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素朴な疑問
2540
:
A
:2005/07/15(金) 23:57:14
顕正居士さん資料ありがとうございました。
すでに論じられていたのでしょうが初見でした。「一經の耳目文義倶に解し。之を心に記して永く遺忘無し、諸餘の福利無量無邊なり。」こんな妙薬があれば試みられていたかもしれませんね。「清澄寺には日蓮聖人が虚空蔵祈願したとき吐血した「凡皿の笹」がある」の記述もありましたが、妙な解説だなと思い,どんな代物かと検索しましたらまったく意味が違うようですね。それはともかく、後に真言を破折されておられるのでこの修行方法は認めておられないのではと自己流に解釈しております。
2541
:
A
:2005/07/16(土) 07:49:28
独歩さんへ
書いてこられるであろうと思っていたところには必ず返してこられます。
最初に書いておくべきでしたが、わたしの日蓮聖人像は日興上人に求めます。
日興上人ご消息
ほんれう(盆料)の白米二升・根芋-----法花聖人の御宝前に申上まいらせ候了
故尼御前の御ために白米一斗-----------ほとけ(佛)しやう(聖)人の御けんさん(見参)に申しあげまいらせ候ぬ
五月の御節句、御酒,ちまき-----------法主聖人の御宝前に備え奉り進らせ候了
なによりもかまくら(鎌倉)中の大怪(たいかい)おとろきおぼえ候。御状、聖人の御宝前によ(読)み上げまいらせ候
日興上人は日蓮聖人を法花聖人、佛聖人、法主聖人 聖人と表現なされております。また、御遷化後もご在世と変わらぬ姿勢でおられます。
盲目的と指摘されるかもしれませんが、ぼんくらのわたしは日蓮聖人の大情熱、大慈悲、日興上人の至誠に心身を委ねます。
独歩さんの思索がなおなお研ぎ澄まされますように期待します。 回帰されるところが難解なのではと思いつつ。
>絶対、無謬というファンダメンタリズム、カリスマ、呪物、集団信仰から脱却されれば、よいという思いはあります。
仰せのとおりだと考えます。すでに「絶対」にはまっておりますが。
> この日蓮の隠棲は法華経からの退転ととらえます但し、この点は意見の同意は見ないでしょうから、無駄な言い合いは止めといたしましょう。
中途ですがまたROMに戻ります。 対応ありがとうございました。
2542
:
犀角独歩
:2005/07/16(土) 10:40:47
Aさん、ロムに戻られるのは残念です。
わたしのここ数年の在り方は、実に簡単な方法です。しかし、容易なことではありませんでした。要は、教えられてきた一切をリセットして、一から考え直すと言うことです。
かつて、わたしは、もちろんのことを日興を「興上」「興尊」を呼び、下種三宝中、僧宝随一と仰いでいました。しかし、いまはその思いはありません。その理由はいくつもありますが、石山から与えられた日興像は理想化されたもので事実確認からは離れていたこと、日興は日蓮とは違う信仰に立脚していること、教学はむしろ、日澄が凌ぐのではという思いがあること、日興書写の漫荼羅は納得がいかないこと、祖師信仰、特に御影崇拝は仏像ならいざ知らず、人像崇拝であり、仏教に悖ることなどがその理由です。殊に日興書写・真跡無という遺文に関しては、その扱いには極めて慎重にありたいと思っています。
> 日興上人は日蓮聖人を法花聖人、佛聖人、法主聖人 聖人
これは石山のみならず、正信会辺りで言うことですね。引用されるところは石山系の書物には必ず載るところで、また、正信会系の文書でも載ります。つまり、与えられた情報です。これを再考し、異議を唱えてきたわけです。
このなかで「佛聖人」について、わたしは、佛=釈尊=仏宝、聖人=日蓮=僧宝であり、紙背に‘法=法華経、もしくは妙法蓮華經=法宝’という三宝尊を述べたものと見なければ、おかしいと考えております。
単に聖人と指すのは御影でしょうが、単にここに留まり、釈迦像を祀らず、祖師像のみを祀れば、この信仰様式に、疑義を懐かざるを得ません。何故ならば、日蓮その人の教学と違うからです。重須が祖師・人像崇拝の拠点であったことが知られます。それはやがて、「天台勝釈迦劣」という仙波教学を焼き直し「日蓮勝天台・釈迦劣」という日蓮本仏の素地を与えるものとなったのだろうとも考えます。
> 御遷化後もご在世と変わらぬ姿勢
これは別段、他の本弟子方も一緒であったでしょう。
ただし、日興門下は、他と特筆する点はあろうかと存じます。
仏教徒として仰ぐべきは、釈尊であって、日蓮・日興への信仰では‘人教’に過ぎないという点が、近日のわたしの至った結論でした。
2543
:
A
:2005/07/16(土) 14:10:42
すみません。御返事を見て出戻ってまいりました。資料をOCRしてみました
日蓮聖人と法華経
日蓮聖人と法華経との関係は聖人の教義を領解し奉る上に最も大切なことで、根本的の問題
であり又教義そのものでもある。古来門下の教学に於て幾つかの異義が行われておるが、結局
此の関係に於て見解が異っておるからである。或るものは終始法華経を中心として、聖人の御
一代の弘教を判断してゆこうとするし、或るものは聖人を中心として法華経を判断してゆこう
とする。此の二つの立場が基礎となつて、大きく二つの潮流をなして、此の上に幾つもの異義
が成立しておる。
そこで聖人の教義を正しく領解し奉るには先ず此の立場が批判されねばならない。法華経は
仏教の教典中最勝第一であるとし、此れを鉄則として、聖人の教義を此の眼で見て、御一代の
弘教を会通し法華経の要約と敷衍とにあると考えることは、聖人の教学に於て正しい立場とは
いえない。聖人の教義はあくまで聖人の御書に依て判断せられねばならない。
もつとも此の点については上述の無条件に法華経を中心として判断するものと.聖人の御書から
その帰趨は法華経を中心として聖人の弘教をその要約と敷衍とにあるとするものとがあるが、
そういう立場をとる人は知らず知らずの間に前者の跡を踏襲しておるものである。
此れは教学の上から見れぱ明らかである。
最初聖人の門下に於て教学を学ぶものが先ず仏教学として天台を学び、その上に聖人の教義を学
んだのである。それがために天台の教義に制約せられて、真に聖人の御精神を領解し奉ることが
できなかったのである。
後に於ては、かくして成立した教義を踏襲して如何に之を証明づけるかということに努力が払わ
れたのであった。
聖人の御書に接することができるようになってからもその流義のきはんに束縛せられたものには
寧ろ御書はその流義の証明に役立たせるにほかならなかつた。
此れについては二祖日興上人が「聖人の御抄を心肝に染め、極理を師伝して若し間あらば台家を
学ぶぺきこと」と、御遺誡置文に仰せられたが、学者は先ずその態度をはっきり決定して、法門
を学ぶべきと教えられたもので、当時門下に於て天台を学び、その教学を中心として、聖人の
教学に臨むという風があったのに対する御誡めである。聖人の教義は徹頭徹尾聖人の御書によって
決定されねばならない。
ここに於て論者の中には、釈尊と聖人とに於て仏教といえば釈尊が主である。聖人の御書の
意と釈尊の法華経の意といずれをとるかといえば法華経をとるというものがあるが、此れは法
華経に上行を称歎せられ、於諸法之義名字及言辞楽説無窮尽如風於空中一切無障碍と仰せられ
た御文からいって釈尊の証明を尊重しないものである。此の経文の意からいって聖人の御教示
は末法に於ける仏教に於て絶対に権威のあるものである。それ故に聖人の教義は御書に於て決
定せられて少しも差支えないのであって、そうすることが最も正しいのである。 以下略
ご意見を
--------------------------------------------------------------------
顕正居士さん、皿ではなく血でしたね。他の同条件の山なら(発生する、している)ということでしょうか。
それとも清澄のみの特殊現象なのでしょうか。 まぁどうでもいいことですが。
2544
:
犀角独歩
:2005/07/16(土) 14:21:22
ラキさんのご質問は投稿されたスレと異なりますので、こちらに移動します。
> 1)石山系教団で初歩教学で「三転読授」
これは三転読授ではなく、三転読誦といいます。また、石山教団の初歩ではなく、天台法華玄義の所説です。
「依義讀文凡有三轉。一云。是相如…二云。如是相…三云。相如是…明空假中」
十如是を単に3回繰り返して読むだけでは三回読誦です。什意訳の「如是相…」を上記の如く「是相如」「相如是」と三種に転じて読むから三転読誦です。
わたしは十如是は什の意訳なので、これを三転して、空化中に配するというのは、観念観法としては勝手ながら、牽強付会と感じます。単なる什漢訳仏典を弄んだ結果としか、わたしには映じません。異義を感じる方は依用されるのは勝手です。(わたしは、この点で教学議論をする気はありません)
> 2)学生の小僧
小僧さんあたりがやっていることなど、間違いが多いのが当たり前でこんなものを相手取ること自体、わたしにはナンセンスに感じます。たかが石山末寺の小僧さんのやることです。年端も修行も足りない子どもの所作に目くじらを立ててもしようがないでしょう。所詮、文字通り「小僧」のやっていることでしょう。
> 1)勤行の意味そして読授の意味を理解していないのではと感じる事。
理解していないでしょう、当然のことだと思いますが。
> 2)合掌の姿勢と数珠の取り扱いの意味も理解されたないと感じる事。
実際のところ、石山700年の歴史で定説がないわけですから、理解しているはずはないと思いますが。
2546
:
犀角独歩
:2005/07/16(土) 15:28:54
「小僧」と言うことでもう少し書けば、中学1年から6年間も一箇所に隔離して特殊洗脳を施している子どもを「尊師」「僧宝」だと言って異常に持ち上げて、勘違いさせることが、今の石山の深刻な問題を生じさせた原因だと思いますね。
古い檀家さんだったら、小僧など、こづき回して、しかり付けて教育したと言います。
どうも石山寄宿制の子どもたちは、なんだか、異常に俗世間に興味を懐いたりしていると観察していました。この習性が成人以降も継続していて、なにか自分が特別な人間だと勘違いしたうえ、若僧の分際で在家を顎で使うような無礼が罷り通る異常さが、石山法華講の病弊の一つであるとわたしは観察しています。
分別の付かない子どもは、必要以上の期待や、尊重をしないことです。勘違いさせるだけです。こんな勘違いは、石山僧のみならず、正信会のようにやめたあとでも引きずっている人間は、よく散見します。
「なに、威張っているんだ、こいつ。何様のつもりだ?」と思うことは、しばしばあります。
これは悪口になりますか。経験から語る、率直な感想ですが。
2547
:
顕正居士
:2005/07/16(土) 15:36:02
>>2543
Aさん。この文章は「宗祖本仏論」がある富士派を批評する際に参考になる、有益なよくまとまった文章ですね。
だだし誰の何という著書にあるのかを書き忘れておられます。
「凡血の笹」というのは日蓮聖人が求聞持法を成就し、虚空蔵菩薩の堂を出られた際、凡夫の血を吐かれた
(聖者となられた)笹であるらしい。伝説が真実であれば、やはり神薬を服用されたのでありましょう。
2548
:
犀角独歩
:2005/07/16(土) 15:50:34
Aさん
> 日蓮聖人と法華経
