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つぶやきすれっど2
574
:
問答迷人
:2003/03/21(金) 08:42
顕正居士さん
>訓読-「甲を乙とする」は「以甲爲乙」と書く。「甲ヲ以テ乙ト爲ス」と読み、「以」の字が必要です。
納得です。有り難うございました。
>第一壇-釈迦・多宝(塔中)
佐渡流罪の時、文永八年十月九日、相州本間依智において認められた曼陀羅、通称「楊子御本尊」(立正安国会の御本尊集№1)には、南無妙法蓮華経の中尊と、愛染・不動の梵字のみで、釈迦・多宝も省かれています。勿論、第二壇、第三壇の諸菩薩等も省かれています。
http://campross.crosswinds.net/GohonzonShu/001.html
しかしながら、日蓮聖人の曼陀羅に対する考え方の原点が窺えるように思えてなりません。愛染・不動を脇士と考えると、中尊の南無妙法蓮華経は大日如来を表している、という説が有りますが、密教の曼陀羅と法華の曼陀羅が融合されているのではないかと思っています。
さらに、日蓮聖人の認められた曼陀羅は、その共通する形として、第一壇の、宝塔を表している南無妙法蓮華経は、第一壇、第二壇、第三壇を貫く形で、最も巨大、且つ、太字で描かれています。つまり、中尊の南無妙法蓮華経が、他の諸尊に対して、極めて優越的に描かれていますが、そのような描き方を以て、日蓮聖人は、何を表そうとされたのかと言う点、如何お考えでしょうか。これは、本尊問答抄の「法華経の題目を以て本尊とすべし」の箇所とも関連してくる様に思いますが。ご教示賜りますれば幸いに存じます。
575
:
問答迷人
:2003/03/21(金) 08:49
一字三礼さん
ご無沙汰致しております。宜しくお願いいたします。
>この首題を含め、「南無」を冠した諸尊とは、対面者側の帰命の意思表現である。
何を根拠として、このように判断されたのでしょうか。もう少し詳しくお考えをお聞かせいただけませんでしょうか。宜しくお願いいたします。
576
:
問答迷人
:2003/03/21(金) 09:17
川蝉さん
いつもながら、適切なご教示有り難うございます。清水龍山師の
>一、本門の本尊の体相を明かして、『本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙○経の(主尊)左右に(脇士)釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩云々。』
の箇所について、お伺いいたします。「塔中の妙○経の(主尊)左右に(脇士)釈迦牟尼仏・多宝仏」という表現は、『中尊が妙法蓮華経、その脇士が釈迦・多宝』という説のように取れますが、そのような理解で宜しいでしょうか。その場合、塔と妙法蓮華経との関係はどうお考えになられますでしょうか。ご教示賜れば幸いに存じます。
577
:
問答迷人
:2003/03/21(金) 09:24
いちりんさん
こんにちは。ご無沙汰しています。
僕も、漢字がいっぱい並んでいると、やはり、身構えてしまいますね(笑) だけど、朝晩の勤行は、お経の漢文を読んでいて、別に何にも抵抗が無いんですよね。漢文で書いてあると、さぞかし有り難いことが書かれているのだろう、と有り難がる反面、その経文に何が書かれているのかという事には、あまり関心が無い。これって、どこか変ですね。
578
:
川蝉
:2003/03/21(金) 15:54
576 : 問答迷人 さんへ。
前回は、長文で読みにくい投稿になってしまいました。
『本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙○経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩云々。』(昭定712頁。学会版247頁)
との文に従えば、妙○経は宝塔の中にあるのですから、妙○経と左右の釈迦牟尼仏・多宝仏は宝塔の中身・内容と云えますね。
清水龍山師は「左右」を「脇士」の意味としていますが、
山川智応師の
「大曼荼羅の中尊の南無妙法蓮華経は、名は法であっても体は仏でなければならない。左右の釈迦・多宝は、妙境妙智を表して、八品会上の能説を示し、また五百塵点劫の能覚を示し、中央の南無妙法蓮華経は、所説に約しては、境智冥合の常住の仏果を表し、所覚に約すれば、無始の本覚を示されたもので、ともに本仏釈尊の久遠本有常寂常照の一念三千で、本仏の本体をお挙げになったものである。」
との説明では、「左右」を脇士の意味としてなく、左右の釈迦・多宝、中央の南無妙法蓮華経を一具として、本仏の本体としているようですね。
本尊抄の訓についての、諸学者見解を列挙しましたが、細かい点になると、説明に違いがありますね。
顕本法華宗の井村日咸師は
「曼荼羅が虚空会の儀式を写したものとすると、仏在世の事実から見て、お題目の演題が張り出されて居ったのでは無い、
宝塔の中には釈迦多宝の二仏が並坐されて居っただけで、妙法蓮華経は釈尊の御口から宣示顕説され教説として顕れている説法である。故に音顕であるのを、日蓮聖人は文字としてお書きになったのである。また、諸法実相の理体を中央の南無妙法蓮華経で顕したと云うことで、生仏一如十界互具の理論を曼荼羅の形で示されたと解釈ができる。この両面の意義を兼ね具えて居る所に曼荼羅の特徴がある」(顕本法華宗宗義講習録・104頁)
と講義しています。
虚空会を想像し、中央の題目が音顕の面があると考えれば、大きく書かれたことが、うなずかれます。音顕とは、虚空会にて説かれている(音)末法の要法を顕したもの、との意味のようです。
579
:
一字三礼
:2003/03/21(金) 21:07
問答迷人さん:
本当にお久しぶりです。
>>この首題を含め、「南無」を冠した諸尊とは、対面者側の帰命の意思表現である。
>何を根拠として、このように判断されたのでしょうか。
根拠は「南無」の表現する、意味からです。
細かい宗義見解は横に置いて、「南無妙法蓮華経」の文字の意味は、「妙法蓮華経」に「南無」する、帰命するという意味です。ここで「南無」するという行為の主体はだれになるのでしょうか。
この「南無妙法蓮華経」の意味が「妙法蓮華経」が何某かの存在に「南無」する、帰命する、という理解は出来ないと思うのです。
たとえば、2つの表現があるとします。
①南無釈迦牟尼仏(文字)
②合掌印の釈迦牟尼仏像(絵像・木像)
①と②とは、同じ状態を表現していることにはなりません。
①南無釈迦牟尼仏(文字)=釈迦牟尼仏に帰命する
②合掌印の釈迦牟尼仏像(絵像・木像)=釈迦牟尼仏が帰命している
①の場合は、釈迦牟尼仏に帰命しているのは、信仰心を持ってその文字を拝している人と言う事になるでしょう。
②の場合は、釈迦牟尼仏ご自身が、どなたかに帰命している、と言う事になるでしょう。
日蓮聖人の文字曼荼羅は、「文字」の持つ特性によってのみ表現し得るものなのではないでしょうか。
ちなみに私は幼少の頃、なんで曼荼羅の中尊にも「南無」がついているのかが疑問でした。
唱題するこちらが「南無妙法蓮華経」と帰命の意思をいうのだから、帰命を受ける側の本尊は「妙法蓮華経」で良いのではないか、と考えていたのです。
580
:
顕正居士
:2003/03/22(土) 00:48
楊枝御本尊
>何を表そうとされたのか
首題と不動愛染しかありません。首題とは宝塔すなわち、釈迦多宝並坐だから、
これだけでもよいのでしょう。以後、首題と不動愛染の種子は大きく書かれます。
「何を表そうとされたのか」? 「これだけでもよい」という意味でしょう。
>密教の曼陀羅と法華の曼陀羅が融合されているのではないか
法華曼荼羅は元来、不空三蔵がはじめたものとおもいます。
○わが国の天台法華宗は中国とちがって円・密・禅・戒四宗兼学です。日蓮は
山門(天台宗比叡山流)の僧であって、彼の云う天台法華はわが国のことです。
日蓮は少時に虚空蔵菩薩を見神し、菩薩のアイテムである宝珠(チンタマニ)を
感得した。これを得て八宗の章疏がよく理解できたというから、一念三千のこと
である。「一念三千ヲ識ラザル者ニハ佛大慈悲ヲ起シ、五字ノ内ニ此ノ珠ヲ裏ミ、
末代幼稚ノ頚ニ懸ケサシメタマフ」。そして立宗後、日蓮は不動愛染を感見した。
首題は具体では宝塔、すなわち釈迦多宝並坐であるが、抽象では「一念三千」
である。虚空蔵、不動愛染、両箇の見神体験の表現が日蓮の曼荼羅であろう。
581
:
川蝉
:2003/03/22(土) 11:40
579 : 一字三礼さんへ。
今日は。横から失礼します。
合掌は、敬う、帰依する形でありますが、また、合掌印といって、合掌は実相印である云う考えがあります。
「真言見聞」に
「法華経には、為説実相印と説いて合掌の印あり」
(学会版146頁)
とあります。
宗門上古には曼荼羅を木造にする場合は、すべて合掌印であると云う相伝があるそうです。
>②の場合は、釈迦牟尼仏ご自身が、どなたかに帰命している、と
>言う事になるでしょう
合掌の釈尊像は「釈迦牟尼仏ご自身が、どなたかに帰命している」と云うのでなく、実相を説いている事を象徴する実相印の姿と拝すればよいのでしょう。
