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( ^ν^)ショソン・オ・ポムにアンコールを、のようです
1
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 20:12:13 ID:t/sLrqC20
昔、“I love you”を“月が綺麗ですね”と訳した文豪がいたらしい。
今となっては典拠不明の、一種の都市伝説であるという話だ。
情報飽和社会と揶揄されるこの現代。その程度のこと、今ではそこらの高校生ですら知っている雑学の類。
それなのに、この無駄に気取った言い回しを好んで使いたがる輩が、科学が発達しきった今の世でも未だにわんさかといる。
文通だのなんだのと不便だった明治・大正とは違い、今では隣人どころか地球の裏側にいる人間にだって、指先一つで愛を囁ける時代だ。
告白というものがそんな気軽で簡易なものになり下がった今でも、“そんなこと”すら出来ない人間でこの国や世界は満ちている。なんとも嘆かわしいことだと思う。
2
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 20:14:57 ID:t/sLrqC20
お猪口を置き、空を見上げる。
宝石箱をひっくり返した海の中を思わせる夜の中心に、丸々と、それでいて煌々と輝いている月が見える。
よく見れば、それは満月ではなかった。人々が望むような、創作の中でむやみやたらに持て囃されがちな満月は昨日で終わっている。
それでも少し欠けたその十六夜は、芸術の類に疎い自分でも、目が離せなくなる不思議な魅力を湛えて夜の街を照らしていた。
視線をちらりと横に移す。
そこには淡い月光も文豪の形容も笑い飛ばすかのように、すやすやと眠る幼馴染の横顔があった。
彼女を見ながら、ふと、とあることに気が付いた。
そうか。きっと、“月が綺麗”なんて、気障な言い回しを考えた者は。
きっとそいつは、博識な文豪でも、瀟洒を気取った訳でも、はたまた日本人に古来から伝わる奥ゆかしさなんてものを重視した訳でもなく。
今の自分と同じように。
そいつは、単純に、ただ、きっと――。
3
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 20:16:34 ID:t/sLrqC20
*
ζ(゚、゚;ζ「ふぐぐっ……お、重い〜〜!!!」
パンパンになった袋を気合で運びながら家へと急ぐ。
さっきスーパーで見た時計は午後5時頃を指していた筈なのに、既に外は日が落ちきり、完全な夜になっていた。
ζ(゚―゚;ζ「ちくしょう…やっぱり車買っとくんだったっ…!」
車さえあれば、こんなに疲れる思いをすることもなかったのに。
都合の良い妄想が脳内に浮かんだものの、“いや、私そもそも免許なかったわ”という冷静なセルフツッコミがかき消していった。
4
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 20:17:59 ID:t/sLrqC20
ぜぇぜぇと肩で息をしながら、必死に歩くこと数十分、
ふと、鼻腔を擽る甘い香りが漂ってきて、私はパッと顔を上げる。
視線の先には、365日いつも見ている、網膜に焼き付いた赤い屋根と文字が見えた。
お洒落なフランス語とフォントで書かれたそれを見て、やっと着いたと胸を撫でおろす。
『パティスリー・アンコール』。それが今の私の職場であり、兼、家だ。
屋根を見上げたまま、少し視線を更に上へあげる。
いつの間にか黒にそまっていた夜の空、その中に期待した光はどこにも見当たらない。
“そうか、今日は新月か”と納得すると同時に、ほんの少しのがっかり感が胸の片隅で燻った。
ζ(゚、゚*ζ(月見酒を楽しもうと思ってたんだけどな…)
ほぼ毎日惰性で確認している某SNSアプリで流れてきた旧友の近況。
先日見たその中に、月見をしながらお酒を飲んでいる様子があった。
これはいい、私も次の満月の夜にやろうと意気込んだはいいものの、仕事の疲れや準備などに追われ続けてこのざまである。
5
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 20:19:10 ID:t/sLrqC20
気合を入れ直し、裏口へとぐるっと回る。
そこにある、階段を上がった二階。上がり切ってすぐに見える玄関の横には、『津島』と書かれた表札とポストが設置されている。ここが私の現在の住まいだ。
ようやく一息つける。少しの解放感と大きな安堵に包まれながら、慣れた手付きで鍵を回す。
すると、とある違和感を覚えた。回そうと思った方向に鍵が回らない。
瞬間的に私は気付く。私が鍵を挿すまでもなく、元々、鍵は開いていたのだ。
ζ( ― #ζ「………あんにゃろ…」
勢いよく玄関のドアを開け、中に入る。
足元には、嫌味なくらい綺麗に磨かれた黒の革靴が二足。
もちろん私のものではない。私が履くにはサイズがあまりに合わなさすぎる。
荷物を両手に持った状態で、あえて足音をドタドタとたてながら廊下を進む。
怒りと不機嫌を隠そうともしないまま、私は脚で思いっきりリビングのドアをバンと開けた。
