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つぶやきすれっど2

1管理者:2002/12/15(日) 15:25

つぶやきすれっどが、1000レスを越えて、使えなくなりましたので、新たに、つぶやきすれっど2を立ち上げました。よろしくお願いいたします。

何となく、普段からフツフツと感じている事を、ここに書き込んでみて下さい。
このスレッドは、独り言、ボヤキですから、会話、議論の応酬は避けましょう!
本音、弱根を、思う存分サラしてみましょう!

301みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/14(火) 23:23
>今里さん こんばんは
大変ですね。
あのですね、すぐに返事を付けるようですが、おそらく、今里さんは他の発言者がどういう意味を込めて言葉を使っているかよく分からずに、返事をしているように見えます。
それはなぜかというと、元信仰者には信仰者がどういう気持ちであるかはよく分かります。しかし、信仰者には、無信仰者や元信仰者がどういう気持ちであり、どういう意図で言語を使用しているかがさっぱり分からないからです。
なぜならば、元信仰者には信仰者の使用する言語のルールが分かるが、信仰者には元信仰者の使用する言語のルールが分からないからです。
という訳なので、相手がどういう意図で言語を使用しているか自分なりに了解がつくまで、時間をかけて返事をする癖を付けた方が良いです。

という上記の提言と矛盾するようですが、次の質問にできればわりと急いでお答えいただきたいのですが。
一部は既出の質問ですが、お答え頂けておりません。

1)今里さんのHPは「成仏しようぜ!」ですが、今里さんがお考えになる成仏とはどういう事ですか。
2)成仏した人に会ったことがありますか。あるいは、過去または現在に成仏した人は誰ですか。
3)本仏とはどのような仏ですか。
4)本仏以外の仏とはどのような仏ですか。
5)本仏と、本仏以外の仏の違いはなんですか。

以上、お答えいただけると大変うれしいです。



===
>無徳さん
『共同幻想論』について拝見しましたが、そのような問題関心であれば、次の本も興味深いと思います。
笠井潔『テロルの現象学』(ちくま学芸文庫)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480080694/
田川建三『宗教とは何か』(大和書房 品切れ)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4479730206/
島田弘巳『イニシエーションとしての宗教学』(筑摩書房 品切れ)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480051848/

なお、現代的サンガはむずかしいと思います。人が寄り集まると必ず偏りが生ずるからです。
また、不要なのではないかと思います。仏道修行は自分一人でするものだからです。
善友ができることはありますが、それはたまたまのことです。

302五月雨:2003/01/15(水) 00:12

今里さん

独歩さんとの対話はものの見事に噛み合っていませんね。独歩さんが言われた「外教
のサンジャヤ・ベーラティプッタ鰻の論理(異問異答)」の実演を見ているようで
す。
どうして、今里さんは独歩さんの理論が分からないのかと考えてみました。オフ会で
お会いした時に、私が言った言葉を覚えておいでですか。『今里さんは思考停止して
いる』と言いましたよね、今もそうみたいですよ。日蓮本仏論に拘っていて、独歩さ
んの言われることを考えようともしていませんね。それゆえに反論の基となる根拠を
示すことも出来ず、問いと違う答えにすり替えながら、ついには人を貶める言葉を書
き連ねています。

結局「日蓮本仏論」は日蓮本仏論者(みかんさんに言わせれば、論じていないから論者にもならないみたいですが)にも証明出来ないことが、証明されたのでしょう。
こんな事、今里さんおひとりが信じているのなら、ほんの物笑いになる程度です。今
の世にあって天動説を信じるようなものです。
だけど、今里さんはインターネットの世界でご自分のサイトを持ち、ご自分のお考え
を世に知らしめていますよね。成仏しようぜ、なんてまるで成仏が出来るようなタイトルで。その上成仏出来るか出来ないかは、博打なんですってね。御自分でもどうなるかは死んでしまわないと分からないという無責任ぶりです。今里さんのサイトを見て真に受けてしまった方への責任は、信じてしまった方にあると無責任の上塗りをされていましたね。
だけど、いい大人が自分の言葉に責任も感じず、証明されないことを世に垂れ流している姿は、傍から見ると酷いとしか映りません。

私は、この掲示板で仏教全般から聖人の教えを見るということを学びました。聖人の教えは絶対だから、他に目を向けなくてもよいと学会で石山で教え込まれてきましたが、聖人の本当の教えを知ろうと思った時には、この視点はとても大切でした。
そこで、みかんさんがとりあえず、仏教一般や日蓮については、次の三冊だけは読んでから議論していただけませんでしょうかと挙げられた三冊の本ですが、きっとすぐには読めないと思います。そこで今里さんが敬愛されている小林よしりんさんがいまSAPIOで連載されている『古寺記』をお薦めします。聖人とも関係のある密教について詳しく書かれていますよ。ゴーマニストの今里さんは読まれているとは思いますが、社会一般から見た仏教という視点から、見えなかった何かが見えてくる筈です。
どうぞよしりん先生に仏教とは何かを学んでから、日蓮本仏論の理論武装を出来るものならして下さい。そして独歩さんと議論をして貰ってください。
今里さんは、人間性はとても好い方なのに、石山教学と石田さんの考えでしか話が出来ないのが残念です。

303アネモネ:2003/01/15(水) 01:36
うーん、なんだか、今里さんがお答えにならない質問というのは、かなり核心的な部分なんでしょうね。それを答えると、どういう反論がかえってくるか、今里さん自身わかっていて、つまりそれこそ罠に嵌ってなるものかと、避けておられるのでしょうか。
だとすると、とっくに今里さんは、ご自分が全面肯定の立場をとってこられた寛師教学の本仏論が崩れていること、わかっているんでしょうね。

寛師教学全面肯定としての論は最後まで展開をみることが出来なかったのは、誠に残念ですが、それが現実ということでしょう。
むしろ、今里さんのレスを通して、本仏論の弊害をみる思いがしました。

>本当に謙虚な人間なら自分で「私は謙虚な人間です」とは言わないだろう、といった次元でとらえています。

本人が言わなかったことは、謙虚だからという捉え方だけではないはずですね。そのまま、本当に本仏ではなかったから当然言わなかったという、ごく自然な捉え方が一番にあるはずです。ところが今里さんは、この場合のことについての思考は、まるで意識にないよう。
恐らく本仏であっていてほしい、あつていてもらわなくては困るという、今里さんの切なる願望が、そのことを考えなくさせているのでしょう。
だから、信は信でも、盲信ということになるのではないかと思われます。

304今里祐二:2003/01/15(水) 02:19
五月雨さん、アネモネさん

独歩さんへのレスだけでいっぱいいっぱいなので、しばらくお返事できません。
ごめんなさい。

305今里祐二:2003/01/15(水) 02:27
みかんさん

1)お釈迦様のような仏様に成ること
2)ありません。
3)日蓮大聖人
4)お釈迦様のような仏様
5)本仏=本仏以外の仏の師、本仏以外の仏=本仏の弟子

以上です。

306今里祐二:2003/01/15(水) 03:16
独歩さん

>要は、本仏である日蓮遺文は挙げられないということですね。

『日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり。』(開目抄)

僕はこれだけで充分信じられるのですが、独歩さんには不足なのでしょうね。

>あなたが書いている現証は法華経の行者たる自覚をもったことのみしか書かれていません。それが何故、本仏たる証明として十分といえるのですか。

>>298であげた『法蓮抄』の中に
『心ざしなくとも末代の法華経の行者を讃め供養せん功徳は、彼の三業相応の信心にて、一劫が間生身の仏を供養し奉るには、百千万億倍すぐべしと説き給て候。』とあります。
功徳の大きさの違いを示すことにより、暗に「末代の法華経の行者」の方が「お釈迦様」より偉い仏様なんだよ、という事を示していると考えます。

独歩さんの、疑いを尽くして、真偽・正邪を見極めていく姿勢は大変素晴らしい事だと思います。
しかし、過ぎたる疑いは何も生まず、かえって害になるのではないでしょうか?

独歩さんの教学研鑽の行き着く果ては
「釈尊とは本当に、覚者・仏だったのだろうか?」という答えを見出すことの出来ない問いだと思います。

もし「そのような発言はしたことがない」と仰るのであれば、釈尊の事は「仏」と信じていらっしゃるのでしょうか?
釈尊の事を仏と信じているのなら、釈尊が間違いなく仏だという根拠は何でしょうか?
釈尊自身の言葉や、取り巻きの弟子たちの言葉など根拠たりえません。>>298で論じた通りです。
証拠を挙げて、具体的にお答えいただけるとうれしいです。

307みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/15(水) 03:16
>今里さん

お答えいただきありがとうございました。
今里さんが仏や成仏についてどう考えているのか今ひとつわかりにくいのです。
すいませんが、もうすこしだけ質問させて下さい。

6)日蓮と釈迦以外に成仏した人はいますか?
7)いるとしたらそれは誰ですか?
8)「成仏」が「お釈迦さまのような仏様になること」だとしたら、具体的には人間は成仏するとどうなると思いますか。
9)「3)」の答えが「日蓮大聖人」ですが、それは鎌倉時代の日蓮なんですか。
10)鎌倉時代に生きた日蓮は、人生のなかでいつ成仏したと思いますか。
11)鎌倉時代の日蓮と、久遠元初自受用報身如来はどういう関係でしょうか。
12)本仏と、本仏以外の仏の、覚りや力に違いはありますか。
13)石田次男氏は成仏していたと思いますか。
14)今里さんがもし成仏したら、ご自分がどう変化すると予想されますか。

308今里祐二:2003/01/15(水) 04:25
>>307 みかんさん

6)判りません。
7)日興上人とか熱原三烈士とか思い浮かぶ方はたくさんいますが、断言できません。
8)判りません。
9)そうです。
10)判りません。
11)不一不異
12)うーん、どうなんでしょう。判りません。
13)そうあってほしいと思いますが、断言できません。
14)僕は臨終するまで成仏は不可能と考えています。その後どうなるのかは判りません。

309今里祐二:2003/01/15(水) 04:29
>308 の訂正

6)判りません。
7)日興上人とか熱原三烈士とか思い浮かぶ方はたくさんいますが、断言できません。

6)日興上人
7)熱原三烈士とか思い浮かぶ方はたくさんいますが、断言できません。

310今里祐二:2003/01/15(水) 05:48
>308の訂正

13)そうあってほしいと思いますが、断言できません。

13)していません。

>13)石田次男氏は成仏していたと思いますか。

>13)石田次男氏は成仏したと思いますか。
と、勘違いしていました。

311みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/15(水) 06:26
すいません。また疑問が増えてしまいましたので、恐縮ですがもうふたつだけ聞かせて下さい。

15)成仏とは臨終に際して起こることなのですか? 生前に開悟することはないのですか?
16)釈迦は、30歳もしくは35歳で成仏したとされていますが、それと「僕は臨終するまで成仏は不可能と考えています」というのは、どう整合性がつくのですか。

312アネモネ:2003/01/15(水) 09:20
今里さん

私の書き込みは、お読み下さるだけで構わないです。気が向けば、お返事ください。

284>原始仏典を研究し、シャキャムニの真意をつかんでください。ご健闘をお祈りします。

と嫌味のようなことを言われた方が、成仏とはどういう事ですかという質問に対して、
1)お釈迦様のような仏様に成ること

と答えられるのは何か、矛盾してますね。お釈迦様のような仏様になることが成仏であると考え、成仏を目差しているならば、それこそご自分が原始仏典を研究をすることに行き着かなければならないはずですし、先にそのような研究をなさっている方の言葉には耳を傾けるものだと思います。

だいたい、日蓮が本仏ならば、日蓮のような仏様になることというのが道理ではないでしょうか。どうしてここでお答えがお釈迦様となるのかそれこそ疑問ですね。

284>独歩さんは日蓮の真筆に異常なこだわりを見せますが、日蓮が仏でなければ、そのようなこだわりはナンセンスです。

逆に日蓮を本仏だと思う方が、真筆以外の真偽未決の書に対して無頓着であるほうが問題ではないかと感じます。
今里さんは偽書が書かれる中世の宗教を取り巻く時代背景という認識が欠けているのではないでしょうか。日蓮が本仏だと考える方のほうが、真筆以外の書に対して慎重になるものではないかと思うほどです。
たとえば、好きな人から届いたラブレターが、実は別人の創作だったとあっては、好きな人の心の内の真意を取り違えることになるでしょう。また本人が書いたものだと思い込んで大事にしていることも滑稽なわけです。しかし、疑わしき場合は、確認をするでしょう。そこに書かれていることと違っていたら怖いと思って、信じていたいと思っているのが、今の今里さんではないかと感じます。

真剣に日蓮の真意を求めるならば、文献の信憑性には厳格になり、疑問も生じ、慎重になるのは当然のことだと思います。それを異常だと思う神経が、無責任さでありカルト性であるのかもしれません。
楽な道を選んで、日蓮の真意を求めることに怠慢なだけではないかと思います。

313アネモネ:2003/01/15(水) 09:21
(つづき)

305>しかし、過ぎたる疑いは何も生まず、かえって害になるのではないでしょうか?

逆も真で、過ぎたる信は何も生まず、かえって害になるものではないかと思いますね。掲示板でみかんさんと独歩さんが、「信」について幾度となく書き記して下さっているわけですが、お釈迦様の教えをもとに発生した仏教が説くところの本来の「信」と、今里さんが思っている「信」とは違うものかもしれないということにも、問題意識を持ってほしいと思います。

>独歩さんの教学研鑽の行き着く果ては「釈尊とは本当に、覚者・仏だったのだろうか?」という答えを見出すことの出来ない問いだと思います。

答えを見出せるかどうかはともかくとして、そういう疑問を持つことは、宗教を求め広める信仰者の社会的責任のうえで、非常に重要なことだと思います。
ごく当たり前のように、「神や仏」と、お釈迦様を神格化したものとして今日に伝えられ、教えられ、それが当然のことのように私たちは身についているわけですが、実はその固定観念こそ、後世につくられたものかもしれないわけですね。
いちりんさんや独歩さんがよく書かれていましたが、お釈迦様だって私たちと同じ人間だったんだということ、当然、日蓮も同じで、そのうえで仏に成るとはどういうことを意味するのか、そこを考え抜くことこそ、本当の「信」に通じていくものではないかと思います。
歴代の方々の言葉に依存するうえで「信」を訴えるだけで、それ以外のことを考えることを害だと言い切る。
それが宗教のカルト的な思考であり、それが人々を不幸に導いているという社会的側面にも目を向けてほしいです。それが宗教を広めようとする人の最低限の責任でしょう。
今里さんの主張は、オウムとなんら変らないということに気がついてほしいです。

314犀角独歩:2003/01/15(水) 09:51

祐二さん

>>要は、本仏である日蓮遺文は挙げられないということですね。
>『日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり。』(開目抄)
> 僕はこれだけで充分信じられるのですが、独歩さんには不足

不足であるとか何とかいう憶測を一々書き付ける必要はありません。
私はそんなに粘着質ではありませんし、「ああ思うだろう、こう思うだろう」という他人の感情を探るような言葉を一々挟むとそれでなくても長くなる文章がもっと長くなるでしょう。今後、ご無用に願います。

さて、「しうし父母」だとなぜ、本仏なんでしょうか。

> 「末代の法華経の行者」の方が「お釈迦様」より偉い仏様

この“解釈”には賛成しかねます。これは衆生側の功徳を論ずることであって、仏の優劣を論じるものではありません。それはそれとして、

(7)仮に法華経の行者のほうがお釈迦様より偉いとしても、なんでそれが本仏であると言えるのですか。

また、あなたの記述によると法華経の行者(本仏)、お釈迦様(権仏)として、その優劣を論じ、さらにこのお二方を別体の如き口ぶりですね。これは如何なることでしょうか。たしかあなたは寛師全面肯定論者と言うことでした。以下はご存じの寛記雑々「蓮祖は即ち是れ釈尊の事」というのです。

また、先にも寛師とまったく本地・垂迹説を展開していました。
この本地・垂迹(もちろん、本門・迹門とは別)に就き、寛師は『蓮祖の本地内証外用の事』に

「凡そ蓮祖大聖人は若し外用を論ぜば本化上行菩薩の再誕、諸抄の中に或は仏の御使と云ひ、或は霊山相伝等と云ふが如き是れなり。若し内証を論ずれば、久遠元初の本因妙の教主釈尊なり」

といい、石山の同体異名の相伝を論じます。まさか寛師全面肯定のあなたが知らないわけもないでしょう。となれば、

(8)「「法華経の行者」の方が「お釈迦様」より偉い仏様」などと別体の如く論じることは寛師の跡を冒涜し、石山の相伝を蔑ろにするものではありませんか。

もちろん、私は寛師の実否を問い、相伝の是非も論じます。しかし、ここにおいて、寛師全面をうたい文句にするあなたが寛師とまったく違う“解釈”をもって論じられてはますます話はわかりづらくなります。

(9)いったい、あなたは寛師を肯定しているのですか、否定しているのですか。

> 過ぎたる疑いは何も生まず、かえって害になるのではないでしょうか?

