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近世日本史スレ

1■とはずがたり:2003/01/21(火) 15:53
近世日本史を語る。
近世=江戸時代は明治期の宣伝のせいか遅れた封建制度として語られることが多かった。
しかし,国民経済が形成され,工場制手工業が発達し,江戸や上方では高度な都市文化が花開いた江戸時代はまさしく「近代」である。
重商主義としての田沼政権,絶対王政としての水野忠邦政権,市民革命としての明治維新。
経済学の嚆矢とも云える経世史家たち。ゴミを出さない循環型の環境都市。我々はもっと江戸期を肯定的に捉えるべきである。

2■とはずがたり:2003/01/21(火) 17:18
大上段に構えたがやっぱり公家の系図から入る。

江戸初期の公家の拡大は旧家の復活という形を取った?
鎌倉時代までは普通に朝堂の権力を一手に握った者の子孫が一家を立て繁栄していった。
藤原鎌足→北家・南家・式家・京家
藤原道長→摂家・堀河家(持明院・中御門)・御子左家(冷泉)
藤原師実→花山院家(花山院(中山)・大炊御門・難波(飛鳥井))
土御門通親→堀川・久我・土御門・中院
西園寺公経→四辻・一条(清水谷)・洞院(小倉・正親町)
一手に握らないまでも分流している例は多い。
甘露寺為房→葉室(八条・粟田口・堀河・岩倉)・中山・冷泉・四條・五條) 等
しかし,幕府によって厳しく制限されていた江戸期には一家を建つと云うことは容易ではなかったように思う。
◆:新家設立 ◇:他家相続
●:旧家復興 ○:一族内相続
▲:養子相続

従って余りor全然関係のない旧家再興という形を取ることが多かったようである。

閑院家庶流
●◇阿野家(観修寺流)から…阿野・清水谷(やがて他家から相続)・姉小路(風早,▲大宮,山本)

観修寺家
●▲○庶流の観修寺家から…甘露寺・坊城・万里小路・芝山・穂波・葉室・堤
観修寺家の嫡流甘露寺家をさしおいて事実上の嫡流となったようである。
○清閑寺…中御門資胤男共房から。共房は実は摂関家の隠し子との噂(池上・梅小路分立)

●◇四条家@善勝寺
上冷泉家(為益)から…四条(櫛笥(園池・八条))
広橋家(兼勝ら)から…鷲尾・油小路・西大路
修理大夫六条顕季直流の血統は事実上絶え,上冷泉家と日野流広橋家の草刈り場になっていた印象

◆◇水無瀬家
三条西家から(転法輪三条と水無瀬家は姻戚関係)…▲水無瀬・町尻・桜井・山井・●七条

◆◇藤原南家:●高倉→属閑院家藪(中園・高丘)…四辻家から

◆◇桓武平家:●西洞院家→飛鳥井家から(西洞院・平松・長谷・交野・石井)

3■とはずがたり:2003/01/21(火) 17:31
=水無瀬家=
水無瀬家は珍しい非道長系(道隆が祖)であるが,転法輪三条から養子を迎えるまではいきも絶え絶えで
左中将従四位下 具景
左少将     重親
と絶家寸前の雰囲気。
具景の女が転法輪三条公冬の室に入り実量を産み,この関係からか公冬息の季兼(母は不詳。具景女ではないのか?)を猶子として重親の嗣とした。
以後
参議従二位   季兼
参議従二位   英兼(母は父転法輪三条公冬母水無瀬具景の男実量の女)
と続くが,英兼に嗣無く三条西家から
権中納言正二位 兼成
が入る。水無瀬家に適当な嗣が居なかったこともあろうが,三条流と深いつながりを示唆する様である。

4西洞院家門流:2003/03/17(月) 14:33
飛鳥井家からからという表現は時慶卿を念頭にいれているのでしょうし、史実として
門流諸家の祖ですから間違いではないのですが、子孫は他の家の方々はどうか知りま
せんが、皆高棟王流の公家平家の子孫と思っているのではないかな?
現在、西洞院家の子孫の方のみは時慶卿の直系ですが、平松家は絶家。他の家々も何
回か養子が入っていますが、長谷家は衣紋の高倉家から信篤(西洞院範篤の女が高倉
家に嫁しているので信篤には西洞院家の血が入っている)が、石井家には油小路家か
ら、交野家は大名家の内藤家からそれぞれ養子が入りその子孫が現在の当主になっ
ています。血で辿ってゆくと何がなんだかわからないくらい混乱するのが蜘蛛の巣
のような公家の系図ですから、血よりは家という観点から考えてもいいのではない
かなと傍流の子孫の一人としては思います。
 ちなみに石井家の分家の梶野及び小松の旧男爵家(奈良華族)も入れた方が正確
を期すうえではいいかと思います。

5勧修寺家:2003/03/17(月) 14:46
打ち間違えかと思いますが「観修寺」ではなく「勧修寺」かと思います。

6■とはずがたり:2003/03/17(月) 14:59
詳細な指摘感謝です。>>4
かつ恥ずかしい誤りに穴があったら入りたいです>勧修寺

財政的窮乏で権力者の息子達が各自家を建てられなくなったのが主因だとは思いますが,特に江戸期以降は「血筋」ではなく「家」になってきて家単位で論じるのが適当のようですね。個人的にはそれをふまえて「血」も重視しつつ何とか統一的に図示できないかと思っているのですが。

江戸期に於いて朝廷に於いて権力をもった者の子息が鎌倉期のように新家を立てられないから養子という形で他家へ入るケースも有ったような感じがします。これと「家」の維持の為に養子を引っ張ってくるときにどの様な基準が有ったのか,という辺りにも興味がありますね。

門外漢ですので知識が足りずなかなか纏まらないわけですが。

7新家設立:2003/03/17(月) 15:24
江戸時代に公家が新家を立てるのは至難だったように思います。帝の許しを初めと
して、門流の摂関家に事前にお伺いをたてなければいけないのは勿論のこと、幕府、
京都所司代との調整(事実上は許可に近い)をしなければ許されなかったようです
から大変であったと思います。
養子になる場合、本人の能力容姿などの他に、家柄が問題視されるのは当然ですが、
家格が下の例えば名家、諸太夫家から羽林家くらいはよくありますが、その上の大
臣家、清華家に養子に入る例は記憶している限りでは江戸期にはなかったと思いま
す。厳格といっていいほどに家格重視、前例重視の時代であったかと思います。

