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避難用作品投下スレ3

1管理人★:2007/10/27(土) 02:43:37 ID:???0
葉鍵ロワイアル3の作品投下スレッドです。

154忘れられた女! 逆襲の美汐!:2007/12/30(日) 22:17:04 ID:41dTiUJk0
次の瞬間、雄二は美汐へと襲い掛かっていた。
彼女の体を力任せに壁へと押し付ける、痛みで歪む少女の表情が雄二のSっ気を刺激した。
今度は違う意味で興奮した雄二の荒い息が、美汐の顔へと吹き付けられる。
天野、ヤらせろ。そう、雄二が彼女の耳に吹き込もうとした時だった。

「動かないでください」

首元から伝わる冷たい温度が何なのか、雄二はすぐの理解ができなかった。
ただ相変わらずの笑みが浮かんでいるにも関わらず、雄二の目の前に位置する少女の瞳は冷え切っていた。
それに気を取られた雄二は、美汐に自身へ付け入れることのできる程度の隙を与えてしまうことになる。

「そのまま手を前に出してください。早く」

まくしたてる美汐の声、雄二は勢いに飲まれ彼女の言う通りに手を出した。
出してしまった。
カシャン、とこれまたひんやりとした感触が左手首を包み、雄二はその見慣れぬ拘束具に唖然とした。
手錠だった。美汐は器用に、片手で雄二の両手を手錠で繋げていた。

「な、何だこれ」
「抵抗されたら困りますから。……ああ、動かないでくださいね。薄く切れてるから分かると思いますけど、死にますよ」

そして雄二は、やっと今の事態を飲み込むことができた。
首にあてがわれているものが刃物だということ。
両手の自由が彼女の手により奪われてしまったということ。
天野美汐は、害のない愛らしい少女などではないということ。

まずい、と思った時にはもう遅い。
逃げ出そうと足を動かした所、すぐさま足元を払われ雄二は顔から居間の床へとダイブする。
外で転んだ時とは違う、冷たい温度が雄二の頬に押し付けられた。
美汐はと言うと、床に転がっている雄二に起き上がるチャンスを与えないとつけつけるように、すぐさま彼の体に馬乗りになりマウントポジションを確保した。

「馬鹿ですね、逃がす訳ないでしょう?」

155忘れられた女! 逆襲の美汐!:2007/12/30(日) 22:17:21 ID:41dTiUJk0
冷たい宣言に思わず冷や汗が額を流れる、それでも崩れない美汐の笑みが不気味だった。
そう、昨夜会った印象ではもっと陰鬱とした、静かなイメージを雄二は彼女に対し持っていた。
それこそ現場が現場であったため、そこまで細かく彼女の詳細を雄二が得ている訳でもない。
だが、思い返せば第一印象という見方からすると、今の彼女は明らかに雄二の知るそれではなかった。
何かがおかしかった。しかしそれをどのような言葉にあてはめればいいのか、雄二は知らなかった。

「凄く、嫌な夢を見たんです」

雄二の内心を知ってか知らずか、美汐は一人語りだす。

「ゴミのような扱いを、辱めを受けたんです」

悔しそうに唇を噛む、少女の表情に修羅が混じる。
雄二は再び首に押しつけられた刃物の反射光に怯えながら、美汐の言葉を黙って聞いた。

「悔しかったです、怖かったです。……これが正夢になったらどうしようかと、悩みました」
「そ、それが俺と何の関係があるんだよっ!」

区切りがいい所で、とりあえずつっこんでみる雄二。
すると、美汐の表情に再びあの笑みが舞い戻った。

「これが、正夢にしないための最善の策なんです」

刃物を持っていない方の美汐の片手が、彼女の制服のポケットへと入っていく。
ガチャガチャと音を立てながら取り出されたものが、雄二の頬が押し付けられている床の近くに放られ散乱する。
これまた、その正体に雄二は唖然とするしかなかった。

「ヤられる前に、ヤればいんですよ。この島で行われている殺し合いと同じです」

156忘れられた女! 逆襲の美汐!:2007/12/30(日) 22:18:18 ID:41dTiUJk0
乗っていた雄二の体から立ち上がり、美汐はしゃべりながら彼の腹部へと蹴りを入れる。
一発、二発、美汐は容赦なく硬いブーツで雄二を嬲った。
雄二の中で反抗する意思が芽生える前ということもあっただろう、それは彼と彼女の間にしっかりと上下関係を植え付けるための儀式のようにも思えた。

「ふふ……私、凄くつらかったんですよ。あんな屈辱、一生忘れられません」

辺りに酸味の強い汚臭が広がる。
雄二の吐いた黄色い胃液が付着することにも気を留めることなく、美汐は彼の体力を奪い続けた。
そして、もう抵抗できないだろうという所まで弱らせたところで先ほどばら撒いたもののうち一つを取り、美汐はそれで雄二の頬をはたく。

「この家の持ち主、相当好きものな人みたいだったんです。寝室で休んでいたんですけれど、こういうの、たくさん発見しました」

スイッチを入れると左右に揺れながらバイブレーションするおもちゃを手に、美汐は楽しそうに言う。
雄二はいまだ分かっていない。分かるはずもない。
彼女は、肝心なことを何も話していないのだから。
……しかし反撃する前に行われた暴力は、少女の力とはいえ決して軽いものではなかった。
それが、雄二の戦意を喪失させることには充分な事だったと言えよう。
そして現時点で、雄二が彼女に対抗する手段というものも。特になかった。

「拒まないでくださいね、腕と足を全部切り落としても良いんですよ? この私が正しい調教をしてあげるんですから有り難く受け取ってくださいね」

少女の笑みは、あくまでアルカイックだった。
正気じゃない。
天野美汐が正気じゃないという事実。
雄二がそれに気づいた所で、全ては手遅れに過ぎない。

「さあ、パーティの始まりですよ」

宣告は、雄二に対してあまりにも非道だった。

157忘れられた女! 逆襲の美汐!:2007/12/30(日) 22:20:03 ID:41dTiUJk0
【時間:2日目 午前8時頃】
【場所:I−7・民家居間】

向坂雄二
【所持品:無し】
【状態:首に薄く切り傷、手錠で両手を繋がれている、マーダー、精神異常、マルチを見つけて破壊する】

天野美汐
【所持品:包丁、大人のおもちゃ各種】
【状態:みっしみしにしてやんよ】

【備考】
・美汐の支給品一式(様々なボードゲーム)は寝室に放置
・敬介の支給品の入ったデイバックはPCの置かれた部屋の片隅にある

(関連:433・675)(B−4ルート)

すみません、最初の1レスをダブって投下してしまいました。
お手数おかけしますが、まとめには>>150を抜かした形での掲載をお願いします…

158名無しさん:2008/01/01(火) 21:30:04 ID:mYn2Gsvk0
椋「あ、あけましておめでとうございますっ」
美汐「……」
柳川「……」
椋「こ、今回挨拶を任されました、B-10代表の藤林椋です。よろしくお願いしますっ(ぺこり)」
美汐「B-4代表、天野です」
柳川「……ギギ……タカ、ユキ……」
椋「って、な、何で柳川さんは鬼状態なんですか?」
美汐「D-5だからじゃないでしょうか」
椋「な、成る程です。会話が成り立つならいいですけど……」
柳川「……」

159名無しさん:2008/01/01(火) 21:30:32 ID:mYn2Gsvk0
椋「えっと、私達が集まりましたのは他でもありません」
美汐「おこたに蜜柑を満喫に来たのですね」
椋「違います! 違います!! せっかくの新年ですので、この一年を振り返りに来たのです!」
美汐「過去を振り返ってどうしろと。私達が見るのは、明るい未来だけで充分ですが」
椋「わ、な、何ですか、何で笑顔でそんなこと言ってるんですか」
柳川「カコ……タカユキ……(ほろり)」
美汐「泣かせましたね。ひどい人です」
椋「わ、私なんですか? 悪いのは私なんですか……?」
美汐「という訳で、明るい未来を見るために現在のロワ進行状況でも確認しましょう。
   藤林さん、例のホワイトボードをこちらに」
椋「は、はい……って、あの、パシリにしないでくださいっ」
美汐「さて。ここにはハカロワ3wikiのとあるページを複写してあります。よろしければ、皆さんもご一緒に確認してください」
椋「えっと、各ルートの死亡者リストですね! ……って、あの、天野さん、これ結構前のなんですけれど……」
美汐「気にしたら負けです。とにかく、現在の進行状況を見るならば死亡者の数を確認するのが一番なんです」
椋「でしたらまとめサイトさんがいつの間にか作ってくださった、各ルート生存者一覧表を見るのが早いのではないかと……」
美汐「……そういうのがあるなら、先に提示してくれませんか?」
椋「え、あの、すみません」
美汐「進行に関わるではないですか……ブツブツ……」
椋「な、何で私怒られてるんですか?! 理不尽です!!」
柳川「??」

160名無しさん:2008/01/01(火) 21:30:53 ID:mYn2Gsvk0
美汐「さて、では皆さんもパッと見てくださったと思いますが」
椋「はい、では解説は僭越ながら私が……。現在、最も先行しているのがD-5になります」
  現時点で生存者は31名です。その他外部からたくさん人がいらっしゃいますけど……」
美汐「融合されている方も数人いらっしゃいますね」
椋「めちゃくちゃですね……」
柳川「キシャアー!」
椋「わ、あの、悪口を言った訳ではないんです! すみません、怒らないでくださいっ」
美汐「主催側の動きもかなりありますし、とても良い調子だと思います」
椋「作者さん、頑張ってくださいね」
美汐「自分が残っているから媚びでも売ってるんですか?」
椋「違います! 違います!! 純粋なる応援ですっ!」
柳川「……(じー)」
椋「柳川さんまでそんな目で見ないでくださいよぅ」
美汐「まあ、一番美味しい所は私がいただく予定ですが」
椋「え、天野さんまだ残ってらしたんですか?」
美汐「……それ、素ですよね? 傷つきました」
椋「あ、あの、その……すみません……」

161名無しさん:2008/01/01(火) 21:31:13 ID:mYn2Gsvk0
椋「次はB-10ですね。生存者は残り49名です、外部からのほしのゆめみさんと岸田洋一さんを足すと51名になります」
美汐「主催に関する記述は、まだ特に出てきてはいませんね」
椋「そうですね。今後の見所は、私とお姉ちゃんの姉妹愛でしょうか」
美汐「どうでもいいですね」
椋「何でですか、どうでもよくないですよ!」
美汐「そんな私情知りませんし」
椋「美しいエピソードが来るかもしれないんですから、そんな一言で片付けないでくださいっ」
美汐「私、もうリタイアしてますし。興味ないです」
椋「それこそ私情じゃないですかああぁぁぁ!!」
柳川「オレ……コロス……オマエ……コロス……」
椋「や、柳川さん? わわ、そんな顔で睨まないでください。ルート違うんですから、D-5のあなたには恨まれる覚えないですからね!」
美汐「ひどい言い分ですね」
柳川「ガルルルル」
椋「えっと、そんな感じで見所満載です! B-10をよろしくお願いします、藤林椋に清き一票をっ!」

162名無しさん:2008/01/01(火) 21:31:39 ID:mYn2Gsvk0
椋「ええと、最後がB-4ですね。生存者は残り66名です。外部からの方を足すと72名になります」
美汐「まだ半分切ってないですね」
柳川「オレ……ココ嫌イ……オレ、アツカイ理不尽ダッタ……」
美汐「否定できませんね」
椋「このルートでは、何と二回目の放送にてお姉ちゃんの名前が呼ばれてしまいました。
  自分の半身を失った悲しみを、私はどう乗り越えるのでしょう。
  そして、私は無事勝平さんと再会できるのでしょうか。
  いえ。もしかしたら、佐藤の雅史さんを交え三角関係に発展するかもしれません。見所満載です!」
美汐「主催に関する記述は特にないですが、何か青い宝石というファンタジーな物が出ています」
柳川「さゆりんモイナイ……ヒロユキモイナイ……不条理ナルートダ……」
椋「B-4をよろしくお願いします、藤林椋に清き一票をっ!」

163名無しさん:2008/01/01(火) 21:32:08 ID:mYn2Gsvk0
椋「以上です。ふぅ、一仕事した後の蜜柑は美味しいですね」
美汐「納得いきません」
柳川「ガルルルル」
椋「そんな訳で、今年も葉鍵ロワイアル3をよろしくお願いします(ぺこり)」
美汐「そして、自分で〆ると」
柳川「ガルルルルルルルル」
椋「藤林椋を、よろしくお願いします!」
美汐「最後まで貫きましたね」
柳川「ガルルルルルルルル……ガウッ!」
椋「きゃあっ?! や、柳川さん、や、駄目です、きゃ……あんっ! そ、そこ、弱いんですやめ……はぁんっ!!」
美汐「以上、お送りしましたのはあなたをハートをみっしみしな初音美汐と」
柳川「貴之も浩之もこの世のメンズは俺の嫁、阿部祐也! そして」
椋「性戦はまだですかぁの、イケメンハンター椋でしたぁ……」



椋「って、違います! 違います!! 私、B-10代表ですから!! 」





藤林椋
 【所持品:無し】
 【状態:我に返った】

天野美汐
 【所持品:ボーカロイド2】
 【状態:みっしみしにしてやんよ】

柳川祐也
 【所持品:ヤマジュンのコミックス】
 【状態:両刀って便利】

164ふたりのうた(前編):2008/01/10(木) 02:52:37 ID:YANPESc.0
 
咆哮が、やんでいた。
静寂の中、焼け崩れた石塊から時折舞い上がる火の粉が、白い陽光の下、儚く消えていった。

「歌だ」

少年が、はっきりと口にする。
常は眠たげなその瞳に、強い光が宿っていた。
迷いのない、真っ直ぐな意志の光だった。
大切な何かを取り戻すために戦う者だけが宿すことのできる、それは眼光だった。

「ウ……タ」

少年の瞳に引きずられるように、漆黒の鬼が呟く。
魁偉な容貌に血涙を流すその様は、正しく悪鬼羅刹。
だが今、鬼の口から漏れた呟きからは、怒りも憎しみもその色を潜め、代わりにどこか戸惑ったような、
或いは切れかけた細い記憶の糸を手繰るような、不安定に揺れる響きだけがあった。

「ああ、歌だ。……あんたが俺に歌ってくれた、歌だよ」

少年の言葉が紡ぎ上げるのは、月に照らされた夜の森。
夜気が頬を撫でる中、梢のざわめきだけを伴奏に響いた歌声だった。

「下手くそで、声だけでかくて、音程なんかメチャクチャで、……けど」

黒く無骨な手から伝わった温もりが、少年の脳裏に蘇る。
その温もりを、言葉に乗せるように。

「あれが、あんたが俺にくれた……最初の気持ちだって、思ってる」

少年が、微笑む。
眉尻を下げた、どこか悲しげにも見える、しかしはっきりと確信に満ちた微笑。
その微笑に気圧されるように、鬼の巨躯が一歩を退く。

「グ……ウゥ……」
「俺は、さ」

空いた間合いを詰めるように、少年が一歩を踏み出す。
パチリ、と焼けた木の爆ぜる音がした。

「俺は、タカユキじゃない」

風に織り込まれるようなその言葉。
鬼が、凍りついたようにその動きを止めた。
少年は言葉を続ける。

「タカユキには……、なってやれないんだ」

静かに、告げる。
鬼が、びり、と震えた。
爛々と光る真紅の瞳に浮かぶ色は、痛哭と憤怒の朱。

「あんたの歌ってくれた歌を、だから俺は受け取れない」

朗、と咆哮が響いた。
文字通り血を吐くような、それは慟哭の咆哮だった。
鬼が、哭いていた。
天を仰ぎ、大地を踏みしだき、漆黒の鬼は口の端からごぼごぼと血の泡が噴き出すのも構わず、哭いていた。
ご、と何かが割り砕ける音がした。
鬼の足元の地面が、小さな半球を描くように落ち窪む音だった。
同時、鬼の姿が消えたように見えた。
夜を削りだしたが如き黒の鬼が、疾走を開始していた。
鬼哭の突進の先にあるのは、小さな影。
鬼の巨躯が迫るにも表情を変えず、少年は言葉を紡ぐ。

「だから」

鳴り止まぬ咆哮に掻き消されそうな、静かな声。
風を裂き、廃材を塵芥と変えながら駆ける慟哭の鬼が、その巨魁に満ちる膨大な力を込めた拳を、振り上げる。

「だから今度は―――」

ひと一人を肉塊へと変じせしめて余りある威をその内に秘めた剛拳が、行く手に立ち塞がる全てを叩き潰さんと、

「―――今度は『浩之の詩』、聞かせてくれないか」

振り下ろされた。


***

165ふたりのうた(前編):2008/01/10(木) 02:53:55 ID:YANPESc.0
 
しん、とした静寂が響く。
咆哮がやんでいた。
一瞬だけ遅れて、風が爆ぜる。
割り裂かれた大気が、弾けるような音と共に荒れ狂い、何かを宙に巻き上げた。
白く、小さなそれは、兜のようだった。
天高く巻き上げられたそれが、やがて地に落ちて軽い音を立てる。
その音を合図にしたように、動くものがあった。
それは、小さな手。
突き出された漆黒の拳を包み込むように添えられた、少年の手だった。

「どうだい……柳川さん」

少年は、その最後の瞬間まで、動かなかった。
ただ何かを信じるような微笑だけを浮かべて、その言葉を紡いでいた。
拳は―――少年の眼前で、止まっていた。

「……ヒ……、」

魁偉な貌を歪めるようにして、鬼が声を絞り出す。
握り締められていた拳が、ゆっくりと開かれていく。
巨岩を砕いて造ったような、ごつごつとした大きな手が、しかし震えながら、少年へと伸ばされる。

「ヒロ……ユキ……」

それは柔らかい何かに、こわごわと触れるような。

「ああ」

少年が、頬を撫でられながら静かに頷く。

「ヒロユキ……」

それは、忘れていた大切な名前を呟くような。

「ああ」

少年が、笑む。

「ヒロユキ」

囁くような。

「ああ」

少年が、囁きを返す。

「ヒロユキ……!」

抱きしめるような。

「ああ」

少年が、手を伸ばした。

「―――ヒロユキ!」

それは、想いを伝えるような。
柳川祐也の、それは新しい詩だった。

「……ああ、ああ」

鬼の胸に抱かれながら、
その涙を、流れる血をその身に受けながら、

「ありがとな……柳川さん」

少年が、その名をそっと呟いた。


******

166ふたりのうた(前編):2008/01/10(木) 02:54:28 ID:YANPESc.0
 
『それ』はもう、七瀬彰と呼ばれていた存在ではなかった。
御堂という男と混ざり合い、融け合い、その果てに彰の意識は殆ど残っていなかった。
互いの境界を越えて流れ込む記憶と意識が、二人を容易く破壊していた。
だから『それ』は既に、七瀬彰でも御堂でもない、新しい何かだった。

『それ』が、世界を認識する。
己が新生した世界。
生まれ出でたそこには、何もなかった。

一筋の光すら射さぬそこを、しかし『それ』は暗いと感じることはできなかった。
『それ』は、そもそも生まれた瞬間から光を知らない。
世界に明と暗が存在することを知らない。
目でものを見るということを知らない。
『それ』は、ただ彰と御堂の崩壊の果てに、そこに生まれ出でていた。
生きるということすら、知らなかった。

やがて『それ』は、己にできることがあることを知る。
己の一部を、意思によって動かすことができるようだった。
それが腕、あるいは触手と呼ばれるものであることを知らないまま、『それ』は己の一部をそろそろと拡げる。
世界が、拡がっていく。

世界には、形がある。
触るということを、『それ』は覚えた。
色々な形、色々な手触り、色々な硬さがあることを、『それ』は知っていった。
乾いた砂が水を吸うように、『それ』は世界を想像し、創造していく。

ある瞬間、未知の感覚が、『それ』を刺激した。
それが痛覚であり、熱いという感覚であることを理解できないまま、ただ不快というものを『それ』は知る。
不快、という感覚が『それ』に生まれた刹那、『それ』の中から引きずり出されるものがあった。

記憶、というものを『それ』は認識できない。
七瀬彰の記憶、御堂の記憶、それらが不快という感覚に呼び起こされたことを『それ』は理解できずにいた。
そこにあるのは音であり、光であり、感情だった。
『それ』の世界に音はなく、光はなく、だからその意味を、『それ』は理解できない。
浮かんでは泡のように消えていくそれらが、弾ける瞬間に不快だけを残していく。
認識できず、理解できず、ただ不快だけが滓のように溜まっていく。
音もなく光もなく、感情だけが降りしきる雪のように積もっていく。

何が不快なのか、『それ』には分析できない。
己の中に浮かび上がっては砕け散っていくそれらが何なのかすら、『それ』には理解できず、
しかしそれでも、ただ一つだけわかることがあった。

それらが、消えていくこと。
そのこと自体が、不快を生み出している。
『それ』に生まれた、それは確信だった。

嫌だ、と思った。
目の前にあったものが失われていく。
それは、嫌だ。
それが、嫌だ。
悲しいという感情。
悔しいという感情。
それらの萌芽が、『それ』の中にあった。
何も得られず、何も残らず、それが、嫌だった。

許せない、認めない、肯んじ得ない。
否定という一つの意思が、『それ』を支配していた。
だから、その感情を、世界に振り撒こうと、『それ』は、動き出した。

みどり児の、産声を上げるが如く。

167ふたりのうた(前編):2008/01/10(木) 02:56:28 ID:YANPESc.0
 
 
【時間:2日目午前11時すぎ】
【場所:C−3 鎌石村】

藤田浩之
 【所持品:鳳凰星座の聖衣】
 【状態:鳳凰星座の青銅聖闘士・重傷(治癒中)】

柳川祐也
 【所持品:なし】
 【状態:鬼・重傷】

七瀬彰
 【状態:御堂と融合】

御堂
 【状態:彰と融合】

→933 ルートD-5

168ふたりのうた(後編):2008/01/12(土) 03:56:05 ID:Km9uiEBs0
 
先にそれに気付いたのは、藤田浩之だった。

「……ッ!? 危ねえ、柳川さん……!」

咄嗟に突き飛ばしたその手に滑る鮮血の感触と、あまりにもあっさりと突き飛ばされた巨躯の軽さに
顔をしかめて舌打ちしながら、浩之が飛来した影を打ち払う。
地面に叩き落されたそれは、薄桃色の塊。
切り身にされた肉がびくびくと震えるような、醜悪な何かだった。

「あいつか……!」

睨みつけるような視線の先、蠢く一つの影があった。
青空と泥濘と灰燼の狭間で、それは奇怪の一言を以って存在していた。
中空に投網を広げるが如く四方八方へと伸ばされた、ぶよぶよとした肉の触手。
数えることすら覚束ぬその無数の触手の中心にあるのは、もはや人とも呼べぬオブジェだった。
大地を踏みしめる二本の足は紛れもなく人間のもの。
しかしその腰から先は、中心線に沿って頭頂部までを真っ二つに割り裂かれたように左右に分かれ、
両の腕はだらりと地面に垂れ下がっている。
二つに分かれた顔のそれぞれでぎょろりぎょろりと辺りを見回す蛇の如き眼。
裂けた腰に視線を戻せば、そこにはまた新たなる異形があった。
分かたれた蛇眼の男の腰、そこに骨や内蔵の代わりとでもいうようにみっしりと詰められた桃色の肉の上からは、
細く白い、女性とも見紛う青年の上半身が生えていた。
一糸纏わぬその裸体にぬらぬらと照り光る粘液がまとわりついて、ひどく淫靡な空気を醸し出している。
だがその細面に浮かぶのは、先ほどまで浮かべていた色に狂った笑みではなかった。
今にも叫びだしそうに見開かれた瞳からは、とめどなく涙が流れていた。
紅を差したような唇も、白い肌を引き立てるように紅潮した頬も、まるで神に捧げられた贄の如き
悲嘆と恐怖に彩られ、歪んでいる。
かつて七瀬彰と呼ばれた青年の、あるいは浩之も与り知らぬ名もなき男の、それが末路だった。

