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哲学・宗教質問箱

1:2005/05/10(火) 02:09:43
美しい日本語
竹下さんに是非お聞きしたい事があります。携帯からだとおしゃべりルームに入力できなかったので内容は異なりますが、こちらで質問させてください。竹下さんは以前フランスのリセで日本語を教えられてましたよね?そこでくだらない質問ですが、日本人が美しい日本語を喋るにはどいしたらいいと思いますか?私は東京に出てきてまだ一ヵ月ですが、こちらの人の喋り方ってきれいだなと思いました。私は関西風のイントネーションがなかなか抜けません。仕事でもきれいな言葉が必要なので、方言を頭の中から消したいです。やはり時間をかけるしか方法はないでしょうか?

319迷える大羊:2008/04/22(火) 00:01:59
謎に満ちているのは・・
 毎度、ありがとうございます。やっと、まともな回答にありつけましたね。今までは「俺、そんなにイヤなこと、変なこと、無茶なこと聞いてるかぁ?」といいたくなるような反応が多かったですから。

 先日行った某教会の信仰入門の先生もとにかくこの件に関しては、とにかく神といったら神なの的な答えで聞く耳もたず。ああ、説教もうまいし、70代とは思えないはつらつとした方で、いい先生、と思ってたんだがなぁ、とちょっとがっかりしたところでした。
(単に忙しいのに、苦手なところをしつこくつっつく私がうっとおしかったのかもしれませんが・・)

 三位一体、イエス=神で人で、の教義そのものより、こういう実際のクリスチャンたちの反応の方が私にはよっぽど不可解で謎に満ちてます。変なたとえですが、八つ墓村で触れてはならないタブーに触れた金田一耕介の気分でしょうか。何かタタリでもあるんですか?と聞きたくなります。

 でも、この疑問ってある意味、クリスチャンの個人単位での性格とか信仰のあり方を計るリトマス紙になりそうですね。以下、私の独断と偏見で分類します。

 1.「よくわかりません、知りません」 素直でいいと思います。聖職者であってもちっとも恥ずかしいことではないと思います。そんなことで「牧師のくせに」とか「神父のくせに」なんて思ったりしません。
 別にキリスト教とか教会はオタク的な知識を競う場ではないと思いますし、〜を知ってるからすごい、とかエライといった世界でもないと思いますから。でも、キリスト教の肝心かなめの部分がそれでいいのか、という一抹の不安は感じる。

 2.「これは人間業ではわからない奥義で云々」 ホントかぁ?やたら話を仰々しくして誤魔化してない?本当はあなたもよく知らなくて勉強してないでしょ?といった疑いを持ってしまう。教義そのものの説明は難しくても、そんなものが教義になったワケぐらいは教えてくれたっていいでしょ?と思ってしまう。実際、SEKKOさんはきちんと御説明されているわけだし。

 3.「これは信仰なのだから」 とにかく受け容れろ、丸呑みしろ、とのお答え。だけど、大してわかってもいない、実は心の奥底ではあんまり納得もしていないことを信じたフリをするというのは自分に対しても神様に対しても不誠実じゃないですか?との感想を持ってしまう。

 4.「問答無用、神といったら神だ」 私にとって最悪です。こんなこという牧師や神父さんは他にいくらいいところがあっても一発で幻滅してしまいそうです。信仰って無理やり自分にマインドコントロールをかけることなんですか?と思ってしまう。

 まあ、くどいようですが、あくまで私の偏見ですから。月並みですが、人間、年齢、身分問わず素直なのが一番いいですね、という結論になるのでした(そういうお前はどうなんだ、というツッコミはなしで・・)

 SEKKOさん、是非、三位一体、イエス=人であり神であり、について本書いて下さい。楽しみにしてます。

320迷える大羊:2008/05/02(金) 23:38:05
信仰と道徳の違いとは?
 キリスト教、宗教の話をしていつも言われるのは「これは単なる道徳律とは違うんです」ということ。例えば、聖書について「確かに今から見ると変な話も多いですけど、人を裁くな、とか、神の国はあなたがたの間にあるとか、いろいろいいことも書いてありますよね〜」というふうに話をすると「ええ、でもそれだと論語などと変わらないんです。単なる道徳なんです」ということを、これまた教会、教派問わずいわれます。

 で、この信仰・宗教と道徳・哲学との違い境目とか違いって何なのでしょう?信仰・宗教として聖書を読むとするなら、現代、あるいは未信者の感覚からしてどんなにメチャクチャなことが書いてあっても「神の御言葉」「神の霊感によって書かれた」として受け取らなくてはいけないんでしょうか?

 あくまで、書かれた状況や時代を鑑みて「著者はなんでこう表現したのかな?」とウラを読みながら、その意図を考えていく、なんて読み方は邪道になるんでしょうかね?
 いや、自分としては至って普通のことを言っているつもりなんですが、「宗教・信仰」の世界では通じない話なのでしょうか?
 またまた、すみませんが、どなたかお教え下されば幸いです。

321nao:2008/05/03(土) 22:16:31
公式巡礼、公式行列
竹下先生のご著書「奇跡の泉ルルドへ」のなかに「公式巡礼」「公式行列」という言葉が度々でてきます。「公式」というのは、どういうことなのでしょうか?だれかが組織してくる巡礼、行列なのでしょうか?私は10年前、日本の枢機卿と共に25名で巡礼しましたが、そのような巡礼は「私的」というのでしょうか?「公式」と「私的」の違いをご教示くださいませ。

大羊さんの問いにはいつも啓発されております。信者になつて、「このような問いに自分はどう答えることができるだろうか?」と考えてしまいます。でも残念ながら答えの言葉がまつたくでてきません。何故なのか?いつも悩んでいます。プロの司祭様たちがこのサイトをご存知なら、ご登場ねがいたいものです。

322Sekko:2008/05/03(土) 22:42:26
聖書との付き合い方について
 私の立場でお答えしときます。別にその筋のお墨付きではないのでそのつもりで。

 キリスト教に関しては、紀元1世紀にパレスチナで生きたナザレのイエスという人間が「人間でありそのまま神である」という信仰が基盤になっているわけです。
 そこのところは一応おいといて、ともかく「神が人となった」というのですが、すべての「人」は社会的歴史的存在なので、ナザレのイエスがどういう時代のどういう場所でどういう伝統と共同体意識の中に生まれたかということは彼の「人間」の部分にとって大きい意味を持っています。
 たとえば、ある人が突然「神懸り」になってそれ以降は生き神として機能し、それ以前の個人史は問題にならないとか、逆に、生まれた時から「神の化身とか生まれ変わり」であり普通の人間の文脈からは超越しているんだというタイプの宗教もあるでしょう。
 でも、キリスト教では、ナザレのイエスというユダヤの歴史や伝統を背負って生きて死んだ男が神としていかにして普遍宗教の核になったかを、弟子たちが書きとめたわけです。彼らの宗教がはじめにユダヤ人の間で形成されたことは、イエスが救世主となることを「ユダヤの聖典の成就」であるという「後付け」がなされたことを示しています。
 それで、旧約聖書の部分は、それが「文字通りの絶対真実」というプレゼンテーションではなく、イエス・キリストがどういう「時代と文化の文脈に生まれたのか」、そういうコンテキストの中でその民族的枠をどのようにして突破して普遍宗教〈地縁血縁を救いの条件にしない宗教〉に展開していったかの道筋を残す部分です。イエスの教えや行動は、他の普遍宗教の開祖と同様その社会では革命的であったにせよ、だからこそ生きた時代や伝統からインスパイアされたものであります。
 旧約聖書があるからこそ、イエスがどういう人間であり、弟子たちがどういう風にイエスを理解したかが私たちにも追体験できます。
 新旧聖書のおかげで、イエスの人間としての文化的社会的ルーツをも知ることができ、それを、使徒たちや初期教会の人たちが、どのように新しい世界観を提供し、戒律主義や偶像崇拝や権力維持に陥りやすい人間の性向からその犠牲者である弱者を解放していくシステムを作ったのかがよく分かります。

 人はどのような身分に生まれてどのような能力を持っているかということでは評価されず、それをいかにして運用するか〈=自分より弱い者に仕えるか〉が大事なのだというガイドラインを示した点では、「・・・するなかれ」の古典的で形骸化しやすい戒律主義から一歩進んだ倫理感も提供しました。

 キリスト教の歴史の中では、聖書を文字通りに解釈してそれを知識や行動規範としておしつけるというような蒙昧主義や教条主義も何度もありましたし、今もあると思います。逆に、それに反発して、すべてはシンボリックだとか比喩だとか、神話だとか、文学だとか言って、「イエスという手本にすべき立派な人間の物語」だとか、その他多くの道徳や宗教や哲学のテキストの一つに過ぎない、と位置づけるとかの、矮小化や相対化の流れもたくさんあります。
 いろんな読み方読まれ方をすること自体は、他人に抑圧的にならない限り、別に自由でいいんじゃないでしょうか。

 けれども、

 旧約の世界に養われて、
 新約の世界が突破して、
 時空を超えたメッセージとして、
 今、現在も、平和と利他の実現のためにキリスト教を生きている人も実際にいるわけです。

 そういう存在の根っこの部分で人を連帯に導くために突き動かす力は、聖書には充分あると私は見ています。

 各派教会筋の方にはそれぞれの立場上いろいろあるのでしょうが、大羊さんは、今の所、とりあえず、旧約はイエスの人間の部分の理解とキリスト教の生まれたユダヤ世界の共同幻想〈と言って悪ければ伝統的世界観とか歴史観〉を知るための資料集、新約はその中で生まれたイエスの生と死と復活が、旧約的文脈の中でどのようにして世界宗教となるほどの信仰の普遍性を生んだのかを語ってくれる「証言」集、というスタンスでお付き合いすればいいんではないでしょうか。
見方を、あるいは崇め方?を押し付けられても、別に、それで信仰が深まるとかいう問題ではないと思いますけど。それで信仰が深まるならただの洗脳でしょ。

 あと、新約に関しては、逆説的な表現が結構多く、それが魅力にもなっているので玩味できるのでは?

 このテーマについて、私にとって聖書はこうだったけど、今はこうなった、という体験談とかあればどうぞ。アドヴァイスの場であっても論議の場にはしたくないのでよろしく。

323Sekko:2008/05/03(土) 23:19:06
naoさま
 すみません、本が手元にないので〈お貸ししたり差し上げたりしてすぐなくなるんです)、どの箇所かは分かりませんが、Pelerinage officiel というフランス語が出てきたときにそれをそう訳出したんだと思います。今聖域は300名近い常勤職員のいる会社のような組織があって、聖域主催の午後の聖体行列とか夜の蝋燭行列とかは混乱が起きぬようにセキュリティとかがすごくよく管理されてるものです。他のグループの行列とか巡礼も、ある程度の規模以上なら届け出てオーガナイズされてると思います。司教区が主催するような巡礼は、宿泊のこともありますから当然、聖域と連携してるでしょうね。聖域のカレンダーに明記されてる巡礼のことだと思いますが、確認しないと分かりません。
 狭い意味での「公式の巡礼」とは、タルブ=ルルド司教区の主催する巡礼という意味かもしれません。たとえば、ルルドの第一回「公式巡礼」は1864年4月4日とありますから〈下にコピーしときます)。

La première apparition de la Vierge à Bernadette remonte au 11 février 1858. La commission d’enquête, nommée par l’évêque de Tarbes, Mgr Laurence, conclut en janvier 1862 à l’authenticité des faits. Depuis 1858, en dépit de la fermeture de la grotte de Lourdes par les autorités municipales et préfectorales, le mouvement de prière et de conversion, popularisé et rendu public par des guérisons éclatantes, n’a jamais cessé. Le premier pèlerinage officiel remonte au 4 avril 1864, à l’occasion de la bénédiction et de l’inauguration solennelle de la statue de Notre-Dame de Lourdes à la grotte des apparitions, cette première procession donne le branle à toute une série de pèlerinages paroissiaux. La crypte, commencée en 1863, est consacrée le 21 mai 1866, la ville de Lourdes est reliée par le train à Bayonne depuis 1867 et à Toulouse l’année suivante. Les Assomptionnistes parisiens prennent la direction et l’encadrement du premier pèlerinage national de 1873.

324nao:2008/05/08(木) 09:23:23
奉献
お返事いただきありがとうございました。また質問です。
マリアは聖書外典によると、3歳で神殿奉献され、神殿に移ります。この奉献は神殿に身柄をうつしますので、巫女のような生活になつたものと想像しております。イエスも奉献されますが、これは「長男はみな主に聖別されたものととなえられねばならない」というユダヤ教のしきたりに従うものであつたようです。辞書を引くと「聖別」とは人の場合「祈祷、儀式などによつて、神の礼拝、神への奉仕のために捧げる行為をいう」とあります。そうすると、長男の生活には他の子とちがつた義務が生じてきたのでしょうか?聖別されても儀式だけうけたのか、特別な神への義務が生じたのか、よくわかりません。細かいことで申し訳ありませんが、教えていただけますと、ありがたいです。

325Sekko:2008/05/08(木) 16:25:27
イエスの神殿奉献
 イエスの場合についての特別なことは知りませんが、これは当時の感覚ではただの「お宮参り」みたいなものだったと思います。
 形としては出エジプト記の13章、レビ記の12章にある規定を守ったわけで、産婦の妊娠出産による穢れの清めの儀式、贖罪の儀式がメインで、穢れを解消してコミュニティへ復帰するというシンボリックな意味、それから事実上は捧げものが神殿の財源の一つになっていた、最後に、イスラエルの神の「初子」に対するこだわりの現れでしょう。エジプトを出たときにユダヤ人以外の家庭の初子を神がことごとく殺したというエピソードが、さすがに集団トラウマになって、その犠牲を忘れないように、自分たちの子も神に捧げ続けるという形をとったように思われます。現実には出産後の節目であり、子供の将来も祝福してもらおうという、古今東西変わらぬ普通の行事だったと思うんですが。もちろんイエスの場合それがいろいろシンボリックな意味を持ってくるわけですが。

326nao:2008/05/08(木) 17:22:06
ありがとうございました。
お忙しいなか、早速お返事いただきまして、ありがとうございました。当時、トラウマはまだなまなましかつたわけですから、初子はまず、神殿へ・・と急いだことでしょう。「山鳩一つがい、または家ばとのひな二羽」ときめられた捧げ物をしたということですから、財源となつたことでしょう。当時の様子を描いてみるのも楽しいことでした。有り難くおもつております。

327Sekko:2008/05/08(木) 18:13:34
捧げもの
「山鳩一つがい、または家ばとのひな二羽」は、レビ記で「産婦が貧しくて子羊に手が届かない場合は」という、貧乏人のオプションなんですよね。この辺が将来のイエスの物語の伏線にもなってる感じかな。
 「産婦が貧しくて」とありますが、では父親は関係ないとして、マリアの実家のヨアキムやアンナは裕福なようだったから、何で実家が子羊を調達しなかったのかなあと思うんですけど。やはりイエスの出生がいまいち「誰の子か分からない」という感じで、ヨセフの手前、実家がおおっぴらに祝福しにくかったんでしょうか。と、つまらぬことをいろいろ考えてしまいます。

328迷える大羊:2008/05/25(日) 21:58:53
法とキリスト教
 私事でなんですが・・・。最近、仕事で内部統制関係の仕事をすることになったんですが・・。
 まず、内部統制って何なのか、といいますと、ここ10年来のアメリカではエンロン、ワールドコム、日本ではカネボウ、などの巨額の粉飾決算、三菱自動車のリコール隠しなど、上場企業、株式市場の信頼性を揺るがす不祥事が相次いだことを受けて、アメリカで「サーベンス・オクスリー法(発案した議員の名らしいです)」略してSOX法が2002年に成立、その動きを受けて、日本でも06年に金融商品取引法、いわゆるJ−SOX法が成立しました。

 ということで、日本でも上場企業ですとか、その関連企業は、簡単にいえば、この法にのっとって、正確な財務情報の提供、不祥事防止の体制つくりなどが必要となってくるわけですが、これが、いたるところで責任者、上長のチェック、承認、文書による証明の連続で、純粋な日本人的発想だと、人間関係で築かれる信頼関係とか、話し合いですますところも徹底的にチェックで正直、面倒というか、余計な仕事が増えて、うっとおしいですし、あまり人を信用しないシステムというかなんというか、まあ、不祥事防止の為にできた制度だから当たり前ではあるんですが、それにしても、徹底しているというか・・。

 これまた、欧米生まれの企業活動の品質規格であるISOもそうで、これまた、責任者のチェック、承認、文書による証明の連続で、参ってしまいます。

 これって、キリスト教の原罪思想、つまり、人はほっとけば神から離れていく生き物なのだよ、みたいな考え方がやっぱり元にあるんだろうか?とふと考えるのですが、どうでしょうかね?あと、契約に関する考えなんかも・・。

 とにかく、一般のごくごく普通の日本人の感覚からすると、そこまでせんでも、みたいなところがあるのは確かですね・・。

329迷える大羊:2008/07/20(日) 23:49:20
「正統派」の中のカルト?
 以前、こちらのBBSで塩梅さんが過去に在籍されていた教会の様子について発言されていたことがありましたが、その様子が異様で、「正統派」となっていることになっている教会にも極めて運営が怪しげなところがあると知り、驚いたことがありました。

 そしたら、最近になって朝日新聞系の週刊誌「アエラ」が7月28日号でまさにその問題に触れていました。タイトルは「キリスト教会の「カルト化」。牧師に対する個人崇拝、ささいな理由で行われる体罰。時代錯誤な「悪霊払い」による「病気治療」、「皇帝牧師」の乱れた異性関係などなど・・・。そういった問題で係争中の教会を中心に取り上げていました。

 それが、大多数の主流派教会で関係を否定される「エホバ」「モルモン」「統一教会」ではなく、「正統派」ということになっている、つまり、三位一体の教義をとり、「異端」ではない聖書を使う教会なので驚きます。
 それにしても、記事中にもありましたが、教会らしい建物をもち、聖書をひいてもっともらしいことをいう「牧師」を純粋な人はつい信じてしまうみたいですね。

 教会はともかく「聖書」が清廉潔白で道徳的な話ばかり、と信じている人が多いのにはとにかく驚きます(かつての私もそうだったけど)。もちろん、そういう面もあるのだけども、実際のところ、旧約は下ネタ、暴力ネタが極めて多い文書だし、新約になると大分大人しくなるし、イエスの教えは傾聴に値するものが多いけど、そのイエスにしても過激発言(例・私と父(神)は一体だ! ヨハネ福音書より)が結構あるし、決して単純な勧善懲悪の本、文書じゃないのに。
 とにかく良くも悪くも使えるのが「聖書」という書物で、その諸刃の剣、取り扱い注意な面をもっと既存の教会はきちんと求道者とか信者さんにきちんと説明すべきなんじゃないかなぁ、とも思いましたね。きれいなところ、カッコいいところばかりを読み上げるんじゃなくて・・。

 記事の締めくくりとして 櫻井北海道大大学院教授のコメントが掲載されてまして、要約すると・・、

 ・牧師の言うことであってもむやみに従わず、自分の頭で考え、納得した上で信仰を持つこと

 ・いろいろな教会を比較し、一番しっくり行くところを選ぶのがベター、そういう行動を不信仰などという牧師がいたら、その教会は止めた方がいい

 とのことでした。それにしても、以前にも「アエラ」誌はこうした特集を組んでましたし、キリスト教会と何かあるんでしょうかね?

