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つぶやきすれっど2
1
:
管理者
:2002/12/15(日) 15:25
つぶやきすれっどが、1000レスを越えて、使えなくなりましたので、新たに、つぶやきすれっど2を立ち上げました。よろしくお願いいたします。
何となく、普段からフツフツと感じている事を、ここに書き込んでみて下さい。
このスレッドは、独り言、ボヤキですから、会話、議論の応酬は避けましょう!
本音、弱根を、思う存分サラしてみましょう!
412
:
犀角独歩
:2003/01/21(火) 18:16
さて、もう少しだけ『御伝土代』を。
「仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊に背く意は罪を無間に開く云云、何そ三身即一の有縁の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや」
ここに「三身即一の有縁の釈尊」と明確に釈尊の名前が見られます。411に挙がった本仏です。
ここを『日蓮正宗要義』で見ると、
「釈尊が表現として三大秘法抄の人本尊を受けるもので、大曼荼羅能弘能顕の仏、日蓮大聖人を指されている。文によってのみ義を判ぜず、義をもって文を見なければならない。日興上人日目上人日道上人と相伝して御影を仏と拝し、大曼荼羅即日蓮大聖人と拝する信条の本義の上から文を見極めることが大切であろう」(同251頁)
これまた曲解の限りを尽くしています。
そもそも、この文は前文の「法華本門の釈迦は上行等の四菩薩を脇士となす」を受けるのであって、もし、この「釈尊…日蓮大聖人」と読み替えてしまえば、「法華本門の日蓮は日蓮等の四菩薩を脇士となす」となってしまい、まるで意味をなさなくなります。
それに「日興上人日目上人日道上人と相伝」した血脈付法の“法主”の言を本義の上から読み替える必要が、どこにあるのでしょうか。この本の著述は宗務院であって、歴代ではい。つまり、付法にあらざるものが付法の言を読み替えろと言っているのに等しいことになります。
いったい、道師とは如何なる人物であるというのでしょうか。末の不付僧が読み替えなければならない文章を書いたとは、よくぞ言ったものだと、ここでも呆れものです。
なお、この著述のなかで「御影を仏と拝」すると明言されています。石山僧俗の中には御影を仏像と拝することに異議を唱える人がいますが、少なくとも、ここでの記述ではこのようになっている点は記憶されるべきでしょう。
もう一点。「仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊に背く意は罪を無間に開く」と、道師もまた「二千二百三十余年」であることを記しています。しかしながら、戒壇之漫荼羅は「二千二百二十余年」です。
たしか石山では目師から道師が戒壇之漫荼羅を別付されたとするのですから、道師はなんと、その戒壇之漫荼羅を無視して、他の「二千二百三十余年」と記された漫荼羅を取り沙汰していることになるわけです。
文を「必要ない」と切り捨てたり、「読み替え」たりしなければ、辻褄が合わない教義であると道師を物笑いにしているのが、この『日蓮正宗要義』の該当の記述と見えます。
413
:
犀角独歩
:2003/01/21(火) 19:09
昨日、今日と2日間。時間が空きましたので、まとめて少し投稿させていただきました。
が、気が付いたら、こちらはつぶやきすれっどでした。
今後は、それぞれの項目に投稿させていただきます。
管理人さん、すみません。
414
:
今里祐二
:2003/01/21(火) 19:38
独歩さん
>>404
>これが日蓮の釈です。故に392に今里さんが言う「色心不ニ…戒壇の大御本尊様という「色」を離れて、大聖人様の「心」はない」などという説明は日蓮とはまったく関係のないものです。
ここは独歩さんと意見を異にしますので、以下理由を述べます。
第一点は『木絵二像開眼事』は木絵二像についての御指南で、大聖人様が顕された御本尊様に対しての記述ではないという事。
第二点は、大聖人様は『日蓮は広略を捨てて肝要を好む』(法華取要抄)と言われるように、肝要を好まれたお方です。
『木絵二像開眼事』の冒頭に『仏に三十二相有り、皆色法なり。最下の千輻輪より終り無見頂相に至るまでの三十一相は、可見有対色なれば書きつべし作りつべし。梵音声の一相は不可見無対色なれば書くべからず作るべからず。』
とありますが、大聖人様御自身は、可見有対色の三十一相を省略して、肝要である梵音声を御本尊様の文字として顕すことにより、御本尊様を直ちに三十二相具足の純円の仏とされたのではないかと推察しています。
『仏に三十二相有り、皆色法なり。』という事ですので、戒壇の大御本尊様を「色法」と見る考えも成り立つのではないかと考えています。
>もちろんのこと、戒壇之漫荼羅を日蓮が身代わりに残した証拠ありません。
この点はご指摘の通りです。ただ「そうではない」という証拠も無い訳で…。
>なお、今里さんは269において「大聖人様の本地が「久遠元初の自受用報身如来様」だった」と記していたのに、275のみかんさんが「「大聖人様の本地が「久遠元初の自受用報身如来様」」と言ってしまったら、日蓮が「久遠元初自受用報身如来の当体」ではなくなってしまう」という批判によって修正したようで、ここでは「自受用報身如来の御當體として大聖人様そのものと拝することは日蓮正宗のお約束」と言うに至っています。
>つまり、今里さんが269に記した言葉は「日蓮正宗のお約束」とは違っていることを自ら示した結果となっています。
これは、みかんさんからご指摘を受けた時は僕自身まだよく解っていませんでした。ご教示ありがとうございました。その後自分なりに考えた事があるので記してみます。
『下種の法華経教主の本迹、 自受用身は本、上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり。』(百六箇抄・真偽未決)
「自受用身は本、上行日蓮は迹」と優劣を論じる場合と「自受用報身如来の御當體」と大聖人様を直ちに「自受用報身如来の御當體」と論じる二種類があるのは、大聖人様の御生涯の中での優劣を判じる為ではないかと考えました。
御幼少の頃、蓮長と名乗られていた頃、あるいは立宗宣言された後も、御食事を召し上がっておられる時、用を足しておられる時、等々、いわゆる普通の人間として生活しておられる時は「自受用身は本、上行日蓮は迹」。
それに相対して、出世の本懐を遂げられた時、つまり戒壇の大御本尊様を顕されたその時の大聖人様の大慈大悲の御一念は「自受用報身如来の御當體」そのものであるのではないか、という事から、その時の大聖人様の御一念をそのまま顕した「戒壇の大御本尊」を「自受用報身如来の御當體」というのではないかと考えました。
415
:
今里祐二
:2003/01/21(火) 19:38
(つづき)
つまり僕達信徒が帰命しているのは、いわゆる普通の人間として生活しておられる時の大聖人様ではなく、出世の本懐の時・戒壇の大御本尊様を顕されたその時の大聖人様である、ということです。
ただ、出世の本懐の時の大聖人様は、普通の人間として生活しておられる時の大聖人様に依存してしか存立し得ないので、分別として分ける事は出来ても、実際には分ける事は出来ないと考えています。
戒壇の大御本尊様をお顕しになった時の大聖人様の御一念が、本当に「自受用報身如来の御當體そのもの」であったかどうかは、他人にはうかがい知る事の出来ない事であり、証明は不可能です。
またこの事は、いわゆる物質としての戒壇の大御本尊様が「100%大聖人様の御真筆である」という事が証明されても、その戒壇の大御本尊様が「自受用報身如来の御當體である」という事は証明されない、証明不可能という結論になると思います。
ここまで考えて「やはり仏法とは信に始まり信に終わるのだなぁ」と思いました。
もちろん、これは信徒としての僕の考えであり、他人に押し付けるものではありません。
>二つの本仏論とは現石山などで言われる、一つは本仏・日蓮(師匠)・弟子釈尊、もう一つは本仏=釈尊=日蓮の二つです。
僕はこの際、少し強引なこじ付けでもいいので、本仏=釈尊=日蓮という考えを廃し、本仏・日蓮(師匠)・弟子釈尊を日蓮正宗の正式教義にすべきだと考えています。
一番肝心な所の師弟子の筋目をあいまいにしている事が、「法主本仏論」と揶揄されかねない宗門・法華講の混迷を招いている原因の一つになっていると思います。
(まぁ、独歩さんのされている提案に比べれば、ずいぶんカワイイものですが…)
大聖人様の事を釈尊に相対し百千万億倍勝れた仏と立てれば「不ニの尊体」と称し管長を大聖人様のごとく拝する悪弊も少なくなると思いますし、また、そのことによって血脈の尊貴が損なわれる事も無いと考えています。
困ったという字さん(はじめまして)、からのご提案もありますので、重ねての議論はスレッドを移動したいと思いますのでよろしくお願いします。
最後に、僕の不徳により、本来楽しいつぶやきの場であったこのスレッドが論争の場のようになってしまったことを謹んでお詫び申し上げます。申し訳ありませんでした。
416
:
犀角独歩
:2003/01/21(火) 20:23
