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歴史掲示板
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日下部氏
先の九州オフ会で、日田市刄連(ゆきい)町の法恩寺山古墳群に向かいました。
ここは、日下部氏との関わりが指摘されています。
『 豊後国風土記 』日田郡 靭編(ゆきあみ)郷の条に、 日下部君の祖である 邑阿自(おうあじ) がこの村に宅を構えたとあります。
その辺の詳細はこちら参照。
http://www.e-obs.com/heo/heodata/n663.htm
この古墳群には装飾壁画をもつものもあります。
http://www.hita.ne.jp/~city/isn/hoon2.htm
日下部氏の詳細。
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/kusakabe.htm
日下部氏と当地の装飾古墳がどうつながっていくのか?
そこが課題ですが、ご意見お待ちしています。
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日下部氏
日下部氏
起源にはいくつかの説がある。
開化天皇の孫・狭穂彦王に始まる、但馬国造の日下部君の後裔。(『古事記』、『大日本史』)
孝徳天皇の孫・表米親王(日下部表米)に始まる、日下部宿禰の後裔。(『朝倉始末記』)
狭穂彦王(さほひこのみこ、生年不詳 - 垂仁天皇5年(紀元前24年)10月没)とは、記紀における皇族(王族)。『日本書紀』では狭穂彦王、『古事記』では沙本毘古王。彦坐王の子で、開化天皇の孫に当たる。日下部連・甲斐国造の祖。母は春日建国勝戸売の娘、沙本之大闇見戸売(さほのおおくらみとめ)。同母の兄弟に葛野別・近淡海蚊野別の祖袁邪本王、若狭耳別の祖室毘古王、垂仁天皇皇后狭穂姫命がいる。ウィキペディア
彦坐王(ひこいますのみこ、生没年不詳)は、記紀に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。彦坐命、日子坐王、彦今簀命とも。開化天皇の第3皇子。母は姥津命の妹・姥津媛命(ははつひめのみこと)。崇神天皇の異母弟、景行天皇の曾祖父。神功皇后の高祖父にあたる。
ウィキペディア
三角縁神獣鏡:開化天皇の孫は卑弥呼とその弟になる。卑弥呼(170年頃 - 248年頃)
『新唐書』日本伝:開化天皇の曾孫は神功皇后(じんぐうこうごう)、(170年-269年)
日下部氏は開化天皇とは考えずらい。それより、彦坐王、日子坐王、日子、ヒルコ(水蛭子、蛭子神、蛭子命)えびす(ゑびす)夷、戎、胡、蛭子、恵比須、恵比寿、恵美須に当たると思われる。
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ヒコ・クサカ
秦野さん、こんにちは。さっそく日下部についてご意見ありがとうございます。
日下部で「クサカベ」と読みますが、もとはそうすると「ヒコ+ベ(部民)」ということになりそうですね。沙本毘古王。彦坐王、日子坐王・・、確かに「ヒコ」が強調されているように感じます。
仁徳天皇の大草香・若草香王の部民との説もありますが、こちらは「クサカ」の読みに変化していて、クサカという地名なり氏族のもとで育った皇子、という感じもします。
あと雄略天皇の時の日下部連使主の記事が、比較的信憑性があるように感じます。この反乱伝承と、垂仁の時の伝承が類似性を持っていることを考えると、後者から、前者の伝承が派生したのではないかと感じます。
おそらく宮中・地方等の相違で伝承、天皇の代は異なるものの、実は同じものという具合ですね。
ヒコと呼ばせて、また別のところではクサカと呼ばれた。それぞれ話す言葉が違うとかいう線もないでしょうか。時代によるかもしれません。
隅田八幡鏡の銘文で
「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟」
男弟王がいわゆるヲヲド王で継体なのですが、継体の父親が彦主人王と言うんですね。継体自身も袁本杼命・男大迹王・彦太尊と言うらしいのですが、
その「日十大王年」とあるのも、「ヒコ大王」の年と読めれば、「日十」「彦」「ヒコ」という連関が出てくると思うんです。
だから「日下」とかいて、「ヒコ・ヒカ」と読ませた可能性があって、継体のころの読みの話で、欽明の時代になって朝廷で使えはじめたという線になるでしょうか。
オキナガ・ワニは新漢人と極めて関わるの深い系統で、滋賀・吉備・そして九州日田・八女方面へと流れた、その辺の話ではないかと感じます。
それで白鳳時代になると草壁王、草香部キシとかいう氏族が出てくるのですが、日下の読みを、和風に変えている、避けている、忌んでいる・・・という線で、仁徳紀のあたりに、草香・・が代替えされて記載されていく・・。
ヒコと、後代のクサカは、宮中でも使う言語が変ってきたことを示すのかもしれません。
もちろん、この辺は推論にすぎませんが、勘としてそんなことを考えてみました。
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継体天皇
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継体天皇
秦野著作、徐福と邪馬台国で韓半島の地図を読み取り。越の特定、地図添付
越は韓半島南部越国(倭奴国)、(モッポ)
『日本書紀』では、男大迹王として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。
上記文章から韓半島南部に越(倭奴国)になる。その名は出雲風土記、国引き神話にも登場する。越前地方(近江地方説もある)でなく、韓半島南部越国(モッポ)
注、『日本書紀』の解釈に間違いが多く、地名は韓半島南部に存在する。しかし、総て日本の地名を当てはめている。韓半島南部の筑紫は白村江のキーポイントになるが、九州の筑紫になっている。
『日本書紀』によれば応神天皇5世の孫(曾孫の孫)で父は彦主人王(ひこうしのおおきみ)、母は垂仁天皇7世孫の振媛(ふりひめ)である。ただし、応神から継体に至る中間4代の系譜について『記紀』では省略されており、辛うじて鎌倉時代の『釈日本紀』に引用された『上宮記』逸文という史料によって知ることが出来る。これによると、男子の直系は「凡牟都和希王(ほむたわけのおおきみ・応神天皇) ─ 若野毛二俣王 ─ 大郎子(一名意富富等王) ─ 乎非王 ─ 汙斯王(=彦主人王) ─ 乎富等大公王(=継体天皇)」とされる。『上宮記』逸文は近年、黛弘道の研究によって推古朝の遺文である可能性も指摘され、その内容の信憑性や実際の血統については前述の通り議論が分かれているものの原帝紀の編纂(欽明朝か)と同じ頃に系譜伝承が成立したものと思われる。
『古事記』、『日本書紀』によると継体天皇は応神天皇5世の子孫であり、父は彦主人王である。近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられて、男大迹王として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。
