献が短期間に増えるという可能性もまったく無い。

  だから「高度な会話のための言語」として使えるようにして、支持者を増やしていくしか
  ない。

と考えてるということもあるんですね。
---

英語を始めとして、フランス語・ドイツ語・ロシア語・中国語・日本語…といった言語ですと、
それこそ多種多様な文献が大量にあるわけです。

そういったものと比べますと、エスペラントの文献というのは(当然のことなんですが)質・量
ともにきわめて貧弱だと言わざるを得ないんですね。

エスペラントの文献の多くは、エスペラントの学習教材であるとか、エスペラント運動関係の
ものでして、エスペラントやエスペラント運動に興味のある人以外には価値の無いものです。

また(止むを得ないことではあるのですが)学術的な文献はほとんどありませんし、文学作
品はありますが、これだって文学に関心のある人以外にはどうでもいいものだったりします。

もちろん私だって、多くのエスペランティストがたいへんな苦労をして文献を増やしてきたこ
とはよく知っています。
しかし、そういったことを抜きにして、世間の人たちとまったく同じように考えてみますと、や
はりエスペラントの文献にはあまり魅力が無いだろうと言わざるを得ないんですね。

ということがありますから、英語・フランス語・ドイツ語…とは違って「文献の魅力」で世間の
人たちを引きつけることは出来ないということになります。

ですから、その代わりとなるような魅力が無いといけないわけですが、私は「高度な会話の
ための言語」として使えるようにすれば、文献の貧弱さをカバーすることが出来るのではな
いかと思ったんですね。
---

もちろん現在でも、エスペラントで会話をすることは可能です。

しかし、母語なみに話すことが出来るようになってないと、ブロークン・イングリッシュに太刀
打ちできないだろうと思うんですね。

「エスペラントって、ブロークン・イングリッシュよりも、ずっと役に立つんだな」ということが世
間の人たちにもはっきりと判るくらいのレベルになってないと、世間の人たちから認められ
ることは無いと私は考えておりますので、「日常生活に必要な語彙・表現」を整備することの
重要性を再三強調しているわけです。

「もうすぐエスペラントがEUなどに認められて採用されるんだ」「そうなれば、エスペラントの
語彙・表現の整備や、エスペラントの教育なんかも、みんな政府や国際機関がやってくれる
んだ」などといったことを本気で信じることが出来れば、こんな七面倒くさいことをする必要は
無いと思えるのでしょうが、私はそういう可能性はまず無いと思っていますので、こういうこ
とを言ってるわけなんですね。

(終わり)

286松戸彩苑:2008/09/21(日) 18:54:08
ところで話は変わりますが、関西エスペラント連盟のサイトのなかに、「La Movado」の毎号
の主な内容について書いてあるページがありますよね。

これによりますと、今年の4月号から、最近になって日本社会で多用されるようになった単
語・表現のエス訳語を集めた「Kurantaj vortoj」という連載が始まったらしいんですが、10
月号に「シックハウス症候群」が取り上げられたと書いてあります。

で、この「シックハウス症候群」に相当するエス訳語は、いったいどんなものだったんでしょ
うか?
私は「La Movado」を取ってないので判りませんので、教えていただけると幸いです。

ちなみに私は domo-toksiĝo あるいは domo-veneniĝo というのを考えてたんですが。

287松戸彩苑:2008/09/23(火) 12:27:32
>>285 に補足したいのですが、「読むための言語」としての英語の地位は、当分のあいだ
は揺るがないだろうと思うんですね。

英語を母語とする人が4億人くらいいて、さまざまな分野の最先端・最重要な情報が英語で
書かれているわけです。

また、多少なりとも英語を学んだことのある人も何十億人といますし、それに加えて、英語に
由来する単語は、世界中の言葉に入っているわけです。

こういった明白なる事実をあっさりと無視してしまって、唐突に「英語に代わってエスペラント
を」などと叫んでも、世間の革新派の人たちからも相手にされないわけです。

世間の革新派の人たちや、知識人や、自分の家族や知人でさえも認めてくれないようなこ
とを言っていても仕方が無いので、もっと現実的に考えて、この厳しい状況のなかで何とか
して社会のなかに根を張るように努力すべきだと思いますね。

