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Re: お願い
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000099M.jpg
案山子さんへのお返事です。
> 台湾から北緯39度までを時計方向に90度反転させた地図をUPして頂けるとありがたいのですが。
>
> 宜しくお願い致します。
>
>
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Re: 千余里
案山子さんへのお返事です。
自帯方至女國」帯方から女國に至る。万二千餘里。これはもろに韓国です。
帯方郡から倭国に至るには水行で海岸を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で倭国の北岸の狗邪韓国(くやかんこく)に到着する(「従郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里」)。
>??翰苑 卷第卅 蕃夷部 より 倭國
>
> 「魏略曰 女王之南 又有狗奴國 女男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也 自帯方至女國 万二千餘里 」
>
> の「自帯方至女國」の起点は「帯方」ですね。
> 「帯方」から大陸へ、大陸から台湾そして女國=倭国ですね。
> 「自帯方至女國」という記述は韓国を経由していません。
>
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Re: 千余里
案山子さん、秦野さん
さっそくお返事ありがとうございます。
> 翰苑 卷第卅 蕃夷部 より 倭國
>
> 「魏略曰 女王之南 又有狗奴國 女男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也 自帯方至女國 万二千餘里 」
>
この唐代の文書はおもしろいですね。「拘右智卑狗」と記しており、「ククチヒコ」ではなく「キユウチヒコ」と読ませていることがわかります。「ク」ではなく「キュウ」なんですね。この差は個人的に大きな意味を感じてます。
「女男子爲王」とあるのも、魏志の「男王ヒミクコ」だけの記載から進化しており、魏志と別の文献があったのではないかと感じます。
先日の文献『隋書』倭国伝で、女王国だけではなく、属国である30余国の「諸王」も、それぞれ王を自称しているとの記載も、魏志から「進化」しているケースでした。
魏の時代も、女王ヒミコが死んだのちに、イヨが就くまでの間、一時諸国がバラバラになっていた時代があり、あるいはこの時代に諸王が、女王国同様に魏に同時に朝貢等をした可能性もあるでしょうし、その記載がどこか魏志以外の文献にあった可能性も感じます。
当然、狗奴国も、どこかに朝貢したかもしれませんし、王の変遷もあったかもしれません。狗奴国がイヨの時代以降もなおまだ存在し続けた可能性も感じますよね。
また、90度反転させて図を見ると、いろいろ考えさせられます。
呉から倭に向かおうとするならば、確かに朝鮮半島よりも、台湾、琉球経由で行こうとするだろうこともよくわかりますし、DNAの流れがそれを裏付けているようです。
あと楯築古墳の石柱の件は、問題は墳丘の上にあることなんですね。そばだったなら私も縄文ストーンサークルで処理したんですけどね・・。
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案山子説の邪馬台国は平泉
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000102M.jpg
案山子さんへのお返事です。
どうも、理解できない。対馬国と馬韓を比較すると対馬国は馬韓の2倍になる。
案山子説には矛盾が多すぎる。ところで、洛陽ルートの朝貢は壱輿だと記憶します。
卑弥呼は帯方郡までの記録です。魏志は帯方郡を基点にしているので、案山子説の
邪馬台国は平泉になる。当時、常陸以北は倭国に属していないので、候補外になる。
「對海【馬】國」は、現沖縄本島・糸満から沖永良部島迄ということになります。
沖縄本島に1492.907平方キロの円
「方可四百里」は面積を記述したものではありません。
對海【馬】國の差し渡し距離です。
四百里は≒432km×0.4=172.8kmになります。
韓半島には馬韓
「地合方四千餘里」の面積は一辺が四千里ではありません。
「地合方四千餘里」とは、縦・横一里の正方形、4000個に相当する面積です。
ですから、「地合方四千餘里」を平方キロに換算すると、
1800尺×24cmの二乗で0.432km×0.42km×4000=746.496平方キロ
に、成ります。
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Re: 千余里
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000103M.jpg
管理人さんへのお返事です。
専門家は古代の遺物を見て、FS小説に負けない創造をする。しかし、お粗末な者が多い。
台湾、琉球経由は古代、紀元前に大きなもので3回有った。縄文ストーンサークルも説明できるが後日にしたい。案山子説の問題点は、魏志倭人伝の邪馬台国への行程は2世紀なので、航路、道程を考えると、存在しない。この際、岩手県も登録したら。
秦野著書、徐福と邪馬台国の邪馬台国が平泉とよく似ているです。片田舎状態まさに夏草や兵どもが夢の跡 (なつくさや つわものどもが ゆめのあと)なんです。帯方群、伊都国、倭奴国・・同様。
芭蕉の碑がまるでストーンサークルです。案山子説もわるくないな。
誰も場所、地名と卑弥呼は誰かを特定していない。しかし、秦野は邪馬台国、墓を見ることができたので幸せかもしれない。以下、歴史の放浪者。
(比定地)福岡県(提唱者)新井白石(場所・地名)山門郡(卑弥呼?)神功皇后(著書)外国之事調書
(比定地)福岡県(提唱者)星野悟(場所・地名)山門郡(卑弥呼?)田油津媛の先代(著書)日本国号考
(比定地)福岡県(提唱者)久米邦武(場所・地名)博多(卑弥呼?)筑紫国造(著書)住吉社は委奴の祖神
(比定地)福岡県(提唱者)橋本増吉(場所・地名)山門郡(卑弥呼?)一女酋(著書)邪馬台国及び卑弥呼に就いて
(比定地)福岡県(提唱者)津田左右吉(場所・地名)山門郡(卑弥呼?)一女酋(著書)邪馬台国の位置について
(比定地)福岡県(提唱者)井上光貞(場所・地名)九州北部(卑弥呼?)天照大神(著書)日本の歴史
(比定地)福岡県(提唱者)和辻哲朗(場所・地名)九州北部(卑弥呼?)天照大神(著書)日本古代文化
(比定地)福岡県(提唱者)植村清二(場所・地名)久留米市・三井郡(卑弥呼?)(著書)邪馬台国・狗奴国・投馬国
(比定地)福岡県(提唱者)榎一雄(場所・地名)山門郡(卑弥呼?)(著書)魏志倭人伝の里程記事について
(比定地)福岡県(提唱者)牧健二(場所・地名)山門郡(卑弥呼?)(著書)邪馬台国問題の解決のために
(比定地)福岡県(提唱者)喜田貞吉(場所・地名)山門郡(卑弥呼?)大和朝廷配下の九州の王(著書)
(比定地)福岡県(提唱者)藤間生大(場所・地名)北九州(卑弥呼?)(著書)埋もれた金印
(比定地)福岡県(提唱者)阿部秀雄(場所・地名)筑後川流域(卑弥呼?)(著書)
(比定地)福岡県(提唱者)重松明久(場所・地名)京都郡(卑弥呼?)(著書)邪馬台国の研究
(比定地)福岡県(提唱者)坂田隆(場所・地名)田川市・京都郡(卑弥呼?)(著書)邪馬一国の歴史
(比定地)福岡県(提唱者)実吉達郎(場所・地名)九州北部(卑弥呼?)(著書)動物から推理する邪馬台国
(比定地)福岡県(提唱者)大林太良(場所・地名)北九州沿岸(卑弥呼?)シャーマン(著書)邪馬台国
(比定地)福岡県(提唱者)木村俊夫(場所・地名)甘木市(卑弥呼?)(著書)邪馬一国とその周辺
(比定地)福岡県(提唱者)中堂観恵(場所・地名)八女郡(卑弥呼?)日の御子(著書)邪馬台国
(比定地)福岡県(提唱者)中島河太郎(場所・地名)北九州(卑弥呼?)巫女(著書)女王国探検
(比定地)福岡県(提唱者)田中卓(場所・地名)山門郡(卑弥呼?)(著書)海に書かれた邪馬台国
(比定地)福岡県(提唱者)大谷光男(場所・地名)北九州(卑弥呼?)シャーマン(著書)研究史金印
(比定地)福岡県(提唱者)森浩一(場所・地名)北部九州(卑弥呼?)豪族(著書)日本の古代文化
(比定地)福岡県(提唱者)松本清張(場所・地名)博多一帯(卑弥呼?)巫女(著書)古代史疑
(比定地)福岡県(提唱者)安本美典(場所・地名)甘木市・朝倉郡(卑弥呼?)天照大神(著書)邪馬台国への道
(比定地)福岡県(提唱者)村山義男(場所・地名)甘木市(卑弥呼?)天照大神(著書)邪馬台国と金印
(比定地)福岡県(提唱者)古田武彦(場所・地名)福岡市(卑弥呼?)(著書)邪馬台国はなかった
(比定地)福岡県(提唱者)奥野正男(場所・地名)博多・吉野ヶ里(卑弥呼?)(著書)吉野ヶ里遺跡の謎
(比定地)福岡県(提唱者)(場所・地名)甘木朝倉に及ぶ(卑弥呼?)(著書)
(比定地)福岡県(提唱者)松田正一(場所・地名)太宰府市近辺(卑弥呼?)(著書)まぼろしではない邪馬台国
(比定地)福岡県(提唱者)川野京輔(場所・地名)北九州(卑弥呼?)シャーマン(著書)邪馬台と出雲
(比定地)福岡県(提唱者)山村正夫(場所・地名)筑後川流域(卑弥呼?)女酋巫女(著書)日本のクイレオパトラ
(比定地)福岡県(提唱者)日影丈吉(場所・地名)(卑弥呼?)巫女(著書)女王国の展望
(比定地)福岡県(提唱者)高倉盛雄(場所・地名)朝倉郡(卑弥呼?)(著書)邪馬台国は筑紫にあった
(比定地)福岡県(提唱者)佐治芳彦(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)邪馬一国抹殺の謎
(比定地)福岡県(提唱者)村山健治(場所・地名)山門郡(卑弥呼?)教祖族長(著書)誰にも書けなかった
(比定地)福岡県(提唱者)(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)邪馬台国
(比定地)福岡県(提唱者)鯨清(場所・地名)北九州(卑弥呼?)天照大神(著書)卑弥呼は天照大神である
(比定地)福岡県(提唱者)吉田修(場所・地名)山門郡(卑弥呼?)シャーマン(著書)邪馬台国の終焉と復活
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(比定地)熊本県(提唱者)白鳥庫吉(場所・地名)菊池郡山門(卑弥呼?)(著書)
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(比定地)熊本県(提唱者)藤井甚太郎(場所・地名)阿蘇郡(卑弥呼?)神功皇后(著書)邪馬台国の所在に就いて
(比定地)熊本県(提唱者)藤芳義男(場所・地名)阿蘇郡蘇陽町(卑弥呼?)百襲姫(著書)倭日の国
(比定地)熊本県(提唱者)古屋清(場所・地名)玉名郡江田村(卑弥呼?)神功皇后(著書)江田村の古墳
(比定地)熊本県(提唱者)安藤正直(場所・地名)下益城郡佐俣町(卑弥呼?)(著書)邪馬台は福岡県山門郡
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(比定地)熊本県(提唱者)鈴木武樹(場所・地名)山鹿市(卑弥呼?)(著書)日本古代史99の謎
(比定地)熊本県(提唱者)李鉦埼(場所・地名)八代市(卑弥呼?)インドの王女(著書)Time of India
(比定地)熊本県(提唱者)(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)卑弥呼渡来の謎
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(比定地)大分県(提唱者)富来隆(場所・地名)宇佐市(卑弥呼?)神功皇后(著書)魏志「邪馬台」の位置に
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(比定地)大分県(提唱者)久保泉(場所・地名)宇佐市(卑弥呼?)神功皇后(著書)邪馬台国の所在とゆくえ
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(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)邪馬台国
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(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)鳥越憲三郎(場所・地名)大和郡山(卑弥呼?)物部氏一族(著書)古事記は偽書か
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)新妻利久(場所・地名)飛鳥(卑弥呼?)神功皇后(著書)やまと邪馬台国
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)佐原真(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)坂田隆(場所・地名)(卑弥呼?)倭姫命(著書)卑弥呼をコンピュータで探る
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)田口賢三(場所・地名)大和(卑弥呼?)神功皇后(著書)邪馬台国の誕生
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)青木慶一(場所・地名)大和(卑弥呼?)倭百日日百襲姫(著書)邪馬台の美姫
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)山口修(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)ふたつの邪馬台国
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)西嶋定生(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)謝銘仁(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)提唱者(場所・地名)場所・地名(卑弥呼?)卑弥呼は誰?(著書)著書・論文
(比定地)奈良県(近畿)(提唱者)(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)
(比定地)滋賀県(提唱者)小島信一(場所・地名)滋賀県琵琶湖畔(卑弥呼?)神功皇后(著書)女王国家
(比定地)京都府(提唱者)江戸達郎(場所・地名)京都府京都市(卑弥呼?)神功皇后(著書)京都新聞紙上
(比定地)徳島県(提唱者)古代阿波研究会(場所・地名)阿波国(徳島県)(卑弥呼?)神功皇后(著書)邪馬壱国は阿波だった
(比定地)和歌山県(提唱者)立岩巌(場所・地名)吉野から紀州一帯(卑弥呼?)(著書)邪馬台国新考
(比定地)山梨県(提唱者)奥平里義(場所・地名)山梨県逸見高原(卑弥呼?)(著書)新日本誕生記
(比定地)エジプト(提唱者)木村鷹太郎(場所・地名)エジプト(卑弥呼?)(著書)日本太古小史
(比定地)ジャワ・スマトラ(提唱者)内田吟風(場所・地名)インドネシア(卑弥呼?)神功皇后(著書)朝日新聞紙上
(比定地)北九州と大和(提唱者)海渡英祐(場所・地名)畿内(卑弥呼?)(著書)二つの邪馬台国
(比定地)四国松山(提唱者)浜田秀雄(場所・地名)愛媛県(卑弥呼?)(著書)切丹秘史と瀬戸内の
(比定地)四国松山(提唱者)(場所・地名)(卑弥呼?)(著書)邪馬台国
(比定地)長野県(提唱者)武智鉄二(場所・地名)諏訪地方(卑弥呼?)南シベリア族の女王(著書)月刊歴史と旅
(比定地)愛媛県(提唱者)大森忠夫(場所・地名)愛媛県川之江市一帯(卑弥呼?)(著書)邪馬台国伊予説
(比定地)大阪府(提唱者)大熊規短男(場所・地名)大阪市(卑弥呼?)(著書)神社考古学
(比定地)大阪府(提唱者)泉隆弐(場所・地名)難波(卑弥呼?)(著書)邪馬台国の原点倭
(比定地)石川県(提唱者)能坂利雄(場所・地名)羽昨市(卑弥呼?)能登ヒメ (著書)
(比定地)滋賀県(提唱者)大内規夫(場所・地名)野洲市(卑弥呼?)天照大神(著書)
(比定地)総国(上総・安房)(提唱者)鈴木正知(場所・地名)千葉県(卑弥呼?)巫女(著書)邪馬台国に謎はない
(比定地)千葉県(提唱者)伊藤邦之(場所・地名)我孫子市布佐(卑弥呼?)(著書)邪馬壱国
> 呉から倭に向かおうとするならば、確かに朝鮮半島よりも、台湾、琉球経由で行こうとするだろうこともよくわかりますし、DNAの流れがそれを裏付けているようです。
>
> あと楯築古墳の石柱の件は、問題は墳丘の上にあることなんですね。そばだったなら私も縄文ストーンサークルで処理したんですけどね・・。
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Re: お願い
秦野北斗さんへのお返事です。
>
> > 台湾から北緯39度までを時計方向に90度反転させた地図をUPして頂けるとありがたいのですが。
>
折角地図をUpして頂いたのですが、
残念ながら、「反時計方向に90度」のちずですた。
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Re: 千余里
秦野北斗さんへのお返事です。
> 自帯方至女國」帯方から女國に至る。万二千餘里。これはもろに韓国です。
>
「自」は一般的には『・・・・より』と翻訳され起点を意味すると言われています。
起点とすることは問題ありませんが『・・・・より』という解釈には問題があります。
清代段玉裁『?文解字注』に
鼻也。象鼻形。此以鼻訓自。而又曰象鼻形。王部曰。自讀若鼻。今俗以作始生子爲鼻子是。
とあるように、
数人の子が有り、『始生子』が『鼻子』で「自」に当たる。
幾つかの「郡」が有ってその最初の「郡」が「自郡」。
又「自郡」と記述する時その視点は国都である。
「自帯方郡」と記述する時、視点は「帯方」で「起点も帯方」です。
その「視点、起点である帯方」から幾つかの「郡」通過して「女国」に至るを、
「自帯方至女國」と記述されれる。
「帯方」から「韓国」方向への「郡」は存在しませんから、必然的に行程方向は大陸へ向かう。
> 帯方郡から倭国に至るには水行で海岸を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で倭国の北岸の狗邪韓国(くやかんこく)に到着する(「従郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里」)。
は、
魏志であり魏略の原文ではありません。また、魏志の原文は、
「自郡至女王國萬二千余里」で、『帯方』との記述はありません。
「自女王國」と「女王國」も同じ様に峻別して解釈しなければなりません。
「自女王國」が「對海【馬】國」ですから「女王國」との記述は邪馬壹【臺】國と同義です。
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Re: 案山子説の邪馬台国は平泉
秦野北斗さんへのお返事です。
>どうも、理解できない。対馬国と馬韓を比較すると対馬国は馬韓の2倍になる。
>
魏志には「對海【馬】國」の地積記述は有りません。「方可四百余里」は「對海【馬】國」の差し渡し距離です。
「對海【馬】國」の地積記述が有りませんから馬韓との地積比較は不可能です。
> 魏志は帯方郡を基点にしているので、案山子説の
>邪馬台国は平泉になる。当時、常陸以北は倭国に属していないので、候補外になる。
>
案山子は、平泉を邪馬壹【臺】國に比定したことはありません。平泉は女王国と男王国の境界とおいています。
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Re: 千余里
