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哲学・宗教質問箱
378
:
Sekko
:2009/05/06(水) 19:33:30
お返事遅れてすみません
日本に行っていて戻ってきたところで、時間が取れなくてすみませんでした。
この掲示板の書き込み通知がうまく届かなくなって、時々チェックしているのですが、チェックしない時に限ってお便りが・・・すみません。
岡田京子さま
リッタ・バセ(Lytta Basset)の本は今のところフランス語しかないように思います。息子との消えることのない関係について書いた本は、
http://livre.fnac.com/a1990744/Lytta-Basset-Un-lien-qui-ne-meurt-jamais?Mn=-1&Ra=-1&To=0&Nu=1&Fr=3
で見ることができ、第一章はフランス語ならネット上で読めるようになっています。
子供の死は親にとってあまりにもつらいことで、自死となると、なおさら、怒りの持って行き場がなく、自分が罪悪感に捕らわれます。子供を失った方すべてに、「あなたは悪くない」、と伝えたいです。
いつも最悪のケースを想定してあれこれ考えるタイプの私は、自分の子供の自死よりも悪いことは、自分の子供が他人の命を殺めることだと気づいてから、少し落ち着きました。無差別殺傷した挙句に自死したり死刑を望んだりする人の親の心を思うと、そのつらさはさすがの私でも想像を絶するものです。
小児皮膚科病棟に勤めていた私の娘に言わせると、最悪の病気は全身の皮膚が過度に脆い遺伝子病だそうで、そういう子供たちは、たえず全身が痛く傷だらけで、口内も傷つくので飲食ができず、ずっと胃からの管栄養だけで生きていて、対症療法以外に治る見込みはないので、親たちはずっと罪悪感に苛まれるそうです。
体が死んでも魂は残るという考えでなく存在とはもともとこちら側の世界とあちら側の世界でペアになっているもので、こちら側が失われてもあちら側との絆は永遠に残るというリッタ・バセの考えは、喪失への向き合い方を変えてくれます。でも、実際に子供さんを亡くされた方は、その「空虚」をご自分の中に抱え込んでその中に身を投じるような期間を過ごすもので、自分の中に最初からあって消えることのない「子供のもうひとつの存在のあり方」との絆を封印してしまいがちなのです。
バセの本には、金色の野の花が語りかけてくれるのを感じた時に、その封印が解けて、亡くなった子供との絆を回復できた母親の話が出てきます。お友だちも、大きな命につながっているような小さな自然に目を向けられたら、自分を閉じ込めている空虚の穴から抜け出すきっかけになるかもしれません。
岡田さんのようなお友だちの存在も、じわじわと、彼女の助けになると思います。どうか寄り添ってあげてください。
いつかバセの本を翻訳する時が来るかもしれません。
野口志世さま
お便りありがとうございます。
実はこの頃急に、「気の流れ」みたいなものが実感されるようになったので(今までは、そういうのはイマジネーションの産物だと思っていたのですが)、ヒーラーというのはあり得るんだなあ、と感じます。でも、情報にノイズが多すぎて、「こちら側」で処理される時にはなんだか変な方向に行ったり玉石混交というか、あやしいものがほとんどになるんでしょう。それに、多少なりとも有効なヒーラーって、消耗も多そうだし、お気をつけください。目の前の他者との共感力の強い人と、もっと集合的なものとの共感力が強い人と、二つのタイプに分けられるような気もします。ヒルデガルドなんかはリーダーとしても神秘家としてもすぐれていたみたいですね。
でも、そんな人になれるかはもちろん、運良くそんな人にめぐり合う可能性だって普通はあり得ないので、私はどちらかというと不公平感に悩んでしまいます。まあ、生き方、苦しみ方、小さな喜びや、死に方も含めて、その人それぞれの命のあり方なんだと思って、比較や仮定はしない方が無難ですけど。
迷える大羊さま、
弱者救済や、富の分配という点においてキリスト教がいわゆる左翼と親和性があるのは当然だと思います。
でも、左翼イデオロギーでは暴力革命や敵の打倒という急進的な形で「今ここで」平等や彼らの理想を実現しようという、短絡的なプログラムと化していたり、左右を問わず内部の権力争いなどの誘惑に駆られて逸脱していることが多いわけで、そのへんを見極めたり常に自戒していないと、「共闘」というのはキリスト教的な道からどんどん外れるんでしょうね。
しかし、もともと西洋近代政治の概念である右とか左とかを、キリスト教内部を分断するようなレッテル付けに転用することがそもそもの間違いであると私は思います。
そのへんのところを、一部、5月10日発売の『カトリック生活』のパウロ特集で書きました。チャンスがあったら読んでください。
右とか左とかいう立ち居地そのものは、それぞれの人の育った国とか環境によって変わってくるもので、それを絶対のものとして意見の異なる人を排除したりする傾向は、信仰に関するすべてを貧しくするものだと思います。
そのうち又ゆっくり書きますね。私の訳した『自由人イエス』という本が秋頃出る予定なので、それもお知らせします。
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