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哲学・宗教質問箱

1:2005/05/10(火) 02:09:43
美しい日本語
竹下さんに是非お聞きしたい事があります。携帯からだとおしゃべりルームに入力できなかったので内容は異なりますが、こちらで質問させてください。竹下さんは以前フランスのリセで日本語を教えられてましたよね?そこでくだらない質問ですが、日本人が美しい日本語を喋るにはどいしたらいいと思いますか?私は東京に出てきてまだ一ヵ月ですが、こちらの人の喋り方ってきれいだなと思いました。私は関西風のイントネーションがなかなか抜けません。仕事でもきれいな言葉が必要なので、方言を頭の中から消したいです。やはり時間をかけるしか方法はないでしょうか?

219迷える大羊:2007/08/11(土) 02:15:43
イエスの容姿は?
 マリア様の容姿の話が出ましたが、肝心のイエス様の容姿はどうだったんでしょうね?
昔からあるステレオタイプは痩身でひげ面、長髪の優男、ですが、聖書には背が高いとか低いとか、ブサイクだった、とかイケメンだったとか何にも書いていない(ヨハネ黙示録で鬼気迫る化け物じみた、イエス描写がありましたが、ま、これは文書の性質上、リアリティがあるとはいい難いのでパスです)ですよね?確か。

 ちなみに私、「トリノの聖骸布」は全く信じてません。なんだか、あそこに出てくるイエスの似姿ってあまりにステレオタイプ(ロン毛、ひげ面など)にはまりすぎで、話出来すぎ、と思えて・・・。

 ところで、今週講談社の青年向けマンガ誌「モーニング増刊」を読んでいたら、「聖なるお兄さん(SAINT YOUNGMEN)」ってイエスと仏陀が下界で仲良く、首都圏にアパート借りてバカンスを楽しむ、なんてマンガが連載されてました。大爆笑はしないけど、キリスト教や仏教を多少なりとも知っている人間なら、ついフフフ、と笑わせられるギャグが随所に入ってます。

 今週号ではイエスはカナヅチだったことが明かされて(?)おり、キリスト教の洗礼が頭に水をかけるだけなのは、パブテスマのヨハネが要求する潜水洗礼にカナヅチのイエスが応えられず、ヨハネに泣きついて、ハードルを下げてもらって、水をかけてもらうだけになった、という珍説(?)が登場しております(笑)。

 「布教時代に泳ぐことなかったの?」の仏陀の質問に対し、「ああ、沈みかけた舟を助けに行かなきゃならない時があったけど、気合で5km湖面を歩いたからね・・」と返答。すかさず仏陀に「泳ぐ方が簡単な気がするけど・・・」とツッコミを入れられて、なんて感じで話が展開していきます。

 もっとも、こういうギャグってある程度宗教に興味と知識がないと、何が面白いのか、わからないわけで、宗教音痴の多い日本のサラリーマン向けマンガ雑誌でどこまで善戦するか疑問な気もしますが・・。このマンガの著者、中村光さんってどういう人なんだろう?って気になりますね・・・。

 >15でイエスを生んだとして、ピエタの時は40代後半

 うーん、それだと美しい聖母、というよりサザエさんのフネさん(サザエやカツオのお母さん)のイメージになっちゃいますね(笑)。

 なんかマンガの話ばかりしちゃいました、失礼・・。

220迷える大羊:2007/08/11(土) 11:08:09
カトリック教会 気になる点
 あんとに庵さんのブログで述べた内容と重複してしまいますが、ご容赦を。先日、別のキリスト教サイトで知り合った元カトリック教徒の方とお会いして話をしたのですが、彼女(女性です)は期間は短いながら、熱心なカトリック信徒でした。それがなんでまた離教したのか、教えていただけました。理由はいろいろあったようですが、その中で私的に気になる点がいくつか・・・。

 一つは政治的な活動をしている聖職者、信徒の一団がいて、そのこと自体は悪くもなんともないのですが、問題はそれを教会の中に持ち込んで、無関係の信徒を巻き込もうとすること。政治的な活動、というのは憲法9条改悪反対、国旗、国家への反対を熱く語る、といった類のもので、少々大雑把ですが党派的にいえば社民党、共産党的な感じのするものです。
 どうも、彼女は教会内で奉仕などしているうちに、そういう類の運動に賛同、あるいは参加することを求められたらしいのです。

 彼女がそういった運動に与する意図がないことを伝えたら、信徒からなのか、聖職者からなのかは定かではないですが、「お前は戦争が好きなのか」なんて無茶苦茶な決め付け方をされたそうで、本当ならとんでもない話。

 大体、社会問題に関する答えって一つに簡単に決められないと思うし、自分に賛同しないから「戦争大好き」なんて決めつけは信仰面での原理主義者そっくりでイヤです。こりゃ、辞めたくなるわ、と思いました。

 誤解を招くと困るので、申し上げると、その元信徒の彼女にしても、あんとに庵さんにしても、私にしても、社民、共産、憲法九条万歳ならダメで、その逆、つまり自民マンセー、憲法改正GOGO、ならいい、ということではありません。別の党、政治的見解への賛同であってもやっぱり同じように嫌気が差してくるだろうと思います。

 あと、古株の信徒の一群には今も「ミサにこないのは罪」と考える人々がいて、新入りを捕まえて、あれこれ説教してきたり、これまた自分たちの活動に巻き込もうとする人々がいるそうで「大羊さんも(もしカトリック教会に関わるなら)、気をつけた方がいいよ」とのことでした。

 元信徒の彼女がいうには、自宅近くにカトリック教会があるのに、わざわざ遠くのカトリック教会に電車を使ってまでやってくる信徒がいるのは、そういう人間関係に嫌気が差して、という人なんだ、ということでした。

 お断りすると、以上の話はあくまで私が元信徒の方から個人的に聞いた話です。私自身が体験した話ではありません。私自身はそういった場面を近くのカトリック教会で目撃したことはないです(もっとも、忘れたころにちらっとミサを覗くだけなので、本格的に中に入るといろいろあるかもしれませんが)。

 ちなみに、その元信徒の方が関わった教会と私の自宅近くの教会では教区が違います カトリック教会、と一口に言っても、教会、教区によってかなりムードが異なるんでしょうか?また、皆さんは、今回、話題にした元信徒の方の話のような場面に普段通われている教会で出くわしたことありますか?

221塩梅:2007/08/13(月) 23:04:24
どなたもレスがないようなので、失礼をします。
お答えになるか、分からないのですが。

迷える大羊さま>
いい資料の一つと思うので、ご紹介しますが、聖母の騎士社から出ている「神父様、納豆好きですか?」(フェルナンド・アカソ著)という本に『カトリック学連と安保闘争』という章があります。
その記述によりますと、著者である神父さまは京都にある二つの大学のカトリック研究会に顔を出されていたそうで、第二バチカン公会議(1962年〜1965年)が打ち出すいろいろな新しい姿勢を受け止める際に行き過ぎた部分を感じておられたそうです。しかし、やんわり言っても受け入れられるどころかますます政治的な色合いを濃くしたそうでして。で、日米安保の更新(S35年)の折だそうですが、東京の「カトリック学連」は新宿駅での騒動にカトリック学連の旗を掲げて参加したそうで、このことによって、当時の司教協議会はカトリック学連の廃止を決定したそうです。

そもそも、第二次大戦前後にキリスト教全体(教派神道などもそうですが)に明治政府の強い監視がかかったのは事実です。また「チマッティ神父さまの手紙」(ドンボスコ社)の中にも、「上智大学事件」発生と同じ年に『別府不敬事件』の発生について記述があります。チマッティ神父さまの手紙には『この国ではカトリックは容認されているのであって、承認されてない』といった趣旨のことが書かれています。

今もよく取り上げられる上智大学事件、また戦時中のカトリックのことについては、まずこちらご覧下さい。他、キリスト教全体のことをご覧になりたい場合、「平和遺族会」「戦責告白」などのキーワードでの検索をお勧めします。

ウィキペディア:
土井辰雄  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BA%95%E8%BE%B0%E9%9B%84
田口芳五郎 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%8F%A3%E8%8A%B3%E4%BA%94%E9%83%8E

個人的な見方として、戦死者・戦災遺族の立場の世代そして「団塊の世代」とその指導司祭というのが『政治的な活動をしている聖職者、信徒の一団』の第一世代と見ます。
元・信者さんのお気持ちも分からなくないです。平和を願うことは良いことなのに、それが明らかな政治思想と(意識的に)繋がった結果、意見の違う人を排除したり敵視したり…対話も無しに『悪者』のレッテルを貼ることは失礼かつ良くないことですね。
こういう人たちの一番宜しくないところは「左に巻きギレたこと」ではなくて、自分が良いことをしていると強烈に信じておられることと、他者に対する自己優越思想です。私もこういうタイプの方にお会いしたことがありますが、”人のためになること”というより”人のためになっている自分”に満足しておられるところがあります。運動の目的が”社会、また自分の生活を良くすること”じゃなく、”自分のやりがいのため”になっちゃってます。
こういう人たちに「被害者」とか「弱者」だとか祀り上げられて、いわば囲い者になり、どうしようもなくなった人も知ってますが…ああはなりたくない。運動家を利用し利用される『共生関係』の外にある人たちには、何の益にもならないどころかむしろ迷惑なんですよ。

>教会、教区によってかなりムードが異なるんでしょうか?

異なる部分もあります。教区内でも、その教会を司牧しているのが教区か修道会か、また修道会によっても違います。ただ良し悪しの部分については、一口では言えない部分がありますね…。

222迷える大羊:2007/08/15(水) 01:44:28
はじめまして、ありがとうございます
 塩梅さん、はじめまして、そしてレスありがとうございます。先日、自宅近くのカトリック教会のミサに出てみたところ、季節柄、平和の祈りを行っていましたが、別に特定の政治勢力、主張への攻撃や肩入れを感じさせる内容の話は出ませんでした。件の元信徒の方の教区、教会ではどうだったんだろう?と気になるところです。

 しつこいようですが、私自身はそのようなカトリック聖職者、信徒に直接お会いしたことはないのですが、そういう政治色の強い聖職者、信徒の一団に辟易している一般信徒の方の声を、件の元・信徒の方とは無関係にネットでも現実でも複数聞いたことがあり、これは「火のないところに〜」かな??と思った次第なのです。

>司教協議会はカトリック学連の廃止を決定したそうです。

 そうだったんですか。個人の独断と偏見ですけど、この当時の司教協議会はとても「まっとうな」判断を下したと思います。一個人として安保反対運動、政治運動に熱を上げるのは勝手だけど、教会や信仰の名を使ってやるな、って、安保反対、賛成に関わらず、私がもし当時カトリック信徒や聖職者であったなら、きっと考えると思います。

 思うに、歴史上、宗教戦争、紛争と思われている事件のほとんどは、実は宗教だとか神だとか信仰はあまり関係なくて、特定の政治思想、志向を持つ勢力がたまたま、ある特定の宗教に属していて、神や信仰の大義名分を拝借しているってパターンが大部分ではないか?という気がします。

>明治政府の強い監視がかかったのは事実です

 もちろん、キリスト教会が国家主義だとか政治の右傾化に警戒心をもつことは歴史の行きがかり上、ある程度は理解できるのですが・・・。でも、靖国問題などで政教分離を訴える一方で、別の政治勢力、団体に肩入れしている、としか思えないようなことを主張するんじゃ、何のための「政教分離」なんだか、と思ったりもしますね。

>平和を願うことは良いことなのに、それが明らかな政治思想と(意識的に)繋がった結果、意見の違う人を排除したり敵視したり…対話も無しに『悪者』のレッテルを貼ることは失礼かつ良くないことですね。

 今、「「世界征服」は可能か?」(岡田斗司夫著、ちくまプリマー新書)って本がなかなか面白くて読んでます。内容は、仮面ライダーだとか、007、オースチンパワーズなどなどマンガや、映画、TV番組、ドラマに出てくる「悪の組織、帝国」を題材に組織や国家、理念とは何なのか?などを考えた、表面的な話とは裏腹になかなか真面目な本です。

 その中に、「皆殺し、というと残虐非道な極悪人たちに聞えますが、その正反対です。意外にも正義感がなければ人は皆殺しなど考えません(中略)正義感が強く、不正が許せないタイプのあなた、世界征服をするときはくれぐれも気をつけて下さいね。」なんて一節がありました。

 この類の人々のことを聞くにつけ、まさしく言い得て妙、という感じですね。思えば、ヒトラーだって「ユダヤ人はドイツ民族の害毒」、それこそ「平和の敵」という「正義感」に燃えて、あれだけの大虐殺を実行したわけですし・・・。キリスト教の異端狩りやら十字軍なんかもそうで、宗教でも、政治でも何事も一方的な決め付けや、激しい思い込みは怖いですね。

223Sekko:2007/08/18(土) 16:21:19
宗教と政治など
 留守しててレスが遅くなりました。

 イエスも仏陀もムハンメドも、普遍宗教の創始者って、要するに既存の共同体のヒエラルキーを否定する形で出てきたので、必然的に弱者救済のソシアルの人だったと思います。だから、社会主義的左翼運動と親和性があるのは理解できます。でも歴史的には世俗権力側の御用宗教になってるケースが多いので、国家主義とか右翼的言辞とも繋がるわけでなかなか複雑ですね。

 でも、アメリカのF派もそうですがイデオロギーと結びついて党派的になるのは、本来の政教分離の精神と乖離していますよね。イエスのいいところは、政教分離を貫いて、党派性や教条主義から自由になったところでしょう。ヨーロッパ近代は、世俗と教会の権力の葛藤を経て非宗教ライシティという理念の空間を気づき上げたわけですが、イエスは当時のユダヤ社会でライシティを先駆的に体現していたとも言えます。それは、しかし、他者の自由をも保障するものでなくてはなりません。対話とは説得ではないし、相手が同意しないから排斥するなどは問題外です。

 福音書のイエスを見ていると、キーワードは、「ライシティの中の自由とポエジー」です。愛とか思いやりとかはもちろんなんですが、重要ポイントは、自由とポエジー(詩想)だと思うんですよ。自由とポエジーのないカリスマ性は、独善や権力性を免れないと思います。このへんについてはまたあらためてどこかに書きますが、どこの教派のどこの教会でも、自由とポエジーが実現していないところは、本当の意味でのイエスの精神から離れていると思います。

 イエスの顔のステレオタイプは、トリノの聖骸布が出発点なんですよ。あれが出て来る前は、パンチパーマの髭無しイエスとかもあったんです。『聖骸布の男』のムックを見てたら「モノ」の迫力ありますよ。でもそのイエスはわりとハンサムで、マリアと瓜二つと言われてるのですから(マリアの変形クローンみたいなものだとしたら当然ですが)、じゃあ、マリアもそれなりに美人だったかなあと思います。正教のイコンはマリアの生前にルカが描いたというのを含めてみな細面なので、フネさんってのはあり得ないと思いますけど・・・

224迷える大羊:2007/08/19(日) 09:10:55
左翼とキリスト教など
>だから、社会主義的左翼運動と親和性があるのは理解できます。

 わからないでもないのですが、社民党はともかく、共産党に関してはどう考えているのでしょうね?宗教否定ですよね、共産党とか共産主義って・・。でも、遠藤周作氏だったと思いますが、共産主義とは「裏返ったキリスト教」だ、といっていましたが、確かにそうかも、と思うことあります。キリスト教も共産主義も共に、弱者救済、既存の共同体のヒエラルキーを否定するところから始まった、共にすさまじい「異端狩り」「粛清」の歴史があり、様々な分派がある、どちらも「聖書」「資本論」という「聖典」がある、などなど、正反対の立場にみえて共通するところはとても多い気がしますね。

>イエスのいいところは、政教分離を貫いて、党派性や教条主義から自由になったところでしょう

 「カエサルのものはカエサルに、神のものは神のものに・・」っていうのは聖書きっての名言だと思いますし、キリスト教の「近代性」がよく出ていることばですよね。でも、2千年前にはこういう考え方はなかなか理解されなかったんでしょうねぇ、きっと。

>パンチパーマの髭無しイエスとかもあったんです

 パンチパーマですか・・(笑)。今は優男のイメージが強いイエスですが、筋骨たくましいマッチョなイエス像っていうのはあったんでしょうかね?祭壇で大暴れしてますし、単なる優男でもない気もしたりしますが、どうなんでしょうね。でも、そういうイエス像だと、キリスト教の姿も微妙に違ったものになっていたかな?今みたいに女性信徒が多数を占める、なんてことはなかったのかな?と想像が広がりますね。

 後、よく考えるとおかしいな、と思うのは、ハリウッド映画や欧米のメディアのイエス像。聖書にイエスの容姿についての説明がない、ということは当時としては特に書くこともない、至って普通のユダヤ人だったと考えられるわけで、その中東の「普通のユダヤ人」が絵に描いたような金髪、青い目の白人だなんて、そんなことないだろ?、とツッコミたくなりますが、どうなんでしょうね?

225塩梅:2007/08/19(日) 22:50:49
ご参考になるといいですが…
> わからないでもないのですが、社民党はともかく、共産党に関してはどう考えているのでしょうね?

明石書店や新日本出版社などから「解放の神学」系、ほか途上国援助、フェミニズム関係の著書をだしている聖職者・修道者は結構います。9条の会やら無防備平和運動他に賛同してたり、部落解放、靖国訴訟などに関与している方々もあります。運動自体の趣旨はともかく、バックに特定政党・政治勢力などがついている部分に偏りを感じるものがあります。

さてこれをどう理解するかですが、「解放の神学」というのがあるのですが、御存知でしょうか?
ある程度までご存知だと、理解が出来るところがあるかも知れません。

こちらは神社さんのブログですが、意外と分かりやすく書かれてます。
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20070510

あと聖職者・修道者の講演録です。
http://www.wa.commufa.jp/~momochan/kaiho/soma.html(故・相馬信夫名古屋司教)
http://www.jca.apc.org/gendai/salon/ezln/kaiho.html(メルセス会弘田しずえ修道女)

ちなみにこれについては今の教皇さまが枢機卿時代にインタビューに応じた本「信仰について」(ヴィットリオ・メッソーリ著・ドンボスコ社)のなかで見解を出されています。一部、抜粋します。

(以下、『信仰について』247〜248p)
「解放の神学は、マルクス主義を踏襲するその形態からして、けっしてラテン・アメリカ、
あるいは他の発展途上国地域の人民の骨折りによって、ほぼ自発的に生まれ成長していったと
いうような、原地の、土着の所産ではない。少なくとも根源は知識人、富める西側諸国で
生まれたか、あるいはそこで教育を受けた知識人の創案である。それを手がけた神学者たちは
ヨーロッパ人であり、それを南アメリカで成長させた神学者たちはヨーロッパ人-----あるいは
ヨーロッパの諸大学で教育された者-----である。あのスペイン語、あるいはポルトガル語の
背景には、実際、ドイツ語、フランス語、アングロ・アメリカ語がちらつく」

つまりヨーロッパの理論家によって第三世界に輸出され、実験されているイデオロギーの一つである、と。実のところ輸出先が実験先なので、この神学が言っている「人民の側に立つ」神学者たちが本当に人民に影響を持てるかどうか全て実証されなくてはいけない、と。

そんなもんだから、今の教皇さまが決まった時は…カトリック新聞で聖職者が匿名で「ガッカリ」なんてコメントを出してたり、著書で「ラッツィンガーは敵だ」なんて書かれた司祭さまもありますし、今の教皇さまが嫌いだから祝日以外に教会に行かないなどと書かれた信者さんサイトなども結構あります。

226vino:2007/08/20(月) 19:02:30
(無題)
SEKKOさんや塩梅さんのように見識豊か、理路整然とはいかないので、自分なりに教会で感じることなど、お話してみようと思います。カト〜もかなり、政治的だったのですね。これまた、わが身の無知を改めて感じました。K団は2001年のテロの時も素早く、ブッシュへの抗議文なんぞを出したり、他にも靖国問題、9条、天皇制等に関し、共産党と重なるような言動確かに多いですよね。非・クリ〜の夫は私が何か言うと、「君はK党なの?」とか冗談で言うくらいです。戦争に協力してしまったという過去があるからこその平和への思いが今の日本では左っぽい言動とリンクするのでしょうね。個人的には政治的にそんなには濃く動いている方と出会ったことはないのですが、クリ〜として外で奉仕をされている方を観る機会はありますね。教会での御用でも精一杯、自分のことで精一杯な人間がほとんどだと思いますので、そのお働き、尊いとは思います。当然ながら個人差あり、それぞれ事情もあり、教会員すべてに同じ働き、心情を求める事は無理・・・だと思います。職業とは違い、気持ちや思いで動く世界なので温度差・・・も出てきます。動ける数人の人にたくさんのお仕事が集中し、一方ではあまり、お役に付いていない人はなんとなく、手持ち無沙汰と言うか、居場所も無い感じもして・・・。 代々その教会の信徒・・・という家族には牧師も遠慮があったり、そのご家族には又、それぞれ大変な事情もあったり・・・。両親が教会のことで忙しく、なおかつ、人間関係で疲弊しているのを見て、子供世代はもう、教会には来なくなったり・・・。無理のない程度に自分のできる事をいくつか引き受けて<これ以上は無理>のスタンスを取らないと潰れます。男性の場合、今の時代でしたらやはりPCを使いこなして編集や広報、何と言っても財務・会計が基本でしょうか。会社や友人、恋人、それこそ家族でもある程度の年齢になったら距離が必要です。<ウチの会社>と思うほどには会社はこちらを思っていないように、依存すると、ツライお返しが待っています。100%依存しても良いのはペットの犬や猫くらいでしょう。 牧師本人も自分を守るため、家族のバランスを取る為、信徒それぞれへの良い働き・・・を考えると信徒も牧師の存在はサラリーマン的なものと踏まえるくらいで旨くいくようです。同じ教会でも牧師が変わると来なくなる人、それこそ転会して行く人があるくらいですし、牧師に楯突くことが趣味みたいな人もいます。
かつてK団出版局<信徒の友>では<疲れない教会>なんて特集も組まれていました。100%向き合って良いのは神様とだけです。細く長く適度な距離と温度を保つのが無難かなと思います。