「それが……お前の本性かよ」

否やを唱える声とてない。
彰だったものは、ただ深い嘆きだけをその表情に浮かべ、無数の触手をうねらせている。
じわじわと版図を広げるその触手が、倒壊した家屋の柱に触れた。
瞬間、それまではぐねぐねと鈍く蠢いていた触手が、信じられないほど機敏に動いた。
ぼごり、と鈍い音がした。
太い柱が、コンクリートの土台ごと地面から引き抜かれる音。
間を置かず、一抱えほどもあるその廃材の塊が放り捨てられる。
大の大人のニ、三人分以上はあろうかという重量が、紙くずのように放物線を描き、落ちる。
小さな地響きが辺りを揺るがした。

169ふたりのうた(後編):2008/01/12(土) 03:56:36 ID:Km9uiEBs0
「くそっ、気をつけろ柳川さん……!」

まるで、その言葉が引き金になったかのように。
触手の群れが一斉にその動きを止め、

「―――」

刹那の後、爆ぜるように拡がった。
さながらそれは、一発一発が拳ほどの大きさをもった、有線式の散弾。
四方へと拡がったそれらが鋭角な曲線を描いて狙うのは、立ち尽くす二つの影。

「鳳翼、天翔―――!」

声と共に、浩之の翼を模した手の動きから炎の鳥が現れ出でる。
羽ばたいたそれが、灼熱の矢となって前方を薙ぎ払った。
飛び来る肉の散弾、その八割が一瞬にして消し炭と化し、地に落ちる。
残りの二割を、或いは拳で叩き落し、或いは身を翻して躱しながら、浩之はもう一つの影へと視線を走らせる。
兜が落ちて剥き出しとなった頬に小さな切り傷を作りながら振り向いた少年の耳朶を、大音声が打った。

雄々、と弾けたそれは、漆黒の咆哮。
鬼と呼ばれ闘争に特化した種の、戦の始まりを告げる鬨の声であった。
弾丸の如き速度で迫る触手の群れを見据えた鬼が、ぐ、と巨躯を撓める。
次の瞬間、無数に飛来した触手のその悉くが細切れになって散るのを、少年は見た。
閃いたのは、真紅の爪。
拳を握るでなく、開かれた掌から伸びた刃の如き十の爪が、神速をもって触手を切り刻んでいた。

朗々と響く咆哮は、いまだ鳴り止まぬ。
頼もしくその声を聞いていた少年の表情が、しかし次の瞬間、歪んだ。
瞬く間に無数の触手を切り裂いた鬼の身体を、薄い靄が包んでいた。
赤黒く煙るそれが返り血などではないと、浩之にも思い至っていた。
地面に落ちた触手からは、一滴の血すら流れていない。
ならば、鬼の身体を包むように煙る赤の正体は、鬼自身の血潮だった。

170ふたりのうた(後編):2008/01/12(土) 03:57:05 ID:Km9uiEBs0
「柳川さん、あんた……!」

鬼の治癒能力は驚異的だった。
それは、浩之とてわかっている。
だがそれは決して万能ではなく、まして不死を意味するものではなかった。
ほんの数刻前を思い起こす。
無惨に焼け爛れた身体。潰れた片目。じくじくと溢れる膿。
それは、もはや数刻前、ではない。
まだ、ほんの数刻前の、柳川の姿だった。
鬼の傷は、まだ癒えてなどいなかった。

轟、と鬼が吼える。
それは変わらぬ咆哮の筈だった。
だが今、少年の耳を打つのは、敵を前にして高ぶる狩猟者の猛りではなく、崩れ落ちんとする己を必死に鼓舞する、
瀕死の獣のいななきであった。
思わず駆け寄ろうとした浩之が、咄嗟に飛びのく。
肉の槍が、一瞬前まで立っていた地面を貫いていた。
舌打ちする間もなく、次弾が陽光を遮らんばかりの数を擁して迫り来る。

「やってらんねえ……!」

羽ばたく炎の鳥が、触手を焼く。
だが消し炭となって落ちた数十本の占めていた場所を埋めるように、新たな触手が浩之を狙う弾幕に加わっていた。
飛び退り、大地を穿つ桃色の槍を躱す。
鳳凰の尾を模した装飾が風に靡き、硬い音を立てた。
なおも追いすがる数本の触手を手甲で叩き落しながら見れば、黒の巨躯は遠い。
戦いは続いているようだった。見上げんばかりの巨体を隙間なく囲むように展開した無数の触手が、
爪の一閃で見る間に千切れ、消し飛んでいく。
正に鬼神の如き奮戦であったが、身に纏う赤い霧はその濃さを増していた。
血に煙る鬼の戦は一幅の絵画を見るようで、一瞬だけ足を止めた己を、浩之は心中で殴りつける。
いかな鬼といえど、鮮血を撒き散らしながらあの動きを続ければ、いずれ限界が来るのは避けられない。
躊躇している時間はなかった。
選択肢は二つ。

(合流するか、本体を叩くか……!)

視線を走らせるのは一瞬。
己に倍する数の触手に囲まれた鬼の姿に、浩之は決断する。
疾走を開始。
行く手には黒の巨躯ではなく―――人を捨てたオブジェ。

171ふたりのうた(後編):2008/01/12(土) 03:57:44 ID:Km9uiEBs0
あの数の触手を相手に、柳川は動かずに奮戦を続けている。
それは、と浩之は走りながら考える。
既に囲みを突破するだけの体力が残されていないのだ。
自らに迫り来る白銀の鎧を見咎めたか、数本の触手が浩之を目掛けて飛ぶ。
やはり、と速度を緩めることなくそれらを消し炭と変えながら、浩之は確信する。
迎撃が薄い。
それは取りも直さず、触手の大部分を柳川が引き付けているのに他ならなかった。
突破力を喪失した柳川がそれでも退かないのは、つまりはそういうことだ。
吼え猛り、限界を超えた動きを見せてまで、囮として立っている。
それはメッセージだった。
少なくとも浩之は、そう受け取った。
出会ってほんの十数時間。
潜った死線は、これまでの生涯の全部を思い出して、まだ足りなかった。
それはつまり、この呼吸はこれまでの人生の全部より、確かだと。

(あんたもそう、思ってくれてんだよな……!)

走る。
あと五歩で、炎の射程に入る。
背後で鬼が、吼えていた。
あと四歩。
鬼の咆哮に、濡れた音が混じる。鮮血のイメージ。
あと三歩。
風が、小さく震えた。重い何かが、大地を揺らしていた。
あと二歩。
ひゅう、と。細く掠れた音がした。
あと一歩。
咆哮が、やんだ。
同時、炎の鳥の射程に、入る。

「―――ちぃぃっ、……くしょぉぉ、がぁぁ……っ!!」

何かを断ち切るような叫びと共に。
少年の手から、炎の鳥が飛び立つ。
業火は大気を切り裂き、一陣の疾風と化して奔り―――黒の巨体を貫かんとしていた肉の散弾を、焼き尽くしていた。

172ふたりのうた(後編):2008/01/12(土) 03:58:35 ID:Km9uiEBs0
「……間に、合ったか……!」

は、と息を吐く。
地面に片膝をついたまま、ぼたぼたと血を吐く隻眼の鬼と視線を交わした、刹那。
浩之の背中を凄まじい衝撃が走っていた。
肺の中の空気が、強制的に排出される。
一瞬の内に顔面が地面を擦り、それでも衝撃を殺しきれずに、首を支点にして転がる。

(そりゃ……こうなる、よな……)

無茶苦茶に上下左右が入れ替わる視界の中、浩之は内心で苦笑する。
あの瞬間、判断に一切の迷いはなく、そしてそこには間違いもまた、なかった。
炎の鳥を触手の中心、本体に向けて放っていれば、あるいは仕留めることもできたかもしれない。
しかしそれは、ほぼ確実に柳川の犠牲を伴う結果だった。
柳川の限界があとほんの数瞬でも先であれば、炎の鳥は躊躇なく七瀬彰であったものに向けて放たれていただろう。
だが、振り向かず疾走する中で、浩之には背後の様子が手に取るように分かっていた。
薄れゆく咆哮は即ち、柳川の体力の終焉を示していた。
ならば、眼前の敵に背を向けるという愚を冒してでもそれを救うのは、浩之にとって当然の帰結だった。

「が……ッ、ふ……」

地面と幾度かの衝突の末、ようやく回転が止まる。
立ち上がろうとして、激痛に視界が歪んだ。
受身も取れず転がるうちに傷めた骨や筋が悲鳴を上げていた。
それでも、触手によって強かに打ちつけられた背骨が持っていかれなかったのは僥倖というべきか、
身を包む白銀の鎧の強度に感謝するべきか。
しかし、

「くそ……動け……!」

受けた打撃は、思いのほか深刻だった。
焦燥の中、浩之は身を起こすこともできず、足掻く。
一撃で殺されることは避けられても、次の攻撃に対処できなければ同じことだった。
轢かれた蛙のように地べたに這い蹲ったまま見上げる少年の視界に、幾本もの触手が映った。
澄み渡る青空を背景に蠢くそれは、さながら世界を侵す悪意そのもののように、見えた。

173ふたりのうた(後編):2008/01/12(土) 03:59:19 ID:Km9uiEBs0
「ちく……しょう……!」

悪意が、空を覆っていく。
無限に涌いて出るような触手の群れが、身動きできぬ少年を嬲るように、その視界を埋めていく。
槍衾が網となり、壁となり、ついには陽光すらもが完全に遮られるかどうかの、刹那。

「え……?」

暗さに、声が漏れる。
触手の群れとは別の影が、少年の上に覆いかぶさっていた。
背に、ぼたりと何かが垂れた。
その生温かい感触と、か細く掠れるような息遣いを耳にして、少年はようやく己に影を落としているものの正体に気付く。

「バ……っ、何やってんだ、あんた……!」

思わず声を上げた。
柳川祐也。
罅割れた真っ黒な皮膚からだらだらと粘り気のある血を流しながら、漆黒の鬼が浩之を庇うように、
その巨躯を晒していた。

「どけ……! どいてくれ、柳川さん……!」

浩之が叫ぶ。
鬼の広く大きな胸板の向こうには、もはや一本一本を視認することすら叶わぬほどに密集した触手の群体が見えていた。
それらがあるいは散弾となり、あるいは銛、あるいは槍、あるいは鉾となって、その鋭い先端を覗かせている。
肉食の獣の群れが哀れな獲物を嬲り殺しにする機会を窺っているような、それは光景だった。
己は動くこともままならず、鬼は疲弊の限界を超えていた。
何故だ、と怒鳴りつけたかった。
逃げろ、と伝えたつもりでいた。
柳川がその身を囮としたように、今度は浩之が自身を盾とする筈だった。
それは伝わっていると、そう思いたかった。
互いの呼吸が確かなものだと、それだけは疑いたくなかった。

174ふたりのうた(後編):2008/01/12(土) 03:59:44 ID:Km9uiEBs0
「早く、逃げ……」

逃げろ、と言葉にしようとして。
瞬間、浩之は口を噤んでいた。
見えたのは柳川の隻眼、残った片方の瞳。
そこに浮かぶ、色だった。
言葉など要らなかった。
呼吸は伝わっているのだと、そう確信できた。
逃げてくれというメッセージと、庇うという意志。
炎の鳥を、どちらに向けて放つか。
柳川もまた、敵を討ち果たす方を選びはしなかったと。
それだけのことだった。

「バカ……、だな……」

手を伸ばす。
ほんの少しの距離。
ぬるりと、生温かい。
それが柳川の命の温度だった。
温もりを感じながら、目を閉じる。
この世界の最後まで、それを感じていたかった。

無数の触手が矛先を撓めていく、ぎちぎちという音が聞こえた。
恐怖はなかった。
ただ手に伝わる鼓動だけが、優しかった。
それが最後の、筈だった。

 ―――Brand New Heart
      今ここから始まる

歌が、聴こえた。


***

175ふたりのうた(後編):2008/01/12(土) 04:01:26 ID:Km9uiEBs0

それは、不思議な歌だった。
少年も鬼も、口を開いてはいなかった。
誰ひとりとして歌わぬ、だが誰の耳にも聴こえる、それは歌だった。

 ―――胸の中の鼓動が聞こえる

歌は、まるで寒村を覆う大気そのものに響いているかのようだった。
思わず瞼を開いた少年は、更に奇異な光景を目にすることになる。

「なん、だ……これ……、青い、光……?」

少年の手、柳川の胸と触れ合った部分から、光が漏れていた。
黒い肌を優しく照らすような揺らめく炎、鬼火のようなその光に、少年の記憶が蘇る。
先ほど出会った少女。
その身を包んでいた光と、それは同じ色をしていた。

 ―――Come To Heart
      可能性を信じて

歌と、光。
詞に共鳴するように、光が明滅する。
砂浜に打ち寄せる波のような、透き通る青い光を陶然と見ていた浩之は、やがて不思議な事に気付く。

「身体が……軽い」

全身を蝕んでいた激痛と麻痺が、どこかに溶けてしまったかのように消えていた。
見れば、ぼたぼたと流れていた柳川の血もいつの間にか止まっている。
青い光が鬼や鳳凰の治癒の力を強めたのか、それとも光そのものに傷を癒す力があるのか。
それは分からない。だが、少年はその疑問を切り捨てる。
動けるのなら、それでいい。
遅ればせながら、自分たちを狙っていた触手へと目をやる。
今にも少年と鬼を貫こうとしていた筈の肉槍の群れはしかし、不可解なことに、或いは少年たちにとっては
幸運なことに、その動きを止めていた。
どころか、大波の如く迫っていたその無数の群れが、じりじりと下がりつつすらある。
それはどこか、戸惑いや恐怖といった感情に支配された劣勢の兵のように、浩之の目には映った。

「あいつら……、もしかして……」

傷が急速に癒えつつあることに気付いたか、柳川が喉を鳴らす。
その巨躯にそっと手を当てると、青い光が強く瞬いた。
触手が、更に退く。
立ち上がる。やはり既に痛みはなかった。
柳川と触れ合う手から漏れる光が、白銀の聖衣を青白く照らしていた。
同じように立ち上がった柳川と目を見交わし、頷く。
鬼の、ごつごつとした黒い手に、浩之はそっと手を添える。
新たな歌の一節が、響く。

 ―――君におくる テレパシー

青い光が、一際大きく煌いた。
触手の壁が、光に押されるように崩れ始める。

176ふたりのうた(後編):2008/01/12(土) 04:02:21 ID:Km9uiEBs0
「わからねえ、理屈はわからねえが……この光であれを押し戻す!」

叫ぶ声に、力が漲っていた。
繋いだ手が温かい。

 ―――それなりの悩みも抱いて
      迷いも消えなくて

同時に足を踏み出す。
崩れた壁から、糸がほつれるように触手が顔を覗かせる。
走り出した。
迎え撃つように、触手が飛ぶ。

 ―――この惑星の上で何か求め探し続けて

右から迫る桃色の散弾を、青い炎の鳥が焼き尽くす。
左から狙う肉塊の槍衾を、青く輝く爪が切り裂いた。

 ―――耳を澄ませば教えてくれたね
      痛みも悲しみもすべてなくしてくれる

駆け出す。
周囲を囲む壁が一斉に崩れ、それを構成していた触手のすべてが刃と化す。
疾駆する二人を狙って、空を埋め尽くすほどの刃の雨が降り注いだ。
押し寄せる槍を、鉾を、銛を見上げて、少年と鬼は繋いだ手を天へと掲げる。

 ―――奇跡

溢れ出す青が、光の塔となって空と大地を繋いだ。
光は瞬く間にその半径を広げ、刃の群れを飲み込んでいく。
青の中で、触手が融け崩れ、蒸発する。
光が収まった後には、刃の大群はその痕跡すら残さず消え去っていた。

177ふたりのうた(後編):2008/01/12(土) 04:02:46 ID:Km9uiEBs0
 ―――Brand New Heart
      蒼い惑星に生まれて

疾走が再開される。
七瀬彰だったものは、既に目の前に迫っていた。
人型のオブジェから、新たな触手が涌き出す。
それを打ち払い、薙ぎ払いながら、二人はその災厄の中心に向かって歩を進める。

 ―――夢のような世界が広がる 

あと数歩。
爆発するかのような勢いで触手が拡がった。
怒涛の如く奔るその触手は、しかし迫る二人に触れる直前、青い光に包まれて燃える。
疾走は止まらない。

 ―――Far Away
      澄んだ空の向こうの

眼前、肉薄した敵を前に、少年が炎の宿る拳を握り込む。
そっと口を開いた。

「……柳川さん」

視線を交わすことはなかった。
だがその短い呼びかけに何かを察したように、鬼は微かに表情を変えた。
ほんの刹那の沈黙。
何かを言いかけ、口を閉ざし、そして最後に―――静かに、頷く。
真紅の爪を、青い光が包み込んだ。


 ―――君に届け テレパシー



******

178ふたりのうた(後編):2008/01/12(土) 04:03:16 ID:Km9uiEBs0



それは、一つの物語の終わり。
みどり児の最後に見た夢。



******

179ふたりのうた(後編):2008/01/12(土) 04:03:39 ID:Km9uiEBs0

懐かしい、声がした。

「……くん、彰君」

目を開ければ、冬の陽射しは冷たくて、眩しい。
何日か前に降った雪が道の片隅に寄せられたまま、溶けずに凍り付いていた。
吸い込んだ清冽な空気に、ぼんやりとしていた意識が覚醒していく。

長い夢を見ていた。
長い、嫌な夢だったように思う。
それは目を覚ませば忘れてしまう程度の、儚い悪夢。
今はもう思い出せない、遠い世界の出来事。

見上げれば、空は青く、遠く。
足元に目をやれば、どこまでも赤い煉瓦道が続く。
この道の先には、いつものキャンパス。
歩き出せば、いつもの笑い声。
終わることなんて考えもしない、いつまでも続くはずの時間に繋がる道。

―――だと、いうのに。

「どうしたの、彰君?」

ああ。
これは夢だ。
いつかどこかの悪夢の中にいる僕がみる、悲しい夢だ。
ただの一歩をすら踏み出す前に、僕はそれを喝破する。

懐かしい声。
懐かしい笑顔。
昨日も、一昨日も、その前にもずっと会っていたはずの、懐かしい、たいせつなひと。

陽だまりに咲く小さな白い花のような、あたたかいひと。
そのひとが、微笑んでいる。
それはずっと、たぶんずっと、こころの一番深いところで、誰にも触らせないようにしまい込んできた、
僕の、一番たいせつな笑顔だ。

だからこそ、わかる。
これが夢なのだと。

180ふたりのうた(後編):2008/01/12(土) 04:04:28 ID:Km9uiEBs0
「……?」

夢の中のたいせつなひとが、不思議そうな顔をする。
何でもない、というように首を振ってみせた僕は、きっと泣いていただろう。

ああ、そうだとも。
このひとはいつだって、こんな風にやさしく笑ってくれていた。
このひとは、いつだってこんな風にやさしく笑ってくれていたけれど。
……それは、僕にだけ向けられるものじゃあ、なかったんだ。
誰にでもやさしくて、それでもずっと特別な誰かのほうを見ていた、僕のたいせつなひと。

それに何より、と。
頬に流れる涙の痕の冷たさを感じながら、僕は苦笑する。
見上げる空は、透き通るような紺碧。ゆっくりと流れる雲は白。

「……大丈夫、彰君? どこか、具合でも悪いの?」

このひとはずっと、僕のことを七瀬君、と呼んでいたんだ。

手の甲で拭った涙はひどく冷たくて。
その刺すような感覚に、僕はこの夢が醒めてしまわないかと不安になる。
しばらく待っても目の前の心配そうな顔が霞んで消えたりはしないのを確認して、ほっと息をついた。

夢は夢だと、人は言うだろう。
醒めれば泡沫のように霧散する、砂上の楼閣だと。
追えど掴めぬ、掴めど失せる、虚ろな幻影だと。

だけど、それでも。
夢の中で、夢と知りつつ、僕は思う。
それでも、それでも、こんなにも穏やかで、こんなにも綺麗な夢なら。
差し出された手に、そっと手を重ねるくらいは、してみたいじゃないか。

「―――」

温かいな、と思う。
やわらかくて、あたたかくて、やさしい。
僕の夢の中の、たいせつなひと。

驚いたように、はにかんだように。
ほんのりと頬を染めたひとが、何かを言おうと口を開いたとき。

181ふたりのうた(後編):2008/01/12(土) 04:04:59 ID:Km9uiEBs0
「―――おい彰、何やってんだ! 置いてくぞ!」

遠くで、声がした。
はっとして、そちらを見やる。

「……」

見やって、一気に涙が引いた。
はるか道の彼方、大袈裟に両手を振っているのは、よく見知った友の姿ではなかった。
縮れた髪にいやらしい目つき、緩みきった口元。

「いつまで俺様を待たせる気だぁっ! おい彰、聞いてるのかっ!」

軽い頭痛に、こめかみを押さえる。
なんだよお前、なんでこんなところにいるんだよ。
彰、彰って馴れ馴れしいな、もう。



……

…………まあ、いいか。

小さく溜息をついて。
顔を上げる。
僕の顔と、遠くに見えるワカメみたいな縮れ頭を交互に見ている、たいせつなひとの手を、僕はほんの少しだけ強引に握って。

「誰を置いていくって? 勝手に行ったら承知しないぞ、―――!」

僕は、歩き出した。

182ふたりのうた(後編):2008/01/12(土) 04:05:49 ID:Km9uiEBs0

















 ―――知らず、周の夢に胡蝶なるか、胡蝶の夢に周なるかを。

















******

183ふたりのうた(後編):2008/01/12(土) 04:06:26 ID:Km9uiEBs0

少年の指がその青白い額に触れるのと、鬼の振るう真紅の爪が、繋がった二つの身体を両断するのは、ほぼ同時だった。
細く白い、女性とも見紛う青年の身体が、音もなく宙を舞った。
それは蒼穹を飛ぶ鳥のようにも、天へと還る御使いのようにも映る、淡い幻想の光景だった。

「鳳凰―――幻魔拳」

顔を伏せ、指を突き出したまま、少年が呟く。
七瀬彰と呼ばれた青年の身体が、やがて引力に抱かれ、弧を描いて落ちる。
小さく軽い体躯が大地を叩く寸前、静かにそれを受け止めるものがあった。

「……」

柳川祐也である。
その身体は既に鬼の姿ではなく、人間のそれへと変じていた。
幾多の傷跡を寒風に晒しながら、柳川は黙って立ち尽くしている。
少年、藤田浩之もまた、そんな柳川とその胸に抱かれた骸を見つめ、何も語ろうとしない。

「浩之……」

しばらくの時を置いて。
事切れた七瀬彰の骸をじっと見つめたまま、柳川が呟くように声を絞り出す。

「彰は……、幸せな夢の中で、逝けたんだろうか……」

その問いに、すぐに応えはなかった。
風と、火の粉の爆ぜる音が、立ち尽くす二人を包んでいた。

「さあな……」

やがて、ぽつりと。
少年が、小さく口を開いた。

「俺には、わかんねえ。わかんねえけど……けど、そいつ……」

そこまでを言って、その先の言葉を、浩之は飲み込んだ。
自分が口にしていい言葉ではないと、そう思った。
それはきっと、誰にも答える権利のない問いなのだと。
それでも、