8■とはずがたり:2003/03/17(月) 19:04
後水尾院政期あたりは割とあったような印象ですがその後は余程のことがない限りといった感じですね>新家設立

五摂家は皇子が臣籍降下している例がありますね。江戸初期には摂家への皇女の降嫁も目立つ気がします。

9新家設立:2003/03/18(火) 11:11
江戸初期には院が同時に何人か存在していた時期もあり、そうなれば当然そこに
伺候する殿上人も必要になることから、新家設立の必要もあったかと思います。
例えば、西洞院家の分家の長谷家や交野家は後水尾上皇の院参衆としての殿上人
であったもので、院没後はこれら諸家の殿上人は宮中に召し返されたものです。
もっともそれを可能にする財政的基盤は朝廷にはありませんから幕府の意向次第
ということになるわけですが、ちょうど和子入内から明正即位前後までの時期は
朝廷との関係を円滑にしておく必要があったことから、幕府も上皇には修学院離
宮を公家衆には新家設立という形でのサービスをしたのかもしれません。

10■とはずがたり:2003/03/18(火) 12:17
Yahoo掲示板は無知な私には知らぬ事ばかりで勉強になります。
徳川家が外戚になろうとかなり露骨な圧力もかけてたようですので,まさに飴と鞭といった所でしょうか?
一代限りで絶家した新家も多かったのはこの院との関係でしょうか。

11新家設立:2003/03/18(火) 13:53
そうしたことも関係していたのではないかと推測されますが、資料もないので何
とも申し上げられません。

12■とはずがたり:2003/03/18(火) 14:05
中絶相続に関しては日野家支流の広橋家から魚名流四条家の庶家,西大路,油小路,鷲尾各家に入っているのも不思議な感じがします。

13日野家、四条家:2003/03/18(火) 14:24
その辺りの事情については、「日本中世家族の研究」(平山敏治著)の中で
詳細を尽くした研究がされていますので参考にされるといいかと思います。
現在は絶版になっているのが惜しまれますが比較的大きな図書館ならば置いて
あるかと思います。

14■とはずがたり:2003/03/18(火) 14:27
平山先生の本は読みました。(昨日催促があって返却したばかり)

日野家にも絶家はあったのに何故四条家を再興したかは不明と書いてあった気がします。

絶版は本当に惜しいです。

15■とはずがたり:2003/03/18(火) 14:33
ときに西洞院家ご出身のようですが,一族の間でなにか今でも結束というか同族としてのつきあいのようなものはあるのでしょうか?

秋田市長の佐竹さんは大名の子孫の様ですが正月に旧家臣団が集まったりするようです。

24■とはずがたり@申し訳ない:2003/03/18(火) 15:37
>>16-22は削除しました。

25ありがとう:2003/03/18(火) 15:46
削除してくださりありがとうございます。
これからは調子に乗って書き込みなどしないよう自重します。

26■とはずがたり:2003/03/18(火) 15:50
こちらに現代の人と歴史上の人物と同列に扱ってしまう軽率さがあったようです。

27じゃみじゃみ:2003/05/13(火) 23:54
>>2 おじゃまします。話がそれるので申し訳ありません。
親鸞の父は日野有範でその17代前は藤原鎌足だと、親鸞の孫の覚如が『御伝鈔』に書いているのですが、
日野家と藤原鎌足とは関係ないのでしょうか?門徒は毎年報恩講という法要でこの事実を聞かされているのであります。

28■とはずがたり:2003/05/13(火) 23:59
日野家は藤原北家の出ですから当然鎌足の後裔にあたるはずです。
鎌足―不比等―(北家)房前―真盾―内麿―真夏(日野祖)です。
因みに初代蔵人頭として薬子の変で活躍し,北家の隆盛の礎を築いたのが真夏の弟の冬嗣です

29■とはずがたり:2003/05/14(水) 00:24
調べてみました。

①鎌足【藤原朝臣賜下】―②不比等―③(北家)房前―④真盾―⑤内麿―⑥真夏(日野祖)―⑦浜雄―⑧家宗 参議 日野法界寺開祖―⑨弘蔭―⑩繁時―⑪輔道―⑫有国―⑬資業【号日野】―⑭実綱―⑮有信―⑯有範―⑰範宴(親鸞)

17代のようですね。公式にはこの系図です。しかし歴史上の系図が必ずしも全面的に正しいとは限りませんが。

30じゃみじゃみ:2003/05/14(水) 09:20
>>28-29ありがとうございました。すっきりしました。
『御伝鈔』には、
「それ聖人(親鸞)の俗姓は藤原氏、天児屋根尊、二十一世の苗裔、大織冠 鎌子内大臣の玄孫、近衛大将右大臣 贈左大臣 従一位内麿公 後長岡の大臣と号
 し、あるいは閑院大臣と号す。贈正一位太政大臣房前公孫、大納言式部卿真楯息なり 六代の後胤、弼宰相有国卿五代の孫、皇太后宮大進有範の子なり」
と、冒頭に記されてあり、聞かされる方はお経かと勘違いしそうであります。

31■とはずがたり:2003/05/14(水) 11:28
『御伝鈔』。。ぐぐって見るとこれ↓ですね。
http://www2.ocn.ne.jp/~hongaku/godensiyou.htm

これは足羽山小松本覚寺という寺のHPの一部の様ですが,足羽と云えば越前ではないですかね?ご存じ?

