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日本の城郭

1日帝極右保守反動分子:2003/09/08(月) 18:39
日本の城郭に関するスレッドです。

2日帝極右保守反動分子:2003/09/08(月) 18:42
今夏、松江城と米子城へ行きました。
それぞれの城の報告をします。

3日帝極右保守反動分子:2003/09/08(月) 19:06
松江城
新たに二の丸の櫓が木造復原されていました。
三年前の地震の影響が懸念されましたが
十年前に訪れた頃と変わらず
黒塗りのきれいな天守閣で一安心でした。
(余談:天守閣最上階東側から創価学会の建物がすぐ近くにあって見えました。)

4日帝極右保守反動分子:2003/09/08(月) 19:21
米子城
三年前の地震の影響か大、小天守台の石垣が新たに積み直されていました。
しかしこちらは石垣のみということもあって
手入れが良くなく大天守台の石垣には雑草が生い茂るばかりで
復原を希望する私としては寂しい限りの状態でした。
しかし景色は相変わらず抜群で
大山、中海、大根島、米子市街地、島根半島、鳥取方面、松江方面が
本当によく見えました。
しかも夕方でしたから夕焼けもきれいに見えました。
さぞかし天守閣があった頃はもっと景色が良かったんだろうと思いました。

5とはずがたり:2003/09/08(月) 19:24
松江城には多分中学生の頃だから20年近く前に行ったことがあります。
もう覚えて無いなあ。

6おりーぶの木:2003/09/08(月) 19:34
松江城か。山陰地方は行く機会がなかなかないけど萩、鳥取砂丘、宍道湖など魅力的な場所が目白押しでぜひ一度は行ってみたいですね。
俺は上田がお気に入りなのだが行ったことある?

7日帝極右保守反動分子:2003/09/08(月) 19:35
松江城は運が良かったんですよね。
天守以外は全て取り壊されましたが
天守のみは旧松江藩の武士が有志を募って何とか残りましたからね。
それと比較すれば米子城は皮肉なものです。
同じく天守のみが残りましたが
こちらは結局、維持管理に困り結局風呂屋の薪になったそうです。

8とはずがたり:2003/09/08(月) 19:36
因みに米子の皆生温泉にも泊まったことがあります。
小学校の頃だから20年以上前か。

9日帝極右保守反動分子:2003/09/08(月) 19:38
>>6
残念ながら上田城は行ったことがありません。
同じ長野県でも松本城には行ったことがありますが。
東日本は天守閣のある城を中心にしか回ってませんから。

10おりーぶの木:2003/09/08(月) 19:47
上田はいいよ。もし城だけでなく街並みにも関心があるのなら行って損する事はないからぜひお勧めします。
食べ物も美味いし。別所鉄道で塩田平の車窓や寺院を周るのも良し。特に塩田平の車窓はお薦め。これぞローカル線の醍醐味でああ田舎に着たなぁという実感が湧いてきます。
別所温泉も良いぞ。あれあそこの塔はなんて名前だったかな。泊まりで行くならお薦めでつ。ただ、外湯は狭くて勧められないが。

11荷主研究者:2003/09/23(火) 03:06
人吉城は球磨川沿いに石垣が残るきれいな城跡の印象がある。行ってみたいところだ。相良氏歴代の城郭である。

http://www.nishinippon.co.jp/media/news/news-today/20030915/kumamoto.html
人吉城跡を本格整備 「歴史館」05年度開館予定

 人吉市は、国指定史跡人吉城跡整備事業の一環として、同市麓町で「人吉城歴史館」(仮称)の建設を進めている。二〇〇五年度中に開館予定で、鎌倉時代から江戸時代にかけ、人吉球磨地方を治めた相良家ゆかりの品を展示する。

 人吉城跡は一九六一年、本丸跡を含む近世城郭部分が国史跡に指定された。整備事業では、江戸時代の人吉城一帯の雰囲気を再現するため、〇六年度までに長塀や舟着き場などを復元する計画。対象面積は二十一万六千平方メートル、総事業費は約四億五千万円。目玉の一つ、歴史館は平屋建ての展示棟と管理棟で構成し、今年八月下旬、建設に着手した。

 歴史館は、相良氏の肖像画や古文書、発掘調査での出土品などを展示するが、注目されるのは、九八年に相良藩家老の屋敷跡から見つかった地下室遺構の全面公開。遺構は、周囲を積み石で囲んだ、広さ約三十平方メートルという大規模なもので、同市教委によれば、江戸初期までさかのぼる地下室遺構の出土は、極めて珍しいという。現在でも地下室の建造目的は不明のままで、歴史ファンの関心も高い。遺構には、屋根を設け、露出した状態で見学できる。

 同市教委文化課の村田良一課長は「歴史館は人吉城整備計画の中核施設。相良藩七百年の歴史を分かりやすく伝えたい」と話している。

13とはずがたり:2004/02/23(月) 14:40

http://www1.odn.ne.jp/~notohatakeyama/keizu/keizutop.html
畠山家関連諸家系図

14荷主研究者:2004/03/08(月) 01:07

http://www.shikoku-np.co.jp/news/administration/200402/20040224000104.htm
2004年2月24日 09:45 四国新聞
高松城天守閣再建で市が本格調査へ

 高松市は新年度、高松城天守閣の復元整備を目指し、天守台石垣の耐久度強化のための本格調査に乗り出す。昨年六月の構造改革特区への提案を契機に、文化庁が復元に柔軟姿勢を示したのを受けた措置。調査は単年度を想定しており、文化庁から現状変更の許可が得られれば、二〇〇五年度にも石垣の解体・復元工事に着手する考え。過去に何度も論議が持ち上がった悲願の達成に向けて、ようやく一歩を踏み出したと言えそうだ。

 新年度一般会計当初予算案に天守台石垣の調査と、石垣全体の整備指針の策定に要する事業費計千八百七十万円を計上する。

 調査は、天守台石垣が老朽化に伴い一部が緩んだり、石が抜け落ちた状態となっているのを踏まえ、▽天守閣の重みに耐えられるだけの強度を確保する▽傾斜などを建築当時の形状に復元する―のが目的。解体に伴う発掘調査で、天守閣の復元に役立つ資料が見つかることも期待しているという。また、これに併せて石垣全体の整備指針も策定する。

 検討を進めるのは、建築史・意匠や古建築、日本庭園史、日本史学などの専門家六人で構成する「史跡高松城整備検討委員会」で、コンサルタント会社への調査委託なども行う。三月二日の初会合で市側が現状説明を行い、新年度から本格的な調査を開始。同年度中にも石垣の現状変更の計画を策定し、文化庁に提出する方針。

 文化庁の許可が得られれば、〇五―〇九年度に石垣の解体・復元工事を実施。天守閣の復元工事には市制施行百二十周年に当たる一〇年度に着手し、一四年度の完成を目指す。

15とはずがたり:2004/04/11(日) 01:42
武田・織田家が430年ぶり和睦、遺恨越えて握手 (読売新聞)
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/history.html?d=10yomiuri20040410i514&cat=35&typ=t

「風林火山」の旗の前で握手する武田、織田両家の子孫(右から武田邦信さん、織田信成さん、信和さん)

 戦国時代に覇を競った甲斐・武田信玄と尾張・織田信長の流れをくむ宗家の当主が10日、信玄公をまつる甲府市の武田神社をそろって参拝、武田家滅亡のきっかけになった長篠の合戦から約430年ぶりに“和睦(わぼく)”を果たした。

 参拝したのは、武田家16代当主で会社員の武田邦信さん(55)(東京都世田谷区)と、織田信長の宗家の12代当主、織田信成さん(82)(神奈川県相模原市)、埼玉県庁職員信和さん(57)(東京都港区)の親子。

 両家は2001年7月、長篠の合戦をしのぶ「設楽原決戦場まつり」(愛知県新城市)で対面し、「仲直りの機運が高まった」という。今回、武田神社の仲介で、信玄公の命日(12日)に合わせて開かれている「信玄公祭り」を織田家の親子が訪れることになった。

 3人は武田神社の社殿に玉ぐしを奉納した後、宝物殿の壁に飾られた「風林火山」で知られる孫子の旗の前でがっちり握手。武田さんは「旧来の遺恨を乗り越えて末永くおつきあいしたい」と話し、信和さんも「400年以上たった現代では、平和的な付き合いが望まれます」と笑顔で話していた。

 長篠の合戦は1575年(天正3)、織田信長・徳川家康連合軍の鉄砲隊が、三河設楽原で、信玄の四男、勝頼が率いる騎馬隊を撃破、武田家は7年後に滅亡した。


[ 2004年4月10日(土)23時16分 ]

16とはずがたり:2004/08/17(火) 17:59
清洲・西枇杷島・新川3町の合併新市の名が「清須市」となったが清洲の古名の様ですね。
それを調べていて見つけたサイト。戦国マニアのまなざしが面白い。

http://www5d.biglobe.ne.jp/~DD2/oscilloscope.htm
お城スコープ

http://www5d.biglobe.ne.jp/~DD2/oda_kashin.htm
織田家・家臣団の城

17さむらい:2004/09/01(水) 14:58
今、姫路城の天守閣にいます。

18とはずがたり:2004/09/01(水) 14:59
おお,白鷺城?
俺も一度行ってみたいと思いながら中に入ったことは未だありません。

19さむらい:2004/09/19(日) 23:47
>>18
返事が送れましたが、そうです。

この日は姫路城も見に行きました。

20名無しさん:2004/09/20(月) 00:01
ウラヤマシイ

21荷主研究者:2005/04/11(月) 00:22:45

http://kumanichi.com/news/local/main/200501/20050128000031.htm
2005年1月28日 06:53 熊本日日新聞
八代城石垣 撤去方針を撤回 今秋にも国指定史跡へ申請