>唱題するこちらが「南無妙法蓮華経」と帰命の意思をいうのだか
>ら、帰命を受ける側の本尊は「妙法蓮華経」で良いのではない
>か、と考えていたのです。
顕本法華宗のように、中央の題目を音顕とし、「法華経の肝心・末法の要法であるから、南無妙法蓮華経と受持信唱しなさい」と云う説法を表しているのだと受け取れば、中央の題目は南無妙法蓮華経で良いと云う事になりますね。
582
:
いちりん
:2003/03/22(土) 13:02
いちめんでは、『法華経』というお経にあらわされた教え(真理)を拝するのが、南無妙法蓮華経ということなんでしょうね。
ところが、『法華経』というお経にあらわされた教え(真理)とはなにか、と。
それは、いわゆる言葉でいえば、諸法実相。天台流でいえば、一念三千。
で、日蓮さんは、南無妙法蓮華経と。
すなわち、『法華経』というお経にあらわされた教え(真理)とは、じつは「南無妙法蓮華経」であると。そういうことなんでしょうね。
まあ、お釈迦さまも、びっくりですね。
わしは、そんなお経を説いたこともないし、「南無妙法蓮華経」が真理だなんて、聞いたこともないぞ。いったい、それはなんの呪文じゃ、と。
それを唱えて、願いが叶うなどというのは、まるで、バラモンの呪文とおんなじじゃないか、と。
583
:
いちりん
:2003/03/22(土) 14:29
それで、日蓮主義に立つと、
お釈迦さん、なにをいうてるのですか。
あなたは、仮の仏さんで、ホンモノじゃありません。
ホンモノの仏さんは、久遠仏といって、ずっとずっと昔から、仏さんなのですよ。
それが『法華経』を説いているのです。
で、あらゆる仏さんは、『法華経』によって成仏したのですよ。
あなただって、じつは『法華経』によって成仏したのですよ。
……という理屈になるんでしょうかね。
584
:
いちりん
:2003/03/22(土) 14:31
また、ちがう文脈で言いますと、
南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経は、とても似ていますよね。
南無妙法蓮華経というのは、阿弥陀仏に南無することですよね。
阿弥陀さんにおまかせして生きること。
で、南無妙法蓮華経というのも、妙法蓮華経に南無すること。
妙法蓮華経の教えに、南無すること。
さらには、南無妙法蓮華経というのは、お経の名前じゃなくて、仏さまの名前。
いわば妙法蓮華経仏、妙法蓮華経如来という仏さま。それが久遠仏。
その仏さまに、南無する。
その久遠仏におまかせして生きる。
日蓮本仏主義に立つと、南無妙法蓮華経如来と。
そうして、それがそのまま日蓮さんであり、それが板曼荼羅と。
そういうものすごい理屈になりますよね。
まあしかし、そういうのは所詮は、理屈で、
自分というはからいを捨てて、大いなる仏さまにおまかせしていきる。
それが、南無妙法蓮華経。
そういう意味では、仏さまの名前が違うだけで、南無阿弥陀仏と同じでありますね。
さらには、あらゆる宗教は、そういうことなんでしょう。
大いなる神さまとか仏さまとか、○○さまにおまかせして生きると。
585
:
問答迷人
:2003/03/23(日) 09:27
顕正居士さん
>虚空蔵、不動愛染、両箇の見神体験の表現が日蓮の曼荼羅であろう。
なるほど。ずっと疑問に思っていたことの謎解きを初めてしていただいた気持ちです。誠に有り難うございました。
「虚空蔵菩薩から大明珠を授かった」事の意味が、一念三千、南無妙法蓮華経の会得であったと捉えると、曼陀羅中尊の南無妙法蓮華経の意味が鮮明です。また、さらに、愛染・不動の梵字(種子)が、日蓮聖人の実際の感見体験に基づいて、曼陀羅の中尊の南無妙法蓮華経の左右に認められたことにより、大日如来を中尊とし左右に愛染明王・不動明王を脇士として配した、真言密教と軌を一にした本尊が形作られている事に気付きます。
結局、日蓮聖人の教えは、真言密教そのもの、と捉えた方が、より正確に理解できるのではないかと思いました。
586
:
問答迷人
:2003/03/23(日) 09:30
139078 ゲットしました。
587
:
問答迷人
:2003/03/23(日) 17:01
一字三礼さん
>「南無妙法蓮華経」の文字の意味は、「妙法蓮華経」に「南無」する、帰命するという意味です。ここで「南無」するという行為の主体はだれになるのでしょうか。
一字三礼さんのお考えに異を唱えるものではありませんが、この件に関しては、僕は少し違ったニュアンスで捉えていますので、少し披露させていただきたいと存じます。
ごく単純に考えますと、歴史的事実として、日蓮聖人自体が、南無妙法蓮華経と口唱され、さらに、同じく南無妙法蓮華経と口唱するように人々に勧めたわけですから、その場合は、当然、その行為の主体は、日蓮聖人及び、弟子檀那と言うことになります。この段階では、日蓮聖人と弟子檀那とは、横並びであり、対面関係ではありません。曼陀羅の図顕においても、この横並びの関係は引き継がれていると考えるのが、ごく自然ではないでしょうか。つまり、曼陀羅は、「日蓮聖人の己心中所行法門をそのまま、弟子檀那に対して説示したもの」であり、その曼陀羅説示によって、初めて、弟子檀那が正しく日蓮聖人の修行をそのまま引き継ぐ事が可能となったのだと思います。
つまり、首題、及び諸尊に南無を冠したのは、根本的には、『日蓮聖人の、諸尊に対する帰命の意思表現』であり、曼陀羅図顕に当たって、「日蓮と同じく諸尊に帰命すべし」と弟子・檀那に説示されたものだと思うのです。
まぁ、「なんだ、そう大差ないではないか」と言うこととになるかも知れませんが・・・
588
:
問答迷人
:2003/03/23(日) 18:46
川蝉さん
重ねて、ご質問致します。
>妙○経と左右の釈迦牟尼仏・多宝仏は宝塔の中身・内容と云えますね。
となると、結局、宝塔=妙○経と釈迦・多宝、と言うことでしょうか。
>虚空会を想像し、中央の題目が音顕の面があると考えれば、大きく書かれたことが、うなずかれます。
確かに、そのように捉えることは可能だとは思いますが、法華経では、虚空に宝塔が浮かんでいます。曼陀羅から逆に考えると、宝塔も、実は、釈尊の説法、音顕と言うことになるのでしょうか。この辺りの整合性がもう一つスッキリしないように思いますが、如何考えれば良いのでしょうか。
589
:
問答迷人
:2003/03/23(日) 19:50
いちりんさん
>「南無妙法蓮華経」が真理だなんて、聞いたこともないぞ。いったい、それはなんの呪文じゃ、
歴史上の釈尊が、『南無妙法蓮華経』の題目の声を聞いたら、やはり、びっくりされるでしょうね。2000年の間に、自分の教えが、世界の果ての国で、そのような、一見似ても似つかぬ教えとなっていることに。
>そういう意味では、仏さまの名前が違うだけで、南無阿弥陀仏と同じでありますね。
また、その同じ国で、同じ様な『南無阿弥陀仏』の念仏の声も聞こえてくるわけです。ますますびっくりされるのではないでしょうか。
>さらには、あらゆる宗教は、そういうことなんでしょう。大いなる神さまとか仏さまとか、○○さまにおまかせして生きると。
歴史上の釈尊は、「自灯明」と説いたわけですから、「○○さまにおまかせして生きる」というのは、一見、歴史上の釈尊の教えとは、対局の生き方を指し示しているように見えますね。なぜ、このような乖離が生じているのでしょう。或いは、表面は乖離しているように見えるけれど、それは、見た目だけで、実際には、南無妙法蓮華経も南無阿弥陀仏も、いずれも歴史上の釈尊の教えに基づいていることになるのでしょうか?
590
:
いちりん
:2003/03/23(日) 22:56
問答迷人さん
>>さらには、あらゆる宗教は、そういうことなんでしょう。大いなる神さまとか仏さまとか、○○さまにおまかせして生きると。
>歴史上の釈尊は、「自灯明」と説いたわけですから、「○○さまにおまかせして生きる」というのは、一見、歴史上の釈尊の教えとは、対局の生き方を指し示しているように見えますね。なぜ、このような乖離が生じているのでしょう。
わたしは、あらゆる宗教が、、ということで「おまかせ」と書きました。
でもって、じつは仏教は、本来は(つまりゴータマ・ブッダの教えは)、あらゆる宗教の「おまかせ」的なものとは、根本的に違うんじゃないかと思います。
「他力」的なところ、「依存するところ」「信仰するところ」……そういうものは、ブッダにおいては、なかったのではないかと思います。
そうして、大乗仏教は、「他力」的なところ、「依存するところ」「信仰するところ」があるわけですから、ブッダの教えとは、ずいぶんと異なるあり方じゃないかと思います。
原始仏教を実践してるテーラヴァーダの人たちからしたら、大乗仏教のもつ信仰のあり方は、これはもう随分と違うんじゃないでしょうかね。
まあ、ある意味で、大乗仏教のあり方は「信仰」、原始仏教のあり方は「気づき」(アウェアネス、マインドフルネス)と、わたしは思っています。
>或いは、表面は乖離しているように見えるけれど、それは、見た目だけで、実際には、南無妙法蓮華経も南無阿弥陀仏も、いずれも歴史上の釈尊の教えに基づいていることになるのでしょうか?