227vino:2007/08/20(月) 19:05:01
あれやこれや・・・
SEKKOさんや塩梅さんのように見識豊か、理路整然とはいかないので、自分なりに教会で感じることなど、お話してみようと思います。カト〜もかなり、政治的だったのですね。これまた、わが身の無知を改めて感じました。K団は2001年のテロの時も素早く、ブッシュへの抗議文なんぞを出したり、他にも靖国問題、9条、天皇制等に関し、共産党と重なるような言動確かに多いですよね。非・クリ〜の夫は私が何か言うと、「君はK党なの?」とか冗談で言うくらいです。戦争に協力してしまったという過去があるからこその平和への思いが今の日本では左っぽい言動とリンクするのでしょうね。個人的には政治的にそんなには濃く動いている方と出会ったことはないのですが、クリ〜として外で奉仕をされている方を観る機会はありますね。教会での御用でも精一杯、自分のことで精一杯な人間がほとんどだと思いますので、そのお働き、尊いとは思います。当然ながら個人差あり、それぞれ事情もあり、教会員すべてに同じ働き、心情を求める事は無理・・・だと思います。職業とは違い、気持ちや思いで動く世界なので温度差・・・も出てきます。動ける数人の人にたくさんのお仕事が集中し、一方ではあまり、お役に付いていない人はなんとなく、手持ち無沙汰と言うか、居場所も無い感じもして・・・。 代々その教会の信徒・・・という家族には牧師も遠慮があったり、そのご家族には又、それぞれ大変な事情もあったり・・・。両親が教会のことで忙しく、なおかつ、人間関係で疲弊しているのを見て、子供世代はもう、教会には来なくなったり・・・。無理のない程度に自分のできる事をいくつか引き受けて<これ以上は無理>のスタンスを取らないと潰れます。男性の場合、今の時代でしたらやはりPCを使いこなして編集や広報、何と言っても財務・会計が基本でしょうか。会社や友人、恋人、それこそ家族でもある程度の年齢になったら距離が必要です。<ウチの会社>と思うほどには会社はこちらを思っていないように、依存すると、ツライお返しが待っています。100%依存しても良いのはペットの犬や猫くらいでしょう。 牧師本人も自分を守るため、家族のバランスを取る為、信徒それぞれへの良い働き・・・を考えると信徒も牧師の存在はサラリーマン的なものと踏まえるくらいで旨くいくようです。同じ教会でも牧師が変わると来なくなる人、それこそ転会して行く人があるくらいですし、牧師に楯突くことが趣味みたいな人もいます。
かつてK団出版局<信徒の友>では<疲れない教会>なんて特集も組まれていました。100%向き合って良いのは神様とだけです。細く長く適度な距離と温度を保つのが無難かなと思います。

228迷える大羊:2007/08/21(火) 00:39:17
結局のところ・・
 みなさん、いつもお世話様です。

>明石書店や新日本出版社などから「解放の神学」系

 ええ〜、新日本出版社って、そのものずばり共産党じゃないですか。どうなってるんでしょう、一体?。目的が一致しておれば、無神論、宗教否定の政党との共闘もOKなんですかね?敵の敵は味方、ということなのか?私的にはどうにも理解に苦しむ話ですね。まあ「解放の神学」的な立場に立つ、聖職者、信徒の主張からすれば、私も所詮「上からの立場で批判している」に過ぎないのでしょうけど。

>そんなもんだから、今の教皇さまが決まった時は…カトリック新聞で聖職者が匿名で「ガッカリ」なんてコメントを出してたり、著書で「ラッツィンガーは敵だ」なんて書かれた司祭さまもありますし、今の教皇さまが嫌いだから祝日以外に教会に行かないなどと書かれた信者さんサイトなども結構あります

 でも、いろいろ問題を抱えつつも私がカトリックに魅力を感じるのはこの多様性だったりします。「解放の神学」に立つ「左」の信徒、聖職者がいる一方で、渡部昇一氏、曽野綾子氏、麻生太郎氏など右系、保守系の信徒も共存していて、世俗では正反対の立場のものが、神の前ではすべて同じ、平等、というのが宗教やカトリックの良さではないのかな?と思ったりもしますし。それだけに教会や教団全体として、右であれ、左であれ、特定のイデオロギーに深入りしてもらいたくないですね。

>ブッシュへの抗議文なんぞを出したり、他にも靖国問題、9条、天皇制等に関し、共産党と重なるような言動確かに多いですよね

 一方で北朝鮮の拉致問題などには無関心ですよね。拉致被害者の横田めぐみさんのお母さんの早紀江さんが福音系教会のクリスチャンである関係で、福音派の一部の教会が取り組んではいますが、ブッシュ大統領に抗議文を送ったのと同様に、金正日氏に抗議文を送った、なんて話はとんと聞いたことがありません。韓国の方の民主化や独裁政権には、あれほどああでもない、こうでもないといっていたのに・・。私的にはその辺りがキリスト教会の平和運動=政治がらみ、左翼、との勘ぐりが抜けない理由の一つでもあります。

>両親が教会のことで忙しく、なおかつ、人間関係で疲弊しているのを見て、子供世代はもう、教会には来なくなったり・・・。無理のない程度に自分のできる事をいくつか引き受けて<これ以上は無理>のスタンスを取らないと潰れます

 なんだか、ミもフタもない話ですねぇ。結局のところ、教会だ、信仰だ、といっても不完全で「罪深い」人間の営みであることには変わりないのですね。感覚的に地域の自治会とか、マンションの管理組合がどうのこうのというのと変わらない話で、水をかぶったくらいで人間変われりゃ苦労しないよ、というところでしょうか。

>100%向き合って良いのは神様とだけです。細く長く適度な距離と温度を保つのが無難かなと思います。

 長年の信仰生活から導き出された、貴重かつごもっともな御意見だと思います。私もクリスチャンを彼女にし、まがりなりにもこの世界に関わるようになってなんとなく感じていたことでもありますし。

229塩梅:2007/08/22(水) 11:05:52
何かが違う「隣人愛」実践の実際
vinoさまの仰るとおりで、「細く長く適度な距離と温度を保つのが無難」だと私も思います。>教会とは

あと、キリスト教の「隣人愛思想」は良い方向に向かうと人間関係の改善や社会貢献に繋がりますが、逆を行くと< 小さな親切、大きなお世話 >になりやすいんですね。聖書の中のイエズスの言葉に基づいてるとされる活動でも、イエズスの実際の行いやその心には基づいてるだろうか、と思うことがあります。信者でない人にも時々そういう風な質問を受けることがあり、困惑します。

大体、熱心な人ってのは、

・『弱者のために』何もかもお膳立てするのはいいけど、それが自分好みの活動にならないと
  気が済まない人
・『弱者のために』と言いつつ、実は自己満足や利益・他者への優越思想のためにやってる人

こんな感じです。(政治的党派性がくっついてくると、さらに面倒です)

そういうことが皆、彼らにとっては『弱者のために』なんですから、誰の忠告・注意も聞かない。
例えば、商業でやることでさえ、リピーターを得るために「リサーチ」するじゃないですか。だけど彼らの多くは、意見をする方を「悪意の人」と見て傲慢な態度を取ったり攻撃をしてきます。『反対者の方が間違ってるんだ』と言わんばかりの対応で、あえて諫言する「善意の人」も退けます。

そして、ますます< 彼らの活動は独善性を増す >結果になります。

しかし実際、こういう方々の「奉仕活動」の恩恵を蒙ることが出来るのは、『個人的にお友達になって』彼らのすることなすことにお付き合いする能力のある方(一種のエリートですよね)か、知能や精神的な障害などにより自分の意思を一切主張出来ない状態にある方ですね。つまり、運動家と『利害関係になる』か『使われちゃう』かです。

こうして彼らは、他の大勢の人たちを置いて行っちゃう。あるいは団体ごと無理に囲い込もうとする。

それだから、医療・福祉の現場で地道に働いている人々、彼らに『弱者あつかい』されている人々のなかには「キリスト教・クリスチャン嫌い」が居ますし、信者で医療・福祉関係者やってる人間にも< 教会の活動の評判 >は必ずしも良くないです。教会によっては、信心業や聖書研究などよりもずっと社会活動を重視されるようなところがありますが、現場としてみれば本当にその道のプロとして取り組んでくれる以外で、(現状の)教会の人に入ってもらいたくないですね。信者さん個人個人の日常生活や余暇まで犠牲にした「生きがい・やりがい」までは、社会は求めてないと思います。

どっちかというと、年に一回の文化祭やイベントに招いてくださる・連れてってくださるとか、例えば施設内なら洗濯モノたたみや共有スペースのお掃除といった『それ限定の方々』の方が入所者の方々や職員も付き合いやすいし、長続きします。というのは、あまり自分の生活を犠牲にしてない人の方が実は聞く耳を持ってることが多いし(意地になったりとかしないし)、お互いの利害関係が後々変に絡む心配をしなくていいので。

230vino:2007/08/28(火) 16:01:39
身もふたも無くて・・・
我が夫婦の仲人をして下さった大学教授、K団の信徒なのですが、大教室での講義の際、「日本人にとってはキリスト教というのは隣の神様だ。クリスチャンでさえ、その感覚が抜けていない。クリ〜というのは素晴しい存在だと思い込んでる。歴史上、免罪符やら南米がラテンアメリカと呼ばれるようになったのは何故か、カト〜の愚かな行為の故だ。だからってプロ〜だってひどいもんだ。英語が世界共通語になっているのは何故か、何故、英語と言われるのか。現代もアメリカって国が世界中でやってる事を考えればすぐ判る。人間なんて本当にしょうもない」と仰いました。当時、求道者でもなかった私ですが、<この方はK団の人だな>とピンと来たものです。   前回、身もふたも無くむしろ、偽悪的なほどの表現を致しましたが、さすが、皆様、真意を汲んでくださいますね。そう、どこまで行っても性悪な生き物なのです、人間は。私は洗礼の際、牧師からは再三に亘って「所詮、人間のする事だから」と言われたものですが、年を重ねるごとにそれを実感します。  料理研究家の小林カツ代さん、ご存知でしょうか?彼女のお話を聞いたことがあるのですが(K団信徒です)お母様からは<キリ〜はなんのご利益も無い代わりになんのタタリもない自己満足の宗教>だと言われていたそうです。彼女自身も「クリ〜になる、なんて事なかった。何にも変わりません。」と仰いました。実はこのふたつのエピソードは私の中では凄く大きな意味を持つのです。  超・マイノリティーだからか、日本人クリ〜、どこか<上から目線>になりがちなのです。選民思想に近いくらいの人も見られます。自分の足元を見据えるためには少し、自虐的なくらいで調度良いのでは・・・・。

231迷える大羊:2007/08/30(木) 00:33:51
熱過ぎるのは・・
 皆様のお話を伺うと、クリスチャンになるということは別に人格改造を行うわけではなく、他の未信者の方々と別人種になってしまうわけではない、ということがよくわかります。

 また、批判じみた話になっちゃいますけど、F派の信徒って「ボーンアゲイン」なんて言葉が代表的ですが、その辺何か、熱過ぎる、というか暑苦しい感じさえ(言っちゃった)してきてダメなんですよね。
 恋愛・結婚にしても相手はクリスチャン(できればF派)でないとダメ、相手がノンクリの場合はなんとかして「導こう」と躍起になるんですよね。理由を聞くと「その方が安心できる、落ち着ける」なんていうんですが、クリスチャンでない人間は何か自分とは別人種とでも思っているのか、何か勘違いしてないか?そんな人と人の間に垣根を作る信仰なんて抵抗あるなぁ、というのが本音ですね。

 多分K団もそうだと思うのですが、カトリック中央評議会の教勢統計を見ると、結婚相手がノンクリスチャンである信徒が多数派なのですが、F派はいわゆるクリスチャンホームが圧倒的(少なくとも教会に恒常的に顔を出すメンバーは)で、それもまたこの日本においてはえらく不自然で、閉鎖的な感じがして、抵抗感を感じる理由なんですよね。

>料理研究家の小林カツ代さん

 あら、この人、クリスチャンだったんですか。初耳ですね。私事ですが、本日、職場の先輩でお世話になった方が亡くなり、告別式に行ってまいりました。浄土宗のお葬式でした。
お焼香も上げました。でも、F派の信徒となると、こういう場面に出くわす度に頭悩ますんでしょうね・・・。やっぱり、そういう信仰は私には抵抗ありますね。

232塩梅:2007/09/21(金) 02:49:23
教会も「渡る世間」のうちだというか。
>恋愛・結婚にしても相手はクリスチャン(できればF派)でないとダメ、相手がノンクリの場合はなんとかして「導こう」

ええ。

「結婚するならクリスチャンにしなさい。”カトリックでもいいから”クリスチャンと結婚しなさい」

本当に牧師に言われたのですが、すごく嫌な感じを受けてしまったのです。当時、カトリックの存在をあまり意識していなかったこともあり、逆に、

『それほどに言われる”カトリック”って、そんな酷いところか?』

と思ったのです。やはり自分の目で見ないと納得がいかないと思いました。ただ多分…後々考えるに信者同士の又聞きとかだからそうなったんだろうけど、「カトリックは礼拝が難解だと聞いている。皆ラテン語で日本語の礼拝はない」と神学生の人が話すのを聞いていましたのでかなり悩んだ時間はありました。が、勇気を出して(苦笑)最寄のカトリック教会に「行っても宜しいですか?」と電話して、行ってみたのです。そして、

「日本語やないけー!」(第二バチカン以降、そうなってましたね…)

と思いました。で、当時所属していた場所の人たちの方が感じ悪いと思いました。と言うのは、カトリック教会に行ったことを知った教会の友人全てに音信を絶たれまして。その牧師さんからは出ていけ、と。あのときは「何だそりゃ?」みたいな感じでした。そういう諸々の事情から、プロテスタントにはもう戻らないと思います。勿論、そんな人ばかりではない事も知ってるのですが、親友と思っていた人に責められたのは悲しかった。

その悲しみを忘れかけていた中越震災の直後に、その人たちが再び私に電話をくれました。私は純粋に電話をもらえた事を喜んだんですが、直後にかつての所属教会の封筒で、とある先生の分厚い著書が送られて来まして。「所在確認だったんだな」と直観しました。かつての所属教会の活動のありようから、彼らにもノルマがあったのかな…と察したけれど、辛くなってしまって受け取り拒否しました。

シスターには「貰っておけばいいじゃないの?」と言われたんですが…
デリカシーの問題ってのがあると言いますか……(ノ_-。)

信仰を持つのはいいけど、<正しい事を>と思ってする言動が<上から目線><排他性>として現われるのは、やっぱり抵抗感・反感を持たれる所以になってしまうのじゃないかと思います。他人の話を聞くことも大切だし、聞く耳のあること=妥協ではないんですから。話を吟味したうえで、どうしても妥協できない面をお話することだって出来るんですから。そういう面倒を拒否しちゃあいけないと思うのですけど。「対話」ってのは『説得』のことでも『意見の押し付け』のことでも無いんだからね、と思うのですけど。

でも以上のことが、どうして困難な課題になるのでしょう?

233迷える大羊:2007/09/21(金) 05:21:57
それはまた・・
>『それほどに言われる”カトリック”って、そんな酷いところか?』
>「日本語やないけー!」(第二バチカン以降、そうなってましたね…)

 そうですね〜、私もこの世界に関わりを持った当初、カトリックって「うっかり自殺=
村八分」「うっかり離婚=村八分」みたいな極めて戒律のキツイところ、というイメージがあって全然興味がわきませんでした。いろいろ調べるとそんなに単純ではない、むしろ、一部のプロテスタント教会の方が、ずっと保守的で厳しいですね(もちろん、いろいろな教派があるので単純にいえないが・・)。カトリックだってすべての人々が寛容ってわけでもないのでしょうけど、幅があって、狭い一つの考えを押し付けられないんで気楽なんですよね、私としては。そこら辺のプロテスタント教会よりはずっと理性的で、リベラルだと思います。
 でも、私や塩梅さんが誤解していたのと同様、世間一般には今でもカトリック=厳しい戒律、保守的のイメージは強いんじゃないですかね?
 もっとも、ラテン語ミサに関しては、そんなに悪いイメージないですね、私は。SEKKOさんの以前のコメントにもありましたが、むしろ、日本語で「主のなんとかかんとか」って言ってやる方が何か恥ずかしいというか、テレが抜けないというか・・。お経を唱えて照れくささを感じないように、ハナから外国語のラテン語なら、あのなんともいえない照れくささ、恥ずかしさを感じなくていいし、どこの国の国民にとっても「外国語」なので、公平で良いではないか?と思うのですがどうですかね?

>と言うのは、カトリック教会に行ったことを知った教会の友人全てに音信を絶たれまして。その牧師さんからは出ていけ、と。

 それはまた、すごい話ですね・・。一体、いつの時代の話ですか?私、プロテスタントでも保守的なF派の信徒が身内にいて、関わりがありますけど、そこまで極端な反応ってないですけど・・(確かにカトリックには冷淡ではありますが)。
 まあ、F派といってもいろいろあって、比較的ヌルいところだからかもしれませんが。最近の話ならびっくり、というか問題ですね。
 そんなところ辞めて正解、そんなことで離れる友人なんてハナから友人じゃない、と私なら割り切りますけどね(ってそう簡単に割り切れれば苦労しないでしょうが)。

>彼らにもノルマがあったのかな…と察したけれど、辛くなってしまって受け取り拒否しました

 うーん、話を聞く限り、私的に非常に問題がある教会のような気がしますが?そのかつての所属教会って・・。皆さん、いろいろ現在の信仰を持つに至るには紆余曲折があるものですね。
 まあ、この辺はこういうBBSでは詳しくは語るわけにはいきませんね。どこかのミサでお会いしていろいろ語れればいいですね。ちなみに私は首都圏の住民で、都内勤務の人間です。

234迷える大羊:2007/09/06(木) 01:00:54
学んでみます
 散々、こちらの部屋で書き散らし(ここ最近、ひょっとしてこの部屋で一番発言数が多い??)、皆様にお世話になってますので、御報告ぐらいはしておかねば、と思いました。

 私、九月半ばより、都内某所、職場近くにあるカトリック教会のキリスト教講座(アルファコースっていったかな?)に通ってみることにしました。平日の夜なので、残業なんかがあったりすると、行けないこともあるかもしれませんが、できるだけ参加しようと思います。
 講座の内容より、実際のカトリック信徒にはどういう人々がいるのか、何を考えているのか。よく語り合って、観察、確認してみて、自分に合った教派、宗教であるかどうかを試してみるのが目的ですね。神父さんと話したり、こういうネットやメールでいろいろ話はしてみたものの、現実の世界では、信仰や思想の深いところまで話したことがあるカトリック信徒の人って実のところいないので。
 私の彼女も、当初誘う予定がなかったのですが、話したら興味を持って、ついてくることとなりました。はたしてどうなりますやら・・・。

235nao:2007/09/06(木) 08:42:57
うれしいいです。
大羊さんが現実のカト教徒と話し合いしてくださるようになつたこと、とてもうれしいです。がつかりしたりなさることもあるかもしれませんが、いい出会いがまつていますようにと、心からねがつております。彼女もきてくれるなんて・・感激ですね。時々、ご様子お知らせいただけると嬉しいです。よろしくおねがいいたします。竹下先生とは生涯お付き合いくださいますように。こんな出会いは世の中にそうあるものではありませんから。

236Sekko:2007/09/07(金) 11:22:26
私もうれしいです。
 お久しぶりです。なんかとっても充実した感じのやりとりが続いてるようで、あえて口を挟む感じじゃないなと思ってたんですが・・・
 彼女が一緒にきてくれるなんて、すてきですね(お目付け役だったりして)。
 大羊さんの誠実さが伝わってるんですね、きっと。
 いい方たちと出会われることを願っています。彼女のほうも視野が広がって、お二人の連帯感もさらに深まって、いい感じになるのでは。
 宗教や宗派がどうというより、人が一緒に生きていくには、毎日起こる具体的な問題と対策だけではなくて、その背後にひそむ病や死というものの影がいつかかぶさってきたときにどう受け止めるか、どういたわりあっていけるのかという部分で共鳴できる波長が必要です。今すぐではなくともだんだん共振できるような関係もありますし。
 (ええと、私は9日の日曜の午後5時、銀座3丁目のギャラリー青羅で、金沢美大OB展のオープニングに出席します。興味のある方は「東京けやき会」のサイトをご覧ください。もう30年近く前にフランスに留学なさっていたとき知り合った石彫の坂井達省さん、織田啓介さんらの作品を見に行きます。お目にかかれればお話しできるかもしれません。)

237迷える大羊:2007/09/09(日) 02:22:40
まあ、ボチボチと・・
>(お目付け役だったりして)。

 まあ、そんな感じですね(笑)。こちらも、別に彼女の信仰を変えようなんて考えは毛頭ないし、それは横暴だし、無理というもの。要は視野を広げてもらいたい、もう少し考えに幅がでれば、それで良いと思ってます。

 あと、なんだか、ここでF派に対し、批判がましいことばっかり言っている印象があるかもしれませんが、人の信仰にチャチャを入れようなんて野暮なマネをする気は全然ないし、F派といえども様々なのはわかっていますし、良い点、もっともな主張だってあることも認めてます。

 ただ、自分の宗教観、感覚に合うか、合わないか、自分が信者になれるか否か、という観点、そして、私自身の狭い範囲の見聞の範囲で話をしているだけでして。
 このBBSを見て、不快になっている、あるいは、そんなことはないだろ〜、と思われているF派の方、ゴメンなさいね、といったところです。

>がつかりしたりなさることもあるかもしれませんが、いい出会いがまつていますようにと

 VINOさんや塩梅さんのおっしゃる通り、教会とか信仰とかいうものに、あまり過剰に期待だとか、逆に恐れだとかをもたず、適度に距離を置くつもりで行く、要は力を抜いていくと、意外といいことがあるのかもしれませんね。

>宗教や宗派がどうというより、

 その通りですね。それだけに、何が何でも、同じ信仰の人間としか恋愛・結婚できない、幸せになれない、と決めてかかる、あるいは身内はなんとしても、’導かなくては’、’救わなくては’、なんて躍起になる一部クリスチャンの言動を見聞すると、何か違うんじゃないのか?と思え、却ってキリスト教から離れたくなっちゃいます、逆効果ですね。

>ええと、私は9日の日曜の午後5時、銀座3丁目のギャラリー青羅で、金沢美大OB展のオープニングに出席します

 ああ、是非行って見たいのですが・・・。フランス在住の著名作家と直にお話できる機会なんて滅多にないですもんね〜。しかし、その当日は彼女の母教会での打ち合わせや実家訪問などの予定が複数あって、行けません・・。またの来日の機会を狙います。