 八代市は二十七日、同市袋町の市道建設予定地から出土した八代城の城壁とみられる江戸初期の石垣について、撤去方針を撤回し、車道わきの緑地帯に約四十メートルを現状のまま保存することを明らかにした。同市は、八代城跡と、近世期の麦島城(同市古城町)、中世期の古麓城(同市古麓町)の三城を、十一月をめどに国指定史跡として申請、来年度指定を目指す。

 八代城の石垣は昨年七、八月の調査で、約六十メートルにわたり出土。城郭の特徴となる隅角(ぐうかく)部も見つかり、江戸初期の石垣の築造法をとどめる貴重な遺構とされている。

 市教委によると道路の設計を一部変更。約六十メートルの区間で歩道を数メートル後退させ、車道との間の緑地帯を拡幅。長さ約四十メートル、高さ約二メートル、幅約三メートルの石垣を出土した形のまま残す計画。崩落対策や新たな用地買収などは今後詰める。二十四日に地元説明会を開いた。車道部分は予定通り三月の完成を目指す。

 市はこれまで、現状保存は市道建設の支障となる上、崩落、交通の危険性もあるとして、記録保存にとどめ撤去する方針だった。しかし、市文化財保護委員会が「国指定史跡クラスの価値」として現状保存を提言。文化庁が「移設すれば国指定は不可能」との見解を示したため、保存策を再検討していた。

22荷主研究者:2005/05/22(日) 03:21:01

http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20050218004.htm
2005年2月18日更新 北國新聞
金沢城、江戸前期の石垣を大手術 宮守堀跡の緑地化も

 「石垣の博物館」と呼ばれる金沢城の外周部が装いも新たに生まれ変わる。江戸前期に築造された石垣で、石の並びにズレが目立つ部分を積み直す”大手術”に向けて調査に乗り出し、県体育館裏の玉泉院丸庭園跡には石垣回廊が整備される。かつて宮守(いもり)堀(ぼり)があった県兼六園テニスコート跡は暫定的に緑地化され、城外周部と県庁跡地の一体的な整備も一歩前進する。石川県の新年度当初予算案に金沢城公園整備費一億八千九百八十万円が計上された。

 積み直しの調査が進められるのは県体育館付近の石垣で、寛永年間の一六三〇年代に築造され、江戸後期に修復されたとみられている。石と石のすき間が二十センチ近くに広がり、「見た目にも良くない」(県公園緑地課)状況となっている。

 県はまず、石垣の上にあったとされる土塀の埋蔵文化財調査を行い、石と石のすき間が広がった原因を調べ、積み直しの工法、範囲を専門家を交えて検討する。

 県体育館裏の玉泉院丸庭園跡に残る石垣は城内でも特に美しいとされており、県は新年度内に散策路を整備し、「石垣回廊」として県民に開放する。玉泉院丸庭園跡からいもり坂を経て、テニスコート跡に抜けるルートとなり、県民が貴重な石垣を見上げながら散策できるようにする。

 テニスコート跡の緑地化は県庁跡地の旧東庁舎・教育庁舎部分の緑地化と同じ九月に完成する予定で、宮守堀の遺構部分の幅十メートル、長さ二百メートルを約一メートル掘り、砂利を敷き詰める。

 金沢城の石垣の魅力を紹介する「金沢城フォーラム」が十一月二十日、金沢市内で初めて開催される。県教委に金沢城研究調査室が設置されて新年度で五年が経過するのに合わせ、これまでの研究成果を県民に示し、金沢城への理解を深めてもらう。

 金沢城の歴史を分かりやすく説明する「金沢城史」(仮称)の第一巻や金沢城史料叢書(そうしょ)「金沢東照宮(尾崎神社)」を刊行する。石川門の保存修理に向けた調査を進め、早ければ新年度内の着工を目指す。県新年度当初予算案に金沢城調査研究費四千三百十一万円が盛り込まれた。

23荷主研究者:2005/08/13(土) 03:18:35

http://jyoho.kahoku.co.jp/member/news/2005/04/20050413t15017.htm
2005年04月13日水曜日 河北新報
仙台城跡整備 着手時期3段階設定

 仙台市は12日、国史跡に指定された仙台城跡の具体的な整備の在り方を示した基本計画を策定した。
 基本計画では、整備内容によって着手時期を3段階に設定。解説パネルや模型などを展示するガイダンス施設の建設が今後おおむね1―5年の「短期」とした。

 城のシンボル大手門の復元は6―15年の「中期」。巽(たつみ)門復元は、16年以上の「長期」とした。
 22カ所の整備場所は、史跡指定地の約66ヘクタール内に水系、本丸、大手門、三の丸、登城路、崖(がけ)地の六つのゾーン分けして設定した。
 市教委が昨年7月に設置した仙台城跡整備基本計画検討委員会(委員長・新谷洋二東大名誉教授)の中間報告案を基に、今年1―2月にパブリックコメントを実施。市民の意見を考慮して最終報告案をまとめた。

 藤井黎市長は「仙台城跡は、未来に引き継ぐべき貴重な文化遺産。歴史と風格あるまちづくりの中核として整備を進める」と話した。

24荷主研究者:2005/12/30(金) 22:58:29

http://jyoho.kahoku.co.jp/member/news/2005/12/20051209t15028.htm
2005年12月08日木曜日 河北新報
仙台城跡 「巽門」跡に堀の遺構 東側にも石組み側溝

 国史跡の仙台城跡(仙台市青葉区)の発掘調査を進めている仙台市教育委員会は8日、3の丸跡(現市博物館)の南東に位置する「巽(たつみ)門」跡付近で、堀跡を確認したと発表した。堀は絵図で存在が推定されていたが、今回の調査で初めて確認された。

 市教委によると、堀は、巽門付近で敵の攻撃を防ぐために築城の際に設けられた。その後、規模や形状を変えており、今回確認されたのは幕末期の遺構とみられる。堀は明治時代に埋め立てられた。
 堀跡からは河原石などを並べた集石遺構が出土し、周辺のわき水を排水するための暗渠(あんきょ)と見られる。

 巽門跡の東側からは石組み側溝跡も見つかった。のみなどで加工された石材と河原石が敷き詰められていた。藩制時代の路面の高さは、側溝の縁石の高さから、現在より1メートル以上高かったと推定される。
 市教委は同日、2003年の三陸南地震で石垣が崩落、今年7―11月に積み直した中門跡と清水門跡を公開した。積み直し作業と並行した発掘調査では礎石などの遺構が見つかった。

 中門跡では門礎石3基と礎石を抜き取った穴1基が発見され、金箔(きんぱく)を施した瓦も100点ほど出土した。清水門跡からも門礎石と見られる礎石のほか、4基の柱穴遺構が見つかっており、建物跡や塀跡があった可能性がある。
 市教委は10日午前10時から市民を対象とした現地説明会を開く予定。

25荷主研究者:2006/03/30(木) 00:40:27

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200602010040.html
'06/2/1 中国新聞
最古の熊本城絵図を保管

 ■山口県文書館 江戸幕府成立期示す

 山口市の山口県文書館に保管されている萩藩伝来の「肥後熊本城略図」が、現存する同城の絵図では最も古いことが熊本大学工学部の北野隆教授(65)=日本建築史=の調査で確認された。これまで最古と確認されていた絵図より約二十年さかのぼる。天下の名城として知られる熊本城の絵図をなぜ萩藩が所蔵していたのかも謎だ。北野教授は「江戸幕府成立直後の萩藩の動きを示す貴重な史料」としている。

 文書館によると、略図は縦四十八センチ、横百二センチの和紙で、毛利家から県に寄託された「毛利家文庫」中の一点。天守閣や石垣など城の配置が簡略化して描かれている。

 熊本城は一六〇七(慶長十二)年、肥後藩主加藤清正が築いた。北野教授によると、これまでは三二(寛永九)年ごろ、新藩主の細川家が周りの屋敷に家臣を割り振るために作らせた「熊本屋(や)鋪(しき)割之絵図」が最も古いとされていた。しかし、その絵図には大天守築城後に増築されたとみられる小天守があるが、今回見つかった略図には、それが見えない。これらの点から時代がさかのぼると推定される。

 略図は北野教授が二〇〇三年、文書館で萩城の調査をした際に見つけた。毛利家文庫には一六一一(慶長十六)年と翌年、萩藩士が記したとされる、城の石垣や堀の数を報告した「肥後国熊本様子聞書(ききがき)」があり、略図は同時期に描かれたとみられる。

 当時は幕府が成立したとはいえ大坂の陣(一六一四、一五年)を前にした、先行きが不透明な時期。北野教授は「毛利家が生き残りをかけ、諸国の幕府への対応策を探るため調べたのではないか」と推測している。(有岡英俊)

26荷主研究者:2006/03/30(木) 00:43:47

http://www.chunichi.co.jp/00/fki/20060131/lcl_____fki_____004.shtml
2006.01.31 中日新聞
福井城完成から400年 県、新年度予算案に城跡整備盛り込む

 一六〇六年の福井城完成から四百年を迎えたのを機に、県は県庁や県警本部が建つ福井城跡の整備を本格化させる。三月末には石垣のライトアップなどを始めるほか、新年度予算案には西側に架かる御廊下(おろうか)橋を本来の姿に戻すための予算を盛り込む方針。地域の歴史遺産として、広く県民に親しまれる場所づくりを目指している。

