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つぶやきすれっど2

1管理者:2002/12/15(日) 15:25

つぶやきすれっどが、1000レスを越えて、使えなくなりましたので、新たに、つぶやきすれっど2を立ち上げました。よろしくお願いいたします。

何となく、普段からフツフツと感じている事を、ここに書き込んでみて下さい。
このスレッドは、独り言、ボヤキですから、会話、議論の応酬は避けましょう!
本音、弱根を、思う存分サラしてみましょう!

116モモ:2002/12/26(木) 01:11
犀角独歩さん:

>ところで、たびたび「ロム者」という言葉が出てきますが、このロム者には、五月雨さん、私は入らないのですか。

「掲示板を閲覧している第三者」という程の意味です。

>> 正直いいますが私もこのレスに対し「なんなんだこれは」と思ったのです。どういうことか様子を見るためにも黙っていたまでです。「特定の個人」が組織のトップではなく、他のロム者と取られても仕方ないでしょう。一方的に分かったような言い方はいかがでしょうか。
>という部分の「このレス」は私の「好い子ぶり」発言を指すのですか。

違います。3の「特定の個人の顔色…」のレスを指します。故にこの部分は私が独歩さんに向けた言葉ではないので、それ以下の質問は意味をなさないと考えます。
「一方的に分かったような言い方はいかがでしょうか」とは100のレスで直前に引用したレスを指します。
また私が失礼に感じたのは信仰歴を云々して相手をさげすむような表現です。「まだ信心三年」「甘いなぁ」「信仰歴の浅い」「信仰歴は浅い」などのような言辞は差別的だと考えます。

>当事者間の問題は当事者で、を原則にしてすることが問題は明快になります。これは他のロムの方にもお願いをしておきたいと思います。

という意見には賛成です。私が問題視しているのは当事者間の問題に、一方をかばい一方をさげすむようなレスが入ったことです。
蒸し返した張本人のレスはまさしく88のレスです。私はそれを問題視しているのです。実に無礼なことです。

>それと、もう一点、最近で言えば、アネモネさん、私は、あなたの「二元論」発言に対して、質問しているわけです。

すぐさま追って投稿させていただきます。よろしくお願いします。

117アネモネ:2002/12/26(木) 02:08
富士桜さん

今回、個人的感情にせよ、あれだけのレスを書き込むそのパワーはすごいものがあったなと、ある意味で感心してみていました。確かに第三者にとっては不快な内容もあったのかもしれませんが、そんなことより公開の場を使ってでも訴えたい自分の内なる思いをみつめる良い機会だったのではないでしょうか。少なくとも、人の目を気にせず、体当たりなさっていた印象です。
確かに掲示板は荒れたかもしれませんが、荒らしただけの発見もまた、第三者も含めてそれぞれにあったかもしれませんね。
掲示板のルールに明文化できるものではありませんが、私の中では、そういうのも有りだと思っています。人間同士のことなんですから、感情の行き違いはありますね。それをはっきりさせることも、ときには大事だと思います。
まずは直接のお電話で、意思の疎通をはかられたこと、本当に良かったです。今後また直接お会いになって、膝を交えて話をなされば、さらに新しい発見もあることとお察しします。これからも自分の思いや考えを、どんどん綴っていかれますように。

118sat:2002/12/26(木) 06:38

犀角独歩さん:

亀レスになりました

>懐かしいなと。

心情的にとてもよくわかるような気がします(笑)私はいまだ創価学会員ですから。


> 攻撃を一種のカタルシスとして見れば> この点を、もう少し、補足いただけませんか。

人の攻撃性を規定する因子としては、人が「言語」と「記憶」をもち自らの歴史性を担う精神的存在であることを考慮しなければならないと思います。集約すれば、①同一視、②投射、③記憶の三点かと思います。

①の同一視ですが、これは人は他者の苦痛を感じることができるという意味で書きました。サディスティックな感情は人特有の感情であり、同一視の典型かと思います。

②の投射ですが、これは自分の内的攻撃性を他者に投影し、自分の防衛のために他者を攻撃するということになります。これは犀角独歩さんのご指摘にある集団現象としての魔女狩りにも当てはまるのではないでしょうか。

③の記憶ですが、人は過去を現在に持ち込む記憶能力がありますよね。八つ当たり take it out on の it は慢性的なフラストレーション・憎悪・復讐心・執念を指すとも言われているようです。

攻撃を①衝動的攻撃と②計画的攻撃に分けて考える人もいるようです。衝動的攻撃は抑制と抑圧能力減退によって起こるものであり、最小の契機で衝動の爆発の起こる状態を「攻撃性失禁」と称しているようです。それに比較して「計画的攻撃」は、投射によって起こり、決意と実行の間にはある一定の時間を必要とします。これが人特有の攻撃パターンだろうと思います。

或いは、子供などを見ていますと、その攻撃性は外界の人や物に向けられているのをよく目にします。「甘えの構造」の中で、依存欲求の転移性攻撃といったことを前述しましたが、攻撃性を自己に内在する不安からの脱却とか、自己充足的な活動とみなした場合、こういったことと関連してくるのではないかと思います。

攻撃は当然相手の報復の危険をもたらすのでしょうが、報復に対する不安から攻撃が一層激烈で容赦ないものとなる悪循環が成立してくるようにも感じます。これも多分、人のもつ記憶・同一視・投射からくるのではないでしょうか。

「人は山の中で孤独になるのではなく、群集の中で孤独になるのだ」といった言葉がありますが、他と関わりなく孤立存在することは、個人にとって耐え難いものがあり、また集団にとっても、継続的に存続維持することそのものが不可能だろうと思います。集団が集団足りうるためには、組織規範と外界規範といったダブルスタンダードにおいて外界に向かって攻撃を仕掛けていくことがカタルシスにつながっていくということにもなるのでしょうか。カルトがカルトたる所以は、そういったところにもあるような気もします。

集団間の葛藤に問題を転じますと、比較的固定した支配的序列が、新しい異質な侵入者によって、結果的に集団内のシステム崩壊につながっていくといった前兆段階において、攻撃性の亢進や触発が起きるということかもしれません。外界に向かって・・

119モモ:2002/12/26(木) 09:09
犀角独歩さん、アネモネさん

>> 二元論で考えることは有効な思考方法であると同時に危険が伴う場合があると思います。

アネモネさん>私もこの発言は意味がとれないのですが、私の前のレスの説明が二元論だということなのでしょうか。

そうではなくて、一般論として「信じる、信じない人の理論」という二元論があるということです。そして

独歩さん>これは至極当たり前のことでしょう。
独歩さん>さらに言えば、二元論で考えるか・考えないのかという二元論もまたあるわけですね。

という意見もあります。

独歩さん>それは私の意見として、このモモさんの2行が、どうして、私の質問の「差別という語に敏感に反応する」の答えになっているのかが、わからないのです。
独歩さん>ちょっと、補足してもらえませんか。

私は「信じる人の理論」「信じない人の理論」を相対的に考えているということです。

独歩さん>石山教義の差別性、しかし、よく考える必要があるのは事実ですね。
独歩さん>「信じない人の理論」を無視する信じている人の論理を「独善」と呼ぶのだと、私は思います。独り善がりの社会から乖離した独善主義、しかし、そういう人から見ると世間のほうが独善と見える、この180度の見解の相違がどこから生まれるのか、よくよく考えてみる必要があると思うわけです。

「信じない人の論理」を無視する信じている人の論理であれば差別ですが、信じている人の理論と相対的に信じていない人の理論を考えることは有効だと私は考えるからです。
故に「信じない人の理論」という言葉を即、差別ととるのはいかがなことでしょうか、と思ったのです。ここの独歩さんのレスに信じる、信じないの考え方が明瞭、簡潔に示されていると思います。

120アネモネ:2002/12/26(木) 09:46
モモさん

たぶん、まだ私の言っていることが理解されていない気がします。
もう一度、自分の言葉と私の言葉をよく考えてみて下さい。
「アネモネさんの言っていることは、信じてない人の言葉だと思います」
言葉は正確ではないかもしれませんが、そのようなニュアンスのことをモモさんは私に言ったわけですね。これは掲示板でも自ら認められたことでした。
この言葉の持つ意味が「信じる人、信じない人」という二元論的発想なのではないでしょうか。自分を信じる人とみなし、私を信じない人とみなした二元論です。
一方、私は、「信じる、信じない」は内心の問題であって、本当のところは誰も立ち入れない話だと言ったわけです。この人は信じる人、この人は信じない人などと、安易に他人が選別できることではないと言っているわけです。そんなことを意識するなと。「信じる人の言葉、信じない人の言葉」と人を分けて考えたりしないで、まっすぐ教義を検証すべきだと言っているのです。それは、石山が指導している内容とは違っているからモモさんには馴染めないことかもしれませんが、石山の指導が二元論的思考であるということは、気がついておられますか?
私の言っていることのほうが相対的なのではないでしょうか。モモさんが、私も含めて信じていないとみなす人の言葉、どことなく肝心なところを都合よく聞き流しているのではないかと、感じるときがあります。掲示板の書き込みを通しても、モモさんが人の話を相対的に捉えているとはなかなか思えないというのが、率直な感想です。

>「信じない人の論理」を無視する信じている人の論理であれば差別ですが、信じている人の理論と相対的に信じていない人の理論を考えることは有効だと私は考えるからです。

モモさんはまだ私の言っていることが理解できてないようです。私に対して、「信じてない人」となぜレッテルを貼るのでしょう。それが差別だといっているわけです。石山の理論から言えばそういうことではないでしょうか。百歩譲って、モモさんには石山流の差別の気持ちはないとしても、私としては、私がここに書くことも含めて、モモさんに話すことも、「信じてない人の話」とレッテルを貼られることは不本意なわけですね。差別された気分にもなるわけです。それこそモモさんが五月雨さんに発していた言葉ではありませんが、私の心の内の何がわかるのでしょう?といったところです。
「信じていない人の論理」とレッテルを貼ることが、二元論的であり、差別思想にもつながる考え方ということ、もう一度考えてみて下さい。
相対的に考えようと思うのであれば、自分の尺度で人にレッテルを貼らないことだと思います。

>ここの独歩さんのレスに信じる、信じないの考え方が明瞭、簡潔に示されていると思います。

この独歩さんのレスは、重要なひとつの問題提起ではむないでしょうか。モモさんも信仰者として、このレスに納得するだけではなくて、このことを真剣に考える必要がかるのではないかと思います。
ちなみに私は、この問題提起は非常に重要なことだと思い、>95で現時点での考えをまとめております。

121sat:2002/12/26(木) 11:12

二元論、或いは「信じない人の論理」VS「信じない人の論理」といったお話が進んでいますが、

素朴な質問ですが・・

仏教(極めて曖昧な表現ですが)を、①合理的な思惟として見ていくのか、②認識論として見ていくのか、③哲学等諸学全般の中で見ていくのか、④救済原理として見ていくのか、⑤自身の信仰という次元で見ていくのか、⑥はたまた別の視点で見ていくのか・・・で、ベースとなる議論や考え方や解釈や方向性も違ってくるのではないかと思いますが、掲示板の趣旨に沿えば一体どこに戻っていけばいいのでしょうか?