でないと、このまま衰退していくしかないだろうと思います。

288松戸彩苑:2008/11/03(月) 13:22:02
(1) どうしてエスペラントにおいては日常生活に関する語彙・表現が混乱しているのか。

(2) また、どうして日常生活に関する語彙・表現の混乱に気づいたり、これを問題視する
    人がほとんど居ないのか。

と言いますと

  エスペラントを日常的に使う社会が存在しない。

という事があるからなんですね。(ほかにも理由はありますが)

この点が、現代ヘブライ語やトク・ピシンなどとも決定的に違うところであり、むしろ(現代の)
ラテン語などに似ている点なんですね。

そして、私たちは「エスペラントを日常的に使う社会」というものを持たない状態で、日常生
活に関する語彙・表現を整備していかなければならないわけです。

289松戸彩苑:2009/03/14(土) 13:50:31
>>247-248 で -enzo という接辞について論じましたが、これに関して補足をします。

『エスペラント日本語辞典』の estingi の項のなかに

  fajr/esting/ilo 消火器;消火剤.

という副見出しがありますが、「消火器」と「消火剤」の区別ができないというのでは困りま
すね。

やはり、このような場合には -enzo を使って

  fajr-esting-ilo 消火器
  fajr-esting-enzo 消火剤

として両者を区別すべきだろうと思いました。

290松戸彩苑:2009/03/15(日) 08:01:23
すでに書いたかもしれませんが(調べるのも困難ですので)いちおう書いておきます。

私はこれまで「日常生活に関する語彙・表現」のエスペラントによる訳語を提案してきました。

しかし当然のことながら「エスペラントの新しい語彙・表現」と「日本語の訳語」だけでは、日
本語を知らない海外の人には理解してもらえません。

ですから

(1) エスペラントによる丁寧な説明文。

(2) 世界各国語による訳語をつける。
    (やはり英語がメインとなる)

といったものも添える必要があるでしょう。

こういった情報をネット上に置いておけば、世界中のエスペランティストが利用することが
できるわけです。

291松戸彩苑:2009/04/29(水) 11:58:44
エスペラントの語彙の問題ですが、現在はこちら(↓)のスレに書いています。

http://yy67.60.kg/test/read.cgi/jinkogoplus/1228036613/

関心がございましたら、ぜひともお越しください。

292松戸彩苑:2009/08/10(月) 20:30:02
最近、とある有名芸能人が覚醒剤を所持していたというので逮捕されましたが、この「覚醒
剤」はエスペラントでは何と言うのでしょうか。

『日本語エスペラント辞典』の「かくせい【覚醒】」の項を見ますと「〜剤 ekscitilo」と書いてあ
ります。

しかし英語やフランス語では「覚醒剤」のことを stimulant、ドイツ語では Stimulans、スペイ
ン語・ポルトガル語では estimulante と言うようですので、エスペラントでは stimul-enzo と
するのが良いと思います。

293松戸彩苑:2009/08/10(月) 23:12:39
>>292 に補足します。

Peter Benson の英エス辞典の stimulate の項のなかに stimulnt(stimulant の誤植)という
副見出しがあり、ここに stimulenzo が載っています。