 福井城は福井藩の初代藩主、結城秀康が築城し、天守閣は一六六九年の大火で焼失した。県財産活用課によると、城跡に県庁が建ったのは一九二三(大正十二)年。五一(昭和二十六)年からは土地も県所有になった。

 城跡の整備について県は、手始めに本年度九月補正予算で約一千九百五十万円を計上。天守台に向かう急な階段に手すりを設置するほか、南側の御本城橋付近から、御廊下橋にかけ石垣をライトアップするなどの作業を進めている。これらは三月末の完成を目指しており、今春には石垣上の桜が美しく照らし出される風景が楽しめそうだ。

 さらに、策定中の新年度予算には御廊下橋の復元調査や、石垣上の散策道の整備などの事業費を盛り込む方針。明治初期に撮影された写真には、屋根や壁の付いた往時の橋の姿が残っており、現在の御廊下橋(幅約三・一メートル、長さ十八メートル)とは異なる構造だった。

 同課は「事業化されれば、残された絵図などを参考に専門家の意見も聞きながら復元に向けた作業を進めたい」としている。 (北村 剛史)

27荷主研究者:2006/05/03(水) 22:21:38

http://www.chunichi.co.jp/00/mie/20060406/lcl_____mie_____001.shtml
2006.04.06 中日新聞
「二之丸帯曲輪」跡を復元 亀山城の面的広がり体感を

 亀山市教育委員会が、発掘調査結果や絵図をもとに同市本丸町で進めてきた「亀山城二之丸帯曲輪(おびくるわ)」跡の復元整備が完成し、八日から一般公開を始める。亀山城で唯一現存する建造物で、県指定文化財の「多聞櫓(たもんやぐら)」とは目と鼻の先。城の面的な広がりを体感できる造りとなっている。(谷村 卓哉)

 亀山城は一五九〇(天正一八)年に築城され、明治以降にそのほとんどが取り壊された。帯曲輪は城の敷地面より一段低い平地に築いた防衛線だが、二〇〇三年度からの二カ年で実施した発掘調査で、江戸時代前期には城主専用の庭園に改変されたことが分かった。

 復元されたのは江戸末期の帯曲輪。総事業費約一億三千万円をかけた。広さは百三十八平方メートルで、白土が美しい土塀や石組み排水溝のほか「埋門(うずみもん)」と呼ばれる半地下式の出入り口が現代によみがえった。門は、発掘調査で発見された遺構の姿を再現。門柱の礎石付近の玉石は、発掘された実際の石を使用している。

 同市教委の亀山隆学芸員は「これまで多聞櫓だけだった亀山城の広がりを感じてもらえれば」と話している。

 八日午前十一時と午後二時からの二回、現地説明会を兼ねた探訪ツアーを実施。問い合わせは、同市教委まちなみ文化財室=電0595(84)5078=へ。

28荷主研究者:2006/05/03(水) 22:48:16

http://www.kahoku.co.jp/news/2006/04/20060423t15027.htm
2006年04月23日日曜日 河北新報
政宗の若林城跡 砂で埋め戻し 宮城刑務所改築で遺構保護

 仙台市若林区の宮城刑務所敷地内で昨年11月に発掘された仙台藩祖・伊達政宗の晩年の居城「若林城」跡が、刑務所改築工事に伴い埋め戻されることになった。遺構をめぐって、保存を求める文化庁と、計画通りに刑務所の改築を進めたい法務省が対立。中央省庁を巻き込んだ論争は、砂をかぶせて遺構を保護した後に工事に入る「痛み分け」で決着した。「独眼竜」の居城は再び、刑務所の地下深くで永い眠りに就く。

 遺構の面積は1990平方メートル。刑務所管理棟の改築工事に伴う発掘で、約370年前とみられる4カ所の礎石建物跡や3カ所の石敷きなどが見つかった。規模や構造から城の表御殿の一部と推測される。

 文化庁と県教委、仙台市教委は、発掘された状態での保存を主張。若林城の現存絵図はなく、遺構が残っている可能性は低いとされていただけに、文化庁は「国史跡の仙台城と並ぶ価値がある。」(記念物課)と保存を求めた。これに対し法務省は「受刑者を監視する管理棟は刑務所の中枢機能。移設はあり得ない」と拒否した。

 宮城刑務所の受刑者は1033人で5年前に比べて1割増え、収容率は112%(昨年3月末現在)と手狭になっている。施設の多くが昭和30年代の建設で老朽が進み、施設整備は待ったなしという事情もある。

 ただ、法務省側は「政宗の城跡で無理に建設を進めることもできない」(仙台矯正管区)と譲歩し、遺構を砂で覆った後に鉄板を敷き、その上に鉄筋コンクリート3階の管理棟を建設することで合意、3月末に着工した。砂がクッションとなり、管理棟の加重で遺構が破壊されることはないという。

 矯正管区は「管理棟建設の工期に遅れが生じ、遺構保護の費用も負担するが、互いに納得した結末だ」。仙台市教委文化財課は「現状保存が最善だっただけにうれしさは半分だが、政宗の遺産を後世に引き継ぐことができた」と話している。

[若林城]伊達政宗の命で1628年に完成。政宗は死去するまでの約10年間を過ごし、遺言で廃城になった。1879年、西南戦争の政治犯を収容する宮城集治監が置かれ、宮城刑務所となった。

29とはずがたり:2006/06/07(水) 12:25:51
あんま地元では好かれてない??>建立以来初の本格清掃

<雑記帳>山内一豊の銅像、建立以来初の本格清掃 高知
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060607-00000000-mai-soci

 高知城(高知市)近くの初代土佐藩主・山内一豊の銅像が6日、96年の建立以来、初めて本格的に清掃された。NHK大河ドラマの主人公が身ぎれいな姿で観光客と対面できるよう、四国電力高知支店社員が高所作業車で高さ9メートルの像の汚れを落とした。
(毎日新聞) - 6月7日1時16分更新

30荷主研究者:2006/10/09(月) 03:14:14

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/fukuoka/kitakyushu/20060818/20060818_004.shtml
2006/08/18付 西日本新聞朝刊
備後守屋鋪土塁跡を公開 19日小倉城 発掘中の屋敷跡など

一般公開される土塁跡(後方)と、石組みの排水溝などの屋敷跡

 北九州市教育委員会と同市芸術文化振興財団は19日、小倉北区大手町で発掘調査している小倉城の「備後守屋鋪(びんごのかみやしき)南側土塁跡」を一般公開し、現地説明会を開く。江戸時代初期、外敵の侵入から同城を守るために造られた土塁で、城と城下町を囲む土塁が現在まで残されている例は非常に珍しいという。

 公開されるのは長さ105メートル、高さ8メートル、最大幅約45メートルの土塁跡や、屋敷を支えた柱穴、石組みの排水溝など。現在の小倉城天守閣の南側約1.2キロにあり、当時は城の南端だったとみられる。昨年6月にマンション建設が決まったため、同財団などが7月から調査を実施していた。

 小倉城は1602年、当時の小倉藩主細川忠興が造り始め、城下町そのものを堀と土塁で囲む「総構え」という方法が取られた。同財団によると、城と城下町は、東西を川に、北を海に囲まれていたが、南側にはこうした天然の「堀」が存在しなかったため、巨大な土塁が築かれたという。

 調査は11月末まで。土塁の調査が終わり次第、盛り土の下の弥生時代の地層を調査する。同財団の栗山伸司埋蔵文化財調査室長は「土塁の規模・構造を知る上で非常に貴重。精密に検査して記録だけでも詳細に残したい」と話している。

 説明会は午前10時―正午。同財団メンバーが説明を行う。参加無料。備後守南側土塁跡調査事務所=093(583)9033。

31荷主研究者:2006/10/09(月) 03:16:50

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200608190097.html
'06/8/19 中国新聞
石垣崩れ40年 福山城跡復元始動

 福山市教委は近く、国史跡「福山城跡」の本格的な整備に向け、計画策定を担う検討委員会の準備会を発足させる。城下町・福山のシンボルである城の石垣の一部は、四十年以上前に崩落し放置されてきた。その石垣は準備会発足により、ようやく復元への一歩を踏み出すことになる。(古川竜彦)

 崩落しているのは、天守閣の西南に位置する二之丸の石垣の一部。断続的に幅二百メートル以上にわたり崩れ、落ちた石は周囲に野積みされている。市教委によると、一九六四年に城跡(約三万三千平方メートル)が国史跡に指定された際、既に一部は崩れていた。しかし、崩落に関する記録はなく、野積みの中には城の周辺整備で出土した石も含まれているという。

 市教委が年内に発足させる準備会は、近世史や城郭建築などの専門家ら学識経験者で構成。崩落している石垣や関連遺構について調べ、復元に向けた課題を整理する。さらに伏見櫓(やぐら)や筋鉄御門(すじがねごもん)(いずれも国重要文化財)など文化財の保存状況も把握する。

 続いて市教委は二〇〇七年度にも、準備会のメンバーを中心に正式な検討委員会を設置。福山城跡の全体整備計画策定に入る予定でいる。

 福山城は一六二二年、初代福山藩主の水野勝成によって築城された。天守閣は一九三一年に国宝に指定されたが、四五年の空襲で焼失。伏見櫓などは戦災を免れた。市は六六年、市制施行五十周年記念事業として天守閣や月見櫓などを再建した。しかし、文化財としての史跡整備は未着手のままとなっていた。