今里さん:
うん。まあ、一所懸命に頭を捻ったのはわかります(笑)
ここはつぶやきなので端的に2点だけ。
> 戒壇の大御本尊様を「色法」と見る考えも成り立つ
考えは何でも成り立つでしょう。でも、その考えが日蓮によるからこそ、日蓮(正)宗というわけでしょう。今里さんの考えであれば、今里宗になってしまう。日蓮の正しい宗であれば、日蓮に根拠を求めるべきであると言ってきたわけです
私は文を挙げているのだから、今里さんも文を挙げればよいわけです。
例えば私だって自分の考えを延々と記すことが可能ですよ。でも、それじゃ、ジャッジのしようがなくなります。
ちなみに『木絵二像開眼事』では「三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生身の仏」という記述があります。これは明快ですね。日蓮が仏像を否定しているなどと少しも見えません。
ですから、同じように、どうすれば、日蓮漫荼羅が日蓮本仏であるか、その根拠を示せば、皆が納得するということになります。
> 本仏=釈尊=日蓮という考えを廃し、本仏・日蓮(師匠)・弟子釈尊を日蓮正宗の正式教義にすべき
これは要するに寛師教学全面肯定を覆したと取っていいわけですね。
私は、この掲示板で書いてきて、いつも言っていることですが、前言を覆すことは恥ずかしいことではないと思います。みかんさんのご指摘を受けて考えを変えた、私は立派なことであると思いますよ。
いずれにしても今里さんが日蓮本仏義を宣揚したいと考えたいのであれば、どのような方法が最も効果的か、と言うことです。
自分の考えを書き連ねることなのか、それとも日蓮の言をもって説明することなのか、どちらが説得性性があるか、私は自明であると思うわけです。
まあ、ご健闘をお祈りします。
ここはつぶやきなので、これ以上、突っ込むことはしないことにします。
417
:
アネモネ
:2003/01/21(火) 20:37
今里さん
>戒壇の大御本尊様は、大聖人様が滅後の衆生の為に御自身の御身代りとして残されたもので、自受用報身如来の御當體として大聖人様そのものと拝することは日蓮正宗のお約束です。
もはや私には、日蓮正宗のお約束だから、それが正しいんだと信じることはできないところに来ています。そういう思考が組織の論理であり、そのような論理や思考が、果たして本当に教祖の示す教えだったのだろうか、というのがこの掲示板で長く考えてきたところであると思うんですね。
このことはおわかり頂けるでしょうか。
また、何度も書いていることですが、絶対に日蓮正宗は正しいとアナウンスを受け指導されながら、実際にその組織の中で活動をしている人たちの姿に目を向けると、僧俗ともに仏教徒とは思えない心無い姿ばかりがどうしても目につきます。今里さんはお感じになられたことはないでしょうか。私は、そのことが掲示板に参加するキッカケとなり、また私の大きな問題意識でもあるのです。それは日蓮正宗に限らず、現代宗教が抱える最大の問題ではないだろうかとさえ思い、自分に問い掛けてきました。それは同時に、社会問題でもあるとも思うからです。
そしてそのことを、私が意識するよりももっと前から意識を持って取り組まれ、しかも、ただ思索にふけるだけではなくて、体系的に文献を深く研鑚されてこられた方々が、この掲示板に貴重な内容を記して下さってきているわけです。
これまでの掲示板の流れの中で、日蓮正宗のお約束として教えられてきたことが、長い歴史の中、解釈や他門の流儀なども加えられながら、教団の都合でかなり変遷し教祖の教えからおよそかけ離れたものとして、今日に伝えられてきている可能性もあるということがわかってきたわけです。
またその変遷の内実こそ、私が問い掛けてきた組織の論理そのものだったのではないかということにも気づかされます。
つまり日蓮正宗の歴史をひもとくことは、即現代宗教の抱える問題にも通じることだったともいえるわけです。
しかし、そんなはずはないという思いで信じ続ける人もいるでしょう。でも私はその道は選びません。感情的に信じたいという思いに固執して、立証されてわかってきたことに目を背けることは止めました。なぜならば、信じるべきものが教えられていることとは違っているかもしれないからです。そのことを、重大に受け止めようと思いました。もちろん間違っていないかもしれない。その可能性も残っていますが、それだけでは私はもはや絶対に信じるという気にはなれないですし、当然、そのわずかな可能性に賭けて、これが成仏の道だと断定して人に語ったりはしません。「信じている」という感情論でもって、人の大事な人生を左右することはしたくないと思っているからです。
組織の中では、お約束が絶対ということで通ることでしょう。しかし、この掲示板ではその言葉だけでは何の意味も力も持たないわけです。その言葉に納得させるだけの力を持たせたいならば、なぜそれが絶対と言い切れることなのかの根拠を示さなければならないという、非常に厳格なところにまで議論はきているわけです。
もちろん、これは掲示板で明文化されているルールなどではありません。今里さん流に自由に書いてかまわないのです。しかし、証明できないことを断定する表現で記された場合は、どうしても突っ込みが入ってしまうのは避けられません。突っ込みを回避しようとつぶやきスレッドに書いても、それを黙って見過ごすわけにはいかない人はたくさんいると思われます。
418
:
アネモネ
:2003/01/21(火) 20:37
(つづき)
>つまり「木製の物質」である所の戒壇の大御本尊様という「色」を離れて、大聖人様の「心」はないのです。
この一文はとても理解できないのです。あの戒壇の大御本尊様と称している板曼荼羅を離れて、大聖人の心はないということでしょうか。そう指導されているとしても、私はそれをそのまま信じませんし、疑問に思うところでもあります。あの板曼荼羅に固執して離れない多くの人たちの人としての振る舞いそのものが、真偽を証明しているようなものだという見方だつて出来ようかと思われます。
しかし、この板曼荼羅については、菊水護国さんが記されている
383>当宗は本来、器物・物質信仰ではありません。その根本に有る法を拝しているのです。
こういうことであるならば、私も受け入ることは出来るでしょう。
しかし、あの板曼荼羅でなければならないという日蓮正宗の教義に関しては、それが本当に日蓮の意図したところなのかどうか、疑問を抱いています。
>僕は自分が地獄に落ちることはないと確信を持っています。
この点については、個人的な信仰観でしょうから、私の意見はこれ以上は挟まないことにします。
>それでは宗教って、どういうものなのですか?
私の宗教との関わりは、小学校2年生のときからですから、人生の大半の時間の流れの中に、信仰があったわけですね。オフ会でもお話した通り、キリスト教でしたから、今里さんから言えば外道の信仰です。しかし、絶対を理屈抜きで信じるという行為は、どちらも同じでした。だからこそ今里さんは、「宗教とはそんなもんでしょう」という言葉も出たものでしょう。しかしこの発言、日蓮正宗だけが正しいと言いながら、宗教とはそんなものだと、外道となんら変らないことを認めていることにもなりはしないでしょうか。この時点で今里さんは、潜在的には日蓮正宗といえども、結局は外道と同じだと思っていることになるかといえます。
まあ、それはそれとしても、ともかく私は、その当たり前に思ってきた「宗教とは」というそのあり方が、果たしてそれが本当にそうなのかということを、掲示板に参加した頃から考え続けてきています。
考えているところですので、こういうものですというお答えはできません。
宗教は支配者によって、常に利用されてきた歴史の側面もありますね。そのことが本当の教祖の教えを捻じ曲げられ違ったものになって今日に伝えられてきている側面があるわけです。日蓮正宗は750年間正しく教義を伝えてきたということからして、疑わしいわけです。だからこそ教祖の真の教えとは何だっただろうかという探求が、いま求められることであり、その探求の先にようやく、宗教とは、また仏教とは、ということが言えるのではないでしょうか。
419
:
アネモネ
:2003/01/21(火) 20:38
(つづき)
>成仏できると信じています。
お気持ちはわかりますが、しかし「信じている」では人の人生に対して責任を持っているとはいえないですね。感情論に逃げているだけです。
「宗教とはそんなものだよ」と納得してその先は一切考えない。証明できない真理もあるからと納得してその先は一切考えない。この一切考えないというところが、今里さんのいう「信心」ということになっているわけですね。ところが、かつて、みかんさんと独歩さんが仏教における「信」について、貴重なことを記している箇所がありました。そこでは仏教の「信」とは、私たちが今日当たり前に思っている「信」とは、かなり違っているものかもしれないということが示唆されていたかと思われます。
成仏を求めて「信じている」を通そうと思うならば、まずは仏教における「信」とは何かという問題を自分に問い掛けてみられることも大事ではないでしょうか。わかっているつもりのことが、実は全然わかっていなかったということ、よくあることです
>これは「必ず文証を示す」という、この板のローカルルールのようなものを破った、という事ですか?