330塩梅:2008/07/21(月) 09:06:03
Re:「正統派」の中のカルト?
カト関係の掲示板でこういう話をするのも何なんですが…。
何だか申し訳ありませんです。>All

大羊さま>
多分、今回「アエラ」掲載の関係、あれは非常に残念です。
事の推移を見守っていましたが、かなり昔に聴講生として通っていた神学校ほかお世話になっていた聖職者・共同体(少なからないのです)が俎上に上がっていますので、かなり悲しく思っています。勿論、被害者になられてしまった方々に関しては…当方はあのような肉体的な暴力といった仕打ちは受けたことはないけれど、非常にお気持ち察するところがあります。

プロテスタントというのは、カトリックみたいなヒエラルキー的な人間組織の頂点に立つバチカンみたいなところがない(そもそも聖座の腐敗へのアンチテーゼみたいなところが大きいか)、あと明確な教会法であるとかそういうものも無い。ある意味…教会運営が個々の教団・そして教会の良心にひたすら任されている状況だと思います。あと教団にいられなくなったら、どこの教団にも属さない「単立」という形も取れてしまいます。
そんな中できちんとした活動を行っている教会もあるんですが、やはり何かあったときのチェック機能が甘くなってしまうのかな…とは。で、やっぱりH派・S派関係で、信仰そのものというよりいわゆる「カリスマ牧師」およびその共同体への依存に持ち込んでしまっている教会があるとは思います。気付く人は気付くんですが、やっぱり「傷つくような何か」があってのことなので…その後はトラウマとの闘いです。

で、多分、俎上に上がっている教会の元・信者さんもこれからその辺が大変だと思うんです。受け入れてくれる教会があるか、聖職者及び共同体がそういった問題に関する理解度が少しでもあるか…そういうところで。受け入れ自体は多分にプロテスタント教会のお仕事になると思いますが、やはり問題のある共同体にいたとか母教会(洗礼を受けた教会)に問題があった場合に「まず、受け入れてもらえない」という問題が出る可能性があるかな、と。

そういう経緯もあって、私の場合は最終的にカトリックに飛び込んだので…。
ただカトリックに飛び込むのは(本当に知らない世界だったので)それこそ「清水の舞台から…」と言った気持ちで、最初カトリック教会にお電話して「行ってもよろしいでしょうか?」と。受話器を持つ手がプルプル震える、そんな感じでした。

ただ、個人的にカトリック教会にお世話になるとき、神父さまに言われたのは、

「以前の教会へのアンチテーゼでは(改宗は)ダメですよ」

と。そこら辺を解決するのに、私の場合は随分時間がかかりました。何年単位のことでしたが、やっぱりそれで良かったんだと思います。それと結局は洗礼の有効性などの問題があって、受け直しなんですが…かえってそれもいいかな、と。

331迷える大羊:2008/07/21(月) 10:08:21
宗教にも規格が必要??
 アエラ誌の記事や塩梅さんのお話を伺うと、宗教団体にも一般企業のISOや金融取引法に基づく「内部統制」の仕組みに相当する規格を導入した方がいいんじゃないか?と思えてきますね。

 例えば、〜規格に基づいた審査を受けその資格を取得している教会、団体なら
とりあえずおかしなことはないだろう、みたいな目安になるんじゃないかな?信者(消費者)にとっては。まあ、実際は言論、思想、信仰の自由の問題が絡んで難しいし、それが本当に有効に機能するかはわからないけど、何にもないよりマシかなぁ、なんて思ったんですけどね。

 ISOとか、「内部統制」ではその企業の業務・活動内容、財務内容について、第三者にも一目で分かるよう文書化、担当者以外の第三者がチェックに入るようなシステム作りが求められます。半年ぐらいに一回くらい、規格に沿った企業・活動運営が行われているかどうか。外部の関係機関の監査が入ります。(まあ、これはこれでいろいろ問題はありますが)
 それに絡んで「コンプライアンス」、というと難しそうですが、要は「法令順守」ですね、に対しても企業社会は日々うるさくなってきています。

 元々、アメリカのエンロンの粉飾決算だとか、日本では、西武鉄道、カネボウ、ホリエモン、村上ファンドなどの問題があって、声高に叫ばれるようになったわけですが、宗教界だって、これだけ不祥事が出れば、似たような流れ、動きがあって然るべきなんじゃないかなぁ、と思うんですけどね、キリスト教系団体、仏教系団体、その他を問わず。
 「うちはそんなことやってないから大丈夫」とか「正統派の教会だから安心」なんていうんじゃなくて・・。
 結局、宗教界、キリスト教の世界といえども「神の目」があるから安心、ってことはまったくなくて「第三者の目」がないと、ロクでもないことをやる人間が必ず現れる、というのは俗界と全く同じで、なんだかなぁ、という気がしましたね。

332Sekko:2008/07/21(月) 16:21:38
サービス機関かブランドか
 アエラの記事は読んでないので細かいことはわかりませんが、今朝のラジオで、オーストラリアのカトリック青年の日の行事の最終日に教皇が、みんなの期待していたように、聖職者の不祥事についての謝罪をした、って言ってました。謝罪できるトップ(その身辺はきれいだと認められている)がいるというのはこういう時、確かに分かりやすいですね。でも、プロテスタントの牧師さんたちはその成り立ちから言って信者代表の立場だから、シンボリックな意味は担いにくいです。

 どんな仕事でも、立場や肩書きが責任感や使命感や自律を促したリ育てたりってことはあるでしょうが、やはり、心の問題に関しては、サービスや救いを求める側が、相手の人間性を直接見て判断するしかないですね。でも、弱っていて救いを求めている人にはそういう判断が難しいかもしれないし、だからこそそれにつけこむようなのは許せないですが・・・

 宗教機関の「正統派」をブランドと見なして、消費者の信頼を裏切ったとか、モラルの低下みたいにも見えますが、宗教帰属が消費行動になること自体がおかしいとも思います。行きずりの寺社におまいりしてお賽銭を上げて頼みごとをしても、帰属感はないから、その一時の安心感やら希望を買った消費みたいなもんで後腐れはないですが、要は、何につけ、「人間のやっていること」に「期待」してはだめということだと思います。キリスト教的には信仰と期待はセットになっていますが、それは基本的にはこの世を越えたところでの救いの話ですから。

 ともかく、正統派とか何とか言う「ブランド」に関係なく、サービス機関としてかかわるなら「消費者」の方にもそれなりの意識の高さや分別力が必要出し、ある機関が道を外さないように、また弱者を守るためには、最低限の法の規制や枷や監査機構は必要でしょうね。

 カトで私が最近気になったのは、復活祭に教皇がエジプト系イタリア人ジャーナリストに洗礼を授けたことです。その人を取り巻くイスラム環境的には改宗は死に値するそうで、JP2は、そのために、ムスリムの改宗洗礼にたいしてすごく慎重だったそうなんですが、B16のやり方は挑発じゃないかという意見もありました。そっと内輪でやればいいのに・・・
 良心に恥じるところがないからって堂々とやるのも困りものです。
 フランスには8月にダライラマが来て、9月に教皇が来るというんで、宗教とか平和とか外交とか政教分離とかについていろいろ考察が促されるでしょうしそれは楽しみです。

333迷える大羊:2008/07/21(月) 20:32:49
最近のアエラ
って、時折、こういう宗教問題を取り上げることありますね。「こういう宗教問題」というのは、かつてのオウムのように、誰が見ても、はっきりとヘンだ、カルトだ、とわかる教団とか宗教ではなく、一見するとまとも、派手な反社会的行動を取っているわけでもない、それどころか、世間一般のウケも良い団体に潜む問題とか悪だとかといったものですね。

 今回はプロテスタントの所謂「単立教会」が遡上に上ってましたが、詳しい年月日は失念しましたが、数ヶ月前には日本キリスト教団とかカトリックとか聖公会、ホーリネスなどなど、いわゆる老舗の伝統的教会のそれもしっかり遡上に載せておりました。アエラ以外の他のメディアにはあんまり出てこない種類の記事なので、「あれ?」と思ってつい読んでしまいましたね(他はそもそもキリスト教会自体に無関心だったり無知だったりで・・)。

 私の読んだところ、アエラの前回、今回に共通する論調としては・・、

 キリスト教は日本では人口比1%以下の極めてマイナーな世界、にも関わらず、欧米先進諸国の文化に連なっている、ミッションスクールの質の高さ、なども相まって、そのイメージは高く、存在感もある、しかし、そのイメージに惑わされず、自分の考え、目と耳でよく見極めないと、中にはとんでもない教会、聖職者も存在しますよ・・、

 といったタッチ、趣旨ですね。

 「正統派云々」という話も、記事で取り上げた問題ある教会、聖職者が生き延び続ける理由として「「正統なキリスト教会」であることを掲げている点が指摘できる」とアエラ誌が推理、結論しているところからきてます。

 まあ、人間は「性善説」より「性悪説」で見た方が後々の失望が少なくていいかもしれませんね。その点、キリスト教の人間観察は鋭いと思います。だからこそ、宗教に限らず、不祥事や人の悪に対する抜本的な対策は是非キリスト教会の側から出てくれば、と期待したりするのですが。
 な〜んて、こんなこというなんて、少し前の私からは考えられないことで、なんだかんだいって私もキリスト教の世界に染まってるんだなぁ、と思っちゃいました(笑)

 >B16

 どこかで、SEKKO先生もおっしゃっていたことですが、やっぱりこの方、「KY」なんじゃ?決して悪い人ではないことは分かるんですが・・。

334nao:2008/08/17(日) 21:05:41
恵果の呼び名
空海に密教世界の両部(金剛界と胎蔵界の世界観)をすべて伝えた「恵果」の呼び名はなんというのでしょうか?梅原猛、末木文美士は「けいか」、司馬遼太郎は「えか」と呼んでいます。どちらも正しいのでしょうか?中国ではどう呼ぶのでしょうか?

335Sekko:2008/08/18(月) 02:53:00
恵果の読み方
 ええと私は「けいか」で行こうと思っています。

 理由は、種智院大学学長の頼富さん(この方のお寺が私の母の実家の檀那寺でした)が監修されている一般向けの空海入門書で「けいか」とルビがふってあったからです。これからやるかもしれない仕事の参考図書としてそれを渡されているので。
 今の中国語のピンイン表記では「hui-guo」となりますが、「hui」は、日本語表記するとフェイとかフイとかホエとかホェイとか、いろいろですね。空海と恵果の出会いを中国の古代劇にすることを考えているので、そしたら、読み方も古代風になるのかもしれません。
 「恵」を「エ」と読むのは呉音で、もとは「ウェ」ですね。真言宗や一般に仏教は呉音を使うことが多いので、司馬さんが取材した時に真言の人は「えか」って言ってたのかも知れません。「けい」は漢音で、今は、一般的に、中国人の名の日本語読みは漢音ですることが通例なので、「けいか」でいいのだと思います。漢音はもともと7、8世紀に遣唐使が伝えた読みで、唐音は鎌倉時代以降で禅語などが中心と聞きますから、空海は「恵果」のことを「けいか」に近い呼び方をしていた可能性はありますね。恵果あじゃり(変換できません)という時も「空海と恵果」という時も、「けいか」の方が語呂がいいので「けいか」でいいんじゃないかしら。司馬さんの『空海の風景』は、30年前に読んだ時は、なんだか想像ばかりでたゆたいすぎていて、はっきりしないなあ、感情移入できないなあ、と思った記憶があるんですが、今読み返してみると、すごいなあ、空海のように神話や信仰の対象になってるような人を作品で料理するにはこれくらいの洞察と距離感が必要なんだなあ、と感心しています。こういうスタンスの人のイエス伝も読んでみたいくらいです。

336nao:2008/08/18(月) 09:35:26
ありがとうございました。
呉音と漢音があることも、中国語の読み方もなにもわかりませんでした。ありがとうございました。これからは先生にならつて、「けいか」とよむことにします。そのほうがよみやすいものですから。

337nao:2008/08/18(月) 16:21:00
「空海の風景」
途中で投稿になつてしまい、しりきれトンボになりました。司馬遼太郎の「空海の風景」は近所の真言宗の若いお坊さんに勧めていただきました。「やはり小説風のもののほうがよみやすいですよ」と20代のお坊さんがいいました。昭和50年度初版のものが2005年新装改版になり字が大きくて、よみやすくなりました。司馬遼太郎記念館は近いので、何度もいつてますのに、この本のことを、今はじめて知りました。夢中になつて読ませる迫力があります。空海という人のことも我が家が真言宗で菩提寺が高野山にありますのに、しらべたこともありませんでした。でも今回「両部は不二である」という空海のことばにつよく惹かれるものがあります。しかし即身成仏だけはどうしても解りませんし、惹かれません。すごい教養と鋭い政治感覚、宗教的天才、理論家としての天才性。三筆のひとり。というようにものすごい人だつたんですね。
先生がどのような古代劇をお書きになられるのか、非常に興味がありますし、そのお芝居の日や場所がはつきりしましたら、サイトにいれてくださいますよう、おねがいいたします。
日本に帰国してからの空海にも興味はつきません。「曼荼羅」についても、勉強したいとおもつております。今度高野山にゆくときには観るものがちがつてみえるだろう、とこの本を読みながら、その日が楽しみになつてきました。いつもきちんと、お返事いただき有り難くおもつております。

338迷える大羊:2008/08/21(木) 22:43:47
聖母マリアと聖書
 実はこれ、別のキリスト教関係のウェブでも出した話なんですが、いろいろなクリスチャン、キリスト教関係者の見解が知りたいということで、ここでもお話させていただきます。

 それはイエスの母マリアの位置づけ、です。カトリックのマリア崇敬は有名で、中にはイエス差様よりマリア様の方が好きなんじゃないの?といいたくなる人もいますし、教派にもよりますが、プロテスタント教会でも処女懐胎は感慨深く語られる出来事です。

 でも、実際に聖書読むと、処女懐胎がはっきりと描かれるのはルカの福音書だけ、そのルカにしても聖母マリアが「活躍」するのは、誕生時だけであとは至って影が薄いような・・・。もう少し母親らしく、イエスを叱ったとか諭したとか庇ったとかいう、親子らしい触れ合いのドラマがあったってよさそうなものなのにそこら辺の話が全然ない。ルカに一つだけ、少年イエスが神殿で親から離れて、学者たち(だったかな?)と議論する、なんてエピソードがあって、ルカはイエスがいかに神秘的で賢い少年であるかを説明したいようですが、どちらかといえば、生意気な印象を与え逆効果のような気も・・。
 とにかく、福音書全体を通じて少年時代、青年時代のイエスについての部分がまるでスカスカで、母のマリアがイエスをどんなふうに育て、どんな影響を与えたのかまるでわからない。

 親子の触れ合いどころか、福音書中のイエスの言動を見ると、家族とか血縁というものに対して非常に冷淡な考えを持つ人物、彼自身の家族関係自体、あまりうまくいってないのでは?との疑惑に駆られるセリフや描写が少なからずあって、例えば、「私が来たのは地上に平和をもたらすためではない(中略)人をその父に、娘を母に、嫁を姑に、こうして自分の家族が敵になる」とか「私より自分の父母を愛するものは私にふさわしくない」、なんてどこかのカルト教団の教祖のような怖いことをいってますし、イエスが群集に語りかけているときに彼の兄弟と母(聖母マリア)が外にきて話したがっていて、それを誰かがイエスに知らせると「母って誰?兄弟って誰?」などと実にそっけない返事をしてます。これには後に、「天の御心を行う人こそが私の兄弟、姉妹、母」というフォローが入るのですが、こんなときにあてつけがましくいわんでも・・、との感が否めないです。

 さらに問題は「復活」の時で、聖母、聖家族信仰の観点からすると、イエスは復活したら、真っ先に母親マリアの前に参上すべきでは?と思うのですが、真っ先に参上するのはマリアはマリアでも「マグダラのマリア」の前であって、聖母マリアの元に参上した記録がどの福音書にもない・・。

 福音書の後は使徒言行録を皮切りにパオロやその他、使徒たちの記録と手紙になるわけですが、これも不可解なのは、使徒言行録とか使徒の手紙にこの処女懐胎(イエスの奇跡の数々もですが)が全然出てこないこと。ひょっとしたら触れられているのかもしれないですが、少なくとも目につくような分量、形では見当たらない。

 使徒たちはイエスを神の子、メシアと主張するために旧約聖書の記述の引用をしきりにしていて、それはそれで間違いではないと思うのだけれども、どうして福音書に書かれた処女懐胎という劇的な生まれ方を話さないのだろう?と思ってしまいます。まさに彼が神の子、メシアであることを証明する決定打であるはずなのに?。

 私はキリスト教とか聖書について専門の教育を受けたわけではありませんし、聖書って私にとって決してスラスラと読みやすい文書とは言い難いので、何かと勘違いとか読み落としをしていることがあるのかもしれません。

 でも、読んだ限りだと聖母とか聖家族、ましてやマリアの無原罪ってどこからどう出た話なのかがわからないし(神学的な理論づけはいろいろあるようですが)、私などよりずっと聖書を読み込んでいるはずのカトリック信徒やクリスチャンの皆さんがどうして、こうした聖書の記述と矛盾することなく、聖母マリア、聖家族信仰を保てるのかがわからないんです。

 お断りしなくてはなりませんが、あくまで「わからない」のであって正しいとか間違っているとかいっているわけではありません。また、人の信仰心にチャチャを入れるつもりは毛頭ありません。
 その辺の「信じる気持ち」を教えてもらえないものでしょうか?単純に信仰心というものを知りたいだけで、繰り返しますが、いいとか悪いとか、あれこれいうつもりは全くありません。

339Sekko:2008/08/25(月) 05:37:33
聖家族とか・・・
 返事遅れてすみません。ひと言じゃいえないし。
 聖家族信仰の成立については、私の『弱い父ヨセフ』(選書メチエ)を一度読んでください。『聖母マリア』には聖母の位置づけの変遷をちょっと書いています。

 私の了解しているキリスト教は、別に聖書のコンテンツを理性で理解して納得して、たとえばイエスがちょっと変な言動をしても、「これには自分の分からない深い意味があるんだろうな」とか、「まあ、これは不問に付しとこう」とか思ってめでたく信仰成立ってものではないです。
 キリスト教の成立したヘレニズム世界はストア派の論客がたくさんいて、福音書の伝承の変なとこはすでに批判されたりもしてました。だから「神の子」の言動にふさわしく改竄するとか、いろいろな手があったかもしれないのにそのまま残したのは、使徒たちや初期共同体の中にも大きな疑問符があったわけで、でもそれをはらんだままでスタートしたということは、ヘレニズム世界の弁証法的思考があったからです。その緊張と本質的な不安が、キリスト教を育てたんだと思います。

 無理があるけど、確かに使徒や初期の信者が確かに信じたと思えるのは、イエスの死と復活と昇天で、ほんとに何が起こったのかは今となってはわかりませんが、それを軸にパウロが各教会に手紙を書きまくったのが、キリスト教の核をなしているわけで、その結果どうなったか、というところが私には興味があります。そしてそのパウロは、聖母がどうしたかとか、復活前のイエスがこう言った、ああ言ったとかはほとんど問題にしてません。その意味では、後からの神学的整合性の追求は別として聖母の処女性とか、イエスの言動とかは、本質的ではないと思います。

 聖書に出てくるとこだけ読んだら、私だって、あんな息子、あんまり欲しくないし、あんなこと言われたらむっとしますけど、まあ、普通の人の言動ですら、文脈を無視したり視座を定めないと、どうにでも編集されちゃいますからね。
 イエスとパウロによって人は、「法」からは解放され、ただ、「愛」についてのみ責任を要求されました。そのせいで生まれたのが「秩序」より「緊張」です。
 これが、キリスト教世界観が円環でなく螺旋であるゆえんですね。

 私は、弁証法的思考法にはまっているせいか、「答えがない状態」が嫌ではないです。すべて、答えのある状態とは、多分弱者に抑圧的に働くと思うから。

 これからも大羊さんは、いろんな答えを知ろうとして「迷える羊」であり続けるでしょうが、そこで見つかるのは、いつも、「答え」ではなくて、「新たな問い」でしょう。でもその問いはどんどん深くなると思います。それが本当にキリスト教らしい旅だと私は思いますけどね。

340迷える大羊:2008/08/27(水) 23:02:25
イメージと実態のギャップ
 我ながらいろいろ細かく突っ込みすぎなのか、と思わないでもないですが、それは聖書とかイエスってイメージとその実態のギャップが結構あるからなんですよね・・・。

 聖書といえば、世界一のベストセラー、世界人口3分の1の人間にとって「聖典」であり、人類を代表する世界宗教「キリスト教」の大元なわけで。また、教会によっては「誤りなき神の御言葉」で「聖書にどう書いてあるか?」でその行動、思想を決めてしまう、人生の規範とする人々が多くいる。極端なところでは「聖書はすべて事実が書いてある」とし、よって「創世記の記述と矛盾する進化論は間違っている、人の倫理を乱す、学校で教えるな、学校で創造論を教えろ」などと言い出す人々までいるわけで。

 こういう人々を輩出する聖書って一体何が書いてあるのかな?、まさか、すべて事実が書いてあるとは思わないにしても、さぞかし、練り上げられた完璧なストーリー展開、涙なくしては語れないストーリーがてんこ盛りで、人間や神のあるべき理想の姿が高らかに歌い上げられている・・、に違いない、と思って読んでみた、そしたら、あまりにも、とまではいわないにしても、何か違うんで戸惑ってしまう、というのが実感なのですよ・・。

 もちろん、イメージ通りのところもあります。十戒の8割方は正しいと思うし、預言者たちだっていいことを言うことはいっている、イエスの道徳、倫理的な教え、生き方はもちろん敬意を払うに値するとは思います。

 だけど、そのストーリーというか、話の組み立ては結構アバウトでいい加減なところがあるし、旧約聖書は下ネタ、暴力の連続、これを信仰している、というクリスチャン、ユダヤ教徒は一体何を信仰しているんだ??と思ってしまう。

 イエスも「左の頬をぶたれたら、右の頬を・・」などと言っている先から神殿で大暴れ、ムチまで作って持ち込んで、振り回して、完璧な確信犯・・。親子仲は悪そうだし、自分を受け入れない町に呪いの捨て台詞を吐く上、弟子に自分のことを「あなたは神の子」なんてわざとらしく言わせる・・・。マリアには教会の伝承とは裏腹に「聖母」を思わせるエピソードがほとんどない・・。宗教画や教会で語られる、優しげで慈悲にあふれ、意地悪くいえば、ちょっとナヨっとしたヤサ男風のイエスは一体何なのだ?どこからそんな人物像が??と思ってしまう・・・。

 今まで、思い描いていた、キリスト教とかイエスとかとは違った姿がいろいろ出てくるんで驚くんですよね、聖書をちゃんと読んでみると。でも、いろいろ、文句を言わせつつも読ませてしまう聖書というのはやはりすごい本なのかもしれません。

 「弱い父ヨセフ」、読みますね。ヨセフもマリア以上に聖書では影が薄く、聖書記述と教会の伝承との差が目立つ人物だし、タイトル通り、なんだかぱっとしないイメージですね。
 今度、教会の神父さんにもいろいろ聞いてみます。でも、揚げ足とりと思われて嫌がられるかな??