『日本書紀』によれば、506年に武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため大連(おおむらじ)・大伴金村らは越前に赴いて、武烈天皇とは血縁の薄い男大迹王をヤマト王権の大王に推戴した。これを承諾した王は、翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とした。
ウィキペディア
彦主人王に接近したい。
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魏志倭人伝の行程
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魏志倭人伝の行程を公開します。秦野北斗 詳細は徐服と邪馬台国を参照
HP秦野北斗の古代史 6 魏志倭人伝の行程
距離は実測し秦野距離とし換算している。陸行1月の確認のため、倭国の大きさの地図を添付。
1.帯方郡から倭国に至るには水行で海岸を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で倭国の北岸の狗邪韓国(くやかんこく)に到着する(「従郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里」)。
2.始めて海を1000余里渡ると対海国に至る(「始度一海千餘里、至對海國」)。大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へいく。
3.また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る(「又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國」)。官は対馬国と同じ。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。3000の家族が住める。田畑はあるが足りず、市へいく。
4.また海を1000余里渡ると末廬国に至る(「又渡一海千餘里、至末盧國」)。4000余戸が有る。草木が茂り、前を行く人が見えない。魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る。
5.東南へ500里陸行すると伊都国に到着する(「東南陸行五百里、到伊都國」)。長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)。1000余戸が有る。丗、王が居る。皆は女王国に属する。帯方郡の使者の往来では常に駐在する所。
6.東南に100里進むと奴国に至る(「東南至奴國百里」)。長官は?馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離。2万余戸が有る。
7.東へ100里行くと不弥国に至る(「東行至不彌國百里」)。長官は多模(たも)、副官は卑奴母離。1000余の家族が有る。
8.南へ水行20日で投馬国に至る(「南至投馬國水行二十日」)。長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。推計5万戸余。
9.南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る(「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」)。官に伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳?があり、推計7万余戸。 ウィキペディアより
『旧唐書』倭国・日本国伝
倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中、依山島而居。東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木為柵、以草為屋。四面小島五十餘國、皆附屬焉。其王姓阿毎氏、置一大率、檢察諸國、皆畏附之。設官有十二等。
倭国とは、古の倭奴国なり。京師から一万四千里、新羅の東南の大海中に在り、山島に依って暮らす。東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。代々中国と通じている。
その国、居住地に城郭がなく、木を以て柵とし、草を以て屋根とする。四面の小島、五十余国、皆、これに附属している。その王姓は阿毎氏、一大率を置き、諸国を検察させ、皆はこれを畏怖している。官には十二等級を設けている。
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出雲国風土記
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国引き神話(くにびきしんわ)は、出雲国に伝わる神話の一つである。『古事記』や『日本書紀』には記載されておらず、『出雲国風土記』の冒頭、意宇郡の最初の部分に書かれている。
八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)は、出雲の国は狭い若国(未完成の国)であるので、他の国の余った土地を引っ張ってきて広く継ぎ足そうとした。そして、佐比売山(三瓶山)と火神岳(大山)に綱をかけ、以下のように「国来国来(くにこ くにこ)」と国を引き、できた土地が現在の島根半島であるという。国を引いた綱はそれぞれ薗の長浜(稲佐の浜)と弓浜半島になった。そして、国引きを終えた八束水臣津野命が叫び声とともに大地に杖を突き刺すと木が繁茂し「意宇の杜(おうのもり)」になったという。
新羅の岬→去豆の折絶から八穂爾支豆支の御埼(やほにきづきのみさき。杵築崎)
北門(きたど)の佐伎(さき)の国→多久の折絶から狭田(さだ)の国
北門の良波(よなみ)の国→宇波の折絶から闇見(くらみ)の国
越国の都都(珠洲)の岬→三穂埼 ウィキペディア
秦野は地図でしめします。
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Re: 魏志倭人伝の行程
秦野北斗さんへのお返事です。
秦野さん、ご意見ありがとうございます。
ちょうど先日、都内の古代史例会で下記行程についての議論を聞いていたところでした。
個人的な興味は、韓国南岸から対海国までの「方位」が示されてない点、同じく壱岐に至るまでの方位が「南」になっている点、そこに挟まる海は何を示すのか?
「また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る」
壱岐から末廬国に至る方位が示されてない点です。
この理由を解明したいと考えてます。
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Re: 魏志倭人伝の行程
シモさんへのお返事です。
> 個人的な興味は、韓国南岸から対海国までの「方位」が示されてない点、同じく壱岐に至るまでの方位が「南」になっている点。
魏志倭人伝は韓半島の倭奴國を基準に、倭奴國を極南界、北を北岸の狗邪韓国としている。南へ、東へは正規の東西南北です。魏志倭人伝には倭奴國の記入はないが、場所を文章で暗示している。
> そこに挟まる海は何を示すのか?