確かに疑わなければ自分のぬくぬくとした考えのなかで一生を終えることができるでしょう。しかし、この信・疑については既にみかんさんも加わってくださり、論じたことです。私は疑うことを少しも恐れません。あなたは疑うことが怖いのでしょう。

315犀角独歩:2003/01/15(水) 09:52

―314からつづく―

> 独歩さんの教学研鑽の行き着く果て…

これはあなたの勝手な想像です。
人の心配より自分の心配するべきでしょう。
学んだ経験のないあなたには学んだ結果が々であるかは畏怖からしか想像がつかないのかもしれませんが、あなたが恐れおののいている結果とはまったく違うのです。あなたは学ぶことに臆病なのでしょう。何故ならば、自分に不都合の結果が出ることが怖いからでしょう。

> 釈尊の事は「仏」と信じていらっしゃるのでしょうか?

質問には質問に答えてから答えるのが礼儀です。
私はあなたに聖人が本仏であるという聖人の言を挙げるように言いました。
しかし、あなたは言を挙げる必要がないなどと言葉を巧みにする変え、いまだに答えていません。まず、こちらの質問に答えるべきでしょう。異問異答にまた逃げ込むあなたの罠には引っかかりません。

> 釈尊自身の言葉や、取り巻きの弟子たちの言葉など根拠たりえません。>>298で論じた通りです

論じた?、これが論のつもりなのですか。
言葉は根拠にならないのであれば、ここであなたが書いていることはなんなのですか。
また、私はこの298に対しても

「だとしたら、『十八円満抄』を引くことも、以下に『法蓮抄』を引くことも無駄ですね。もっと言えば、日蓮の御書、経典もすべて無駄と言うことになりますね。
これが本仏という言葉に限れば、言葉を引くことは無駄で、他は無駄でないという有様はおかしい」と、その過ちを指摘しています。それにはまったく答えもせず、論とは、まったく、あなたという人は。

呆れてものを言う記も失せますが、たしか、あなたは石田次男さんを尊敬しているんでしたね。石田さんは『現代諸学と仏法』に

「『像法決疑経』には言う「文字に依るが故に衆生を度し菩提を得」と。「若し文字を離れば何を以ってか仏事とせん」である。この意図の下、虚妄性不可避の分別ではあるが、常に非著亦用の方便として闊達に駆使される。
 我々もこの意図の万分の一をも見習いたい」

> 釈尊自身の言葉や、取り巻きの弟子たちの言葉など根拠たりえません

仏徒として、もはやこれ以上の暴言はありません。

316犀角独歩:2003/01/15(水) 10:33

答えがない質問が溜まってきました。
ナンバーを付け忘れたものなどもありますので、以下、整理しておきます。
お答えください。異答はおやめください。また、異問は答えてから。

本仏“論”者なのでしょうから、聖人の言によってお答えください。

(a)久遠元初とは何ですか。
(b)自受用報身如来とは何ですか
(c)日蓮がなぜ本地・自受用報身如来だと言えるでしょうか
(d)日蓮が本仏と何故言えますか
(e)本地・自受用報身といい垂迹上行=日蓮を、なぜ本仏というのですか
(f)「日寛教学全面肯定」と言いながら寛師の釈尊=日蓮を否定するのは何故ですか。
(g)いったい、あなたは寛師を肯定しているのですか、否定しているのですか。
(h)「しうし父母」だとなぜ、本仏なのでしょうか
(i)法華経の行者のほうがお釈迦様より偉いと、どうして言えるのですか。
(j)法華経の行者が、なんで本仏であると言えるのですか

文字では表せないなどという言い逃れを続けるのであれば、以下の日蓮の言も用いないのでしょう。しかし、あなたはここに書き連ねている。すなわち、つまり、あなたの日蓮本仏“論”とは日蓮の言に拠らない己義荘厳の夢想であると考えるほかありません。あの石田さんでさえ「天台が言う様に「文字は三世諸仏の気命なり」…言語・概念・文字(記号)は仏様の自行と化他のとについての気命なのです。…ですから、「仏は文字に依って衆生を度し給うなり」」と記しています。あなたは石田さんを尊敬しているのではなかったのですか。尊敬表明をするだけで書いたことも話していたことも覚えていないのですか。それとも読んですらいないのですか。

「仏の梵音声の不可見無対色を、可見有対色のかたち(形)とあらは(顕)しぬれば、顕・形の二色となれるなり。滅せる梵音声、か(還)へて形をあらはして、文字と成りて衆生を利益するなり」

誤解がないように言っておきますが、私はあなたの本仏“論”を聞いているのではありません。日蓮が本仏であるというのが日蓮の教えであるというのであれば、日蓮の言を挙げて論じるのが筋だと言っているのです。

お答えください。

317sat:2003/01/15(水) 15:54

>>300 無徳さん

>内部からの、まことに冷静かつ客観的な分析に・・

過分なお言葉頂戴していますが、創価学会の立場を代弁して書いているわけでなく、あくまで私個人が感じることを書いているまでです。正しいかどうかわかりません。独歩さんや無徳さんを始めとして本掲示板に書き込まれる方から多くの事を教えて頂いている・・そして学ばせて頂いている一人の創価学会員であるというだけに過ぎません。その点ご理解賜ればと思います。

>私は池田大作氏や創価学会の幹部連中には創価学会としての歴史的総括をなすべきではないかと訴えたいと思います。

仰るとおりだと思います。学会は過去幾度となく対外的に問題が発生しそうになると、事実を封印し葬ろうとしてきました。今も、体質が変っているとは思えません。池田名誉会長のスピーチや書籍は、過去の出来事を修正し、理想化するための作業だったのでしょうし、三代会長を永遠の指導者と会則改変したことから見ましても、残念ですが過去の路線をドラスティックに総括するということは当面考えにくいものと思われます。

組織の諸矛盾とか信仰のあり方に懐疑を持った人々・・信仰自体は間違っていないはずだとする人々は・・その後脱会して様々な人生の軌跡を描いておられるかと思います。逆に今も学会に所属する人々の中にも、ご指摘の問題を総括し「負の遺産」を背負うことが自身のクライシスにつながることを動物的嗅覚として知っている人も数多く存在します。言い換えれば「それを望まない」とういうことと、歴史的総括を為さないという事は、表裏一体なのだと思います。日本人的感情の側面と言うのでしょうか・・宗創戦争の意味づけとして、負の遺産を全て宗門に帰そうとする方向に向かったことは当然の帰結だったような気がします。

「現世超越」モデルの持つ強烈な思想性は、「事実」の面でいくら「誤謬」を指摘されたところで容易に崩れるものではないという側面があるかと思います。「事実」などは無限にあるため、指摘しうる「事実」はたえず部分的であるほかないのに対し、思想性が描き出すのは先験的に「全体」像であるという主張がまかり通ってしまうのが実情ではないでしょうか。

学会幹部のスピーチが、次第に空疎な言葉で埋められていき、やがて論理性の無い学会の肯定演説に行き着くという日常風景になって久しいですが・・異分子をはじき、より純粋性に向かって組織が形成されていくと、かたやそれがボディーブローとなって崩壊の道を早めることは充分に予想されることです。後はしなやかに変身していくしか学会には残された道はないと存じます。

318sat:2003/01/15(水) 15:55
>>300 無徳さん(続き)

>日蓮仏法は僧侶の為や創価学会という組織の為にあるのではないことは明瞭です。

これも仰るとおりだと思います。全く異論はありません。その上に立って、「学会は池田教に堕した」という巷の通説批判は果たして正鵠を得ているのでしょうか。私は現在、池田名誉会長に絶対権限が一極集中しているとは必ずしも思えないのです。むしろ、独裁化から官僚化へ、ベクトルは既に転換済みと見たほうが宜しいのではないでしょうか。

学会が方面制へと組織を移行強化して、今に至っている事は、無徳さんもよくご存知の事であろうと思われます。方面制への移行により管理システムは高度に完結され、本部職員や方面長を始めとする支配の複層化が進展し、権力の分散的存在というセクショナリズムが存在しています。都市から農村へ、そして農村から都市へという路線が昭和50年代以降の戦略でもありました。セクショナリズムは中央集権化の必須条件であり、その欠くことのできない補正手段として機能しうる・・つまり本部職員や方面長によって分散された権力構造とか、セクショナリズムは、自主性や創意性や個性を圧殺するものではなく、ガス抜きとして機能し、更には構成員によって一致して承認された枠内で行われる限り、必要機能として積極的に作用しているというのが実態ではないでしょうか。

これからの生き残りを考えれば、大衆が何を求めているか、オールラウンドにそのニーズを拾っていかなければならず、独裁化から官僚化への移行、そして市場原理化へのシフトに向けたソフトランディングしか方法はないと感じます。それが事実上の解体なのかもしれませんし、歴史の審判を待つということなのかもしれません。

>総本山側も創価学会も、どこに軸足を置いて信仰というものを立てようとしているのかが本当に解っているとは思えません。

創価学会が存在しなければ、大石寺も静かな風情で代々法華講の方を中心として信仰を維持継続していたかもしれませんね。

>我々はあくまで自らの足で立ってネット社会と言う利点をフルに活用して、現代的サンガを形成し我々の手に日蓮仏法を取り戻すべきではないかと考えますが如何なものでしょう。

サンガと言えば、タイあたりで黄色の衣をまとった人たちが集まっている姿みたいなものを想像してしまうような未熟な私ですから、サンガそのものの意味を本質的にはわかっていないのかもしれません。しかし、所属組織を代表するがごとき妄想的かつ感情的な主張をもってバトルを繰り広げ、勝った負けたみたいなものに一喜一憂する掲示板が多い中、今一度見つめなおしてみようといった本掲示板のようなものが出現していること自体、現代的サンガの萌芽かもしれませんね。
ネットのもつ匿名性は、節度さえあれば自由に発言はできますし、自分にとって意味を為さないと思えば去ればいいのですし、意味があると思えばオフ会等に出席して実際にお会いしてみることも可能なのですから、組織論理に拘束されない、場に拘束されないという点では有効に働くかと思います。

319今里祐二:2003/01/16(木) 02:21
独歩さん

(a)久遠元初とは何ですか。

釈尊の本因の時

(b)自受用報身如来とは何ですか

日蓮大聖人様の事、人法一箇の大御本尊様の事

(c)日蓮がなぜ本地・自受用報身如来だと言えるでしょうか

『自受用身は本、上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり。』(百六箇抄・真偽未決)

(d)日蓮が本仏と何故言えますか

法華経を身読されたという状況証拠から、そのように判断する事が妥当と考えます。

(e)本地・自受用報身といい垂迹上行=日蓮を、なぜ本仏というのですか

本地・自受用報身であるなら、本仏と呼んで差し支えないでしょう。
本地・垂迹と、言葉の上で分ける事は出来ても、実際に分ける事は出来ないものです。
仏身を離れて南無妙蓮華経はありません。

『祈祷抄』
『袋きたなしとて金を捨る事なかれ、伊蘭をにくまば栴檀あるべからず。谷の池を不浄なりと嫌はば蓮を取らざるべし。行者を嫌ひ給はば誓を破り給ひなん。』

(f)「日寛教学全面肯定」と言いながら寛師の釈尊=日蓮を否定するのは何故ですか。

否定などしていませんが、もしかしたら、僕は日寛教学を一歩進めたと言えるかもしれません。
「私が(他人より)遠くを見ることが出来たとすれば、それは私が巨人達の肩の上に乗っているからだ。」
とは、物理学者アイザック・ニュートンの言葉ですが、そんな感じで受け取ってください。

(g)いったい、あなたは寛師を肯定しているのですか、否定しているのですか。

>(f)の答えと同じです。

(h)「しうし父母」だとなぜ、本仏なのでしょうか

「しうし父母」=「主師親」で、「仏である」との表明と受け取ってよいと思います。
「仏である」だけで何故「本仏」と言えるか?については(i)で答えます。

(i)法華経の行者のほうがお釈迦様より偉いと、どうして言えるのですか。

『法蓮抄』の中に
『心ざしなくとも末代の法華経の行者を讃め供養せん功徳は、彼の三業相応の信心にて、一劫が間生身の仏を供養し奉るには、百千万億倍すぐべしと説き給て候。』とあります。
功徳の大きさの違いを示すことにより、暗に「末代の法華経の行者」の方が「お釈迦様」より偉い仏様なんだよ、という事を示していると考えます。

>この“解釈”には賛成しかねます。これは衆生側の功徳を論ずることであって、仏の優劣を論じるものではありません。

との事でしたが、「功徳の大きな仏様の方が偉い」と考えるのは「道理」です。
小乗より大乗の方が高い教えである、といった事と同じです。

(j)法華経の行者が、なんで本仏であると言えるのですか

これに対する答えは(e)の答えと同じです。

以上、お答えしました。

>本仏“論”者なのでしょうから、聖人の言によってお答えください。

独歩さんの質問は、平成の今現在の時代状況の中で、大聖人様に直接お伺いしなければ判らない類のものが多く
答えに窮します。
鎌倉時代の、大聖人様の直接の対告衆へのお言葉の中に、適当なものが見つからないからといって
相伝により徐々に整足されていった日蓮正宗の教義を全否定するのはいかがなものでしょうか?
「文証」ばかりにとらわれず、「道理」を考えていただきたいものです。

『女人往生抄』(真偽未決)
『問うて云はく、内外典の詮を承るに道理には過ぎず。されば天台釈して云はく「明者は其の理を貴び、暗者は其の文を守る」文。釈の心はあきらかなる者は道理をたっとび、くらき者は文をまもると会せられて侍り。』

320今里祐二:2003/01/16(木) 02:23
独歩さんへ

ご質問します。

1)インド生誕の釈尊が「覚者・仏」であるという根拠は何ですか。

2)釈尊自身の発言、または弟子の言を、釈尊が仏である根拠とするならば、
下記に挙げる事例と、どこがどう違うのか証明して下さい。

<事例1>
今里祐二は、自分のノートに「我れこそは末法の本仏なり」と書き記していた。
故に、今里祐二は「末法の本仏」である。

<事例2>
創価学会員は、創価学会名誉会長・池田大作氏を「偉大な仏法指導者」と考え、記録に残している。
故に、池田大作氏は「偉大な仏法指導者」である。

以上です。お答え下さい。

321今里祐二:2003/01/16(木) 02:38
みかんさんへ

>15)成仏とは臨終に際して起こることなのですか? 生前に開悟することはないのですか?

「成仏とは臨終に際して起こること」と聞かれると答えにくいです。
「生前に開悟」これは信徒の立場としては、考える必要のないことだと思います。

>16)釈迦は、30歳もしくは35歳で成仏したとされていますが、それと「僕は臨終するまで成仏は不可能と考えています」というのは、どう整合性がつくのですか。

「因位」と「果位」という事を考えてもらえば判ると思います。それで整合性はつきます。

322今里祐二:2003/01/16(木) 03:28
>>319 訂正

誤) 仏身を離れて南無妙蓮華経はありません。
正) 仏身を離れて南無妙法蓮華経はありません。

323犀角独歩:2003/01/16(木) 09:45

祐二さん:

これだけ、衆目に恥を晒す人も珍しい。
「僕は日寛教学を一歩進めた」とは、それはよほど。寛師の文献を精査、読了されたのでしょうか。誇大妄想という言葉以外、思いつきません。

(a)久遠元初とは何ですか。

> 釈尊の本因の時

日蓮の言と言っているのです。
日本語わかりますか。

(b)自受用報身如来とは何ですか

> 日蓮大聖人様の事、人法一箇の大御本尊様の事

日蓮の言と言っているのです。
日本語わかりますか。

(c)日蓮がなぜ本地・自受用報身如来だと言えるでしょうか

『自受用身は本、上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり。』(百六箇抄・真偽未決)

これは要山の相伝です。
日蓮の御書と相伝の区別も付かないようですね。
また、ここでは上行と日蓮を迹といっていますが、なぜこの文が答えになるのでしょうか。勘違いしているのでしょうか。

(d)日蓮が本仏と何故言えますか

> 法華経を身読されたという状況証拠から、そのように判断する事が妥当と考えます。

日寛をより一歩進んだと自称するあなたの考えを聞いているのではありません。
日蓮の言を聞いているのです。

(e)本地・自受用報身といい垂迹上行=日蓮を、なぜ本仏というのですか

> 本地・自受用報身であるなら、本仏と呼んで差し支えないでしょう。

なぜ、差し支えないのですか。

> 本地・垂迹と、言葉の上で分ける事は出来ても、実際に分ける事は出来ないものです。
では、阿弥陀も、大日その他の仏と日蓮本仏も分けられないと?。
あなたは阿弥陀・大日とも実際に分けられず、それらを信仰し、拝んでいるわけですか。

> 仏身を離れて南無妙蓮華経はありません。

仏身とは何ですか。


(f)「日寛教学全面肯定」と言いながら寛師の釈尊=日蓮を否定するのは何故ですか。

> …僕は日寛教学を一歩進めた…そんな感じで受け取ってください。

受け取れません。
寛師教学どころか、あなたの述べていることは異問異答の鰻理論、いわゆる外道の論議としか映りません。

だいたい、また、訳のわからないことを言って煙に巻いています。
では、あなたは日蓮が釈迦であると考えているわけですか。
そうではないのであれば、その「一歩進んだ考え」とやらでは、どのようになるわけですか。

324犀角独歩:2003/01/16(木) 09:46

―323からつづく―

(g)いったい、あなたは寛師を肯定しているのですか、否定しているのですか。

> (f)の答えと同じです。

「僕(今里祐二)は日寛教学を一歩進めた」という発言が答えなわけですか。


(h)「しうし父母」だとなぜ、本仏なのでしょうか

> 「しうし父母」=「主師親」で、「仏である」との表明と受け取ってよいと思います。
日蓮は「ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎ(限)りたてまつる」と記しています。つまり、この本仏とは釈迦=日蓮という意味でしょうか。


(i)法華経の行者のほうがお釈迦様より偉いと、どうして言えるのですか。

>「功徳の大きな仏様の方が偉い」と考えるのは「道理」です。

これは勝手に道理と決めつけているだけですね。
あなたのいう道理とは自分が正しいと考えることという意味で使われています。
これは道理から外れています。なぜならば、あなたが考えが正しいとは限らないからです。

> 小乗より大乗の方が高い教えである、といった事と同じです。

これは説明になっていません。
日蓮は「教弥実位弥下の六字に心を留めて案ずべし」と言っています。
この言とあなたの説明は食い違っていると見えます。


(j)法華経の行者が、なんで本仏であると言えるのですか

> これに対する答えは(e)の答えと同じです。

答えになっていません。

> 以上、お答えしました。

私は日蓮の言で、と言ったのです。
それを自分の言葉で答えたと言うことは、あなたは日蓮なのですか。

>> 本仏“論”者なのでしょうから、聖人の言によってお答えください。
> 相伝により徐々に整足されていった日蓮正宗の教義を全否定するのはいかがなものでしょうか?