「そいつは、さ……」

少年は、最後にもう一度だけ、柳川の腕に抱かれた白い躯を見る。
七瀬彰の、二度と動くことのない表情は。

「―――」

どこか微笑んでいるように、見えた。

184ふたりのうた(後編):2008/01/12(土) 04:07:10 ID:Km9uiEBs0
 
 
【時間:2日目午前11時すぎ】
【場所:C−3 鎌石村】


藤田浩之
 【所持品:鳳凰星座の聖衣】
 【状態:鳳凰星座の青銅聖闘士】

柳川祐也
 【所持品:なし】
 【状態:軽傷】

七瀬彰
 【状態:死亡】

御堂
 【状態:死亡】

→937 ルートD-5

185診療所にて、煩悩と戦闘と策/壊れた歯車の国、暴虐の王:2008/01/14(月) 16:16:26 ID:/lyj3aFg0
 向坂環が上手い具合に足止めしてくれているからなのか、相沢祐一、緒方英二、そして重傷を負っている神尾観鈴の三人は特に襲撃を受けることもなく診療所へと飛び込むことが出来た。

 万が一敵が潜んでいてもいいようにと英二がベレッタを構えながら進んでいったがどうやら誰もいないらしく、診療所に響き渡るのは英二と観鈴をおんぶしている祐一の足音だけであった。

「誰もいないようだが……一悶着あったみたいだな」
 とある一室で、英二が床についた血痕と壁を穿つ銃弾の跡を見ながら呟く。やはりここでも、自らの生のみを求めて諍いが発生していたのだ。英二が血に触れたが、どうやら固まっているようで手に張り付く、ということはなかった。指を擦りつつ、英二が観鈴を近くにあったベッドに寝かせるよう指示する。

「少年は外の様子を見張っててくれ。僕は出来る限り治療してみる」
 祐一が何かを言う前にベレッタを投げ渡す。それを受け取りながらも、祐一は尋ねる。
「英二さん、縫合とか出来るのか?」
 いや、と英二は首を振るが、「けど少なくとも少年よりは手先は器用だと思うけどね」と言って近くにあった救急箱の中身を見る。祐一は多少ムッとしながらも、確かに大人の方がそういうことは得意かもしれない、と思ったので「分かったよ、行って来る」と英二に背を向けて廊下の方へと歩き出した。

「気をつけてな」
「分かってるよ、とーちゃん」
 僕はそんなに年をとってないぞ、という風な視線が向けられたような気がしたが構わず祐一は扉を閉めた。今は、敵をここに近づけさせないことだ。

 廊下に出た祐一は、近くにあった窓から外の様子を窺ってみる。緑も豊かに茂る森の向こうに、その色と同じ色の髪の……狂った機械がいた。
(あいつっ……)
 HMX-12。マルチと呼ばれるメイドロボの光なき濁った光学樹脂の瞳が、診療所をまじまじと見つめていた。まるで、出てくるのを待っているように。
 いや、実際出てくるのを待っているのだろう。診療所の出入り口は窓でも使わない限り入ってきた一箇所だけ。その窓も鍵はちゃんとかけられており、入ろうと思うなら突き破るしかない。もちろんそうしてきたならばすぐにでもこのレミントンM700で吹っ飛ばしてやるが、それは相手も分かっているのか迂闊に侵入してくることもないようだった。
「持久戦になりそうだな……」

 少なくとも観鈴の治療が終わるまではなんとしても持ちこたえねばならない。環の安否も気にはなるが、そこは彼女を信じるしかない。
 再び祐一は視線をマルチに戻す。彼女は診療所の周りをぐるぐると回るようにしてこちらの動きを確認しているようだ。他の部屋からも様子を見てみるが、相変わらず行動は同じ。

186診療所にて、煩悩と戦闘と策/壊れた歯車の国、暴虐の王:2008/01/14(月) 16:17:00 ID:/lyj3aFg0
 マルチの行動を観察している最中、祐一は彼女が手ぶらなことに気付いた。最初に持っていたフライパンがない。
「向坂が奪ったのか……?」
 隠していることも考えられるがわざわざそうする理由が分からない。恐らく環が奪ったという推理で間違いなかった。なら、今攻撃を仕掛けてもマルチを楽に倒せるのではないか?
 無論、祐一たちの目的は観鈴の治療であり戦闘をすることではない。しかし目の前の脅威を排除しておくに越したことはない。

 どうする。討って出るか。いくら相手がロボットだからと言って所詮はメイドロボ。身体能力はそんなに変わらないのではないか。増してやこちらはクリーンヒットさえすれば一撃で仕留められるレミントンM700がある。こちらが優位なのは明らかだ。
 それに万が一の話ではあるが環が敗北し、向坂雄二がマルチに合流するようなことがあればますます脱出は困難になるのではないか。敵が分散しているうちに各個撃破しておくのが最上の策ではないのか。

(どうする相沢祐一……決断するなら今だぞ)
 考えすぎて頭に血が上りかけている。当然だ、まさにこれは生か死かを分ける分岐点なのだから。自然と目が泳ぎ、レミントンの銃把を強く握り締める。
(落ち着け……)

 一度目を閉じて、深呼吸する。まずは冷静になるんだ。そう、クールだ、クールにならなければならない。もう一度落ち着いて考えろ。
 なぜマルチは手ぶらなのに武器を探そうともしない?
 向坂雄二の命令を絶対視しているのは分かる。何せ『雄二様』などと呼んでいたくらいだ。ならばこそ任務を確実に遂行するために武器が必要なのではないか? 棒切れでも何でもいい、取り合えず手ぶらなのは絶対にまずい、はずだ。

 祐一は考えた挙句、討って出るのは諦め窓から射撃を行ってみることにした。
 今確認するとこちらとマルチの距離はおよそ10メートルほど。十分に射程圏内にいる。
 レミントンからベレッタに持ち替え、射撃できそうなところまでマルチが来るのを待つ。

 すると一歩、二歩……マルチが祐一の視線上へと向かって歩き出す。
(いいぞ……そのままこっちまで歩いて来い)
 一度射線上へ来れば後は連射で当てることが出来るはずだ。いや、きっとそうしてみせる。
 ゆっくりとマルチが一分ほど歩き、診療所の中を窺うように窓へと向く。そしてその窓のすぐ傍には……祐一がいた。

(今だっ!)
 素早く反転すると、祐一は窓の外へとベレッタを構え――られなかった。
「なっ!?」
 祐一の姿を確認するや否や、まるで待っていたかのようにマルチがポケットから手のひらほどのサイズの小石を取り出し、まるでプロ野球選手か何かのようなスピードで小石を投擲してきたのだ!

187診療所にて、煩悩と戦闘と策/壊れた歯車の国、暴虐の王:2008/01/14(月) 16:17:23 ID:/lyj3aFg0
「嘘だろっ!?」
 反射的に身をかがめとっさに小石を避ける祐一。当たることこそなかったものの、窓を直撃した小石がガラスを割り、破片が祐一へと降り注ぐ。一方投げられた小石はというと、まるでレーザービームのように一直線に廊下を通過していき、壁に当たったところでようやくころころとその動きを止めた。
 冷や汗が流れ落ちるのを、祐一は感じていた。もし不用意に外に討って出ていたら……想像しただけでも吐き出しそうだ。
 『メイド』とは言えロボットはロボット。人間とは比較にならないほどのパワーを有していることを、祐一は改めて思い知った。同時に、絶対に奴を中に入れてはならないことにも。

 祐一はまたレミントンに持ち替えると、立ち上がりざま連続してレミントンを窓の外へと向けて発砲する。そこにマルチがいるかどうかなど確認する間もなかったが、この期に乗じて内部へと侵入を試みる可能性は十分にあったからだ。
 果たして祐一の予想通り、こちらへと接近しようとしていたマルチは即座にバックステップしながらレミントンの散弾を回避していく。そしてお土産と言わんばかりに、マルチもポケットから再び小石を取り出して連続して投擲する。祐一は即座に反転し、壁に張り付く。その直後、今まで祐一のいた空間を小石が駆け抜けていく。最初の投擲同様、放物線を描くこともなく。

「どうした! 少年!」
 閉めた扉の向こうから英二が大声を出して祐一の安否を気遣うのが聞こえた。本来なら喋る余裕などないのだが、無理矢理声を絞り出して状況を伝える。
「ちょっとトラブりました! 敵を追っ払ってます!」
 また反転して外にいるマルチにレミントンの照準を向けようとしたが、マルチは既にレミントンの射程外まで退避し、しかしそれからまた診療所を窺うようにぐるぐると周りを歩き始めた。

(くそ、やっぱ持久戦に持っていくつもりか……)
 マルチの小石の射程は一直線上にいるならほぼ届くだろうし、小石なんてそこら中どこにでも転がっている。つまり弾数に関しては向こうの方が上だ。
 祐一はマルチの射程に入らないように身を屈めながら英二のいる部屋まで転がり込んだ。

     *     *     *

 祐一が出て行ってからすぐ、英二は観鈴の治療を行うべくまずは服を脱がすことにした。
 無論英二にやましい思いは何もないし、観鈴を助けたいという一心での行動なのだが……一応、断りを入れておくことにしておいた。
「あー、その……済まない。失礼」
 念のために数秒ほど間を置いてみるが、ベッドに横たわる観鈴からは苦しげな吐息が聞こえるばかりで英二の声が聞こえているかどうかさえ怪しいものだった。額からは脂汗も流れている。悠長に返事を待っている場合ではなさそうだった。

188診療所にて、煩悩と戦闘と策/壊れた歯車の国、暴虐の王:2008/01/14(月) 16:17:47 ID:/lyj3aFg0
「……脱がすぞ」
 意を決して観鈴の制服に手をかける。布を通してでも分かる観鈴の体温に、なおさら緊張感が高まる英二だったがいい加減恥や外聞を捨てなければならない。この非常事態なのだ、きっと観鈴も笑って許して……くれるだろうか?
 いやいかん迷っている場合じゃない、と英二は首を振り恐る恐る制服をずらして……いかん、こんなのんびりやってる時間はないぞ、と再度英二は大きくぶんぶんと首を振り、今度こそ意を決して観鈴の制服を勢いのままに完全に脱がす。

 瞬間、観鈴の可愛らしい下着が否が応にも目に入ってくるが英二は心の中で般若心経を唱えて何とかピンク色の思いを打ち消す。それよりも傷の治療だ。
 ブラとショーツを何とか視界に入れないようにしながら朝霧麻亜子が撃ち抜いた脇腹の部分……出血している箇所を確認する。
 まだ出血は続いており当然だが自然に止まる気配はこれっぽっちもない。早急に止血を行わねば命に関わるだろう。
 まずは血を拭き取ろうと偶然あった(恐らく前にここを使っていた人物が用意していたものだろう)濡れタオルを取ろうと視線を変えた瞬間。
(ピンク……)
 ぶんぶんぶんと髪が乱れるほど頭を振りまくり、再び般若心経を唱えて頭からピンク色を排除する。英二の脳はもうこれ以上ないほど疲弊していた。

 何とか心を落ち着かせ、下着が目に入らぬように細心の注意を払いながら優しく、しかし手早く血を拭き取っていく。傷口にタオルが触れた瞬間、観鈴が「う……」と苦しげな声を上げたが、今は我慢してもらうしかない。血はまだ後から後から出てきて、次は消毒して縫合しないといけない、のだが。
(僕に出来るのは消毒まで……縫合は出来ない)
 麻亜子の放った銃弾は比較的口径の小さなもので弾も貫通しているからちゃんと消毒を行えば感染症にかかることはないと英二は考えるが……傷口を塞ぐ縫合が出来ない以上止血は難しい。血が止まるかどうかは自然治癒に任せるしかないのだ。
(だがやれるまではやるさ……!)

 消毒液を取り出しガーゼに付けてから傷口の周りを拭いていく。その度に観鈴が苦しげに身体をうねらせ、その痛みのほどを訴える。
「あと少しだ。我慢してくれ」
 聞こえているのかいないのか、観鈴がこくこくと頷いたように見えた。英二が笑って「いい子だ」と頭を撫でながら包帯を取り出し、丹念に腰部に包帯を巻き付けていく。十数回巻いたところで治療が終わろうかという時、外から窓ガラスが割れるような音が聞こえ、続けて銃声が診療所に木霊した。

「なんだっ!?」
 英二は思わず観鈴から目を外し、扉の外へと向かって怒号を出す。
「どうした! 少年!」
「ちょっとトラブりました! 敵を追っ払ってます!」
 まさか、もう襲撃されているのか? まだ治療が終わっていないのに! 英二は舌打ちをしながら少しでも包帯を多く巻いていこうと手を動かす。

189診療所にて、煩悩と戦闘と策/壊れた歯車の国、暴虐の王:2008/01/14(月) 16:18:09 ID:/lyj3aFg0
「英二さん!」
 慌てるようにして祐一が部屋の中に転がり込んでくる。銃声から数分と経っていないのに、祐一の肩は激しく上下しており僅かな時間の間、英二が包帯を十数度巻くまでの間に壮絶な戦いが繰り広げられていたことを意味していた。
 下着姿になっている観鈴について何か言われるだろうか、と英二は思ったが祐一はそれよりも扉の外……いや遭遇した敵の方へ意識を向けているからか特に言及してくることはなかった。祐一は英二の近くにあったデイパックの中からレミントンの12ケージショットシェル弾を取り出すと少々もたつきながらも弾を込めていく。

「誰が?」
「あのマルチとかいうロボットです」
 弾を込め終えると、祐一はベレッタを英二に投げ返す。いきなりのことだったので慌ててしまい上手くキャッチ出来ずに落としてしまったが観鈴の体にぶつけてしまうというヘマはしない。

 傷口にでも当てて起こしてしまうならまだしも傷を広げてしまっては目も当てられないからね。

「気をつけて下さい。あのロボット、凄いスピードで石を投げつけてきましたから」
「具体的には?」
「松坂渾身の一投」
「それは怖い」

 おどけたように英二は笑うが、しかしすぐに真剣な表情になって出していた荷物の整理を始める。
「ならここにとどまっておくより逃げた方が良さそう、だな」
 整理を終えると次に観鈴の体を持ち上げながら服を着せていく。本人に意識がないためスカートなどはかなり苦労し、英二が手間取っているのを見かねてか祐一も手伝う。もちろん英二と同様、観鈴の姿に頬を羞恥に染めながら。
 それを誤魔化すように「逃げるって、どうやって?」と尋ねる。

「僕が囮になる」
 ピタリ、と観鈴の服のボタンを閉めていた祐一の手の動きが止まる。怒ったような声になりながら祐一が反論した。
「さっきの話聞いてたのか!? あいつは」
「手強いんだろう? まあ熱くなるな少年」

190診療所にて、煩悩と戦闘と策/壊れた歯車の国、暴虐の王:2008/01/14(月) 16:18:29 ID:/lyj3aFg0
 どうどうと祐一の肩を叩きながら英二が続ける。
「一応治療は済んだが、観鈴君は依然として危険な状態だ。ここで二人いっぺんに逃げても同時に襲われる。対象が一つだからだ。ならリスクは減らした方がいい。僕が引き付けている間、少年が観鈴君を背負って逃げる。そして環君と合流する。後はよりいい治療ができる人物を探す」
 英二の言わんとしていることは分かる。観鈴を危険に晒してまで二人で逃げるよりはどちらかが囮になって観鈴を安全に逃がした方がいい。英二が言わなければ祐一がそう提案していたところだ。しかし納得できない部分が一つだけあった。

「囮なら俺がやります。体力のある俺が引き付ければ」
「違うな」
 何が違うのか、と詰め寄りたくなった祐一だが英二の目が「まあ聞け」と言っていたので飛び出しそうになる言葉を口を堅く結んで抑える。
「確かに体力のあるのは若い少年の方だろう。それは分かってるさ。だが考えてくれ。人一人背負って走るのと、自分の身一つで戦うのと、どちらが体力を要すると思う?」
「……! それは……」
「残念だが、僕が観鈴君を背負って走ると数百メートルも持たないと思う。情けないがそういう自信がある。それに万が一、囮になった方が殺されてみろ。僕と少年、どちらがマルチと距離を広げられると思う?」

 祐一は反論できない。英二の言う事はもっともだ。あのマルチを倒せれば問題ない、が先程の戦闘で実感した通りあれを相手に生き残るだけでも至難の業だ。祐一が行ったところで勝てるのかさえ分からない。足止めをするのは体力のある方だ、と勘違いをしていた自分が恥ずかしいと祐一は思った。
「煙草なんて吸うものじゃないな。少年も、成人してもそういうことはするんじゃないぞ」
 自嘲するように、英二は煙草を吸う仕草をする。あるいは呪っているのかもしれない。体力がない自分に対して。

「観鈴君は任せた。僕は僕の仕事をしてくる」
 英二は立ち上がると、ベレッタのマガジンをベルトに差し、恐らく治療中にかき集めたのであろう医療具などを祐一に投げ渡した。祐一は自分のデイパックにそれを詰め込みながら、まるで家族に語りかけるように言った。
「ああ、気をつけろよ」
「心配するな。何たって僕は敏腕プロデューサーなんだからね」
 軽く手を上げて応えると英二はまったく畏れることなく、扉の外へ――敵の待つ戦いの場へと赴いていった。

     *     *     *

191診療所にて、煩悩と戦闘と策/壊れた歯車の国、暴虐の王:2008/01/14(月) 16:18:50 ID:/lyj3aFg0
 ワタシはロボットだ。
 ワタシは機械だ。
 機械はニンゲンの為に在る。
 機械はニンゲンの役に立たなくてはならない。
 故にニンゲンの――雄二様の命令は、絶対だ。

 ワタシは壊れている。
 ワタシはヒトを殺した。
 壊れているから、殺した。
 しかし壊れたロボットに用は無い。
 だからワタシは壊れていない。
 ワタシは雄二様の役に立たなければならない。
 だから殺す。
 しかし壊れていないロボットはヒトを殺せない。
 故に殺したのはヒトじゃない。
 殺すのは、モノだ。

 雄二様の敵はワタシの敵だ。
 雄二様の敵はニンゲンじゃない。
 雄二様の為に、ワタシは全てを壊して差し上げます。
 だから雄二様、お願いです。

 ワタシをヤクタタズと、存在価値ノナイガラクタト、呼バナイデ――

 ヒテイサレルノハ、イヤダ――


 マルチの高感度イヤーレシーバーが激しい物音をキャッチしたのと、目の前に緒方英二が現れたのはほぼ同時だった。それは英二にとっても予想外だったらしい。扉を開けたすぐ目の前にHMX-12、マルチがいたのだから。
「……いや、かえって好都合だ」

192診療所にて、煩悩と戦闘と策/壊れた歯車の国、暴虐の王:2008/01/14(月) 16:19:12 ID:/lyj3aFg0
 反射的にマルチが飛び退いたのと、英二のベレッタが火を噴いたのは同時だった。マルチの左脇腹すぐ隣を9mmパラベラム弾が通過して森へと消えて行く。
 着地すると同時に、マルチが前屈みの姿勢になり小石を数点掴む。ふんばりによって巻き上げられた砂塵がマルチのニーソックスを汚すが、もはやそれを気に留めるだけの感情を持ち合わせてはいなかった。
 電子頭脳が導き出す命令に従って、マルチはアンダースロウの要領で小石を投擲する。
 一度に投げられた数点の小石は、さながら散弾のように扇状に広がりながら風を切り、英二に肉薄する。だが英二はヒットアンドアウェイの戦術をとっているのか小石が投げられた時には既に回避行動に移っていた。マルチから逃げるように背を向けて走り出していた英二に、小石はどれ一つとして当たらない。

「どうした、僕を仕留めてみろ! 役立たずのロボットめ!」
 役立たず、という言葉にチリッと電子頭脳の奥で何かが焼けるような感覚がした。
 光を失った無感情のカメラアイが、改めて英二に焦点を合わせる。カメラのピントを合わせるように、標的をロック・オンしていた。
 英二を追うようにして、マルチも走り始める。指の先までピンと伸ばし、実に規則正しい角度で手を振りながら。

 それは目標に追いつくための合理的な行動であった。プログラムを自ら改竄し、本来メイドロボならば出せないはずの出力で、導き出す計算に従って、最善の走法を選択する。もはやそれは以前のマルチとは全く異なる思考回路だ。
 つまり、それは。
「コロス……コロサナケレバ、ユウジサマニ、ステラレル……!」
 これまでマルチが培ってきたもの。思い出。感情。それら全てを捨ててしまった、人間の為の『道具』へと成り下がってしまうことに他ならないのに。
 それがロボットとして『正しい』ことだと、『正しい』姿だと認識してしまった哀れな『ガラクタ』であるということだった。

「くそ、来栖川の科学力も伊達じゃないということか……!」
 一方の追われる英二は、確実にマルチに距離を縮められていることに焦りながらも誘導に成功しまず第一の任務は達成したことに内心喜んでいた。
 向坂雄二との会話から考えてマルチは命令に対して絶対遵守の立場を取っていた。恐らく自分を殺害するまでは特に妨害でもない限り目標を変えることはあるまい。これで祐一たちは逃げやすくなったはずだ。

 後は、どう上手く撒くか。
 今の状態で森に逃げ込んでも逆に追いつかれかねない。ベレッタで上手く攻撃を重ねて相手を戦闘不能にした後逃げるのが得策だとは思うが……
「それにしても最新型のHMX-17型ならともかく12型はここまで高性能だった……!?」

193診療所にて、煩悩と戦闘と策/壊れた歯車の国、暴虐の王:2008/01/14(月) 16:19:32 ID:/lyj3aFg0
 英二が愚痴をこぼそうとした瞬間、背中にコンクリート片を叩きつけられたような衝撃が走り、無様に地面を転がる。勢いよく地面を転がったお陰で細かい擦り傷が顔に腕に刻まれてゆく。呻き声を漏らしながら、英二が顔を上げる。
 そこには、先程より一回りも大きい岩石の欠片のようなものが転がっていた。精々握りこぶしほどの大きさであったが、猛スピードでこれが当たったのだとしたらあの激痛は納得がいく。そんな芸当ができるのは、今この場では一人しかいない。

「ぐ……松坂渾身の一投か……」
 既に目の前――距離にして数メートル――まで間合いを詰めていたマルチが、小さく飛び上がって踵落としを放っていた。英二は痛みを堪えながら横にごろごろと転がり、間一髪頭部への直撃を回避する。地面を穿つ一撃は、土を巻き上げ英二の顔に降りかかる程であった。

 ゾクッとした怖気を感じながら、英二は寝転がった体勢のままベレッタを発砲する。
 恐怖は、死の可能性を広げる最大の要因である。恐怖を力で屈服させるべく、英二は目の前にいる機械の怪物へ引き金を引き続けた。
 あらゆるものは決して、征服されざる者ではない――そう信じて。

 至近距離から発射された弾丸が、次々にマルチに命中する。
 右腕。右足。下腹部。肩も掠った。それが人間であれば、怯むどころか地面に膝を付き行動不能にさせるくらいの損傷を与えていただろう。
 しかし、目の前のロボットは服に開けられた穴から人工血液をじわじわと出しながらもわずかに身をよじらせただけで全く受け付けていない様子であった。
 英二の思いをかき消すが如く、自らが征服されざる者だと主張するように、マルチは黙って拳を振り上げた。
 なおも英二はベレッタのトリガーを引こうとする。が、目の前の怪物を砕くはずの9mmパラベラム弾が飛び出すことは無かった。理由は単純。既に英二のベレッタはホールド・オープンしていたからだ。