32じゃみじゃみ:2003/05/14(水) 22:51
>>31 小松の本覚寺は知らないのですが、福井の永平寺町にも本覚寺があります。
   この二つのお寺はもともと一つのお寺で、福井にあったそうです。
   一向一揆の時期に小松に移り、東西本願寺の分裂にともない二つに分かれ、そのひとつが永平寺町にうつたとか。
   現に小松の方は東で、永平寺のほうは西に属しています。
   足羽山という山号は、福井に本拠を構えていたときの名残ではないかと思われます。

33■とはずがたり:2003/06/17(火) 09:48
近現代だけどいいか。

http://news.lycos.co.jp/topics/society/fire.html?d=16yomiuri20030616i515&cat=35

熊本城で西南戦争時のけん銃出土、鎮台執務室跡? (読売新聞)
2003年6月16日(月)23時55分

 熊本市教委は16日、発掘中の熊本城の本丸御殿跡から、西南戦争(1877年)時のものとみられるけん銃が出土した、と発表した。当時、けん銃は軍の幹部らしか持てず、市教委は「熊本鎮台の執務室があった場所かも知れない」と今後の発掘に期待している。

 けん銃は今年2月、本丸御殿跡の南西の小広間跡に隣接する排水溝(深さ約2メートル)の焼けた地層の中から見つかった。全長27・4センチ、重さ714グラムで、弾倉には銃弾1発があった。

 市教委によると、当時、熊本城には明治政府の熊本鎮台司令長官・谷干城(たてき)らが立てこもっていた。だが、本丸御殿は西南戦争が起きる直前に原因不明の出火で全焼、谷らが指揮を執った場所も不明のままだった。

34荷主研究者:2003/11/02(日) 01:49
同じく近現代である。

http://www.chunichi.co.jp/00/fki/20031018/lcl_____fki_____002.shtml
2003.10.18 中日新聞 福井
三国港突堤を重文指定答申 国の文化審、「明治の3大築港」と評価

 国の文化審議会で十七日、県内から重要文化財に指定の答申があった「三国港(旧阪井港)突堤」は、明治時代に国の近代化政策の一環として建設された。熊本県の三角港、宮城県の野蒜(のびる)港とともに「明治の三大築港」とされている。

 工事着工は明治十一(一八七八)年。三国港は九頭竜川が上流から運ぶ土砂が港に積もり、大型船の入港が難しくなることが悩みだった。この問題を解決しようと、地元の豪商が建設を呼び掛け、国の事業として計画が実現した。

 工事にあたったのは内務省(当時)が雇ったオランダ人技師エッセルとデレーケ。作業中も激しい波が押し寄せ工事は難航したが、地元豪商の拠出金を含む総工費約三十万円と、人員延べ約六万人を動員し着工から四年後にはほぼ完成した。

 その後も戦前までに四期にわたる補修工事が行われ、一九七〇(昭和四十五)年には四百十一メートルの堤も新たに増築された。木の枝など自然素材を利用した「粗朶沈床(そだちんしょう)」を基礎にした構造は、現代でもその価値を失っていない。

 今回の指定で県内の重要有形文化財は九十四件となり、建造物としては二十一件目になる。 (上田 洪基)

35とはずがたり:2003/11/02(日) 06:57
野蒜は地震で失敗した事で有名で,東北人は野蒜一体が神戸や横浜の如く発展する筈だったのが此処で挫折したと悔やしい思いをしているそうだが,三大築港の後二つが三角と三国じゃあ発展の可能性もたかがしれてたのでは無いかい?

36とはずがたり:2003/11/22(土) 12:21
1613年支倉常長,イスパニア派遣
1616年ヨーロッパ船の寄港地を平戸と長崎に限る
1633年奉書船以外の海外渡航を禁止
1635年日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を禁止。

帰国した時期は不明だけど,渡航・参拝したのは鎖国令よりも前やね。
それにしてもこの時鎖国しなかったら日本はどうなって居たか?

http://www.asahi.com/national/update/1122/006.html
江戸初期の武士、アンコールワットに落書き 子孫が対面

 江戸初期の寛永9(1632)年、肥前・松浦藩士の森本右近太夫がカンボジアのアンコールワット寺院に参拝し、落書きを残した。右近太夫から数えて15代目で岡山県津山市、津山科学教育博物館長の森本信一さん(63)と妻の栄子さん(59)が21日、371年前のその落書きと対面した。

 「父母の菩提(ぼだい)のため」、「数千里の海上を渡り」などと墨字で参拝の動機が書かれ、寺に「仏像4体を奉納した」とある。夫妻を案内した石沢良昭上智大教授によると、落書きはポル・ポト時代にペンキで塗りつぶされたが、近年、ペンキが退色し、再び判読できるようになった。

 落書きを食い入るように見た信一さんは、「400年近く前に先祖が命がけで海を渡ってここに来ていたかと思うと感無量で、じーんとしました」と語った。

 アンコールワットは19世紀、フランスのアンリ・ムオが「発見した」と西洋に紹介された。右近太夫は、それより200年以上前に参拝していた。しかし、幕府の鎖国令で海外渡航が厳禁され、参拝の事実は近親者以外には極秘にした模様だ。

 信一さんは、「この訪問で右近太夫がより身近になった。その秘められた歴史を調べたい」と語った。 (11/22 09:57)

37とはずがたり:2003/12/02(火) 15:52
凄いねえ…。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20031201-00000405-jij-soci
京都教育大に「解体新書」=一般図書と紛れ50年以上

 江戸末期の蘭学者杉田玄白らが日本で初めて翻訳した西洋医学の解剖書「解体新書」が京都教育大(京都市)の図書館で10月下旬に見つかり、1日、報道陣に公開された。寺田光世図書館長は「印刷が鮮明で広告がないことから、初版の中でも早くに印刷され将軍家や公家に献上されたものかもしれない」と話し、一般公開も検討している。
 オランダ語の解剖書を翻訳した解体新書は安永3年(1774年)に刊行された。同大には前身の京都府師範学校から1951年に移管された記録が残っていた。来春の国立大法人化に向け、資料などを整理する作業を進めていたところ、図書館書庫の本棚に、一般の図書と紛れて並んでいるのが見つかった。 (時事通信)
[12月1日18時2分更新]

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20031201-00000143-kyodo-ent
解体新書の初版本発見 全5巻、京都教育大書庫で
 
 江戸時代に杉田玄白(1733−1817年)らが初めてオランダ語の医学書を翻訳した「解体新書」の初版本全5巻が京都教育大(京都市)の図書館
書庫からそろって見つかり、同大が1日発表した。
 同大によると、5巻そろった初版本は少なくとも国内計約15の大学や図書館で保管されているが、見つかった解体新書は虫食いや大きな破損もなく状
態はよいという。
 5巻は解説書4冊と図解書1冊。それぞれ縦約25センチ、横約18センチで20ページ前後。木版印刷で安永3(1774)年の刊行と記されてい
る。
 解体新書はその後何度も増刷されたが、文字や外枠の印刷が鮮明で版木の摩耗が感じられないことから、初版本の中でも初期の段階で刷られたものとみ
られるという。(共同通信)
[12月1日19時11分更新]