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000107M.jpg
案山子さんへのお返事です。
案山子さんの中国語の解釈には相当な問題をかかえています。
皇、大也、従自王、自、始也、始王者三皇、大君也、自讀若鼻、今俗以始生子為鼻子是
(皇、大也、自・王に従ふ、自は始也、始めて王たりし者は三皇なり、大いなる君也、自は讀みて鼻の若くす、今の俗に始めて生まるる子を以て鼻子と為すは是れなり)。
> 清代段玉裁『?文解字注』に
> 鼻也。象鼻形。此以鼻訓自。而又曰象鼻形。王部曰。自讀若鼻。今俗以作始生子爲鼻子是。
> とあるように、
> 数人の子が有り、『始生子』が『鼻子』で「自」に当たる。
> 幾つかの「郡」が有ってその最初の「郡」が「自郡」。
> 又「自郡」と記述する時その視点は国都である。
> 「自帯方郡」と記述する時、視点は「帯方」で「起点も帯方」です。
> その「視点、起点である帯方」から幾つかの「郡」通過して「女国」に至るを、
> 「自帯方至女國」と記述されれる。
> 「帯方」から「韓国」方向への「郡」は存在しませんから、必然的に行程方向は大陸へ向かう。
『始生子』が『鼻子』で「自」に当たる。間違い、「自讀」がセットで「自」接尾辞で「自讀」は自から読む
「自帯方至女國」の「自」は介詞、帯方から・・になる。
自の品詞
副詞
みずから、おのずから。
介詞
(文語 移動の起点)〜から、〜より。
(文語 時間の起点)〜から、〜より。
从/從
対語
至:〜まで
接尾辞
(動詞に前置し「自ら〜する」の意の動詞を形成)
動詞の前
抗議電話自全国紛紛打来。(抗議の電話が全国からかかってくる。)
本航班自北京飛往東京羽田机場。(本機は北京より東京羽田空港へ向かいます。)
動詞の後
来自農村的青少年。(農村より来た青少年。)
“自……而……”
自上而下(上から下へ)
自左而右(左から右へ)
自遠而近(遠くから近くへ)
……から/……より
自入冬以来,我総是咳嗽。(冬になってから,わたしはずっと咳き込んでいる。)
今天是自入夏以来最熱的一天。(今日は夏になってから最も暑い日である。)
自古以来,女人的敵人就是女人。(昔から、女性の敵は女性である。)
自明日起実施執行新規定。(明日より新規定を実施執行する。)
> 清代段玉裁『?文解字注』に
> 鼻也。象鼻形。此以鼻訓自。而又曰象鼻形。王部曰。自讀若鼻。今俗以作始生子爲鼻子是。
> とあるように、
> 数人の子が有り、『始生子』が『鼻子』で「自」に当たる。
> 幾つかの「郡」が有ってその最初の「郡」が「自郡」。
> 又「自郡」と記述する時その視点は国都である。
> 「自帯方郡」と記述する時、視点は「帯方」で「起点も帯方」です。
> その「視点、起点である帯方」から幾つかの「郡」通過して「女国」に至るを、
> 「自帯方至女國」と記述されれる。
> 「帯方」から「韓国」方向への「郡」は存在しませんから、必然的に行程方向は大陸へ向かう。
案山子さんへのお返事です。
> > > 台湾から北緯39度までを時計方向に90度反転させた地図をUPして頂けるとありがたいのですが。
> >
>
> 折角地図をUpして頂いたのですが、
> 残念ながら、「反時計方向に90度」のちずですた。
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Re: 千余里
管理人さんへのお返事です。
>
> 当然、狗奴国も、どこかに朝貢したかもしれませんし、王の変遷もあったかもしれません。狗奴国がイヨの時代以降もなおまだ存在し続けた可能性も感じますよね。
>
後漢書の
「去其西北界拘邪韓國七千餘里」
「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王」
「拘」を追求する必要がる。
魏志の「狗邪韓國」と後漢書の「拘邪韓國」
違いを明確にする事と、
魏志の
「女王國東渡海千余里復有國皆倭種」
の「復有國皆倭種」と後漢書の
「拘奴國 」の「倭種」の相違と二国のロケーションを明確にする事。
> また、90度反転させて図を見ると、いろいろ考えさせられます。
>
> 呉から倭に向かおうとするならば、確かに朝鮮半島よりも、台湾、琉球経由で行こうとするだろうこともよくわかりますし、DNAの流れがそれを裏付けているようです。
>
台湾ルートは公孫氏の時代並びに魏の時勢は封鎖されていたのです。
その検閲にあたっていたのが魏志の一大卒です。
魏志の狗邪韓國は八重山諸島と台湾ですで、
「自女王國以北其戸道里可数得略載」の「次有斯馬國」から「次奴國」の21カ国です。
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Re: 千余里
案山子さんへのお返事です。
さっそくお返事ありがとうございます。
> 後漢書の
> 「去其西北界拘邪韓國七千餘里」
> 「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王」
> 「拘」を追求する必要がる。
>
> 魏志の「狗邪韓國」と後漢書の「拘邪韓國」
> 違いを明確にする事と、
> 魏志の
> 「女王國東渡海千余里復有國皆倭種」
> の「復有國皆倭種」と後漢書の
> 「拘奴國 」の「倭種」の相違と二国のロケーションを明確にする事。
狗の音については、私も狗邪韓国と狗奴国との間に類似性を感じてますが、ただ他の諸国で狗の語を持つ国もあるようで、その辺との兼ね合いが課題かもしれません。下記に魏志韓伝に記された諸国を列記しておきます。ご参照ください。
●馬韓
爰襄国、牟水国、桑外国、小石索国、大石索国、優休牟涿国、臣濆沽国、伯濟国、速盧不斯国、日華国、古誕者国、古離国、怒藍国、月支国、咨離牟盧国、素謂乾国、古爰国、莫盧国、卑離国、占卑国、臣釁国、支侵国、狗盧国、卑彌国、監奚卑離国、古蒲国、致利鞠国、冉路国、兒林国、駟盧国、内卑離国、感奚国、萬盧国、辟卑離国、臼斯烏旦国、一離国、不彌国、支半国、狗素国、捷盧国、牟盧卑離国、臣蘇塗国、莫盧国、古臘国、臨素半国、臣雲新国、如來卑離国、楚山塗卑離国、一難国、狗奚国、不雲国、不斯濆邪国、爰池国、乾馬国、楚離国、おおよそ五十余国が在る。
●弁辰韓
弁辰もまた十二国、また諸々の小さな別邑があり、各自に渠帥(首領)がおり、大首領は臣智と言い、その次に險側、次に樊濊、次に殺奚、次に邑借がいる。
(弁辰には)彌離彌凍国、接塗国、古資彌凍国、古淳是国、半路国、樂奴国、彌烏邪馬国、甘路国、狗邪国、走漕馬国、安邪国(馬延国)、瀆盧国がある。
(辰韓には)已柢国、不斯国、勤耆国、難彌離彌凍国、冉奚国、軍彌国(弁軍彌国)、如湛国、戸路国、州鮮国(馬延国)、斯盧国、優由国がある。
●州胡国条
馬韓の西、海上の島に州胡国がある。その族人は背が低く小さく、髪がなく、衣服は毛皮で、上着はあるが下穿きはない。巧みに牛や豚を飼育する。船で往来し、韓で交易する。
引用: http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/bakan-kanbun1-gisi.htm
一応通説では、弁辰条の狗邪国が狗邪韓国とされてますね。
馬韓伝にも狗盧国、狗奚国が見えます。
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魏志の倭韓国名の共通性
下記の馬韓・弁辰伝についての追記ですが、やはり倭国の領域に近づくと国名も類似してくるようです。
下記に抽出した国名が特に倭の30国の国名や官職名と、語的な共通性があります。
具体的には「狗」「卑(離)」「一」「邪」「馬」「奴」「盧」「邪馬」「不彌」といったあたりです。
●馬韓
狗盧国、卑彌国、監奚卑離国、辟卑離国、一離国、不彌国、狗素国、捷盧国、牟盧卑離国、莫盧国、如來卑離国、楚山塗卑離国、一難国、狗奚国、不斯濆邪国、乾馬国、楚離国、
●弁辰韓
(弁辰)樂奴国、彌烏邪馬国、狗邪国、走漕馬国、安邪国(馬延国)、瀆盧国がある。
(辰韓)軍彌国(弁軍彌国斯盧国)
これらの倭国30国名との共通性は、馬韓では国名順の後半にあたる(おそらく)南部、弁韓では全体的に見えます。
これらのことから、それらの地域が、奴国・邪馬台国と同系の文化圏にあったことがあきらかになるでしょう。同じ意味を持つ慣用句が国名になっている可能性もありますね。
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Re: 千余里
秦野北斗さんへのお返事です。
> > 折角地図をUpして頂いたのですが、
> > 残念ながら、「反時計方向に90度」のちずですた。
>
反転地図UPありがとうございます。
倭人伝には、
「始度一海千余里 至對海【馬】國」
「又南渡一海千余里名曰瀚海 至一大國」
「又渡一海千余里 至末廬國」
と、有ります。
つまり「其北岸狗邪韓國」から千余里(432km〜444km)の南下を三回繰り返しています。
「其北岸狗邪韓國」を現台湾・満州郷(北緯22度02分38秒)として
千余里(緯度的に4度、約444km)南下した地点は会稽東冶で現福州市(北緯26度04分28秒)、
その東は沖縄・糸満市(北緯26度07分25秒)、所謂、ここから差し渡し400里が對海【馬】國。
会稽東冶・現福州市(北緯26度04分28秒)から、千余里(緯度的に4度、約444km)南下した地点は会稽・現紹興市(北緯29度59分45秒)、
その東は口之島(北緯29度57分46秒)所謂此処から差し渡し300里が一大國。
一大國である口之島(北緯29度57分46秒)から、千余里(緯度的に4度、約444km)南下した地点は北緯34度の末廬國、
末廬國は北緯33度57分28秒に位置する下関市。
末廬國(下関市)から東南五百里(216km)に伊都国がある。
伊都国の位置は現出雲です。
「東南陸行五百里 到伊都國」
秦野北斗さんへのUPして下さった地図でその位置を追うと
上記の様になる。
陳寿は、日本列島を時計方向に90度反転させて記述している。
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Re: 千余里
管理人さんへのお返事です。
>
> > 後漢書の
> > 「去其西北界拘邪韓國七千餘里」
> > 「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王」
> > 「拘」を追求する必要がる。
>
後漢書の「拘邪韓國」は魏志倭人伝の「對海【馬】國」でにあたり、
後漢書の「拘奴國」は魏志倭人伝の「一大國」にあたる。
全て、「自」の正しい解釈による。
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このパズルは解けますか。
拘奴国の位置問題です。
1.魏志倭人伝では『女王国より、特に南の狗奴国の男王卑弥弓呼と不和で戦争状態にあった。』
1.『後漢書』倭人伝『女王国より東に海を渡ること千余里で拘奴国に至る。』
ヒントは拘奴国は女王国に属さない。
魏志倭人伝
女王国より北方にある、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国の他に、遠くに在って国名だけしか分からない国として斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国があり、女王国はこれら20数カ国を支配していた。日本列島の全てを支配した訳ではなく連合領域外の国々もあり、『特に南の狗奴国の男王卑弥弓呼と不和で戦争状態にあった。』
『後漢書』倭人伝
倭在韓東南大海中、依山島為居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里。其地大較在會稽東冶之東、與朱崖、儋耳相近、故其法俗多同。
倭は韓の東南、大海中の山島に拠って暮らす。およそ百余国。前漢の武帝が朝鮮を滅ぼしてより、漢に使訳(使者と通訳)を通じてくるのは三十国ほど。国では皆が王を称することが代々の伝統である。そこの大倭王は邪馬臺国に居する。楽浪郡の境界から、その国までは一万二千里。その西北界の拘邪韓国から七千余里。その地は凡そ会稽郡東冶の東に在り、(海南島の)朱崖や儋耳と相似しており、その法俗も多くが同じである。
『自女王國東度海千餘里至拘奴國。』雖皆倭種、而不屬女王。自女王國南四千餘里至朱儒國、人長三四尺。自朱儒東南行船一年、至裸國、黒齒國、使驛所傳、極於此矣。
『女王国より東に海を渡ること千余里で拘奴国に至る。』いずれも倭種とはいえども女王には属していない。女王国より南に四千余里で朱儒国に至る。そこの人の身長は三〜四尺。朱儒より東南に航行すること一年で裸国と黒歯国に至る。使訳の伝える所はこれに尽きる。
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Re: 魏志の倭韓国名の共通性
管理人さんへのお返事です。
おっしゃる通り。中国史籍の文章に従います。
新羅=新盧は馬韓より別れた。また、秦からの亡命者を辰韓に住まわせた。・・
辰韓と倭国が接していた。状況証拠ですな。
●馬韓
狗盧国、狗素国、狗奚国、(弁辰韓)狗邪国、(倭国)狗奴国
捷盧国、莫盧国、(新羅)新盧、牟盧、(倭国)末盧国、楚一難国、不斯濆邪国、
(弁辰韓)安邪国、乾馬国、(弁辰韓)走漕馬国、(倭国)投馬国、
不彌国、卑彌国、(辰韓)軍彌国、(倭国)不弥国、
監奚卑離国、辟卑離国、山塗卑離国、如來卑離国、卑離国、
一離国、楚離国、
●弁辰韓
(弁辰)樂奴国、彌烏邪馬国、狗邪国、走漕馬国、安邪国(馬延国)、瀆盧国がある。
(辰韓)軍彌国(弁軍彌国斯盧国)
●倭国
対馬国、一大国、伊都国、奴国、邪馬台国、斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、
可能性もありますね。
東北の南部鉄瓶は辰韓の伝統を引継ぐみたいですよ。秦野の古代史から出てきた結果です。
> これらのことから、それらの地域が、奴国・邪馬台国と同系の文化圏にあったことがあきらかになるでしょう。同じ意味を持つ慣用句が国名になっている可能性もありますね。
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Re: このパズルは解けますか。
秦野北斗さんへのお返事です。
> 拘奴国の位置問題です。
>
> 1.魏志倭人伝では『女王国より、特に南の狗奴国の男王卑弥弓呼と不和で戦争状態にあった。』
>
> 1.『後漢書』倭人伝『女王国より東に海を渡ること千余里で拘奴国に至る。』
>
> ヒントは拘奴国は女王国に属さない。
これはかなり難問ですね・・・(^^ゞ
後漢書は、400年代のものですが、かなり後漢当時の文献を拾っているようです。
倭についての記載も、そこそこ信用できるだろうと感じます。後漢末の霊帝あたりまで編纂が続いていたようですし、東夷伝が記されたのも最後の最後ではないかと感じます。
狗奴国の位置が南と東で相違するのには驚きました。
漢代に女王国の東にあったものが、魏の時代に南になる・・・。
『後漢書』倭人伝
> 倭は韓の東南、大海中の山島に拠って暮らす。
そこの大倭王は邪馬臺国に居する。楽浪郡の境界から、その国までは一万二千里。その西北界の拘邪韓国から七千余里。その地は凡そ会稽郡東冶の東に在り、(海南島の)朱崖や儋耳と相似しており、その法俗も多くが同じである。
倭の西北界に狗邪韓国が来るのは、特に異論ない感じです。拘邪韓国は、すると倭の一部だったのでしょうか。翻訳の仕方が気になります。
狗邪韓国から7千里というのは面白いですね。楽浪から狗邪韓国までが5千里、そこから女王国までが7千里という計算ですね。だいたい楽浪境界から、狗邪韓国までの距離にプラスアルファくらいで、届くことになりますから、三千里を狗邪韓国からマツロ国・伊都国までの距離と換算すると、あと4千里南?にある計算でしょうか。西都原とか吉備あたり・・?
ところが、狗奴国の位置が変わってしまうのが不思議です。
海を渡って東千余里の同じ記載は魏志にもあるものの、狗奴国とは断定しなくなっているんですね。
魏志では南に変化させてしまっている・・・。
女王国の位置や狗奴国の位置が、時代によって変化移動したのか?あるいは方位の見方が変わったのか・・。
後漢書ですでに台湾の記載は別にあるので、これはこれでいいと思うんです。
> 『女王国より東に海を渡ること千余里で拘奴国に至る。』いずれも倭種とはいえども女王には属していない。女王国より南に四千余里で朱儒国に至る。そこの人の身長は三〜四尺。朱儒より東南に航行すること一年で裸国と黒歯国に至る。使訳の伝える所はこれに尽きる。
「使訳の伝える所」という記載がおもしろいですね。やはり後漢書のこれらの記載は、倭人からの又聞きの話です。水行・陸行の話が出てくるのは、魏の時代で、使者が現地に行った見聞録からでしょうね。
あと、倭奴国が、倭の極南界としているのも驚きです。魏志の記載ならば、奴国はその北にある国々の中で最北界?になってますから・・・。いずれにせよ、界の国が奴国であることには変わりません。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun2-gokan.htm
ちょっと頭をひねる必要がありそうですね。フロに入って考えて見ます。
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Re: このパズルは解けますか。
秦野北斗さんへのお返事です。
> 拘奴国の位置問題です。
>
> 1.魏志倭人伝では『女王国より、特に南の狗奴国の男王卑弥弓呼と不和で戦争状態にあった。』
>
> 1.『後漢書』倭人伝『女王国より東に海を渡ること千余里で拘奴国に至る。』
>
> ヒントは拘奴国は女王国に属さない。
>
1.志倭人伝ではの問題点。
「其南有狗奴國」の「其」とは
「自女王國以北」に在る「次有斯馬國〜 次有奴國 此女王境界所盡」ことです。此処で云う「自女王國」とは「對海【馬】國」で沖縄本島を刺します。
その「以北」は、「狗邪韓國」の領域である台湾・八重山諸島です。
秦野北斗さんにUPしていただいた。反転地図をみてください。
八重山諸島(「狗邪韓國」)の南に在るのは、先ず南千余里で「對海【馬】國」、更に千余里南で一大国、更に南で末盧国ですが、一大国の差し渡しは三百里ですから、
この行程地図では、九州が抜けている。つまり、「狗奴國」は九州です。
「邪馬壹【臺】國」・卑彌呼と「狗奴國」・卑弥弓呼が戦争状態にあったと云う解釈も事実無根でしょう。地理条件的にそのような状況を想定することに無理がある。
>1.『後漢書』の問題点。
「不屬女王」との記述は有っても「不屬女王国」という記述は有りません。
「狗奴國」は「女王國」内に在るが、「不屬女王」。
> 『後漢書』倭人伝
>
Ø「倭在韓東南大海中、依山島為居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼 去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里。其地大較在會稽東冶之東」
「樂浪郡徼」の「徼」に起点の意はありません。
この起点は後漢の国都長安(一応)です。
「樂浪郡徼」は長安からどの方向へ向かったかの通過地点を示したものです。
長安⇒錦州市(1,323.391km)⇒丹東市(295.621km)⇒平壌(179.419km)⇒糸満市(1,439.365km)
長安〜糸満市は3,237.796kmで約7494.9里。
7494.9里から「歫國五百里爲都」の五百里を引くと6994.9里。
六千九百九十四.九里は去其西北界拘邪韓國七千餘里と同数値である。
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Re: このパズルは解けますか。
案山子さんへのお返事です。
案山子さんの回答ですが具体的な場所はどこですか?、九州では広すぎる。
拘奴国の位置問題です。拘奴国に『九州』を入れますた。
1.魏志倭人伝では『女王国より、特に南の『九州』の男王卑弥弓呼と不和で戦争状態にあった。』
1.『後漢書』倭人伝『女王国より東に海を渡ること千余里で『九州』に至る。』
ヒントは拘奴国は女王国に属さない。案山子さんは「狗奴國」は「女王國」内に在るが、「不屬女王」。?