 けれども英二もまた冷静だった。普通ならベレッタのマガジンを入れ替えようとするか、もしくは振り上げられた拳を回避すべく横に転がろうとするだろう。マガジンの交換はとても間に合うものではないし、攻撃を回避しても立て続けに追撃が来るのは免れない。
 英二の取った行動は……人間の立脚点となる部分、即ち脚部を思い切り蹴飛ばすことだった。

 人の土台となる部分に衝撃を加えられ、さしものマルチも体勢を崩す。振り上げられた拳は、すぐに姿勢を維持するために開かれる。
 マルチが両手を地面につくのと、英二が立ち上がったのはほぼ同時。
 更に攻撃を加える隙はあった。蹴り飛ばすもマガジンを交換して数発発砲する程度の時間もあっただろう。だが英二は逃げた。息つく暇も無く脱兎の如く逃げ出した。

194診療所にて、煩悩と戦闘と策/壊れた歯車の国、暴虐の王:2008/01/14(月) 16:19:51 ID:/lyj3aFg0
 命が惜しかったわけではない。自信がなかったわけでもない。英二の役割は出来るだけマルチを引き付けて祐一と観鈴の距離を離すこと。まだその仕事を全うしたわけではないと考えていた。英二を殺害しようとする追跡者を倒す算段を練るのは、まだもう少し後だと考えていた。
 走りながら英二は不慣れな手つきでベレッタのマガジンを交換する。二、三度手が滑りかけたがそれでもマガジンを落とすという愚は犯さなかった。
 自らに課した仕事は完璧に遂行する……それが英二のポリシーであったからだ。

「逃ガシマセン……」

 背後にマルチの気配を感じる。しかし英二は振り向かなかった。
 振り向けば、それだけ速度が落ちて迫るマルチとの距離を縮めることになる。そしてもう一つ、その行為は背後の脅威に恐怖を感じていることの体現に他ならない。とにかく可能な限り走ることが、英二の生存率、そして祐一らの生存率を高めるためのロジックだった。
 ジャリ、と砂が擦れる音が耳に届く。それはマルチのスタートした合図だ。遅れて鳴らされたる始まりの鐘。二人の間は10メートルほど。生死を分かつ徒競走。さぁいつまでこの競技を続けられるだろうか――

 英二が流れ始めた額の汗を拭って速度を高めようとした時だった。ふと英二の背中を追う様にして忍び寄っていた黒い気配がふっ、と消える。
「……?」
 あまりにも突然のことだったので勘違いだろうかとも思った。気配など、所詮は人が何となく感じているものに過ぎない。しかし英二の背を押していた圧迫感のようなものがなくなっていっているのもまた事実だった。
 それが恐怖に屈する行為だと考えながらも、英二は走らせていた足をゆっくりと緩め、やがて足を止める。大きく吐き出される自分の息だけがその場に残った。

 迫る足音も、未だに痛覚を残す原因となった石つぶてが飛来する風音も、感情の無い声も、何も聞こえてはこなかった。
 だからというわけではないが、かえってそれが英二に不信感を抱かせる。明らかにおかしい状況だった。
 透き通った風が英二の肌を撫でる。それは急速に英二の体温を下げ、「おかしい」とばかり考える自分の思考もやがて落ち着いてくるようになった。
 激しく運動したせいか、眼鏡が幾分かずれているようだった。丸眼鏡の枠から外れて見える、僅かなぼやけた視界が妙に鬱陶しい。無性に煙草を吸いたくなったが、手元に煙草のカートンはなかった。

195診療所にて、煩悩と戦闘と策/壊れた歯車の国、暴虐の王:2008/01/14(月) 16:20:13 ID:/lyj3aFg0
 代わりに眼鏡を整えて視界を調整した後、英二は大きく息を吸い込み意を決したように自分の背中へと向かって振り向く。
「どういう、事だ……?」
 そこには、もはや誰もいない、荒涼とした路傍の風景が転がっているだけだった。

     *     *     *

「英二さん、上手くやったかな……」
 窓の外に敵の気配があるかどうか確認するために、祐一は観鈴をおんぶしながら頭部の上半分だけを出してきょろきょろと目を左右に動かす。英二が出て行ってから発砲音が一発だけ聞こえたが、後は静かなもので時折風が診療所の窓をカタカタと揺らす音が聞こえてくるくらいだ。恐らく、誘導には成功したのであろう。

「俺達もそろそろ逃げなきゃな……」
 環の安否が気になるけれども、と考えた瞬間噂をすれば何とやらというタイミングで、頭からダラダラと血を流しながら歩いてくる向坂環の姿があった。
「おいおい、マジかよ……」
 呆れ半分、驚き半分といった感じで祐一は声を漏らす。姉弟喧嘩にしてはいささか派手過ぎるんじゃあないのと思ったが、逆に言えばそれだけ環の弟は手の施しようのない状態だったのだろう。あの狂気じみた台詞回しからも、それは分かる。
「けど、ってことは向坂、弟を手に……」

 家族殺し、という単語が頭に浮かんだ祐一だったがそれよりもあの様子では傷も深いはずだった。一旦背負っていた観鈴を下ろして、診療所の外へ向かう。
「向坂っ!」
 声を張り上げながら走ってきた祐一に、環が軽く手を上げて応える。だがそこに余裕はなかった。弟との戦闘で心身ともに疲弊し、声すら出せない女の子が一人、そこにいるだけだった。
「色々言いたいことはあるだろうが、まずは手当てするぞ。今はまだ、ここも安全だ」

196診療所にて、煩悩と戦闘と策/壊れた歯車の国、暴虐の王:2008/01/14(月) 16:20:35 ID:/lyj3aFg0
 よく見れば顔だけでなく足や腕からも微妙にだが出血している。どれだけ激しく争ったのだろうか。訊きたい気持ちに駆られるが、口に出すことはしなかった。話してもいいことなら、いずれ環の方から喋ってくれるだろう。
 祐一は環の肩に手を回し、支えるようにして診療所まで連れて行った。

     *     *     *

「……そう、そんなことがあったのね」
 祐一に手当てしてもらい、掃除に事の顛末を聞いた環は自分の隣にどっさりと詰まれたペーパータオルの山(血液つき。吸血鬼にお勧めの一品です)を嘆息しながら眺めていた。

「悪いが、すぐにここを出るぞ。ゆっくりしてるとあのロボットが戻ってくるかもしれない」
 床に寝かせていた観鈴をおんぶし直すと、祐一は環に立つように言った。
 未だ目を覚まさない観鈴ではあるが顔色は決して悪くない。じきに目を覚ますだろう。安静にしていれば、の話だが。
「分かってる。けどこのまま西に行くのはやめたほうがいいわ。ひょっとしたら雄二が待ち伏せしてるかもしれない」

 雄二、という言葉に祐一が少し反応して口を開きかけたが、何か思いとどまったのかすぐに口を閉じて目を逸らす。その様子を見た環は、普段から考えればあり得ないくらいの申し訳なさそうな口調で、
「……ごめん。でも、どうしても弟には……」
「あ、いや、そういうことじゃないって」
 ボリボリと観鈴を背負ったまま器用に頬を掻きながら、少し遠慮がちに祐一は言う。

「むしろ安心した。お前が家族を殺すような奴じゃないって分かったからな。ただ、あんまり向坂は話題にしたくないんじゃないか、って思ってさ」
「祐一……うん、ありがとう。でも気にしてないわ、聞きたいことがあるなら遠慮なく言って」
 浮かべた笑みは祐一の言葉が少しだけでも環の心を解していることを表していた。「なら」と祐一が続ける。

「東は英二さんが、西は向坂の弟がいる。なら北か南か、になるんだが、どっちから行く気だ」
「私は南から迂回して西に抜けるのがいいと思う」
 環はデイパックから地図を取り出すと島の最南端の海岸付近を指でなぞりながら道を指し示す。

197診療所にて、煩悩と戦闘と策/壊れた歯車の国、暴虐の王:2008/01/14(月) 16:20:53 ID:/lyj3aFg0
「北は森になってるし、道も険しいはず。そんなところに観鈴を連れ込むわけにもいかないでしょ? 南からだと民家もあるし、万が一襲われたとしてもそこに逃げ込むことだってできる。それに」
 環はテーブルの上にあった一枚の紙切れを取ると、それを祐一に見せる。

「なんだこりゃ? 『日出ずる処のなすてぃぼうい、書を日没する処の村に致す。そこで合流されたし』?」
 眉をひそめて紙を凝視する祐一に、環が明朗に告げる。
「まあついさっき見つけたわけなんだけど。これは簡単な暗号ね。多分これは小野妹子が隋の煬帝に宛てた文書をもじったもの。で、日没する処……つまり西の村で合流しようって書かれてるってこと」
「まあ、言ってることは分かるが……誰が書いたんだ?」
「さぁ、そこまでは……『なすてぃぼぅい』、『ポテトの親友一号』、『演劇部部長』、この三人のうちのどれかだとは思うけど? 心当たりは?」
 いや、と祐一は首を振る。環はどうなんだと聞こうとした祐一だが、知っているなら聞きはしないだろう。むしろそれよりこの文章の内容を信じて西の村……つまり平瀬村に向かってしまっていいのだろうか? 罠だという可能性はないだろうか? だからそれを環に尋ねてみることにした。

「この手紙……信じてもいいのか? 罠って可能性もあるんじゃないのか」
「だったらわざわざ暗号みたく書いたり名前の部分をあだ名にする必要はないと思うわ。おびき寄せたいなら適当に名簿から名前を選んだりもっと目的地をストレートに書いてくるはず。だから敵の可能性は少ない」
「なるほどな……上手くいけば手紙を書いたこいつらと仲間になれる可能性もあるか」
 仲間がいるかもしれないという希望は、いやがうえにも祐一の心を高揚させた。ここまで会う人間の大半が敵だった祐一にとっては無理からぬことだろう。

「そうと決まれば出るぞ。英二さんだって頑張ってるんだ、俺達もここが踏ん張りどきだ」
「……そうね。せっかく作ってくれた風穴を無下にするわけにはいかないものね。行くわよ、祐一」
 歩くような速さで、少しだけ早足で、祐一と環、そして背負われた観鈴は活路を見出すべく飛び出した。

     *     *     *

「マルチ」
 逃げ出した緒方英二を追おうとしたマルチの背に向かって突然聞こえてきた声に、ビクリとマルチが肩を震わせた。
「ゆ……雄二、様……?」

198診療所にて、煩悩と戦闘と策/壊れた歯車の国、暴虐の王:2008/01/14(月) 16:21:13 ID:/lyj3aFg0
 彼女にとっての畏怖すべき存在。絶対的な王。そして道徳すら支配する唯一の人。フリーズを起こしたように、マルチは動くことができなかった。
「お前よぉ、こんなところで何してんだよ」
 振り向けないマルチの横に、向坂雄二が立つ。眼球はマルチと同じく底無し沼のように黒く濁り、頬が絶えず引き攣るように動き、歯を苛立たしげに鳴らしている。それは怒りなどではなく、遊びに退屈した駄々っ子の様相を呈していた。

「答えろよ、ポンコツがっ!」
 雄二は怒鳴ると、思い通りにならない玩具を叩き壊すかのような勢いでマルチを蹴り飛ばし、無様に倒れこんだマルチを踏みつける。
「答えられるのか、できねぇのかどっちだよ! はっきりしろ、あ!?」
 顔面を何度も踏みつけられる。感覚としての『痛覚』は彼女になかった。しかしマルチは本物の痛みを感じているように「ひぎっ、ひぃ」と悲鳴を上げ、残虐な王の仕打ちにのたうっていた。やがて雄二が息を切らし始め、虐待が収まってきたころにマルチが弱々しい声で詳細を報告する。

「ゆ、雄二様のご命令に、従って……敵を」
「んなこたぁどうでもいいんだよっ!」
 頭を踏みつける感触がなくなったかと思うと今度は腹部を激しく蹴り飛ばす。蹴られる度にマルチの華奢な体がビク、ビクンと痙攣するように動く。

「姉貴だよ!」

 一発。

「姉貴はどこだっ!」

 さらに一発。

「俺を弱いとか抜かしやがったあのクソ姉貴の居場所を聞いてるんだよ! 敵!? 馬鹿かお前は!」

 次の蹴りは喉に。「ぐがっ」と声にならない声を漏らした後、マルチが咳き込みながら言葉を返す。
「で、ですが……雄二様のお姉さんは雄二様が」
 そこまで言ったところで、マルチの光学樹脂の瞳が額に青筋を立てる雄二の顔を捉える。そして同時に理解してしまった。今の言葉が彼の逆鱗に触れてしまったことに。

199診療所にて、煩悩と戦闘と策/壊れた歯車の国、暴虐の王:2008/01/14(月) 16:21:34 ID:/lyj3aFg0
「うるせぇっ! ロボットの癖に! 人間様の奴隷の癖にごちゃごちゃ抜かしてんじゃねぇよゴミクズがっ! 俺がいつ意見していいっつったよ!?
 それともお前もあれか、心の底で俺を弱いとか思って見下してんのか!? 姉貴も見つけられねぇ役立たずの癖にいいご身分だなぁおい?
 教えてやるよ、人には権利と義務ってやつがあんだよ! 権利ってやつは義務を果たさないと行使できねぇもんなんだよ!
 それをお前みたいなクズは何もできねぇ癖にのうのうと権利を主張しやがって、何様だ!? 王様か!? ロボット様様か!?
 ふざけんじゃねぇよ! 人間の役にも立てないようなお前は奴隷以下だ! ガラクタだっ、スクラップだジャンクだゴミだクズだ産業廃棄物なんだよ!
 いっちょまえに口なんかきいてんじゃねぇ! 奴隷なら奴隷らしくご奉仕しろよ、あ?
 メイドロボなんだろお前は!? 人間様に逆らえる権利なんかお前には一つたりともねぇんだよ!
 なんだってするって言ったよなぁ? あの言葉はウソか? なんだってするって言ったくせにもう俺に逆らってるじゃねぇか!
 ブッ壊れてるくせに偉そうにすんじゃねぇ! 分かってんのかこのビチグソが!!!」

 普通の人間なら思わず耳を覆ってしまうような罵声を浴びせながら、雄二は喋っている間もマルチのあらゆる部分を蹴り飛ばし、踏み躙り、押し潰す。
 瞬く間に服が破れ、人工皮膚が裂け、血が流れる。ボロクズのようになりながら、それでもマルチは仕打ちを受け続ける。致命傷にならない分、それは拷問と言っても差し支えない所業であった。

「ゆ、許して……どうかお許しください雄二様……わたしが、わたしが全て間違っていました、悪いのはわたし、全部わたしです……」
「当たり前だっ! 何分かりきったこと言ってんだよポンコツ! 理解すんのが遅ぇんだよクソ電子頭脳が!」
 雄二は左手でマルチの髪を引っ張り上げ、右手で拳を作り勢いよくマルチの頬を殴る。右も左も、何度も何度も。

「も、もうひはけあひまへん、もうひはけありみゃへん……」
 殴られ続けながら言うので、まったく言葉にならない。その様子を見た雄二がちっと舌打ちをして左手を離した。支えを失ったマルチの体が瞬く間に崩れ落ちる。

「クソが……せっかく見つけてやったってのに姉貴の場所も知らねぇとは……もういい、お前に期待した俺が馬鹿だったよ」
「ゆ、雄二様……見捨てないで……どうかわたしを見捨てないで下さい……今度こそ、今度こそ必ず雄二様のお役に……」
 掠れた声で暴虐な王にすがろうとするマルチ。例えどんなに理不尽な理由で痛めつけられたとしても、今のマルチには雄二こそが全て。雄二こそが絶対の存在だった。よろよろと立ち上がり、立ち去ろうとする雄二を追いかける。

200診療所にて、煩悩と戦闘と策/壊れた歯車の国、暴虐の王:2008/01/14(月) 16:21:59 ID:/lyj3aFg0
「ち……まだ歩けたのかよ」
 マルチが追ってくるのを見た雄二が、分かった分かったというように手を振りながら言う。
「次が最後だ。もう失敗は許さねぇからな。死ぬ気で役に立ってみせろよ、クズ」
「ゆ、雄二様……は、はい、必ず」

 後がないことを知りながらも、マルチは嬉々とした声色で雄二の後に続く。まだ見捨てられていないという希望が、もう一度マルチを奮い立たせたのだ。
「姉貴を追うぞ。愚図愚図するな! 行くぞ」
「も、申し訳ありません!」
 暴虐な王と哀れな忠臣は、まだ一本の糸で繋がっていた。


【時間:2日目午後14:00】
【場所:I-07】
向坂環
【所持品:支給品一式、救急箱、診療所のメモ】
【状態:頭部から出血、及び全身に殴打による傷(手当てはした)。南から平瀬村に向けて移動】
相沢祐一
【持ち物:レミントン(M700)装弾数(5/5)・予備弾丸(12/15)支給品一式】
【状態:観鈴を背負っている、疲労、南から平瀬村に向けて移動】
神尾観鈴
【持ち物:ワルサーP5(8/8)フラッシュメモリ、支給品一式】
【状態:睡眠 脇腹を撃たれ重症(手当てはしたが、ふさがってはいない)、祐一に担がれている】

201診療所にて、煩悩と戦闘と策/壊れた歯車の国、暴虐の王:2008/01/14(月) 16:22:23 ID:/lyj3aFg0
【時間:2日目午後14:30】
【場所:H-07】
向坂雄二
【所持品:金属バット・支給品一式】
【状態:マーダー、精神異常。姉貴はどこだ!?】
マルチ
【所持品:支給品一式】
【状態:マーダー、精神(機能)異常 服は普段着に着替えている(ボロボロ)。体中に微細な傷及び右腕、右足、下腹部に銃創(支障なし)。雄二様に従って行動】


【時間:2日目午後14:10】
【場所:H-08】
緒方英二
【持ち物:ベレッタM92(15/15)・予備弾倉(15発)・支給品一式】
【状態:疲労大、マルチいないなどこ行った?】

→B-10

202ふたりは岸田:2008/01/16(水) 01:21:50 ID:kFSrd0oU0
差し込んでくる朝焼けが視界を照らし出していく、木々の隙間から覗くそれで彼女は現在の時刻を予測した。
体内時計の伝えるそれと然程変わらない時間、この体は彼女が想像するよりも余程便利にできている。
あれから、どれほどの時間が経過したのか。
それまで確認をしようとしなかった彼女には、分からないだろう。
無学寺を飛び出してから、彼女はひたすら移動し続けていた。
歩き続けているその足に疲労の色は見えない、そもそも機械の体に疲労という概念などないのだから当たり前のことではある。

ほしのゆめみの機嫌は最上級だった。
片手に戦利品である立田七海を抱えている彼女の道を、今邪魔するものはない。
空いているはずだった彼女のもう片手には、日本酒の一升瓶が握られていた。
道中見つけ、嬉々とした彼女が拾い上げたものである。
それは折原浩平がイルファを担ぐ際荷物になるからと手放したものであるが、そんな詳細などゆめみには関係ない。
自由にできる女がいる。
酒まで手に入った。
これ以上に何を望むか。ゆめみの機嫌は、最上きゅ……

「って機械の体じゃ酒は飲めねーし、女の体じゃ女は抱けねーしで最悪じゃねーか!!」

ゆめみの中の人が暴れる。
ゆめみの中の人こと岸田洋一にとって、今一番の問題がそれだった。
最高のシチュエーションが揃っているというのにそれを堪能できない状況は、彼にとってはストレスに他ならない。
それならば泣き叫ぶ女を切り刻み肉塊と化す様を眺める方が、彼にとってもオツであったろう。
しかしそんなことができる道具というのも、彼は特に所持していない。
上機嫌だったはずのゆめみのそれが、一気に降下していく。
……これからどうするかなどという、当たり前のことで悩まなければいけない現実にゆめみは苛立ちを隠せない。
それこそ決まった信念のある彼に、事を考えさせるという行為ほど無駄なものはないだろう。
男は殺せ、女は食え。それだけなのである。
ただ今は彼の体が彼女であるが故、食いたくとも食えないのだが。

203ふたりは岸田:2008/01/16(水) 01:22:16 ID:kFSrd0oU0
「そうだ、逆転の発想はどうだ?!」

つまり、女を殺して男を食えと。
……想像しただけで、ゆめみの回路はフリーズしそうになる。
明らかな拒否だった。

「むむ、そもそもこの体に性感帯はあるのか」

出展作品は全年齢対象である、難しい疑問だった。
彼の目的は対象を喘がせ快楽を与えるものではない、あくまで自身が楽しむことが重要となっている。
ではどうするか。
……それを考えようとした際、そもそも何故自身がこのような状態になってしまっているかをゆめみは反芻しようとした。
岸田洋一である自身が、何故少女の外見を模した機械人形の中に入ってしまっているのか。
その時だった。

「動くな」

声はゆめみの側面から響く、慌てて顔を向けると額にガチっと金属が押し付けられる音が鳴った。
ゆめみの瞳には映らないそれ、しかしゆめみの経験がその正体を予測させる。
これはまずい事態だと、ゆめみの回路はすぐに警報鳴らし彼女に伝えた。
だが、ゆめみの両手は塞がったままだ。いまだ目覚めぬ七海と日本酒の重量は馬鹿にならず、手放すにしてももうワンアクション必要だろう。

「けけっ……運がいいぜ。まさか、こんなにも早く女を見つけられるなんてなぁ」

ゆめみの視界に上手く映らないそれ、彼女の額に銃らしきものを押し付けている男が呟く。
身長の問題だろう、ゆめみは彼の顔を上手く確認することができないでいた。
どうにも聞き覚えのある声だなと、彼女が思った所でバランスが崩される。
男が素早くゆめみに足払いをかけたらしい、両手が塞がっているゆめみは受身をとることもできずそのまま背面から地面に倒れてしまう。
ゆめみの聴覚が、きゃっという小さい悲鳴を捉える。多分、気を失っていた七海の物だろう。
身が投げ出された際に、やっと起きたのかもしれない。
日本酒の一升瓶も、既にゆめみの手からは離れていた。
ガラスが砕ける音がないことから割れてはいないだろうと、今それを確認できないゆめみは予測する。

204ふたりは岸田:2008/01/16(水) 01:22:53 ID:kFSrd0oU0
ゆめみの両手は、今、違うもので捕らえられていた。
握り締めてくるごつい作りの成年男子の手は、どんなにゆめみがもがいても外れない強さを持っている。
荒い息が吐きかけられ、整理的な意味でゆめみの体は一度震えた。
両手には外れない拘束が、そして男の膝が割るようにゆめみの中心へと伸びていく。
何が何だか、慌てふためくゆめみの視界、逆行の中現れたのはゆめみにとっても最も見知ったものであるとい言える面影だった。

(俺ーーー?!!!)

