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素朴な疑問

2583彰往考来(しょうおうこうらい):2005/08/08(月) 07:51:44

2583の続きです。

中島誠之助氏は、「相剥」について『ニセモノ師たち』の中で述べていましたが、「相剥」などの名前は記していません。以下、その箇所を引用します。
「名僧が禅語などを一行にしたためた「墨蹟一行(ぼくせきいちぎょう)」は、茶掛け(茶席の掛物)として人気のあるものです。
この墨蹟の掛軸を修復するために表具屋に出したとしましょう。もし仮に、よこしまな表具屋だったとしたら、その職人は一枚の本紙の表面を薄くはぎとって、作品を二枚にしてしまうことだって、素材が和紙ゆえに実際にはできるのです。そうすると両方ともホンモノになってしまうわけです。
もちろん、それはやはりキズモノということなのですが、ただ和紙に描かれた同じものがキズモノかどうかという判断は、なかなかむずかしい。とはいえ希少価値を尊び、生まれた姿を大切にするという骨董本来の目的から見れば、当然のことですが、価値が半減すると思います。自分の所有している掛軸と寸分違(たが)わぬものがよその家にあるという、ちょっと気持ちの悪い話になるわけですが、その原因はこのような表具師の優れた技術にあるわけです。」(中島誠之助『ニセモノ師たち』2001年、講談社、176頁)

三名の方の記述を紹介しましたが、「相剥本」について大宮知信氏は“美術業界ではまがい物として扱われる”とし、三杉隆俊氏は“「本物」が二つできてしまう”とし、中島誠之助氏は、“ホンモノだがキズモノということ” としています。三者三様です。さて、御本尊の「相剥本」はどうでしょうか。私見ですが私は大宮知信氏の意見に近いです。漫荼羅は信仰の対象ですから、宗祖が残した信仰の対象を人為的に二つにしてそれぞれを御真筆として信仰の対象とするには抵抗があります。漫荼羅の「相剥本」は“まがい物”というよりは“お写し”に近いものでしょう。もし漫荼羅を骨董としてみるなら中島氏の意見でしょうが信仰の対象である漫荼羅は書画骨董とは違います。

以上、 by 彰往考来(しょうおうこうらい)


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