 石垣の復元などを四十年余も棚上げしてきた点について市教委文化課は「天守閣などを除き、城の全景写真や実測図などの資料が戦災などで焼失し、原型を復元するような計画策定が困難だった」と説明する。

 一方で文化庁は最近、文化財保護の観点から安易な現状変更に歯止めを掛けてきた姿勢を軟化させた。「適切な調査、検討作業を経た現状変更の計画ならば、審議対象となる」(記念物課)としている。こうした動きを受け市教委は、福山城跡の整備計画策定に乗り出すことを決めた。

【写真説明】崩れたままとなっている福山城二之丸の石垣。右奥は伏見櫓(撮影・天畠智則)

32荷主研究者:2006/10/09(月) 03:30:08

http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20060830002.htm
2006年8月30日 北國新聞
金沢城河北門復元、国事業に採択 平成の築城・第2幕本格化 来年度予算概算要求

 平成の築城第二幕が本格化する。金沢城の第二期復元整備事業で、国土交通省は二十九日、石川県が来年度着工する河北門の復元工事を同省の都市公園事業に採択する方針を固めた。来年度予算の概算要求に同事業費千二百八十八億二千九百万円(全国枠)を盛り込んだ。県は河北門の本体工事費として初年度に約六億円を見込んでおり、同省に河北門の整備計画を示し、事業費の補助率を協議する。

 河北門は石川門、橋爪門とともに「金沢城三御門」と呼ばれ、金沢城の実質的な表門だった。県は北陸新幹線が金沢まで開業する二〇一四(平成二十六)年度までに三御門の復元、改修を終えたい考えで、河北門については〇九年度末の完成を目指し、既に門の位置や形状などを確認する埋蔵文化財調査や基本設計に着手している。

 文献や絵図などを基に、年度内に実施設計を終え、来年度から基礎工事や石垣の積み上げなどに入る予定で、年末の予算編成までに、国交省に来年度から三年間の整備計画を示す。

 国交省などによると、都市公園事業の補助率は事業費の二分の一までとなっている。〇四年度に行われた金沢城新丸広場の植栽工事などでも事業費二千四百万円の二分の一が補助対象となった。

 今回のように「史実を尊重した復元施設」は一般的な公園に設けられる休憩所や園路などに比べて事業費がかさむため、補助率が通常より低く抑えられるケースも多いという。熊本城本丸御殿などの復元整備でも補助率は四分の一に抑えられた。

 河北門の総事業費は約十五億円となっており、県は県負担分をできるだけ抑えるため、河北門の復元工事が国の都市公園事業に採択されるよう要望していた。

33荷主研究者:2006/12/31(日) 13:31:10

http://www.toyama.hokkoku.co.jp/_today/T20061008002.htm
2006年10月8日 北國新聞
富山城石垣の遺構復元を視野に調査 富山市が来月から 藩政期の絵図には階段

 富山市は来月から、富山城の石垣のうち、裏門として利用されていた「搦手(からめて)門」横など二カ所で、遺構の復元を視野に入れた調査に乗り出す。江戸時代の絵図には、石垣に登るための階段が描かれており、階段の遺構が見つかれば復元する方針だ。市は五月から、富山城の別の個所で石垣の補修工事を実施しているが、遺構の復元は行われておらず、遺構が見つかれば藩政期により近い姿の石垣が平成の世に再現されることになる。

 来月から調査が行われるのは、搦手門側で佐藤記念美術館の東南にある石垣(九十平方メートル、高さ五・六メートル)と、大手門側で市郷土博物館の西にある石垣(百七平方メートル、高さ六・四メートル)で、補修工事に合わせて実施される。期間は今年度末までで、総事業費は約六千二百万円となっている。

 調査を担当する市埋蔵文化財センターによると、階段が描かれているのは江戸期後期の絵図「富山城図」(富山県立図書館所蔵)で、搦手門側の石垣二カ所に内部から石垣に登るための階段が描かれている。

 階段は現在、絵図に描かれている場所にはなく、一九五四(昭和二十九)年の富山産業大博覧会の際に埋められた可能性がある。このため、調査で石垣を崩す際に内部から遺構が見つかれば、復元する。

 富山城の石垣では、市が南側の正門「大手門」周囲と東側の石垣で実施している調査で、加賀藩主前田家の家紋「梅鉢紋」が刻まれた瓦が見つかるなどの成果が挙がっており、新たな埋蔵物の発見なども期待されている。

 調査に合わせて実施する補修工事では、石垣の石積みが安定して、きれいになるように解体した後に積み直す。割れていて再使用できない石などは、築造時に用いられた早月川の花崗(かこう)岩と取り換える。

34荷主研究者:2007/01/02(火) 11:49:16

http://www.hokkoku.co.jp/_today/E20061220001.htm
2006年12月20日 北國新聞
河北門の石垣修築へ 都市公園整備に補助金687億円 07年度政府予算財務省原案

 金沢城の第二期復元工事が本格化する。金沢城の実質的な表門だった河北門の復元工事が来年度、着工される見通しとなった。二十日内示の来年度政府予算の財務省原案に、都市公園整備事業費補助金六百八十七億七千四百万円(全国枠)が盛り込まれた。【5―7面に関連記事】

 河北門は石川門、橋爪門と並ぶ「金沢三御門」の一つ。県は今年度、三の丸ゾーンの埋蔵文化財調査を始めており、遺構の状態を確認したうえで、来年度、河北門の城内側にある二の門の石垣積み上げに着手する。

 河北門の復元費用は約十五億円。県は来年度の本体工事費として約六億円を見込んでおり、今後、国土交通省と事業費の補助率の協議を進める。

 県は北陸新幹線が金沢まで開業する二〇一四(平成二十六)年度末までに「三御門」の復元、改修を終えたい考えで、河北門は〇九年度末の完成を予定している。

 石川門の改修工事については国宝重要文化財等保存整備費五十三億二千百万円(全国枠)が計上された。引き続き附属右方太鼓塀の解体工事が進められる方向である。

35片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/02/02(金) 09:47:55
安東氏の「湊城」どこに 発掘調査で“土崎説”に懐疑
痕跡なし 秋田市教委困惑 讀賣秋田
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/akita/news006.htm

 勇壮な曳山(ひきやま)行事で知られる秋田市土崎港周辺で、道路拡幅に伴うある調査が行われている。一帯は、戦国時代に秋田平野を治めた安東氏の拠点「湊城」があったと長く信じられてきた場所。2005年度から満を持して、市教委の発掘作業が始まったが、出土するのは江戸期の町屋で使われた陶器ばかり。空振りに終始したこの2年間で、研究者や市教委内からは、“土崎説”の根拠となった古記録の信ぴょう性を疑う声が出始めた。(大須賀軒一)

■肩すかし■

 複数の古記録を総合すると、湊城は1436年(永享8年)、現在の土崎地区に築城され、1599〜1601年(慶長4〜6年)には大改修が施されたものの、安東氏国替え後の1604年(同9年)には廃城になったとされている。

 市教委の西谷隆・文化財保護主事によると、土崎説は「秋田史の通説、半ば常識」。城跡は南北約500メートル、東西約600メートルの範囲と推定されていたが、これまで発掘調査に入るチャンスはなかった。

 そこに持ち上がったのが、都市計画道路の拡幅計画。工事を前に緊急調査が実施されることになり、05年度は約170平方メートル、06年度も引き続き約330平方メートルの範囲で調査が進んだ。

 しかし、計250日近くを費やしたこれまでの発掘で、城の存在を示す痕跡はまったく見つからず、全容解明に期待をかけていた関係者を困惑させている。

■まゆつば■

 こうした中、疑いの目を向けられ始めたのが「秋田沿革史大成」。旧秋田藩士の手によるもので、築城年を明記した唯一の史料だ。

 しかし、市教委の湊城担当の神田和彦さんは「まゆつばの記録」と感じている。築城年を「永享八酉辰」と記述しているものの、同年は丙辰に当たるなど、誤記が散見されるうえ、編集が約450年後の明治時代というのも気がかりという。

 さらに発掘では、城跡どころか、1589年(天正17年)に起きた「湊合戦」に伴う焼土も出ていない。乱世だけに絵図面もなく、市史をはじめとする多くの歴史書が、疑わしい記述を引用し、いつしか定説化した可能性がある。

■“寺内”説■

 土崎でないとすれば、居城はいったいどこにあったのか。

 神田さんの仮説は「寺内後城か、飯島穀丁周辺」。低地の土崎は雄物川の水害を受けやすいが、穀丁には築城に適した小高い丘があり、隣接拠点であった脇本城(男鹿市)にも交通の便がいい。当時、穀丁と後城は川に面した港を抱えていた。過去には、戦国時代の陶器も出土している。

 「時代とともに移動した」との説を取るのは、「秋田県の歴史」(山川出版社)の著書がある歴史学者で、元市史編さん中世部会長の塩谷順耳さん(77)。塩谷さんの説はこうだ。

 戦国期は防御機能を重視したため、平地の土崎ではなく、後城、鵜ノ木、児桜といった丘陵地帯の寺内地区に築城した。湊合戦もこの周辺で起き、豊臣秀吉の天下統一後、平地の土崎に移転。これがいわゆる慶長年間の「大改修」で、長く土崎説の根拠とされてきた土崎神明社北東側のL字形水堀は、この段階で作られた内堀に当たる――。