この問題の注意点は『東南に裸国や?歯国も在り、船で行くこと一年で至るとか。』侏儒国が存在します。
『九州』『三国志魏書』倭人伝
女王国より、特に南の狗奴国。
その南に侏儒(こびと)国が在り、女王国から四千余里。
また、その東南に裸国や?歯国も在り、船で行くこと一年で至るとか。
『後漢書』倭人伝
女王国より東に海を渡ること千余里で拘奴国に至る。
女王国より南に四千余里で朱儒国に至る。
朱儒より東南に航行すること一年で裸国と黒歯国に至る。
> この行程地図では、九州が抜けている。つまり、「狗奴國」は九州です。
>
> 「邪馬壹【臺】國」・卑彌呼と「狗奴國」・卑弥弓呼が戦争状態にあったと云う解釈も事実無根でしょう。地理条件的にそのような状況を想定することに無理がある。
>
> >1.『後漢書』の問題点。
> 「不屬女王」との記述は有っても「不屬女王国」という記述は有りません。
> 「狗奴國」は「女王國」内に在るが、「不屬女王」。
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案山子説は成立しない
馬韓の面積と国数を見る限り、過密すぎるので成立しない。古代には九州で20数カ国あった。
馬韓の国数から九州ぐらいの広さが必要。九州(35,000平方Km)。
韓半島には馬韓(案山子説では対馬の半分)
「地合方四千餘里」の面積は一辺が四千里ではありません。
「地合方四千餘里」とは、縦・横一里の正方形、4000個に相当する面積です。
ですから、「地合方四千餘里」を平方キロに換算すると、
1800尺×24cmの二乗で0.432km×0.42km×4000=746.496平方キロ
に、成ります。
●馬韓
狗盧国、卑彌国、監奚卑離国、辟卑離国、一離国、不彌国、狗素国、捷盧国、牟盧卑離国、莫盧国、如來卑離国、楚山塗卑離国、一難国、狗奚国、不斯濆邪国、乾馬国、楚離国、
●弁辰韓
(弁辰)樂奴国、彌烏邪馬国、狗邪国、走漕馬国、安邪国(馬延国)、瀆盧国がある。
(辰韓)軍彌国(弁軍彌国斯盧国)
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Re: 案山子説は成立しない
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000119M.jpg
秦野さん、案山子さん、ご意見ありがとうございます。
狗奴国がどこにあったのか?なぞが深まるところですが、イメージ図を作成したので、紹介いたします。
対馬あたりで南北の軸がずれて、すこし北西に軸が傾いた見方をしているのではないかと疑ってます。
それで東治の東も、九州南部から中部あたりになってきて、女王国の東も四国・近畿方面になるかもしれません。
沖縄は、女王国の南4千里に位置していた朱儒国となりますね。
それで、台湾・沖縄方面を論じるうえでは、やはり海南島・九州・琉球とともに、東鯷人についても忘れてはならないでしょう。
會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海、求蓬萊神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。所在絶遠、不可往來。
会稽の海の外に東鯷人があり、二十余国に分かれている。また、夷洲および澶洲がある。伝承によると、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、数千人の少年少女を連れて海に入った。蓬萊山の神仙を探し求めたが、出会えず、徐福は誅罰を畏れて敢えて帰らず、遂にこの島に留まった。代々に相伝し、数万家を有した。人民は時に会稽に至り交易する。会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がいる。絶海の遠地に在り、往来すべきではない。
「会稽の海の外」「会稽東冶県の人」という形で、会稽の観念が出てきてますね。夷洲および澶洲という2種類の「洲」は島の意味です。徐福伝承が記されていて、「絶海の遠地に在り、往来すべきではない。」としてます。「数万家」はかなりの人数。時折会稽東冶にやってくるだけの航海能力があるようですね。鯷はイワシの意味だそうです。漁民を感じさせますね。
二十余国あるということは、そこそこ国をつくるだけの人口が、その島にないといけない計算ですから、そう考えていくと、琉球方面と見るのが、妥当かなと感じます。
ただ魏志では、これらの国のことを、朱儒国としたのかもしれません。
それで狗奴国は、数万戸で構成される大国ですから、やはり沖縄・九州・四国のような大きな島ではなかったかと感じるんですね。ただ島という記載がないので、九州・四国方面が妥当な感じがします。
狗奴国が、女王国の東にあったのか、南にあったのかですが、四国という地域は、高知方面に青銅器関連の遺跡が多くあって、徳島方面にいくと、ホタテ貝式古墳なども出てきますよね。
海流面からみれば、九州南部からの黒潮関係や大分方面とのつながりもあったかもしれません。九州南部から四国にかけての遺跡関連のつながりを調べてみたいところです。
そして両国の抗争の地は、海を挟んでいたのか、あるいは陸の境界だったのか?この辺も気になるところです。
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プラズマの風(太陽風)
http://www.h2.dion.ne.jp/~mogiseka/article/071118solar_eclipse_sun_worship.htm
http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/
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Re: 案山子説は成立しない
秦野北斗さんへのお返事です。
> 韓半島には馬韓(案山子説では対馬の半分)
> 「地合方四千餘里」の面積は一辺が四千里ではありません。
> 「地合方四千餘里」とは、縦・横一里の正方形、4000個に相当する面積です。
> ですから、「地合方四千餘里」を平方キロに換算すると、
> 1800尺×24cmの二乗で0.432km×0.42km×4000=746.496平方キロ
> に、成ります。
>
秦野北斗さん勇み足ですよ。
「地合方四千餘里」は、三国の総地積ではありません。
「方里」とは「田畑」面積積算に使われていたものです。
ですから、
「地合方四千餘里」とは三国の田畑の総面積を記述したものです。
とりあえず。
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Re: このパズルは解けますか。
秦野北斗さんへのお返事です。
> 案山子さんの回答ですが具体的な場所はどこですか?、九州では広すぎる。
>
「其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王」とあるので、
九州を刺しています。大きさは、
「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」と 「女王卑彌呼」と「男王卑彌弓呼」を並列記述していますので、卑彌呼の都が「距國五百里爲都 」にそうなら卑彌弓呼の「距國五百里爲都」の都も存在するでしょう。その都は九州全土を飲み込みます。(五百里≒216km)
> 拘奴国の位置問題です。拘奴国に『九州』を入れますた。
>
「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王」
から、異存有りません。
>
> この問題の注意点は『東南に裸国や?歯国も在り、船で行くこと一年で至るとか。』侏儒国が存在します。
>
後漢書
「自女王國南四千餘里至朱儒國 人長三四尺」の「朱儒國」は
「自女王國」が「其地大較在會稽・東冶之東」の沖縄・糸満に当たるので
其処から南へ4000里(約1,728km)ですからフィリピンを刺している。
「自朱儒東南行船一年 至裸國・?齒國 使驛所傳 極於此矣」
については、結論だけで
至裸國・?齒國はオーストラリアに迄至る。
行船一年は距離換算して約3888kmになる。
>
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Re: 案山子説は成立しない
案山子さんへのお返事です。
案山子さん、読みが浅い。
ほうり はう― 1 【方里】
縦横が一里の面積。一里四方は日本語の表記です。
中国語の解釈は方里=方一里
地合方四千餘里、=方四千餘里になり一に四千餘が入る。
地合は四千餘里四方。←日本語です。縦横が四千餘里の面積
> 「地合方四千餘里」とは三国の田畑の総面積を記述したものです。
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Re: このパズルは解けますか。
案山子さんへのお返事です。
これでは、日本に2〜3世紀大航海時代が存在した事になる。
フィリピン、オーストラリアは日本領になる。?
>
> > 案山子さんの回答ですが具体的な場所はどこですか?、九州では広すぎる。
> >
> 「其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王」とあるので、
> 九州を刺しています。大きさは、
> 「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」と 「女王卑彌呼」と「男王卑彌弓呼」を並列記述していますので、卑彌呼の都が「距國五百里爲都 」にそうなら卑彌弓呼の「距國五百里爲都」の都も存在するでしょう。その都は九州全土を飲み込みます。(五百里≒216km)
>
> > 拘奴国の位置問題です。拘奴国に『九州』を入れますた。
> >
> 「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王」
> から、異存有りません。
> >
> > この問題の注意点は『東南に裸国や?歯国も在り、船で行くこと一年で至るとか。』侏儒国が存在します。
> >
> 後漢書
> 「自女王國南四千餘里至朱儒國 人長三四尺」の「朱儒國」は
> 「自女王國」が「其地大較在會稽・東冶之東」の沖縄・糸満に当たるので
> 其処から南へ4000里(約1,728km)ですからフィリピンを刺している。
>
> 「自朱儒東南行船一年 至裸國・?齒國 使驛所傳 極於此矣」
> については、結論だけで
> 至裸國・?齒國はオーストラリアに迄至る。
> 行船一年は距離換算して約3888kmになる。
> >
>
>
>
>
>
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Re: 案山子説は成立しない
管理人さんへのお返事です。
鋭い、もう少しです。夷洲か澶洲か、ですな。
> 會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海、求蓬萊神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。所在絶遠、不可往來。
>
>
> 会稽の海の外に東鯷人があり、二十余国に分かれている。また、夷洲および澶洲がある。伝承によると、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、数千人の少年少女を連れて海に入った。蓬萊山の神仙を探し求めたが、出会えず、徐福は誅罰を畏れて敢えて帰らず、遂にこの島に留まった。代々に相伝し、数万家を有した。人民は時に会稽に至り交易する。会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がいる。絶海の遠地に在り、往来すべきではない。
>
>
>
> 「会稽の海の外」「会稽東冶県の人」という形で、会稽の観念が出てきてますね。夷洲および澶洲という2種類の「洲」は島の意味です。徐福伝承が記されていて、「絶海の遠地に在り、往来すべきではない。」としてます。「数万家」はかなりの人数。時折会稽東冶にやってくるだけの航海能力があるようですね。鯷はイワシの意味だそうです。漁民を感じさせますね。
>
> 二十余国あるということは、そこそこ国をつくるだけの人口が、その島にないといけない計算ですから、そう考えていくと、琉球方面と見るのが、妥当かなと感じます。
>
> ただ魏志では、これらの国のことを、朱儒国としたのかもしれません。
>
> それで狗奴国は、数万戸で構成される大国ですから、やはり沖縄・九州・四国のような大きな島ではなかったかと感じるんですね。ただ島という記載がないので、九州・四国方面が妥当な感じがします。
>
> 狗奴国が、女王国の東にあったのか、南にあったのかですが、四国という地域は、高知方面に青銅器関連の遺跡が多くあって、徳島方面にいくと、ホタテ貝式古墳なども出てきますよね。
>
> 海流面からみれば、九州南部からの黒潮関係や大分方面とのつながりもあったかもしれません。九州南部から四国にかけての遺跡関連のつながりを調べてみたいところです。
>
> そして両国の抗争の地は、海を挟んでいたのか、あるいは陸の境界だったのか?この辺も気になるところです。
>
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Re: 案山子説は成立しない
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000126M.jpg
管理人さんへのお返事です。
パズルの回答です。イメージ図を日本に当てはめて下さい。
中国史籍の翻訳に所どころに難を感じますが地図で補正しています。
秦野距離で測れば狗奴国の位置が解る。狗奴国と卑弥呼の戦闘が激しく狗奴国には古墳が山ほどあり、食生活にも影響がみられる。
> 秦野さん、案山子さん、ご意見ありがとうございます。
>
> 狗奴国がどこにあったのか?なぞが深まるところですが、イメージ図を作成したので、紹介いたします。
>
> 対馬あたりで南北の軸がずれて、すこし北西に軸が傾いた見方をしているのではないかと疑ってます。
>
> それで東治の東も、九州南部から中部あたりになってきて、女王国の東も四国・近畿方面になるかもしれません。
>
> 沖縄は、女王国の南4千里に位置していた朱儒国となりますね。
>
> それで、台湾・沖縄方面を論じるうえでは、やはり海南島・九州・琉球とともに、東鯷人についても忘れてはならないでしょう。
>
>
>
> 會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海、求蓬萊神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。所在絶遠、不可往來。
>
>
> 会稽の海の外に東鯷人があり、二十余国に分かれている。また、夷洲および澶洲がある。伝承によると、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、数千人の少年少女を連れて海に入った。蓬萊山の神仙を探し求めたが、出会えず、徐福は誅罰を畏れて敢えて帰らず、遂にこの島に留まった。代々に相伝し、数万家を有した。人民は時に会稽に至り交易する。会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がいる。絶海の遠地に在り、往来すべきではない。
>
>
>
> 「会稽の海の外」「会稽東冶県の人」という形で、会稽の観念が出てきてますね。夷洲および澶洲という2種類の「洲」は島の意味です。徐福伝承が記されていて、「絶海の遠地に在り、往来すべきではない。」としてます。「数万家」はかなりの人数。時折会稽東冶にやってくるだけの航海能力があるようですね。鯷はイワシの意味だそうです。漁民を感じさせますね。
>
> 二十余国あるということは、そこそこ国をつくるだけの人口が、その島にないといけない計算ですから、そう考えていくと、琉球方面と見るのが、妥当かなと感じます。
>
> ただ魏志では、これらの国のことを、朱儒国としたのかもしれません。
>
> それで狗奴国は、数万戸で構成される大国ですから、やはり沖縄・九州・四国のような大きな島ではなかったかと感じるんですね。ただ島という記載がないので、九州・四国方面が妥当な感じがします。
>
> 狗奴国が、女王国の東にあったのか、南にあったのかですが、四国という地域は、高知方面に青銅器関連の遺跡が多くあって、徳島方面にいくと、ホタテ貝式古墳なども出てきますよね。
>
> 海流面からみれば、九州南部からの黒潮関係や大分方面とのつながりもあったかもしれません。九州南部から四国にかけての遺跡関連のつながりを調べてみたいところです。
>
> そして両国の抗争の地は、海を挟んでいたのか、あるいは陸の境界だったのか?この辺も気になるところです。
>
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Re: 案山子説は成立しない
みなさん、ご意見ありがとうございます。
秦野さん、イメージ図拝見しました。確かに、女王国が対馬の事例のように長細くて、周辺諸国との方位が異なってくるケースも考慮したいですね。
それで、侏儒國なのですが、よく読んでみると、女王国の東にある倭種の国の南となるかもしれません。女王国からみると東南ですね。
女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、また侏儒國あり、その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里。また裸國・黒歯國あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし。 倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。
とすると、たとえば九州あるいは近畿の女王国の東にある本州中部・関東地方の南で、伊豆大島とかその辺を意味していたかもしれません。東南の黒歯国などもそうですね。この倭国の5千里は長里でないと理解できないかもしれません。
方位の問題に加えて、1里の単位が、それぞれ大きくことなるので、対象とする地域も数倍にまで膨れ上がっているものと感じます。77と430では、大きく異なりますからね。
倭人から聞いた部分についての「里」や方角と、魏や漢が実測して把握した「里」の単位・方角とを、まずしっかり把握しないと、混乱してしまうことでしょう。
倭人の使っていた里は、おそらく古い時代の呉のもので、短里でしょう。それに対して魏の使者が計ったのは長里。
とすると、朝鮮・対馬・壱岐までの記載が長里で、それ以降が倭人から聞いた短里と仮定すると、実際の魏志や後漢書が想定していた九州の大きさは、かなり大きな九州像ができてしまうわけです。だから、はるか南のほうまで延びてしまった倭国がでてくるんでしょうね。実際ははるかに小さな現在の九州内陸の方形区画が正解だったかもしれません。
もうひとつ、ぜんぜん違うのですが、後漢書の「大倭王」、魏志の「大倭」という警備官の存在が気になりはじめてます。
倭というのは蔑称と言われてますが、倭人は自分で自分の国を「倭」(ワ)と言っていたことも明らかになりますね。
それで「大倭」=「大和」で、「邪馬台」=「ヤマト」だという見方も出てくることでしょう。
後代も「倭直」のように「倭」をもって「ヤマト」と読ませてますね。
ともあれ、女王国の属国30国には、「大倭」という官がいて、さらに女王国より以北には「一大率」という軍隊も置いて警備させていたわけですよね。
「大倭」と「一大率」が両方いたのか?あるいは片方だけなのかも気になりますが、「大」の字をもってして、ひとつの役職を指し示しているようにも見えます。まとめる、統括するとかいう意味ですかね。
つまり「魏率・・・」の「率」です。中国的な支配地域と、倭人の支配地域があって、それぞれは、女王国の北と南で大きく様相が異なっているとも受け取れます。
尊卑各々差序あり、相臣服するに足る。租賦を収む、邸閣あり、國國市あり。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ。 女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚す。常に伊都國に治す。國中において刺史の 如きあり。
こう読むと、「大倭」というのは、税を監督する文官のようにも見えます。一大率は武官ですね。ニラミが聞くところに派出所を作ったわけです。南のほうには、たいした脅威がなかったのか、あるいは海を隔てていたとか、あまり従わない国だったので、武官は置かなかった・・・。問題の狗奴国もそうですね。この南北の差がキーかもしれません。
あと、お手数ですが「引用」は短くまとめてくださると助かります。よろしくお願いします。
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単里
単里、九州と馬韓とは近くなのでそう変われない事を前提にすいそくしました。
1単里=187×1000m÷4000=47m誤差15%とすると40〜54m、秦野距離に近い値です。
會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。が九州になる。古事記の地図では琉球になる。注意することは、馬韓の20数カ国から仮定だが面積が等しいとすると。
九州(35,000平方Km)。一辺187km
馬韓 地合方四千餘里。一辺4000里
會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海、求蓬萊神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。所在絶遠、不可往來。
会稽の海の外に東鯷人があり、二十余国に分かれている。また、夷洲および澶洲がある。伝承によると、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、数千人の少年少女を連れて海に入った。蓬萊山の神仙を探し求めたが、出会えず、徐福は誅罰を畏れて敢えて帰らず、遂にこの島に留まった。代々に相伝し、数万家を有した。人民は時に会稽に至り交易する。会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がいる。絶海の遠地に在り、往来すべきではない。
> 馬韓の面積と国数を見る限り、過密すぎるので成立しない。古代には九州で20数カ国あった。
> 馬韓の国数から九州ぐらいの広さが必要。九州(35,000平方Km)。
>
> ●馬韓
> 狗盧国、卑彌国、監奚卑離国、辟卑離国、一離国、不彌国、狗素国、捷盧国、牟盧卑離国、莫盧国、如來卑離国、楚山塗卑離国、一難国、狗奚国、不斯濆邪国、乾馬国、楚離国、
>
> ●弁辰韓
> (弁辰)樂奴国、彌烏邪馬国、狗邪国、走漕馬国、安邪国(馬延国)、瀆盧国がある。
> (辰韓)軍彌国(弁軍彌国斯盧国)
不思議なことにこの単里いたる所に出てくる。
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中国諸文献から
ちょっと話がそれますが、魏志の後代の史書が、後漢書のようにたまに古い文献を拾っていることがありましたので、調べてみて、興味深い記事を見つけたので、列記しておきます。
●晋書から
魏の時代に至って、三十国が通好してきた。戸数は七万。
※女王国に属する30国は独自に?通好もしていたのでしょう。戸数に狗奴国のそれは入らず。
宣帝が公孫氏を平定すると、その女王は遣使を帯方郡に送って朝見。その後貢献は絶えなかった。文帝が相となると、また数回やって来た。前泰の初め、遣使が重ねて入貢した。
※前秦のはじめ(350年代?)にも、邪馬台国の後続王朝が入貢している点に注目。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun3-sinzho.htm
●梁書から
正始中(240−249年)、卑彌呼が死に、改めて男の王を立てたが、国中が服さず、互いに誅殺しあったので、再び卑彌呼の宗女「臺與」を王として立てた。
その後、また男の王が立った、いずれも中国の爵命を拝受した。
※イヨと倭の五王の間?の男王記載に注目。
晋の安帝時(396−418年)、倭王讃がいた。讃が死に、弟の彌が立った。彌が死に、子の済が立った。済が死に、子の興が立った。興が死に、弟の武が立った。
斉の建元中(479年〜)、武を持節、督倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、鎮東大将軍に除した。高祖が即位すると、武の号を征東大将軍に進めた。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun4-ryosho.htm
●南斉書から
建元元年(479年)、使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・(慕韓)六国諸軍事、安東大将軍に新に進め、倭王の武の号を鎮東大将軍に叙した。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun6-nansai.htm
●北史から
その国境は東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程、各々が海に至る。その地形は東が高く西が低い。邪摩堆で暮らす、魏志に則れば、言うところの邪馬臺である。
※邪馬台国の地形全体について記してます。ヤマタイが正音か?地形に関係。山関連。
再び卑彌呼の宗女「臺與」を立てて王とした。その後、再び男の王が立ち、それぞれが中国から爵位を拝命した。江左(江東)は、晋、宋、斉、梁を経て、朝聘は絶えなかった。
※ここにも臺與の後続の男王がしっかり記載されており、南朝の記録に記載され続けたことが伺えます。
死者は棺槨に納める、親しい来客は屍の側で歌舞し、妻子兄弟は白布で服を作る。貴人の場合、三年間は殯(かりもがり=埋葬前に遺体を棺桶に安置する)をし、庶人は日を占って埋葬する。葬儀に及ぶと、屍を船上に置き、陸地にこれを牽引する、あるいは小さな御輿を以て行なう。
※古墳の葬儀を考える上で重要。日時を占ってますね。すると船型木棺は陸地を引きづられたのか?その傷跡があるのでは?
翌年、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。百済を渡り、竹島に行き着き、南に○羅国を望み、都斯麻国を経て、遙か大海中に在り。また東に一支国に至り、また竹斯国に至り、また東に秦王国に至る。そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸に達した。竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。
※九州東部より東の(竹斯+秦王国+10余国が倭に「附庸」するとのことですが、いわゆる対馬・壱岐島を倭に属さないと見ているのかもしれませんね。
また九州北部を「夷洲」としていますね。これは先の東鯷人伝にでてきた「夷洲」でしょうか。するとペアの「澶洲」はすると本州のことか?東夷の意味が、中華と関係あるということかもしれません。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun5-hokusi.htm
●宋書から
讃が死に、弟の珍が立つと、遣使を以て貢献した。
使持節、都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称する。
興が死に、弟の武が立ち、使持節、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称した。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun7-sosho.htm
※ここに出てくる「武」王については、先の南斉書にでてきた「武」の「七国諸軍事」ではなく、「六国諸軍事」としている点で相違がある。任那・加羅に分離して記載されている点に注目。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun7-sosho.htm
-
Re: 案山子説は成立しない
秦野北斗さんへのお返事です。
> >
> 案山子さん、読みが浅い。
>
読みの問題ではありません。
秦野北斗さんは方里に付いて何も理解していない。
> ほうり はう― 1 【方里】
> 縦横が一里の面積。一里四方は日本語の表記です。
>
方里とは、面積を表わす単位です。
たから、
「方一里」は「三項七十五畝」です。
一畝は廣15歩、従十六歩の方形の面積です。
百畝をもって一項です。
何だったら、検算をして見ましょうか?