6
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 20:20:18 ID:t/sLrqC20
ζ(゚ー゚#ζ「ちょっとニュッ!!来るときは一言連絡入れろって言ってるでしょ!?」
リビングに入るなやいなや、怒鳴り声を叩き込む。
案の定、部屋の中心には炬燵に身を委ねている一人の青年の姿があった。
( -ν^)「…んあ、ああ……おかえりデレ。今日の晩飯なに?」
ζ(゚皿゚#ζ「ぶち殺すぞ!!」
ボサボサになった髪を搔きながら、面倒そうにゆったりと起き上がる。
『新塚ニュッ』、定期的に私の家に食事をたかりに来る甲斐性なしだ。
炬燵から少し離れた所に置かれているソファーをちらりと見る。
そこには、乱暴に脱ぎ散らかされたスーツのジャケットとネクタイが放置されているのが伺えた。
7
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 20:24:35 ID:t/sLrqC20
ζ(- -#ζ「全く…ほら、いるなら野菜とか冷蔵庫にいれるの手伝って!!」
( ^ν^)「客人に手伝わせんのかよ」
ζ(゚Д゚#ζ「誰が客人じゃボケェ!!不法侵入で訴えんぞ!!」
( ^ν^)「素人に俺が負ける訳ねぇだろ」
ニュッはそう言いながら、立ち上がろうともせずケラケラと笑う。
彼の後ろに置きっぱなしのジャケットの襟元には、秤の意匠が彫られたバッジがキラリと輝いていた。
ζ(゚―゚#ζ「…あーそうですか、じゃあそこでダラダラしといてくださーい。私は鍋作って一人で食べまーす」
( ^ν^)「…は?おい、俺の分は?」
ζ(゚皿゚#ζ「働かざる者食うべからずじゃカス!!」
いつの間にか無駄に成長していた上背を思いっきり蹴り飛ばす。
「ぐほっ」という情けない声に溜飲を少し下げた私は、いそいそと袋の中身を整理し始めた。
8
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 20:27:11 ID:t/sLrqC20
ちょっと他作品読んできます。
後ですぐまた投下しに戻ってきます。
9
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 22:49:09 ID:tie1mNy60
( ^ν^)「…あーもう、分かったよ……」
ζ(゚、゚#ζ「最初からそうしろっ!」
ようやく重い腰を上げたニュッに、あれこれと指示を出しながら共同で物を片付けていく。
必要最低限の指示だけ口頭で済ませると、さっきまでの気だるさが嘘のようにニュッはテキパキと動き始めた。
何度も何度もうちに食事をたかりに来るうちに、私なりのやり方やルールといったものが染みついたのだろう。
途中からは私が特に指示を出すこともなく、袋の中身は片付いていた。
その上、いつの間にやら使う予定だった鍋まで出されている。
鍋を普段置いている戸棚の上を見ていると、「こいつの身長を何とか物理的に奪う方法はないものか」と物騒な考えが頭を過った。
10
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 22:51:01 ID:tie1mNy60
ここまでやれば、後は私の出番である。
愛用しているまな板と包丁を取り出し、必要な具材を並べていく。
本職こそ洋菓子職人、パティシエールではあるが、菓子以外の料理にも手を抜くことは私の矜持が許さない。
料理のジャンルにかかわらず、食べる人の詳細にかかわらず、おざなりにするのは嫌なのである。
今日の夕飯は、数日前から決めていた。
街に咲く草木は鮮やかな紅色に染まり、午後5時には日は暮れ、朝は白い吐息が出る今日この頃。
ギリギリ秋と呼べるかどうかといったこんな寒い時期に、最も食べるべきものは何か。
果物ならば林檎やマスカットなどが思い浮かぶだろう。
普通の料理ならば、栗やかぼちゃ、魚などがメインに並ぶ。
しかし、私が今求めているのはそれではない。
この寒さを吹き飛ばし、なおかつ、今が旬の食べ物を効率よく、美味しく一気に食べられる料理。
そう、それこそが今日の夕食、“鍋”である。
11
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 22:51:59 ID:tie1mNy60
ζ(゚、゚*ζ「あ、ちょうどいいや。はいコレ」
( ^ν^)「は?何だよ」
ζ(>、<*ζ「大根おろし、よろしくね☆」
おろし器と大根を押し付け、嫌そうな顔をするニュッから顔をそらす。
大根おろしは市販のモノを買うよりもやはり自分で擦りたい。
とはいっても面倒なことに変わりはない。使える男手がそこにあるのに使わない女子がいるものか。
不機嫌さを隠そうともしないニュッの隣で、私は私で作業をする。
今日の鍋は「つみれ鍋」。大根おろしをたっぷり使った、さっぱりヘルシー。なおかつ身体が芯まで温まるこの季節にピッタリの料理だ。
12
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 22:53:39 ID:tie1mNy60
ζ(゚ー゚*ζ(さーて、まずはタネから!)