これはなにからの引用でしょうか。文献名と頁を明示いただけませんか。
2549
:
顕正居士
:2005/07/16(土) 16:33:38
大石寺65世日淳師の文章であろうかとおもいます。
2550
:
ラキ
:2005/07/16(土) 19:05:13
独歩さんへ。
「三転読授」誤字でした。(^^;
「三転読誦」が石山教学ではなく天台法華玄義の所説とはじめて知りました。
「三転読誦」を正式に確認を取りましたが、十如是を3回繰り返して読むで一貫しているので、
「三回読誦」でと思うことにしました。(^^;
>学生の小僧さん
>勤行の意味そして読授の意味を理解していないのではと感じる事。
>実際のところ、石山700年の歴史で定説がないわけですから、理解しているはずはないと思いますが。
700年の歴史があっても、定説が確立されてないのでは、私が感じるのには、
歴史があっても教義的には、新興宗教と大差ないのではと感じてしまいました。
お叱りを受けるかもしれませんが、初歩の化儀自体が確り統一されて教え込まれてないから、このように感じております。
2551
:
犀角独歩
:2005/07/16(土) 19:20:18
2549 顕正居士さん
代わりにお応えいただきまして、有り難うございます。
2552
:
A
:2005/07/16(土) 23:17:50
今、帰って来ましたので遅くなりました。
またも大事なことを書き落としておりました。
大石寺65世日淳上人でしたか。終わりに昭和22年十月(宗報)とありましたので
宗門文書でしょう。ページはわかりません。
2553
:
犀角独歩
:2005/07/17(日) 00:50:09
Aさん、今後とも継続的なご投稿を希望します。
HNを何かお決めになりませんか。
2554
:
A
:2005/07/17(日) 06:33:00
独歩さん、 ありがとうごだいます。
任意にさせてください。
ご意見にか弱い反駁もありますが、脳力、時間、根気が足りません。
2555
:
A
:2005/07/18(月) 00:38:55
末法は争いのみに明けくれ、互いに自説だけが勝れていると主張して争う、白法穏没、闘諍堅固の時代と 大集経にとかれていると聞く、世相はまさにこのとおりである。
上野殿御返事に曰く。
又念仏は無間地獄に堕つると申す事をば、経文に分明なるをばしらずして、皆人日蓮が口より出でたりとおもへり。文はまつげ(睫毛)のごとしと申すはこれなり。虚空の遠きと、まつげの近きと人みる事なきなり。此の尼御前は日蓮が法門だにもひが事に候はば、よも臨終には正念には住し候はじ。/ 又日蓮が弟子等の中に、なかなか法門しりたりげに候人々はあしく候げに候。南無妙法蓮華経と申すは法華経の中の肝心、人の中の神(たましい)のごとし。此れにものをならぶれば、きさき(后)のならべて二王をおとことし、乃至きさき(后)の大臣已下になひなひ(内々)とつ(嫁)ぐがごとし。わざわひ(禍)のみなもとなり。【正法・像法には此の法門をひろめず、余経を失はじがためなり。今、末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし。但南無妙法蓮華経なるべし。】かう申し出だして候もわたくし(私)の計らひにはあらず。釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御計らひなり。此の南無妙法蓮華経に余事をまじ(交)へば、ゆゆしきひが事なり。日出でぬればとぼしび(灯)せん(詮)なし。雨のふるに露なにのせんかあるべき。嬰児に乳より外のものをやしなうべきか。良薬に又薬を加へぬる事なし。
では、みなさま、またいつか。
2556
:
犀角独歩
:2005/07/18(月) 05:34:03
> 自説だけが勝れていると主張して争う
日蓮自身もその一人でしたね。
2557
:
ラキ
:2005/07/28(木) 23:55:49
卒塔婆供養が、江戸時代に始まったと顕正会員に聴きました。
浅井さんの指導らしいのですが、ネットで調べてもそのような記載が見られませんでした。
連師在世時代でもあった物なのに、卒塔婆供養は江戸時代から始まったものなので、必要ないとは連師の御金言でも
見受けられません。
逆に卒塔婆供養の大切さを言われてると思うのですが、ご指南お願いいたします。
参考にした御書。
■ 行敏訴状御会通 ( gyoubinnsojougoetuu.htm )
「大唐の武宗は四千六百余処を滅失して、僧尼還俗する者計ふるに二十六万五百人なり。去る永保年中には山僧園城寺を焼き払ふ」云云。 「御願は十五所、堂院は九十所、塔婆は四基、鐘楼は六宇、経蔵は二十所、神社は十三所、僧坊は八百余宇、舎宅は三千余等」云云。 去る治承四年十二月二十二日、太政入道浄海、東大・興福の両寺を焼失して僧尼等を殺す。
■ 出家功徳御書 ( syukkekudokugosyo.htm )
凡父母の家を出でて僧となる事は、必ず父母を助くる道にて候なり。 出家功徳経に云く「高さ三十三天に百千の塔婆を立つるよりも、一日出家の功徳は勝れたり」と。 されば其の身は無智無行にもあれ、かみ(髪)をそり、袈裟をかくる形には天魔も恐をなすと見えたり。
■ 草木成仏 ( soumokujoubutuguketu.htm )
妙法とは有情の成仏なり。蓮華とは非情の成仏なり。有情は生の成仏、非情は死の成仏、生死の成仏と云ふが有情非情の成仏の事なり。 其の故は我等衆生死する時、塔婆を立て開眼供養するは死の成仏にして草木成仏なり。 止観の一に云く「一色一香中道に非ざること無し」。妙楽云く「然かも亦共に色香中道を許す、無情仏性惑耳驚心す」。
■ 上野殿御返事 ( uenodonogohennji11.htm )
いまをもひいでたる事あり。子を思ふ故にや、をや(親)つぎ(槻)の木の弓をもて、学文せざりし子にをしへたり。然る間、此の子うたてかりしは父、にくかりしはつぎの木の弓。 されども終には修学増進して自身得脱をきわめ、又人を利益する身となり、立ち還て見れば、つぎの木をもて我をうちし故なり。此の子そとば(率塔婆)に此の木をつくり、父の供養のためにたててむけりと見へたり。 日蓮も又かくの如くあるべきか。日蓮仏果をえむに、争かせうばう(少輔房)が恩をすつべきや。
2558
:
犀角独歩[TRACKBACK]
:2005/07/29(金) 01:06:01
言われている「塔婆」というのは板塔婆のことでしょうか。卒塔婆というのはストゥーパーの音を充てたもので、意味は塔ということでしょう。墓石も広義では塔でしょうし、真偽未決から言えば、本尊(漫荼羅)がそもそも塔でしょう。塔婆批判というのは、石山義から言えば漫荼羅批判につながるんじゃないでしょうか。板塔婆は不用で、漫荼羅本尊は要るというのは、一体、どこで線を引いているんでしょうか。何もわからない連中相手に自分達の団体で用意できないものを、不用といっているのに過ぎないでしょう。まあ、顕正会で塔婆をかけるシステムはないでしょうから。会の浅薄さ、底意が透けて見えています。
だいたい、浅井さんの先代は、妙信講という石山末寺講中の講頭をやっていたわけですから、その頃、塔婆を立てていなかったとすれば、いまの浅井さんの言は矛盾はないわけです。しかしもし、先代が塔婆を立てていたとすれば、要するに、塔婆不要論は、= 先代の行動を批判することになるという構造を、まず、理解すべきです。(このような史実からの批判は、創価学会にも言えます)
いちおう、顕正会は日寛尊崇を採っているわけですが、その日寛が遺志を継いで立てた石山の五重塔。立派な卒塔婆(ストゥーパー=塔)じゃないでしょうか。
さて、引用された遺文は『行敏訴状御会通』を除けば、みな、写本の類ですね。なお、石山で塔婆の意義を言うのに常套される御書は『中興入道御消息』の以下の文です。
「去ぬる幼子のむすめ御前の十三年に丈六のそとばをたてて其の面に南無妙法蓮華経の七字を顕してをはしませば、北風吹けば南海のいろくづ其の風にあたりて大海の苦をはなれ東風きたれば西山の鳥鹿其の風を身にふれて畜生道をまぬかれて都率の内院に生れん、況やかのそとばに随喜をなし手をふれ眼に見まいらせ候人類をや、過去の父母も彼のそとばの功徳によりて天の日月の如く浄土をてらし孝養の人並びに妻子は現世には寿を百二十年持ちて後生には父母とともに霊山浄土にまいり給はん事水すめば月うつりつづみをうてばひびきのあるがごとしとをぼしめし候へ等云云、此れより後後の御そとばにも法華経の題目を顕し給へ」
いわば、これは石山における常識でしょう。(いちおう、予備知識として記しておきます。もちろん、真跡主義からすれば、問題にされることのない御書です)
真跡遺文では「塔婆」の記述は少ないですね。引用以外では、
善無畏鈔「大地微塵の塔婆を立て、大小乗の戒行を尽くし、十方世界の衆生を一子の如くに為すとも、法華経謗法の罪はきゆべからず」
ぐらいでしょうか。
上代、造立されたという板碑は、塔婆と見なせるのでしょうか。
この点は、れんさんがお詳しいと思います。補完いただければ有り難く存じます。
れんさんのご投稿は、「本門戒壇の大御本尊様の偽作説について」などで何カ所か論じてくださっていました。
また、塔婆については愚鈍凡夫さんの以下のご投稿は参考になると思います。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1041207951/r297
まあ、しかし、塔婆不用を顕正会が言ったなんていう枝葉末節の批判は、あまり意味がないような気がします。根本からおかしいわけですから。また、石山義をもってきたり、日蓮門下一般の常識を持って批判しても、そちらにそちらで問題があるわけですから、どんなものでしょうか。
ラキさんも、もっと本質からご覧になることをお薦めします。まあ、そう言ってしまえば素朴な疑問もあったものではなくなりますか。
2559
:
ラキ
:2005/07/29(金) 02:54:21
独歩さん。
ご指南ありがとうございます。
枝葉末端の信者でも、身近な人なので、語って行きたいのです。
ほとんど耳を傾けませんが、文証を提示して説明するささやかな行為ですが、
少しでもきっかけになってもらいたい思いがあります。
私自身は現在、高木豊氏の日蓮。大田出版の書籍を読んでいます。
わかりやすく読みやすくて、とてもためになります。
日蓮宗教学史は苦戦しながら、少しずつ読み進めていってますよ(^^;
追伸。
愚鈍凡夫さんのレスとリング先は、ググッて拝見しました。
2560
:
犀角独歩
:2005/07/29(金) 07:48:20
過日、親戚の納骨に参列しました。浄土真宗大谷派だったのですが、ここは塔婆を建てていませんでした。浄土系の、戒名を使わず、お守りを用いない、占いもしない…、こんな特徴を並べると、実は石山系に、さらに、戒名不用、塔婆不用となると創価学会、顕正会は同じことを言い出したと、通仏教を知っている人から見えます。
浄土真宗は以前からそうであったわけですから、以前は塔婆、戒名を用い、それを使用なくなったと言うことは、儀礼が浄土真宗に近づいた、もしくは模倣したと観察されることになります。しかし、当の信者は大きく首を振って否定することでしょう。この温度差に、信仰というものの本質が含まれていると思う昨今です。
2561
:
パンナコッタ
:2005/07/29(金) 12:29:48
独歩さん、
善無畏鈔の該当部分は欠損部分ではないでしょうか?