294松戸彩苑:2009/10/17(土) 01:01:08
ESENÇO CAJ ESTONTEÇO DE LA IDEO DE LINGVO INTERNAÇIA

I
Ĉiuj ideoj, quiuj estas ludontaj gravan rolon en la historio de la homaro,
havas ĉiam tiun saman egalan sorton: quiam ili ecaperas, la samtempuloj
rencontas ilin ne sole cun rimarcinde obstina malconfido, sed eĉ cun ia
neclarigebla malamiceço; la pioniroj de tiuj ĉi ideoj devas multe batali caj
multe suferi; oni rigardas ilin quiel homojn freneşajn, infane malsaĝajn, aŭ
fine eĉ recte quiel homojn tre malutilajn. Dum la homoj, quiuj ocupas sin je
ĉia plej sençela caj senutila sensençaĵo, se ĝi nur estas en modo caj conforma
al la rutinaj ideoj de la amaso, ĝuas ne sole ĉiujn bonojn de la vivo, sed ancaŭ
la honoran nomon de “instruituloj” aŭ “utilaj publicaj agantoj”, la pioniroj de
novaj ideoj rencontas nenion crom mocoj caj atacoj; la unua rencontita tre
malmulte lerninta bubo rigardas ilin de alte caj diras al ili, que ili ocupas sin
je malsaĝaĵoj; la unua rencontita gaşeta felietonisto scribas pri ili “spritajn”
articolojn caj notojn, ne preninte sur sin la laboron almenaŭ iom ecsçii, super
quio ili propre laboras; caj la publico, quiu ĉiam iras quiel anaro da ŝafoj post
la criemuloj, ridas caj ridegas caj eĉ por unu minuto ne faras al si la
demandon, ĉu existas eĉ guto da senço caj logico en ĉiuj tiuj ĉi “spritaj” mocoj.
Pri tiuj ĉi ideoj “estas modo” paroli ne alie, ol cun ironia caj malestima rideto,
tial tiel agas ancaŭ A caj B caj C, caj ĉiu el ili timas enpensiĝi serioşe eĉ unu
minuton pri la mocata ideo, ĉar li “sçias antaŭe”, que “ĝi crom malsaĝaĵo
enhavas ja nenion”, caj li timas, que oni iel alcalculos lin mem al la nombro
de “tiuj malsaĝuloj”, se li eĉ en la daŭro de unu minuto provos rilati serioşe al
tiu ĉi malsaĝaĵo. La homoj miras, “quiamaniere en nia practica tempo povas
aperi tiaj malsaĝaj fantaşiuloj caj quial oni ne metas ilin en la domojn por
freneşuloj”.

295松戸彩苑:2009/10/17(土) 01:13:04

この文章について説明します。

私は以前から「エスペラントの文章は、見た目が硬すぎる」と思ってたんですね。
で、いろいろと考えてみたんですが、どうやらKの字が多いからだろうと思ったんですね。
そこで、エスペラントのKをCに変えようと思ったわけです。

もちろんエスペラントではすでにCの字を使っていますから、これはÇで表わすことにしまし
た。

しかし、これだけですと相関詞の ki- のつく語が cio、ciu … になるんですが、これらは ĉio、
ĉiu … と紛らわしいんですね。
ki- のつく語は目立たないといけないと思いましたので、ロマンス語ふうにして quio、quiu …
としました。
それから ke も ce となるんですが、これも ĉe と似すぎていて良くないので que とすること
にしました。
---

このほかにも、Zも硬い印象を与えますので、Şにしました。

また teksto とか ekzameno のように民族語においてはXを使っている単語がありますが、こ
れはエスペラントでも texto、exameno のようにしたら良いと思いました。
不規則が増えることにはなりますが ekskluziva が excluşiva、そして ekskurso が excurso
となって、見た目がかなりスッキリすると思うんですが。
---

この書記法をしばらく個人的に使ってみて、不都合がないかどうか調べてみようと思っていま
す。

私の掲示板では字上符つきの文字が使えませんので、ここを使わさせていただきました。

296松戸彩苑:2009/10/17(土) 11:01:45
>>294 の続き)

Sed pasas celca tempo. Post longa viço da batalado caj suferoj la
“buboj-fantaşiuloj” atingis la çelon. La homaro fariĝis pli riĉa per unu nova
grava aciro caj eltiras el ĝi la plej vastan caj diversforman utilon. Tiam la
çirconstançoj ŝanĝiĝas. La jam fortiĝinta nova afero ŝajnas al la homoj tiel
simpla, tiel “comprenebla per si mem”, que la homoj ne comprenas,
quiamaniere oni povis tutajn miljarojn vivi sen ĝi. Quiam la posteuloj legas
la racontojn pri tio, quiel sin tenis contraŭ la dirita ideo la samtempuloj de
ĝia nasciĝo, ili absolute ne volas credi caj pensas, que ĉion tion ĉi elpensis la
historioscribantoj pro mocado je la foririntaj generaçioj. “Ĉu efective”, ili
diras, “la tuta mondo tiam consistis el idiotoj? Ĉu efective existis homoj,
quiuj elpaŝadis contraŭ la pioniroj cun tiaj sensençaj contraŭparoloj, caj la
çeteraj homoj silentadis, caj la unua rencontita cvinjara infano ne diradis al
tiuj criticantoj: “Sinjoroj, vi ja parolas teruran, sur nenio fonditan
sensençaĵon, quies rebato sin trovas ja tuj antaŭ via naşo!”? Absolute
necompreneble! La historiistoj çerte trograndigas!”