腕まくりをし、気合を入れてエプロンを締めた。
最初は今回の主役の鶏つむれから。
これも買ってきた方が楽なのは分かっているのだが、今日は比較的時間があったから自分で仕込んでみることにした。そっちの方が美味しい気もするし。
ボウルに鶏ひき肉と塩を入れよく混ぜる。
粘り気が出てきたら卵、みじん切りしたネギ、すりおろしした生姜、酒、片栗粉を加えて再びまぜまぜ。
一口大に丸めれば、鶏つみれの完成だ。
ζ(゚、゚*ζ「あっ!ちょっと、おろしの汁捨てないでね!」
( ^ν^)「は?何に使うんだよこんなの」
ζ(゚ー゚*ζ「鍋に入れるのよ。その方がさっぱりするし、栄養もたっぷりなんだから!」
( ^ν^)「…へいへい」
鍋に少しだけ大根の汁を入れさせている間、戸棚から調味料を取り出した。
塩は小さじ1で、便利な鶏がらスープの素、酒とみりんは大さじ2ずつ。
そこに水を加えて鍋に入れ、ひと煮立ちさせれば下準備は完了だ。
13
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 22:57:18 ID:tie1mNy60
ζ(゚ワ゚*ζ「よし!じゃ、鶏入れてー!」
( ^ν^)「よっしゃ」ザバー
ζ(゚Д゚#ζ「おおいそんな勢いよく入れるな!!」
鍋に鶏つみれを落とし入れ、火が通ったら皿に取り出し、灰汁は取り除く。
こうすることで鶏の肉の旨味が鍋全体に染み出し、後に入れる野菜にも染み渡るという寸法だ。
次に入れていく具材も特に変わったものはない。
白菜に長ネギ、椎茸や豆腐、豚バラ肉などの火が通りにくいものや出汁が出やすい具材を先に入れていく。
プラスとしてウインナーも。個人的な話だが、私はアル〇バイエルンが好きだ。
次に入れるのは春菊とえのきと鶏つみれ、そして最も大事な大根おろし。
しばらく放置し、ひと煮立ちさせた後にささっとポン酢をかければ「みぞれ鍋」の完成である。
14
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 22:59:08 ID:tie1mNy60
鍋をリビングに持っていき、いそいそと飲み物や箸を準備していく。
いつの間にか増えていた不法侵入野郎の私物に少しイラっとしながらも、私は既に思慮分別ある成人女性だ。
口にはしないまま「チッ」という軽い舌打ちにとどめ、こたつの中に足を埋めた。
人ζ(- -*ζ
「いただきます」
( -ν-)人
律儀に手を合わせ、しっかりと火が通った具材を器によそっていく。
お店なら専用の菜箸などを使うのだろうが、お互い幼稚園の頃から勝手知ったる間柄。そんなことは一々気にせず、好きなように食材をつまむ。
器の横にはもちろん、炊き立てホカホカの白ご飯。
すき焼きだろうが水炊きだろうが、鍋には白ご飯を欠かさないというのが私のルールだ。
15
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:01:00 ID:tie1mNy60
色とりどりの具材と鍋の良い匂いに箸が迷うが、やはり最初はメインである鶏つみれから。
可愛らしい一口サイズに丸まったそれに、ふーふーと息を吹きかけること数回。
火傷しないよう配慮しながら、ゆっくりと口に放り込んだ。
ζ(´、`*ζ(あつ…!でも、おいし〜!)