38荷主研究者:2003/12/10(水) 00:23

http://jyoho.kahoku.co.jp/member/news/2003/12/20031209t15021.htm
2003年12月08日月曜日 河北新報
近代日本語る古文書 東北大へ 10万点を寄贈 宮城・河南

 戦後の農地解放まで日本屈指の大地主だった宮城県河南町前谷地の斎藤家(宝ケ峰縄文記念館)の古文書約10万点が8日までに、東北大付属図書館に寄贈されることが決まった。7月に起きた宮城県連続地震で被災した記念館の歴史資料の救出、保全に当たった東北大を中心にしたボランティアに感謝し、斎藤家が申し出た。古文書は、日本の資本主義成立過程を検証する上で、極めて貴重な史料だという。

 寄贈されるのは、斎藤家が江戸時代後期から昭和20年代まで所有、貸し付けていた東北一円の約1400ヘクタールに上る土地台帳や売買契約書のほか、漁業、鉱山、鉄道、銀行などの投資、経営関係史料など約10万点。
 北海道の漁業会社、茨城県内の鉱山など斎藤家の多角経営ぶりがうかがえ、日本の資本主義の成立、展開過程を解明し、近代化の道筋を全国的な視野から検討することが可能な史料群だという。

 1993年に斎藤家11代当主養之助氏(故人)が開設した宝ケ峰縄文記念館は、7月の宮城県連続地震で建物が損壊。展示してあった縄文土器や土偶が破損したり、蔵に納めてあった大量の文書箱が散乱したりするなど大きな被害を受けた。
 このため、地震被害による文化財の散逸を防ごうと結成されたボランティア組織の宮城歴史資料保全ネットワーク(世話人・平川新東北大東北アジア研究センター教授)が8月、記念館に入って古文書類を整理。破損した土器類は持ち帰って修復し9月末、記念館に返還、展示された。

 こうしたネットワークの努力に感謝し、記念館館長の斎藤武子さんが寄贈を申し出た。武子さんは「地震でめちゃくちゃになった史料を整理、仕分けしてくれた東北大に任せれば、後世ずっと大切にしてくれると思う」と語っている。
 平川教授は「斎藤家は、酒田の本間家に次ぐ大地主。大規模地主の史料がまとまって大量にあるのは非常に珍しく、日本近代史を研究する上で大変貴重だ」と話している。

39とはずがたり:2004/01/16(金) 13:51
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040108-00001060-mai-soci
<五重塔>地震による倒壊例なし 都立大講師ら理由研究へ

 江戸時代以前に建てられた五重塔について、藤田香織・東京都立大講師(建築学)らが過去の地震による被害を調べたところ、倒壊した例は見つからなかった。五重塔はなぜ地震に強いのか、藤田講師らは津観音五重塔(津市)に地震計を設置し、理由を探る研究を進めている。

 専門家の間では以前から、五重塔は耐震性に優れている可能性があるとされている。その理由として(1)柱が各層ごとに分かれ、太くて短いため転倒しにくい(2)中心の「心柱」が揺れてエネルギーを吸収する(3)大地震に遭遇していないのでたまたま残っている――などの説があるが、確定していない。

 被害を統計的に調べた研究が見当たらないため、藤田講師らは江戸時代以前に建てられた五重塔22カ所を対象に調査した。その結果、12の五重塔に詳細な修理報告書があり、震度6以上と推定される地震に延べ16回遭遇していたことが分かった。うち7回は被害状況も記録されており、傾いた塔や最上部の相輪(そうりん)と呼ばれる部分に被害が出た塔はあったが、倒壊した記録は見つからなかった。

 例えば池上本門寺(東京都大田区)の五重塔は、1614年の地震と1923年の関東大震災で傾いた記録があるが、倒壊はしていない。江戸に大きな被害が出た安政江戸地震(1855年)でも境内のいくつかの建物が被害を受けたが、五重塔には被害の記録がなかった。

 藤田講師らは現在、津観音五重塔の1、3、4階の天井と地面に地震計を設置し、観測を続けている。これまで地震で五重塔がどう揺れるかを測定したデータはなく、謎を解く鍵になる可能性がある。藤田講師は「これだけの数を集めても倒れていないということは、たまたま残っているわけではないと考えられる。五重塔は古い木造建築の集大成で、なぜ倒れないのかを検証していくことで伝統建築物の構造を精密に解明したい」と話している。(毎日新聞)
[1月8日15時3分更新]

40とはずがたり:2004/02/14(土) 02:45
あっさり負けた割には社会に与えた衝撃は大きかったような。

http://mytown.asahi.com/osaka/news01.asp?kiji=700
大塩平八郎 浮かぶ人柄

 江戸時代の「天保のききん」で農民らに蜂起を呼びかけた大塩平八郎の手紙191通すべてを集めた「大塩平八郎書簡の研究」が発刊された。大阪歴史博物館の相蘇一弘副館長が四半世紀かけて集め、現代語訳や解説も加えて「大塩の乱」(1837年)に至る軌跡を浮き彫りにしている。

 大塩は大坂東町奉行所の元与力で高名な陽明学者。幕府の腐敗に怒って乱を起こした人物として、今も人気が高い。相蘇さんは、76年に同博物館で「大塩平八郎展」を開催したのをきっかけに手紙の収集を始めた。

 内容などから年代を推定。さらに送付先との関係や当時の時代状況なども研究した。初めて活字化した手紙も68通あり、中には大坂西町奉行所の与力・内山彦次郎あての手紙も。内山は「大塩の乱」で大塩の潜伏先を突き止め、自害に追い込んだ人物だ。

 相蘇さんによると、大塩はききんに苦しむ人の救済を訴えた人物として高く評価されてきた一方、「出世を裏で画策する信用ならない男」との評価も一部であるという。「だが手紙の流れを見る限り、出世を画策したとは到底考えられない。大塩の人物像は、旧来からあった『厳格で物事の節目を通し裏表がない』に間違いないだろう」と結論づけている。