238vino:2007/09/10(月) 19:36:31
心の赴くままに・・・
<お目付け役>・・・かもしれませんが、かなり、前進ではないでしょうか?  私の場合、母校が長老派だった為、YWCAに繋がり、現在に至ったわけですが、それこそ、信仰というものは、<縁と運とタイミング>によるものも大きいと思いますので、今後の人生を過ごす上での<引き出し>が一つ増える・・・くらいの気持ちも大切だと思います。 遠藤周作さんの文章で(K団の信徒はなんのコダワリもなく愛読者、多いです。曽野さんしかり、勿論、三浦綾子さんも)それぞれが心にそれに畏敬の念を感じ、他者の思いも尊重することが大切。それはナスでもカボチャでも良い・・・なんて表現がありました。肩の力が抜けた感じで私は好きですけれど・・・。  それにしても、塩梅さん、教会にかなり悩まされた経験がおありなのですね。ネットでは「地獄に堕ちるぞ」とか、「サタン」とか言われた事のある人の話も知っていましたが・・・。私の古くからの友人でカト〜で求道中の女性があります。彼女いわく、枝葉はいろいろあれど、根っこが一つなところに安心できる・・・と。プロ〜の方はそれこそ、牧師の数だけ解釈がある・・・と言うところでしょうか?まぁ、聖書も説教もその時、その時の自分の状況でとらえ方は違って当たり前ですし、同じ教会の中でもいろんな人がいるわけですから、<一色>に染まるはずはありません。彼女の信仰に色が一つ増えるのも良いと思いますよ。大羊さんのキリ〜に対するお勉強の姿勢に打たれた部分もきっとおありでしょう。夫婦はそれぞれ違う人間ですからね。NAO様、人生の大先輩として、これからも暖かいお言葉をお待ちしています。  ハリケーン・カトリーナの被害に遭ったアフリカ系の家族が復興支援をされたとある団体に心を癒され、ソルトレイクに移住した件をだいぶ前にニュースで観ました。<ワスプにあらずば人にあらず>の雰囲気の濃い南部に住むよりはかの地で幸せならば、それも良い事ですよね。

239塩梅:2007/09/10(月) 21:18:32
良かったです。
お一人でなくて、お二人で通えるということは本当にいいことです。
その方にとっても、いい出会いになりますように。これは心から祈っております。>大羊さま

うっかり以前の体験…本当に余計な話をしてしまいましたけども、それは…。大羊さん仰るように、F派全体というよりその教会の問題になるのですね。離れてしまった教会は今も存在するので、ネット上での発言は本当、申し訳ありません。その教会に残った人たちには、当時とてもお世話になっていましたし「仲間だから」という理由であったにしろ、いい思い出もありました。

ですので、それを否定出来ない気持ちもあるのです。大羊さんほどにクールになれない情けなさをずっと自分に感じています。

…始末の悪いことに、彼らは「自分たちはいいことをしている」のだと固く信じています。
ゆえに、今はそれをどうしようも出来ない事を分かっているのですが、「仮想敵ありき」のそのあり方、そして金銭問題その他について憂慮しております。
と申しますのは、昔、神学生であった友人がある内紛に巻き込まれ、海外宣教の夢を絶たれてしまいました。そのことに当時の所属教会が関わっていたことを知ったことが大変ショックでした。でも所属教会に抗議をしたくても、彼らは私とその人との友人関係を知ってましたので…聞く耳持つどころか

「今から先生がこの部屋にくるのだけど、貴女が来ると霊的に穢れるので出て欲しい」

と言われてしまったのです。言われたときはかなり泣きました。

そこから「教会」「信徒同士」という人間の繋がりに恐怖を感じるようになりまして、それを克服できなかったのです。それこそ教会ジプシーです。また家庭の介護問題から随分長い間、教会を離れざるを得ず…。教会はキリストの身体といいます。だけど繋がれないままに長い時を過ごしてしまったこと、そして指導司祭さまとの繋がりが諸事情(異動含む)あって上手く行かず、改宗が上手くいかない。
何せ、地方では司祭・信徒さんの高齢化が進み、私が今いる小教区では主日ミサが5箇所くらいの巡回です。それでも信徒さんは「通信でなんて言わないで。聖櫃の前で神父さまとじっくりお話をしてちょうだい」と言ってくださいましたし…それはとても有難いお話と思っています。

ただ今、それに甘えていいのかどうかを迷っているのです。

240迷える大羊:2007/09/12(水) 12:38:13
異端とは?
>大羊さんのキリ〜に対するお勉強の姿勢に打たれた部分もきっとおありでしょう

 勉強、といいましても、キリスト教のトリビア、雑学的、オタク的な知識が増えただけで、「信じる気持ち」は、未だによくわかりません。賛美歌とか祈りの文句を唱えるのは未だにこっ恥ずかしい気持ちが先に立ち、みんなよく照れずに大声で歌える、唱えられるなぁ、と感心することしきり(失礼!)です(笑)

>ソルトレイク

 といえば、多くの主流派キリスト教会から異端扱いされる某教団のホ一ムグラウンドがある街ですね。
 話が脱線しますが、キリスト教系教団でよく社会的に物議をかもすのは、このソルトレイクに本拠を持つ某教団、韓国に本拠を持ち、詐欺まがいの商法や特異な結婚式が問題となる某教団、輸血拒否、独特の終末思想、過剰な奉仕、家庭崩壊等が問題となる某教団の三つ。

 もちろん、他の主流派教会はこれらの教団のあり方に対し、一般人以上に批判的で、メディアには必ず、この三つの教団とは何の関係もありません、と銘打つのがお約束です。でも、その批判の仕方が未信者の私からすると時々「ん?」と思うことがあるんです。

 というのはこれら三つの教団はいずれも三位一体を否定していて(否定の仕方はそれぞれ異なるようですが)、主流派キリスト教会、信徒は「だから、異端で問題を引き起こすんだ」みたいな単純な議論をする人が少なからずみられるんですけど、それって何かピントがずれている気がするんですよね。

 部外者からすれば、大切なのは、第一義的には表に出ている彼らの所業、そして、問題のある行為を不断に誘発している教義です。三位一体説を否定していても、表に出ている行動が問題なければ別にどうでもいいんです。例えば、ユニテリアン教会(ユニテリアン・ユニバ〜サリスト)はイエスの神性を否定し、三位一体説をとりませんけど、別に何か問題行動を起こしたなんて話は聞かないですし。

 逆に、例えば、塩梅さんのかつての所属教会は恐らくは「三位一体」説をとる「正統派」キリスト教会と思われますが、反社会的というところまでいくのかは、なんともいえませんが、非常に問題の多い教会、教団と思われます。私的にはほとんどカルトすれすれ、との心象を抱いてますね。そもそも、異端って言葉自体、時代錯誤、排他的、偏狭な感じがしてあまり好きな教会用語ではないです。

>「貴女が来ると霊的に穢れるので出て欲しい」

 これはイジメだ、と憤ったり、悲しくなる以前に、あまりに時代錯誤な物言いにあきれ果てて、頭がクラクラしてくるような話ですね。
 これ本当に現代(20世紀、21世紀)の話ですか?なんだか、中世の異端審問、魔女狩りの話を聞いているみたいなんですが・・・。

>その教会に残った人たちには、当時とてもお世話になっていましたし「仲間だから」という理由であったにしろ、いい思い出もありました

 そうですね、以前の思い出まで、記憶から消すことは難しいですよね。ハナから友人じゃなかった、と割り切れ、なんていうのはちょっと無神経なもの言いだったかな、と反省しております。

>金銭問題

 これ、非常に気になったんですが、まさか、旧約聖書の一節を字句通りに解釈した、
「十分の一」献金を半強制的に実行しているとか・・??。

 塩梅さんのお話には大変、衝撃を受けました。マスコミ等で騒がれず、いわゆるカルトとされていない、正統派ということになっている教会にも大変問題のあるところが存在するということがわかりました。
 正直、私は心に傷を負った塩梅さんにはなんといってよいのやら、わからない状態ですが、新しい教会で、一刻も早く苦い記憶が風化していくことを祈ってます。

241vino:2007/09/12(水) 18:40:48
きれいは汚い、汚いはきれい
<神様は好き、でも教会は嫌い・・・・>のもっともな部分を経験されてしまったのですね、塩梅さま。<渡る世間・・・>の文章を読みまして、単立の皇帝牧師のところかしら・・・?と思っていたのですが、どうも、違うようですね。必ず、時が満ちますので、カト〜への改宗がうまく行くよう、お祈りしています。私のお世話になった牧師は自分の休暇の時は違う宗派の礼拝へ出掛け、お勉強もされていました。私は現在、教会で<!?>な感じを受けた時は<これも勉強>と、かの牧師にしてみれば、思うだろうなと割り切る事にしています。   さて、海外宣教・・・ですが、日本キリスト教団小松教会のHPに様々な土地の日本語教会のことがとても良くまとめられています。<超教派>のプロ〜、多いですが、圧倒的に牧師はF派の方が多く派遣されていますね。どういうシステムで派遣が決まるのか良く判らないのですが、<熱心な伝道>はFのお得意ですから、海外で<救われた>信者さん、帰国後もFに連なる方が多いのでしょうね。    <自分達は良い事をしている>、これ、なんとかならないでしょうか?命を落とされたお二人、とても残念ですし、惨い事件だとは思いますが、土足で神田はるさんのお宅へ伺う・・・のはどんなもんでしょう?旧ソ連のイスラム色の強い辺りにも日本人が宣教に出ているとか、いないとか・・・・。こちらから見ればあちらでも、あちらから見ればこちらがあちらになるのです。私の知らない真理も世の中にはたくさんあるのです。  <揺ぎない真理を知っているから自分は大丈夫>だなんて、それこそ、神をも恐れぬ傲慢ではないでしょうか?

242迷える大羊:2007/09/15(土) 12:50:10
行ってきました、学び会
 カトリック教会の学び会、第一回いってまいりました。正確にいうと、「アルファコ−ス」といって、主に英国教会のニッキ−ガンベル氏という牧師が提唱した、キリスト教入門コ−スらしいです。いわゆるカトリックの公教要理教育とは違います。

 最初に奉仕の方が作って下さった夕食を食べ(なかなかおいしかったです)、雑談、話し合い、ニッキ−ガンベル氏の講演ビデオ鑑賞、神父さんのお話、などですね。
 進行は信徒の奉仕者の方主体で、神父さんが登場するのは最後のお話くらい。初回の今回は宗教らしい話が出るのは、ビデオ鑑賞のときくらいで、あとは話しあい、コミュニケ−ションに重点が置かれていました。リラックスしたム−ドで、とりあえずは現実のカトリック関係者と交流をする、という私の目的に適った会合で、なによりでした。

 キリスト教会はプロテスタントも女性比率が高いのですが、カトリックはそれに輪をかけて高いですね。奉仕者の大半は女性。参加者も女性が多く、男性参加者は、少なくとも私のグル−プは「奥さんが信者、クリスチャンで」なんてパタ−ンで、私みたいな人ばっかりでした(笑)(私同様、未洗礼の方もいました)。プロテスタントからの改宗者も結構いましたね。
 彼女の方の評価も「これなら続けられそう」ということで上々でした。

 ところで、全く関係ない話ですけど、自民総裁選、麻生氏と福田氏の一騎打ちは福田氏が圧倒的優勢のようで、日本史上初の現役カトリック信者の首相誕生、はなさそうですね。

243Sekko:2007/09/18(火) 20:25:17
よかったですね。
 考えれば考えるほど、大切なのは、宗教の差を取っ払った部分のライシテの中での連帯ってことだと思えてきます。
 特定の宗教共同体の内部の連帯、なんて、内部には抑圧的に、外部には覇権的または独善的に向かうのがオチだという気がするんです。

 宗教や共同体や社会的階層や立場の枠を超えたユニヴァーサルな連帯、それがキリスト教、というか、少なくともイエスが詩心を持って実践しようとしたものですよね、各宗派はそれぞれの歴史的文化的な産物、あるいは政治的、経済的な思惑の表現でしかありません。だれでも社会的存在であることを逃れられないように、各宗派の枠にありながらも、なおかつそれを超えた理念に眼を向けるのは簡単なことではないですが、永遠の課題、でもあります。

244nao:2007/09/19(水) 09:18:14
時代差を感じますね。
私がカト教会の入門講座にかよつたのは、戦後、10年たらずのころでした。大学生のころです。大阪の中心街、北浜教会でM神父という、素晴らしく信仰心のあつい、ハンサムな方で毎週1回、夢中になつて、かよつたものです。その時はトマス神学を中心としたかなり学問的なもので、毎回プリントが頂けて、何度も繰り返して読んだことをおもいだします。大羊さんの「学び会」のような雰囲気はまつたくありませんでしたが、その頃は、多いに満足したものです。修道院に入る方が続出したのもその頃です。カトリツクだけのことしか、学べませんでしたが、それの弊害よりは、神父の信仰心の厚さが皆の心をしつかりとらえていました。ご自分の書籍(当時、どれだけ大切なものだつたことか!)を講座の日に燃やす石炭にかえられたことも、度々でした。このM神父さんは、ミサ後、出口で一人ひとりに声をかけておられました。話された講座は殆どわすれましたが、神父の祈る姿だけが、くつきりといまでも瞼に浮かんできます。こういう信仰心の厚い神父さんが多くなるように、祈りたいとおもいます。大羊さん、これからもご様子きかせてくださいね。VINOさま、いつも温かいお言葉ありがとうございます。竹下先生はフランスで大多忙の毎日のご様子。無神論、楽しみにいたしております。

245塩梅:2007/09/19(水) 15:56:36
牛歩ながら。
> マスコミ等で騒がれず、いわゆるカルトとされていない、正統派ということになっている教会にも大変問題のあるところが存在するということがわかりました。>大羊さま

あまり書けませんが、今も全国各地で集まりを持っている場所です。残念ですけれども、vinoさま仰るとおりの「単立皇帝牧師」に今はなっておられるお一人というと、もう分かる方に分かるかと。「集まり」、一見開放的なのです。ところがどっこい、入るとまるで違う。これについては賛否両論ですが什一献金。これ、源泉徴収表に書いてある所得(つまり税を引かれる前)からの什一でした。そして、関係著書等の購入やイベントのお誘いのノルマは今思うときつかったです。私はそういうことが得意ではないので、自分の分については他の信者さんの手を借りざるを得ませんでした。そうなると、奉仕活動で補完をせざるを得ません。

しかし、以上のことは『信仰があれば』…つまり本人がやる気なら「本人的に」問題のないことなんでしょう。ただ、信仰生活とは本来別のこの奉仕の部分で、あまりにあまりの部分を見てしまった。スポンサー獲得・信者獲得のためにすることが、あまりに商業的に過ぎて。それも商業なら働いた人にそれなりの報酬が出ますが、信者がやれば奉仕です。「そういう方向に狂ってないか?」という疑念の発端は、集まりの幹部の女性が見た夢の話でした。

”この集まりに相応しい教会堂が与えられる”という夢を。

そして、共同体は「それを正夢にするんだ」という方向に流れたのです。その後、神学校のこと他あり、その女性に「貴女が来ると霊的に穢れるので出て欲しい」と言われまして。私が出て済むならと思いましたが、しかし今に至るまで、その夢を信じて…祈り、奉仕している信者さんがたの夢は叶ってません。また集まりの主宰者たる某牧師先生については賛否両論あることを出てから知りました。それが分かると、出入りを許してくれない教会もありました。『私のしたことでなく、某先生の名前で居られなくなる』ために、教会ジプシー状態でした。

本当に、<神様は好き、でも教会は嫌い・・・・>状態の年月が長かったのです。

個人的にはもっと単純に、神様を信じるもの同士が、、、と思うのです。また社会的にも、信者ではない方々との共存を強く望みます。勿論、おもねることではなく、きちんとお互い腹蔵ない「対話」をしたいし「相互理解」をしたいのです。あくまで理想論ですが・・・

今まで様々ありましたが、歴史・先人の智恵も通じて学ぶのがいいという結論をしています。
これからの信仰生活のためにも。諸事情あって愚図愚図に伸びていますが、お祈り頂けますと感謝します。私も大羊さまはじめ、これからの方々のために祈っています。

246迷える大羊:2007/09/23(日) 00:40:18
学び会(アルファ)など
 学び会2回目ですが、キリスト教最大の難関(?)、「復活」について、でした。我らがニッキ−牧師は復活の意義を熱っぽく語っておりました。ただ、気になるのは彼は復活を物理的にも事実、と思っているのか、それともあくまでも信仰、思想の上での真実、と考えているのか、イマイチ判然としないところでしたが・・

 参加者との語らいでは、皆さんは「科学的」な事実、と思っている人はおらず、大事なのはそこにこめられた信仰、思い、願いである、ということで、私にも理解できる考え方をする人が大半でホッとしました。いや、これまで、「これは本当だ、全部、物理的にもあったことなんだ」と言い出しかねない人と出会うことが多かったんで・・・。

 あと、ニッキ−氏の話で興味深かったのは宗教離れ、宗教嫌いは必ずしも日本特有の現象ではないこと。ニッキ−氏自身、英国人ですが、若き日はキリスト教、教会のことなど全く無関心で、学生時代のル−ムメイトが、教会に通い出したのをみて「ヤバイんじゃねえの」「変な教えをふきこまれなきゃよいが」と心配したそうです。また、あちら(英国)でも「キリスト教は関心ないけど、イエスはいい人ね」なんて日本人みたいなこという人はゴマンといるようですね。

 他には私が、キリスト教とか宗教への偏見、つまり、わけわかんない話を盲信する、みたいな先入感を改めさせてくれたのは、遠藤周作氏の「私にとって神とは」でしたが、私と同年代の方でやはり同じ過程を辿った方がおられまして、話が合いましたね。

 塩梅さんの元の教会、お話を聞く限り、私の基準ではこれはもう立派なカルト、一信徒の個人的トラブルのレベルを超えているように思えます。個人的な生ぬるいアドバイスや気休めでどうにかなるような話ではないような・・。どこか然るべき相談機関(例えば宗教、カルト被害者救済のボランティアとか、伝統的教会でカルト被害者の相談に応じているようなところなど)に相談されたことはあるのでしょうか?でも、今更、古傷を蒸し返すのも酷ですよね・・・。

>また社会的にも、信者ではない方々との共存を強く望みます。

 私がキリスト教に反発を感じたのは、初詣、七五三、仏式の葬儀の際のお焼香拒否でした。別にそれらの風習に思いいれや思想を持っているわけではないのですが、考え方がイヤです。
 それらが、江戸時代の踏み絵のように信仰を試すものであれば、拒否するのも致し方ありませんが、そんな意味を込めてこれらの行事、風習を続けている日本人なんてほとんどいないはずです。じゃあ、キリスト教の葬儀や行事で「俺はクリスチャンじゃないから」といって、祈りなど、キリスト教の伝統をことごとく拒否する人がいたらどう思うのか?そういうこと考えないのかな、なんて独りよがりな、なんて反発がありました、というか今もありますね。

 そういう頑なというか、未信者との協調を考えないような信仰をする人が少ない、ということで(それだけではないですけど)カトリック教会に流れたんですけどね。

247Sekko:2007/09/24(月) 23:56:57
お気をつけください
この直前、1件削除しました。このコーナーを宗教の掲示板として使うことはまったく問題ありません。しかしあくまでも竹下節子の考え方のシンパであることがこのサロンのメンバーの条件です。ここでは、いっさいの勧誘や布教はしませんし、どこかの宗派をめぐる内部の対立も持ち込まないようにお願いします。建設的でないもの、適切でないと判断したものははすぐ削除します。

 さて、復活についてですが、復活を物理的事実として原理主義的にしがみつくあまり一人の人間だったイエスの人生の意味を無視する人たち、また逆に「人間イエス」にのみ固執して復活は宗教的蒙昧や単にシンボリックな者として切り捨てるグループ、どちらも本当のミステールが見えなくなる危険があります。

 少なくとも最初の弟子たちがイエスの体の復活を事実として見て、信じた、そこからキリスト教が生まれ、それを語ろうとしてイエスの記録である福音書も編まれたのですから。復活が事実かどうかとは別に、復活を事実とした使徒たちの確信を抜きにしてはキリスト教は語れないと思います。
 そのイエスを神としたリ、唯一の救世主キリストとしたのはまたその後の展開です。まあ、刑死した人が復活、子なる神とされる、というかなりアクロバチックな展開のおかげで、偉大な神、裁く神、罰する神、のイメージから、苦しむ神、悲しむ神、寄り添う神へシフトした部分があるんで、それはなんというか、宗教に、限りないやさしさをもたらしてくれた感じですね。

 イエスの死と復活のストーリーとそれを信じた人たちを通して「全知全能の絶対神」の孤独や犠牲とかを考えると、この世で有限である自分の命に対してもなんか、すなおに受け入れられる気がしてくるんです。

248迷える大羊:2007/09/28(金) 21:32:27
麻生太郎さん
 復活をどう捉えるか、は本当に難しいですね。どんなにリベラル、現世的、合理的な考えをする教派でも、これを否定はできないし、否定してしまうと、どうして、卑怯だったり愚劣だったりした弟子たちが、殉教も辞さない強固な信仰の持ち主になったか?の説明がつかないし、実際、キリスト教が成立することもなかったでしょうし。といって丸呑みしてしまうのもこれまた受け容れ難いものがあるし・・。

 ところで、話が変わりますが、自民総裁選で惜しくも敗れてしまった麻生太郎氏。政治家として彼を特別支持しているとか、人格的に敬服しているってわけではないのですが、彼をみているとホッとすることが多々あります。
 つまり、「ああ、こういう人でもキリスト教、カトリック教徒やっていられるんだ」という意味で(失礼!麻生さん)。

 ほら、なんとなくあるじゃないですか、日本でキリスト教徒、というと下品なこと、特に下ネタ禁止、いつも穏やかで人格円満、ビジュアル面では男性の場合は開祖イエスを筆頭に優男風のイメ−ジ、あるいはマザ−テレサのようなやたらと立派な人、ボランティア精神あふれた人、みたいな・・。