■駅周辺も試掘■

 道路拡幅に伴う土崎周辺の発掘調査は07年度も継続される予定で、市教委は8日、JR土崎駅周辺で試掘調査を行う。「湊城の痕跡を探るには、飯島などを含む広範囲での調査が必要」との意見がじわじわと支配的になりつつあるが、すでに宅地などが広がっており、財政事情からも実現は難しい。安東氏の居城はどこに眠っているのか。謎は深まるばかりだ。

(2007年2月2日 読売新聞)

36片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/02/12(月) 22:35:05
金沢大学キャンパスの近くですね。

卯辰山に一揆勢の城?
http://www.chunichi.co.jp/00/ikw/20070210/lcl_____ikw_____002.shtml

 卯辰山には中世、一向一揆勢がこもった城があったという。二十年来、北陸地方の山城を調べている石川考古学研究会の南龍雄さん(66)=志賀町=が見つけたと聞き、現地に同行した。

 場所は金沢市東御影町の豊臣秀吉をまつった豊国神社。卯辰山中腹の標高一〇三メートル、浅野川にせり出した丘陵の先端にあるこの神社は、二代加賀藩主前田利長が山王社として創建した。

 南さんは昨年四月、南北朝時代の文献に見える“宇多須山城”を探して卯辰山を歩いていたところ、豊国神社の東斜面に、人工的に溝を掘った堀切(ほりきり)の跡を見つけた。神社は斜面を切り開いて築いた台の上にあり、南さんが示す堀切跡の高さは十メートル以上、二段に分かれていた。

 さらに、神社の境内を調べると、建物が建っていたと考えられる平らな郭(くるわ)が五つ見つかり、現在社殿が建っている本丸部分には外側の高さ三メートル、内側の高さ一メートル、幅一メートルの土塁も残っていた。

 石垣は見つからず、南さんは「一向一揆がこもった城と同じ特徴」と指摘。「一揆勢の拠点は、十五−六世紀の間に蓮如の息子蓮悟が築いた若松本泉寺(金沢市若松)から尾山御坊(現・金沢城公園)に移った。両方の間に位置する宇多須山城は中継地で、郭の数や土塁の高さなど規模が大きいことから、一揆勢にとって、非常に重要な城だったのではないか」と推測する。

 一方、文献史学では、この説に疑問を抱く研究者が多い。城で使われていた遺物が出土しているわけではなく、堀切や土塁もいつの時代に造られたかが分からないとの理由からだ。

 県立図書館史料編さん室の室山孝次長は「確かに一三六九(正平二十四)年、能登の武将得江季員が自らの手柄を記し、将軍に提出した軍忠状に宇多須山の城は登場する」としながらも、「卯辰山は一八六七(慶応三)年、十四代慶寧(よしやす)が西洋医学を取り入れた養生所や教育施設を整備し、豊国神社にも兼六園から卯辰天満宮を移している。堀切などは中世ではなく、幕末の産物ではないか」と話している。

記者から
 卯辰山にあった城はどこなのか。確定はまだ難しそうだ。豊国神社の河崎春夫神主によると、江戸時代、金沢城を見下ろす位置にあるため、くせ者が山に入ってもすぐ分かるように木が切られたはげ山だったという。いつの時代も重要な山だったことは間違いない。山城調査ではクマに出合う危険性も高いという。道なき山を歩いて城跡を探す南さんの努力には頭が下がった。 (高橋雅人)

37片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/02/17(土) 06:35:11
但馬山名説に一票。

秀吉か山名氏か 鳥取・天神山に戦国時代の城跡
http://www.nnn.co.jp/news/070216/20070216002.html

 鳥取市立川町四丁目の天神山(標高一八九・六メートル)の山頂一帯に、これまで知られていなかった大規模な戦国時代の城跡があることが、城郭研究家の吉田浅雄さん(82)=同所=の調査で分かった。規模の大きさや立地条件から専門家は「羽柴秀吉か但馬の山名氏が、鳥取城を攻めたときに築いた戦略的な城が有力」としている。因幡の戦国史を考える上で貴重な発見となった。

 この城跡は、天神山の山頂を主郭(本丸)として尾根沿いに東西約四百三十五メートル、南北約百五十メートルにわたり、堀切(尾根を掘って造った空堀)六カ所と、郭(くるわ。城の周囲に設けた陣地)十八カ所が確認された。

 発見者の吉田さんは、中世の城郭研究家として研究者の間で全国的に知られる。天神山に城があったことは、文献にも言い伝えにも残っていないが、戦国時代特有の堀切があったことから当時の山城跡と断定した。

 吉田さんは「堀切は幅が八メートルから十二メートルほどあり、かなりの大型。天神山の山頂は約二千平方メートルの広さがあり、城全体では相当な兵力が収容できる。これほどの規模がある城を造り、守れる武士は地元にはいない。羽柴秀吉が鳥取城を攻めた際に、補給ルートを監視するために築いた城では」と話している。

 山頂からは鳥取城の本丸があった久松山の頂上や、秀吉が一五八一年の鳥取城攻めで本陣を置いた本陣山が望める。さらに秀吉軍が進攻し、物資の補給に使った国府町、卯垣、小西谷、本陣山までの道が一望できる。

 鳥取城主・山名豊国についての著作があり、中世史に詳しい小坂博之さん(元鳥取西高教諭)=鳥取市美萩野一丁目=は「但馬か因幡の山名氏などの可能性もあるが、規模の大きさや立地条件から考えて秀吉の城が最有力。秀吉の本陣からは見えない補給ルートや包囲網が、天神山から見られる。補給ルートの確保や包囲網の一環として本陣に次ぐ重要な拠点だったのでは。秀吉の鳥取城攻めの戦略を知る上で新しい資料だ」と見る。

 「因伯の戦国城郭」などを著した中世史・城郭研究家の高橋正弘さん=同市湖山町北四丁目=は「秀吉の城は土塁を設ける例が多く、土塁がない天神山の城は、但馬の山名氏が鳥取城を攻める時に造った可能性がある」と推測している。

38荷主研究者:2007/04/30(月) 21:36:36

http://www.chunichi.co.jp/00/sga/20070306/lcl_____sga_____000.shtml
2007.03.06 中日新聞
安土城跡大手門周辺の整備完了 6日から一般公開

整備が完了した安土城跡大手門の周辺。石塁や通路のほか、案内板も設置された=安土町下豊浦で

 安土町下豊浦の安土城跡大手門周辺地区の整備が完了し、6日から一般に公開される。事業を進めてきた県安土城郭調査研究所の近藤滋所長は「安土城の実態解明に努めてきた。憩いと学習の場として活用してもらえれば」と期待している。

 安土城跡の発掘調査と整備事業は1989年、20年計画で着手。これまでの発掘調査で、大手門南側に内堀の石塁、大手門と内堀の間に広場(南北44メートル、東西100メートル)が確認された。

 大手門周辺地区(約7300平方メートル)の整備は2004年度から3カ年で実施。04、05年度は石塁より上部側、06年度は石塁南側の広場を中心に整備した。城の入り口「虎口」、郭などを再現し、総合案内板や解説板を設置した。

 06年度は、表街道から商人や職人を城下町に導く「下街道」、江戸時代の古絵図に描かれている「東内堀」を調査したが、いずれも遺構は確認できなかった。

 07年度から2年間で調査成果を見直し、報告書を作成する。

 (松瀬晴行)

39荷主研究者:2007/04/30(月) 21:38:45

http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20070314101.htm
2007年3月14日04時17分更新 北國新聞■石川のニュース
◎金沢城・鶴丸倉庫、国重文目指す 現存の江戸期城郭土蔵で最大 世界遺産へ厚み

国重要文化財指定を目指す鶴丸倉庫=金沢城公園

 金沢城公園内に現存する江戸時代の土蔵「鶴丸(つるまる)倉庫」は、全国で類似する建物が少なく文化財的価値が極めて高いことが、十三日までの石川県教委金沢城研究調査室の調査で分かった。これまで県文化財指定を視野に鶴丸倉庫の準備調査を進めてきたが、最終目標を国重要文化財指定に“格上げ”し、金沢の世界遺産暫定リスト入りへ核となる金沢城の価値を高めていく。県教委は近く、県文化財保護審議会に価値の評価を求める。

 鶴丸倉庫は、県と金沢市が世界遺産候補として提案した「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」で、構成する資産に含まれたが、文化財としての位置付けは「未指定」となっている。

 県教委は準備調査で全国の城郭に現存する江戸時代建造の土蔵をくまなく調べたところ、詳細が不明な一カ所を除くと二条城、大阪(大坂)城、高知城の六棟のみで、いずれも昭和二十年代までに国重文に指定されていることが判明。いずれも平屋建てだが、鶴丸倉庫は二階建てと際立っており、建築面積も三百三十三平方メートルと最大だった。

 城郭土蔵の国重文指定が昭和前半に相次いだ中、鶴丸倉庫だけが取り残された理由について、県教委は「当時は調査研究が不十分で、建造時期も江戸期でなく明治期に旧陸軍が建てたとの説が強かったため」とみられる。

 県教委によると、かつて全国の主要な城郭には数多くの土蔵があったが、天守閣や櫓(やぐら)ほど見栄えがしないこともあり、明治以降には大半が撤去されたとみられる。

 県教委は国重文指定への前段階として、今春の県文化財指定を目指しており、月内にも県文化財保護審議会に指定が適当かどうかを諮問する。金沢城公園内で現在、石川門、三十間長屋が国重文に指定されている。