 大塩事件研究会会長の酒井一・三重大名誉教授(日本近世史)は「乱を起こした大塩の場合、手紙の多くは隠されて散在し、年代も不明だった。大塩研究を大きく前進させるだろう」と話す。3冊で2万8千円(税別)。問い合わせは清文堂出版(06・6211・6265)。

(2/13)

41とはずがたり:2004/03/21(日) 02:27
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040320-00000007-khk-toh
120年前の下水道跡 野蒜築港から出土

 明治時代初期に日本初の洋式築港として、宮城県鳴瀬町の鳴瀬川河口に計画された野蒜築港を中心とする旧市街地跡で、120年前に造られた、現在の下水道に当たる悪水吐暗渠(あくすいばきあんきょ)の遺構が19日までに見つかった。土木学会東北支部「野蒜築港120年委員会」委員長の後藤光亀東北大大学院工学研究科助教授は「日本人が使用する目的で建設された極めて初期のもので、貴重な近代土木遺産だ」と話している。

 下水道跡は地表から1.5メートル下にあり、長さ約9.3メートル。切石を三段積み重ねた構造で、内径約17センチの土管が取り付けられている。当時の新聞によると、1881年に造られ、市街地計画図では市街地のメーン通り「大町通り」の真下に位置する。実際に道路の排水や生活排水を流していたと推測されている。

 土管と切石の接合部分にはセメントが用いられており、「当時としては最先端の技術を駆使した施設」(後藤助教授)という。同様の下水道施設は、野蒜築港より約10年早く横浜市の外国人居留地に敷設されているが、日本人向けの設備は初めてとされる。

 発見された場所は、近くに住む造園業安倍信悦さん(56)の土地。航空自衛隊松島基地の騒音対策のため、防衛施設庁が新年度の買収を予定している。安倍さんが土地を更地化していたところ、母の信子さん(80)が偶然見つけた。

 後藤助教授は「町や県と協力しながら周辺の採掘を進め、排水方法などの詳細を特定したい」と話す。鳴瀬町は「せっかく見つかった財産。野蒜築港を後世に残す公園づくりを計画中で、防衛施設庁と協議した上で、今後の活用策を探っていきたい」としている。

[野蒜築港] 内務卿大久保利通が東北地方を「富国強兵」「殖産興業」の重要拠点と位置付け、その一環として1878(明治11)年に着工。84年に台風に襲われ、翌年政府は築港を断念した。完成していれば、国家による日本最初の近代港湾となっていた。
(河北新報)
[3月20日7時3分更新]

42とはずがたり:2004/04/12(月) 23:47
江藤新平は最後は不平士族に担ぎ上げられて反乱を起こして刑死しているのだがその部分の記述がないねぇ。明治政府へ叛乱というのは平成の現在の世でも隠したい事実なのかねぇ?叛乱を起こした事実がいささかなりとも江藤の評価を下げる物では無いと思うのだが。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040412-00000072-nnp-kyu
江藤新平は特命調査役!? 長州征伐失敗予言 脱藩中に「意見書」

 幕末・維新の志士江藤新平(一八三四―七四)が、佐賀藩脱藩の罪で謹慎処分中に佐賀藩の意を受けて、藩外で調査活動をしていたことをうかがわせる政策意見書「急務囈言(げいげん)」が、佐賀市の子孫宅から見つかった。十一日、江藤研究の第一人者の毛利敏彦大阪市立大学名誉教授が佐賀市で会見し、「江藤の謹慎処分中の動静はほとんど分かっておらず、貴重な史料。江藤が藩主直属の特命調査役だった可能性がある」と指摘した。

 意見書は和紙十六枚つづりで一八六四年九月に書かれた。当時の藩主鍋島直正にあてたものとみられ「帰寧」(無事に帰った)や「又々山(謹慎中の寺)ニ帰レリ」などと記され、長期間にわたって繰り返し藩外で調査に当たったとみられる表現がある。

 意見書作成中の六四年夏に動きが始まった江戸幕府の長州(山口県)出兵について「長防二州ノ大半ヲ討何ヲ以カ其成功ヲ期センヤ」と失敗を予言。この見解は当時の一般的な見方に反していたが、結果は翌六五年に幕府が事実上敗退。毛利教授は「正確な情勢判断。藩主のその後の行動にも影響を与えたのではないか」と分析している。

 意見書は、江藤新平のひ孫の江藤茂國さん(73)=佐賀市水ケ江=が三月中旬、自宅に保管されていた史料三十点を整理中に発見。茂國さんは「さらに内容を精査し、展示などを検討する」と話している。

 江藤新平は佐賀藩に生まれ、二十八歳で脱藩し、京都で尊皇攘夷(じようい)運動に携わったが、数カ月後に佐賀に帰り、閉居を命じられた。一八七二年には初代司法卿(現法務大臣)を務め、法律の制定など司法制度の確立に尽力した。十三日は江藤の命日で、佐賀市で百三十回目の慰霊祭が予定されている。(西日本新聞)

43とはずがたり:2004/07/02(金) 15:44

伊能大図、最後まで所在不明の4枚発見 全貌よみがえる
http://www.asahi.com/culture/update/0702/001.html

 伊能忠敬(ただたか)が作った「大日本沿海輿地(よち)全図」の大図(214枚組み、縮尺3万6千分の1)のうち、最後まで所在不明だった4枚の模写図が、東京・築地の海上保安庁海洋情報部で見つかり、1日公表された。幕府に上呈された大図の正本は明治初期(1873年)の皇居の火災で焼失したが、これで全貌(ぜんぼう)がよみがえった。

 大図は、伊能家に残された控え図などの副本が、山口県文書館(山口市)と松浦史料博物館(長崎県平戸市)に各7枚、模写本が国会図書館に43枚、国立歴史民俗博物館に7枚、米国議会図書館に207枚保存されているが、今回の4枚は、どれにも含まれていなかった。