いいえ、私はそのようなルールで意見を挟んでいるのではありません。自由に発言なさるのは構わないと思っています。しかし私は、自分の持つ問題意識において、そこに記されている内容に問題ありと判断したら、レスとして意見を挟ませて頂きます。そして今里さんの考え方、そして私の考え方がたとえ平行線であっても、その違いにおいてどちらがどうかということは、個々のロムされている方々のの内心の自由なご判断にお任せするところです。
>僕は大聖人様の御真筆だけを文上のままで読んでいけば独歩さんのような結論に成らざるを得ないだろうという事は解っていたので、
「御真筆のみで大聖人様が本仏か否かを判断しようとする考え方自体が不正だ」という事を言いたかったのです。
結局今里さんは、目先の議論の展開のみに囚われたところで、レスを繰り返してきたということでしょう。つまり大局的にものごとを捉えておられなかったのだと思います。
今里さんは、まず結論ありきで自らを縛り、そのことだけのために、突っ込みを避けたり、質問を交わしたり、罠を仕掛けたり、言い訳をしたりとしてきたといえるのではないでしょうか。しかしそれでは、議論は堂々巡りになるばかりでした。
考えてもみて下さい。この場で大事なことは、真実は何であるかの探求だと思います。証明されない結論は、この場では真実の結論だとはみなされないわけです。つまり、今里さんの信じている動かし難い結論が、必ずしも日蓮聖人の真の教えであるとは言い切れないということです。そのことをどのように自分の中に受け入れるかは、それは個々の自由です。感情的にそれでも信じると受け止める人もいるでしょう。しかし、議論の場にその思いを持ち出されても、いつまでも堂々巡りする不毛な議論になるだけなのです。
「信じている」は感情論だということ、そこをまず認識して、感情論に逃げないところで議論をして頂きたいと思います。感情論に入ると、真実が見えてこない場合が多いということ、おわかりいただきたいと思います。
しかし、内心において感情的に信じつづけるということ、これは自由なんです。そのことまでは私は立ち入らないつもりです。
420
:
アネモネ
:2003/01/21(火) 20:40
(つづき)
ここではロムの方も含めて、みんな真実を求めているといえます。真実を求めているが故に、科学的な分析から証明されてしまったことからは目を反らさない姿勢を大事にしているのでしょう。そうした過程においても、正しいと信じていたものと辻褄が合わなくなってきているわけです。
ですから、まず今里さんの信じる結論は、否定するのではなくて横に置いておいて、なぜ独歩さんが御真筆にこだわるのかということを、とことん追求して考えてみられてはどうでしょうか。そのための質問ならばどんどんなさっていいと思います。ロムの方々にも再認識のうえでも大変勉強になることと思われますね。
くれぐれも目先の感情論のために、相手を罠にかけようとする行為は、ご自分が損をするだけですから、止められたほうが良いでしょう。
>僕の文章力が未熟で、不快な思いをさせてしまったようです。申し訳ありませんでした。
考えを文章に著すということは、これは本当に大変なことです。またここの掲示板には文筆業を生業としている方も多くロムされていますから、どうしても言葉の言い回しには厳格になります。言い回しひとつが、死活問題になることを心得て書き記しているわけです。
ですから、そのような人から今里さんの文章を見るならば、「信じている」思いだけで断定して記述することの危険性がどうしても目についてしまうのです。それは見逃すことが出来ないのです。
ネット社会において趣味であれ仕事であれ、文章を公表するということはもう立派な言論活動を意味します。そこにはプロも素人もなく、言葉ひとつが命取りにもなるというわけです。素人だから見逃されるということにはならないのです。それが開かれたネット社会の危険性でもあるわけです。ですから、今里さんご自身のためにも、くれぐれもこのことは心得ておかれることを申し上げたいと思います。
>僕はこの際、少し強引なこじ付けでもいいので、本仏=釈尊=日蓮という考えを廃し、本仏・日蓮(師匠)・弟子釈尊を日蓮正宗の正式教義にすべきだと考えています。
要するに、これが今里さんの「案」というものですね。しかし教義が信徒の思いから出る「案」で決まっていくというのもおかしなものかなと思いますが。
>一番肝心な所の師弟子の筋目をあいまいにしている事が、「法主本仏論」と揶揄されかねない宗門・法華講の混迷を招いている原因の一つになっていると思います。
まさにこのように宗門組織の秩序のために、教祖の教えを超えて、教義は変遷してきたのでしょう。そのように個々の人間の幸福よりも、組織の秩序が優先され、それを守ることがあたかも仏法を守ることのように教えられて、大胆な新しい解釈を教祖の教えとして正当化する必要が生じ、偽書が生まれてきた。
偽書成立のシュミレーションを、わざわざ今里さんが示されたようなものではないかと感じます。
スレッドを変えるというご提案ですが、仏教における「信」について議論するスレッドを立て、そこで論じ合うことが良いのではないかとご提案いたします。
421
:
犀角独歩
:2003/01/21(火) 21:00
416のちょっと、補足です。
『法華取要抄』の引用がありましたが、その少し前を
広略を捨てヽ要を取るや。答へて曰く、玄奘三蔵は略を捨てヽ広を好む、四十巻の大品経を六百巻と成す。羅什三蔵は広を捨てヽ略を好む、千巻の大論を百巻と成せり。日蓮は広略を捨てヽ肝要を好む、所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり
つまり、
広・玄奘・四十巻の大品経を六百巻
略・羅什・千巻の大論を百巻
要・日蓮・上行菩薩所伝の妙法蓮華経
しかし、これは本尊について論じるところではありません。なぜならば、この『法華取要抄』に「本門の本尊と戒壇と題目の五字となり…本門の三つの法門之を建立」の明文が見られます。この三つの法門については、より具体的に、『報恩抄』に
「三つあり…一つには日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし。二つには本門の戒壇。三つには日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無知をきらはず一同に他事をすてヽ南無妙法蓮華経と唱ふべし」
とあり、「本門の教主釈尊を本尊」は日蓮の取り定めるところです。殊、本尊に限って言えば、この明文ははずせません。『法華取要抄』の述作は文永11年(1274)5月24日53歳、『報恩抄』は建治2年(1276)7月21日55歳です。
少なくともこの時期に日蓮は本尊・教主釈尊、題目・妙法蓮華経を分別して論じるのであって、引用されるところの(肝)要は、この題目を論じたと以外は読めません。
ですから、「三十一相を省略して、肝要である梵音声を御本尊様の文字として顕す」という想像は残念ながら、日蓮の真跡が指示しないことになります。
422
:
犀角独歩
:2003/01/21(火) 22:03
アネモネさんの提案の「信」について、新スレッドを立てていただくことに賛成です。
あと、
日蓮本仏論は 49の『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について
現石山教学は 27の現在の日蓮正宗の教義について
板漫荼羅は 4の本門戒壇の大御本尊様の偽作説について
と分散しましょう。まあ、できたら、過去ログは読んでもらうと話はスムーズなんですが、たいへんでしょうかね。
403の困ったという字さん(はじめまして)のご提案は4に入るかと。
なお、みかんさんへの私の質問はちょっと個人的ですから、メールで返信をいただくということで(笑)
マインド・コントロール問題も取り上げたいのですが、議論が止まっているので、続くようなら管理人さんにお願いする、こんな感じでどうでしょうか。
まあ、実りある議論をいたしましょう。
423
:
犀角独歩
:2003/01/21(火) 22:05
あと、無徳さんとsatさんの議論をなんだか、邪魔してしまったようで申し訳ありません。この件については、ご当人に案を出していただくのがよいと思います。
424
:
無徳
:2003/01/22(水) 00:04
独歩さんお気遣いありがとうございます。
ちっとも気にしておりません。satさんと有意義な意見交換が出来ました事を
感謝しています、ありがとうございました。
尚、私も日蓮本仏論者としては今里さんに引けを取らない心算であります(笑)
だた、日蓮本仏論に関しては別スレッドで意見を出し合いましょう。
と言いながら、一寸だけ意見を言わせていただきますと、私の想像ですが独歩
さんが日蓮本仏論に否定的な拘りを持たれる大きな理由として、法華講時代の
苦い経験が有る為ではないかと思われますが、もし間違っていましたらご寛恕
ください。
特に総本山内における僧侶方の権威主義的な在り方に強く反発なされたのでは
ないかとも想像されます。私も総本山において日顕猊下への御目通りと称する
儀式みたいなものに列座したことがあります。
なんと大時代的な所業であろうと呆れた経験があります。さらには一般僧侶の
信徒に対する見下したような態度にも苛つかされました。全ての僧侶がそのよ
うな態度とは言いませんが昔から登山の折々に感じたことでした。
もし、日蓮本仏や唯授一人と言った信仰に於ける「信」の置き処とも言うべき