一歩=六尺、一尺≒24cmでの三項七十五畝と
方一里(一里=1800尺、一尺≒24cm)の面積は同じになるでしょう。
三項七十五畝≒0.184112平方キロで、一方里は、約0.186624平方キロ。
> 中国語の解釈は方里=方一里
> 地合方四千餘里、=方四千餘里になり一に四千餘が入る。
> 地合は四千餘里四方。←日本語です。縦横が四千餘里の面積
>
> 「地合方四千餘里」とは三国
九章算術を勉強することをおすすめします。
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Re: このパズルは解けますか。
秦野北斗さんへのお返事です。
> 案山子さんへのお返事です。
>
> これでは、日本に2〜3世紀大航海時代が存在した事になる。
> フィリピン、オーストラリアは日本領になる。?
>
「參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千余里」
を
無視しての解釈は成立しない。
倭地は「周旋可五千余里」です。
「又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千里
又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至」の領域が「周旋可五千余里」におさまりますか?
どうも、議論にはならないようだ。
それでは、失礼させて頂きます。
-
訂正
先に引用した中国文献の注釈年代が狂ってましたので、修正・訂正しておきました。何でああいう狂い方してるのかなー・・・。
-
Re: 訂正
管理人さんへのお返事です。
晋(晉、しん、265年 - 420年)
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun3-sinzho.htm
卑弥呼は(ひみこ、170年頃 - 248年頃)に死んでいる。
卑弥呼が死に、墓が作られた。(『梁書』では正始年間(240年 - 249年)に卑弥呼死亡)
男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。
卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。
女王位についた壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ
晋(晉、しん、265年 - 420年)17年の差は何か?
倭人は騒乱となり、女子を立てて国王とした。
晋書の卑彌呼は壹與の間違いになる。
どうも、魏志倭人伝は三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚が書いた最重要機密に相当する文章と思われる。
不知正歳四節、但計秋收之時以為年紀。人多壽百年、或八九十。國多婦女、不淫不妒。無爭訟、犯輕罪者沒其妻孥、重者族滅其家。舊以男子為主。漢末、倭人亂、攻伐不定、乃立女子為王、名曰卑彌呼。
一年の歴や四節を知らない、ただ、秋の収穫時を以て年紀としている。人の多くが百歳、あるいは八〜九十歳の長寿である。国には婦女子が多く、淫乱ではなく嫉妬もしない。争訟はなく、軽い罪を犯した者は妻子を没収し、重罪ではその家系を族滅する。旧来は男子を君主とした。後漢末期、倭人は騒乱となり、戦が鎮静しないので、女子を立てて国王とした。名を卑彌呼という。卑彌呼は壹與の間違い
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Re: このパズルは解けますか。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun11-sintosho.htm
http://
-
小笠原諸島
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000135M.jpg
http://ja.wikipedia.org/wiki/石野遺跡
-
侏儒國
ちょっと侏儒國について調べています。
下記のサイトに、神武天皇条に見える土蜘蛛を侏儒と呼んだ記載について、魏志とのかかわりで論じてます。
http://www.inoues.net/mystery/kokusikoku.html
『己未年春二月壬辰朔辛亥、命諸将練士卒。是時層富県波丘岬有新城戸畔者。<丘岬此云塢介佐棄。>又和珥坂下有居勢祝者。<坂下此云瑳伽梅苔。>臍見長柄丘岬有猪祝者。此三処土蜘蛛並恃其勇力、不肯来庭。天皇乃分遺偏師皆誅之。又高尾張邑有土蜘蛛。其為人也。身短而手足長、与侏儒相類。皇軍結葛網而掩襲殺之。因改号其邑葛城。』
侏儒が小柄で手足が長いとしていることは、縄文人の典型的な特徴で、寒冷適応で胴長短足になった弥生人と異なる風貌の縄文人が、弥生人に追われて山地に隠れたことはDNA的にも証明されてますね。また沖縄やアイヌにも縄文種の痕跡が色濃く見えます。
特に下記のサイトの沖縄とアイヌのイレズミの共通性については、かなり驚かされました。
http://www.y-asakawa.com/nihon-tansaku 2007-2008/ainu2.htm
とすると、侏儒がたくさんすむ島というのは、縄文種が残っていた沖縄方面のような気がします。女王国の南四千里ですね。
それで黒歯国と裸国は、女王国から見て東南ではるか遠く船行1年かかる小笠原諸島。ポイントは黒歯国と裸国の2つの大きな島があったことですね。伊豆諸島や、小笠原諸島のことでしょうか?
三宅島は結構たくさん弥生遺跡があるようです。
http://www.syougai.metro.tokyo.jp/iseki0/iseki/list/ruins/13381/381ruins.htm
八丈島は縄文遺跡だそうですね。
http://www.town.hachijo.tokyo.jp/gaiyo/history/history.html
其の南の青ヶ島の伝承もちょっと面白いです。
http://www.geocities.jp/gotos_room/_geo_contents_/aogashima.html
その南の小笠原諸島は、先述の石野遺跡が弥生時代です。
そうすると、狗奴国についての記載も、後漢書にしたがれば女王国から見て海を渡って東千里にある四国・・・、魏志に従えば同じく女王国の南に隣接する鹿児島方面・・・などとなってくることでしょうか。
そして、女王国を支点として、放射上に「其の」と記載を入れながら、周囲の国を記載している可能性があります。
これは伊都国あたりの条文でも見られる記載法で、魏志では中心となる1点(国)を支点にして放射状に記載していく特長があるようです。
「女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、また侏儒國その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里。 また裸國、黒齒國あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし。 倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。」
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Re: 小笠原諸島
管理人さんへのお返事です。
海上ルートを考える場合は海流を考慮しなければ、めためたになる。
http://imagic.qee.jp/kairyuu.html
陸と島沿いに向かえば、1500〜2000キロなぞ、存在できない。
小笠原は常陸沖からのルートしかない。古代は漂流航行に近い。
>
>
> ちなみに、斜線(いわゆる「可」)だけで1280キロメートルあります。陸と島沿いに向かえば、1500〜2000キロになるでしょう。案山子さんのいう長里で4・5千里、船行1年の世界に似てきますね。
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Re: 小笠原諸島
秦野北斗さんへのお返事です。
さっそく情報ありがとうございます!
> http://imagic.qee.jp/kairyuu.html
>
> 陸と島沿いに向かえば、1500〜2000キロなぞ、存在できない。
> 小笠原は常陸沖からのルートしかない。古代は漂流航行に近い。
>
実は私も海流の件、気になってました、なるほど、北からの親潮に乗るという手がありましたね!
あとは、下記八丈島のページにも書いてましたが、黒潮に流されずに小笠原までたどり着けるのか、その辺が課題です。
鳥島をはさんでいるとはいえ、距離がありすぎますね。漂着するだけの一方通行ではなかったかとも感じるわけですが、それにしては小笠原の石野遺跡が、数百に上る土器片・石器類などそこそこしっかりした弥生遺跡であるのが気になります。ただ、沖縄からの影響は、黒潮による漂着でしょうね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/石野遺跡
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Re: 小笠原諸島
管理人さんへのお返事です。
この件はしらべました。徐福伝説になる紀元前200年に航海している。
http://www.asukanet.gr.jp/tobira/jofuku/jofuku.htm
HPには小笠原も出てきます。尚、説明文は再考が必要である。
古代の航海術は巧みで海を知り尽くしている。
黒潮に流されずに小笠原までたどり着けるのか、その辺が課題です。との事ですが、
船には櫂と帆があり、長期航海1年は可能。驚くことに、再循環流を知っていた模様。
http://ja.wikipedia.org/wiki/黒潮
> 実は私も海流の件、気になってました、なるほど、北からの親潮に乗るという手がありましたね!
>
> あとは、下記八丈島のページにも書いてましたが、黒潮に流されずに小笠原までたどり着けるのか、その辺が課題です。
>
> 鳥島をはさんでいるとはいえ、距離がありすぎますね。漂着するだけの一方通行ではなかったかとも感じるわけですが、それにしては小笠原の石野遺跡が、数百に上る土器片・石器類などそこそこしっかりした弥生遺跡であるのが気になります。ただ、沖縄からの影響は、黒潮による漂着でしょうね。
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黒歯国
その後、黒歯国について調べてみたのですが、意外にも中国文献にしばしば出てくる国のようで驚きました。
山海経や准南子にもすでに見えるとのことです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/黒歯国
それで漢代の山海経の話というのが、かいつまんで言うと、中国の伝説上の皇帝・禹の命令で東海にある南北の地域を部下に歩かせたことが記載されているようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/山海経
その部下の行程で、南の最初の国が黒歯国でして、稲をつくって蛇を食べるとのことです。
それから順に北上して、最後のほうに毛人の国がでてくるのですが、これはいわゆるアイヌ人と見てよいかもしれません。
その間に、南から順に、湯谷・扶桑(水上の大木の上に住む)、雨師妾(蛇・亀を操る黒い人)、玄股(げんこ)の國(漁民・鵜飼の国)と入ります。
おそらく、ベトナム方面の水上生活者から、フィリピン、そして日本へと北上していく過程を示しているのでしょう。カメを飼うというと屋久島の海ガメが有名ですね。鵜飼の話は神武天皇条に見えるようです。神武条は先の朱儒記載の件も考慮すると、中国文献の比較が重要ですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/鵜飼い
?齒國、其の北に在り。人と爲り?し。稻を食し蛇を啖う。一は赤、一は青。其の旁に在り。一に曰く、豎亥の北に在り。人と爲り?き首。稻を食し蛇を使う。其の一の蛇は赤し。
下に湯谷有り。湯谷の上に扶桑(ふそう=扶桑樹)有り。十の日の浴(ゆあみ)する所。?齒の北に在り。水中に居す。大木有り。九の日は下の枝に居し、一の日は上の枝に居す。
雨師妾(うししょう)、其の北に在り。其の人と爲り?し。兩手に各(おのおの)一蛇を操る。左耳に青蛇有り、右耳に赤蛇有り。一に曰く、十日の北に在り。人と爲り?身人面。各(おのおの)一龜を操る。
玄股(げんこ)の國、其の北に在り。其の人と爲り魚を衣しを食す。兩の鳥を使い之を夾む。一に曰く、雨師妾の北に在り。
毛民の國、其の北に在り。人と爲り身に毛を生ず。一に曰く、玄股の北に在り。
勞民國、其の北に在り。其の人と爲り?し。或に曰く、?民。一に曰く、毛民の北に在り。人と爲り面・目・手・足、盡く?し。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/sengaikyo/frame/kaigaitoukyo_frame.htm
とすると、やはり案山子さんのおっしゃるように黒歯国は、インドネシア・ニューギニア方面と見て間違いなさそうです。
それで、後漢書だと、女王国の南に4千里で朱儒国があって、その朱儒国からさらに東南に船行1年で黒歯国に至ると記してありますね。ニューギニアあたりが黒歯国となるのでしょう。
おそらくは朱儒国は、縄文系とおぼしき小人のいる島国ですから琉球方面が妥当かもしれません。
そして、そこから北の4千里にあるところが女王国となるわけです。
この千里は、いわゆる狗邪韓国から対馬までの距離、あるいは女王国から海を渡って東の狗奴国までの距離のことですから、そうすると距離的にみて、九州南部⇔奄美・沖縄間あたりを想定するのが妥当かと感じますね。
女王国より東に海を渡ること千余里で拘奴国に至る。いずれも倭種とはいえども女王には属していない。女王国より南に四千余里で朱儒国に至る。そこの人の身長は三〜四尺。朱儒より東南に航行すること一年で裸国と黒歯国に至る。使訳の伝える所はこれに尽きる。
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Re: 黒歯国
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun2-gokan.htm
http://
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Re: 黒歯国
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000142M.jpg
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun1-gisi.htm
http://
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三韓
秦野北斗さんへのお返事です。
百済人と見られる黒歯常之の話はちょっと面白いですが、時代が降りすぎているので、なんともいえない感じですね。
> 狗奴国、朱儒国の位置は終わりにします。
了解です。次に、邪馬台国時代に影響を与えた三韓の影響について、掘り下げてみたいと思います。
特に、邪馬台国時代から古墳時代の渡来人が来るまでの流れについて興味があります。
建元元年(479年)、使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・(慕韓)六国諸軍事、安東大将軍に新に進め、倭王の武の号を鎮東大将軍に叙した。
武が七国諸軍事として自称したケースと異なり、百済が入ってないのは、南朝と百済の関係によると言われてますね。
それで問題は秦韓のルーツです。辰国とも記されて、秦の流民だとも言われます。
さらには、同じく秦から逃れた徐福との関係まで取りざたされているようです。
弥生時代の北九州は先の国名表記のように、馬韓南部、特に弁韓の国名表記に強い相関性があったわけですが、またその後の秦韓の影響も探ってみたいところです。
『三国志魏書』辰韓伝
辰韓在馬韓之東、其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。有城柵。其言語不與馬韓同、名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴。相呼皆為徒、有似秦人、非但燕、齊之名物也。名樂浪人為阿殘;東方人名我為阿、謂樂浪人本其殘餘人。今有名之為秦韓者。始有六國、稍分為十二國。
辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したのだと自称している。城柵あり。言語は馬韓と同じではない。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)、皆のことを徒と呼び合い、秦語に相似しているが、燕や斉の名称ではない。楽浪人を阿残と呼ぶ;東方人は自分を阿と言うが、楽浪人は本来、その残余の人だと言われる。今はこの国の名称を秦韓とする。始めには六国あり、十二国に細分化した。
秦との語的な相関性が指摘されてますね。「阿」を持って自分(自らの民族)を示すというのも、後代の「阿毎」氏を考えていく上でちょっと気になります。「阿残」は楽浪人とのことですね。
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三韓 参考?
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/6832/jud.html
http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/
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Re: 三韓
管理人さんへのお返事です。
もう少しバックします。糸口は
扶余(ふよ)
286年、再び慕容廆が遼東を侵略するが、王子の依羅が西晋の援助で扶余国を再建した。
この依羅には日本の王朝に関わる奇妙な伝承がある。「慕容瘣に敗れた扶余王の依羅が、数千の民を率いて海を越え、倭人を平定して王となった」というもので、名前のイリから、嵩神天皇(みまきいりひこ)ではないかとされる。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus/tungus-5-fuyo.htm
『百済(遼西扶余)』
『新唐書』百済伝
百濟,扶餘別種也。直京師東六千里而贏,濱海之陽,西界越州,南倭,北高麗,皆踰海乃至,其東,新羅也。王居東、西二城,官有内臣佐平者宣納號令,内頭佐平主帑聚,内法佐平主禮,衛士佐平典衛兵,朝廷佐平主獄,兵官佐平掌外兵。有六方,方統十郡。大姓有八:沙氏,燕氏,劦氏〔一〕,解氏,貞氏,國氏,木氏,●氏。
百済は扶余の別種なり。京師の東六千里、濱海の北、西は越州、南に倭、北に高句麗、どれも海を越えて至る。その東は新羅なり。王は東に居する、西に二城。(中略)六方あり、方は十郡を統べる。貴種の姓は、沙氏、燕氏、劦氏、解氏、貞氏、國氏、木氏など八姓。
京師の東六千里,京師は三角縁神獣鏡の銘文に出てくる地名。
>
> 建元元年(479年)、使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・(慕韓)六国諸軍事、安東大将軍に新に進め、倭王の武の号を鎮東大将軍に叙した。
>
> 武が七国諸軍事として自称したケースと異なり、百済が入ってないのは、南朝と百済の関係によると言われてますね。
>
> それで問題は秦韓のルーツです。辰国とも記されて、秦の流民だとも言われます。
>
> さらには、同じく秦から逃れた徐福との関係まで取りざたされているようです。
>
> 弥生時代の北九州は先の国名表記のように、馬韓南部、特に弁韓の国名表記に強い相関性があったわけですが、またその後の秦韓の影響も探ってみたいところです。
>
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Re: 三韓 参考?
棘の紀氏さんへのお返事です。
> 百済など半島南部の三韓
> 騎馬民族説の江上氏は、この辰王こそが、邪馬台国を侵攻した「崇神天皇」だと主張する。
>
> 彼らは、1世紀末ごろに北方大陸から 南下して朝鮮半島に入り、そこで高句麗を建国
キシさん、こんばんは。さっそく情報ありがとうございます。
確かにあまり参考にならない感じでしたが、上記の崇神天皇との関連は重要だと感じます。
実在性の件ですが、次代の垂仁天皇条に、非常に興味深い記載が多くあるそうですね。
ウィキの記載を元に見ていくと、
http://ja.wikipedia.org/wiki/開化天皇
垂仁天皇元年1月即位。翌2年2月に狭穂姫を立后、10月、纒向に遷都した。
※はじめてマキムクが出てきますね。
同28年、殉死の禁令。
同32年7月、日葉酢媛が薨去。野見宿禰の進言に従い、殉死の風に替えて埴輪を埋納する(埴輪の起源説話)。『古事記』に「石祝(棺か)作りを定め、土師部(はにしべ)を定めたまいき」とある。石棺を作る部民や赤土で種々の器を作る部民を定めたというのである。
※この辺の記事は、卑弥呼の時代の殉死との関係、初期の古墳にない埴輪の設置、同じく石棺の作成など、どこか4世紀代当時のことをそのまま記しているような感があります。
同35年、河内国の高石池や茅渟(ちぬ)池を始め、諸国に多くの池溝を開いて、農業を盛んにしたと
伝える。
※池溝開発も、同様に古墳の周壕をイメージさせますね。
同90年2月、田道間守に命じて、常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせる。
※始皇帝と徐福の話を想起させる話です。常世国は伊勢から見て東海沖にあったといいますね。
わりと垂仁天皇条はこの辺に史実性があると想うんです。マキムク・柳本古墳群の時代の話のように感じます。その時代の文献なり伝承なりがあったのではないでしょうか。
それで問題の前代の崇神天皇条ですが、またウィキの記載をもとに推論していきましょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/崇神天皇
『古事記』は崇神天皇の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、これを信用して318年(または258年)没と推測する説も中には見られる。258年没説を採った場合、崇神天皇の治世は、中国の文献に記載されている邪馬台国の時代と重なることになる。
※この指摘は重要です。ヒミコ死後の男王との関係を想起させます。
江上波夫は「ミマキイリヒコ」の「ミマキ」を韓半島の任那(ミマナ)=「ミマ」の「キ」(城)に住むという意味と推測し
崇神天皇3年(紀元前95年)9月、三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に遷都。
※任那方面からやっていて、三輪山方面に入った最初の王とのことでしょうか。
都は磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや、奈良県桜井市金屋の志貴御県坐神社が伝承地)。『古事記』には、「師木の水垣宮(みづかきのみや)に坐しまして、天の下治めらしめしき」とある。
※ここでも桜井茶臼山古墳および、その背後あたりの地域が、やはり最初にでてくるんでしょうね。奈良の方位ライン面と関係してきます。
崇神天皇7年(紀元前91年)2月、大物主神、倭迹迹日百襲姫命に乗り移り託宣する。
※三輪山祭祀と女性巫女が強調される時代のことだったのでしょう。
倭迹迹日百襲姫命の予言から武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の叛意を知ることとなる。武埴安彦は山背から、その妻吾田媛は大坂からともに都を襲撃しようとしたが、天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)の軍を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、一方の安彦勢には、大彦命と彦国葺(ひこくにぶく、和珥氏の祖)を差し向かわせ、これを打ち破った。10月、畿内は平穏となり、四道将軍が再び出発。
※武埴安彦や、大タタネコ、次の垂仁の最初に出てくる天の日矛は、ともに埴輪・土器技術をもたらした大陸系渡来人を暗示していると感じますし、吾田媛も、次の日矛と関連して吾田の地名がでてきます。
吾田は「アタ」で、「ア」は前述の秦韓・楽浪人でつかっていた自分(自民族)=「阿」+「田」(領地)という意味でしょうね。だから瀬戸内方面から攻めてくるのかもしれません。
これらの反乱伝承は、ヒミコ後の男王の時代におきた騒乱を想起させますね。倭迹迹日百襲姫命の予言というのもヒミコやイヨという女性巫女の託宣かもしれません。
崇神天皇60年(紀元前38年)7月、飯入根(いいいりね)が出雲の神宝を献上。兄の出雲振根が飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺される。
※興味深いのは、出雲の豪族にも「入」の名称がついていることです。崇神やその親族からなる「入」王朝の背景には、出雲方面とつながりを持つ新羅・任那集団の血縁があったのかもしれません。
崇神天皇65年(紀元前33年)7月、任那国が蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わして朝貢した。
※任那系の氏族伝承をここであえて取りこんでいるんでしょうか。
こう見ていくと、これらの条文は、後代の王朝の造作という見方よりは、当時の元記録があって、それに則って編集していったようにも感じるわけです。そして任那・秦韓が邪馬台国時代の最後に影響を与えていく様子が見て取れるように感じますね。それらの流れは偶然ではないでしょう。必然的にここに、任那に関係した王が出てくるわけです。韓国南部のその時期の考古面との兼ね合いも重要ですね。
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Re: 三韓
秦野北斗さんへのお返事です。
秦野さん、さっそく情報ありがとうございます。
> 286年、再び慕容廆が遼東を侵略するが、王子の依羅が西晋の援助で扶余国を再建した。
> この依羅には日本の王朝に関わる奇妙な伝承がある。「慕容瘣に敗れた扶余王の依羅が、数千の民を率いて海を越え、倭人を平定して王となった」というもので、名前のイリから、嵩神天皇(みまきいりひこ)ではないかとされる。
> http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus/tungus-5-fuyo.htm
>
なるほど、この依羅の話は重要ですね!依羅の復興劇との関係、下記の大依羅神社と依羅吾彦、神功皇后の伝承ともかかわりがあるのではないでしょうか。ここでも前述の「吾」→「ア」の関連が出てきますね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/大依羅神社
>
> 京師の東六千里,京師は三角縁神獣鏡の銘文に出てくる地名。
>
この件もきわめて重要!