源泉は、お釈迦さまなんでしょうね。
お釈迦さまは、比丘たちに対する教えと、在家に対する教えでは、いくぶん、違うのだと思いますから。みんながみんな出家しなさい、解脱しなさいとは、説かなかったんじゃないでしょうか。
ちゃんとした生活をして、いいことをして、来世は天に生まれるよ、というような教えもありますよね(生天論)。あるいは、「六方礼経」のように、六方を父や、母や、先輩や……として、拝みなさいというような教えもありますし。
だから、在家向けの教えが種になって、それが土深く埋められていて、やがて数百年して、芽が出た。それが大乗仏教なのかなあとも思いますし。
しかしまあ、密教ともなると、これはもうバラモン教みたいですよね。まるで。仏教が10%、ヒンドゥーが90%。
591
:
川蝉
:2003/03/24(月) 09:37
588 : 問答迷人 さんへ。
今日は。
>宝塔=妙○経と釈迦・多宝、と言うことでしょうか。
観心本尊抄の説明に依れば、中に、妙○経を中にして釈迦・多宝とが座しているのが宝塔と云うことですね。
音顕とは物体のように形有るものでない虚空会の本門の説法の音声を(要法の五字)を顕していると云うことですので、宝塔は音顕でないですね。経文上では、宝塔は形有るものとして涌出しておりますね。
592
:
taitsu™</b><font color=#FF0000>(qZdgqRP2)</font><b>
:2003/03/24(月) 10:37
問答迷人さん
はじめまして。
>・・・曼陀羅は、「日蓮聖人の己心中所行法門をそのまま、弟子檀那に対して説示したもの」であり、
>その曼陀羅説示によって、初めて、弟子檀那が正しく日蓮聖人の修行をそのまま引き継ぐ事が
>可能となったのだと思います。
上記の部分、特に同意です。
人法一箇の本来の説明になるのでは無いでしょうか。
コピペでは一瞬ですが、人に説明となるとこれが中々容易ならざる・・・w
*自分ごと*
私は脱会をせずに、そのまま内部でいます。
しがらみが面倒なので・・w 彼女も内部ですし
結婚も考え(られ)ています。で、
法理に対する自分の姿勢だけは既に学会員ではないと。w
まぁ、偏差値の低い人も入れる学校のイメージです。
バカにしてるんじゃないですよ。佛縁の恩は大いに有るわけですし。
これまでも、特に内部で居る事に不満はあまり無かったですし、
環境的に恵まれていたのでしょうね。良い人ばかりです。
でも、教学面では自分の要求には耐えられなかったようです。
で、今は異端者と冗談で名乗っています。w
うまく書きたい事が纏まらないので、今回はこの辺で・・・w
593
:
仲村 英彰
:2003/03/26(水) 18:24
略 初めまして 、、。 大変にご参考になります、、。早々
594
:
仲村 英彰
:2003/03/26(水) 19:11
略 諸先輩方々の論戦には「とても参考」になります、。 因みに「小生は20数年間の池田独裁操作にヤット気づいたのは貴HP」のおかげです、。大謝、。
しかる後「正信会」にも「ウマクダマサレ」ました、。 もう「宗教はコリゴリ」という心境、、。 しかし「ホンマに成仏可能」ならば考えましょう、、。
早々、。 大阪市: 虎次郎 拝、。
598
:
問答迷人
:2003/04/26(土) 12:41
144000ゲットしました。
599
:
ジャージルーカス
:2003/04/26(土) 21:43
メールで依頼されましたので、宣伝します。
私が尊敬する方の主催する掲示板です。
是非ともロム下さい。
http://6119.teacup.com/nekotazemi/bbs
600
:
問答迷人
:2003/05/03(土) 09:16
145019ゲットしました。
601
:
通りすがり
:2003/05/04(日) 11:29
犀角独歩さんの本が出版されると聞いたんですが本当ですか。誰か教えてください。
602
:
問答迷人
:2003/05/06(火) 08:38
145511 ゲットしました。
603
:
豊穣
:2003/05/06(火) 14:58
>601
この話、ぼくらの中ではもっぱらの評判ですよ。(ぼくの所属はハンドルか類推どうぞ)
既に日蓮宗の有志は大量購入を決め、創価学会の一部大幹部も大量購入を決めているって噂です。
内容は完全な大石寺批判。反論不可能な完全版だっていうからすごそう。
大石寺に教義と本尊にあやかる顕正会、妙観講を批判するテキストにもなるんだそうですよ。
出版社なんかは、まだ情報不足ですが、またなんかわかったら投稿します。
それとこれは余計なことかもしれませんが、ここの書き込みって一挙に内容が低下してしまいましたね。
604
:
さかなこ
:2003/05/07(水) 00:01
>>603
ええ??そうなんですか。。。知らなかったです(T_T)
読む用、保存用、人にあげる用で最低3冊は買わないと。。。(T_T)(T_T)
一般人にも手に入るかしら。。どきどき。どこで情報をし入れれば
よいのかしら。。。
605
:
問答迷人
:2003/05/09(金) 09:56
146053 ゲットしました。
606
:
通りすがり
:2003/05/09(金) 12:35
豊穣さん
情報ありがとうございます。
ところで、豊穣さんは、ホウジョウ…の関係ということですか。
とすれば、例の集まりの流れの方ですか
もし、情報源など教えていただけるのであれば、お願いします。
607
:
豊穣
:2003/05/11(日) 22:14
>606
どういたしまして。
たぶん、通りすがりさんが創造している一員ですよ、ぼくは。
情報源は、内緒です(笑)
608
:
問答迷人
:2003/05/12(月) 08:17
豊穣さん
独歩さんが出版する予定だと言うことは、聞きましたが、内容は、当掲示板の内容とは別のことだそうですよ。
609
:
通りすがり
:2003/05/16(金) 15:00
僕はこの情報を出版依頼者側の情報として聞きました。
著作権では当掲示板とは関係ないでしょう。独歩さんの書下ろしらしいから。
でも、大石寺のことに触れるわけですから、内容は、ここで記されたこととダブるところはあるんじゃないですか。
豊穣さんて、「■●談▲庵」の聴講者ですか?
610
:
事実イノチ
:2003/05/18(日) 14:13
■●談▲庵=「一乗談義庵」でしょうねぇ。
大田区にある日蓮祖書論考グループ。
ここの掲示板資料をかなり使用しています。
611
:
豊穣
:2003/05/19(月) 12:52
↑ゲッ
612
:
問答迷人
:2003/05/31(土) 13:17
掲示板御参加の皆さん、思うところがあって、問答迷人が主宰する、pundarika というメンバー制の掲示板を開設しました。
http://jbbs.shitaraba.com/study/3050/
一度覗いてみて下さい。
613
:
問答迷人
:2003/06/01(日) 10:18
150091ゲットしました。
614
:
みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>
:2003/06/02(月) 13:57
>>612
問答さん。
問答さんは新掲示板について次のように言っています。
> この掲示板は、これらの諸団体が開祖と標榜している日蓮聖人の教えについて、真
> 跡遺文および史実に基づいて、その教えの真実を論究する事を目的とします。
> 掲示板御参加各位の論究の結果、日蓮聖人の教えの真実が明らかにされることに
> よって、諸団体がその日蓮聖人の教えの下に再統合されることを願って掲示板を立ち
> 上げます。
後半の願望があって、そのために前半の目的があるのでしょうが、後半の願望は、前半の目的遂行への妨げになるだろうと思いました。
問答さんのご発言を見て思ったのは、日蓮なり仏教なりに正しさがあるという期待、その正しさへの信頼があるのだなということです。そしてそういう期待・信頼に基づいて「日蓮聖人の教えの真実」を追求しようとする営みはある種の偏向をしがちであるし、危険であろうと言うことです。そういう期待は、正確な日蓮理解、正確な日蓮思想理解への妨げになると思います。
価値としての正しさ(正義)と正確さは違うのですが、信仰者が学問をする場合、その二つを混同する傾向にあると思います。学者が文献研究・歴史研究をする場合、価値としての正しさ(正義)は普通問題にしません。(する場合もありますが、それは学問と、自分個人の思想信条を混同している人の場合です)
信仰者にとって、正確にある対象(たとえば日蓮なり法華経なり釈迦なり)を理解しようとする動機は、対象の正しさを証明するためということになります。もしその正しい理解によって、対象の正しさが逆に証明できない場合は、それを捨て去るか保留するかして、その一つ前のものに正しいと思う対象を移すことになります。
たとえば、日蓮正宗が正しくないと思えば、日興門流、あるいは日蓮思想一般に正しいと思う対象を移す。同じように日興門流がダメなら日蓮、日蓮がダメなら天台、天台がダメなら漢訳法華経、漢訳法華経がダメなら梵文法華経、梵文法華経がダメなら釈迦本人、という風にさかのぼっていくわけです。私はこれを「撤退戦」と呼びますが、益の少ない営みです。
(もちろん撤退戦に行かないで、ある時点で留まる人の方が、はるかに多いのですが)
問答さんが新掲示板開設に際して、富士門流の統合から、日蓮門下一般の統合に関心を移動させたのは、撤退戦をいとなんでいるのではないかと危惧します。
信仰者は、そもそもの、正しい仏教がある、仏教は正しい、釈迦は正しい、経は正しい、という前提を疑えば良いのに、と私は思うのですが、どういう訳かそこは疑わないようです。
615
:
みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>
:2003/06/02(月) 13:58
正しい唯一真正の仏教などないですし、釈迦が生きる上での正しさの源泉・根拠でもありません。そう理解しても生きていくのにまったく支障はないわけですが、信仰者にとってはどこかに正しさの根拠、正しさを保証してくれる権威がないと、生きることに支障が出てくるわけです。もちろんその支障は自分自身が仮につくり出しているに過ぎないものですが。
学問的な意味での思想研究における重点は、もちろん、研究対象の価値としての正しさ(正義)を証明することではありません。研究対象を正確に理解するということです。その際、研究対象が価値として正しいかどうかは普通、問題になりません。研究対象を価値評価することが、思想研究に於いてないわけではありませんが、その場合価値づけする根拠は、研究対象の思想が、この現実世界のより正確な記述・理解になっているかどうか(あるいは、世界を正確に記述できることが不可能であることを明らかにしているかどうか)です。信仰の対象・価値の根拠・権威として「正しい」と言うことを問題にするわけではありません。
そういう意味で、正統派仏教(と研究者本人が思うもの)を基準として、それから外れているからこれは仏教ではない、あるいは仏教として堕落していると批判する研究は、学問研究としてはある面で失格です。それは研究者の信仰告白でしかないから。正統派仏教から本覚思想を批判する研究や、正統派日蓮教学から日寛教学を批判する言説を見かけますが、そういったものは信仰上の営みでしかありません。
本覚思想研究をするなら、それと伝統仏教教説や正統派天台宗教学を較べて価値判断するものであってはいけないと思います。本覚思想それ自体の内在的構造を明らかにするものでなければなりません。その上で、その構造が世界理解として妥当かどうかを問題にすると言うことはあり得ます。