話題に即していなかったら無視してください。

122sat:2002/12/26(木) 11:33

間違い:二元論、或いは「信じない人の論理」VS「信じない人の論理」といったお話が進んでいますが、
修正:二元論、或いは「信じる人の論理」VS「信じない人の論理」といったお話が進んでいますが、

すみません

123犀角独歩:2002/12/26(木) 12:36

富士桜さん:

昨晩はお電話、有り難うございます。
ちょっと、打ち合わせ中でゆっくりとお話ができずに残念でしたが、近いうちに必ずお会いしましょう。

今回の件は私の「好い子」発言に就き、周囲からの不満が上がったことに、大きな原因があったのでしょう。この点を私は率直に認め、反省し、謝罪の意を表します。

しかし、このような私の投稿に対して、誠実なメールを下さったことには「オフ会開催案内」328で既に謝辞を述べたとおりです。

私は「議論は常に生産的であれ」と思っています。
ですから、意見の相違もまた、生産の助とできれば、過去の経緯がどうであれ、良い結果として生かせるのが議論であると思います。

> これを機にここを立ち去る事、これこそ独歩さんの意に反する事と思いますので、今後も書き込まさせてもらいたい意志がある事を明記させて頂きます

ええ、そのとおりです。
寛大な管理人さんもそれを望んでおいでであろうと拝察します。

議論は分かれ去るためにあってはならないものですね。繰り返しますが「議論は常に生産的であれ」ですね。

では、再会を楽しみにしております。また、投稿を期待しています。

124犀角独歩:2002/12/26(木) 12:38

無徳さん:

ご無沙汰しています。
ご投稿の内容、よく噛み締めさせていただこうと思います。
有り難うございました。

125犀角独歩:2002/12/26(木) 12:42

> 118 satさん:

解説、有り難うございます。
たいへんに整理されていて、参考になりました。

126犀角独歩:2002/12/26(木) 14:20

モモさん:

信・不信ということ、私は、これは二元論ではなく、二極論、より正確に言えば、二極思考という視点で考えなければならない問題であると思います。

辞典に拠れば

にげん 【二元】
事物が異なる二つの原理で成っていること。また、その原理。「物心―の哲学」

とあり、けれど、「二極」という成句は載らず、「極」は

きょく 【極】
(1)物事のそれ以上行く先のない最後。きわまり。きわみ。果て。極限。

という意味を持つとのことでした。
この意味からすれば、モモさんがいう「信じる人・信じない人」という観点は、二元論ではなく二極論になっていませんか。

私は仏教に言われる信・不信は元来、移り変わり、定まらない心的状態を、いちおう二つに分けて信を目標とするのでしょう。そして、完全な信の状態は、ほぼ成仏・記別と同義に扱うのが法華経ではないでしょうか。

蓮祖にしても、彼の『開目抄』における自問自答のなかに於いても、「我が身法華経の行者にあらざるか。此の疑ひは此の書の肝心、一期の大事なれば、処々にこれをかく上、疑ひを強くして答へをかまうべし」と、厳しく論を構えるほどなのであって、その700年後の我らが容易に「私は信じている」などという事自体、まあ、モモさんの言葉を使えば、蓮祖に対して「失礼」に当たるでしょう。

そして、ここで重要な点は、この記述において「信」の対語に日蓮が置くのは不信ではなく、「疑」です。そして、「疑ひを強くして答へをかまう」というのです。

この信・疑の対句関係は、聖人の特質ではなくて、天台已来の系譜です。
例えば、玄義には「斷大“疑”生大“信”」と言う如く、また「動執正“疑”」に「断疑生“信”」という如くです。

そもそも石山教学では、真偽未決の『教行証御書』を採り、その下種の特性を金剛宝器戒というのです。「此の具足の妙戒は一度持って後、行者破らんとすれども破れず」という一文をもって、受戒を説明します。ここで、一度、受戒をした者を「信じない者の論理」と排斥することはできないことになるわけです。信・不信は証悟に至る道程なのであって、その課程において、信・不信のレッテルを貼ることは、私は実に相手に対してというより、何より教化の師・日蓮に対して、実に「失礼」なことに当たるでしょう。何故ならば、下種の衆生を皆成仏をするというのが、少なくとも石山義で言う日蓮の教えであるからです。

石山義では真偽未決の『経王殿御返事』の「日蓮に怨(あだ)をなせし人々は、先(ま)づ必ず無間(むけん)地獄に堕ちて無量劫の後に日蓮の弟子と成って成仏すべし」という一節を採って、文句記の因謗堕悪・必因得益、所謂、毒鼓の縁に充て、本仏の種熟脱の長遠の師弟関係を宣べることを詮とします。これらの定石がモモさんは「自分を石山を信じる人の理論」といいながらまったく考慮されていない点で、石山義、日蓮義、妙楽義、天台義に至っていない見受けざるを得ないわけです。

更に言えば、私はモモさん「信じない人の理論」という一節を読んで直ちに想起したのは、石山教学、日蓮教学でも、仏教でもなく、キリスト教です。「唯一絶対・全知全能の神を信じなさない」「信じる者は救われる」、そして、この神は証明することができない故に正しいというキリスト教の神学系譜です。

この点は、しかし、モモさん独りの問題ではなく、日本仏教全体が抱える問題点です。西欧化のなかで、仏教の根本仏をキリスト教の全知全能の神の如くに見立てる傾向が、近代、強く起こり、その解釈を日蓮の考えであると誤謬され現在に至っています。この点は、むしろ、みかんさんがお詳しいところでしょう。

キリスト教の信は何もわからなくても成立しますが、日蓮が言う信は、常に「疑」の克服の上に成り立っています。その意味から、私から見ると、モモさんの言う「信じる人の理論」は日蓮的ではなくて、キリスト的であると思えるわけです。

あと、「失礼、失礼」を連発する前に、自分が相手に対して、失礼に当たらないのかを少し考えてみる余地があるのではないでしょうか。私から見る限り、モモさんの対応は実に失礼なものになっていると映じます。

127みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2002/12/26(木) 14:59
信について。

わたしは漢文仏典を読む機会が多少ありましたが、その際に引っかかったのが「信」という感じの意味でした。これは現代日本語の信じるとは違う意味なのではないかとずっと考えていました。そうでないと理解できない用例が多いからです。

漢文仏典で使用される「信」ということばは、信・疑、信・不信が対になったことばではありません。もし宗教団体の信者が自分が信仰している、信じているとういことを「信」だと思うので有ればそれは誤りです。その人は「信」を得ていません。
宗教の信者の信は相対的なモノであり、自分は絶対の確信を抱いている、この信は揺らぐことはないと今は思っていても、機縁さえあれば容易になくなってしまうモノです。

わたしが漢文仏典で見てきた「信」とは全く別のことです。それは慧眼を開くことによって、法、世界のありさまを知り、それを疑いようがなくなることです。
法を慧眼で見、知るということは、事実を事実として体験したということですから、それは揺らぐことがありません。それはのどが渇いたら水を飲むとか、眠くなったら寝るというのと同じぐらい当たり前のことです。「のどが渇いたら水を飲む」ということを信じる人などいません。それはナンセンスです。それは事実として誰でも知っていることです。そのような有りようが、仏教における「信」の意味です。そして「信」を得ているのは慧眼を一分でも開いた者のみです。

128みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2002/12/26(木) 15:04
×感じ
○漢字

ですね。

余談ですが、レッド・ツェッペリンのStairway to Heaven の最後の[When all is one and one is all, to be a rock not to roll.]
(全てが一であり、一が全てであるとき、巌のように確かな物となり、揺らぐことはない)という神秘主義的表現は、そういう「信」であるのだろうなと思っています。

129みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2002/12/26(木) 15:09
127を書いた後で、独歩さんの126を読みましたが、126の内容と私の127は矛盾しませんので念のため。

仏教(特に禅宗)では「疑団」ということを大事にします。疑団がなければ菩提心もないし、「信」も起こらないわけです。一切の懐疑を超えて疑い得ない事実それが、真如や実相や法と呼ばれる物です。その法を知ることが「信」です。

130犀角独歩:2002/12/26(木) 19:15

> 漢文仏典…「信」…慧眼を開くことによって、法、世界のありさまを知り、それを疑いようがなくなること
> 一切の懐疑を超えて疑い得ない事実それが、真如や実相や法と呼ばれる物です。その法を知ることが「信」

こう記されると、ようやくと仏教で言う「信」が見えてきます。

これに反して、現在、言われるような「絶対的信仰」のようなものは、外来思想で変形したものであると見ることを私は指示します。

以前、これらの点について、バカバットギータのバクティ(誠信)思想の影響であるという岩本裕師の説を紹介したことがあったのですが、特に浄土系の人に反発を受けた記憶があります。

一部、紹介すると、

「バクティ
 =誠信。バクティとはある特定の神への絶対的帰依を意味する」『極楽と地獄』

「バクティー(誠信)を説くバーガヴァタ教の信仰が西北インドに盛んに行われていた。……仏教ともバーガヴァタ派とも関係の深いヨーガは哲学の基本経典の『ヨーガ=スートラ』はおよそ西暦300年頃に編述されたと考えられているが、この経典の始めにプラニダーナという語がバクティと同じ意味に用いられている。これは明らかに自力的なプラニダーナが他力的なバクティに解釈し直されたことを意味しており、当時の西北インドにおける宗教思想を示すものと言わねばならぬ」『布施と救済』

この点についてはたしか、ワラシナさんが「信」の起源を仏典に探り、興味深い論考をまとめていたと記憶します。みかんさん、ご存じありませんか。ご本人がロムしてくださっていたら、是非ご紹介いただければ参考になるのですが。

「バクティ(仏教への影響)
 バクティ思想が水のみなぎりさかまくように西北インド方面の宗教界に渦巻いていたことを示し、自力的な菩薩行をモットーとする仏教徒もこれを無視することができなくなり、自らの教説の中に採り入れて、理論的調和をはからざるをえなかったことを示すといわねばならぬ」極楽と地獄』

ところで、岩本師は、このバクティが浄土思想の「信」に強い影響を与え、仏教からかけ離れた恩寵説の信仰を生じさせたとも指摘するわけです。

「称名念仏ということは、仏の恩寵を懇請することであり、バクティと同じ宗教的態度である」(同)

「ヒンドゥー経のバクティ(誠信)思想が仏教に受容されて本願思想が展開し、これが大乗仏教の菩薩思想と結合し、さらに西アジア方面の宗教思想(救済)の理念を受容して、阿弥陀仏と極楽の信仰があらわれた」『布施と救済』

というわけです。しかし、浄土系の学者は恩寵説、本願思想、それよりなにより、阿弥陀如来が仏教から生まれたものであるという見解なので、この点に否定的になるわけです。シンクレティズムを否定する理由が私にはわかりません。

オウムで知られるバクティ(ヨーガ)の起源をバカバットギータに求める緒論です。
すぐ見てわかるとおり、これらのバクティに係る信の有様はみかんさんがご紹介くださったところとは違い、実にキリスト教的です。キリスト教の信の様態はバカバットギータに言うバクティ(誠信)、あるいは浄土教と強い親和性があるように見えます。

「念仏しようという善意志と信心とは全くアミダ仏の恩寵の賜物
この思想は明らかにキリスト教の恩寵説と全く同じであり、アウグスティヌス(354−430)の言葉を借りれば「恩寵の賜物」Gratuitum donum「神の恩恵的な恩寵」Gratia Dei gratuitaであり、したがって「恩寵が功徳を与えるのであって功徳によってそれが与えられるのではない」Gratia dat merita, non meritis daturということである」『極楽と地獄

と岩本師は指摘します。

さらに中国では、キリスト教の流伝は、既に貞観9年(635年)で確認できるというので、天台から時を経ず、恩寵説の信は仏教にも影響を与えはじめたと見てよい気もします。

「信」の意味も、再考してみる必要があろうかと思われますね。

131犀角独歩:2002/12/26(木) 23:41

モモさん:

「失礼」だと、何度か、私は書いたけれど、若いあなたのこと、気にもしていないかも知れないけれど、鷹揚に構えて、自在にレスしてください。
誤解なきよう、私はそんなに個人のそのものには批判的ではありませんから。
集団には厳しいけれどもね(笑)
まあ、レスを楽しみにしていますよ。

132無徳:2002/12/27(金) 00:37
独歩さん今晩は:

 こちらこそご無沙汰しました。仕事に追いまくられ精神的にも余裕を失って
いました。まだまだ、修行が足りませんですね反省していますがこれも我が力
量のしからしむ故かも知れません。

 独歩さんのご活躍には本当に頭が下がる思いです。ただ、私も独歩さんもこ
れまでは解体作業を主に成して来たのではないかと思います。

 ただ、私は力量の不足の故に、自らの心的領域に住む共同幻想の解体に追わ
れていましたが、独歩さんは一歩先んじて大きな組織との対決の中で共同幻想
の解体を担ってこられたものと思います。

 創価学会や法華講更には顕正会と、まさに共同幻想を紡ぎだす巣窟との対決
でしたね、しかし、最近私は年齢的に先が見えてまいりました故か解体作業だ
けでは気が済まなくなってまいりました。

 残された人生を建設的な作業に振り向けたい衝動に駆られます。もちろん新
たな建設のためにはまずは解体作業が不可欠ではありますが、いつまでも強大
な組織や絶対者との対決を試みても空しく感じるのは私だけでしょうか?

