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現代人が納得できる日蓮教学
1
:
管理者
:2005/07/16(土) 10:06:55
新しいスレッドテーマの提案が有りましたので、立ち上げます。提案文は以下の通りです。
1721 名前: 顕正居士 投稿日: 2005/07/16(土) 06:59:06
ここは「つぶやきすれっど」なので1700 1705 1706 1709 1718 1720などの内容について意見を交換するスレッド
を作ってはどうでしょうか?「現代人が納得できる日蓮教学」とか。
わが国の仏教の「現代」はいつ始まるのか?飲光慈雲が悉曇学を復興し、富永謙斎が経典成立史を解明した
18世紀だろうとおもいます。この時点では睡眠中の仏徒は未だ覚醒せず明治の廃仏に至った。ようやく各宗は
欧州へ留学生を送って、現代仏教学が誕生した。以後、わが国の仏学の発達はめざましい。だが各宗の先哲、
さまざまに改革の努力をしたけれども、ついに葬式仏教から脱化しなかった。現代仏教学の知見は薄弱にしか
普及せず、伝統宗学の学習すら衰退した。そこで人民の宗教需要はほとんどが新興宗教に吸収されていった。
結局、わが国の仏教は今は整然、3種類に分かれるに至った。学問仏教、葬式仏教、仏教系新興宗教である。
伝統宗学も学問仏教に属する。いつの時代でも高等な学問は少数学僧のことで、在家信者の多数は基礎的な
宗学も知らなかったといえばそうであろう。問題は間を繋ぐ一般僧侶の教養である。かつて日蓮宗諸派の壇林
では能化に至るのには20年ほどかかった。天台の六大部を隅々まで学習するのにはそれくらい必要であった。
今日では僧侶と在家信者の教養には大差がないから、仏教学者、宗学者たちは直接に在家信者を対象にした
著作をよく出すようになった。葬式仏教、新興宗教に満足しない読者は増加しているようである。読書仏教の
隆盛である。わが国の仏教が結果的に当たり前のところに到着したのだといえる。現代仏教学の見識の上に
立った仏学書を手引きにして、次には自ら仏典を読む、それが在家仏教徒の基本である。中国、台湾の仏教
はまったくこういうあり方である。漢文がわれわれよりも楽に読めるからであるが、仏教学が発達した日本では
サンスクリット語、パーリ語からの現代日本語訳経典も溢れており、仏教を学ぶにはわが国が最高の環境です。
2
:
犀角独歩
:2005/07/16(土) 11:29:50
顕正居士さんの整理は、さすがに的確であると敬服します。
わたしは新興宗教の家庭に生まれて、やがて末寺から本山を在家という立場から、そして、経釈読みに入っていきました。この経験でいちばん、よくわかったことは「ご都合」を背負った人の御説は、それがどんなに人の尊敬を集め、権威と呼ばれるところであってもご都合の垢で汚れていると言うことでした。つまり、清掃しないと役に立たないということです。
この垢はまた、簡単にこちら側に付着します。付着した垢はコピペのようなものですから、付着した本人は自分の頭で考えた自分の言のように語りますが、コピペ元を知っていれば、すぐにわかります。
重要な点は、このような垢まみれの人は、自分が垢まみれであることも、また、コピペしただけであることにも気付けないと言う点です。このスレッドは極めて、重要な意味を持つことになると思います。
この清掃ができる人は、実に数が少ないのです。わたしはこのスレッドによって至るところは、文献考証もさることながら、結局のところ、この清掃のできる自由精神に至れるかどうかということであろうと思います。
投稿される方は、以上の点を、投稿の際に、どうか思い出してみてください。
ご提案の顕正居士さんは、もちろん、この‘清掃’を先駆けてできた希有の逸材であったと、わたしは尊敬しております。
3
:
ラキ
:2005/07/16(土) 13:12:06
1)石山系教団で初歩教学で「三転読授」に付いて。
学会・顕正会では「三転読授」の意味すら知ってる方は少なく感じます。
「三転読授」の意味を知ったのが、役20年前の入信当初、基礎教学の本を読んでいて、
勤行の姿勢の項目で、勤行の速度は喋る速さで読授と書いてあったので、
疑問に思い、当時の地区リーダーに尋ねました。
その時「三転読授」の事を始めて知りました。
十にょうぜいを三回繰り返して読授が「三転読授」と言う、教え方は間違いではないのでしょうか?
2)学生の小僧さんがどうしゅの勤行のとき、高速読授&1分題目て惰性で勤行してるように感じております。
何故このように感じたか。
それは夕方の勤行の時間に、早く行く時と遅くギリギリの時があり、その時の印象なのですが、
早く行って唱題をしていると、10分前には勤行の準備をいつも始めております。
ギリギリの時間に行った時は、準備もしてなくて、唱題をしてると少し遅れて、勤行の準備を始める事が良くあったからです。
5時半と時間が決まっているにもかかわらず、5分ぐらい遅くなる事はしょっちゅうありました。
惰性で勤行と感じたのは、早く行った時の勤行のしたくをしてる姿が、信徒がきてるから仕方がないな、と雰囲気で準備も乱雑な感じが見えたからです。
学会に対して3分勤行と批判してる宗門が、学会に負けない速度の高速勤行はおかしいと感じずにはおれません。
勤行の速度だけ限定すれば、顕正会の勤行の速度が一番理想の速度だと思います。
各教団で一番気になるのは、
1)勤行の意味そして読授の意味を理解していないのではと感じる事。
2)合掌の姿勢と数珠の取り扱いの意味も理解されたないと感じる事。
このような基礎教学的な事を確り教えて行ってない、各教団のあり方は、
変ではないと感じております。
私の周りだけかも知れませんが、ご助言いただければ幸いです。
4
:
顕正居士
:2005/07/16(土) 13:36:50
現代仏教徒は各宗各派の教理の相違をどう考えるべきか?