341charis:2008/08/28(木) 10:33:33
迷える大羊さんへ
はじまして。この質問箱、たのしく読ませていただいています。たしかに、『聖書』というのは不思議な本で、旧約と新約とでもずいぶん違います。

大羊さんのような疑問に対しては、スピノザ『神学・政治論』をお読みになるのが一番よいと思います。『聖書』を「聖典」としてではなく、人間が書いた文書として、テクスト・クリティークを行った、おそらく最初の本でしょう。

その他にも、ユング『ヨブへの応答』など、聖書の内容とキリスト教信仰とのズレについて書かれた興味深い本はたくさんあります。いろいろと覗いてみられたらいかがでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/charis/

342迷える大羊:2008/08/29(金) 21:58:57
はじめまして
 charis様 はじめまして。ご指南ありがとうございます。まあ、私は難しい神学、哲学とかの学問の類の話はさっぱりで、きちんと理解できるかな?との不安はありますが。

 今回の聖書と実際のキリスト教とのギャップの話も、とにかく、聖書を買って、余計な知識に頼らず、ストレートに読んでみた結果出てきた素朴な疑問、感想をつらつらと並べ立てただけなわけで、神学的、哲学的のバックグラウンドは何もありません。SEKKO先生よりせっかくご返事をいただいても「弁証法的思考?何?うにゃ?調べなきゃ」などという誠にお粗末なレベルです。

 ただ、実際に教会や信者の方々に関わった実感からすると、聖書が実際に信仰に占める割合って大きそうに見えて、実は小さいのかも?と思うことあります。かなり信仰歴の長い人でも、聖書を隅から隅まで読んだって人は稀ですし。もちろん、教会でよく取り上げられるところ、ミサや礼拝の説教に出てくるところ、についてはよく知ってます。でも、その「メインルート」から外れた部分については意外と知らない、読んだことがない人が多いみたいで。
 考えてみれば、クーデンベルクが印刷機を開発し、ルターが登場するまで、普通の人は聖書などまったく読んだことがないわけで、それでも立派にキリスト教徒、クリスチャンをやっていたわけだし、聖書を完璧に読みこなし、理解しなければクリスチャンできない、なんてことになれば、世界のクリスチャンは激減しちゃいますよね、みんな、そんなにヒマでもないでしょうし。
 また、SEKKO先生もおっしゃるように聖書のコンテンツを理性で納得したらOKというものでもなく、聖書のあそこがどうした、イエスのここがヘン、なんていうのは信仰の本質とはあまり関係ないのでしょう。でも、やっぱりつい気になってあれこれいいたくなる私ってヤな性格かな?とちょっと悩んじゃいますが(笑)

343nao:2008/09/02(火) 08:55:19
私もまた・・
charisさまに勢いをお借りしまして、私もまた本の紹介させてください。「気になつてあれこれいいたくなる性格」つて、私は尊敬しますね。イヤな奴なんて、とんでもない。
私もキリスト教、とくにマリアには疑問だらけで、一人悶々としていました。でもそういう人つて、案外多くて頼りになるんですよね。遠藤周作もそうでしたし。
ユングはその最たる人。彼の理論はキリスト教に対する疑問からはじまりました。それだけに迫力があります。
聖母マリアの処女性について、はつきり目えをひらかせてくれたのは湯浅泰雄「ユングとキリスト教」人文書院の解説でした。「ユダヤ教の伝統が肉の中に霊的価値が宿ることを認めようとしないかぎり、原始キリスト教はこれから分離せざるを得ない必然性をもつていたのである。要するに童貞聖母の理念は、霊と肉の分離と一致という論理的に矛盾する二つの考え方の結合を示している。原始キリスト教の人間観のもつ運命的な両義性がここに生まれたのである」「処女懐胎の理念はやがて聖母崇拝を生み出す。古代キリスト教が地中海世界にひろまつてゆく過程で、聖母信仰は非常に大きな役割を果たした。それは古代諸民族の宗教に共通した地母神信仰をキリスト教のなかに吸収してゆく通路の役目を果たしたからである。しかしこの理念は新しい困難をよび起こさざるを得ない。聖母となつた人間マリアは、神といかなる関係に立つのかという弁神論的問題があらためておこつてくるからである」134p。

344nao:2008/09/02(火) 09:19:24
続き
途中ではいつてしまいました。続けます。
この問題は精神と身体、肉と霊、人間性と神性、を如何に考えるかということで、キリスト教内部では東方教会のソフイア性、西方教会の男性性、カトリシズムとプロテスタンテイズムというように、キリスト教精神史の展開はこの人間本姓論の課題を軸として回転している・・ということになります。
私は哲学なんて難しくてわからないんですが、湯浅先生のユング論にはこころうごかされました。
でもまだ、満足できなかつたときに竹下先生の「聖母マリア」にであいました。両方の本をあわせて、マリアの問題は、いまのところ、「これでいいや」とおもえるようになつてきています。
ついでにいいますとユングはマリアの被昇天の教義を大変歓迎しました。そこには深層心理学的な観点があります。深層心理学からみると、随分おかしな表現もすごい象徴性をもつている場合があります。やればやれほど、おかしなことの方が、大事だつたりしてきます。
竹下先生は、信仰の迷いといわれましたが、この迷いほど、人生を豊かにしてくれるものはそう、ざらにないと私はおもつています。
大羊さんの疑問はつねに私には刺激です。これからもどしどし、投稿してくださることをねがつております。

345迷える大羊:2008/09/02(火) 22:20:07
マリアって・・・
 nao様 毎度です。

>私もキリスト教、とくにマリアには疑問だらけで、一人悶々としていました

 やはり、そう思いましたか?そうですよね。通常の常識を持ったまま、聖書を読むと、なんでこの人がここまで特別扱いされる?って思いますよね。カトリック信徒でもそうなんだ・・。charis様も引き合いに出されていましたが、ユングもやっぱり同じこと考えたんですね・・。キリスト教世界のど真ん中にいるような人でも似たようなこと考えるとは。
 といっても、ユングについては精神分析の大家、としか知らなくて、その著作は全然読んだことがないんですが・・。しかし、何しろ「無意識」という概念の発明者らしいし、一度は読まねばなりませんね。

 彼のキャリアのスタートがキリスト教への疑問から始まっているというのは興味深いですね。また、そんな人が、「マリア被昇天」を歓迎、というのもまた興味深い・・。
 思うのですが、欧米で反宗教、反キリストを掲げる人って実のところキリスト教にくわしかったり、人一倍影響を受けている場合が多いような・・。

 私が知っている例ですと、元ビートルズのジョン・レノンで、反教会ともとれる発言で物議をかもしたりしたものですが、その作る曲とか詞というは「IMAGINE」とか「ALL YOU NEED IS LOVE」とか妙にキリスト教的、イエス的だったりするのがおかしい・・。

 マリア問題に関しては私も、少々大人げないのかな?とも思うこともありますね。まあ、言ってみればSF映画の「スターウォーズ」を観て、宇宙空間で音がするのはおかしい、とかなんとかツッコミを入れているようなもので、ひょっとしたらかなり野暮なことを言っているのかなぁって。

 もちろん、アメリカのファンダメンタリストのごとく、「処女懐胎は科学的に可能、神は科学の法則も変えるのだ!!」みたいなことを言い出したら、ドン引きしますし、これは何か言わねば、と思いますが、純粋に伝承として、見えない世界に思いを馳せる、ということなら、まあ、多かれ少なかれ宗教ってそういうものかもしれないし、あれこれ言う筋合いもないかな?と・・。

 聖書に照らし合わせてあれこれ言ったものの、聖書に忠実ってことが必ずしもいいこととは思えない気もしますし。というのはいわゆるファンダメンタリストとか他宗教、他文化に対して極度に排他的(例えば、仏式の葬儀に出るとか出ないとか言い出す)な姿勢をとるクリスチャンって私の知る限りでは、信仰が「聖書のみ」のプロテスタントの方が割合的にずっと多いので・・。

 マリア信仰もどうやらキリスト教以前の民俗信仰が深く関わっているようで、これも一種の文化的な豊かさ、と割り切ればいいのかもしれませんね。

346:2008/09/08(月) 15:54:09
聖ヨセフの油
フレール アンドレの聖ヨセフの油の入手方法がおわかりでしたら、
教えて頂けないでしょうか?

先生の御著書 弱い父ヨセフ を読んで知りました。
宜しくお願いします。

347:2008/09/20(土) 08:44:50
キリスト教の歴史
 少し前、友人から質問を受けました。キリスト教(カトリック)が、政治と(国家と)深い関わりを持つようになったのはいつ頃からなのでしょうか?現在の日本の教会のような体制ではなく、いわゆる「政教一致」のような状態はキリスト教の歴史にも存在したのでしょうか?また、現在はどうなのでしょうか?
 愚問かもしれませんが、よろしくお願いいたします。

348Sekko:2008/09/21(日) 00:42:48
とやまさんへ
 ローマ・カトリックに関して言えば、カロリンガ朝を始めたPepin le Brefが、ロンヴァルディアを征服してローマ教皇に寄進したことで、ローマ教皇が封建領主の仲間入りをしてからでしょうか。その後、800年にシャルルマーニュが教皇から神聖ローマ帝国皇帝として戴冠されたりしたあたりから、ヨーロッパで王権と宗教の馴れ合いと対立が一体となった歴史が本格的に始まったと思われます。今は、ローマ教会は、いわゆる領地をほとんど持たないし、ヨーロッパ諸国は建前的にはどこも政教分離なので、政教一致はないですね。モナコの王室がカトリックとか、イギリスの王室の国教会とか、王室自体の伝統は残っているところが多いと思いますが。
 普通の西洋史の本の中でも書かれてると思いますよ。

349Sekko:2008/09/21(日) 01:29:20
岡田さんへ
 見落としていまして、お返事遅れて失礼しました。

 以前は L’Oratoire Saint‐Joseph のサイトに載っていたと思うのですが、今調べたらありませんでした。エゾテリックの店の通信販売みたいなのはありましたがお勧めではありません。

 もっと調べてもいいのですが、私は、こういう「奇跡のグッズ」的なものの普及に積極的に協力するつもりはありませんので、ご縁がなかったと思ってください。

 私は個人的には聖女リタの聖油を持っています。その他、聖油、聖水、メダル類もたくさん持っています。
 でも、それで何かを治したとか願いがかなったとかいう体験は全くありません。
 信じ方が足りない、心がけが悪い、使用法を間違っていた、効果がでるまで待たずに早く諦めすぎた、それらがただの水や油や気休めのグッズだった、などのいろんな理由が考えられます。でも、たとえ偶然にせよ、これらのグッズのおかげで恩恵を蒙っていたら、つい人にも勧めたくなると思うので、何かのご利益を得たという実感がなくてよかったと思っています。
 グッズに頼らなくてもかなう願い事が、その人に適した恵みだという気がします。

 私は確かに、「他の人の身に起こった奇跡話」が好きです。で、つい、本にも書いてしまいます。人間の願望やら絶望やら欲望やら、いろいろなものが宗教というシステムやら宇宙やらを動かしていきます。それ自体に感慨を覚えます。
 でも実は私は散文的な人間で、お守り類を本当に信じてるわけではありません。開運グッズを手に入れたりするのは、アンティックのメダルでも、温泉地の招き猫でも、わりと好きなのですが、たいていはそれで終わりです。

 申し訳ありません。

 でも、もし岡田さんが、自分ではどうすることもできないような心配事を抱えていらっしゃるとか、大切な方の病気の快癒を願っているなどのシチュエーションでしたら、どこか身近な教会とか寺社とか、岡田さんの宗教的風景に適した場所でお祈りをなさるだけでも楽になると思います。

 私も、信じるとか信じないとかは別に、何かにすがりたくなることはたまにあります。そういう時には、そういうグッズを身につけることで、「まさかこれ以上はひどくならないだろう」とか、「一応やるだけのことはやった」と思えることがありますので、岡田さんが何かを見つけられるとよいのですが。

 本にも書きましたが、聖ヨゼフは「効く」という噂なので、聖油で効くものなら、お祈りだけでもきっと効きますよ。

 毎年10万本の聖ヨゼフの油が売られている(聖油そのものは売れないので、ビンの値段ということです)とサイトにもありますから、モントリオールにいる知り合いに今度持ってきてもらいましょう。その時には喜んで差し上げますよ。

350迷える大羊:2008/09/21(日) 14:49:59
キリスト教の性意識
 聖書と現実のキリスト教信仰の落差がどうにも気になってしょうがないことが多いのですが、その一つに性の問題がありますね。
 旧約聖書を読んでびっくりするのはその下ネタの多さ。有名なオナンの話は、要するに子孫繁栄、お家存続につながらない性行為が神の怒りを買うわけですが、その性行為をするべき相手、というのが兄嫁だったとか、イスラエルの始祖となるアブラハムは妻のサラをエジプトのファラオにあてがって、その見返りに奴隷やららくだやらをもらって何の罪の意識もなくリッチな生活をエンジョイしたり・・・。また、堕落したソドムの町から逃げ出し、うっかり後ろを振り向いて塩になったお母さんの話で有名なロト一家の娘たちは、その後、山奥のほら穴で生活、「このまま、男性と縁のない人生を送るかも、父から子種を受けましょう」などといって、父を酒で酔わせ、交わってしまう、、。

 エゼキエル書23章では、神様はサマリアとエルサレムを、エッチな姉妹(オホラとオホリバ)になぞらえて、その忌まわしい淫行をかなり露骨な表現で描写してたりして、「これじゃ、聖書じゃなくて、性書じゃないか〜」と思わずいいたくなるほど。

 いえ、別に聖書の内容がすべて清らかなものでなくてはならないなんて野暮なことをいおうなんておもわないですし、あまりきれいごとばかりでもかえってウソくさいとは思います。でも、キリスト教とかクリスチャンとかいうと、性の問題に関してはよくいえば、極めて真面目で潔癖、悪く言えば、うっかり下品な冗談もいえないくらいお堅い、といったイメージがありますが、その聖典が、そういったイメージとあまりにかけ離れた話を多数含んでいるので、頭がクラクラすることがあるんですよね。

 キリスト教の世界では同性愛者には厳しく、カトリックでは今でも同性愛者は司祭になれないし、聖公会や日本キリスト教団では同性愛者の牧師が誕生してますが、やはりかなり激しい議論があるようです。同性愛者に厳しいのは旧約の記述の影響かと思われますが、私としては「じゃあ、近親相姦はいいのか?」「カトリックの司祭は独身制なんだし、同性愛者の方がかえって都合がいいんじゃないの?」なんて思ったりします。

 実際、キリスト教世界の同性愛者への風当たりの強さは私にはよく理解できなかったりします。もちろん、私自身にそんな趣味はないですし、個人的には全く受け付けない性向ですが、別に第三者に多大な迷惑をかけているのでない限り、そんなに責められないとならないことなのかなぁ?近親婚の方がよほど問題では?という感じがどうしてもしていまいます。

 以前、「女性は産む機械」などと発言して物議をかもした厚生労働大臣がいましたが、旧約聖書の性意識自体がまさにそれ、子孫確保、お家存続のためならなりふり構わず、近親相姦も辞さず、という感じで、この厚生労働大臣を非難するクリスチャンの方は一体、旧約の記述をどう思ってるんだろ?と思わず考えてしまいます。
 あと、同性愛の問題で不思議なのは、非難されているのはもっぱら男同士の同性愛、いわゆるホモであって、女性同士の同性愛、いわゆるレズには何の言及もされていないのはまたなんで?との疑問もありますね。

 新約の我らがイエス様はさすがにそういう男尊女卑的な言動は全く見当たりません。むしろ、フェミニストといってもいいかと思います。しかし、その使徒でキリスト教界の大貢献者パウロ先生となると「女は男のために生まれてきた」とはっきり言いきっており、これまた、イエスの言動と落差があって「あんた、本当にイエス様の使徒なの?」といいたくなっちゃいます。この人は「目からうろこ」といいつつ、生前のイエスの言動にほとんど興味ないんだ、と改めて思っちゃいます。

 だらだら、と書き連ねましたけれども、クリスチャンの皆さんは常日頃、心がけている性とか性生活に対する倫理感と聖書に実際に書かれている、現代の感覚では到底受け入れがたい性行為やその考え方とどう整合性をとっているのでしょうか?
 「そんな昔のこと」とお思いになるかもしれませんが、現に業界その昔の記述をもとにして、同性愛者への扱いに様々な論議があったりするわけですから、決して、単なる揚げ足とりではない、と思えるのですが、いかがでしょうか?

