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哲学・宗教質問箱

351Sekko:2008/09/21(日) 17:48:12
大羊さんへ
 私は別に旧約聖書の性的乱脈が気になりませんね。古代社会って大体どこでも似たようなもんだという感じがします。キリスト教的にも、キリスト教は神が受肉したってのがメインで、だから、どこかの時代のどこかの社会に生まれたわけですから、旧約でその文脈を知るのはもっともだと思いますね。
 後のキリスト教はストア派的な世界で発展したので、ちょっと厭世的で、禁欲的なのはこれも当然の帰結でしょう。その後、キリスト教的性の禁忌は、はっきり言って、婦女子を男の財産として縛るために維持されてきたと思います。
 17世紀頃のヨーロッパの農村とかでもすでに、男たちは結構勝手なことやっていて、それでも女子供は教会に行かせていました。貞潔とか貞節とか、性に対する罪悪感を植えつけることが財の継承システムにとって大事だったんでしょう。
 男同士の同性愛がタブー視されるのも、子孫を残さないとそういう財の継承ニ不都合が生じる上に、女の役をする男への同性内での侮蔑感とか危機感があると思います。男っぽい女の方は、どちらかというと女性から憧れられたりするんですよね。これも、社会的な刷り込みから来る反応でしょう。

 チベットのお坊さんの基本戒では、僧侶の独身を求めるだけでなく、性行為そのものが禁じられていて、異性だけじゃなく同性とも動物ともダメ、と書かれてます。この方が人間性を心得て厳しいのか、あるいは、キリスト教のほうが抜け道を用意したザル法で人間的なのか、分かりません。カトリックでも時代や場所によっては、聖職者の独身の誓いは、神の秘跡としての結婚ができないというだけで、実際は家政婦的な人と同棲しているケースもよくありましたし、アフリカとかでは今もあるようです。

 古代ヘレニズム世界でも同性愛は文化のうちだったし、ストア派的な禁欲は、異性愛とか同性愛に限らず、欲望の抑制がメインだったんでしょう。
 同性愛が神の意思に背くといって、即地獄落ちというような教条主義的宗派は今もありますが、同性愛者だって異性愛者だって、それを律していくという意味では同じ試練を課せられているんでしょう。司祭になりたい人は、独身や貞潔の誓いを受け入れればいいので、別に自分の性的傾向をカミングアウトする必要はないと思います。妄想レベルだったら何でもあり得るわけだし・・・

 それに普通は異性愛者だって、同性愛者だって、別に生まれてから死ぬまでずっとそれにとらわれてるわけじゃないし、1日24時間それにとらわれてるわけでもなく、習慣とか環境とか、ホルモンの具合によってスイッチが入るんだと思うし。そんなことで、神と人に仕える大切な使命とか召命とかが損なわれないことを希望したいです。
 たとえばフランス内での今のカトリックの人にとっては、やはり離婚して再婚した人が聖体拝領できないとか、女性が司祭になれない、とかについて、教皇が一貫して旧守の立場を表明してる方がつまずきになってるみたいです。まあ、歴史的にも文化的にも複合的な問題なので、変わるとしても時間がかかるんでしょう。

 面白いのは、こっちでは主に、男たちによる婦女の教育、洗脳、支配、の手段として長らく機能してたカトリックの性教育が、女性の社会的立場が相対的に上のプロテスタントでは、女性の側からの男性の糾弾として使われることですね。


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