まず、日蓮正宗は大正元年からしか存在しません。その限定で言っているわけですか。
また、私がいつ全否定しましたか。また、勝手に想像・憶測で、恰も私が言ったように記して罠を仕掛けるのはやめてください。

> 相伝

では、日蓮が本仏であるという相伝を挙げてください。

> 「文証」ばかりにとらわれず、「道理」を考えていただきたいものです。

道理を表にすることを私は否定するわけではありません。
では聞きますが、700年も前の日蓮の事跡、文字(文証)で書かれたこと以外で、いったい、何で知ることができるのですか。言うところの道理は、文証を基礎にしない限り、知ることも考えることもできないはずです。だから、文証が重要なのでしょう。それとも、あなたは文証を離れて、日蓮の事跡を知り、ただちに道理によれると言うわけです。まさか夢や幻想に基づいているわけではないでしょう。

故に、引用される『女人往生抄』、また天台釈は、まず文証の正しい選定を基礎にして道理を考えるものであるはずです。しかし、あなたは文証は答えられない、けれど、道理だという。ここでいう「道理」は文証によらないわけですから、単にあなたの想像憶測で、そうあって欲しいという願望の賜物に過ぎません。そんなものは道理とは言いません。

以上、11の質問に就き、相も変わらず、聖人の言を引いていません。
道理という単語に名を借りたあなたの考えを書き連ねたばかりです。

もはや、これ以上、繰り返しても同じことでしょう。
要は、あなたの日蓮本仏という考えは、日蓮の言に依れない、夢想・想像の願望を「道理」という言葉でカモフラージュして肯定したものであると、私は考えるざるを得ない。なぜならば、日蓮の言に拠っていないので、日蓮の教えに従っているとは言えないからです

325みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/16(木) 09:49
>今里さん
一仏一土、仏の三身(法身・報身・応化身)、本地垂迹、久遠実成、本仏・迹仏、これらの概念は了解されているでしょうか。

「久遠」「元初」「自受用」「報身」「如来」。それぞれを理解されているでしょうか。

伝統的な天台法華宗の教理、そして伝統的な日蓮法華宗の教理を理解しないと、それの大胆な読替としての日寛の日蓮本仏説は了解がつかないと思いますよ。


あと、だれかが仏であることを証明できるのは、仏だけです。
他人が開悟したかどうかは、開悟した人にしかわからないからです。
それ故、禅門では、印可は師家しか与えられないのです。

326犀角独歩:2003/01/16(木) 10:02

祐二さん:

> 320

なんですか、これは?
また、「簡単な罠」という奴ですか(爆)

先にも、あなたが「日蓮を変なおじさんと言った」ときにも記したことです。

私は自分の言っていることに対しては責任は負いますので、自分の発言に就き質問されるのはわかりますが、自分が言ったことでないことを、“恰も私が言ったことのように”仕掛けて質問される“罠”には答えかねます。質問するのであれば、私が言っていることに就き質問してください。

320質問の構成は、実に誘導尋問の性格を帯びています。
的確な、私の過去の発言に基づくものに変えてください。
先に「罠を仕掛けた」と公言して憚らないあなたです。
ここは、私も用心してかからせていただきます。

しかし、それにしても、(2)の質問を読んで思ったのですが、先には「僕(今里祐二)は日寛教学を一歩進めた」と記していましたが、今度は「今里祐二は末法の本仏」と書いています。これは、あなたの願望というヤツですか。

327今里祐二:2003/01/16(木) 12:58
>今度は「今里祐二は末法の本仏」と書いています。これは、あなたの願望というヤツですか。

不正な事の代表事例として挙げているのです。

独歩さんのお考えは以下のようなものですね。
>>42
>戒壇之漫荼羅は疑わしいと言われれば、真筆である証拠を示せばよいのです。
>唯授一人は疑わしと言われれば、事実である証拠を示せばよいのです。
>真偽未決・相伝書が日蓮の教えでない言われば、その証拠を示せばよいのです。
>法華経は後世の創作であると言われれば、釈尊の真説である証拠を示せばよいのです。

>>306 で、初めて質問した時の反応はこうでした。

>仏徒として、もはやこれ以上の暴言はありません。

独歩さんらしくないですね。証拠を示せばよいのです。

再度質問します。

1)インド生誕の釈尊が「覚者・仏」であるという根拠は何ですか。

2)釈尊自身の発言、または弟子の言を、釈尊が仏である根拠とするならば、
下記に挙げる事例と、どこがどう違うのか証明して下さい。

<事例1>
今里祐二は、自分のノートに「我れこそは末法の本仏なり」と書き記していた。
故に、今里祐二は「末法の本仏」である。

<事例2>
創価学会員は、創価学会名誉会長・池田大作氏を「偉大な仏法指導者」と考え、記録に残している。
故に、池田大作氏は「偉大な仏法指導者」である。

以上です。お答え下さい。

328犀角独歩:2003/01/16(木) 14:42

祐二さん:

>> 仏徒として、もはやこれ以上の暴言はありません。
> 独歩さんらしくないですね。証拠を示せばよいのです。

何の証拠をですか。
言いがかりはやめてもらいたいですね。
あなたは仏徒ではないと言ったまでです。

そして、あなたが言う「道理」は、日蓮の言を挙げない自分自身の考えに基づくものであるわけです。そして、さらにそれは寛師よりも優れたものであるそうですね。たしか、日寛教学全面肯定であったはずが、いつの間にか自分の考えのほうが優れている変わってしまいました。これから、どんなふうに変わるんでしょうかね。

再度の質問とのことですが、あなた、日本語がわかりませんか。
私に対する質問の形に変えてくださいといったのです。

329犀角独歩:2003/01/16(木) 14:43

質問を変える理由については、既に326に記したとおりです。

330無徳:2003/01/16(木) 15:23
satさん今日は:

>三代会長を永遠の指導者と会則改変したことから見ましても、残念で
>すが過去の路線をドラスティックに総括するということは当面考えに
>くいものと思われます

>言い換えれば「それを望まない」とういうことと、歴史的総括を為さ
>ないという事は、表裏一体なのだと思います。

とのことその通りでしょうね、私も決して創価学会も総本山側も歴史的
総括をすることなど有り得ないと思っていますし期待もしていません。
ただ言うべきことは言って置かないと私の気が済まないだけの事です。

>私は現在、池田名誉会長に絶対権限が一極集中しているとは必ずしも
>思えないのです。むしろ、独裁化から官僚化へ、ベクトルは既に転換
>済みと見たほうが宜しいのではないでしょうか

とのこと、おそらく創価学会内部におられる方々はsatさんとほぼ同様
な感じを抱いているであろうことは想像されます。何故かならば現在の
鵺的な日本社会においては、独裁的権力があからさまな形で現前する事
は有り得ないと思われるからです。(国家権力そのものが鵺的)その為に
何処をどう攻めたら変革が可能になるのかさえ判りません。

したがって、権力側を持つ側も自らが権力者たることを気付かず結果と
して官僚化し制度として自己正当化を図ってしまうという最悪の状況と
言えます。このことは現在の日本の若者達が自らのレゾンデートルを得
られない為に、そのエネルギーの捌け口が見つからないところから来る
フラストレーションが溜まってしまう状況とパラレルであるかも知れま
せん。

>しかし、所属組織を代表するがごとき妄想的かつ感情的な主張をもっ
>てバトルを繰り広げ、勝った負けたみたいなものに一喜一憂する掲示
>板が多い中、今一度見つめなおしてみようといった本掲示板のような
>ものが出現していること自体、現代的サンガの萌芽かもしれませんね。

本当にそうですよね!問答名人さんが別のスレッドでこの掲示板の存在
そのものが富士門流の再構築に繋がっているとの趣旨の発言をされてい
ましたが同感です。更にこの掲示板の在り方そのものが現代的サンガの
萌芽であると私も感じています。大いなる期待を込めて私も参加させて
いただいております。

331犀角独歩:2003/01/16(木) 21:27

なぜ、私は今里さんの質問に答えないかを、ちょっと補足しておきます。

すぐ前で言えば、327において、今里さんは私に対して、

> インド生誕の釈尊が「覚者・仏」であるという根拠は何ですか

と、再度、こう問うた。多分、ここだけ、読んだ人は、犀角独歩は「インド応誕の釈尊を覚者・仏であると言った」と思われることでしょう。しかし、これが今里さんの巧妙なところです。

この(1)の質問は、実は私の言葉ではなくて、質問者今里さん本人が言った言葉なのです。すなわち、306に

> 独歩さんの教学研鑽の行き着く果ては
「釈尊とは本当に、覚者・仏だったのだろうか?」という答えを見出すことの出来ない

このように私に問いかけているわけです。私はこれに対して、315において

> 独歩さんの教学研鑽の行き着く果て…

「これはあなたの勝手な想像です。
人の心配より自分の心配するべきでしょう。
学んだ経験のないあなたには学んだ結果が々であるかは畏怖からしか想像がつかないのかもしれませんが、あなたが恐れおののいている結果とはまったく違うのです。あなたは学ぶことに臆病なのでしょう。何故ならば、自分に不都合の結果が出ることが怖いからでしょう」

と応じています。ところがこの今里さん自身が言い出した言葉は、恰も私が言った言葉の如くに扱い、320において、私への質問と姿を変えます。そして、その質問はまた327において繰り返されています。それが(1)の質問です。

自分の言った言葉の意味を相手に問うという、この異常な在り方に、私は何度となく、「批判をするのであれば、私が書いた記述と意をもって批判していただきたい」と記してきたのにも拘わらず、自分が言った言葉の意味を私に問うという通常ではあり得ない質問を投げかけたわけです。

自分が言った言葉です。自分が答えればよろしいのです。なぜ、あなたが言った言葉について、私が答えなければいけないのですか。

あなたのこのような狡猾な罠を仕掛けては、自分に有利なように議論を運ぼうとする。先には日蓮を「変なおじさん」と言い、恰も私がそのように考え言っている如き印象をロムの人々に与えようとするあくどい手段も取っています。私はこのような不正直な態度は日蓮本仏を真面目に考える人々に対する裏切り行為であると指摘しておきます。

そして、自分が言った言葉を恰も私の言葉のように繕いながら、自分の言葉である「釈尊自身の発言、または弟子の言を、釈尊が仏である根拠」を「今里祐二は末法の本仏」・「池田大作氏を「偉大な仏法指導者」と考え、記録」とどこが違うのかという質問を投げかけています。ここで実に不誠実であるのは「今里祐二は末法の本仏」という自分の言葉に就き、327において「不正な事の代表事例として挙げている」と言っている点です。つまり、この質問はどのように答えても、答えた相手は不正な事を弁明したように仕組まれていることがわかります。

このスレッドは213に管理人自ら「当掲示板のルールに則って正々堂々と論線を張られることを要望」と仰っている。私も、今里さんとの議論が始まったのち、296において、「正々堂々と論じ合いましょう」と私は呼びかけた。それにも関わらず、あなたは実に卑劣な罠を仕掛けてきた。。

自分で言った事を恰も私が言ったようにして質問し、その誘導は間違いなく不正な弁明とレッテルが貼れるように仕組まれた狡猾な質問。私は、この在り方を公然と批判するものです。あなたの態度は日蓮本仏論者の面汚しです。

332今里祐二:2003/01/17(金) 12:14
独歩さんへ

>自分が言った言葉です。自分が答えればよろしいのです。

なるほど。
ところが僕は、>>232 において、ほぼ、この質問に対する答えと呼んで差し支えない発言をしています。
この考え方に立てば、誰でも容易に、釈尊が「覚者・仏」であるという根拠を導き出せます。

この>>232 の発言に対し、独歩さんは>>237-238 のような反応をされ、僕の発言を否定しています。
誰でも容易に、釈尊が「覚者・仏」であるという根拠を導き出せる考え方・信心のあり方を、
独歩さんは否定されているのだから、独歩さんには「対案」を示す義務があると思うのです。

>あなたは仏徒ではないと言ったまでです。

僕の事を「仏徒ではない」と断言できる独歩さんは、さぞかしご立派な「仏徒」なのでしょう。
釈尊の名誉を守るためにも

>> インド生誕の釈尊が「覚者・仏」であるという根拠は何ですか

>と、再度、こう問うた。多分、ここだけ、読んだ人は、犀角独歩は「インド応誕の釈尊を覚者・仏であると言った」と思われることでしょう。しかし、これが今里さんの巧妙なところです。

などと逃げ回らずに、質問に答えていただけませんか?

333sat:2003/01/17(金) 14:07

>>330 無徳さん:

いつもご示唆ありがとうございます。

>私も決して創価学会も総本山側も歴史的総括をすることなど有り得ないと思っていますし期待もしていません。ただ言うべきことは言って置かないと私の気が済まないだけの事です。

お気持ち大変よくわかるような気がします。「歴史的総括」を為さないならば再構築を目指す人々の手によって明らかにしていくしかありませんね。正本堂問題のみならず・・だと思います。学会は一貫して唯一無二の反戦平和団体だと標榜し、その根拠を「三代会長の収監」に依拠し歴史付けています。しかし、往事、総体において学会が戦争賛美していたことは紛れもない事実ですし、宗教弾圧などと言うならば、大本教の第二次弾圧でも同じく治安維持法と不敬罪が摘要され、信徒3000余人の検挙、拷問などで16人を死に至らしめ、活動拠点はことごとく破壊されたとされているのですから、学会の比ではありません。

戦後、いずれの新興宗教も多かれ少なかれ権力構造の下支えとして機能しているかと思いますが、そういった欺瞞性もより明らかにされ、歴史の審判を待つべきだろうと思います。本掲示板では教義に関して、様々な視点から史実考証が為されていますが、戦中戦後の新興宗教の史実考証もきっちりとしておいた方がいいかもしれませんね。集団は凝固したものではなく、誕生し、発達し、持続し、分解する・・つまり、集団はそれ自体の歴史を持っているのですから。

>権力側を持つ側も自らが権力者たることを気付かず・・フラストレーションが溜まってしまう状況とパラレルであるかも知れません。

フラストレーションが持続して緊張が高まると、攻撃的な行動をとることによって緊張を一時的に解消する場面がよくあります。学会においても、被害者意識がそのまま加害者意識になっていると思える光景は日常良く目にします。集合的場面に特有の、ある種の内部圧力から直接生じているこれらの行動は、その圧力を強化し集団を結晶化を助けますし、同調傾向、逸脱に対する抵抗、部外者に対する攻撃につながっているかと思います。

学会は集団全体としての強い親和性を素地とした統合性に特徴がありますが、そこには、言語的コミュニケーションを超えた強固な連帯感が認められ、そうした統合性をもって機能し、下位集団としての指導者群と従属者群の地位が分化しているかと思います。また攻撃を通じて組織を強化し、再び全体として社会に反抗する構えをとっているかのようにも見えます。

問題は、その抵抗なり反社会的行動が、しばしば「みせかけ」に過ぎず、組織維持手段と組織目標としての欺瞞性を有していることであり、それは単なる位相として現れたものではないということでしょうか。

334犀角独歩:2003/01/17(金) 16:54

今里さん:

自分の言葉でないものに答える義務はありません。この点については331に記しました。
ちゃんと読みましたか。

逃げ回っているとかなんとか、人の書いたことを全然、読まないで勝手なことを言っていますね(爆)
そうやって煽れば、怒って、「簡単な罠」に引っかかけようと、まだやっているんですか。331に記したとおりです。