351Sekko:2008/09/21(日) 17:48:12
大羊さんへ
 私は別に旧約聖書の性的乱脈が気になりませんね。古代社会って大体どこでも似たようなもんだという感じがします。キリスト教的にも、キリスト教は神が受肉したってのがメインで、だから、どこかの時代のどこかの社会に生まれたわけですから、旧約でその文脈を知るのはもっともだと思いますね。
 後のキリスト教はストア派的な世界で発展したので、ちょっと厭世的で、禁欲的なのはこれも当然の帰結でしょう。その後、キリスト教的性の禁忌は、はっきり言って、婦女子を男の財産として縛るために維持されてきたと思います。
 17世紀頃のヨーロッパの農村とかでもすでに、男たちは結構勝手なことやっていて、それでも女子供は教会に行かせていました。貞潔とか貞節とか、性に対する罪悪感を植えつけることが財の継承システムにとって大事だったんでしょう。
 男同士の同性愛がタブー視されるのも、子孫を残さないとそういう財の継承ニ不都合が生じる上に、女の役をする男への同性内での侮蔑感とか危機感があると思います。男っぽい女の方は、どちらかというと女性から憧れられたりするんですよね。これも、社会的な刷り込みから来る反応でしょう。

 チベットのお坊さんの基本戒では、僧侶の独身を求めるだけでなく、性行為そのものが禁じられていて、異性だけじゃなく同性とも動物ともダメ、と書かれてます。この方が人間性を心得て厳しいのか、あるいは、キリスト教のほうが抜け道を用意したザル法で人間的なのか、分かりません。カトリックでも時代や場所によっては、聖職者の独身の誓いは、神の秘跡としての結婚ができないというだけで、実際は家政婦的な人と同棲しているケースもよくありましたし、アフリカとかでは今もあるようです。

 古代ヘレニズム世界でも同性愛は文化のうちだったし、ストア派的な禁欲は、異性愛とか同性愛に限らず、欲望の抑制がメインだったんでしょう。
 同性愛が神の意思に背くといって、即地獄落ちというような教条主義的宗派は今もありますが、同性愛者だって異性愛者だって、それを律していくという意味では同じ試練を課せられているんでしょう。司祭になりたい人は、独身や貞潔の誓いを受け入れればいいので、別に自分の性的傾向をカミングアウトする必要はないと思います。妄想レベルだったら何でもあり得るわけだし・・・

 それに普通は異性愛者だって、同性愛者だって、別に生まれてから死ぬまでずっとそれにとらわれてるわけじゃないし、1日24時間それにとらわれてるわけでもなく、習慣とか環境とか、ホルモンの具合によってスイッチが入るんだと思うし。そんなことで、神と人に仕える大切な使命とか召命とかが損なわれないことを希望したいです。
 たとえばフランス内での今のカトリックの人にとっては、やはり離婚して再婚した人が聖体拝領できないとか、女性が司祭になれない、とかについて、教皇が一貫して旧守の立場を表明してる方がつまずきになってるみたいです。まあ、歴史的にも文化的にも複合的な問題なので、変わるとしても時間がかかるんでしょう。

 面白いのは、こっちでは主に、男たちによる婦女の教育、洗脳、支配、の手段として長らく機能してたカトリックの性教育が、女性の社会的立場が相対的に上のプロテスタントでは、女性の側からの男性の糾弾として使われることですね。

352charis:2008/09/21(日) 22:58:10
大羊さんへ
どの時代のキリスト教も、『旧約』や『新約』という聖典の「教え」と、自分たちの生きている「現代」とのギャップをどう埋めるかに腐心してきました。

パスカルに『プロヴァンシャル』という本がありますが(日本語の全集で読めます)、ある意味では『パンセ』より面白い。イエズス会のずぶずぶのマニュアルを批判した本です。新約では、イエスは、「金持ちは天国に入れない。天国に行きたければ、全財産を寄付せよ」みたいな過激なことを言っています。でも、それを文字通りに真に受けたんじゃ、金持ちを敵に回すことになって、教会はやっていけない。だから、イエズス会は、一見すると聖書に反するような階級や人間でも、ちょっと何かすればちゃんと救われるという、手を取り足を取るようなマニュアルを書いているのです。それを原理主義者パスカルが批判したのが『プロヴァンシャル』です。ほんと面白い本です。

http://d.hatena.ne.jp/charis/

353迷える大羊:2008/09/22(月) 21:30:33
毎度どうもお世話様です
 皆様、いつもお世話様です。

 確かに、古代世界ってそんなものかもしれないかもしれないとは思いますが、レビ記を読むと主はモーゼに近親相姦はダメだってはっきり言っているのに、あからさまにそのタブーを犯している連中(サラはアブラハムの妻であると同時にアブラハムの父テラの妻でもあったりする)に何のおとがめがない、というのはどういうこっちゃ?どうも、旧約の神が考えることはようわからん、といった感想を持ってしまいますね・・・。

 そのレビ記にある規制の一つに(チベット仏教の僧侶の基本戒にもあるそうですが)、動物と交わってはならない、っていうのがありますが、これまたどうにも気になる話ですね。
 「いわれなくとも、しないわい、そんなこと」って思うのですが、こんな規制が出てくるってことは古代世界には動物と交わってしまう人間がいたってことなんですかね??。
 同性愛とか、近親相姦ならまだ、私の想像のつく世界の話ですが、動物相手の性行為となると、いくら現在とは価値観が全然違う社会の話とはいえ、もう想像の域を超えていて、これまた頭が痛くなってくる話です。

>どの時代のキリスト教も、『旧約』や『新約』という聖典の「教え」と、自分たちの生きている「現代」とのギャップをどう埋めるかに腐心してきました。

 これは、本当に大変だな、と想像できます。一番てっとりばやいのは聖書の内容を変えることなんでしょうけど、世俗の法律や憲法とは違い、聖書は「神との契約」内容なわけで、それが時代や状況によって簡単に変えられるようでは、権威というか重みがまるでなくなってしまうわけで、つらいところだと思います。

>イエスの過激さ

 聖書をまじめに読んでみて一番変わったのが、イエスのイメージですね。それまで、なんとなく温和で無抵抗主義っぽいイメージがあったのですが、どうも、この人は一種の過激派(テロリストってことではなく、道徳的な意味での)なんじゃないのか?ということですね。
 その過激な部分を中和し、もうちょっと一般人にも受けやすいものに変えて、大々的にプロモーション、プレゼンテーションしたのがパオロって感じですかね。
 いってみればパオロはプレスリーのマネージャー、トム・パーカー、ビートルズのブライアン・エプスタインのような有能なマネージャーというか、プロデューサーみたいな。もちろん、独断と偏見ですけど。

354Sekko:2008/09/23(火) 18:52:09
イエスとパウロ
 イエスが神懸りの教祖でパウロが宗教組織のオーガナイザーって図式は、昔私も何となく受け入れてたんですが、今は全然違うって思ってます。
 イエスをキリストってしたことがキリスト教を成立させたわけですが、受肉とか贖罪の思想におけるその逆説の力はすごいなあと今は感心します。
 しかし、西洋近代を生んだキリスト教社会ではその辺のところがまったく闇の中になってしまったんで、過激も毒も逆説も見えなくなり、信仰と懐疑の緊張が、似非科学主義とか、「イエスはシンボル、人としての模範」、みたいな方向とかに行っちゃったのは、ちょっと残念です。

355Sekko:2008/10/02(木) 21:35:38
大羊さんへ
 中公新書ラクレの『アメリカの宗教右派』(飯山雅史)という本を最近いただいて読みました。そこに福音派の成り立ちがすごく分かりやすく書かれていたので、大羊さんのことを思い出しました。やはり、歴史的文化的コンテキストに位置づけてみると、すごくクリアになることがありますね。

 でもこの本を読んで、多分、日本のほとんどの人にはアメリカの宗教右派の実態なんて興味がなく、遠い世界なんだろうなあと今さらながら思いました。
 そんな日本で、福音派に出会ってどっぷり浸かる人もいるのですし、本当に難しいです。今日のブログでも少し触れました。あわせてどうぞ。

356迷える大羊:2008/10/05(日) 00:55:55
福音派など他あれこれ
 といっても、そういうまとまった教派があるわけではなく、保守的、原点回帰的な信仰を持つプロテスタント教会全般を指すわけで、その「濃さ」も教会により、牧師により信徒様々で、一慨にこうだ!とは決めつけられないところもありますね。伝統的教会とさして変わらない穏健なところから、カルトか、これは?といいたくなるところまで、本当に様々。もっとも私も実地、実体験で知っているのは日本の福音派教会だけで、海外のそれは書物でしか知らないんですが・・。
 もともとプロテスタント教会自体、教会により牧師によりカラーががらりと変わってしまうところがあって、日本キリスト教団などもあれだけ信仰の形態も考え方もバラけた人たちがよく同じ団体にいられるもんだなぁ、って思うところがありますし。

 福音派(以下F派)だからといって全部が全部の牧師や信徒が「神をとるか?進化論をとるか」みたいなこといっているわけでもないし、中には「聖書を字句通りとるのは危険」との私に近い立場の方もおります。でも、まあ、そういう(神か進化論か、的な考えの)人の割合は確かに高いですね。

 それより何より日本の福音派の信徒の場合、緊密な人間関係が心地よくて所属している人が多いように思えますね。カトリック、プロテスタント問わず、伝統的な大教会って確かに理性的だし、あまり素っ頓狂なことは言わない代わりに役所的なところがあって、ちょっと厚かましいぐらいでないと聖職者と直に話す機会も少ないし、教会にも溶け込めず、ミサやら礼拝やらを流れるままにすごし、結局誰とも話さずに終わったなんてことになりかねないところあるんですよね。
 「聖書についての101の質問と答え」(レイモンド・ブラウン著 裏辻 洋二訳 女子パウロ会)によればアメリカでもその辺りの事情は同じみたいですね。


 日本の福音派とあちらの福音派の最大の違いは政治的な立場ですね。あちらで熱心なクリスチャンとか福音派というと政治的には保守、右寄りとなることが多いようですが、日本では福音派(というかキリスト教会全般)って政治的には全く逆の左寄りの場合が多いですね。教会によっては、教会報読むと「あれ、ここは社民党か共産党の事務所だったんかなぁ?来る場所間違えたかな?」と思っちゃうことありますし。

 ブログでも触れられておりましたが、進化論って確かに弱肉強食の正当化だとかナチスあたりの人種理論に「応用」された経緯があって、キリスト者としてそれに嫌悪感を抱く、というのはなんとなく理解はできるし、私も現に福音派のクリスチャンの方からそのような趣旨の話を聞いたことあります。でも、それいうなら、キリスト教だって異文化破壊、異教徒弾圧、異端狩りなど到底誇れない歴史があるわけで、だから、キリスト教ダメ、十字架禁止!って理屈も成り立たなくもないわけで、やっぱりヘンというか、理解できないです。それに、人種差別反対とか公民権運動って進化論が出てきた後の話だし、「人は神が自らに似せて作った」ことになっていた時代に不道徳とか不正が何にもないのか、っていうとそんなことまるでないわけだし。

 とまあ、キリスト教に関わって世の中のいろいろな面が見えたような気がしますね。

357charis:2008/10/05(日) 08:41:28
進化論とキリスト教
Sekkoさんの10月2日のブログはとても勉強になりました。ダーウィンの進化論は、20世紀になってメイナード・スミスやドーキンスなどによる遺伝子レベルからの捉え返しによって、その意味がはっきりしてきました。「弱肉強食」ではないんですね。偶然の突然変異によって生じたごくわずかに形質が違う個体が(たとえば、ほんの数センチ首の長いキリン)、それまでの形質をもつ個体に比べて、一生の間に産む子供の数がほんのわずかだけ多いとします。たとえば首の長いキリンはライオンにすばやく気がつくから、首の短いキリンより産む子供の数が1%だけ多いと仮定しましょう。すると、たとえば数万年の間には、首の長いキリンだけになってしまう(これを数学的にキチンと計算するのが現代の進化論です)。摂理とか目的論とかを一切抜きにして、結果として、繁殖力がわずかに優位した形質をもつものが生き残って現在存在している。これが進化論のポイントです。

重要なことは、進化的に生き残ってきたものは、一定の環境のもとで繁殖力が大きかったという事実だけで、その個体が「生きやすかった」とか「幸福に生きられた」ということではまったくないということです。奇妙な形の動物がたくさんいるわけで、進化論は個体の生の幸福にはまったく無関心です。ここが我々人間の関心と異なるところで、我々は誰でも、自分が幸福に生きたいと願い、これがキリスト教だけでなく、人間の基本的な考え方です。

自然的存在としてのヒトには、たしかに進化論は妥当しますが、人間のあり方の社会的・文化側面に、進化論を当てはめるのは正しくありません。たとえば性欲は繁殖力に関わる自然的性質でしょうが、だからといってレイプが許されるわけでないのと同じです。

http://d.hatena.ne.jp/charis/

358迷える大羊:2008/10/05(日) 20:47:31
キリスト教とアメリカ
 これまで、聖書の内容と現実のキリスト教信仰のズレについてしつこく話題にしましたけど、そういう話となると、アメリカの話を飛ばすわけにはいかないですね。

 このギョーカイに関わるまで、アメリカといえば科学、合理主義の極みのような国家。日本以上に宗教色が薄く、なんて思っていたんですが、実際は全く逆、私を戸惑わせた、聖書を字義通りに信じてしまうような教会の出自は大体がアメリカ、なのには本当にびっくりします。

 話変わって、本日、とある教会の聖書講座にてぶどう園の労働者の話をいかにも品のいいおばさま、といった感じのシスターを講師に受講しました。ああ、なるほどね、このたとえ話(だけではないんでしょうけど)、社会保険だとか失業保険の発想の源になっているわけね、とこれは素直に感心しました。

 この話に限らず、聖書、福音書を読む限り、イエスは度の過ぎた競争社会とか、格差社会には明らかに否定的で、現代でいう社会主義、共産主義的な発想の持ち主のように思えます。
 ところが、そのキリスト教や聖書やイエスを進化論を否定するほどまでに信仰しているはずのアメリカは、世界でも有数の競争社会だし、なんといっても驚くのは国民皆保険ではなく、健康保険は自前。豊かそうに見えても、中流以下の人間は一旦、大病、大ケガでもしたりすると、あっという間に貧困層、とういうこれまた世界一の経済大国のイメージからは信じ難い現象があったりで、これまた、頭が混乱します。

 ほんとにあなた方キリスト教信じてるんですか?聖書ちゃんと読みました?同性愛者の結婚だの中絶がどうのこうのなど、そんな個人的な問題をぎゃあぎゃあ言う前にもっと他にやることないですか?ってつい言いたくなってしまうのは私だけでしょうか??
 特に健康保険の国民全加入なんて、聖書やイエスを信じるキリスト教国なら建国するやいなや即刻実現していて良さそうなものですが、全然そうでない、一体、アメリカの人々は矛盾を感じないのだろうか?聖書のどこをどう読んでいるのだろう?との疑問を感じます。

 また、離婚の多さも謎です。日本も最近は多いですし、ヨーロッパもしかりですが、それでも統計を見るとアメリカ人の離婚の多さは群を抜いてますよね。まあ、離婚の是非、現実問題として妥当かどうか、は別として、聖書をひもとけば「離婚はダメよ」とイエス自らが直々に語っているわけで、なんで、そんな宗教信じていながら、あんなに簡単に別れられるんだ??とこれまた矛盾とか感じないのかなぁ、と不思議になってきます。

 アメリカに限らず、こういう現象をみると、キリスト教の世界でいくら「聖書は神のみ言葉」なんていっていても、結局は各人が自分の立場、主張に都合のいいとこつまみ食いしてるだけなのかなぁ、とニヒルな意見を持ってしまいます。

 ほんとどうなってるんですかね?

359ラザロ:2008/10/07(火) 14:13:06
愚かな金持ち
イエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいのである。あなたがたに言うが、「富んでいるものが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、やさしい」。  新約聖書の言葉

富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。

富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる。無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。

しかし、神の人よ。あなたはこれらの事を避けなさい。そして、義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい。この世で富んでいる者たちに、命じなさい。高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように、

あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。

360Sekko:2008/10/07(火) 19:13:59
下の書き込みについて
 この下の書き込み、スパムの一種かもしれませんが、こういうものにも答えちゃうのが暇な人、じゃなかった、善意の人の義務なんで、ブログに書いときました。http://spinou.exblog.jp/
 暇な人は読んでみてください。

 しかし、私もそれほどには暇、じゃなかった、善意の人じゃないんで、次に似たようなのが来たら消去しますので悪しからず。

361vino:2008/10/08(水) 15:22:55
CRAZY AMERICA
家族のことで忙しかったり、自分も背中を痛めたりなどでしばらくこちらは拝見するだけにしておりました。皆様、相変わらず、本当に問題意識の高い、博識なご様子、立派です。  今年はアメリカで大統領選挙があり、何故、あの国があんなにおかしいのか、この数年の経験でかなり判るようになった私としては、思うこともいろいろです。  日本の福音派の方々は(現実の世界は汚れきっていて、自分達の価値観の世界を信仰によって作ることこそ大切)くらいの方向性の人が多いように感じられます「政治は関係ない」などと仰いますが、関係あるようにしているのはどこのどいつだっ!と突っ込みを入れたくもなります。(笑)平和よりも正義などとノタマウ人ありで、<おおいなる陰謀>のトム・クルーズのようです。正義、正義って言いますが、反対側から観たら、ただの欲でしょう。いろいろな物が値上がりしていますね。アメリカの子分のような日本ですが、信仰の方向性はかの地に大量に棲息する<敬虔な信徒さま>とは違う道を歩みたいと思います。

362迷える大羊:2008/10/11(土) 14:27:22
アメリカの福音派
 SEKKO先生より御紹介された、「宗教右派」読んでみました。なかなか興味深い内容でした。著者の飯山氏の疑問や戸惑いはまさに私のそれです。やはり、アメリカの福音派も日本のそれと同様、一言ではくくれない多様な面があるようで、勉強になりました。

 思えば、福音派キリスト教って良い意味でも悪い意味でもアメリカらしいキリスト教って感じがします。アメリカ人のステレオタイプなイメージといえば(あくまでステレオタイプです)、基本的に人は良く、陽気で楽しげ、常に前向き。自国の民主制度と価値観(信仰)が人類を救う、幸せにすると純粋に信じ、それを拡げる(伝道する)ことが使命と強く信じている。

その一方で、他国の文化、価値観(他宗教)に対する理解も理解する意欲も薄く、ときにその押し付けがましく、無神経に映る部分が他国(他宗教、未信者)の反発を呼ぶ場合がある(実際、アメリカ人でパスポートを持つ人々の比率、つまり、外国に出たことがある人の比率は極めて低いらしい)・・。
 といった感じで、私の中での福音派のステレオタイプとアメリカとかアメリカ人のステレオタイプって重なる部分が多々あるんですよね。こんな風に思うのは私だけでしょうか??

 飯山氏の「宗教右派」中では最近下火になったらしい、とはいうものの、アメリカ社会の中絶と同性愛問題への異様なこだわりってあれ何なんでしょうね?
  もちろん、どうでもいい問題とは思いません。でも、そこに至るまでの過程、というか事情は百人百様なわけで、善か悪か、是か非かの二元論で割り切れるものではないし、ましてや国政の場で踏み絵的な政争の具にするなんて、無理がありすぎるというか、エネルギーの無駄遣い以外何ものでもない感じがしますが・・・。

 いつだったか「日本の常識は世界の非常識」って言葉がありましたけど、それいうなら「アメリカの常識は世界の非常識」っていうのも十分成り立ちそうに思えます。ただ、日本と違って、アメリカの場合、日本ほど「世間、世界の目」を気にしないし、世界一の経済、軍事大国なので「自国の常識」を強引に「世界の常識」にしてしまう、というだけの話だろ、って気もします。

 聖書をひも解くと、同性愛は旧約聖書では非難されまくりですが、新約の方には目立ったコメントがない、イエスは一言も触れていない、中絶については旧新両方ともコメントなし、なんですが・・・。

 あと、アメリカの宗教、キリスト教事情に触れた本としては立花隆氏の「宇宙からの帰還」(中公文庫)も面白かったです。

363迷える大羊:2008/10/25(土) 23:27:45
聖書のヘンテコな点について
 題名の件について、どう考えるか?とある教会の神父さんにあれこれ聞いてみました。いろいろ話しましたが、答えとして一口にまとめると聖書は一人で勝手に読んで解釈するものではない、とのことでした。
 私がここであれこれあげた他にも、背景や前後関係をよく吟味した上でよく考えないとトンでもない誤解や事態を招きかねない箇所は他にもいくらでもある、だから教会、少なくともカトリック教会の場合、一人で勝手に聖書を解釈することは許さなかったんです、とのことでした。

 これは納得いきました。解釈を教会が監督、コントロールというとなんだか言論、思想の自由の妨害って感じがしますが、聖書を読むとこれを字義どおり勝手に解釈すると大変だ、って部分は確かに多かったりしますし、現にその過激な部分(イエスの「家族を棄てろ」発言とか)を「利用」しているカルト団体もあるわけで。聖書に関する限り、ある程度のコントロールはやむえないかも、と思います。
 思うに聖書って「良いも悪いも読む人次第」な部分がたぶんにあるな、と思うのですが、どうでしょうか。

 学校なんかで習う世界史だと、聖書を一般信者から遠ざけ、腐敗の限りを極めていたカトリック教会に対して、ルターをはじめとするプロテスタントたちが敢然と立ち上がり、なんて図式で描かれることが多く、それはそれで間違いではないとは思うものの、ある程度、キリスト教の事情がわかる今となっては「聖書に帰れ」とか「信仰は聖書のみ」って本当に手放しでいいことなのか?と思うようになりましたね。

 原理主義についてあれこれここで述べましたけど、実は教派云々ではなくプロテスタント成り立ち、存在自体が一種の原理主義なのかも、と思ったりします。実際、聖書を「字義どおり」信じる人ってプロテスタントの人の方が割合的に圧倒的に高いし。

364Sekko:2008/11/19(水) 13:34:34
大羊さま
>背景や前後関係をよく吟味した上でよく考えないとトンでもない誤解や事態を招きかねない箇所は他にもいくらでもある、だから教会、少なくともカトリック教会の場合、一人で勝手に聖書を解釈することは許さなかったんです、とのことでした。