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Re: 三韓
管理人さんへのお返事です。
相変わらず鋭いですな、神功皇后の伝承そのものです。
神功皇后(じんぐうこうごう、成務40年(170年) - 神功69年4月17日(269年6月3日))
http://ja.wikipedia.org/wiki/神功皇后
卑弥呼(ひみこ、170年頃 - 248年頃)は、『魏志倭人伝』等の中国の史書に記されている倭国の王(女王)。邪馬台国に都をおいていたとされる。封号は親魏倭王。後継には親族の壹與が女王に即位したとされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/卑弥呼
京師の東六千里,京師は三角縁神獣鏡の銘文に出てくる地名。
神功皇后、卑弥呼の年代が合わない。この矛盾を解くため邪馬台国の位置が重要に成る。
http://homepage2.nifty.com/watcher/hatano17.htm
http://homepage2.nifty.com/watcher/hatano2.htm
秦野の調べでは卑弥呼の死後、邪馬台国に壱輿が居た模様。その後、邪馬台国は神社になり現存している。言えることは神功皇后の年代が間違っていることです。286年は重要な意味を持つ。
また、この神社に神功皇后が祭つられている。
> > 286年、再び慕容廆が遼東を侵略するが、王子の依羅が西晋の援助で扶余国を再建した。
> > この依羅には日本の王朝に関わる奇妙な伝承がある。「慕容瘣に敗れた扶余王の依羅が、数千の民を率いて海を越え、倭人を平定して王となった」というもので、名前のイリから、嵩神天皇(みまきいりひこ)ではないかとされる。
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Re: 三韓
秦野北斗さんへのお返事です。
やはり崇神天皇の年代を知りたいところですね。258年即位か318年か。
先の件で、仮に286年とすると、318年のほうが妥当ですね。
ただ先の埴輪の話は、人物や馬などの形象埴輪が出てくるのがだいぶ後ですので、300年代とみるべきでしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ハニワ
石棺の話も同様で、3世紀代のマキムク・柳本は割竹型木棺ですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/割竹形木棺
> 神功皇后(じんぐうこうごう、成務40年(170年) - 神功69年4月17日(269年6月3日))
>
> 卑弥呼(ひみこ、170年頃 - 248年頃)は、『魏志倭人伝』等の中国の史書に記されている倭国の王(女王)。邪馬台国に都をおいていたとされる。封号は親魏倭王。後継には親族の壹與が女王に即位したとされる。
> 秦野の調べでは卑弥呼の死後、邪馬台国に壱輿が居た模様。その後、邪馬台国は神社になり現存している。言えることは神功皇后の年代が間違っていることです。286年は重要な意味を持つ。
> また、この神社に神功皇后が祭つられている。
>
神功皇后はこうみると、確かにヒミコを模している感じがしますね。在位期間が伸びているのは、秦野さんご指摘のイヨとのダブリのせいとなるでしょうか・・。
> 京師の東六千里,京師は三角縁神獣鏡の銘文に出てくる地名。
> 神功皇后、卑弥呼の年代が合わない。この矛盾を解くため邪馬台国の位置が重要に成る。
>
三角縁と、円筒型埴輪が、同じ古墳から出てこないという話は、興味深いところです。
埋葬時の双方の機能が同じなのでしょう。
聖域区画の関連で捉えられているようですね。
こうみると、邪馬台国時代末期に最初に割竹型木棺や三角縁、前方後円墳をもたらした集団と、崇神天皇に象徴される集団とは別ものだった可能性も感じます。
現在の崇神・景行陵墓の年代で正解なのかもしれません。任那の名称もおそらくは4世紀代に入ってからでしょうね。
とすると、基本的には3世紀代のことを知るには、開化か神武天皇、山幸条あたりを探らないといけないということになるでしょうか。もちろん、部分的には崇神以降の記紀記載にも現れてくる可能性はあると想うのですが・・・。
ともかく、初期の前方後円墳、終末期の弥生墳丘墓に出てくる割竹型木棺とか石囲木カク・鏡・・・が、紀元前後の朝鮮新羅地方の南部にルーツがあり、さらにそれらはサカ族などの遊牧民系の遺物を含んでいる、いわゆる「秦人」的な様相をしていることについて、まずはその手がかりを探したいと思います。
その秦人の文化が流入したのだが、邪馬台国時代末期と想いますが、崇神よりさらに前の流れとして、楽浪・帯方系のそれとともに流れ込んでいるはずです。
女王国に居座った魏軍や公孫氏の影響かもしれません。だいたい当時の軍の募集は現地徴集でしょうから、そうすると、京師から派遣される将軍とか太守以外の兵士は、楽浪・帯方人つまり秦韓と同じ人種の「阿残」といわれた人たちも多かったことでしょう。
すでに一部の秦韓人は、弥生時代に倭国にもわたってきていて、木カクとか木棺慕を残していったことでしょう。平原とか、タテツキとか・・ですね。朱とか水銀の利用も考えてみると秦の始皇帝墓の水銀とかを思い起こします。
ニギハヤヒ、天孫降臨神話にも、遊牧民的な風習がでてくるようですすが、それ以外で当時の様子を描いているとすると、神武天皇条以前を探るしかないかもしれません。
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Re: 三韓
管理人さんへのお返事です。
現在の年代を元に探るのは不可能なので、新しくアマテラス辺りから年代の線を引きましょうか。
秦あたりからどうでしょうか。紀元前200年
> ニギハヤヒ、天孫降臨神話にも、遊牧民的な風習がでてくるようですが、それ以外で当時の様子を描いているとすると、神武天皇条以前を探るしかないかもしれません。
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Re: 三韓
秦野北斗さんへのお返事です。
> 管理人さんへのお返事です。
>
> 現在の年代を元に探るのは不可能なので、新しくアマテラス辺りから年代の線を引きましょうか。
> 秦あたりからどうでしょうか。紀元前200年
了解です。確かに秦韓の文化を考える上で、再度秦からざっとおさらいしておく必要がありそうですね。
秦
http://ja.wikipedia.org/wiki/
始皇帝廟
http://ja.wikipedia.org/wiki/始皇帝陵
辰韓
http://ja.wikipedia.org/wiki/辰韓
秦韓伝
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/sankan-sinkan.htm
秦韓伝で秦との関連でつながりを持ちそうなのは、秦語、城柵、牛馬の使用、製鉄技術、養蚕、瑟(しつ=弦が25本か16本の琴)といったあたりです。
瑟
http://kasuya.s327.xrea.com/koto/cyclopedia/koto1_03.html
養蚕とアマテラス神話
http://ja.wikipedia.org/wiki/カイコ
そのほか
「その頭を扁平にするため、皆でこれを石に押し付ける」の習俗
「そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)と称し、互いを徒と呼び、秦語に相似している」
非常に興味深いサイトがあります。下記引用します。
秦韓人の祖先とダイレクトに結びつくかもしれません。
扁平頭と長髪(2)
「辰韓人、亀慈人、佉沙國(カーシャ)は、扁平頭の習俗を保つ人々でした。」
http://blog.livedoor.jp/nanamihantaro/archives/5237031.html
「2、大唐西域記
カシュガル地域の佉沙國[ヤルカンド]の風俗
ヤルカンドは、西域北道、西域南道の交差点で、南道への近道です。佉沙國は、莎車(ヤルカンド)です。玄奘は、帰途、パミール南の瓦罕谷(ワハン渓谷)を登って、ヤルカンドへ行きました。
佉沙國の風俗は、生まれた赤子の頭を押さえて扁平にする。容貌は卑しく、文身[いれずみ]をし、碧い眼をしている。
なお、カシュガルは、喀什?爾、喀什と書くが、大唐西域記の解説地図は、カシュガル表記ですが、実際はその南のヤルカンドです。ここも現在のカシュガル地域です。なお、カシュガルは、疎勒地区も含む。
現在はウイグル人が多く住む。ウイグル人は、混血で目が碧いが顔色は黄色いと、紀行文で司馬遼太郎はいう。
3、和田(コータン)
玄奘は、643年、瞿薩旦那国(クスタナ)に着く。昔の于塡国、和田(コータン、ホ―タン)です。クスタナは、梵語ゴ―スターナの音訳で、「地乳」の意という。(長沢和俊)
地の乳は、秦人に似た言語「乳」を五穀という。辰韓を想起します。
また、楚国の人も、乳と書いて穀という。
上記の年代差が800年以上あります。
扁平頭にする風習は、そんじょそこらに無い変わった連中です。
4、亀慈人は、子供が生まれると頭を木に押し付けて、平べったい頭に作ろうとする。妙な風習で、辰韓人に同じです。
5、西突厥の顔と髪
627年、東ローマ(ビザンツ)のヘラクレイオス帝と西突厥可汗軍は、現在のグルジア国、トビリシを包囲した。一回目の攻撃でのトビリシ人の突厥人描写。
西突厥の姿は、長い髪の弁髪。かぼちゃ顔、二目と見られぬ醜い、まつ毛の無い、だだっぴろい顔の人と描写する。
退却する突厥に対し、城壁に大きなカボチャを載せて、
「ヤ―イ、かぼちゃ顔の人よ、帰って王にお辞儀するがよい」という。
髪を長く伸ばして、垂らす女の姿の太群が去って行った。女:男のこと。
突厥族の中に、カボチャ顔の人あり。これも珍しい。
頭を平たくして、前から見れば、デコが大きく見える扁平頭と関係あり。
玄奘は、631年ころ、西突厥の王に会った。髪の長さ一丈ばかりという。
秦の国から逃れる人々
前221〜前205年、秦の苦役で、西域へ行った人も、在ったのではないか。
また、広東省へ行く人、斉の山東半島僻地に留まった人もあったのではないか。当然、日本にも秦氏は、来ています。[姓氏録]
382年、前秦の符堅がいう。慶州新羅は、どうして長い髪をしているのですかと聞いて、いぶかしがる。秦書の逸文(太平御覧四夷部に所引)
この時は、日本百済が通訳としてゆくが、このくだらは「高麗、新羅、俀、中っ国人」です。韓国のぺクジュ(百済)ではない。
また、日本では、300年代、武内宿禰が率いる軍も長髪で、長髪を才槌頭(長髪を二つに分けて、木槌の状)にしていた。髪をほどけば、弓矢を髪に隠せるのでした。この頭髪は、韓にも居ました。
http://blog.livedoor.jp/nanamihantaro/archives/2011-06.html
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Re: 三韓
管理人さんへのお返事です。
身近な文章です。
秦野著書 徐福と邪馬台国で魏志倭人伝の行程の触り文、と秦野著書 徐福と日本神話 整理中の内容になる。
1.徐福は紀元前200年の人、
2.會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。
会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がいる。
この文章の『入海行遭風』の訳に総てが隠されている。
管理人さんは『入海行遭風』をどう訳しますか。
1.東鯷人があり、二十余国 九州
2. 夷洲 四国
3. 澶洲 本州
會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海、求蓬萊神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。所在絶遠、不可往來。
会稽の海の外に東鯷人があり、二十余国に分かれている。また、夷洲および澶洲がある。伝承によると、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、数千人の少年少女を連れて海に入った。蓬萊山の神仙を探し求めたが、出会えず、徐福は誅罰を畏れて敢えて帰らず、遂にこの島に留まった。代々に相伝し、数万家を有した。人民は時に会稽に至り交易する。会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がいる。絶海の遠地に在り、往来すべきではない。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun2-gokan.htm
以下の文書、彦瀲の子の神武まで解読し、古事記、日本書記と結び付けます。
彦瀲子神武立、更以「天皇」為號、徙治大和州。次曰綏靖、次安寧、次懿?、次孝昭、次天安、次孝靈、次孝元、次開化、次崇神、次垂仁、次景行、次成務、次仲哀。
彦瀲の子の神武が立ち、改めて「天皇」を号とし、大和州に移って統治する。次は綏靖、次は安寧、次は懿?、次は孝昭、次は天安、次は孝靈、次は孝元、次は開化、次は崇神、次は垂仁、次は景行、次は成務、次は仲哀という。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun11-sintosho.htm
> > 現在の年代を元に探るのは不可能なので、新しくアマテラス辺りから年代の線を引きましょうか。
> > 秦あたりからどうでしょうか。紀元前200年
>
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入海行遭風
http://blog.goo.ne.jp/isaq2011/c/89d784efbea274bf6ff3fc47b149e6bc
http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/
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プラントオパールは、長江河口の河姆渡遺跡
http://blog.goo.ne.jp/isaq2011/e/2b9daf7ae86d251fba8f095f83f6a967
http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/
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日+京】 景行・・・景教天皇?光の信仰?
http://ja.wikipedia.org/wiki/ネストリウス派
http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/
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けい‐せい 【景星】 太白(たいはく・金星の異称)
http://kotobank.jp/word/景星
http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/
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Re: けい‐せい 【景星】 太白(たいはく・金星の異称)
棘の紀氏さんへのお返事です。
日本書紀に記された大伯海、船路をご存知ですか。金星ではありません。
日本書紀は記す。「御船(みふね)、大伯海に至る。時に大田皇女、女子を産む。よりて、この皇女を名付けて、大伯皇女と云う」と。時に斉明女帝の七年、この時、女帝は百済救援のために自ら大軍を率いて西に向かう。その大船団には、皇太子はじめ王族の子女ことごとくが乗船し親征に従った。大伯皇女はその船路の途上で生まれたのであった。
http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/okym/ohku.htm
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Re: 三韓
秦野北斗さんへのお返事です。
秦野さん、さっそく情報ありがとうございます。
>会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がいる。
>
> この文章の『入海行遭風』の訳に総てが隠されている。
> 管理人さんは『入海行遭風』をどう訳しますか。
>
>
> 1.東鯷人があり、二十余国 九州
> 2. 夷洲 四国
> 3. 澶洲 本州
>
> 會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海、求蓬萊>神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭
>風、流移至澶洲者。所在絶遠、不可往來。
この澶洲というのは、中国の會稽から海流と風で流されてたどり着く場所と感じますね。
つまり、夷洲より先に一番最初に流れ着く場所になるでしょう。
そうすると、澶洲のほうが中国にちかくて琉球、夷洲は次で先の中国文献で記しているように、筑紫・秦王国より西か南の領域となるでしょうか。
> 彦瀲の子の神武が立ち、改めて「天皇」を号とし、大和州に移って統治する。次は綏靖、次は安寧、次は懿?、次は孝昭、次は天安、次は孝靈、次は孝元、次は開化、次は崇神、次は垂仁、次は景行、次は成務、次は仲哀という。
この新唐書の話はおもしろいですね。過去にも読んだ覚えがありますが、天皇の記載に記紀と多くの相違があります。
「大和州」という書き方がまた先の関連で気になりますね。古い大和の水の多い風景を思い起こさせます。
「彦瀲」は「彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)」の略のようですが、筑紫城の記載からみても、魏志に見える対馬・壱岐・・・の官職「卑狗(ヒコ)」と関係するように感じます。
後代の「別(ワケ)」も、皇族の分枝の意味だそうです。この新唐書の記載に、「真人」のカバネを、官職によるものと記載している点が重要です。古代の称号は多かれ少なかれ、官職や役職に関係してます。
崇神天皇の別名「ミマキイリヒコ」の「ミマ」も装飾的な意味があるとされてますが、「ミマ」は魏志の女王国に出てくる官職「彌馬」かもしれません。「彌馬」のいた城?。親族の「トヨキイリヒコ」の「トヨ」にも意味があります。「豊」という地名が対馬や九州北部にありますね。
さらにいえば、ニギハヤヒの「ニギ」は以前お話したとおり、伊都国の官職「爾支」ですね。
「入」は、出雲の豪族にもついている名称で何か共通した意味がある。確かに通説のように「侵入」の意味かもしれません。
こう考えていくと、これらの名称は、300年代の天皇名にしても、100年前の魏志の時代のそれををそのままひきづっているように見えますね。
王号などは、匈奴の事例などでも何百年も継承されていくものでしょうから、よほど文化・言語的な入れ替わりがないかぎり、引き継ぐのは当然だとも感じます。
邪馬台国時代末期に、九州北部の豪族たちが、奈良の大和に進出した可能性は高いと感じますね。そして断片的な情報が、天孫降臨・神武条あたりに残っているかもしれない。
系譜とか氏姓なんていうのは、ある意味一番の残りやすいもののひとつで、もっとも集団のアイデンティティーの根幹にいたる部分ですから、あまりでっちあげたくないという心理も当然あるでしょう。旧約聖書などでもそうですね。その辺を犯すのは、逆に今度は不敬という観念にいたってきます。
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Re: 日+京】 景行・・・景教天皇?光の信仰?
棘の紀氏さんへのお返事です。
キシさん、情報ありがとうございます。いつもながら思わず削除してしまいそうになるのですが、下記の引用は重要です。
> 後漢書に、
> 「和帝の永元九年(97年)に西域都護の班超が甘英を使者として大秦に派遣した」
>
> 「桓帝の延憙九年(166年)に大秦国王の安敦(アントン)が遣わした使者が日南郡に訪れて象牙・犀角・玳瑁を献上した」
> 安敦とはローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(位161年〜180年)、またはその先代皇帝であるアントニヌス・ピウス(位138年〜161年)の「アントニヌス」の音を写したものと考えられる。ただローマ側の史書には使者を派遣したという記述が見られず、・・・・」
ローマとベトナム方面とのかかわりが見えて面白いですね。南海のシルクロードでしょう。もちろんその売買を担当した人たちには当然ユダヤ商人も多くいたでしょうね。ベトナムから海路で上海つまり会稽方面へ向かったのではないでしょうか。琉球・九州・朝鮮南部方面へ流れついたこともありえたかな?