該当部分が遡れるのは日興写本ではないでしょうか。
真宗では葬儀の際の”お清め塩”もありませんね。死は穢れではないという思想からで結構な
事だと思いますが、真宗以外の一般会葬者の中では文句を言う人がいるみたいですね。
ラキさん、卒塔婆の豆知識として、
http://www.os-net.jp/butsuji2.htm
ネタとしての伝説の卒塔婆石
http://hanatatibana-na-gi.hp.infoseek.co.jp/east_west/miyajima/miyajima7.html
2562
:
ラキ
:2005/07/29(金) 14:29:49
パンナコッタさん。
伝説の卒塔婆石実物見てみたい思いです〜ロマンだ〜^^
2563
:
藤川一郎
:2005/07/30(土) 07:02:08
顕正会の塔婆不要も戒名扶養も政策的な理由だよ思います。敵対勢力(宗門)が「塔婆が必要」だと言ってるから、こちらは不要にしようという極めていい加減なものでしょう。
まあ、最近では戒名不要と申してますが、甚兵衛さんの「直達院護法甚道居士」は使用できなくなったのか、使用してよいのかすら公式発表はありません。
2564
:
藤川一郎
:2005/07/30(土) 07:04:16
>>2563
訂正します。
戒名扶養→戒名不要です。
「戒名を扶養してどうするんじゃい?」
2565
:
犀角独歩
:2005/07/30(土) 07:15:47
2561 パンナコッタさん
> 善無畏鈔の該当部分は欠損部分…遡れるのは日興写本
そうですか。これは、うっかりしていました。
ご指摘有り難うございます。
> ”お清め塩”
これは石山もやりません。学会ではやるんでしたっけ?
「清め」というわけですから、「穢れ」に対するわけで、この起源はもちろん仏教ではなく神道と言うことでしょうか。
2566
:
ラキ
:2005/07/30(土) 10:50:32
藤川一郎さんへ。
塔婆不要も戒名不要、仏教を否定してる行為だと感じますね。
「戒名を供養の方がよかったかも?^^)
独歩さん。
破門前の学会では、お清め塩は使用してました。
破門後も私が知ってる範囲では、お清め塩は使用したことがあります。
2567
:
ラキ
:2005/07/30(土) 10:59:55
御形ギ本尊のサイズて、歴代により大きさが異なるのでしょうか?
摂受本尊は大、中があるのはわかるのですが、信者配布の印刷タイプが少し気になりまして、
お分かりの方がいましたら、お教え願います。
よろしくお願いいたします。
2568
:
パンナコッタ
:2005/07/30(土) 12:04:37
ラキさん、
寛師八界、昇師、達師、顕師 と 大きさが区々だったような記憶ですね。
身延にある仏具屋さんでは、各種あるみたいですね。
http://www.minobusan.net/
2569
:
ラキ
:2005/07/30(土) 14:14:07
パンナコッタさんへ。
ありがとうございます。
会館安置の本尊のサイズが気になりまして。
大幅と中幅の本尊の数には、そんなにないはずだから、御形ぎ本尊が会館の各部屋に
安置されていて、サイズが大きいのが気になったのです。
そして、紙の色が異様に白すぎるのも違和感を感じ気になったしだいです。
表面がガラスで覆われていても、あの白さは、高級ケント紙ぐらいの見事な白さだと印象が残り、
30年以上前の本尊にしては、綺麗過ぎて不自然だと思ってしまったのです。
2570
:
初心者
:2005/07/31(日) 02:19:44
いつも拝見して勉強させてもらってます。
お尋ねしたいことがあるのですが
東京周辺に大石寺以外の末寺ってありますか?
ご存知の方がいらっしゃったら教えて下さい。
2571
:
初心者
:2005/07/31(日) 02:43:02
2570です。
大石寺以外の興門の末寺です。
2572
:
犀角独歩
:2005/07/31(日) 12:21:55
ラキさん、2569は顕正会について、ですね。
そのように判断し、「顕正会の実態を検証する」に移動し、やや応答させていただきます。
http://jbbs.livedoor.jp/study/364/
#5
2573
:
顕正居士
:2005/07/31(日) 21:50:42
>>2570
日興門流は今の静岡、山梨、千葉、京都などの府県に勢力を有していました。東京への進出は大石寺派が
ある程度成功したくらいではないでしょうか。又、終戦後、妙蓮寺、妙本寺、要法寺、西山本門寺が単称日蓮宗
から離脱しましたが、旧来のいわゆる末寺の多くが単称日蓮宗に止まっています。
もし、別の寺院の檀徒になりたいという御趣旨でしたら、今少しどのあたりを良いとおもうのか、決まってからの
ほうがよいのでは。個人的には、応援する寺院の住職は最低、立正大学の仏教学か宗学の卒業生、か同等
の学力を有する方から選ぶのがよいとおもいます。
2574
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/08/01(月) 21:11:43
>2570,2571 初心者さん
はて? 東京近郊の興門派寺院(大石寺末を除く)の情報がなぜ必要なのでしょうか?
それはともかく、北山本門寺末では下記寺院があります。
神奈川県
海老名市 本興山常在寺
厚木市 宝松山本禅寺
横浜市瀬谷区 白東山宗川寺
茅ヶ崎市 辧財山蓮妙寺
東京都
中野区 泉光山蓮華寺
新宿区 萬年山法輪寺
埼玉県
行田市 須加山本法寺
なお、新宿区の法輪寺には寺宝として鉄砲曼荼羅があるということです。剥離表装でしょうか?
2575
:
犀角独歩
:2005/08/02(火) 20:52:26
鉄砲漫荼羅の「弾の痕」がどうなっているのか…。わたしはこの点に興味がありました。何故ならば、『御本尊集』でみる同漫荼羅の該当部分は四角い紙で覆われて見えなくなっているからです。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/033.html
ところが、たしか中尾師であったと思いますが、この弾痕部分は四角く切り取られて、この部分を家康?がお守りとしていたということでした。この話はどこで読んだか・聞いたか、失念しましたが、そんな話でした。漫荼羅そのものより、弾痕のほうが霊験あらたか、護符になるというのは、なんだかおかしな話だと思った次第です。
しかし、この漫荼羅も剥離表層ありですか。北山は、この技法で漫荼羅を水増ししてきたわけでしょうか。
2576
:
犀角独歩
:2005/08/03(水) 15:15:41
彰往考来さんから、わたしが「剥離表層」と記すのは変ではないのかというメールを頂戴しました。(ご本人におことわりのメールを出し、ここに記載します)
同じような疑問を懐かれている方もいらっしゃると思いますので、いちおう、記しておきます。
はくり 1 【▼剥離】
(名)スル
剥(は)がれてとれること。また、剥がしてとること。
「網膜が―する」
ひょうそう へうさう 【表装】
(名)スル
書画の保存と鑑賞のために布・紙などで縁どりや裏打ちなどをして掛軸・額に仕立てること。また、布または紙をはって、屏風(びようぶ)・襖(ふすま)などに仕立てること。表具。
ひょうそう へう― 0 【表層】
表面の層。うわべ。
(三省堂提供「大辞林 第二版」)
という意味で、本紙を2枚に分かつことは、むしろ「相剥(あいへぎ)」というほうが良いのだろうと思います。この2枚に分かつ際に表層を剥ぐという意味でわたしは「剥離表層」と記してきました。つまり、表装という保存干渉のための加工とは別のことであると考えてきたからです。
ただし、彰往考来さんがご指摘くださるとおり、門下一般では、「剥離表装」が慣用となっていると思います。しかし、表層を剥離することと、表装することは別の作業であると思いますので、勝手ながら、わたしは「剥離表層」「相剥」「表装」と使い分けたいと思っています。
まあ、混乱するようでしたら、取り決めとして、「剥離表装」としますが。
2577
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/08/04(木) 07:33:26
2574で法輪寺の鉄砲曼荼羅は、剥離表装ではないかと記しましたが、私は実物はおろか写真さえ見ていませんので、私見を述べたのにすぎないことをお断りしておきます。
参考までに、『本門寺並本末寺院縁起』(昭和57年、大本山本門寺、338頁)によれば東京都新宿区の法輪寺の寺宝は下記の3点です。(丸数字は原文にはありません。)
①天四海皆帰妙法領加由来危難除鉄砲曼荼羅
②楽産福子子安曼荼羅
③厄病除御大事曼荼羅
この記述によれば、法輪寺の寺宝は北山本門寺蔵の御本尊と重複していることがわかります。以下、北山本門寺蔵御本尊について若干述べます。
北山本門寺には伝・蓮祖御本尊が合計11幅所蔵されているようですが、これら11幅のうち『富士宗学要集 第八巻〔史料類聚Ⅰ〕』などの文献にでてくる北山本門寺蔵の蓮祖御本尊は以下のとおりです。〔〕内は記載のある資料名の記号です。そのうち、『御本尊集目録』に入集しているのは第33番本尊の鉄砲曼荼羅だけです。
(1)建治2年2月(鉄砲漫荼羅) 〔A,B,C,D〕
(2)建治2年卯月 〔A,C〕
(3)建治2年8月13日(亀弥護りなり) 〔A,C〕
(4)弘安3年3月(石川新兵衛授与) 〔A,C〕
(5)弘安3年5月9日(禅師授与) 〔A,B,C〕
(6)弘安3年11月 (子安漫荼羅) 〔A,B,C〕
(7)弘安4年10月(俗平太郎□□□) 〔A,C〕
(8)文永5年5月27日(京極光綱授与) 〔B〕
<資料> A:堀日亨編『富士宗学要集 第八巻〔史料類聚Ⅰ〕』
B:『本門寺並本末寺院縁起』
C:山口範道『日蓮正宗史の基礎的研究』
D:山中喜八編『御本尊集目録』
こうしてみると、①と(1)、②と(6)が重複している可能性が極めて高いことがわかります。③は『本門寺並本末寺院縁起』の116頁に「本門寺出開帳縁起 其の二 日蓮聖人 文永五年五月廿七日京極左エ門垂沢光綱授与之 御大事御本尊、是ノ語本尊ハ略本尊テアリ衆病悉除御本尊トモ云ヒ」とあることから(8)と重複すると判断いたします。
上記(1)〜(8)のうち、重複所蔵などがあるものを列記します。
(1)は法輪寺と、(3)は大阪市某家(第39番本尊)及び日向定善寺と、(5)は富士大石寺と、(6)は法輪寺と、(7)は千葉随喜文庫(第113番本尊)と、(8)は法輪寺と重複所蔵されていることがわかります。
(2)は重複しているかどうか確実ではありませんが、『奉蔵於奥法寶』によれば同日付の御本尊を古川市の藤本勘蔵氏が所蔵しています。あの富士大石寺第56世日応師が裏書している御本尊ですから、北山本門寺蔵と重複の可能性大です。
(4)は重複御本尊の所蔵は文献上確認できませんでしたが、堀日亨師はこの御本尊について「正しくは真偽未決のもので、立正安国会の写真目録にも省いており、ことに「石河新兵衛」以下の文は、正しく興尊の筆に似ないものである。」(『富士日興上人詳伝』(昭和38年第1刷、創価学会、764頁)と指摘されていて、北山本門寺蔵の(4)がご真筆ではない(もしくは剥離表装の影本である)ことを指摘していますので、ご真筆(剥離表装の正本を含む)が他にあった可能性を示唆しています。
以上のことから上記(1)〜(8)すべてが重複していて模写もしくは臨写あるいは剥離表装本がある可能性が高いという何ともはやという結果となりました。
2578
:
犀角独歩
:2005/08/04(木) 11:08:25
> 2577
事実であれば、これはなかなかの話ですね。もちろん、彰往考来さんのご指摘です。信憑性は高く感じます。
なぜ、禅師漫荼羅が北石両山にあるのかも含めて、日蓮漫荼羅をめぐるタブーの記載と感じました。
2579
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/08/05(金) 12:48:59
>2576 犀角独歩さん
工業用途では、『表層剥離』という言葉の使い方があります。世間でよく使う類似の用語としては『網膜剥離』があり、これと文法的には同じです。
『表層剥離』とは文字どおり“表層”が“剥離”することです。“表層”の反対語は“下層”です。解りやすい例えで説明しますと、テフロンコーティングしたフライパンがあるとします。これの“表層”はテフロン層であり“下層”は鉄などからなるパン層です。このテフロン層が何らかの理由で剥がれることを『表層剥離』というわけです。『表層剥離』の場合、通常は剥がれた表層はどこかに散逸する場合が多く、剥離原因などは残されたパン層側に残った表層と下層であるパン層およびその界面を分析して追及することになります。
さて、『表層剥離』と『剥離表層』。異なる概念なので問題はないはずなのですが、どうでしょうか。混乱しませんか? 実は私は混乱しているのです。
>この2枚に分かつ際に表層を剥ぐという意味でわたしは「剥離表層」と記してきました。つまり、表装という保存干渉のための加工とは別のことであると考えてきたからです。
紙を2枚に分かつことは、むしろ「相剥」というほうが良いのだろうと思います。
個人的には『剥離表層』の持つ意味は理解できるのですが、「相剥」であれ、剥離された表層と下層をそれぞれ“表装”するのですから“表層を剥離すること”と、“剥離した表層を表装すること”は別の作業ではなく一連の作業ではないでしょうか。用語として『剥離表装』があるのですから無用の混乱を避ける上で、あえて『剥離表層』とすべきかどうか再考していただけませんか。もちろんその結果犀角独歩氏が今後とも『剥離表層』をお使いになるのであれば、そのご判断を尊重します。言葉は生き物です。辞書にあるとかないではなく使われていれば、生きているということになりますので。
2580
:
犀角独歩
:2005/08/05(金) 13:41:07
彰往考来さん、
御丁寧に有り難うございます。
ちょっと質問させていただきたいのですが、「剥離表装」という言葉を、彰往考来さんは、どこでお知りになりましたか。『日蓮正宗史の研究』ですか。それとも他の文献でしょうか。松本佐一郎さんも使っていましたっけ?