咀嚼する度に、中に入っている刻みネギがシャキシャキと子気味よい音をたてる。
その音と共に洪水みたいに流れてくるのは、ぎゅっと凝縮された旨味たっぷりの肉汁だ。
ふんわり香る生姜とポン酢の風味、そしてたっぷり入れられた大根おろしたちが肉汁のしつこさを打ち消し、口の中にはさっぱりとした美味しさだけが残る。
まさに極上の一品。完璧で究極の出来栄えだ。
もう一つ。今度は白ご飯の上に着地させ、米と共にいただいてみる。
これがまた憎らしいほどによく合う。噛めば噛むほど溢れる肉の旨味が、米の甘味とマリアージュして食べれば食べるほど食欲が湧いていくという不思議な一品に早変わり。
16
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:03:02 ID:tie1mNy60
ζ(゚、゚*ζ「……お酒、欲しくなるなぁ」
ごくりと飲み込むや否や、対面に座っている青年の方にわざとらしい視線を送る。
私の声と仕草に気が付いた彼は一瞬だけこっちを見た後、興味を失ったように鍋からウインナーをかっさらっていった。
私が食べたくて入れたやつなのに。ちくしょう。あんまり入ってねーんだぞ。
( ^ν^)「いや、今日なんも持ってきてねーけど」
ζ(゚―゚;ζ「はぁっ!?なんで!?なんだかんだ、いつも何かしらくれるじゃん!」
想定外の一言に思わず箸を落としかける。
合鍵を使って勝手に入り込むのは今に始まったことではないが、普段ならその度に何かしらの土産を持ってきていた。
“最低限の礼儀はあるのだな”と感心すると共に、彼が持ってくる珍しい酒やお菓子などに舌鼓を打てるから、こんな無愛想な男でもいきなりの訪問を許しているというのに。
17
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:03:40 ID:tie1mNy60
( ^ν^)「いや…今日は仕事終わってそのまま来たから」
ζ(゚、゚#ζ「知らないわよそんなの!これじゃあ本当にタダ飯食らいじゃない…腹立つ〜!!」
( ^ν^)「センキューお母さん」
ζ(゚皿゚#ζ「あんたみたいなの育てた覚えはないわっ!!」
苛々しながらガブリと白菜にかぶりつく。
途端、白菜の芯まで沁みた出汁の深みが圧倒的な分厚さと共に口内に押し寄せる。
野菜を食べている筈なのに、肉の塊を食べているのかと錯覚してしまうほどの満足感だ。
というか、ちゃんと肉も入れてあるのだったと思いなおして豚バラ肉をいただく。
大根おろしによって余分な脂がおちたそれは、いくらでも食べられるのではないかと思うくらいにさっぱりとしていて、肉が元来持つ食べ応えと濃厚な味を両立させていた。
18
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:05:24 ID:tie1mNy60
もぐもぐと、時には口論まがいのようなことを話しながら鍋をつついていく。
次は豆腐にしよう。そう決めて鍋に箸を向け、標的を定めて手を伸ばす。
その最中、視界の隅にニュッの茶碗がこちら側に差し出されているのが見えた。
鍋を始めた時にはツヤツヤの光沢を放っていた米が山のように積んであったはずなのだが、いつの間にやら米粒一つ残さず消え失せている。
それを食した張本人は、特に言及することなく鍋をつついている最中だ。
ζ(゚、゚#ζ「だーかーらー…“おかわり”ぐらいちゃんと言いなさいよ!てか自分で行け!」
( ^ν^)「ありがとございまふ」モグモグ
ζ(゚ー゚#ζ「食べながら喋るな!」
テコでも動こうとしない彼にしびれを切らし、結局いつもと同じように私が根負けして炬燵から出る。
「これくらいは食べるだろう」という量をよそい、「はい」と手渡す。
今度は「ありがとう」とちゃんとはっきり言われたから、殴るのは勘弁しておいた。
19
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:07:27 ID:tie1mNy60
( -ν-)「はー…美味い。やっぱその辺の店より、お前の飯の方がずっと美味いわ」
ζ(゚、゚*ζ
唐突な、本人にとっては何気ない言葉だったのだろう。
それでも不意打ちの賛辞は、私に豆腐を取り損ねさせるほどにはインパクトのあるものだった。
なんと返していいかわからず、「…そう」と端的に返答して落とした豆腐を再び掬う。
自分で自分に「気にするな」と言い聞かせながら、出汁が沁みた豆腐を一口で頬張った。
ζ(-、-*ζ「………それで?」
( ^ν^)「あん?」
ζ(゚、゚*ζ「君、本当は何しにきたのよ」
私以上にモリモリと食べていた不躾者の箸が、鍋の手前でピタリと静止した。