高遠な考察はしばらく措いて、できる限り単純に実際的にこれを考えてみる。浄土真宗、日蓮宗等と称するのは
仏教の中の宗だからである。また何々派と称するのはある宗の中の派だからである。したがって派祖の見解が
宗祖の見解と相違すれば、宗祖の方をとるべきである。宗祖の見解が仏陀の金口と相違すれば、仏陀の金口
をとるべきである。これ以外にあり得ないから、少なくとも建前では皆が承諾して来た事柄である。
では何をもって仏陀の金口とするのか。顕教では2500年前に閻浮堤に出現された仏陀釈尊が実際に説かれた
教えである。そうでないと云った人はいない。昔から偽経、偽論ということも云った。したがって後世成立の経典
の説の中で著しく仏陀の直説と相違するものは仏陀の金口の延長解釈とすることはできない。
現実に存在する経典は北伝、南伝ともにその大部分は後世の加上である。須弥山宇宙など自然科学未発達の
故の説は仕方がないが、歴史的な事実の記載の誤り、道徳上大いに問題とすべき教えなど、無益有害の部分
が実際には少くない。ディグナーガ(陳那菩薩)は仏教においては外教のように聖教量を立てるのは不可である
と決択している。経典の説は経験と推理に合致するがゆえに採用されるに過ぎないからである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E9%82%A3
ゆえに後世の加上であり、かつ科学、道徳とも合致しない説は仏陀の金口ということはできない。ただしこれを
反対にいえば、仏陀の金口から発達し、かつ科学、道徳と合致する宗祖、派祖、その他の師の説はそれぞれ
の宗や派の伝統教義として尊重されるべきである。
5
:
犀角独歩
:2005/07/16(土) 14:24:21
3のご投稿は問うスレの趣意に必ずしも一致しませんので、素朴な疑問でお応えしました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/2544
6
:
パンナコッタ
:2005/07/16(土) 14:47:14
教義の変遷を、良くも悪くも”進化”と捉える物の見方はどうでしょうか。
モノを生命と見立ててシミュレートしていく「人工生命」的手法で(学会の主張する宇宙生命論とは
全然違うもの)歴史・教義の変遷を改めて見直してみると、また別の側面からの分析が可能かと思われます。
また、あくまでシミュレートということで、自分の宗教的信念を切り離して
別に思考・論考するという事も出来ると思いますので、考え方の一つとして如何でしょうか。
人工生命の参考
http://park.itc.u-tokyo.ac.jp/sakuralab/main.htm
7
:
顕正居士
:2005/07/16(土) 16:08:50
>教義の変遷を、良くも悪くも”進化”と捉える物の見方はどうでしょうか。
これが富永仲基が250年も前に発見した「加上」という法則です。日本仏教史や日蓮宗宗学史を研究される
方は今はみなこの法則を応用して考察しておられるでしょう。4はあらゆるそういう高遠な事柄をしばらく措き、
現代の仏教徒が初心入門の際から注意することが可能な考え方として述べました。
日蓮聖人の曼荼羅は雑乱勧請であると唱える宗派すらある。どんどん進化したり、あるいは退化したりして、
信者が集まりさえすれば、それが宗派として継続するのが実相です。そういう意味では自然現象と同じです。
8
:
犀角独歩
:2005/07/16(土) 20:38:09
「現代人が納得できる日蓮教学」という言葉は、では、人々はなにを納得していないのかという問の表裏ですね。また、どんなに嫌がられても、これをやめると組織の存続が成り立たないというせめぎ合いとも関連しています。
現代社会は、宗教によって、物事が決まっているわけではなく、憲法・法律によって主付けられているわけです。
基本的人権、民主平等に違反しないということです。
まず、この段階で、学会を含む石山教学は、人々から受け容れられないのでしょう。
また、科学によって証明されています。違憲、違法の宗教は受け容れられないというのが大前提です。非科学的なものは、もはや受け容れられません。
日蓮教学でいう最大の価値というのは、どうやら「信」ということなのかと思えます。
自分たちを信じる者は正しく、信じない者は間違っているという鉄則です。
宗教に差別があるのは当然だともします。当然だとするのは勝手ですが、差別意識は、社会一般から受け容れられないわけです。
社会一般からすれば、なにを信じようと・信じまいとその人の基本的な人権は保障されていますし、罰せられることはありません。ところが、この信仰世界では、そうはいかない。自分たちがいちばん、正しく、世界唯一の指導者であり、世界最高の教義であり、世界最高の本尊であることを認めないと成り立たない。
つまり、この構造は自分たちを最高とする‘ピラミッド’を信じるか・信じないかという差別によって成立しているわけです。このピラミッド構造のなかに為政者、就中、天皇をどう引き込むかに腐心してきたわけです。この差別感を信仰心であると勘違いしているのに過ぎません。
日蓮はこの規範を法華経に置き、これを涅槃経から考えたわけです。他のスレで議論しましたが、浄土念仏、真言禅を信じ、法華経を信じない僧侶は刎頭断罪にすることが仏教だと言ったわけです。中世以降の日蓮門下も「見壊法者・置不呵責」を折伏と言うも天文法難も経、檀家制度ともなり、近代では日輝以降、それを捨てた。しかし、近代、それがそれを田中智学等が復活した。また、戦後は創価学会が折伏大行進と言って、大石寺の血脈、彫刻本尊、日蓮本仏から、組織会長絶対を言い、近年、これを捨て、顕正会は戸田原理主義を模倣し、いまや世間の顰蹙を買っているわけです。
何度も記したことですが、「折伏」(折り伏せる)などという言葉で、事故の信念を押し付けるような態度は、差別的、自己絶対を強調する異常行為として、その言葉自体に不快感が懐かれるのは、当然のことであろうと思います。
この構造のなかで人びとが受け容れないのは、ファンダメンタリズム、呪物崇拝、カリスマ崇拝、信・不信差別、そして、強引な勧誘ということでしょう。わたしは個人的には公明党も受け容れがたいところですが、選挙戦法の勝利というか、ともかくも、いまや政府与党と手を組むわけですから、どういう訳か、日本国民は公明党を受け容れていることに、結果的になっています。
9
:
犀角独歩[TRACKBACK]
:2005/07/16(土) 20:38:38
―9からつづく―
いまは創価学会は教義その他を変更してきていますが、ここはひとまず、近代という括りで同一に論じます。
人々が受け容れないのは、教義と言うより、信・不信に端を発する‘差別’ということであり、これは換言すれば、基本的人権の侵害は受け容れるはずはないということです。これは教義以前の問題です。ところが、これら集団の最も壊れているところは、世間法より、仏法のほうが上にある、具体的に言えば、優先されているという勘違いです。そして、差別するのは当然とも思っています。
この勘違いは、シオニズム(選民思想)を構築しています。信じているものが正しく勝れ、信じないものが間違い劣っているという判断です。このような構造を持つ宗教は、社会一般から受け容れられないということです。これは教義以前の問題です。
教義的に言えば、近代の科学発展は、日蓮が言っていたことの誤りを次々と露見させてきたわけです。また、中世以降の門派教学についても同様です。
この点については、「つぶやきすれっど2」1705で挙げたとおりです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1039933512/r1705
石山に限って言えば、だいたい、抜けた歯にくっついている肉が生きて増殖しているなんてことをいまだに言っているのは、呆れ果てるばかりです。しかも、「いや、そうではない。そう、いわれてきたことを素直に、そう信じるのが信心だ」という内部者のレクチャーは、ほとんど、社会から乖離した戯言に過ぎません。この点は彫刻本尊に対しても言われることで、実は本物は別にあって、いま見せているのは、一般信者向けの見せ物だというわけです。本当か・嘘か知りませんが、「一般信者なんかに本物は見せない」というのですが、今の時代はこういうことを詐欺といいます。
以上の点は、教義以前の問題で、社会通念に違反するものは受け容れられないと言う大前提すら守られない実態といったところでしょうか。
また、世界人口の、多く見積もっても、0.015%しか信者がいないトップを世界の指導者というのは、わたしは誇大宣伝に属すると思えます。いくら、世界の著名人と会って、勲章が100個集まろうが、ただ、それだけでしょう。これは、数十年かかって、女子高校生中心に勧誘を行い、累計数が100万達成で最高の指導者というのも同様であろうと思います。数千人規模で集まったイベントがそのような錯覚を演出しているのに過ぎません。純粋で騙されやすい人間を集めて、嘘八百を並べても、嘘は嘘です。法華経は釈尊の説いたものではなく、日蓮教学は現代科学の前に破綻している以上、国立戒壇もあったものではありません。
やや、話を拡大すれば、ここ10年、日本人が「ノー」と言ってきたのは、いわゆる、カルトということでした。この理由は至って簡単で、反社会的という一点にその理由があります。また、この信念体系化に陥ることによって起きる人格変化も、拒否の対象です。
日蓮教学も含めて、宗教外一神教化するところには、差別と暴力が発生するという普遍的な原理があると見聞できます。しかし、人々にとって、何を信じているかは問題ではなく、何をしているかが問題であるわけです。
目的達成のために暴力が肯定されるのであれば、もはや、それを受け容れる人はいない、仮にいるとすれば、それは受け容れたのではなく、屈服したのに過ぎないわけです。それは自由と、人権の侵害であるということでしょう。
10
:
陣内
:2005/07/16(土) 21:02:59
>法華経は釈尊の説いたものではなく、日蓮教学は現代科学の前に破綻している
とすれば、それでも日蓮・日蓮教学にこだわる理由は何でしょうか?