297松戸彩苑:2009/10/17(土) 11:14:09
この表記法は、k や z といった硬い感じのする文字がないのは良いんですが、そのかわり
に補助記号つきの文字が多くなってしまうという欠陥があります。

日本語のローマ字でも

  「訓令式」  規則的・合理的だが、見た目が硬い。
          (訓令式では「チ」「チャ」「ジャ」が ti、tya、zya であるのに対して、ヘボン式
          では chi、cha、ja となる)

  「ヘボン式」 見た目は柔らかいが、不規則な点がある。
          (訓令式では「タ」「チ」「ツ」「テ」「ト」が ta ti tu te to であるのに対して、ヘ
          ボン式では ta chi tsu te to となる)

ということがありますが、これと似たようなものだと思います。

298ベダウリンデ:2009/10/23(金) 13:53:23
松戸さんの計画言語掲示板で紹介されてましたので、見てみました。
下に埋もれてないで、どうせならあげましょうよ。

文字の改革、ですか・・・文字はね、言語のジャンルの中でも最も表層の部分ですから、
手を付けるのも簡単だし、いざ変えるとなっても、簡単に変えられるでしょうね。
改革の中では楽ちんな方ですね。

四角い物より丸い物の方が、商品としてよく売れるらしいので、「見た目を丸く」はいい発想ですが、
文字って、そんなに「丸さ」重要かな?と思います。
丸い文字ならビルマ文字とかが丸っこいと思う。でも、角い文字だって風格あってステキですよ。
どっちがいいとは、一概には言えないと思う。
それに、KやZは、ラテン文字使用国では一般的に広く使われてると思う。IPAでも使われてるし。
それを敢えてへそ曲がりで、違う表記にする意味が分からない。
今でさえ不評の特殊文字がさらに増えるし・・・Cのバリエーションが多すぎるし・・・
どうせなら、総とっかえして、新人工文字を作ればいいと思う。ビルマ文字以上に超丸っこいのを。

299ベダウリンデ:2009/10/23(金) 14:29:45
>この書記法をしばらく個人的に使ってみて、不都合がないかどうか
テキストを単純に置換すればよいだけなので、不都合が生じるはずありませんが、
これをエスペラントとして初めて接する人が分かりやすいかどうか、が問題です。
初心者にわかりにくくてもいいんだ、とおっしゃるならそれでよいですが。

s=サ、ş=ザ、ŝ=シャで、c=カなら、ç=ガ、ĉ=キャかな?と思ったら、ç=ツァ、ĉ=チ?
少なくとも、符号と音声の整合性をとってほしいですね。

300ベダウリンデ:2009/10/24(土) 08:11:30
松戸さんがKとZを嫌う理由は、「ラテン語にはKとZが無いから」ではないですか?
ラテン語にKとZが無いのは、古代ローマ人が「丸い字の方がKawaiiから」と思ったからではなくて、
偶然の結果だったみたいですよ。Zが無いのはラテン語にはZの音が無かったから。
Zは借用ギリシャ語を表記する時のみ使用した、とあります。
アルファベットは系統樹的に発展してて、フェニキア文字から、ギリシア文字、エトルリア文字、ラテン文字と受け継がれたようです。
ギリシア文字にはKとZがありました。
エトルリアにはg音が無かったので、ギリシャ語でg音を表してた文字(Γ)をk音として使用し、Kは用いられなくなった。
ΓはCに形を変えて、ラテン語ではCをk音で使用する事を受け継いだ。
でもラテン語にはg音があったから困った。それで新しくG(Cにちょっと付け足した)という文字を作った。

このように、ラテン語でKやZを用いないのは(習慣にからんだ)特殊な事情があったからで、
KやZという文字そのものはラテン文字のアルファベット表に残っていたため(Γは消されちゃいましたが)、
直接のラテン系民族以外では、ギリシャ系のむしろ正当な文字として、KやZを憚りなく使うのだと思う。
(そうするとCは余るので、民族により色々な使い方ができる事となる)