20
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:08:15 ID:tie1mNy60
( ^ν^)「……別に?腹減ったから来ただけ」
気だるそうな無表情を変えることなく、彼は再び箸を動かして椎茸をひょいとつまみ、ガブリと食らいつく。
十数年以上の付き合いだから分かる。
この後、私がどんな言葉を用いようが彼は何も話そうとしないだろう。
ζ(゚、゚*ζ(……疲れてるように、見えたんだけどな)
「そっか」とだけ言い、私も再び鍋に箸を伸ばした。
特に確たる論拠はない。
切れ長の細い瞳が、いつもよりもっと細く見えたこととか。
いつもはまっすぐな背筋が、少し曲がって見えた気がするとか、その程度のもの。
私だってとっくに成人済みの大人だ。
気にしてほしくないことにわざわざ深く突っ込む必要はないと、これまでの人生で学んでいる。
21
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:09:13 ID:tie1mNy60
( ^ν^)「お前こそ。最近、店は上手くいってんの?」
ζ(゚、゚*ζ「ちょっと、お父さんみたいなこと言わないでよ」
( ^ν^)「おじさんなら俺にこの前電話かけてきたぞ」
ζ(゚Д゚#ζ「えっ!?うっそ最悪!!あとで悪口言わなきゃ!!」
( ^ν^)「注意じゃないのかよ」
いつも通りの会話をしながら、ゆっくりと鍋の中身は減っていく。
そうして食事をすること約一時間半。
鍋の中身も炊飯器の中も、すっかり空になっていた。
22
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:10:57 ID:tie1mNy60
ζ(´ー`*ζ「はー美味しかった…毎日鍋でもいい。鍋最高」
( ^ν^)「えっ俺は嫌だ」
ζ(゚、゚#ζ「たからずに自分で用意しろ!!」
私の怒号もどこ吹く風。
鍋の3分の2以上を遠慮なく食べた彼は、満足そうにごろりと寝転がった。
それを尻目に鍋からコンセントを外し、キッチンへと持っていく。
これは料理をする人間なら絶対に分かってくれると思うのだが、後片付けという作業はどうしてこんなに面倒なのだろう。
食事はあんなに楽しい至福の時間であるというのに。昔から不思議に思っていたが、大人になった今でも答えは出ていない。
23
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:11:47 ID:tie1mNy60
( ^ν^)「なぁ」
ζ(゚、゚;ζ「うおっ!?」
鍋を洗おうとした矢先、いつの間にかすぐ近くにいたニュッに驚く。
耳元で低い声で囁くな。心臓に悪い。
ζ(゚、゚;*ζ「な、なに…?ていうか、どうせなら自分の食器とかも持ってきなさいよ…」
囁かれた方の耳を手でさっと隠す。
これは余談だが、ニュッの使っている食器は私が用意したものではない。
ここに引っ越してきてから数週間のうちに、いつの間にかヤツによって持ち込まれていたものだ。
( ^ν^)「……なんか甘いもん、ねぇの?」
少し言い辛そうに、私から巧みに目を逸らしながら言う。
まるでバレンタイン当日、意中の女子に自分の分のチョコレートがあるか否か尋ねる男子生徒のような面持ちだった。
24
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:13:57 ID:tie1mNy60
私の本業はパティシエだ。
祖父から受け継いだ店の上に、自分が住むための部屋を用意していつでも厨房に迎えるようにするくらいには、仕事大好き人間である。
定休日にしている金曜日や祝日も、基本的には菓子作りの研究や新レシピの開発などにあてている。
そんな私の冷蔵庫には、常日頃から余った店のケーキや新商品の試作品などがわんさかある。
ニュッは甘党だ。
幼い頃はそうでもなかった気がするが、中学生の時分くらいからよく甘いものを頬張っている姿を見かけるようになった。
彼が大学生だった頃、勉強中の差し入れに自作の菓子を差し入れしたことだって何度もある。
社会人になった今でもそれは続けている。
半分は率直な菓子の感想が聞きたいから。もう半分は幼馴染への餌付け。
だが生憎、今日に限っては――。
ζ(゚ー゚;ζ「あー…ごめん。今日はなんにもないんだよね〜」
( ^”ν^)
ζ(゚、゚;ζ「そんな分かりやすく不機嫌にならないでよ…」
さっき踏み込んだことを聞きかけた時でも無表情を崩さなかったのに、甘いものがないと聞いた途端にこれだ。
分かりやすいのか分かりにくいのか。思わずニヤケそうな口角を抑える。