 この掲示板の目指すコンセプトも富士門流の再構築では有りませんでしょう
か?問答迷人さんのご意見を賜りたいと存じます。

 なんとしても、この目の黒いうちに新たな日蓮仏法の燭光を見ずして旅立つ
のは口惜しい気が致します。むろん、私如きが出来うる事は限られたものと自
覚してはおりますが、独歩さんや更には様々な形でこの掲示板に集う方々と共
に草の根的に共同戦線を張れたらと思わずにはおれません。

 特に私より一回りもお若い独歩さんであれば成し得る領域は大変広く、また
その力量も十分に備わっておられると確信いたします。かってに期待や確信を
されても迷惑とは思いますが、おそらく、誰かが成さねばならない使命を持っ
ていることで有りましょう、私も出来うる範囲でその使命の一端を担えれば幸
いと思っております。

 来年は私にとって6回目の未年です。つまり、還暦というわけであります。
新しい年に向かっての決意表明みたいな投稿になってしまいましたが、皆様に
とっても縁り良き建設的な未年となられることを祈りつつ筆を置かせていただ
きます。おやすみなさい!

133今里祐二:2002/12/27(金) 02:48
独歩さんへ

>漢文仏典…「信」…慧眼を開くことによって、法、世界のありさまを知り、それを疑いようがなくなること
> 一切の懐疑を超えて疑い得ない事実それが、真如や実相や法と呼ばれる物です。その法を知ることが「信」

「慧眼を開くことによって、……」か、素敵な言葉ですね。

僕自身は、御書の中で当たり前のように語られている「輪廻転生」ということと、
石田次男さんや福島源次郎さんを通じて教えていただいた「無我」ということ、
この二つを「同時」に理解することが出来ず、ずーっとそこに引っかかっていたのですが、
ある日、ふっと「別に、解らなくても良いんじゃない」と思うことが出来て、
それ以降は仏法に対しての迷いはほとんどなくなったような気がします。(気のせいかも…(^^:

理解したい、あるいは理解出来るはずだ……といった執着から離れた時、
慧眼を開くことが出来た……な〜んて言ったら増上慢かな(^^;

僕の理解した一念三千では、大聖人様が自受用報身如来様でないと困るので、
独歩さんが主張されている

>日蓮は一介の僧侶であり、本仏でもなければ、上行菩薩でもない、一人の人間である

という考えは、おそらく一生受け入れることは出来ないでしょうが、
独歩さんの広大な知識をベースにしたカキコにはいつも勉強させていただいています。

ではでは。

http://www.hm5.aitai.ne.jp/~imachan/index.html

134モモ:2002/12/27(金) 04:57
アネモネさん、レス拝見しました。

「アネモネさんの言っていることは、信じてない人の言葉だと思います」
というような発言は撤回し、おわびいたします。もとより「レッテルを貼る」つもりはなかったのですが…。
申し訳ありませんでした。

135アネモネ:2002/12/27(金) 09:14
モモさん

今回は逆に、私の語気の強いレスが、モモさんを傷つけたかもしれませんね。モモさんがレッテルを貼るつもりはなかったこと、わかっています。
独歩さんの126のレスを読んで、私がなぜこの「信じていない人」という言葉に敏感に反応してしまうのか、その理由は恐らく、私自身がキリスト教を経験しているからなのだろうと、新たな自己分析を得ました。
もともと私はモモさん自身のことを非難しているわけではないです。「信じていない人の言葉」とその言葉に神経質に反応したからといって、逆にモモさんに対して偏見を持っているわけではないですから、気にしないでください。
ただ、刷り込まれた考え方そのものを、この掲示板を通して考え直してみてもらいたかったのです。それを伝えたくて、オフ会の3次会のときから続けて、多少語気も強くなりました。そして、やっとこの問題に向き合ってくれたのでは、という感触を得た気がします。
モモさんが自分の名誉のために反論してくれたことで、独歩さんやみかんさんから、仏教における「信」の本当の意味、本当の捉え方を示していただき、かえって良い方向を得たと思います。
あまりに当たり前に使っている言葉というのは、ほとんどの人がそのまま疑問に持つことなく、考えなおしてみることもなく、やり過ごしているものですが、実はそこに非常に重要な、ある意味で根源的ことが潜んでいるものなのかもしれませんね。
私にとっても大変勉強になりました。

136sat:2002/12/27(金) 11:22

懐疑とは本来、「うかがう」「正確に調べる」「求める」「探る」などを意味していたようです。その意味から考えますと、懐疑によって求められているのは懐疑ではなく真理であるということになりますでしょうか。懐疑が払拭されない限り、探求は続くのだから徹底的に懐疑家であるべきだと・・

一方で、信は疑を生みだし、疑いは信を深めていく・・その往還において理性は有効ではあるが、理性によって絶対的な信に到達するものでもないと・・

絶対的な信(表現が適切かどうかわかりませんが)に到達した後に来るものは何でしょうか?心の平安なのでしょうか?誓願なのでしょうか?救済なのでしょうか?それとも?


無徳さんの「解体から再構築へ」との示唆は大変共感いたします。

137問答迷人:2002/12/27(金) 12:09

無徳さん

>この掲示板の目指すコンセプトも富士門流の再構築では有りませんでしょうか?問答迷人さんのご意見を賜りたいと存じます。

仰るとおりです。当初は、富士門流と言うものの、実際は大石寺門流の再構築を目指して出発しましたが、現在は、掲示板のコンセプトは結果的に拡大され、文字通り、北山本門寺、西山本門寺、保田妙本寺を含む、富士門流の再構築を目指す事となったと思っています。

138犀角独歩:2002/12/27(金) 13:35

無徳さん:

有り難うございます。
また、お会いし、お話ができればと思っております。
そうですか、無徳さんは未年でいらっしゃいますか。
還暦といえども、あと20年はばりばりと共同幻想を壊していただかなくては。
20年プラスすると顕師の年齢です(笑)

139犀角独歩:2002/12/27(金) 13:36

今里祐二さん:

> 「輪廻転生」…「無我」

考えるのをやめるには勿体ないテーマです。
私の好きな御遺文

「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇(いとま)を止めて之を案ぜよ。一生空しく過ごして万歳悔(く)ゆること勿(なか)れ」

> 石田次男さんや福島源次郎さん

懐かしい名前ですね。石田さんの『現代諸学と仏法』、5回は読み直しました。
内外相対で畢え、残りは宿題でしたね。
福島さんは、よく池袋の勉強会に参加したものでした。文句も付けましたが(笑)
『蘇生の選択』もあの当時は新鮮に感じたものでした。
お二方とも、生命論批判と四句分別を論ったことは有意義であったと思います。
その残りのほうがはるかに多いのですが。

> 慧眼を開くことが出来た

ならば、羨ましい。

> 一念三千…大聖人様…自受用報身如来様でないと困る

これは中世以降の秘密荘厳論的理解なのでしょうね。
『就註法華經口傳』に闡明な

「第廿二 自我偈始終(しじゅう)の事
 御義口伝に云はく、自とは始めなり、速成就仏身の身とは終はりなり、始終自身なり。中の文字は受用なり。仍(よ)って自我偈は自受用身なり。法界を自身と開き、法界自受用身なれば自我偈に非ずと云ふ事無し。自受用身(ほしいままにうけもちいるみ)とは一念三千なり。伝教の云はく、一念三千即自受用身、自受用身とは尊形を出でたる仏と。出尊形仏(しゅっそんぎょうぶつ)とは無作の三身と云ふ事なり云云。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者是なり云云」

というところでしょう。
さらに恵心流の伝に、天台勝釈迦劣・止観唱法華劣が日蓮勝釈迦劣・題目勝法華劣に解釈し直され、さらに寛師においては日蓮・釈迦を名異体同と決するに至り、さらに人法体一にまでまとめた日蓮本仏論、中世の系譜ですね。これが本当に日蓮自身の教えであればよかったと、私も思います。そうすれば、こんなに苦しまずに済みました(苦)

>> 日蓮は一介の僧侶であり、本仏でもなければ、上行菩薩でもない、一人の人間である
> という考えは、おそらく一生受け入れることは出来ないでしょうが、

まあ、そう決めつけないことです。『立正安国論』に

「人の心は時に随って移り、物の性は境に依って改まる。譬へば猶(なお)水中の月の波に動き、陣前(じんぜん)の軍(いくさ)の剣(つるぎ)に靡(なび)くがごとし」

と言われる如きです。

> 独歩さんの広大な知識…

いやいや、そんなことをお書きいただいては他のロムの方に嗤われます。

お会いできることがあるかも知れません。その時はまた、ゆっくり語らいましょう。

140犀角独歩:2002/12/27(金) 14:04

satさん:

横から失礼します。

> 信は疑を生みだし、疑いは信を深めていく・・その往還において理性は有効ではあるが、理性によって絶対的な信に到達するものでもないと・・

ここで「理性」を挟むところにオリジナリティを感じます。

仰るとおり、理性で信に到達するのではなく、到達させるのは「行」であるというのが仏道なのでしょうね。となれば、信疑の往還は学でしょうか。掲示板では表しがたい部分ですね。

141sat:2002/12/27(金) 14:46

犀角独歩さん:

ご示唆いただいた「行」とはどのように理解していけば宜しいのでしょうか?
①関与と、②定型化でしょうか?

142犀角独歩:2002/12/27(金) 14:56


satさん:

いやいや、そんな深い意味で申し上げたわけではないんですよ。
また、私がそうであると思っているというより、信行学の設定というのは、そんな形になっているのであろうと、その程度のことです。

ところがこの行の問題は、ご承知のとおり、トランス、忘我、乖離などと言われる精神病理に抵触する問題と背中合わせですね。実は悩んできたところなのです。
satさんは、いわゆる「仏道修行」の行は、どんなふうに考えていらっしゃいますか。
自分の管見を述べず、質問申し上げて恐縮です。

143sat:2002/12/27(金) 15:51

犀角独歩さん:

信に至る「行」とは何か・・

正直いって、どこから絞りこんでいけばいいのか・・私にはとても難しいです。
皆様のご意見をお聞かせいただければ・・というのが偽らざるところです。

人の持つレセプター(生理学的側面や社会的関与側面)を外して、孤独な沈思黙考の中で真理を求めようとするのではなく、関与や定型化を必要とするのかなあと簡単に考えてしまったのですが・・

ブッダから今日に至るまで、仏教における行の変遷と、その意味付けみたいなものを、一度整理してみたほうがいいかもしれませんね。この辺になると全く私はうといのです。

ご指摘のトランスレーションの問題もありますし、マインドコントロールやカルト問題にも関連してきますし、組織論理を信仰論理にすげ替えている集団信仰の誤謬を考えていく上でも必要かもしれません。また本掲示板の他のスレッドにある本尊とか信仰対象そのものにも関連してきますし・・

すみません、質問の回答にならなくて。

144犀角独歩:2002/12/27(金) 16:16

satさん:

有り難うございます。
要領の良い答えをいただいたら、かえっておかしなことですから、当然のレスと拝見しました。そうなんですよ、ここのところが難しい。

まあ、社会心理学的な言い方をすれば、少し病理から離れても、「個人的リアリティ」に分類されるわけですね、行の実感というのは。

やや横道ですが、薬師如来、薬王菩薩なんていう「薬」に関する仏菩薩は仏教にはありますね。法華経でもありますし、さらに良医の譬えもあります。たぶん、これは仏教集団のなかでは日常的に薬物…、まあ薬草その他であったでしょうが、使用されていたことを物語っていると思います。また、例えば歌というのも当然、精神作用はありますでしょうね。

ここら辺を整理しないと、仏教は社会的認知を受けようもないという思いが実は私にはあるわけです。悩みますね。

145sat:2002/12/27(金) 17:07

犀角独歩さん:

こちらこそ有難うございます。
本掲示板は「気づき」の世界でもありますね。

146今里祐二:2002/12/27(金) 17:33
独歩さんへ、レスありがとうございました。

>>「輪廻転生」…「無我」

>考えるのをやめるには勿体ないテーマです。

考えを止めた、というよりも、
理解できなくても、そのことを不安に感じることが無くなった、といった感じです。

例えが適当かどうか判りませんが、光には「粒」という性質と「波」という性質があることが広く知られています。しかし、「粒」という性質と「波」という性質は物理的にはまったく異質の事態です。
そして、光が「粒」として観測されるか「波」として観測されるかは観測者(観測方法)に依存しています。何故そうなるのかは解明されていません。

僕は「輪廻転生」と「無我」もこのような関係ではないかと考えています。

>懐かしい名前ですね。石田さんの『現代諸学と仏法』、5回は読み直しました。

5回はすごいですね。僕は通読は3回ぐらいです。
福島さんから「『現代諸学と仏法』、読んで理解できたかい?」と聞かれて、
「うーん、半分ぐらいは解りました」と答えたら、
「半分も解るとはすごいなぁ」とひやかされました。……今となっては懐かしい思い出です。

>内外相対で畢え、残りは宿題でしたね。

僕は残りの宿題はすべて大聖人様にお任せして、ちゃっかり答えだけ教えてもらうという方法をとりました。
『蒼蝿驥尾に附して万里を渡る』ってやつです。楽でいいですよ(笑)

>お会いできることがあるかも知れません。その時はまた、ゆっくり語らいましょう。

よろしくお願いします。
それと、僕はこれからお正月モードに入るのでしばらくカキコできません。
それでは、よいお年をお迎え下さい。

147犀角独歩:2002/12/27(金) 17:35

satさん:

「気づき」ですか。善い言葉ですね。

前にみかんさんが「信・疑、信・不信が対になったことばではありません」と書かれていましたが、もっともなことであると思うわけです。たしかに天台已来の系譜で信疑は対句に見えますが、これは因果的関係であって対句ではありません。

よく私は言うのですが、自然科学などで疑があった場合、その解から得るものは「知」ですね。これは「覚」と言ってもよい気がします。現代的な言葉で探せば、satさんが書かれた「気づき」かもしれません。ここに信の介在する余地は元来ないのであろうと思ってきました。そう、みかんさんの言葉をまた引けば「のどが渇いたら水を飲む」というような至極当たり前の認識として現前するのでしょう。ただ、そのことに気づけるかどうかですね。

そういえばたしか、いちりんさんが「気づき」で初期経典を説明してくれていたと思いました。その延長にあるこの掲示板も、仰るような気づきの場となれば、たいへんに意義深いものになると思います。

148犀角独歩:2002/12/27(金) 17:42

今里祐二さん:

> それでは、よいお年をお迎え下さい

有り難うございます。
今里さんもよいお年をお迎えください。

149モモ:2002/12/28(土) 05:45
五月雨さん

あれ以来投稿されなくなってしまったようです。相当こたえたことが拝察されます。
私もずいぶんときつい言い方をしてしまって申し訳ありませんでした。
しかし富士桜さんについて五月雨さんが仰るような方ではないことは115のレスをみれば明らかです。
他の方は五月雨さんに物を申すのを遠慮されているようです。批判する人は批判される結果になるゆえ、自分が泥をかぶるのもどうかと思ったのですが、これ以上マナー違反の投稿がエスカレートするようであれば誰かが指摘しなければなりません。
どうか気になさらなず、これからも投稿されてください。よろしくおねがいいたしします。
それでは良いお年をお迎え下さい。

150五月雨:2002/12/28(土) 09:01
モモさん

私が何に相当こたえなければなりませんか?
モモさんのレスを私は微笑ましく読ませて頂いております。私が富士桜さんに宛てたレスに、モモさんの必死の抗弁は私の書いたことが、余程モモさんの気持ちに突き刺さったのかと思っておりました。

>他の方には申し訳ありませんが、ご意見無用にお願いしたいと思います。

独歩さんがこう書かれていますので、私は意見を控えていただけです。
マナー違反の投稿をした記憶もありませんから、これからも投稿させて頂きます。
心優しいご心配を有り難うございました。モモさんも良いお年をお迎えください。
でもその前に、独歩さんにお返事を書く宿題が残っていますね、私も楽しみにしております。頑張って書いて下さい。

151犀角独歩:2002/12/28(土) 09:52

モモさんのマナー違反の指摘というのは偏っているのだよな。
要するに同信の人についてのことは厳しく指摘するのに、“だった人”へのマナー違反には無頓着。

本人は書くのも面倒でしょうから、「だった」私が代わりに書きます……と書いて投稿しようと思ったら、先に書かれていました。まあ、いいか、このまま、投稿します。

五月雨さんに「相当こたえたことが拝察」なんて書いていますが、これは外れです。「自分の子供ぐらいの年齢の青年の言うことだから、まあ、言わせておいて上げましょう」、その程度です。関西弁だと「アホくさ」とでも言うのかな。

富士桜さんを非難していると誤解されては心外なのですが、「3年」じゃ、何もわかりませんよ。わからないと言えるのは3年目の記憶が年食った我々にはあるからです。20年、30年…私は40年いたわけですが…と信仰組織で生きてきた人間からみれば、3年と聞いて、「まだまだ」「甘いな」というのは、むしろ実感のこもった発言であると、私は思います。繰り返しますが、富士桜さんを批判しているのではなく、信仰世界のあくまで一般論です。

「まあ、20年もすれば、あなた方にもわかるかもしれない。しかし、若いあなた方が考える、そんなもんじゃないんだよ」というのは先に生きてきた人間の実感なんですよ。そして、無駄にした時間を、同じように若い人たちに無駄にさせたくないと言う親心は、いつの時代も子供には伝わらないわけです。

「五月雨さんに物を申すのは遠慮」しているのではなくて、そんな大人の分別発言を至極当然のこととしてとらえて、自分も若いときはそうだったなと懐古の一時を過ごしているのですよ。わからないかもしれませんね、若い人には。おまけに信仰上で「である人」は「だった人」には懐疑的になるように組織的に訓練されていますからね。なおさら伝わらないのでしょうね。

「マナー違反にもの申す正しい行い」みたいな自己像を感じるけれど、まるで見当違いをしているんだよな、モモさんは。

私は感情的なマナー違反というのもそれはあると思う。けれど、問われたことに答えもしない在り方こそ、意見を交わす掲示板ではマナー違反であると思うわけだ、そんな意味ではモモさんは実にマナー違反なのだけれど、…あさんとのやりとりなんか特にそうでしたね、もちろん、私の問いかけにも感情的な指摘はあっても答えは少ない…、そんな自分のことは見えないものだよね。

まあ、「だった」側の言葉はスポイルしてしまうだろうけれど、書かないとね。
また、批判だ、失礼だと言われてはかなわないのだけれどもね。伝わらなければ、そんな言葉が返ってくるのでしょう。

152アネモネ:2002/12/28(土) 11:45
モモさん

横から口出しして申し訳ないですが、

>他の方は五月雨さんに物を申すのを遠慮されているようです。批判する人は批判される結果になるゆえ、自分が泥をかぶるのもどうかと思ったのですが、これ以上マナー違反の投稿がエスカレートするようであれば誰かが指摘しなければなりません。

ここのところの五月雨さんに対する、モモさんのレス、>98と>100からよーく読んでみると、なにか、自分の個人的感情を、ロム者の代弁という形で意見されているようですね。どのくらいの数のロム者がいるのかわかりませんが、自分の思いが、ロム者全体の思いと同じであるなんてことあるんでしょうか。それこそ、多くのロム者ひとりひとりの心の内のなにがわかる…といったところではないかと感じます。私なんかも、ロム者のひとりでしたが、モモさんが感じる憤りのようなものは覚えなかったです。

よく、この掲示板でカルトにおける組織の代弁ということが聞かれてきましたが、個人的感想を、集団の言葉の代弁として大きくとらえて発言するモモさんの心理、どこか共通しているのかもしれませんね。
個人的感想は、個人的感想として述べたほうがいいのではないかと、これは私の個人的感想です。

それと、モモさんのいうマナー違反とは、どういうことなのかも、わかりにくいですね。本来、応酬禁止のスレッドですから、私も含めて、ルールを超えたレスをしてしまっているのは確かでしょう。しかし、管理人さんの懐の深さもあって、とりあえずレスは続けられてきました。誰が何を意見するかは基本的には自由ですし、その意見に対して、また誰が何を発言するのかも基本的には自由でしょう。
だけど、モモさんの「失礼、マナー違反」は、何か相手の発言を遮ろうとしている心理が働いてないでしょうか。全くこれは私の個人的印象ですが、解決した話ながら、「信じていない人の言葉」と言ってしまうのと同じ心理的発言ではないかとさえ感じます。
理論の摩り替えと、言論封鎖みたいなものを感じますね。
自分に向けられたレスではないにも関わらず、「失礼、マナー違反」と非常に感情的になってしまう今の心の状態が何に因るものなのか。それを自分自身でみつめてみることが、今のモモさんにとって大事なことではないかと、余計なことながら、私の意見です。

153モモ:2002/12/28(土) 12:16
五月雨さん、犀角独歩さん

レス拝見しました。ああ、そうなんですか、的外れですか、というのが感想です。自分も言いすぎたのではと心配していたのです。
信仰歴はやはり長くなければ分からないものなのでしょうか。私は信仰は子供の時からしているのでほぼ「年齢=信仰歴」となります。私の場合はもう少し世間を知るべきなのだと思います。
私は正宗信者ですが別に吹き込まれた理想像に燃えているわけではありません。御戒壇様には少なくとも何らかの力があると思うし、かといって今の大石寺の状況はいろいろほころびがある、というのも理解しております。

また、そうしたら代々法華も一代法華に対して同じような構図が成り立つと思いますが。彼らは「一代じゃ信仰は分からない」とでも思っていることでしょう。

>私は感情的なマナー違反というのもそれはあると思う。けれど、問われたことに答えもしない在り方こそ、意見を交わす掲示板ではマナー違反であると思うわけだ、そんな意味ではモモさんは実にマナー違反なのだけれど、…あさんとのやりとりなんか特にそうでしたね、もちろん、私の問いかけにも感情的な指摘はあっても答えは少ない…、そんな自分のことは見えないものだよね。

今後気をつけます。

154モモ:2002/12/28(土) 12:29
犀角独歩さん

126のレス拝見しました。二元論と二極論を混同していた感があると思います。

>更に言えば、私はモモさん「信じない人の理論」という一節を読んで直ちに想起したのは、石山教学、日蓮教学でも、仏教でもなく、キリスト教です。「唯一絶対・全知全能の神を信じなさない」「信じる者は救われる」、そして、この神は証明することができない故に正しいというキリスト教の神学系譜です。

キリスト教、というより、理系的な考えの下でそういう事を考えたまでのことです。信じない立場の論理と信じる立場の論理ではお互いかみ合わないのでは、というようなことを考えていたということです。

155モモ:2002/12/28(土) 12:46
アネモネさん

レス拝見しました。ご指摘の点は考えてみます。しかし、先にも申し上げましたが一般論としていうのならともかく、ある意見に対して信仰歴を云々するような表現は拝見していて不快感を感じたまでです。
信仰歴とは相対的なのだから、たとえば「信仰歴○○年のお前に何がわかる」なんて頭から言われたら、誰でも反発したくなると思います。独歩さんの26のレスとも通じるところがあると思うのです。

