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歴史掲示板
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Re: 三韓 参考?
棘の紀氏さんへのお返事です。
> 百済など半島南部の三韓
> 騎馬民族説の江上氏は、この辰王こそが、邪馬台国を侵攻した「崇神天皇」だと主張する。
>
> 彼らは、1世紀末ごろに北方大陸から 南下して朝鮮半島に入り、そこで高句麗を建国
キシさん、こんばんは。さっそく情報ありがとうございます。
確かにあまり参考にならない感じでしたが、上記の崇神天皇との関連は重要だと感じます。
実在性の件ですが、次代の垂仁天皇条に、非常に興味深い記載が多くあるそうですね。
ウィキの記載を元に見ていくと、
http://ja.wikipedia.org/wiki/開化天皇
垂仁天皇元年1月即位。翌2年2月に狭穂姫を立后、10月、纒向に遷都した。
※はじめてマキムクが出てきますね。
同28年、殉死の禁令。
同32年7月、日葉酢媛が薨去。野見宿禰の進言に従い、殉死の風に替えて埴輪を埋納する(埴輪の起源説話)。『古事記』に「石祝(棺か)作りを定め、土師部(はにしべ)を定めたまいき」とある。石棺を作る部民や赤土で種々の器を作る部民を定めたというのである。
※この辺の記事は、卑弥呼の時代の殉死との関係、初期の古墳にない埴輪の設置、同じく石棺の作成など、どこか4世紀代当時のことをそのまま記しているような感があります。
同35年、河内国の高石池や茅渟(ちぬ)池を始め、諸国に多くの池溝を開いて、農業を盛んにしたと
伝える。
※池溝開発も、同様に古墳の周壕をイメージさせますね。
同90年2月、田道間守に命じて、常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせる。
※始皇帝と徐福の話を想起させる話です。常世国は伊勢から見て東海沖にあったといいますね。
わりと垂仁天皇条はこの辺に史実性があると想うんです。マキムク・柳本古墳群の時代の話のように感じます。その時代の文献なり伝承なりがあったのではないでしょうか。
それで問題の前代の崇神天皇条ですが、またウィキの記載をもとに推論していきましょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/崇神天皇
『古事記』は崇神天皇の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、これを信用して318年(または258年)没と推測する説も中には見られる。258年没説を採った場合、崇神天皇の治世は、中国の文献に記載されている邪馬台国の時代と重なることになる。
※この指摘は重要です。ヒミコ死後の男王との関係を想起させます。
江上波夫は「ミマキイリヒコ」の「ミマキ」を韓半島の任那(ミマナ)=「ミマ」の「キ」(城)に住むという意味と推測し
崇神天皇3年(紀元前95年)9月、三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に遷都。
※任那方面からやっていて、三輪山方面に入った最初の王とのことでしょうか。
都は磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや、奈良県桜井市金屋の志貴御県坐神社が伝承地)。『古事記』には、「師木の水垣宮(みづかきのみや)に坐しまして、天の下治めらしめしき」とある。
※ここでも桜井茶臼山古墳および、その背後あたりの地域が、やはり最初にでてくるんでしょうね。奈良の方位ライン面と関係してきます。
崇神天皇7年(紀元前91年)2月、大物主神、倭迹迹日百襲姫命に乗り移り託宣する。
※三輪山祭祀と女性巫女が強調される時代のことだったのでしょう。
倭迹迹日百襲姫命の予言から武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の叛意を知ることとなる。武埴安彦は山背から、その妻吾田媛は大坂からともに都を襲撃しようとしたが、天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)の軍を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、一方の安彦勢には、大彦命と彦国葺(ひこくにぶく、和珥氏の祖)を差し向かわせ、これを打ち破った。10月、畿内は平穏となり、四道将軍が再び出発。
※武埴安彦や、大タタネコ、次の垂仁の最初に出てくる天の日矛は、ともに埴輪・土器技術をもたらした大陸系渡来人を暗示していると感じますし、吾田媛も、次の日矛と関連して吾田の地名がでてきます。
吾田は「アタ」で、「ア」は前述の秦韓・楽浪人でつかっていた自分(自民族)=「阿」+「田」(領地)という意味でしょうね。だから瀬戸内方面から攻めてくるのかもしれません。
これらの反乱伝承は、ヒミコ後の男王の時代におきた騒乱を想起させますね。倭迹迹日百襲姫命の予言というのもヒミコやイヨという女性巫女の託宣かもしれません。
崇神天皇60年(紀元前38年)7月、飯入根(いいいりね)が出雲の神宝を献上。兄の出雲振根が飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺される。
※興味深いのは、出雲の豪族にも「入」の名称がついていることです。崇神やその親族からなる「入」王朝の背景には、出雲方面とつながりを持つ新羅・任那集団の血縁があったのかもしれません。
崇神天皇65年(紀元前33年)7月、任那国が蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わして朝貢した。
※任那系の氏族伝承をここであえて取りこんでいるんでしょうか。
こう見ていくと、これらの条文は、後代の王朝の造作という見方よりは、当時の元記録があって、それに則って編集していったようにも感じるわけです。そして任那・秦韓が邪馬台国時代の最後に影響を与えていく様子が見て取れるように感じますね。それらの流れは偶然ではないでしょう。必然的にここに、任那に関係した王が出てくるわけです。韓国南部のその時期の考古面との兼ね合いも重要ですね。
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