もし、上記であれば、そもそも、この山口さんの用法が間違っているとわたしは思います。
漢語的な話になりますが、剥離表装を訓読すれば、「表装を剥離する」となりませんか。つまり、表装(飾り・裏紙・軸等)を剥離して本紙だけにすることです。
わたしは漢文読みが仕事ですから、なんでも訓読する習慣があります。
剥離表装は、表装を剥離、表側の装飾を剥いで離すという以上の意味は持ちようがありません。つまり、本紙を2枚に分かつ意味は持ちませんし、さらにそれを別々に2つ掛け軸に仕上げるまでの意味を持つというのは、想像力の賜物ではないでしょうか。
それならば、2層となっている紙の層の表側を剥がし離して2枚にする(剥離表層)というほうが、言葉としてはずっと正確です。
第一表装を剥離するというのは、内装屋さんも使う言葉です。この場合、表装(壁紙)を剥離して、壁材そのものを露出することです。
では、どういうべきか。やはり、相剥でしょうか。しかし、この段階は本紙を2枚に分かつわけですから、表装は意味しません。
> 表層を剥離すること”と、“剥離した表層を表装すること”は別の作業ではなく一連の作業ではないでしょうか
いや、以上の次第ですから、これは全然別の作業です。
細かいことを言えば、剥離表層=相剥ですが、これは表装とは別の作業でしょう。
また、もう少し厳密に言えば、相剥というのは、表層の際に本紙を削ぎ、表装に馴染ませることの意味のほうが強いように思えます。しかし、この辺は実際に作業をしたことも立ち会ったこともありません。
> 『表層剥離』と『剥離表層』
これが混乱するようでしたら、この使用はやめることにします。
ただし、剥離表装という言葉もまた、一般には通用しないような気がします。
「表装」「剥離」と2つの成句を並べれば、一般社会では住宅内装の話でしょうね。
「和紙は漉いたものなので、その厚みから層を成している。そのために2枚以上に分離できる。書画が図された和紙の表面を剥いで2枚にしてしまい真筆を2つにしてしまうことができる」と、曖昧な成句を使わず、説明したほうがわかりやすい気がします。
「剥離表装」、山口さんが使いだした言葉なら、ついでに廃止するのも一考かと思います。
せっかくのご指摘を受けましたので、「剥離表層」という語の使用はやめ、今後は「相剥」で一貫することといたします。
2581
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/08/08(月) 07:50:30
>2580 犀角独歩さん
「剥離表装」とは“和紙に書かれたものを薄く剥いで二枚にし、各々表装したもの”という定義でしょうが、これは骨董業界用語では「相剥(あいは)ぎ本」や「剥離本」とも呼ばれ、「メクリ」、「ヒコーキ」といった隠語があるようです。「剥離表装」は山口範道師の『日蓮正宗史の基礎的研究』(1993年、山喜房佛書林、14頁)に出てくるのですが、犀角独歩さんのご指摘のとおり同書以外で「剥離表装」という言葉が管見に入ったことはありません。私も前々からこの点を疑問に思っていて色々調べたのですが調査した範囲内では「剥離表装」という記載は見つからないのです。正式な名前は失念しましたが『骨董用語辞典』の類などにも載っていなかったと記憶しています。もちろん、『日蓮正宗史の基礎的研究』が発行された1993年以後で同書の影響を受けたと思われる文献、資料の類を除きます。その意味で私の書いたものに出てくる「剥離表装」は同書の表現を採用しているといえます。ただ『日蓮正宗史の基礎的研究』を除く文献、資料に「剥離表装」が見あたらないことから山口師の造語であると言いえるかどうか。その可能性を否定するものではありませんが私は「剥離表装」という言葉は一部の表装屋で使われているのではと思っています。同じ業界でも会社、職場が異なれば違った表現というのは存在するからです。それに「剥離表装」という表現がいかにも職人言葉のようで、言い得て妙だからです。もちろんそれが文法的にみて正しい表現であるとは限りません。山口師がたまたま知っていた表具屋の表現をそのまま使用したにすぎないというあたりなのかもしれません。山口師の造語であるかどうかは推論にすぎず議論しても結論はでないでしょうし、どちらであれ話の本筋に影響はないと考えます。
山口師の造語であろうがなかろうが『日蓮正宗史の基礎的研究』を除く文献、資料に見あたらない以上、私も今後、『日蓮正宗史の基礎的研究』の記載内容の引用時などを除き、「剥離表装」という表現を使用せず「相剥」もしくは「相剥本」を使用するようにします。そのほうが一般的だと考えるからです。下記に紹介します大宮知信氏の著書にもでてきます。なお、『日蓮正宗史の基礎的研究』には「剥離表装」が記載されているわけですから、他の人が「剥離表装」という表現を使用されることについて、私はとやかく申し上げる立場にはありません。
「相剥」は、いわばまがい物を作っている裏社会で通用している技術でしょう。そのため、この技術について記載している資料は極めて乏しいのが原状です。泥棒がその手口を公開した資料が少ないのと同じでしょう。せっかくですから、この機会にその乏しい中で「相剥」について解説した資料を少々長いですが下記に引用します。原本中の振り仮名は当該漢字の後( )内に記しました。
2582
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/08/08(月) 07:51:05
2581の続きです。
大宮知信氏は『お騒がせ贋作事件簿』で「相剥ぎ」、「ヒコーキ」を解説しています。
「相剥(あいは)ぎ本も数多く出回っている。相剥ぎとは紙を薄く剥いで二枚にしたもので、剥離本(はくりぼん)ともいう。鉄斎が使用していた紙は、中国製の玉版箋(ぎょくばんせん)で厚みがあってよく水を吸う紙質だったため、老練な表具師だったら二枚に剥がすのはわりあい簡単にできるのだ。業界用語で〝ヒコーキ〟と呼ばれる代物である。剥がされた1枚が上に飛んで、どこかへ売られていくことからこういう隠語が生まれたらしい。この高等技術は和紙に描かれた絵にも適用できる。絵が紙の下層にまで写り込むので、もう一枚の〝真作〟を作ることが可能なのだ。
「相剥ぎ本で多いのは室町時代の書や墨絵ですね。書や墨絵は剥がしやすいんです。真作のあとに作られる相剥ぎはどうしてもかすれや弱い部分が出てくるから色を差したりする。本物はなかなか手に入らないからこういう相剥ぎ本が十分通用している」(村越英明館長)
ヒコーキは厳密にいえば贋作ではない。一つの作品から複数の「作品」を作るわけだから、真作のコピーともいえる。印刷したものやコピー機による複写よりもはるかに人間的のような気もするが、美術業界ではこれもまがい物として扱われる。京都以外の地で作られるものは「田舎様」と呼ばれ、あまり出来がよくないそうだ。こうした相剥ぎ本は鉄斎だけでなく、横山大観、河合玉堂、速見御舟(はやみぎょしゅう)などあらゆる大家の作品に見られる。」(大宮知信『お騒がせ贋作事件簿』2002年、草思社、64頁、引用者注:村越英明氏は宝塚市の清荒神清澄寺(きよしこうじんせいちょうじ)境内にある鉄斎美術館館長)
三杉隆俊氏は『真贋ものがたり』で「メクリ」を紹介しています。葉書の表裏を同時に貼るのは、「相剥」の有効な手段ではあると思います。
「「メクリ」との出会い
もう四十年も前のこと、私は古本市になにか面白いものはないだろうかとでかけた。ちょうと折畳み式の画帖のような物があり、開けると明治から大正期にかけての有名人の葉書が貼られている。だが気をつけて見ると、一面は葉書の正面、すなわち宛名と住所が記されており、もう一面には裏面の本文が貼られている、しかしどう考えても両方とも墨書の本物であり、達筆である。
そのコーナーの古本屋の主人は知人であったので、「これはいったいどうしてあるのですか」と聞くと、「うん、メクリだよ」との返事。私はまだ知識の浅い頃とて、「メクリってなんですか」と聞いてみた。すると主人は「その頃は和紙で丁寧に葉書を漉くいていたが、上手な表具師に依頼すると、うまくこのように表と裏に一枚の葉書を分けることができる。それをメクリというのだよ」と教えてくれた。さらに紙の墨書や、紙に描かれた特に墨絵で色彩の少ない物は、この葉書と同様に二つに分けることができる。要するに「本物」が二つできてしまう、だから表装する時は信頼のおける表装屋に出さなくては、とも言われた。ただ気をつけて見ると黒白の境界や印の色などが少しにぶくなっている。でもともかく「本物」が二つできたということには変りがない。」(三杉隆俊『真贋ものがたり』1996年、岩波新書、54頁)
2583
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/08/08(月) 07:51:44
2583の続きです。
中島誠之助氏は、「相剥」について『ニセモノ師たち』の中で述べていましたが、「相剥」などの名前は記していません。以下、その箇所を引用します。
「名僧が禅語などを一行にしたためた「墨蹟一行(ぼくせきいちぎょう)」は、茶掛け(茶席の掛物)として人気のあるものです。
この墨蹟の掛軸を修復するために表具屋に出したとしましょう。もし仮に、よこしまな表具屋だったとしたら、その職人は一枚の本紙の表面を薄くはぎとって、作品を二枚にしてしまうことだって、素材が和紙ゆえに実際にはできるのです。そうすると両方ともホンモノになってしまうわけです。
もちろん、それはやはりキズモノということなのですが、ただ和紙に描かれた同じものがキズモノかどうかという判断は、なかなかむずかしい。とはいえ希少価値を尊び、生まれた姿を大切にするという骨董本来の目的から見れば、当然のことですが、価値が半減すると思います。自分の所有している掛軸と寸分違(たが)わぬものがよその家にあるという、ちょっと気持ちの悪い話になるわけですが、その原因はこのような表具師の優れた技術にあるわけです。」(中島誠之助『ニセモノ師たち』2001年、講談社、176頁)
三名の方の記述を紹介しましたが、「相剥本」について大宮知信氏は“美術業界ではまがい物として扱われる”とし、三杉隆俊氏は“「本物」が二つできてしまう”とし、中島誠之助氏は、“ホンモノだがキズモノということ” としています。三者三様です。さて、御本尊の「相剥本」はどうでしょうか。私見ですが私は大宮知信氏の意見に近いです。漫荼羅は信仰の対象ですから、宗祖が残した信仰の対象を人為的に二つにしてそれぞれを御真筆として信仰の対象とするには抵抗があります。漫荼羅の「相剥本」は“まがい物”というよりは“お写し”に近いものでしょう。もし漫荼羅を骨董としてみるなら中島氏の意見でしょうが信仰の対象である漫荼羅は書画骨董とは違います。
以上、 by 彰往考来(しょうおうこうらい)
2584
:
犀角独歩
:2005/08/08(月) 09:23:38
彰往考来さん
2581〜2583のご投稿、拝読しました。
いつものことですが、いやましてしかし、今回の御文はたいへんに参考にもなり、何より興味深く拝読しました。
読後、思ったのですが、危ない表具業者にうっかり出すと、相剥本を作られてしまうという危険があるわけですね。用心するにも、そんな美術品は所持していないのですが、裏文化には裏文化の達人というものがいるのだと、変なことで感心しました。
朝からたいへんに勉強になりました。
有り難うございました。
2585
:
独学徒
:2005/08/08(月) 23:21:12
掲示板参加・閲覧の皆様、ご無沙汰しています。
「孤高之求道人」改め「独学徒」です。このほうがより現状を正しく表現したHNだと思い、変更させていただきます。
話が戻ってしまいますが、本年4月の北山の御風入れでは、鉄砲曼荼羅の御形木木版が展示されていました。
そのことを思い出し、ひょっとしたら議論に上がっている鉄砲曼荼羅は、御形木ではないかと単純に思いました。
また今回は、普段御風入れでは展示しない、御大事御本尊も展示されていました。
紙本の中央に題目が書かれており、その周りを各諸尊が泳ぐように円を描いて勧請されているといった感じでした。