やはり、何らかの形で日蓮を信じているのですか?
11
:
犀角独歩
:2005/07/16(土) 21:16:30
> 日蓮・日蓮教学にこだわる理由は何でしょうか?
> 何らかの形で日蓮を信じているのですか
過去40年間、自分が信じてきたものの種明かしは、日本という社会の今後の役に立つと思うからです。要は、自分と同じ無駄を省略できる人を減らしたいという思いです。
ところで、そう尋ねるとあなたは、始めての書き込みですか。
人にものを尋ねるときは、挨拶ぐらいするものですよ。
12
:
陣内
:2005/07/16(土) 21:36:27
すみません。久しぶりに書き込みました。以前、別スレッド「摂受と折伏について」で一度
お話致しましたね。
>自分と同じ無駄を省略できる人を減らしたいという思いです
では、日蓮教学を否定していかれるのか、現代人が受け入れられるように
修正していかれるのかといったことをお聞きしても宜しいでしょうか。
13
:
犀角独歩
:2005/07/16(土) 21:57:26
そうですか。お話しましたか。いま、確認しました。最近、どうも耄碌してきたようです。ご勘弁ください。
> 日蓮教学を否定…現代人が受け入れられるように修正
事実の形を事実のままに記述することは否定ではないと思います。いわば、分析でしょう。もちろん、信仰とは違います。また、わたし自身が修正すれば、もはや、それは日蓮の教学ではなくなります。ですから、まず、日蓮の教学の原形を探る段階で、中途の添加をまず削除し、ついで、現代以降も耐用性のあるものがあるかどうかを探る作業をしているわけです。
さて、残るかどうか、現時点では、答えが出ているわけではありません。
なお、わたしの言が、日は的であると思う場合、大概の日蓮僧俗の反応は、必ず批判する側への攻撃となります。これは日蓮僧俗の嫌われる原因の一つですね。
わたしが悪いところを挙げれば、実際に社会に受け容れられている善い点を挙げるというのが、最も効果的な方法であると、わたしは思います。
14
:
犀角独歩
:2005/07/16(土) 21:59:36
【13の訂正】
誤)日は的
正)批判的
15
:
陣内
:2005/07/16(土) 22:19:09
有難うございます。
>日蓮の教学の原形を探る段階で、中途の添加をまず削除し
とはいいましても、大まかなアウトラインは動かないのでは?
つまり、法華経が諸経より勝れているという主張も添加である
とは言えそうにないので、法華経が >釈尊の説いたものではなく・・・
というのであれば、基礎が潰れるので、>現代以降も耐用性・・・ は絶望的です。
16
:
犀角独歩
:2005/07/16(土) 23:02:53
> 現代以降も耐用性・・・ は絶望的
法華経が釈尊の説いたものといいう点は、絶望的はおろか、既に破綻しています。
しかし、法華経が説こうとしたもの、目指そうとしたものが、精神的に卓越したものがあれば、そうとは言えないかも知れません。
キリスト者が、世が1週間出来た天地創造やら、土からできたアダム、肋骨からイブが出来たとかという話をかつては絶対の真実としていながら、いまでは寓話として、精神、社会貢献で生き残ってきました。精神・生活規範として、人類に貢献する部分があれば、生き残るでしょう。そのようなものが日蓮にあるかどうかです。
17
:
陣内
:2005/07/16(土) 23:59:07
>法華経が説こうとしたもの、目指そうとしたものが、精神的に卓越したものがあれば、そうとは言えないかも知れません。
そうですね。その方向性なら、きっと実りある作業になろうかと思います。
質問に答えていただき有難うございました。
18
:
犀角独歩
:2005/07/17(日) 00:05:33
陣内さんは、なかなか‘肉’のある応答をされる方ですね、いま、はじめて印象に残りました。
また、お気軽にお声掛けください。今度は、記憶しました。
この次、わたしが「はじめてですか?」と書いたら、「これは耄碌している」と諦めてください(笑)
23
:
問答迷人
:2005/07/17(日) 21:34:11
>法華経が説こうとしたもの、目指そうとしたものが、精神的に卓越したものがあれば、そうとは言えないかも知れません。
僕は、現在も日蓮聖人を宗祖と仰いでいますので、この点については賛同しますが、さらに以下の様に考えています。
日蓮聖人が説こうとしたもの、目指そうとしたものに、卓越したものがあると信じているので、破綻しているとは考えていない。
そして、日蓮聖人の教えの卓越性を自分の行動、人生に顕したいと願っています。
24
:
顕正居士
:2005/07/17(日) 22:23:00
Aさんが「素朴な疑問」スレッドの2543に投稿された堀米日淳師(大石寺65世)の文章にはこのスレッドの4に
述べた「派祖の見解が宗祖の見解と相違すれば、宗祖の方をとるべきである。宗祖の見解が仏陀の金口と
相違すれば、仏陀の金口をとるべきである。これ以外にあり得ないから、少なくとも建前では皆が承諾して来た
事柄である」と、一見は異なる考え方があらわれているので、この文章を考察してみたいとおもいます。
Aさんが御投稿の文章を次に転載します。
25
:
顕正居士
:2005/07/17(日) 22:23:59
日蓮聖人と法華経
日蓮聖人と法華経との関係は聖人の教義を領解し奉る上に最も大切なことで、根本的の問題
であり又教義そのものでもある。古来門下の教学に於て幾つかの異義が行われておるが、結局
此の関係に於て見解が異っておるからである。或るものは終始法華経を中心として、聖人の御
一代の弘教を判断してゆこうとするし、或るものは聖人を中心として法華経を判断してゆこう
とする。此の二つの立場が基礎となつて、大きく二つの潮流をなして、此の上に幾つもの異義
が成立しておる。
そこで聖人の教義を正しく領解し奉るには先ず此の立場が批判されねばならない。法華経は
仏教の教典中最勝第一であるとし、此れを鉄則として、聖人の教義を此の眼で見て、御一代の
弘教を会通し法華経の要約と敷衍とにあると考えることは、聖人の教学に於て正しい立場とは