この海は日本神話にも出てきます。日本神話、卑弥呼で説明します。
> 「また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る」
> 壱岐から末廬国に至る方位が示されてない点です。
謎を解く鍵になるのは、倭奴國の金印です。
> この理由を解明したいと考えてます。
疑問があれば、協力します。期待します。
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Re: 継体天皇
秦野北斗さんへのお返事です。
さっそく情報ありがとうございます。特に下記の部分が興味深いです。
鎌倉時代の『釈日本紀』に引用された『上宮記』逸文という史料によって知ることが出来る。これによると、男子の直系は「凡牟都和希王(ほむたわけのおおきみ・応神天皇) ─ 若野毛二俣王 ─ 大郎子(一名意富富等王) ─ 乎非王 ─ 汙斯王(=彦主人王) ─ 乎富等大公王(=継体天皇)」とされる。
「ワケ」、「ヲオ(ド)」、「ヌシ」、「オオキミ(王)」あたりの発音の是非が、気になりますね。
たぶん、もともとは、名前しかなくて、後から「王」を適当につけたのではないかと感じます。だから「オオキミ王」とかいう変な名称が出てくる。かなり古い文献を元にしているのではないでしょうか。
あと、越と朝鮮南部、朝鮮南部から山陰、滋賀方面への流れは、海流面から考慮してもとても重要ですね。
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Re: 出雲国風土記
秦野北斗さんへのお返事です。
なるほど、カヤ地域を引っ張って自国の領土にする、あるいは島根方面を・・という視点はとても面白い感じがします。
八束水臣津野命という名前は、たくさん「八」の水(地域?)をつかみとるの意味に解せそうですね。水が挟まっているという部分がキーでしょうか。
個人的には、「大地に杖を突き刺すと木が繁茂し「意宇の杜(おうのもり)」になったという」という話が、今調べている豊後国風土記逸文との関連で興味を感じました。これらは大陸的な伝承要素を多く含有してます。
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魏志倭人伝の解説書
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000012M.jpg
魏志倭人伝の行程は現在の訳本では間違いが多く役に立たない。
秦野の著書、徐福と邪馬台国で現在の誤訳を訂正し、これを元に三角神獣鏡の銘文
、日本神話、卑弥呼、神功皇后、変わった所で黙示録、・・・の解読を行っている。
出雲風土記は神武天皇の解読中に読み取り、意外に出雲風土記が白村江と関係がある。
魏志倭人伝は紀元前1700年からの日本の歴史を暗示している。この本、徐福と邪馬台国は
魏志倭人伝の解説書であり古代史の入門書になる。
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Re: 出雲国風土記
シモさんへのお返事です。
八束水臣津野命は次となる。
1.八束(はちたば)とは次の郡条
意宇郡条 島根郡条 秋鹿郡条 楯縫郡条 神門郡条 飯石郡条 仁多郡条 大原郡条
2.水臣津野命は水(水神=水伯)、臣(つかえる)、津野(津=港、停泊する所)
水伯(水神)の停泊する所
以上から八郡条は水伯(水神)の停泊する所、と成る。
韓半島との交易、と移住を描いた神話と思われる。水(水神=水伯)、杜(もり)は卑弥呼に関係あり。
>「意宇の杜(おうのもり)」豊後国風土記は大陸的な伝承要素を多く含有してます。
八束水臣津野命は出雲国の統率者(大国主)では、少し難解です。
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Re: 出雲国風土記
秦野北斗さんへのお返事です。
さっそくご意見ありがとうございます。「シモ=管理人」です。
先の出雲の八束水臣津野命の八束というのは、なるほど八つの郡とのことになるのですね。
そしてご指摘のとおり、水伯(水神)の停泊する所(人)との兼ね合いで解釈できそうです。
> 韓半島との交易、と移住を描いた神話と思われる。
とのご意見にも同感ですね。
それで八郡の名前の由来をもう少し詳しく調べてみたいところですが、
意宇郡、仁多郡は、氏族名等の「音」を示しているように感じます。楯縫郡というのは、職業部民の感じを受けますね。盾を製作する部族という具合でしょうか。
この手の意味がはっきりする漢字を入れているケースでは、おそらくは後代の移住者によってつけられた名称だと思います。
それらの集団を束ねて、最後に杖を突きたてて鎮守の杜をつくったのが、八束水臣津野命という航海氏族だったということでしょう。
細かくみていくと、だんだんその人物なり集団の姿が復元してきますね。
??
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Re: 出雲国風土記
管理人さんへのお返事です。
> 意宇郡、仁多郡は、氏族名等の「音」を示しているように感じます。楯縫郡というのは、職業部民の感じを受けますね。盾を製作する部族という具合でしょうか。
見直しました。
出雲風土記の意宇郡条、仁多郡条、・・計10郡条に秦野距離を適応し測った所。出雲風土記は郡条から郷までの里歩を羅列している模様。
10郡条:玖郡条、意宇郡条、島根郡条、秋鹿郡条、楯縫郡条、出雲郡条、神門郡条、飯石郡条、
仁多郡条、大原郡条
10郡条は杜(神社)を中心に形成されている模様。
尚、郡条と郷の特定は神社を基点に秦野距離で測ればだいたいの場所が出てくる。
注)郡条、郷は田畑、原野の可能性が大きい。
魏志倭人伝の行程(徐福と邪馬台国)の経験からです。伊都国、奴国等は田畑に成っている。
八束水臣津野命は人物でなく、八束水臣津野命詔で詔(みことのり)ですな。
八百(やお):百の八倍。はっぴゃく。また、非常に数の多いこと。
内容は八百(やお)の杜(神社)を水伯(水神)に仕える津野(水軍港)とする。でしょう。
これが、日本神話、八岐大蛇、・・、白村江の戦いに関係が出てくるのです。
見直しが正解みたいです。ここに訂正と反省します。秦野北斗
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Re: 出雲国風土記
秦野北斗さんへのお返事です。
秦野さん、さっそく詳細情報ありがとうございます。
8郡ではなく、10郡でしたね。失礼しました。八はご指摘のとおり、たくさんの意味だと思います。
> 出雲風土記の郡条と距離の関係了解しました。
また
> 10郡条は杜(神社)を中心に形成されている模様。
この点、重要だと思います。
今特に、楯縫郡について調べてみました。
杵築大社という神社の神事道具として楯を造ることと関係があるそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/楯縫郡
その杵については、ちょっと管理人的には今別件で興味を持っている部分なのですが、ともあれ、先の意宇郡と杜の関係のように、神社や神話伝承との兼ね合いが、郷名に影響している様子を見て取ることができますね。
ご指摘の白村江など、後代の歴史事象との兼ね合いを考えていくことも重要です。
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出雲国の領地
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出雲国風土記から領地を描きました。
出雲国に出雲郡条、日本神話に出雲、出雲国は首都?
参考程度です。
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Re: 出雲国の領地
秦野北斗さんへのお返事です。
さっそくお返事ありがとうございます。
> 出雲国に出雲郡条、日本神話に出雲、出雲国は首都?
とのことですが、出雲郡の杵築郷(支豆支里)に杵築(出雲)大社があったようで、隣の出雲郷ではなかったとことにちょっと興味を感じてます。
後代の国府は意宇郡にあったそうです。
青銅器が多く出土する出雲西部と、鉄器が多く出土する東部との2拠点があったようです。
東部の米子のあたりは昨年訪問しましたが、大陸系の渡来人との関わりが強い地域と見受けられました。
出雲神話の起源を考えるときに、青銅器時代からの西部のものと、鉄器時代の東部のものとが、どう結合していったのか、その辺がちょっとキーになるかと感じ始めてます。
古事記に稜威母(イズモ)、後に出雲となるわけですが、先の支豆支(キズキ)と杵築の事例のように、神話伝承に絡ませて、神社系の用語を重ねた節がありますね。
邪馬台国関連だと、投馬国を出雲のことだとする説がありますが、秦野さんはその辺どう思われますか?
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Re: 出雲国の領地
管理人さんへのお返事です。
> 邪馬台国関連だと、投馬国を出雲のことだとする説がありますが、秦野さんはその辺どう思われますか?