とても宗祖の書かれた曼荼羅とは思えませんでした。
以上簡単ですが、報告させていただきます。
2586
:
犀角独歩
:2005/08/09(火) 18:41:00
独学徒さん、お久しぶりです。
鉄砲漫荼羅の版木ですか。それはたいそうなものですね。
中世には、この版木そのものが信仰対象になっていたのではないのか、それがのちに板漫荼羅信仰へと変化したのではないのかという課程は成り立ちそうです。この点は、籠抜漫荼羅でも同様と思えます。
虫払は4月ですか。翌5月には鉄砲漫荼羅は修繕と調査のために北山から持ち出されましたね。
北山は、何かと話題には事欠かない寺院ですね。
2587
:
独学徒
:2005/08/10(水) 01:31:57
犀角独歩さん、返レス有難うございます。
北山の御風入れに参加して、所謂「日禅授与曼荼羅」が小さいと感じました。
古記録によれば、大石寺彫刻本尊は丈144センチであったと記憶しています。
私の思い違いかもしれませんが、今回北山で拝観した「日禅授与曼荼羅」は、紙本部分が1メートルそこそこであったように思います。
これは「日禅授与曼荼羅」のすぐ隣に、身長160センチくらいの男性が警備で立っていたので、その方と比較して大体このくらいだろうと思いました。
寸法を北山に問い合わせましたが、測っていないので判らないとのことでした。
一方、大石寺の「日禅授与曼荼羅」は、興風談所大黒師の日興門流上代事典によれば、相貌のみならず大きさまでほぼ同じと書かれていたと思います。
もし北山と大石寺のものが寸法が違った場合は、所謂「メクリ」ではなく別な手法によって作成されたものとなりますでしょうか。
このような点も、オフ会にてご意見を伺えればと存じます。
2588
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/08/10(水) 07:37:49
>2585 独学徒さん
>ひょっとしたら議論に上がっている鉄砲曼荼羅は、御形木ではないか
そうですね。法輪寺の鉄砲曼荼羅は実物を拝見していないので、何ともいえませんが、御形木の可能性はあるでしょう。ただ法輪寺所蔵の三幅の伝・蓮祖御本尊がすべて御形木であるといえるかどうかは実物を見ていない以上、判断できません。
蓮祖の御形木御本尊がご真筆と誤って伝えられたと考えられる例はあります。
『日蓮教學研究所紀要 第14号』昭和62年、立正大学日蓮教学研究所)の<史料紹介>(14)には中山法華経寺に所蔵される日蓮聖人真筆の目録が5点紹介されています。その中で仏心院日著による慶長3(1598)年の『正中山御霊宝目録』(堺市妙国寺蔵)には「一 従上方持下日頂授与之三枚次之大曼荼羅 一幅 当山江令寄進之」(『日蓮教學研究所紀要 第14号』、<史料紹介>20頁)と、中山法華経寺に日頂授与の蓮祖漫荼羅が寄進されたと記しています。文政8(1825)年の日亮による『正中山本妙法華経寺御霊宝目録鑑』(中山法華経寺蔵)には、「一 日頂授与漫荼羅 一幅 以上合十三幅也」(『日蓮教學研究所紀要 第14号』、<史料紹介>38頁)とあって、ご真筆として扱っているようです。ところが、正徳2(1712)年頃の『正中山法華経寺御霊宝目録』(堀之内妙法寺蔵)には、「一 日頂授与之漫荼羅 一幅 日養云此一幅者御形木也」(藤井教雄編『御本尊鑑 遠沾院日亨上人』昭和45年、身延山久遠寺、196頁)とあって、この漫荼羅は御形木であると指摘しています。いうまでもなく日頂授与の蓮祖漫荼羅は村松海長寺蔵の第53番本尊です。従って中山法華経寺曾存(明治32年5月7日の盗難で失われたもの)の日頂授与之漫荼羅は御形木御本尊であったと判断されます。
>御大事御本尊も展示・・・紙本の中央に題目が書かれており、その周りを各諸尊が泳ぐように円を描いて勧請されているといった感じ・・・とても宗祖の書かれた曼荼羅とは思えませんでした
首題の周りを各諸尊が泳ぐように円を描いて勧請されているという御本尊は珍しいですね。私は御大事御本尊は拝見していないのですが、首題の周りを各諸尊が泳ぐように円を描いて勧請されているという御本尊の例は日向師の御本尊にあり、写真は身延山短期大学出版部編『身延山久遠寺蔵版『本尊論資料』新訂版』(昭和53年新訂複製版)に入集しています。この御本尊は同書によれば、「藻原門流祖民部阿闍梨日向上人真筆本尊・・・建治二年八月廿六日 授興之日辨日秀日禅・・・同頼圓蓮海等者也」とあり静岡感應寺寶蔵ということです。しかしこの御本尊は偽筆でしょう。蓮祖在世中に御門下が御本尊を図顕するとは考えられません。御大事御本尊も日付けが文永5年なので、偽筆の疑い濃厚と思います。詳細は略しますが、蓮祖の御本尊図顕は文永8年からと考えるからです。
2589
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/08/11(木) 10:25:59
独学徒さん
『日蓮正宗 大石寺』(昭和45年、東西哲学書院、90頁)には富士大石寺蔵の禅師授与漫荼羅の記載があり、それによると丈111センチ、幅58.3センチということです。
従いまして貴殿が2587でご指摘の“今回北山で拝観した「日禅授与曼荼羅」は、紙本部分が1メートルそこそこであったように思います”というのは妥当な線だと思います。
なお表装の際に周囲を少し切られますので、仮に相剥であったとしても2幅の御本尊の寸法が正確に一致するとは限りません。
参考までに同書(85頁)によれば戒壇本尊の寸法は、丈141センチ=4尺6寸5分 幅66センチ=2尺2寸 厚さ6.6センチ=2寸2分 とあります。
2590
:
犀角独歩
:2005/08/11(木) 10:35:50
独学徒さん
彰往考来さん
> …富士大石寺蔵の禅師授与漫荼羅…丈111センチ
> ……戒壇本尊の寸法は、丈141センチ
わたしは石山彫刻本尊は禅師授与漫荼羅を臨模・作為したという考えで落着しています。
今回のご投稿を一見された方は大きさに差があると感じられることでしょう。
しかし、この各丈から比較はできません。何故ならば、彫刻本尊には日蓮花押の下に、所謂、腰書「右造立如件…敬白 弘安二年十月十二日」と刻まれた部分があるからです。
ですから、四大天玉から日蓮花押までの丈が同じであっても、その腰書分、彫刻本尊が丈が長くなければ、寧ろ、同じといえないことになります。
2591
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/08/11(木) 16:24:24
>2588
誤記訂正です。
誤:建治二年八月廿六日 授興之日辨日秀日禅・・・同頼圓蓮海等者也
正:建治二年八月廿六日 授興之日辨日秀日禅頼圓蓮海等者也
2592
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/08/11(木) 17:04:40
>2590 犀角独歩さん
2589はちょっと誤解を受ける書き方になっていたようで申し訳ありません。ここで言いたかったことは、北山と石山の禅師授与漫荼羅の寸法は同じである可能性が高いということです。
2587で独学徒さんが、
>もし北山と大石寺のものが寸法が違った場合は、所謂「メクリ」ではなく別な手法によって作成されたものとなりますでしょうか。
と疑問を呈しておられましたので、
>今回北山で拝観した「日禅授与曼荼羅」は、紙本部分が1メートルそこそこであった
とのことから、石山の禅師授与漫荼羅の寸法が111センチであるのでむしろ一致しますよ、というのが主眼です。
また2587に
>古記録によれば、大石寺彫刻本尊は丈144センチであったと記憶しています
とありましたので、参考までに『日蓮正宗 大石寺』の戒壇本尊の寸法記載内容を記しておいたものです。同書では141センチとしていて独学徒さんが言われている144センチと差があります。独学徒さんが言われている144センチというのは「有師物語聴聞抄佳跡 上」(『富士宗学要集 第1巻』251頁)もしくは完則図もしくは日量師「富士大石寺明細誌」(『富士宗学要集 第5巻』334頁)に記載がある“4尺7寸5分”のメートル法への換算である143.9センチのことです。
禅師授与漫荼羅が戒壇本尊の基となったという貴説ではご指摘の腰書部がありますので寸法が同じになることがないのは了解しています。もう一つ。貴説では戒壇本尊は部分的なパッチワークというお考えですから、この点でも禅師授与漫荼羅と戒壇本尊で同じ寸法にはなりませんね。
13日のオフ会には所用があり残念ながら参加できません(要法寺の称徳曼荼羅のコピー見たかったなあ)ので、石山の禅師授与漫荼羅の寸法を掲示板に投稿しておいたものです。オフ会ご出席の皆様によろしくお伝えください。
2593
:
犀角独歩
:2005/08/12(金) 00:02:05
彰往考来さん
> …パッチワーク…禅師授与漫荼羅と戒壇本尊で同じ寸法にはなりませんね。
ええ、まったくそのとおりです。
わたしは、木材に合わせて、パッチワークではないのかと思っています。
それにしても、今回の独学徒さんのご指摘で、「南」にも、やはり、光明点あり。
彰往考来さんといい、独学徒さんといい、また、れんさんといい、彫刻本尊に関する皆さんのご賢察には、ただ、敬服します。
> オフ会…参加できません
それは残念です。
独学徒さんとのツーショット、議論を生でお聞きしたかったですね。
しかし、先はあります。次回のご参加をお待ちいたします。
2594
:
独学徒
:2005/08/12(金) 11:42:59
彰往考来さん
犀角独歩さん
日禅授与曼荼羅の石北両山の寸法のこと、彫刻本尊との関係について、ようやく私なりにすっきりしました。
石山と北山の日禅授与曼荼羅は、どちらもほぼ同じ寸法と考えられ、かねてより諸兄より指摘されている通りどちらかが「メクリ」である可能性が強く、石山彫刻本尊は花押下部に腰書があることや、文字ごとのパッチワークであることを勘案しますと、実寸法による比較は妥当ではない。
本年4月に北山にて、日禅授与曼荼羅を実見した折に感じた疑問は、ここでの議論によって犀角独歩さんの御所論を追認する結果となりました。
2595
:
海野
:2005/08/17(水) 17:48:46
素朴な疑問です。
興門八本山のうち、昭和十六年の「三派合同」で「日蓮宗」に合同した本門宗の七山
のうち、三山は、いまでも日蓮宗内にとどまっています。
これらの本山とその末寺では、いまでも「宗祖本仏論」や「勝劣派」など富士門流の教
義が維持されているのでしょうか。それとも、「釈尊本仏論」「一致派」に改宗させら
れてしまったのでしょうか。
2596
:
顕正居士
:2005/08/18(木) 08:35:30
富士派は大本山同士が常に抗争して来ましたが、教義や慣習には共通のものがあります。
しかし堅樹日寛以降の大石寺の教義は極めて独自であって、明治の末には大石寺は単立し、
やがて日蓮正宗と名乗ります。日蓮宗は祖山を中心とした法人であって、さまざまな門派を
包括しています。それぞれの伝統はそのままに、今は立正大学を主体とする近代教学の建設
段階に移行しているといえます。
2597
:
犀角独歩
:2005/08/18(木) 21:13:35
海野さん、はじめまして、でしょうか。
ご質問の趣旨は顕正居士さんが、お答えになったところが流れであると存じます。
僭越ながら、管見を吐露すれば、たとえば、北山本門寺は先代の延山寄り教学から、重須教学への復興を目指しています。そこでは、もちろん、日蓮本仏論が取り沙汰されるわけです。石山が自宗のもののようにいう二箇相承、富士一跡門徒事、五人所破抄をはじめ、日興に係る教学は、独り北山にその所有があります。功罪両面に亘り、自山の責任として考える器量を本間師は標榜しているでしょうし、また、上杉師にしてもしっかりと日蓮本仏を主張しています。
先の合同は、「日蓮宗教学の中に日蓮本仏論もある」ということが闡明になったという成果であったととらえることもできます。それ故、島田裕巳師は「創価学会と日蓮宗、外から見れば、教学自体はそんなに違っては見えない」という感想を漏らすのは、このような事情によると思います。