確信が、権威主義に繋がっているとしたらそれは悪しき共同幻想であり迷妄と
言わざるを得ません。
私は日蓮本仏論が絶対の真理のように解釈されているとしたら、それは間違い
であり誤謬であろうと思います。そもそも、仏教に限らず宗教上の教理は所謂
科学的な真理観とは位相を別にするものであり、基本的なパラダイムの違いを
考慮に入れなくては論議が噛み合いません。
もっとも、こんな事は独歩さんにとっては百も承知のことであり「仏に説法」
と言えましょう。
しかし、独歩さんが日蓮御坊の遺文に日蓮本仏論の根拠(証拠)の全てを求め
ようとする在り方は、確かに一つの正当なる道ではありますが文献学的な方法
論との差異が明確でない感じがしますが如何なものでしょう。
後日別スレッドにて、私にとっての日蓮本仏論として試論を述べてみたいと思
います。
425
:
犀角独歩
:2003/01/22(水) 01:01
無徳さん:
お言葉、たいへんに嬉しく存じます。
> 私も日蓮本仏論者としては今里さんに引けを取らない心算であります(笑)
ええ、承知しております(笑)
> 特に総本山内における僧侶方の権威主義的な在り方に強く反発
もちろん、その気持ちはありますが、これと本佛義批判は別です。
私は、日蓮が心の底から釈尊を思う熱い心に胸打たれているのです。
> 私は日蓮本仏論が絶対の真理のように解釈されているとしたら、それは間違い
なるほど。さすがのご賢察と拝します。
> 独歩さんが日蓮御坊の遺文に日蓮本仏論の根拠(証拠)の全てを求め
ようとする在り方は、確かに一つの正当なる道ではありますが文献学的な方法
論との差異が明確でない感じがしますが如何なものでしょう。
ええ、仰るとおりです。
実は私ほど、相伝文大好き人間もいないと自負しております(笑)
しかし、この事実に気がつかれる御仁は少ないのです。
真跡遺文に基づく追究など、初歩の初歩、始まりの始まりであることは百も承知しております。私とて、それほど、馬鹿ではありません。
> 後日別スレッドにて、私にとっての日蓮本仏論として試論
楽しみにお待ち申し上げております。
今回のやり取りに就き、決して言葉を挟まず、見守ってくださった懐の深さに深く感謝申し上げます。
428
:
菊水護国
:2003/01/22(水) 12:56
第156回国会開会式(平成15年1月20日(月)(国会議事堂)
「本日,第156回国会の開会式に当たり,この席に親しく臨めないことを,誠に残念に思います。 国会が,永年にわたり,国民生活の安定と向上,世界の平和と繁栄のため,たゆみない努力を続けていることを,うれしく思います。国会が,国権の最高機関として,当面する内外の諸問題に対処するに当たり,その使命を十分に果たし,国民の信託にこたえることを切に希望します。」
以上の言葉を皇太子殿下が御代読されました。殿下が摂政になられる可能性もあるそうです。さて今上の帝におかせられましては、何時までも御身、御大切に御健勝であられることをお祈り申し上げます。菊水護国。
429
:
問答迷人
:2003/01/22(水) 20:14
124686 ゲットしました。
430
:
問答迷人
:2003/01/23(木) 14:00
125030 ゲットしました。
432
:
問答迷人
:2003/01/24(金) 20:58
125567 ゲットしました。
433
:
問答迷人
:2003/01/25(土) 22:49
Leoさん
お久しぶりです。どうぞごゆっくりなされて下さい。
125926 ゲットしました。
434
:
Leo
:2003/01/25(土) 23:13
問答迷人さん
ありがとうございます。よろしくお願いします。
435
:
モモ
:2003/01/27(月) 01:39
上野博物館の大日蓮展に行ってきました。正宗内ではあまり今回の展示については何もコメントがありませんでしたが、
立正安国論と観心本尊抄(両方とも千葉の中山法華経寺にある)の真筆が拝見できたのはとても良かったと思いました。
貞観政要の真筆もありましたが混んでて良く見れませんでした。あと日蓮大聖人真筆の大きな曼荼羅(名前は失念しました)も印象に残っています。
一塔二尊四士の仏像も拝見できました。あと金文字の法華経など。以上の展示が印象に残っています。
しかし、今回は日興門流の展示はなかったようです。日興門流以外の上人さん達の絵像もありましたが、正直言ってあまり興味がありませんでした。
あと日蓮大聖人の年表もちょっと見てみましたが、大事な弘安2年10月12日の本門戒壇大御本尊建立が書いてありませんでした。世間的な大聖人の見方はこんなものかな、というのが正直な感想です。
大石寺からの出品もなにもなかったようです。もっとも大石寺では大講堂の展示で諫暁八幡抄の真筆(のレプリカ)があったのでそれはそれで良かったと思います。
436
:
問答迷人
:2003/01/27(月) 09:51
126506 ゲットしました。
438
:
困ったという字
:2003/01/27(月) 20:20
>435のモモさん
>大石寺では大講堂の展示で諫暁八幡抄の真筆(のレプリカ)があった
花押はありましたか、それともなかったですか?
439
:
あ
:2003/01/28(火) 13:53
127000ゲット!
440
:
モモ
:2003/01/29(水) 02:40
そうです。文字曼荼羅の名前は「臨滅度時」です。
諌暁八幡抄の花押まではちょっとわかりません。たぶん巻物の中に隠れていたと思います。
441
:
問答迷人
:2003/01/29(水) 22:21
127514 ゲットしました。
442
:
問答迷人
:2003/01/31(金) 10:20
128000 GET!
443
:
一等
:2003/02/02(日) 03:15
壊れてませんか?
445
:
問答迷人
:2003/02/02(日) 09:09
一等さん
>壊れてませんか?
何か、不都合がありましたでしょうか?
128616 ゲットしました。
447
:
問答迷人
:2003/02/03(月) 17:14
129060 ゲットしました。
448
:
一等
:2003/02/04(火) 17:06
>>445
問答迷人さん
2/1に、ほとんど投稿がなかったのでそう思いました。大変失礼しました。
(こちらのPCが調子悪かったのかもしれません)
449
:
犀角独歩
:2003/02/05(水) 21:49
私もやっと大日蓮展を見てきました。
感想としては「つぶやきすれっど2」にワラシナさんがお書きになっている点を「なるほど」と思ったものです
臨滅度漫荼羅の前に小一時間おりました。
何度も表装されたのでしょう。周囲が損なわれているのは、むしろ、大切に表装を繰り返されたためなのかと思いました。
しかし、それにしても、真筆の漫荼羅の何とも優美なことか。
あと、『立正安国論』をあれだけの量を展示していたのを、少なくとも私は初めて見ました。ここだけでも1時間以上はいました。『本尊抄』が少ししか拝せなかったのは残念でした。
日蓮の文字の迫力の前には、それ以降の作品など、どんな著名な芸術家でも色褪せていました。
私は個人的に感慨を懐いたのは、あれほど大きな釈迦涅槃図を見ても、墨一色の日蓮入滅図のほうがはるかに胸を打ったことでした。やはり、自分は日蓮を崇敬しているのだと改めて再認識しました。
あと、余談。
先のガンダーラ・マトゥラー仏像展の時も同じ光景を見たのですが、国立博物館の手前の公園で、上野よみがえり会というキリスト教の一派がホームレスを集めて賛美歌を歌っていました。ざっと数えて400名以上いました。礼拝のあとに食事でも配るのでしょうか。
閲覧を終えて、その場所に戻ると3人の床屋さんがホームレスの髪を刈っていました。
その前を形ばかりの袈裟、毛糸の帽子をかぶり、スニーカを履いた坊さん?が何事も見えないように通り過ぎていきました。ボランティアと目する人たちと残っているホームレスの人がにこやかに話している横を、です。
それと展示との対比、私は複雑な思いを抱きながら、その場を去りました。
450
:
みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>
:2003/02/07(金) 07:24
>>364
さかなこさん
> 基礎知識がいっぱい載ってるさかなでも読める易しくて安い本
御書の概説書みたいのがあるのを忘れてました。
『御書を学ぶ人のために』(第三文明社 2000年 1000円)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4476061648/
小林・河合『御書と鎌倉時代 上・下』(第三文明社)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4476060838/
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4476060846/
『御書と鎌倉時代』の方が内容的には、良い本だと思いますが、『御書を学ぶ人のために』のほうが、安いし読みやすいとは思います。んが、御本仏がどうのとか、ウソもいっぱい書いているので、そこは自分で判断する必要があります。
あと、偽書とか真偽未決について明記していないので、そこも自分で注意する必要があります。
451
:
タロウ
:2003/02/07(金) 17:38
こんにちは。
偽書・真偽未決御書について、たとえばこの御書は、身延に真蹟がある」など
詳しくわかるHPをご存知でしたら、教えていただけませんか?