つまり、言いたいのは、エスペラントでKやZを廃する理由は、
アルファベットの歴史から見たら、全く正当性が無い、という事です。
(アルファベットなんか無視していいんだ、人工語なんだから、とおっしゃるのであれば、かまいませんが)

301ベダウリンデ:2009/10/27(火) 11:18:01
松戸さんの文字改革案の問題点は
①特殊文字(符号付きのアルファベット)が増える。
②なお且つその使い方が「アルファベットの常識」を超えている。
です。
でも「見た目を丸くかわいくして人気を得よう」というコンセプトは面白いと思うので、
それをどうやったら実現できるか考えてみると面白いと思います。
もちろん、①②の問題をクリアして、さらには、エスペラントの法則(?)である
一文字一音の原則は守り抜いて・・・・・

自然言語は、まずコトバがあって、それに準じて文字体系が作られる。
人工語では、文字と音韻体系はワンセットで考案されるのだと思う。
エスペラントの場合、音韻体系そのものがかなりスラブ寄りです。
一言で言うと子音が多様すぎる。ツォとかチェとかヂとかが存在する。
k音やz音も、独立の音として(*1)存在する。
これを一文字一音でやろうとすると、今のような文字体系にならざるを得ないです。
Zはツォ音に使えるけど、エスペラントにはザズィズゼゾもちゃんとあるからZは使えない。
Cもツォ音に使える。もしCをk音で使うと、ツォ音を表す文字を新たに作らねばならない。
やっぱCはツォ音だな。と、なるでしょう。
ただでさえ多い子音なので、KやZを省くなんて、不可能なのです。

なので、これをラテン語風の丸い文字だけに制限するなら、まず音韻体系を変えないと不可能だ思う。
一言で言うと子音の数を減らす。子音の数を減らして今までのエスペラント単語を表現する。
そうすると、不都合が生じないように、単語全体を厳密にチェックしなければならない。
大変だと思いますが、その過程で「不必要な語彙」とか発見してくれたら嬉しいですね。NEPOに役立てます。

(*1)ドイツ語やロマンス諸語では、z音もあるけど、ある条件でs音が濁音化したものとしての扱いみたいですね。
だから文字ではSになる。これらの言語では単独で独立したz音が無いのかもしれないです。
ca,ci,cu,ce,coは、ラテン語ではカキクケコでいいのですが、
英語やフランス語ではカシクセコ、イタリア語やルーマニア語ではカチクチェコって読む。
カキクケコって言えないから、ka,ki,ku,ke,koで表記できないんだと思う。
ロマンス諸語はk音やz音が独立の音として存在しない音韻体系なのでKやZが現れない、のでしょう。(自説)

302なつ:2009/10/30(金) 18:54:56
松戸さんの思想信条という根本的問題点は
丸みを帯びたものを善と思う価値観であり、
角があるものを悪と思う価値観を基礎とした考え方であるということです。
○→美、善
□→醜、悪
なんで?なんで?なんで?なんで?
完全なる偏った見方すなわち偏見に満ちた潜在的差別主義に凝り固まっている頭であるということです。
違いますかな?
下衆の勘ぐりをいたしますと、
戦前の カタカナ表記+画数の多い旧字体 →潜在的忌み嫌うべき戦前軍国主義の象徴
戦後の ひらかな表記+新字体の常用漢字のみ →戦後民主主義万歳
という潜在意識なのですかな。
まず大前提である
○→美、善、優
□→醜、悪、劣
という考えを持っている理由をきちんと述べるべきである。
偏見ではないし潜在的差別主義者ではないという理屈をね。
一事が万事、全てにおいて理由のない偏見による優劣を付ける癖がおありではないのかな。

303なつ:2009/10/30(金) 19:07:25
松戸氏の考え方の
前提が理解できないので内容にいくまでもないですが、内容についてあえて言うならば・・・

kioは間違いであり、正書法はquioであるのだ!
が、quinoは間違いであり、正書法はkinoであるのだ!
理由は俺様がこう書いたほうがかっこいいかなっと思ったからだ!理由はそれだけだ!
なんですね。へええええええええ

textoのxはksと発音しなければ間違いであるが、
examenoのxはkzと発音しなければ間違いである!!
ksかkzかは、覚えるのだ!これぐらいアジア人でも覚えられるだろ?ケケケ
なんですね。へええええええええ