姑息な手段はやめなさい。なんだか観ていて恥ずかしくなります。
いま、ここであなたが記し続けていることは、日蓮本仏ではなくて、あなた自身の人格は如何なるものであるのかを暴露し続けているようなものですよ。

また、あなたは日蓮本仏を何一つ、証明することはできなかった。
この点については何も触れていないけれど、どうしたのでしょうか。
私が立てた(a)〜(j)に対して、あなたの答えになっていない言い訳に就き、323、324に再度、答えになっていない点を言い、質問をしています。あなたはそれに答えていない。解答はどうなっていますか。

こちらに自分の言葉で質問をかけて、自分にかかった火の粉を払うような真似はやめるべきでしょう。

ところで

> 232 において、ほぼ、この質問に対する答えと呼んで差し支えない発言をしています。この考え方に立てば、誰でも容易に、釈尊が「覚者・仏」であるという根拠を導き出せます。

あの寛師より一歩進んだとあなたが自画自賛するのはこのことですか。
これで、釈尊が覚者・仏であると根拠づけられると、どんなふうにして日蓮が本仏と言うことになるんですか。ちょっと、文章をもう一度、記しましょうか。

> お釈迦様の教えの正しさは大聖人様に依存している

この文を次の文章と整合性が取れていませんね。次のところで「法華経がお釈迦様の直説ではなく後世の創作…羅什三蔵の漢訳もかなり怪しい…もしそうであったとしても」と法華経が釈尊の直説でないことを認めているのに、その直説でないものの正しさ?は日蓮に依存しているとは如何なる意味なのでしょうか。

> お釈迦様には、未来に大聖人様が出現されるという大確信

どんな証拠があるんですか。

> 法華経…お釈迦様…羅什三蔵…仏を信じ、正しい道を行ずるための道具(?)として羅什三蔵訳の妙法蓮華教を仏の金口として信じること、そのことが実用上は何の問題もないということを、大聖人様は身をもって教え示されたと思います。

ここでいう妙法蓮華教はまあ妙法蓮華経の打ち間違いでしょうが、それにしても、何を言っているんだかさっぱりわかりません。
だいたい、石山で使う真偽未決書では

「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし。但南無妙法蓮華経なるべし」

と法華経を斥けて、ただ題目の五字七字であるというのに、あなたの場合はその題目を取らず、“実用上”羅什訳「妙法蓮華教」を取るそうですが、これまた御書とも、寛師とも違いますね。これも「日寛教学より一歩進んだ」、成仏しようぜ、今里教というヤツですか。

先にも記しましたが寛師教学は同体異名の相伝を以て釈尊=日蓮を説明します。
この点から、あなたは「日寛教学より一歩進んだ」と先に記しましたね。どんなふうに進んだんですか。自分の言葉なんですから、ちゃんと説明してもらえませんか。

しかし、今回のあなたの書き込みでは「釈尊が「覚者・仏」であるという根拠を導き出せます」というわけですから、まるで日蓮本仏なんか関係ないような口ぶりになってきましたね(笑)

335犀角独歩:2003/01/17(金) 17:19

今里さんへの323、324の未回答の質問

(a)久遠元初とは何ですか。
> 釈尊の本因の時
【問】日蓮の言と言っているのです。

(b)自受用報身如来とは何ですか
>日蓮大聖人様の事、人法一箇の大御本尊様の事
【問】日蓮の言と言っているのです。

(c)日蓮がなぜ本地・自受用報身如来だと言えるでしょうか
>『自受用身は本、上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり。其の教主は某なり。』(百六箇抄・真偽未決)
【問】ここでは上行と日蓮を迹といっていますが、なぜこの文が答えになるのでしょうか。

(d)日蓮が本仏と何故言えますか
> 法華経を身読されたという状況証拠から、そのように判断する事が妥当と考えます。
【問】日寛をより一歩進んだと自称するあなたの考えを聞いているのではありません。日蓮の言を聞いているのです。

(e)本地・自受用報身といい垂迹上行=日蓮を、なぜ本仏というのですか
> 本地・自受用報身であるなら、本仏と呼んで差し支えないでしょう。
【問】なぜ、差し支えないのですか。
> 本地・垂迹と、言葉の上で分ける事は出来ても、実際に分ける事は出来ないものです。
【問】では、阿弥陀も、大日その他の仏と日蓮本仏も分けられないと?。
あなたは阿弥陀・大日とも実際に分けられず、それらを信仰し、拝んでいるわけですか。
> 仏身を離れて南無妙蓮華経はありません。
【問】仏身とは何ですか。

(f)「日寛教学全面肯定」と言いながら寛師の釈尊=日蓮を否定するのは何故ですか。
> …僕は日寛教学を一歩進めた…そんな感じで受け取ってください。
【問】「一歩進んだ考え」とやらでは、どのようになるわけですか。

(g)いったい、あなたは寛師を肯定しているのですか、否定しているのですか。
> (f)の答えと同じです。
【問】「僕(今里祐二)は日寛教学を一歩進めた」という発言が答えなわけですか。

(h)「しうし父母」だとなぜ、本仏なのでしょうか
> 「しうし父母」=「主師親」で、「仏である」との表明と受け取ってよいと思います。
【問】日蓮は「ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎ(限)りたてまつる」と記しています。つまり、この本仏とは釈迦=日蓮という意味でしょうか。

(i)法華経の行者のほうがお釈迦様より偉いと、どうして言えるのですか。
>「功徳の大きな仏様の方が偉い」と考えるのは「道理」です。
(独歩)これは勝手に道理と決めつけているだけですね。
あなたのいう道理とは自分が正しいと考えることという意味で使われています。
これは道理から外れています。なぜならば、あなたが考えが正しいとは限らないからです。
【問】↑反論がないということは認めわけですか

> 小乗より大乗の方が高い教えである、といった事と同じです。
これは説明になっていません。
日蓮は「教弥実位弥下の六字に心を留めて案ずべし」と言っています。
この言とあなたの説明は食い違っていると見えます。
【問】↑反論がないということは認めわけですか

(j)法華経の行者が、なんで本仏であると言えるのですか
> これに対する答えは(e)の答えと同じです。
答えになっていません。
【問】答えてください。

> 以上、お答えしました。
【問】私は日蓮の言で、と言ったのです。それを自分の言葉で答えたと言うことは、あなたは日蓮なのですか。

> 相伝により徐々に整足されていった日蓮正宗の教義を全否定するのはいかがなものでしょうか?
【問】日蓮正宗は大正元年からしか存在しません。その限定で言っているわけですか。

> 相伝
【問】日蓮が本仏であるという相伝を挙げてください。

336ガンコ(冬眠中):2003/01/17(金) 19:09

将棋には千日手というのがあるそうです。
お互いに同じ手ばかりを三回だか四回くりかえすと、これはもういつまで経っても終わらないとみなされ、はじめからやりなおすのだそうです。

議論なんかでも確認のために同じことを繰り返し問うたり答えたりすることはあるでしょうけど、それが三回も四回も続くとねえ・・・
しかもつぶやきすれっどなんですよ、ここは。

管理人さん、なんとかしてちょうだい。

337犀角独歩:2003/01/17(金) 21:09

問われても、答えない専門のガンコさんならではの、いい提案しますね(笑)

今里さん風日蓮本仏主義は、

・日蓮の遺文には全然よらない
・文章は要らない。道理があればいい
・道理の基準は自分が決める
・自分の考えは寛師より一歩進んだものだ

議論の仕方は

・簡単な罠を仕掛けて相手を引っかける
・自分が言ったことを相手のせいにする

という特徴によっていると私には見えます。

有師とも、寛師とも、福重師とも、もちろん、応師とも違い、さらには現石山教学とも違う、固有の自己主張であることはわかりました。これは石山とは無縁の考えですね。
これ以上、議論を続けても、まあ時間の無駄であることは確かと思います。

もちろん、ガンコさんが私に塩を送るわけはないでしょうが、この申し出には一理あります。

ほら、ガンコさん、こういうときは「大先輩」を呼んでこなくちゃ(笑)

338五月雨:2003/01/17(金) 21:26

ガンコさん

遅ればせながら、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
ガンコさんは趣向をかえるそうですので、楽しみにしておりましたが、はや今日は十七日ですね。いつになったら趣向を変えたお話をお聞かせ下さるのかと、首を長くしてお待ちしておりました。ここに御出現とは思いませんでしたよ、「…カルトっぽいか」のスレッドに早くお出ましをお願いします。冬眠から早く目覚めて、顕正会のタメにもならないお話をまたお聞かせ下さい。

今里さんと独歩さんのお話し合いは、独歩さんの気の長いお付き合いに感心しておりましたが、独歩さんも今里さんが早くご自身の過ちに気付かれることを願っておられるのではないでしょうか。(間違っていたらゴメンなさい)
明日は今里さんも、独歩さんのご質問に正々堂々とお答えになられるでしょう。
もう一日待って差し上げたらいかがでしょうか、ガンコさん。

339今里祐二:2003/01/18(土) 03:59
独歩さんへ

>また、あなたは日蓮本仏を何一つ、証明することはできなかった。

仰るとおり、証明することは出来ていません。相伝書の類を「真偽未決」と否定されたら誰も出来ません。
「信解」出来るか、出来ないかという所でしょうね。

>「簡単な罠」に引っかかけようと、まだやっているんですか。

これは独歩さんがいつも使っている手口を真似してみただけです。「証拠を出せ、証拠を!」というやり方です。
結局、独歩さんも出せませんでしたね(^^)

ガンコさんから「千日手」というご指摘もありますし、まぁ、この辺で終わりにしましょう。

340問答迷人:2003/01/18(土) 08:29

今里さん

横レス失礼しますね。

>結局、独歩さんも出せませんでしたね(^^)

それは違うと思いますよ。今の議論は、今里さんが「日蓮本仏」を主張されたことから始まっています。だから、釈迦が仏である事の証明は、この議論には直接の関係はないし、その上、独歩さんは釈迦が仏であると主張しているわけではありませんから、元々、独歩さんには、根拠を出す義務なんか無いですよ。

あたかも、独歩さんにも、根拠を示す責任があるようにこじつけて、ご自分が日蓮本仏の根拠を示せなかったことをチャラにしようとしても、単に、往生際が悪いだけだと思います。しかも、「ガンコさんから「千日手」というご指摘もありますし、まぁ、この辺で終わりにしましょう。」等と、逃げを打つのは、いかにも不誠実で卑怯だと思います。お会いした今里さんの御印象からは想像出来ませんでした。残念です。

341みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/18(土) 09:00
>今里さん
 これは千日手とはちょっと違いますね。独歩さんが囲碁のルールで戦っているのに、今里さんが連珠(五目並べ)のルールで戦っている、そういう議論でした。ようするに、議論になっていないのです。

 そして、投了を宣言しないかぎり、試合が終わらないのです。囲碁の試合は、双方が「もう良いですよね」と終局に同意するか、片方が「負けました」と言って投了しない限り終わりません。どんなに傍目から見て勝ち負けの形成が明かであってもです。まして、囲碁対連珠の試合なのですから、「負けました」と投了しない限り、決して負けませんよね。

 わたしがいくつか、今里さんに質問しましたが、あれは、今里さんが、どの程度、仏、成仏、本仏について理解しているか、具体的なイメージを持っているかを確かめるためです。私の感想は、今里さんは、なんら具体的なイメージを持っていないと言うことです。今里さんのお答えは、すべて断片的で、ひとことでした。また「判りません」という答えもいくつかありました。

 本当にものごとが分かっているのなら、そのものごとについて饒舌に語らざるを得ないのです。それが仏教というものの持つ宿命です。なぜなら、仏教が指し示していることがらは、言葉では語り尽くせないからです。決して伝えられないからです。しかしもしある人が仏教についてなにか分かっているなら、言葉を尽くして、条理を尽くして相手に伝えようとするのです。それ故、饒舌に成らざるを得ません。しかし饒舌に仏教について語る人は、それが決して相手に伝わらないことを知っています。それは仏教とは、同じ気づきを気づいたもの同士、同じ境涯の者同士にしか分からないことだからです。言語は、必ず誤解されます。それでも語らなければならないというあきらめと絶望の上に語られる言葉、それが仏教の言葉です。

 禅門が、「不立文字」といいながら、あれだけ膨大な禅籍を残しているのは、そういう事情からです。彼らは言語に絶望していたが、それでも言語以外のメディアを持たなかったのです。

 日蓮だってそうでしょう。本尊抄を富木常忍をはじめとする門下が本当の意味で理解するとおもって発語していたとは思えません。なぜなら、本尊抄は日蓮の覚りそのものの表明だからです。それでも何万分の一の可能性を信じて発語する、それが仏教の言葉の持つ性格です。

 「成仏しようぜ!」とHPで呼びかけている今里さんが、成仏について、自分なりにでも具体的なイメージを持っていないという事態は、かなり問題のあることだと思います。すくなくともあのHPのタイトルは変えた方が良い方と思います。今里さんには、あの呼びかけに責任はもてないでしょう?(あとトップページに「成仏しようぜ!」という文字列が入っていないので、googleでトップページがヒットしません。TITLEタグとALTタグを使って、ソースに「成仏しようぜ!」という文字列を入れたほうが良いと思いますが)

342みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/18(土) 09:01
(つづき)
 とりわけ、321の今里さんの発言、
> 「生前に開悟」これは信徒の立場としては、考える必要のないことだと思います。
これは何が言いたいのですか? すいませんが説明してくださると大変助かります。誰かが考えてくれるのですか? あなたは法華講から籍がなくなったと聞いています。あなたを指導してくれる、指導教師なんてもはやいないのでしょう? あなたは一人で考えるしかないんですよ。

 今里さんは、即身成仏ということが分からないのだと思います。そして即身成仏と言うことが、この身の上に起こりうると、考えられていないのでしょう? ちがいますか。

 一般論ですが、これは、日蓮正宗(含む、創価学会、顕正会)の人全般に言えることです。即身成仏といいながら、彼らはこの人生に於いて、この身で成仏するとは本気では思っていません。それが端的に表れているのは、「仏界の生命が湧現する」という言い方です。あれは、自分は成仏していないが、ときどきは仏界の生命が出ていることもあるのだと言い訳する機能を果たしています。そして、即身成仏が、ほんとうに今世・現信に開覚することであるというあたりまえのことを隠蔽する機能を果たしています。

 さらに一般論ですが、これは現在の日本仏教の他宗派でも同じです。開悟が現身に可能であるとは、彼らは本気では思っていません。たとえば、現在の曹洞宗では悟りについて語ることはタブーであるそうです。もしそうであるなら、それはあそこまで悟りをとりつめて考えた道元に対する裏切り行為です。

 今里さんは、仏教についての基礎教養がないと思います。こまごまとした指摘はとりあえずしませんが。

 先日紹介した三冊の本は、ぜひ読んで欲しいです。あの程度の基礎教養もなしに、仏教一般や日蓮一般について語るのは、おかしな事です。あれで十分ではありませんが、最低限度です。あの三冊は新書や文庫です。安いですし、大学生や高校生レベルで読める内容の本ですので、ぜひ読んでください。

 それと、今里さんがどの程度、日蓮遺文や六巻抄や文段に親しんでいるのか知りませんが、すくなくとも真跡現存と曽存の日蓮遺文は繰り返し読んでください。そして、「日寛教学全面肯定」と言うのであれば、日寛教学を理解していないとおかしいでしょう。そのためには六巻抄や文段も繰り返し読む必要があります。

343みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/18(土) 09:01
(つづき)
 そしてそれらを理解するためには、天台法華宗と日蓮法華宗の教理を理解する必要があります。そのために何を読んだらいいかは、今日はご紹介しません。もし必要になったら言ってください。いくらでも文献をご紹介しますから。

 デカルトを読まずにフッサールを理解することができないように、またフッサールを読まずにハイデガーを理解することができないように、日蓮を理解するためには日蓮が読んだ文献、日蓮の思想形成の礎となった文献はできるだけ読まないと理解できないのです。また日寛もそうです。彼らは、他宗を含む広汎な仏教に関する教養があるのです。当時の学僧ならどの宗派に所属していても、当然読んでいる文献というのがあったのです。そういう教養を共有することを抜きにして、彼らの文献だけ読んでも、彼らが何を言っているのか分かるはずがないのです。前提となる教養が欠けているのですから。

284
> みかんさんの >>127 に賛同したのは、僕自身にそのような『信』の自覚があるからです。

 よくわかりません。その自覚の根拠はなんですか。わたしは127で「「信」を得ているのは慧眼を一分でも開いた者のみです。 」と言いました。それに対し、今里さんは259で「開目抄や本尊抄をよく理解できる、などという大それたことを言ったわけではありませんです」と言ったのにもかかわらず、284で「僕自身にそのような『信』の自覚がある」とおっしゃる理由が分かりません。260で私は「智慧の眼の一分が開いていたら、開目抄なり本尊抄が理解できるというのは、日蓮が菩薩であり智慧の眼の一分を開いているからです。唯仏与仏であるから、お互いにわかるのです。わからないなら、智慧の眼の一分が開いていません」と申し上げました。今里さんは、日蓮の言葉の意味がわからくても、智慧の眼の一分が開いていることがあり、ご自身がそうだ、とおっしゃっているのでしょうか。