いえない。聖人の教義はあくまで聖人の御書に依て判断せられねばならない。
もつとも此の点については上述の無条件に法華経を中心として判断するものと.聖人の御書から
その帰趨は法華経を中心として聖人の弘教をその要約と敷衍とにあるとするものとがあるが、
そういう立場をとる人は知らず知らずの間に前者の跡を踏襲しておるものである。
此れは教学の上から見れぱ明らかである。
最初聖人の門下に於て教学を学ぶものが先ず仏教学として天台を学び、その上に聖人の教義を学
んだのである。それがために天台の教義に制約せられて、真に聖人の御精神を領解し奉ることが
できなかったのである。
後に於ては、かくして成立した教義を踏襲して如何に之を証明づけるかということに努力が払わ
れたのであった。
聖人の御書に接することができるようになってからもその流義のきはんに束縛せられたものには
寧ろ御書はその流義の証明に役立たせるにほかならなかつた。
此れについては二祖日興上人が「聖人の御抄を心肝に染め、極理を師伝して若し間あらば台家を
学ぶぺきこと」と、御遺誡置文に仰せられたが、学者は先ずその態度をはっきり決定して、法門
を学ぶべきと教えられたもので、当時門下に於て天台を学び、その教学を中心として、聖人の
教学に臨むという風があったのに対する御誡めである。聖人の教義は徹頭徹尾聖人の御書によって
決定されねばならない。
ここに於て論者の中には、釈尊と聖人とに於て仏教といえば釈尊が主である。聖人の御書の
意と釈尊の法華経の意といずれをとるかといえば法華経をとるというものがあるが、此れは法
華経に上行を称歎せられ、於諸法之義名字及言辞楽説無窮尽如風於空中一切無障碍と仰せられ
た御文からいって釈尊の証明を尊重しないものである。此の経文の意からいって聖人の御教示
は末法に於ける仏教に於て絶対に権威のあるものである。それ故に聖人の教義は御書に於て決
定せられて少しも差支えないのであって、そうすることが最も正しいのである。 以下略
26
:
顕正居士
:2005/07/17(日) 22:25:50
1 「聖人の教義は徹頭徹尾聖人の御書によって決定されねばならない」
まずこのことは当然です。天台妙楽の釈などともし相違するところがあっても無理に「会通」をするべきではない。
派祖やその後の諸師の説と相違するところがある場合にも、同様に無理に「会通」をするべきではありません。
および日蓮聖人の遺文の趣旨は13世紀日本の社会状況を理解して読まれねばならないし、語法は当時の文書
を参考に解釈されねばなりません。
2 「二祖日興上人が「聖人の御抄を心肝に染め、極理を師伝して若し間あらば台家を学ぶぺきこと」と、
御遺誡置文に仰せられた」
日蓮を学ぶ者はまず遺文をその意義を理解せずとも、おおよそこれを暗記すべきである。これも当然のことです。
ただし遺誡置文は興師の作でなくても上代の著述に属し、日蓮を学ぼうとする成人についていう。少年得度僧に
「台家を学ぶ」学力などあり得ないから。
3 「或るものは終始法華経を中心として、聖人の御一代の弘教を判断してゆこうとするし、或るものは聖人を
中心として法華経を判断してゆこうとする。此の二つの立場が基礎となつて、大きく二つの潮流をなして、此の上
に幾つもの異義が成立しておる」
「二つの潮流」というから一致、勝劣のことであろう。一致、勝劣は教義的というよりは党派的な区別である。
および「法華経を中心」とするならば、天台妙楽の釈に必ずしも拠らない、以外の先哲の解釈を採用することが
ある潮流の意味であるが、日蓮宗史上にそういう派は存在しない。
4 「釈尊の証明を尊重しないものである」
これを、大石寺は仏教に非ず、独立の教なりとの趣意に解すれば、誰を開祖とするかの問題が起こる。宗祖の
遺文はことごとく「釈尊の証明」に訴えている。この派の教義を大成した日寛師もわが派が仏教から独立すると
いう宣言はしていない。大石寺がすでに仏教、キリスト教などと並列する独立の宗教だというのは構わないが、
開祖の名や開宗の年号をいうべきであろう。あるいはこの文章がそうなのであろうか。
27
:
犀角独歩
:2005/07/17(日) 22:32:15
ちょうど、投稿文を書いていましたら、問答さんのご投稿がありました。また、顕正居士さんのご投稿もありましたので、一応、書き終えたので、投稿することにします。追って、顕正居士さんのご投稿については、拝読させていただきます。
問答さんは「破綻」とは考えないとのことですが、わたしも精神論、信仰として完全に破綻したとは思っていません。ただ、「法華経は霊山八箇年の本懐の、お釈迦様が説いたもの」と言った類の部分で破綻したという意味で記しました。
> 日蓮聖人の教えの卓越性
この点をしっかりと言語化でき、実践化できれば、たしかに21世紀に日蓮は継承されていくだろうと思います。
その前提で、科学実証主義の前で、もはや日蓮の教えは消え去っていくのか、どうなんだろうという点を観察しています。日蓮は鎌倉時代の人ですから、日蓮のパーソナリティでいまの学問的成果を掌握したとしたらどうするのかという建て直し方も可能かも知れません。それとも、日蓮本仏下のように、学問的成果を認めず、御書は全編、真筆、相伝も事実、法華経は釈尊の直説、羅什は最高の漢訳者、天台・妙楽・伝教の釈は最高という100年前と変わらぬ教え混みを信じ込むことだけで、自分の信仰を成り立たせるのか。さて、どうするのかという問いかけを、当スレは含んでいると思います。
顕正居士さんが学問仏教、葬式仏教、仏教系新興宗教と三つに分類してくださったところは、たいへんにわかりやすいと思います。上記の事情を考える、適当な名前は思いつきませんが、伝説・神話仏教といった18世紀以前の形をそのまま、信仰する形態というのも一つ分類に立てられる気がします。因習仏教と言ったところでしょうか。そして、それが日蓮門下一般の形態で、学会を含む石山という信仰圏はこれに当たる気がします。それでも、学会の破門(独立)後は、ここからの転換を図っていると言えるのかも知れません。しかし、今のところは何もまだ成功していません。