ただ、この手の使者の航海は、漂流じゃないんですね。しっかり前提となる航路が航海民なり商人によって確立されていて、安全性が確認されてこそ、宝物を抱えて向かえるわけです。
日南郡
http://ja.wikipedia.org/wiki/日南郡
韓国の博物館とかいくと、海のシルクロードは積極的に評価されてますね。その辺あまり興味ないのは、日本くらいでしょう。
>?? 魏略には
> 「大秦には普段は王はおらず、国に災難があった場合には優れた人物を選んで王とする。災難が終われば王は解雇されるが、王はそれを恨まない」と書かれており、これは共和政ローマにおける独裁官に関する記述であると考えられる。
... http://ja.wikipedia.org/wiki/景行天皇
古代の新羅地域の共和制のあり方は、由水さんの本を読んで以来、興味深く感じてます。秦韓の辰王との関連ですね。馬韓の王が、天下りみたいにやってきて辰王になったらしいですが、ちょうどユダヤ人地域にきたローマの派遣官ピラトとかが来たようなものでしょう。血族的な祭祀王、合議制の議長、この辺の是非がきになるところです。
秦韓の民族意識とか、官職関連だと、
「相呼為徒、有似秦語、故或名之為秦韓。」
お互いを「徒」つまり「ともがら」と意識している点も面白いところです。普通は上下の身分差があったり、いろいろあるものですが、平等的な観念が集団内にひろがっていたことが伺えそうです。
「有城柵屋室。諸小別邑、各有渠帥(ゴスイ・キョスイ)、大者名臣智(シンチ)、次有儉側(ケンソク・シキ)、次有樊秖(ハン(ボン)ギ?)、次有殺奚(セツゲ・サイケイ)、次有邑借(イフシャ・オフシャ)」
中国的な名称が混じってますが、後の研究課題。
「始有六國、稍分為十二國。」
国をすべて二つに分離するあたりが、かなり整った集団支配形態だったことが伺えます。軍隊組織のような感じですね。地理的条件・勢力云々で国を分割してないことは確かです。
あと魏略は魏の時代の文献を拾ったものらしく、下記の点が注目されているとのことです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/魏略
「自帯方至女國万二千余里 其俗男子皆黥而文 聞其旧語 自謂太伯之後 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也」
旧語に聞こえたというのも、九州各地の中国語の名残を聞いたからでしょう。太伯の後というのも、呉と習俗的なつながりを示すものと感じますが、残念ながらキシさんご指摘の金星のことではなさそうです(^_^;)
http://ja.wikipedia.org/wiki/太伯・虞仲
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Re: 三韓
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun2-gokan.htm
http://
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Re: 三韓
秦野北斗さんへのお返事です。
> 会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がいる。と理解していますな。文中の『遭風』を整理する。
> 清代沿海帆船に搭乗した日本漂流民(松浦 章)の文章から遭を遭遇としている。
> 十一月初一日在洋遭風砍桅失舵、直訳:11月初一日に大海で舵を失い、マストが折れ、に遭遇し、航行をする。から『入海行遭風』は何者かに遭遇し出帆と理解するのが妥当と思われる。
>
> 全文を訳すと、以下
>
> 會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。直訳:會稽東冶縣人、澶洲者に遭遇、澶洲者の水先案内で入海行し澶洲にいたる。尚、航行し風に遭い、漂流して・・は誤訳になる。
おそらく、「者」は「てへり」という読みで、「と言う」との意味だと思います・・・・。
http://kotobank.jp/word/てえり
それから「大和州」の件が気になってます。
> > 1.東鯷人があり、二十余国 九州
> > 2. 夷洲 四国
> > 3. 澶洲 本州
> >
思うに、まず「澶洲」があって、次に「夷洲」があり、これらは東鯷人。その東に「大和州」があって倭人の島という観念があったのではないでしょうか。
もっとも「大和州」の件は、だいぶ後代の話だとおもいますけど、「大倭州」みたいな島を表すことばがあったかもしれません。
「海東諸国紀」という1400年代の朝鮮の記録に、「大倭州」が見えますね。もっとも「紀伊州」「近江州」とあるので、大和国のことだと想いますけど、ちょっと他にも面白い記載があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/海東諸国紀
ここでも、先の「彦瀲」の子の神武の名前を「狭野」と言ってますね。スサノオでしょうか。
それで話はもどって、女王国より北には「一大率」後の「本率」という軍隊がいて、それ以外のところもしくは、全体に「大倭」という文官が派遣されていたわけです。
魏率とか、奈率とかの率で、本率は、本の率と言う意味ですね。それで「日本」という語が出てくるのが気になります。小さい日本が倭を併合したという旧唐書ところです。「日本率」とすれば、日本という領域を治めた官職とも理解できます。
対馬や伊都国にあった「一大」の用語が、後に「本」に変化する。日本は「ジツホン」、呉音で「ニッホン」
「伊都(イツ)」から「ジツ」・・・。
筑紫・秦王国より東を倭とする、それ以西は中国と風俗がにていて「(東)夷の州」と解釈した例の記載が、やはりその辺で響いてきます。九州が「夷州」ではないでしょうか。倭王武は「西夷」と言ってますね。
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Re: 三韓
管理人さんへのお返事です。
徐福伝説を読むと、注意するところは九州の宮崎まで痕跡」があることです。
結論は九州は「夷州」でも「澶洲」ないのです。「夷州」「澶洲」が目的地になっている。
http://www.asukanet.gr.jp/tobira/jofuku/jofuku.htm
筑紫は九州の筑紫とみていますが、韓半島にも存在します。これは、あとで、
> 筑紫・秦王国より東を倭とする、それ以西は中国と風俗がにていて「(東)夷の州」と解釈した例の記載が、やはりその辺で響いてきます。九州が「夷州」ではないでしょうか。倭王武は「西夷」と言ってますね。
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真番郡
ちょっと秦韓関連で、調べたことがあったので追記しておきます。
辰国つまり秦韓の起源ですが、ウィキによると、
辰国(しんこく)は紀元前3世紀〜紀元前2世紀の間朝鮮半島南部の一部を領有したとされる鉄器時代国家。民族系統は不明。
『史記』では「真番旁衆国」または版本により「真番傍辰国」、『漢書』では「真番辰国」。したがって、辰国の前身や起源は真番郡とも考えらる。『資治通鑑』では「辰國」として登場する。『三国志』においては「辰韓者古之辰國也」とあり
http://ja.wikipedia.org/wiki/辰国
このように、前漢代の真番郡が起源らしいです。漢四郡についてはこちら。
http://ja.wikipedia.org/wiki/漢四郡
それで、箕氏朝鮮について調べてみると、
「朝鮮王否は秦に服属した(紀元前214年)。その子の準王(箕準)の代になると、秦の動乱により燕・斉・趙から朝鮮へ逃亡する民が増加したため、王は彼らを西方に居住させたという。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/箕子朝鮮
とあるごとく、秦に追われて朝鮮半島には、燕・斉・趙の人民が亡命した伝承記録がすでにあったので、後代の魏志の著者が「秦語に相似しているが、燕や斉の名称ではない。」と注釈を入れたようです。
また秦語というのは、どうも秦地域の言葉ではなく、前漢代の長安を首都としていたときの標準語だそうで、その前漢代に亡命してきた移民なので、古い前漢・秦訛りを、後代秦韓地域に残したと考えうるかもしれません。
おそらく彼らは前漢代にどこからか漢四郡の真番(ソウル近辺)に移動したのでしょう。ところが真番郡廃止とともに、北の楽浪(ピョンヤン方面)に残るものと、東南の秦韓地域へと移住するものがでてきたものと考えます。
そして
「楽浪人を阿残と呼ぶ;東方人は自分を阿と言うが、楽浪人は本来、その残余の人だと言われる。」
とあるのも、その民族分離のことを指しているものとみるべきかもしれません。
倭人には呉の訛りが見えるのと同様に、秦韓人には前漢の訛りが見えたので、その辺の聞き分けを著者はよく捕らえているようですね。
もっとも、秦にアイデンティティーを持ち、起源前後の秦韓地域の遺跡からも遊牧民系の遺物が多くでてきていることを考慮すると、先の扁平頭の習俗のごとく、彼らがどこかしら前漢代の西域の亀慈・月氏・サカあたりの遊牧民族だった可能性も否定できないわけです。
まずはこの真番国について、調査を進めることが、その起源の解明につながるのではないかと感じます。ソウル周辺の前漢代の城柵とか土城あたりの諸遺跡ですね。
一部は弥生時代中期の北九州から瀬戸内あたりの遺跡や遺物と絡んでくることでしょうし、当時のきわめて精度の高い方位ライン形成ともかかわってくるかもしれません。
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遭風 箕氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/曹
http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/
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Re: 遭風 箕氏
棘の紀氏さんへのお返事です。
失礼ですが、質問の内容と投稿内容に相当のズレがあります。
混乱の元のなるので日本古代史掲示版、世界史掲示板で頑張ってください。
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Re: 真番郡
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/bakan-kanbun1-gisi.htm
http://
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Re: 三韓
秦野北斗さんへのお返事です。
秦野さん、こんばんは。
> 徐福伝説を読むと、注意するところは九州の宮崎まで痕跡」があることです。
> 結論は九州は「夷州」でも「澶洲」ないのです。「夷州」「澶洲」が目的地になっている。。
確かに,「平原広沢の王となって中国には戻らなかった」との記載は、琉球諸島というよりは、もっと広い地を想起させるものがあります。
「夷州」「澶洲」「大和州」の問題は、再度新唐書を確認しておきたいところです。
日本、古倭奴也。去京師萬四千里、直新羅東南、在海中、島而居、東西五月行、南北三月行。國無城郛、聯木為柵落、以草茨屋。左右小島五十餘、皆自名國、而臣附之。置本率一人、檢察諸部。
其俗多女少男、有文字、尚浮屠法。其官十有二等。其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城。
京師から日本までの距離を「萬ニ千里」から「萬四千里」へ変化させてますね。洛陽・長安間を二千里と数えたのでしょうか。
「置本率一人、檢察諸部。」で魏志の「一大率」が「本率」へ変化する。
「一大率」と「大倭」はともに魏志によれば、倭の検察官で、「大」に共通性がある。
後に「倭」は「日本」と書き換えられたので、「大倭(率)」の官職名も「本率」へと移行したとの類推ができますね。
「一」を「日」と意味交換できれば、理解しやすくなるかもしれません。
詳しくはないのですが。両方ともコリア語では「イル」と読むそうです。
壱岐は「一大国」、伊都国にいたのは「一大率」で、韓国南岸に近いことを考慮すると、あるいは「一大」の用語にすくなからずコリア語的な要素が入った可能性も考慮すべきかもしれません。
下記のサイトで、「大率」と記紀に記された「帥」の語を比較しています。
http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/sono102.htm
ちなみに、「渠帥」は、魏志等で朝鮮・匈奴関連でよく出てくる言葉で、「首長」の意味です。
キシさんご指摘の「曰は自己詛 盟としての誓約を入れる器。」との件は、時代的な解釈が含まれてないので、あまり参考にならない感じです。漢字の解釈については、その時代と地域を限定して、お知らせいただけると助かります。
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「其國」とは「邪馬臺國」。
http://kusegakunoto.progoo.com/bbs/kusegakunoto_topic_pr_5297.html
http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/
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Re: 真番郡
秦野北斗さんへのお返事です。
> 「従郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里」
>
> 「韓在帶方之南、東西以海為限、南與倭接、方可四千里。」
の件ですが、
A「方可」を「面積」ととると1辺が63里の四方区画。
B「方可」を差し渡し(斜辺)ととると、 1辺が2800里で東西の沿岸巡航距離は5600里。
C「方可」を四方区画の2辺の合計と捉えると、1辺が2000里。
秦野さん的には、Cということになるでしょうか。
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弁韓
続いて、弁韓についても調べはじめてます。参考まで。
『三国志魏書』弁辰伝
弁辰亦十二國、又有諸小別邑、各有渠帥、大者名臣智、其次有險側、次有樊濊、次有殺奚、次有邑借。
有已柢國、不斯國、弁辰彌離彌凍國、弁辰接塗國、勤耆國、難彌離彌凍國、弁辰古資彌凍國、弁辰古淳是國、冉奚國、弁辰半路國、弁〔辰〕樂奴國、軍彌國(弁軍彌國)、弁辰彌烏邪馬國、如湛國、弁辰甘路國、戸路國、州鮮國(馬延國)、弁辰狗邪國、弁辰走漕馬國、弁辰安邪國(馬延國)、弁辰瀆盧國、斯盧國、優由國。
こうみると、弁韓12国と辰韓12国は地域的にも、重複しているように見えますね。制度面でも同様なので、一緒に6国が12国に分割されたりするのでしょう。
そして特に下記の記載が興味深いです。
国は鉄を産出し、韓、濊、倭など國出鐵、韓、濊、倭皆從取之。諸?買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。
皆、これを採りに来る。諸貨の売買には皆、鉄を用いる。中国で金銭を用いるがごとくである。また二郡で供給する。
「以供給二郡」の訳ですが、「二郡(楽浪・帯方郡)に供給する」という意味ではないでしょうか。帯方までの供給輸送ルートが確立しているんです。
商人が何度となく行き来しているわけですね。倭とも馬韓とも同様で、だから九州からは山のように鉄器がでてくるのでしょう。対馬・壱岐経由で九州の隅々まで運ぶ輸送ルートがしっかり確立してあるんです。
鉄器の出るところは弁秦・辰王と常にかかわりをもっていたでしょうし、見返りも送っていたはずです。その輸送ルートの目安が、その時代の九州各地に見られる厳密な方位ラインということかもしれませんね。
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Re: 真番郡
管理人さんへのお返事です。
A,B,Cではありません。D
方可四千里を中国語で説明すると一辺四千里の四角をさす。
別の文章で完全な四角でない旨の文章がある。また、実測すると、
韓は帯方郡の南に在り、『東西は海で尽きる。』南に倭と接し、より
韓半島を東西に距離を測ると219kmで4100里になる。
帯方郡から南4000里が暦韓国(クンサン)になる。現在のクンサンから南が倭国になる。
D「方可四千里」方は方位で可はできるの意味。東西、南北に4000里。1辺、212km
馬韓伝、扶余伝を見る限り方位があり、方可となる。
『三国志魏書』馬韓伝
韓在帶方之南、東西以海為限、南與倭接、方可四千里。
韓は帯方郡の南に在り、東西は海で尽きる。南に倭と接し、地積は四千里ばかり。
『三国志魏書』扶余伝
夫餘在長城之北、去玄菟千里、南與高句麗、東與挹婁、西與鮮卑接、北有弱水、方可二千里。
扶余は長城の北に在り、玄菟郡からは千里、南に高句麗、東に挹婁、西に鮮卑族と接し、北には弱水(アムール河)があり、方形は二千里。秦野北斗の古代史、扶余は長方形になっている。二千里の四角が正しいようだ。近い内に修正する。議論の成果です。
http://homepage2.nifty.com/watcher/hatano4.htm
>
> > 「従郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里」
> >
> > 「韓在帶方之南、東西以海為限、南與倭接、方可四千里。」
>
> の件ですが、
>
> A「方可」を「面積」ととると1辺が63里の四方区画。
> B「方可」を差し渡し(斜辺)ととると、 1辺が2800里で東西の沿岸巡航距離は5600里。
> C「方可」を四方区画の2辺の合計と捉えると、1辺が2000里。
>
> 秦野さん的には、Cということになるでしょうか。
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Re: 真番郡
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000172M.jpg
http://inoues.net/study/rakuroh3.html
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Re: 真番郡
管理人さんへのお返事です。
楽浪四郡の位置は現在の比定とは相当ずれています。中国史籍から特定すると現在の楽浪郡が玄菟郡、楽浪郡は開城ケソンで帯方郡が江華島になる。秦野距離で特定、当時の文章の帯方郡の帯水は漢江下流の帯方郡の前の江、の意味になる。他の郡は特定していない。
> こちらのサイトが楽浪四郡の位置について理解しやすいです。
京師は楽浪郡へ2000里、玄菟郡も2000里程度と思われる。魏志倭人伝から三角縁神獣鏡は京師また玄菟郡で製作された模様。玄菟郡を楽浪郡と間違えている。画紋帯神獣鏡も三角縁神獣鏡も神獣鏡でしょう。三角縁神獣鏡は卑弥呼のために陳寿が制作した鏡、特注ですな。注意することは三角縁神獣鏡の銘文には皇帝に相当する保子(開花天皇)が記されている。
中国の一般人は持つことはできない。まあ一般人は画紋帯神獣鏡が限度でしょう。尚、開花天皇は日本神話、古事記の説明が必要。
http://homepage2.nifty.com/watcher/hatano2.htm
> それで、楽浪郡と画紋帯神獣鏡との関係について興味深いサイトを見つけました。
> 特にホケノ山古墳などから出る画文帯同向式神獣鏡は、ほとんど楽浪と日本しか出土がないそうで、「吾作」の銘文があるそうです。同様に楽浪の木カク墓と、初期古墳との関連も指摘されてます。
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Re: 真番郡
http://ja.wikipedia.org/wiki/卑弥弓呼
http://
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訂正
先に引用しました漢書・楽浪郡条に写し間違いがあり訂正しました。失礼しました。「邪頭昧(ヤトウバイ)」が正解です。訂正よろしくお願いします。
それで、楽浪郡条をよく見ると「帯方」がすでに見えることがありますね。帯方の位置関係を考える上で重要です。
あと、同じく先の文中で触れた烏孫の王号「昆弥」は、「クニ」より「キミ」のほうが意味的には近いかもしれません。
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馬王堆漢墓
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000178M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000178_2M.jpg
http://ja.wikipedia.org/wiki/馬王堆漢墓
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Re: 真番郡
秦野北斗さんへのお返事です。
> 楽浪四郡の位置は現在の比定とは相当ずれています。
とりあえず、今漢書の楽浪郡条に見える各地域を再確認してます。
それで条文の最後のほうに見える東部都尉が治めた「不而・華麗・邪頭昧・蠶台・夫租・前莫」といった地域は、玄兎郡にあたると解釈されてようです。
ワイや扶余の地域です。ただ名称からみると、カヤや邪馬台国のそれとも近いものがあり、その秦野さんご指摘の位置関係や、その南下の動きが気になるところですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/沃沮
後漢時代初期に、夷狄(濊貊・沃沮)の間で争いが続き、不耐以外の侯国は滅びたとのことです。
それで扶余人が百済・新羅方面へ流れて三韓ができあがったわけですね。
その大元はするとその条文にある「華麗」。「邪頭昧・蠶台」も同様に朝鮮各地に散ったとすると、邪馬台国のルーツもわかってくるかもしれません。
特に習俗的な部分で、後の日本と共通するのは、「病気や死者が出ると、そのたびごとにもとの住家を棄てて、新しい住居を作り直す。」は式年遷宮との関連が指摘されてます。神社の木造建築が、その辺の地域の記載と似てますね。
また「男女の上衣はともに曲領(まるくび)のものをつけ、男子は幅数寸の銀製の花文様を結びつけて飾りとする。」の記載は気になりますね。曲袖とか袖飾りも、どうなのでしょう。
君主を持たない記載も、弁・秦韓の制度と類似します。
あと、沃沮関連で、『三国志』東夷伝東沃沮の条の倭人記載が気になります。「その地の風俗では毎年7月に童女を選んで海に沈めます。」「海の彼方に、女ばかりで男のいない国もあります。」の部分は、魏志倭人伝で女性が多いとの記載と一致しますね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/沃沮
おそらく、たとえば先の扁平頭の習俗で注目された疏勒では、六指の子供しか育てないような習俗もあったそうで、あるいは上記にある童女の生贄など、そういう産児・養育にかかわる問題で、男子がいなくなった可能性も感じます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/疏勒
それで楽浪郡条に戻って、南部都尉が治めた「渾濔」「提奚」といったあたりは、楽浪郡でもかなり南のほうにあって、おそらくは「真番郡」の下にあったものと感じます。そしてそれらの地域の住民も、秦韓方面へ流れて、「軍彌國(弁軍彌國)」、「冉奚國」となっていったのでしょう。
これらの国が南下した背景には、やはり楽浪郡支配の縮小と、扶余・高句麗の騒乱があったのかもしれません。
ただ後の馬韓となる原住民がいたので、東部や南部を裂いてもらいながら南下することになったのでしょうか。
そうすると元は楽浪支配時代の前漢文化・前漢方言つまり秦語に影響された人たちだったとも思われますし、前漢時代の墳墓の形式も有していたかもしれないですね。一部は倭にも渡っていった。弥生中期から、九州北部・瀬戸内の遺物に変化が出てくるのもその関連かと感じます。
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Re: 真番郡
秦野北斗さんへのお返事です。
> もうお解かりとおもいますが、クンサンから南が倭国、音表記で邪馬壱(ヤマト)に成るのです。狗奴国は狗耶韓国(狗=弓、耶=邪)、弓邪韓国の男王卑弥弓呼素と不和、卑弥呼
> 弓邪韓国と卑弥弓呼の弓が共通する。狗耶韓国と卑弥弓呼が結びつきました。
> この弓奴国、倭奴国から倭国の武器は弓のようです。アイヌに関係があるのですが、アイヌ語で矢をアイと言います。整理するとアイヌ=矢奴になる。アイヌ文化に古代史が眠っている可能性がある。
弓音と狗音について、ちょっと面白い記載があります。
秦野さん注目の扶余関連の記載に、「官職の名称はすべて六畜の名でよんでおり、馬加,牛加,豬加,狗加の諸加とその下に位置する大使,大使者,使者の諸使がある。」
とあります。
ここで「馬」「狗(ク・コウ)」の語が見えますね。「狗」は犬の意味です。
それで、また関連の言語系統についてなのですが、
「夫余語系説…比較言語学的研究により、『三国史記』所載の高句麗地名から抽出した高句麗語語彙が、ツングース系語彙よりも日本語や中期朝鮮語語彙に多く共通するとして、アルタイ祖語は夫余・日本・朝鮮・韓共通語とテュルク・モンゴル・ツングース共通語の二つに分離し、前者が原始韓語と原始夫余語とに分かれ、ついで原始夫余語が高句麗語と原始日本語とに分かれたとする説」
http://ja.wikipedia.org/wiki/夫余
があるそうです。私も同感で先の楽浪の東部都尉下の各国の名称が、倭や三韓のそれに近いことがあります。だから元の「狗」の語源は、扶余から南下した流民の言葉にあると感じますね。
また体格非常に大きいとの記載も、弁韓人の特徴と一致してくるのですが、あるいは遊牧民・トルコ系の可能性も感じます。
扶余というと、朝鮮北東部の未開人のイメージあったのですが、どうもそうではなく、三国時代の東夷でもっとも先進の文化と技術を持っていた国のようです。
金銀・製鉄・養蚕・法律・祭祀・衣食住・・どれをとっても隣国のそれとは比較にならない感じです。どこかの先進国に属していた亡民と考えるが筋で、実際亡民の伝承があるそうです。
刑罰・血縁関連でちょっと特徴があって、殷歴の正月(2月4日ごろ?)の祭天、その際の罪人の解放とか、「12倍」の刑罰、妬みによる極刑、レビラト婚。
殷暦
http://ja.wikipedia.org/wiki/古六暦
葬送・祭祀関連は、日本の邪馬台国や古墳時代のそれと共通性が強いですね。
「有力者が死ぬと、夏期であればみな氷を用い、人を殺して殉葬する。多い時には殉葬者が数百人に達する。死者を厚葬し、遺体を納める棺(ひつぎ)があるが槨(かく)はない。また、喪に停すること5月、久しきを以って栄とする。
殉葬が多いのは女王国の記載と一致してきますし、モガリの期間も類似します。「棺(ひつぎ)があるが槨(かく)はない。」も魏志の記載と一致。
「その亡くなった者を祭るのに「生」と「熟」がある。喪主は速やかなるを欲せずして他人がこれを強制し、常に諍引してこれを節とする。男女は皆純白の喪服を着用し、婦人は布面衣(布製のベール)を着用し、環珮(腰に付ける環状の玉)を去らす。これらのことは大体中国と似ている。」
祭服に白を重視するのも神道のそれと似てます。ベールのあたりも、先進国の習俗を想起させますね。
当地で取れる大きな玉関連の記載は、三種の神器にあるヤサカニの勾玉を想起させます。おおむね神道祭祀は扶余経由で着ているのではないでしょうか。
あと、アイヌと弓の関連は、扶余の隣国の挹婁に弓の記載が多くあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/挹婁
扶余とは、食物や玉の関連は同じなのですが、その他は非常に異なるようで、扶余の特殊性を浮き立たせます。
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Re: 真番郡
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm
http://
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Re: 真番郡
秦野北斗さんへのお返事です。
さっそくお返事ありがとうございます!