 あともう一つ繰り返しますが、だれかが仏であるかどうかを判断できるのは仏だけです。それは他人の境涯は、同じ境涯か上の境涯の人にしか分からないという、仏教の基本的な原理があるからです。だから、われわれ凡夫には、日蓮や釈迦が仏であったかどうかは、原理的には判断できません。

 また、相手の言っていることを理解しないでレスを返すのはやめた方が良いです。

 今里さんが今なさるべき事は、自分が何が分かっていないかを了解することです。何が分かっていないかを了解すれば、何を学べばいいか分かるからです。とにかく、最低、先日紹介した三冊を読んでください。すべてはそれからです。

344菱村正敏:2003/01/18(土) 09:05
 釈迦を仏とたてるのは、仏教のお約束だからそもそも証拠をだして証明す
る云々というお話、この際はなじまないかなと思います。まぁ宗派によって
は他仏を本尊としてあがめ優劣関係はあるのでしょうが、さりとて釈迦を仏
とする思考は捨てられていないと存じます。

「江戸のカタキを長崎で」という次元ならば、今里氏の反論も益なしとは
言えませんがね。ちょいとズレてるかもしれません。ただ、日蓮本仏云々は
当時の日蓮の脳裏に何度かよぎったかもしれない。それも夢のある話です。

 また、信仰は個人の自由ですし、霊感商法まがいの勧誘でなければ、
わたしは掲示板などで無責任ととられかねない発言を書き込んでも「可」だ
と思います。ここにおられる脱会者?の方々、つまり日蓮本仏などを吹聴して
第三者を勧誘されてこられた皆さまは折伏された方たちにどのような責任を
とったでしょうかね?それを踏まえて考えられるとよいかもしれません。

 つぶやきでした。

345五月雨:2003/01/18(土) 10:00

> また、信仰は個人の自由ですし、霊感商法まがいの勧誘でなければ、
わたしは掲示板などで無責任ととられかねない発言を書き込んでも「可」だ
と思います。

自分の言葉に責任などいらへんと言うてんのかなぁ、このお方。

>ここにおられる脱会者?の方々、つまり日蓮本仏などを吹聴して
第三者を勧誘されてこられた皆さまは折伏された方たちにどのような責任を
とったでしょうかね?それを踏まえて考えられるとよいかもしれません。

なのに、脱会者は勧誘した責任をどう取ったかなんて、上の言葉と矛盾してるんと違うの。

脱会者は責任を感じているから、自分の言葉には責任を持って書き込んでいるのに、ホンマになに言うてんねん、と思うわ。アキレルわ。

関西弁でつぶやいてみました。

346五月雨:2003/01/18(土) 10:41

今里さん

問答迷人さんが仰ったように、私も今里さんの態度は不誠実だと思います。
オフ会で「証明出来ないからといって正しくないとは限らない」と今里さんはお話されていましたが、「証明出来ないものは正しくない」のではないですか。
ここの掲示板は、正しさを証明するのが目的のひとつだと思います。証明出来ないのが分かっていながら、議論を始められた今里さんの本当の目的はなんだったのでしょう。

吉本新喜劇で、コテンパンにやられた人がむっくり起き上がって「今日はこれくらいにしとってやるわ」と言うのと、今の今里さんは同じ状態です。
きっとロムされている方全員がズッコケたでしょう。

独歩さんとの議論?は終了されたようですから、質問をさせて頂きます。
今里さんはご自分の主張されることに、何の責任も感じないのは何故ですか。今里さんのサイト「成仏しようぜ!」に書いた事柄を読んだ人が真に受けて、死ぬ時に成仏しなかったら今里さんに責任はないのでしょうか。
今までの今里さんのレスを読んでいたら、今里さんの『無責任』さばかりしか感じられませんでした。
今里さんにとってのご本仏日蓮大聖人様も、今里さんの心得違いを悲しんでおられることだと思います。

344の菱村さんが(初めましてですね、ご挨拶が遅れました)書いておられるように、

>つまり日蓮本仏などを吹聴して第三者を勧誘されてこられた皆さまは折伏された方たちにどのような責任をとったでしょうかね?それを踏まえて考えられるとよいかもしれません。

このご指摘の責任を感じなくてはいけないと思うのですが。いかがですか。

347菱村正敏:2003/01/18(土) 11:59
五月雨さん。どこの誰だか存じませんが・・・。

> 自分の言葉に責任などいらへんと言うてんのかなぁ、このお方。

 ちょいと意味が通じてませんでしたか。わたしが申し上げたいのは
相手に対して「無責任」と求める姿勢は結構ですが、いわば脱会された
ご自身たちは当時折伏をとおして第三者に対していくらかの「無責任」な
行為をされたんじゃありません?平たく言えば日蓮本仏なる言を基本に
して宗教勧誘されたんでしょ?今と過去とは違うと言われるかもしれま
せんがね。過去の「無責任」な言動をもちいた宗教勧誘を自らの目が
開いたからといって過去の問題を案外とさらりと流してませんか?それとも
折伏した人たちに対して「俺は無責任なことをした」などとと謝罪して
まわったとでも?

349犀角独歩:2003/01/18(土) 12:20

既に問答名人さんが総括をされたので、私は敢えて、この既述については屋上屋を重ねることはしないことにします。

みかんさんが記されたことは、特定個人における批判などという狭隘さとは格段の階梯をなすのであって、日蓮仏教を、否、通じて仏教を志す人々の道標とたり得る重要なものであると思います。

私が“証明”について拘るのは「カルトは証明できない教義によって成り立っている」からです。ハッサン氏は以下のように言っています。

「カルトのいちばん効果的な教義とは、エリック・ホファーの言葉を使うなら『証明も評価もできない』教義である。それは非常に複雑なため、解くのに何年もの努力が必要だということになっている…
教義は受け入れるべきものであって理解すべきものではない(という)。それゆえ、教義は、漠然としていて包括的で、しかもじゅうぶんに調和がとれて一貫しているように見えなければいけない。その威力は、これこそ万物を包摂する唯一の真理なのだと断言するところからくる」

また、さらに言えば証明できない“確信”とは如何なるものであるのかという問題もあるでしょう。よく上げますが、ヤスパースの妄想の定義 (1)間違った考え (2)強い確信 (3)訂正不能 という指標に就き、その考えが間違ったものであるかどうかを判定するのは証明にかかっています。

証明を重要視する必要性はここにあります。罠を仕掛けた本人が言う、証明を迫ることが罠であるなどと言う類とは次元を異にしています。

また、日蓮に限定してみれば、日蓮もまた、それまでの系譜に従い、この文献的に証明に非常に熱心な人でした。その点はまた寛師もそうであったでしょう。ただし後者は、その教義体系の基礎に相伝・口伝を採り入れた点で、日蓮とは趣を変えていると私は思っています。しかし、たぶん、寛師には現代における祖書学その他の科学的な手法とは無縁であったろうし、そもそも精師の説法を聞いてこの道に入ったという人物でもあり、さらに天台檀林能化という地位からも相伝の文献的成否を問う位置にはいなかったのでしょう。さして、彼ができたことは中古天台・恵心流口伝を批判し、けれど、そのモチーフに則って新たな体系を虚構することであったのでしょう。

350犀角独歩:2003/01/18(土) 12:38

> 344 菱村正敏さん:

私、五月雨さんが示した違和感、ちょっとわかる気がするんですね。
これは批判などということではないのですが、要するに「皆さまは折伏された方たちにどのような責任をとった」という問いかけを読んで直ちに思うのは、「だったら、菱村さんはどうなの?」という疑問が生じるからです。まあ、菱村さんご自身に転教体験がなければ、該当しないのかも知れませんが、その辺の事情が見えないので、自分のことだけを棚上げにして語っていないかという疑問が生じるわけです。

以前、実は問答名人さんご自身が、この点については書かれています。

―― 今まで多くの方に、間違った事を伝えてしまった、その罪滅ぼしのためにも、益々、聖人の祖意を明らかにすべく、懸命に努力して参りますので、今後ともよろしくお願い申し上げます ――

むしろ、この掲示板を管理される理由も、このお気持ちにあると拝察しております。
そして、この言葉を受けて私も記しました。

―― 私もかつて問答名人さまのように、折伏をした相手に謝って歩いたものです。その中で3歳からの幼馴染がいるのです。親が牧師さんであったことから、徹底した論争をしていました。私は勢い込んで、「もし、日蓮正宗・創価学会が間違っていたら、俺の命をやる」とまで言ったのです。その友人に、脱会したとき、私は頭を下げに行きました。彼は「お前、間違っていたら、命をくれるといったよな」私は黙って頷きました。「本当だったら、さあ、ここで死んでもらおう……と言いたいことだけれど、これからの人生、命をくれてやるから、自分の罪滅ぼしに使ってくれ。まあ、キリスト教が正しいってきまったわけじゃないしな」と、そう言ってくれたのです。
考えてみれば、本気で仏教を考え直そうと思ったのは、この時からでした。――

さらに、一つの紹介もしました。

―― オウム真理教であったという私の友人は、300人もオウムに入れました。脱会後、その300件の家族を訪問し、脱会を進め、謝罪して歩いたといいます。もちろん、すべての脱会に成功はしませんでした。家族や本人から罵倒され、蔑まれ、恨み言を投げつけられながら、それでも彼は自己責任を果たし続けたのです。
私は彼に心から敬意を表しています ――

私の折伏は40年の長きに亘りましたので、この尊敬する友人のように、その全員に歩き回ること自体、物理的に不可能な状態にあります。ですから、かつての知人に会うとき、私はまず、脱会の事実を告げ、謝罪し、許しを請うてから、新たな人間関係を構築するように努めてきました。もちろん、それで贖罪になったということではありません。

いずれにしても、以上のように、既に自己責任に基づく既述がなされておりますので、菱村さんのご発言は、それを知る五月雨さんに、むしろ、私にとっても違和感を以て受け止められた次第があるのであろうと思います。

351犀角独歩:2003/01/18(土) 12:43

私は今回のやり取りのなかでもっとも心に響いた既述は、実はアネモネさんが292に記したことでした。

「今里さんの説明如何によっては、私だって再び本仏論を信じることだってあるかもしれません」

この真摯な叫びに、誠実、正々堂々と応えるべきであったのではないのかという点が、いちばん惜しまれます。

352今里祐二:2003/01/18(土) 12:59
みかんさんへ

>「成仏しようぜ!」とHPで呼びかけている今里さんが、成仏について、自分なりにでも具体的なイメージを持っていないという事態は、かなり問題のあることだと思います。

お釈迦様のような仏に成りたい……、ではダメですか?

>> 「生前に開悟」これは信徒の立場としては、考える必要のないことだと思います。
これは何が言いたいのですか? すいませんが説明してくださると大変助かります。誰かが考えてくれるのですか? あなたは法華講から籍がなくなったと聞いています。あなたを指導してくれる、指導教師なんてもはやいないのでしょう? あなたは一人で考えるしかないんですよ。

僕が生きている間に、僕自身がお釈迦様のような立場になることは有り得ない、ということです。

>今里さんは、仏教についての基礎教養がないと思います。こまごまとした指摘はとりあえずしませんが。

知識量が少ない事は何度も認めていますので、あんまり突っ込まないで下さい(^^)
ただ僕は、こまごまとした事にはあまり興味がなくて、結論だけ判っていればよいと思っています。
僕の得ている結論は「御本尊様は有り難い!」という事です。

>今里さんは、日蓮の言葉の意味がわからくても、智慧の眼の一分が開いていることがあり、ご自身がそうだ、とおっしゃっているのでしょうか。

そうです。
「御本尊様は有り難い!」と、心の底から思える事、これが「智慧の眼の一分が開いている」という事です。

また、相手の言っていることを理解しないでレスを返すのはやめた方が良いです。

これは「お互い様」という気がしますが(^^)

353みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/18(土) 14:37
>>352 今里さん

> これは「お互い様」という気がしますが(^^)


>>301 を参照。
301 名前: みかん(z8VoUpnM) 投稿日: 2003/01/14(火) 23:23

>今里さん こんばんは
大変ですね。
あのですね、すぐに返事を付けるようですが、おそらく、今里さんは他の発言者がどういう意味を込めて言葉を使っているかよく分からずに、返事をしているように見えます。
それはなぜかというと、元信仰者には信仰者がどういう気持ちであるかはよく分かります。しかし、信仰者には、無信仰者や元信仰者がどういう気持ちであり、どういう意図で言語を使用しているかがさっぱり分からないからです。
なぜならば、元信仰者には信仰者の使用する言語のルールが分かるが、信仰者には元信仰者の使用する言語のルールが分からないからです。
という訳なので、相手がどういう意図で言語を使用しているか自分なりに了解がつくまで、時間をかけて返事をする癖を付けた方が良いです。
(後略)




> 「御本尊様は有り難い!」と、心の底から思える事、これが「智慧の眼の一分が開いている」という事です

そんなことは、盲信の人でも思います。なぜ絶対の確信だと言えますか。わたしだってかつてはそう思っていましたよ。

http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=925&amp;KEY=1029381997&amp;START=639&amp;END=639&amp;NOFIRST=TRUE
639 名前: みかん(z8VoUpnM) 投稿日: 2003/01/13(月) 01:12

 具体的に説明します。

 我(アートマン)という概念自体が日本にはないので、わかりにくいのです。我とは、あるものがあるものであることの確実な根拠あり固定的な性質です。それが確実にあり、しかも過去から未来まで永遠にあるというのが、我の思想です。
(略)
 もう一つ例を出します。日顕書写の本尊は破門前は創価学会員にも、尊いものに見えた。ところが、破門後は忌み嫌われるようになり、尊いものに見えない。。
 逆に、日寛書写の本尊は、創価学会員には尊いものに見える。ところが、法華講の人にはコピー本尊として尊いものに見えない。
 ところが、信仰心のない人には、ただの掛け軸に見えるでしょう。
 さらに、シロアリやシミにとっては餌でしかないかもしれません。
 そのように、見る立場、見る視点、見る時期によって、同じものがまったく違うように見える。本尊それ自体には、尊いという実体はない。それが無我(アナートマン)ということです。

354今里祐二:2003/01/18(土) 15:26
問答名人さんへ

僕が言いたかったのは
「お釈迦様を供養する功徳よりも大聖人様を供養する功徳の方が百千万億倍大きいのだから「日蓮本仏」でいいじゃん、あんまり細かいこと気にすんなよ」ということです。ども、お騒がせしました。

五月雨さんへ

>証明出来ないのが分かっていながら、議論を始められた今里さんの本当の目的はなんだったのでしょう。
>吉本新喜劇で、コテンパンにやられた人がむっくり起き上がって「今日はこれくらいにしとってやるわ」と言うのと、今の今里さんは同じ状態です。

「大聖人様を御本仏と信じるのは当たり前」と思っている人としか議論したことがなかったので、ここでは随分ズッコケてしまったみたいですね。ウケてもらえただけで満足です(^^)

アネモネさんへ

>そもそも罵倒されようと、中傷すれようと、誹謗されようと、自分が絶対的信を傾ける「日蓮本仏論」を徹底的に展開していくのが、今里さんが本仏と崇める日蓮のやり方ではないでしょうか。

大聖人様は果位の立場にある仏様ですが、お釈迦様を絶対に信じるという因位の立場を表にして法を説かれました。ですから鎌倉時代の文献的な証拠をいくら集めても「日蓮本仏論」など出てこないのだと思っています。

オフ会の時も「思考停止」という言葉が出ていましたが、僕は「釈尊が何故仏と言えるのか?」という所まで疑問を持って考えていました。「釈尊だって俺と同じ人間だし、子供も作ってるし…」って。
「釈尊は何を悟ったんだろう?」ってずーっと考えてて、ある日気付いたんです。
「あー、そうか! 釈尊は御本尊様のことを悟ったんだ」と。
時系列的に逆転しているところがスゴイんですが(笑)。まぁ、らせんの様なイメージで理解しました。

そう考えたら、もう、何もかもが納得出来るようになりました。
法華経には内容などほとんどなくて褒め言葉ばかりしか書かれてない事、釈尊が器物崇拝を禁じた事、一念三千の事……。

御本尊様の事が有り難くて有り難くて涙が止まりませんでした。

そういう僕自身の宗教体験を元に、HPを作ったり掲示板に出てきたりしています。
教義の細かい所など、僕にとってはもうどうでもいいことですが、他人を説得する時は中々そういうわけにはいきませんね。

それでは。

355アネモネ:2003/01/18(土) 15:33
菱村正敏さん

恐らく、今回の今里さんへ対するレスにおいて、私アネモネが一番「責任」という言葉を投げかけたと思っております。また過去のレスにおいても、「責任」という言葉を多く書いてきたと自覚しておりますので、その立場から少し書き込みたいと思います。

>相手に対して「無責任」と求める姿勢は結構ですが、いわば脱会されたご自身たちは当時折伏をとおして第三者に対していくらかの「無責任」な行為をされたんじゃありません?