学問仏教は、科学的、学問的成果を追求し続けます。しかし、岩本裕師が言うような門派護教といった自己肯定化に陥る自分(僧)と自分のお客さん(檀家)へリップサービスをするような学者の言うことは、掃いて捨てればよいのでしょう。要は「ご都合」の清掃です。言っていることのどこまでが、保身から、事実を枉げているところかを見極めないと、「大学者」の言うことだから正しいなどという坑に墜ちます。「学問とは○○先生の書いていることだから」ではなく、「最も信頼の出来る、最も新しい学問的成果は何か」を見る姿勢を忘れれば、カリスマ信仰と何ら変わらないものになってしまいます。
葬式仏教は、どうでしょうか。これはわたしが一つ付け足したらどうかと言った檀家制度以降の旧態依然とした科学の進歩から置き去りにされることで成り立っているところでしょうか。まあ、葬儀にニーズがあれば、わたしは、故人のためというより、遺族の満足のために、この形が、まだ少しは生き続けるとは思います。案外、この形を壊し始めたのは創価学会の友人葬なのかもしれません。それまでの葬儀に‘慣れた’人からすれば、違和感があり、高級感がなく、なんだか、即席、適当にやっているという印象を与えているようです。しかし、尊敬もしない坊さんは呼ばないという学会の考えは、まあ、わたしには一つの形と映じます。「あと、30年もすれば、坊さんは葬式で食えなくなる」、そう言った日蓮宗僧侶がいらした。正しい分析であろうかと思います。
28
:
犀角独歩
:2005/07/17(日) 22:32:42
―27からつづく―
わたしのところには毎日のように多くの相談が寄せられますが、最近、「戒名ってどうやってつけるんですか。自分でつけちゃ駄目ですか」といった類の問い合わせが入るようになりました。漫荼羅でさえ、ネットからダウンロードして、自分の納得のいく紙を選びプリントし、表装することが起きている現在、自家製戒名は、ある意味、戒名不用と並ぶ、新たな時流となるのかも知れません。わたしはこれもありだと考えます。「親からもらった名前ではなく、ネットでは自ら決めたハンドルネームで行く」というのが、先駆けであれば、死んだのちの自分の名前(戒名)を自分で決めるという流れが生じるのは、寧ろ必然とすら思えます。
宗教は所詮人間が作ったものだ。人知を越えたものなど、実は何もない、という当たり前のことがわかると、いままでの脅迫衝動は一挙に消滅します。「まだ、科学でわからないことはたくさんある」、そんなことは当然ですが、しかし、そのあとに、故に、わたしは続けてきました。「だから、科学性以前の宗教じゃ尚更のこと」。
しかし、人間は老いさらばえて、やがて病み、死にます。この摂理の前で、日蓮さえ、無力でした。無宗教の人が立派に死んでいく姿をわたしは幾例も見てきました。また、反面、唱題の力で、闘病を越え、立派な死を迎えた例もたくさん、見ました。
原型の仏教より、それ以降の発展系のなかで、秀でた部分もたくさんあると思います。
シャキャムニの教えは、林棲し、死に向かう教えという側面が強い気がします。ですから、一般社会を生きるためには役に立たないところもたくさんあります。しかし、それだけに死に行くためには有効であると思えます。
日蓮の教えはどうでしょうか。その教学体系=法華経釈尊究極の直説という教義大綱は、先に記してきたとおり、既に潰えてしまいました。けれど、実際に、唱題をした、各人の実体験は、そのような点を超えて人生に大きく役立った部分もあります。反面、勤行唱題に逃げ込んで、それだけで自己満足してしまう思考と行動の停止を呈しているという信者が気が付けない坑に墜ちている部分もあります。
四箇格言差別とも言うべき日蓮門下の脅迫衝動。彫刻本尊信仰圏で言えば、模造の彫刻、日蓮本仏、血脈談義。信不信によって醸造される差別と憎悪です。
しかし、日蓮の消息文に見られる細やかな感性、(日蓮なりに考えたことであったにせよ)正しいこと、それを貫こうとする正義心。親を思い、国を思う心等。賛同し、見習うべき点は数多あるようにも思えます。
現代人が納得できる日蓮教学は、換言すれば、 現代人を納得させられる日蓮教学ということでしょうか。しかし、その教学は集団、指導者の商業ツール、説得、購買動機の説明原理から決別し、各個人的な精進のために吟味する段階に入ったのだと、わたしは思います。
29
:
犀角独歩
:2005/07/18(月) 09:09:54
> 25
このような姿勢は、多かれ少なかれ、門派・派祖教学には、日蓮に限らず、恵心流口伝法門辺りでも見られることなのでしょうが、しかし、なんとまあ、ひどい文章だと思いました。こんなものを読んで「素晴らしい」と思うとすれば、これはかなり重症だというほかありません。
そもそも言うところの「御書」は真偽選定すらされていない自分達のご都合で解釈されるところであり、石山においては、たとえば、「釈尊」とあっても、それを「日蓮」と読み直し、本仏の意義を添えてしまうわけです。第一段階として、御書によるといいながら、実は相伝に拠っているのであって、その相伝は日蓮に由来すると信じるという条件を勝手に付したうえで、唯授一人の指導者のみが正しく相承し、その解釈権も保持するというわけです。こうなれば、どのような解釈も可能であって、つまるところ、御書のとおりでなくても一向に構わないと言う悪弊が生じることになります。
なるほど、どのような形で、勝手解釈が罷り通るようになるかを示す好見本のような文章であると思った次第です。
30
:
01
:2005/07/18(月) 13:59:18
ここまできましたか。うーむ。
31
:
空即是進化
:2005/07/18(月) 21:37:11
管理者さん、顕正居士さん、犀角独歩さん、本スレッド立ち上げありがとうございます。
息をひそめて議論の展開を見守っている方が、かなりいらっしゃるのではないでしょうか。
簡単に結論が出るようなものでないことは百も承知ですが、よろしくお願いします。
特定の宗教を信じることの怖さを改めて感じる日々ではありますが、何らかの超越した
モノを欲するのも人間の本能の一部ではないでしょうか?