 麻生氏の場合、こういう日本におけるキリスト教徒のイメ−ジをことごとく打ち破ってくれる、という意味で「すばらしい」クリスチャン、カトリック教徒だ、と思うわけです。何しろ口が悪くて余計な敵を数多く作ってしまう、人相も大変失礼ながら、どちらかといえば悪役風、少なくとも優男風のイメ−ジでは全くない。弱者救済に特別熱心、という風でもないし(別に批判も肯定もしているわけではないです、口や言葉でいうほど簡単なことではないとおもいますし)上にマンガオタク・・。

 かくいう私も、下ネタ大好きでスケベですし、ボランティア活動など立派だ、とは思うけれど、自分自身がやるとなると、住んでいるマンションの管理組合の役員程度でもメンドクセ−、なんで休日にこんなことせないかんの、とぶつぶついうタイプ。電車でも、誰がみても明らかに身体が不自由で、という方なら別ですが、お年寄りを見ると率先して席をゆずり、なんてタイプでは間違ってもない。
 マザ−テレサ氏など、あまりにすごすぎてとても同じ人間とは思えない、感じです。また、腹の立つことをいわれれば相手が年長者、上司でもつい声を荒げ、場合によってはケンカもしてしまいますし、「右の頬を打たれたら、左の頬を・・」なんて心境は実感としてさっぱりわからないですしね。

 あと、麻生氏の場合、キリスト教徒ですが、靖国公式参拝も行ってます。政治家の靖国参拝の是非については、これまた議論がいろいろ割れるところで単純にどうこういえる問題ではないですが、神社仏閣というと、異教、偶像崇拝、真の神ではない、などといって切り捨てるクリスチャンと出会うことが多かった私には、政治の問題とは別に「ああ、こういうキリスト教徒もいるのか」という感じで、むしろ、ホッとする要素だったりします。

 つまり、復活信仰と並んで私にとってのキリスト教への障害である、やたらと高邁な道徳律、倫理観、唯一神への窮屈きわまりない絶対服従を要求されて、重苦しい毎日を送らなくてはならないのでは?という憂慮を身をもって取り除いてくれる存在、ということで、麻生氏は私にとって貴重な存在なのです。

 もっとも、政治家、芸能人、文化人などの著名人のイメ−ジって多分に作られたものもあると思うので(特にメディアが高度に発達した現代では)、本当の、素顔の麻生氏がどういう方なのかは存じません。あくまでメディアに露出したイメ−ジを前提にしたお話であることをお断りしなくてはなりませんが。

249Sekko:2007/09/30(日) 00:24:07
日本のキリスト者の責任
 私は昔は日本でいわゆるキリスト教関係の人、と付き合いがなかったので、キリスト教のコミュニティにはじめて参加したのは、フランスです。特に、フランドルなんですが、その村は、もう何世紀も、カトリックしかないんで、全員カトリック、まあ、キリストは氏神みたいなもんで、信者コミュニティはそのまま町内会みたいなものです。

 だから、当然、立派な人、いい加減な人、あきらかに悪いやつ、など、人の数だけいろいろいるわけで、その上田舎だから、へんな呪術みたいなのやっている人までいましたね。そんな村の出身で、スピリチュアリティに目覚めた義妹は、パリにでたあと、チベット仏教のコミュニティに入ってしまいました。

彼女の指導ラマであるチベットのお坊さんは、家族の洗礼とかある度フランドルの教会にも出入りしてました。

 フランスでチベット仏教やれば当然マイノリティなので、変な行動を取れば即カルトだと思われるから、倫理規範というか外から見える「正しい行動パターン」が自然と要求されます。カトだと、日本の浄土真宗とかと同じで、そういうプレッシャーはないですから。でもたまに、いかにも信仰が篤くて、いつもせいいっぱい誠実に篤実に生きていて、ああいう人だったら、死ぬのも怖くないだろうなあ、と羨ましくなる人もいます。それは、どの宗教でも同じでしょうね。

 日本だと、キリスト教がマイノリティなので、日本でキリスト者、っていうと、その人の生活態度とかが、「信者だからああなのか」と思われがちですから、何か、責任のようなのがでて来ますね。

でも、理想は、人間として誠実に生きていて、人の信頼を得て、後で、あの人、カトリックなんだ、じゃあ、あの人の信じてるものを信じてみようかなあ、と人に思わせるような展開でしょうね。

 でも、最終的には、何教とか何の宗派なんてことよりも、愛とか連帯とか、弱者を支えたり、弱者に譲歩したりとかいう精神を実践すること、それが一番じゃないでしょうか。そのためのガイドラインなら、宗派や文化の違いはこだわらなくてもいいんじゃないかと思います。

何かに帰依したからといってそういう行動が自動的に獲得されるわけでないのは当然で、でも、理想があるからこそ、多少ともいい方向に向かえるんで、規範がなければ人間なんて、どんどん悪い方、下劣な方に流れますからね。
各種の戒律って、すごい智慧かもしれません。

あっ、ほっといてもまっすぐな人間ってのもこの世にはいますよ。何してもねじくれてる人もいるように。だから、連帯、が大事なのかも。

250迷える大羊:2007/10/01(月) 22:48:22
キリスト教徒の歴史観
 ここのところ、カトリック教会ではペトロ岐部、原主水などの戦国末期から江戸時代にかけての殉教者がよく取り上げられまして、ちょくちょく覗きにいく教会でも、ゆかりの地の巡礼ツア−、遠足などをやっていたりしますね。。

 もちろん、この時代に殉教していった多くの信徒や司祭は個人としては純粋に頑張った、立派とも思います。だけど、私の歴史観だと、だからといって、キリシタンを弾圧した秀吉、家康や江戸幕府が単純に血も涙もない極悪非道な連中で、キリシタン、キリスト教側がこれまた単純に一方的に苛められるばかりの善意の人たちばかり、とは思えないんですよね。

 キリシタン大名の領地では逆に仏教神道が迫害されて、神社仏閣が破壊されていましたし、ロ−マ教皇に土地を寄進までした大名もいたし、あの当時のキリスト教、宣教師といえば、植民地獲得の露払い役的な役割があって、現にフィリピンなどその土地の伝統文化、宗教がすっかり破壊されてしまって、国名までスペイン国王の名前になっちゃったわけですよね。(後の時代のハワイなどもやっぱり伝統文化、宗教がすっかりなくなっちゃいました)

 それにキリスト教って今でも、他宗教、他の伝統宗教に対し、非常に排他的な態度を取る信徒、聖職者が少なからずいますよね。まして、この時代ならなおさらで、ザビエルはじめとする宣教師たちも、キリシタン大名の領地で仏閣、寺院が破壊されることを褒め称えていたわけで、私など、この時代、日本がキリスト教国にならなかったのはむしろ幸運なこと、今でもキリスト教徒の人口比1%以下なのは、残念でもあるけど、一方で一つの国としてはある意味では健全、精神的に独立している証拠で必ずしも悪いことじゃないな、とも思っていたりします。

 大体、同時代(戦国末期〜江戸時代初期)に逆に日本の僧侶や神官があちら(ヨ−ロッパ)に行って、自由に仏教や神道の布教活動ができたのかどうか?同じキリスト教内でも異端だ、魔女だとかいって殺し合いしてましたし、キリスト教徒でなくなる、つまり教会から破門されることは、社会生活が営めなくなることを意味するわけで、だからこそ、ガリレオも涙を呑んで、地動説を撤回したわけですよね。こんなところにとても、他宗教が入る余地があったとは思えません。多分、寺院を建てたり、信者獲得の間もなく、あっという間に逮捕、宗教裁判にかけられるのがオチであるような気がします。

 それに対し、日本ではある期間まではキリスト教の布教活動ができたわけで、それなりにある程度までは受け容れられたわけですよね。秀吉や家康にしても最初からキリスト教迫害をしていたわけではなく、当初は好意的だったり黙認していたりしたわけで、この時代に関していえば、日本の方がどう考えても、キリスト教国のヨ−ロッパより、今でいうところの「信教の自由」があり、宗教的には寛容だった気がします。

 要するに、話を戻せば、多くの殉教信徒や殉教司祭の頑張りはわかりますが、単純に感動できない、むしろ迫害する側の考えもわかる気がするなぁ、というのが私の歴史観なんですけど、こういう考え方をする人間ってクリスチャン、カトリック教徒としては受け難いですかね?そりゃ、まあ、保守的な人にはいい顔をされない考え方でしょうけど・・。

251Fusako:2007/10/01(月) 23:02:06
マルタの話
最近、キリスト教の女子校出身の友人たちと、一人は同窓の友人、一人は別の学校の若い友人と話す機会があって、「猫のソシアル」に出ているたとえ話のことをきいてみましたら、二人とも、マルタの話に納得できなかった、とやはり言っていました。わたしも含めて、三人とも、学校時代はキリスト教にも、お嬢さん学校的女子校の雰囲気にも反発していた口で、若い人は、「不合理なたとえ話」にはいまだに納得できないようでしたが、同窓の友人は、わたしと同年代でけっこう大変な暮らしを経てきていまだにタイヘンという人で、わたしもですが、自分が「10タラント」の人間とは特に思わなくなっているし、まあ、人それぞれがそもそも同じタラントで一直線上に並べられるものでもないと思うようになっているので、「なかなか味わい深いものがあるたとえ話よねー、信者じゃないけど、若い頃にキリスト教に触れたのは良かったわ」と二人でうなづきあった次第でした。

252vino:2007/10/08(月) 10:01:26
まず、御用ありきでして・・・
このマルタとマリアのお話はいつも胸に深く染み込んでおります。まだまだ私程度のレベルですと、礼拝中も<この後、あの件を○○さんに確認して、来週のあの事を××さんと相談して・・・>という感じで教会へ出掛けるイコールまずは御用!!になってしまいがちです。神様にはちょっと失礼しちゃう事ばかりです。いくつかの事を同時進行でできる能力はそうそう授かるものではないですよね・・・。思えば、求道中の方が今よりもずっと素直で熱心でした(笑)  キリスト教は逆説の信仰とも言うそうですからボチボチと、できる人ができる時にできる事をするよりないのでしょうね。

253Sekko:2007/10/08(月) 17:58:09
いろいろ
大羊さま、
この夏、江戸時代のキリシタン狩りでキリシタンを告発したら賞金がでて、身分の高い人なら高額、一般人でも今にして700万円ももらえたので、貧乏なうちは家族の一人を無理やりキリシタンとして売った、という話を聞きました。なかには、キリシタンのことに無知で偽物だとばれてしまった人もあったそうです。
日本のキリシタン弾圧って、聞けば聞くほど、異様に洗練されてる部分があって、弾圧側に少数の天才がいたようです。
「えーい、邪魔だ、皆殺し」とか感情的なとこがあまりないんですね。それだけにより怖いとも思います。ヨーロッパの連中の魔女狩りとか先住民狩りの方が単純といえば単純かもしれません。悪における洗練の問題って、倒錯的ですが、必ず傑出した天才が隠れているので、凡人には平凡な悪しか手が届かないみたいです。だからと言って害が少ないわけではないですけど。

Fusako様、vino様、
人生って、生存に必要なメンテナンスと、生活に必要な義務と雑用と、それがメインで、スピリチュアルな部分って、嵐の夜の閃光みたいなものかもしれませんね。でも、逆に、超越的なものの陽光にずっと照らされていたりしたら、かえって誰もそれに気がつかないかも。
一度でも光を意識できた人が、その記憶にすがって長い信仰の夜を生きていく、ていうのが普通かもしれません。マザー・テレサの50年にわたる信仰の夜が最近話題になりましたが、彼女は神がいないといったんじゃなくて、隠れてる、見えない、と苦しんでいたんですね。
「見えないときは気にしない」、天気や昼夜を変えるわけにはいかないんだから、と不可知論的にあしらってもいいんじゃないでしょうか。信仰に基づいた行動規範さえあれば(マザーテレサがそれで50年やってきたように)いいんですよ、きっと。

254迷える大羊:2007/10/13(土) 16:34:30
カトリックとロ−マ帝国
 >日本のキリシタン弾圧って、聞けば聞くほど、異様に洗練されてる部分があって、弾圧側に少数の天才がいたようです。

 イジメにしても欧米がストレ−トなもの言い、行動をするのに比べ、日本は精神的に追い詰める、疎外していく、というパタ−ンが多い感じですよね。しかし、金目当てに家族売るんですか?旧約聖書にも確か、優秀で親の覚えもめでたい末っ子をエジプトに奴隷として売り飛ばす、とんでもない兄貴たちの話がありますが・・。昔は子供を売り飛ばすことって今考えるほどとんでもない話じゃなかったんですかね?

 ところで、話変わりますが、私がキリスト教の中でもカトリックに近づいた理由として、もちろん、感覚や考え方に違和感が少ない、ということが第一ですが、古代ロ−マ人の感覚、文化を色濃く残している宗教、教派ってこともあるんですよね。

 いささかミ−ハ−で恐縮ですが、塩野七生の「ロ−マ人の物語」とか「スタ−ウォ−ズ」(宇宙が舞台になっていても、皇帝やら元老院やらが出てきたりして、そこで展開される世界はまるっきり古代ロ−マ帝国)、「ベンハ−」、「スパルタクス」、「グラデュエ−タ−」などロ−マ帝国関連の小説、映画が大好きだったりします。

 カトリックの場合、マリア崇敬は昔のロ−マ人の女神ビ−ナス信仰がマリアに置き換わったもの、と聞きますし、教皇制はかつてのロ−マ帝政の制度の影響をある程度受けたものなのかな?と思いますし。かつてのロ−マ帝国では国家に貢献した皇帝、軍人、著名人は元老院の承認の上、神に祀り上げられましたが、カトリックの聖人とか福者というのもその名残なのかな?と思ったりします。あと、昔はラテン語でミサを行っていたこともロ−マ帝国の匂いを色濃く感じるところですね。

 また、カトリック教会が比較的、異教の風習、文化に寛容で抵抗なく取り入れるところもかつてのロ−マ帝国、ロ−マ人の気質と共通するところを感じるんですよね。

 当方の勘違いなのかもしれませんが、こういうカトリックの諸制度や考え方を見聞きすると古代ロ−マ帝国の影響をかなり感じますが、実際のところ、どうなのでしょうね?

255Sekko:2007/10/14(日) 05:05:09
そうですね。
少なくとも今の大手の、いわゆるカトリックって、ローマ帝国の版図に広がったローマ・カトリックだし、今に至るまでのインカルチュレーションのやり方とか、ローマ帝国の広げ方と似てますよね。

そういった古代のギリシャ・ローマ系の土台に、かなり異質なパレスチナの荒野の一神教が接木されてしまったところがハイブリッドで興味があります。

まあ、私のいるフランスなんかは、ラテンとケルトとゲルマンのまざった辺境だったんで、そこを地中海系の高度な文化や宗教が席巻して、それでもある程度自己流に変えてお茶を濁しちゃってます。

日本に道教やら仏教やら儒教やらが大陸から入ってきたのを日本化しちゃってるのと意外と似てるなあと思います。

旧約聖書のヨセフを兄たちが売ったのはどっちかと言うと嫉妬のせいです。貧乏のせいじゃないですよ。
でも貧乏な家族が生き延びるために子を売るなんて、昔は珍しくなかったのでは? 口減らしに奉公にやっちゃうのはもちろん、女の子を遊郭に売ったなんてよくある話です。だからいいってわけじゃないけど。
その金はたいしたことなかったと思うんで、それに比べたら、キリシタン告発でもらえる金はいかにも大金だったと思います。
家族内部でのキリシタン告発でも金をやる、これはけっこう私にとって盲点だったんで、他の国のキリシタン弾圧にはなかったんじゃないかなあ、と思います。誰かに調べてほしいですね。

256greencurry:2007/10/19(金) 10:01:40
弱い父ヨセフ
Sekkoさま、「弱い父ヨセフ」読み始めました。まだほんの数ページですが、今まで知らなかったことがいっぱい出てきて興味深く読んでいます。
それで、とっても基本的なことをお伺いしますが、プロテスタントは聖人信仰という迷信を排除した、というくだりがあったと思うのですが、
聖人信仰はカトリックだけのものなのですか?
あとギリシャ正教とかにもあるのですか?

257管理人:2007/10/24(水) 11:57:43
特定の宗教の宣伝不可
サイト管理人です。
このサイトでは、特定の宗教の宣伝は不可とします。
したがって、そのように私がみなしたものについては削除します。
よってこの直前の投稿については削除いたしました。

258太陽丸:2007/10/25(木) 21:55:15
感謝 感激
なんだか竹下さんのサイトみていると、毎回、エンパワ−され、元気づけられます。本当に、ありがとうございます。

 私が共鳴、エンパワ−された竹下語録を以下に。

 1、理想が、戒があるからこそ、人は悪手を少しでも減らすことができる。よって、各種 の戒律、規範はすごい智慧であること。
 2、何宗教、名派なんてことより、愛とか連帯、いたわり等の精神の実践のほうが大切。
 3、人生は、悪手の山河、嵐、泥沼を渡り歩いているようなものだが、いつしか、来たる 超越の光にてらされるまで、その闇夜をバランスのとれた紳士な精神で、はっきりした理 由は証明しきれなくとも、続けることが大切である。
 4、信仰というのは、理性とか利害とかを超えた、突き抜けた行為である。それ故、危険 な面もあり、真実も含まれている。
 5、結構、現状が劣勢で、外部が崩壊してきていても、内部を充実させるチャンスである こと。外部が結構、崩壊しても、自己イメ−ジのク−ルな下方修正によって、相応の喜び は得られるという救い。
 6、猫の存在から愛の感覚へのインスピレ−ションのありがたいお話。

まだまだ、感謝語録は満載ですが、とりあえず、私の勝手な味付けも加えながら、とっても元気づけられたことを、感謝、申し上げます。

ありがとうございました。  文は下手です。

259太陽丸:2007/10/28(日) 18:35:32
ごめんあそばせ
質問じゃなかったので、別掲示板に投稿すればよかったですね。
では。

260Sekko:2007/10/29(月) 02:25:59
いえいえ
 こんな風に言っていただけると、何らかの形でこのサイトがお役に立ってると思ってうれしいです。
 言葉が人を深いところで変革する力を持っているというのは、私も実感しているので、そういう言葉を醸成できるような心の余裕を持ちたいです。今読んでいるChristiane Singer という作家によるエロイーズの手記の中に、啓示とは、幻想の調和世界に亀裂が入ることで、そこから内臓に穴が穿たれた時に、人は、はじめて真実に向き合う用意ができるという意味のことが書いてありました。
 言葉って、ただ脳内世界で構築されたものじゃなく、内臓の傷を通して生まなきゃいけないんだなあ、とか思いました。
 これからもよろしくお願いします。

261太陽丸:2007/10/29(月) 19:48:51
お忙しいなか、ありがとうございます
ほんと、竹下さんの、著作やサイト、交流作業によって救われている人はたくさんいると思います。
そして、ご返信ありがとうございました。私には、少し難しくて、深くは理解できません。
でも、思い当たる節としては、例えば、日常生活において、紳士的でない邪念(実に、さまざまな形状、種類がありますよね)が脳内に生じたときに、それを打ち消すポジティブな内語をつかうのですが、容易に打ち消せるときはよいとして、身を切るほどつらい、抵抗感のあるケ−スもあります。
まるで、体中に泣きがはいるほどストイックでつらいときもあります、そして、そんなときにオ−ラみたいなものが大きく立ち上がる感じがするのです。つまり、体、精神の根源的なツボにふれて、正解の合図なのかもしれないなどと感じています。
このような、体中に、泣きがはいるほど辛い、身を切るようなポジティブな打ち消しの内語で対処する作業のときに、もしかして、内臓にも泣きの傷が刻み込まれて、刻印されて、それが、その人の身体性に反映され、その変化した身体性から、その人ならではの、独自の言葉、まさに、マニュアルでない、身を削ったエネルギ−のあるい迫力いっぱいの言葉や響き
言霊がうまれてくるのかもしれないと感じました。

少しは、合っているでしょうか?  末永く、よろしくお願いいたします。

262迷える大羊:2007/11/12(月) 23:17:58
クリスマスって・・
 クリスマスが近いんですけど、いつも感じる疑問。クリスマスって元々、キリスト教の祭りではなくて多神教時代の古代ローマ帝国にあった太陽神信仰の宗教のお祭りですよね。
 保守的なキリスト教会だと七五三や初詣などを異教のイベント、崇拝として拒否しますが、だったらクリスマスはなんでOKなんだ?といつも思ってました。
 冗談抜きで誰かこの疑問にスジの通った説明ができる方、いらっしゃいませんか?

263Sekko:2007/11/12(月) 23:33:38
クリスマス
 それは、ちゃんと意識的に、太陽神の祭りを置き換えるために教会がわざわざ冬至をクリスマスに設定したんですよ。日照時間が一年で一番短くなり、次の日からまた長くなるので、死と再生のイニシエーション儀式でもあるし、救世主の「誕生」のシンボリズムともぴったりだったんですね。ユダヤ人がエジプト時代に太陽神の信仰に触れたことで、それまでの民族神が普遍的な一神教に進化したという可能性もあるし、もともと、地球上の生物にとって、すべての生命の源のような太陽は「一神教」か、少なくとも「最高神」になりやすいですからね。
 教会はたいてい主祭壇が東にあって、朝のミサは、昇る
朝日に向かって捧げられる形でした。太陽の運行の方向や高さや日照時間を無視した宗教なんて、古代には成立しなかったでしょうね。その後も1月1日のヤヌス神の祭りはイエスの割礼の祝日だとか、太陽カレンダーや異教カレンダーをイエスの生涯にうまく当てはめてうまく調整していったわけです。七五三まではちょっと無理でしたね。

264迷える大羊:2007/11/12(月) 23:50:59
信じる理由
 現在、とあるカトリック教会の信徒有志が運営する、アルファコースという学びで様々なカトリック信徒、予備軍の方々と交流してますが、思ったより面白いですね。単に仲良くやっていけそう、というだけではなく、肝心の宗教観も私とそう大きく隔たっておらず(他宗教に寛容、積極的に理解する姿勢がある方が多いところが好感が持てるところですね)。意外と私と同年代の人間も結構いて、これは教会員としてもやっていけそうかも?という感触が現在のところあります。一緒に参加した妻(いささか保守的なプロテスタント信徒、結婚しました)もカトリック教会への印象が良くなったみたいで、「**(私のこと)ここで受洗してもいいんじゃない」といっております。彼女自身は特に改宗する予定はないですが、身内を預けても問題ないし、教会は違っても同じ宗教に居場所を見出してくれるのは単純にいいこととと思ってくれたみたいです。

 ただ、俺は本当に神様って信じてるかな?というと微妙です。もちろん、無神論者なわけはありませんが、強烈に信じている、というより、神様がいる、と仮定して生きた方が人生楽だし、筋の通った生き方ができるかもしれないな、という程度の認識なんですよね。
 正直、聖書が「誤りなき神の御言葉」とまでは思えないし(価値は認めてますが)、理解しがたいことは山ほどあります。

 ただ、遠藤周作氏の受け売りみたいになるんですが、「90%の疑いと10%の希望。その10%の可能性に賭けてみる」といった感じの心境といったところでしょうか?
 こんな感じで受洗なんて可能なんですかね?カト、プロ問わず受洗されたクリスチャンの方の受洗時の心境っていかがなものでしたでしょうか?