初心者や非欧米人に、不利に不利に、とっつきにくく、とっつきにくく、
不規則なほうへ、不規則なほうへ、覚えることを多く、多く、
廃れるように、廃れるように・・・・・

ですかね。クレージーな考えと思う僕のほうがクレージーなんですかね。

304なつ:2009/10/30(金) 19:20:55
kやzを廃止したい偏見は、よりラテン語(系?)に近づけたい偏見からなのかな。
ベダウリンデさんの言うようにラテン語にアルファベットとしてはkやzはありますが、
ギリシア語由来のものしか使いません。kはカレンダー(ついたちの意味)のkくらいにしか使わない。
その証拠に、xは硬い感じがするからイヤというはずなのにむしろ逆に取り入れようとしている。

305:2009/10/31(土) 11:20:56
kをそのままqで置換すれば?

306なつ:2009/10/31(土) 18:19:05
訂正
kioは間違いであり、正書法はquioであるのだ!
が、quinoは間違いであり、正書法はcinoであるのだ!

307ベダウリンデ:2009/11/02(月) 17:10:57
計画言語の掲示板で松戸さんが書いていたのですが、「個人的な」「遊び半分」の改造案だという事です。
改造案は誰でも気楽に作っていいと思うし、気楽な案から「瓢箪から駒」の場合もあるだろうけど、
本気でやるなら「方向性」って大事だなーと思った。何を目的として改造するか、ですよね。
だた「自分はこうの方がいいから」では説得力が無いな。と。

308なつ:2009/11/07(土) 23:25:22
こういう綴りのほうがかっこいいという非理論的な個人的のみの価値観は用いるべきではありませんね。

309:2009/11/29(日) 15:33:11
>非理論的な個人的のみの価値観

欧米崇拝とか言って噛み付くのも非論理的ですね

310なつ:2009/11/29(日) 17:56:26
*さん
僕の書き込みの引用は

>非理論的な個人的のみの価値観

であるわけですよね。
この引用の内容は、「欧米崇拝」云々は一切ありませんよね。
ですから、あなたがもしもちゃんとした日本人であるのなら、
僕が、誰にどこでどのように「欧米崇拝と言って噛み付いた」のが「非論理的」なのか、
引用あるいはご指摘をお願いします。あなた、日本人ですか?

311なつ:2009/11/29(日) 18:01:35
*さん
あと、もうひとつ。
僕の「欧米崇拝だと非論理的に噛み付いた」ことはさておき、
>>こういう綴りのほうがかっこいいという非理論的な個人的のみの価値観は用いるべきではありませんね。
というのには少なくとも批判なさらないということですね。
ありがとうございます。

312だにょ:2009/12/06(日) 21:32:44
中国製? 改良は、きりがなかったりして。

大通語
http://www.mondlango.com/jp.htm

313なつ:2009/12/10(木) 21:11:02
>>312
中国人も作るんですねえ。
日本では(日本語では)探しても人工言語は数える程度なんですが、
英語で探せば無限にどんどん溢れてきます。百花繚乱
それを凌駕(?)するには、特別なコンセプトその他がなければならないわけです。
この大通語もエスペラントの語彙選択を英語よりプラス中国語の要素を加味したみたいですね。
IDOはフランス語の語彙と文法を少々加味したみたいなものです。
このように英語で調べればあふれ出てくる99.9%の人工語、改造エスペラントが、ただ好きな言語に傾けただけだったり、つづり発音などを変えただけだったり、
まあよくいっても、欧米の価値観の言語で無尽蔵に共通欧米語彙を取り入れたりといったものばかりです。
プロパガンダ次第で、そういう「コンセプトのない」恣意的なだけの改造エスペラント、あるいは、欧米の価値観に頼っているだけの改造欧米言語に、ガツンと一石投じると思ったからこそ、
NEPOに、僕は、乗っかりました。ガツンと一石投じたい。


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