 海上保安庁にも、旧海軍省水路部から引き継いだ資料に、大図の縮小模写141枚があることは分かっていたが、これまで内容が詳しく調べられていなかった。

 このため、伊能忠敬研究会の渡辺一郎代表(74)らが5月中旬に詳細に検討した結果、未発見だった「蝦夷(えぞ)、宗谷」「山城、河内・摂津」「備中、備後福山」「備後、安芸、伊豫(いよ)今治」の4枚が含まれていることを確認した。

 大図はほぼ畳1枚大で、今回の4枚は約40×70センチに縮小してあった。京都を描いた「山城」には、測量線や、天体観測地点の☆印が朱色で残って制作作業をしのばせ、御所や二条城、清水寺などの社寺が細かく描かれている。

 現在、国土地理院などの主催でアメリカ版伊能大図展が各地で開かれており、今月16日からの北海道・釧路市観光国際交流センターでは、全214枚のレプリカを並べた展示が実現しそうだ。

 渡辺さんは「まさか4枚そろって出るとは思わなかった。これで大、中、小図が全部そろい、ひと仕事終わりました」と感慨深げだった。 (07/02 00:41)

44とはずがたり:2004/10/16(土) 12:33
江戸時代の日本は野蛮な欧米には比較にもならぬ程の先進国だったと思っている。

麻酔術「門外不出」説覆る 華岡青洲から杉田玄白一門に
http://www.asahi.com/science/update/1013/001.html

 江戸時代の外科医、華岡青洲(はなおか・せいしゅう)が初めての全身麻酔手術に成功したのはちょうど200年前の1804(文化元)年10月13日。青洲の麻酔術は「門外不出」で普及しなかったとされてきたが、解体新書で有名な杉田玄白の一門に伝えられ、江戸でも乳がん手術が行われていたことを示す新資料を、松木明知・弘前大名誉教授(麻酔科)が東京都内の古書店で発見した。

 新資料「療乳(がん)記」は漢文6ページの小冊子。玄白の息子、立卿(りゅうけい)の乳がん手術記録をその弟子が印刷して関係者に配ったものだ。

 それによると、立卿の手術は青洲の手術から9年後の文化10年9月、江戸の玄白宅で行われた。「麻睡之剤」を用い、重さ数十グラムのがんを摘出、傷を洗い、香油を塗って縫合した。患者は6時間で意識が戻り、1カ月で回復した。青洲の弟子の宮河順達が玄白門下に入って数人に手術し、立卿が実際に見学したこと、青洲への感謝も書かれている。

 青洲は弟子に麻酔術の秘密を守らせた。手術内容の記録は数件見つかっているだけで、手術は広がらなかったと考えられていた。「数え80歳」(文化9年)の玄白が30歳近く年下の青洲に出した手紙が現存し、「病人が手術の痛みに耐えられない。私は高齢なので息子たちに治療させたく、彼らが質問の手紙を出すのを許してほしい。宮河からも手紙を差し上げた」との記述があったが、玄白が単純に青洲を賞賛した手紙と見られていた。

 松木さんは「医学史の空白が埋まった。新資料と合わせれば、青洲の許可を得て立卿が順達から麻酔術を学んだと考えられる。順達が江戸で手術をしたことも初めて分かったが、杉田派が加われば、かなり普及していただろう。青洲が安易な伝授を戒めたのはケチだったからではなく、患者の危険を避けるためだったと思う」という。

 日本麻酔学会は、青洲の麻酔手術が世界の先駆けだったとして、10月13日を「麻酔の日」としている。

(10/13 17:32)

45ぽんこ:2004/10/25(月) 03:26
緒方洪庵の適塾が非常に面白かったです。
当時の大坂の医者番付等が展示してありました。
京阪または地下鉄御堂筋線の淀屋橋駅からすぐです。
http://www.ncs.co.jp/nakanoshima/tekijuku.htm

46とはずがたり:2004/10/25(月) 12:24
>>45
おお,懐かしい。その昔行きましたわ。。
医者の番付なんかあったかなぁ。。覚えてない。

47とはずがたり:2004/11/23(火) 00:33
すげえすげえ。尚氏の出身で井伊氏の室にして歌人ですか。
まぁこの辺の話題はこちらで。

井伊文子さん死去 元彦根市長夫人、歌人
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041122-00000062-kyt-l25

 故井伊直愛・元彦根市長の夫人で歌人の井伊文子(いい・ふみこ)さんが22日午前9時45分、急性心不全のため滋賀県彦根市立病院で亡くなった。87歳。東京都出身。自宅は彦根市松原町515。葬儀・告別式は24日午後零時半から同市古沢町1100の清凉寺で。喪主は孫の岳夫(たけお)氏。
 1917(大正6)年、琉球王朝最後の王尚泰の孫・尚昌の長女として東京・麹町に生まれた。37年に直愛氏と結婚。直愛氏は旧彦根藩主だった井伊家の第16代当主にあたり、彦根市長を9期務めた。
 滋賀文学会や現代歌人協会に所属する歌人、エッセイストとして知られ、沖縄の青少年育成のための社会奉仕団体「仏桑花(ぶっそうげ)の会」会長として故郷・沖縄と本土、彦根の文化交流や社会福祉に尽力した。滋賀県障害児協会名誉理事長。
(京都新聞) - 11月22日22時36分更新

48とはずがたり:2004/12/01(水) 02:52
これは凄いねぇ。こんなの見つかるかもしれんし古本屋巡りでも再開しようかな。

因みに減り方。
富山県成立(M16)2721村→市町村制施行(M22)2市269村─昭和大合併→2003年末(H15)35市町村(9市18町8村)[射水郡大島町,小杉町,下村,大門町, 魚津市, 小矢部市, 上新川郡大山町,大沢野町,黒部市, 下新川郡朝日町,宇奈月町,入善町, 新湊市, 高岡市, 砺波市, 富山市, 中新川郡舟橋村,上市町,立山町, 滑川市, 西礪波郡福光町, 福岡町,婦負郡婦中町,細入村,八尾町,山田村, 東礪波郡城端町,平村,上平村,利賀村,庄川町,井波町,井口村,福野町,氷見市]─平成の大合併(富山・砺波・南砺成立)→2005年度(H17.4.1)21市町村(10市11町村)[射水郡大島町,小杉町,下村,大門町, 魚津市, 小矢部市, 黒部市, 下新川郡朝日町,宇奈月町,入善町, 新湊市, 高岡市, 砺波市, 富山市, 中新川郡舟橋村,上市町,立山町, 滑川市, 南砺市, 西礪波郡福岡町,氷見市]─(更に射水・下新川・高岡が成功したとすると)→13市町村(10市3町村)[射水市, 魚津市, 小矢部市, 黒部市, 高岡市, 砺波市, 富山市, 中新川郡舟橋村,上市町,立山町, 滑川市, 南砺市, 氷見市]