 というのは、カトリック教会の方が危機管理にすぐれていたのかなあ、って気がしますね。聖俗の境界部分はきちっと管理しといて、内輪では自由に意見交換するっていうのもひとつのやり方です。普通の人って、自分や自分の周りの生活の質や救いとかさえケアできるシステムがあれば、細かいテキストなんてスルーできるだけの健全さがあるのかもしれません。
 その「普通の人」に無理やり教条主義的な聖書勉強会をおしつけると、中途半端な独善主義に染まりやすそうです。
 ユダヤ聖典に対するイエスの態度は全然原理主義的じゃなかったですからね。生きて滅びる存在はめぐりゆき変わり行く、枠にはめてフリーズさせるともうそれは本質から離れていくのかもしれません。

 聖書を読んでも、それを通して、同じ見解の人とだけ連帯するような方向ではなく、宗派を問わずより多くの人々に寄り添えるような読み方がいいんじゃないんでしょうか。

 今、日本に来ておりまして、私事で取り込んでいてお返事遅れましてすみませんでした。懲りずにいつでもどうぞ。

365迷える大羊:2008/11/26(水) 23:00:57
レノン バチカンより赦される
 BBCなどの欧米マスコミに出ている話。元タネはバチカンの日刊紙「オッセル・バトーレ・ロマーノ」らしいです。

 こちらのBBSでも以前、話題にもしましたけど、この話は、ビートルズのジョン・レノンが英紙イブニングスタンダードで1966年の春ごろ「ビートルズはキリストより有名」とやって、米国のバイブルベルトの保守的なクリスチャンを中心に猛反発、その騒ぎがバチカンにも伝わり、バチカンもレノンに謝罪と釈明を求めた、というもの。

 実に42年ぶりにカトリック教会からレノンは赦されたんですね。でも、この発言、よく読むと、イエスの教えや行動自体は評価してるし、「キリストより有名」っていうくだりもあくまで、比喩のような感じだし、教会に真面目に通うようなクリスチャンには確かに面白くない部分があるにせよ、嫌がらせしたり、ヴァチカンが組織を上げて謝罪と弁明を求めるほどの話かなぁ〜という感じがどうしてもします。

 実際、騒ぎになりだしたのはアメリカに話が伝わってからで、当初ヨーロッパでは全く注目されなかった発言だし。バチカンが許したっていうよりは「あんなことつまんないことで騒いで、大人げなかったな、今にして思うと」って感じがしますけど、どうなんでしょうね。

366Picky(管理者):2009/01/02(金) 07:11:12
Bonne Annee !
皆様、あけましておめでとうございます。
本年も楽しい投稿お待ちしております。
クリスチャンの両親を持つ知人に聞きました。クリスマスというのは、12月25日までの4週間が準備期間で、25日から1月12日ごろまでがxmasということらしいですね。なので12日頃まではメリークリスマスと挨拶するそうです。
(その話を聞いて、ジョンレノンのHappy Xmas の歌詞の謎がとけました)
というわけで、皆様、Merry Xmas and Happy New Year !
今年も素敵な1年になりますように。

ところで、この直前の2件の投稿はこちらの判断で削除いたしました。

367:2009/01/19(月) 05:15:23
キリスト教文化とイエス
はじめまして。

現在、あるカトリック教会の入門講座に通っており、そこで『カトリック生活』を頂き、このサイトのことを知りました。

基本的な質問はシスターにすれば良いのでしょうが、私のうちにある問題点はあまりに個人的なものなので、こちらに問い合わせした方が良いかと思いまして・・・

プロテスタント的背景を持っているため、聖書から出発してしまいます。キリスト教文化には圧倒的に引きつけられるものがありますが、それは欧州文化だと思います。聖書のイエスはユダヤ教世界の中に現れており、ずいぶんかけ離れているように思えますが。

漠然とした質問なので、確たる回答はあり得ないと思いますが、感じられるところでもお返事願えると幸いです。

368phantom:2009/01/22(木) 19:15:28
メジュゴリエの記事
ブログのメジュゴリエの記事、日本ではなかなかこういう
インフォメーションが入ってこないのでとても面白かったです。

聖人の認定にしろ、御出現の真贋にしろ、難しいですよね。
こういうものは運やタイミング(時代背景や医学の発達度合い等)もあるでしょうし。
ヒルデガルド・フォン・ビンゲンはタイミングが悪かっただけで
聖人にはなれませんでしたし、アビラのテレジアはもし現代人だったなら
統合失調症の一言で切り捨てられていた可能性もありますし・・・

メジュゴリエでの御出現はその内容に神学的に引っかかる部分がありますし、
関わった人々も問題がないとはいえませんよね。でもその土地では確かに
恩寵があると言えますし、そこにある意味では本当に聖母の力が働いているのかもしれません。そうなると本物か偽物かなんて、誰にも本当の所は判断できないでしょうね。

不謹慎かもしれませんが、2009年度末の調査修了の結果が非常に興味深いです。
ただ、万が一の場合は純粋な信仰を持った人達がかわいそうかもしれないな、と
心配でもあります。それに対してカトリック教会がどういった対応をするのか?
その辺も気になるところです。

369Sekko:2009/01/23(金) 23:49:36
和泉さんへ
 和泉さん、こんにちは。

 歴史上のどこかの時点や地点に「キリスト教」というものがある、と考えると、理解できないことがいろいろ出てくると思います。
 しかし、イエスが「わたしは道であり、真理であり、命である(ヨハネ福音書14−6)」と言っているように、キリスト教も、真理と命に向かう「道」だと思われます。私たちはその途上にあるので、先人の歩いてきた道には、それぞれの時代や場所によって、それぞれの固有の表現としての文化遺産が生まれました。
 ローマ・カトリックは、まさに、ヘレニズムの影響を受けた古代ローマ帝国の文化と版図の中で形成されてきたので、それがまた、欧州の基盤になりました。イスラムの台頭から免れた部分の西ヨーロッパは、それなりに成熟したキリスト教文化を築いてきました。

 それがいろいろな経緯で、非宗教的な西洋近代へと展開したわけです。その近代西洋はテクノロジーの優越と帝国主義的発想によって、近代の一種のグローバル・スタンダードとしての地位を獲得してきました。私たちの日本の近代も、それに倣うことで生き延びたし、発展もしたし、恩恵も受けてきたと思います。
 だから日本が接触したキリスト教は西欧系が多かったですし、文化の傾向としても明治以降の欧化政策の結果、今の私たちにはパレスティナよりも欧州文化と親和性があると思います。

 そこだけ比べると、聖書のイエスが古代パレスティナに現れ、ユダヤ教がエジプトやメソポタミアの影響を受けているのことと、ヨーロッパキリスト教文化とは、「かけ離れている」ように見えますが、キリスト教が神の国へと向かう旅する途上にあること、道であるとすれば、どれが正しいとか正統だとかはいえないと思います。

 変なたとえですが、たとえば、南極から出発して北極に向かいたいとして、みなが北極星を仰ぎ見て指針にして漕ぎ出したとしても、辿る経路は無数にあるわけです。砂漠を横切ったり、山や谷を越えたり、嵐にあったり、遭難したり、間違えて地中に穴を掘ったり、迷ったり・・・ 目的地は、真理や命が実現する神の国でも、道は一つではない、というより、辿ったところに道ができるので、その中で「近代西洋ルート」というのがもっとも今風に整備されている感じでしょうか。
 でも、南極にいたペンギンを北極でさがしても意味ないですし、大切なのはどこに向かうかっていうことでしょう。渡り鳥が経路を間違えないのは地磁気に導かれているとか聞いたことがありますが、旅するキリスト教にとってその地磁気みたいなのが「聖霊」ということになります。

 和泉さんが、聖書から出発され、聖書は特定の時代や場所の文脈の中にあるのですから今目に見えるカトリック文化と付き合わせると違和感があるというのは理解できますが、いろんな時代のいろんな場所でいろんなキリスト者が何にインスパイアされてどうやって歩いてきたかというのを見ていくと、世界が広がるし、自分の足であるいていこうと勇気づけられますから、どうぞ、どんどん知識や出会いの場をお広げください。

370Sekko:2009/01/24(土) 00:03:24
Pickyさんへ
 いつもお世話になっています。

 フランスでは、クリスマス・イヴから始まる年末年始のお祭りは一応、1月6日のエピファニーまでという感じですが、新年の挨拶(VOEUX)は、一応1月末までなら言える感じです。でも、クリスマス過ぎたら、もうJoyeux Noel とは言いません。Bonne Annee です。
 考えてみると、Bonne Annee って、グッド・イヤーだから、Bグッド・モーニングみたいな文字通り「よいお年を」で、Happy New Year の方が新年の祝詞っぽいですね。フランス語だと、クリスマスはイエスの誕生日でめでたいとしても、別に新年そのものがめでたいわけでなく、「新年にあたって、今年もご健勝を祈ります」、みたいな言い方が決まり文句ですね。Bonne Annee と、Bonne Sante はセットになってることが多いです。

 で、フランス風だとまだOKということで、Pickyさん、

 Bonne Annee,Meilleure Sante!!!

 今年もよろしく。

371迷える大羊:2009/03/04(水) 20:28:06
オーストラリアのカトリック
 先日、オーストラリアを旅してきたのですが(クイーンズランド州)、現地のTVでオーストラリアのカトリックの現況について特集をやってました。英語力の不足で内容はよくわからなかったんですが。「ケネディ」(アメリカ大統領とは無関係)という神父さんが代表してインタビューにいろいろ答えてましたね。

 でも、改めて「特集」がニュース番組で組まれるってことは彼の国ではカトリックはもの珍しい、とまではいかなくても主流派ではないのな?元々、英国の南太平洋支店みたいな国だし、アメリカ同様、教派としては最大でも、全体としてはプロテスタント(含む英国教会)が多いんでしょうかね?やっぱり。

 オーストラリアのカトリック教会の現状というか社会における位置ってどういうものなんでしょうかね?いささか、抽象的な疑問、質問ですが、ちょっと知りたくなりました。

372迷える大羊:2009/03/04(水) 21:06:05
会社の神棚
 連続投稿失礼します。この三月より転職しまして、新しい会社に通っています。

 ところで、その会社には神棚があって、月2回の朝礼の際、出席者全員で柏手打つんですよね。現代日本人の常として、その会社の人々にとってそれは単なる慣習であって、誰も信仰というレベルでとらえてはいませんが、クリスチャンの人々はどうなのだろう?F派の方々にとっては強烈な抵抗感あるだろうなぁ、カトリックやリベラルなプロテスタントの人々はあまり気にしないかな?でも、神棚は許せても柏手はイヤって人は結構いるかも?などなど考えてしまったのでした。

 もっとも私自身は仮にクリスチャンになったとしても、多分全く気にしないでしょうねぇ。宗教学的にはともかく、大多数の人が信仰を試す意図も意識もないものをとやかくいっても仕方ないと思うし。
 日本の会社、商店は特に他意なく、神棚が祀ってあってそれに向かって祈るところが多数派ではないにしても結構あったりしますね。
 クリスチャンを身内にするまで、ほとんど自覚なかったんですけど、日本人=無宗教は大間違い、実は宗教がいろいろありすぎて、そのためにそれぞれの宗教の差異に鈍感になってしまってるというのが本当のところかも、と思ったものでした。

 ところで、フランスの企業にはこのような現象ってあるんでしょうか?つまり、イエスの磔像はなんぼなんでも強烈すぎるにしても、例えば、マリア像がオフィスの片隅に祀られていて、商売繁盛を月に一、二回みんなで祈願する、なんてことが(多分、ないだろうな、と思ってますが・・)

373Sekko:2009/03/04(水) 23:39:23
お久しぶりです。
 お元気そうで何よりです。

 オーストラリアは、私も「旅行者」としては、すごくいいイメージを持ってます。もちろん、英国の支店みたいなメンタリティはあると思いますが。
 現地の日本人と話して、子どもが付き合うのに、英国系の子どもは、両親の移住の年を聞け、・・年以前なら囚人の子孫だから、と気をつけている、というのを聞いて、出自の差別意識にちょっと驚いたことがあります。
 しかし、最近、首相が、バリのテロ以来、イスラム原理主義者を毛嫌いして、シャ−リア法で生きたいやつは出て行け、ここはキリスト教の理念で建国された国だから、キリスト教の文化や価値が尊重されるのは当然で、ここに住みたいなら英語が公式語だからアラビア語や中国語や日本語を使わずに英語を勉強しろ、などと言いました。移民問題に悩んでいるフランスで、これくらい言う政治家がいてもいいのに、というフランス人もいます。
 オーストラリアといえばアボリジニのことを自動的に考えるので、おいおい、よくこんなことを言えるよなあ、と、私なんかはびっくりですが。
 それほどに「キリスト教」アイデンディディが強そうなのにはびっくりです。一見、ユニヴァーサリスムの同化主義の言葉のようですが、実はものすごくコミュノタリズムの国で、ヨーロッパならタブーなことや、アメリカですら本音を言わないようなことをも、首相が平気で言っちゃえるのは、南半球の大陸という強みゆえなのでしょうか。白豪主義とキリスト教が結びついてるみたいで、ちょっと気持ち悪いです。カトリックはその中ではまあ「キリスト教」のお仲間なんで容認されてる程度なんでしょうか。

 日本の会社の朝礼で神棚に柏手って、今でもそんなところがあるんですね。まあ、個人的には、たとえば創立者の銅像に最敬礼を強要させられるよりましかなあ。
 日本の会社で、キリスト教徒だからといってそういうのを拒んだら実際に左遷させられた、という話を聞いたことがあります。切支丹狩って、今もあるんですよ、って。
 今のカトリックでは、神社とかにお参りという状況になったら、柏手は遠慮して軽く礼をするだけにして、リスペクトだけ示しましょう、って感じですかね。
 形は形でしかないので、信じてない対象に対してなら、逆に何をしても何も起こらないと思いますけど。信じている対象に対してはがんばって心を込めて形式にも気を使う、っていうのでいいんじゃないですか。
 この前バリ島に行った時、毎朝、家の内外53箇所にお供えをするという人の話を聞いてびっくりしました。ヒンズー教です。棕櫚やバナナの葉とかにお花を組み合わせたとってもきれいなお飾りにご飯やコーヒーとか、少しずつ差し上げるのです。毎朝取り替えるんですよー。53箇所!!お祭りの時はもちろんもっと盛大に。
 病気の時などでできない時は、別に誰に責められるわけでもないけれど、元気になったら、神々への感謝と無病息災のためにまた一そうがんばってお供えをするんです。
 一日5回も祈るっていうイスラムも私には無理だと思いますが、ヒンズー教のうちにお嫁に行かなくてよかった、と思っちゃいます。日本で仏壇に毎日かげ膳を供えるとか、一箇所くらいなら、何とかなるかなあ。

 フランスの企業には多分ないでしょうね。極小企業とかもともと宗教系のグループなら知りませんが。一般企業がそんなことしたらそれこそ組合でも個人でも、国に訴えれば、たとえ、お祈りを拒否することで具体的に差別されなくてもモラルハラスメントが成立しそうです。
 フランスでの問題はむしろその逆で、会社などの公の空間は非宗教空間というのが決まっているにもかかわらず、「信教の自由」ということで、その宗教の祭日に勝手に休んだり、就業時間中に勝手に祈りの時間を組み込んだりとか、信仰を表に出すこと自体をどうセーブして監視、管理、対応するかの方が微妙ですね。公立学校に入れている子どもを、宗教行事のために休ませる親とかもいますし。
 日本のこういう会社の風景なんかは、むしろフォークロアっぽいですね。そう思って割り切れば生きやすいのでは?
 キリスト教は、神棚や仏壇を自宅にしつらえるっていう感じでは「祭壇」を作れないし、基本的に聖餐などは「共同体」の「集まり」が主眼ですから、それはそれで大変(出席したかどうかをチェックされる)ですが、うちで毎日複数の神棚に拝んだり、53箇所のお供え、みたいな煩雑がなくてすっきりしてる部分はありますよね。
 宗教がない人だって、一日を始めるときには、なんだかんだとジンクスがあったり、いろんな、「マイ儀礼」を必要としたりします。何らかのメタ世界によって現実を構造化しないと、なかなか自然に生きられないのかもしれません。

374迷える大羊:2009/03/05(木) 20:28:04
オーストラリア/会社の神棚
>オーストラリア

 確かに、アメリカやらヨーロッパに比べ、人種に関してはあけすけにいうらしいですね。例の反捕鯨運動も欧米本土よりむしろ盛んで、人種偏見と思われても致し方ないようなTV番組が作られたりもしたようですし。
 ただ、一方で日本語学習者とか日本在住歴がある人も欧米諸国の中では多い部類に入るらしく、実際、オーストラリア行きの飛行機にはオーストラリア人が大勢乗ってましたし、北海道などはスキー、スノボーをやりに来る人も多いようです。

 まあ、白豪主義というか純血主義に関しては日本や日本人もあまりオーストラリアを悪くはいえないでしょうね。
 そもそも、日本のベトナム難民などの難民受け入れ数はオーストラリアを遥かに下回りますし、最近、日本に居住する外国人数は見た目にもはっきりわかるくらいに増えましたけど、それでも欧米、オーストラリアに比べれば比率的にも、数的にも、まだまだであるにも関わらず、国籍認定を緩める法改正などがあると本音レベル(特にネット)で、かなり激しく拒否反応を示す人が多いですし。
 この辺り(外人に対する本音)はどっちもどっちって感じです。でも、オーストラリアに日本人が大挙して移民した歴史や事象なんてありましたっけ?ほとんどがビジネスがらみの滞在か観光客かで、日系移民の話なんて全然聞いたことないですけど。

>会社の神社

 宗教的、思想的に深いわけがあるのではなく、建設関係だからだとも思います。くだんの朝礼の名称も「安全朝礼」ですし。日本の建設・土木関係って地鎮祭などもともと神道のお世話になることが多いので、その延長でしょう、多分。

 異論はいろいろあるかもしれませんが、キリスト教って元々が現世利益を追求する宗教ではないって建前があるし、特に日本のキリスト教は少数派故なのか、純粋で、特にプロテスタント保守派(F派)などは現世利益を追求しないことをプライドの拠り所としてる場合も多いわけで、こういう素朴なニーズ(工事安全、商売繁盛)に応える「営業努力」をあまりしなかったことから、日本において「安全」「商売繁盛」に関することは「神道」へ、と相成った理由かな、と愚考するのですが、どうなんでしょうね。

375迷える大羊:2009/04/05(日) 22:06:52
日本のキリスト教と左翼
 とまあ、のっけから刺激的なタイトルになりましたが。ここでも何度か話題にしましたが、キリスト教、クリスチャンについて、日本でキリスト教やろうとすると左翼っぽい思想に染まらないといかんのかなぁ?という疑問が常日頃抜けないんですよね。

 もちろん、何をもって左とするか、右とするかは人により、立場により異なるし、人によっては「迷える大羊、お前こそ右だろ」と言われるかもしれませんし、あまり安直に決めつけるのは差し控えなければならないのは重々承知してますし、信徒や聖職者が個人単位でどんな政治的見解、立場をとろうがもちろん、それは自由です。

 ただ、自分たち個人の見解や立場を教会全体、信徒全体の「見解」として世間に発表したり、何も知らない信徒や年少の信徒に様々な異なる見解がある問題について、一方の側の意見、立場を「正義」として吹き込むのはいかがなものか、という疑問によくとりつかれます。

 例えば、キリスト教会がやる「平和運動」とか祈りの類、キリスト者として、人として当然でそのこと自体は批判できませんが、その中身が私からするとどうも胡散くさくて・・。
 ぶっちゃけてはっきりいってしまうと、単に社民党、共産党の方針に従ったものなんじゃないの、との疑念が抜けません。まあ、わかりやすくいえば、旧日本軍の悪事だとかアメリカの軍拡だとかいったことへの批判は極めて熱心ですが、北朝鮮とか中国の不祥事、不正となるとスルーしたり、なんとか触れないようにしたり、みたいな・・・。

 個人単位でも、身内に公立学校の教師やってるクリスチャン(プロテスタント)がいて、国旗掲揚、国家斉唱義務化反対運動に熱心だったりします。私だってそんなこと国が義務にすることじゃないだろ、とは思いますし、別に祝祭日に国旗を掲げるタイプの人間でもありません。にも関わらず、教職員組合のこの手の運動の胡散臭さも経験的に知っているだけに(生徒に同意を半強制するなど)、どうにも厭な感じがしてしまいます。あと、感情的にも、「公務員だろ、国家から飯のタネもらって、民間より厚い福利厚生にあずかってるのに、従うのはイヤ?ずいぶん、お気楽な反対運動だこと。イヤならさっさと民間人になればいいだけの話だろ」とつい冷笑的な反応をしてしまいます。まあ、心のうちで思っているだけで、本人に面と向かっていったことはないですが(いえない)。
 彼女(女性)は子供時代からのクリスチャン(それも熱心な)で、教会におけるそういう言論(私からみて左翼っぽい)が影響を与えた可能性は大と思ってます。

 ちなみに私の政治面の立場、思想は天皇だとか、国家神道だとかは冷ややかなので、そういう意味では「右」ではないです。しかし、一方で、非常に手前ミソになりますが、現在のように社会問題化する以前から、北朝鮮の拉致問題には関心があり、被害者の集会にも顔を出していたりして、その過程で左というか進歩系のマスコミや政党の偽善ぶりもたっぷり見聞きしたせいで、かなりの左翼嫌いでもあります。

 正直、今、仮にクリスチャンになったとして、自分の心にもない見解だとか意見が「信徒」全体の意見になるなんて冗談じゃない、との思いがあって、キリスト教というものに対する壁の一つになってますが、皆さんはその辺、どうお考え、あるいは割り切っておいででしょうか?