以前は有ったのですが閉鎖され困っています。よろしくお願いします。
452
:
さかなこ
:2003/02/07(金) 23:03
みかんさん>
どうも。ウソが見ぬけない私にはちと難しい本かもしれませぬ。。汗
そういえば以前、ご紹介して頂いた「日蓮大聖人御書辞典」が家にありました。
453
:
みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>
:2003/02/08(土) 14:46
>>451
タロウさん
「詳しくわかるHP」というのは、どこのことでしょうか。日蓮正宗法華堂にあった、各遺文集・御書全集の目次を校合したcsvファイルのことでしょうか。あれなら私は保存しています。
さて、そういうHPはちょっと知らないのですが、基本的には、遺文集の目次を見れば(どの遺文集でも)、真跡・古写本がどこにあるかは書いてあるので、それを参考にしてください。
たしか小林正博氏の本に、御書の信頼性を、A,B,C,Dにランク分けしたものが載っていたような気がしますが、どの本かちょっと覚えていません。たぶん、『日蓮大聖人の「御書」をよむ』(第三文明社)だったような気がします。手元にないので、確認できません。
454
:
タロウ
:2003/02/09(日) 12:26
みかんさん こんにちは
膨大な量の、「御書」。全ては読めないかも。しかし真蹟だけでも読もうと思っています。
>遺文集の目次を見れば(どの遺文集でも)、真跡・古写本がどこにあるかは書いてある
そうですか。過去ログに、確か「昭和なんとか定本」と言う本のことが書いてありましたが
ちょっといまあたれません。この本でも良いでしょうか。
455
:
みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>
:2003/02/10(月) 18:02
>タロウさん
『御書』は何をお持ちですか。学会版の『御書全集』『編年体』、大石寺版の『平成新編』のいずれかをお持ちで有れば、それで良いと思います。
本当は注釈付きとか、現代語訳つきの奴の方が、最初は良いです。
『昭和定本日蓮聖人遺文』(身延山久遠寺)は、3万5000円ぐらいしますし、市販してないし、漢文は書き下してないし、日蓮研究者以外には必要有りません。日蓮研究者はこれ持ってないとまずいですが。
もし『昭和定本』がどうしても欲しいなら、日蓮宗新聞社に電話すれば買えます。(03-3755-5271)
456
:
タロウ
:2003/02/10(月) 18:24
みかんさん
3万5000円じゃない方のを買ってみます。(笑)
どうもありがとうございました。
457
:
犀角独歩
:2003/02/12(水) 05:35
学会を含む石山系心というのは奇妙であると思う。漢文を難しいという。教学といいながら、漢文原典をオミットするからだ。
ところが、朝晩、漢文のお経を唱えているのである。そして、その意味もわからないのだろう。学会を含む石山系信徒には、漢文は唱えるには唱えるが意味のわからないお呪いなのだろうか。
その意味のわからないお呪いを、これまた、漢文だけで書かれた漫荼羅本尊に向かって唱え続けている。題目の「南無妙法蓮華経」にしても漢文である。それなのに、漢文はわからない、意味がわからないと言う。たぶん、私が引用する漢原文など、多くの人は読み飛ばしていることであろう。それが信仰の根幹をなす一念三千なるものに係るものであっても、漢文となれば途端に拒絶反応が起こるのだろうか。
意味がわからないけれど、信じることが大切だというわけなのだろうか。
私は意味のわからないものは信じない。信じることと覚ることは同時であると思うからだ。各人が勝手に信仰と思っていることは“わからないことを思い込むことを信じること”と錯誤しているのに過ぎないと思うのだ。
…日はまだ昇らない眠れない朝を迎えて、私はそんな有様を思っていた。
458
:
犀角独歩
:2003/02/12(水) 05:50
「意味のわからないものは信じない」
こういうと、学会を含む石山系信徒は、こういうだろう。
「そんなはずはない。今、目の前に、コップにつがれた水がある。それを疑わず、飲むのはそれが毒でないと信じているからだ」
折伏と言われる勧誘でよく使われるトーク・テクニックだ。
けれど、私はそのコップの水を毒でないと信じているから飲むのではない。経験から、そのコップの中の液体が安全であると思うから飲むに過ぎない。この経験の蓄積から得る安全認識もまた、「信」の結果とすり替えられる。人間は信じなくとも行動することも、生きていくこともできる。仏・法の崇敬も元来、直接的に信仰と呼ぶものではなかった。そんなことを考えようとしたのが「仏教における信」のスレッドであった。しかし、無条件で信じ込ませることによって利益(りえき、りやくではない)を挙げてきた集団と指導者にとって、斯くなる考えは眉を顰める被支配者の雑念ととらえたいであろう。
漢文の意味がわからなくても有り難がって支配され、言われたとおり行動する烏合の衆であるほうが都合が好いからだ。意味のわからない漢文を日々唱え、有り難がっている人々が、漢文原典に振り向きもせずに、自信満々でいられるのは、そんな支配者の罠に易々とはまり続けているからに他ならない。何故ならば、原典から理解されて、いちばん困るのは常に集団とその指導者であるからだ。
459
:
犀角独歩
:2003/02/12(水) 11:46
漢訳仏典教学は終焉を迎えた。これは間違いのない事実である。
ただ、現在もそのような信仰が可能なのは、偏に隔離対策が成功しているからに他ならない。恐怖と功徳、選民思想で糊塗すれば、肉の付いた歯が700年以上も生き続け、今も成長しているなどという嘘も罷り通る。
梵本原文と漢訳経典が違っていようと、その漢訳経典によって組み立てられた教義の絶対性にしがみつく。しかし、しがみついているのは自分自身の執着へ、だろう。
そして、梵本原典は、というと、これまた、シャキャムニの直説とは言い難いようだ。では、シャキャムニの直説探しに時間を費やすことが賢明なのであろうか。ここで言う直説とは真理とか、法とか言われるものだ。
結局のところ、シャキャムニはそんな真理だ、法だと言われるものを言語化してはいないのだと思う、「正しい教え」、「真理」に類する発言はあったろう。それはシャキャムニが実感した、いわゆる悟りというものをそのようが語彙を以て説明したのに過ぎない。真理という語彙はしかし、真理そのものではない。
そんな言葉の限界をシャキャムニは知っていたろうと思う。そこで示せたのは、ではどうすれば、その真理にいたれるかという方法の提示であったろう。それが修行方法の提示ということであった。修行方法を語った言葉・経典に霊力があって願いを叶えるわけではない。その方法に則って修行をするから成果として真理、法にいたる悟りを得られる可能性があったのに過ぎない。
偶像崇拝というキリスト教側の批判があるが、つまるところ、言語化されたものでさえ、言語という偶像である。言語化されたものは言語であって、そのものではないからだ。その意味では聖書も偶像ならば、経典も偶像である。だから、捨て去るというのではない、限界を知るということだ。
生を得ることは天文学的な確率で、胎内では、生物数十億年の進化を追体験し、そして、わずか100年に満たない時間を与えられる。火花の煌めきよりもさらに短い一刹那の出来事である。
その間に、人間は生まれ苦しみ、老いて苦しみ、病んで苦しみ、死に苦しむ。
愛するものとはやがて別れ、憎みものと会うこともある。四苦の限界を持つ生物は叶った願いもやがて潰え、考えあぐねる身心はむしろ苦しみを生じさせる。
しかし、私はいま生きていることを奇跡であると思う。
この奇跡からすれば、宗教団体が提供する奇跡物語など、一切は色褪せて見える。
奇跡は自分が今生きている現実そのものであるからだ。
460
:
いちりん
:2003/02/12(水) 11:55
独歩さん
まことにもって同感です。
461
:
さかなこ
:2003/02/12(水) 13:11
>>458
>「そんなはずはない。今、目の前に、コップにつがれた水がある。
>それを疑わず、飲むのはそれが毒でないと信じているからだ」
私はよく「構造を知らなくてもテレビを見ることができる。テレビを
見るためにはいちいち難しい構造を知る必要はない。信心もそれと一緒だ」
と言われます(笑)
463
:
五月雨
:2003/02/12(水) 14:19
>考えあぐねる身心はむしろ苦しみを生じさせる。
そうなのでしょうね、考えあぐねている今の私の状態です。
苦しみしか生じないものであれば、それは人生の無駄になるのでしょうね。
宗教が無くても生きていけます。もしかしたら、その方が楽なのかもしれません。
464
:
いちりん
:2003/02/12(水) 14:24
>神様、自分では変えられないことを受け入れる平静さと、
自分に変えられることは変える勇気と、
そしてそのちがいがわかるだけの知恵をお与えください」
ほんと、いいことばですね。
智慧というのは、「変えられることと、変えられないこと」を識別する力をいんだなあとも思いました。
わたしたちは、変えられないことをなんとかしようと頑張って、そうして苦労してしまうわけですけど。いや、苦労することも意味があるわけだけど。