■2700余りの村名・場所記す 明治大合併前の地図見つかる
http://www.kitanippon.co.jp/pub/hensyu/gappei/2003/200310/031030pref01.html

 富山県が誕生した直後の明治18(1885)年に発行された「富山県管内図」が高岡市内で見つかった。同22(1889)年に行われた「明治の大合併」前の2,700余りの村名と場所を明記した地図は他になく、県境や郡境がかなり正確に示されているほか、寺や神社、郵便局なども記号で示してある。県立図書館に一部あるが、一般家庭から発見されたのは初めて。

 「富山県管内図」を所有していたのは、都市環境文化研究所「としけん」会長、石丸昭栄さん(63)=高岡市角。置県120年にちなみ、県公文書館で開かれている特別展「富山県120年のあゆみ」を訪れた石丸さんが、市町村合併の流れを示すパネル展示を見て、これまで集めてきた地図の中に関連する地図があることに気付いた。

 管内図は明治18年5月刊行。銅版刷り縦130センチ、横120センチ、縮尺は約10万分の1。発行元は東京都内で、欄外には「定価四十八銭五厘」と朱印で押してある。

 現在の富山県ができたのは明治16(1883)年5月9日。当時は村が2721あったが、同22年の市町村制施行で、富山、高岡の2市と269の村に合併した。その前に作られた管内図は2,700余りの村名をすべて網羅。大部分は西田地方(富山市)や守山(高岡市)、海老江(新湊市)などと現在も地名として残っている。

 絵地図ではなく、名所旧跡や電信局、港などが記された総合地図としても最も古いとみられ、県内では県立図書館に一部所蔵されているのみ。県公文書館の竹島資料課長は「県が独自に作ったものか、国の政策か分からないが、希少価値は高い」と言う。

 石丸さんは「貴重な地図を後世に残すため大切に保管したい」と話している。

49とはずがたり:2005/02/12(土) 16:28:56
明治期以降の身分制度の自由化と云う面を自分は強調してきたが,江戸期でも伊勢の貧乏人から身を起こすこともできたんですねぇ。

海運・治水に功労、河村瑞賢
http://www.pref.mie.jp/TANBO/BUNKA/mieb0226.htm

 今日は、江戸時代初期に海運・治水に功労のあった三重県出身の豪商・河村瑞賢についてお話しましょう。
 瑞賢は、元和4年(1618)2月、度会郡東宮村http://www.mapion.co.jp/c/f?el=136/32/30.523&scl=70000&size=954,768&uc=1&grp=MapionBB&nl=34/16/47.469(現南島町)に生まれ、13歳のとき江戸に出ました。伝えるところによれば、瑞賢は当初車力をしていましたが、あるとき品川付近の海岸でお盆の精霊送りの瓜や茄子が多数漂流しているのを発見し、この瓜や茄子を集め塩漬にして普請小屋等で売り、かなり利益をあげたということです。その間、役人とも知り合い人夫頭になったりして徐々に資産を増やし、材木屋を営みました。そして、明暦3年(1657)の江戸大火に際しては、木曽の山林を買い占め莫大な資産を築き、彼の名は幕府の重臣にも知られるようになりました。
 また、瑞賢は東廻り・西廻り航路の開拓者として有名です。明暦の大火後、江戸では米不足をきたしており、幕府は奥羽地方の米移入を計画します。しかし、従来の利根川河口の銚子(現千葉県)で川船に積み換え、川をのぼって江戸に運ぶという方法では日数がかかりすぎたりして航路の改良が望まれていました。寛文10年(1670 )の冬、幕府から陸奥の産米輸送の命を受けた瑞賢は、早速現地調査を行い、方策を定めました。すなわち、阿武隈川河口の荒浜(現宮城県)から房総半島に向い、相模の三崎か伊豆の下田に行き、西南風を待って江戸湾に入るという航路です。この方策によって従来よりも輸送日数・費用を大幅に減じることができました。
 次に寛文12年、出羽の産米輸送の命を受けると、瑞賢は日本海を十分調査し、出羽の酒田から日本海を廻って下関・瀬戸内海・紀州沖・遠州灘・下田を経て江戸に入ることとしました。西廻り航路の改良です。堅牢な船・熟練水夫を選び、途中の寄港地を定め、入港税免除や開港の水先案内船の設置なども行いました。さらに、暗礁が多い志摩の菅島付近では菅島の山の中腹に毎夜篝(かがり)火をあげ、船に位置を知らせるようにしたのも瑞賢の構想だと言われています。
 このほか、瑞賢は、淀川河口の治水事業にも当たり、越後の高田藩の中江用水や鉱山開発の指導もしています。このような航路の開拓や治水などの功績により、瑞賢は、晩年旗本に列せられ、禄米150俵を賜っています。なお、瑞賢の出身地・南島町では「ふるさと創生事業」の一環として、この6月16日に河村瑞賢の銅像を立て、この郷土の偉人を顕彰しました。

(平成2年6月 海津裕子)

50とはずがたり:2005/02/12(土) 16:29:22


●河村瑞賢 かわむらずいけん
http://www.tabiken.com/history/doc/E/E019R100.HTM

 1617〜99(元和3〜元禄12)江戸前期の商人・土木家。幼名を七兵衛。はじめ七兵衛,のちに十右衛門と称した。瑞賢は落髪したときの号で,瑞軒・随軒とも書く。晩年には再び髪を蓄えて平太夫と称した。伊勢国度会郡の貧家に生まれ,13歳で江戸の親戚に養われることになる。成人してやがて幕府の土木工事の人夫頭となった。1657年(明暦3)の明暦の大火(振袖火事)の際に,木曽福島の材木を買い占め,さらに土木・建築を請負い巨利を得た。その後幕府より出羽国の天領租米を江戸へ運ぶ航路の開発を命じられ,阿武隈川を下って河口の荒浜から伊豆の下田などをへて江戸へ入る東回り航路を開発。次いで最上川を下り酒田から海路下関・大坂・下田をへて江戸へ入る西回り航路も開発。これで,今まで陸路1年かかったものが3カ月で回送されることとなった。また淀川治水のため安治川を開くなどした。1698年(元禄11)には150俵の旗本となった。