嫌らしい笑みを浮かべゆめみに射抜くような視線を送る人物は、岸田洋一、その人だった。





【時間:2日目午前6時前】
【場所:E−6】

岸田洋一
【所持品:カッターナイフ、拳銃(種別未定)・包丁・辞書×3(英和、和英、国語)支給品一式(食料少し消費)】
【状態:ゆめみを押し倒している】

岸田ゆめみ
【所持品:支給品一式】
【状態:岸田に押し倒されている、性欲を持て余している(一応)】

立田七海
【持ち物:無し】
【状況:体が投げ出された、郁乃と共に愛佳及び宗一達の捜索】

近くに日本酒の一升瓶が転がっている

205ふたりは岸田:2008/01/16(水) 01:25:30 ID:kFSrd0oU0
すみません、関連が抜けていました。
(関連:816・917)(B−4ルート)

206Q.常識的に考えて、本当に死んだ人間が生き返ると思う?:2008/01/17(木) 22:28:07 ID:2/q5zlEg0
岡崎朋也にとって、彼女の死ほど信じられないものはなかった。
あまりの現実感の無さに、朋也は戸惑う余裕もなかった。

ただ、もうあいつとしゃべることもないのかと。
ちょっとしたことで話し込んだりとか、教室遊びにきたりとか。
そういうものが、これから一生ないのかと思うと。
とてつもない空虚感が、自分の中で膨れていくのを。朋也は感じた。

もう、目の前で藤林杏が笑うことはない。
一緒に春原をいじることもない。
馬鹿話することもない。
何もない、何もできない。

杏は、死んだのだから。

ひょっこりといつもの余裕そうな顔でまた現れるんじゃないかと、そういう理想が朋也の脳裏を駆け抜ける。
何故か、やはりまだ彼女の死が朋也は信じられなかった。
その姿を見ていないからかもしれない。
彼女の死因は分からない、分かるはずもない、朋也が知りえるはずもない。杏は朋也の目の前で命を落とした訳ではないのだから。
では、実際生きていない杏の姿が視界に入ったら、自身はどうなるだろう。
それすらも、朋也は想像できなかった。

生気のない真っ白い顔が。冷たい体が。硬く動かなくしてしまった指先が。手の届く範囲に現れたら。

どうなるだろう。
でもきっと、その時になってやっと流れるかもしれないと。ふと、朋也は考えた。
集約された悲しみ達が、開放を求めて暴れだすかもしれない。
今はまだ突然のことで揺さぶられていない冷静な自分が、そうやって崩れていくのだろうと朋也はちょっとした結論を出す。
その行為に意味はないのかもしれない、しかし。
そんな風に考えるくらいしか、朋也にはできなかった。

207Q.常識的に考えて、本当に死んだ人間が生き返ると思う?:2008/01/17(木) 22:28:32 ID:2/q5zlEg0
「岡崎朋也……」

みちるは無言で拳を握り締める朋也の姿を、心配そうに眺めていた。
第二回目の放送、それが与えた衝撃でみちるの周りの人間は誰もが顔を硬くしていた。
幸いみちるが思う誰よりも大切な人物の名は、上がっていない。
それでも知人に値する神尾観鈴の死は、幼いみちるの心に死と向き合わなければいけないというリアルさを押し付ける。





一夜をゆったりと休養に当てた彼ら、一番最後に目を覚ますことになるみちるを起こしたのは、途中で朋也と見張りを交代したことで少々の眠気が残る十波由真だった。
布団を剥ぎ取られしぶしぶ目を開けたみちるのそれに、大きな欠伸を隠そうとしない由真の横顔が映る。
部屋を出て行く由真の背中を見送った後、みちるは備え付けられた鏡で髪を整えるとダイニングへすぐに向かった。
テーブルには既に朋也も、そしてもう一人の仲間である伊吹風子も席についている。
二つずつ向かい合うように固定された椅子、朋也と風子は隣同士で座っていた。

(……岡崎朋也とずっと一緒にいたのは、みちるなのに)

ちょっとしたジェラシーが湧き上がるものの、みちるもそこまで我侭な振る舞いをしようとはしない。
余程気に入っているのだろう、風子は無邪気に朋也から譲り受けた三角帽子を弄っていた。
それはみちるから見ても、微笑ましい光景だった。それこそ最愛の彼女との思い出がふと過ぎり、みちるは感傷的になりかける。

「さ、座った座った。さっさとご飯食べましょ」
「……って、おい十波。これ、支給品のパンじゃないのか?」
「そうだけど」

食卓についているのである、朋也でなくとも何か作った物が出されると思うのは不思議ではないはずだ。
しかし彼らの目の前に並べられたのは、支給された味気ないパンとコップに入った水だけであった。

208Q.常識的に考えて、本当に死んだ人間が生き返ると思う?:2008/01/17(木) 22:28:54 ID:2/q5zlEg0
「仕方ないじゃない。食料なかったのよ、この家」
「マジか」
「水道は生きていたから、そっちはジャンジャン飲んで貰って大丈夫よ」
「そうか、水か……」

テンションの下がった朋也を置き、残りの三人はいただきまーすの掛け声で一斉にパンにかぶりつく。
朋也も一拍子遅れて、包装を解きパンを取り出した。
味気ない、支給品であるパン。
一口齧った跡に広がるもふもふとした食感……だが、それで腹が膨れていくのも確かだった。
朋也は黙ってパンを食べた。

「あ、ちなみに岡崎さんの食料はそれで最後だから」
「何でだ?!」
「あたしが食べてるの、岡崎さんの分だから」

そういえばと、彼女に出会った際餌付けるが如く食料を譲った記憶が朋也にはあった。
また昨夜も四人は食事を摂っていたので、朋也の食料の減りが早かった理由はすぐに解明された。

「ちなみにごめんなさい、夜中にも小腹空いちゃって一個拝借しちゃったの」
「中々に油断できないな、お前……」

成る程。有限である物が失われていく様を実感し、朋也はまたセンチメンタルになる。

「にょわわ、それじゃあお昼はみちるのパンを分けてあげるね!」
「ありがとう、助かるわ」
「風子も協力します!」
「みんな……あたしのためにありがとう!!」

ちっちゃい子達に懐かれ、由真は感無量のようだった。

「これからも、お尻のお世話になるかもしれませんんからねっ」
「それはもういいかな?!」

209Q.常識的に考えて、本当に死んだ人間が生き返ると思う?:2008/01/17(木) 22:29:33 ID:2/q5zlEg0
親指をビッと立てる風子のそれに、すぐ様つっこみを入れる由真。
平和だった。
その平和に、一瞬でもここが戦場である事実を朋也に忘れさせる。
だからこそ、ショックは大きかったのかもしれない。
民家に響き渡るノイズ、聞き覚えのある男の声が紡ぐ放送。
死者の発表、そして信じがたい謎の公約。

朋也の心に亀裂が走る。
朋也だけではない。
由真も。みちるも。
そして、風子も。
皆の心を捉えられるそれは、たかだか数分のものである。
しかしそれによって、食卓の空気は一変した。
言葉の消えたダイニング、食べかけのパンに再び手を伸ばす者はいない。

「岡崎朋也……」

蒼白となる朋也の顔を、正面に座っていたみちるは心配そうに見上げてくる。
言葉を返す余裕はないのだろう、朋也は無言でそれを流した。
藤林杏、彼女の死が朋也にもたらした影響は大きい。
また続け様に呼ばれた古河夫妻の名にも、朋也はショックを隠せなかった。
呆然となる朋也、それを見つめるみちるも、由真も。無言で固まってしまっている。
そんな中最初に動いた風子は、押し黙る三人を他所に一人食事を再開した。
パンを口の中に押し込み水でそれを流す様は、まるで学校に遅刻しそうになって急いで支度を終えようとしている朝の風景を連想させる。
食事が終わると風子はそのまま手にしていた三角帽子を頭に載せ直し、部屋の隅に集められていたデイバッグの方へと掛けて行った。
中身を確認してデイバッグをしょいなおした所で、風子は相変わらずの三人に向かってお辞儀をした。

「今までお世話になりました」

210Q.常識的に考えて、本当に死んだ人間が生き返ると思う?:2008/01/17(木) 22:30:00 ID:2/q5zlEg0
ぼーっとした三本の視線が風子に集まる。
誰もが彼女の言葉の意味を、理解していなかっただろう。
彼女の次の言葉を、聞くまでは。

「風子、もう皆さんと一緒にはいられません。風子は優勝を狙います」
「……はあ?」

気の抜けた朋也の声。
風子はぎゅっと両手で握りこぶしを作り、それを胸の前で構えていた。
幼いその立ち振る舞いと口から出る真逆の残虐さは、それこそ彼女が自分の言っていることを理解していないようにしか他者には思えないだろう。

「風子、お姉ちゃんに会いたいです。そのためには何でもできます」
「馬鹿、できる訳ないだろ……死んだ人間が甦るものか、考え直せ」
「考え直しません!」

だが、風子の決意は本物だった。
意固地になっている彼女が、どうすれば「優勝」できるのかということまで考えているかは甚だ疑問ではある。
溜息を吐く朋也、しかしこれ以上話すことはないと風子はさっさと翻り彼らに背を向けた。

「おい風子! 風子!!」

朋也の声にも振り返らず風子は駆けていく。
しばらくしてから玄関のものと思われるドアが開閉する音がダイニングまで届き、風子がこの民家を出てしまったという事実だけがここに残った。

「たっく、世話かけんなよ……」

もう一つ溜息をつくと、朋也は面倒くさそうに椅子から立ち上がった。
とにかく風子を追いかけなくてはいけないという朋也、しかしそれを止める者がいた。

211Q.常識的に考えて、本当に死んだ人間が生き返ると思う?:2008/01/17(木) 22:30:40 ID:2/q5zlEg0
「待って、岡崎さん」

朋也が振り返ると、そこにはまだ椅子に座ったままの由真がいた。
由真の表情は真剣だったが風子のことが気になるのだろう、朋也は由真を適当にあしらおうとする。

「何だ、話なら後に……」
「あの放送、望みなら何でもって言ったわよね」

ぴたっと。朋也の足が止まる。
改めて由真をしげしげと見る朋也の視線には、彼女発した言葉に対する疑念の意が込められていただろう。
怯んだように由真も一瞬肩を竦めるが、彼女はしゃべりを止めなかった。

「言ったわよね。優勝して、皆を生き返らせればいいって」
「お前、そんな馬鹿げたこと信じてんのか?」
「で、でもそう言ったじゃない! あの子じゃないけど、い、生き返らせることができるなら……そ、それなら、手っ取り早く優勝を目指した方が……」
「十波!」

朋也の怒号が響き渡る。
ひっ、という由真の小さい悲鳴が隣から上がり、隣に座っていたみちるも思わず身を震わせた。
……怯える二人の姿に朋也は、溜息をまた一つ吐く。

「その話は後にしろ。今は風子を探すのが一番だ」
「……」

訪れた無言は、朝の楽しい風景の微塵など微塵もない。
朋也は内心の苛立ちを隠そうと無言をつらぬき、由真とみちるが支度を終えるのを待った。
タイムロス。
二人を待っている間に風子を先に探しに行った方が良かったのではないかという考えも、朋也にはあった。
最初は朋也も、そうしようとしていた。
しかし由真の挙動に不信を感じ、朋也は三人でいることを選んだ。
それは間違った選択ではないだろう、風子と合流することができても他の二人と再会できなければ意味はない。
それならば、あのくだらないやり取りで足止めを食らうことができたということは、朋也にとってはプラスになるはずだった。

212Q.常識的に考えて、本当に死んだ人間が生き返ると思う?:2008/01/17(木) 22:31:04 ID:2/q5zlEg0
(そう考えるしか、ねーだろ……)

民家を後にした三人の視界に、風子が辿ったと思われる道しるべは何もない。
これで焦るなと言われた方がおかしいだろうと、朋也は内心毒づいた。





一方由真の心の揺れは、他の誰にも伝わっていなかった。
河野貴明、長瀬源蔵 。放送で上げられたあまりにも身近な名前に、由真の平常心は一瞬で崩された。
引いていく血の気が軽い貧血を予感させる、しかし倒れる訳にはいかないと由真は一人踏ん張った。
またもう一人、親友でもある少女の名前を聞いた気が由真はしていた。
実際は彼女ではなくその妹に値する人物なのだが、貴明の名前が先に呼ばれたことでホワイトアウトしてしまった由真の思考回路では、それを正確に捉えることができなかった。
小牧という少女が死んだ、それは今由真の中ではイコール小牧愛佳を指してしまっている。

みんな死んだ。由真が大切に思っていた人物は、全員死んでしまっていた。
道中由真が共に時間を過ごすことになった笹森花梨の名はなかったが、それでもこの現実は由真にとってあまりにも大きい悲劇としか言いようがなかった。
そんな由真に、まるで天からの恵みとも思えるような囁きが訪れる。

『発表とは他でもない、ゲームの優勝者へのご褒美の事さ。相応の報酬が無いと君達もやる気が上がらないだろうからね。
 見事優勝した暁には好きな願いを一つ、例えどんな願いであろうと叶えてあげよう』

正常な判断ができなくなりかけている由真の心に、その言葉はすっぽりと落ちていった。
そして空虚だった彼女の隙間を埋めようと、存在感をアピールしてくる。

『だから心配せず、ゲームに励んでくれ。君らの大事な人が死んだって優勝して生き返らせればいいだけだからね』

可能性はゼロじゃない。
嘘か本当か判断することはできない、だが言葉の魔力に確かに由真は取り付かれかけていた。

213Q.常識的に考えて、本当に死んだ人間が生き返ると思う?:2008/01/17(木) 22:31:51 ID:2/q5zlEg0
―― 由真の心の揺れは、他の誰にも伝わっていない。

朋也にも。
みちるにも。
勿論、風子にも。
皆、自分のことで精一杯だった。他者のことを気にかける、余力もなかったのだろう。
皆、子供だった。それは仕方のないことだ。

誰もが内面に悲しみを抑えようとした結果が、これだ。
深夜風子の心を癒した朋也の行動がまるで嘘だったと思えるくらい、四人の心はばらばらになっていた。




【時間:2日目 6時半過ぎ】
【場所:f-2】 

岡崎朋也
【持ち物:クラッカー複数、支給品一式(食料無し)】
【状況:風子を追いかける,当面の目的は渚や友人達の捜索】

十波由真 
【持ち物:ただの双眼鏡(ランダムアイテム)】
【状況:風子を追いかける、混乱気味】

みちる 
【持ち物:武器は不明、支給品一式(食料少し消費)】
【状況:風子を追いかける、当面の目的は美凪の捜索】

伊吹風子
【所持品:スペツナズナイフの柄、三角帽子、支給品一式(食料少し消費)】
【状態:公子を生き返らせるために、優勝を狙う】

(関連:365)(B−4ルート)

214冷たい方程式:2008/01/19(土) 02:45:41 ID:Ba6WrXYs0
 俺様は堤防の上に座り込み、おむすびの包みを広げていた。
「やってらんね……」
 少しでも空腹になるとやる気がなくなる。しかもこの暑さだ。
 堤防の上は海から吹き込んでくる風が強く、涼しい場所だった。
 汗が乾いていくのが分かる。
 見晴らしも良かったから、昼飯を食べるには絶好の場所だった。
 俺様はおむすびを包みから取り出す。
 重いと思っていたら、ボーリングの玉のように馬鹿でかいおむすびだった。量的には申し分ない。
 もぐもぐ……
 海を前にあぐらをかいて、馬鹿でかいおむすびを頬張る。
 まるで観光客だった。
「うーん……」
 すぐ隣に立ち、一身に風を受ける犬がいた。
 ……犬?
「ぴこ」
 その犬は何を血迷ったか俺様のおむすびへ――
「ぴこ〜〜〜♪」
 ――ではなく、俺様の唇へ……って! オイ! 何だこの超展開は!
「ちょ、おま、待て、俺様は心の準備が……じゃなくてこんな展開知らねぇぞ! こっち来んなぁああぁぁぁあぁ!!!」

     *     *    *

215冷たい方程式:2008/01/19(土) 02:46:04 ID:Ba6WrXYs0
 そこで俺様は目を覚ました。何だ夢か……まったく最悪の夢だったぜ。
 やれやれ、この高槻様ともあろうものが柄にもなく取り乱しちまったな。でもどうせなら夢オチだろうと絶世の美女(ボインボインの)とやらせてくれたっていいじゃねぇか。お前らだってそう思うだろ?

 ところで、俺様に近づいてくるこの白い毛むくじゃらみたいなのはなんだ? 何かゴマ粒みたいなのが二つと逆三角形のおむすびみたいなのと舌みたいなのがついてるんだが。しかもこっちに近づいてくるし。何か知らんが異常に興奮してるみたいだし。おちけつ、お前の目指すべき相手はここから遠く離れたスペインの闘牛場にある赤いマントのはずだ。だからこっち来んな。

「……ぴこ……」
 はてどこかで聞いたことのある鳴き声だな。はっはっは、幼児の玩具みたいな鳴き声だな。こいつなら投稿! 特ホウ王国に持っていけそうだ。あの番組は大好きだったなあ……ヤラセだと分かった時には萎えたけどな。
 おや、ゴマ粒が小さくなったぞ。まるで目を閉じているみたいだな。うん、耳に響いてくるこの息遣いといい、動物的なワイルドな涎の香りといい、本当の犬みたいな……犬……ぴこ……待て。まさかこいつは――

 その瞬間、俺様の脳裏には『ズギュウゥゥゥゥン!!!』という効果音と共に熱い接吻を交わすあの漫画の一コマが描き出された。同時に、何かを祝福するように二人組の天使様が盛大にラッパをぷっぷーと鳴らしている。待て待て待て! 勝手に未来を確定させんじゃねぇええぇえぇぇ!
「何すんじゃこのアホ犬がぁあぁあぁぁぁぁああwせdrftgyふじこlp;@!」
 絶叫しすぎて後半人間の言葉になっていなかったが、とにもかくにも俺様は唇を奪おうとした超駄犬、ポッテートを引っつかんで海へと向かって思い切り放り投げた。

「ぴこ〜〜〜〜〜〜〜……」
 気の抜けるような声を残して海中へとフェードアウトするポテトを、肩で息をしながら見送る俺様。パシャーンと水しぶきをあげた光景が、妙に美しかった。
 そこでようやく、俺様はここが海岸だということに気付く。はて、どうして俺様はこんなところにいるんだっけ?

「相変わらず元気ね……」
 呆れたような、冷めたような声が俺様の耳に届く。振り返るとそこには片手でゆめみに背負われた郁乃の姿があった。ぐったりとしていてどうも元気がなさそうだ。
 ……そうだ、思い出した。俺様は崖から転落した郁乃を追ってゆめみと一緒に海へ飛び込んだんだっけな。でも意外と波が激しくて右往左往しているうちにだんだんと意識がブラックアウトしていって……

216冷たい方程式:2008/01/19(土) 02:46:29 ID:Ba6WrXYs0
「郁乃。俺様はどんくらい寝てた?」
「さぁ? 私も気絶してたからなんとも言えないけど、いの一番に溺れてたのはアンタ」
 ビシッ、と人差し指が俺様に向く。ちげーよ! 泳げないんじゃないんだよ! 着衣水泳がどんだけ難しいかお前らだって分かってんだろ!?
 ……と言い訳しようと口を開こうとした瞬間、さらに郁乃がお得意の毒舌を振るう。

「カッコ悪い。最低」
 ぐはっ、と砂浜に崩れ落ちる俺様に、更にゆめみが言った。
「た、高槻さんお気になさることはありません! ポテトさんがしっかりフォローしてくれましたから」
 ゆめみさん、そいつは当てつけですか? つーかまた犬に助けられる俺様って……どうよ? ヒーローとして。
「そうそう、ポテトさんはすごいですよ。わたし以上に早く泳いでいましたし、人工呼吸も出来るんです。わたしは呼吸という行動をしないので高槻さんが溺れて息をしてなかったときはどうしようかと……」
「全くよ。私も気絶してたけど、流石にアンタほどじゃなかったわ。さっき投げ飛ばしてたけど、後でお礼言っときなさいよ? ほんっと手間のかかる奴なんだから……」

 なんだこの扱いは。俺様の株が急落、ポテトがうなぎ上りって感じじゃねーか。つーか人工呼吸する犬ってどうなのよ? ……待て。人口呼吸?
「おい人口呼吸って……まさか」
 俺様は半ば顔を青ざめさせながらようやく舞い戻ってきたポテトを見やる。ずぶ濡れになったポテトは暢気にぷるぷると体を振って水分を払っていた。
 冗談だよな? 俺様が犬に人工呼吸されて死の淵から復活したなんて。きっと郁乃あたりが「べ、別にこれはキスなんかじゃないんだからね!」と典型的ツンデレのように恥じらいながらやってくれたってオチなんだろ? HAHAHA、二人して随分ウィットに富んだジョークを言ってくれる。な、そうだよなポテト?
 俺様が懇願するように視線を投げかけても当の畜生は「ぴこ?」と首を傾げるばかり。そして現実は非常だった。

「はいっ、ポテトさんが必死に高槻さんの口に息を吹き込んでくれたんです。それも27回も」
「……」
 これ以上ない笑顔でポテトの活躍を嬉々として伝えるゆめみさん。
 したのか。27回……27……か……い……

「……ねぇ、大丈夫?」
 見るに見かねたような表情で郁乃が気遣ってくれる。あまりに酷い顔だったのだろう。俺様は必死に笑顔を繕いながら親指を立てて返事する。
「へ、へへ、大丈夫に決まってるだろうが……27回……」
「……」
 ご愁傷様、と小声で言うのが聞こえた。郁乃にとっても犬が人工呼吸をしている光景というものはさぞシュールだったに違いない。

217冷たい方程式:2008/01/19(土) 02:46:55 ID:Ba6WrXYs0
「ぴこ、ぴーこっ」
 いつの間にか俺様の足元まで来ていたポテトが「気にするな」とでも言うようにぽんぽんと前足で脛を叩いていた。このまま奴を地平線の彼方まで蹴り飛ばしてやりたかったが今の俺様にはそんな気力もなかった。
「それでは、高槻さんも目を覚まされたようですしここから移動しましょう。幸い、みなさんのお荷物は無事だったようですし」
 ゆめみが方向転換し、何やら黒いものが山積みになっている地点に視線を向ける。あれが荷物だったのか。多分ゆめみが集めておいてくれたのだろう。
「車椅子は海中に沈んじゃったけどね」
 荷物を見ながら、自嘲するように郁乃が呟く。何かが足りないと思っていたが、郁乃がゆめみに負ぶわれていたのはそのためだったらしい。となると郁乃が自力で移動する手段もなくなったことになる。この島に車椅子みたいなものがあれば、また話は別だが。

「ふん、死ぬよりはマシだと思えよ。それよりも、俺様は疲れた。どっかで休憩するぞ」
「ちょっと、何よその言い方……いや、それはもう何も言わないけど、折原や七海……それに杏さんを探さなくていいの!?」
 俺様の言い草にカチンと来たのか、郁乃がゆめみの背中から身を乗り出すようにして怒鳴る。言いたいことは分かるが、分析ってものが出来ていない。それにあいつらとは元々成り行きでくっついていた連中だ。俺様が探す義理もない。だがそこまで言えば口論が発展するだけだろう。ファンを減らす愚は犯さないのがハードボイルドのハードボイルドたる所以なんだなこれが。

「アホか、真面目に考えてみろ。あそこにいた女……あの変な恐竜みたいなのに乗ってた女がいただろ? あの様子じゃ一戦はあったはずだ。結果はともかく、今もあの場所にいるとは、とてもじゃないが思えねぇ。いや精々バラバラになって逃げるのが関の山だっただろうよ。そんなあいつらをどうやって探す? ヒントもなしに。それにお前もそんなぐったりした様子で、体力が持つのか? それだけならまだいいが、お前は歩けない」
 ぐっ、と郁乃が息を呑むのが分かった。その点に関しては何も言えない事は本人も分かっているはずだ。それを利用するようだが……ここでビシッと言っておいてやるか。

「事実だけ言ってやる。今のお前は足手まとい以外の何者でもないんだよ。本来ならこの時点で見捨てられてもおかしくない。まぁ俺様はそんなことはしないが……とにかく、お前がいるせいで移動にも手間がかかってる状態だ。そんな状態でうろちょろしてみろ、いい的に」
「分かってるわよ!」
 郁乃の叫び声が俺様の声を掻き消す。悔しそうに歯噛みをしているのが見て取れる。郁乃のことだ、傷を抉られるようで聞ける言葉ではなかったのだろう。
 『セイギノミカタ』ならこんな状況でも快く郁乃の頼みを引き受けたかもしれない。だが俺様はそんな存在じゃないし、そんなものは反吐が出る。安請け合いはできなかった。