同じように、日寛の思想が正統派仏教と違うから、あるいは日蓮本人の思想と違うから、日寛の思想は間違っているという言説は、あまり意味がありません。日寛本人の思想の内在的な研究になっていないからです。たとえば、日寛が日蓮本仏論にたつのは、釈迦本仏である正統派仏教教説、あるいは日蓮の思想と異なるから「間違っている」というのは意味がありません。(異なるということを指摘することまではある程度意味があります。しかしそれ故間違っているというのには信仰者に取ってしか意味がありません)。釈迦を本仏と呼ぼうが、日蓮を本仏と呼ぼうが、それはいずれも、実際に生存した人間としての実在した釈迦なり日蓮なりとは関わりがないわけです。別のものです。本仏・報身仏への名付けとして仮に、釈迦なり日蓮なりという名前を付けたに過ぎません。それを釈迦本仏だから正義で、日蓮本仏だから誤りであると言うのは信仰者に取ってしか意味がありません。本仏を日蓮と理解するひとがいても何ら問題はないわけです。それは世界理解の一つのあり方でしかありません。その世界理解が世界の記述として正確であるかどうか(あるいは世界理解の限界を明らかにしているかどうか)はまた別に解明しないといけない問題です。
もちろん以上のことは、日寛の思想が価値上の意味で正しい(正義である)ということを意味しているわけではありませんし、日蓮正宗教学が正しい(正義である)ということを意味しているわけでもありません。単に日寛の思想が、自立した思想体系として、日蓮の思想や、伝統仏教の思想とは別のものであるということを言っているに過ぎません。
616
:
問答迷人
:2003/06/02(月) 15:29
みかんさん
思想とは何でしょうか。
617
:
通りすがり
:2003/06/02(月) 16:49
>日寛の思想が正統派仏教と違うから、あるいは日蓮本人の思想と違うから、日寛の思想は間違っているという言説は、あまり意味がありません
これは学問で考えている人間には意味がなくても、日寛上人の教学こそ、日蓮大聖人の教学を完璧に論じたものであると思っている人間にとっては大問題。
日寛上人こそ、正当であるという信仰者は日蓮大聖人とは別の思想として日寛教学を見ていません。
だから、信仰者にとって、日寛教学が日蓮教学と違っていたら、その点を論じられるのは非常に意味を持ちます。
学問の話じゃなくて、信仰者としての話をしているわけでしょう。
618
:
通りすがり
:2003/06/02(月) 16:56
>日寛の思想が、自立した思想体系
こんなふうに思って日寛上人を尊敬している富士門信徒は新人類。
日寛上人こそ、もっとも日蓮大聖人の教えを完璧に記述したからすばらしいと思うのが、富士門信徒。
もし、日寛教学が自立した思想体系ならば、これはもはや日蓮正宗ではなくて、日寛正宗になってしまいます。
こんな理解の仕方を富士門信徒はしているわけじゃありません。
信者ではない学問側の勝手な考えです。
619
:
通りすがり
:2003/06/02(月) 17:01
富士門信徒というのは変ですね。
大石寺信徒にと言ったほうが誤解がない。
620
:
五月雨
:2003/06/02(月) 17:40
通りすがりさん
>こんな理解の仕方を富士門信徒はしているわけじゃありません。
信者ではない学問側の勝手な考えです。
みかんさんは、問答さんの新しい掲示板の趣旨について「日蓮聖人のその教えの真実を論究する事を目的」とされながら、「日蓮門下の統合」と言われている点についての危惧を、いつも客観的に日蓮聖人を論じられる視点で問われているのだと思います。
真実の論究には信仰者のものごとの見方ではそこに行き着かないのではと私もそう思います。
富士門信徒の信仰というフィルターを外した時に、そこに真実が見えてくるのではないでしょうか。
客観的、史実的に日蓮聖人を考えていくというのはある意味で学問の範囲内のようにも思うのです。
どうしても真実を見たくないと仰るのであればそれはそれで自由でありましょう。信教の自由があります。
私は信仰というフィルターを外して真実を見たいと思います。そしてこのことを踏まえた真摯な議論を心待ちにしております。
621
:
成仏境涯 体感希望者
:2003/06/02(月) 19:30
新スレッドのご主旨には「大賛成」です、、。 「信仰=信念=何へのか、??」を「解明」するためにも「信仰?と言うフイルターをはずしての真摯な御議論」を御期待する者です、、。
622
:
成仏境涯 体感希望者
:2003/06/02(月) 19:31
新スレッドのご主旨には「大賛成」です、、。 「信仰=信念=何へのか、??」を「解明」するためにも「信仰?と言うフイルターをはずしての真摯な御議論」を御期待する者です、、。
623
:
豊穣
:2003/06/02(月) 19:35
この上の五月雨さんの書き込みからすると、問答迷人さんてフィルターかかって真実を見たくない人だ読めちゃうなあ。
ひどいこというよね。
だいたい、日寛上人だって、大聖人だって、学と信を別に論じてないじゃん。
当時、考えられる最高の学で信を選んだのであって、今の時代の学問と信仰を分けてみるなんていう学風とは無縁だね。
それをごっちゃごっちゃにいうとわけわからなくなっちゃうんだよね。
学問から見れば、それぞれの宗教の相違を言って勝劣をいわない宗教学みたいにね。
でも、こういう掲示板では信仰としての学を見ているんだから、上のみかんさんみたいなことを言ったって、それこそ意味ないしょ。
これが独歩さんになると現在の学問に耐えない信仰が信仰として意味があるのかと突っ込むから、これはみかんさんとまたぜんぜん違う。
>真実の論究には信仰者のものごとの見方ではそこに行き着かない
だったら、信を強調するすべての信仰者は大聖人も含めて、真実にいたらず、信仰のない学問だけが真実にいたる??
そんなバカな。学問だけでは到達できない信の境地ってもんだってあるでしょう。
何で、それが極端に真実を見たくないとまで言わなきゃいけないのかな。
信仰のフィルターをはずして見られる真実は学問の真実であって、信仰の真実とは別だが、みかんさんの言っていることじゃないの?
僕は通りがかりさんに賛成!
624
:
問答迷人
:2003/06/02(月) 19:54
凄い。賛否両論。
ただ、僕は、思想という視点からだけで、仏教を捉えることが正しいのかどうか、疑問なんですよ。
625
:
豊穣
:2003/06/02(月) 19:58
>思想という視点からだけで、仏教を捉えることが正しいのか
学問は客観的な分析だから、信を分析できない。
でも、信仰者は信を追求しているから学問だけでは真実にいたれないじゃん。
問答迷人さんにも賛成!
626
:
問答迷人
:2003/06/02(月) 20:10
みかんさん
みかんさんが使われるところの、「思想」という言葉の概念規定は、どんな内容なのでしょうか。大辞林には次のように三つの説明が書かれていますが、(2)の概念規定と考えてよろしいのでしょうか?
(1)人がもつ、生きる世界や生き方についての、まとまりのある見解。多く、社会的・政治的な性格をもつものをいう。
(2)〔哲〕〔thought〕単なる直観の内容に論理的な反省を施して得られた、まとまった体系的な思考内容。
(3)考えること。考えつくこと。
627
:
みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>
:2003/06/02(月) 20:35
>>625
信仰者は、そのままでは信に至れません。
信仰と信がまったく違ったものだからです。
どう違うかはすでに論じたので、改めて書きません。
>>623
ほんとうのこと、というのは大抵ひどいことに見えます。
ほんとうのこと、というのは大抵残酷です。
628
:
成仏境涯 体感希望者
:2003/06/02(月) 21:05
627の(3)=考えること、考えつくこと、とは、、?? 一般庶民のワシらが「獲得したい”仏の境涯”とは、??」=「久遠の釈尊の遺言=寿量品16の”速成就仏身”とは、??」を求めると言うことは「一個人が体得・感得・体現」したい「と言う考えも=一思想、?」に対しても「お答えは絶望、?」と言うことでしょうか、?? ワシは「なけなしの預金の目減り対策」のため「株式投資=ギャンブル」に余念がない「欲望の制御」出来ない「ドス黒い一人、」では御座います、、。トホホ、、。
でも、生活上万全な方々の「安全地帯と思われる方向からの御議論も御参考には」なります、、。 どうか「暇人の屁理屈と揶揄されることおをも恐れず、有意義な御議論・論争を」御期待いたします、、。ゴメン、。
629
:
無徳
:2003/06/02(月) 21:11
皆さん今晩は:
みかんさんの意見は、仏教(宗教)を信ずると言う人間にとっての本質的な課題を
理解する上で大変重要な問題提起と言えると思います。
ただ、仏教が人間にとって何を提起し何をもたらすかという、価値観を前提にする
場合は学問的(客観分析)な研究方法で果たして何処まで解明が可能なのであろう
かと言うラジカルな疑問を持ちますが、仏教をひとつの真理観として理解する場合
には、やはり科学的方法や解釈との整合性は避けて通れないとも思います。
もちろん、パラダイムの違いを無視して短絡的に非科学的であるから仏教は間違っ
ていると言った批判や、逆に科学的真理と仏教をダイレクトに結びつけて仏教思想
の正当性を主張するような理解に組する者ではありませんが、科学的真理観を全く
無視したような仏教理解にも否定的にならざるを得ません。
たとえば、一神教的世界観の上に立つとされるキリスト教的真理観を、学問的方法
で何処まで解明できるのでしょう。いわゆる”天地創造”を”ビックバン”と結び
つけて理解しようとする人すらいるようですが、私にはこじ付けとしか思えません。
しかし、バチカンでは年に一度は世界的な科学者を招聘して、現代科学の到達点と
キリスト教的真理観とのすりあわせを行っていると聞いたことがあります。(本当
か嘘かは知りません)
もしも、一神教としてのキリスト教が全ての原因を神に還元して理解しようとする
考え方が、現代科学における全ての現象を要素還元論的に理解しようとする考え方
とパラレルであるとするならば、現代科学はキリスト教の“落とし子”とすら言え
るのかも知れません。
しかし、仏教ではあらゆる現象をキリスト教のように“神”という不変であり絶対
的な存在に原因を求めることをせず、“縁起”や“空”と言う概念に代表される相互
依存的関係性に全ての原因を見るわけですが、やはり仏教も宗教であるとするなら
信仰者としては何らかの絶対的存在なり不変不滅の“法”や“本尊”のようなもの
を求めざるを得ないと言う、アンビバレントな心的有り方を否定することもまた困
難と言えましょう。
そのことが日蓮仏法を奉ずる人間にとってはインド応誕の釈尊でなく、世界の辺境
の地ともされる日本の安房に生を受けた日蓮御坊を本仏と仰ぎ信ずる所以とも考え
る者です。そして、そのことが松本佐一郎氏をして『富士門徒の沿革と教義』の中
で、日蓮仏法を信じる富士門徒は一神教的であるとも言わせたもかもしれません。
ちょっと論点がずれたかも知れませんが、日頃考えていたことを述べてみました。
630
:
愚鈍凡夫
:2003/06/02(月) 21:39
信仰者の立場から成道の法としての仏法に迫っていきたい人、哲学として仏法の哲理を解明したい人、歴史の流れの中で思想史的な観点から仏法を捉えたい人、等々
アプローチの仕方は様々だと思います。
それぞれの立場での思索・研鑽の結果を持ち寄ることで相互理解が進み、新たな可能性が見えてくるならば、意義のあることじゃないでしょうか。
ただ、日蓮聖人の考えはどうだったかという規範を取り去ると、何を基準にして真理・真実を探究していくのか分かりませんが・・・・・。
釈迦牟尼から出発するということなのでしょうか?それとも、釈迦牟尼に還るということなのでしょうか?