特に子育てをしていて思うのは、親として子供たちに自信を持って伝えるものが無いと
いうことのさびしさです。
敗戦後の親たちは、それまでの価値観を捨て去り、新たに信ずるものを求めて、子に伝
えようとしてきました。それから60年、私たちは何を伝えようとするのか。
「21世紀の日蓮」に期待するところ大です。
今のところ、私の方から情報提供できるようなものが思い当たりません。それでもよけ
れば、次回のオフ会に参加したいと思うのですが。
32
:
犀角独歩[TRACKBACK]
:2005/07/19(火) 08:24:50
空即是進化さん、オフ会への参加を歓迎します。
さて、先に挙げた15のことは、わたしは実はかなり早い時期に自分では知ってました。しかし、閉じた心がそれを事実として受け入れませんでした。たぶん、ロムされている方の大半も、段階の差こそあれ、いまはそのような状態ではないでしょうか。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1039933512/r1705
残念ながら、わたしがここで確認したことは紛れもない事実であって、もはや動きません。しかし、日蓮は、法華経が釈尊最期8年の唯一最高の極説であるという大前提から、その教理を打ち立ていました。そして、日蓮にとって、信行学は相依矛盾しないものであって、分離して考えるものではありませんでした。しかし、現代の日蓮信奉者は、その分離を余儀なくされています。
わたし自身、僧侶の、また、信者に多くの知人があり、友人があり、以上のことをストレートに述べることに躊躇がありました。また、それをストレートに認めてしまうことは、自己実存の否定ともなる点で恐怖を帯びていたために回避していたのも事実です。しかし、そのような惰弱、脆弱なことで自分を誤魔化し続けるのは時間の無駄ですし、また、話し合える場所がある以上、ここでしっかり書き残しておこうと思ったわけです。
以上の話をし、日蓮門下という立場にあって、これをストレートに認め、護教保身を超えて、真摯に応じてくれた日蓮に関わる人を、まだ、わたしは2人しか知りません。
一人は富士宮の日蓮宗寺院住職・貫名英舜師であり、もう一人は沙門行明師です。貫名師は日朝像を祀る寺院の住職ですが、寺院で生まれ育った方でした。住職になってから寺院興隆にを勤め檀家も増加させてきました。一方、ここ10年、積極的にカルト問題と取り組んできた活動家でもあります。バランス感覚のある師は、保守的な寺院典礼、運営で、上記のようなことを話すことはありませんが、「さて」と腰を据えて話すとき、まさに上記の内容を避けず、逃げず、真正面から考え、思索してきました。当掲示板の身延・西山・石山・北山観光オフの際、皆で、帰りに押し掛けて、話を聞いたこともありました。
師の結論は、「空」ということでした。結局のところ、仏説、論釈、日蓮教説も含めて、悉く一切は、「空」であり、仮であった。しかし、それをとらえていけば、実のところ中道として意義を見出せるという点に活路を求めておられました。そして、その起源を、「無常」という釈尊の悟りに求めるという形で思索を進めているようにお見受けします。
もう一人は、沙門行明師で、四半世紀前、渡印し、藤井日達師の弟子となり、インドに3寺を建立。その後、一宗派の所属を克ち、一人の沙門として、日印を往復しています。
また今回も、本日から出発され、アルメニアグルジアドイツ英国…カシミール…ラダック…アルメニアグルジアロンドン…アンダマンニコバル諸島と、それぞれの仕事を済ませ、9月に帰国と言うことでした。年収200万円といい、インドでは、乞食を主とし、いまは、唱題に限らず、マントラも称え、念仏道場にも訪れるも言います。海外における宗教者の役割は、日本と比べものにならないと、師は言います。発言の持つ力が大きく民衆と政治・経済の指導者を動かす要因となるということです。また、インドにおける沙門は、その人が何を説いているのかというより、戒律を護り、僧侶としての生活をちゃんとしているかどうかのほうが遙かに大きな意味を持つともいいます。「漢字で書かれた漫荼羅を見せても、なんだか、理解されません。ただ、唱題するより、太鼓を打ってのほうが人々の心も打ちます」という万国共通の民衆の反応を話してもらったことが印象に残っています。この師の結論も、やはり、空、無常無我という点に迫るもののように思えました。
33
:
犀角独歩
:2005/07/19(火) 08:25:21
―32からつづく―
わたしが仏教談義をして、もっとも納得がいったのは精神科医・高橋紳吾師でした。師は、当初、龍谷大学で仏教を学んでいましたが、その本質を極めるために精神医学を修める必要があると考え、医師に、それも精神科医となった人です。その専門は宗教病理学と犯罪心理学でした。何度か紹介しましたが、以下の文章は、その思索を簡潔にまとめた秀でた師の仏教見識であると考えます。少し長いのですが、引用します。岩波書店から発刊された『超能力と霊能者』の一節です。
―― 教祖の釈迦は、現代のカルト的宗教が説くような、「私を信じなければ不幸になる。地獄におちる」式の脅しの言説は一切していない。
とはいえ仏教が輪廻思想から自由でないのは、当時のバラモン(婆羅門)や沙門(シュラマナ)たちが共有していた文化的な枠組みのなかで釈迦が生きていたからだが、釈迦にとってより重要だったのは、死後の世界よりもいま現在の人生問題の実務的解決であり、苦悩の原因が執着によっておきることを解き明かし、それらは正しい八つの行ない(八正道)を実践すること(道諦)によってのみ解決にいたるという極めて常識的な教えを提示することだった。とすれば人生問題の実務的解決は、釈迦に帰依しなくても実践できることで、したがって釈迦は秘技伝授の超能力者でも霊能者でも、ましてや「最終解脱者」でもなく、もちろん「神」のような絶対者でもなかった。しかしカリスマを求める周囲の心情はいつの時代も変りがない。死後の釈迦は次第に神格化され、俗化される。たとえば釈迦の骨がフェティッシュな崇拝の対象となったり、、釈迦の言説とされる教典それ自体が信仰の対象となったりという、釈迦が最も忌避した「執着」へ人々は再び回帰したのである。そこにあるのは象徴(シンボル)の病である。
もっとも八正道の実践だけでは出家修行者のみ可能な小乗仏教であって、これでは一般大衆には宗教的な喚起の世界は与えられない。そのために救済のビジョンが必要で、大乗仏教における阿弥陀信仰のように、方便として帰依の対象が求められる。これは補助自我とみなすことができよう。それは超越的な形態をとっていても、もう一人の「自分」なのであるから、その「超越者」を「信じている」自分を調べる義務は、その個人にある。
(補助自我−自我のかたわらにあって、自我の充足を助けるもの。「ペット」や「わが子」のレベルから「思想」や「神」などの抽象的なものまである。) ――
執着から脱却、象徴(シンボル)からの脱却、八正道、菩薩道、補助自我といったところがキーワードでしょうか。
執着は煩悩と言い換えても善いかも知れませんが、これと象徴の病は同義異語であり、つまるところ、無常無我、また、のちの空(さらには三諦)といった観念とも矛盾しないと思えます。また、それらを内実的な結論とするとき、対外的に具現しようとすれば、それは菩薩道という様態を採ることに、わたしは賛成します。(もちろん、涅槃経説は問題外ですが)