218冷たい方程式:2008/01/19(土) 02:47:22 ID:Ba6WrXYs0
「分かってるわよ……私が、足手まといなんて……このゲームが始まった時から……」
「小牧さん……」
 ゆめみは心配そうに郁乃を見るが、それ以上の言葉は口に出さない。単にこんな状況でかける言葉がプログラムされていないだけなのか、それとも俺様の言葉が正しいと分かっているからなのか……どちらにせよ、ゆめみは口出しする気はないようだった。
「でも悔しいじゃない……私を助けてくれた人に何も出来ないなんて……私だって、私だって役に立ちたいのに……じっとしてることが一番役に立つだなんて、そんなバカな話ってないじゃない……」

「口だけなら何とでも言えるな」
「……!」
 追い討ちをかけるような俺様の言葉に対して、郁乃がキッとこちらを睨む。でも睨むだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。
「後悔してる暇があったら何とかしてみろ。だからバカなんだよお前は。俺様が言ったのは『俺様が疲れたから休みたい』これだけだ。休んでる時間お前らが何をしようと俺様にゃ関係ない。精々歩く練習をしようが銃を撃つ訓練みたいなことしようがな。後悔や反省ってのは、明日に生かすためにあるんだよ」

 くぅっ、良い事言ってるよ俺様! これがハードボイルドの真髄って奴だよな! などと悦に入っている俺様に、郁乃が小憎たらしい口調ながらも言った。
「あんたなんかに言われる筋合い無いわよ……犬に27回も人工呼吸されたことをまだ引き摺ってるくせに」
「ああそうだ、俺様は悪党だからな。くっくっく……反省なんてしないんだよ」
 自分で言うのもなんだが下卑た声で笑う俺様に郁乃が眉を潜めながら捨て台詞を吐いた。
「……見てなさいよ、あんたが昼寝から起きた時には歩けるようになってみせる」
「お? だったら俺様の意見に従うってことでいいんだな? ん?」
「ムカツクわねその言い方……そうよ、そうだって言ってるのよ!」
「こ、小牧さん少し落ち着いて……高槻さんもあまり煽らないで下さい」

 おろおろするゆめみだが、まぁこれくらいはいつものやりとりだ。後は精々郁乃の成長に期待するとしますかね。
「はいはい、分かった分かった。んじゃ取り合えずあそこに見える家で休憩するぞ。俺様はしばらく寝るから後は勝手にしろ。行くぞポテト」
 海岸のすぐ近くにあったバラ家を指して、ぴこ、とポテトを引き連れながら俺様は疲れきった体を休ませるべく歩き出した。おっと、荷物も忘れずにと。ついでだから二人の分も持っていってやるか。俺様は紳士だからな。

219冷たい方程式:2008/01/19(土) 02:48:05 ID:Ba6WrXYs0
 俺様はまず山積みになっているデイパックまで歩いて行き荷物を回収する。その背中から、ゆめみと郁乃の話す声が聞こえてきた。
「小牧さん、本当によろしいのですか?」
「いいの。あいつの言ってることは正しい……ムカツクけど、ゆめみに背負われてるのが、今の私なんだから……」
「……分かりました。では、まずはあの家までお連れいたします」
「あいつ、あれで私を気遣ってくれてたのかな……」
「と申しますと?」
「あいつね、案外あれで鋭いところがあるから……私が歩けないことを気にしてるの、とっくの昔に気付いてて、だからあんなことを言ったんじゃないかって……ううん、やっぱ考えすぎよね。あいつロリコンだし、変態だし、天パだし」

 うるせえ。天パは関係ねぇだろ、というかロリコンじゃねぇと言いたかったが、あえて聞こえないふりをしながら俺様は先を歩いていった。
 別にそんなつもりで言ったわけでもねぇしな。まあ、多分……
「ぴこぴこっ」
 ポテトだけは、何故か知らんが楽しそうだった。

     *     *     *

 侵入した家屋には、運がいいのかどうかは分からないが、今のところは誰もいないようであった。明かりのついていない室内には、雑然と日用品などが転がっている。小牧郁乃とほしのゆめみの前を歩く高槻は、それを気にすることもなく蹴散らしながら自分が寝るためのスペースを確保しているようであった。
「あの、お布団は……?」
 普通寝ようと思うならベッドや布団などをまず探そうとするはずだ。ゆめみが尋ねるが、高槻は面倒くさそうに「床で寝る」とだけ言うと三人分のデイパックを無造作に放り投げ、どかっ、と壁にもたれかかるようにしながら目を閉じて睡眠に入り始めた。実に素早い行動力である。

「高槻さん、毛布くらい敷かれた方が」
 ゆめみが毛布を持ってこようかと提案しようとしたが、既に高槻はぐーぐーと小さないびきをかきながら夢の世界へと旅立っていた。目を閉じてから実に一分足らず。ギネスブックに載りそうなくらい早かった。

220冷たい方程式:2008/01/19(土) 02:48:30 ID:Ba6WrXYs0
「放っとけばいいわよ。バカは風邪引かないって言うし」
 ゆめみに背負われている郁乃はそっけなく言うと、ゆめみに床に下ろすように頼んだ。
「ちょっと自分で立ってみる。時間が惜しいわ、早く歩けるようにならないと」
「ですが、小牧さんも疲れていらっしゃるのでは……」
「あんなこと言った手前、今更引き下がれないでしょ。あいつに比べればそこまで疲れてない。それに、ここに来る前もお姉ちゃんとある程度リハビリはやってた。死ぬ気でやれば……絶対歩けるようになるはずだから」
「……分かりました。ですが、わたしが危険だと判断したときはすぐにお止めいたします。それがわたしの役割ですから」
 大げさな言い方ね、と郁乃は思ったがこれがゆめみなりに譲歩した言い方なのだろう。「分かったわ」と頷くと、ゆめみがゆっくりと腰を下ろし郁乃の体を地面へと解き放つ。それからゆめみは郁乃から数歩ほど離れたところまで歩き、郁乃を見守るようにしてその場で止まる。

 まず郁乃が目指すべきゴールはそこだった。
 動かせないわけではないのだ。力が入らないだけで、曲げたりすること自体はやや努力を要するが、出来る。軽くストレッチして体を解し、筋肉を使う準備をした後、いよい直立に移る。

 とりあえず自力だけで直立してみようとするが、下半身に上手く力が入らず、上半身だけが小刻みに揺れる。感覚はあるのだが、命令が伝わっていない感じだ。やむを得ず、郁乃は近くにあったテーブルの足を掴んでそこを頼りに立ち上がろうとする。
「……っ、くっ……!」
 力のない足で直立するというのは考える以上に大変な努力を要する。ぐらぐらして不安定な竹馬に乗っている感覚。ついこの間までリハビリをしていたと言うのにまるで体が忘れてしまったようだ。しかしここで簡単に諦めるほど郁乃は軟弱ではない。

 歯を食いしばり、汗を流しながら徐々に体を持ち上げていく。一度立ちさえすれば次も成功する。体というのは一度経験したことをよく覚えているものだ。忘れてしまったなら、また思い出させてやればいい。ゆめみはと言うと特に何を言うでもなく、黙々と郁乃が奮闘する様子を眺めていた。
 それでよかった。下手に言葉をかけられるより黙って見てくれている方が、郁乃にとっては励みになった。
 お姉ちゃんも、こっちが心配したくなるくらいハラハラしたような目で見てたけど……でも、安易に手を貸すこともなかったし、私を信じてくれていた。「おめでとう」は本当に体の底から全快したときだけでいい。だから……ここで踏ん張るっ!

221冷たい方程式:2008/01/19(土) 02:48:51 ID:Ba6WrXYs0
 郁乃はキッと目つきを変えて一気に立ち上がった。
 まだそれは一人立ちというにはあまりにも拙い、テーブルという支えがなければすぐにでも倒れてしまいそうなほど不安定なものだったがそれでも、郁乃は一人で立ち上がったのだ。
 よし……次に、バランスを保ちながら……
 恐る恐るといった調子で、テーブルの上に乗っけていた手を放し、自分の足だけを頼りに郁乃は立った。これもやや不安定ではあったが、倒れることはない。

 以前のリハビリでここまでは楽に出来るようになっていたからだ。それをようやく、身体が思い出したというだけだ。問題は、ここからだ。
「ゆめみ」
 一声かけるとゆめみがはい、返事をする。つい数十分前にも声を聞いたのに、それは実に久しぶりに聞いたように感じられた。
「今からゆめみのところまで歩いていくから、そこで待ってて」
「分かりました」
 頷くと、またさっきまでのように黙って、郁乃の行動を見つめる。郁乃は大きく深呼吸すると、右足を前に出すように命令を送る。
 しかし、脳裏に思い描いたように上手くはいかず、まるでロボットのようにぎこちなく、それでも一歩、前に踏み出した。聞こえる足音が、やけに鮮明に耳に届く。他の誰でもない、自分だけの足音が。
 バランスは崩れない。それはこれまでのリハビリでしてきたことは失われてはいないということを証明していた。

 平地歩行の段階まではいっていたという経験。だから次の一歩は、より自信を持って踏み出せた。
 半ば引きずるような、重々しい、映画のゾンビのような足取り。歩行と言うにはほど遠い代物ではあったが、それでも僅かずつ進んでいく。
 郁乃の視線の先には、母親のようにしっかりと見つめているゆめみの光学樹脂の瞳があった。そのカメラの向こう側にいる自分はどう移っているのだろう、と思いながら郁乃はまた一歩、足を進める。

「……今のペースですと、後八歩で辿り着けますよ」
「八歩か……」
 台詞だけ聞けば残りの距離を告げているだけに過ぎない。だがメートル換算ではなく、歩数で距離を表現していたことに郁乃はゆめみなりの優しさというものを感じていた。こういう気遣いが、本当にプログラムされたものなのかと思うくらいに。

「ゆめみ、訊いていい?」
「はい、小牧さんがよろしければ」

222冷たい方程式:2008/01/19(土) 02:49:15 ID:Ba6WrXYs0
 一歩。前へ。

「ゆめみには……学習能力とか、経験を蓄えるっていうか、そういう機能はあるの?」
「それは……半分は備わっています」
「半分?」

 一歩。前へ。

「わたしは、わたし自身で状況によっての言葉の過ちを認識できません。例えば……不謹慎だと理解している上で申し上げますが『お亡くなりになった』を『死んだ』と表現したりだとか……元々プログラムされているもの以外は誰かに『間違っている』と指摘されない限りは正しく表現できないときがあります」
「行動とかも同じ?」

 一歩。前へ。

「はい。不適切な行動があったときにも指摘してもらった上で正しい行動を示していただかないと、また同じ失敗を繰り返します」
「でもゆめみって道徳とか倫理感とか、そういうのはきちんとしてるよね。運動にしても一通り出来るみたいだし」
「そのような人間として最低限必要な道徳や倫理感などはあらかじめプログラムされていますし、複雑な運動に関しましては先程のインストーラで取得できましたから。わたしが持っていたのはプラネタリウム解説員としての行動規範、及びお客様が危険、災害に晒されたときの基本的防護マニュアルくらいで……」

 一歩。前へ。

「まだまだ知識として足りない部分もたくさんあります。それだけではなく、小牧さんたち人間の方が持っていらっしゃる『感情』の理解……喜び、怒り、悲しみ。まだわたしはその一割も理解できていません」
「へぇ……なんか、意外。ロボットって何でもできて知ってるってイメージがあったけど……そうでもないんだ。私たちと同じで、不完全……」

223冷たい方程式:2008/01/19(土) 02:49:37 ID:Ba6WrXYs0
 一歩。前へ。

「知識や機能性という面ではHMX-17型が遥かに優れています。わたしはプラネタリウムの解説員という職業に特化した仕様になっていますので……」
「でも、教えられて正しく学んでいけば知識とか、積み重ねていけるんでしょ?」
「はい」

 一歩。前へ。

「だったら、いつか追いつくことだって出来るかもしれないじゃない? 人間みたいに。努力して、間違って……少しずつ」
「HMXシリーズも知識の蓄積や学習機能は備わっていますし、論理的な思考能力もそちらの方が上ですからその可能性は低いと言わざるを得ませんが」
「でも可能性はゼロじゃない、そうでしょ?」

 一歩。前へ。

「計算上は、の話ですが」
「十分よ。私は天才より努力家の方が好感が持てるの。それにゆめみは努力家だと思ってるし」
「そうでしょうか?」
「そうよ……よし、ゴール」

 一歩。ゆめみの肩を両手で掴み、さらに一歩近づく。
「私が保証したげる。ゆめみはやれば出来る子。私もやれば出来る子」
 吐息がかかるほどに、二人の顔が近づく。お互いに不完全な、人間とロボットの邂逅。
 郁乃はゆめみから吐息を感じることは出来ない。ゆめみもまた郁乃の吐息を感じることは出来ない。
 けれども、不思議と何かが繋がっているような感触が郁乃にはあった。手を離すと、郁乃は自分が立ち上がった場所まで行って欲しいと伝える。
「続きよ。とにかく反復」
 分かりました、とゆめみは頷くと足早に指示された地点まで行く。細かい感覚で刻まれる足音が止まるのを確認してから、郁乃は振り返った。
 未来へと続く道を辿るために。

224冷たい方程式:2008/01/19(土) 02:50:03 ID:Ba6WrXYs0
【時間:2日目・13:30】
【場所:B-5西、民家】

居眠り王者高槻
【所持品:日本刀、分厚い小説、ポテト(光一個)、コルトガバメント(装弾数:7/7)予備弾(6)、ほか食料・水以外の支給品一式】
【状況:おやすみなさい。岸田と主催者を直々にブッ潰す】

小牧郁乃
【所持品:写真集×2、S&W 500マグナム(5/5、予備弾7発)、ほか支給品一式】
【状態:歩行訓練中。今のところ平地歩行だけしかできない】

ほしのゆめみ
【所持品:忍者セット(忍者刀・手裏剣・他)、おたま、ほか支給品一式】
【状態:郁乃の訓練に付き合う。左腕が動かない。運動能力向上】

→B-10

225十一時八分/苦界穢溜:2008/01/26(土) 17:21:32 ID:3VFa.BkE0


畢竟、人体を構成するのは血と肉である。


***


ねちゃり、と靴底に張り付くものがあった。
それが何であるのか、久瀬少年が確認することはなかった。
少年を支配していたのは、喉を焼き口腔を満たした、苦く辛い刺激である。
堪えきれず、吐いた。
咀嚼された朝食の欠片、崩れた野菜や原形を留めぬパンが胃液と共に神塚山山頂の大地を汚す。

思わず地面についた膝が、じわりと染みた。
その冷たく粘り気のある感触が己の吐瀉物でないと気付き、少年の胃が再度収縮する。
赤黒い染みを覆い隠すように、黄色い胃液がぶち撒けられた。
胃液の水溜りに、髪の毛が浮いていた。
長い、女の髪だった。
目を逸らす。
逸らした先に、割れた眼鏡の破片と、幾つもの硝子が突き刺さった眼球があった。
吹く風が胃酸の鼻を突くような刺激臭をかき消し、代わりの匂いを運んでくる。
鉄臭く、生臭いそれは、吸い込めば肺の内側を真っ赤に染めそうな濃さの、血の匂いだった。

死が遍在していた。
砧夕霧と呼ばれる少女たちの、物言わぬ躯。
狭い尾根一帯に広がるそれは、死体を敷き詰めた絨毯だった。
一万にも及ばんとする数の少女が、あるものは潰れたトマトのような大輪の花を咲かせ、
またあるものは肩口から三つの頭を生やしたような姿のまま虚ろな瞳を天へと向けて息絶え、
その悉くが無惨な屍を野に晒していた。

久瀬少年が立ち上がりかけて、その足を血に滑らせてよろけ、倒れた。
雨上がりに泥濘が飛沫くように、脳漿とリンパ液とどろりとした血と、小さな肉の欠片が跳ねた。
頬を拭った手に、かつて人の体内を流れていたものがこびりついているのを見て、少年が小さな悲鳴を上げた。
微笑むように融け崩れた少女の、片方しかない目と視線を交わした少年の食道が、三度蠕動する。
どろどろに消化された茶色の何かが、少女の残った目にかかり、ずるりと流れた。

今度は、悲鳴も上げられなかった。
ひくりと、口元が痙攣した。
息苦しさと嘔吐感に流れる涙が、頬を流れる内に跳ねた血と混ざって濁り、赤黒く染まって垂れ落ちた。
救いを求めるように視線を移せば、傍らに立っていたはずの男は遠く、連れた少女と何事かを話している。
少年は独り、ただそこだけは穢れなく在り続ける天を見上げる。

蒼穹の下、死の一色に塗り篭められた場所を、地獄という。


***

226十一時八分/苦界穢溜:2008/01/26(土) 17:21:57 ID:3VFa.BkE0

「これが……戦争だって、いうんですか」

少年の声が響く。
対する男は、ねっとりと喉に絡みつくような濃密な血臭の中、眉筋一つ動かさずに答える。

「いいや」

眼前に広がる死の大地を見つめるその瞳に浮かぶのは、朝霧に咽ぶ湖の如き静謐。

「いいや、これは……闘争だ」
「闘、争……?」
「そうだ。久瀬、君は言った。我等は敗者であると。世界に打ち捨てられたものであると。
 ならばそれを肯ぜず抗う我等が目指すは、勝利ではない。奪還だ。
 我等の尊厳を、存在を取り戻すため。我等は此処にいると。確かに此処に在ると。
 高らかに謳い上げ、我等を顧みぬ者達の心胆へ楔を打ち込まんと、こうして立っている。
 故にこれは……戦争ではなく、闘争だ」

淡々と告げる男の、眼差しの奥に灯る陰火の昏さに、少年は視線を逸らす。
少年の中にとて、決意はあった。
男の言葉も、理解できるつもりでいた。
だがこのとき少年の脳裏をよぎったのは、底知れぬ不安であった。
男は自分と同じ方向を向いている。同じ方角へ歩いている。
しかしその見据えるものは、目に映る世界はまるで違う色をしているのではないかという、不安。
男の背負う薄暗い何か、男の奥底に根を張るおぞましい何かは、自らの知るそれとはまるで別の次元で存在しているのではないか。
余人には聞え得ぬ、深い闇の底から響く声に突き動かされて、坂神蝉丸という男は生きているのではないか。
そんな、言い知れぬ恐怖。

「そう……ですか」

それだけを返すのが、精一杯だった。
耐えきれず視線を逸らした少年の目に、奇妙な光景が映った。

「あれは……?」

227十一時八分/苦界穢溜:2008/01/26(土) 17:22:22 ID:3VFa.BkE0
少年と共に歩んできた、八千余の少女。
山頂一帯に展開した無数の少女たちが、黙々と動き出していた。
屈み、何かを拾い上げ、受け渡し、置く。
一言も発することなく行われるそれはどこか儀式めいた印象を与える。
少年がそれを土木、あるいは治水作業のように思ったのは、次々に受け渡され、積み上げられていく何かが
まるで土嚢のように見えたからだった。

「何を―――」

言いかけた少年の言葉が、途切れる。
神塚山山頂は、建築現場でも堤防でもない。
土嚢の代わりに積み上げられる資材など、泥と石くれの他には、一つしかないことに気付いたのだった。

「何を、しているんですか」

問う声は震えていた。
少女たちの築く土嚢のような何かの山は、次第に大きくなっていく。
男はそれを静かに見つめている。

「彼女たちは何を、しているんですか……!」

張り詰めた声に、男が目線だけを動かして少年を見やる。
巌の如く引き結ばれた口元がゆっくりと開き、言葉を紡ぎだした。

「……見ての通りだ」
「何を……っ! 何をさせているんですか!」

少年の声が、激昂へと変わる。
血脂で汚れた眼鏡のレンズの向こうにあるのは、少年の想像の範疇を超えた光景だった。

「あんな……あんな風に、し、死体を……!」

228十一時八分/苦界穢溜:2008/01/26(土) 17:22:48 ID:3VFa.BkE0
震える指でさし示した先で、少女たちが黙々と作業を続けていた。
山頂一帯に転がる、一万弱の遺骸。
同胞たるその遺体、あるいはその破片、断片を拾い上げ、手を、腕を、顔を、胸をべっとりと血で汚しながら、
無言のままそれを隣の少女へと受け渡していく。
火葬した骨を箸から箸へと渡すように、少女たちは淡々と同胞の無惨な躯を運んでいく。
無造作というでもなく、さりとて丁寧にでもなく、ただ無感情な幾つもの手を経た先に待つのは、
今や人の腰辺りまでを覆い隠せる高さにまで積み上げられた、屍の山だった。
山の近くに立つ少女の手に渡った躯が、新たな頂を作る。
大きな遺骸が積み上げられ、その隙間を埋めるように肉片が、骨片が、塗り篭められていく。
この世ならざる凄惨な光景と、少年は見た。

「あなたの……あなたの指示ですか、坂神さん……!」

先ほど、砧夕霧群体の核となる少女と何事かを言い交わしていた男の背中が浮かぶ。
睨みつけるような視線を受けても、男は表情を動かさない。

「最適の戦術を問われ、現状で最も効果が高いと思われる答えを出した。それだけだ」
「それ、だけ……!?」

少年が凍りついたように固まるのを気に留めた様子もなく、淡々と男の言葉は続く。

「我等の戦術は陣を組んでの遠距離砲撃戦。特火点とまでは言わんが、遮蔽物は必要だ。
 そして我等に資材はなく、時間は更に限られている。……割り切れ」

割り切れ、という男の言葉が少年を打つ。
揺らぎなく放たれるその厳然たる口調が、少年の反論を許さない。
男の言葉は的確だった。
防衛線の構築は、一刻も早く行われなければならなかった。
指示を出すべき状況で、自分は地獄絵図を前に反吐を吐いていた。
返す言葉の、あろう筈もなかった。
しかし。

229十一時八分/苦界穢溜:2008/01/26(土) 17:23:13 ID:3VFa.BkE0
「それでも……っ、」

心のどこかで張り上げられる声が、少年には聞えていた。
それは少年の生きてきた時間、世界のありようとでもいうべきものたちの声だった。
声は叫んでいた。
目の前の光景は、その根源から間違っていると。
突きつけられた正しさを認めてはならないと、叫んでいた。

「それでも、これは……っ! あまりに人の道を、外れている……!」

張り裂けるような少年の言葉を、

「―――思い違いをするな」

男の冷厳な声が、叩き潰していた。
愕然と見上げる少年の瞳を覗き込むように、男は語る。

「あれらは、」

あれ、と男は少女たちを呼ぶ。
ひどく突き放した物言い。

「あれらは母より生まれ、育まれたものではない」

異形を埋め込まれた男の瞳に宿る一筋の激情を、少年が知り得たか否か。
ただ圧倒されたように立ち尽くす少年の臓腑を抉るような、それは声音だった。

「もとより人の道を知るように生かされてなど、いなかった」

言葉を切ると、男は静かに首を振る。
四方に築かれていく小さな防衛陣地と、そこに陣取る少女たちを見やった。

「我等は何処に立っている?」

吹く風が運ぶのは血の臭い。
青空のこちら側に広がるのは、赤と黒と、泥の色。

「此処は屍の山の上。苦界のどん底、最果てだ」

男の言葉が、結審の槌の音のように響いた。


******

230十一時八分/苦界穢溜:2008/01/26(土) 17:23:41 ID:3VFa.BkE0

「北麓、山道に火線を集中! 消耗戦に引きずり込め!」

怒号にも似た男の声が、少年の耳朶を打つ。

「西の敵は一人だが動きが早い、前線は融合せず数で当たれ!
 弾幕の密度を維持して五合目まで押し戻せ!」

矢継ぎ早に飛ぶ指示を受け、八千の少女たちが確固たる意志の下に動く。
有機的に連動するそれはまるで一つの生き物のようだと、少年はどこか他人事のように考えていた。

「敵影は四、ただの四つだ! 何としても食い止めろ、山頂に足を踏み入れさせるな!」

北側から天沢郁未、鹿沼葉子。
西から迫る影は正体不明の獣。
そして南には、来栖川綾香。
これまでも無数の夕霧を葬ってきた面々だった。
足止めはできても、斃すには至らない。
それでよかった。勝利条件は山頂の死守と、二千の砧夕霧の生存。