631
:
成仏境涯 体感希望者
:2003/06/02(月) 22:16
615様: の如く「何ら無信仰でも生きてゆけます、、」「ただ、それだけでは??」から「教主釈尊、、」の「意義、、??」がご発生かと。。??
632
:
sunya
:2003/06/03(火) 01:15
> 614 みかんさん
“問答さんが新掲示板開設に際して、富士門流の統合から、日蓮門下一般の統合に関心
を移動させた”とのご指摘、“ややや”と..刮目して見てしまいました。
さては、“ぼぉ〜っ”と見ていたので気が付かなかったのかと思って、問答さんの言葉
をもう一度 見直してみました。
問答さんの“言いよう”において、そうとも取れる余地はあるのでしょうが、どちらか
と云えば“これらの諸団体”として問答さんが名を挙げているのは“代表格とも言うべき
創価学会”であり“カルト宗教として物議を醸してる顕正会”であって、わたしには「日
蓮門下一般の統合」という<意図>がそこに強く出ている、とまでは思えませんでした。
そのあたりは、問答さんご自身にちゃんと語っていただくほか、はありませんが。(^^;
> 612 問答さん
むしろそうであれば、当掲示板の管理者の一人であり、また「本門戒壇の大御本尊への
帰一という大目標を掲げる富士門信徒同士が、法華講・正信会・創価学会・顕正会という
組織の壁を乗り越え、精神的結束力を高めて、異体同心の戦いを誓い合う場」として「富
士門ネット」を主催される問答さんが、何ゆえに“pundarika”をさらに開設されたのか。
そして、その“思うところ”とはどういうことなのか、もうすこし当「富士門ネット」
の参加メンバーに対し、しかるべく・ご説明があってもよい、のではないでしょうか。
もしや問答さんにとって、「本門戒壇の大御本尊への帰一という大目標」がすでに、意
味のないことになり果てているのでしょうか、どうもわたしには“そう見え”てしまうの
ですが。
この「富士門流信徒の掲示板」を勝手に仕切った挙げく、そして勝手に去っていった人
を、“pundarika”に鄭重に招待するという問答さんの今回の振舞は、当ネット・掲示板の
参加メンバーをして、ずいぶんとないがしろにすることに当たらないだろうか。
すくなくともわたしがそう感じてしまうのは、“ひねくれ”て“ねじ曲がった”こころ
の為す業なのでしょうね。
ほんのつい最近、問答さんに浅草でお会いする機会があったのに、そうした問答さんの
真意・説明にまったく接近できなかったということは、単に“時間が無かった”というこ
とだけ、ではないのでしょう。
/sunya
633
:
問答迷人
:2003/06/03(火) 10:57
僕の言動が、この掲示板を混乱させてしまい、申し訳なく思います。箇条書きで釈明させていただきます。
まず、この掲示板の運営について。
一、当掲示板の主宰は、富士門ネットですが、主宰と言っても、特にこれと言った事をしているわけではありません。設定されたルールに従って掲示板が機能するように管理しているに過ぎません。あくまでも、この掲示板の主体者は、この掲示板の趣旨に賛同されて、御参加されている皆様一人一人です。
二、皆様の中で、時々に、どなたかがリーダーシップを取って議論を進められることに対しては、管理者は基本的に歓迎しています。ただ、特定のどなたかにその役目をお願いしたことはありませんし、今後もありません。
三、当掲示板は、ルールに違反しない限り、どなたも参加御自由です。また、当然の事ながら、参加を止められることも自由です。
四、管理者は、今後も、この掲示板の趣旨に従って、この掲示板が活用されることを願っていますし、この掲示板を閉鎖することは考えておりません。
五、管理者は、現在は、不肖、問答迷人が務めさせていただいたておりますが、今後、別な方が管理者になられる事はあり得ます。それは、主宰する富士門ネットが決めることです。なお、富士門ネットは新規約を現在検討中です。新しい規約が出来上がりましたら、掲示板にて、ご案内させていただきます。
634
:
問答迷人
:2003/06/03(火) 11:13
次に、僕の言動について
一、pundarika掲示板は、僕の現在の個人的な関心から開設した掲示板です。
二、ですから、富士門ネット掲示板とは、関連はしていますが、直接の関係は有りません。また、富士門ネットとpundarika掲示板も無関係です。
三、pundarika掲示板は、僕の考えている個人的関心の内容からして、富士門掲示板のような、内容的にも開かれた、参加自由な掲示板ではなく、同じ関心を持った方と限定された議論をする場所として設定しています。
四、そのため、参加自由な富士門掲示板とは異なり、メンバー制を取っています。
五、『もしや問答さんにとって、「本門戒壇の大御本尊への帰一という大目標」がすでに、意味のないことになり果てているのでしょうか、どうもわたしには“そう見え”てしまうのですが。』とのご指摘、的を得ていると思います。ただ、だからといって、富士門掲示板をないがしろにしているつもりはありませんが、管理者としては、適任者では無くなってしまったと言えるかも知れません。なぜなら、僕は、今日にいたって、大石寺戒壇板本尊が、後世の偽作であると考えるようになっているからです。
635
:
ガンコ
:2003/06/03(火) 17:29
あら〜、sunyaさん、お久しぶり〜
636
:
sunya
:2003/06/04(水) 01:43
> 問答さん
両掲示板の位置づけについての丁寧な“ご説明”、有難うございました。委細、了解
致しました。
失礼の段、ご寛恕ください。m(..)m
637
:
sunya
:2003/06/04(水) 02:27
> ガンコさん
いつも、当掲示板でのガンコさんの“ご発言”は、しっかり拝見をしております。よく
勉強を、されていらっしゃいますね。(^^;
638
:
みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>
:2003/06/04(水) 03:32
>問答さん
思想というのは外来語(thought Gedanke)の翻訳語だと思いますが、philosopy(哲学)とは対立して使われるという含意があります。哲学が懐疑という行為であり実存的・主体的であり動的なものであるのに対して、思想(thought)とはある種の観念体系であり対象化されたものである程度固定的なものだという含意があります。ですが、現在の日本語では、思想という言葉で、行為も観念体系も両方を包摂して使用されるのが普通です。
思想には個人的思想と集団的思想の二種類があり、この二つは区別して考えられるべきだと思いますが、言語使用では普通は区別しません。
たとえば、日蓮思想とか日寛思想とか言った場合の思想は個人的・人格的なものです。その人がその人の人生を生きる上で形成された、思考の枠組み、観念の体系を指します。それはその人の言動や著作を通じて、外部から推し量ることしかできません。ここで注意しないといけないのは、個人の思想というものはきわめてパーソナル(個人的、人格的)なもので、属人的です。他人と共有することもできなければ、他人に伝えることもできません。
たとえば、日蓮思想がそのまま日蓮門下の宗教の教義であるべきだ。日蓮思想を正しく受け継いだのが日興思想だ。あるいは、日寛思想がそのまま大石寺門流の教義になった。と考えがちですが、それは無理です。個人の思想とは属人的なもので、伝えることができないからです。個人の思想は必ず伝搬されるときに誤解されます。誤解されることによって、多数の人間に通用する一般性を持ってくるとも言えます。