25
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:15:42 ID:tie1mNy60
ζ(-、-*ζ「…もう、はいはい。次はちゃんと何か作っておくから」
鍋を洗う手を止め、改めてニュッの方に向き直る。
「何が食べたいの?」と尋ねると、彼は少しだけ考える素振りを見せた後、ゆっくりと口を開いた。
( ^ν^)「…アレ食べたい、久々に。あの…リンゴのやつ」
ζ(゚ー゚*ζ「…あぁ!アレね」
ニュッが言おうとしている菓子の名に、私はすぐにピンときた。
昔から彼によく作っているものであり、うちの店の看板商品でもあるフランス菓子。
ニュッも名前を思い出したようで、少しすっきりした顔でこちらに再び視線を向ける。
そして、私たちは全く同時に、頭に思い描いた菓子の名前を口にした。
( ^ν^)
「「ショソン・オ・ポム」」
ζ(゚ー゚*ζ
数瞬のズレもなく響いた言葉に、私たちの笑い声がキッチンに響いた。
26
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:18:03 ID:tie1mNy60
『ショソン・オ・ポム』。いわば、フランスのアップルパイだ。
日本で浸透しているアップルパイとさほど変わりないが、特徴的な差異としては見た目の違いが挙げられる。
日本の場合は円状のパイを切り分けて食べるというのが一般的だが、ショソン・オ・ポムはそうではない。こちらは、一つ一つが独立してパイ包みになっている。
そういえば確かに最近は秋限定のスイーツの試食ばかり頼んでいて、逆に定番メニューを食べさせていなかった。
良い機会だろう。それに何より断る格別の理由も無い。
ζ(^―^*ζ「オッケー!次はちゃんと用意しておくから!」
( ^ν^)「……頼んだ」
「俺も、次はなんか土産持ってくる」とだけ言い残し、彼はリビングの方へと消えていく。
いつの間にか無駄に大きくなっていた背中を見送った後、私は鼻歌交じりに鍋や食器の洗浄を再開した。
27
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:20:35 ID:tie1mNy60
ζ(´、`*ζ(………えへへ)
料理を生業としているものにとって、自分が作ったものが美味しいと言われる以上の喜びはない。
それも、わざわざ「また食べたい」とリクエストされるなんて猶更だ。
ζ(゚、゚*ζ(どうせなら、焼きたて食べて欲しいなぁ)
鍋を洗いながら、前に焼きたてを食べてもらったのはいつだっただろうかと振り返る。
今でこそ菓子作りを仕事にしているものの、別に最初からパティシエを目指していた訳ではない。
中学の頃、菓子職人だった祖父がこちらに店を構えて、お小遣い欲しさに手伝うようになって、それから真面目に菓子作りにのめり込んだ。
…当時、幼馴染のニュッを巻き込んだ気もする。もしかしたら、少なくとも成人してからは余ったものしか食べてもらっていないかもしれない。
ζ(゚、゚*ζ(ニュッの仕事が終わるのが遅いのよね)
彼の仕事は弁護士だ。
あまり詳しい仕事内容は知らないが、基本的にいつも何処かに出かけたり、事務仕事に追われたりしていて、仕事が終わるのは早くても午後八時を回ったころ。とっくに私の店は閉まっている。
彼もまた私に負けず劣らずの仕事人間だから、互いの休日を合わせるのも難しい。よって、どうしても作り立てを味わってもらうのは困難な状況になってしまっていた。
28
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:21:34 ID:tie1mNy60
ζ(゚ー゚*ζ(……ちょっとでも、助けになれば、いいんだけど)
さきほどの彼の要望で、疑問は確信に変わっていた。
ニュッは疲れている。それも相当に。
何もお土産を買わずにうちに来たのも、あまりの疲れに体力が限界だったからだろう。
自分の菓子で元気になってくれるのなら、何かしらはしてあげたい。
そんなことをぼんやり思いながら、鍋の水気を丁寧にふき取る。
すると、ふと、遠くから廊下を歩くような足音が聞こえた。
ζ(゚、゚*ζ「………?」
さっとリビングに顔を覗かせる。
いつの間にか、あの唐変木がいない。
つい先ほどまで雑に脱ぎ散らかされていた筈のジャケットなども見当たらない。
玄関の方から、"ガチャ"っという音がした。
29
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:23:38 ID:tie1mNy60