でも、ああ、これは受け入れればいいんだなあ、ああこれは勇気を持って変えていけばいいんだなあと、穏やかにものごとに対処できること、それがひとつの宗教的な境地なのかもしれませんね。
そうして、わたしが尊敬するフランチェスコというキリスト教の聖者がいますが、その方の祈りのことばです。これもすばらしいです。有名なので、皆さんご存じだとは思いますが。。
平和を求める祈り
主よ わたしをあなたの平和の道具としてお使い下さい
憎しみのあるところに愛を
いさかいのあるところにゆるしを
分裂のあるところに一致を
疑惑のあるところに信仰を
誤っているところに真理を
絶望のあるところに希望を
闇に光りを
悲しみのあるところによろこびをもたらすものとしてください
慰められるよりは慰めることを
理解されるよりは理解することを
愛されるよりは愛することを
わたしが求めますように
わたしたちは与えるから受け
ゆるすからゆるされ
自分を捨てて死に
永遠の命をいただくのですから
465
:
五月雨
:2003/02/12(水) 14:38
>平和を求める祈り
主よ わたしをあなたの平和の道具としてお使い下さい・・・
このことばはところどころ知ってはいましたが、全文を読んだのは初めてです。
いい祈りのことばですね、感動しました。
意味の分からない勤行要点で21年勤行してましたが、こんな感動を感じたことは無かったです。
意味を知る、分かるということは大事ですね。
勤行要点の意味することが分かっていれば、感動もあったかもしれないです。
いちりんさん、素敵なことばを有り難うございました。
466
:
犀角独歩
:2003/02/12(水) 15:55
マイケル・J・フォックスが書いた言葉は仏教であると私は思いません。
仏教であれば、神などに祈ったりはしないからです。ひたすら、自分の精進のなかで、しかし、獲得されるところが、ややフォックスと見かけばかりが似通っているように見えるだけでしょう。
しかし、仏教がもたらすものは平静ではなく平安であり、それは神と言った絶対者に与えられるのではなく、自らが至る結論です。仏教は絶対者の介在など必要としません。そして、絶対者へ何ものも期待しません。それだけにフォックスの言葉以上に徹底されているのだと私は思います。
467
:
五月雨
:2003/02/12(水) 16:04
言葉足らずでしたね、神様の部分はなんでもいいと思います。
そして仏教に通じると訂正致します。
468
:
犀角独歩
:2003/02/12(水) 16:22
絶対者も期待しない、死後の世界も望まない、もはや、救済すら不要の、あるがままのすべてを受け入れる境地には、何ものも、遠く及ばないと思えます。
469
:
五月雨
:2003/02/12(水) 16:34
>468
私は元より神など信じていませんから、仏教を学ぶ者として
マイケルの言葉を仰る通りに受け止めました。
470
:
みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>
:2003/02/12(水) 16:37
にょ。
独歩さん、五月雨さんにマイケルの「平安の祈り The Serenity Prayer」(アルコホリックアノニマスが使用)を紹介したのは私ですし、これが仏教で、これ以上何も要らないと言ったのも私なので、あとでレスします。
わたしは神は要らないですけどね。仏も要りません。本尊も要りません。
おっしゃるように、あれになったら何も要らないんですよね。仏も要りません。ただあるようにあればいい。
あのあとは、そういうザッハリッヒ(Sachlich)なありさまです。それが仏教です。
そうなったら、ただ生きれば良いんです。
471
:
五月雨
:2003/02/12(水) 16:46
>470
みかんさんに教えては貰いましたが、それを読んでの感想は私の感想です。
どんな感想を持とうと自由でしょう。
472
:
犀角独歩
:2003/02/12(水) 16:50
みかんさん:
私の言いたかったのは457〜459です。
フォックスのことはどうでもよいのです。
ただ、いちおう記したのは、神に与えられることを望み、死後の昇天を望む人たちが、受け入れる・平安などということは、まだ不徹底であり、解脱、涅槃には遠く及ばないとだけ言いたかっただけです。その手前のものと混同されては誤解が生じると思ったので、敢えて付言したまでです。
473
:
犀角独歩
:2003/02/12(水) 16:51
最後に近づきながら、また間違えました。
誤)受け入れる・平安などということ
正)受け入れる・平静などということ
474
:
みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>
:2003/02/12(水) 17:53
>独歩さん、
あれの前の仏教(仏教に限らず)と、あれの後は違います。
あれの前の仏教(仏教に限らず)に、いろんな方便があるのは当然です。神を立てようが、本仏を立てようが、本尊を立てようが、んなことはかまいません。
ただ言わないと行けないことがあるとすれば、方向性が根本的に間違っているときです。
で、マイケルの祈りは方向性はまったく間違っていません。ちっとも間違っていません。知恵(智慧)を求めているからです。
で、大石寺(に限らず現在の日本仏教)は方向性が根本的に間違っています。
何が間違っているかというと、覚(日蓮的に言えば開目、親鸞的に言えば信心獲得・入大乗正定聚、道元的に言えば初発心時便成正覚)を本気で全然目指していないからです。彼らは智慧を求めていないんです。
475
:
犀角独歩
:2003/02/12(水) 18:36
みかんさん:
マイケルの方向性が正しいのであればそれでよいのではないですか。
ただ、私は仏教の方向性は絶対者である神も、与えられることも、目指していないという点で、仏教には遠く及ばない、と思っただけです。
以下は五月雨さんが意図したことではありませんが、文章の運びとして、こうなっているという点を注意してください。462に、
「シャキャムニの教えも生死病死の四苦を越えられるものだろうか。どうも、そうではないらしい…マイケル・J・フォックスの自伝に書かれていた言葉、これこそが仏教だと思う」
このような文脈からすると、恰もシャキャムニよりフォックスのほうが仏教であるという印象を与えることになります。しかし、もちろんこれは違います。たぶん、五月雨さんもそんなことを意図したわけではないでしょう。しかし、文の運びはそうなってしまっています。
ですから、フォックスの方向性が仮に合っているとしても、シャキャムニには及ばない、私はその点を強調したかったのです。
なお、みかんさんは
> 神を立てようが、本仏を立てようが、本尊を立てようが、んなことはかまいません
ということですが、私は違います。神を立て、本仏を立て、本尊を立てれば、それはシャキャムニの教えとは違うといいます。また、智慧を求めるか否かを以て、少なくとも私は判断しません。しかし、判断することは否定もしません。智慧とは何かは大きなテーマですが、フォックスの言葉に仏教の智慧を私は見ません。神の恩寵は見えますが。しかし、これは些細なことであって、議論したい内容でもありません。
時間がありませんので、この件はこれでやめにさせていただきます。
私がここに言い残しておきたいのはそんなことではないからです。
476
:
みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>
:2003/02/12(水) 18:47
わたしはあれに神の恩寵なんてあまっちょろいものは見ません。あれは絶対的な絶望に立った人から発せられるぎりぎりの言葉です。
さて、五月雨さんの「シャキャムニの教えも生老病死の四苦を越えられるものだろうか。どうも、そうではないらしい。」
というご発言を批判されていますが、これは半分正しいんですよ。
「シャキャムニの教えも生老病死を越えられるものだろうか。どうも、そうではないらしい。」
なら100%正しいんです。
覚ったって、生老病死は消えません。一の矢は受けます。
覚った人が、覚ってない人と違うのは、生老病死を苦しみと感じないこと、いたみを苦しみと感じないことです。そういう意味づけを手放すからです。
そして、様々なトラブルに出会ったとき(一の矢)、それに正しく対処できるので、トラブルをこじらせてさらなるトラブル、さらなる苦しみ(二の矢)を受けないんです。
それが「如来は二の矢を受けない」という言葉の意味です。
477
:
みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>
:2003/02/12(水) 18:50
五月雨さん。大変失礼致しました。
五月雨さんの感想と、わたしの感想が別個のことは自明なので、書きませんでしたが、誤解を招く表現であったと思います。
なんでああいうことを書いたかというと、わたしも同じことを感じているわけで、それを独歩さんに否定されたら腹が立つのです。
五月雨さんに降りかかった火の粉は、私にも降りかかっているので、はらわにゃならんと思うわけです。もちろん、はらわにゃならんと思うこと自体が、余計なことで、わたしの無明なのですが。
いずれにせよ、五月雨さんをご不快にさせたわけで、配慮が足らなかったのです。失礼致しました。
478
:
犀角独歩
:2003/02/12(水) 18:51
みかんさん:
では、フォックスのほうがシャキャムニより、智慧があり仏教であるというわけですか。私の骨子はここにありますが。
479
:
犀角独歩
:2003/02/12(水) 18:56
もう一点、私に腹を立てるのは勝手ですが、私はみかんさん、五月雨さんを否定したわけでも、火の粉を振りかけたわけでもありません。疑義を立てると相手を否定したことになったり、不快にしたりすることになったりというのであれば、議論などできないでしょう。
何をそんな感情的にならなければならないのですか。
480
:
みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>
:2003/02/12(水) 19:05
独歩さんに感じるのは、仏教と仏教でないものをまだ区別しているということです。あれのあとにはそういうものはなくなって良いと思うんです。
そして、あれのあとの見地から、あれの前のことを批判していると思うんです。それって意味ないと思いませんか? だって絶対に届かないんですよ。
> フォックスのほうがシャキャムニより、智慧があり仏教であるというわけですか。
それはまったく違います。マイケル・J・フォックスに智慧があるかどうかなんてわたしは知りません。
ただ、
自分に変えられることを変える勇気を持つ。(つまり自分の行為だけ。他人と過去は変えられない。自分が自分であることは変えられない)
自分に変えられないことは受け入れる。(つまりトラブルを苦しみと感じる余計な判断や期待(煩悩)を手放す)
それを見分ける知恵を持つ。(これが智慧・般若)
この三つは、仏教そのものだ、釈迦の思想と同じだ、と私は思ったということです。
481
:
犀角独歩
:2003/02/12(水) 19:22
みかんさん:
> 仏教と仏教でないものをまだ区別している
これはまったく存外のご意見です。
そんな矮小なカテゴライズをやめようといってきてきました。
むしろ、「仏教だ」ということをフォックスに掛けて主張しているのはみかんさんのほうでしょう。
また、私は何も批判していませんよ。批判を展開しているのはみかんさんのほうのようにこれまた、感じますが。少し感情が高ぶっていませんか。みかんさんらしからぬ、矛盾に満ちた記述になっていますよ。
「マイケル・J・フォックスに“智慧があるかどうかなんてわたしは知りません”…見分ける知恵を持つ。(これが“智慧”・般若)…“仏教”そのものだ、釈迦の思想と同じだ」
前文では智慧があるかどうか知らない、後文では仏教だ、智慧・般若は釈迦の思想と同じ=智慧があるという記述になっています。
まあ、どうでもいいですが。フォックスにシャキャムニと同じ智慧があるのであれば、けっこうなことではないでしょうか。ただし、私は、その質は違っていると映じます。
一つお尋ねしますが、そのフォックスはシャキャムニを敬虔に崇拝する人なのでしょうか。それとも神を信仰しているのですか。この方に「あなたの言っていることは仏教だ」と言って本人は喜ぶのでしょうか。彼は神を信じているのではないのですか。本人はシャキャムニの智慧と同じであるといわれて、「そのとおりだ」と言うものなのでしょうか。
しつこいようですが、私がここで考えたいのはフォックスのことではありません。
これまた関係ありませんが、私の母もパーキンソン症候群を煩う80歳の老婆です。
482
:
五月雨
:2003/02/12(水) 20:23
独歩さんが厳格なまでに、シャキャムニの教えを探求されたことは分かります。
それがきっと当然なことなのでしょう。
私にはまだその教えは完全には分かりません。
だけれども、私の理解は間違っているとは思わないし、マイケルの自伝をあらかた目を通しましたが、彼も仏教を生きてきたと思いました。
人は全て、仏教を生きるのだと思います。
どんな宗教に属していても。
これは感覚的なことです。感覚的にシャキャムニの教えを感じてはいけませんか。
独歩さんにはもうこんな事に関わっているお時間はないのでしょう、もうこれでおしまいです。
私の言ったことに関して誰も突っ込まないでください。無駄な議論になるのでしたら、どうぞ管理人さん、私の462のレスを削除してください。
485
:
犀角独歩
:2003/02/12(水) 20:33
敬虔なクリスチャンからすれば、すべては神の御業と映るでしょう。
もちろん、各人がどう感じようが勝手です。
しかし、フォックスはクリスチャンであれば、彼に敬意を表して、彼の感じる神とその考えを尊重したいと思います。私が仏徒であり、すべて仏教と見たいとしてでもです。以上です。
487
:
犀角独歩
:2003/02/12(水) 20:37
いずれにしても、私はフォックスに仏教を見るのではなく、シャキャムニに仏教を見ようと思います。
488
:
犀角独歩
:2003/02/12(水) 20:46
> 482
突っ込むなと言いながら、問いかけになっているので、この点だけは記します。
> 教えは完全には分かりません…私の理解は間違っているとは思わない…感覚的にシャキャムニの教えを感じてはいけませんか。
完全にわからないのであれば間違っているかどうかはわからないでしょう。
感覚的にシャキャムニの教えを感じることが是であれば、みかさんがいう智慧を不要と言うことになるでしょうね。
どう感じようと勝手だというのであれば、五月雨さんの今里さん批判も成り立たないことになるでしょう。
感情論に終始されるのが、交わす会話の最後となるのは残念な結末でした。
489
:
犀角独歩
:2003/02/12(水) 20:47
【488の訂正】
誤)みかさん
正)みかんさん
490
:
みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>
:2003/02/12(水) 21:14
ちょっとまってくださいね。いま何が行き違っているのか考えてますから。
こういう場合は文字面をみたらあかかんのですよ。文字面の後ろにあるものを見ないといけないと思うんです。
一個だけ。
>何をそんな感情的にならなければならないのですか。
それはわたしが短気な人間だからです。
気質的な問題です。
こどものころから、切れやすいです。
これはわたしの克服しないといけない多くの問題の一つです。
ごめんなさい。
491
:
さかなこ
:2003/02/12(水) 21:31
>「神様、自分では変えられないことを受け入れる平静さと、
>自分に変えられることは変える勇気と、
>そしてそのちがいがわかるだけの知恵をお与えください」
この言葉を読んで2年くらい前に読んではっとし本のことを思い出しました。
今、流行の癒し系の本か、なーんちゃって心理学の本だか題名は忘れましたが。
「できないことを無理にしようとしてない?できることをやらないでいない?
まずは少しずつできることから始めよう」
不可能を可能に変える信心ということを念頭において世間的な成功の結果ばかり
求めていた私にとってはものすごく衝撃的な言葉でした。
M.J.フォックスくんってなかなか良いことを言うのですね。確かパーキンソン病
かなにかでしたよね。今となってはスクリーン上で彼を見ることはできないの
かしら…残念(>_<)今度その本を探してみます〜。
って話しの流れが読めないやつでごめんなさい。ちこっと言ってみたかったので汗
492
:
犀角独歩
:2003/02/12(水) 21:38
みかんさん:
どうも。
基本的に、私は何も批判していないわけで、まあ、そういうことです。
「ごめんなさい」と言われると「ごめんなさい」と意味もなく返したくなり、前に進むのが人間の感情ですね。ありがとうございます。
493
:
五月雨
:2003/02/12(水) 21:39
残念な結末にしないでください。
494
:
いちりん
:2003/02/12(水) 22:33
それが仏教かどうかは知りませんが、わたしなりに思うこと。
他人は変えられない。
けど、自分は変えられる。
自分が変わると、他人が変わる。
けど、他人を変えようとして、自分を変えてはいけない。
自分は自分でいい。
自分でいいというところに、徹底的にくつろぐことができると、まあうまいこといったりしますね。
この自分ということを、探求していく道。
他人がどうのこうのでなく、ひたすら自分を観る。
その観方をブッダは、示しているんだなあと思ったりするわけです。
で、わたしには、それはどうも大乗経典を読んでもわかりにくい。
小難しい漢字が多くて、難解なことこのうえない。
なにより自分の心を観るという大切な視点が欠落して、哲学的な理屈にエネルギーが向かってしまう。
ところが、原始経典のダンマパダとかスッタニパータなど読むと、自分を観る、とてもいいヒントがある。
ああ、智慧の静けさがあるなあと、感じるんですね。
495
:
阿呆陀羅經@半可通
:2003/02/13(木) 03:17
お久しぶりです。
「自分では変えられないことを受け入れる平静さを保ち、
自分に変えられることは変える勇気を持ち、
そしてそのちがいがわかるだけの知恵を得る。」
という表現なら、佛教により近づくのかもしれませんね。
496
:
国司@富士宮門徒
:2003/02/13(木) 18:03
知らなかったよ。
金正日氏の誕生日が2月16日だって事。
497
:
Leo
:2003/02/14(金) 02:00
だいぶスレッドが進んでしまいましたが...