その通りでしょう。その過去の行為をもっとも痛感し苦しみ、そして自分の振る舞いが果たして本当に正しいと言い切れる行為だったのかどうかを、厳しく自己に問いかけ追及した結果、組織を離れているものだと思います。少なくとも、私に関してはそうです。自分の無責任な言動を棚上げしているのではありません、自分の言葉に責任をもつべきだ主張するのは、他人事として書いているのではないのです。過去の自らの行為を悔悟した結果の主張なのです。
今里さんへのレスにも書きましたが、信仰を語ることにおいて、掲示板のレスだろうが個人のサイトだろうが、多くの人の目に触れる公の場ですから、このことは、軽く考えないでほしいのです。繰り返しになりますが、宗教を語るということは、場合によっては読む人の人生を変えてしまうことが往々にしてあるからです。このことは、重く考えなければならないということを、理解して頂きたいです。

仮に、掲示板だから、無責任な発言も「可」と許されるとしても、最低限、責任の持てない自分の憶測や思い込みであることを言い回しにおいて慎重にあってほしいのです。科学的分析で証明できないことを、最もらしく断定して記述することが、どれだけ人を惑わすものなのかという問題認識、大切ではないでしょうか。
しかし、このことは、今里さんだけが責められることではないのです。組織を上げて煽動してきた宗教教団の持つ体質なわけです。それがこの掲示板の意図する、問題提議でもあったわけです。

356アネモネ:2003/01/18(土) 15:34
(つづき)

>平たく言えば日蓮本仏なる言を基本にして宗教勧誘されたんでしょ?今と過去とは違うと言われるかもしれませんがね。過去の「無責任」な言動をもちいた宗教勧誘を自らの目が開いたからといって過去の問題を案外とさらりと流してませんか?それとも折伏した人たちに対して「俺は無責任なことをした」などとと謝罪してまわったとでも?

謝罪をして回ることはひとつの方法でしょう。しかし、謝罪をしてまわっても、過去の無責任な発言が撤回され責任がとれるというものではないでしょう。大袈裟でもなんでもなく、人の人生を変えてしまっていることだってあるわけですから、ここで組織を離れる決断をした人の内心としては、取り返しのつかないことをしてきたと苦しい思いを抱えているのです。そのくらい、自己を追求しているわけです。自分に対して厳しさを課しているというわけです。それが同時に社会への責任にも通じるものでもあるわけです。

いったん発した過去の言葉の完全な責任をとることは、残念ながら出来ません。だから、言葉には慎重ですし、このことにまさに気づいたところで、今できることは何かといえば、たとえ掲示板の投稿といえども、自分の言葉に責任をもっていく姿勢を崩さないということが先行されるわけです。
それが、宗教を語るものの姿勢として求められること。当然のことではないでしょうか。
あまりにもそのことに対して、みんなが無神経であったということに気づいてほしいものです。

そのような観点から今回の議論において、自分の言葉に責任を持って投稿なさっている独歩さんと、まったく責任を持っていないところで投稿をしている今里さんのとでは、宗教に対する誠実さははっきり目に見えていたと私は思います。
多くのカルト性の強い教団は、世の中を救うと称しながら、実は証明できないことを最もらしい言葉で信じ込ませ、世の中の人々を惑わしているのが現状なのではないでしょうか。
証明できないことにも真理はあるという。しかし、単純に真理でない確立のほうが遥かに高いはずです。にも関わらず、そちらに対する意識はまるで抜けおちているわけです。
さらにそこには、証明できないけれども、信じる者は救われ、信じない者は地獄行きと、二極論で強迫し脅していくのが常套手段なわけです。
今里さんは、そういう手法のカルト性や危険性に無神経なわけですね。なぜ無神経でいられるのかというと、自分が無責任であることに甘んじているからではないでしょうか。人々を救うはずの宗教が、実は救いを求める人々を惑わし不幸に導いている現実的側面があることに目が向いていない。現証というなら、そのことこそ現証ではないかと言いたいくらいです。
しかも、宗教が原因で不幸になった人に対してすら、信心が足りないからとか、過去世の業だとか、またまた証明できないことでもってさらに苦しめているのも事実です。全て言葉に対して無責任だから、発せられる無神経な言葉なのです。

みかんさんが、痛快なレスをなさっていました。まさに宗教を語る者は、文献に対する研鑚と自己への追及、そして社会への洞察を怠ってはならないと思います。そんなこともせず、それどころかそのような自分の姿勢に開き直るばかりか、真摯な姿勢で臨んでいる人を簡単に見下しながら、自分の言動には責任を全く回避するような人の言葉こそ、私は信用できないと判断し、そしてそのような人の言葉こそ世間を惑わすものではないかと公然と批判します。

357アネモネ:2003/01/18(土) 15:43
今里さん

>ただ僕は、こまごまとした事にはあまり興味がなくて、結論だけ判っていればよいと思っています。僕の得ている結論は「御本尊様は有り難い!」という事です。

その結論が正しいか否かの議論をしているわけです。そのことをみんなが指摘しているのに、なぜその意味が理解できないのでしょう。
それが正しいことのように断定して話す以上は、証明しなければならない立場に立つということです。それが出来ないことがわかった以上は、言葉の表現に慎重にならなければならないわけです。そういう責任を感じるようになることも、仏教徒の振る舞いとして求められることではないでしょうか。今里さんには、そういう姿勢が微塵も感じられないのです。
このような指摘や忠告は、うるさいだけなのかもしれませんね。
しかし、今里さんの語る言葉は、どれもこれも信用できないというのが私感想です。

>「御本尊様は有り難い!」と、心の底から思える事、これが「智慧の眼の一分が開いている」という事です。

井の中の蛙大海を知らずとは、まさに今里さんのことだと思います。
開き直っておられるようですが、決して誉められたことではないでしょう。しかも浅学だったことを自ら認めながら、なんら自己批判を持たない。それどころか、教義研鑚に対して真摯な姿勢の人に対して、見下す姿勢さえ改めないわけです。それが成仏を目差すという今里さんの振る舞いなわけです。

>僕が生きている間に、僕自身がお釈迦様のような立場になることは有り得ない、ということです。

とのことですが、「成仏しようぜ!」と呼びかけることこそ、釈迦のような立場で人々を煽動する言葉ではないでしょうか。今里さんのことの言葉を問題にする人は、皆そのことを指摘しているのだといえます。なのに、なぜその指摘をどこまでも交わし続けることができるのか、私にはわかりません。本当に今里さんは、成仏を目差しているのでしょうか。心の底から目差しているならば、この指摘に対して真剣に自己を追求するものではないかと思います。

>また、相手の言っていることを理解しないでレスを返すのはやめた方が良いです。
これは「お互い様」という気がしますが(^^)

立証できない結論を今里さんは理屈抜きで信じている。その心情をわかってもらえないことを、「理解されない」ととっているのかもしれませんが、そうではないと思います。今里さんの信じたい気持ちはわかるのです。なぜならば、みんな過去は信じていたからです。しかし、そういう議論ではないということを今里さんは理解していないのです。そういう「思い」は、どうしたって議論にはならないのです。議論になっていないことすら気がついていないようですが。今里さんの本仏論は、「鰯の頭」だったというところでしょうか。

>「あー、そうか! 釈尊は御本尊様のことを悟ったんだ」と。…御本尊様の事が有り難くて有り難くて涙が止まりませんでした。

そういうのを、鰯の頭というのだと思います。自己の探求、追及、そして自己批判にまったく欠けているものだと思います。今里さんの個人的信仰観とみなされるものだということです。そのことをもって、これが真理なんだわかってくれということの危うさにも目を向けてください。
単に、自分の都合のいいように解釈して自己陶酔しているだけだと感じます。そういうのは「信」でもなければ、覚りでもないでしょう。自己への厳しさを捨てた、ただの盲信だと感じます。
私は。そのような宗教観からは、卒業したつもりでいます。

359エド:2003/01/18(土) 16:53
はじめまして。
とても興味深く拝見させていただいております。
一寸ご教示願いたく、質問させて頂きます。

独歩様。
>私が“証明”について拘るのは「カルトは証明できない教義によって成り立っている」
>からです。ハッサン氏は以下のように言っています。(略)

では、証明できる教義をもつ宗教とは、どのようなものがありましょうか?

360みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/18(土) 23:26
>>354 今里さん

> 「釈尊は何を悟ったんだろう?」ってずーっと考えてて、ある日気付いたんです。
> 「あー、そうか! 釈尊は御本尊様のことを悟ったんだ」と。
> 時系列的に逆転しているところがスゴイんですが(笑)。まぁ、らせんの様なイメージで理解しました。

「釈尊は御本尊様のことを悟ったんだ」という時の、「御本尊様」って何ですか?

361今里祐二:2003/01/18(土) 23:49
アネモネさんへ

>>ただ僕は、こまごまとした事にはあまり興味がなくて、結論だけ判っていればよいと思っています。僕の得ている結論は「御本尊様は有り難い!」という事です。

>その結論が正しいか否かの議論をしているわけです。

僕は正しいと信じています。
まぁ、間違っていたら僕が地獄へ落ちれば済む事なんだし、それでいいんじゃないですか。

「責任」について色々言われていますが、アネモネさんは御本尊様を否定している事がどういう事か解っていないようです。
これまで、そして現在も多くの人達が「御本尊様を信じていれば成仏できる」と信じています。
それを否定するのであれば「対案」を出すべきです。

たとえば「鰯の頭を信じれば成仏できる」「大黒様を拝めば成仏できる」「マニアにしか解らんような教学話をゴチャゴチャやってれば成仏できる」等々です。
否定するだけで「対案」を示さないのは無責任な態度ではないですか?

>自分の言葉に責任を持って投稿なさっている独歩さんと、まったく責任を持っていないところで投稿をしている今里さんのとでは、

独歩さんは否定するばかりで、何ら「対案」を出していません。
自らリスクを負って「こうすれば成仏できる」と言わない限り、無責任なのは独歩さんの方です。

>>359 エドさん

ナイスです♪

362今里祐二:2003/01/18(土) 23:50
みかんさんへ

>「釈尊は御本尊様のことを悟ったんだ」という時の、「御本尊様」って何ですか?

みかんさんが「不一不異」という事を理解されているという前提で答えます。

大聖人様が出世の本懐として建立された本門戒壇の大御本尊様です。

363無徳:2003/01/18(土) 23:56
Satさん今晩は:

>「歴史的総括」を為さないならば再構築を目指す人々の手によって
>明らかにしていくしかありませんね。正本堂問題のみならず・・だ
>と思います。

その通りですね。創価学会に限らず顕正会も法華講も更には正信会も
その組織を構成する人々が、我こそ正しく他が間違っていると言った
正当意識を払拭し、それぞれが富士門流の再構築という視点で日蓮仏
法の原点に帰るべきでしょうね。

その為にも、我々がそれぞれの組織の指導者達が紡ぎ出す共同幻想と
も言うべき迷妄を打ち砕く事が何より先決と思います。兎にも角にも
それぞれの組織の指導者たちがお山の大将意識ではお話になりません。

その意味でもリゾーム的な現代的サンガの形成がなにより要請される
と思います。ネットに集う一人一人が中心であり尚且つ周辺を担う事
が何より大切な変革の起爆剤となり得ることでしょう。

satさんのご活躍を心より期待いたします。今後ともお互により良き情報を
交換してまいりましょう。

364さかなこ:2003/01/19(日) 01:37
みかんさん>

日蓮さんの御書をよりよく理解するための前提としてこれだけは
覚えておかないとだめーな基礎知識がいっぱい載ってるさかなでも読める易しくて
安い本があったら教えてくださいm(__)m

がっかーいんさんに御書難しい。。というとみんな読みやすいといふ。。
日蓮さんは後世のことを考えて現代人にも読みやすく書いてくれたといふ。。
読みにくいとおもうているのはあたしだけなのだらうか。。。

365みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/19(日) 12:16
>>364 さかなこさん
> がっかーいんさんに御書難しい。。というとみんな読みやすいといふ。。
論文は読みにくいです。手紙は比較的読みやすいと思います。論文も空海や親鸞や道元に較べれば読みやすいとは思います。

> 日蓮さんは後世のことを考えて現代人にも読みやすく書いてくれたといふ。。
それはでたらめです。

> 基礎知識がいっぱい載ってるさかなでも読める易しくて安い本

そういう概説書みたいなのはちょっと心当たりがないです。それに習うより慣れろだと思うし。
日蓮の遺文を読む場合、現代語訳か注釈のついたもので読みはじめるのがよいです。堀日亨編の御書全集(いわゆる創価学会版の御書)をいきなり読もうとしても、挫折します。あるいは誤読します。それに堀日亨の御書全集は句読点が極端に少ないし、字も小さいし、配列も独特なので、使いにくいです。(もちろん現代語訳や注釈が間違っていることもありますけどね)創価学会版の御書講義の本は、日蓮正宗独特の文底読みを採用していて、日蓮の原意を損なっているのでお薦めしません。

増谷文雄『日蓮 書簡を通してみる人と思想』(筑摩叢書78 筑摩書房 品切れ)

『日蓮文集』(岩波文庫、書き下しおよび古文 注釈付き 品切れ)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/400333051X/

『中公クラシックス 日蓮』(中央公論新社 現代語訳)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121600150/


辞典は創価学会版の『日蓮大聖人御書辞典』(絶版)が、一番良いと思います。サイズが小さい割に、項目が多いし、しかも出典も明記されているからです。ただ、これも日蓮正宗教学や創価学会教学独特の解説をしている箇所がありますが、それさえ気を付ければ、役に立つ辞典です。


あと日蓮の概説書はいっぱりありますが、次の二冊が良いかも。
佐藤・小島・小林『日蓮大聖人の生涯と思想』(第三文明社)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4476061265/

末木文美士『日蓮入門―現世を撃つ思想』(ちくま新書)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480058559/


あと、大石寺門流と他門流一般で、読み方が違う重要箇所があります。それも気を付けた方が良いです。

「開目抄」(真跡焼失)
一般「したし父母」
大石寺「しうし父母(主・師・父母)」

「本尊抄」
原漢文「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此国」
一般「この時、地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士となり、一閻浮提第一の本尊をこの国に立つべし。」
大石寺「此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士となす一閻浮提第一の本尊此の国に立つべし。」

どちらが正しいかは解釈に依ります。私の考えでは、「開目抄」は「したし父母」が読みとして自然だと思います。「本尊抄」は「此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士となす一閻浮提第一の本尊此の国に立つべし。」が漢文訓読上、自然だと思います。

366山の王:2003/01/19(日) 12:28
また、話がずれていますね。
日蓮が本物であるかを文献的に証明できなければ、普遍性がないという話をしていたんじゃないの。

成仏でいる対案がなければ無責任というのは一見すると筋が通っていると思えるけれど、けれど、今里の言っていることが成仏できることが証明できないんだから、まるで反論になっていないんじゃないの。

367山の王:2003/01/19(日) 12:53
それにまた、ぜんぜん、質問に答えない上、自分で「この辺で終わりにしましょう」と言っておきながら、まだ独歩さんの悪口を書き連ねている。
別に独歩さんの味方しようと思わない。しかし、ひどいね。端で見ていて気分悪い。
366の「今里」は、さん忘れ。

368山の王:2003/01/19(日) 13:10
だいたい、なんで日蓮さんが本仏のわけ?
日蓮さんはお釈迦さんに帰命しているからこそ、自分の書いた御本尊に「南無釈迦牟尼仏」って書いているわけでしょう。
それで釈迦=日蓮だというのが日寛さんの言葉にあったって、それは日寛さんの言葉でしょう。
あと、本仏ってなんなの。
それで成仏できるって言われても、ぜんぜんわかんないよね。

369アネモネ:2003/01/19(日) 14:09
今里さん

>「御本尊様を信じていれば成仏できる」と信じています。

それは今里さんの内心の自由ですから、よろしいのではないでしょうか。そのことについては、私はなんら立ち入っているつもりはないです。ただし「成仏しようぜ!」と誘いかけている以上、個人的信仰の領域を超えていることなので、誘いかける言葉に責任を持ってほしいと意見させて頂きました。信じているの一点張りでは、なんら責任を持っていないのです。正しさを証明しなければならないのです。そのことが文献から立証できないのなら、自ら実際に成仏してから世間に誘いかけて頂きたいものです。その場合には、成仏とはどのようになることなのかまで、人々に語り連ねるところまで説明が出来なければならないのです。お釈迦様のような仏様では、説明になっていません。


>アネモネさんは御本尊様を否定している事がどういう事か解っていないようです。

私がいつ否定したのでしょうか。曲解されては困りますが、私は一度たりとも御本尊様を否定などした覚えはありません。今里さんの信心が、鰯の頭的信心だと感想を述べたまでです。それを「御本尊を否定した」などと曲解してレッテルを貼られては迷惑です。

だいたい御本尊とは何なのでしょうか


>それを否定するのであれば「対案」を出すべきです。

何の対案でしょう。私は御本尊様を否定した覚えはありませんので、対案の出しようがありません。

>否定するだけで「対案」を示さないのは無責任な態度ではないですか?