40片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/05/30(水) 19:36:52
南砺に県内最高所の城跡 研究家・高岡さん(富山)発見
2007年05月30日 富山北日本
http://www.kitanippon.co.jp/contents/knpnews/20070530/5062.html

 戦国時代に五箇山地方を拠点とした一向一揆勢力(真宗勢力)が、織田信長勢の進攻を防ぐために築いた城跡が二十九日までに、南砺市城端、利賀地域などにまたがる高清水(たかしょうず)山系の杉山山頂(一、一一〇メートル)で見つかった。黒部市の鋲ケ(びょうが)岳砦(八六一メートル)を上回り、県内で最高所の城となる。同山系の中腹部などではこれまでに中世の城跡五カ所が確認されており、山頂の城は五箇山の本拠と各城を結ぶ中継・連絡拠点だったとみられる。織田勢と対峙(じ)する一揆勢の防御態勢が明らかになり、五箇山の戦国史をひもとく貴重な史料となる。

 長年、県内の中世城館を調査している城郭研究家の高岡徹さん(56)=富山市新屋、公務員=が昨年十一月、城端山岳会(中道伸雄会長)の協力を得て、現地で確認した。

 城跡は、高清水山系の稜線(りょうせん)を縦走する山岳古道上にあり、大きさは南北約四十メートル、東西約二十五メートル。人工的な急斜面で守られた平らな部分があり、見張りの兵士らが詰めていたとみられる。平らな部分の南北両端には、敵の侵入を防ぐ深さ二−二・六メートルの堀の跡がある。

 同山系西側の中腹部(六〇〇メートル付近)などでは、南砺の平野部と結ぶ山岳古道沿いなど五カ所で城跡が見つかっている。当時、織田勢が五箇山への進出をもくろんでおり、山頂の城は敵の監視をはじめ、本拠からの指示を各城に伝えたり、前線の城が陥落した際に撤収して立てこもる「詰めの城」の役割を果たしたとみられる。

 高岡さんは「一揆勢は、山頂の城を拠点に交通・軍事上の要衝である山岳古道を押さえた防御態勢を取り、織田勢が平野部から五箇山に入るのを防いだのだろう」と推測する。

 県史などの編さんにかかわり、越中の中世史に詳しい久保尚文さん=富山市堀川町=は「織田勢と一揆勢の高清水山系での対峙状況が浮き彫りになり、興味深い。千メートルを超える高所での城跡も全国的に珍しい」と話している。

◇風力発電施設は城跡避け建設へ

 杉山山頂で城跡が見つかった南砺市の高清水山系では、民間業者による風力発電施設の建設計画があり、市は「今後、史跡保存や影響などについて業者と協議したい」としている。業者は城跡と重ならない場所で施設を建設する見通し。

 計画はクリーンエナジーファクトリー(北海道根室市)が同山系の尾根約四キロに十三基の風車を設置するもので、三月定例南砺市議会で市は建設を支援する方針を示している。周辺に埋蔵文化財の未調査地域もあるため、詳細な建設地を決める際に協議する予定。

 同社は今春から現地で環境影響評価調査を行っており、早ければ来年五月に国への事業申請を行う。

41片言丸 ◆MACDJ2.EXE:2007/06/15(金) 12:44:00
辰巳櫓再建、直前で幻に 金沢城 資材調達後に突然 幕末の財政難で断念か 石川北國
http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20070615101.htm

 一七五九(宝暦九)年の大火で焼失した金沢城本丸の辰巳櫓(たつみやぐら)の再建に向け、加賀藩が大火の八十年後に当たる一八三九(天保十)年、設計図を作製、木材などの資材を調達しながらも突然、断念していたことが十四日までの県金沢城調査研究所の調査で分かった。幕末の財政難によるものと見られるが、何本もの下書きの線の残る図面は、金沢城のシンボル復活へ知恵を絞った職人の苦闘を物語り、現在高まる再建論議の貴重な資料にもなりそうだ。
 「天保の再建計画」の断念を示すのは、金沢市立玉川図書館近世史料館が所蔵する「清水文庫」の「巽御櫓御入用銀指引書(たつみおやぐらごにゅうようぎんさしひきしょ)」などの古文書類や二十二点の設計図。

 指引書は木材調達や資材購入を記録した調達簿で、城の普請などを担当した藩の作事所(さくじしょ)が、現場を担当する御大工方(おだいくかた)に古絵図の提出を求めたことも記されている。ただ、時期を示す文言が「亥(がい)年」とあるだけで、具体的な年が分からないままだった。

 県金沢城調査研究所は二〇〇二(平成十四)年から辰巳櫓関係の古文書類の精査を進めており、史料に示された「亥年」の特定を進めた結果、文書に登場する人物の名前などから一八三九年しかないことを突き止めた。これにより、設計図も天保の再建計画のために作られたことが分かった。

 再建計画は、宝暦以前の辰巳櫓を完全に復元する形で進められたが、土台となる石垣が大火後に大規模な改修が行われ変形していた。大工方は柱の位置などを巡って苦心したらしく、設計図には検証の痕跡を物語る複数の線が引かれている。

 辰巳櫓をめぐっては財団法人北國総合研究所が二〇〇五年から復元の可能性を継続調査している。復元調査検討委員会メンバーでもある県金沢城調査研究所の木越隆三副所長は「天保の再建」断念の理由について「加賀藩は財政難にあり、緊縮財政路線の影響を受けた可能性もある」と分析、他の史料による裏付けを進めたいとした。その上で「再建は大火以後の加賀藩の悲願であり、本丸に建物を作ってこそ、藩の威信を保つことができるという意見があったはず」と話している。

42とはずがたり:2007/07/11(水) 06:03:26
二条城はお城と云うより御殿だけど。

二条城本丸が耐震強度不足
5年間公開中止、震度6強で倒壊も
http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2007071000065&genre=M2&area=K1C

 重要文化財の二条城本丸御殿(京都市中京区)の耐震強度が文化庁の基準を満たさず、震度6強以上の大地震で倒壊する危険性のあることが10日、京都市の調査で分かった。瓦葺きの屋根の重量を減らすか、柱を補強するなどの補修工事が必要で、市は毎年春秋の特別公開を今秋から当面5年間中止。今後、文化庁や京都府と協議し、早急に修理計画を策定する。

 二条城は市が管理・運営し、観光客も多い。市は施設の安全性を確認するため、京都工芸繊維大に依頼し、昨年度に国宝の二の丸御殿大広間、重文の本丸御殿玄関、さらに、本丸御殿御書院、東大手門の4つの建築物の耐震調査を実施した。

 文化庁の重要文化財耐震指針では、集客施設の文化財は震度6以上で倒壊せず、震度5強で大きく建物がゆがまないことを基準にしている。調査の結果、本丸御殿玄関は必要な強度の36−68%、本丸御殿御書院も28−33%しかなく、震度6強以上の地震で倒壊する危険性があると判明した。

 市によると、本丸御殿の建物は1847年、京都御苑に建築されたが、明治時代に現在地に移築された。この際、柿(こけら)葺きから瓦葺きに改修したため、屋根の重量が増し、耐震強度が低下したという。本丸御殿玄関は1995年の阪神・淡路大震災で傾斜し、現在は支柱を設け応急補強している。

 また二の丸御殿も基準を下回り、震度6強でも倒壊する恐れはないが、震度5強程度で建物が大きな損傷を受ける危険があることも分かった。東大手門は土塀に倒壊の危険があるが、耐震性に問題はないという。

 市は二の丸御殿は常時公開し、本丸御殿も年3月と9月に約10日間に限って特別公開している。本丸御殿の耐震性を確保できるまで、特別公開を休止する。今後、瓦葺き屋根を柿葺きや銅板葺きなどに変えるなど修理計画を専門家とも協議する。
 世界遺産にも登録されている二条城には年間約130万人の観光客が訪れ、京都市内の観光客訪問地で8番目(2006年)に多い名所となっている。本丸御殿の特別公開には昨年約3万6000人が訪れたが「観光客数への影響はほとんどない」(市産業観光局)とみている。

43とはずがたり:2007/08/11(土) 12:53:05
おやかたさまに抱かれる際にむだ毛などあってはならぬからなってなもんですかね??