> 狗耶韓国の名称は夫余語系説ですが、夫余以前の名称です。
扶余族南下の件ですが、いつ南下したかについて調査中です。
漢書の楽浪条(東部都尉配下)にみえている扶余と華麗(高句麗・加羅)+原日本語は、言語的に同族だそうで、後漢初期に、何らかの理由で南下したようです。技術的にもずば抜けていたので、勢力がすぐに広がったのかもしれせん。
ただ、その際には、まだ真番郡・後の楽浪郡にいた秦韓の同族は、秦韓地域へは南下していなかったのかもしれません。
だから、馬韓条に、秦韓人が遅れて南下してくる記載がでてくるのでしょう。
まず扶余系の馬韓・弁韓・後の邪馬台国の支配層が南下して、その後、秦韓系が東部へと遅れて南下する。そして秦韓は宗教も言語も、扶余系と異なるので秦語と記載されたようです。
それでどうも玄兎郡は、秦野さんのおっしゃるとおり、もっと楽浪・遼東よりだったようですね。
下記のウィキの図が正しいのではないかと感じます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Map_of_The_east_barbarian_0.png
この地図を見ると予想以上に「真番郡」つまり後の帯方郡が南に延びていることがわかります。
そして倭のほうは、逆に韓半島へ予想以上に進出していたとするならば、あるいは、双方はかなりダイレクトなつきあいをした可能性も感じますね。
おそらく秦韓・弁韓がその間に入って、仲介役をしていたことかと感じますが、帯方と秦韓とのつながりがどのくらいだったか、その辺が課題です。
> 卑彌呼と公孫氏が主役になる。扶余と公孫度が結びつく。当時の韓半島は馬韓、辰韓、弁韓、濊、倭=倭国=やまと。
> 倭国の大乱(146−189年)、卑彌呼が京師から三公と共に来て卑弥弓呼と共立し、倭国の大乱を収める。建安年間(196年−220年)扶余と公孫度が韓(馬韓)、濊を討伐。つぎに、倭、韓(辰韓、弁韓)を討伐。帯方に帰属させた。
> 建安年間(196年−220年)、公孫康、屯有県以南の荒野を分けて帯方郡とし、公孫摸や張敞などを派遣して後漢の遺民を集めるため、兵を挙げて韓と濊を討伐したが、旧民は少ししか見出せなかった。この後、倭と韓を帯方に帰属させた。
公孫氏の件はとても重要です。特に上記の公孫度の倭、韓討伐の実態が気になります。
200年ごろを境に、平原・ホタテ貝式・・・といった墳墓形式に変化がおきてくるのには、あるいは公孫氏の進出を考慮すべきなのかもしれませんね。
楽浪の遺物で興味深いのは、四川系の漆器が多いことです。四川から先の馬王堆王墓のあった長沙、あるいは長安・洛陽経由で、山東半島から海を渡って楽浪にいたる商業ルートがあったものと感じます。
だから楽浪の文化は、多分に華南系の影響も受けていて、それが楽浪の親戚・秦韓へと流れていったのかもしれません。そのルートも課題です。
その秦韓の影響は、壱岐や出雲系にもみられるとのことで、元は華南系とされ、出雲に多い銅鐸との関連も気になります。
銅鐸に見えるようなドンソン文化系の文様は、多かれ少なかれ画像鏡・画紋帯神獣鏡等にも影響していて、特に三角鋸歯紋などは顕著です。山東の銅鏡製造ともながら、海を越えて楽浪にその技術者たちが進出していく。それで三角縁神獣鏡が製造されていく過程で、さらに秦韓方面へと製銅技術者が移動していくわけですね。
秦韓の彼らは、楽浪人を同族である「残阿」と呼んだのですが、一部は新羅東岸から海流に乗って、倭の出雲方面に渡ったのでしょう。だから似たような銅鐸を作ることができた。
そして、残ったものは、後代5世紀に、秦氏として渡ってきて、その製銅技術を伝播したのかもしれません。
最終的には渡来人研究会なので、秦氏に論を進めたいのですが、まずはその前に楽浪・公孫氏と秦韓・弁韓・倭との関係をもう少し洗い出しておきたいところですね。
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Re: 真番郡
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000186M.jpg
http://ja.wikipedia.org/wiki/魏志倭人伝
http://
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Re: 「其國」とは「邪馬臺國」。
棘の紀氏さんへのお返事です。
棘の紀氏さん、馬韓は衛氏朝鮮の領地ようです。衛満朝鮮の満がない、何処へ行ったのか?
衛満朝鮮の満、何処へ行ったか捜査できませんか。
> 少々 お付き合いください。
> 「邪馬臺國」・「拘邪韓國」の位置関係。
> 其大倭王居邪馬臺國 樂郡浪徼 去其國萬二千里 去其西北界拘邪 韓國七千餘里 其地大較在會稽・東冶之東」 における「邪馬臺國」・「拘邪韓國」の位置 関係。 説文解字に「徼」は『循(めぐ)るなり』とある。 「去」は『行く
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Re: 真番郡
秦野北斗さんへのお返事です。
さっそくご意見ありがとうございます。
> 楽浪四郡の位置は現在の比定とは相当ずれています。
>
> 楽浪四郡を中国史籍から描きました。
ありがとうございます。
> 滄海郡が京師、馬韓は衛氏朝鮮の領地ようです。衛満朝鮮の満がない、何処へ行ったのか?
この辺、ちょっと引用の馬韓伝とその注釈を読んでいるのですが、注釈のほうに興味深い記載がありますね。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/bakan-kanbun1-gisi.htm
より。
注記? 魏略に曰く。・・・・漢は盧綰(ろわん)を燕王に任じた。朝鮮と燕の国境は?水と定めた。盧綰は漢に背いて匈奴に入り、燕人の衛満は胡服を着て亡命、東の?水を渡り、準を訪れて降伏し、西界に居住して昔中国から朝鮮に亡命してきた人々を集めて藩屏(はんぺい=宗室の守護)としたいと準を説いた。準は彼を信頼して寵愛し、博士として敬い、圭の百里を食邑として授けて、西辺の令守とした。満が誘った亡命者たちが徐々に衆をなすに及んで、偽の情報を持たせた使者を準に遣わし、「漢兵が十道に至り、宿衛に入ることを求めている」と準に告げさせ、帰還した準を攻めた。準は満と戦うも、満には敵わなかった。
おそらく、この中国からの亡命者を集めた満が、扶余方面に向かったのではないかと感じます。「徐々に衆をなす」という語が、後の「真番旁衆」を想起させますが、ただここでは楽浪の東部?の出来事なので、楽浪南部とされた「真番郡」と関係するかどうかが疑問ですね。扶余のほうが近い。
注記? 魏略に曰く、初め右渠が破れる前、朝鮮の宰相の歴谿卿が右渠を諫めたが用いられず、東の辰国に亡命した、そのとき彼に随行して国を出た住民が二千余戸、また、朝鮮の貢蕃(属国)とは互いに往来しなかった。
「貢蕃」の用語が見えますね。「真番」にちょっと似た語ですが逆の意味になりますね。東とされている辰国に向かった二千戸が真番か?確かに秦野さんご指摘のとおり、東に辰韓が位置してます。
王莽の地皇年間(20年−22年)、廉斯(れんし=地名)の鑡(さく)は辰韓の右渠帥となり、楽浪郡の土地が肥沃で、人民は豊かで安楽に暮らしていると聞き、逃亡して降伏することを望んだ。(そして、鑡が)その邑落を出ると、田中で雀を追い払っている一人の男と出会ったが、言葉が韓人とは違っていた。彼に問うと、男が言うには「我らは漢人で、名を戸来と言い、我らは仲間の千五百人と材木の伐採しているところを韓に襲われ、全員が断髪され、奴隷にされた。もう三年にもなるかな」と応えた。
鑡は「私は今から漢の楽浪郡に降るところだが、おまえは行きたくないか?」と言った。
戸来は「よし。(行こう)」と応えた。
ここで出てくる「戸来(コ・グ・ライ)」という人物が、後の(辰)秦韓人の記載と同様に、他の韓人とは別の言葉を話していると記載してます。元は漢人で集団を大きな意味しているようです。
鑡は戸来を連れて辰韓を出て、含資県に詣でると、県は郡に伝え、郡は鑡を通訳として、芩中から大船に乗って辰韓に入り、戸来を迎え受けた。とともに降った仲間の千人を奪還したが、すでに残り五百人は死んでいた。鑡は辰韓に諭して言った。「汝ら五百人を還せ。もし返還しなければ、楽浪郡は万余の兵を船に乗せて、汝を攻撃しに来るだろう」
辰韓は「五百人はすでに死に、我は人数に値する弁償をするしかない」と言った。
辰韓は一万五千人、弁韓は布を一万五千匹、それぞれが提出した。鑡は値を徴収して郡に還る。郡は鑡の功義を表し、冠幘(かんさく=帽子の名)と田と家宅を賜う。子孫は数世、安帝の延光四年(125年)に至って、故事に対して再び除を受ける。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/bakan-kanbun1-gisi.htm
なぜかこの「戸来」の背後にある集団を巡って、楽浪と辰韓・弁韓との間に大きな騒乱が起こっている様子が伺えます。
思うにこの「戸来」に象徴される異国語(秦語?)を話す集団は、金属精錬のような何か特殊な技術を持っていて、その技術者争いを象徴した伝承なのではないでしょうか。
後に公孫氏が、やはりかつて真番郡のあった帯方郡を再開拓し、倭・韓に遠征してまで、「旧民」を探していますね。
建安年間(196年−220年)、公孫康、屯有県以南の荒野を分けて帯方郡とし、公孫摸や張敞などを派遣して後漢の遺民を集めるため、兵を挙げて韓と濊を討伐したが、旧民は少ししか見出せなかった。この後、倭と韓を帯方に帰属させた。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/bakan-kanbun1-gisi.htm
この「旧民」を探すことに、大きな利益なり意義があったので、あえて倭まで遠征したということは、ただの漢人ではなかったと周囲からもみなされていたことがわかります。
ただ後韓末になると、そのほとんどはするとどこかへ移住してしまったということになるでしょうか。秦韓と楽浪・帯方との同族つながりも薄れていたのかな?
ともあれ、この辺の秦韓人の動きを追う上でも、漢四郡や周辺民族の位置や敵対・同族関係を確認しておくことが重要ですね。公孫氏については、図書館から楽浪の本を数冊借りてきたので、また何かわかり次第お知らせいたします。
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Re: 真番郡
管理人さんへのお返事です。
これまでに述べた事は総が日本人の先祖の歴史なんです。管理人さんの先祖も登場せてますよ。総て、古事記が起源になる。
> 建安年間(196年−220年)、公孫康、屯有県以南の荒野を分けて帯方郡とし、公孫摸や張敞などを派遣して後漢の遺民を集めるため、兵を挙げて韓と濊を討伐したが、旧民は少ししか見出せなかった。この後、倭と韓を帯方に帰属させた。
旧民は総が日本人の先祖、卑弥呼も同様です。公孫康に追われたのです。
> 注記? 魏略に曰く。・・・・漢は盧綰(ろわん)を燕王に任じた。朝鮮と燕の国境は?水と定めた。盧綰は漢に背いて匈奴に入り、燕人の衛満は胡服を着て亡命、東の?水を渡り、準を訪れて降伏し、西界に居住して昔中国から朝鮮に亡命してきた人々を集めて藩屏(はんぺい=宗室の守護)としたいと準を説いた。準は彼を信頼して寵愛し、博士として敬い、圭の百里を食邑として授けて、西辺の令守とした。満が誘った亡命者たちが徐々に衆をなすに及んで、偽の情報を持たせた使者を準に遣わし、「漢兵が十道に至り、宿衛に入ることを求めている」と準に告げさせ、帰還した準を攻めた。準は満と戦うも、満には敵わなかった。
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Re: 真番郡
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000191M.jpg
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/hn2602/5.htm
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Re: 真番郡
管理人さんへのお返事です。
ハプロタイプHLA−A24−B52−DRB1*1502(DR15)ではこの辺に多いから、こんなかな、では何の説明のもならない。文献、歴史で流れを掴んでからHLAで初めて確認できるのです。へたをすると、本末転倒、子供と親がひっくり帰ります。管理人さんのHLAの流れは秦野の古代史の流れとは多く違う。
> 「このハプロタイプが、日本人最多であり、且つ、北九州、山陽、近畿で更に高頻度であることから、弥生時代開始前後に、遼河流域周辺から、半島西岸を一気に南下して、半島南部に到達し、更に間を措かずに、主力が渡海して北九州〜山口方面に上陸・移住し、瀬戸内から近畿に弥生文化とともに拡がって、ついに国家形成・民族形成・日本語を形成するに至った集団「倭人」の民族移動を表わすものと考えています。」
簡単な話が、なぜこんな小さな島国に多種のHLAが存在するかです。常識の範囲では説明ができません。
秦野の古代史の流れに対応させると50世代が限界のようですな。百世代から数百世代はオーバーです。
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楽浪考古
秦野北斗さんへのお返事です。
>
> ハプロタイプHLA−A24−B52−DRB1*1502(DR15)ではこの辺に多いから、こんなかな、では何の説明のもならない。文献、歴史で流れを掴んでからHLAで初めて確認できるのです。へたをすると、本末転倒、子供と親がひっくり帰ります。管理人さんのHLAの流れは秦野の古代史の流れとは多く違う。
>
さっそくお返事ありがとうございます。HLAにしても、確かに文献・歴史の流れを元に、双方でつきあわせて考えていくことが重要ですね。
もうひとつ、昨日から考古面で、楽浪・韓・倭の動きを追ってます。
田村晃一氏の『楽浪と高句麗の考古学』と、全浩天氏『楽浪文化と古代日本』を読み始めました。
確かに、漢四郡の資料が少なく、四郡の位置推定は困難を極めているようです。
管理人が注目している「真番郡」についても、北在説と南在説があり、はっきりと決着がついてないようですね。ソウル周辺との見方にも十分な論証には至ってないようです。「真番旁衆国」が後に「真番旁辰国」と書き換えられていて、辰国が東部にあったことからして、その位置が推定されているそうです。
次の「臨屯郡」ですが、郡治が東・県、そこが嶺東七県であるから、おおむね半島中央部の背梁山脈の東だろうとのことです。ただ資料が少ないのでなんともいえない感じですね。
また帯方郡については、「昭明王」の記載が入った遺物や、「守長岑長王」(墓)が北朝鮮の南西部にある黄海南道信川郡とのことです。
それで先の楽浪郡条をみると、それらが「南部都尉」の収める地域となっていることを考慮すると、楽浪郡の位置がわかってきますし、それに併記された「帯方」の地名、さらには帯方郡の位置ともかかわってきます。ただ時代によって楽浪や帯方の領域も拡大縮小してますから、その辺との兼ね合いが課題です。
その他、前漢代の北西部から出た「明刀銭」や、遼東から出て帯方郡と関係するという「逸民合資王君」銘の墓の存在は、亡命移民とのかかわりで重要でしょう。
前者の関連では、燕の亡命移民が、北朝鮮北部の鴨緑江付近に集まったことが指摘されていたそうですが、この辺は商人たちが「朝鮮・真番の利」を求めて集まった場所でもあり、高句麗と関係する原住民がそれを扱ったとの見方もあるそうです。
それで楽浪「残阿」と秦韓「阿」の関係ですが、こちらは考古的にも木カク墓の構造から明確なつながりが見えるそうです。一部は金官カヤ(つまり狗邪韓国)方面へとその流れがあるそうです。
それでその契機としては、全氏はAD37年に、高句麗が楽浪を滅亡させたという記載をあげてます。おそらくこの辺が、馬韓に遅れて秦韓人が南下する記載に至ったものと感じます。
あと、倭とのかかわりですが、全氏によると「遼東ー楽浪郡」と「平壌ー楽浪郡」の2種があり、岡本遺跡や前原遺跡の前・後漢鏡との比較で、これらの鏡が平壌から出土しないことを考慮すると、遼東出土のそれらととの兼ね合いを考えるのが自然であることを指摘しています。
また日本の方形周溝墓(前3世紀〜)と、韓国中西部にある忠清南道(前2〜1世紀)の41基の方形周溝墓との比較が重要です。木棺の痕跡があるとのことで、楽浪や日本のそれとのかかわりを指摘してます。
上記を整理していくと、燕の時代にすでに貢納記載がある「真番」については、秦末の燕などからの亡命移民というよりは、それ以前からの「真番の利」を求めた商人集団との兼ね合いがあって、それが後に前漢時代の楽浪郡そばに真番郡が出来上がる契機となったものと感じます。
そして、後漢初頭の楽浪の高句麗による攻撃によって、馬韓の東を裂くかたちで、朝鮮東南部領域へと移住していったのでしょう。
もちろん別の流れも複数あって、あるいは朝鮮中南部の方形周溝墓と倭人の弥生文化との兼ね合いもあったのかもしれませんが、秦野さんのその辺の課題ともかかわってくるのではないでしょうか。
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Re: 楽浪考古
管理人さんへのお返事です。
秦野の考えは単純で魏志倭人伝の行程を距離で割り出す方法です。今回、漢四郡の位置を探るのは考えていませんでした。中国史籍の威力を知りました。
陳寿のすごさを垣間見ました。また、狗耶韓国の位置と卑弥呼の痕跡が『釜山に帰れ』の詩に隠されているのはご存知ですか。
> それでその契機としては、全氏はAD37年に、高句麗が楽浪を滅亡させたという記載をあげてます。おそらくこの辺が、馬韓に遅れて秦韓人が南下する記載に至ったものと感じます。
高句麗が楽浪を滅亡は衛氏朝鮮の記録でこれが馬韓になった模様です。武帝との取引が考えられます。
提案ですが秦野書、徐福と邪馬台国を読みませんか。議論は倭国に戻りたい、伊都国と邪馬台国の住所が両者とも字になっている。古事記の国生み、神武東征を紐解きたいですね。
> そして、後漢初頭の楽浪の高句麗による攻撃によって、馬韓の東を裂くかたちで、朝鮮東南部領域へと移住していったのでしょう。
> もちろん別の流れも複数あって、あるいは朝鮮中南部の方形周溝墓と倭人の弥生文化との兼ね合いもあったのかもしれませんが、秦野さんのその辺の課題ともかかわってくるのではないでしょうか。
これらは神武兄弟とその末裔の歴史です。ピンとこないと思います。私の先祖もどうも韓半島に行き卑弥呼の年代に瑞穂の国に帰ってきた模様。糸口は家紋です。1700年はバックできる。
管理人さんの家紋があれば知らせください。簡単ですが先祖を調査します。だいたいですがね。
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地理について 「一里=435メートル」
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/tabana=tango.htm
http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/
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Re: 楽浪考古
秦野北斗さんへのお返事です。
> 陳寿のすごさを垣間見ました。また、狗耶韓国の位置と卑弥呼の痕跡が『釜山に帰れ』の詩に隠されているのはご存知ですか。