376:2009/04/20(月) 11:17:01
リッタ バセの手記
カトリック サプリを愛読している者です。リッタ バセの手記の事を知りました。私の
友人で一人息子が自殺してなかなか精神的に立ち直れないでいます。邦訳されているのであれば、彼女に贈りたいと思います。題名と出版社を御存じであればお知らせいただければ
幸甚です。なければ英語またはドイツ語でも良いです。
お手数をおかけしますが、宜しくお願い申し上げます。

377:2009/04/30(木) 10:05:55
有難うございます
竹下節子様
はじめまして

ペールポール
に竹下さんのお話を聞き感動しています。
メールしてよいと言って下さいました。うれしいです

そして
堤さまにふらんすご
おしえていただきます、
心温かきメールくださいます

素晴らしい出会い
ありがとうございます

聖ひるでがるど
クリスタルヒーラーとしてお手本です
あまりしらないのですが

もっとお勉強頑張ります

良いひーらーとして何か
いのりとともに
越えていきたいです


すくるししんぷさまのおかげです

感謝

378Sekko:2009/05/06(水) 19:33:30
お返事遅れてすみません
 日本に行っていて戻ってきたところで、時間が取れなくてすみませんでした。
 この掲示板の書き込み通知がうまく届かなくなって、時々チェックしているのですが、チェックしない時に限ってお便りが・・・すみません。

 岡田京子さま

 リッタ・バセ(Lytta Basset)の本は今のところフランス語しかないように思います。息子との消えることのない関係について書いた本は、

 http://livre.fnac.com/a1990744/Lytta-Basset-Un-lien-qui-ne-meurt-jamais?Mn=-1&Ra=-1&To=0&Nu=1&Fr=3

 で見ることができ、第一章はフランス語ならネット上で読めるようになっています。

 子供の死は親にとってあまりにもつらいことで、自死となると、なおさら、怒りの持って行き場がなく、自分が罪悪感に捕らわれます。子供を失った方すべてに、「あなたは悪くない」、と伝えたいです。

 いつも最悪のケースを想定してあれこれ考えるタイプの私は、自分の子供の自死よりも悪いことは、自分の子供が他人の命を殺めることだと気づいてから、少し落ち着きました。無差別殺傷した挙句に自死したり死刑を望んだりする人の親の心を思うと、そのつらさはさすがの私でも想像を絶するものです。


 小児皮膚科病棟に勤めていた私の娘に言わせると、最悪の病気は全身の皮膚が過度に脆い遺伝子病だそうで、そういう子供たちは、たえず全身が痛く傷だらけで、口内も傷つくので飲食ができず、ずっと胃からの管栄養だけで生きていて、対症療法以外に治る見込みはないので、親たちはずっと罪悪感に苛まれるそうです。

 体が死んでも魂は残るという考えでなく存在とはもともとこちら側の世界とあちら側の世界でペアになっているもので、こちら側が失われてもあちら側との絆は永遠に残るというリッタ・バセの考えは、喪失への向き合い方を変えてくれます。でも、実際に子供さんを亡くされた方は、その「空虚」をご自分の中に抱え込んでその中に身を投じるような期間を過ごすもので、自分の中に最初からあって消えることのない「子供のもうひとつの存在のあり方」との絆を封印してしまいがちなのです。

 バセの本には、金色の野の花が語りかけてくれるのを感じた時に、その封印が解けて、亡くなった子供との絆を回復できた母親の話が出てきます。お友だちも、大きな命につながっているような小さな自然に目を向けられたら、自分を閉じ込めている空虚の穴から抜け出すきっかけになるかもしれません。

 岡田さんのようなお友だちの存在も、じわじわと、彼女の助けになると思います。どうか寄り添ってあげてください。

 いつかバセの本を翻訳する時が来るかもしれません。

 野口志世さま

 お便りありがとうございます。

 実はこの頃急に、「気の流れ」みたいなものが実感されるようになったので(今までは、そういうのはイマジネーションの産物だと思っていたのですが)、ヒーラーというのはあり得るんだなあ、と感じます。でも、情報にノイズが多すぎて、「こちら側」で処理される時にはなんだか変な方向に行ったり玉石混交というか、あやしいものがほとんどになるんでしょう。それに、多少なりとも有効なヒーラーって、消耗も多そうだし、お気をつけください。目の前の他者との共感力の強い人と、もっと集合的なものとの共感力が強い人と、二つのタイプに分けられるような気もします。ヒルデガルドなんかはリーダーとしても神秘家としてもすぐれていたみたいですね。
 でも、そんな人になれるかはもちろん、運良くそんな人にめぐり合う可能性だって普通はあり得ないので、私はどちらかというと不公平感に悩んでしまいます。まあ、生き方、苦しみ方、小さな喜びや、死に方も含めて、その人それぞれの命のあり方なんだと思って、比較や仮定はしない方が無難ですけど。

 迷える大羊さま、

 弱者救済や、富の分配という点においてキリスト教がいわゆる左翼と親和性があるのは当然だと思います。
 でも、左翼イデオロギーでは暴力革命や敵の打倒という急進的な形で「今ここで」平等や彼らの理想を実現しようという、短絡的なプログラムと化していたり、左右を問わず内部の権力争いなどの誘惑に駆られて逸脱していることが多いわけで、そのへんを見極めたり常に自戒していないと、「共闘」というのはキリスト教的な道からどんどん外れるんでしょうね。
 しかし、もともと西洋近代政治の概念である右とか左とかを、キリスト教内部を分断するようなレッテル付けに転用することがそもそもの間違いであると私は思います。
 そのへんのところを、一部、5月10日発売の『カトリック生活』のパウロ特集で書きました。チャンスがあったら読んでください。
 右とか左とかいう立ち居地そのものは、それぞれの人の育った国とか環境によって変わってくるもので、それを絶対のものとして意見の異なる人を排除したりする傾向は、信仰に関するすべてを貧しくするものだと思います。

 そのうち又ゆっくり書きますね。私の訳した『自由人イエス』という本が秋頃出る予定なので、それもお知らせします。

379:2009/05/09(土) 15:32:11
Paraguay
パラグアイの大統領に、カトリック司教が就任したことの記事拝読しました。当方ブログに
リンクを貼りました。http://tokyonotes.cocolog-nifty.com

それから、バチカンの司祭職は辞めなくてもいいことになったと聞きましたが。

http://tokyonotes.cocolog-nifty.com

380:2009/05/09(土) 19:11:30
(無題)
憧れの竹下様
今お返事拝見しよろこびかんしゃにつつまれております。
聖ひるでがるど
聖テレーズ
聖マリア様にいのり
もっとたかまってすみわたり
少しでも良いクリスタルヒーリングしたいです。

勇気いただきありがとうございます。
ペールポールに報告いたします

381Sekko:2009/05/10(日) 01:11:34
Orwellさま
 ありがとうございます。その注目のルゴ元司教なのですが、一応司祭活動は停止状態のままですが、就任1年になる最近「隠し子」で話題になりました。一人の子供を認知して、責任をとると言いましたが、他にも続々名乗りをあげる女性がいるみたいです。関係のあったのは司教時代であったはずであること、もし複数の女性との隠し子を認めるなら、司祭の独身だけでなく、一夫一妻も裏切るわけで、裏切ってないのは避妊しなかったところだけ?なんて言われています。
 汚職や政治的腐敗とは又別なんでしょうし、文化も違うのかなあなんて思いますが、まあ、スキャンダルとはいっても、フランスに聞えてくる限りでは、ピューリタン的非難はされていないので、政治生命には影響ないかもしれません。個人的な部分は分りませんが、人間的であるところや博愛精神って、カリスマ性を発揮すると女性にもてたり、そっちの方に行ってしまうこともあるのかなあ、とちょっと複雑な気分になっていたところです。わざわざ話題に取り上げないつもりでしたが、今お便りをいただいたので、一応御報告です。
 このサイトの更新は、掲示板以外は目下ブログの方(お知らせのコーナーにリンクがあります)にまわっています。

 世界の構造的貧困を是正するには、既成の観念を打ち破るような根本的な考え方の変革が必要なんだとは思いますが・・・自立自尊の国同士がいかに連帯するかということで、それには、自立や自尊を奪われている国をまず援けることも必要かと思います。依存でない連帯が理想なんですが・・

382vino:2009/05/18(月) 11:41:11
右やら左やらではもはやないと・・・
新型インフルエンザ、とても心配ですね。さて、この春から関東人になりました、VINOです。<鬼が出るか蛇が出るか>・・・のかつての教会に帰って来ました(笑) 思えば、昨年のアメリカの大統領選、今までになく色々な事を考えた次第で、この時期、ダン・ブラウンの映画が<ブッシュ>とほぼ同時期に公開・・・笑えます。すっかり性格が悪くなってしまった事を自覚しつつ、書かせて頂きます。  私が出会った幾人かの濃いクリスチャンは<政治としんこうは別!>と仰いますが、私には<関係あるようにしているのは誰?>の思いがぬぐえません。  大羊さんの奥様の国歌やらなんやらには単にキリスト教以外をばっさりと否定する方向性ではないかと思うのですが。 むしろ、彼らの方向性はとてもアメリカ的にかんじますよ。今は反アラブで盛り上がってますし、かつては反共で求心力をKEEPしていた事は容易に判ります。中国の食の問題でも<共産主義が悪いのよ>の一言ですべてオシマイです。 確かに宗教を否定の共産主義ですから、その一言も判りはしますが、SEKKOさんの言葉にもあるように<弱者救済>と重なるわけで、きっと、どんな主義主張も宗教も立派な思いから始めても性悪の人間が始めるとしょせん以たり拠ったりの結果なのかなと思っちゃいます。  さらに濃い目の方々はしょせん、人間・・・なる意識は薄いですね。自分達は神から選ばれた特別のもの、人は神が作られた特別のもの・・・なわけですからね。洗礼を受ける事をそれはことさらに<救われる>とのたまいます。クリスチャンが原罪意識を忘れてどうする?と思っちゃう私です。 アメリカ人はゴミの問題なぞあまり考えないようですし、大量に作って買って、捨てて、地球もつのかしら?

383vino:2009/05/18(月) 11:41:45
右やら左やらではもはやないと・・・
新型インフルエンザ、とても心配ですね。さて、この春から関東人になりました、VINOです。<鬼が出るか蛇が出るか>・・・のかつての教会に帰って来ました(笑) 思えば、昨年のアメリカの大統領選、今までになく色々な事を考えた次第で、この時期、ダン・ブラウンの映画が<ブッシュ>とほぼ同時期に公開・・・笑えます。すっかり性格が悪くなってしまった事を自覚しつつ、書かせて頂きます。  私が出会った幾人かの濃いクリスチャンは<政治としんこうは別!>と仰いますが、私には<関係あるようにしているのは誰?>の思いがぬぐえません。  大羊さんの奥様の国歌やらなんやらには単にキリスト教以外をばっさりと否定する方向性ではないかと思うのですが。 むしろ、彼らの方向性はとてもアメリカ的にかんじますよ。今は反アラブで盛り上がってますし、かつては反共で求心力をKEEPしていた事は容易に判ります。中国の食の問題でも<共産主義が悪いのよ>の一言ですべてオシマイです。 確かに宗教を否定の共産主義ですから、その一言も判りはしますが、

384:2009/05/21(木) 18:31:20
うれしい昨日
節子先生
きのう
スクルス神父様のところにお邪魔しました・
あいにくお忙しくフランス語は勉強なく
いつも心の深ーいおはなしに
ごそうだんさせていただき
ペールポール
はたからの父です。

節子先生のことが大好きで
本の表紙ぶんかくのってよろこんでおられました。
ブルカルト神父
が私のお父さんですが
二人の神父にまもられ
千里でたくましく安心して暮らしております。

すくるすしんぷさまに
エゾてリズムをソルボンヌではかせごうとられているとききました。

神秘宗教
どんなものか教えてください
秘密宗教でした

猫足ロココ
猫がだいすきなヒーラーです。

385迷える大羊:2009/05/25(月) 23:17:51
(無題)
 皆さん、お相手いつも恐れ入ります。

>単にキリスト教以外をばっさりと否定する方向性ではないかと思うのですが

 多分そうかも、とは思いますけどね。上層部はともかく、個々のクリスチャンのサイレントマジョリティはノンポリがほとんどと思われますから・・。

 ただ、欧米で熱心なクリスチャンというと日本と逆で大抵、政治的には右というか保守派ですよね。アメリカがいい例ですし、カトリック教会も世界的、全体的には反共ですよね、何しろ冷戦のさなかにポーランド出身の教皇を推し立てるのですから・・。単にマジョリティか、マイノリティかの差かしら?もちろん、あまり決めつけるのもなんですが。

 ただ、イエス自身は有名な「カエサルのものはカエサル、神のものは神に」という言葉に代表されるように、また、いくら煽られても政治的言動は一切行わなかったですよね。慧眼だと思います。マザーテレサもそのあたりのケジメはしっかりしてました。
 全くの独断と偏見ですが、私の知る限りだと救世軍なんか、マトモだったかな?日本のキリスト教会にありがちな、年月日の記載に元号をヒステリックに排除する、なんてこともしてませんし。

386迷える大羊:2009/05/25(月) 23:34:13
ダン・ブラウン「天使と悪魔」
VINOさんの話にも出た、「天使と悪魔」、映画観ました。お話はかつて中世にカトリック教会より弾圧を受け、地下にもぐった科学者集団、イルミナティがなぜか現代に復活。反物質分子を奪い、枢機卿を拉致監禁、バチカンへの復讐を果たすべく、行動を開始、ここに例によってラングドン教授参上・・、といったお馴染みのストーリー。

 このラングドン教授シリーズってどうも前から何か不思議な既視感があったのですが、ある時、はっと思いだしたのは我が国の誇る探偵小説、横溝正史の「金田一耕助シリーズ」ですね。「八つ墓村」とか「悪霊島」、「悪魔が来たりて笛を吹く」とか、のあのノリ。

おどろおどろしい、因習渦巻く戦前、あるいは戦後間もない地方の村、そこに伝わる裏面史、伝説。そして伝説を前フリとして起こるおぞましくも残虐な殺人の数々・・。

 ダン・ブラウンのラングレン教授ものにおける「因習渦巻く地方の村」はキリスト教会、それも、いかにも、といった趣のあるカトリック。「村の伝説、裏面史」に相当するのが「キリスト教裏面史」、で「イルミナリティ」とか「なんとか騎士団」とか「イエスとマグダラのマリアはデキてる」などというお話ですね。

 金田一耕助もラングドン教授も殺人防御率が低いことも共通。「天使と悪魔」ではそれが顕著。あと、犯人に自殺されて、無傷で捕えられない、とか・・。
 ただ、金田一とラングレン教授の違いはラングレンがキリスト教、カトリックという世界最大の宗教団体が絡んでいるために騒ぎが少々が大きくなっていることくらいでしょうか。

まあ、なんだかんだいってカトリック教会は寛大な気もします。これだけイジられても動じないのですから(さすがに撮影協力などはしてないようですが・・・w)。これまた我が国が誇る殺し屋、スナイパーのゴルゴ13も、キリスト教はカトリックだけじゃないことぐらいわかってるでしょうに、キリスト教とか教会といえば必ずカトリックを出してくるし、幾度となくヴァチカンから依頼を受けてるし・・。
 カトリックは都市伝説の吹きだまり、ゴミ捨て場かい!って感じです。

 まあ、ビジュアル面とその歴史の厚さが魅力的である、好意的に解釈すればそういうことになるのかもしれませんけど・・・。

 あと冒頭の枢機卿の会議になぜか「タカハシ」なる日本人枢機卿が登場(話の本筋にはほとんど関係ないけども)。作者は日本のクリスチャンは1%未満、カトリック信徒はわずか0.4%、その辺の新興宗教以下の信徒数であることを知ったらなんと思うやら・・。

387Sekko:2009/06/11(木) 00:50:18
天使と悪魔
 迷える大羊さん、

 私も、「タカハシ」に反応しましたよ。昔は「ヤマモト」が一番だったけど、ちょっと進化したなあ、と思って。

 昔、ゴルゴ13のヴァチカンもので、背景説明が全く私の『ローマ法王』からそのままコピーというのがありました。まあ、別にそれは単なる情報なんで、私のオリジナルとかじゃないからいいんですけど、さすがに著者の私は、あれ、丸うつしだなあ、と思いました。(別に嫌じゃなくてメジャー感を抱きましたけど・・ゴルゴ13のお役にたてたのかって。)

 カトリックってちょっと自虐史観ありかもしれません。あちこちでひどいこと言われてるけど、あまり文句つけたら、十字軍だの異端審問のこと持ち出されて薮蛇になるかも、っていうんで。カトリック教会自体が偶像化した時代もありましたからね。

 ラングドン教授の殺人防御率が低いってのも笑えます。私も、「また2分前かい、気づくの遅すぎ」って。「他人事?」ながら、見ててイライラしました。トム・ハンクスがよく我慢してあんなつまらないのに懲りずにでてるなあとか。

388Sekko:2009/06/11(木) 01:06:54
野口志世 さま
 野口さま。

 私がエゾテリズムに興味を持ったのは、キリスト教や西洋近代の確立の中でその受容がどういう意味を持ったのかという点なんですよ。
 西洋キリスト教の発展の中では、キリスト教の源流のオリエント的なもの(バビロンとかエジプトとかパレスチナとか、ギリシャまで)が、なんとなく全部影に押し込められた時代が長かったですし。

 『レオナルド・ダ・ヴィンチ 伝説の虚実 』中央公論新社という本で、エゾテリズムの流れが、今もいかに影響を与えているかの例を書いています。良かったらお読みください。

 個人的には、いまや、すべての「秘密」なんたら、というのには警戒心の方が強いです。この世では、すべての真理が明らかにはならないし、秘められていることも多いし、秘められていてこそ機能するものも多いと思います。説明や証明もできないことを切り捨てていては世界は成り立たないし。
 ただ、「自分だけが」あるいは「自分たちだけが」、「秘められた真実」を知っているとか所有しているとかいう考え方は、閉鎖的、排他的、独善的になりやすいから、もうそれだけで、「真実」が捻じ曲げられてるような気がするんですよ。

 スクルス神父さまはそういうことと全く反対の方ですから、いい方に会われて良かったですね。力をいただいて、それを他の方の癒しにどうぞ役立ててください。神父様が序文をお書きになった『自由人イエス』は、この秋にドン・ボスコ社から発売予定です。いい本ですよ。是非どうぞ。

389迷える大羊:2009/06/18(木) 21:29:22
ゴルゴとキリスト教
>ゴルゴ13のヴァチカンもので、背景説明が全く私の『ローマ法王』からそのままコピーというのがありました

 もしかして、中国とカトリック教会の関係がちょっと出てきた話かですかね?うろ覚えですが、メインテーマは確か中国の新興宗教と中国共産党とのからみでした。
 これまで、「ゴルゴ13」なんて思いっきりキリスト教ネタのタイトルなのにキリスト教描写が結構適当なところがあったんで、オヤ?と思ったものでした。「ゴルゴ13」中のヴァチカンは人身売買組織のボスをゴルゴに依頼して、始末したり、ゴルゴの影武者をいつの間にか造ってたり、なかなかアクティブな組織で、ゴルゴ13の良き顧客となっている模様です。