独歩さん曰く:
>学会を含む石山系心というのは奇妙であると思う。漢文を難しいという。教学といいながら、漢文原典をオミットするからだ。
>漢文の意味がわからなくても有り難がって支配され、言われたとおり行動する烏合の衆であるほうが都合が好いからだ。
>意味のわからない漢文を日々唱え、有り難がっている人々が、漢文原典に振り向きもせずに、自信満々でいられるのは、
>そんな支配者の罠に易々とはまり続けているからに他ならない。何故ならば、原典から理解されて、いちばん困るのは
>常に集団とその指導者であるからだ。
「支配者」が成立している背景には「被支配者」側の志向も問題となるのではないでしょうか。
考えずに信等に邁進する方が確かに楽ではあるのでしょう。
かつて民衆が王や皇帝をありがたがっていた時代は民衆はその支配に甘んじていた。
一部の仏教界でも「民は由らしむ可し、知らしむ可からず」(衆愚政治、あるいは民衆に法律や方針を強制
することは可能だが、その背景や理由を理解させることはきわめて難しい。いっそのこと支配者の意図を
説明することは省いて従わせるほうが手っ取り早い)なのだろうか。
無徳さん曰く:
>菅野氏がレグルス文庫の『一念三千とは何か』の中で書いていますと申し上げたまでです。
私は以前一念三千を口にしましたが、この本を読んだくらいで原典を読んでいませんでした。
独歩さんがこのように言われているので複雑な気持ちですが、
独歩さん曰く:
>漢訳仏典教学は終焉を迎えた。これは間違いのない事実である。
私は原典を読む気になりました。
498
:
Leo
:2003/02/14(金) 02:03
(追伸)
もちろん、原典を読む《だけ》で仏教が理解できるとは(も)思ってないです。
499
:
犀角独歩
:2003/02/14(金) 11:23
Leoさん:
> 一部の仏教界でも「民は由らしむ可し、知らしむ可からず」
なかなか適切な言葉を引用されますね。
まさにこのとおりです。しかし、「一部の仏教界」ではないでしょう。全仏教界、殊に学会を含む石山系の際だった特徴でしょう。
昨日、こちらにも投稿されるとある御仁から、非常に興味深い情報が寄せられました。
たぶん、今後、富士門流教学研究の中心となるであろう拠点で、日蓮真跡遺文の研究会が向こう10年近くの予定で始められるということでした。
もう一つ。学会でも四半世紀前から注目してきた人物が、近く梵本直訳の法華経の出版に着手するとのことでした。これもまた、上述と同様の拠点からであるといいます。
上記、二つの出来事は今後の「日蓮」動向を大きく変えていくものとなることでしょう。その成果がようやくと実を結ぶのはいつのことか、また四半世紀もあとのことになるかも知れません。しかし、確かにいま大きく変わりつつあります。
漫画を読んでいた子どもも長じては文を読むようになります。
生命論は漫画としては面白かったのですが、SFコミックを超えるものではありませんでした。漫画を捨てて良書を読むことで日蓮の実像は知られることになるのでしょう。
私も学会から出た一人として、漫画を捨て書を読む、日々を送りました。それは漢字だらけの書物でした。しかし、その守文はさらに心を頑なにしました。
冷静になって仏教学会に眼を向ければ、仏徒は原典を追っていたのです。僅か100年前からの出来事です。そこで気付かれたのは、2000年前の神話時代の原典は、さらにその500年前のものより神話的であるという事実でした。
どの方向に自分が歩むことが賢明か、どうかその道を過たず、お進みください。
違う道から歩み出しても、その道の到着点が同じであれば、いつかまた、お会いすることになるでしょう。何年先か、あるいは何十年先か、涅槃の先かわかりせんが、再会を楽しみにしております。
500
:
菱村正敏
:2003/02/14(金) 20:39
その道の到着点が同じであれば、いつかまた、お会いすることになるでしょう→一切衆生、到着点は違うし同じ。日蓮や釈迦の呪縛から解放されるともっと楽に生きられるかもね。リラックスリラックス。ご苦労さまでした。
501
:
問答迷人
:2003/02/16(日) 07:47
133060 ゲットしました。
502
:
犀角独歩
:2003/02/16(日) 11:30
> 499
自己レスです。「再会」などと勝手なことを書いてしまいました。
再会するのは個人と、ということではなく、「考え」にということになるでしょう。
そんな意味でした。
503
:
犀角独歩
:2003/02/16(日) 11:55
かつて、問答名人さんとアネモネさんと3人で沸騰した議論をしたことが懐かしく思い出されます。ここに初めてお邪魔したとき、私はまだ戒壇本尊論者でしたし、日蓮本仏論者でした。唯授一人血脈相承も信奉していました。
本当に多くの学びと問答名人さんと議論ができたことを嬉しく思います。
そして、アネモネさんと議論し合えたことを嬉しく思います。
富士門教学に引きずられていたときが序分であれば、3人で語り合ったことは正宗分、そのあとは流通分といったところでしょうか。
時間は、あっという間に過ぎ去ってしまうものですね。気付きがなければ、意味なく人生は終わってしまうでしょう。鷹揚に構えている暇はないと考えています。
いちりんさんが記された「気付き」は実に重要でした。私たちに共通する点ではないかと思ってきました。
執着のあるところには自己弁明と言い訳…、こうあって欲しいという願望だけがあり、そこにしがみつく姿は、離れた辺から見ると、滑稽とも、哀れとも映じます。石山人であった過去の自分は、そう想い起こされます。
手が届かない天空と思い仰ぎ見ていたものは、執着を離れて見れば、自分が踏みしめている大地でした。その大地から仰ぎ見る天空は、過去半世紀眺めてきた天空より遙かに広大なものでした。
そんな気付きに向かい、3人で語らい会える時間を持てたこと。懐かしいですね、あの頃のことは。お会いできてよかった。
以下の言葉をかみしめて、また独り歩いていこうと思います。
「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と。」
これが修行をつづけて来た者の最後のことばであった。
504
:
五月雨
:2003/02/16(日) 12:24
独歩さん
私は、去年の春頃にこの掲示板に巡り会い、そしてやり取りされた議論を読ませて頂きながら、沢山のご質問を独歩さんにしました。もしかしたら、私が一番独歩さんに数多くのご質問をしたかもしれません、いつも独歩さんは真摯に答えて下さいました。
当時石山信仰から脱けきれていなかった私には、それは衝撃的ではありましたが、「真実にたいして正直であれ」というお言葉を道しるべに石山の真実を見てきました。
そしていま、石山信仰の呪縛から解き放たれた私があるのは、独歩さんのお陰です。有り難うございました、心から感謝を申し上げます。
独歩さんが居なくなった掲示板は寂しくなりますが、どうぞお元気でいらして下さい。
505
:
アネモネ
:2003/02/16(日) 15:41
犀角独歩さん
この約2年間の掲示板での議論の数々を振り返られ、私のことも思い出に数えて頂いたこと、心より嬉しく思います。
どれほど多くのことを学ばせていただき、気づかせて頂いたでしょうか。
理解するまでには、かなりの時間とレスを要したこともあり、理解し納得する過程においては、ついつい感情的になってしまったことも幾度となくありました。
今となってはそれも良き思い出であり、全てが感慨深く、とても言葉には尽くせない思いです。
それでも敢えて言葉にするならば、少し前の独歩さんのレスの中にありました「一刹那」と「奇跡」という言葉が、今の私の心境に近いものだと感じています。
犀の角のようにただ独り歩む「犀角独歩」さんの、そのただ独りの歩みの一刹那において、実に多くの人々をこの掲示板に集め、意義深い議論を重ねてきて下さいました。
その交わりの場で共に過ごし学ばせて頂いたこと、振り返ればまさに一刹那の奇跡だったようにさえ感じております。
その交わりは長く続いていくものだと思っておりました。
しかし、移り変わっていくことも受け入れなければならないということを、最後に教えられたのかもしれません。
それでも、どうぞまた懐かしくなったら、いつでもお立ち寄りください。
本当に、ありがとうございました。
506
:
無徳
:2003/02/16(日) 19:20
皆さん今晩は:
何か独歩さんがこの掲示板でのやり取りから引退するかのような、お話になっ
ているようですが本当でしょうか?
もしそうであるとしたら残念ですね、それに、この掲示板はプロの書き手が集
まる言説空間ではないでしょうから、引退的なけじめはなさらなくてもよいの
ではと思うんですが、
確かに独歩さんが中心的書き手であったことは事実ですが、もっと気楽な形で
の参加でよろしいのではないでしょうか?
ただ、独歩さんの持たれる性格からはっきりしたけじめを就けたいとお考えで
あれば、それも仕方ないかなとは思います。
どちらにしても、まずは独歩さんお考えをお聞きしてから書くべきコメントで
した。
509
:
問答迷人
:2003/02/16(日) 21:15
独歩さん
>かつて、問答名人さんとアネモネさんと3人で沸騰した議論をしたことが懐かしく思い出されます。ここに初めてお邪魔したとき、私はまだ戒壇本尊論者でしたし、日蓮本仏論者でした。唯授一人血脈相承も信奉していました。
独歩さん、本当に有り難う!
独歩さんとの議論を通して、僕は、戒壇本尊、日蓮本仏、唯授一人血脈相承という、大石寺教学の根幹が、如何にその根拠が薄弱なものかと言うことを、まざまざと知ってしまいました。本当に貴重な二年間であったと思います。幾度もお会いして、独歩さんの真摯な姿勢に、頭の下がる思いを幾度したことでしょう。
今後、独歩さんは、富士門信徒という枠を超えて、大きくご活躍されることになるのだとご拝察申し上げ、その成果、戦果に大いに期待致しております。
それにしても、寂しくなります。時々は掲示板を覗いてみて下さいね。
510
:
Leo
:2003/02/16(日) 21:40
独歩さん
>どの方向に自分が歩むことが賢明か、どうかその道を過たず、お進みください。
>違う道から歩み出しても、その道の到着点が同じであれば、いつかまた、お会いすることになるでしょう。
>何年先か、あるいは何十年先か、涅槃の先かわかりせんが、再会を楽しみにしております。
今までのご教示と今回のアドバイスありがとうございました。
>自己レスです。「再会」などと勝手なことを書いてしまいました。
>再会するのは個人と、ということではなく、「考え」にということになるでしょう。
>そんな意味でした。
了解しました。
(機会がございましたら「個人」としても一度ご挨拶申し上げたいと思っておりました)
511
:
いちりん
:2003/02/20(木) 21:30
書き込みが止まってしまって、淋しいですね。
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