これに対して、ある人間集団の思考の共通した型を思想と呼ぶこともあります。たとえば、仏教思想、インド思想、天台本覚思想といったような言葉が指しているものが人間集団の思想です。あるグループに共通してみられる思考の型を思想と呼びます。たとえば、宗教団体の教義・思考パターンも集団の思想と呼んで良いと思います。ですが、教義書に書かれている教義がそのままその集団の思想である訳ではありません。たとえば、日蓮正宗の教義書や、聖典に書かれていることが、そのまま日蓮正宗の思想ではありません。日蓮正宗に所属したものに共通する明文化されない思考パターン、行動パターン、口コミレベルで広まっている言説を含めて「日蓮正宗の思想」と呼ばれるわけです。もちろんそれが時代により、場所により違うことはあり得ます。また、その集団に所属する個々人の思想とは違ったものです。
つまりAさんとBさんの思想は必ず違う。またAさんと、Aさんを信奉するC集団の思想は必ず違うと言うわけです。
以上が私の思想に関する理解です。それを踏まえて言えば、日蓮本人が考えていたこと(=日蓮の思想)をできるだけ正確に理解しようとすることは、それ自体独立した意義のあることだと思います。しかしその成果をもって、日蓮門下共通の教義とするのは無理だと思います。ある個人の思想をできるだけ正確に理解することと、それを人間集団に適応することは違ったことだからです。
また人間というのは自分の理解したいように対象を理解する傾向にあるものなので、日蓮信者の大多数にとっては、できるだけ正確な理解は関心がないことでしょうし、それが提唱されてもそれに従う気もないと思います。
ですので、「日蓮聖人の教えの真実」を理解すること自体には意義があるが、それをする際には「諸団体がその日蓮聖人の教えの下に再統合されることを願って」ということは前提にしないほうがいいのではないかと、私は思います。
639
:
問答迷人
:2003/06/04(水) 09:43
みかんさん
懇切なご教示、誠に有り難うございます。
>日蓮聖人の教えの下に再統合されることを願って」ということは前提にしないほうがいいのではないか
とのご指摘、誠に尤もであると理解いたしました。早速、当該掲示板の挨拶文を書き改めさせていただきました。また、そのような目的観を捨てることにしました。今後ともよろしくお願いいたします。有り難うございました。
640
:
問答迷人
:2003/06/07(土) 19:42
151500ゲットしました。
642
:
問答迷人
:2003/06/10(火) 08:42
152013ゲットしました。
643
:
アネモネ
:2003/06/15(日) 16:02
今日の午後9時からの、NHKスペシャルで、文明の道③「ガンダーラ仏教変革の地」というのが放送されるようです。
今回は、いかにして大乗仏教が発生したのかという内容のものです。
私は前回の第2集から見ていますが、とても興味深くて、今夜もとても楽しみにしてます。
NHKの宣伝マンではありませんが、個人的に面白かったのでご参考までに。
http://www.nhk.or.jp/bunmei/
http://www.nhk.or.jp/bunmei/gaiyo.html
http://www.nhk.or.jp/bunmei/preview/index.html
644
:
孤独な迷子
:2003/06/15(日) 23:34
アネモネさん、久しぶりです。
番組見ました。仏教も時代とともに変わってきているんですね。あらためて確認できました。
645
:
うっちゃん
:2003/06/15(日) 23:50
あの“ 大量虐殺 ”をモーゼ(はヘブライ人でイスラエル人=ユダヤ人
を指す)がやり、正当化したことがユダヤ教徒の不幸の始まりだった。
これこそユダヤ教徒の旧約(旧契約の意)聖書巻頭の5書の2番目、
すなわち出エジプト記でモーゼが海を割りユダヤ民族を通した後、
海を閉じて追っ手を“大量虐殺”するという残虐行為を発想し行い、
正当化したユダヤ人指導者=ユダヤの神モーゼの自業自得である。
これらユダヤ教徒の旧約(旧契約の意)聖書の記述が、
キリスト教徒を反ユダヤ主義へとあおりたて、
ヨーロッパのみならず中東においてもユダヤ民族が迫害され、
放浪の民、ユダヤ民族へと落ちていったのだ。
その最大の悲劇が、ヒトラーのユダヤ民族“大量虐殺”だった!!
ユダヤ人モーゼがやったことは自然にはあり得ない“人工的大量虐殺だ!”
この思考こそがユダヤ教徒=ユダヤ民族に延々と引き継がれて、
ユダヤ人アインシュタイン(何とドイツで生まれて育った)などによる、
核兵器・生物科学兵器の開発など、大量殺戮兵器使用へと繋がっている。
我々は、古い宗教が正しいなどとしてはならない。
宗教には“ 新化 ”が絶対に必要である。
“ 新化 ”のない社会、民族、種は急速に衰退していく。
ただ一つの神しか信じないあるいは“個人崇拝”の宗教とか、
例えば聖書・コーランのように教典が変えようがないものとすれば、
そこには民族新化が停止した、原始社会への退化の道しかない。
だが、地球上の全ての宗教がそうではなかった。
世界三大宗教(仏教・キリスト教・イスラム教)の中でただ一つ、
延々とその“ 新 化 ”を遂げてきたのが「 仏 教 」だ。
“人の理想偶像 ”を崇拝するが故に“ 新化が可能 ”だったのだ。
仏陀から始まり、我が日本では道元・栄西・弘法大師空海・日蓮などなど、
その教えを説く教典は、道元の「正法眼蔵」95巻という史上空前の大著など、
時代の変化とともに“ 新 化 ”を遂げてきた。
逆を言えば新化のない宗教に翻弄される社会は衰退し滅びるのです。
宗教が社会に影響が大きいほど宗教教典は時代の変化とともに、
“ 新 化 ”させなければならない。
大宗教ほど“ 新 化 する 宗 教 ”であるべきなのです。
646
:
アネモネ
:2003/06/15(日) 23:55
孤独な迷子さん
お久しぶりです。
ご覧になられましたか。私も観ましたよ。
他民族が行き交うシルクロードの要所の地ガンダーラで、インドへの憧憬とお釈迦様への恋慕から、今日私たちが親しむ大乗仏教が発生したという内容のものでした。
キーワードは六波羅蜜とクシャン人でした。
もしもお見逃しになった方は、17日の深夜に再放送があると思います。
私は、この番組の始まりの映像と音楽がとっても好きです。
647
:
三学無縁
:2003/06/17(火) 11:55
アネモネさん、お元気でしたか?
先日、某氏に会ったら、ぼやいていましたので、
「ボクはアネモネさんに全面的に同意する」
といっておきました。
また、3人でお茶けでものみましょう。
648
:
アネモネ
:2003/06/18(水) 02:24
三学無縁さん
ご無沙汰しております。
レスありがとうございました。
なんとか元気にしておりました。
お茶け…いいですねえ。
649
:
問答迷人
:2003/06/22(日) 21:26
155055ゲットしました。
650
:
ジャージルーカス
:2003/06/24(火) 11:19
現在放映中の「大奥」と言う時代劇で、菅野美穂演じる「篤子(篤姫)」は日蓮正宗信徒であったことは法華講では、余り知られてないようです。
富士年表には
「1862年文久2年壬戌(孝明天皇・徳川家茂将軍)滅後 581年 日霑上人6.15 日英島津斉彬娘篤姫の帰依により大石寺塔中遠信坊再々興を図り、本尊を書写す(本尊脇書)」
とあります。
余談ですがつぶやきました。
651
:
アネモネ
:2003/06/24(火) 20:37
ジャージルーカスさん
はじめまして。
>650
そうでしたか。
あれ?