265Sekko:2007/11/13(火) 03:15:24
おめでとうございます
 結婚されたんですね。おめでとうございます。
 奥様のカトリック観も軟化(?)したみたいでよかったですね。受洗は到達点じゃなくて出発点だと考えるといいのでは?
 結婚生活もそうですよね。大羊さんの毎日がすてきなことでいっぱい満たされますように。

266迷える大羊:2007/11/13(火) 21:41:38
毎度お世話様です。
 なるほど、相性が良い風習をうまく調整して取り入れた、というわけですか。でも、やっぱりまだちょっと釈然としないところはありますねぇ。ヨーロッパの異教ならOKで日本の異教はペケですか?所詮は欧米人のための宗教なのね、みたいな感じがして。
 実はこの異教のあまりに頑なな排除がキリスト教への大きな抵抗の一つでもありましたから。
 そう思っていたら、カトリック教会って七五三のミサやってたりして、お、公平じゃないか、話がわかるではないか、と感心したことが、カトリックっていいよね、と思った理由の一つだったりします。

 受洗に至る過程、その時点での信仰度、心境は、また信徒の方にアルファコースで出会った際にじっくりお話を聞いてみよう、と思います。

267Sekko:2007/11/14(水) 00:50:11
七五三のミサ
 へー、七五三のミサなんてあるんですね。知りませんでした。

 ヨーロッパの異教はOKで日本のはだめ、ってわけでなく、ローマ帝国の版図にキリスト教が広がる過程で、先行するギリシャ・ローマの多神教とどう折り合いをつけるかという戦略だったんでしょう。

 それを見すえて典礼カレンダーを整備したわけです。で、日本に宣教、って時代には、すでに帝国主義的メンタリティだったので、インカルチュレーション、なに、それ? って状態だったんでしょうね。

 でも、中南米とか見てたら、やはり帝国主義メンタリティで布教されたにもかかわらず、インディオの宗教とかアフリカからの宗教とかがカトリックと習合してブードゥーみたいなものすごい繁殖力を持ちましたから、何が何でも力で制覇するってのは、心の問題や死生観のかかわる分野では所詮無理なのかも、です。

 日本人は真面目だから、そして、中央集権がが確立して来た時代だったから、中途半端な習合に至らずに、完璧追放と弾圧にふみきったのかもしれませんね。仏教を神道と習合させてしまったような業をもう一度使うには、キリスト教は一神教過ぎた、ってことなのでしょうか。

268vino:2007/11/17(土) 15:30:59
(無題)
大羊さん、ご結婚、おめでとうございます。人生の墓場の先輩として、お喜び申し上げます。いえいえ、墓場はオーバーですが、何がどう回っても、大変な事の方が多いのが人生ですものね。既婚、未婚、子有り、子無し、関係ありません。  間違っていたらごめんなさい。大羊さん、DのK高校、T先生のBBSで時折見かけるノンクリさと同一人物でしょうか?<S・・・な気持ち>なんて表現もされていますし・・・。私もあちらも良く覘かせていただいています。SEKKOさん、<超越的なものの陽光に照らされ・・・>のコメント、本当にありがとうございます。まさに私が言いたくて上手に表現できなかった気持ちにピッタリです。この数年、<夢で観た>ならかわいいほうで、<声を聞いた>とか<姿を観た>とか、何ですか、<霊的出会い>を強調する人の多い環境におりますので、ホッとしました。(すみません、またまた悪口言ってますね。)  さて、カト〜に七五三のミサがあるように、プロ〜にもこの時期、児童祝福式なるものがあります。S公会の人いわく、上手に当てはめたのねとのことです。時の王様が自分が離婚して再婚したいがために作られたS公会、現代の信徒は妙に達観している人が多いような感じです。濃いFの方はS公会のことをMIXなんて呼んでいてこれまた、びっくりしました。信仰の形や色はほんとうに様々ですね。

269迷える大羊:2007/11/18(日) 10:58:18
そうですよ
 T先生にもいろいろ教えていただきましたし、あちらのオフ会も出たことありますよ。
ネットのオフ会っていうと男性ばかりのことが多いのですが、キリスト教関係はどこも女性が多数派。いつもながら驚きます。

 信仰やキリスト教ではいろいろ困惑したり、悩んだりしましたので、いろいろなキリスト教関係者(ただし熱すぎない人)の意見を聞いてみたくて。そう思っていた矢先にこちらやT先生のサイトに出会ったわけです。
 思いもよらなかった交友(といえるかな?)関係が広がったのは単純に楽しいですね。

270nao:2007/11/18(日) 11:28:26
おめでとうございます。
大羊さま ご結婚おめでとうございます。毎朝、新妻と共にお食事できるのは、新鮮な喜びでしょうね!!大昔をおもいだしますが、私は働き続けていたので、なんだか、バタバタしたことだけが、記憶にあります。教会には行けなくなるし(夫は反対ではないけれど、日曜一人でいることに抵抗しました)さびしかつたことも思いだします。
今日は七・五・三のお祝いのミサでした。子どもが答唱詩篇を歌いました。「世界よ、神に向かつて喜びの声をあげ・・」という詩篇98の歌でした。朗読も子ども。大人よりきれいです。声が若いつて、素敵でした。ミサのあと神父さまから、祝福を受け、メダイを首にかけてもらい、千歳あめの袋に似せて、聖絵がかかれた、お菓子の袋をもらいました。25名くらい。さすがに小学低学年までの子だけでしたが、別に7・5・3歳でなくてもいいようでした。
信仰の入り口は本当に個性的ですね。加賀乙彦さんは「城塞」のなかで臨終のおじさんに「何故神を信じるようになつたのか」について語らせています。「聖書には一つもまちがつたことが書いてない。だから私はイエスの言葉を100%信じようとした。それを信仰の入り口とした」と。遠藤さんは10%の希望にかけた。遠藤さんは加賀さんの代父だつたかな?安岡さんも。男の人つて、自分の意識できめるんだな〜とおもいましたね。私は大学生のころ、3年公教要理(当時はカトリツク要理のことを、こうよびました)の勉強をし、わからんとこだらけで、でも「もういいわ、賭けてみよう」と決心して、親の猛反対をおしきつて受洗。今から考えると、私の精神的自立を果たしたわけです。「賭けてみよう」とおもつたのは、神父さまの生き様に心うたれたからかな・・信仰が先にきて、理屈はあとからなんとかなる、と思えたときが決断の時でした。
聖書の言葉はいまでもわからないところだらけです。でも「信仰の書」として、今わからなくても、深い意味があるんだろう、とレスペクトする精神でよんでいます(さぼりですが)
大羊さん 奥様はやはり神様への橋渡しをしてくださつた、大事な方ですね。二重の意味でおめでとうございます。

271迷える大羊:2007/11/18(日) 21:35:25
女性は素直です
 皆様、ありがとうございます。

>信仰が先にきて、理屈はあとからなんとかなる

 今日はとあるプロテスタント教会の礼拝に出てまいりましたが、その礼拝で信徒の一グループが受洗に至る過程、経緯をそれぞれ報告されてました。女性ばかりのグループでしたし、信仰に至る過程は皆、様々なのですが、全般的に女性の方々って素直で感性豊かですよね。彼女もそうですが、話を聞くとなんだか自分が理屈っぽい、ひねくれたイヤな奴なのかなぁ、と思えてきます。聖書(特に旧約部分)を読んでも、「うわー、こんなとんでもないこと書いてあるよぉ」とついアラ探しみたいなことはじめだしますし(もちろん、好きな聖句だってありますけど)。

 男って信仰のあるなしに関わらず、素直になれない、弱さを出せない、損な生き物なのかも、と思うことしきりですね。

272迷える大羊:2007/12/22(土) 23:53:57
クリスチャンと休日
 キリスト教と関わりあいになっていつも疑問に思うことなんですが、土日が休みにならない業種、職業の方はどうするんでしょう?という疑問がいつもあります。

 一応、カトリック、聖公会の場合ですと、ある程度以上の規模の教会に限りますが、平日も早朝にミサをやっていたりしますし、プロテスタントの場合も主に水曜日に祈祷会をやっていたりします。でも、そういう平日ミサのない地方の教会、プロテスタントの場合は休日がうまく祈祷会に当たらない人は実質的に教会活動は無理ですよね。

 まあ、教会に行くばかりが信仰ではないとはいえ、そういう交流がないのはちょっとつらい、というか寂しいものもあるのでは?という気もします。

 どうしてこんな疑問を感じるか?というと私の前職が工事関係で土日出が非常に多く、休日数が少ない職業であったこと、特に中小の下請会社、職人となると「いつ休むの?」といった感じの方が少なくありません。

 また、警察官、消防官、鉄道バス、コンビニ、デパートなどの流通関係に勤務している人も教会生活は困難でしょうね。でも、こういう人々がいなければ世の中は回りません。過去に転職したり世渡りをした個人的経験からいえば、少々乱暴ですが、なんだかんだいっても現在の日本で土日祝完全に休みで存分に教会活動ができる人というのはわりと恵まれた部類に属する人々ではないかな?という気がします。

 諸外国のことはわかりませんが、今の日本で完全に土日祝休みの職、業界といえば、なんといっても事務系公務員、大企業社員、実家暮らしなどで正社員になったり、しゃかりきに働かなくとも、とも生活に困らない人などなど・・、比較的「恵まれた」人が多い気がします。

 結局、何がいいたいか?というと、電車を動かし、コンビニで働く、工事などなど、土日祝も休まずに働く職業の人がいるからこそ(人によっては大変ひどい労働条件で)、世の中回っているのに、そういう人々が信仰の恵みに授かりにくく、別にキリスト教信仰の恵みにあずからなくたって十分恵まれていそうな(つまり、土日休みで、なおかつ生活に困らない人々)が存分に教会活動の楽しみを味わえる、というのはなんとも理不尽、とはいかないまでも不条理を感じてしまったりしたからなんですが。

 こういう、土日休めない職業に従事しているクリスチャンの方の知人、友人がいらっしゃる方、彼らの信仰生活ぶりはどうなのか知りたいところですね。

273nao:2007/12/28(金) 09:27:57
偉大ではなかつた生涯 作者不詳
彼は 小さな村に おとめを母として生まれた。
別の村で成長し そこで30歳まで大工として働いた。
その後 3年の間 巡回説教者として村々を巡り歩いた。

彼は一冊の本も書かなかつた。
選挙に出たこともなく 家庭も 自分の家ももたなかつた。
故郷から300キロ以上遠くには旅したこともなく
ふつうの人が偉大だと考えることは 何一つしなかつた。
自分の身一つ以外に 何の肩書きもなかつた。

世評が彼を攻撃し始めたとき 彼はまだ33歳だつた。
友人たちも彼を見捨てた。
敵の手に引き渡され 形だけの裁判でなぶりものにされた。
二人の泥棒にはさまれ
その真ん中に 釘で十字架に打ちつけられた。

死を目前に彼の唯一の持ち物だつた衣服は、
死刑執行人たちのくじ引きにされた。
彼が死んだ時 死骸は 知人の同情で友人の墓に葬られた。

それからおよそ2000年が過ぎ去つた。
今や彼は全人類にとつて最重要人物であり
人類に向上をもたらす存在である。

今日に至る歴史の中で かつて進軍した いかなる軍隊も
かつて航行した いかなる戦艦も
成立した いかなる議会も
統治した いかなる王たちも
さらにそれらすべてを合わせても
この たつた一人の人の生涯ほどには
地球上の人間の生に 影響を与えることはなかつた。


遅まきながら、主のご降誕のお祝いを申し上げます。

大羊さん、クリスマスはどのように過ごされましたでしょうか?カト教会のクリスマスは如何でした?福音派のクリスマスは?
私は足が悪い老人ですので、周りの方々のご好意がなければ、教会にはいけません。それは日曜日にミサに行けない方々と少し似たところがあります。
私はつれていつて下さる方が必ず、毎週いてくいださるので(人はかわりますし、たのんでいるわけでもないのに)クリスマスの夜のミサに預かることができました。
そして、大羊さんが書いておられた、教会に行けない人々のことを、しつかり心に刻み、お祈りをしました。またいつも私の生活を支えてくださる方々に幸せがありますように、とお祈りしました。
クリスマスはこういう感謝の気持ちや、不遇な方々のために祈る気持ちにさせてくれるありがたい日です。こういう気持ちが常に新たにされる、ということ自体、私の心をすくつているわけで、改めて信仰のありがたさとその不思議さに思いをいたしました。

うちの教会報にこの詩がのつていました。どこからとつてきたものか、かいてありません。どなたか、ご存知のかたがおられましたら教えてください。この「偉大でなかつた生涯」をおくられた方のおかげで、日々暮らしてゆける老女がいるというのは、やはり奇跡です。

SEKKO先生、大羊さま、VINOさま
いいお年をお迎えくださいませ。

274:2007/12/28(金) 13:24:18
ごあいさつ
はじめておたよりさせていただきます。
あまり模範的とはいえないカトリック信者です。
ことしはほとんど教会のミサにあずかることができませんでしたが、ぎうぎうの通勤電車の中でロザリオを唱えるという生活習慣を確立することができて、
自分ではそのことをよろこんでいます。
主日†主がご復活なさった日曜日すなわち土曜日の日没後†に教会のミサにあずかるのは、信者としての義務!であるわけですが、高校生の頃、パブテスト派のともだちと教会とはどのような場をいうのかと、語り合い、それは「建物のことではなく、心をひとつにする人々の居る場所のこと」であると、話がついて以来、どこで祈るかということでは、わたしは心煩うことを忘れました。金祝(誓願50年)を迎えられたC.N.D.シスタ、ホスチアさまにおかれましては、あり得ない信仰態度であっても、ユダヤ系ポーランド人ドミニコ会士懐疑派の主任司祭トマスさまは、肩をすくめて「余計な邪魔が入らないお祈りはさいわいでしょう」と祝福!してくださいます。シスタはわたしの憧れですが、その謹厳さが頑迷にうつることもありました。
竹下節子さんの著作を読むことで、共感的ではあっても、聖なるものに対して理性的なアプローチがありなんだと勇気づけられました。未読の著作もまだありますし、このサイトもたくさん情報が紹介されていて、きゃほう!です。竹下さんに主の祝福がかぎりなく注がれますように!

信仰にしても、妄想にしても、いつも複数のことを頭においておりますし、道草が好きなので、自分がなにを考えて調べていたのかわからなくなることが、よくあります。おたよりすることで、さまざまなことばが連なればさいわいと考えます。どぞよろしく。

275塩梅:2007/12/28(金) 14:41:36
お久しぶりです。
大羊さま

>キリスト教と関わりあいになっていつも疑問に思うことなんですが、土日が休みにならない業種、職業の方はどうするんでしょう?という疑問がいつもあります。

私は昔、介護職員でして、土日休みはまずあり得ませんでした。
当時通っていたところが、超教派で日曜日夜に集会を持っていたため、宿直・夜勤明けとか早番あがりで努力をしていましたが。しかし、それでも、毎週とまではいかなかったです。しかし、そのうち集会で知り合った夜間神学校のスタッフの女性がその学校の聴講に招いてくれるようになり、そこで一種埋め合わす形でした。
ただ不規則勤務でしたので、気力のみで乗りきった感じです。無理はしなかったつもりなんですけど、そのうち持病の発作が頻回になってドクターストップがかかってしまい、職場を辞めて療養の形になり…今に至ります。

当時の同業、また看護士の人たちに聞くと、

「夜間勤務のみにしてもらって、規則的な生活を取れるようにしている」

という人もいました。しかし、そういう条件で雇用いただける場所は限られているのではないかと思います。

介護の仕事を辞めてから、いくつかの仕事、家族介護を経由しましたが、特に家族介護しているときが教会に通いたくても通えない時期でした。そういうことで、私もロザリオを覚えたのです。数珠(…)の扱いが苦手な頃は、両手の指とかでやってました。未だに指でやる癖があります。信者でない家族への遠慮もあって、家ではなるべくそっとやってます。あと、自分のいける日でお聖堂に入れる時間にそっと入れていただいてお祈りさせていただくこともあります。そこは神父さまやシスター、教会事務の方にご理解をいただいてなんですが。私の場合は、率直に相談してよかったようです。

そう言えば、もう年末なんですね。このBBS管理・閲覧者の皆さま、どうぞ良いお年を。

276Sekko:2007/12/29(土) 01:31:42
みなさま、よいお年を
 おー、このコーナーはなんだか心優しい人の集まるあったか掲示板化してますね。ありがとうございます。日本のキリスト者の方、みなさん誠実ですね。フランスで葬式カトリックをやってる人たちとはえらい違いです。

 でも、私の中で仏教があまりインド的でないのと同じように、フランスにいるせいか、キリスト教って、パレスチナ起源とか、世界宗教というより、コーカソイドご用達だよなあ、という気がします。

それで、

「今や彼は全人類にとつて最重要人物であり
人類に向上をもたらす存在である。」

 って言われると、教会報的にはもちろんマルでしょうが、「全人類」とか「最重要」って形容されると、ほんとかよ、と突っ込みたくなることを告白します。

 キリスト者のみなさん、「彼」の死後(というか復活後)、2000年も、あなたたちは、彼のメッセージに忠実でしたか? 「向上」しましたか?
 すみません、けちをつける気はありません。
 軍隊やら戦艦や王たちよりも、長きに渡ってメッセージを発し続けるイエスという存在に感謝します。毎クリスマスに、これでもか、これでもかって、デジャヴの生誕シーンによって、光と希望を与えてくれることにも。

 パキスタンでベナジル・ブットがテロにやられましたよね。その後の暴動でさらに20人近くが死んでます。その20人は「その他大勢」あつかいです。そんなことすべてに不条理を感じる年の瀬です。「自分以外の人も大切にする」って、そんな単純な唯一のことを誰も守れないんでしょうか。
 この世には権力や経済や政治のパワーゲームがある。環境問題も格差問題もある。それらの問題の答えはもちろん一つではありません。
 X+Y=5 という式があったら、それは「不良設定計算問題」です。
 マイナスの整数やら少数もOKであれば、答えは無限にあるからです。
 でも、計算の拘束条件があれば?
 たとえば、自然数だけといえば、可能性はぐっと減ります。
 この世の複雑な問題も、「他者を大切にする」っていうルールさえ設定すれば、限りのない相対主義やカオスや憎悪の増幅には向かわないだろうに。

 宗教の教祖たる人は、釈迦でもキリストでもみんな口をすっぱくして利他を説いているのに・・・
 確かに、「彼」だけは、賛同者にまで見捨てられ、敵になぶりものにされてこの世の第一幕を閉じました。それは、胸を締めつけられる出来事です。だから、「彼」を信じる人はせめて、他者の不幸に共感力を持てる人であって欲しいです。
 すみません、なんか、空気を暗くして・・

 空頭さま、伝統キリスト教は理性的アプローチを含んでいますよ。ギリシャ哲学の牙城に切りこんでいったんですから、理性をツールとせずにはおれなかったんです。去年の秋、教皇がドイツでうっかり言っちゃったのはそういうことです。カトリックと理性は古くから野合しました。だからこそ、カトリック無神論は大きな力として成立したり、西洋近代が生まれたりしたんです。
 その意味で、プロテスタントやイスラムが文句を言ったのは無理もないです。
 まあ、内部にこういう絶対のパラドクスをかかえてるところがカトの魅力でもありますが。純然たる「信仰」には、理性は太刀打ちできませんから。

 というわけで(どういうわけ?)、お仕事やましてや肉体的ハンディや介護などのため、教会にいけない方、全然気に病むことはないと思います。自分を必要とする他者のそばにいる、ことほど、大切なことはないでしょうから。教会法上、教会に行くことは義務となってますが、あなたのそばにいて助けを必要としている人の役に立つことの方が、「義務を果たすよい信者」でいることより優先すると私は思います。「彼」だって、きっとそう言ってくれると思いますよ。

277迷える大羊:2007/12/31(月) 14:42:27
皆様よいお年を
 この年末は残業、また残業の猛烈な忙しさで、おまけに風邪ひいて寝込んでしまってさんざんでした。

 クリスマスはどこの教会もやることは一緒ですね。行きましたよ、カトリックも福音系も・・。まあ、ちょっと福音派の教会については大袈裟に言いすぎたきらいがなきにしもあらずですね、我ながら(私にとってはあの伝道熱心さ、クリスチャンホームへの異様なこだわりが困ったところなんですが)。NAOさん、足が悪い、というのは初めて聞きました。階段の多い都会で何かと大変とは思いますが、この年末年始、不慮の事故には十分お気を付け下さいね。

 塩梅さんは元介護職員ですか、大変なお仕事ですよね。で、聞くところによれば、大変な重労働なのに給料が恐ろしく安いらしいですね。同じ大学を出て、介護職員なんかよりはるかに労働条件が楽な一般企業のOLの方がずっと高収入、なんていうんじゃやってられませんよね。介護職員に限らず、今の日本で福祉関係の職はおしなべて、低賃金かつ厳しい労働条件を強いられる場合が多いですね。いつまでもボランティア精神あふれる人の献身に期待するのにも限度がある気がしますが・・。

 もっとも、僕は祖母がそういった介護施設に入所していますが、利用する立場からすると、人件費アップで利用料が上がっても困る、というのも偽らざる本音だし、難しいところで、ここでエラそうなことはとてもいえません。

 なるほど、ロザリオというのは、教会に行けない人の祈りの場、という意味合いもあるんですね。教会に行ける、行けないの問題は然るべき人に相談したり、工夫次第でなんとかなるみたいですね。