ζ(゚皿゚#ζ「待たんかいボケェ!!!自分の分の食器くらい片付けろーーー!!!」
鍋もタオルも放りだし、激昂と共に猛ダッシュで玄関へと向かう。
ついでに材料費も根こそぎ取ってやる。心にそう決めながら、いそいそと革靴を履いているニュッの首根っこを摑まえ、部屋に引きずり戻していった。
30
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:26:26 ID:tie1mNy60
*
( ^ν^)「ただいま戻りましたー…」
我ながら覇気のない声だと、口にだして自分に少し驚く。
周囲からの「お疲れ様です」という声に軽く会釈をしながら、自分のデスク前にある椅子にどさっと腰を下ろした。
( ^”ν^)(……さっさと選任届くらい受け取れや……)
目頭を軽く目で押さえながら、先ほどまで対応していた警察署への文句を心中で垂れる。
しばらくそうした後、次は何をしなければならないのかと鞄から手帳を取り出した。
中を開く。スケジュールは曜日、時刻を問わずびっしりと埋まってしまっている。
馴染みの友人がやっている洋菓子店には、どう考えても行けそうになかった。
31
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:27:23 ID:tie1mNy60
( ^ν^)(あれから2週間くらいか)
以前、幼馴染の家に食事をたかった上に自分の好きな菓子を作ってもらうと約束してから、そこそこの日数が経っていた。
スマホを開き、メッセージアプリを起動する。
『津島デレ』と表示された幼馴染とのトーク画面は、彼女からの「暇な日、決まったら連絡してね!」という文章とスタンプで終わっていた。
ちらりと卓上のカレンダーを確認する。
今日は金曜日。あいにく、デレの店は休業である。
せっかく珍しく18時で帰れそうだと言うのに、これでは全く喜べない。
次の休みはいったいいつになるのだろうか。
手帳をいくら睨んだところで、書かれたスケジュールが魔法のように消えてくれる訳ではない。
はぁと諦観のため息を吐いた次の瞬間、ぱんと、勢いよく肩を叩かれた。
32
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:29:02 ID:tie1mNy60
(*-@∀@)「や!お疲れニュッくーん!」
( ^ν^)「触るなアサピー、クリーニング代請求すんぞ」
(;-@∀@)「えっ、俺もしかして雑菌扱い?」
相変わらず軽々しい同僚からのスキンシップを手で払いのける。
『旭川アサピー』。司法修習からの同期で、何の縁か所属している事務所まで同じになってしまった腐れ縁だ。
( ^ν^)「何の用だよ。俺もう帰るんだけど」
(*-@∀@)「おっ、マジ!?俺も終わったんだよ!よっしゃ、今から飲みにでもさ」
( ^ν^)「ごめん腹痛くなる気がするから無理だわ」
(-@∀@)「もうちょいマシな断り文句考えて」
( ^ν^)「そもそも俺、車通勤だし」
(-@∀@)「うっわマジでちゃんとした理由つけてきやがった」
デスクの上を整理する俺の様子も顧みることなく、アサピーは「そんなことよりさ」と会話を続ける。
彼の眼鏡の奥には、下世話な話を始める時特有の光が灯っているのが見える。
死ぬほどめんどい。心の底からそう思いつつ、「なんだよ」と聞いてみることにした。
33
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:29:53 ID:tie1mNy60
(*-@∀@)「ほら、先週の、どうだったんだよ」
( ^ν^)「……先週?」
(*-@∀@)「とぼけんなよ〜!ほら、別ファームとの合コンでさ!お前、綺麗な子一人捕まえて先帰ったじゃん!」
うざったい彼の言葉に、先週のことを思い返す。
その時の出来事を思い返した俺は「あぁ」とだけ短く返した。
( ^ν^)「どうもなにも…駅まで送って、それだけだよ」
先週、今まさに眼前にいるクソ眼鏡の言葉に乗せられて参加した、懇親会でのこと。
いや、そもそも懇親会などではない。うちの事務所の男どもがどこぞのツテで企画した、まぎれもない合コンに俺は巻き込まれたのだ。
その時、少し酒を飲みすぎて気分が悪そうにしていた子がいたから、彼女をダシに早々に離脱しただけ。それ以上でも以下でもない。
34
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:30:43 ID:tie1mNy60
Σ(;-@Д@)「は!?おまっ…、まーた何もせず帰したの!?」
( ^ν^)「次の日、朝から接見だったし…」
(#-@∀@)「このっ…!仕事人間…!!」