島津斉彬が法華講だったことはどこかで聞いたことがありましたけれど、その娘ということは、放映されている「大奥」の時代はかなり幕末なのでしょうか。
652
:
ジャージルーカス
:2003/06/25(水) 13:57
アネモネさん
その通りです。放映されている大奥という番組の時代背景は幕末です。
最終的に「大奥が終わる(幕府倒壊)」所までをドラマ化したようです。
さて、その後の篤姫は維新後も生き続け、後に貴族院議長になる16代徳川
家達の養育に徹します(しかし、旧政権の血統が新政権の三権の長になると
ころが、日本という国の大らかなところですが)。
653
:
アネモネ
:2003/06/25(水) 19:32
ジャージルーカスさん
ご丁寧なレス、ありがとうございます。そうだったのですか。
菅野美穂さんのお姫様姿が可愛いかったので、番組として気にはかけていたのですが、てっきり三代将軍家光の時代なのかと思っていました。
幕末の大奥、面白そう。
654
:
問答迷人
:2003/06/30(月) 20:10
156840 ゲットしました。
655
:
ガンコ
:2003/07/22(火) 16:40
文底読みには無理がある? (前編)
むかしむかしのお話です。わたくしが入信して間もない頃のことですが、その頃は教学試験が盛んでした。何しろ全種目やってましたから。
わたくしのすぐの先輩は二級を受けるということでした。その先輩、わたくしをからかったのでしょう、こんなことを言いました。
「この本おもしろいわよ〜、ガンコちゃんもお読みになって。」
ようするに二級試験受験者が勉強する「観心本尊抄略拝」を読めというのです。
けっこう面白かったです。
「・・・以上のごとき深意は、不相伝の輩のとうていうかがい知るところではない。」
「諸門流の輩はこの無始の本仏を知らないから、この御文を解釈することができないのである。」
「ゆえに不相伝家の輩は御正意を誤り、」
「文底を知らぬ他門流では、」
「古来より多くの学者によってさまざまな謬解がなされてきた。なぜ彼らが誤るかといえば、・・・この二文の会通が、文底を知らざる不相伝家の輩には付かないのである。」等々。
しかし、これらの引用はおそらく無意味な言葉の羅列に過ぎないのでしょう、特にこの掲示板の人々にとっては。
なぜわざわざ書いたのかといえば、ようやくそのことに気がついた、ということを申し上げたかったのです。
さて、入信早々に観心本尊抄の講義録を読んですべて理解できるほど頭はよくないので、じっさいにはわからないことだらけだったのですが、とりわけ一ヶ所どうにもこうにも理解できないところがありました。
「う〜ん、これはおかしい。説明になっていない。矛盾している。というか飛躍がある。これで説明したつもりになっているとすれば、書いた人は相当バカである。」
もはや除名に相当する暴言ですが時効ということで・・・なんて書くと“仏法の賞罰に時効はない”とか言われそうですが・・・
ともかく入信してそれほど経ってなかった時期ですから、日蓮大聖人に対する尊崇だとか浅井先生に対する畏敬の念だとかまだ芽ばえていなかった、ですからけっこう正直な感想だったと振り返って思うのです。言い方を変えれば、まだ顕正会に毒される以前の常識的な読み方・・・あらら、これも除名になりそう。
656
:
ワラシナ
:2003/07/24(木) 21:44
h15年度夏期講習会 第八期 体験記 1
0、「団参的な、、」
今年も行ってきた。だが、行ってきた、行ってきたという既成事実感だけが残ったような「団参的」講習会体験だった、ともいえない。確かに外側から見れば「団参」以外の何者でもなかったが。
1、まず、11(金)午前11時着山で12(土)12時下山の予定はきつかった。途中30分休憩が一回もなかったから土産物店に行けなかった。ところが、これが夏期講習会の常識とのことだった、
2「ワッペンケース又忘れ」
あれほど自分に言い聞かせていたワッペンケースを持ってくるのをつい忘れてしまった。それに気がついたのも、宿坊に着いて責任者から内拝券など配布された時だった。ボケの始まりともいえる。
3、着山直後の昼食は自前で用意してこなければならないからみんな途中のインターチェンジ、駅のキオスク、あるいは自宅で、おにぎりサンドイッチを用意してくるのだ。昼食の後はすぐ御内拝だ。
4、「再会 1」
さて、御内拝を終えて奉安堂をでて客殿に向かう人列の中には、ひょっとして過っての学会同志が来ているかもしれない、と予感した私は、キョロキョロ左右を物色していた。ところがこちらが必死に探している時には会えないくせに、すっかりあきらめかけた時に、今度は「出会い」の方が向うからやってくるものなのだ。御影堂西脇から、奉安堂西側便所に戻りかけた時、向こうの方から呼び止められた。
二十数年前同じく学会組織でご一緒した男子部先輩の奥さんだった。ご主人は、既に先週の講習会に出た、とのこと。
5、「かつかう」
客殿では、講師が、「かつかうをはたとくい切りて(上野殿母御前御返事)」で有名な「かつかう」という薬草の現物の鉢植えを見せてくれた。これは有難かった。
6、南条殿御講義の後は宿坊に戻って、夕勤行、夕食、唱題会だった。私は前から宿坊での一時間唱題を楽しみにしていた。それが終われば(8pm)就寝準備ベッドメイキング。男子の就寝場所は本堂なので人数分の寝具を敷き並べた。
幸い自分には、不寝番役が回ってこなかった。そして自分の寝場所を決めた頃には、心の中は丑寅勤行の事で一杯だった。
とにかく早く寝なければ、と思ったが、体の汗だけはぬぐいたかったから、便所でぬれタオルで全身拭いた。本山の水道の冷たさが気持ちよい事この上なかった。肌着を換えパジャマに着替え、9pmにはタオル目隠しして寝た。
7、寝入る前には、様々な思いが熱く渦巻くものである。特に今夜だけはいくら気持ちよくても朝まで寝るわけには行かないのだ、真夜中には一旦起きて丑寅勤行に参加するのだ、という緊張感があるから興奮して寝られるものではない。
8、こういう時には他人の動きが気になってくるもので、周囲の布団をみれば、9:45頃寝ていたのは4分の一しかいない、みんなどこにいたのであろうか、などと変な疑問を持ったものだ。
9、そして目覚ましをセットした。とにかく少しでも寝ておこう、と思った。ところがそう思う程意識が先鋭化して物音が気になってくる。その内に足元のほうではいびきが聞こえて来た。頭の先の方からは、「ピチャ、プクプク、キュルルル、、、ピチャ、プクプク、キュルルル、、、」と小さな水音が絶え間なく聞こえてくる。それは宿坊の門前を流れる疏水が雨季を迎えて勢いを増して弾け飛んだ時の音だった。
(1、終わり2ヘ続く)
657
:
ワラシナ
:2003/07/24(木) 21:46
h15年度夏期講習会 第八期 体験記 2
10、少しでも寝られた、と判ったのは、「丑寅勤行に参加される人は時間になりましたよ起きて下さい」という不寝番の人の声が聞こえた時だった。この時起き上がるのはつらかったが我慢して起きた。早速塔中参道に出てみたら、客殿に向かう人並みがぞろぞろ続いていて、みんなやる気満々に見えた。それを見て自分もいささか鼓舞された。
だが、頑張れたのは最初だけで丑寅勤行の最中は後半分位は意識朦朧となってしまった。
11、「再会 2」
翌朝は、勤行、掃除を終えた後、客殿で猊下の御講義を拝聴した。
申し訳なかったが途中足が痛くてたまらず何度も組み換えてやっとしのいだ。さて、終わって、下足のところで靴を探していた時、不意に呼び止められた。予期していない友との再会であった。神谷バーのお好きな人だった。このほんの少し前、客殿に向かう途中、妙泉坊の裏側を左手に見やった辺りで、瞬間思ったのだった。「そうそう、ここ、ここ、このあたりだった、ちょうど一年前同じ頃あの人と偶然会ったんだっけな、、、だけどまさか今日は来ていないよな、」等と勝手に決め付けていただけに呼び止められた瞬間は、驚きのあまり茫然自失状態だった。「来てたのか!」。
12、その人の後姿を見て感じ入ったことがある。氏は一年前も友人と連れ添って歩いていた、今回も信心の友と連れ添って歩いていた。その「いつも二人して歩んでいる姿」に教化の本質が自然なオーラのように体質化しているように感じられたのである。自分もあーなりたいものだと思った。
あるいは教化云々を抜きにしても、人間は元々対話的にしか生きられないから、(一人は結構だが)、生きる姿をより美しくあらしめる為には身近な他人がいつも必要なように感じたのである。(私も今回は一人ではなく友と一緒に歩くようにしていたけれども)
13、「下山」
13−0、今回幾分さわやかな気分で下山を迎えられたのは、参加中「歌いたくない気分で居るとき歌歌いを強要されなかった」からであった。はじめからプログラムの中に合唱が無かったことが嬉しかった。
13−1、朝食後に同時に支給されるランチボックスの中身についてはいつも考えさせられる。そしていろいろのアイデアが浮かんでは消え、している。いっそ「箱」を止めておにぎりだけにすれば、紙箱ゴミが少なくなるのでは、、とか。
13−2、冒頭の「団参」とは、昔、題目たすき掛けの日蓮系某団体がバスに乗って本部参詣に行く光景が浮かんで出てきた単語であった。しばらく前まで私はそれを嫌悪していたのであった。「どーして日蓮系ってあんな「題目ファッション」したがるのか、あーはなりたくないね」。自分のやっている日蓮正宗信仰には、彼らには及びもつかない先進的清新さがある、と自負していたからであった。
だが、最近「題目たすき掛け」の一点をはずしたら彼らと何ほどの差があるのか、と感じ出した。先進的清新さ、といったところで、部外者的に見れば「題目あげて何をした」の基準で見られてしまうから「題目あげて」までは同じになる。その後の「何をした、してきたか」の部分でも程度の差しか感じられないのだろう。
ところが、自分が最初に感じた正宗信仰の「先進的清新さ」とは、「題目あげて」の前提をなしているものに対してのもののようだった。
巧みには言い得ないが、その題目自体が違うんだというような優越感だったように思う。
13−3、それと上の「嫌悪」に関連して「露骨な蔑視感情にまといつくわな」に気がついた。「蔑視」する感情に元々ある「蔑視対象に直接するべトつく性質、絡みつく性質」によって、蔑視対象に汚染されてしまう」弊害である。
相手を蔑視すればするほど相手の悪い部分に似てきてしまう傾向があると思う。
13−4、最後に、総括的な感想ですが。
とって付けたような地道な社会貢献は自己の本分で無いとするなら信仰の卓越性を他の形ではっきり世の人々に分からせることが必要となる。世人にとっては立正安国でさえ具体的イメージがわかないのであるから。
そこに実社会の動きと全く無関係な世界でのみ有効な信仰の卓越性であったら、、、と危惧するのである。
その為に私は、一人が一人の人を心底理解する為に時間をかけた丁寧な対話の積み重ねが求められているのではないか、と感ずるのである。(偉そうな書き方になってすみませんが)
13−5、今回も山内では輸送整理班の青年部の方々にお世話になりました。有難うございました。(h15/7/24)
658
:
妙薬
:2003/07/25(金) 11:48
ワラシナさん、久し振りです。夏期講習会への参加、ご苦労様でした。私も19,20日の一泊二日で参加してきました。東名高速道路の混雑は予想以下でしたが、それでも帰宅した時にはグッタリ。思わず「お疲れ様でした!」と自分を誉めてしまいました。以下、感想。
