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哲学・宗教質問箱

369Sekko:2009/01/23(金) 23:49:36
和泉さんへ
 和泉さん、こんにちは。

 歴史上のどこかの時点や地点に「キリスト教」というものがある、と考えると、理解できないことがいろいろ出てくると思います。
 しかし、イエスが「わたしは道であり、真理であり、命である(ヨハネ福音書14−6)」と言っているように、キリスト教も、真理と命に向かう「道」だと思われます。私たちはその途上にあるので、先人の歩いてきた道には、それぞれの時代や場所によって、それぞれの固有の表現としての文化遺産が生まれました。
 ローマ・カトリックは、まさに、ヘレニズムの影響を受けた古代ローマ帝国の文化と版図の中で形成されてきたので、それがまた、欧州の基盤になりました。イスラムの台頭から免れた部分の西ヨーロッパは、それなりに成熟したキリスト教文化を築いてきました。

 それがいろいろな経緯で、非宗教的な西洋近代へと展開したわけです。その近代西洋はテクノロジーの優越と帝国主義的発想によって、近代の一種のグローバル・スタンダードとしての地位を獲得してきました。私たちの日本の近代も、それに倣うことで生き延びたし、発展もしたし、恩恵も受けてきたと思います。
 だから日本が接触したキリスト教は西欧系が多かったですし、文化の傾向としても明治以降の欧化政策の結果、今の私たちにはパレスティナよりも欧州文化と親和性があると思います。

 そこだけ比べると、聖書のイエスが古代パレスティナに現れ、ユダヤ教がエジプトやメソポタミアの影響を受けているのことと、ヨーロッパキリスト教文化とは、「かけ離れている」ように見えますが、キリスト教が神の国へと向かう旅する途上にあること、道であるとすれば、どれが正しいとか正統だとかはいえないと思います。

 変なたとえですが、たとえば、南極から出発して北極に向かいたいとして、みなが北極星を仰ぎ見て指針にして漕ぎ出したとしても、辿る経路は無数にあるわけです。砂漠を横切ったり、山や谷を越えたり、嵐にあったり、遭難したり、間違えて地中に穴を掘ったり、迷ったり・・・ 目的地は、真理や命が実現する神の国でも、道は一つではない、というより、辿ったところに道ができるので、その中で「近代西洋ルート」というのがもっとも今風に整備されている感じでしょうか。
 でも、南極にいたペンギンを北極でさがしても意味ないですし、大切なのはどこに向かうかっていうことでしょう。渡り鳥が経路を間違えないのは地磁気に導かれているとか聞いたことがありますが、旅するキリスト教にとってその地磁気みたいなのが「聖霊」ということになります。

 和泉さんが、聖書から出発され、聖書は特定の時代や場所の文脈の中にあるのですから今目に見えるカトリック文化と付き合わせると違和感があるというのは理解できますが、いろんな時代のいろんな場所でいろんなキリスト者が何にインスパイアされてどうやって歩いてきたかというのを見ていくと、世界が広がるし、自分の足であるいていこうと勇気づけられますから、どうぞ、どんどん知識や出会いの場をお広げください。


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