戦国武将もムダ毛処理? 室町時代の真鍮製毛抜き発見
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070811-00000083-san-soci
8月11日8時0分配信 産経新聞

 滋賀県湖南市の夏見城遺跡から、室町時代後期(16世紀半ば)の真鍮(しんちゅう)製の毛抜きが見つかり、県文化財保護協会が10日、発表した。鶴や植物が精巧に線刻されており、城主級の人物が身だしなみを整える際に使用したとみられる。

 毛抜きは、現在の毛抜きと同じ「撥形(ばちがた)」で、長さ8センチ、重さ15・6グラム。表面には、翼を広げた鶴と水生植物の沢瀉(おもだか)が特殊なノミを使って彫り込まれている。沢瀉は「勝ち草」といわれ、戦国武将が好んで用いた意匠。城主が出陣などの晴れの場で、身だしなみを整えるために使用した可能性もあるという。また、周辺からは当時としては珍しい信楽産の茶道具も出土した。

 夏見城は近江国の守護大名・六角氏の家臣で甲賀地域の一部を所領とする夏見家の居城とも伝えられているが、詳しい文献資料は残っていない。しかし、出土した遺物から、文化の中心の京都と強い結びつきを持ち、財政的に裕福な城主がいたと推測できるという。

最終更新:8月11日8時0分

44荷主研究者:2007/10/15(月) 02:54:29

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20070824/CK2007082302043492.html
2007年8月24日 中日新聞
浜松城 木造天守閣再建の方針 市が検討委設置へ

木造での再建が検討されている浜松城=浜松市中区で

 浜松市は23日の市議会建設委員会で、浜松城木造天守閣再建を検討する方針を表明した。市民を含めた検討委員会を設置し、市民の賛同を得られれば調査費(基本設計費)を計上する。20億円以上の予算が見込まれる上、江戸初期に取り壊されている天守閣の再建には歴史考証などの難関も予想されるが、歴史的建造物の再建が実現すれば、政令市の顔としても期待される。

 現在の天守閣は1958年4月に完成。鉄筋コンクリート3階建て地下1階で、延べ床面積は311平方メートル。市民の浄財などを含めて当時の総工費は約1300万円だった。

 市は当初、天守閣周辺の天守櫓門(やぐらもん)や富士見櫓門を復活させる方針を明らかにする一方で、木造天守閣の再建については「市民意識の醸成が重要」などとして、慎重な構えを見せていた。しかし、築後約50年を経て耐震性への不安が増し、石垣が変形するなど劣化の進行も指摘されていた。

 また、静岡市が6月、駿府城の天守閣再建の調査費として1000万円の補正予算を計上するなど、県内他市の動きを背景に、市内の17の自治会で構成する中央地区自治会連合会が7月26日、「政令市浜松にふさわしい本格的な木造天守閣再建が必要だ」として、市や市議会に再建を要請。市側は再建に向けての検討を迫られていた。

 委員の意見もおおむね賛同が多かったが、「市民への署名にあたってはどういう城を造ろうとしているか説明が必要だ」「公園整備の一環として全体的な構想が必要」とする声があった。

 天守閣再建運動を進める今村哲夫中央地区自治会連合会長は「(市の方針は)大変喜ばしい。今後多くの皆さんの賛同を得られるかが焦点だ」と話した。

45荷主研究者:2007/11/05(月) 23:56:43

http://www.hokkoku.co.jp/_keizai/K20070913301.htm
2007年9月13日04時45分更新 北國新聞■北陸の経済ニュース
◎金沢城跡、史跡指定の準備急げ 世界遺産暫定リストへ「極めて重要」 金沢経済同友会会員懇

 金沢経済同友会の会員懇談会は十二日、金沢市の金沢エクセルホテル東急で開かれ、飛田秀一代表幹事は、「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」の世界遺産暫定リスト入りについて、金沢城跡の史跡指定が「極めて重要なポイント」とし、石川県、県教委に申請準備を急ぐよう求めた。その上で、暫定リスト入りに向け、文化庁に追加資料を出す年末までに、史跡指定への具体的計画を明示すべきだと指摘した。

 「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」については、今年一月の世界遺産暫定リストの追加選定で継続審議となり、石川県、金沢市は十二月二十八日までに追加資料を提出することになる。

 城下町金沢の文化遺産群のうち、金沢市が調査を担当している前田家墓所は来年度、辰巳用水は再来年度と、国の史跡指定を目指す時期が示されており、飛田代表幹事は「コア中のコアである金沢城跡も史跡指定に動かないと、暫定リスト入りはほとんど絶望的だ」と強調した。

 金沢城跡の史跡指定をめぐっては、史跡になれば、時代考証などの観点から櫓(やぐら)などの復元ができなくなるとの見方もあり、県側からは、石垣だけを史跡にすれば良いという声も出ていた。

 飛田代表幹事は「石垣という皮だけを史跡にして、あんこの部分を放っておくのはいかがなものか。史跡になると、復元に支障を来すという誤解があるが、逆に建築基準法の制約がなくなる」と指摘。文化庁は、建造物の復元について、史跡の価値を高め、史実に基づくものであれば認める方向であり、また、時代設定が統一されていなくても良いとの感触であることを紹介した。

 さらに、同代表幹事は「復元された菱(ひし)櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓は江戸後期の建造物だが、時代設定を江戸前期・中期に広げれば、江戸後期に存在しなかった、本丸ゾーンの辰巳(たつみ)櫓、戌亥(いぬい)櫓の復元も可能になる。県外の人もあっと驚く。写真や絵図面が残っていれば、県民に夢を与える、いろんなプランを打ち出せる」と述べた。

 また、史跡指定を申請する際の課題として「史跡の範囲」を挙げ、「都市計画法に基づく都市公園である『金沢城公園』の範囲で申請するのが現実的だ」との見解を示した。その場合、県営丸の内駐車場、金沢中央ビルディング、北陸電力金沢中央変電所を移転または撤去する必要があるとした。

 飛田代表幹事は「金沢城跡の史跡指定をしない限り、金沢の世界遺産登録は、夢のまた夢で終わってしまう。金沢経済同友会が火を付けた世界遺産登録運動は重要な段階に差し掛かっており、われわれの要望を聞き、県も動いてほしい」と要請した。

 会員懇談会に先立って開かれた理事会で、山出保金沢市長との意見交換会を九月二十日午後一時から金沢全日空ホテルで、また、谷本正憲知事との意見交換会を十月二十四日午後二時から金沢スカイホテルで開くことを決めた。

46史跡探訪:2007/12/28(金) 06:16:24

国指定史跡「菅谷館跡」の一角にそびえる「謎の石柱」!

http://www.gyouseinews.com/local_administration/nov2007/003.html

47荷主研究者:2008/01/03(木) 00:06:50

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/saga/20071201/20071201_003.shtml
2007年12月01日00時56分 西日本新聞
名護屋城は大坂城級 規模・格式「秀吉の居城裏付け」 唐津市

 佐賀県唐津市鎮西町の県立名護屋城博物館は30日、豊臣秀吉が朝鮮出兵の拠点とした名護屋城本丸御殿跡から、計10棟の建物群の遺構が見つかったと発表した。同博物館は、建物群の規模や配置が大坂城の本丸図と類似しているとして「大坂城に匹敵する規模と格式を備えた、秀吉の居城だったことが裏付けられた」としている。

 同博物館が行った今回の調査(2004‐07年度)では、建物の礎石や通路の玉石敷を新たに発見。1996年度に確認された2棟を含む計12棟の建物群の延べ床面積は約1500平方メートルとなり、本丸の中央付近に大小の建物が密集していたことが判明した。

 中庭と思われる広い玉石敷、排水用の溝などを伴う建物もあり同博物館は「それぞれの建物は連結して機能していた」とみている。発掘調査では中国産の染付(そめつけ)磁器、土師(はじ)器の皿、上質な鬼瓦の破片なども見つかった。

 当時の名護屋城の様子を伝える「肥前名護屋城図屏風(びょうぶ)」(佐賀県重要文化財)には、本丸に書院造り風の建物が密集して描かれている。

 城跡の保存整備委員会会長の河原純之・元文化庁主任文化財調査官は「本丸に予想以上の建物があることが調査で分かった。屏風絵と方向が合致する建物もある。近世の城郭研究において、全国でも貴重な遺構だ」と話している。

=2007/12/01付 西日本新聞朝刊=

48荷主研究者:2008/01/03(木) 00:19:15

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20071205/CK2007120502069728.html
2007年12月5日 中日新聞
岡崎城の隅櫓を再建 市が09年度木造での復元目指す

再建される岡崎城東曲輪隅櫓の完成予想図=岡崎市提供

 岡崎市は、2009年度に同市康生町の岡崎城東曲輪の隅櫓(すみやぐら)を再建する。当時と同じ木造建築による復元を目指している。4日開かれた市議会定例会の一般質問で、土木建設部の小野博章部長が答えた。

 同部緑地公園課によると、再建は2003年に策定した「史跡岡崎城跡基本計画」の一環として取り組む。現在、岡崎公園のバス駐車場の南東角付近に幕末まであったとされる隅櫓を再建する。

 江戸時代の城絵図をもとに広島大大学院の三浦正幸教授(文化財学)らの監修を受けて構想をまとめた。再建される隅櫓は、木造2階建て延べ約72平方メートルで、石垣部分を含めると高さは10メートル以上になる予定。2階部分は展望台、1階部分は休憩所などとして利用することを検討している。

 市教委生涯学習課によると、東曲輪の隅櫓は戦国時代末期から江戸時代初期にかけて造られた。城の中核にあたる二の丸につながる切り通しの通路に、敵が侵入するのを防ぐ「最後の砦」としての役割があったという。 (相坂穣)

49荷主研究者:2008/05/12(月) 00:20:06

http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20080419101.htm
2008年4月19日04時19分 北國新聞■石川のニュース
◎主計町、重要伝建地区に 金沢城の鶴丸倉庫は重文

重文に指定される金沢城土蔵・鶴丸倉庫

 文化審議会(石沢良昭会長)は十八日、金沢の三茶屋街の一つ、主計(かずえ)町(まち)地区を国の重要伝統的建造物群保存地区(重要伝建地区)に選定、金沢城の土蔵・鶴丸倉庫を重要文化財に指定するよう、渡海紀三朗文部科学相に答申した。いずれも石川県と金沢市が世界遺産候補に再提案した「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」の構成資産であり、今夏に迫った暫定リスト追加の選定を前に、提案の価値や厚みが増すことになる。

 主計町地区は、明治末期―昭和前期に迎えた最盛期の茶屋街の範囲とほぼ一致する。東西約百五十メートル、南北約百四十メートルの規模で面積約〇・六ヘクタール。区域内に町家など伝統的な建造物が三十四棟あり、浅野川沿いに最盛期に行われた三階の増築が往時の繁栄を伝える。