以上の前提から、日蓮を点検すると、どうなるのか。わたしは日蓮の言っていることは、ある面、短絡過ぎないかと思うところが多くあります。法華経は絶対だ。だから、帰依すれば、人も国家も安泰になる。究極は南無妙法蓮華經だ。口に唱題、身には漫荼羅を帯すれば現世安穏・後生善処であるというわけです。法華経、題目、漫荼羅といったものが完全にシンボル化しています。さらにその‘安全’を保障するものは「信」であるというわけです。まあ、俗化して表現してみれば、どんなことになっても日蓮と法華経・題目への信仰を捨てなければなんとかなる。本当は何とかなるんだが、過去に積んできた悪い業でそうならないので、その罪障消滅をすれば、その後は善くなる、といった思考パターンに拠っているわけです。
いまだ日蓮信奉下にある人は怒るかもしれませんが、結局のところ、この思考パターンは「善くなりたい」という執着から、一歩もでていません。この執着は、煩悩と言い換えてもよいかもしれません。しかし、実際のところ、この点検が、日蓮の実像とあっているかどうか、わたしは考えています。ただ、以上、デフォルメした素描した日蓮信仰は、もはや、無常無我を標榜した仏教というより、俗化した密教に近いようにわたしには映じます。こんな部分で日蓮を前面に押し出しても、欲得と、死・病の恐怖に振り回される人には通用しても、真剣に人生と社会を考える人々からは冷笑を被るばかりでしょう。
以上の前提から、では、日蓮は、ということです。
34
:
問答迷人
:2005/07/19(火) 22:00:36
犀角独歩さん
>無常無我を標榜した仏教というより、俗化した密教に近いようにわたしには映じます。こんな部分で日蓮を前面に押し出しても、欲得と、死・病の恐怖に振り回される人には通用しても、真剣に人生と社会を考える人々からは冷笑を被るばかりでしょう。
原始仏典にみる釈尊の教えは、人間は、苦・空・無常・無我なる存在である、と達観することに尽きるのだと思います。
しかしながら、大乗の教えは、人間とは苦・空・無常・無我なる存在であると達観した時に、浄・楽・我・常の世界が開かれると教えたと考えています。所謂、『我此土安穏・天人常充満』と法華経に説かれる如くです。これは、俗化した密教と軌を一にするとお考えでしょうか、或いはどう違うとお考えでしょうか。
35
:
犀角独歩
:2005/07/20(水) 08:57:43
問答名人さん
> 『我此土安穏・天人常充満』と法華経…俗化した密教と軌を一…或いはどう違う
まず、整理したいと思いますが、挙げられる経文は言うまでもなく自我偈です。
一方、常楽我常は涅槃経の所説ですから、この偈が契当すると言えば、法華の涅槃的解釈と言うことになるのでしょうか。
少し調べてみましたが、常楽我常は涅槃経の哀歎品等に説かれることのようです。あと、延命十句観音経の
「観世音 南無仏 与有因仏 与仏有縁 仏法僧縁 常楽我浄 朝念観世音 暮念観世音 念念従心起 念念不離心」
というのがあるとのことでした。
たしかに、学会を含む石山門下では常楽我常は特記されるところで、たとえば、石田次男氏なども、四大真徳といい、これを取り上げていた記憶があります。
以上の前提で、天台が言う三妙合論はたしかに仏の常住、その国土の常住、安穏を言う如くで、常楽我常と類型と感じさせます。
ご質問の意図は、やや斟酌しかねますが、涅槃経にいたり、常楽我常は説かれるところの、密教との関連ということでしょうか。
法華経の編纂成立は紀元前100年から遅くとも300年頃までということのようです。
その後、早い時期に漢訳され、天台も解釈を付けますが、その頃、密教はまだ中国には伝わっていなかったわけですね。では、インドにおける密教は?ということになりますが、この辺りはどうなのでしょうか。仏教の密教と言うより、インドの雑多な信仰形態が仏典と称されるものと一緒に持ち帰られ、中国で仏典として扱われたと考えたほうがよいように、どうもわたしには思えます。ヒンドゥー教と一言で言うとあまりにも大雑把すぎますが、ともかくベーダー以来の呪(まじな)いやらなんやらが結局は仏教といわれるものと習合して成立していくのが密教であって、どうにも、定義することに困難を覚えます。密教は小乗・大乗を超えた金剛乗だと言うわけですが、わたしはこんなものが仏教だとは到底思えません。俗信、迷信、呪い、祈祷といった類に映じます。これを仏教という気は起きません。しかし、信者のニーズはこちらのほうが大きかったのでしょうか。大乗経典成立時に、既に金剛乗の影響があったかどうか。どうでしょうか。
また、その密教の成立が、法華経、涅槃経に影響を与え、仰るような常・楽・我・浄という、無常・苦・無我・不浄(染?)の逆転的な発想として固定したのかどうか。わたしにはよくわかりません。どなたか補完していただければ有り難く存じます。
やや、資料手放しで記します。
現代風の言い回しをすれば、仏は衆生の最終様態と言うことになりますから、その常住を言い、常楽我常とそれまでの教えを180度逆転させてもよいと、一応は言えるのでしょうか。しかし、これが直ちに衆生全般に当てはまるとは思えません。「時我及衆僧 倶出霊鷲山」と仏僧(梵本では、たぶん、仏と四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)を意味していたのであろうと思いますが)が霊鷲山に現れることを示します。
その条件として、「広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心 衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命」と舎利供養・不自惜身命という条件が示されています。六道の衆生は有為転変にあり、無常・苦・無我・不浄(染?)なのではないでしょうか。しかし、霊鷲山は違うという、ここに聖地信仰が成立している如くです。
この霊鷲山信仰とも言うべき、法華経の際だった特徴が、の三宝の常楽我常を示す如くで興味が惹かれます。
個人的な意見を言えば、常楽我常を言ってしまった仏教は、当初の釈尊が確立した無常・苦・無我(・不浄(染?))のいっさい逆を言い、つまり、その前の状態に戻り、元の木阿弥となり、ここに仏教は終わったように、わたしには感じられます。それは大乗から、密教という仏教ではない教えの幕開けと軌を一にしたとは言えるのかも知れません。
36
:
問答迷人
:2005/07/20(水) 10:52:15
犀角独歩さん
>常楽我常を言ってしまった仏教は、当初の釈尊が確立した無常・苦・無我(・不浄(染?))のいっさい逆を言い、つまり、その前の状態に戻り、元の木阿弥となり、ここに仏教は終わった
という事は、涅槃経は仏教ではない、と判断されているわけでしょうか。
37
:
犀角独歩
:2005/07/20(水) 11:43:50
問答名人さん
> 涅槃経は仏教ではない、と判断
悩ましいところですね。なにをもって仏教というか、という問題になります。
これはあくまで個人のことですが、わたしは八正道、四聖諦ぐらいまでしか、仏教と思っていません。十二因縁となるとどうだろうかという感じです。
要は、シャキャムニが説いた(可能性のあるもの)ものまで、ということです。
そこから、その後の発展、また、仏教の名の下に拡大解釈されていったものをどこまで、含めるかという点で、答は出していません。つまり、この決定ができないのは、白黒できちんと分けられず、大乗経典のこの部分は初期経典から延長、ここはイラン系の習合、ここはギリシャ、漢訳のこれは中国思想…、ここはどこのものだろうかという具合に判断しかねるからです。多かれ少なかれ仏典といわれるものは、習合、混淆が織り混ざっていますので、一経まるごとを仏教・非仏教と区分するより、句節、思想ごとに分類しなければならないだろうという思いがあるからです。