 まあ、日本の劇画やドラマに出てくるキリスト教っていい加減ですよね。妻子持ちの神父だとか、モグリの神父だとか(単立教会があり得ないカトリックでは不可能では?)がでてきたり、いつでもどこでもやたらと「神、神」を連呼したり、ちょっと変人なのでは?と思うくらい、「品行方正」だったり・・・。

390あがるま:2009/06/22(月) 13:32:46
ラディスラフ・クリマ
についてブロッグで書かれて居るのを拝見しました。
エリカ・アブラムさんはパトチカの翻訳者なのですね。
成る可く解り易い彼の著作としては何をお奨めになりますか?
Deus sumは手に這入るのですか?
触りのあたりでも日本語で書いて戴ければ有り難いのですが。

391Sekko:2009/06/23(火) 23:48:31
こんにちは
 あがるまさん、こんにちは。

 クリマのソリプシスムの真髄は、日記と書簡で全部分ります。書簡といっても、彼の信奉者からの個人的援助に応えて論文を送っていたわけです。フランス語版は手に入ります。

 http://livre.fnac.com/a1603340/Ladislav-Klima-Oeuvres-completes?Mn=-1&Ra=-1&To=0&Nu=4&Fr=3

 でも、高くて分厚くすごく読みにくいです。

 今の仕事が一段落したら触りを紹介したいですが。それにはもう少し読みこまなくては。エリカからPCで送ってもらったものも、私は読むと肩が凝り、目がかすみ、これほど魅力的でなかったらもうとっくにギブアップしているところです。

 もうひとつの問題点は、この間、チェコの人と話したら、そもそもエリカ(の夫)が冷戦中にクリマの手稿をチェコから持ち出したことに対してすごい不信感と敵意を持たれました。その辺も含めてクリマの本格研究はけっこう微妙です。

 ドイツ語ラテン語ギリシャ語も混じっていますがそれはあがるまさんなら問題ないでしょうし、チェコ語がOKならもっと嬉しいです。ただ、彼のようなタイプの思想の読み解きには、キリスト教とヨーロッパ中心主義の幻想と伝統の葛藤をかなり体感していることが必要かもしれません。まあ知性の腕力(って矛盾ですが)さえ強靭なら大丈夫でしょう。後は感性の問題ですが、私のブログからクリマをたどってここまで来て下さったということは、すでに、「仲間」だなあと思います。

 あがるまさんがクリマの思想を分析してくださって、エリカと違う視点で他と関連づけてくださればすごく嬉しいのですが。

 私はクリマの研究をするより紹介し、自分がクリマ風ソリプシストになって、今の世界の文脈の中で別の論を展開してみたいと思います。できたら「生き方」も。

 そのうちクリマ専門の紹介ブログをつくって、サークルができるものか見てみたいですね。

392あがるま:2009/06/25(木) 07:38:37
九鬼周造
に関する論文でパリでF.ダステュールの許で学位を取つたサイトーさんと云ふ方の話を大分前に聞いたことがありますがネット上での噂は聞きません。
日本語で著作を発表された様子もありませんが、中村弓子?の本の後書きで彼女の名前が記載されて居たのを見た気もします。
竹下さんなら、お年や在仏期間からご存知かも知れません。
日本には帰らずに現地で学者人生を送る方も沢山居られるのでせう。

393Sekko:2009/06/26(金) 06:24:18
日本人の研究者や
 学者の方とはほとんど交流がありません。ずっと昔からいて、こっちの大学で勤め上げて、引退して日本語もほとんど話さない方もたまにいます。
 日本のような国と、ヨーロッパではかなり歴史の接点が少ないので、両方に足を置いていないと、距離のとり方が難しくなって見えてこないことも多くなります。クリマと今のチェコの関係も、東ドイツでずっと排斥されていたニーチェが冷戦後急に「真のヨーロッパ人」としてもてはやされたように、政治的反動もいろいろありますから。ヨーロッパは特に、第一次大戦と第二次大戦の傷と、互いの移民関係とが重なり合って、哲学や宗教のトレンドにも強い影響を与えているのです。その辺のニュアンスや事情を知ってはじめて腑に落ちるようなことも、いまだにいろいろあります。

 今は、クリマのソリプシスムは正教のヘカシズムと大いに関係があるのではないかと思っているところです。エックハルトなんかをクリマがどう読んでいたのか、次にエリカに聞いてみます。無神論にはいくつか種類があって、「神と合一=自分が神になる=無になる」という神秘主義的無神論とクリマのソリプシズムは親和性があると思うのですが、彼自身が膨大な理論を構築しているのをまず読まないとなんとも言えません。私の考えは大体エリカによって承認されているので大筋は外れていないと思うのですが・・・
 今のところあまりお役に立てなくてすみません。

394あがるま:2009/06/26(金) 14:41:49
パラミズム
ご丁寧に何度も有難うございます。
神秘主義や東方教会よりも、ダスチュール→現象学(九鬼、パトチカ、ロンバッハ)→クザヌス云ふ聯関がありさうですが、クザヌスとエックハルトの関係を、詳しく辿る知識がないので申し訳ありません。
グレゴリオス・パラマスをダシにして、初めて集合論を学んだ高校生が思ひつきさうな本を書き笑殺された方も居られます。
日本では(キリスト教や)古典的形而上学の原理が理解されて居ないのか、簡単に欧米の哲学が超越されて、独自の『思想』が樹立されます。
ディスクールなどと云ふ言葉が盛んに使はれてもその本来の意味(概念的思惟)を分つて使つて居るのか?高橋里美や九鬼周造などフッセルから直接間接に学んだ連中は分つて居たと思ひますが。
最近でも水村美苗が、日本語は滅びると云つても、日本には古典とかカノンと云ふ概念がないために何が主題なのか分らなくて見当違ひのことが云はれて居るやうです。
日本の学校教育の缺陥が問題になるのでせう。

395Sekko:2009/06/29(月) 20:46:06
パラマスとクリマ
実は今、クリマのソリプシズムをパラマスとひそかにすり合わせているのです。
 クリマのソリプシズムを、宗教神秘主義の中で理解しようと思ったら、Filioque はやはりまずいと思うんですよ。じゃあ、Hus や Wiklif はどうだったんだということも当然見なければならないし・・・

 太陽が、直接見えないけれど父的本質であって、聖霊と子はその働きとしてキャッチ可能な光線だというパラマス的イメージはすごくよく分かるんですよ。
 クリマのソリプシズムでは、私も神、あなたも神、という神の関係性があり、しかも、それはひとつの全体だというのがあって、それは、光線と光線源を分けないと(切り離すというわけではない)不可能です。集合論的に、たとえば、部分集合でも無限である(偶数習合とか)というたとえは、読むと「おおっ」と思うんですが、生き方に適用するとリアリティを失うし。クリマのソリプシズムはそのまま彼の生き方だったのがすごいんですけれど。

 まあ、今のところ、もう少し読み込んで、人に紹介できる程度になってからまた書かせていただきます。

396あがるま:2009/06/30(火) 00:26:32
theosisも
クザヌスのcontractioも碌に知らないのでまともな応答もできないのですが、アウグスティヌスの三位一体論が人間の(志向的)意識をモデルとした、極端な人間中心主義=solipsismeであることを思ひ出せば良いのではないかと思ひます。
八木雄二『中世哲学への招待』でドゥンス・スコトゥス論の三位一体論は認識論であり、『父なる神』は認識の起源=記憶、『子なる神』はロゴス=理知で、聖霊は愛=意志である、と云ふ興味深い指摘がありました。でも何故か彼はそれをアウグスティヌスと結びつけることはしませんでした。
フッセルなら父=志向対象、子=志向内容、聖霊=志向作用とでもしたかも知れません。
差異性は同一性に対立する差異ではなくて同一性の差異化(Rombach)、とでも云ふのか?

397Sekko:2009/06/30(火) 21:41:23
Vladimir Soloviev
 昨日エリカに話したんですが、私がクリマの中にヘシカスムを見るのは自由だが、クリマは自分が東方的な神秘主義とは違うことを強調していたそうなんです。Vladimir Soloviev を批判している膨大な論考をpdfで送りつけてきました。クリマは一切の関係性を拒否していたというのです。まあ確かにそうでないと、ソリプシストとはよべませんが・・・独我論と我神論の比較論考も残しています。エリカとの話をまたブログの方に備忘メモしておきます。パトチカは、クリマの論理学を評価した文を残してるそうです。でも、たいていのチェコ人は、クリマを文学者の枠に閉じ込めるか、黙殺しようとしているのです。クンデラとかも。自由世界でどう売り込みどう生き残るかが最大の関心みたいですね。

398あがるま:2009/07/02(木) 13:10:21
(無題)
クリマの文章を一行も見たことがないのでは話にもならないので
耶無を得ず周辺から近づくしかないのですが、
クリマがショーペンハウアー(=カント)やバークレーの信奉者であつた処を見ると、人間は(神や天使と違つて)真善美などの超越範疇の知的直観を持たないのでdiskursiv ― これを橋里美は『分散的』と訳して居ますが、それは多分この言葉がdiscret(密接しないで離れて立つ)から来るからでせう ― な概念を使用して、主語と述語動詞と補語を文法により縫ひ併せるしかない。そして範疇やその命題Satzが現実存在に如何にして適用され得るかは、法学的な実践(日本語では権利問題と訳して居るので解りにくいが)や図式論によつて視覚的に説明するしかない。
しかし真についての知的直観はないが、美や善については神ならぬ人間にも直観はある。(純理批判には(難解な)図式論は必須だが、美的判断力や倫理の批判には必要がない所以です)。
一挙に対象を把握してしまふ直観は常に感覚的でその対象を持つはずですが、痛みとかオルガスムは志向対象のない感覚で、山上の体験を一般的な経験として説明することはそれ自体論理的矛盾になりさうです。

399あがるま:2009/07/06(月) 17:58:43
パトチカ(
カンディンスキ(その先生はF.シュトック)と云へばガブリエレ・ミュンター ― 坂崎乙郎が女性画家として唯一認めた。
彼らが共同生活をして居たムルナウと云ふ場所は列車で通つただけですが、湖(シュタッフェル湖と云ふらしい)が美しくて途中下車してみたい町でした。
さう云へばカンディンスキはR.シュタイナーの信奉者でもありました。
05/07/09

<自己が世界の現出Erscheinungの可能性の制約MoeglichkeitsBedingungであり、世界が自己の現出の制約であるが、自我的egologischなものは普遍的な現出構造ErscheinungsStrukturを組織化する中心点にすぎない>(新田義弘『現象学』から。 多分Patocka, La monde naturel comme probleme philosophique.1976から。ドイツ語は適当に入れた)
と云ふものであれば、意味と存在の次元の区別が不十分としても、(他者との)関係を拒否する訳はありませんね。04.07.09

400あがるま:2009/07/08(水) 12:32:51
バッハの
『Wohltempeliert』esKlavierを『平均律』ピアノ曲集と云ふから両者は同じものかと思つてゐたら、Wikiによれば違ふものらしい。
『純正』調は(イデアの世界だけで)現実には(竹下流に云へば身体的には)在り得ないもので、皆少しづつ調子が違ふからこそ美しいハーモニーが奏でられのでは?

401Sekko:2009/07/08(水) 18:44:43
バッハのことなど
 ブログのご愛読ありがとうございます。

 シュタイナーの絵も見ましたが、当時はどう評価されたか知りませんが、古いなあ、という印象を免れませんでした。カンディンスキーはさすがに古くない。いろいろなところに書きましたが、私が絵を観る時の基準は、それをベッドのそばにかけるとして、毎日、朝目覚めた時に一番に目に入るもの、夜寝るときに最後に目に入るものだと想定し、それに耐えられるか、というのと、地球が滅びたとして、宇宙船で別の惑星に向かう時、たった一つの絵を「地球の生命」というタイトルで持っていけるとしたらそれを選べるか、というのと2種類あります。私の場合、何かそうなると、形より、色が大事になるかもしれません。色のない世界って辛いです。カンディンスキーは別にすごく好きな画家ではなかったのですが、今回見て、宇宙脱出するなら晩年の作品を一つ、って思いましたね。ミュンターとの付き合い方には、あまりいい感じは持ってないんですよ。アーティストのカップルというのはやはりどちらかがどちらかを潰すことが多く、そこにさらにジェンダーがからんで、複雑です。
 バッハのこととかについてはブログでまた少し続きを書きました。

402あがるま:2009/07/30(木) 14:45:08
超・異端
現代新書の『ジャンヌ・ダルク − 超異端の聖女』を通読しました。
彼女についてはミシュレや高山一彦の簡単な本しか読んだことはありませんでしたが、
「正統と異端のパラドックスの中をぐるぐる廻る私」と仰る通りとても面白く興味深く、また複雑なものですね。うまく概念的に分節されたものだと感心します。

J.ル・ゴッフの提唱するPara-Heregieと云ふ基礎概念の、異端heregieを「選択」と云ふほどの意味(34頁)と書かれて居るので、ラテン語のheresis(haeresis)はギリシア語の(di)hairesisをのまま使つたので、「(二つに)分離する」と云ふ意味で現代語で言ふ「セクト」のことだと思つて居たのですが、慥かに古典語の辞書には「選挙・選択」と云ふ意味が載つて居ました。

またギリシア語のparaは「傍らに」と云ふ意味で、「(河を)超へて」と云ふ意味のラテン語のtransとは明らかに違ふし、ル・ゴッフも両綴にギリシア語を使つて居るが、日本語ではpara-psychologyを超心理学と云ふ様に「trans超」と「para副次的」は(戯画的に)混同されることもある様です。(フランスの大学の科目たるprapsychologieは米国のとは別物なのでせう)
第一哲学たる存在論ontologieに対する 本質論ousiologieや神学theologieが副次para的なものの典型でせうか?
「柄(正統)と地(異端)」を超へた「地平(超・異端)」、の言外には超越範疇transcendentalia(ト・ヘン一者たる神)が透かし見えるやうです。より現実的な登場人物の傍らで、ジャンヌは已然として、お伽噺と云ふ印象です。
30.07.09

403あがるま:2009/08/09(日) 00:48:48
flocci-nauci-nihili-pili-fication
<生物の種も惑星にも太陽系にも宇宙にも寿命があって、そのスパンの中で考えるだけでも、個人の生などは、絶対の無意味でしかない。floccinaucinihilipilification。
これがポストモダンのニヒリズムであり、「神の死」である。>

明らかにこれは間違つてゐる、ハイデッガーは「人間は宇宙の大きさに較べては微小な無のき如きものである」などと言つた訳ではない。
細谷貞雄は夙に渡邊二郎のそのやうな単純な誤解を指摘した。
まして死が永遠の代替物だとも思へない。個体にはすべて始めと終はりがあるのは、それが有限で形を持つてゐるからだらう。

パラ・ヘレジーは日本語では「エセ似非・異端」とでも云ふべきか。

404Sekko:2009/08/09(日) 06:47:30
para と trans など
 ええと、ブログで書いたことは文脈を省略した断片なので、言葉が足らなかったと思いますが、ハイデッガーのことは全く頭にありませんでした。
 ちょうど扱っていたところが、Martin Rees と Richard Dawkins の無神論だったので、ああいう言い方になったのです。ハイデッガーは全然別物だと思っていますし、私はむしろ、ハイデッガーは、ポストモダンというより、形を変えたモダンの系譜じゃないかと感じています。フランス実存主義の哲学者たちも、反教権主義は別としても、ニヒリズムと背中合わせの無神論とは違うんじゃないかと。まあ、この辺は、長くなるんで、いつかちゃんとまとめてみたいですが・・
 実は、Martin Rees なんかのこの考え方は、solipsisme historique 批判なんです。「今ここ」だけ主義の批判なんで、「今ここ」だけ主義というものが、「永遠に死ぬ=つまり生まれ変わりとか復活とか死後の世界がない」ことに対する恐怖から生まれていると見ているんで、結果的に「永遠の否定」にもなってるのが逆説的なんでおもしろいんですが。分りにくいかもしれませんが・・・
 私個人は、「死=しょうがない」という感慨しかないんですけど。
 個体には、終わりは確かにあって有限だけど、初めはどこが最初か確実には遡れないので、始まりの方が無限だ、って言ってる遺伝学者がいましたが、それもなあ、別に慰めにはなんないです。若い時に無神論者でも死が近づくと不可知論者っていうのは、若い時の革命家が中年になってブルジョワ左派になるように、多分、イデオロギーの一種なのかも。
 私は「今ここ」の管理すらも上手くいかないんで、procrastination、神とか死とか偉そうに言えません。

 パラとトランスの訳ですが、確かに、パラは「併行」とかのニュアンスを出すべきだと思ったのですが、ご指摘のように、パラプシコロジーが超心理学と通常訳されているのを知っていたので、語感もいいし、あがるまさんがおっしゃってくださったように、transcendance をイメージしたかったのです。その意味では、成功したかと思います。でも例えば、paramedecine なんかは明らかに「代替医療」なんですよね。alterとかじゃなくても。後、metanoia という時のメタというのも、しっくりきません。まあ、パラエレジーもそうでししたが、カタカナを示すことで、ある程度類推してもらえると思っていますが。

405あがるま:2009/08/12(水) 02:34:48
ポスト・モデルネ
と云ふ概念を知りませんが、『近代(主義)』と云ふのを一番良く定義して居るのはバルトなどのプロテスタント神学でそれは『AnthropoZentrik人間中心(主義)』と云ふことだと習ひました。大分前には『post-historic』と言つたものかも知れません。
Stanford Encyclopedy of philosophyが一番良く説明してある様ですが、ハバマスが云ふやうに自己言及的なもので、自分の論拠を破壊してしまふものでせうか。
http://poznejsamsebe.wz.cz/filosofie_ladislava_klimy.pdf
でDavid Seterleの Filosofie Ladislava Klimyと云ふのを見つけました。40ページくらいの文章ですから私もチェコ語が解れば良いのですが。

406迷える大羊:2009/08/23(日) 21:51:59
キリスト教の「救い」とは?
 これまで、キリスト教に関して、いろいろ質問させていただきましたが、実はキリスト教に関して一番肝心な部分がどうしても理解できないでいます。

 何かといいますと、イエスは救世主、といいますが、一体、何から「救った」のか?ということで。これが私にとってはわかったようで、わかりません。

 そりゃまあ、信徒一人一人、個人単位でみれば、いろいろあるでしょう。たとえば肉親が亡くなって悲嘆にくれているところを癒された、とか、信じたら、心が楽になったとか、仕事や人生がいい方向に向かいだしたとか・・・etc。

 でも、これらは、当人にとっては重大なのでしょうが、その救いはあくまで個人単位でのことだし、客観的にみれば、別にイエスでないと、というものでもない。、心が弱った時、悩んでいるときにたまたま出会った救いがキリスト教だったに過ぎない、極端かつ失礼な話、オウムに出会っておればオウムに流れてしまったんじゃ?と思ったりもします。

 キリスト教によって救われた、と思える場合でも、実態としては、イエスとかキリスト教というよりは親切で人柄のいい牧師さんとか神父さん、信者、教会関係者に助けられた、といったものが多いんじゃないかなぁ、と。

 もちろん、信じたら借金が消えた、長年の持病が治ったとかいういわゆる「現世利益」を保障する存在とも違いますし、ローマ帝国を蹴散らし、ユダヤの地を解放・・といった旧約聖書タイプの政治・軍事的なヒーロー、救い主、という役回りもイエス自身が福音書の中で否定してるし・・。

 大体、ローマ時代のイスラエルって客観的にみて、どうしようもなく酷かったか?というとそうでもないような気もします。ローマ支配下、といってもある程度の自治権は保障されていたし、民族宗教(ユダヤ教)を信仰する権利も守られていたみたいだし、他のローマの属領、植民地に比べれば、だいぶマシな状況であるように思えます。現代でも、例えばチベットとかもっと悲惨な支配にさらされている地はいくらでもありそうな。

 この程度の状況で「救世主を」なんていっていたんでは、他のもっと悲惨な状況にある地域の住民からは「ケッ」っていわれそうですし、所詮はユダヤ人だけの都合に過ぎませんし・・。

 個人単位ではなく、キリスト教全体の立場として、イエスは何から信者を救った、ということになっているのでしょうか?
 特にイエスの直弟子、初期クリスチャンは具体的に何から救われた、解放された、と思って、強力なパワーだとかエネルギーを得たんでしょうか?