1,昨年まで「テキストの棒読み」と悪評高かった講義方法が幾分改善されたのはよかったが、講師の個性や体験を生かしたアドリブがポンポン飛び出す自由闊達な講義も聴きたい。でも、講師のご僧侶には無理なのかも。その中で、石毛副委員長が用意したという「かつかう」の鉢には私も評価。
2,ゲイカは14日にニューヨークに出発し、16日同時テロの現場で追悼法要。即座に帰国して第9期講習会の安国論講義。あの年齢でこの頑張り。講義にも力がこもっていたのは流石。
3,私の寺院からの参加者は10人ほど。宿坊の総2坊では都内の大寺院と一緒になり、当番の割り当ては一切なく楽をさせてもらった。ただ、夜中のイビキと寝言も大寺院信徒らしく元気なのには、正直まいった。日頃の疲れもあって丑寅勤行はパス。
4,単細胞の私は、ワラシナさんのような感想を持つことなく、粛々と年一回のイベントを楽しんだ。初日夜の講義がなくなり、その分、各坊で唱題1時間というのには評価の声も。食事の内容には満足。紙箱ゴミ問題には賛成。
それにしても神谷バーが大好きなご仁に会われるとは。やはりご縁があるようですね。
659
:
神谷バー大好き人間
:2003/07/25(金) 15:13
こんにちは。
そうなんですよ。私もまさかワラシナさんに会うとは全く予期してなかった(笑)。
昨年は妙泉坊側(塔中裏出口側)でワラシナさんの方から声をかけられたのですが、今年はこちらから声をおかけしました。
夏期講習は10回あり、しかも約束した訳でも無いのに出会えるとは、私も妙な機縁を感じました。
2度有ることは3度有るかな。
なお、猊下の講義はともかく、初日の講師陣はかなり、御坊さんによって違ったようです。
私の友人の1人は「ユーモアを交えてかなり上手だった」と言う感想でして、もう1人は「ただの棒読みだった」でした。
担当講師によって、高低があるのは仕方有りませんね。
660
:
ガンコ
:2003/07/26(土) 19:52
文底読みには無理がある? (後編)
わたくしがどうしても理解できなかった(1,2週間考え続けた記憶がある)部分がどこかというと、申し訳ございません、すみません、ごめんなさい、ゆるしてください、・・・じつは、すっかり忘れてしまったのです。今読み返してみても思い出せない、あれほど考えたのにそれがどの部分だったか思い当たらない。
文底読みにすっかりなじんでしまったものだなあ、というのが今の感想です。
では文底読みをすっかりマスターしたのかといえば、そうではありません。
「南無妙法蓮華経と心に信じぬれば、心を宿として釈迦仏懐まれ給ふ。」 <ここでいう釈迦仏とは本因妙の釈迦仏、すなわち日蓮大聖人の事>
「日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。」 <これは日蓮大聖人を本尊とすべし、という意味である>
「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや。」 <日蓮大聖人に同意し奉る者は地涌の菩薩であり、久遠元初以来日蓮大聖人の弟子であったことは疑いない>
だいたい顕正会ではこんな風に教わっているのですが、「なんで釈迦仏ないし釈尊が日蓮大聖人なのか、おまえちゃんと説明してみろよ」といわれれば、はっきり言って自信ありません。(とくにこの掲示板では)
なんとも情けない話です。
もっともこれはわたくしだけの話ではなく、おそらくは今の大半の顕正会員がそうなのでありましょう。
文底読みというのは名人芸のようなもので、そう簡単にはマネのできるものではない。そして顕正会員は名人芸の継承者ではなく、単なるお客さんになってしまっている。わたくしをふくめて顕正会員はこのことに気づかなければならない。このような感慨に至っています。
そして顕正会員はもっと御法門を学ばなければならない。学ぶということは自分の脳みそで考えるということです。
661
:
ガンコ
:2003/07/26(土) 19:54
文底読みには無理がある? (あとがき)
じつは上の文章は、本年一月頃に起草し、四月にはほぼ完成していたのですが、なんとなく気取っている感じもあるし、また危険な意味もあったので、投稿するのを躊躇していたのでした。
それでなぜに今になって発表したかというと、どうもわたくしに対する評価として、じぶんないしじぶんの組織に甘いと思われているフシがあるので、それは心外なのでなんとか払拭したいと考えたのでした。
じっさい、現役の顕正会員としてこれほどまでに言いたい放題書きたい放題のものは他にいないのではないか。
しかし、それはネットの匿名性を利用しているからできるのであって面と向かってできるはずもないし、また、わたくしの幼稚な文章はある意味での愛情表現とも読み取られかねないし、そうであれば結局はじぶんないしじぶんの組織に対して甘いと言われても致し方のないことなのかもしれません。
また、より本源的には、この掲示板においてほぼ結論が出ているとされる「戒壇本尊」ならびに「日蓮本仏」にいつまでも固執しているわたくしの態度が、おそらくは“甘い”という印象につながっているものと考えられます。
しかし、そうは言っても、これは相当の難題であってすぐに答えの出せるものではないと思っています。
もし、じぶんでよく確かめもせず結論部分だけをすくい取るようなことをすれば、それこそこの掲示板でいましめられてきた“鵜呑み”であるとか“思考停止”にあたるだろうと思うのです。
いま思うことは、御法門というのはじつに奥が深くて、学べども学べどもなかなか結論に達しないということです。
まだほんの入り口に差し掛かったところというのが本当のところかもしれません。
662
:
共に考察期待者。
:2003/07/26(土) 22:20
< 文底の読みには無理が、、>
同感です。 そもそも「法華経自体が釈尊滅後の”創作”の文物」ですから、いかように読まれても「所詮は=我見??」でしょうか? 「インド地域生誕の釈尊様でさえ、現今のカースト最下層の方々への済度が無視されている現況」には「無力を禁じ得ない」でしょう、。 何故でしょうか、、?
663
:
MILD SEVEN
:2003/07/27(日) 19:08
創価の内部革命は進んでいるかな?
明日は子連れ狼がある。
楽しみだな〜
池田柳生・・・なんてね!
池田狂親衛隊はどう出てくるかな〜
・・・・・・・・・・
創価は、内部粛正するべきだ!
http://www3.ezbbs.net/14/g9okm/
664
:
MILD SEVEN
:2003/07/29(火) 03:17
<子連れ狼 28・7>
俗世の縁を捨て、冥府魔道を行く我らは常人に非ず・・・。
一方、柳生は・・・いかなる罠を仕掛けてでも・・・卑怯と罵られ、嘲笑されようが、柳生は勝たねばならぬ・・・。
・・・・・・・
なんとも・・・。
・・・水戸黄門との2本立てだった。
風林火山
http://www3.ezbbs.net/14/g9okm/
665
:
ジャージルーカス
:2003/07/29(火) 10:46
子連れ狼の柳生烈堂
史実の柳生烈堂について申します。
柳生烈堂は本名を柳生義仙と申します。烈堂は出家してからの法名であります。
母は柳生宗矩の側室で絶世の美女と言われたお藤さん。
正室からは柳生十兵衛と柳生宗冬が生まれ、側室お藤からは柳生左門と義仙がそれぞれ2人ずつ生まれております。
さてこのお藤さんに、柳生宗矩は柳生の里の井戸の前で出会い、一瞬で雷撃の恋に陥ったと記録は記しております。その出会いの井戸は今でも「お藤井戸」として柳生の里に残っており、観光名所となっております。
そしてこのお藤から生まれた最初の子である左門ですが、家光が一目惚れ(所謂同性愛ですね)して16万石(一説には4万石)のお墨付きまで頂きます。左門も義仙も絶世の美女お藤さんの子供ですから、美男子だったようです。
ところが当時の諸大名からは「祖先からの命がけの槍働きも、尻一つに勝てぬ」等と陰口を叩かれ、当時、惣目付(後の大目付)で、大名の取り締まりにあたっていた柳生宗矩は窮地に立たされます。
そして、その後、日をおかずに病死していることから、柳生宗矩が息子の左門を暗殺させたと言う説があります。そして、その撃手が、十兵衛三厳だと・・・。
そして、その同母弟の義仙には剣を伝授せず、出家させて烈堂と号させ、柳生家菩提寺として建立した「芳徳禅寺」の住持として一生をおくらせました。おしまい。
と言うことで、子連れ狼の烈堂とは似ても似つかない方だったようです。
しかし、その反面、左門は兄十兵衛が最も恐れたとされるほどの天才だったという伝説もあり、だとすると裂堂もそれなりの天才剣士だったかも・・・そして住持という表向きの顔が裏柳生総帥の隠れ蓑だったと考えた、原作者も大したものですが。
PS・その後、徳川家光は恋しい左門を殺したであろう柳生家を恨み、宗矩が手に入れた大名の地位(1万石以上は大名)を宗矩の死後、十兵衛三厳、又十郎宗冬に分割することで旗本の地位に下げてしまいます。そして幕閣の要職は全て剥奪し、柳生家は後に大名に復しますが、二度と幕閣要職にはつけませんでした。
666
:
MILD SEVEN
:2003/07/30(水) 00:51
ご丁寧な説明。ありがとうございます。
667
:
愚鈍凡夫
:2003/07/30(水) 20:02
>>665
:
ワーイ!ワーイ!
ジャージルーカスさんの「日本昔話」だ。
アイスキャンデー食べながら読もう(オッサンがやるなって!!) (^▽^;)
失礼しました。 <m(__)m>
668
:
MILD SEVEN
:2003/07/31(木) 02:24
インド大使館のホームページを訪問してみました。
http://www.embassy-avenue.jp/india/index-j.html
669
:
愚鈍凡夫
:2003/09/08(月) 23:51
原始仏典の現代語訳が下記のHPで読めますよ。
「原始仏典」
http://tetugaku.fc2web.com/butten/butten.htm
それでは、もう寝ます。お休みなさい。
670
:
MILD SEVEN
:2003/09/09(火) 01:29
ありがとう!
参考にします。
http://mildseven.55street.net/index.html
671
:
問答迷人
:2003/09/13(土) 07:56
171700ゲットしました
672
:
問答迷人
:2003/09/17(水) 11:27
172513 ゲットしました。
673
:
MILD SEVEN
:2003/09/19(金) 12:56
<つぶやき・・。>
警察も右翼も優しい・・・。
それはそれ、これはこれ・・・。
私はキリスト者。
何も変わりません。
自然体のまま。
創価には、馬鹿梅と言われ、さんざんモルモットにされた人生。
今では、失うものはありません。
今日は休日です。
私は職人です。
両親はカナダへ移民して、今はカナダ人です。
私は、1997に創価に追われるようにカナダに避難?し、2001、「おろち」を倒しに帰国しました・・・まんざら冗談ではありません。
獣・666は比喩。
おろち も比喩。
以前、記入した立正安国論でも・・・。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/9079/
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