 県内の重要伝建地区は、金沢市の「東山ひがし地区」、加賀市の「加賀橋立地区」に次いで三件目となる。

 鶴丸倉庫は一八四八(嘉永元)年に建築され、武具蔵として使われた。城郭内に残る近世の土蔵として全国でも希少価値が高く、二階建ても珍しい。広大な内部空間を有し、大きさは幅約十四メートル、奥行き約二十一メートルある。県内の重文の建造物は四十二件となり、金沢城公園内では石川門、三十間長屋に続く。

 いずれも答申通り、近く選定、指定される。主計町町会の松村光雄会長は「手本となるひがし茶屋街が近くにあり、互いに協力し合える点は協力したい」と話した。

50とはずがたり:2008/07/14(月) 22:28:49
戦国・安土桃山スレも兼ねてもええよね,ここ。
        ____   
       /_ノ  ヽ、_\
 ミ ミ ミ  o゜((●)) ((●))゜o      ミ ミ ミ   直江兼続の兜に愛wwwwそんなもんついた
/⌒)⌒)⌒. ::::::⌒(__人__)⌒:::\   /⌒)⌒)⌒)  兜本物がかぶってるわけねえだろwww
| / / /     |r┬-|    | (⌒)/ / / //   どうせマンガだからってふざけすぎだろwwwwwwwwww
| :::::::::::(⌒)    | |  |   /  ゝ  :::::::::::/       原哲夫捏造乙wwwww          
|     ノ     | |  |   \  /  )  /
ヽ    /     `ー'´      ヽ /    /     バ
 |    |   l||l 从人 l||l      l||l 从人 l||l  バ   ン
 ヽ    -一''''''"~~``'ー--、   -一'''''''ー-、    ン
  ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) )  (⌒_(⌒)⌒)⌒))


         ____
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      /:::::::::⌒ 三. ⌒\     
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    ノ::::::::::u         \ | |           .|
  /:::::::::::::::::      u     | |            |
 |::::::::::::: l  u             | |http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f0/Noae_Kanetugu_Yoroi.jpg
 ヽ:::::::::::: -一ー_~、⌒)^),-、   | |_________.|
  ヽ::::::::___,ノγ⌒ヽ)ニニ- ̄   | |  |

51荷主研究者:2008/11/16(日) 23:59:58

http://www.kahoku.co.jp/news/2008/09/20080926t61007.htm
2008年09月26日金曜日 河北新報
鶴ヶ城「御三階」復元へ 整備計画方針を決定

天守閣再建50周年に向け、復元される御三階のイメージ

 国史跡に指定されている若松城(鶴ケ城)跡の整備を進めている福島県会津若松市は、本丸に「御三階」を復元するほか、天守閣の外壁塗り替え、黒瓦から幕末当時の赤瓦へふき替えるなどの方針を決めた。本年度から文献調査を始め、文化庁の了解を得て天守閣再建50周年に当たる2015年度までに完成させる計画だ。

 御三階は、かつて本丸東側にあった建物。明治初期に市内の七日町にある阿弥陀寺に移築された。外観が3階で内部は4階の構造。倉庫や密議の場として使われたとみられる。

 現在の建物は移築時に手が加えられていることなどから、市の「若松城整備審議会」は新たな建築で復元するよう市に答申していた。

 天守閣の赤瓦については絵図に描かれていて発掘調査でも出土している。史料などによると、1648(慶安元)年、会津本郷(現福島県会津美里町)で、雪国でもしみ割れしないうわぐすりを掛けた赤瓦が開発されたという。天守閣に採用されていたのは全国的に珍しい。

 10億円近くとみられる総事業費は、天守閣の入場料収入の一部などを充てている若松城整備の基金や国の補助金で賄う。さらに市はふるさと納税の中に「若松城整備」の項目を設け、寄付を募る。1万円以上を寄付した個人には「鶴ケ城通行手形」を贈呈。天守閣や茶室への入場料が1年間無料になる。

 菅家一郎市長は「御三階の復元とともに、史実にある天守閣に赤瓦を再現することで、史跡全体の魅力が増すと思う」と話している。

 市は1996年度に策定した「史跡若松城総合整備計画」に基づき、2001年に、食糧貯蔵庫の「干飯櫓(ほしいやぐら)」と武器庫の「南走長屋(みなみはしりながや)」を復元している。

52荷主研究者:2008/11/17(月) 00:45:13

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20081002/CK2008100202000001.html
2008年10月2日 中日新聞
佐和口多聞櫓を公開 彦根城で12年ぶり

12年ぶりに公開された佐和口多聞櫓。広々とした室内に自然光が注ぐ=彦根城の佐和口多聞櫓で

 国宝・彦根城の二の丸にある重要文化財・佐和口多聞櫓(やぐら)が1日、12年ぶりに一般公開された。

 櫓につながる安全な階段がなかったため1996年以降、非公開となっていたが、「井伊直弼と開国150年祭」に合わせ、仮設階段を設置。2010年3月まで公開する。入場無料。

 佐和口多聞櫓は、城主を迎え入れ、敵を迎え撃つ表門に通じる重要な城門「佐和口」を囲むように建つ。

 防火や防弾のため、壁は竹の骨組みの上に、漆喰(しっくい)などが塗り重ねられ、窓の格子は鉄砲が備えやすいように形作られてある。窓からは、いろは松に沿った登城道と外堀が見通せる。

 建立時期は分かっていないが、彦根城がおおむね完成した元和8(1622)年までに建てられたとされる。明和4(1767)年に火災で焼け、現在の建物は、その2−4年後に再建された。

 (伊藤弘喜)

53荷主研究者:2008/12/28(日) 23:01:32

http://kumanichi.com/news/local/main/20081109001.shtml
2008年11月09日 熊本日日新聞
熊本城入園者176万8千人、過去最多に

団体ツアー客らが相次ぎ訪れ、記念撮影などをしている熊本城の天守閣前広場=熊本市

 熊本市は八日、一月からの熊本城の累計入園者数(有料区域)が百七十六万八千三十八人に達し、過去最多とされる一九六五年度の百七十六万千五百二十四人を上回った、と発表した。

 本丸御殿大広間の完成など築城400年祭関連行事や、韓国などからの外国人旅行者がけん引。八月中旬には昨年の年間入園者百二十一万人を早々突破していた。

 ここにきて経済情勢が悪化。韓国人旅行客の動向を左右するウォン安などの“逆風”が吹くが、「国内ツアー客が増加傾向」と市熊本城総合事務所。「このペースだと、初の二百万人台突破も」と鼻息は荒い。

 この日は記念行事などなく、ツアー客らが本丸御殿などを見て回るいつも通りの風景。佐賀市の主婦(68)は「これだけの高さの天守閣はすごい」と感想を述べていた。

 六〇年の天守閣再建以降残る年度統計によると、入園者は長らく百万人台だったが、九九年度には最低の七十一万人台まで低迷。400年祭効果などで昨年度は十一年ぶりに百万人台に回復していた。(前田克)

もっと知りたい ニュースの「言葉」
熊本城(1998年3月10日)一六○七年、熊本藩主だった加藤清正が築城した。約九十八ヘクタールの敷地の周囲約五・三キロに石垣が築かれた近世城郭は、日本三大名城の一つともされる。西南戦争でほとんどの建物を焼失したが、第二次世界大戦後、天守閣が鉄筋造りで再建された。

54荷主研究者:2008/12/31(水) 21:33:40

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20081202/CK2008120202000037.html
2008年12月2日 中日新聞
名城の本丸御殿復元 自販機収益金一部を寄付

 「コーヒーやジュースを飲んで復元を応援しよう」。名古屋・栄で駐車場を運営するエンゼルパークは1日から、場内にある自動販売機12台の収益金の一部を、名古屋市が復元を目指す名古屋城本丸御殿の積立基金に寄付する取り組みを始めた。

 1年間にわたり、飲料の値段に関係なく1本売れるたびに1円を寄付する。復元は来月着工で、名古屋城開府400年に当たる2010年に玄関の一部を公開する。同社は同じ10年に会社創立45周年を迎えるため、寄付を決めたという。

 市が民間から集める寄付の目標額は50億円だが、10月末現在では38億5300万円。残る10億円余の協力を求めて、担当者が近く企業回りを再開する予定だが、金融不安や円高など経済情勢はさらに厳しく、前途多難も予想される。

 こうした逆風下での取り組みに、同パークの伊奈達二社長は「名古屋城はこの地方の誇り。不景気風は吹き荒れているが、わが社のような小さな会社の試みが、大きなうねりにつながったら」と話している。

 (豊田雄二郎)

55名無しさん:2009/02/17(火) 15:56:37

2009年02月16日(月)
「隠し金山は隠されていなかった」
県考古学協会が総会で講演会
http://www.sannichi.co.jp/local/news/2009/02/16/13.html

 県考古学協会は15日、山梨学院大50周年記念館で第30回定期総会記念講演会「戦国期金山と黄金の世界」を開いた。
 帝京大山梨文化財研究所の萩原三雄所長が、戦国時代の金山や金の精錬方法について解説。「黒川金山(甲州市)や湯之奥金山(身延町)は『武田信玄の隠し金山』といわれるが、当時の最先端技術を結集し、商人や職人でにぎわった経済活動の場だった。隠されてはいなかった」と論じた。
 会場には甲府城下町遺跡や勝沼氏館跡(甲州市)で出土した金粒の付着した土器などを展示した。


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