未公開ですが日本神話では豊雲野国が出雲国の正式名です。領土は韓国南部に及んだ模様。
投馬国から厳島(出雲国)まで水行10日に成る(秦野北斗書、徐福と邪馬台より)。また、出雲国(九州側)は投馬国の隣りに成っている。出雲国は首都になるのでは?。
投馬国と出雲国は別ものです。
>出雲郡の杵築郷(支豆支里)に杵築(出雲)大社があったようで、隣の>出雲郷ではなかったとことにちょっと興味を感じてます。
出雲國風土記を元に地図を描くと豊雲野国の数十分の1に成っている。
出雲國風土記 ゚國之大體 '首震尾坤 ゚東南西山 ゚北属海
東西一百卅七里一十九歩 ゚南北一百八十三里一百九十三歩
郡条(杜)は十郷程度を合わせた、16Km程度の地域になる。統廃合が在ったのでしょう。
杜は駐屯地の意味のようです。
>出雲神話の起源を考えるときに、青銅器時代からの西部のものと、鉄器時代の東部のものとが、どう結合していったのか、その辺がちょっとキーになるかと感じ始めてます。
日本神話の国生みの痕跡です。日本神話は真実の記録のようです。整理中です。
>古事記に稜威母(イズモ)、後に出雲となるわけですが、先の支豆支(キズキ)と杵築の事例のように、神話伝承に絡ませて、神社系の用語を重ねた節がありますね。
古事記を元に訳すと、稜威母(イズモ):アマテラスが威嚇する隅の隣に合う国。
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Re: 出雲国の領地
秦野北斗さんへのお返事です。
さっそく、秦野さん、投馬国について、ご説明ありがとうございます。
> 投馬国と出雲国は別ものです。
私も投馬国=出雲説には、いささか疑問を抱いています。
「南に投馬国がある。海上を20日かかる。(水行20日)
大官を弥弥(みみ)、次官を弥弥那利(みみなり)という。
50,000余戸の人々が住む。」
個人的には、ぜんぜん違う地域に興味を持っているのですが、ともあれ、官の名前に今回は注目してみたいと思います。
ミミという長官の名前があり、ナリ(那利)と言う語をもって、「副」の意味を成しているようにも見えます。
それで官職のほうを、魏志倭人伝から拾ってみると、だいたい共通文化圏が見えてくるようです。
こちら倭人伝本文です。
http://www1.ocn.ne.jp/~matsuo3/books/gishiwajinden.htm
対馬から、奴国、不弥国あたりまでは、副官に「卑奴母離」、官名に「〜コ」が出てくるので、同一文化圏だとわかります。
ところが投馬国になると、大官を弥弥(みみ)、次官を弥弥那利(みみなり)となりますから、構造的には似ているものの、言語的に異なる感じがします。
また邪馬台国になると、「官に伊支馬あり、次を弥馬升といい、次を弥馬獲支といい、次を奴佳鞮という」
とありますから、これは弥馬升と弥馬獲支の構造が、投馬国の弥弥と弥弥那利の構造と類似しているでしょう。これらは同一の文化圏にあるのではないでしょうか。
前者の文化圏では、ヒコ→ヒコモリにならず、ヒコ→ヒナモリになっていることは、言語的な用法で、おそらく条件によって、「コ」から「ナ」へと、音韻が変化しやすいことを意味しているのだと思います。
ところが、後者の文化圏では、前部の名称について音韻の変化なしに、ダイレクトに「ミミ+ナリ」とつなげているところを見ても、違う言語圏だろうと感じます。
この辺の差を、朝鮮語文化圏、オーストロネシア語文化圏、元日本語文化圏で追えば地域が特定できるかもしれないと、今調べてみて感じますね。・・・
また、ご指摘のように、出雲と投馬国・・・が隣国とかであることを想定する場合も、同様な官職名などの近似性が出てきてもよいかもしれません。
あと、最後の奴佳鞮の「鞮」の字は、漢書の匈奴の記載にみられる漢字で漢書、史記の時代による当て字?の用法と考えると、倭人伝の著者が、あるいは魏より古い時代の書物に当たった可能性も考慮すべきかもしれません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/且テイ侯
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Re: 出雲国の領地
管理人さんへのお返事です。
人名は変わりますが官職でどうでしょうか。
大官 對海國:大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。
一大國:官は対馬国と同じ。
長官 伊都國:長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)。
奴國:長官は兕馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離。
投馬國:長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)
官 邪馬壹國:官に伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳鞮
> あと、最後の奴佳鞮の「鞮」の字は、漢書の匈奴の記載にみられる漢字で漢書、史記の時代による当て字?の用法と考えると、倭人伝の著者が、あるいは魏より古い時代の書物に当たった可能性も考慮すべきかもしれません。
奴佳鞮の「鞮」は匈奴、鋭い、そのとおりです。陳寿はこんな所に潜ませていたんですな。官職ですが大官、長官、邪馬壹國は官、理由:卑弥呼は独自に兵を持っていた。兵は陳寿作の三角縁神獣鏡の三公の吏人、です。
HP秦野北斗の古代史、卑弥呼参照
古代の倭国の組織は国、群条(杜)、郷で形造られ、各国に大官、または長官を置いたようですな。
中枢は天皇、秦野はここまで、はまる、とは考えていませんでした。
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Re: 出雲国の領地
秦野北斗さんへのお返事です。
秦野さん、お返事ありがとうございます。
> 人名は変わりますが官職でどうでしょうか。
官職の紹介ありがとうございます。
あと、狗奴国が抜けてました。
理論的には、この国と投馬国の位置がわかれば、同じ方角にある邪馬台国の位置も特定できる点で重要です。
狗奴国には、官職として、狗古智卑狗という官職があります。私はてっきり後代の「ヒコ」との兼ね合いで、人名だと思っていたんです。
でも狗古智+卑狗(官職)です。副官の卑奴母離もいたかもしれませんね。
別に男王の名前がでており、男王・卑弥弓呼(ひみここ・ひこみこ)とのことです。
ヒコの官職名は、前述の対馬〜伊都・奴国方面のそれと同系であることを想定して、かつ邪馬台国とは対立する別国の官制ということを考慮すると、ともあれ、文化圏として同じ地域に、これらの国があったと感じます。
邪馬台国の南のこの国が、北の諸国と同じ官職を有しているということも、挟まれているはずの邪馬台国を考える上で重要です。
そこでさらに人名に焦点を移していくと、ヒミコ、ヒミココで、やはり両国は、極めて近い文化圏にあります。
あと、鹿児島方面のニニギ、ヒコホデミあたりの記紀の人名と共通性があります。
伊都国の長官は「ニキ」ですし、他の長官「ヒコ」もそうですね。
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魏志倭人伝の国名(呉音)
ちょっと魏志倭人伝の国名を、呉音(ウィクショナリーより)で調べてみました。忘れぬうちにメモしておきます。
「次に斯馬(シメ)國有り。次に己百支(キヒャクシ)國有り。次に伊邪(イヤ)國有り。次に郡支(グンシ)國有り。次に彌奴(ミヌ)國有り。次に好古都(コウクツ)國有り。次に不呼(フク)國有り。次に姐奴(シャヌ)國有り。次に対蘇(タイス)國あり。次に蘇奴(スヌ)國有り。次に呼邑(クオウ)國有り。次に華奴蘇奴(ケヌスヌ)國有り。次に鬼(キ)國有り。次に為吾(イグ)國有り。次に鬼奴(キヌ)國有り。次に邪馬(ヤメ)國有り。 次に躬臣(クウジン)國有り。次に巴利(ヘリ)國有り。次に支惟(シユイ)國有り。次に烏奴(ウヌ)國有り。次に奴(ヌ)國有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。」
( http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
★傾向(下記の定冠詞は、位置・立地・拠点等を示す語ではないか?)