「北東から南へ横断する影だと……? こちらに向かってこないのなら放っておけ!
 南側は左翼に警戒強化! 戦線を維持することに専念しろ!」

座学とて、役に立つ場面であろうとは思う。
坂神蝉丸の目は二つで、喉は一つだ。
手が回らぬこともあろう、見落としとてあるやも知れぬ。
だが今、少年はただ砧夕霧の作る十重二十重の垣根の中、薄ぼんやりと座っている。
駒たることに抗わんと立ち上がった筈が、駒として敵を討ち果たそうとしている。
それはどこか歪み、ねじくれ曲がった構図だと、少年は内心で苦笑する。
幾つもの光線が奔る。
少女たちは死んでいく。

231十一時八分/苦界穢溜:2008/01/26(土) 17:24:33 ID:3VFa.BkE0

 【時間:2日目 AM11:11】

【場所:F−5】
久瀬
 【状態:健康】
坂神蝉丸
 【状態:健康】
砧夕霧コア
 【状態:健康】
砧夕霧
 【残り7652(到達・7652)】
 【状態:迎撃】

川澄舞
 【所持品:ヘタレの尻子玉】
 【状態:ムティカパ・エルクゥ・魔犬ポテト融合体、重傷(急速治癒中)】

【場所:E−5】
天沢郁未
 【所持品:薙刀】
 【状態:不可視の力】
鹿沼葉子
 【所持品:鉈】
 【状態:光学戰試挑躰】

【場所:F−6】
来栖川綾香
 【所持品:各種重火器、こんなこともあろうかとバッグ】
 【状態:ラーニング(エルクゥ、(;゚皿゚)、魔弾の射手)、短髪、ドーピング】

→906 915 ルートD-5

232クールと湯気と変人と/サイカイ:2008/01/26(土) 22:34:57 ID:8AMPA8vg0
「もぐもぐ……」
 少年との壮絶な決闘の後、国崎往人と笹森花梨は何故かまだ消防分署の中にいた。忘れ物があったわけではない。実に単純な人間の生理的本能が目を覚ましただけだ。

「くぅっ……」
 目頭を押さえるようにして、往人は感涙に咽ぶ。往人の目の前にあるどんぶりからはもうもうと香ばしい湯気が昇っている。
「国崎さん、たかがインスタントラーメンくらいでそこまで感動しなくても……」
「たかが、だと?」
 聞き捨てならんとでも言うように往人の細い目がさらに細められる。花梨はしまった、と思ったが時既に遅く、ビシィッ! と往人の持っている割り箸が花梨に向けられるや否や猛烈な勢いで説教を始めた。

「ラーメンは人類の生み出した世界最高の食料品だ。特にインスタントラーメンは日持ちし、品質も良く、何よりウマい! どんぶり一杯にお湯を注ぎ込んで卵を乗せ、熱々のご飯と一緒に食べた時の美味さと言ったらもう……!
 残った汁も辛すぎず、甘すぎず、思わず最後まで飲み干してしまいたくなるような、絶品! そう、まさに絶品! イッツパーフェクト! ラーメンセットを生み出した日本人を、俺は心から尊敬する! それをお前という奴は『たかが』だと!? カップヌードルは一つ税込みで150円、チキンラーメンに至っては86円で食べられ、尚且つお腹一杯で幸せ一杯になれるというのに『たかが』とな!?
 侮辱! これはラーメンに対する冒涜だ! いいか笹森、コレは俺の個人的な話になるが俺の支給品はラーメンセットだった……しかしお湯がなくて食べられなかった上にあのクソガキのせいで中身が大破してその美味を永遠に味わうことが出来なくなったんだぞ! クドクドクド……」

 唾を撒き散らしながら自身のラーメン話を続ける往人。あのクールな態度からは考えられないほどの熱弁だったが、何もそんなことで熱くならなくても……と花梨は思っているのだが、それを口に出すと更に話が長引く気がしたので黙って聞いておくことにした。
 そもそも往人の腹が減ったという理由で消防署内を探し回り、運良く棚の中からインスタントラーメンを見つけた時点で彼の喜びように気付いておくべきだったのだ。何せ「いやっほーぅ、ラーメン最高ー!」なんて声高に叫んでいたのにどうして自分はおかしいと思わなかったのか。「ああ、お腹が空いてたんだなあ」と思うだけだった自分が恨めしい。というか汚いから唾飛ばさんといてください。

 ずるずるとラーメンをすすりながら往人の説教を右から左へ受け流す花梨。この時彼女は初めて『先生に何回も説教されておいて良かった』と思うのであった。
「……とにかく、次にラーメンをバカにしたら天罰が下ると思え。ラーメンをバカにする奴はラーメンに泣く。分かったか」
「はーい」
 話の九割は聞き流していたが、取り合えず反省したふりはしておく。こういうことに関しては花梨の得意分野だった。
「腹に沁みるぜ……」
 往人はまた感動しながら、ラーメンをすすっていた。

233クールと湯気と変人と/サイカイ:2008/01/26(土) 22:35:22 ID:8AMPA8vg0
     *     *     *

 食事を終えた国崎往人一行は、まだ消防署に留まっていた。
「国崎さーん、いい加減行きましょーよ」
「まだだっ、まだ終わってない!」
 やれやれ、と思いながら棚の中を漁る往人の背中を見つめる。食事を終えるやいなや、往人はラーメンのストックがあるかもしれない、と片っ端から棚を開けてラーメンを探し続けていた。どうしてここまでラーメンに執着するのだろう、と思いながら花梨はソファに腰掛ける。

「笹森、お前も手伝え」
 棚の中身を全て床にぶちまけ、ようやく何もないことを確認した往人が次の棚に向かう途中で花梨に怒ったように言うが「無理無理」と諦めるように手を振る。
「だって最初にさんざん探し回ってようやく見つけたのがあの二つでしょ? もうあるわけないじゃん。第一、そこは私がもうとっくに探したし」
「ちっ、根性のない奴め……」
 往人はそう吐き捨てると次の棚の中を漁り始める。もうかれこれ一時間が経過しようとしていた。はぁ、とため息をつきながら花梨は「この人に宝石の謎は解けないな」と思いつつ膝の上に乗っているぴろを撫でた。

「ところで」
 気持ちよさそうにしっぽを揺らしているぴろを眺めていると、往人が棚を漁りつつ話を変える。
「人を探すとして、笹森だったらどういうところから探す」
「うーん、性格にもよるね。活発な人だったらそこら辺の目立つところから探すし、内気な人だったら島の端っことか、目立たない建物とか」
「なるほどな……」

 往人はラーメンを探しながらも、神尾観鈴や晴子、その他の知り合いのことも考えていた。特に神尾家には一宿一飯(本当はそれどころではないが)の恩義があるので出来れば見つけて合流したい。どこから探すか、が問題になるが……芳野祐介との会話では相沢祐一なる男と一緒にいたそうだが、それがどんな人物なのかは分からない。だが芳野を援護していたというから割かしお人よしな人物なのかもしれない。きっと往人と同じように友人、あるいは知り合いを探しているだろう。
 そしてこの島において参加者の大半を占めているのは女性だ。なら相沢祐一も知り合いは女性である確率は高い。これは憶測でしかないが、神岸あかりや長森瑞佳のように大人しめである人物の可能性も、また高い。なら、割と目立つ場所を探し回っているのではなかろうか?

234クールと湯気と変人と/サイカイ:2008/01/26(土) 22:35:45 ID:8AMPA8vg0
「もう一つ。もし銃声だとか爆発音が聞こえたら?」
「そりゃ逃げるでしょ、普通はね。よほど正義感のつよ〜い人なら別だと思うけど?」
 これも往人の考えと同じだった。誰だってまずは自分の身の安全を優先する。他人のために死地に飛び込むなど愚の骨頂だからだ。
(……俺じゃん)
 ついさっき自分がやっていたことに辟易するが、少しげんなりするがあれは少年を倒すためだった、と言い訳して次の思考を展開する。

 もし観鈴たちがここ鎌石村に来ているのならとっくにさっきのバカ騒ぎで逃げ出しているはずだ。それに気のせいだと思いたいが……どこかから銃声や爆発音が断続的に聞こえてきている気がする。それが真実かどうかは抜きにして、観鈴がここにいる確率は低いと言わざるを得ない。
「仕方ない、行くか……」
「やっと諦めた?」
 往人が結論を出したのと、棚の中に何もないことが分かったのはほぼ同時だった。他にも棚はあったがそろそろ油を売っているわけにはいかなくなってきた。
「まあ、な。まずは西に行って、それから南に下る。たしかホテルみたいなところがあったな」

「……違うよ、ホテル跡」
 訂正する花梨の声のトーンが低くなったのを、往人は聞き逃さなかった。何かあったのだろうか。そう言えば、花梨とはそういう話をしていない。
「そうだったな」
 自分の荷物を拾い上げて、往人は今度こそ本当に外に歩き出した。
 その辺の事情は、話しながらにでも聞くとしよう。
 デリカシーに欠けるかもしれなかったが、情報が圧倒的に不足しているのだから同情心に流されていてはいけない。

「そう言えば、まだ俺達は情報交換をしていなかったな。どうだ、互いにこれまでの経緯を話してかないか」
「それは、別にいいけど……」
 消防署の扉を開ける。するとたちまち外界の眩しい光が往人たちの体を照らし出す。既に時刻は昼を回り、一日の本番が始まろうとしていた。
 陽光に目を細めながら、「なら俺から話すぞ」と少年を倒すまでの経緯を話し始めた。

「……ここまでだ。何か心当たりとかは」
「朝霧麻亜子、って人なら噂だけは。たしかうちの学校で前生徒会長だったよ。それだけなんだけど」
 往人は会話しながらも、周囲におかしなことはないかと目を配らせていた。今のところ特におかしなことはない。村から外れの方を歩いているからかなのかどうかは分からないけれども。
「深い付き合いとかではなかったんだな? ならいい。次はお前の番だ」
「うん、国崎さんより長くなるけど――」

235クールと湯気と変人と/サイカイ:2008/01/26(土) 22:36:06 ID:8AMPA8vg0
     *     *     *

「十波さん、いいかげん脱力してないで早くどこかにいきましょう。密室で閉じこもっててもいいことないです。元気ないなら風子のヒトデダンス見せましょうか?」
「いや、それは別に結構」
 かれこれ床に数十分くらいへたり込んでいた十波さんに、風子が元気のでるヒトデダンスを見せてあげようとしたのですが拒否されてしまいました。残念です。

「そうね……いい加減行動を開始しないと……伊吹さん、地図見せて」
 十波さんは情けないことにデイパックを持っていなかったので風子のを見せてあげることにします。世は道連れ旅は情け。いい言葉です。
 床に小さな島の地図が広げられ、十波さんと肩を寄せ合いながら地図をにらめっこします。とにかく、まず何をするかを決めなくちゃいけません。

「今あたし達がいるのがこのホテル跡。まずはここから北に行くか南に行くか……どうする?」
 風子的には来た道を戻るのは好きではありません。が、さっきの男の人が襲ってきたことを考えると迂闊に判断はできません。風子はみんなのために泣かずにがんばるって決めたんです。民主的にいきましょう。

「風子としてはさっきの襲ってきた人とかち合わせするのは避けたいです。多分風子たちをやっつけるのは諦めたと思いますからこのまま北に行ったと仮定して、南に戻るのをオススメしますが、どうですかっ」
「……どうしてさっきのマシンガン男があたし達を殺すのを諦めたって思うの?」
 おっと、大事な部分を説明し損ねていました。風子うっかりです。

「強い武器があるに越したことはありませんよね。鬼に金棒、風子にヒトデのように」
「『風子にヒトデ』は知らんけど……まあ確かに」
「そして風子たちはまったく武器らしい武器を持っていません。この三角帽子の可愛さは地球破壊爆弾級ですが」
「帽子はどうでもいいけど……まあ確かに」
「時間を割いて弾の無駄遣いをしてまで、風子たちをやっつける価値がないと判断した。それだけのことです」
「……武器がないことにかえって助けられたわけ?」

236クールと湯気と変人と/サイカイ:2008/01/26(土) 22:36:31 ID:8AMPA8vg0
 風子が頷くと、十波さんは悔しそうに地図に拳を叩きつけました。きっと腹を立てているのでしょう。
「情けないわ……見逃してもらったようなものじゃない! あいつっ、これで勝ったと思うなよ……」
「以上が風子の意見なのですが、十波さんはどう思います?」
 メラメラと燃え上がっている十波さんを現実に引き戻すように、努めて冷静に言いましたが十波さんは鼻息荒くふんがーと吐き出すと、怒ったように言いました。

「あいつを追っかけて、ボッコボッコにしてやる! 岡崎さんとみちるちゃんの敵討ちよ!」
「それは風子も同意見です。けど、風子たちには何もありません……」
「それは……でも……」
 岡崎さんはヘンな人でしたし、いつも風子を子供扱いしていましたが、悪い人じゃなかったです。ぷち最悪だとは今でも思っていますが……嫌いではありませんでした。だからあの男の人を許せないのは風子だって同じです。あれこそ本当に最悪な人ですが、まずは生きることを考えなくてはいけません。

「まずは身を守るものを探しましょう。それに、十波さんの知り合いも探さないといけません」
 十波さんは納得いかなかったのかしばらく爪を噛んだりしていましたが、やがて「そうね」と頷いて風子の言葉に同意してくれました。
「……伊吹さんは? もう伊吹さんに知り合いはいないの?」
「居ることには居ますが……」
 少し困った顔をすると、十波さんもそれ以上何もいうことはありませんでした。別に特別な事情があるわけではありません。
 渚さん、春原さん、祐介さん……会いたい人はいますが、私情を挟むわけにはいきません。お姉さんですから。

「それじゃあ、何か使えるものを探してここから南へ下る……でいいのよね?」
「風子はそれで構いません」
「よしっ」
 十波さんは立ち上がるとまずは身近な所から、と考えたのか引き出しを開けたりベッドの下を覗き見たりして役に立ちそうなものを探し始めました。風子も地図をしまうとそれに倣って洗面所とかを調べます。

 さすがダメダメなホテルです。カーテンが破れ、バスタブには罅が入っていて、歯ブラシとかコップとかもありません。鏡は割れていません。珍しいことです。きっと鏡だけは大切にしていたのでしょう。そういえば風子、お風呂入ってないです。髪の毛も少しぼさぼさですし……これでは風子の美貌が台無しです。整えたいところですが櫛もありません。つくづくダメなホテルです。
 いつもの風子ならヒトデともいい勝負なのに……

237クールと湯気と変人と/サイカイ:2008/01/26(土) 22:36:54 ID:8AMPA8vg0
「伊吹さん? 何かあった?」
 はっ。つい風子、過去に酔いしれていました。いけません、しっかりしないと。
「いえ、特に何も……」
 十波さんのところへ戻ろうと振り返ろうとしたときです。偶然か必然かヒトデのお導きか、風子の肘が洗面台に当たってしまいました。

 ゴトッ……

 そんな音がしたかと思うと、鏡が壁から外れて前に倒れました。運のいいことに割れることはなかったので怪我をすることはありませんでしたが、全くぷち最悪です。鏡くらいしっかり立て付けておいて欲しいものです。元に戻そうと鏡を持って壁にはめようとしたときです。
「あっ……」
「伊吹さん?」
 すぐ後ろから十波さんの声がしました。風子は慌てて報告します。
「大発見ですっ、鏡の向こうに何かが!」
「何いって……あっ」

 十波さんも目を丸くします。鏡がはめられていたところは少し空洞があって、そこに何かが置かれていました。十波さんがそれを手にとって確認します。
「これは……ナイフね」
 鞘から引き抜かれたナイフは刃の銀色の輝きではなく、黒い刀身に赤く塗り染められた血のナイフでした。つまり、それは、『使用済み』だったということです。

「誰かがここにナイフを隠したのね……でも、何のために?」
「そんなこと、風子には分からないです」
「ん、まあそりゃそうだけど」
 いぶかしむようにナイフをじーっと見ていた十波さんですが、「まっいいか」と考えを打ち切ってナイフを風子に渡しました。
「これは伊吹さんが持ってて」
「いいんですか?」
「だって伊吹さんが見つけたんでしょ?」
 それもそうです。持っておくことにしましょう。ヒトデを彫るまで風子の武器です。
「十波さんはどうでしたか」
「あたしはさっぱり……」

238クールと湯気と変人と/サイカイ:2008/01/26(土) 22:37:15 ID:8AMPA8vg0
 落胆するように肩を落としましたが「けど一つは見つかったんだからいいよね」とすぐに気を取り直してくれました。前向きなのはいいことです。
「ここから離れるのも少し怖いけど……行きましょうか。じっとしてても仕方ないし」
「はい。まずは元いた平瀬村まで戻りましょう」
 意気揚々と……まではいきませんが気を引き締めてこの部屋から出ようとしたときでした。

『『ぐぅ〜〜〜』』

「……」
「……」

 沈黙。お互いに顔を見合わせます。風子たちは頷きあいました。
「まずは食べ物ね」
「まずはご飯です」

     *     *     *

「――以上なんよ」
 花梨の話を聞き終えた往人は、しばらくの間何も言わず考え事をしていた。

 岸田洋一というイレギュラー。
 ホテルに遠野美凪がいて、今は首輪を解除するために奔走していること。
 そのホテルで、花梨が例の宝石を見つけたこと。
 宝石に興味はないが、美凪の行方は気になる。北川潤、広瀬真希なる人物と行動を共にしているらしいのだが、もちろんそれがどんな人物か往人には分からない。観鈴といい、美凪といい、俺の知ってるような奴といてくれよと思ったのだが現に往人もここで出会ったばかりの花梨と行動を共にしているので文句は言えなかった。

「何か気になることがあった?」
 反応の無い往人を心配してか花梨がつんつんと脇腹をつつく。「やめろ」とそれを払いのけると「別に。だが敵の情報を得られたのは良かった」と返事をしてまた無言になった。別にこれ以上話す事もなかったからでもあるが。
「んーまあこっちも前生徒会長が敵になってるってことを知れたしね。お互い様なんよ」
 花梨はそう言うと、木々のそびえる神塚山を仰ぎ見る。いや、恐らくはその先のホテル跡を見ていた。

239クールと湯気と変人と/サイカイ:2008/01/26(土) 22:37:37 ID:8AMPA8vg0
 ここを離れてから花梨は数々の仲間を失ってきた。それに花梨は与り知らぬところであるが、北川潤と広瀬真希も既に死亡しており、かつてのホテル組の生き残りは最早美凪と花梨だけになっている。この殺し合いに抗おうとする人間の数は、着実に減っていた。
「ねぇ、国崎さん」
 しかし、花梨は絶望しない。
「何だ」
「もし探してる人が見つかったら、宝石の謎を解き明かすの手伝ってくれる? ほら、あの時はちゃんと返事もらってなかったから」
 往人は少し渋るような顔になったが「見つかったらな」と承諾する。このゲームから脱出するための策を持たない往人にとってみれば例えオカルトみたいな力であろうが脱出できる可能性があるのであればそれに乗った方がいいと分かっていたし、何よりオカルトには慣れている。
「やった、ありがとね」
 このように、また手を貸してくれるひとが現れるからだ。

「気にするな、利害の一致ってやつだ」
「だとしても普通はこんな胡散臭い話信じないんよ。人の思いを集める宝石が鍵になるなんて」
「……まぁ、そういう話も慣れてる」
「え、どゆこと?」
 花梨の目がにわかに輝きを増してきたのに、往人は気付けなかった。構わず話を続ける。
「俺は『法術』という一種の魔法みたいなことが出来る。とは言っても精々人形を動かすとかそのくらいしか……」
「見せてっ!」
 そこでようやく、往人は花梨が始めて動物園に行った子供のように目をキラキラと輝かせているのを見た。瞳には『ミステリ』と書かれている……気がする。
「あー、その、残念だが人形みたいなのがないととてもじゃないが」
「人形があればいいんだねっ!?」

 最後まで喋らせる間もなく花梨が詰め寄る。あまりの剣幕ににべもなく頷いてしまう往人。それを確認するやいなや、花梨は往人の手を掴んで猛然と走り出した。
「それじゃーホテルまでGOGO! あそこなら人形の一つや二つあるはずなんよっ! いざ行かん、無限の彼方へー!」
「おい、笹森話を聞け……」
 何度も声をかけるものの余程興奮しているのか聞いちゃいない。なんとなく往人は霧島佳乃にあちこち引きずり回されていた時のことを思い出していた。
 ああ、俺の人生は常に誰かに左右されっ放しなんだな……
 何かを悟った往人は、そのまま流れに身を任せることにした。

240クールと湯気と変人と/サイカイ:2008/01/26(土) 22:38:01 ID:8AMPA8vg0
     *     *     *

「ご馳走様」
「ごちそうさまでした」
 ホテルの中にあったすごく豪華なレストラン……跡にて、風子と十波さんは真っ白なテーブルクロスの敷かれた大きなテーブルで、豪華フレンチフルコース……ではなくカップラーメンを食べ終えました。無駄に装飾が豪華だっただけ空しい気分です。でも保存食があっただけ良かったです。

 賞味期限がどうしてか2009年になっていましたが、特に気にしないことにします。きっとすごく長持ちするカップラーメンだったのでしょう。味はまあまあでした。どうせならシーフード味がよかったですが。
 シーフードといえばクラゲを食べ物として有効利用する計画があるらしいのにどうしてヒトデはそんな話が持ち上がらないのでしょう。いえ、別にどうでもいい話ですが。いえよくもありませんが、今は考えないようにしましょう。

「それにしても水道と火が通ってて良かったわねー。もし使えなかったら宝の持ち腐れだったけど」
 しーしーとどこかにあった爪楊枝で歯と歯の間をお掃除しながら満足そうにしゃべる十波さん。じじくさいです。
「いくつかストックも手に入ったし、出だしは上々ってところかしらね」
 荷物がない十波さんにとって風子のごはんだけで食いつないでいくのには不安があったのでしょう。食糧問題は深刻です。
「そろそろ行きましょう。ぼやぼやしてるとまたあの男の人みたいなのがやってくるかもしれません」
 風子が椅子から立つと、それに合わせるように十波さんも頷いて席を立ちました。今度こそ、本当に出発です。

 荷物を持ってロビーに出たところで、外の方から何だか騒がしい声が聞こえてきました。風子の聞き間違いでなければ人の声でしょう。ってこれはいきなり未知との遭遇ですかっ!? まだ装備もろくに整えてないのに大ピンチです! 例えるならこんぼうとぬののふくでカンタダに挑むくらい激ヤバです!
 い、いけません。これくらいで慌ててお姉さんの風格が台無しです。まずは冷静に相手の出方を窺って……あれ? 十波さんは?
 風子が必死でこの場を乗り切るための作戦を考えている最中に、いつの間にか忽然と風子の隣から十波さんの姿が消えていました。おどろきです。びっくりサプライズです。って感心してる場合じゃありません! 逃げるのと十波さんの捜索とやらなきゃいけないことが二つもできてしまいましたっ! もうてんてこ舞いです。ヒトデの手も借りたい……ってよく見れば風子の前を十波さんが走っているじゃないですか!
 いつの間に! あなたはマギー司郎ですか!? いえいえそうじゃなくて十波さんをお止めしなければ!