涅槃経についていえば、『ブッダ最後の旅』として、訳されるようなものは、まあ、受け入れますが、大経などに見られる「刀杖執持・斬首」は、仏説として受け入れるわけにはいきません。ただし、政教一致の書という観点から、為政者の統治論が書かれていると読めば、そんなものだろうとは思います。殊に、涅槃経というのは、ありとあらゆる思想、宗教のみならず、執政に至るまで、いまでは仏教に区分されない内容まで孕んだ種々雑多な集成のように見え、その全体を仏典と言われれば、頷くわけにはいかないという判断です。
もう一つ、個人的な感覚で言えば、わたしは涅槃経より法華経、妙楽より天台のほうが、より仏教的ではあると思えます。では、仏教的という判断肢は何によるのかと言えば、まさしく常楽我浄の逆、無常・苦・無我という点ではないのかという思いがあります。なお、‘浄’という点について、この逆が不浄、もしく染(染浄二法の染)、また、穢と見るような考えは、インド起源と言うより、中国思想的な発想と感じなくもありません。
サハー(娑婆)という概念がどこまで、遡れるのかわかりませんが、この語源は、ご承知のとおり、堪忍(堪え忍ぶ)ということです。この我等が生きる世界を、穢れた世と見たり、衆生の階位(十界分別)の低位を染まり・穢れたものと見るような、「穢れ」思想のようなものが、シャキャムニにおいてあったとは思えません。故に、浄の逆をシャキャムニ以前に起源を探ることは無意味な気もしています。
あとこれはご質問の趣旨からは離れますが、わたしは法華経の涅槃経解釈には反対です。また、妙楽より天台を優位と見ています。
天台、日蓮は法華経を涅槃経で解釈しようとしたところに、そもそもその躓きがあると、わたしには思えます。法華涅槃から、純法華。天台妙楽から天台。その天台から涅槃を除いてみるほうが、より健全な教えになっていくとわたしは思えます。
第一段階として、法華経の涅槃経解釈は止めようと主張しておきたいと思います。
38
:
問答迷人
:2005/07/20(水) 12:19:30
>法華経の涅槃経解釈は止めよう
『自我得仏来。諸経諸劫数。無量百千万。億載阿僧祇。常説法教化。無数億衆生。令入於仏道。爾来無量劫。為度衆生故。方便現涅槃。而実不滅度。常住此説法』
この寿量品の一節は、僕は、原始仏典以来の、仏の概念を根底から改変するものだと思います。そもそも、仏とは『仏に成れば、もう、この世界には生まれて来なくなれる、六道の輪廻を断ち切れる』といった意味を含む概念であったと思います。この点は如何お考えでしょうか。
39
:
問答迷人
:2005/07/20(水) 12:58:37
関連しますが、一つ大きな疑問。それは、覚りを開いたシッダルタが、なぜ人々に教えを説いたか、という疑問です。この世は苦であり空であり無常であり無我であると悟ったなら、そのような世を遁れるべきではなかったのか、という事です。にも拘らず、彼がその後歩んだ道は、所謂九横の大難と言われる迫害の嵐であり、せっかく広めた教えも、程なく元々のヒンドゥー教に飲み込まれて、名のみの仏教に成り果ててしまうわけですから。
この点も合わせてお考えをお聞かせ願えるとありがたいです。
40
:
顕正居士
:2005/07/20(水) 13:04:24
常楽我浄について述べた祖書、玄義の主な文
「外道は常楽我浄と立てしかば、仏、世にいでまさせ給ては苦空無常無我ととかせ給き。二乗空観に著して
大乗にすすまざりしかば仏誡めて云く 五逆は仏の種、塵労の疇〈たぐい〉は如来の種、二乗の善法は永不
成仏と嫌せ給き。常楽我浄の義こそ外道はあしかりしかども、名はよかりしぞかし。而れども仏、名をいみ
給き。悪だに仏の種となる。ましてぜん(善)はとこそをぼうれども、仏二乗に向ては悪をば許して善をばいま
しめ給き」(十章抄)
「馬鳴龍樹菩薩等は仏滅後六百年七百年等の大論師なり。此人々世にいでゝ大乗経を弘通せしかば、諸々
の小乗者疑て云く 迦葉阿難等は仏の滅後二十年四十年住寿し給ひて、正法をひろめ給ひしは如来一代の
肝心をこそ弘通し給ひしか。而るに此人々は但苦空無常無我の法門をこそ詮とし給ひしに、今馬鳴龍樹等は
かしこしといふとも迦葉阿難等にはすぐべからず是一。迦葉は仏にあひまいらせて解をえたる人なり。此人々
は仏にあひたてまつらず是二。外道は常楽我浄と立てしを、仏世に出させ給ひて苦空無常無我と説かせ給ひ
き。此ものどもは常楽我浄といへり是三」(報恩抄)
「大經に云く。一實諦とは則ち二有ること無し。二有ること無きが故に、一實諦と名く。又一實諦とは虚偽無き
に名く。又一實諦とは顛倒有ること無し。又一實諦とは魔の所説に非ず。又一實諦とは常樂我淨に名く。常樂
我淨とは空假中の異り無し。異らば則ち二と為す。二ならば故に一實諦に非ず」
「常樂我淨とは一實諦に名く。一實諦とは即ち是れ實相なり。實相とは即ち經の正體也。是くの如きの實相と
は、即空・假・中なり」(玄義卷第八下)
http://ccbs.ntu.edu.tw/cgi-bin/webgetfile_.exe?pid=27582&offset=8
諸行無常 諸法無我 涅槃寂静 (一切皆苦)〜三法印(四法印) / 諸法実相〜一法印 という。
大乗の涅槃経には法身の常住、涅槃の四徳(常楽我浄)、悉有仏性(衆生内在の法身)が説かれる。八宗の
祖龍樹は生死即涅槃と決択されたから、仏のみならず、衆生も国土も常住である、と中国仏教では考える。
法華経では「諸法従本来 常自寂滅相」といちおう空性の立場であるが、その八不中道(中論帰敬偈)、諸法
実相が法華経の経体であるから、空性の名が妙法蓮華経であると三論宗ではいう(大乗三論大義抄)。
41
:
顕正居士
:2005/07/20(水) 14:28:27
仏教の教義はすべてが六道輪廻の考えの上で説かれている
インド人以外が仏教を含めたインド思想を理解する上で、最も重要な事柄が六道輪廻(輪廻転生)である。
インド人にはこの考えは堅く信じられていて、疑う余地がない、まったく与えられた事実である。われわれ
インド人でない者はこのことを信じていないから、中国人や日本人の仏教では六道輪廻は教義の発明や
解釈のための約束に過ぎない。信じていない者は想像を逞しくするしかない。もしわれわれが六道輪廻を
疑う余地がない、まったく与えられた事実と信じていたら、もう一回でも再生することは鬱陶しく感ぜられる
のであろう。再生を断絶して涅槃寂静の境涯に至る、解脱ということがあらゆるインド宗教の目標である。
死んだら終わりと信じているから、インド人以外は永遠のいのちを得るために、キリスト教やイスラームや
浄土教に帰依する。つまり三世説(六道輪廻)が主観的の事実であるのに対して、二世説(復活、浄土)は
希望である。インド人以外が六道輪廻を信じると云う場合には、もう一回くらい再生したいという願望に過ぎ
ない。死んだら終わりと信じている場合には、それが反対に人情であろう。インド、中国、日本と変遷する
仏教の教義には土台に死生観の相違がある。外来宗教はその民族固有の宗教の上に概念装置としては
君臨しても、決して主観的の事実を変更し得ない。たとえば、日本の仏教系新興宗教は「功徳と罰」を説く。
これは神道系新興宗教の「おかげとたたり」を漢語で云ったに過ぎない。おかげとたたりは祖霊から来る。
日本人は先祖供養を重んじるが、儒教から由来したのではない。主な目的は先祖が祟らないためである。
祟らないようにきちんと祀ったことを日本仏教では「成仏」という。これら基本的な概念はマレーポリネシア
諸民族に共通である。祖霊がいる場所は山岳あるいは叢林(草葉の陰)である。もっとも日本的な仏教の
開祖である日蓮は二世説(浄土教)を激しく嫌い、祖霊の住む場所は霊鷲山(わびしい山岳)であるとした。
三(四)法印、一法印の問題や、なぜ智邈や日蓮が大乗の涅槃経を重視したかは根本的に民族の死生観
の相違に由来する。
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