156アネモネ:2002/12/28(土) 13:18
モモさん

私の推測ですが、五月雨さんや独歩さんは、信心歴(信仰歴)として書いていますが、それは実際のところ「カルト歴」として読めばいいのではないかと思うのです。
つまり三年やそこらでは、石山組織のカルト性はなかなか見抜けるものではないと。
だけど、何十年もどっぷりつかってから気がついたのでは、遅すぎるわけですね。組織を離れることは出来ても精神の脱カルトには、信仰歴の年数だけかかるといわれ、結局人生を棒に振ることになってしまうということを、身をもって体験している者として訴えたかったのではないかと、私には読めました。
そのことを五月雨さんは日頃、痛切に感じているだけに、思わず意見されたのだろうと思います。(五月雨さん、違っていたらごめんなさい)
だけどこのような公の場では、安易に「カルト歴」とは書けない状況もあるわけです。日蓮正宗が「カルト」か否かを断定するような書き方は、慎重でなければならないわけですね。モモさんにとっても、日蓮正宗がカルトだと決め付けられることはまだ抵抗があることと思います。だけど、お寺の中での人間関係などをよく観察していくならば、その傾向性は否めないこと、モモさんも体験してこられたのではないかと思います。
ですから、そこを察して五月雨さんのレスを読めば、「カルト歴20年」の長さは、奢りの言葉などではなく「カルト歴3年」を「甘い」と言うのは、本当の忠告というるものかと思いますよ。語気の強さは、軽蔑などではなくて、訴えたい思いの強さですね。それだけ若い石山信徒のみんなのことを、心配しているのです。

157アネモネ:2002/12/28(土) 13:39
訂正です

誤→精神の脱カルトには、信仰歴の年数だけかかるといわれ、
正→精神の脱カルトには、カルト歴の年数だけかかるといわれ、

信仰歴という言葉、すぐ出てしまいますね。組織歴と置き換えてもいいかもしれません。
「信」は一生のことかもしれないですね。組織を離れても、「信」を追い求めているのが、組織を離れた「だった人」の多くの心の内でしょうか。

158犀角独歩:2002/12/28(土) 13:53

モモさん:

> 信仰歴はやはり長くなければ分からないものなのでしょうか

長くしないとわからないことはたくさんあります。
しかし、善い悪いで言えば、しないほうがよいこともたくさんあるでしょうね。

> キリスト教、というより、理系的な考えの下でそういう事を考えた

なるほど。けれど、理系であれば絶対信などというものが介在しないことは、解されるでしょうね。疑→解→知・覚のあとに、まあ置けば信がある程度です。

アネモネさん:

> 独歩…信心歴(信仰歴)…「カルト歴」として読めばいいのではないか

さすが、賢察ですね。私についてでは、そのとおりです。
まあ、平ったく言えば、自分がやっていたことが信仰ではなく、信仰をしようとする善意を利用されていただけと気付くのにはそれなりに人生を経験し、勉強もし、客観眼もつけないとわかるはずはないという意味でした。

159五月雨:2002/12/28(土) 14:17

アネモネさんも独歩さんも私の気持ちをよく分かってて下さる、見透かされているようです。
独歩さんにはついに関西人の思考までご理解頂いているようで、嬉しく思います。「アホくさ」思っておりました(笑)

>そのことを五月雨さんは日頃、痛切に感じているだけに、思わず意見されたのだろうと思います。(五月雨さん、違っていたらごめんなさい)

いえ、アネモネさん、合っています。私は正直に申し上げて脱カルトの最中です。自分が居た組織がカルトだったとは自分でも信じたくないのですが、カルトの定義にこれほど当て嵌まってしまったら、認めたくなくても認めざるを得ませんでした。これが私の脱カルトの始まりでした。学会で石山で信じてきたことは何だったんだろうかと、真実を探しました。その真実は受け入れ難く、自分が信じてきたものが崩れていく様にどれほど泣いたか分かりません。21年の長きに亘って自分の人生だった信心が日蓮聖人の教えと何ら関わりのない、虚偽だったことには後悔にさい悩まされましたが、もう過ぎ去った時間は取り返し様がありません。
だから、今まさに人生を無駄にしようとする人には老婆心ながら、ついご忠告申し上げたくなるのです。
忠言は耳に逆らうと言いますから、聞いて下さらない方もいます、でもそれも仕方のないことです。一度経験して痛みを味合わないと分からないのも人間ですから。
独歩さんの言われるように「それなりに人生を経験し、勉強もし、客観眼もつけないとわかるはずはない」のでしょう。


>レス拝見しました。ああ、そうなんですか、的外れですか、というのが感想です。自分も言いすぎたのではと心配していたのです。

モモさん、少し拗ねているようなカワイイお返事をありがとう。また、ご意見して下さいね。

162トゴシ:2002/12/29(日) 19:07
モモさん、がんばれよなあ

163モモ:2002/12/30(月) 06:16
レス拝見しました。そういうことなら理解はできます。忠告は忠告として心に留めておきたいと思います。
しかし、内心の自由ということをいうならば、必要以上の表現はどうかと思います。誤解されても仕方ありません。
私も発した言葉を曲解され、攻撃モードになったことがあります。

あと前から思っていたのですが「石山」とは蔑称であり、差別表現であることを指摘しておきます。
大石寺を厳しく批判する意味からその方が都合がよいのだろうと思って何も言わないでおきましたが。

164モモ:2002/12/30(月) 06:18
皆様、本年いろいろお世話になり、まことにありがとうございました。
どうか良いお年をお迎え頂きたい存じます。

165犀角独歩:2002/12/30(月) 08:00

モモさん:

> 「石山」とは蔑称であり、差別表現であることを指摘しておきます。

「石山」という表現は“大石寺59世堀日亨上人”が『富士宗学要集』のなかでも使用している言葉です。蔑称でも、差別用語でもありません。テキスト・データ版富士宗学要集で検索したところ、亨師の言として“51ヒット”ありました。「石山」が蔑称であり、差別表現であるとすれば、亨師こそ、大石寺を「石山」と蔑称し、差別表現をした張本人となりますが、如何でしょうか。

それとも亨師は大石寺を蔑如、差別、批判した人であったというのがモモさんの主張なのでしょうか。

もし、そうでないのであれば、調べもせず、是の如き、莠言を吐くことは批判されなければならないでしょう。

> 大石寺を厳しく批判する意味からその方が都合がよいのだろうと思って何も言わないでおきましたが

ということは、モモさんが大石寺を批判、蔑称、差別するのに、都合好い以上の意味はなく、他の使用者とは無関係です。

誤解がないように言っておきますが、私自身、大石寺を石山と記し、多くの指摘をしてきましたが、それは蔑如するためで、差別するためでも、厳格には批判するためでもありません。単に知れる厳正な事実を列挙した作業に過ぎません。

166管理者:2002/12/30(月) 09:18

160と161に、禁止事項に該当するレスがありましたので、削除しました。掲示板のルールをお読みいただき、レス戴きたいと存じます。

167問答迷人:2002/12/30(月) 09:27

116091ゲットしました。

168犀角独歩:2002/12/30(月) 10:25

【165の訂正】

誤)それは蔑如するためで、差別するためでも、厳格には批判するためでもありません
正)それは蔑如するためでも、差別するためでも、厳格には批判するためでもありません

169犀角独歩:2002/12/30(月) 11:20

たしか三学無縁さんも指摘されていましたが、石山系というのは言葉に敏感すぎると思えるわけです。それはもっと言えば、呼称の仕方に既に敬意、あるいは蔑如まで意味が決められているという、世間ではあり得ない、特殊性があることを、理解しないとならないといことです。

たとえば、日蓮を「日蓮大聖人」と言わないだけで、もう軽蔑的に見ていると考えます。これが「日蓮聖人」でも「日蓮上人」でもだめで、まして、「日蓮」と尊称を省くことはとんでもないと考えるようです。私自身、このような傾向があったのですが、この言語の操作性に気づき、呼称の幅を広げた経験があります。

元来、興目両師…現石山信徒であれば、この書き方も蔑称と考えるかも知れません、日興上人・日目上人と書くべきであると…は「日蓮聖人」と申状その他に記述していたわけですから、興目の流れを自負すれば、この呼称が妥当と言うことになるでしょう。たしかに既に道師『御伝土代』に「日蓮大聖人」の記述は見られ、また寛師は大人・聖人の両義を含めて「大聖人」の呼称を置いています。以降、石山では「大聖人」が決定したかと思われるかも知れませんが、これはやや違います。例えば明治44年、石山正師の時代、監を亨師に採ったという熊田葦城師発刊の書名は『日蓮上人』です。ここには戒壇之漫荼羅の写真も掲載されていました。では上人と記した熊田師は日蓮を他山並みに拝していたかというと、そうではなく、石山に帰伏した人であったわけです。これは一例です。

同じように、私は他派・異論に対するとき、自分の尊敬する日蓮を「日蓮」と一般的に記します。元より、その無謬性を信仰するわけではありませんから、学的・科学的分析に抵触する場合は、この一般の呼称がふさわしいと個人的には考えるからです。しかし、それは日蓮を軽蔑してでも、侮辱してでもありません。一つの事象を客観的に考えようとするとき、その基本に尊敬、本仏、その他の固定概念を含む尊称を付してしまうと、それだけで、客観性を失い、厳正を期せない故の配慮です。また、歴史的位置では、蓮祖と記すことが妥当であると思います。信仰その他の情動的に表現したければ、聖人とも記し、それぞれ使い分けています。けれど、通じて、蔑如するような動機は微塵もありません。けれど、「日蓮大聖人」と呼ぶことが信仰に含まれると思う人々は過敏に反応するのかも知れません。

なお、無徳さんの如く、「日蓮御房」との呼称は鎌倉時代当時の僧侶を呼ぶ一般的な尊称であって、言語の起源を日蓮に求めるのであれば、僧侶全般は、日蓮も含めて充てるのに、この「御房」は至当であろうかと思います。

以上、記したことで重要な点は日蓮を日蓮大聖人と呼ぶ人は「信心のある正しい人」で、呼び捨て…実際は単なる客観的記述なのですが…にしたり、「聖人」「上人」「御房」と呼ぶ人は「信仰心のない間違った人」という固定観念で推し量ると、結局、私の書き込みのみならず、世の学術的文章、歴史文章もすべて読み違えることになるという点です。

いずれにしても呼称に尊敬・軽蔑などの感情を含めるのは学会を含む石山系信徒の際だった特徴に過ぎず、その固定観念で発言と発言者を見るとすべてを読み違えることになるということを、過去の自分の反省を含めて、記しておきたいと思います。

呼称そのものが蔑称、差別表現、批判を含むとは限らない、含むと考えるのは単なる信仰上の固定観念に過ぎないと言うことを記しました。

170犀角独歩:2002/12/30(月) 13:40

富要等に見られる略記

石山 → 大日蓮華山富士大石寺
北山 → 富士山本門寺
西山 → 富士山本門寺
要山 → 富士山要法寺
房州 → 中谷山妙本寺
小泉 → 富士山久遠寺

延山 → 身延山久遠寺
中山 → 正中山法華経寺

などが見られます。
上述でわかるとおり、興門流では富士を山号に採るところが5カ所もあり、さらに富士山本門寺と記述しただけでは北山、西山の区別はできず、久遠寺と記しただけでは小泉と身延の区別が付かないのです。