241クールと湯気と変人と/サイカイ:2008/01/26(土) 22:38:24 ID:8AMPA8vg0
「その声! 花梨!?」
「えっ、そこにいるの……由真っ!?」

 なんと。これまたびっくりサプライズです。まさかご友人の方だとは。全速力で追っていた風子の先には驚きのあまり荷物を落とした十波さんと岡崎さんに負けないくらいのヘンな髪飾りをつけた女の人……とやたら目つきの怖い男の人がやれやれというように頭を掻いていました。あの男の人は風子的にヤバい雰囲気がします。警戒は解かないでおきましょう。

「良かった〜、まさかまた会えるなんて思ってなかったよ。無事だった?」
「うん、まあ、ね……そこそこに」

 ヘンな髪飾りの女の人は少し翳りのある表情になりましたが、すぐに笑顔を取り戻すと隣にいる男の人の紹介を始めました。
「こっちが国崎往人さん。色々あって助けてもらったんだけど……まあ今は私が勝手についていってる感じなんよ」
「国崎往人だ。暢気に話してる時間も惜しいから単刀直入に聞くが……ここに人はいなかったか? 人探しをしているんだが」
「そうね、今はいなさそう……かな。少し前まで男に追っかけられてたんだけど」
 男と聞いた瞬間、国崎さんから興味の表情が失せていきました。どうやら探してる人は女の人のようです。そこはかとなくストーカーの匂いがしますね。やっぱり要注意です。

「そうか……男だったか? そいつの名前や特徴は」
「名前は分からない……でもマシンガンを持ってていきなりあたし達を襲ってきたの。そのせいで岡崎さんやみちるちゃんは……」
「……みち、る?」
 国崎さんの表情が変わったのを、風子は見逃しませんでした。もしかして探していた人というのはみちるさんのことでしょうか。
「……殺されたのか」
 十波さんが苦々しく頷くと、国崎さんは何ともいえないようにため息をつくとくるりと進路を変えて外に出て行こうとしました。それを見た髪飾りの女の人が慌てて国崎さんの服の裾を掴んで止めようとします。

「ちょ、ちょっと国崎さん!」
「悪いが、人形劇は後回しだ。俺はまた殺さなくてはいけない相手が増えた」
「こ、殺すって……」
 思わず手を離す女の人に、国崎さんがぽん、と頭の上に手を置きます。その表情に、風子はなんとなく祐介さんに近いものがあるなあと思いました。どうしてでしょう?

242クールと湯気と変人と/サイカイ:2008/01/26(土) 22:38:47 ID:8AMPA8vg0
「笹森、仲間は見つかったんだろ? あの謎はお前らで解いてくれればいい。俺は学のない馬鹿だが、お前らの敵を倒してやることはできる」
「で、でも……」
「笹森には笹森の、俺には俺の役割がある。互いにやるべきことをやるだけだ。分かるよな」
 髪飾りの女の人は、それ以上何も言いませんでした。風子にも国崎さんの言いたいことはよく分かりました。なんとなく共感です。ですから、国崎さんの近くまで行って風子はプレゼントをしてあげました。
「伊吹風子と言います。後のことは風子に任せてくださいっ。それと、これをお守り代わりに、どうぞっ」
 本当はヒトデをプレゼントしてあげたかったのですが仕方ありません。今までヒトデを彫っていたナイフのカケラをあげます。

 国崎さんは差し出されたプレゼントをしばらく怪訝な目で見ていましたが、やがて「ああ、貰っておく」と快く貰ってくれました。
「それと、伊吹風子だったな。お前に伝言だ」
 伝言? 誰からでしょう。はっ、まさか天国のお姉ちゃんや岡崎さんからではないでしょうか。この人意外といいひとかもしれません。
「芳野祐介からだ。お前を探している、とな。芳野たちは恐らく北の方にいるはずだ。早いうちに行ってやれ」
 違いました。祐介さんからですか。でもやっぱりいいひとです。言われたときに頭を撫でられたのが気に入りませんが。風子、子供じゃないです。

 そんな風子の憤慨など気にする素振りもなく、国崎さんは風子のナイフのカケラをポケットに仕舞うと「じゃあな」と軽く手を上げてクールに去っていきました。そういえば祐介さんと声が似てますね。だから似てると思ったのでしょうか。

「はぁ……人形劇、楽しみだったのに……でも仕方ないか。やるべきことをやらないと」
 近くにいた髪飾りの女の人は一つため息をつきましたが十波さんと風子を手で招きよせるようにして、ポケットから何かを取り出しました。
「え、何、これ?」
 それを見た十波さんが驚きの表情になります。風子も少しびっくりでした。
 そこにあったのは、青い宝石です。

     *     *     *

 死んだ。みちるが。

243クールと湯気と変人と/サイカイ:2008/01/26(土) 22:39:05 ID:8AMPA8vg0
 その事実は往人に行動を起こさせるには十分な動機であった。
 往人自身も既に人を、殺人鬼とはいえ人を殺している。だから文句を言える立場でないのは分かっている。だが……
「だからと言って、ガキを……クソ生意気だったがまだ小さいガキを平気で殺すような奴を放っておくわけにはいかないからな。それに、あいつは」
 言いかけて、その先の言葉は飲み込んでおくことにした。旅芸人というのは往々にして侮蔑の目で見られることもある。汚いものを見るような目で見られることも一度や二度ではない。もうそれにも慣れてしまったが……だが、みちるはそんな自分にも友達のように接してくれた。もちろんこれは往人から見た主観的なものであり、実際はどうだったかは分からない。けれども往人は自分の見方が間違っていないと確信している。
 みちるだけじゃない、観鈴も、佳乃も、美凪も……往人をそんな目で見ることはなかった。だからこそ、倒さなくてはならないのだ。危害を加えようとする殺人鬼を。どんな理由があったとしてもだ。

 それで、自分が憎まれるような殺人鬼になったとしても。

「……ま、元々俺は一人だしな」
 別に殺されたところで誰もそんなに悲しみはしないだろう。したとしてもそれは一時の感傷だ。いやむしろ、ここには死があり過ぎるほど渦巻いている。特に気にされることもないかもしれない。その方が、往人としては楽なのであるが。
「……待てよ?」
 ホテルから随分下ったところで、往人は何か重要なことを聞き逃していたことに気付きかけていた。

「あ」
 しまった、とでも言うように口をぽかんと開いたまま呆然とする。あのマシンガン男がどっちから来てどこへ行ったのか聞いてない。もしかしたら間逆の方向に走っているのではないか?
「……」
 一瞬、戻ろうかという考えが往人の頭を過ぎる。しかしそれはあまりにも格好悪いことであったし、そんなことをしていてはタイムロスになる。

 散々考え、十数度ホテル方面と平瀬村方面に方向を変えた挙句、往人は自分の勘が間違っていないと信じて今まで進んでいた方向に進むことにした。
 なに、見つからないなら見つからないで他に何かやりようもあるさ。まずはこの先の平瀬村で情報を仕入れることにしよう……
 無理矢理自分を納得させながら、往人は足を進めていった。

244クールと湯気と変人と/サイカイ:2008/01/26(土) 22:39:30 ID:8AMPA8vg0
【場所:F-4】
【時間:二日目午後15:00】

国崎往人
【所持品:フェイファー ツェリスカ(Pfeifer Zeliska)60口径6kgの大型拳銃 5/5 +予備弾薬5発、パン人形、38口径ダブルアクション式拳銃(残弾10/10) 予備弾薬57発ホローポイント弾11発、スペツナズナイフの柄、支給品一式(少年、皐月のものを統合)】
【状況:まずはこの先の平瀬村に向かう、観鈴ほか知り合いを探す、マシンガンの男(七瀬彰)を探し出して殺害する】
【その他:岸田洋一に関する情報を入手】


【時間:二日目午後15:00】
【場所:E-4 ホテル内】

伊吹風子
【所持品:サバイバルナイフ、三角帽子、支給品一式】
【状態:泣かないと決意する、仲間を守る】

十波由真 
【持ち物:ただの双眼鏡(ランダムアイテム)、カップめんいくつか】
【状況:仲間を守る】

笹森花梨
【持ち物:特殊警棒、海岸で拾ったピンクの貝殻(綺麗)、青い宝石(光二個)、手帳、セイカクハンテンダケ(×1個&4分の3個)、S&W、M10(4インチモデル)5/6、ステアーAUG(7/30)、グロック19(2/15)、エディの支給品一式】
【状態:光を集める。仲間とともに宝石の謎を明かす】
ぴろ
【状態:花梨の傍に】

→B-10

245もうヘタレなんて言わせな……あれ?:2008/01/31(木) 23:50:04 ID:P4xkCFsI0
―― まるで、一年くらい眠っていた気がする。

目を覚ました藤井冬弥が思ったことが、まずそれだった。
窓から差し込む日差しの眩しさ、カーテンから漏れるそれで冬弥は貪っていた惰眠を奪われる。
しぱしぱと微妙に痛む瞳、夢の類を冬弥は見ていない。
それぐらい、彼の眠りは深かったのだろう。

布団を跳ね除け、ゆっくりとした動作で冬弥は休んでいた宿直室を後にした。
そのまま給湯室へ向かう冬弥、そこには夜中に途中で見張りを交替することになった七瀬留美がいるはずだからだ。
年下の女の子にそのような仕事を負わせることを、当初冬弥は拒んだ。
しかし体力は有限であるが故、休息を取らないということは冬弥自身に大きな影響を与える可能性があることを留美は必死な形相で説いてくる。
最もである留美の言い分、それを否定してまで冬弥も無理をする気はなかった。

見張りの時間、冬弥はひたすら支給品である銃器の手入れを行った。
素人故の不慣れさ、知識の浅さがありそこまで細かいことはできないものの、周りを丁寧にふき取ることぐらいは冬弥にもできることだった。
黙々と作業を続ける冬弥は、自身の武器が終わったら次は留美の物へと手を伸ばす。
再開される手入れの時間、冬弥はひたすら行為に没頭していた。
それは、現実逃避の成れの果てだったのかもしれない。

緒方理奈が死んだ。
河島はるかが死んだ。
そして、森川由綺が死んだ。

信じられない、信じたくない事柄が並ぶ第一回目の放送に冬弥の思考回路は麻痺しかける。
嘘だ、と取り乱し叫びたかっただろう。
涙し、悲観にくれたかっただろう。
しかし冬弥はその悲しみを、あくまで表には出さなかった。

246もうヘタレなんて言わせな……あれ?:2008/01/31(木) 23:50:35 ID:P4xkCFsI0
「……ま、ゆ?」

目の前の少女、向き合う形で椅子についていた留美の呟きに冬弥がはっとなる。
自分より幾分か年下の少女は、呆け、唇を戦慄かせながら必死に何かに耐えていた。
震える肩の小ささ、それに合わせるよう小刻みに揺れるツインテールが彼女の感情を物語っている。
年下の少女は、必死に慟哭を押し殺していた。
だから、冬弥も表に出す訳には行かなかった。
……つらいのは、同じだ。そんな状況で自分の直情を優先させようとは、さすがに冬弥も思わなかったのだろう。

(俺もいい加減しっかりしなくちゃな)

改めて言葉を腹の底に押し込め、冬弥は一人決意を定めた。
握り締める拳の痛みは、友人、そして恋人を失った心のそれに比べれば軽いものだろう。
冬弥は耐えた、留美に気づかれないよう激情を押し込めた。
流したい思いでいっぱいだった涙を、冬弥は目を強く瞑ることで最後の一線だけはと守ろうとする。
……力及ばず目の端から一筋だけ零れてしまったそれに、どうか気づかないで欲しい。
冬弥の願いが留美に通じたか分からないが、彼女が言及することはなかった。

そしてやってきた、朝。
結局、夜間冬弥達には何のトラブルも起こらなかった。
誰かがこの建物にやってきた気配はない、それでも冬弥が警戒を怠ることはなかった。
ゆっくりと給湯室の扉を開け、そこで見慣れたツインテールを発見し冬弥はやっと一息つく。

「おはようございます、藤井さん」

給湯室の中へ入ってきた冬弥に、留美は元気よく挨拶をした。
冬弥もそれにおはようと返し、日常の温度を実感させてくる心地よさを味わった。
給湯室の時計を確認する、時刻は午前六時前と少し早いものである。
……さて、ではここからどうするかが彼等にとっては当面の課題であった。
留美も冬弥も、知人を探すという意味で行動を共にしている面が大きい。

247もうヘタレなんて言わせな……あれ?:2008/01/31(木) 23:50:56 ID:P4xkCFsI0
「七瀬さん、これからどうするかだけど……」

冬弥の声に留美が首を傾げる、しかしそれを邪魔視するノイズが突如彼らの聴覚を支配した。
第二回目の、放送である。
一夜を休息に宛てた彼らは、何も成し遂げぬままにそれを迎えることになった。





今、冬弥は朝露に濡れる地面をじっと眺めていた。
消防署の扉に持たれ込むよう背中を押し付け、思ったよりも寒い外気に冬弥は一人肩を震わせる。

澤倉美咲が死んだ。
篠塚弥生が死んだ。

ぐしゃっと寝癖のついたままの自身の髪を握り締め、冬弥は大きな深呼吸を繰り返す。
冬弥の知らない間に、これで五人もの知人が亡くなったことになる。
その間冬弥は何をしていたのか。

(安全な場所で、ゆっくり眠って……っ)

優遇されたとしか思えない自分の立ち位置に、冬弥の胃がキリキリと痛み出す。
込み上げてくる嘔吐感、自然と流れ落ちていく涙をもう冬弥は抑えることが出来なかった。
大の男がしゃくりあげる姿なんて留美に見せる訳にはいかないと、冬弥は彼女を置き一人消防署の外に出ている。

「ふ、藤井さん!」

248もうヘタレなんて言わせな……あれ?:2008/01/31(木) 23:51:22 ID:P4xkCFsI0
走る背中にかけられた留美の声、しかし冬弥はそれに振り返ることなどしなかった。
否、できなかった。
歪んだ自身の表情を彼女にだけは見られたくなかった、その思いが冬弥の走る速度をさらに上げる。
留美は第一回目の放送の時と同様、必死に何かに耐えているというのに比べて自分はどうなんだと。
冬弥はそれさえもがみじめで仕方なく、また泣いた。

しっかりしなくちゃいけないと、昨晩誓ったはずの冬弥のそれには既にヒビが入っている。
それには文字通り、友人が消えていくスピードというものの速さに愕然としたのもあっただろう。
また自分が何もできていないにもかかわらず、失うものだけがどんどん増えていくという現状が冬弥には辛くて仕方なかった。

(美咲さん、弥生さん……っ)

彼女等に何があったのか、分かるはずもない。
それは第一回目の放送で呼ばれた三人も同様である。

(なら俺は、何をすべきだったんだよ……っ)

給湯室に残してきた、留美の面影が甦る。
明るい少女だった。冬弥の知人である観月マナを彷彿させる髪型から、彼女を連想しなかったとは言い切れないだろう。
年下の女の子という時点で、冬弥からすれば留美は庇護の対象に値する少女となる。
頑張らねばと、思った。年下の女の子が頑張っているのだから、自身もやらねばという思いが冬弥の中には強かった。
一種の支えだったかもしれない。
留美と言う少女がいることで、冬弥は挫けなかった。

第一回目の放送で、放心しかけた冬弥はその際手にしていたペットボトルを地面に落としてしまった。
蓋が外れたままのそれが、轢かれたカーペットに染み込んでいく様を冬弥は無言で見つめていた。
空になっていくペットボトルが、重さを感じさせない緩やかさで弧を描いていく様が冬弥の心に空虚さを煽ってくる。
もしあの時目の前に留美という少女がいなかったら、冬弥は直情に流され武器を手にしていたかもしれなかった。
友人や恋人を失った悲しみを、それで埋めようとするかもしれなかった。
敵討ちを考え、人を殺すかもしれなかった。
冬弥が思いとどまることができたのは、少女の存在があったからだ。

249もうヘタレなんて言わせな……あれ?:2008/01/31(木) 23:51:49 ID:P4xkCFsI0
朝、給湯室にて冬弥を出迎えた留美の表情は晴れていた。
心配をかけないようにという、そのような意図があったかもしれない。
留美は昨夜と同じように給湯室に備え付けられている椅子に座っていた。
テーブルには、満杯になっているペットボトルが二本あった。
留美と冬弥、二人に支給されたペットボトルの中身は、再び留美の手によって満たされていた。

何気ないことだ。
ただ中身が減っていたから、先のことも考え補充したのだろうと考えるのが一般的だろう。
しかしそこには、言葉に表されていない彼女の優しさが詰まっているように冬弥は思えたのだ。
地面のカーペットはまだ乾ききっていないのか、変色した部分がいまだ深い色になっていた。
だが肝心の本体には、既に新しい物が詰められている。
それはまるで、気持ちを切り替え新たに踏み出すのがベストであることを物語っているようだった。

分かってはいる。分かってはいるのだ、冬弥も。
ただそこに気持ちが追いついていないだけで、理解ができていない訳ではないのだ。
そこが、冬弥の弱さだった。

冬弥の嗚咽は止まらない、朝の爽やかな大気に溶け込むことなく彼の周りには湿った空気が漂っていた。
いい加減留美も心配しているだろう、中に戻った方がいいのかもしれないが冬弥はそんな気になれなかった。
沈んだ気持ちが浮上する気配はない、泣きつかれたことで頭も朦朧とする冬弥が半ば自暴自棄になっていた時だった。

「とにかく、私は一端学校へ向かうわ! 悪いけど、あなた達みたいにのんびりなんてしていられないのよ」
「ま、待ってくださいっ」

せわしない会話が、乱暴に開けられたせいかかなりの大きさで響いたドアの開閉音と共に漏れ出した。
何事かと視線をやる冬弥の視界に、隣接して建てられている建築物から人が出て行く様が入り込む。
まさか隣人がいるなどと想像もしていなかった冬弥は、泣くのも忘れその光景をただただ見やるしかなかった。
長い髪を揺らす少女が肩を怒らせながらその場を後にする、その後ろには何やら小さな生物がついて行っているようだった。

「そんな、ボタンまで……」

250もうヘタレなんて言わせな……あれ?:2008/01/31(木) 23:52:23 ID:P4xkCFsI0
視線を建物の入り口へと逸らす、少女よりもずっと幼く見える女の子が少女の背中を見つめていた。
女の子は、冬弥が今まで見た他の参加者と比べても郡を抜いた幼さを持っている。
こんな小さな子までが巻き込まれているのかと、そんな考えができるくらい余裕が出てきた冬弥の耳に懐かしい声が入り込んだ。

「……仕方ないなんて言葉で括るのは嫌だけど、あの書き込みがある以上僕達がここを離れる訳には行かない。
 向坂君ともまた再会することができればいいのだが」

低めのテノールの心地よさ、一人ライバル心を燃やしていた頃には癪で仕方なかったそれに冬弥の胸が高鳴った。
女の子を支えるよう、現れた男がその小さな肩を抱く。
見覚えのある横顔、それが誰であるか理解とたと同時に冬弥は言葉を口に出していた。

「緒方、英二?」

冬弥の声に、えっ、と男が振り返る。つられる形で少女も同じような動作をとった。
冬弥からすれば思ってもみない再会に、男も同じよう驚きを表情で表している。
緒方英二。
冬弥がこの島で初めて出会うことになる知人が、彼だった。







藤井冬弥
【時間:2日目午前6時30分】
【場所:C−05・鎌石村消防署前】
【持ち物:H&K PSG−1(残り4発。6倍スコープ付き)、他基本セット一式(食料少し消費)】
【状況:呆然】

251もうヘタレなんて言わせな……あれ?:2008/01/31(木) 23:52:46 ID:P4xkCFsI0
七瀬留美
【時間:2日目午前6時30分】
【場所:C−05・鎌石村消防署】
【所持品:P−90(残弾50)、支給品一式(食料少し消費)】
【状態:鎌石村消防署内待機】

緒方英二
【時間:2日目午前6時30分】
【場所:C-05鎌石消防分署前】
【持ち物:デイパック、水と食料が残り半分】
【状態:冬弥と目が合った・ロワちゃんねるの書き込みに対し警戒】

春原芽衣
【時間:2日目午前6時30分】
【場所:C-05鎌石消防分署前】
【持ち物:デイパック、水と食料が残り半分】
【状態:冬弥と目が合った・ロワちゃんねるの書き込みを朋也と信じている】

向坂環
【時間:2日目午前6時30分】
【場所:C-05】
【所持品:コルトガバメント(残弾数:20)・支給品一式(食料少し消費)】
【状態:鎌石村小中学校へ向かう】

ぼたん
【状態:環について行く】

(関連・232・477・588)(B−4ルート)

252名無しさん:2008/02/01(金) 15:00:07 ID:nHUW/EJY0
>まとめさん
B-10の作品を投下しますがかなり長くなったので2つに分けて掲載をお願いします

253思惑/Unstoppable Monster:2008/02/01(金) 15:01:34 ID:nHUW/EJY0
 戦いの火蓋というものは、往々にして何の前触れもなく切られるものである。

 神尾晴子はズキズキと痛む左肩と右手の悲鳴を眉間に皺を寄せながらもそれを無視し、H&K、VP70を両手で持ちながら足早に柏木耕一、柏木梓の元へと忍び寄っていた。
 既にその後姿は確認し、十分に射程圏内まで接近している。後はいつ討って出るか、だが相変わらず右手に力が入らない。肩が震えている。時々意識も霞む。痛い。耐えられないくらい痛い。

 できるならこのまま逃げたいと晴子は考えていた。どうしてわざわざこんな痛い思いを、ともすれば死ぬかもしれない行為をしなくてはならないのか。
 大体、いつだって自分は逃げてきたのではないのか。
 いつか来る別れの時を恐れて娘の――観鈴とも仲良くしてこなかった。相談に乗ってやることも、誕生日を祝ってやることさえしなかった。
 今回もまた逃げればいいのではないのか? 逃げて、観鈴を探して、これまでしてきたことを謝って、残りの時間を二人で過ごせばいい。そうすればいいじゃないか。

 だが――晴子の頭の中にはとびきりの、花が咲くように笑う観鈴の顔があった。

 あの笑顔を失ってはならない。
 あの笑顔を守らなくてはならない。
 あの子は幸せにならなくてはならない。

 これまで晴子の我が侭で不幸せにしかしてこれなかったことへの償い。それだけは晴子の譲れない一線であった。

 ああ、そうだ。何を血迷っていたのだ。
 これまでの連戦で忘れていた。これが、答えなのだ。
 痛い? それがどうした。
 意識が飛ぶ? なら無理矢理叩き起こしてやる。
 死ぬ? いや死ななければいいだけだ。
 晴子には安息の時など許されはしない。地獄から何度でも引き摺り出して過酷な罪を贖わせてやろう。臓物が千切れ飛べば拾い集めて中に戻してやる。目玉が潰れれば悪魔の囁きを分け与えてやる。
 さあ戦え。勝利はない。あるのは闘争だけだ。醜い喰い合いの果てに望むのはただ一つの笑顔と平凡な暮らしだ。
 そのために神尾晴子よ。貴様は死ね。


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