●〜+奴(ヌ)
彌奴(ミヌ) 姐奴(シャヌ) 対蘇(タイス)→ 蘇奴(スヌ) 華奴蘇奴(ケヌスヌ) 鬼(キ)→ 鬼奴(キヌ) 烏奴(ウヌ)→ 奴(ヌ) 狗奴(クヌ)
」
●〜+支(シ)
己百支(キヒャクシ) 郡支(グンシ)
●〜+馬(メ)
斯馬(シメ) 邪馬(ヤメ) 邪馬+台?(ヤメダイ) 対馬(タイメ) 投馬(ヅメ)
●イ+〜
伊邪(イヤ) 為吾(イグ) 伊都(イツ) 一大(イチダ)(+率(シュチ))
●タイ+〜
対蘇(タイス) 対馬(タイメ) 邪馬+台?(ヤメダイ)
●都(ツ)
伊都(イツ) 好古都(コウクツ)
●ク(コ)+〜
好古都(コウクツ)→ 不呼(フク)
躬臣(クウジン)→ 巴利(ヘリ)→ 支惟(シユイ)
呼邑(クオウ)
●フ+〜
不彌(フミ) 不呼(フク)
●その他
末盧(マチル)
●中国人が命名?
侏儒(スニュウ)→体が小さいの意
裸(ラ)
黒歯(コクシ)
倭(イ)
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Re: 魏志倭人伝の国名(呉音)
管理人さんへのお返事です。
魏志倭人伝の国名は、まず、魏志倭人伝の行程を読み取り、古代の地域を明確にした後なら可能です。秦野は行程を読み解きましたので、その他の国、女王国より北方は、結論を言えば、物部の地である。民衆の伝承しか特定の方法がない様に思う。どうも、一大率は出雲国と異なり、奴から別物のようだ。伊都国、出雲国、一大率、は古事記、日本神話で述べたい。
定かではないが、他のHPより
已百支國 イワキ 石城国(福島県)
都支國 タキ 多紀国(丹波国多紀郡)
彌奴國 ミノ 美濃国(岐阜県)
鬼奴國 キノ 毛野国(栃木・群馬県)
女王国より北方に一大率がある。遠くに在って国名だけしか分からない国として斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国があり、女王国はこれら20数カ国を支配していた。
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Re: 魏志倭人伝の国名(呉音)
秦野さん、さっそくお返事ありがとうございます。
私も伊都国、一大率との関係に注目しています。「一大国」をもって「壱岐(イチキ)島」を意味しているのでして、「伊都」も、「一の都」の意味かもしれません。
定冠詞「伊」=「一」となりますね。
ここには「一」という明確な漢字が使用されており、魏志倭人伝にも、文書をもって各国を収めているとの記載を考慮すると、もともと漢字を使用した文化圏だったのではないかと考え始めてます。
漢字一文字をもって、拠点や地域名を表記しているんですね。それに定冠詞がついてくる。
またその漢字に「都」「一」「率」「郡」・・・と意味があるようです。「侏儒国」をもって、シュジュ=小人としているのも、あるいは現地の中国語とその意味を理解した住民がそう名づけて読んでいた可能性も感じます。
そうすると、「己百」は、「己を知れば百戦危うからず」のことわざかもしれません。その後の「支」は拠点の意味でしょうか。だから「已百支」「郡支」は、そういう防御なり、官があった町ということになるかと感じます。
それで、私は九州説、畿内説のどちらが・・という見方はないのですが、たとえば九州説に沿って、九州の地名で探していくと、
その前の「斯馬国」は「斯」+定冠詞「馬」で、九州北部の糸島にある「志麻」のこととすると、定冠詞「馬」に「島」の意味が見て取れます。「対馬」も同様に「対になった島」とも読めますね。
また、続く国名を順に追っていくと、定冠詞「対」+「蘇」、「蘇」+定冠詞「奴」という国があるのですが、蘇という地域は、いわゆる「阿蘇」かもしれません。
彌奴国は、「彌」+定冠詞「奴」ですが、書紀の景行天皇上に、水沼(水間)県主の伝承があります。八女津姫という山奥に住む姫のことが記載されていて、これは「八女」の伝承となります。「八女」=「邪馬国」ですね。
http://inoues.net/yametuhime.html
八女地方の山奥の台地にいたミコだから、「邪馬+台」国というふうに理解することなども可能かもしれません。
あと、呼邑国(クオウ)については、あるいは西都原あたりを児湯(コユ)と延喜式で読ませていることを考慮すると、日向(ヒュウガ)の地名に関係してこないかと感じます。呉音から漢音にかえて「クユウ」と読ませると、響きが近くなります。
そのほか
「好古都国」→「高来郡」(島原・諫早)
「投馬」→「薩摩郡}(鹿児島)
なども浮かびます。
そしてご指摘のとおり、後代の伝承から意味を解釈していく努力が重要です。
上記の例だと、仮に「彌奴」で「水沼」とするならば、定冠詞「彌」は水、「奴」は「沼地・池」などと解釈できるでしょう。
同じく「邪馬」が「八女」なら、定冠詞「耶」は「八」で「たくさんの」の意味ですね。
また「斯馬」「対馬」から「馬」が「島」の意味だとすると、「八女」はもともと「たくさんの島のある地域」で、その八女(邪馬)地方の山奥の「台地」にあったので、「邪馬+台」国になったのかもしれません。
ともあれ、これらの国名は、倭人伝に書いてあるとおり、位置も方角もわかっていたものので、省略したものでありますから、筆者のほうでは特定の配列で並べたと考えるべきかと感じます。
後代の延喜式などは、諸道にしたがって、並べてますが、この倭人伝の国名も同じく、並び順を見て、類似の地名が出てくることを考慮すると、やはりそう考えざるを得ない感じがします。秦野さんもその辺、注目なされているのではないでしょうか。
ただ、並べ方と対象とする地形で、ジグザグだったり、直線的だったりすると思います。
たとえば、九州から畿内に向かう場合は、直線的配列、九州北部から、南部に向かう場合は、ジグザグ配列になることも予想できますね。
そういう方位視点からみると、「對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国」、の配列は、「蘇」という地域を中心においてあるものの、呼邑という部分が挟み入っているように見えます。
同じく、「鬼国、爲吾国、鬼奴国」 の配列でも、「鬼」という地域の元で、爲吾が挟み込まれています。