2598
:
教えてください
:2005/08/21(日) 00:28:10
パソコンを購入したので、初めて書き込みというものをしてみます。ぜひ教えてほしいことがあります。本門正宗の小野寺さんが主催している宗旨は、その著作本などを読むと、一見歴史的に正しいように思われますが、あの大本尊といわれるものや、生御影などは偽物なのでしょうか。次にかの玉井礼一郎さんは今、どうしているのでしょうか。いわゆる富士派といわれるところから派生した数々の小団体は、今どうしているのか教えてほしいのです。そのことを知るには、どんな書物を読めばいいのでしょうか。たいへん学術的なコーナーにつまらない質問をすることをお許し下さい。
2599
:
犀角独歩
:2005/08/21(日) 06:59:45
> 2598
玉井さんのことは、ここではあまり話題にあったことがないと記憶しますが、小野手寺さんのことについては、以下のスレで語り合いました。
富士山本門寺について教えて下さい
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014699089/l100
まずは、上記をお読みなってみては如何でしょうか。
2600
:
犀角独歩
:2005/08/21(日) 07:29:25
【2599の訂正】
誤)小野手寺さん
正)小野寺さん
本年、8月9日、たいそうな表明があったそうですが、わたしは風聞です。
詳しい方がいらっしゃればアップしてください。
2601
:
栴檀
:2005/08/22(月) 00:26:12
犀角独歩さん、こんばんは。
ひとつだけ気になったので書き込みます。
>上杉師にしてもしっかりと日蓮本仏を主張しています。
ここですけれど、ここはこの前直にお話いたしましたっけ?
私は上杉師が言っているのは「日蓮教」だという解釈をしたのですが。
分かり易く言うと、現在明らかになっている歴史上のブッダの思想と
大聖人の教えの間には飛躍(もしかすると断絶?)があるということです。
「久遠の釈尊」を本尊とするということは少なくともブッダの教えではない。
それは大聖人の教えである=「日蓮教」という事で、日蓮本仏論とは違うのではないでしょうか?
2602
:
犀角独歩
:2005/08/22(月) 01:34:13
栴檀さん、どうも。
上杉師の日蓮本仏の話というのは、先の小樽問答の討議の時に丸山さんが、上杉師に「あなたは日蓮本仏論だから」と“やった”ところからの話です。
あのときは栴檀さんはいらしておりませんでしたっけ?
終了後、わたしは上杉師に「日蓮本仏論ということなのですか?」とお尋ねしたわけです。すると師は「まあ、日蓮本仏ということ」と、例の調子で仰っていました。
しかし、これは小野師が仰るような分類における日蓮教とは、ちょっと違っています。
北山は、要山から動いた教師を取り敢えず採るわけですから、ここに日蓮本仏論がないわけはないと思います。『五人所破抄見聞』が妙蓮寺日眼ではなかったにせよ、本来、日蓮本仏の濫觴は石山、というより、要山、保田、もしくは西北本門寺と見たほうが歴史的に正しいのではないでしょうか。その点を上杉師が押さえていないわけはないと思いますが。
その歴史的事実から、片山師の北山から本間師は、重須教学の北山という祖道の恢復を考えていらっしゃるでしょうし、そのお一人である上杉師が、その考えを懐いていることは何ら不思議ではないと思いますが。
2603
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/08/22(月) 07:43:40
村松友視著『永仁の壺』(2004年、新潮社)を読みました。
内容については、下記HPの書評などにまかせるとして、
http://www.book-navi.com/book/syoseki/einin.html
ちょっと気が付いたことがあります。いまさらながらですが、“永仁”は鎌倉時代の年号で永仁6(1298)年には日興上人が「弟子分帳」を著わされています。問題は“永仁”の読み方です。この本に“えいにん”と振り仮名がふってありました。わたしは今まで“えいじん”と思っていましたので間違えていたのかと思いました。ところがインターネットで年号を調べてみると、両方の表記があるのです。
“えいにん”とあるもの
http://www.pastelnet.or.jp/users/eikoh/era/kamakura.htm
http://www.shouzando.com/nengou.htm
http://kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/bungaku/nengou50.html
http://mail.ring.gr.jp/skk/200503/msg00003.html
http://www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/table/table3.htm
http://www.hi-net.zaq.ne.jp/osaru/nengou.htm
“えいじん”とあるもの
http://www.hello.ne.jp/hp/nengou2.html
http://www.gakkai.net/nengou.html
http://www.je1osx.com/page694.html
しかしながら、広辞苑(第五版)では、“えいじん”では出てこず、“えいにん”の項に、「鎌倉後期、伏見・後伏見天皇朝の年号、(1293.8.5〜1299.4.25)」とあります。またパソコンのワープロソフトであるワードや一太郎では、“えいにん”であれば“永仁”と変換できますが、“えいじん”では出てきません。手元の堀日亨師の『身延離山史』(昭和12年、大日蓮社、75頁)には“えいにん”とルビがふってあります。どうも“えいじん”は分が悪いようです。
とりあえず今後私は“えいにん”を使おうと思っている(あえて“えいじん”を使う理由がない)のですが、どなたか真相をご存じの方がおられましたら、ご教示願います。
2604
:
犀角独歩
:2005/08/22(月) 10:03:00
重ねて栴檀さん
来週の月曜日はいらっしゃらないのでしたっけ?
上杉師にお会いしますので、日蓮教と日蓮本仏の件、お尋ねしておきます。
なかなか内容の濃い、集まりになりそうです。
先の投稿では、上杉師が日蓮教ではないとも読める書き方になってしまいましたが、そんなことはありませんね。日蓮教で、そして、日蓮本仏論者なのだという意味です。ただし、学会を含む石山系のそれとはもちろん、違うものです。
2605
:
パンナコッタ
:2005/08/22(月) 12:48:03
彰往考来さん、
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rekishi9.html
ここでは菅原在嗣が天災により「晋書」から出典し勧申したとなってますね。
当時、引用文の明確な”読み”があったんでしょうか?
はっきりとよく分からないのですが、すくなくとも今の読みに確定されたのは
明治の「御諡号年号読例」だと思うのですが。
2606
:
栴檀
:2005/08/22(月) 13:42:35
犀角独歩さん、こんにちは。
来週は行きますよ!
是非お会いしましょう。
2607
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/08/22(月) 20:15:08
>2605パンナコッタさん
近代デジタルライブラリーで「御諡号年号読例」を見ました。
http://kindai.ndl.go.jp/img/
確かにここでは“えいにん”とありますね。
2608
:
海野勇
:2005/08/22(月) 21:24:42
>>2596
顕正居士さん
>>2597
犀角独歩さん
ご教示ありがとうございました。
以前、日蓮宗文書布教部編『日蓮宗信徒手帳』という本を購入し、
我が宗はてっきり釈尊本仏論の一致派とばかり思っておりました。
同書では日蓮本仏論や勝劣派は、「創価学会の誤った教え」とし
してのみ紹介されています。
最近、わが家がお世話になっているお寺が日像門流には、勝劣派の
法華宗○○派がいくつもあること、日蓮宗内には日興門流さえある
と知り、教義のほうはいったいどうなっているのかと思い、質問さ
せていただきました。
一致派への改宗の強要がおこなわれていないのであれば、もしか
すると、我が家のお寺の教義も勝劣派なのかもしれません。
ご回答ありがとうございました。
2609
:
海野勇
:2005/08/22(月) 21:26:24
訂正:わが家がお世話になっているお寺が属する日像門流には
。。。
2610
:
犀角独歩
:2005/08/23(火) 00:41:35
海野勇さん
像門ですか。朗師直、帝都弘教の仁、菩薩号、日蓮大菩薩下賜の仁ですね。
上代、朗門と興門は近しい関係でしたでしょうね。
朗門・池上本門寺。通常、本門寺とは勝本門劣迹門ではじめて成り立つ寺号ですね。
執行師のご研究でも明確になったとおり、この2門は派祖御存命中からその後しばらくは、教学も相伝も会通があったのでしょうね。
2611
:
今昔
:2005/08/26(金) 13:26:36
すみません。日寛上人のご誕生日について、教えてください。
8月7日と8月8日と、2通りの説があるのですが、どちらが
正しいのでしょうか。よろしくお願いいたします。(゚゚)(。。)
2612
:
顕正居士
:2005/08/26(金) 22:27:05
大石寺48世日量の日寛伝および富士年表によると8月8日です。
2613
:
今昔
:2005/08/27(土) 05:00:29
顕正居士さん こんにちは。
どういうわけか、ウィキペディアでは八月七日になっています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%AF%9B
四十八世日量上人が著された日寛上人伝では、
「寛文五(乙巳覆燈火)八月八日卯の上の刻の誕生なり。」
となってますね。
ウィキペディアの情報源は何でしょうか。単なる記述ミスなのか。
どうも、情報ありがとうございました。
2614
:
栴檀
:2005/08/28(日) 17:48:59
日寛上人はお蕎麦がお好きだったのですよね。
僕は日蓮宗ですが、蕎麦が好きなので・・・(あ、脱線しました)
2615
:
犀角独歩
:2005/09/03(土) 11:53:52
未確認事項なので、素朴な疑問に記します。
かつて石山には正本堂があったのですが、これは解体されました。最近、親鸞会では正本堂という明賞の建物が建ったと聞いたのですが、これは本当でしょうか。また、石山のそれは「しょうほんどう」と読みましたが、親鸞会のほうは「せいほんどう」だと聞きました。
ここら辺の真偽をご存知の方、お教えください。
2616
:
パンナコッタ
:2005/09/03(土) 12:38:21
独歩さん、
どうやら”せいほんどう”のようですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%9C%AC%E5%A0%82%28%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%97%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E4%BC%9A%29
http://www.shinrankai.or.jp/purpose/photo.htm
2617
:
犀角独歩
:2005/09/03(土) 13:04:07
パンナコッタさん、有り難うございます。
2618
:
藤川一郎
:2005/09/03(土) 13:51:07
ちなみに親鸞会発行の顕正新聞は「けんせいしんぶん」か「けんしょうしんぶん」か?