 僕はプロ・カト問わずあまりに教会べったり、イエス様べったり(つまり、キリスト教以外の価値観とか世界に対する視野が狭い)のクリスチャンって嫌い、とはいわないにしてもあまり望ましいものとは思わないので、教会に頼らず、信仰を自分なりに工夫して保っていくというのはかえっていいことなのかも、と思ったりもします。

 まあ、年末にエラそうな御託をいろいろ並べたててしまいましたが、皆様、良い新年をお迎えください。

278nao:2008/01/02(水) 10:14:49
介護職員の方々
私の夫はカトリツクの特養に3年間お世話になりました。カトリツクの施設なので、信徒の方が職員に多いのかとおもつていましたら、事務のかたは殆どカトリツクなのに、現場の看護、介護職員さん達には一人も信者がいませんでした。外部回りのかたには2名いましたが。現場の介護職員さんは実にいろんな宗教にはいつていましたね。宗教にはいつていない人のほうが、すくないのです。あまりよく知られていない、小さな教団がおおかつたです。その方たちの親切さは、見事でした。手かざし、とか、祈りを唱えながら世話するとか。おおきな教団が力を失なつていることは確かだとおもいました。でもその方たちもミサにはちやんと、参加して、共同祈願をいつてくれました。日本て、いろんな宗教が共存できる不思議な国だとおもいました。
大羊さん、足はたいしたことないんです。大腿部骨折で、杖がないとあるけないんです。それだけ。まあ、少しはあるけますが、遠方は無理なので、皆さんがたすけてくださいます。要介護一を頂いています。お掃除、買い物、通院には介助が必要な身ですが、家のことはこなしています。大げさになりましたね。ごめんなさい。
元旦のミサには帰省した若い方々で、教会がいつぺんに若返りました。クリスマスと元旦だけは若い人で溢れますが、それでも少なくなつた印象があります。まあ、配られたおもちは160個なくなつたようですが・・。

279迷える大羊:2008/01/06(日) 22:09:37
奇跡話とは?
 以前にも似たようなスレ立てましたし、しつこくて恐縮なんですが、私がキリスト教について気になる、いまいち踏み込めないなぁと思うことの一つに「これは個人崇拝の宗教ではないか?」というものがあります。(言い訳めきますが、私だって「彼」のことは敬愛してますよ)

 その象徴的な話が福音書に見られる、「彼」が水の上歩いた、とか死人を蘇らせたとかいった類の奇跡話で、私が最初に関わった教会ではどうもこれを字句通り信じているのでは?といった感じの方が少なくないところでした。彼らは「私たちはそういう能力を持つ神様の存在を信じているんです」とか「自分が信仰を託す神様は一番強くて無敵でないと困るんです」とかいうのですが・・。

 私からすると、もちろん奇跡話自体が荒唐無稽でダメ、ってこともありますが、キリスト教は現世利益を追い求める宗教でない、といいつつそんなものに憧れる、そういう俗っぽい「超能力」を「教祖」「開祖」に期待するメンタリティが理解不能ですし、それでは「尊師は空中浮揚ができる」とか「うちの総裁はチャネリングであの世の著名人とお話できる」とか「先生は世界各国の大学から名誉博士号を受けた」なんてことを信じて喜んでいる、カルト団体、新興宗教の信徒とレベル的に大して変わらないじゃないか!と思うこともあります。

 こういう、カルト団体、新興宗教の教祖様の「超能力」を信じることと、「彼」ことイエスの「超能力」を字句通りに信じることの質的にどう違うのか?おちゃらけでなく真面目に知りたいです。

280vino:2008/01/08(火) 19:05:43
明けましておめでとうございます
2008年も滑り出し、子供達の成長と共に、こちらの老い、両親の老い、そして何よりも時間の過ぎる速さを痛感します。 T先生のブログに<ヨーロッパのクリスマスを経験する事は牧師を現役中は無理>なる意味の事が書いてあり、本当にあのお立場は大変な事ばかりなのだと改めて思わされた次第です。 それこそ、遠方に年の多い親御さんがあるなんていう場合は<その節>にも親の死に目にも会えないですし、親子で牧師の場合も親御さんの<偲ぶ会>に欠席して自分の御用を執り行うわけですし、クリスマス疲れの後の気楽なお正月・・・になるのも無理の無い事です。憧れや思い出でと共にどんなものも少し遠くにありてこそ美しいだけで済むのですね。  我家ではお雑煮やお節料理、年賀状なども日本人の普通の家庭の行事として行っていますが、F派の濃い方々ですと、<あれは良いけれどこれはNG>なんて感じで大変なんでしょうか?  勿論、節分だの、恵方巻きなど、サタンだったりするんでしょうか?  悪口になりますが、そして大羊さんの疑問の答えにはならないでしょうが、イエスをあまりにも担ぎ上げるあの方向性は日本史で習った<摂政・関白>のごとき感じを受けてしまいます。お神輿を動かすのは人間であって結局自分の都合の良い方向へ進んでいるだけなような・・・。 今年は特にアメリカで大統領選挙のある年ですし、<モスリムは悪>ってことにしておけば都合よく済む・・・ってなもんでしょう。 人口のわずか1%にも満たない日本のクリ〜ですが、明治維新以後、政府のお雇い外国人と交流のあった旧・武士階級から信仰が広まったそうです。あの時代、英語が身近にあったり、ミッション・スクールに通うなどほとんどの庶民には別世界の話ですものね。  今も<高収入、高学歴、高意識>な人が多いと言われているようですし、<敷居が高い>感じなのもこんなところからも来ているのでしょうね。本当に必要なところへは届いていないのかしら?病院やホスピスでの奉仕で日曜も教会には来られない方もK団の信徒にはいらっしゃいます。近所のお年寄りの病院やらそれこそお寺さん通いの運転を引き受けていて自分の教会の御用ができない方もあります。勿論、牧師や皆さんの考え方にもよるでしょうが、<必要とされている場所>で働く事は大切だと思います。だからこそ、<時と健康を感謝して・・・>なる表現も多様されるのでしょうね。  寒い季節です、皆さん、お体を大切に。NAO様、ご無理をなさらないでくださいね。  今年もどうぞよろしくお願いします。

281Sekko:2008/01/08(火) 23:21:59
大羊さんへ
 みなさま、今年も宜しくお願いいたします。

 大羊さん、相変わらず「迷える」状態で大変ですね。

 イエスの奇跡とか、超能力について、私は、全然、気にしてません。
 イエスの奇跡は信仰の対象になっていますが、それは、別に証明の対象じゃないですからね。

 ヒーラーといわれる存在は世にいろいろいるみたいだし、ああ、そうですかと思いますが、私は自分にはあまり期待してません。それこそ「信仰が足りない」と思うんで。絶対救ってもらえると思うより、あきらめる方が私には簡単かも、です。

 奇跡譚は、まあ、水上を歩くなら、普段歩いて渡れる川が増水して渡れないのに、向こう岸に行きたいって時には便利かもですが、まあ、船って手もあるし、胡坐をかいて空中浮揚なんて、それこそ、何の役に立つのか・・・って感じです。イエスの「超能力」は同時代的じゃないので別に問題ないです。同じ能力を獲得するために修行しろとか教祖の風呂の残り湯を飲めとか言われるのじゃなければ気にしません。別に特に「尊敬」の対象にもなりません。「超」でなくとも、「能力」を尊敬したい人たちは無限にいますけど。

 大体、聖書の解釈学の歴史を紐解くと、イエスの「奇跡譚」について徹底的に否定した時代や傾向もありました。あれはいわゆるレトリックで、シンポリックな表現なので文字通り受け取ってはいけないとか、新約の中ではパウロの手紙類が一番古いテキストで、そこには奇跡譚は出てこない、福音書は、原始教会がイエスを救世主とした後で編集された教育的言説なので文学の一種である、奇跡譚はその時代のその地方の文学の流れの中で形成されたのだ、とか・・・

 人間が世界を見る視座には、科学的なものと宗教的なものの二つがあります。科学的なものは、仮説をたてて実験的に再現できるなど、試行錯誤的真理であり、宗教的なものは、超越的な視野を持つことです。

 ややこしいのは、ここで「宗教的」といったのは、「キリスト教的」と言うことです。キリスト教以前は、アニミズム的、つまり、「呪術的視座」が普通でした。そこにキリスト教が、ギリシャ的な科学観をツールにして、人を呪術的世界から「解放」しようとしたのですね。しかし、ギリシャ的な科学が、コスモスを閉じた秩序と見てその中に人の居場所を見つけようとしたのに対して、キリスト教(ユダヤ教も)は神が人を自由意志を持つ自分の似姿で、自分のプロジェクトに参加させようと、契約をかわした、という考えを打ち出しました。「進歩思想」というのはそこから生まれ、近代科学もそこから生まれたんですね。

 でも宗教としてのキリスト教は、世界を超越的に捉えようとしたので、聖書にも世界の呈示はあっても「解明」はありません。ガリレオが地動説を捨てて転向したのは教会の圧力でしたが、聖書が天動説をうたっていたわけではなく、地動説は当時教会が採用していた「アリストテレス的宇宙観」と相容れなかったからなんです。

 ギリシャ科学と神学をまぜちゃったところが失敗だったんですね。でも、そうやって形成された西洋科学主義は、結局、近代科学を生んで、今のカトリックでは、「世界の解明」は「科学」に任せるという、宗教と科学を分離するスタンスが普通かと思います。超越の視座と、実証主義の視座、二つのシステム、二つの理解の仕方であり、そのどちらかがどちらかを「従属」させようとする時に無益な対立や戦いが起こるわけです。

 日本はアニミズム的呪術的世界を温存してたので、「西洋近代科学=実はギリシャ科学とキリスト教の融合」を輸入した時、「和魂洋才」という二つの視座にあまり悩みませんでした。
 呪術と理性は葛藤しなかったんですね。近代西洋で超越と理性が葛藤したようには。
 まあ西洋以外のキリスト教文化では、呪術的心性をハイブリッドしてるところは多いですが。また、西洋的世界でも抑圧されてきた呪術的志向が、キリスト教の中の超能力とかオカルトとかを歪んだかたちで引き出しているという動きもあります。

 だから、この問題は、すごく複雑なんですよ。この辺のところを解説した本を今書いてるところです。

 ガリレオは、地動説は確信してたんですが、「この世には死んだり殺されたりされるに足る値打ちのあるような科学的真実などない」といって、地動説を引っ込めました。「それでも地球は動く」・・・

 ですから、大羊さんも、周りに宗教と科学と呪術を混ぜてしまってる人がいても、勘違いしてるんだなあ、とスルーして、あまり悩まない方がいいですよ。

282greencurry:2008/01/10(木) 23:02:45
奇跡
奇跡の話といえば、空海も奇跡を起こしたと言われていますね。持っていた杖(?)で地面を叩いたら温泉が湧き出て、人々がそれで癒されたとか。(それ以外の話も聞いたことありますけど覚えてないです、すいません)
私はいわゆる葬式仏教徒ですが、神道の考え方や密教、仏像などには興味を持ってます。空海の奇跡譚も、彼ならそんなこともあるかも・・なんて考えます。でも、私が空海を(大げさな言い方をすれば)尊敬するのに奇跡は必要ありません。
とある新興宗教の教祖(?)にはまっている知人は、その教祖が手品のように手から宝石とかを出したことを「すごい」と言います。だから尊敬に値するのだ、といわんばかりで。私はそれを聞いてMr.マリックもすごいぞ、それがどうした?と思ってしまうのですが、本人はとにかくそれで尊敬しちゃってるみたいです。
これって奇跡に対する温度差かもしれないなーとも思いました。
私にとってはそれが手品であるほうが尊敬してしまいます。
大羊さんの周辺の方々もその辺の温度差ってあるかもしれないですね。知人を見ていて「この人は不思議な話が好きなんだなー」って思いました。あと尊敬すべき対象が「すごい」人であるための単純な根拠みたいなのが必要なのかなーとも。
私はキリスト教徒の方で奇跡譚を信じている方を知らないのでなんともいえないですが、新興宗教の教祖の奇跡を信じることの方がちょっと危険な感じがします。
大羊さんの問いへの答えにはもちろんなってませんが、私もいろいろ考えちゃいましたので。
最後になりましたが、今年もよろしくお願いします。

283迷える大羊:2008/01/12(土) 20:15:15
奇跡話とは?2
 皆さん、レスありがとうございます。さすがにこちらのBBSには奇跡話を字句通りに受け取る方はいませんね。まあ、イエスの場合、別に権力者だったわけでもないし、キリスト教団を作ったわけでもない(むしろ、彼は組織化された宗教団体には否定的な感じがするのですが)んで、超人と崇めてもとくに害があるわけではないんですけどね。

 イエス、といっても宗教家として活動していたのは数年にも満たない期間だし、具体的な記録も聖書の福音書(それにしても書かれたのはイエスの活動期間より数十年後)しかないんで、人によって、イエス観が様々になってしまうんでしょう。そして、各々が描くイエス像にその人の神に対する見方、期待するものが見えてくるんでしょうね。

 ちなみに私は超能力者イエス、には何の興味もなく、かえって胡散臭く思えてしまいます。私からすればイエスは普通の、いや普通以下の弱い人だから信用できて共感できるし、その普通以下の人間がどんなに馬鹿にされようが、屈辱的な扱いをされようが、人を愛することをやめず、ひたすら己の信じる「救世主」の役割を放棄せず生き抜いたところが偉大というか「真の人、真の神」の所以ではないか、と思ってます。

 なんか、「救世主」とか「神」に死人を蘇らせるだの、らい病を一瞬のうちに治すだの、水の上を歩くだの、なんて超能力を期待する人って、新約聖書の時代にイエスにイスラエルからローマ帝国を駆逐する政治軍事的な役割を期待し、それが間違いとわかると「うそつき、磔だ」なんて叫んだ一般庶民と似たりよったりの気がしてしょうがないんですよね。

 ところで個人崇拝、で思い出しましたが、竹下先生の著作「ローマ法王」によれば、北朝鮮の「教祖」、故金日成首席の外戚はクリスチャンで、その関係か、かの国の食糧難の際には他の国に先駆けてヴァチカンに援助を求めてきたそうですね。かの国の独裁体制がやたらと宗教的なのはそのせい?(やはり、金父子に関する奇跡話が喧伝されているようです)
  朝鮮民主主義人民共和国になる以前のピョンヤンはあらゆる宗教が花盛りの土地だったとも聞きますし。

 これまた「ローマ法王」からの引用ですが、キューバのカストロも両親は実に敬虔なカトリック信者で本人もカトリックの教育を受けているそうですし、旧ソ連のスターリンも確か神学校の出身だったはずで、宗教、キリスト教が嫌いなはずの旧共産圏の独裁者はなぜか揃いも揃って、人一倍宗教的、キリスト教的な環境で育っているのは不思議といえば不思議。

 神に対して可愛さ余って憎さ百倍、ってところがあるんでしょうかね??

284迷える大羊:2008/01/19(土) 23:05:56
洗礼の基準って?
 なんだか、私一人でいろいろ書き連ねて、恐れ入りますが・・・。このサイトでさんざんキリスト教へのツッコミやらケチを入れている私。ケンカ、論争をふっかけている、と誤解をされる方もいるかもしれません。

 そんなことはないんです。イエス自身の生き方、死に様、思想は共感していますし、尊敬してます(マネは無理ですが・・)。でなければ、いくら妻が信者とはいえ、もっと徹底的に教会との関わりも否定してますし、第一このサイトにも出入りしません。
 クリスチャンの条件がイエスという宗教家、思想家の思想、行動、ライフスタイルに共感できるか?ということだけであればとっくに今頃、受洗していたでしょう。

 しかし、現実のキリスト教となると、「余計」な話が多すぎる、というのが実感でして・・。処女懐胎だの三位一体だの、イエスは神の子かそうでないか、とか、キツめのところとなると神社、寺で拝んじゃいかんとかいいとか、神をとるか進化論をとるかとか、ありゃなんとかならんのか?というのが偽らざる本音でして(やっぱりケチをつけてるんでしょうか?)。

 こちらの板で話題にした「キリスト教はイエス様への個人崇拝?」の疑問もとある教会の牧師さん(表現の通り、カトリックではありません)にぶつけてみたところ、「イエス様は神が人間の姿になったんです、人間がウジ虫になったものなんです、すごいことなんです。」と熱く語られ、困ってしまいました。「あなたも信仰をもてばそう思えるようになります」っていいますが、かえって「そういう問題かなぁ?これは俺のついていけない世界かも・・」と思わされたものでした。

 処女懐胎も三位一体も「真の人、真の神」論もすべて理解不能、「イエス様は至って普通の人(だから信じられる)です」といいきってしまう、焼香拒否のクリスチャンに対しては「自分が神を信じるなら、他の人間の信じる神にも礼儀を払わんかい!」といいたくなってしまう・・。唯一クリスチャンとしての条件を満たしている部分といえば、前述したとおり、イエスの生き様、死に様、思想、行動に共感できる、ことくらい。

 前述した牧師さんにそういう話をしたところ「それじゃ、ガンジーだとか、仏陀を尊敬するのとレベル的に変わらないんです、単なる道徳なんです」みたいなことを言われ、「それで何がまずいの?」とわけがわかんなくなりました。そういうものですかね?古代や中世の話とか、カルト団体の話ならともかく、現代にそこまで人を神と熱く信じ込めるメンタリティとか信仰って、なんだか想像がつかなくて。まあ、なんでも合理的ならいいって世界ではない、ってことくらいのことはわかりますが、それにしても、、という感じで。

 皆さんが洗礼を受けた際、やはり「イエスは神が人の形をとった(実在する人物を神のなんとか、と信じるのは前述したとおりどうにもカルト教団的な感じがして抵抗がある)」と信じてましたか?やっぱり「偉大な宗教家、思想家、その生きざま、死に様に共感する」程度じゃダメなんですかね?

285Sekko:2008/01/20(日) 07:30:23
大切なこと
 ここはカテキストさんのサイトでもなく、司祭さんや牧師さんや神学者のサイトでもないので、今大羊さんの関わっている信仰共同体で、何がどういう基準なのかは分かりませんし、私が答えることもできません。
 ここで是非お勧めしたいのは、マルシェル・ゴーシェの本なのですが、今アマゾンで検索したら、何と、翻訳が1冊しか出てないようなのです。それも私のお勧めの本ではありませんでした・・・その本を読んでくださると話は早いのですが・・・私の今執筆中の本には解説するつもりなので、もう少し待ってください・・・
 ここで大切なとこを押さえときますと、キリスト教というのは、やはり、イエスという人の思想に共感、というところから生まれた宗教ではないんですよ。
 当時、思想や生き様に共感した人たちは、死に方にはがっかりしたんです。
 その中からキリスト教がキリスト教として成立したのは、やはりイエスが復活したことと、それから彼を神と同格の「主」とみなしたところにあるわけです。
 それに比べたら、処女懐胎とか奇跡とかは枝葉です。
 で、三位一体で、神が受肉して人になって云々のディスクールですが、これは検証するとか証明できるような問題ではないわけですが、「これを受け入れた世界には何が起こったか」が興味深いところです。
 それまでも、人間のいるところ、神とか聖なるものとかの感覚やそれを扱うシステムはどこにでもあったわけですが、そのほとんどは、「聖なるもの」が社会か自然かのどちらかに癒着していたんです。そのどちらにおいても、聖なるものと個々の人間の関係は、個人が聖なるものに従属するものでした。供物を捧げるとか人身御供とか・・・それが龍神さまの怒りを鎮めるためであれ、共同体の秩序のためであれ。あるいは、個人がその個人性を消して聖なるものにフージョンするとかいうイメージでした。
 ところが、キリスト教は、神が先に自分の子=分身を人間に贈り捧げたということになり、神と人間の間の相互の「行き来」の関係性が生まれました。
 そこで、神は、自然とか社会とよりも、人間と癒着しちゃったわけです。
 それでキリスト教には、人間が神を通さなくても自然や社会を組織できるという予知が生まれたので、自然の研究とか管理の発想が生まれ、政教分離の発想も登場してきました。
 もちろん、最初は、これでは当時のローマ帝国の秩序には合うはずもなく、壊滅しようと図られたのですが、信者は増えるばかりで、結局コンスタンティヌス帝は、この宗教を利用することにしました。それから1500年以上も、世俗の権威と宗教の権威が住み分けながら拮抗して並び立つ体制ができたんですね。
 その中で、宗教の権威=教会も社会に干渉しようとしてきましたし、自然観にも干渉しようとしてきました。
 教会は長いことこの癖がついてるので、いまだに世俗を従属させようとする部分もあります。

 でも、こういう聖俗の権威同士の葛藤や煩悩にも関わらず、キリスト教は、「神が人間になった」という、そもそもの出発点はなぜか捨てなかったんです。まあ、捨てたらそれはもうキリスト教ではなくなるのですが。

 それで、その細々とだけど強靭に受け入れられ手来た信仰のおかげで、自然の驚異もある程度コントロールでき、個人が共同体のいいなりにならずにある程度の自由を生きることのできる「近代文明」や「近代社会」が、キリスト教ヨーロッパに生まれたわけです。

 私たちはその恩恵を受けています。
 基本的人権とか、民主主義とか、信教の自由とかでさえ、キリスト教の持っていた、この「聖なるもの」と人間の主従関係をとっぱらった「開かれた相互関係」によって少しずつ可能になった成果なんです。
 成果、それは弱者にとっての成果ですね。昔ながらの共同体でもその強い側にいる人はいいでしょう。でも、「賤民」に生まれちゃうとか、障害を持って生まれちゃうとか、時には単に女に生まれちゃうとか言うだけで、尊厳や権利を奪われる時代や場所はいくらでもあったわけです。
 私たちは、今、アニミズムや汎神論的な世界の方が地球に優しいとか、村落共同体のほうが情があったとか言いがちですが、その中で、弱い者が搾取されたり犠牲に供されることは当然のようにあったわけで、たとえ環境に優しくて共同体のためになっても、私は自分が「龍神の生贄」に捧げられたりするのは嫌です。

 こういう経過を鑑みるに、この時代のこの世界に生きることのできた私のような弱者にとっては、イエスという人の生と死が発展的に解消してキリスト教というものになってくれて、それが自由・平等・友愛とかいう近代ユニヴァーサル理念を生んでくれてよかった、よかった、って思うんですよ。

