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「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2
968
:
SAKURA & NANCY
:2013/03/03(日) 22:37:39 ID:VaTGaQRA
トキ様 へ 観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA・NANCY】で〜〜〜す。
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>>965
>>966
>>967
>>
の投稿の続きです…。
■それでは神と霊魂と人間と †††『 因霊の世界 』†††
――― 第 1 章 因縁霊 一怪奇現象はめぐりくる因縁 ―――
―†―【高松塚古墳をめぐる謎の犠牲者たち 】―†―
昭和四七年、奈良県明日香村に古墳が発見され、それが発掘され、古墳から壁画の“飛鳥
美人”が発見されました。当時「高松塚古墳」として、日本中の話題をさらさいましたが明日
香村は世帯数三十五戸という小部落です。ここに日本中の新聞社やテレビ局の人たちが集り、
たくさんの学者が研究に参加し、今より千三百年前の古墳であることが証明されました。
しかし不幸なことに、この高松塚の古墳発掘関係者に、つぎからつぎへと「変死者」があ
らわれたのです。
第一に、当時明日香村の観光課長をしていた森口正一さん(当時四二歳)でした。彼は高松
塚古墳発掘のため、財務局や文化庁と折衛して五十ま万円を予算化し、積極的に発掘作業に従
事しました。
森口さんは、以前から肺が悪く医者の治療をうけていましたが、急激に悪化し、高松塚古
墳が発掘された四十九年三月二十一日からちょうど二カ月目の五月二十一日に「病死」して
しまいました。
第二は、同じ年の八月二十三日、桐田まさのさん(当時六十五歳)が病死しました。桐田さん
は高松塚の近くのみかん畑を耕していました。桐田さんの家族の一人が、耕作している時に、
塚の端の方にクワを入れたのでした。その直後から桐田まさのさんの病状は悪化し、亡くな
ったのです。
第三は、高松塚のある上平田部落の総代である松原繁春さん(当時五十七歳)の交通事故です。
それは、翌年の八月二十日でした。松原さんは村の寄り合いで酒を飲んで帰宅する途中、
交通事故にあって亡くなりました。
偶然とはいえ、森口さんが死んだのも二十一日、松原さんが死んだのも二十一日と、二十
一日が重なりました。小さな部落のことです。そこから「高松塚のタタリ」の噂がワッとひ
ろがりました。
第四は、発掘調査団に家を提供していた森本逸夫(当時五十四歳)さんでした。森本さんは古
墳から発掘した出土品の置き場として、自分の納屋を提供していました。森本さんは、四十
八年の九月に、その納屋の屋根を修理していました。その時屋根から落ち、腰骨にひびが入
り、三か月ぐらいブラブラしていました。
第五の事故は、昭和四十九年の一月四日でした。文化庁からの委嘱を受け、高松塚古墳の
壁画を復元させ、摸写していた若林卓画伯(当時七三歳)が交通事故で死亡しました。
若林画伯は、壁画復元、摸写グループの新年会に出席し、その帰路。神奈川県逗子の県道
で、乗用車にはねられたのです。
こうした一連の事故を、昭和四十九年二月一日号の“週刊サンケイ”は、「高松塚古墳の発
掘関係者、“連続五人変死“の周辺」として特集しています。
こうした「高松塚古墳」と同じような話は、山口県の「土井ヶ浜遺跡発掘」のときにもあ
りました。
古代の死者の霊が、千年以上の歳月を経て、なお「怨霊」となって、現界に生きる人間に
影響をあたえるということは、実におそろしいことではありませんか。
つづく
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