407迷える大羊:2009/08/23(日) 22:32:05
ローマ帝国とキリスト教
 連続投稿失礼します。あとキリスト教に関してはローマ帝国との関係も外せないところですが。教会でパウロとか使徒とかの苦難の伝道行を聞かされると、つい「ローマ、悪い奴じゃ」と思ってしまいがちですけど、私なんかは、根が天の邪鬼なのか、逆にローマ帝国ってすごい先進国じゃないか、と思ってしまいます。

 先スレでも述べたとおり、イエス存命時のイスラエルはローマ支配下ですが、ある程度の自治権と信仰の自由は保障していて、決してローマ古来の信仰を押し付けていませんし(難しくてできなかったのかもしれませんが)。法律・裁判制度なんかも、政治的でないものはほとんど現地人に任せていたようでもありますし。古代にしてはかなり理性的な支配だな、という感じが。イエスの生まれた年には帝国全土にわたって国勢調査をやったりしてますし。

 パオロなんかもキリスト教改宗語、伝道の旅をしていますが、あの当時、ローマ帝国以外の地域で市井の一般人があれだけの旅をすることが(資金とか時間の問題はあるにせよ)可能だったのかどうか?これまた、非常に高度な法による統治と交通網が整備されていた証拠ですよね。
 また、パオロ書簡には他宗教の信者との折り合いについて書かれた部分があるけど、これまた様々な宗教が帝国内に存在可能だったということなわけで。むしろ、中世以降のヨーロッパのキリスト教以外ナシ、な状況の方が遥かにひどい。

 キリスト教もローマ時代の全期にわたって年がら年中弾圧されていたわけでなく、キリスト教嫌いの施政者が権力の座についた場合だけの散発的なものだったらしいですし。

 このキリスト教嫌いの施政者、権力者というのも、ネロのような例外、論外はありますが、決して悪辣、愚劣な人間というわけではなく、例えば五賢帝の一人、マルクス・アウレリウスとか帝政後期のディオクレアヌス帝とか、有能で責任感のある皇帝ほど、キリスト教にきつくあたっているわけで、なにやら事情は複雑、決して善悪の二元論で割り切れない気もします。
 権力者ではないけどローマ帝国きっての歴史家のタキトゥスなんて、キリスト教のことを「有害な迷信」とカルト扱いしてますし。彼だって決して偏狭な価値観の持ち主とは思えないし。

 というわけで、教会でパオロや使徒たちの苦難に満ちた伝道行や、初期クリスチャンの受けた弾圧の話を聞かされるたびに、確かにその精神力とか信仰心には感心するものの、「ローマ帝国って本当にひどいの?あの時代にしては、かなりマトモな部類に属する国家なんじゃないの?」とか、逆に「すごいなぁ、一般人があれだけの旅ができるインフラがあるなんて」とローマ帝国びいきになる私は天の邪鬼なんでしょうか?

408フランチェスカ:2009/08/29(土) 06:50:06
シュタイナーのアントロポゾフィー
初めて投稿します。
『大人のためのスピリチュアル「超」』たいへんおもしろく読みました。私自身は信者ではないのですが、宗教(特にキリスト教、そしてカトリック)に関心があり、ますますいろいろなことが知りたくなりました。
ところで、タイトルの「シュタイナーのアントロポゾフィー」ですが、エゾテリックな分野もご専門であるSekkoさんならば、ご存知でしょう。日本でも「シュタイナー教育」の名でルドルフ・シュタイナーの名は知られてきています。私も教育に関心があり、本を読み始めました。シュタイナーは、人間は身体、エーテル体、アストラル体、自我の4つから成り、最初の3つはそれぞれ鉱物界、植物界、動物界と共有するものと言っています。さらに、人間の霊魂は生前と死後は霊の世界にあり、地上においてカルマを背負い、身体に受肉する、という考えです。また、キリストというものがアントロポゾフィーにおいては、非常に重要な概念になっていて、これはシュタイナーの宇宙論ともからんで、私にはよくわからないのですが、キリスト教では異端とされるようでもあり、同時に、本質的には「正しい神秘主義」といってもよいようにも思われます。
Sekkoさんはどのように考えられますか?

409Sekko:2009/09/05(土) 08:47:08
みなさまへ
 お返事遅れてすみません。ここのところネットの接続が上手く行かなくて、今やっと回復しました。

 まず、ローマ帝国とキリスト教、ここではくわしいことは書けませんが、このテーマではいろいろな本が出ているので、興味があれば探してみてください。私は次の本で少しまとめています。
 キリスト教が、ユダヤ世界を出て普遍宗教になったのは、ローマ市民であったパウロの活躍が大きいし、ローマ的な世界観や当時の宗教事情や、政治軍事状況が関係しているので、「キリスト教が弾圧に負けずに最終的に勝利した」というような単純な話でないことはもちろんです。
 キリスト教によって何を救われたか、これもいろいろありますが、みなが当時の煩雑な宗教儀式や典礼や供物のシステムにがんじがらめになっていたのから救われた、っていう側面はあるようです。後、やはり、実存的なこと、ストア派のように肉体の死後は、魂が「宇宙=コスモス」の秩序の中に帰っていくというのでなく、肉体も魂も復活して、永遠の命をもらえる、というところが魅力だったと思います。仏教も中国を通過するうちに輪廻が消えて、みんな成仏して祖霊となるのが基本になり、さらに、成仏のための悟りや修行から、絶対他力の阿弥陀信仰と極楽往生が人気を得たように、「生前の人格を失わないままで無条件丸ごと救済」みたいな方向に流れるんでしょうか。
 しかし、もう少し掘り下げて考えると、イエスは、「救いを求める人々の心を利用して惑わせる偶像崇拝」の実情や傾向というものから、人を自由にして救ったというところが大事なので、そこのところをちゃんと説明した『自由人イエス』(クリスチャン・デュコック師、ドンボスコ社)を翻訳解説したものが10月か11月に出る予定ですのでそれをぜひ読んでみてください。


 フランチェスカさま、

 私は、シュタイナーは、昔シュタイナー教育とかリトミックによって最初に知りました。音楽と身体性や、教育について、私の考えて多少実践していることと通じるので、それには共感します。
 でも、あの辺の、つまり、19世紀後半から20世紀前半にどっと出てきた神智学とか人智学とか、つまり心霊主義とか、ブラバツキー夫人とかシュタイナーとかの一連の人々には私は偏見を持っています。
 あの頃のオリエント趣味とか、シンクレチックな諸教混交神秘主義とか、あまりにもあの時代の西洋の特別な精神状況と結びついているので、普遍性が感じられないし、その後の展開を見ても、相対化せずにはおれません。科学と宗教とか理性と信仰とかの対立をどう折り合いをつけるかという西洋近代の相克の中のヴァリエーションですが、さまざまな伝統を継ぎはぎした宇宙論にそんなに説得力があるとは思えません。
 シュタイナーの方は、一応、神智学と東洋趣味と離れたんですが、今度は西洋中心主義の方に針がふれちゃって、第一次大戦の頃にはゲルマン人の霊的優越を唱えていたみたいですし、私は一般的に、あの手の、霊的進化論が苦手なんです。霊のステージを上げて進化して救済されるなどのエリート思想も。
 シュタイナーの教育論には理想主義がそれなりにいい方に表れていますが、そして、彼が天性のアーティストであったらしいことにも好感を持ちますが。
 まあ、元が西洋キリスト教世界の人たちなんで、イエスは解脱したマイスター
として特別の地位を与えられてはいますが、お話としてきくのは嫌いじゃないですが、それを説いてまわる側には私はなれません。何が「正しい神秘主義」というような価値判断も無理です。「うちの宗派が一番」というような主張があるところからは、すべて距離を置くことにしています。ごめんなさい。
 不思議話は好きなんですよ。でも超越とか魂とか霊とかの話は所詮、この世界の物差しで測れないものですから、他の人と優しい関係が築けるような形で上手に付き合って行くのがいいと思います。人生において迷っているときや苦しい時にはつい「神秘」に「救われる」どころか足をすくわれることがありますから気をつけた方がいいですよ。

 明日から留守ですので、また帰ってからこの掲示板を拝見します。

410フランチェスカ:2009/09/05(土) 22:54:50
「正しい神秘主義」とは?
お返事ありがとうございます。
いえ、私も決してシュタイナーの思想に「惚れこんでいる」というわけではないのです。が、教育の実践を見る機会があり、なかなかよさそうだと思ったわけです。思想に関しては、よくわからないところが多々あります。ただ、日本でおこなわれている「シュタイナー教育」に関心を寄せている人々は、どちらかというと、ロハスとかエコロジーとか自然育児とかマクロビオティックとか、そういったものに関心がある人々が多く、オカルトとか心霊主義とかブラバツキー夫人とかいったものに関心があるわけではない、という印象を受けます。でも、たしかにどこか「あやしい」感じはあります。やはり、これは「うちの宗派が一番」というような思想なのでしょうか・・・?
「正しい神秘主義」という表現は、ご著書のカバーに書いてあったのでしたっけ、それを引用させていただきました(たしか「正しい神秘主義は気持ちいい」でしたっけ?図書館の本でしたので、今手元にありませんが)。たしかに、何が正しく、何が正しくないかということに基準を設けることはできないと思います。
「神秘」に足をすくわれないよう、気をつけます。

411Sekko:2009/09/07(月) 13:42:10
フランチェスカさま
 そうですね。私も今本が手元にないですが、人生良好感をあたえてくれて、他の人や社会と切り離さないでいい関係を持ち続けられるのなら、「正しい神秘主義」というか神秘主義との正しい付き合い方なんでしょう。ただ、体質的に、シュタイナーもそうでしょうが、「霊的」な人っているようで、それも、それをどう使うかが問題なんでしょう。フランスでも、超能力好き、ロハス、エコロジー、マクロビオチック、仏教、瞑想、自然育児、自然療法、オカルトって、境界引きが難しく、実際重なっているのもたくさんあります。ツマミグイシテ免疫を作っておくほうが、頭から否定して何かの拍子にかえってのめりこむよりはいいと思うんですが。

412迷える大羊:2009/10/12(月) 23:15:51
メディアにおけるムハンマド
 最近、ネットを眺めていると、日本マンガ・アニメの世界への意外な、とんでもない拡散ぶりにあっと驚くことがしばしばあります。「まさか、こんなものが」っていうものまでいつのまに流れていたりして。そんなマンガの一つに「最聖☆戦隊ホーリーメン」なる作品があって。(URLはエロ画像多しの理由で削除しました悪しからず)
 なんでも、一般人として立川で暮らす聖イエスと聖ブッダ。しかしひとたび立川に危機が訪れれば「最聖☆戦隊ホーリーメン」に変身して悪と戦う、という作品のようです(未読)。
 この作品は、一昨年くらいから連載開始されて人気を博している、イエスとブツダが現代日本に降臨し、立川のアパートで二人暮らしする「聖☆おにいさん」のセルフパロディーというか別バージョン。まあ、日本らしいというか、日本以外ではありえないマンガですね、自慢していいのか、悪いのかわかりませんが、・・。

 しかし、このマンガにムハンマドは出演しません。世界3大宗教、何億もの信徒を抱える宗教の開祖にも関わらず。その理由について作者は原作者がインタビューで「シャレにならないからやめた」、とはっきりいってます。

 それにしても、昨年だか一昨年だったか、デンマークでの騒動をみるまでもなく、世界中のメディアがムハンマドの扱いにはピリピリしてますし、公の場でムハンマドのパロディーをみかけることはありませんが、こういう状況って本当にイスラムとかムハンマドにとっていいことなんですかね?という疑問が・・。

 まず、はじめにしっかりお断りしておきたいのですが、他宗教、それも全世界に何億もの信徒を抱える信仰に対する故なき中傷誹謗は厳に慎むべき、っていうのはわかりますし、当然です。
 また、その教えの優れた部分は十分認識してるつもりですし、騒ぎを起こす原理主義者、過激派はごく一部ということもわかってます。数とか割合からすれば、むしろキリスト教のそれより少ないかも、とも思ってます。

 でも、その辺を考慮した上であえていうのですが、「あの方」にはあまりにもタブーが多すぎなんじゃないか、と。間違っても「聖☆おにいさん」「最聖☆戦隊ホーリーメン」みたいなマンガのキャラにはできないし。

 しかし、あまりにタブーが多かったりとか、自主規制を徹底してしまうと、悪意が陰にこもって却ってヒドいことになるんじゃないか?と思わないでもないです。
  実際、「あの方」の教えを信ずる人々への中傷誹謗の主に欧米系の動画、サイトはネットでいっぱいみかけますし、ご紹介したサイトにも、

>「あれ? 誰か一人足りないような…」
 「預言者の人?」

 などという皮肉・イヤミまじりのコメントもちらほら・・・。

 こういう意見を開陳するとやっぱり断罪(差別肯定ということで)されちゃいますかね?

 ちなみにクリスチャンの方にこのマンガ見せましたけど、普通に面白がるかつまんない、と思うかのいずれかで不快感を出す人はいませんでした。外国人の反応も同様でご紹介したサイトでも、カトリックとかクリスチャンの方も普通に面白がっているコメントがついてましたが・・・。

 一番の疑問は「人であり神である」イエスより、あくまで「人間」であるはずの、あの方に対する扱いの方がよっぽど気を遣われている、という現状がなんだかなぁ、と思ってしまうんですが。
 イスラム教界でムハンマドの描写についてはどういう議論があるのですかね?キリスト教同様、イスラムにもリベラル、保守、といろいろあると思うのですが・・。

413Sekko:2009/10/14(水) 20:13:47
「触らぬ神に祟りなし」
 大羊さま

 日本に限って言えば、仏教やブッダはもちろんなじみがあるし、キリスト教も一応15世紀に入ってきて一時は流行ったわけだし、明治維新以降は、西洋キリスト教文明をいろいろ採用したのだから、これも、信者数が少ない割りになじみがあるのではないのでしょうか。お釈迦様の花祭りよりキリストのクリスマスの方が商業的に根付いてることもそうですね。その点やはりイスラム教とは、そのようなはっきりした接点がなかったのでなじみがないのは確かだと思います。
 それにいわゆる一神教の中では、同根の創造神を戴いているはずですが、ユダヤ教の神とイスラムの神は、具象化する偶像崇拝の禁止が徹底しているのでアニメのキャラには使いようがなく、その点でキリスト教の神は三位一体の人格神ということでずっと図像化されていたので使いやすいんでしょう。イエスやブッダが「元人間」というか、一応「歴史的人物」であり、同時に人間の条件を超えたというのも、超能力者テイストでいろいろ転用しやすいんでしょう。
 その点、歴史的人物のMさんの方は、神の言葉や意志を仲介する預言者であり(もっともM さんはイエスも one of 預言者だって言っているわけですが)、うまく他の二人の仲間キャラとしてアレンジできないのかも。
 実際にはどの宗教の教祖にでも起こることですが、Mさんを神格化しちゃっている異端グループもあるわけで、まあ、今の国際情勢から言っても、それこそ「触らぬ神に祟りなし」っていうことでしょうか。

 考えたらこの「触らぬ神に祟りなし」って智恵は奥が深いかも、です。宗教や欲望に関するリスクマネージメントなんでしょうね。
 信仰というのが「信頼」に基づくとしたら、難しいところです。最終的には「分別」の力で、でも、それにもインスピレーションのひと押しが必要かもしれないし・・・

414迷える大羊:2009/10/14(水) 23:21:28
すみません・・・。
 先スレ「メディアにおける・・・」で御紹介したサイト、よくみると、どうも、エロな方面のマンガ、アニメもかなり紹介されていて、現在のところ、その手の作品が一面に出ています。申し訳ないんですけど、URLの方だけ、削除できますか?

 日本マンガ・アニメが普及するのはいいけど、こんなものまで観るなよ、てな感じでネットも良し悪しですね。

415Picky:2009/10/15(木) 21:33:48
大羊さま
大羊様、いつもメッセージありがとうございます。管理人のPickyです。
さて、URLだけ削除とのことですが、管理人は基本的に全文削除できても一部削除はできないんですよ。で、このページの下の方へとずずずいっとスクロールしてくだされば、「自分の投稿の編集」ができますのでそちらでお願いできますでしょうか?
ご面倒ですがよろしくお願いします。
ところで、大羊さんの投稿を読んで、ちょっと前に流行ったダンブラウンの小説、あの方を題材にしていたらえらいことになっただろうな、と思いました。おっと、触らぬ神に、でした!

416迷える大羊:2009/10/17(土) 06:43:09
触らぬ神に・・ですか。
 お相手ありがとうございます。やはり、結論は触らぬ神に・・・ですか。しかし、不公平な気もしますねぇ。人であり神であるはずのイエスとかカトリックとかは散々パロディとかギャグのネタにされているし、ブツダだってここまで気を遣われてないんですけどね。
 侮辱はいかんにしても、なんでここまで扱いに差があるの?てな気も。

 こちらでも、教会でも、人であり神でありとか三位一体、ってなんやねんってさんざんツッコミましたし、「あの方」も同じツッコミを入れていましたが、今思えば、重要なのはそんな理屈ではなく、信仰の実際の実態の方かなぁ、と思わないでもありません。
 どう考えても、実質的に神様扱いされているのは「あの方」の方のような気がしますけどね。

417今紫:2009/10/17(土) 21:09:49
日本におけるカトリック教会の人物の列聖、列福はありえるか
 竹下先生、お久しぶりです。先生の掲示板に書き込みを入れて4年が経ちますが覚えていらっしゃるでしょうか。あれから洗礼を受けて3年の歳月を迎えました。

 さて、先生に質問があります。日本におけるカトリック教会で日本二十六聖殉教者、日本205福者殉教者、日本十六聖人殉教者(聖トマス西と15人)、2008年(平成20)11月24日に福者ペトロ岐部と187殉教者が列聖、列福されてきました。現在、高山右近や北原怜子、チマッティ神父の列福運動が盛んですが、では、それ以外に日本のために尽くした宣教者や信徒への列福、列聖はありえるのでしょうか。

 日本のカトリック信者の大半は外国の聖人らを崇敬していますが、わが国におけるカトリック人物(あくまでも故人に限ります)のほとんどが未だ列福はおろか、教会による公式調査や崇敬が少ないのではないでしょうか。

 たとえば、永井隆博士や岩下壮一神父に細川ガラシア、大友宗麟、B・プティジャン司教にM・ド・ロ神父、戦国時代、徳川時代、幕末から明治、大正、昭和のカトリック教会に進行と力を示した殉教者に証聖者らがあげられますがどうなるのでしょうか。やはり、彼らに対する崇敬が必要なのでしょうか?

418Sekko:2009/10/18(日) 07:44:05
列聖列福について
 列福、列聖に至るまでの手続きは複雑で、「公式調査」などの前に、基本的にはボトム・アップ、教区レベルで運動が盛り上がらなければなりません。上から教育的な意図で今度はこの人を、って感じにはならないし、その意味では活動修道会系の人の方がネットワークがしっかりしていてチャンスが多い気がします。チマッティ神父なんかも、サレジオ会はもちろんですが、出身のトリノとかの地元の教会でがんばって熱心に奇跡を求める祈りをしてる人の方が日本より絶対数は多いんじゃないかなあという気がするんですが。何か起こるとしたらトリノじゃないかなあ、と。
 しかし・・・私は、個人的には奇跡譚も聖人システムも好きですけど、実際問題として、今、誰かを列福まで持っていくには、崇敬心や情熱だけでなく、それなりの時間と費用がかかります。ある意味壮大な無駄で、まあそれはそれで、時間や費用に換算できない次元での価値や豊かさがあると思いますが、そもそも、そのような徳のある方たちは、公式のタイトルがあろうとなかろうと、すでに尊敬の対象にもなり、今生きている人間の助けにもなると思います。そういう方たちの気持ちや信仰を受け継いで、今の世界をよくしていくことに時間と金を使うことで本当の意味での諸聖人のコミュニオンに参加できるのではないでしょうか。仏教に「妙好人」って言葉がありますが、広く知られることのない地味な信仰者でも、本当に聖人のような人は少なくないかもしれません。公式の聖人として光をあてられるのか、野の花のようにひっそりと過ぎるのか、それこそ私たちの思惑や理解を超えたいろいろな恵みのあり方なんだと思います。
 今紫さんの挙げられたような方たちの多くは、すでに信仰の恵みによって報われてるような気もしますし。
 今紫さんの生活が充実したものでありますようにお祈りします。


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