なんちゃってね。恐らく「けんしょうしんぶん」でしょうが・・・。
2619
:
パンナコッタ
:2005/09/03(土) 19:56:16
藤川一郎さん、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%95%E6%AD%A3%E6%96%B0%E8%81%9E
名前がダブっていますね。 ちなみに親鸞会の主張する”相対の幸福と絶対の幸福”とは
どこかで聞いたことのあるような主張ですね。
2620
:
銭函
:2005/09/15(木) 00:55:05
いつも楽しく拝見させて戴いております。
久しぶりに投稿させて戴きます。
いきなり思った事を書いてすみません。
早速ですが小学生と女教師のドラマでふと考えさせらてた事をご教示戴けないものかと思い、書き込みさせて戴きます。
それは
「何故人は人を殺してはいけないのか。」です。
ドラマではほとんどの大人は応えられない主旨の事を女教師が言っていました。
法律で決まっているから、家族が悲しむから、動物はいいのか、等(人間も動物ですが。)あくまでTVで「はて?」と疑問に
・・・といいますか仏法的にはどうなんでしょうか。
2621
:
古池
:2005/09/19(月) 07:29:32
独歩さん
再度教えて下さい
プログで記されている「日蓮が立正安国論を執筆したという岩本実相寺を見学。出発に先立ち上杉清文師から故高木豊師の、日蓮は岩本実相寺で一切経を閲覧しておらず、また、ここで立正安国論も執筆していなかったという説」について
できましたら、もう少し解説していただければありがたいです。また実相寺は現在でも一見する価値があるでしょうか。
あわせまして、本照寺の神四郎のお墓についても一見する価値があるでしょうか。可能な範囲で教えていただければと存じます。
2622
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/09/19(月) 12:47:47
>2621 古池さん
横レス失礼します。
高木氏は、『日蓮とその門弟』(昭和40年初版、弘文堂)の193頁
「熱原法難の構造」でその点について論考されています。要旨を抜粋しますと
(1)「御伝土代」や「日興上人御伝草案」も岩本入蔵について記していない
(2)日蓮の遺文に岩本入蔵にふれたものはない。ただ一切経・諸経を勘えたとい
う記事のみである
(3)「法華本門宗要抄」(日蓮没後七、八十年後の成立といわれる)にはじめて
「容駿河国岩本経蔵」との記述がみられる
というものです。さらに氏は、正嘉〜正元(1257〜1260)のころ日蓮は岩本に入蔵
し、このとき日興が入門したとの従来の説について師弟関係成立時期が動くことに
なることを指摘しています。
上記資料では鶴岡八幡宮の件は出てきませんので、氏は他の資料でも論述されてい
るのでしょうが、実に昭和40年の指摘であることは驚きです。
蓮祖の岩本実相寺入蔵は偽書である「法華本門宗要抄」あたりの記述から作成された
後世の物語にすぎないというところでしょうか。
彰往考来
2623
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/09/19(月) 13:17:02
>2622 自己レスです。
2622で鶴岡八幡宮の件とありますが、説明不足でしたので補足します。
本件で犀角独歩さんからお聞きしたところでは高木氏の説の中で、当時鶴岡八幡宮に一切経があったので岩本までいく必要がなかった、というのがあるということでした。2622で紹介した高木氏の著作には鶴岡八幡宮の件はありませんので、他の資料にでも記載されているのでしょう。
彰往考来
2624
:
古池
:2005/09/19(月) 14:38:04
彰往考来さん
すばらしい情報大変ありがとうございました。
>正嘉〜正元(1257〜1260)のころ日蓮は岩本に入蔵し、このとき日興が入門したとの従来の説について師弟関係成立時期が動くことになることを指摘しています。
鶴岡八幡宮で閲覧したのですか。
そうしますと、日興の入門時期が見直されてくるのですね。
2625
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/09/19(月) 15:50:31
>2624鶴岡八幡宮で閲覧した
私は断定できないと考えます。残念ながら、私自身高木氏の説も鶴岡八幡宮の件は文献・資料で確認できていませんし、当時鶴岡八幡宮に一切経があったとして、はたして蓮祖が閲覧できたでしょうか?時の幕府に対抗する行為に幕府お膝元の鶴岡八幡宮が手助けするでしょうか?蓮祖は鶴岡八幡宮で閲覧できず、岩本に向われたかもしれませんし、記録がないので不明なのです。“鶴岡八幡宮に一切経があったので岩本まで行く必要がなくここで閲覧した”というのはひとつの説にすぎないと思います。
彰往考来
2626
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/09/19(月) 16:12:11
>2621本照寺の神四郎のお墓についても一見する価値があるでしょうか
横レス失礼。犀角独歩さんが、実際に見ておられますので追って投稿されるでしょうが、本照寺の由緒関連資料を投稿しておきます。
堀日亨師の『富士日興上人詳伝』(昭和38年、創価学会)の108頁に本照寺の由緒が紹介されています。「石廟とは、二尺あまりの五輪にて、その下に一尺の角石あり、またその下に大なる角石あれども、新古別々にして、特に神四郎の碑と認むべき微証なし」とあります。師は本照寺の由緒を“誤謬伝説”として紹介していまして、他にも種々論考されています。「史眼なき盲輩には、これすら信ぜらるることありしか」(同書、109頁)と手厳しいです。
本照寺関連のものは後世のものでしょう。
2627
:
犀角独歩
:2005/09/19(月) 19:08:43
小池さん
岩本実相寺の件は、故高木師の御論考をお読みになることをお勧めします。
当時の日蓮の事績をどこまで追えるのかは限界がありますが、「一切経閲覧」を書き残し、富士に赴いていれば、岩本の可能性は残り、鎌倉に寓居したままであれば、八幡宮の可能性は捨てられないということでし執筆時点、日蓮がどこに居り・どこに一切経が蔵されていたかという事実関係をつき合わせたほうが、その論及は正解に近いとわたしには思えますが、どうでしょうか。
また、仰るとおり、日興の入室は当然のことながら、岩本実相寺閲覧とは関連付けられないでしょう。日興は四十九院の供奉僧ですから、むしろ、同寺で出会った考えるほうが自然であるとわたしは考えています。ただし、この件に確証はありません。
鶴岡八幡宮での閲覧に関しては、
> 当時鶴岡八幡宮に一切経があったとして、はたして蓮祖が閲覧できたでしょうか?時の幕府に対抗する行為
という彰往考来のお考えには、わたしは納得しません。なぜならば、『立正安国論』を記述した時点で、幕府に対抗する形になどなっていないからです。単なる閲覧でしょう。執筆以前の段階、閲覧の時点で「対抗」する形など採っていないわけですし、第一、執筆、上奏を、わたしは個人的に「対抗」とは捉えません。日蓮が主張したのは京都の前例に基づいて念仏停止を求めたもので、この時点では対抗などという意図はなかったと考えるからです。むしろ幕府とともに立正安国を目指すというのが日蓮の意図であったのではないでしょうか。
本照寺は、わたし参詣されてみるべきだと思いますよ。
日亨は批判的な意見を述べていますが、その地が熱原(厚保原、加島)であることは動きませんし、種々発見があって興味深い地であるからです。先にも書きましたが大石寺御影堂裏手にある熱原三烈士碑の胡散臭さを棚上げにして日亨はよく言ったものだというのがわたしの意見です。日亨はそれでも熱原法難・戒壇本尊、出世の本懐を関連付けるような短絡はしなかった節操は示したのは、まだしもの救いといったところでしょうか。
わたしは別段、田中智学を顕彰する気はありませんが、少なくとも戦前の人々は、この地で神四郎の徳を仰ぎ、その法難に涙したのは事実です。その地を見ることは意義があります。
熱原(加島)という場所を訪ね、身延からの距離感覚で実感してみるのは、なかなか味わいがあります。もちろん、大石寺は論外です。なぜならば、弘安2年の時点で大石寺など、まだ存在していないからです。
2628
:
犀角独歩
:2005/09/20(火) 15:15:52
本日は朝刊を開くなり眠気が吹っ飛びました。
この六カ国協議の北朝鮮を、彰往考来さんは、どう読みましたか。
富士門と直接関係があるかどうか、まあ、他国侵略の筆頭にあげられている北朝鮮の話題ということで関連づけるとして、核問題に鋭いご投稿をされてきた彰往考来さんのご賢察を窺いたいと思いました。軽水炉の要求、さてこれはどう展開するのでしょうか。
あと、これは質問ではありませんが、2018年に、月面有人探査が再開という記事にも目が覚めました。そういえば、宇宙エレベーターは、どうなっているのでしょうか。ご存じの方はいらっしゃいますか。
2629
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/09/20(火) 17:35:28
>2628 犀角独歩さん
この板とは直接関係ないのですが、私は核問題というより拉致問題に興味を持っているという立場です。私事ですが、私は北朝鮮による拉致被害者である蓮池薫さんたちと同じ学年ですし大学の卒業研究は淀号ハイジャック犯の出身母校で実施しました。そこではあのグループの人たちも学生運動に取り組んでいたのを覚えています。そしてその妻たちが新たな拉致を企ててしまったといった歴史の流れの中で他人事とは思えないわけです。
拉致問題から言わせていただければ、今回の合意で解決への道のりが遠くなってしまったように思います。辺(ぴょん)さんがテレビのインタビューに答えていましたが、今回の合意のため、もし日本国政府と北朝鮮の協議がうまくいかなかった場合、経済制裁にふみきることは六カ国合意の枠組みを日本が壊すことになるため極めて発動し難くなってしまったわけです。拉致問題が解決して、国交正常化になればよいのですが、期待はしていません。
私は核の平和利用などないという立場ですから、北に将来といえど軽水炉など不要と考えます。エネルギー問題は核とは別です。あたかも強盗にも包丁を持つ権利があると主張しているようなものです。北のような危険な国家にもたせるものではありません。まして韓国が電力の供与を申し入れしているのに軽水炉が必要などとは別の目的がありありです。
今回の協議で北は新たなカードをたくさん入手しました。なにか報道を聞いていますと北の核放棄の見返りにエネルギー支援などを実施するように聞こえますが、そうではありません。すでに北は次回の協議での軽水炉の扱いについて不満をいっています。エネルギー支援、軽水炉、拉致問題の一方的解決(現状で終わり)、日朝国交正常化、など矢つぎ早にカードを切ってきて、そのあげくに核を放棄するつもりなのでしょう。ひょっとしたらその時、もらう物だけもらって、居直るかもしれません。それで日本国民として納得できますか?