 そして、歴史上の具体的なキリスト教権威者がどんな愚行をしたところで、元のイエスの生き方や思想にはすでにそういうユニヴァーサリズムが確かにありました。

 だから、イエスのメッセージはそれ自体としても価値を持ち続けているし、その彼の生と死と復活を信仰告白としたキリスト教については、メッセージの内容より、それが開き、導き、可能にした関係性の方が大切だと私には思えるんです。
 だから、進化論だめだとか神仏を拝むなとかは「よけいな枝葉」で、「イエスは神が人間の姿になったというのが大事」というのは、根幹ですね。
 牧師さんのいうとおり、人間が蛆虫の姿になったとしたら、人間と蛆虫の関係だってラディカルに変わるでしょうね。その時点で、蛆虫は、忌むべき下等な存在ではなくなりますもの。
 三位一体を分けの分からないこじつけと見るか、いろんなことの出発点になったキリスト教マジックと見るか、いろいろ考えてみてください。

286迷える大羊:2008/01/20(日) 17:02:21
三位一体の不思議
 またまた、すみません。説明が不足してました。「人がウジ虫に」の話はキリスト教に関わりだした初期の話ですけど、未だに解けない疑問だし、キリスト教信仰の根幹にまつわる話、というのはなんとなくわかるので、やはりきっちりした説明をいろいろ聞きたいな、と考えたものですから。まあ、あの頃は「神をとるか進化論」をとるかの話にあまりにびっくりしたので、またまた、わけのわからん話が・・、てな感じで受け止めてしまったんですね。
 カトリックのカテキズムの講習はまだ受けたことがないので、どういうものかわかりません。

 おっしゃるとおり、基本的人権とか信教の自由とか民主主義などはキリスト教の成果であることはわかりますし、認めてますし、思想とか教養としてのキリスト教は受け入れるのに全然やぶさかではないんです。

 しかし、「宗教」「信仰」としてとなると??だらけで。
 決して揚げ足とりをやってるつもりはなくて、真面目に勉強したり、調べたりしてるつもりなんですけど、真面目に考えれば考えるほど「えー?」とか「ちょっと待てよ」みたいな話が次々に出てくる、といった感じで。

 三位一体もその一つで、理屈そのものもさることながら、不可解なのはキリスト教界(プロ・カト、教会問わず)での扱いなんです。
 「真の人、真の神」もそうなんですが、いくつかの教会で学び会ですとか入門講座にいろいろ出てみましたけど、三位一体の話を進んで積極的にする教会って私の知る限りほとんどないんですよね。こちらから切り出さない限り、ほとんどそういう話をしません。

 でも、ミサや礼拝に出ればいやでも「父と子と聖霊の御名により」なんてやっているのが目に耳に入ってくるわけで、当然「何、それ?」となるわけで、調べると「三位一体」なんて教義があるわけです。これまた当然「三つで一つってなんですか?キリスト教って神は一つなんじゃないんですか?」という単純きわまりない疑問がわいて聞くんですが、大抵の場合、触れてはならないタブーとはいわないまでも「えー、そんなこと聞いてくるの?」みたいな反応をされます。

 その上、返ってくる答えもなんだか要領を得ないものが多く(私の理解度が足りないせいもあるんでしょうが)、聖職者だとか信仰歴の長そうな人でも「人智では到底わからない奥義」だとか「そういうもんだ、として受け入れるしかないね」みたいな、私的には到底納得しかねる答えだったり、ごくごく普通の信徒さんの場合も「そういうもの」みたいな答えが大半。私の知る限りでは、どうも、普段深く考えたことない人がほとんどみたいなんですよね。

 だったらキリスト教の本筋とは関係のない(聖書にも出てこないし)ことだし、信じられなくても全然差し支えないんだな、と思ったら「キリスト教の根幹にまつわる」重大な教義で、これなくしてはキリスト教は成り立たない、とまでいわれるわけで、そんな重大な話がなんで「そういうものだ」で済むんだ?ワケもわからず、そんな「黒いカラスを白いといえ」みたいな話を「信じるなら受け入れろ」なんてそんなムチャな、と思ったものでした。

 歴史の本をひっくり返して調べると、別にイエスの時代からあった教義でもなんでもなく、ましてやイエスやパウロや使徒たちが言い出したことでもなんでもない、私が読んだ限りでは聖書に出てくる話でもない、325年の二ケア公会議ですさまじい論争の末、やっと決定した教義で、三位一体説をとらず、闘争に負けたアリウス派はあえなく「異端」となる、とあって、なんだ結局、教会内の政治的な事情で決まったことやんか、どうしてそれが今に至るまで神聖不可侵の不磨の大典みたいな扱いをされるんだか?と理解に苦しむところがあるんですよね。

 私には宗教的感性が全然ないから、こういうひねくれた見方をしてしまうのかな、とも思いましたが、出典は忘れましたが、イスラム教の開祖、ムハンマドも私と似たような疑問(三位一体の扱いだとかキリスト教はイエス個人崇拝なんじゃないのか?みたいな)を持ちしまいには怒りだしたみたいで、時空を超えて「そうですよね、ムハンマドさんもそう思いますか?」なんて感じで思わず握手したくなりました(笑)。そのせいかどうか他の面はともかく神様に関する定義に関していえばイスラム教ってキリスト教に比べるとちょっと合理的なのはそのせいか、とも思ったりもしました。いや、別にイスラム教の肩を持ってるわけじゃないんですけど・・・。

 それよりなにより、子供のころから家の宗教だった、という信者さんはともかく、成人になって自発的にクリスチャンになった人って、私みたいな疑問やら躓きやらって持ったことないのかな?やっぱり宗教って失業、失恋、病気、借金みたいな何か人生上の大きな苦難を経ないと素直に心に入ってこないものなのかな?とも思ったりもします。

 いろいろ、教会を巡ったり、勉強もしてみましたが、どうも私には宗教としてのキリスト教は向いてないような感じがしてきました。皮肉や冷やかしではなく、なんで皆さんあんなに受け入れられたり感動したり信じられたりするんかなー、と未だに心理的な面は未だにわからんことだらけです。キリスト教に限らず、宗教全般に関して。

287Sekko:2008/01/20(日) 21:10:01
分かんなくてもいいのでは・・
 最近、キューブラー・ロス『子供と死について』(中公文庫)を読みました。

 子供を病気や事故や犯罪で失った親たちがどういう風に生き続けるか、みたいな例がつまってます。

 大筋は、子供の肉体は繭であって、死んだ子は蝶になって飛び立った、っていうアレゴリーなんです。今流行のスピリチュアルの、魂が修行のためにこの世に来る、みたいなのと同工です。

 私は、こういう魂がなんたら、っていうのはあまり信じられないんです。
 まあ、これも証明しようのない話なので、信じてる人はどうぞって感じで、でも、うさんくさいとか思ってしまいます。

 でも・・・

 もし、今、あるいはこれから、自分の子供を失うような体験をするとしたら、
 もう、「蝶々」にまっしぐらだと思います。

 多くの親たちを癒してきたこういう考え方があってよかった。
 こういう本の存在を知っといてよかった。

 と感謝するでしょう。
 そしてこの考えに救われるでしょう。

 だとしたら、私の「信」は、必要から生まれるのです。

 だから、この考え方を知っといて損だとは思わないし、そういう「流派」の中にも、ちゃんとした誠実なのもあれば、親の悲しみにつけこんで、高額で霊媒が死んだ子供と話しさせてくれるみたいな悪質なのもあると学習しときます。

 そしたら、いざ、そういう「信仰」を必要とした時に、つけこまれたりするダメージは少ないかもしれない。自分の悲しみを乗り越えて他の人と連帯する方向にいけるかもしれない、って思います。

 つまり、そうなると、「教義」の字句の内容が問題じゃないんで、どういう文脈でどういう風に語られ、どういう関係性を生きられるのか、が問題なんですね。
 それなしで、字句だけ取り出しても、文脈を共有してない限り、所詮、字句は字句です。

 あまりこだわらないで、今は、「学習」だけで、いいのでは?

 私は、カトリック主流国でカトリック・カルチャーの人と暮らしてますから、年取ったり死んだり死なれたり、という局面には、カトリック共同体が頼りになるかも、と思ってます。だから、別にカトの人に、「三位一体」って変じゃない?とか言う必要も感じません。

 大羊さんはやはり奥様の信仰の関係でキリスト教に近づかれたわけですから、その関係性をいい感じで育んで、長い人生で出会うかもしれない試練を前にした時にささえ合えるような「信仰」を今のところはゆるーく視界にいれとく、だけでいいのでは?

288Fusako:2008/01/28(月) 07:25:43
弱い父ヨセフ
ずっと前に読み終わりましたが、感想がまとまらずにいました。
あまりにも圧倒的だったので。何が圧倒的かというと、「おまえの子ではないけど、面倒見るように」と言われて素直にその声に従い、辛い旅の間、妻を守り、生まれた子をだいじに育てて、その後はひっそり身をひいてしまう、普通、そんな「父」は有り得ない。それを真正面からとりあげて論じられて初めて、目の前にあったものに初めて驚く、そんな感じだったので。
「自分で見る、自分で考える」人のお話をきく醍醐味を味わいました。ありがとうございました。で、失礼ですが、西成で献身的に活動しておられる渡部宗正師(カトリック)におまわししました。

289迷える大羊:2008/01/28(月) 21:25:43
同伴者イエス
 宗教、信仰としてのキリスト教はなかなかわからない私ですが、なんとなく分かる気もする信仰のあり方もあるんです。例えば、遠藤周作氏の「イエスの生涯」に登場するようなイエスなら全然、自分にとって違和感のないイエス像なんですけどね。

 遠藤周作氏といっても、有名どころの小説(沈黙など)を数冊、エッセイを数冊読んだことがある程度ですが、彼のような、ああいうリベラルな信仰のあり方っていいな、と思うことあります。(特に彼のキリスト教、宗教エッセイ「私にとって神とは」は、キリスト教に限らず、あらゆる宗教の入門本になるのでは?と思います)。

 しかし、彼が属していたカトリック教会における、遠藤的信仰の立場ってどんなものなんでしょう?やっぱり、少数派?
 別のキリスト教サイトではカトリック教会で遠藤的な信仰をあまり期待すると肩すかしを食らう、なんて書きこみがありましたし、名作「沈黙」も華々しい殉教者をひたすら美化した「聖人列伝」を書いておれば、「いい信者」なんて教会から思われた時代に最後は主人公が棄教するストーリーは、猛烈な反発が教会、保守的信徒からあったらしく、ミサで名指しで批判を食らう、なんて出来事もあったそうで。

 現在のカトリック教会ではどうなんでしょうね。彼のような信仰、「同伴者イエス」的な考え方って違和感がないものなんでしょうか?まあ、教会により、人により、神父さんにより信仰に対する考えは様々でしょうから、一概にどうこうとはいえないでしょうけど、少なくとも非難を浴びるようなものでなければよいな、とは思いますが。

290nao:2008/02/02(土) 08:43:27
違和感はないと・・
かつて、遠藤周作先生の造られた「キリスト教芸術センター」に属しておりました。じかに先生に触れる機会もおおかつたですし、旅行も一緒にさせていおただきました。旅行はもう20数年前のはなしですが。そのころ先生は「『沈黙』が出たときのカトリツク教会の批判のすごかつたこと、ひどいものだつた。ところがどうだ、今は僕の考えに同調する人がすごく多いじゃないか。かわつたものだよ」とおつしゃつたのを、今まざまざとおもいだします。
今のカト教会で遠藤先生の考えに批判的なことをおつしゃる方にはあまりお目にかかりません。いろんな考えがあつて、当然という雰囲気のようにおもいます。もつとも私はサボりですから、あまり教会の中には深くはいりこんでいませんので、よくわかりませんが、すくなくとも反対とう方にはお目にかかりません。

291迷える大羊:2008/02/02(土) 14:23:27
お久しぶりです
 nao様 お久しぶりです。そうですか、遠藤先生と直接、お会いしたりお話したりしたご経験があるのですね。羨ましい。彼の語るキリスト教って私には一番理解しやすいもので、他宗教に対する考え、聖書の読み方などは私にも共感できるものが多く、キリスト教に触れたときの違和感、アレルギーが彼の作品からは感じられないんですよね。

 発表当時は物議をかもした「沈黙」も今ではプロテスタント教会の映画鑑賞会でも上映されますし、マーチン・スコセッシ監督の手によりハリウッド映画になる計画も進行中のようです。ただ、ハリウッド映画の方はわけもなくニンジャやゲイシャがでてくるような、あちらのオリエント趣味に阿った映画にならなきゃいいけど、なんて懸念もあったりしますが(笑)。

292迷える大羊:2008/02/03(日) 22:32:24
西洋音楽とキリスト教
 先日、カトリック生活2月号を購入して読んだら音楽と信仰の特集でした。いろいろ読むと西洋音楽の成り立ちって教会と密接な関係があるんですね。

 もっともクラシックや教会音楽はさっぱり知識がなく、私にとって西洋音楽といえば、ロックなんですが、ロックやジャズ、リズム&ブルースも思えば、教会中心、キリスト教中心の音楽に対する一種の反抗みたいなところが少なからずあるのかな、という気がしてきましたがどうなんでしょう?(ビートルズの曲にも「ROLL OVER BEETHOVEN」なんて曲があったりする)

 実際、アメリカなどはロックの本場である一方で、キリスト教右派を中心に有害図書ならぬ有害音楽として忌み嫌う向きも多いらしいですし。
 もっともロックが好き、といっても一部の教会で行われているらしい、フォークとかロックミサとか、礼拝って全然興味ないです。やっぱり教会には教会にふさわしい音楽がいいな、って思う方ですね、私は。

293Fusako:2008/02/04(月) 01:49:00
ロックと教会
教会は、あちらの日常生活ですから、ロックにも別に普通に入っていますよ。あれは1980年代半ばかな、アメリカのグループMr.Misterの"Kyrie"という曲が大ヒットしましたし、ヴァン・ヘイレンには「カテドラル」という名曲があるし、クイーンが代表作の一つ、"We will rock you"を教会で録音したというのは有名な話だし、とか、ウーピー・ゴールドバーグ主演の映画「天使にラブソングを」や、古いけれど、教会で育った孤児の恩返し映画「ブルース・ブラザーズ」とか、「反抗」でない「ロックと教会」の話はいーっぱいありますよ。
あと、クラシックとロックで言えば、ロックが反クラシックではないですよ。ちなみに"Roll over Beethoven"はビートルズではなく、チャック・ベリーの曲ですが、反クラシックというよりは、気取ってクラシックしか音楽と認めないことへの反抗、でしょうね。クラシックの音楽家でロックやジャズの愛好家、その逆とかいっぱいいますし、欧米ではとっぢも好きな人の方が多いように思います。ロックだけ、とか、クラシックだけ、みたいな人の方が多い日本がむしろ西洋音楽についての例外のような。ヴァン・ヘイレンの「カテドラル」なんて、知らないできいたらロックと思わないでしょうし、クイーンは、オペラ(「ボヘミアン・ラプソディ」)、シャンソン(「キラー・クイーン」)、ゴスペル(フレディの曲ですが「タイム」)と何でも使ってますね。

294Fusako:2008/02/04(月) 01:55:45
追加
「天使にラブソングを」は、教会が人々に親しまれる音楽を通して再び地域に根付いてゆく話ですので、機会があったら見てください。

あと、全然関係ないけど、「カテドラル」を、B'zが「闇の雨」に引用していましたね。

295rotondo:2008/02/04(月) 15:34:58
ご存知の方、教えてください!!
初めて投稿させていただきます。

昨年末から今年にかけてイタリアへ行って参りました。カスキアへの
聖女リタさんの教会へも行ったのですが…

現地では気づかなかったのですが、帰国後!?と思った事があります。

リタさんのご遺体の前にあった、装飾された硝子の二重容器(展示されていた聖遺物の
結婚指輪やミニロザリオの容器と同じ様な)の中身は一体何なのでしょうか??

多分、聖遺物だとは思うのですが…額に刺さった棘?心臓?

もしご存知の方がいらっしゃれば教えてください!!

296迷える大羊:2008/02/06(水) 20:36:39
ロックと教会
 確かに、ロック=教会音楽へのプロテストっていうのは単純すぎる見方でしょうね。「Roll OVER BEETHOVEN」はまあ、確かに原曲はチャック・ベリーですが、ビートルズのカバーバージョンのイメージの方が強かったもので。
 右派系の教会から目をつけられやすいのはロック全体というより、一部のヘビメタの類でしょうね。それにしたって草創期の50年代、60年代ならともかく、いまどき「ロック=反抗、カブキ者」のイメージなんて成り立たないですね。

 それに、ロック界のスターたちも結構、教会との関わりある人、多いですね。プレスリーやレッド・ツェッペリンのベーシスト兼キーボードのジョン・ポール・ジョーンズは聖歌隊出身だったり教会音楽の演奏者出身だったりしますし、ビートルズのジョンとポールが最初に顔合わせしたのは教会のパーティだし。

 全く話が脱線しますが、聖書の「ヨハネ黙示録」、あのシュールな世界はジミ・ヘンドリックスの「Purple Haze」、ビートルズの「Lucy in the Sky with Diamonds」など、ドラッグソングと噂された60年代、70年代の名曲を思い出しちゃいます・・・。

297Sekko:2008/02/07(木) 07:59:12
rotondoさま
 聖女リタの遺体の前の聖遺物について、今すぐに思い出せません。内臓系なら心臓でしょう。心臓を別にするのは一般的でしたし。棘ってことはないですよ。あれは棘が飛んできて刺さったと言ってるだけで、聖痕はできても棘がくっついてたとは聞いてません。こないだアヴィラの聖女テレサの聖遺物をいろいろ見てきたとこで、彼女はもう目いっぱい解体されてるので、ばらばらでしたね。
 リタは本体のインパクトがあるので、付属聖遺物はインパクトが小さいかなと思います。この季節ではウンブリアは寒かったのでは?

298rotondo:2008/02/07(木) 21:03:54
ご回答を賜り、ありがとうございました。
竹下先生の著書「聖女の条件」に導かれ、カスキア巡礼に行ってまいりました。カスキアは所々に雪が残っていて、とても寒かったです!!

また先生の別の著書「奇跡の泉ルルドへ」や、訳本「聖カタリナ・ラブレ」を拝読し、昨年の春先にはフランス巡礼にも行く事が出来ました。

どちらの巡礼も先生の書かれた素晴らしい本にめぐり合い、お導きを頂いたからこそと、心より感謝致しております。ありがとうございました。

聖女リタさんについてはイタリアから帰国後、写真を見て初めてご遺体の前のガラス容器に気付きました。残念ながら中身までは、はっきり写っておらず、ひょっとして心臓かも!?と、インターネットで何時間もかけて検索してみたのですが、結局判らずじまいでした…。

またいつの日かその中身について、お気づきになられましたら、お書き込み頂けませんでしょうか。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

299nao:2008/02/16(土) 10:15:13
Lourdes
2・11に「France Facile」のニユースをきいていましたら、最後にLoudes,depuis 150
ans ,
n`est plus la petite ville qu`elle etait en fevrier 1858,Genevieve Delrue.
とありました。それまでのところはルルドの解説です。最後のGenevieve Delrue
というのはその地方の名前なのでしょうか?先生の「奇跡の泉ルルドへ」でしらべてみましたが出てまいりません。
150周年のルルドに病気の知人がゆけるといいなあ〜と願つておりますが。病人があつまるのに、明るさが支配するルルドに夫と行けたこと(最初で最後の旅行となりました)を、本当に幸せにおもつております。

300nao:2008/02/16(土) 10:19:29
フランス語質問箱の間違い
すみません。フランス語質問箱にいれたつもりになつておりました。どちらにも関係はありますが・・申し訳ありません。

301Sekko:2008/02/16(土) 18:00:21
それはジャーナリストの名前です
 こういう文脈なら、必ず、それはその放送をしている人の名前です。署名みたいなものですね。フランス語では、姓名を並べて一気に言うと、なんか公式のレッテルみたいになるんですよ。日本語なら「ご案内は・・・でした」とかい
うフレーズになりますから分かりやすいですが。
 普通のインタヴューで、本人を前にしても、「ムシュー・・・」というほかに敬称抜きでフルネームを使えます。肩書きなしでそういえる場合は、公人としてとかいう意味がありますね。

 ためしに今、Google で検策しましたらそのジャーナリストの顔も出てました。
 http://www.rfi.fr/radiofr/emissions/072/accueil_50.asp

 ご参考に。

 naoさんはルルドに行かれたんですね。私も今年是非行きたいと思ってます。
 行けたらみなさんのためにろうそく捧げときますね。

302nao:2008/02/17(日) 08:37:24
なんと・・
あらまあ〜なんということ。ジャーナリストの名なんですね。すぐ後ろにきていたので、想像できませんでした。女の方なんですね。
間違いのおかげで、しつかり先生の御本を読み返しておりますので、かえつてよかつたです。ルルドからまた「聖母マリア」を再読です。この本は実に素晴らしい!!の一言です。前にお聞きしたことがありますが、「聖母」という訳は誰がつけたのでしょうか?ある学会でもききましたが、だれも知りませんでした。もし、すでにおわかりでしたら教えていただけると、嬉しいです。

303迷える大羊:2008/03/08(土) 23:08:00
組長はイエス?
 ノンクリスチャンながら、身内の信仰がキリスト教でその世界に片足を突っ込むようになって大分経ちます。決して悪いものとは思っていないし、人類史への貢献ぶりは認めるものの、信仰となると躊躇してしまっているところ。その理由の一つにこれはイエスという2000年前の実在する宗教家を実質的に神と崇めるということがあるのですが・・。

 でも、最近読んだ、牧師やクリスチャンになった元ヤクザのグループ(?)ミッション・バラバの本にそのことに関して妙に納得のいく説明があって、それは、誰の発言かは忘れましたが「親分がイエス様になっただけのこと」といった趣旨の発言で、思わず、ああなるほどね、と思ってしまいました。以前も似たような趣旨の発言を冗談半分にUPしましたが、最近は冷やかしでも冗談でもなくそう思うこと多いです。

 うまく、言葉にできないんですけど、そういうヤクザ的な論理で考えると、つまり、構成員(信者)にとって「親分、組長は絶対だ、神同然」というのは当然のことで、カタギの理屈で「個人崇拝だ」「三位一体なんてヘン」なんてツッコミを入れる方が野暮に思えてきますし、自分が頼みとする親分が「奇跡を巻き起こし」、「永遠の存在(復活した)」である無敵の存在であって欲しい、という願望、信仰も物理的、歴史的事実としては到底受け容れ難い話ですが、心情としては分かる気がしてきます。

 もちろん、クリスチャンとかキリスト教はヤクザと違って反社会的な行為を生業としているわけではないですし、長い歴史に揉まれた末、そのスタイルも考えも洗練されたものとなってはいますが、なんていったらいいのか、カタギの常識的な発想で考えると理解不能な風習、慣習もやくざ的論理を当てはめるとな〜るほど、と思えるところが少なからずあるような感じがするといいますか、根本的な発想に似たようなところがあるんじゃないのか、という気がして・・。

 例えば、ヤクザもクリスチャンも建前上、ともに組長、親分、イエスを中心とした擬似家族制ですし(教会報など公の文書では信者同士〜姉とか〜兄なんていいますし)、構成員(信者)になるに際して、盃を交わす、洗礼を受けるなどの儀式がある、組員(信者)からの上納金(献金)で組織が成り立っている、ともに構成員(信者)の高齢化が進むなどなど妙な共通点がありますし・・・。聖母マリアはさしずめ「姐さん」といったところでしょうか・・。極端な話、宗教とかキリスト教とヤクザとか暴力団というのは裏と表、神と悪魔、光と闇のような関係なんじゃないのか、と思ったりします。

 パンやワインをイエスの血と肉になぞらえた聖餐式も亡き(という表現はキリスト教的には変か?)「組長」「親分」との今も変わらない連帯感の確認の儀式と考えればなんだか私的に理解できるような・・。
 そう、クリスチャンとはイエスを「親分」「組長」とする任侠道ならぬ、人道団体の構成員(組員)と思えば、これまでキリスト教に関して不思議でならなかった風習、考えの謎がクリアーに分かる気がするのですが、どんなものでしょうかね??