その前の伊都国周辺の諸国の記載は、伊都から放射線状に、国名を示していると考えているのですが、同様な論理である中心拠点から、放射状等に配列した可能性も考慮してみたいところです。
あと、後代の延喜式などは、下記のような道順になってます。
http://homepage2.nifty.com/toka3aki/geography/kokugun9.html
この辺の配列順も、もう少し注目していきたいところです。下記は倭人伝の国名。
斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国
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Re: 魏志倭人伝の国名(呉音)
管理人さんへのお返事です。
己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国の位置は分かるが。国名は変わり、特定は不可能、無理。
出雲風土記は1300年、魏志倭人伝は1700年この時間の壁は大きい。しかし、この壁も秦野の調べでは、誰もが知る。雅楽、だんじり、は古く、1700〜2200年の歴史がある。祭りはこの当たりが起源かも。もしかすると、諏訪のだんじりが糸口に成るかも。
魏志倭人伝の国は総て、地名は失われるが、痕跡は残すが総ての人は通り過ぎてしまう。
よい例は邪馬台国である。目の前に在るのに気ずかず、通り過ぎてしまう。
1.帯方郡から倭国に至るには水行で海岸を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で倭国の北岸の狗邪韓国(くやかんこく)に到着する(「従郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里」)。
2.始めて海を1000余里渡ると対海国に至る(「始度一海千餘里、至對海國」)。大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へいく。
3.また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る(「又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國」)。官は対馬国と同じ。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。3000の家族が住める。田畑はあるが足りず、市へいく。
4.また海を1000余里渡ると末廬国に至る(「又渡一海千餘里、至末盧國」)。4000余戸が有る。草木が茂り、前を行く人が見えない。魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る。
5.東南へ500里陸行すると伊都国に到着する(「東南陸行五百里、到伊都國」)。長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)。1000余戸が有る。丗、王が居る。皆は女王国に属する。帯方郡の使者の往来では常に駐在する所。
6.東南に100里進むと奴国に至る(「東南至奴國百里」)。長官は兕馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離。2万余戸が有る。
7.東へ100里行くと不弥国に至る(「東行至不彌國百里」)。長官は多模(たも)、副官は卑奴母離。1000余の家族が有る。
8.南へ水行20日で投馬国に至る(「南至投馬國水行二十日」)。長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。推計5万戸余。
9.南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る(「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」)。官に伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳鞮があり、推計7万余戸。
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Re: 魏志倭人伝の国名(呉音)
秦野北斗さんへのお返事です。
そうですね、神楽や風習というのは、元のまま持続させようという意識が働き変らないことが多いですから、古い形を維持していることも多いかと感じます。
先の八女津姫関連でも、八女津姫神社で伝等行事が受け継がれているそうです。
http://www.yokaocha.com/yametuhimezinja.htm
女王国の習俗がどういうものだったかについては、千人ものミコがヒミコに侍っていて、一人だけ男性の侍者がいるという記載に興味を感じてます。
他の国が男王と立てていることを考慮すると、非常に特殊な形であり、なんらかの伝承が残っている可能性も感じてます。先の八女(邪馬?)の語も、「八=たくさんの女たち」とも見えますね。
女性たちによる政治の時代が、邪馬台国のある一時期だけあったはずです。
女王国の官の名前も女性を意味していた可能性はないでしょうか。
「伊支馬、弥馬升(ミメショウ)、弥馬獲支(ミメワクシ)、奴佳鞮(ヌケダイ)があり、推計7万余戸。」
長官(伊支馬)は、王たるヒミコとは別人だったのでしょうか。
伊支馬は、一番目の馬→女?
弥馬升、弥馬獲支は、弥馬+升 弥馬+獲支 で、
魏への使人・「難升米(ナンショウマイ)」「都市牛利(ツジグリ)」「掖邪狗(ヤクヤク)」あたりの語と関係してきます。
「升」の字は他には見えず、この国で特有の意味を持つ「漢字」だったはずです。
「掖邪狗(ヤクヤク)」は「獲支(ワクシ)」に近いですね。
あるいは後代書紀で「掖久」をもって屋久島(ヤク)を意味してますから、「掖久」(ヤクク)と読めるかもしれません。
ただ、「難+升」になっており、「弥馬+升」ではないんですね。これは男女の性差とも関係してくるでしょうか?