繰り返しますが、否定などしていないのですから、対案を出すことなど要求される覚えはありませんし、無責任呼ばわりされる筋合いもありません。

>独歩さんは否定するばかりで、何ら「対案」を出していません。
自らリスクを負って「こうすれば成仏できる」と言わない限り、無責任なのは独歩さんの方です。

今里さんは、私がいうところの責任における認識が全然わかっていないようです。私が何度も言っていることは、自分が発する言葉、つまり今里さん自身が発言している言葉に責任を持ってほしいと言っているのです。今里さんはご自分が信じている、「御本尊様を信じていれば成仏できる」ということで「成仏しようぜ!」と世間に誘いかけているわけです。この「御本尊様を信じていれば成仏できる」ということに対してどのような責任を今里さんが持つのかです。その責任の持ちようこそ、証明しかないのではないでしょうか。信じているだけでは、証明になっていないわけで、今里さんの「成仏しようぜ!」はどうしたって無責任な誘いであることは免れないということ、理解できませんか?

そもそも、成仏の方法を「案」として提示すべきなどという今里さんの言葉は、仏教にはそぐわないような違和感を感じます。
私は、正しいことが証明されないことを、あたかも正しいと断定して誘いかけるような無責任なことに慎重な立場をとっているのです。そのような責任の持ち方が、今里さんには理解できないということでしょうか。

それから、人の投稿を正しく理解せずに曲解してとらえ、あたかも「御本尊様を否定した」というレッテルを勝手に貼るのは卑怯です。言葉を正確に理解して頂きたいですし、理解できないのであれば、自分には理解できないと誠実にお答え頂きたいと思います。

370五月雨:2003/01/19(日) 16:50

今里さんに、アネモネさんの言葉が届かないのはどうしてなんでしょうね。
日本語が通じないなんてことはないでしょう、ご自身に都合の悪くない返事は返されていますもの。ところが一番肝心な「日蓮本仏論」についての問い掛けにはだんまりを決め込むか「あまりいじめないで下さい」などと逃げ回り、あげくに自分の言葉を他者が言ったかのような“罠”を張る。
オフ会でお会いした時に受けた今里さんの人間性から、掲示板における今里さんのお振る舞いはちょっと信じられない思いがしています。
ご自分でご自分の人間としての品性を、ここまで貶めなくてもいいように思うのですが。

それにしても、この鰻の論理に挟まれた無徳さんとSatさんの意義ある議論が霞んでしまったように思います。勿体無い限りです。

371今里祐二:2003/01/19(日) 17:20
アネモネさん

>私は一度たりとも御本尊様を否定などした覚えはありません。

これは大変失礼しました。申し訳ありませんでした。
でも、それだったら、独歩さんではなく僕の意見を支持して下さい。

>だいたい御本尊とは何なのでしょうか

日蓮正宗大石寺奉安堂に御安置してある本門戒壇の大御本尊様です。

>信じているだけでは、証明になっていないわけで、今里さんの「成仏しようぜ!」はどうしたって無責任な誘いであることは免れないということ、理解できませんか?

前回「まぁ、間違っていたら僕が地獄へ落ちれば済む事なんだし、それでいいんじゃないですか。」と言いました。
無責任と言われても、それ以上の責任は取れないわけで、…困りましたね(^^)

>正しいことが証明されないことを、あたかも正しいと断定して誘いかけるような

宗教って、そういうもんじゃないですか。

>無責任なことに慎重な立場をとっているのです。

そんなに慎重にならなくても、臨終の時にはキッチリ清算されると思いますよ。
また、そんなに心配なら掲示板などに出てこないことです。

http://www.hm5.aitai.ne.jp/~imachan/index.html

372犀角独歩:2003/01/19(日) 17:30

今里さん:

ちょっと待った。
いったい何なのだね。
山の王さん(はじめまして)も書いてくれたが、339に「まぁ、この辺で終わりにしましょう」と書いた故に、こちらとしては、335に整理したように質問に何ら答えないこともさらに追究をしなかったのです。それにも関わらず、「独歩さんは否定するばかりで、何ら「対案」を出していません…無責任なのは独歩さんの方」と、おわりにしたはずが、質問されたことを応えない卑怯な態度を取っておいて、批判するとはいったい、どういうつもりなのかね。

まずはこの点について、弁明を聞かせてもらいましょうか。

373犀角独歩:2003/01/19(日) 17:45

エドさん:

> 証明できる教義をもつ宗教とは、どのようなものがありましょうか?

できる限り、仰る意を正確にお聞きし、お答えしたいと思います。
この「宗教」とは、どのような意味でお使いになっていらっしゃいますか。
宗教教団の意味ですか、それとも分類上の意味…たとえばキリスト教、仏教といった…、それとも、教えの意味ででしょうか。

エドさんが引用された、349において「のいちばん効果的な教義とは、エリック・ホファーの言葉を使うなら『証明も評価もできない』教義である」というハッサン氏の言葉を引いたわけですが、ここで言われていることは「教義」ということです。ですから、上述、仮に私が記したなかで言えば「教え」に該当します。

それなのに、「証明できる教義をもつ宗教とは、どのようなもの」と「宗教」という言葉に代わって質問がなされていますね。これはそのような批判の対象にならない教義を持つ宗教(団体、分類)はなにかというご質問なのでしょうか。

374みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/19(日) 17:49
>今里さん。
>> 362
> みかんさんが「不一不異」という事を理解されているという前提で答えます。

「不一不異」というのは仏教一般で使用される言葉ですので、それだけでは何と何の「不一不異」を言っているのか分かりません。
1-1)何と何の「不一不異」ですか?
1-2)そしてそれはどういうことがらを示していますか?

> 大聖人様が出世の本懐として建立された本門戒壇の大御本尊様です。

2)それは、「日蓮正宗大石寺奉安堂に御安置してある本門戒壇の大御本尊様です。」と言われるところのあの木製の物質ですか? それともそれが関わる何かですか?


>>354
> 「あー、そうか! 釈尊は御本尊様のことを悟ったんだ」と。

3)それは、一体どういう事ですか? 釈迦が何をどのように悟ったのですか? その悟りの内容はどういうことですか?

> そう考えたら、もう、何もかもが納得出来るようになりました。

4)何がどのように納得がいきましたか。それは具体的にどのようなことですか?


>>305
> お釈迦様のような仏様に成ること

5)「お釈迦様のような仏様に成ること」とは具体的にどのようなことですか?

375犀角独歩:2003/01/19(日) 17:52

今里さん:

あなたはアネモネさんに対して、

> そんなに心配なら掲示板などに出てこないことです

などと言っています。
出てきても意味がないのはあなたのほうでしょう。その点について、私は237、238に

「あなた、こんな所に出てきても意味がないんじゃないのかな。
自分の本仏論を抱きしめて悦に入っていれば好いんだから。
言葉をやり取りすること自体、意味ないでしょう、あなたには(笑)

まあ、本仏論なんて看板背負って出てきても、説明も何も出来ないかけ声だけじゃ、退屈ですね。
独りよがりの好い気分、聞いたって、何の参考にもならないし、本仏論というのはただの思いこみなのかと。
思い込んでいる人とは会話は成り立たず、ただ、説明も出来ないことを押しつけられるだけでは、公開の議論の場にはふさわしくないでしょうね」

と嗤ったわけです。結果はまさにそのとおりなのであって、何一つ説明できないばかりではなく、それぞれ問いを投げかけた人々を軽蔑し、不誠実、卑怯の限りを尽くしたうえで、ついにはアネモネさんに斯様な言辞を投げつけている。

私は、もう一度、237、238に記したことを告げるものです。

376犀角独歩:2003/01/19(日) 18:18

みかんさん:

鰻と鰯頭のは横に置いて、少し真面目に質問をさせてください。

『開目抄』の「しうし父母」は「終始父母」の可能性は、どのようにお考えですか。

『本尊抄』の「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此国」につき、私は、みかんさんとは考えを異にし一般の読みのほうではないかと考えてきました。その理由は、『報恩抄』の「本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし」との整合性です。ここが同じく三つの法門となる本門本尊について同じく論じているとすれば、整合性がなければならない、となれば、『本尊抄』「釈尊為脇士」は「釈尊の脇士と為(な)り」でなければ、辻褄が合わないと思えるわけです。この点は、どのようにお考えになられますか。

377ワラシナ:2003/01/19(日) 18:52
「上野国立博物館の大日蓮展を見てきた。」

1、臨滅度時の御本尊の大きさに驚いた。
2、「観心本尊抄」「立正安国論」の御真蹟を拝し得た有難さ。
3、2時間半かかってみた。どうしてもその位の時間が必要になる。
4、入り口の券売機で1300円入れる時は500円硬貨が使えない。
5、一度は実物を見ておくと色々と着想が湧いてくる。あの展示物に限って宗祖の筆記された文字のサイズを見れば、宗祖はやはり大き目の字の方を好んでお書きになっているとしか思えなかった。

378今里祐二:2003/01/19(日) 19:51
>>372 独歩さん

>まずはこの点について、弁明を聞かせてもらいましょうか。

アネモネさんより
>自分の言葉に責任を持って投稿なさっている独歩さんと、まったく責任を持っていないところで投稿をしている今里さんのとでは、

と、独歩さんと比較した質問をされたので、それに対する反論です。

僕は「文証」を出せないし、これ以上独歩さんとやり合う気もありません。
無礼に感じられた点がありましたらお詫びします。申し訳ありませんでした。

379今里祐二:2003/01/19(日) 20:13
>>374みかんさん

1-1)何と何の「不一不異」ですか?

釈尊が凡夫であった時に拝んでいた御本尊様と、僕が現在拝んでいる御本尊様とが不一不異という事です。

1-2)そしてそれはどういうことがらを示していますか?

質問の意味がよく理解できません。

2)それは、「日蓮正宗大石寺奉安堂に御安置してある本門戒壇の大御本尊様です。」と言われるところのあの木製の物質ですか? それともそれが関わる何かですか?

そうですが、御本尊様の事を「木製の物質」と見ている間は、信心が成立していないと思います。

>> 「あー、そうか! 釈尊は御本尊様のことを悟ったんだ」と。
3)それは、一体どういう事ですか? 釈迦が何をどのように悟ったのですか? その悟りの内容はどういうことですか?

これは釈尊の悟った内容を言ったのではなく、僕がそのように感じたという事です。

4)何がどのように納得がいきましたか。それは具体的にどのようなことですか?

一言では言えないのでHPの方で、みかんさんご自身が判断してください。
http://www.hm5.aitai.ne.jp/~imachan/index.html

5)「お釈迦様のような仏様に成ること」とは具体的にどのようなことですか?

具体的には、なってみなければ判らないと思います。

380エド:2003/01/19(日) 20:47
独歩様。

他意はありません。宗教としたのは、ただ単純に「教義とは特定の宗教の教え」と考えたからです。

>私が“証明”について拘るのは「カルトは証明できない教義によって成り立っている」からです。

との引用をされたことから、「“証明”できる教義」の存在も認めていらっしゃると推察申しあげました。
あらためてお伺い致します。
“証明”できる「教義」(教え)とは、どのようなものでしょうか?

蛇足ですが、“教義”については広辞苑には次のように記載されております。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【教義】
特定の宗教や宗派の信仰内容が真理として公認され、信仰上の教えとして言い表されたもの。
教理。ドグマ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

381アネモネ:2003/01/19(日) 23:05
今里さん

>それだったら、独歩さんではなく僕の意見を支持して下さい。

支持を得たいのならば、最低限、議論に対する姿勢を改めて頂きたいと思います。内容はもちろんのこと、議論に対する姿勢からして、私は今里さんを支持する気になれないのです。

>そうですが、御本尊様の事を「木製の物質」と見ている間は、信心が成立していないと思います。

木製の物質ではないのですか?とすると、何なのでしょうか。

>前回「まぁ、間違っていたら僕が地獄へ落ちれば済む事なんだし、それでいいんじゃないですか。」と言いました。
無責任と言われても、それ以上の責任は取れないわけで、…困りましたね(^^)

オフ会のときにも、「困りましたね」とつぶやいておられました。この歳、とことん困って追求して頂きたいと思います。
しかし、「まぁ、間違っていたら僕が地獄へ落ちれば済む事なんだし、それでいいんじゃないですか。」とのご発言から察するに、今里さんは地獄に落ちるかもしれないことをそんなに重大には考えてはいないような印象を受けますね。それは裏を返せば、成仏するということもそんなに重くは考えてはいないということでしょうか。
なのに、「御本尊様の事が有り難くて有り難くて涙が止まりませんでした」と感涙に浸っている。成仏と地獄をさして重く考えているとも思えないのに、何をそんなに感涙することがあるのか、まるでピンとこないです。

>宗教って、そういうもんじゃないですか。

私はそうは思いません。
今里さんはそれで納得して済ませているかもしれませんが、私は宗教を求めるものとして、それで宗教とはそういうものだと納得して済むことは出来ないと思っております。あくまでそこを探求し、追求していく自分でありたいと思っています。また、その点においては、文献などの研鑚に努力を惜しまず長年の思索を経てきている方に対しては、敬意を持って耳を傾け、学ばせて頂きたいと思っています。そして、自らの思索や社会への洞察も怠らない。それが今の宗教を求める私に出来る、責任をもった姿勢と振る舞いに通じるものと考えるからです。

>そんなに慎重にならなくても、臨終の時にはキッチリ清算されると思いますよ。

ご自分のことはそれで済むでしょう。しかし、今里さんの誘いに乗って信心を始めた人はどうなのでしょう。一緒に清算されても、自分には責任はないよと思っているということですか。宗教とはそんなもんだよと言って、終るのでしょうか。救われないとはこのことかと感じます。

>また、そんなに心配なら掲示板などに出てこないことです。

私がですか?
冗談じゃない。今里さんのように無責任でいい加減な態度のロムを読むと、黙ってはいられないのです。そのような姿勢に甘んじている人の無責任な言動に対して、批判的に意見する私の言葉は、自ら責任を持って書き込んでいます。
今里さんに限りませんが、大御本尊様さえ信じていれば人間としての振る舞いは二の次、三の次という方、組織の中でも多く見てきました。
それが本当の仏教なのかといつも疑問に思ってきたのです。組織に疑問を持ったのもそんなことからでした。そのような問題提起もこめて、私は掲示板に参加してきたつもりです。
責任を感じるからこそ、この場で問題提起をしてきたともいえるのです。私の掲示板参加の意識は、根本的に今里さんの意識とは根本的に違うものだと思います。

382みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/01/20(月) 09:09
>>376 独歩さん

「終始父母」という読みははじめて見ました。そのような説を唱えている方がいらっしゃるのですか。もしよろしければ、お名前とか、何という本に出てくるかとか教えて頂ければ幸いです。

 報恩抄との整合性については、考えてみたいので、時間を下さい。


「本尊抄」の読みについては、

「この時、地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士となり、一閻浮提第一の本尊をこの国に立つべし。」
と読むためには、漢文はたとえば、
「此時地涌千界出現為本門釈尊之脇士可立一閻浮提第一本尊於此国」
のような語順でなければならないという理由からです。(漢文を読むことはある程度できますが、書く訓練は受けていないので、間違っているかもしれません。)

原文が「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此国」
であるので、
「此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士となす一閻浮提第一の本尊此の国に立つべし。」
としか読めない、ということです。

また、「本尊抄」の中の二つの記述の間で整合性が取れていると考えるからです。つまり「一閻浮提第一本尊」=「南無妙法蓮華経の主題」の脇に「南無釈迦牟尼仏」=「本門釈尊為脇士」が書かれている、ということを表している文章だと、私は読むわけです。
かつて(1997年)わたしはとある文章で以下のように書きました。
以下引用
===
「その本尊の為体、本師の娑婆の上に、宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に、釈迦牟尼仏・多宝仏。釈尊の脇士は上行等の四菩薩なり。文殊・弥勒等の四菩薩は、眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は、万民の大地に処して雲閣・月卿を見るがごとし。十方の諸仏は、大地の上に処したもう。迹仏・迹土を表するが故なり。かくのごとき本尊は、在世五十余年にこれなし。八年の間、ただ八品に限る。」
「其本尊為体本師娑婆上宝塔居空塔中妙法蓮華経左右釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊脇士上行等四菩薩文殊弥勒等四菩薩眷属居末座迹化・他方大小諸菩薩万民処大地如見雲閣月卿。十方諸仏処大地上。表迹仏迹土故也。如是本尊在世五十余年無之。八年之間但限八品。」

「この時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇土と為す一閻浮提第一の本尊この国に立つべし。」
「此時地涌千界出現本門釈尊為脇土一閻浮提第一本尊可立此国。」

 これらの記述は、中央に「南無妙法蓮華経」と大書きされ、その向かって左脇に「南無釈迦牟尼仏」、右に「南無多宝如来」とあり、さらにその右脇に「南無上行菩薩」「南無無辺行菩薩」、左脇に「南無浄行菩薩」「南無安立行菩薩」とあり、下方には諸々の菩薩・天・人など十界の衆生が描かれる日蓮の本尊の構成を顕している。
 下方にどの尊格が書かれているかなどの、本尊全体の構成は必ずしも一定ではないが、中心部分はほとんど変わらない。その中心部分を略記するなら次のようになる。

  南無無辺行菩薩
  南無上行菩薩
 南無多宝如来
南無妙法蓮華経
 南無釈迦牟尼仏
  南無浄行菩薩
  南無安立行菩薩

385犀角独歩:2003/01/20(月) 13:19

380 エドさん:
(この掲示板では「さん」付けとなっていますので、そのようにさせていただきます。私にもそのようにお願いいたします)

> 「“証明”できる教義」の存在も認めていらっしゃると推察申しあげました。

この点については、存在の否定・肯定といった二極思考として考えているのではなくて、「証明できないことを、さも証明できることとして論じる」あるいは「証明できないことをいいことに、それを逆手にとって真理のように語っている」のがカルト理論であるという意味です。

少し言葉を継げば、「証明できない教義」とは「証明できないことによって組み立てられている教義」という意味です。

その意味において、証明できる事実の積み重ねによって教義は構築されているべきであるという考えはあります。

しかし、証明できない教義に対して、証明できる教義があるという二者択一を言っているわけではありません。

> “証明”できる「教義」(教え)とは、どのようなものでしょうか?