西回り航路:酒田―小木(佐渡)―福浦(能登国羽咋郡富来町)―柴山(城崎郡香住町)―温泉津(石見銀山市)―赤間関―岡山―大坂

東回り航路:荒浜(陸奥国亘理郡)―平潟(北茨木市:大津港でも小名浜でも無いんだねぇ;北茨城http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2246/1066974699/409-411n。多賀市=北茨城+高萩を。)―那珂湊(勝田+那珂湊)―銚子―小湊(天津+小湊+鴨川)―三崎(三浦市)・下田(伊豆国賀茂郡)―江戸

51とはずがたり:2005/02/12(土) 16:29:38

成る程,こんなもんなんですねぇ。
>年平均大坂−江戸間を4往復の稼動状況であった

菱垣回船・樽回船と一括して覚えてたが,郵政省とヤマト急便ぐらいの違いがあったんですねぇ。

●菱垣廻船 ひがきかいせん
http://www.tabiken.com/history/doc/P/P063L400.HTM

 江戸時代に大坂-江戸間の海運の主力となり,運賃積を主とした商船で,木綿・油・酒・薬種そのほか江戸の必要とする日用品を輸送した菱垣廻船問屋専属の廻船である。船型は近世海運の主力として登場した弁才船,つまり大和型帆船で,原則的には1本の帆柱と大きな横帆をあげて帆走するのが特色であった。「菱垣」とは,本来船の舷側にある垣立下部の筋を,菱垣つまり菱組の格子としたことに由来している。そして菱垣をつけて一般廻船と区別したのは,江戸十組問屋所属の廻船として幕府をはじめ,諸大名の御公儀公用荷物の輸送にもとめるのが,その特権の内容であった。菱垣廻船は1619年(元和5)に泉州堺の商人が紀州富田浦の250石積廻船を借り受け,大坂より木綿・油・綿・酒・酢・醤油などの日用品を積み込んで江戸に廻送したのが始まりといわれている。この廻船による江戸への商品輸送を皮切りに廻船問屋が発生し,やがて大坂の繁栄につれて,1634年(寛永1)には大坂北浜の泉屋平右衛門が江戸積問屋を開き,つづいて毛馬屋・大津屋・顕屋(あらや)・塩屋が船問屋を開業するにいたり,大坂に菱垣廻船を仕立てる菱垣廻船問屋が成立するのである。ここで廻船問屋というのは,廻船問屋自身の手船仕立ての場合もあるが,多くは紀州や摂州などの船持の廻船を雇い入れ,荷主から積荷の集荷差配をし,廻船仕立の業務を行う海上輸送請負業者であった。この点で,手船に自由に商品を積み入れて商売をする買積型の廻船業者とはその性格を異にしていた。
 その後,大坂の菱垣廻船問屋は大津屋と富田屋が2軒に分かれ,また江戸荷主のなかから小堀屋という廻船問屋が取り立てられ,さらに桑名屋,小松屋の2軒も加わって,廻船問屋の数もしだいに増加した。これらの廻船問屋によって仕立てられた菱垣廻船数は享保年間(1716〜36)には160艘にのぼり,平均500石積前後の廻船で,乗組人数は12〜13人であって,年平均大坂−江戸間を4往復の稼動状況であった。しかし海上輸送がひんぱん化してくるにつれて,船頭・水主が輸送途中で積荷を盗み取ったり,故意に船を沈没させて荷物を抜き取るなどの不正が横行した。そこで船頭・水主・廻船問屋の不正の弊風を一掃するために,江戸問屋商人が結束して1694年(元禄7)に江戸十組問屋を結成した。十組問屋とは塗物店組・内店組・通町組・表店組・薬種店組・河岸組・綿店組・紙店組・釘店組・酒店組の十組をさし,これら主要な下り商品を取り扱う十組問屋商人が連合して組合をつくり,行事・大行事を置いて菱垣廻船の取締りや海難に際しての共同海損の処理などにあたった。

 ところが,1730年(享保15)に酒店組が十組問屋より分離し,以後下り酒は菱垣廻船には積み入れず,酒樽専用船たる樽廻船に積み込むことになった。その理由は,元来酒は腐敗しやすい水物であるため輸送の迅速性がとくに要請されたが,菱垣廻船でのほかの荷物との混載では集荷から艤装出帆までの荷役日数にかなりの日数を要したのに対し,酒樽のみの樽廻船では荷役が簡単で短期間で船を仕立てることができた。それに加えて海難に際して酒荷とほかの菱垣積荷物のあいだで取引形態が異なっており,菱垣廻船の積荷が原則的に江戸十組問屋の仕入れ荷物(注文荷物)であるのに対し,酒荷は荷主たる酒造家の送り荷物(委託荷物)であった。そのため海難にあたっては,菱垣廻船では江戸十組問屋が海損負担者となるのに対し,樽廻船では灘の酒造家が海損負担者となった。この相違から,酒荷については酒造家が樽廻船を仕立てるようになっていった。

 こうして酒店組の十組問屋からの脱退を契機に,酒荷は樽廻船一方積,そのほかの荷物はすべて菱垣廻船一方積という形で,菱垣・樽両廻船の積荷規定が成立した。しかし酒荷は本来下積荷物であるので,上積荷物である菱垣積荷物を樽廻船が洩積(もれずみ)と称して,低運賃で引き受けるようになり,近世後期にかけては絶えず樽廻船が菱垣廻船を圧倒していった。迅速性と安全性に加えて,低運賃をモットーに樽廻船は菱垣廻船を衰退に追いやり,1841年(天保12)の株仲間解散によって「菱垣」としての特権を喪失し,以後菱垣廻船は樽廻船によって凌駕されたのである。


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