「難→男」という具合にですね。難も男も呉音では、「ナン」だそうです。
「弥馬→女」とすると、後代の「ヒメ」などの語も思い浮かびますね。
ともあれ、男女の性差と、特殊な女性祭祀集団の政治形態、この辺が、後代の伝承なり習俗・儀式にどこかの地域の風習にみえないかどうか、その辺も関心事でありますし、それらしきものもなくはないようです。
本当におっしゃるとおり、ヒミコの祭祀場の目の前を知らずに通り過ぎている可能性がありますね。
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Re: 魏志倭人伝の国名(呉音)
管理人さんへのお返事です。
名前は表音ではないか、『隋書』倭国伝から地名を抜き出す。
竹斯国(つくし国)、竹島(つく島)都斯麻国(つしま国)の名前は表音になっている。
明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。 『隋書』倭国伝
翌年(608)、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。百済を渡り、竹島『竹島(つく島)=済州島』に行き着き、南に○羅国を望み、都斯麻国『都斯麻国(つしま国)= 対馬国』を経て、遙か大海中に在り。また東に一支国に至り、また竹斯国『竹斯国(つくし国)=筑紫国(博多)』に至り、また東に秦王国に至る。そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸に達した。竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。
では「伊支馬、弥馬升(ミメショウ)、弥馬獲支(ミメワクシ)、奴佳鞮(ヌケダイ)を訳すと。
伊支馬=いしば 石場(いしば)
弥馬升=いばし 伊橋(いばし)
弥馬獲支=いばほし 岩星(いわほし)
奴佳鞮=のじて 野路田(のじた)
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表音
さっそく秦野さん、御返事ありがとう御座います。
表音の問題は、まだ迷いはあるのですが、ある時期に九州全域に呉音の漢字文化圏が広まり、それで地名が呉音表記になったものを、後に魏からの使人がきて、漢音で表記しなおしたり、その後の大和朝廷の漢音表記にしたがい、読み替えられた線で考えはじめています。
伊支、一大国、一大率→ 数字の「一」
都市牛利(ツジグリ)→ 都市という官職(都市の支配者)の牛利という男性
掖耶狗(ヤクヤク) → 掖(掖久島?)という地名の耶狗という男性(航海人?)
という具合ですね。漢字の意味が混じってます。
通常は漢音で、掖耶狗(エキヤク)と読ませてますが、呉音表記で(ヤクヤク)という連続が正解だと思います。というのも、同じ音が連続する確率が少ないことがあり、ヤクとヤクとの必然的な関係でそうなったと感じるんです。
ただ、後の時代の読みは、それを漢音表記に直して、記紀に載せていると思われるので、逆算していく必要があるかもしれません。
邪馬台国では、文書行政がありましたから、部分的には漢字を使っていたのかもしれません。地名を書いた地図や地名を、そのまま文書で魏の使人等に手渡した可能性もあります。
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Re: 表音
管理人さんへのお返事です。
> 表音の問題は、まだ迷いはあるのですが、ある時期に九州全域に呉音の漢字文化圏が広まり、それで> 地名が呉音表記になったものを、後に魏からの使人がきて、漢音で表記しなおしたり、その後の大和> 朝廷の漢音表記にしたがい、読み替えられた線で考えはじめています。
一大国は一大国=一大率=一大率国(最大の駐屯地)、
ある時期に九州全域に呉音の漢字文化圏が広まり、・・。ある時期の特定が必要です。
私の調べでは、九州全域より大きく日本に渡来した。年代はだいたいです。以下
紀元前1700年(三苗,夏)
紀元前400年(呉)
紀元前200年(秦)
紀元前160年(大陸へ進出)
紀元後220年(卑弥呼)
紀元後280年(ユダヤ)
紀元後500年(ユダヤ)
紀元後700年 鎖国 詳細は日本神話、中国史籍に書いてあります。
近い内に日本神話、卑弥呼をまとめ出版します。
もともと漢字圏、その後ユダヤなんです。日本語の古語は三苗語でしょう。
卑弥呼は陳寿と通訳なしで話、文章を交わしている。魏志倭人伝に伊都国の項、壱輿にもそれらしい文章がある。
例を挙げると、三角縁臣神獣鏡の文章に見られる。母、杜、地命(地名)などは倭国で使われていた模様。三角縁臣神獣鏡は京師、狗耶韓国から14000里が理解できないと読めない。
徐福と邪馬台国参照。
母:母屋(おもや)の母(おも)
杜地命出:杜(もり)、地命(地名):地名は杜、杜の出
(鎮守の杜:今は神社の杜になっている。本来は京師の杜駐屯地)
三角縁神獣鏡(卑弥呼の鏡)
鏡の銘文を誰も正確に読んでいないので、秦野が鏡の銘文を読みます。説明のため(言+名)を銘と記している。
景初三年陳是作鏡自有経述本是京師杜地命出吏人銘之位至三公母人銘之保子宜孫寿如金石兮
景初三年、陳寿が自ら経述した鏡を作る。もとは京師(杜)の出、銘は位至三公の吏人、銘は母人(おものひと)、保子(開花天皇)の孫(卑弥呼)、金印(親魏倭王)をもって祝う。
陳:陳寿
孫:宜孫、宜しい孫を約し孫
母:母屋(おもや)の母(おも)
杜地命出:杜(もり)、地命(地名):地名は杜、杜の出
(鎮守の杜:今は神社の杜になっている。本来は京師の杜駐屯地)
京師:韓半島(開城)の楽浪郡から西に2000里にある。駐屯地
金石:金印(親魏倭王) HP秦野北斗の古代史、卑弥呼より
陳寿は魏志倭人伝に表音表記したと考えるのが自然でしょう。
結論を言えば、魏志倭人伝の人名、国名は表音になる。
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Re: 表音
秦野北斗さんへのお返事です。
そうですね、呉音で、魏の使いと会話していたのではないかと感じます。彼等が向こうにいっても、自分の名前や漢字を毎回間違いなく伝えているので、「難升」という官職の「米」という男だと、相手にも伝わっているのでしょう。
後代の「アマタラシヒコ・・・、セインコウ」とは少し違う感じがします。この時代になると訓読みの完全な当て字になってますからね。
松浦を示す末廬国についても、「末」は呉音で「マチロ・マツロ」なのでして、漢音の「バチリョ」ではないことなども、呉音文化圏が広まっていたことお傍証になるかと感じます。
ただ問題はいつ呉音の文化が入ってきたかですね。
ご紹介のとおり、弥生時代のある時期かと感じるのですが、HLAハプロタイプのほうを、以前から調べています。
骨髄バンクでサンプル数が多いので、比較的正確な分布データが期待できます。
http://blog.livedoor.jp/touxia/archives/50929736.html#
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/hn2602/5.htm
その年代推定
http://www.pag1u.net/kodai/hla.html
この辺を調べていくと、人種的な動きが読めますから、秦野さんのおっしゃる倭人の動きとも関係してくることでしょう。すでにご存知でしたかな・・?