以上のような事情から石山その他の略記は、何の感情的な動機もなく使用され、今に至っています。

いったい、何を根拠に「石山」が蔑称、差別表現などといわれるのか、皆目、見当が付きません。

モモさん、根拠を示してください。

171ワラシナ:2002/12/30(月) 16:07
no151 犀角独歩さん発言の下記部分に触発された呟き。

ー「おまけに信仰上で「である人」は「だった人」には懐疑的になるように組織的に訓練されていますからね。なおさら伝わらないのでしょうね。ー

0、特に、、「である人」は「だった人」には懐疑的になるように、、という部分の表現の適確さに感心した。学会顕正会を通して、教団権力維持のため奴隷的青年部だけを意図的に組織現役者に選別していたように思う。顕正会に入った時が、初めて本当の自覚的入信動機を持った時だったが、それ以前10代後半から20代前半までは知識と教養がまるで欠けていたから、他の教団員の組織体験談の微妙な部分の意義が、当時は分からなかった。が話は確実に記憶にとどめていた。

1、具体的に言えば、会内の権力が戸田路線から池田路線に変節した事に反発していた人々の話の意義がわからなかったのである。もし当時これがわかっていて、自分らしい生き方ができていたら、色々な意味で自分の可能性、才能開花に役立つような未知な人々との善い出会いが早くやってきて、もっと中年期の現在を輝かせていた筈だという後悔になっているのである。

2、そこでなぜ、あの時そういう知恵が湧かなかったのか、今となって色々反省するのであった。その理由として、三つ考えた。

2−1、言わば青年初期の心理として、これから未来に向かっていこうとする時の生き方にある、一種の本能指向性の欠点面というか「大きく賑やかでエネルギーとパワーを感じさせるような集団に身を寄せれるのが暗黙のベスト選択とする」という生き方の持つ危険性に無知だった事、と思うのである。誰も「しょぼくれた寂しそうな世界」に飛び込んでいこうとはしなかろう。そう思って自分は、学会の中でははやりそうで元気そうで、自分の可能性が開かれそうな世界と人を選んで接触を求めていったのだけれど、内部反体制派を心の中では軽視していたのであった。(彼らの話の真実を知ろうともせずに、、これが、今となっては大失敗)理由は、といえば、恥ずかしい話、簡単に言えば、自分が組織奴隷青年部だったから、に尽きる。「である人」は「だった人」には懐疑的になるように、、という文言を胸に突き刺さるように感じてしまった背景には以上の前提が働いているのである。

2−2、上のように愚かで浅はかな判断しかできなかった事の理由として大きいのは、文芸的な教養の欠如だったと思う。あの当時もっと長編小説や詩歌や推理小説など読書のつみかさねがあったなら、もっと「臆病で?マイナーな生き方のもつ積極的価値」に気づけただろうと後悔している。

2−3、自分には孤独僻があって友人を積極的に増やそうとしなかった事。先輩の忠告助言の意図真意がその当時は全く理解できていなかった事。その理解できていなかった事をその場で問いたださず聞き流してしまっていた事。ただ、先輩の話の方にも自分の失敗談を入れるなり表現技術上の一工夫が必要だったとは、思うのだが、これは5年年上の学生部だと同じ青年同士になってしまって、人生全体が駄目になる本格的失敗談は体験していないので、これは初老期の先輩との交流不足の必要を物語っていると思うのである。

172こまった:2002/12/30(月) 20:17
独歩さんの諸山の呼称に少々補足を。

保田妙本寺=房山ボウザン、保田ホタとも
大石寺=石山セキザン、大石オオイシ・ダイセキとも

これらは堀日亨さんの使用した呼称であり、蔑称でもなんでもありませんね。
石山の蔑称は「お山」「上野」「上野村」というもので、これは根檀家が使っていたんですよ。
多山はたいてい「ダイセキジ」と呼んでいましたし、「セキザン」と呼ぶのは他の富士七本山での呼び方ですね。
「お山」は「御山」ではなく「お山の大将」という意味合いだったみたいですね。

モモさんに「セキザン」を蔑称などと教えた人がいるならば、それはシッタカでしょうね。
しかも宗旨も宗史ほとんどなにも勉強していない六百代言です。
歪な「言葉狩り」などする必要はないのですよ。
どうせなら「偽信心・偽仏法狩り」をしたらいかがでしょう。
もちろんこの「偽信心・偽仏法狩り」は、今の石山に向けてということですが。
言葉だけの「大慈大悲」なんてイッセンダイゲンですからね。

「だった人」に対する色眼鏡、それがその信仰を如実に物語ってしまうのです。

173こまった:2002/12/30(月) 20:18
訂正です。
多山→他山

174こまった:2002/12/30(月) 20:59
いい忘れです。

明治維新以前の石山信徒は「ホンザン」と呼んでいたようです。
けっして「ソウホンザン」ではありません。
なにしろかつての大石寺は身延山久遠寺の配下・末寺だったわけですからね。
もっとも身延だって「ソウホンザン」と呼ばれていたわけではないのですが。

身延が祖山とよばれ権力をもったのは不受不施問題で池上に完勝してからでしょう。
もちろんそのころの石山は不受不施を嫌い、国諌も嫌い、身延の尻尾にぶらさがっていただけでした。
日奥や日親のように純粋に不受不施義を唱えるようなことをせず、保身だけを考えていたのが石山でした。
それでも所詮は田舎寺の悲劇で日蓮宗内で力をもったことは一度もありませんでしたし、ご開帳で繁盛したようすもありません。
なにもかもが中途半端だったのが石山の歴史です。
それは借り物ばかりで創作した教義のためだったのかもしれませんね。
つまり石山には「日蓮」という「バックボーン」がなく、あったのはパッチワークだけだから無理もないですが。

石山系以外から石山はけっして差別されていませんでした。
それどころか相手にもされていなかったし、だいいち存在すらほとんど知られていなかったのです。
興門系では苦々しく想ってはいたでしょうね。
なぜあんな寺が「ミデラまがい」の勝手をゆるされるのか、と。
これは菊水さんの領分ですね。
でも、その部分は、今の大石寺にはもう残ってはいないわけですし、石山住職も知らないわけです。

175犀角独歩:2002/12/30(月) 22:17

ワラシナさん:

コメント、有り難うございます。
参考になりました。

過日は久しぶりにお会いできて、たいへんに嬉しく思いました。
お体の調子が思わしくないと伺っていたのですが、お顔を拝見する限り、元気そうで安心しました。もっと、お話をしたかったのです。是非、またお会いしたいと思っております。

176犀角独歩:2002/12/30(月) 22:23

こまったさん:

補足有り難うございます。

本門寺といえば、池上も讃岐(高瀬)もあり、これまた、地名で呼ばないとわからなくなります。こんな例は枚挙が暇がありませんね。

あと、石山でも、売店のある辺りは、「新町」と言って、境内地と区別するなんてこともありました。

一つ、私が意外だったのは「お山」が蔑称であるということ。私は生まれながら、「日蓮正宗創価学会」員であったのですが、子どもの頃、石山に行くこと…つまり登山会ですが…を「お山に行く」と行っていたものでした。この言い方は学会では一般的であったと記憶しています。

それと、北山などが「上野方」などというのも蔑称であったわけですね。なるほどな、と思いました。

177犀角独歩:2002/12/30(月) 23:02

○呼称が信者の心を操作している

169に日蓮の呼称について、少々記しましたが、それに就き、こまったさんに「言葉狩り」という観点で整理していただき、「あ、そうだな」と思ったのです。

こんなことがありますね。
学会では池田さんを「池田先生」「池田名誉会長」と言わないと、この会で言う信心に抵触します。
同じく顕正会では、浅井さんを「浅井先生」「浅井会長」と言わないと、この会で言う信心に抵触することになります。
石山では顕師を「御法主日顕上人猊下」と呼ばないと、これまた宗の信心に抵触することになります。

これはまた、やめた人間はひどく抵抗するところで、学会をやめた人は「池田先生」とは言いたくない、顕正会をやめた人は「浅井先生」とは言いたくない(菊水護国さんは例外!(笑))
石山を離れた坊さんも顕師を「管長」とか「阿部法主」とか言い方に苦慮しています。

つまり、これはその尊称、呼称に既に大きな意味が孕んでいることと、服従・違背という両極にある“信仰であると信じ込まされた感情”が蠢いているからでしょう。つまり、どう呼ぶかによって、既に心理操作が可能になっているという点を聡く看取することが大切なんでしょう。

やめた人でも、演技でも『先生』と何度も絶唱していると、熱烈に崇拝していたときの感情がこみ上げてきます。ところが元学会では池田さん、顕正会では浅井さんに、対するかつての思いが、と異なることになります。

言葉による操作は、人心操作の基本です。しかし、これは宗教だとか、信仰ではありません。心理操作なのです。その操作技術を宗教団体が使っているのに過ぎません。

このように各個人に以前とひそむ心理の正体が何であるかを見極めることは意義のあることだと思います。

けっして被害者運動をここで展開しているとか、そんなことではなくて、そのように思うわけです。(この最後の一節はやーこさんを批判する意図は、もはやありません。しかし、そのように考える複数の人がいれば、その人に向けた言葉であると理解されることは、敢えて否みません)

178菊水護国:2002/12/31(火) 02:26
> これはまた、やめた人間はひどく抵抗するところで、学会をやめた人は「池田先生」とは言いたくない、顕正会をやめた人は「浅井先生」とは言いたくない(菊水護国さんは例外!(笑))

失礼な(爆)。私が浅井さんを浅井先生と呼ぶのは、酔っ払ったときだけですよ(笑)。
でも酔っ払うと本心が出ると言いますから、私って、結構潜在的には未だ浅井さんの弟子なのかしら(笑)。

179犀角独歩:2002/12/31(火) 11:32

菊水護国さん:

「自分は住職のことを先生と呼ぶ」と言っていたでしょう。
私は講に就いて、いちばん最初に直されたのはこの点でした。
学会では僧侶を「先生」と呼ぶことで統一されていたんですが、講では「御尊師」
(オウム事件以降、この尊称は(笑))

役員になったとき、住職を御尊師と呼ぶことは徹底できたのですが、所化さんの呼び方が各人まちまちになっていたので住職指導で統一しました。結果は教師補任式を終えた僧は「御尊師」それ以前は「尊師」というものでした。

しかし、たぶん、これは菊水護国さんならば直ちに気づかれるでしょうが、石山の一般的な呼称とは違っていますよね。教師になっていない場合「さん」付けが普通ですものね。まあ、かなり気を遣って統制をしていったわけです。

けれど、菊水護国さんから「先生でいいじゃないの」と言われたとき、実は私は目から鱗が落ちる思いがしたわけです。いいわけですよ、ほんとに。そんなことはどうでも。

地方では坊さんをみな「上人」と呼ぶところがあると『法華講随感』にも記されていました。日蓮の時代は「御房」、順師に係るとされる文献では「和尚」と見えます。

石山大奥では「御法主上人猊下」なんて呼ばず、「御前様」。これは本山格であれば、他でもそうですね。

風情、敬愛の情が表せれば、それでよいのでしょうね。
それを「○○と呼ばなければいけない」とする頑なな決めつけを、どうしてするのかを考えてみることですね。菊水護国さんの「先生」の呼称は、学会とか、顕正会のそれとは違い説得性があったものです。

また、脱けた人は、元いた集団の指導者を出来るだけ敵意を篭めて呼ぼうとします。これまた、見苦しい。

私は実際に現役と喋るときは、その人が呼んでいる尊称を付けて指導者は呼ぶことにしています。ただ、現役と違うのは尊称を付けても批判するところはしっかり批判すると言うことです。通常、批判する場合、信者が敵意を懐くような呼称で呼びながらすることになりますが、私はそうしない。彼らが尊敬の念を表す呼び方で批判をするわけです。このアンバランスに相手は通常、戸惑います。この戸惑いは尊称に刷り込まれた心理操作に由来するものでしょう。

まあ、そんな意味で菊水護国さんが酔っぱらったとき限定付きでも「浅井先生」とさらっと言えるのは、まったくそんな心理操作に引っかかっていないからでしょうね。よい模範だと思うわけです。