蓮池透さんの『奪還』(2003年、新潮社)に記載されていますが、拉致問題で社会党とならんで極めて不誠実な対応をしたのが公明党です。浜四津氏など反省しているなら、もっと誠実な対応をすべきでしょうが何を今更という思いです。
2630
:
犀角独歩
:2005/10/18(火) 17:50:26
既にブログにも記しましたが、今回の福神主催の小松邦彰師の遺文講義で『御衣布給候御返事』の
「御衣布給候了。この御ぬのは一切の御ぬのにて候。又、十二いろはたふやかに候…」(一紙完 / 京都本法寺蔵 / 定 P2873 / 平成新修日蓮聖人遺文集 P188)
という一節があありました。
この12色の衣布というのはいったい、何を指すのでしょうか。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50123759.html
どうも、わたしが合点がいきません。
ちなみに山上ゝ泉師著・日蓮聖人遺文全集講義第29巻『日蓮聖人遺文の文章法研究』の第6編 日蓮聖人遺文の特殊的研究、第1章 御遺文に現れたる日蓮聖人の衣食住、第1節 日蓮聖人の御召料(大林閣印刷 昭和7年5月1日発行 P297)を見てみました。
ここで列挙されるところを挙げれば、
白小袖、厚綿の白小袖、小袖、厚綿の小袖、綿、紙衣、白かたびら、かたびら、明衣、細美帷、太布帷子、単衣、単衣の布、薄墨染の衣、薄墨染の袈裟、御衣、御衣の布、衣
とあり、ここには12色の衣の記載はありませんでした。『御衣布給候御返事』は定本の増補版から始めて載った(小松師)ということであったので、昭和7年の段階ではまだ知られていなかったのでしょうか。
それにしても、日蓮と12色の御衣布というのは、まるで接点がないように思え、不思議に感じます。なにか、ご存じの方がいらっしゃったら、ご教示ください。
上記から敢えて脱線します。この章は衣のあと、食・住と続きます。
ちょっと、ご紹介します。
まず、酒についてです。
千日、聖人、清酒、甘酒、古酒、酒
わたしは浅学で、「千日」が酒を示すことを迂闊にも落としていました。銘酒を言うとのことでした。
また、聖人は、わたし自身は石山から習った「すみざけ」という読みで覚えていたのですが、山上師は、「ひじり」とルビを振ります。また、賢人を挙げていないので、真跡で追ってみたところ、たしかに賢人を濁り酒に充てる用例がなかったのは意外でした。
それにしても、真跡を遺さないながら
「賢人、聖人も此事はのがれず。ただ女房と酒うちのみて南無妙法蓮華経ととなへ給へ」
とは、三国志の曹操の禁酒令に由来する酒を意味する隠語の賢人(濁酒)・聖人(清酒)にかけた文なのであろうと思います。この御書は、このあとに「これあに自受法楽にあらずや」と続きます。真跡遺文で「自受法楽」の用法は見られず、従って、真筆かどうかは疑わしいのですが、明文である点ばかりは、動かないと思えました。
自分自身、まことに勉強不足であると思ったのは「こめ」についてです。
八木、[鹿/章]牙(しょうが)、能米、白米、焼米、生米、白米のこめ俵
この内、八木は写本に見られ、真跡にはなく、[鹿/章]牙はいずれにも見出せませんでした。([鹿/章]は[(鏖-金)/章]、鏖の金の部分が章となる漢字です)
また、最後の「白米のこめ俵」は「四條殿御返事、其他」となっていますが、探し方が悪いのか、どうも該当の文に当たれませんでした。
ただ、ここの説明は興味深いので、紹介します。
「『白米のこめ俵』は二重言葉ではない。本来『こめ』は小実(こみ)で、専ら米に限って用ゐるようになつたのは後世のことである。上古の語ではない。古代では穀類の実の総称なのであつたので、こゝに聖人は正しく『白米(しらよね)の小実(こみ)』と仰せられたのである」(P302)
山上師の、この本は実に良書で、勉強になるのですが、惜しむらくは御書に関して、真・偽・疑の区別がなく、勢い、その用法を鎌倉その時代に収斂した結果となっていることです。継承者がどなたなのか、あるいはいないのか、いないのであれば、継承者を望みたい研究書です。
2631
:
パンナコッタ
:2005/10/18(火) 23:00:46
独歩さん、
ブログにある薩云分陀利は蓮祖が略していたということでしょうか?
薩云芬陀利法華経などとも書かれますね。 六訳三存の失われているものなので、
断定は出来ないが‘曇’のほうがより近いのではないか、ということでしょうか。
2632
:
犀角独歩
:2005/10/19(水) 00:56:37
パンナコッタさん、
ブログのご高覧、有り難うございます。
> 薩云分陀利
これは『寺泊御書』の「正法華・添品法華・法華三昧・薩云分陀利(さつうんふんだり)等の如し」という一節の講義です。
当時の「薩云分陀利」が何を指すのか、実はわからないとのことですが、音からして、これは明らかに Saddharmapundarika の音写です。‘薩’が sat であり、‘分陀利’が pundarika であることはわかるわけですが、その真ん中の‘云’が問題なわけです。これは、どう考えても、dharma に違いありません。たとえば、『御義口伝』では「薩達磨芬陀梨伽蘇多覧」でした。dharma は‘達磨’です。つまり、D音であるわけです。ところが、これを‘云’(うん)というのは変ではないのかというのが、松山師の疑問です。しかし、‘云’が曇を略した文字であれば、D音であるから dharma に近いということです。
日蓮は、以前も独学徒さんに示しましたが、略字をよく使いました。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/nitiren_sinseki_shyohsho.jpg
(アドレスバーにコピペ)
このような一環で、‘曇’=[日/雨/云]の一番、下の部分を略字として使ったのにもかかわらず、これを理解せず、‘曇’(どん)とすべきところを‘云’(うん)とルビまで振ってしまったのではないのかということです。
つまり、ここは「薩曇分陀利」としなければならなかったのではないのかというのが松山師の主張です。わたしは、これが正しいと思うのは、たとえば、以下のサイトでは、そのものズバリの漢訳仏典名があるからです。
薩曇分陀利經
http://www.cbeta.org/result/T09/T09n0265.htm
2633
:
パンナコッタ
:2005/10/19(水) 11:33:58
独歩さん、
なるほど”音”と、漢訳名であることからですね。ありがとうございます。
ところでここの該当部分は文意からすれば蓮祖の時代は、法華三昧も含め弟子共も読める環境にあった
かの如くなのですが、本当にあったんでしょうかねぇ?
もしこの時代にすでに三欠であれば、佐渡を前に蓮祖は大きなハッタリをかましたことになりますよねぇ。
2634
:
犀角独歩
:2005/10/19(水) 14:33:57
パンナコッタさん
> …蓮祖の時代…法華三昧も含め弟子共も読める環境
> …佐渡を前に蓮祖は大きなハッタリをかました
これはまた、パンチの効いた発言ですね。
たしかに、完訳現存は、妙法華、正法華、添品法華は、ともかくとして、仏説法華三昧經、薩曇分陀利經の2經を見たのかという点では疑問があります。
先に申し上げますが、薩曇分陀利經については、法華経の成立に懸け、記述されていました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C
薩曇を「薩云」という慣例がなければ、この点は、御書編纂時の瑕疵と云うことなのでしょう。最初、日蓮宗の段階で間違えば、それをただ転用して、自教団の御書にする石山も、学会も、そのまま、間違える。孫引きの怖さというか、ある面、情けない話だと思った次第です。
ただ、薩曇分陀利經の名は薩芬陀利經ともあります。しかし、‘云’を‘曇’に略字に充てたことは明らかだと思えます。
参)((1)法華三昧経六巻 魏 彊梁接訳 (2)薩芬陀利経六巻 西晋 法護三蔵訳 (3)正法華経十巻 同上撰述 (4)方等法華経五巻 東晋 支道根訳 (5)妙法蓮華経七巻 姚秦 鳩摩羅什訳 (6)添品妙法蓮華経七巻 闍那崛多 達磨笈多共訳)
さて、以上の前提で、仰るように、日蓮の時代に、他三訳、特に法華三昧經、薩曇分陀利經があったかどうか、また、みられたかどうか、たしかに大いに疑問はありますが、一部なりとも現存していたのではないのかという思いは多少残ります。これを日蓮の弟子が、となると、しかし、どうでしょうか。
それでも、阿闍梨号を比叡山から授けられているとすれば、また、天台・真言融合の時代に入っていますから、天台宗、真言宗に係る寺院の、弟子の居住する寺院にあったことを指すのか…、この考証はまるでしていません。
パンナコッタさんのご呈示から外れますが、該当の前文、
「又天竺の法華経には印・真言有れども訳者之を略して、羅什は妙法経と名づけ、印・真言を加へて善無畏は大日経と名づくるか」
という段には、わたしは少なからず、吃驚しました。
日蓮派に本真言宗の批判をこの頃より始めるわけですが、少なくとも、この一節は印・真言、善無畏、大日経を、むしろ肯定的に捉えているかの如くです。
2635
:
犀角独歩
:2005/10/19(水) 14:51:02
【2634の訂正】
誤)日蓮派に本真言宗の批判
正)日蓮は日本真言宗の批判
2636
:
パンナコッタ
:2005/10/19(水) 16:43:18
独歩さん、
薩云分陀利経は、竺法護が正法華経を訳す21年前に書かれたと云われていますね。
蓮祖時代にあるとすれば比叡山でしょうが、信長の焼き討ちで焼失なのかな。
ならば、書写山あたりに別の写本ぐらい有ってもおかしくはないですよね。現存していれば
当然研究対象になっているでしょうが、ない以上歯がゆい所ですね。
十二いろ について、参考として、
『上代では衣服のことを「きぬ」「ころも」「そ」と言ったが、平安時代には「きぬ」が一般的な
言い方となり、「ころも」は僧衣をさすようになり、衣服の意としては歌語に用いられるに過ぎなかった。
「そ」は「御衣」という複合の形で用いられ、古くは清音の「みそ」、のち「みぞ」「おんぞ」と濁音化する』
◆たぶやか→(形動ナリ)十分にあるさま。あまるほどたっぷり。
旺文社 古語辞典より引用
形容詞として受け取れなくもないですが、何なのでしょうね。
2637
:
犀角独歩
:2005/10/19(水) 17:08:59
パンナコッタさん
> 薩云分陀利経
お、パンナコッタさん「云」を指示するということですか。
衣に関しては、日蓮の「御召料」としては、衣、袈裟、帷子、小袖というところでしょうか。衣は薄墨色であったろうと思います。
布色は官位その他を表すでしょうから、やたらの色は使えないはずです。意味は案外、深いと思えます。
「たぶやか」はたっぷり十分ですか。流人は、やはり、不似合いな表現ですね。けれど、付き人を許され、12色の十分な衣(きぬ)の佐渡の生活、違う景色が見えなくもありません。何か確たる資料が欲しいものです。
2638
:
パンナコッタ
:2005/10/19(水) 19:42:10
コピペしただけなので、他意はありません。薩曇分陀利経ですね。失礼しました。 <(_ _)>
平安期の襲では、色の組み合わせで春夏秋冬様々な呼び方がされたようです。
夏 萌葱+灰色で葵 朽葉+紅で百合
秋 縹+灰色で月草 などなど・・・
比喩表現であったとすれば、意外と十二色とは限らないのではないでしょうか。
ただ、割合贅沢な供養品であることは間違いないと思います。
2639
:
犀角独歩
:2005/10/19(水) 20:04:00
パンナコッタさん、どうも。
ネットで、12色で検索していたら、以下のようなページがありました。
天皇にも関わることなので、藤川さんが詳しいかも知れません。
関係あったら、みっけものというところでしょうか。
http://www.kariginu.jp/kikata/5-1.htm
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