不思議なのは、ミャオ族や、北方遊牧民、さらには中東・アイルランド系に多いHLAまで出てくるところですね。我々が想像するよりも、ずっと激しい動きがあったものと考えてます。
あとご紹介の三角縁神獣鏡の問題、これはとても重要です。
一般には、漢字文化圏ではないから、銘文は理解できていなかった。それで漢字が左右逆になったような鏡が出てくるという説ですが、かならずしもそうだとは言い切れない部分もあるんですよね。
少なくても呉音を理解していた九州北部方面での文化圏では、それが通用しなかったことも考慮しておくべきでしょう。分布地域と、その銘文の反転とかズレとかある度合いなども調べてみるとよいのかもしれません。
景初三年
http://bell.jp/pancho/travel/izumo/kanbara jinja.htm
関連記事
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-3/2010_0201.htm
ただ、その前に邪馬台国がどういう地域にあったのか?について考えてみると、先ほど読んでいてほとつの考えが浮かんできました。
邪馬台国の南の狗奴国の後に、風俗記載が列記されている件ですね。会稽の東に位置する云々の部分です。文章的にみて、これは狗奴国の風俗ではないでしょうか。
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
また女王国というのとは、別に北に30国余りがあって、これも一応女王国の属国で、全体として邪馬台国とも見えます。旧ソ連とか戦国時代みたいなものですね。日本国の中に、和泉国があるのと同様です。中には以前、マツラ国のように、官職のほかに、王がいた国もあった。
これらの属国は一大率という伊都国の警察が監視して巡回していたわけです。そして彼等が外国との交渉もしていたわけですね。
ところが、その女王国の南?のほうには、「大倭」という別の警察がいることになっていて、いわゆる「倭」という別?の国の習俗とかが記載されているのです。
おそらく秦野さんも、この辺の分離に疑問を感じて、任那地域にまで踏み込まれたのではないでしょうか。
そして神獣鏡をいつどこが受け取って、どう配ったかという問題へと進んでいくわけですね。
陳是作鏡自有経述本是京師杜地命出吏人銘之位至三公母人銘之保子宜孫寿如金石兮
>
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Re: 表音
管理人さんへのお返事です。
> 松浦を示す末廬国についても、「末」は呉音で「マチロ・マツロ」なのでして、漢音の「バチリョ」> ではないことなども、呉音文化圏が広まっていたことお傍証になるかと感じます。
呉音でなく中国語(普通話)に対応させ翻訳する。
表音で末廬はmò lú:もる、まら、もる、まる、もら
検索:馬羅島(まらとう)【韓国】馬羅島(マラとう)とは、大韓民国の済州島から南に11km離れた所に位置する絶壁の島。韓国最南端。
済州島の地名、馬羅をあて馬羅国=末廬国。気がつきませんでした。
金印:漢委奴国王印から推測すると、倭奴国の対岸の島が馬羅島(済州島)の関係から博多を馬羅国、末廬国と言ったようですな。
筑前国那珂郡志賀島村:聖徳太子のころは筑紫国になっている。
当時、済州島は倭国の領土で魏志倭人伝の行程で説明済み。
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訂正
先の投稿で一文を読み飛ばしてました。
その南に狗奴國有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。郡より女王國に至ること萬二千余里。> >
郡から女王国まで1万2千里とありまして、その後に風俗記載になるので、やはり会稽の東との記載は、女王国の記載と思われます。訂正いたします。
会稽の東というのは、正確には南九州になります。沖縄方面は南に行き過ぎですね。
おそらく帯方郡(ピョンヤンあたり)から、7000里で、プサンにいたり、そこから、3千里で松浦へ、そして2千里で奴国、つまり女王国の北辺の支配領域に至るとの意味だと思います。
ただ、「女王の都するところ、南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。」かかるということでしょう。
つまり今の日本でいえば韓国から首都東京までは遠いものの、同じ国にある九州の福岡まではもっと近いのと同様ですね。
それで倭国(島部分)の周囲を5000里と申しているのも、朝鮮半島7000里に比して、倭国が5000里と申しているのではないでしょうか・・・。ただいわゆる一般論ですので・・・例外があっても構いません。
あと、伊都国に軍(警察)をおいたとして、女王国より北方を監察するとすると、対象地域は、九州説だと九州中北部のこと、畿内説だと山陰・山陽のこととなり、任那説?とするとその地域となりそうですが、伊都のある糸島半島という地域が、果たしてそれらの地域を軍隊で治めるのに適した場所かどうかが課題になると思います。ケースに寄っては北九州や下関、吉備のほうがよかったりしますよね・・・。
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Re: 訂正
管理人さんへのお返事です。
郡から女王国まで1万2千里とありまして、その後に風俗記載になるので、やはり会稽> の東との記載は、女王国の記載と思われます。訂正いたします。
女王国の意味はアマテラスを指します。日本神話、日本書記、記録しています。この件は、古代航路で総て解決しますので、まとめて、amazon.co.jp 秦野北斗で発刊します。尚、魏志倭人伝の行程は徐福と邪馬台国で発刊済みです。
日本書記で卑弥呼をアマテラスと言っている。壱與がアマテラスを祭る所、伊勢を探している。最近、見つけた。
注、アマテラスの意味を明確にする必要がありそうですな・・。
> おそらく帯方郡(ピョンヤンあたり)から、7000里で、プサンにいたり、そこから、3千里で松浦へ、そして2千里で奴国、つまり女王国の北辺の支配領域に至るとの意味だと思います。
> ただ、「女王の都するところ、南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。」かかるということでしょう。
『女王の都(みやこ)する所』は誤訳で、都は中国語で合わせてになる。以下、水行十日、陸行一月で行程が2つあります。
1つは水行十日、1つは陸行一月です。
>あと、伊都国に軍(警察)をおいたとして、女王国より北方を監察するとすると、対象地域は、九州説だと九州中北部のこと、畿内説だと山陰・山陽のこととなり、任那説?とするとその地域となりそうですが、伊都のある糸島半島という地域が、果たしてそれらの地域を軍隊で治めるのに適した場所かどうかが課題になると思います。ケースに寄っては北九州や下関、吉備のほうがよかったりしますよね・・・。
一支国(一大国)に一大率の兵を置いていたので糸島半島で防衛しなくてもいいのでは・・
伊都国は現在の大宰府より東南方向の太刀洗(兵士の剣を洗う、適切な地名です。因みに奴国はここです。)までに在った。ここが総本部、軍隊は奴国にあった。古代史の問題点は距離を言いながら完全に無視している。距離は秦野距離で狗耶韓国から郡、京師まで遡れる。北九州や下関、吉備は該当しない、北九州は泰王国になる。さぞ、沢山の遺跡(年代は紀元前200〜紀元700年)が出るでしょうな。
泰王国は弥生時代が中心で縄文遺跡の該当地域でない模様
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