阿諛と揶揄、そこに潜む心理操作の罠にご注意というところでしょうか。

180菊水護国:2002/12/31(火) 12:42
独歩さんの仰るとおりだと思います。
呼び方にこだわるのは、本音では僧侶を敬ってない、建前で敬ってるから・・・なんて言ったら言いすぎでしょうが。
また、脱けた組織はもちろん、敵対する組織を揶揄するのも見苦しい。
たとえば、顕正会=犬性会等です。昔、妙観講は「痴犬」と呼ばれた事に対抗して顕正会をこう呼びました事は皆さんご存知だと思います。
しかし、相手に合わせるのはそのまま「相手の土俵に乗る」事になって、同じレベルになってる事に気づいているのであろうか。

さて、私は確かに正宗はもちろん他宗でも全ての御僧侶を「先生」と呼びます。ただし、我が住職だけは「お師匠」とお呼びする場合もあります。
私は某講に所属してたとき、皇室・伊勢問題議論で、信仰も精神もおかしくなりかけたとき、現在のお師匠の一言に救われた過去があるから、自然にこう出る訳ですが。
何気に信仰を始めた方はここまでの思いは中々無いと思いますので、とりあえず「先生」とお呼びしておけば良いんでは無いでしょうか。後は全て自然にお呼びしたいようにお呼びすれば宜しいんでは無いでしょうか。別にこだわる必要は何も無い。

181犀角独歩:2002/12/31(火) 13:39

「お師匠」…、美しい言葉ですよね。
寺にいたとき、所化さんが「おっしょさん」と住職を呼んでいる姿が好きでした。
当初、「おしょう(和尚)さん」と呼んでいるのかと思い、変だな思っていたんです。
でも、途中から「おしししょう(お師匠)さん」が「おっしょさん」と聞こえるのだと気づきました。まあ、私は「御前様」というのも案外好きですね。

けれど、講では住職を菊水護国さんのように「お師匠」と呼んだり、石山住持を「御前様」などと言おうものならば「僭越だ」という非難が帰ってきますね。こんなうるさいところはさっさと去るに限ります。

私は日蓮宗僧には「上人」と呼びかけます。石山僧や、正信会僧には会えば今でも教師なら「御尊師」を使いますね。まあ、会う石山僧は限られていますが(笑)

ぜんぜん関係ありませんが『男はつらいよ』で柴又帝釈天こと経栄山題経寺の住職役を演じる笠智衆に皆は「御前様」と呼びかけています。微笑ましい場面です。
富田常雄原作で黒澤明が撮った『姿三四郎』、道場代わりにしていた寺の住職を、三四郎達は何と呼んでいましたっけ? まあ、姿三四郎といっても知っている若い人は少ないのかもしれませんが。

こういうところ、世間は鷹揚なのに、カルテッィクな集団であればあるほど、呼称に拘ります。会社でも役職で呼び合う日本は外人から見ると奇異なのでしょうね。

日本のNGOなんかでも、「さん」付けを推進していますね。略歴は紹介しても、呼びかけは「さん」。坊さんが在家から「さん」付けで呼ばれるのは締まりませんが、それでもそれなりの教導が出来れば、それはそれで大したことでしょうね。

ようやく、ツブヤキになりました。

182犀角独歩:2002/12/31(火) 13:39

間違えました(笑)

「おしししょう(お師匠)さん」は「おししょう(お師匠)さん」です。

183菊水護国:2002/12/31(火) 14:04
日蓮正宗の旧檀家さんに聞くところによると、大石寺に限らず、末寺でも昔は「御前」と呼んだそうです。
全ての寺院は「一山の御前」だからだそうです。
末寺住職は「御前様」、法主は「御山の御前様」だったそうです。

さて、呼び方といえば、昔のテレビドラマ西遊記で境正章演じる「孫悟空」が、夏目雅子演じる「三蔵法師」に「おっしょさん」と呼んでるように聞こえましたが、これも「お師匠さん」なんでしょうね。

184菊水護国:2002/12/31(火) 14:06
> 富田常雄原作で黒澤明が撮った『姿三四郎』、道場代わりにしていた寺の住職を、三四郎達は何と呼んでいましたっけ? まあ、姿三四郎といっても知っている若い人は少ないのかもしれませんが。
うーん。見た事はあるんだけど覚えてないな。ビデオ出てたから借りて見てみようかな。

185問答迷人:2002/12/31(火) 21:02

昨年の12月31日に、僕は次のように書き込みました。

>151 名前: 問答迷人 投稿日: 2001/12/31(月) 23:10

>36206 ゲットしました。

今現在のアクセス数は、116483です。差し引き、この一年間で80277のアクセス数がありました。一日平均約220アクセスです。

皆様のご利用を厚く感謝致します。来る2003年も、引き続き皆様の活発なレスを頂戴出来ますことを切望致しております。

新年に入りましたら、過去ログに、2002年12月31日までの全レスを保存する予定です。合わせてご利用賜れば幸甚に存じます。

116783 ゲットしました。

186犀角独歩:2002/12/31(火) 21:46

問答名人さん:

本年も本当にお世話になりました。
随分と勝手な投稿をさせていただいたのにも拘わらず、いつも寛大に接していただきましたこと、深く御礼申し上げます。

私は年末・年始、押している仕事があり、休みも取れない状況です。
けれど、昨晩は風邪をこじらせ、12時間もたっぷり寝、昼近く起き出し、少しこちらに投稿させていただき、また、夜まで寝てしまいました。これで年末・年始の休みを終わらせないと仕事のけりが付かなくなります(笑)

いま、こちらを拝見させていただいたところ、問答名人さんの書き込みの時間は午後9時。私が講の役にあった頃はとうに寺院に入っていた時間でした。本年はゆっくりと、年の過ぎていく時間に浸っています。

思えば1年の重要な節々を常に組織のために過ごしてきた自分が、たっぷりと寝、ゆっくりと行く年・来る年を味わえるのことに、不思議な思いがあります。これはまた、問答名人さんとの出会いも大きく一因をなしたことでもあります。

お体のお加減は如何でいらっしゃいますか。明年もさらなるご活躍を期待いたしております。

有り難うございます。

187問答迷人:2003/01/01(水) 12:29

掲示板御参加のみなさん

新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞ活発な御議論、宜しくお願いいたします。

犀角独歩さん

>午後9時。私が講の役にあった頃はとうに寺院に入っていた時間でした。

僕も、例年はとっくに寺院に出向いていた時間です。昨秋より、寺院参詣を停止いたしましたので、自宅で新年を迎えました。

>たっぷりと寝、ゆっくりと行く年・来る年を味わえるのことに、不思議な思いがあります。

僕にとっては、これは独歩さんと出合わなかったら、あり得ないことでした。独歩さんの指摘によって、大石寺門流の淵源に疑問を持つことがなかったなら、そのからくりに気づくことも出来なかったからです。

>お体のお加減は如何でいらっしゃいますか。

ありがとうございます。お陰様で、かなり回復していますが、まだ、長時間座っているのは困難です。仕事には、全然差し支えない状態にはなっています。

本年は仕事に掲示板に、心機一転、取り組みたいと決意しております。(おやおや、まだ、創価学会の習気が抜けずに、正月早々、決意発表をしてしまいました)(笑)

188犀角独歩:2003/01/01(水) 15:38

問答名人さん:

明けましておめでとうございます。
自分のためのお正月、なかなか、好いものですよね(笑)

190さかなこ:2003/01/02(木) 00:52
あけましておめでとうございます。今年も去年に引き続いてROM専で
行きますので宜しくお願いします(笑)

初詣は鶴岡八幡宮と円覚寺に行ってきました(笑)
相方が気を遣って可愛い羊型のお守りを買ってくれました。可愛いお守りコレクションが
また増えました^_^;
私自身はおみくじを信じてないのでいつも引きたくないのですが
(悪いのが出ると不愉快だから(笑))相方が引きたがるので引いたら
案の定「凶」でした。いつも何故か凶ばかりでしょぼーん。。(笑)

円覚寺は以前、独歩さんが坂本弁護士一家のお墓があるとお話されていたので
行ってみたのですが係りの人に聞いたら工事中らしいとか場所がわからないとかで
断念してしまいました。とほ。

夜は新年のお食事を祖母をしました。祖母は戸田時代からのばりばり会員ですが
改めてその凄さにショックを受けて帰ってきました(>_<)(>_<)
終始「福運、宿業、宿命、功徳」を連呼してました。ふう。
とりあえず祖母が親じゃないだけよかったとご本尊に感謝しておきましゅる(笑)
両親はまだ寛容なので。。汗汗

191モトミナ:2003/01/02(木) 00:59
新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

192モモ:2003/01/02(木) 05:48
新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくおねがいいたします。

193モモ:2003/01/02(木) 06:37
犀角独歩さん

あけましておめでとうございます。甚深のレスを拝見しました。ありがとうございました。
私が聞いたのは「石山とは蔑視した表現だ」というようなことです。
学術的に用いるならばともかく、一般的な呼称ではないように感じます。
最近の大日蓮など、「石山」という表現は拝見したことがありません。
また大石寺の山号は先にもありましたが「大日蓮華山」であり、「石山」ではありません。
「石山」を連呼し、「石山僧」「石山組織」「石山法華講」など、このような用法は蔑視、揶揄しているように感じる人もいるでしょう。
「石のような山」「石のように頭が固い僧」「石のような組織」など。なるほど確かに今の大石寺、日蓮正宗は石のように頑固で部外者を排斥するようなところがあるかもしれません。
「名は体にいたる徳あり」というような言葉が御書にあったと思います。
言葉は変化していきます。たとえば「おみおつけ」は「御御御付け」と書きます。言葉が変化していった例としてあげられると思います。
一般的呼称として「石山」を連呼するのはどうかと思いますが。
あと私は「大石寺」とは広宣流布、本門寺顕現への夢のある呼称として気に入っています。
「日蓮正宗」はセンスがないと思います。だからたとえば「日蓮正宗信者」というより「大石寺信者」という方が気に入っています。

194モモ:2003/01/02(木) 06:54
>私は実際に現役と喋るときは、その人が呼んでいる尊称を付けて指導者は呼ぶことにしています。ただ、現役と違うのは尊称を付けても批判するところはしっかり批判すると言うことです。通常、批判する場合、信者が敵意を懐くような呼称で呼びながらすることになりますが、私はそうしない。彼らが尊敬の念を表す呼び方で批判をするわけです。このアンバランスに相手は通常、戸惑います。この戸惑いは尊称に刷り込まれた心理操作に由来するものでしょう。

私もこの意見には賛成です。ある御僧侶が「池田大作(氏)のような大謗法者は呼び捨てでいい」と仰せになったそうですが、私はどうかと思います。
大百法や慧妙、創価新報、聖教新聞でも「池田大作氏」「日顕上人」「日顕師」などとするべきであると思います。

195犀角独歩:2003/01/02(木) 21:40

モモさん:

> 私が聞いたのは「石山とは蔑視した表現だ」

だから、いったい誰から聞いたのですか。

> 学術的に用いるならばともかく、一般的な呼称ではないように感じます。

学術的とは、どの程度を指すのかわかりませんが私が「石山」等の略記の使用は通日蓮教学における“一般的な”使用です。さらに狭く富士門一般の僧俗が寄り集まって議論をする場合、以上の略記はごく一般的なことです。また、私が石山僧、あるいは正信会僧などと話す場合も、普通に使用している言葉です。

モモさんが言う一般的とは「日蓮正宗」僧俗一般よりもさらに狭い自分の考えに過ぎません。

> 最近の大日蓮など、「石山」という表現は拝見したことがありません。

『大日蓮』には編集部で独自に定めた表記があります。
また、雑誌編集一般の常識として、略記、略称は使用しないのは通常のことです。
この編集の常識と、口語に近い、掲示板の記述を同様に語ること自体、おかしなことです。

> 大石寺の山号は先にもありましたが「大日蓮華山」であり、「石山」ではありません。
そんなことは誰でも知っていることでしょう。
「石山」は略記、あるいは略称なのであって、誰も山号であると言っていません。
いずれにしても、モモさんは亨師を批判していることはよくわかりました。