ここで議論されていることであれば、日蓮の真跡か否か、日蓮が実際に説いた教義であるかどうかという証明に基づく限定を設定して、日蓮本仏論については考えるべきだということです。

386さかなこ@暇なOL:2003/01/20(月) 13:36
>>365

みかんさんどうもありがとうございました(^o^)丿
でも絶版になってるものが多いのですね(´・ω・`)
「あなたの大きさに気付いたときににあなたはいない。。」人生って
上手くいかないものなのですね(´・ω・`)
我が家にある本は御書講義全集はがっかーい版のなので
ちと問題がありそうです。

質問したいなあ。。と思っていた個所を独歩さんが訊いて下さったので
このままお話をロムいたしましゅる。

387犀角独歩:2003/01/20(月) 13:36

みかんさん:

有り難うございます。

実は私自身、自然な訓読としては石山読みであると個人的には思っています。
しかし、日蓮は先に挙げたとおり『報恩抄』において三つの法門中、本門本尊を「本門の教主釈尊」と定義しています。題目の(南無)妙法蓮華経、つまり、漫荼羅中尊に等しい言については「日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無知をきらはず一同に他事をすてヽ南無妙法蓮華経と唱ふべし」であるといいます。(蛇足ですが、本門戒壇については何ら説明もありません)

故に自然な訓読と思える「本門の釈尊を脇士と為(な)す一閻浮提第一の本尊」では『報恩抄』にいう“本門本尊・教主釈尊が脇士にもなる”不都合が生じてしまうと思えるわけです。実際、『報恩抄』では「上行等の四菩薩脇士となるべし」と明確に脇士についても定義されています。そのことから見れば、「本門の釈尊を脇士と為(な)す」では脇士の定義が異なるという不都合も生じることになります。

これはけっして、みかんさんを批判してなどと言うことではなく、一つの難問を、ここに考えてみる試論と言うことで、ぜひ『報恩抄』との整合性のご賢察をお聞かせいただきたいと願うものです。

388犀角独歩:2003/01/20(月) 14:27

―387からつづく―

一つ記し落としました。

> 「終始父母」…説を唱えている方…お名前…本

申し訳ありません。これは私の勝手な想像を記したまでのことです。
焼失した『開目抄』真跡、該当部分が「しうし」か「したし」か、今となっては憶測の域を出ませんが、「しうし」という仮名書きであったとすれば、他にも様々な可能性が考えられるのではないのかと思って記したことでした。

389犀角独歩:2003/01/20(月) 14:40

みかんさん:

もう1点、ご意見をお聞かせいただきたいのです。

『本尊抄』の「其本尊為体本師娑婆上」の文につき、この本尊に掛かるのは、その前文「但召地涌千界説八品付嘱之」にということになります。それで、ここでいう「之」はさらに前文の「本門肝心於南無妙法蓮華経五字」です。となると、本尊は南無妙法蓮華経と見えます。たしかにここまで読むと本尊は「南無妙法蓮華経」であると思えます。

ここで目を引くのは「本師」の二字です。「其本尊」は「本師娑婆上」というわけです。さらに前を見れば、「我等己心釈尊五百塵點乃至所顕三身無始古仏」であり、その仏は寿量説法の次第の如く娑婆にあって「仏既過去不滅未来不生」であるというわけです。その仏が本師であるとなりましょうか。

私にはここの文「其本尊」に始まる部分の結論は「来入末法始此仏像令出現歟」にこそあるのではないのかと思うわけです。

前文ばかり読めば、言われるところの本尊は字像を漫荼羅として座配、図示すれば事足りるように思えます。けれど、ここには確かに「仏像」の二文字があります。

「南無妙法蓮華経」が「仏像」かといえば、これは苦しい。つまり、この仏像とは本師・本尊の仏像という意味にならないでしょうか。そうなると、本尊とは図示漫荼羅というより、寿量仏、『報恩抄』にいう「本門の教主釈尊を本尊」であり、その仏像ということにならないのかと私には思えるわけです。

ここで「其本尊為体本師娑婆上宝塔居空」の件は本尊を南無妙法蓮華経としてしまうと、本尊・本師・宝塔ともに南無妙法蓮華経となってしまいます。そうなると「仏像」の二文字の意味がまったく取れなくなります。

この点を、みかんさんは、どのようにお考えになりますか。
ご賢察をお聞かせいただければ有り難く存じます。

390犀角独歩:2003/01/20(月) 16:45

つぶやきです。

「来入末法始此仏像令出現歟」の文の後には「本門壽量品本尊竝四大菩薩」の文が来るわけですから、本尊を漫荼羅とすると漫荼羅の横とは別として、さらに四大菩薩を置くという配置になります。しかし、本門壽量品本尊を寿量仏・教主釈尊仏像と見做せば、いわゆる一尊四士の奉安となります。この場合、やはり、本門壽量品本尊を仏像と見做すほうが自然であると私には感じられます。

一つの可能性として、よく言われることですが、本尊=教主釈尊=妙法蓮華経ということは、もちろん、考えられます。しかし、この説明は「仏像」の説明には少しもなっていないように思えます。

では、「為体」と示されるところは何事かとなります。

「宝塔居空塔中妙法蓮華経左右釈迦牟尼仏多宝仏釈尊脇士上行等四菩薩文殊弥勒等四菩薩眷属居末座迹化・他方大小諸菩薩万民処大地如見雲閣月卿十方諸仏処大地上表迹仏迹土故也」の「釈尊脇士上行等四菩薩」を、先より取り沙汰している「地涌千界出現本門釈尊為脇士」の石山読み「本門の釈尊の脇士と為し」と対校して読めば、「釈尊は上行等四菩薩の脇士」とせざるを得なくなります。しかし、もちろん、釈尊の脇士=上行等四菩薩であることは「本門壽量品本尊竝四大菩薩」の文との整合性からも明らかなように思います。

この文を読んで着目するのは「塔中」の二文字です。前文の「宝塔」を受けているのでしょうから、塔中とは「宝塔の中」の意であることは疑う余地はありません。この「中」はどこまでの範囲を言うのでしょうか。宝塔品の文で勘えれば、涌出の宝塔の中には元より多宝如来が在り、そこに釈迦牟尼仏が並座するとなります。そして、神力をもって衆をして虚空の上げるというわけです。「塔中妙法蓮華経」の文を取り敢えず依用すれば、宝塔の中には妙法蓮華経の五字が掛かりそこに多宝如来が元より在り、次いで釈迦牟尼仏が並座したということになります。その他の衆は虚空にあり、他方迹仏は大地からこれを仰ぎ見ているという記述です。

文字で書かれているので、宝塔が漫荼羅には書き込まれていないけれど、宝塔品の記述に従えば、塔中には他方如来と釈迦牟尼仏しか在らず、さらに本尊抄の記述を足せば、その塔中に妙法蓮華経の五字もありということになるのでしょうか。

ところでこの塔とは、他方如来の為の宝塔であるという点があまり取り沙汰されていないように私は思います。『開目抄』でも、この点は明瞭に「多宝如来、高さ五百由旬、広さ二百五十由旬の大七宝塔に乗じ」とあり、この塔は多宝如来塔であることは、はっきりしています。

もし、日蓮漫荼羅がこの宝塔を図したものであるというのであれば、多宝如来塔を図したというに異ならないことになるわけです。ここでこの宝塔=漫荼羅が末法の為の本尊であるというのであれば、それは取りも直さず、多宝如来塔信仰確立になってしまわないのかという疑問が私にはあります。

以上はあくまでつぶやきですが。

391菱村正敏:2003/01/20(月) 16:47
横レス失礼。

 日蓮の本尊観あるいは本尊定義には整合しており矛盾があるまいという
前提にたつと「本尊抄」の当該漢文の読みを、本来しない苦しい読み方を
しないと不都合になりますね。それはココでたまに言われているところの
坊主の学問・教養になっちゃうんではないでしょうか?

 ですから、独歩さんのような立場のかたは、このような順逆の読み方を
認知していく手段としては、当時に書かれた誰かの書物で同例をさがして
示すことも必要ではないでしょうかね。

 ここの読みについては本尊論資料(臨川書店)404頁・549頁あた
りを、もし見ていなければどうぞ。

392今里祐二:2003/01/20(月) 18:47
アネモネさん

>木製の物質ではないのですか?とすると、何なのでしょうか。

僕は「木製の物質」であることを否定などしていませんが…。もう少し落ち着いてよく読んでみてください。

戒壇の大御本尊様は、大聖人様が滅後の衆生の為に御自身の御身代りとして残されたもので、
自受用報身如来の御當體として大聖人様そのものと拝することは日蓮正宗のお約束です。

ところで仏教には「色心不ニ」という教えがあります。
初歩的な事なので説明は省きますが、「色」を離れて「心」はありません。
「色」を離れて「心」を立てるのが外道の特徴で、「宇宙根源の法則」などがその代表事例です。
つまり「木製の物質」である所の戒壇の大御本尊様という「色」を離れて、大聖人様の「心」はないのです。

>「まぁ、間違っていたら僕が地獄へ落ちれば済む事なんだし、それでいいんじゃないですか。」とのご発言から察するに(略)

僕は自分が地獄に落ちることはないと確信を持っています。

>>宗教って、そういうもんじゃないですか。
>私はそうは思いません。

それでは宗教って、どういうものなのですか?

>ご自分のことはそれで済むでしょう。しかし、今里さんの誘いに乗って信心を始めた人はどうなのでしょう。

成仏できると信じています。

>今里さんのように無責任でいい加減な態度のロムを読むと、黙ってはいられないのです。
>今里さんに限りませんが、大御本尊様さえ信じていれば人間としての振る舞いは二の次、三の次という方、

これは「必ず文証を示す」という、この板のローカルルールのようなものを破った、という事ですか?
僕は大聖人様の御真筆だけを文上のままで読んでいけば独歩さんのような結論に成らざるを得ないだろうという事は解っていたので、
「御真筆のみで大聖人様が本仏か否かを判断しようとする考え方自体が不正だ」という事を言いたかったのです。
僕の文章力が未熟で、不快な思いをさせてしまったようです。申し訳ありませんでした。

それにしても、ここ数日間では、誰よりもたくさん謝っているんですけど…。

393犀角独歩:2003/01/20(月) 19:26

菱村正敏さん:

ここで私が問いを設けたのは、みかんさんがどのようにお考えになるのか、という興味に基づくものです。これは私が個人的にみかんさんのお考えに興味があるからです。

395犀角独歩:2003/01/20(月) 19:45

今里さん:

また、勝手に私の考えを曲解して載せています。
このように私が言っていないことを記すことを何度も抗議してきたはずです。
いい加減にしてください。

> 独歩…「御真筆のみで大聖人様が本仏か否かを判断しようとする考え方自体が不正だ」
私はこんなことは一度たりとも言っていません。エドさんに答えた如く「証明できないことを、さも証明できることとして論じる」あるいは「証明できないことをいいことに、それを逆手にとって真理のように語る」ことは無責任である言っているのです。
あなたの392の記述の如くに、です。

それにしても「御真筆のみで大聖人様が本仏か否かを判断しようとする考え方自体が不正」ならば、何によって判断すれば、不正ではないというわけですか。

戒壇之漫荼羅が日蓮が遺したものであるというのに対して、弘安2年(1279)から存在していた証拠を示せばよいと言っていることのどこが不正なのでしょうか。当たり前の判断基準でしょう。

396犀角独歩:2003/01/20(月) 19:52

【390の訂正】

誤)宝塔品の記述に従えば、塔中には他方如来と釈迦牟尼仏しか在らず
正)宝塔品の記述に従えば、塔中には多宝如来と釈迦牟尼仏しか在らず

誤)ところでこの塔とは、他方如来の為の宝塔である
正)ところでこの塔とは、多宝如来の為の宝塔である

397犀角独歩:2003/01/20(月) 20:03

今里さん:

395の、私の記述は撤回し、以下のように書き換えます。

「御真筆のみで大聖人様が本仏か否かを判断しようとする考え方自体が不正」ならば、何によって判断すれば、不正ではないというわけですか。

戒壇之漫荼羅が日蓮が遺したものであるというのに対して、弘安2年(1279)から存在していた証拠を示せばよいと言っていることのどこが不正なのでしょうか。当たり前の判断基準でしょう。

398犀角独歩:2003/01/20(月) 20:41

みかんさん:

私は宗派教義から文を読み解くことを不謹慎であると思います。
ですから、日蓮本仏義に否定的でありながら、しかし、純粋に、漢文読みとしてのみ、石山読みを採り、しかし、本佛義を採らないみかんさんの在り方に深く賛同するものです。

しかし、何か非常に重い質問を寄せさせていただきました。
いつもご賢察を載せられるみかんさんのご意見を伺ってみたいという気持ちからです。
それ以上の意味はありません。
読み直してみて、過去にもこの掲示板でもやや論じあったことですが、一長一短に答えを書き連ねられるほど、簡単なことでないことは理解しております。
お暇な折にでも、お記しいただければ有り難く存じます。

399エド:2003/01/20(月) 21:12
独歩さん

>ここで議論されていることであれば、日蓮の真跡か否か、日蓮が実際に説いた教義であるかどうか
>という証明に基づく限定を設定して、日蓮本仏論については考えるべきだということです。

その教義が日蓮の真跡か否か、日蓮の実際に説いた教義であるかどうかを証明できるのか否か、それを
精査検証されているという意味ですね。するとそれは文献学的な証明の範疇で、日蓮の教義(おしえ)
そのものが証明できるか否かという問題とは異なる、ということになりましょう。了解いたしました。

>「証明できないことを、さも証明できることとして論じる」あるいは「証明できないことをいいことに、
>それを逆手にとって真>理のように語っている」のがカルト理論であるという意味です。

ハッサン述べるところの「カルトは証明できない教義によって成り立っている」という“教義”(doctrine)
は、いわゆる教義(教え)の内容に対しての言及であり、限定された条件による史学的ないし文献学的論証
に限られたことではないと考えます。
極論ですが、独歩さんの言葉を借りるならば、世にあまたある宗教の教義はすべて「証明できないことを、
さも証明できることとして論じ」「証明できないことをいいことに、それを逆手にとって真理のように
語っている」と言えるのではないかと。その是非、その意図的であるかどうかは別として。
そこで独歩さんの見解をお聞きしてみたかったわけです。独歩さんを決して批判するつもりではありません。 

宗教の教義は科学のように合理的論証によって証明されるものではなく、信者も、教義そのものに証明を
求めてはいない、というのが現実ではないでしょうか。そこにカルト付け入るる隙もあるのでしょう。
現在、カルトに対しては世界共通認識としての定義が定まっておらず、ハッサンのカルト定義をそのまま
鵜呑みにし、文節を取り出してそれにあて嵌めることにのみ熱心である傾向を随所で見かけているのですが、
それに少々抵抗を感じておりました。それで、先のぶしつけな質問になった次第です。

独歩さん、飛び入りトピずれにお相手して頂きましてありがとうございました。

400困ったという字:2003/01/20(月) 21:32
つぶやきスレッドということなので挨拶は省略させてもらいます

今里サン、過去ログをしっかり読んでから書き込むようにしなさいな。
本仏論も血脈論も本尊論も、あなたは過去ログをなにひとつまともに読んでいないとしか思えないよ。
あなたの書き込みに真摯さを感じているロム者はほとんどいないんじゃないかな。

過去ログというのは、基礎的な知識、ということなんですよ。
あなたの発言は俗にいう「唐人の寝言」以下に思えます。
あなたの書き込みを読んでいると、あなたの信じている宗教はなんと無力な宗教だろうという気がします。

この掲示板は宗教ゴッコの場ではありません。
もちろん自分の信仰を宣伝したり勧誘したり押し付けたりする場でもありません。


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