 この譬え、もし不謹慎、不快に思われる方がいらっしゃればごめんなさい。

304Sekko:2008/03/09(日) 05:27:15
親の心子知らず
 理念や理想を掲げる共同体みたいなのは、どこでも、えてしてこうなりますね。やくざは功利的目的があるかもしれないけど、社会の表で生きにくい人が生き延びる救済システムに多少の美学も足したものって面もあるでしょう・・・
 でも、親分や兄弟分とあまり情動的関係を結ぶと、冷静な状況分析ができなくなったりしますね。やくざ映画でも、子分の先走りや暴走のせいでどうにもならなくなった親分が涙を呑んで、負けると分かっている戦いをしたりなんてシーンがあります。西南戦争の西郷隆盛とかも?
 自分で権力欲にかられて演出する人はかってだけど、頼ってくる人々から神のように祭り上げられたトップが、自分の意に反して、カタストロフィに突き進むとか、自分を犠牲にしても子分の期待に応えてしまうとか、そういうのはこまりますね。ミュージカルの「ジーザス・クライスト・スーパースター」もちょっとそんな感じでしたっけ?

 でも、共同体のうちわの家族的満足じゃなく、公共の利益というのもあるし、やはり、外にも開いているグループでないと、風通しが悪くなってあちこち故障がでると思います。何を信じるかというより、他に対して、どう働いていくかによってそのグループの価値が問われると思います。

 特定の誰かを崇めることで、そこから得た安心やエネルギーを、助けを必要としている人たちに広く分け与えるようなグループだったらいいですね。

305迷える大羊:2008/03/23(日) 18:15:13
ミサの式次第
 について何か分かりやすい、解説書ってありますでしょうか?何回かカトリック教会のミサに参加しておりますが、いつも、次はこの賛美歌、今度は答礼で・・なんて電光掲示板みて、あたふたしているうちにいつの間にやら聖餐となり、気がつくと終わってしまうといった感じでして(笑)、結構疲れます。信徒の皆さんはこれ完全に暗記してるんでしょうか?慣れの問題とはいえ、よく覚えるものだなぁ、って思います。

 余談ですが、うちの妻はプロテスタントですが、カトリックグッズが結構好きでイエスの像のついたカトリック式の十字架ペンダントしてますし、ロザリオ欲しがってたので、ミサの後、売店で買っていきました・・。

306塩梅:2008/03/24(月) 02:05:27
お役に立つと良いのですが…
大羊さま>
ごミサ全体の進行が分からないというお話でしたら、「カトリックの祈り」(サンパウロ刊)があれば、大体は大丈夫と思いますが…。文庫サイズの祈祷書になりますが、もっとハンディなものをお探しでしたら「キリストと我等のミサ(改訂版)」(サンパウロ刊)というのがあったと思います。教会の売店みたいなところでお聞きになって、現物ご覧になられてご確認されるとよろしいかと思います。
あと歌われる聖歌は、多分ミサ前にどれを歌うかが表示されてると思います…典礼聖歌集に何本も栞が付いているのって、あらかじめはさんでおくためのものだと思いますし。それとオリエンス宗教研究所が出しているリーフレット(こういうのです→http://www.oriens.or.jp/st/seiten.html )でアレルヤ唱+答唱詩篇は歌詞が分かると思います。

307迷える大羊:2008/03/24(月) 22:07:05
ありがとうございます
 塩梅さん、お久ぶりです。いつもありがとうございます。聖歌、賛美歌歌って、あとは牧師の説教を聞いておればよいプロテスタントと違って、カトリックのミサは実に忙しいですよね。オリエンスのリーフレットとか、聖歌集などを手にとっては見ますが、どこでどれをさっと開くかが問題ですね・・(^^;。もう神父さんに顔と名前を覚えられるくらいにミサに出ているのに全然進歩ないです(^^;。

 信徒の皆さんはよくさっさかさっさか反応できるもんだ、と感心します。思うにカトリック教会は信仰とか教義を頭ではなく、感覚、身体で覚えこませる、という傾向が強いのだな、と感じますね。説教もプロテスタントに比べ短めだし・・、と思いきや、行きつけの教会で担当の主任司祭が出張(?)していて別の教会の司祭さんが司式を担当したことがあったけど、そのときの説教の長いこと長いこと。カトリックのミサでも説教が長いことががあるんだ、とちょっと驚きました。

308Sekko:2008/03/24(月) 22:50:42
ちょっと遅ればせですが、
 復活祭、おめでとうございます。
日本のことはよく分からないので、塩梅さま、ありがとうございました。
フランスのカトリックのミサは、いつ行っても、その日に歌う文句が式次第とともに印刷されてるので、簡単に歌える感じです。たまには聖歌集の番号が書いてあることもあってその時はページを繰らなければなりませんが。しょっちゅう立ち上がって歌えるので、眠くならないし、声を出せるので退屈しないし、私は好きですが。その代わり途中で入って、次第を手にしなかったときなんかは、あんまり歌えなくてがっかりです。うちの娘なんかは、リセの時に週2回ミサに出席してたそうで、たいていの歌はすべて覚えているので、たまに友人の結婚式とかに招かれてミサに出席しても歌詞をみなくても全部歌えるので尊敬されると言ってました。
 復活祭、となると、あらためて、イエスの復活なんてことが「ほんとうに」あったのかどうかなんて疑問が湧き上ります。
 それを信じた人たちがいて、それをもとにして、「正義」による復讐とか懲罰とかいうロジックをラディカルに断ち切った宗教が生まれ、「生き続けている」キリストに背中を押し続けられる、というのは理解もできるし、実感もできます。そしてそのことについては、もう、事件の「真相」が何であったかなんてことを超越してるというのも分かるのですが、でも、あの日、そしてそれに続く40日間やその後10日目に、ほんとに何が起こったかと言うのは、やはり永遠のミステリーで、時々好奇心に身が焼かれます。
 私たちは私たちの人生においてそれを別のやり方で証しし続けるように招かれているんでしょうけど。

309迷える大羊:2008/03/28(金) 22:41:19
教会あれこれ
>しょっちゅう立ち上がって歌えるので、眠くならないし

 逆に歌うことが嫌いだとつらいんでしょうね。私、実はやたらとオッサン臭い悪声で音痴なのと、以前も触れたとおり「主をたたえ〜」みたいな歌詞を大声で歌うことに対する気恥ずかしさが未だに抜けないところがありまして、ちょっと疲れるところもあります。

 あと、教会員になった場合の奉仕の負担はどのようなものなんでしょうかね?特に慢性的聖職者不足のカトリック教会は信徒の力なしでは教会が成り立たないでしょうし。マンションの自治会や管理組合の役員、理事を誰にするか、でいつも役目の押し付け合いみたいなことがありますが、やっぱり教会でもそういうことあるのでしょうかね?

 正直、平日夜遅くまで働いて、また土日も仕事まがいのことすることになるんじゃたまらんなぁ、というのも偽らざる本音、といっていつもお世話になっといて何にもしない、というのもこれまた良心がうずく・・。信徒の皆さん、この教会における奉仕の問題はどう考えていらっしゃるんでしょうか?現役の信徒さんの忌憚のない本音が聞ければ幸いです。

310nao:2008/04/06(日) 15:58:29
やはり大変なようです。
私はもう老人なので、教会の役割からははずしてもらつていますが、少し若いころは婦人会の選挙でいつ、何があたつてくるかわからないので、ハラハラしていました。病気や仕事の関係で逃れてきましたが、皆さんに申し訳なくおもつてもきました。
男性の場合は壮年会(社会人)に入ることは、義務になつていますね。典礼、会計、建物の管理、広報など、役割がまわつてきます。日曜、ミサのあと少し居残りということもありますね。

311nao:2008/04/06(日) 16:09:26
ミス
途中ではいつてしまいました。
教会が300名くらいですと、やはり何かは仕事をしなければなりません。でも自分にできそうなことを申しでれば、家でやれるようなものもあります。広報の原稿とか。大きい教会では役はまわつてこないのでは・・。でもこれらは信者になつてからの話ですから、これらの仕事がこまるので、教会にゆくのはやめよう・・という風にはならないでくださいね。
私のように、遂になにもしないけれど、朗読やら共同祈願くらいはするという方も多いですし。あまり心配ないとおもいますよ。やつておられるかたは本当にすごい時間さいてますね。本当のところはどうなつているのか、教会員でもわかりません。それだけ、役員さんは苦労しておられるんでしょうね。役員にならないかぎり、まあ〜たいした仕事はありません。女性のほうが掃除当番があるので、大変です。役員さんになんとなく、聞かれるのもいいかとおもいます。いい加減なお返事ですみません。どなたも書き込みなかつたもので、つい・・。

312迷える大羊:2008/04/06(日) 23:06:10
お久しぶりです
 nao様、お久しぶりです。お聞きしたところでは、マンションの管理組合とか自治会と全く同じですね。まあ、自ら望んで、組織に所属しているかいないかの違いはありますが。

 まあ、月に1回程度の掃除当番とか、朗読当番くらいなら、当然だろうな、と思うし負担感はないでしょうね。しかし、役員ともなるとなると、教会に限らずどこの組織でも大変ですよね。

 実は私、マンションの管理組合の役員やってまして、年度末になり、任期切れ近くなり次の後継者を探しているところですが、これが気の重い仕事でして、皆さん、よくそんなに次から次へ断る言い訳考えるよなぁ、感心するくらい、理由をつけて免れようとする方が結構いて、「ほんとにいい大人が・・」と思わされることがたびたび。ホント、人って「罪深い」ですねぇ。

 教会でも、同じことがあったら、そりゃまあ、クリスチャン、カトリック教徒だって基本的に普通の人とわかっちゃいても、ちょっと幻滅しちゃうかも(自分のことは棚にあげて、ですけど(笑))。
 あと、とあるカトリック教会の学びで、現役信徒から聞いた話ですが、告解、いわゆる懺悔も教会員には意外にも人気のないイベント(?)らしく、その順序、当番(っていうんですか?)を巡ってもめる、とか、20代、30代の信徒が教会になかなか来ない、とかいろいろあるみたいで、基本的によくも悪くも「普通の人」の集まりなんだな、教会って、と思ったものでした。まあ、言い方は悪いかもしれませんけど、水をかけられたくらいで、いきなり人間が変わったら誰も苦労しませんよ、といったところでしょうか・・。

313nao:2008/04/09(水) 16:14:51
役員
自治会役員とホント、おなじようなものですね。婦人会でついこの間まで役員選挙がありました。そこでとうとう当てられた人が「教会つて、こんなに恐ろしいところだとは思わなかつた」と皆の前で言いました。皆、彼女に役員を押し付けたわけですから、シーンとなりました。「申し訳ないけどお願いします」ということで、彼女は1年間頑張りました。こんなことがあつてから、現在は役員さんが次ぎの方に直接交渉して、なんとかなつてもらう、というかたちになりました。毎年、これはなんとかしなくては、といいながら皆の努力でカバーするしかないということになつています。年一回の夏の大掃除もあつて、さすがにこの日はさぼりにくいです。なんだか、出張にかこつけて休む方やら旅行中にしていたり、みなせこいですが、私も同様でいやはや・・冷や汗ものです。組織がある以上、どうにもならんのでしょうか?

314迷える大羊:2008/04/10(木) 23:32:15
いやはや・・
 なんだかねぇ、ほっとしたようながっかりするような・・。ほっとする部分は、クリスチャンといえば、金銭抜きの慈善事業に精出すような、あるいはコルベ神父やらマザーテレサみたいやたらと立派な人にならんといかんのかなぁ、なんて思ってましたが、なんや、一皮むけばまるっきり普通の人でも、カトリック、クリスチャンやってるやん、という安心感。

 がっかりな部分は、神様信じたからからといって、クリスチャンになったからといって、教会にいったからといって、人間関係のわずらわしさとか、共同体に属する面倒くささ、人のズルさ、せこさから逃れられるわけではなく、相変わらずそういうことで悩んだり、腹を立てたりし続けることは変わらないこと、ですねぇ。
 うーん、結局面倒が一つ増えるだけかなぁ。

 ところで、海外の教会のこういう奉仕事情ってどうなってるんでしょうね?特にカトリックのホームグラウンドであるイタリア、フランスの教会はどうなんでしょうね?すごい偏見であることを承知でいえば、どうもこういうラテン系の人々がしおらしく、大掃除したりしたり、真面目に教会委員の活動に励んでいる姿がどうにも想像がつかないんですが・・・(笑)、

315Sekko:2008/04/15(火) 01:09:08
私の知ってること
 日本ではマイノリティってことで、「一般的な傾向」っていうのがひょっとしてあるのかもしれませんが、フランスでは地域によっていろいろでしょう。
 私のよく知ってるフランドルの小教区(つまり一つの村全部ということです。洗礼率100%でしょう)では、教会のお掃除などは、教区の持ち物である家にタダで何十年も住んでいる家族の主婦が受け持ってました。教会に隣接してる家で、彼女にとって、教会は自分の家の延長みたいな感じです。
 概して、機械的に当番を割り当てられるというより、皆が自分のできることをする、ということが多いと思います。カテキズムがあるので、子供たち、カテキスト、そしてそういう子供を持ってる親たち、それから高校生から大学生くらいで人道活動に目覚めたような若者、後は年金生活者、って感じの人がそれぞれ得意の分野で協力するって感じです。子供が大きくなってもう教会に行かなくなったような親は自分たちもまた行かなくなって、次は子供の結婚式とか孫の洗礼とかでまた少し近寄るって感じが多いですね。弱者救済の連帯というのは基本なので、仕事のない人や住まいのない人を教区が助けてその代わりに奉仕をしてもらうというのはすごく自然でいいと思って見ています。
 日本のように、地域の自治会とか町内会というのがないので、小教区の各種組織がその役割を果たしていることも多いですね。でも、都会では今は、移動が激しくてそんな感じではないように思います。できる時にできることをする、というスタンスの人は結構いるでしょうね。
 嫌なのを無理に当番させられるくらいなら、それなりの金銭的負担をして、お掃除や雑用とかなら信者でなくとも、仕事を必要としてる人に提供して支払った方が人助けにもなると思いますけど、どうなんでしょうね。

316迷える大羊:2008/04/18(金) 22:39:27
なるほど
 確かにSEKKOさんが御存知の教会のような自然発生的な奉仕が理想的ですよね。
思うに日本人は真面目に考え、組織をかっちり作りすぎて、却って身動きが取れなくなっている、みたいなところがあるのかも。でも、日本ではカトリックとかクリスチャンってマイノリティ、至って特殊な存在なので、なかなか同じようにはいかないでしょうし、ちょっと考えがまとまりませんね・・。

 ちなみにマンションの管理組合の後継者は、人の善意とボランティア精神に期待することは諦め、規約と法を前面に出し、半強制的に決めることとしました。古参の住民の方に相談したところ「そんな、まともに頼みにいったってダメよ」といわれ、そうしました。

 なんだか、キリスト教の性悪説がなんとなくわかる、というかほの見えた一瞬でしたね(大げさな・・(笑))

317迷える大羊:2008/04/20(日) 10:20:52
何度もすみません
 もう、何回となく同じ話をして申し訳ないのですが、自分にとってキリスト教最大の障害は、イエスを実質上、神そのものズバリ、としてしまうこと。

 もちろん、別にイエスが嫌いとか反発してるわけじゃありません。その行動思想はおおいに学ぶところあり、と思ってますし、宗教家としての偉大さは全く疑っておりません。聖書のいい部分は存分に認めてます。

 しかし、神そのものずばり、でその教祖様が奇跡を巻き起こすとなると、(もちろん、皆が皆、字句通りとっているわけではないことはわかりますが)どうしても世間を騒がせる怪しい教団、ヤバイ宗教の「教祖」を連想して「うぇ」となりアレルギー反応をおこすのです。現代人でなく、二千年前の人間にだって理解に苦しむ考えで、聖書を読むと、やはりイエス=神の子論に対する信者以外の人々の反発、冷笑の反応はいたるところにでてきますよね。

 一体、この辺どう考えてるんだ、ということをプロ・カト問わず、牧師、神父、信者の皆さんに聞いてみましたが、彼らにとってイエス=神はあまりに当たり前すぎて、「神といったら神なんだ、わかんなきゃいい」という問答無用のお答えか、普段、あまり深く考えていなくて、説明できないか、あるいは、やはりクリスチャンにとってカンに障る話なのかイヤな顔をされてしまうか、のいずれかです。
 「これは信仰なんだから」ともいわれますが、イスラムは開祖ムハンマドと神をきっちり分離してますし、開祖様の奇跡談なんてほとんどないですが、ちゃんと宗教、信仰として成り立ってるじゃない、とも思っちゃいます。

 いずれにしても、私の満足のいくお話って得られないのです。揚げ足とり、意地悪をしているつもりはなくて、真面目に考えてるからこそ出てくる疑問なんですが、やはり、言い方がマズいのかな?とも思ってしまいます。

 で、皆さんにお尋ねしたいのですが、「イエス=人であり神であり」とか「三位一体」とか、未信者からすると奇妙奇天烈な教義が成立した過程、歴史を詳細に、それでいて、未信者にも分かりやすく解説した本ってないものでしょうか?
 あくまで、歴史と過程です。教義そのものは真面目に考えるとおかしくなりそうなのでパスします(笑)。

 多分、私みたいな考え方ってちょっと「アリウス」派っぽいのかも。世が世なら追放刑だとか火あぶりの刑になるのかな?冗談のつもりですが、「神といったら神なんだ」といった問答無用の反応をみると、まんざら冗談ですまないような気もします。

318Sekko:2008/04/20(日) 20:29:13
神の子が神になったわけ
 「何度もすみません」どころか、大羊さんが今まで質問をしてきたギョーカイの人々がこの大切なところにちゃんと答えられてない方が大問題です。
 私は、考えれば考えるほど、ナザレのイエスを神とした三位一体の神学の意味に感動しています。詭弁とか、単なる伝統とか、深く追求しないで敬して遠ざけるっていうようなものではありません。
 今の私たちから見ると、古代の人たちはこうこうだと言われたら何でも受け入れたけれど現代人には納得できないものは呑みこめないよな、と思うかもしれませんが、昔から、三位一体が「なんか変だ」「無理がある」と思う人はいくらでもいたわけです。いやむしろその方が多かったでしょう。それですごく論争が起こり、325年のニカイア公会議で司教たちの多数決で「イエスは神」としたわけです。その時点ではそう認めることの必要性がいくつかあったわけです。しかし、キリストは神とは別の被造物で神の養子になっただけとするアリウス派系統の力は依然として強く、皇帝コンスタンティヌス2世もそっちを支持しました。
 今のキリスト教でもエホバの証人なんかはイエス=神を認めてなかったと思います。とにかく、「三位一体」って無理があるんじゃない? という疑問は、キリスト教の成立の歴史と同じくらい古い疑問出し、解決していない問題だと言えるかもしれません。
 だからこそ、ニカイア公会議から100年以上も経った後でまた、451年のカルゲドン公会議で、改めて、「イエス=キリスト=神ではない」説が弾劾されました。でもそのおかげで、この二つの公会議の間に、この教義を確立した教父たちが出て、とてもすてきな三位一体弁護論を繰り広げています。私は特にナジアンズのグレゴリウスが好きで、彼の論議の展開を見ていると、イエスの死と復活の物語が今日的に有効であり得るには、三位一体のダイナミズムが絶対必要だったんだなあ、と納得できます。あの時代の最高の知性たちが、どうしてもこの教義をたてなければ呪術的な古代世界から弱者を解放できないと考えたのは、理解できるんです。そして今も、残念ながら世界中で弱者が抑圧されてる現実は変わっていないので、この考え方を継承するのは意味があると思います。私にとっては結果オーライだなあって。

 今、たとえば「教祖が神だという強弁」を誤解されないようにとキリスト教関係者が及び腰になって人間イエスのすばらしさだけ強調したり、あるいは、三位一体のような教義は禁域に隔離して祀っておくだけみたいな態度をとるのは不思議なことです。
 このことについて、少しだけ、『カトリック生活』(ドンボスコ社)の5月号(発売中)と、次号(5月10日発売)に書きました。

>で、皆さんにお尋ねしたいのですが、「イエス=人であり神であり」とか
>「三位一体」とか、未信者からすると奇妙奇天烈な教義が成立した過程、
>歴史を詳細に、それでいて、未信者にも分かりやすく解説した本ってない
>ものでしょうか? あくまで、歴史と過程です。

 という大羊さんの質問にどなたか答えてくださるとうれしいです。
 なければそのうち私が書きますよ。


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