> 「石山」を連呼し、「石山僧」「石山組織」「石山法華講」など、このような用法は蔑視、揶揄しているように感じる人もいるでしょう。

どこにいるのですか。もし斯様な人がいれば、略記が蔑視、揶揄であるという偏見を持っているだけのことでしょう。つまり、それはモモさん自身が持っている偏見です。

> 「石のような山」「石のように頭が固い僧」「石のような組織」

そう。モモさんは大石寺を思っているわけですね。
しかし、石山という語彙を使用する人が思っているわけではありません。

> 「名は体にいたる徳あり」というような言葉が御書にあったと思います。

略記、略称とは、まったく関係ありません。

> 言葉は変化していきます。

これもまったく関係ありません。
また、あったとしても、「石山」などの語彙を使わない理由にはなりません。

> 一般的呼称として「石山」を連呼するのはどうかと思いますが。

何度も繰り返しているとおり、略記、略称として使っているのであって、一般的呼称であるとは言っていません。
こんなことで「どうかと思います」とケチをつけるほうが、よほど「どうかと思います」。

また、この言葉は、先にも記したとおり、石山59代亨師を批判する言葉であると受け止められます。

当掲示板のような、異種の価値観、思考をもっている人の議論の場で、学術的に、また、通日蓮教学で“一般的な”記述を、自分の語彙使用法以外を認めない言葉狩りに応じる気はありません。

今後とも、私は「石山」その他の語彙を使用します。
しかし、それは軽蔑でも、侮蔑でもありません。

196犀角独歩:2003/01/02(木) 21:44

> 「池田大作氏」「日顕上人」「日顕師」

一般的な表記というのであれば、

「池田大作氏」は宗教法人創価学会名誉会長池田大作氏
「日顕上人」「日顕師」は宗教法人日蓮正宗阿部日顕氏(師ではなく氏)

となるでしょう。
自分の所属する宗派の長は「上人」「師」といい、他団体の長は「氏」とする、このような扱い方こそ、まったく一般的とは言わないのです。

197犀角独歩:2003/01/02(木) 21:46

【196の訂正】

誤)宗教法人日蓮正宗阿部日顕氏
正)宗教法人日蓮正宗総本山大石寺(66世)阿部日顕氏

198菊水護国:2003/01/02(木) 23:11
モモさん。
石山は、決して蔑称ではありません。
うちの住職も「石山教学では」等と使用することは多々あります。

> 私が聞いたのは「石山とは蔑視した表現だ」というようなことです。
とありますが、どなたから聞いたのでしょうか。その方が間違っていると思います。
また、文献はどこにお有りでしょうか。
日蓮正宗において「石山は蔑称だ」等という考えも通説もありません。
「私は誇りを持って、石山の信徒です」と云えます。これはおかしいですか。

199犀角独歩:2003/01/02(木) 23:30

自己レスです

> 編集の常識と、口語に近い、掲示板の記述を同様に語ること

やや補足すれば、亨師の富要の記述「石山」等は口語体であるというより、通日蓮教学における一般的な記述です。

たぶん、193の「言葉は変化していきます」というのは、この亨師の記述に係るのではないのかと思いますが、別段、この点については何ら変化していません。

いずれにしても、このようなことは、言い張ったり、拘ったりするほどのことではないでしょう。

枝葉末節の言葉尻をとらえられて、つまらぬ個人攻撃をされているようで、好い気分はしません。

200歌右衛門:2003/01/03(金) 12:34
以前にレスをした者です、仕事で忙しくお礼のレスが遅れましてどうもすいませんでした。
以前のレスの続きなのですが、いままでのみなさんのレスを読んで、思うのですが、
苦しんだ挙句、学び、思惟のはてに辿りついた思考がいままでのレスなのでしょうか、
私は、いま悩んでいる事があるんですが、アドバイスして頂けないでしょうか、
現宗門から身延に移りたいのですが、どうなのでしょうか?

201犀角独歩:2003/01/03(金) 13:59

歌右衛門さん:

はじめまして、でよいのでしょうか。

私は学会35年、石山5年で、独歩の道を選びました。
そこに至るのは筆舌に尽くせない苦悶の選択がありました。

歌右衛門さんは、何を悩んでいらっしゃるのでしょうか。
また、石山から延山への転宗は、何を基準にお考えになられているのでしょうか。
もちろん、その点を否定しようなどと言うことでは毛頭ないのですが、参考にお聞かせください。

202歌右衛門:2003/01/03(金) 15:25
早々の返事ありがとうございます。
戒壇大御本尊が日蓮聖人、真筆でないとすれば宗門の教義は後に作られた、日蓮とは、まったく関係のないとんでもない代物、こんな物を信じれば信じるほど、
不幸になるのは必然、まして公平かつ平等な社会の作るなど無理、ほんとうの日蓮が後世の者に伝えたかったものは、何か、こんな事を悩んでいます、
転宗の基準は、前項からも、察していただきたいのですが、現宗門には日蓮聖人が後世に伝えたかったものはないのでは?
であるならば日蓮の教えを求めたい、そんな衝動に駆られるのです、おかしいでしょうか?
ならば触れるだけ腐ってしまうよう気がする宗門から離れてたいと思うのですが、身延に行っても嫌なこともあるのでしょう、
ふといろいろ考えてしまうのですが。

203犀角独歩:2003/01/03(金) 15:38

歌右衛門さん:

お記しのところ、共感するところも多々ございます。
ただ、石山に真実はないけれど、延山にはあるというのは、やや短絡ではないでしょうか。檀家制度に甘んじてきた日蓮門下全般、そこに日蓮の祖意があるのでしょうか。

私はここで問答名人さんとともに、その点を考えてきました。日蓮の祖意は何か、その難問について考えてきた2年間でした。そこでたしかに言えることは宗派教団指導者の都合で語るご都合主義には日蓮の祖意はないということです。

宗派、集団、指導者によらず、まずは日蓮の祖意を考え、それからゆっくりと共に歩むべき朋友を求めることが大切ではないのかと私は考えます。もちろん、元より、私の管見に過ぎませんが。

204問答迷人:2003/01/03(金) 16:10

107074 ゲットしました。

205問答迷人:2003/01/03(金) 16:21

歌右衛門さん

>身延に行っても嫌なこともあるのでしょう、

僕もそんな気がします。どの宗旨、宗派にも、もはや日蓮聖人の祖意はないように思えます。

独歩さん

>宗派、集団、指導者によらず、まずは日蓮の祖意を考え、

そうして日蓮聖人の祖意、さらに遡って、釈尊の悟りを求めることが、一番日蓮聖人の歩まれた道に近いのではないのでしょうか、そんな気がしています。

206問答迷人:2003/01/03(金) 16:30

歌右衛門さん

メールでご案内しましたが、1月5日に名古屋オフ会を行います。参加されませんか?詳しくは、「オフ会 開催案内」スレッドをご覧下さい。

207歌右衛門:2003/01/03(金) 16:45
犀角独歩さま
そうそうの返事ありがとうございます。
おっしゃるとうりだと思います、
朋友を求める、そんな事を考えたこともありました、しかし物理的にネット上でしか得られないと思うのです、
地域、時間の違いそれを埋める事ができるのはネット、
しかし近隣で宗門や宗門が生んだ学会の被害者が多いこと、しかし被害者たちは、自分が被害者と思っていない
そんなどうにもならない事を見るにつけどうしたらいいのか、どうにもできません
これからどうしたいいのでしょうか?
いいアドバイスがあればいただけます?

208犀角独歩:2003/01/03(金) 17:03

歌右衛門さん:

どうぞ、「さん」付け、私もそうさせていただきます。

> 朋友…物理的にネット上でしか得られない

ええ、斯様に存じます。
今後の世界ではこのネット上に、サンガが現出する可能性を私はいちばん考えております。徹底した議論が出来ること、ネットは節度と約束を守って使えば、これ以上の利便的な場はないでしょう。集団のための個人ではなく、個人のためのサンガ。その可能性を、私は問答名人さんが設けられるこの場に見ております。

集団と指導者のためではなく、各個人のために、また各個人が個として連なる場こそ、サンガなのであろうと私は思います。

集団の代弁者ではなく、自利が利他を兼する場とネットはなり得るでしょう。もちろん、まったく逆の働きをするような運営の場もあります。利ある場を選び取るところから、個人の自由は始まっていると思うわけです。

209犀角独歩:2003/01/03(金) 17:04

> 205 問答名人さん:

まったく同感です。

2102chより:2003/01/03(金) 20:12
2ch創価板よりコピペ

>119 :不甲斐ない一法華講員 :03/01/03 18:59 ID:v43amsm5
>ご尊敬申し上げる法華講の皆様にお願いいたします。
>富士門流信徒の掲示板において、http://jbbs.shitaraba.com/study/364/
>犀角独歩なる人物が
>1日蓮は、本仏ではない。
>2戒壇の大御本尊は、偽者である。
>3口伝や相承書は、すべて偽書である。
>4唯受一人血脈相承は、まったくの嘘である。
>5僧侶は、信徒を蔑視している。
>6登山を強要し、大御本尊を金儲けの手段にしている。
>7石山は、カルト教団以外の何者でもない。
>などなどの数々の暴言を吐いております。
>ところがこれに反論できる信徒や僧侶が全くおりません。
>猊下様の教えを正しく拝受しておられる皆様方ならこのような邪義を厳然と破折できると確信しております。
>どうかどうか、この犀角独歩を破折し、日蓮正宗の正義を顕正していただきたく思います。
>私にはそのような教学も力もございません。
>どうか伏してお願いいたしますので、犀角独歩を粉砕してください。
>宗旨建立750年を慶祝申し上げるために、伏して、伏してお願い申し上げるしだいです。
>どうかどうか私のこのお願いをお聞き届きいただきたく存じます。

独歩さんガンガレ!!

211犀角独歩:2003/01/03(金) 21:11

> 210

これは実に楽しみですね。
しかし、以上の3「口伝や相承書は、すべて偽書である」とは言っていません。
証明できないと言っているのに過ぎません。

また、コピペの方、応援、有り難うございます(笑)

212無徳:2003/01/03(金) 21:15
皆さん明けましておめでとうございます。
何時も亀レスにて失礼しておりますが本年も宜しくお願い致します。

satさん
 >無徳さんの「解体から再構築へ」との示唆は大変共感いたします。

 共感していただきありがとうございます。過去にsatさんの投稿された
論を拝見しますと大変知的な力量を感じます。特に「現代思想」にも通
じておられるように思われ今後のご活躍に期待を致しております。

213管理者:2003/01/03(金) 21:21

管理者から一言

>210 どうか伏してお願いいたしますので、犀角独歩を粉砕してください。

新年早々、一応、楽しみです。まぁ、あんまり期待していませんが・・。独歩さんを破折しようとされる方は、姑息な「荒らし」の様な真似をせずに、当掲示板のルールに則って正々堂々と論線を張られることを要望しておきたいと存じます。そして、途中で逃げ出さずに、とことん議論されることを望みます。

214無徳:2003/01/03(金) 21:23
問答名人さん今晩は、

>仰るとおりです。当初は、富士門流と言うものの、実際は大石寺門流の再構
築を目指して出発しましたが、現在は、掲示板のコンセプトは結果的に拡大さ
れ、文字通り、北山本門寺、西山本門寺、保田妙本寺を含む、富士門流の再構
築を目指す事となったと思っています。

とのコメントありがとうございました。
この掲示板の目指すところが再確認でき嬉しく存じます。

 本年こそ富士門流の再構築という壮大なるテーマに微力ながら皆様と共に
挑戦してまいる所存ですので宜しくお願いします。

215管理者:2003/01/03(金) 21:27

> 210

スレッドは、特に指定しませんが、内容からして、「続 大石寺問題提起」が適当かと思います。出来れば、そちらで思う存分議論していただければと存じます。


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