その詩は知らないですね〜(^_^;)
> 高句麗が楽浪を滅亡は衛氏朝鮮の記録でこれが馬韓になった模様です。武帝との取引が考えられます。
馬韓の件は課題ですね。扶余やその系統の高句麗・馬韓と楽浪との間で取引があったことは確かでしょう。郡を撤退させて、その代わりに「候」扱いに格上げしましたからね。
> 提案ですが秦野書、徐福と邪馬台国を読みませんか。議論は倭国に戻りたい、伊都国と邪馬台国の住所が両者とも字になっている。古事記の国生み、神武東征を紐解きたいですね。
今金欠なので、秦野さんのHPのほうを後で確認させていただきます。とりあえず、それでは弁韓と北九州に戻りましょう。
日本の方形周溝墓について、先の韓国中西部の方形周溝墓とどう関係するのかが気になってます。
また同じく北九州の弥生遺跡にみられる前後漢鏡と楽浪との兼ね合いですね。
会報にも掲載しましたが、吉野ヶ里・岡本・平原・宇佐風土記の丘の赤塚方形周溝墓郡は、ともに方位ラインの上にありまして、そのほか九州の弥生遺跡は76.5メートルを単位とした短里で割り切れる距離に正確に位置してます。
もちろん、それらは魏志の長里でもなくて、秦野さんの超短里でもないわけでして、紀元前のある時期に、それらの遺跡を作った集団が使っていた尺度を考えてます。ご指摘の伊都国もそこに関係してくることでしょう。
平原・岡本・赤塚には方形周溝墓が見えますし、銅鏡や木棺がそこに関係してきます。
吉野ヶ里はBC4世紀台からとかなり古いようですが、弥生中期に大型墳丘墓があらわれてきますね。
それらが、もし先のBC2世紀ごろとされる朝鮮中西部の方形周溝墓と木棺の組み合わせと関係してくるとなると、楽浪南部にいた真番郡(衆)あるいは馬韓あたりと関係してくるかもしれません。
ただ平壌方面からは前漢鏡が出土しないとすると、遼東とのかかわりか、あるいは山東半島経由で先の半島中西部に位置した地域(楽浪南部か真番郡)とのかかわりで、前漢鏡が倭のその地域にもたらされた可能性を感じます。
いずれにせよ、彼らはどこからか方形周溝墓と割竹型木棺、前漢鏡という組み合わせを持って、やってきて、近畿や伊勢方面にまで足を運んでいったわけですが、きわめて正確な測量を行うことができたわけです。そしていわゆる短里を使っていた・・・。
朝鮮中西部は馬韓地域にもさしかかるので、扶余系の墓制とのかかわりも調べてみたいところですが、一方で山東方面の漢墓との関わりのほうが有力かもしれません。
扶余については「諸加が死ねば、夏季は皆、氷で腐敗を防ぎ、人を殺して殉葬する。多いときには百を数える。手厚く葬り、墳墓には槨(木組みの墓室)はあるが棺(かんおけ=石棺)はない。」
とあり、棺を持たないようですし、方形周溝墓が他の扶余系の韓地域から出てこないことを考慮すると、違う感じがしますね。馬韓というのは、扶余の諸加のひとつにある馬加ではないでしょうか。
古い話だと、稲作について、すでに山東半島と朝鮮中西部へのルートがあったようです。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/hon/inasakutoraimin.htm
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_03suidenninasaku_no_jitunenndai.html
それで、弥生中期のころですが、下記のサイトに朝鮮のある時期からの青銅器が山東半島の鉱山からもたらされた鉛を原料にしており、それらが弥生中期の北九州の遺跡に影響を与えたことが明示されてます。
http://syoki-kaimei.blog.so-net.ne.jp/2011-10-08-3
そうすると、楽浪南部から馬韓北部との間にあった真番郡(衆)あたりにて、海上ルートで山東半島から商人が運んでくるものを受け取るシステムがあって、それが後に真番の親戚である秦韓・金官カヤ(狗邪韓国)経由で、北九州や出雲瀬戸内方面へと流れていくケースがあったのではないでしょうか。
もっとつきつめると雲南・四川・長沙方面の商業ルートともかかわってくるので、楽浪郡から四川系の漆器ばかりが出てくることになるのでしょう。先のHLAの流れとも一致してくることと感じます。
> これらは神武兄弟とその末裔の歴史です。ピンとこないと思います。私の先祖もどうも韓半島に行き卑弥呼の年代に瑞穂の国に帰ってきた模様。糸口は家紋です。1700年はバックできる。
> 管理人さんの家紋があれば知らせください。簡単ですが先祖を調査します。だいたいですがね。
そうですね、墓の紋章は忘れましたが、うちの先祖は福島の三春田村氏です。今原発の件で、親戚がみな疎開しているあたりですね。たぶん、下記の家紋、五七桐だと思うのですが・・・(^_^;)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/田村氏
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Re: 楽浪考古
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000197M.jpg
http://blogs.yahoo.co.jp/candy211jp30000/28991562.html
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Re: 楽浪考古
秦野北斗さんへのお返事です。
> 興味深いのは兄弟なんです。卑弥呼と弟ではないか。
ま、プサンについては、どうしてもあそこを通らないと、日本へは簡単にはこれなかったでしょうからねー。
> 76.5メートルが秦野距離を証明しいます。76.5を斜辺の長さとすると辺の長さは54になります。方位ラインは東西、南北を正確に測ったのでしょうか。簡単な作図を添付しました。
> 方位ラインは大切だが正確に方位を知ってほしい。秦野の超短里が短里なんです。
なるほど、ご指摘の54メートルがそれでは正解ですね。あとは、その公倍数やルート関連となるでしょうか。
斜辺と正辺との関係は、九州の遺跡において相互依存の関係にあります。まだオフレコですが、次回の会報あたりで詳細図をお知らせできると思います。
> 管理人さんの先祖は蘇我、聖徳太子系、源氏の可能性がある。どうりで只者でない。
>
> 常陸の少し上ですな、五七桐、桐紋は蘇我、聖徳太子系です。源氏にもなる。堺の羽曳野が河内源氏で木瓜紋の家紋がありました。宗教は仏教系でしょうか。
家紋はちょっと先ほど調べてみてびっくりしました。思ったより古くまで遡れるようですね。
その五七桐も嵯峨天皇あたりから使用されていたとのことです。三春田村氏は渡来系漢氏の族長坂上田村麻呂の子孫を称して、代々使用してきたらしいのですが、田村麻呂は、ちょうど嵯峨天皇の前の桓武時代の人です。
奇しくも後代の皇室の副紋、征夷大将軍の紋章というのは、田村麻呂にぴったりですね。
ちなみにうちの先祖の土地は、確かに常陸から北に向かって先の原発のあるところから内陸に向かい、三春田村に向かう途中の土地で、熊沢天皇とかで有名な南朝系の土地です。真言宗ですが・・・曽祖父は宮大工とのこと。今でも江戸時代の木造家が残ってます(ただ避難区域なので・・)。
蘇我まで遡れるとするとまた面白いですね!
五七紋の七の枝分かれした房が、石上神宮の七支刀をイメージさせる感じで、百済とかかわりを感じさせます。菊紋も百済と関係深いですね。
> 因みに揚羽蝶紋は平氏で源氏より200年は古い、中部に多い
平安初期までは確実にさかのぼれるようですから、奈良時代の紋章の様子がわかってくると、家紋研究も古代史学に入れそうですね。その辺の資料はないのでしょうか。
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Re: 地理について 「一里=435メートル」
棘の紀氏さんへのお返事です。
> で、千里とはどのくらいかといいますと、仮に昔のシナの里を使っていたとしますと、魏の時代の里は、
> 「一里=435メートル」
> ――なので、
> 「千里=435キロメートル」
ふとおもいついたのですが、先の短里の話の続きで、斜辺76.5メートルの正辺が54.1メートルとすると、その8倍が432.8メートルになりますよね。
あるいは76・9メートルにして、54・4で、435・2ですね。
何かその辺の関係なのではないでしょうか。8倍(あるいは2倍・4倍)に意味が見出せるかどうかですが・・・。
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Re: 楽浪考古
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000200M.jpg
管理人さんへのお返事です。
その辺の資料はないのでしょうか。未だ整理していないのです。資料そのものが古代史です。秦野が家紋に興味をもったのは、神武東征の解読中のことです。先祖に遡る手法は古代の人種移動と種族の特徴を整理します。その後、先祖から大事にしている家紋で特定するのです。揚羽蝶は神功皇后の紋になる。一例ですが雅楽(胡蝶の舞)に出てくる。紋を元に神功皇后が遊戯し伝えている模様。揚羽蝶は中近東、ヨーロッパではキリストの復活になる。三韓征伐は復活になる。家紋は歴史の痕跡になっていると言えます。早く古代史を整理したいものです。『釜山港へ帰れ』の詩が其のもののように感じる。
参考ですが、中近東にはヤタガラスの紋が沢山あるとのことです。
> 平安初期までは確実にさかのぼれるようですから、奈良時代の紋章の様子がわかってくると、家紋研究も古代史学に入れそうですね。その辺の資料はないのでしょうか。
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Re: 地理について 「一里=435メートル」
棘の紀氏さんへのお返事です。
朝鮮最古の史書『三国史記』(1145年成立)の新羅本紀には、第四代の王について、つぎのように書かれています。
「脱解尼師今、立。(一云吐解。)時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里。・・・」
多婆那國は秦野距離で東北一千里、新羅にあり、現在の蔚山[ウルサン]になる。
> 『三国史記』には「倭国の東北千里」とあります。
> 倭国とは日本のことですが、弥生時代においては、北九州の国々を主として倭国(一部朝鮮半島南端部を含む)と呼んでいたようです。
> それは、『三国志』の東夷伝を読めばわかります。
> だとしますと、北九州を起点にして「東北へ千里」の場所で脱解尼師今は生まれたことになります。
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Re: 地理について 「一里=435メートル」
今回、里について検討します。どうも、文献データーは政権の影響が見え隠れしていますな。実際の距離があり、掛け率で分配があったと考えるべきではないか。【周・春秋戦国・前漢(BC10〜1世紀)】〜【明(14〜17世紀)】までの里を見ると里は405〜559.8mまで154m増加している。領土の拡大と政策によるもと考えると政権ごとに領地の拡大が生じることになる。【唐(7〜10世紀)】には歩が300→360歩に成っている。何か、政策変更あったと思われる。尚、政策で変化するなれば、実際の里とはズレが生じている。しかし、地図上の距離は変化しないので政権里(文献データー)とは別物と考えるのが自然。地図上の距離は単里を使用していたと考えるのがよい。ややこしい。
里(り)は、尺貫法における長さの単位である。現在の日本では約4km、中国では500m、朝鮮では約400mに相当する。
里は元々は古代中国の周代における長さの単位であった。1里は1800尺(360歩、6町)四方の面積を表しており、後にこの1辺の長さが距離の単位「里」となった。1尺を30cmとすると1800尺は540mとなる。その後、時代により変動があるが、今日の中国では500mを1里としているので、周代の里に戻ったことになる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/里
【周・春秋戦国・前漢(BC10〜1世紀)】
寸:2.25cm/尺:22.5cm/丈:2.25m/歩:1.35m/里:405m
【新・後漢(1〜3世紀)】
分:0.2304cm/寸:2.304cm/尺:24.12cm/丈:2.304m/
歩:1.3824m(6尺)/里:414.72m(300歩)
【魏(3世紀)】
分:0.2413cm/寸:2.412cm/尺:23.04cm/丈:2.412m/
歩:1.4472m(6尺)/里:434.12m(300歩)
【隋(6〜7世紀)】
分:0.2951cm/寸:2.951cm/尺:29.51cm/丈:2.951m/
歩:1.7706m(6尺)/里:531.18m(300歩)
【唐(7〜10世紀)】
分:0.311cm/寸:3.11cm/尺:31.1cm/丈:3.11m/
歩:1.555m(5尺)/里:559.8m(360歩)
【宋・元(10〜14世紀)】
分:0.3072cm/寸:3.072cm/尺:30.72cm/丈:3.072m/
歩:1.536m(5尺)/里:552.96m(360歩)
【明(14〜17世紀)】
分:0.311cm/寸:3.11cm/尺:31.1cm/丈:3.11m/
歩:1.555m(6尺)/里:559.8m(360歩)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1324898093
>
> ふとおもいついたのですが、先の短里の話の続きで、斜辺76.5メートルの正辺が54.1メートルとすると、その8倍が432.8メートルになりますよね。
>
> あるいは76・9メートルにして、54・4で、435・2ですね。
>
> 何かその辺の関係なのではないでしょうか。8倍(あるいは2倍・4倍)に意味が見出せるかどうかですが・・・。
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Re: 楽浪考古
秦野北斗さんへのお返事です。
> その辺の資料はないのでしょうか。未だ整理していないのです。資料そのものが古代史です。秦野が家紋に興味をもったのは、神武東征の解読中のことです。先祖に遡る手法は古代の人種移動と種族の特徴を整理します。その後、先祖から大事にしている家紋で特定するのです。
さっそくお返事ありがとうございます。平安初期から家紋が作成されはじめた理由は、ご指摘のとおり、源氏の発生や、系譜観念の変化が影響していると感じます。それ以前から、類似したものはあっただろうと感じますね。
それなりに、その氏族なり家なりの象徴が、家紋に刻まれているはずです。五七桐紋は、七支刀にも似てますが、百済・新羅の樹木冠を想起いたします。田村後宮をとおしての桓武・嵯峨が百済と深いつながりがあるのも関係しているかもしれません。ご紹介いただいた「胡蝶の舞」の写真にも、舞人の頭に似たよなものが見えますよね。
その百済については、通典に興味深い記載があります。
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/tuden.html
まず、先に倭韓関連で、特に注目したい記載を下記に列挙しておきます。
●馬韓条
馬韓最大、共立其種爲辰王、都目支國。
※目支國は月支國とも書かれてますね。
撃破朝鮮王準、居秦故空地上下障、稍役屬真蕃、朝鮮諸夷、反故燕、齊亡命者王之、都王險。
※「真番」を「真蕃」と書き換えてます。「燕、齊亡命者」とありますが、齊はや山東半島にあるので、あるいは、直接海をわたって朝鮮中部に渡ったケースも想定すべきでしょう。
遼東太守即約滿爲外臣、保塞外、以故滿得兵威財物、侵降其旁小邑、真蕃、臨屯皆來服屬、地方數千里。傳子至孫右渠、所誘漢亡人滋多、
※「真蕃、臨屯皆來服屬」とあることから、「真蕃」に加えて「臨屯」も、特定集団の名称だったことがわかります。
●辰韓条
以大鳥羽送死、其意欲使死者飛揚。
※これは四川・雲南方面の習俗で、元は月氏・サカなどの遊牧民系が、中国南西部に南下したことによります。その残りがチベットに分離・南下した小月氏。
後漢光武建武中、韓人廉斯人蘇馬[言是]等詣樂浪貢獻。【[言是]音是】帝封蘇馬[言是]爲漢廉斯邑君、使屬樂浪郡、四時朝謁。
※「韓人廉斯人蘇馬[言是]」の「廉斯(レンシ)人」についてですが、先の月氏の城が「監氏(ラン)氏」です。韓人というのは馬韓でしょうから、「月支国」から「辰王」を出すとの記載と関係しそうです。
大月氏の都は『漢書』では監氏(ランシ)城、『後漢書』では藍氏城、『魏書』では盧監(ロラン)氏城から薄羅(バクラ)城となっている。
于闐の「尉遅(うっち)氏」も月氏姓との説があり、中国の官人として各地で進出していました。
于闐関連。
http://dsr.nii.ac.jp/narratives/discovery/02/
大者名臣智、其次有險側、次有樊wai[偏水旁歳]、次有殺奚、次有邑借。
●百済条
百濟 、即漢末夫餘王尉仇台之後、【後魏時百濟王上表云:「臣與高麗先出夫餘。」】初以百家濟海、因號百濟。晉時句麗既略有遼東、百濟亦據有遼西、晉平二郡。【
※扶余の王族は「尉」氏。「初以百家濟海、因號百濟」ですが、「濟」に「渡る」の意味がありますが、別に「百濟亦據有遼西」とあるのが気になります。高句麗よりさらに西北に拠点があるとのことで、「百家濟海」の「百家」は、あるいは中国系の亡命移民あるいは商人集団を指していた可能性を感じます。
●新羅条
其俗呼城曰「健牟羅(ケンムラ)」、其邑在内曰「喙評(クァイヘィ)」【喙、呼穢反】、在外曰「邑勒」、亦中國之言郡縣也。國有六喙評、五十二邑勒。
※この辰韓の「評・邑」制度は、中国の郡・県(ケン)制度をもとにしており、日本の郡評制度と関係するか。「健牟羅(ケンムラ)」は日本の「ムラ」?
先の辰韓条の「大者名臣智、其次有險側、次有樊wai[偏水旁歳]、次有殺奚、次有邑借。」と比較すると、險側が健牟羅、樊waiが喙評(クァイヘィ)、邑勒が邑借と対応。
秦韓人の元はおそらく伝承どおり、楽浪・中国系。
官有十六等、其一曰伊罰于、貴如相、次伊尺于、次迎于、次破彌于、次大河尺于、次河尺于、次乙吉于、次沙大河尺于、次沙咄于【咄、都骨反】、次及伏于、次大奈摩、次大舎、次小舎、次吉土、次大烏、次小烏、次達位。外有郡縣。
「次吉土、次大烏」は、吉士集団と関連。鳥は先の秦韓の葬送観念に関係するか。
●日本条
有軍尼百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如里長也;十伊尼翼屬一軍尼。
※「軍尼」は辰(秦)韓の軍彌国(弁軍彌国)と同音。
倭王姓阿毎、名多利思比孤、其國號「阿輩[奚隹]彌」、華言天兒也、
※「阿毎(アバイ)」「阿輩[奚隹]彌」は「アハイ(スイ)ビ(ビ)」は「アワミ」か。
王遣小徳阿輩臺、從數百人、設儀仗、
※「阿輩臺(アバタイ)」は「粟田・アワタ」(真人)のこと。
秦韓人は自分たちのことを「阿」とよび、仲間のことを「徒」と呼ぶ。
※首冠進徳冠、其頂有花、分而四散、
4つの分かれた花弁条の樹木冠をかぶっていたということか。百済・新羅の樹木冠、先の桐紋に類似?
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http://help.yahoo.co.jp/group/toraijinkenkyuu/
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