唇をわなわなと震わせながら、俺の背中をポカポカと叩いてくる。
次の飲み会では酔っぱらったふりして一発殴ろうと心に決めているその最中、ふいにアサピーは不思議そうな顔をした。
(-@∀@)「…実際のとこ、何がダメなんだ?あの子は結構いい子そうだったじゃん」
(-@∀@)「今のうちに少しは遊んどかないと、30代になったとき、割と困るぞ?」
(-@∀@)「嫌だぜ〜?同期の死因が孤独死!な〜んて」
アサピーからの言葉に顔をしかめる。
「余計なお世話だ」と言いたいのは山々だが、おちゃらけた言動からはほんの少しの理と思いやりが感じられた。
確かに、今の自分たちの年齢では恋人がいた方がいいのだろう。
いや、そもそも弁護士という職務はただでさえそのパーソナリティを他人から詮索されやすい職務だ。
結婚しているかどうか。恋人がいるかどうか。
年齢に応じて一般的とされているようなパートナーがいないとなると、途端に下に見られたり、訝しまれることが多い。
将来的に、仕事に支障が出やすくなる可能性もあるだろう。
……それは分かっている、が。
35
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:31:35 ID:tie1mNy60
( ^ν^)「……興味、ないから」
(-@∀@)「その台詞が許されるのはFFの主人公だけだぞ」
「それも7だけ」というアサピーのよく分からない台詞を聞き流しながら、デスクに溜まっていた書類を束ねて隅に置く。
これらは全て明日以降に対応する案件だ。今日はもう早く帰りたい。
(*-@∀@)「あ、そうだ!俺、先週の合コンで仲良くなった子がいるんだけどさ〜!」
そう言いながら、アサピーはいそいそと自分のデスクに移動する。
数秒後、彼は四角い無地の箱と、控えめに言って不愉快な笑みを張り付けながらこちらに来た。
36
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:33:21 ID:tie1mNy60
(*-@∀@)「見てこれ!その子が作ってくれたっていう、アップルパイ!」
( ^ν^)ピクッ
“アップルパイ”という言葉に対し、身体が勝手に反応する。
アサピーが開いた箱に目をやると、その中には甘い香りが漂う円状のパイがあった。
(*-@∀@)「これがめっちゃ美味いんだよ!お前、甘いもの好きだろ?一個やるよ!」
均等に切り分けられた1ピースをじっと見る。
暫くそれを見た俺は「いらん」とだけ返し、鞄を持って立ち上がった。
(;-@∀@)「えっ!?な、なんで!?お前いっつも皆が買ってきた土産の甘いもの食うじゃん!それも率先して!」
( ^ν^)「世界で一番うまいアップルパイを知ってる」
驚きの声にまともに取り合うことなく、ぎゃあぎゃあと喧しい眼鏡に背を向けた。
37
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:37:31 ID:tie1mNy60
確かに、俺は甘いものが好きだ。
昼食をケーキなどで済ませるなんてザラだし、夜にパンケーキを食べることもある。
同僚や上司が買ってきた土産がスイーツの類ならすぐ貰いに行く。
以前貰った福島の「エキソンパイ」というのは特に良かった。自分が仕事で福島に行った時は箱買いして店員にドン引きされたが、あれはそれほどの価値がある土産だった。
その中でも、一番好きなのがリンゴを使ったスイーツだ。
アップルパイにタルトタタン、果てはウィーン菓子のアプフェルシュトゥルーデルに至るまで。
だからこそ、食べずとも分かることがある。
俺はアサピーが持っている箱を指差し、落ち着き払った精神のまま口を開いた。
( ^ν^)「それ、既製品だぞ。ちょっと上から粉糖かけてるだけ」
(-@∀@)「…………へ?」
詐欺にあった主婦のように、口をポカンと開けるアサピー。
この前相談に来たクライアントもこんな顔をしてたなと思いながら、俺は説明をすることにした。
38
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:39:07 ID:tie1mNy60
( ^ν^)「『ママーズ』っていう、割と有名なアップルパイの店のやつだ。俺の母校の近くに本店があって、そこはレモンパイとかも売ってる」
(;-@∀@)「えっ…いや、いやいや、作ったって言ってたけど……」
( ^ν^)「特徴的なリンゴのサイズに、生地の厚さ。それを家で作るのは余程の機材がないと無理だ」
(;-@∀@)「み、見ただけで分かる訳…」
( ^ν^)「……バターの香り、ちょっと強くなかったか?」
俺の言葉に、アサピーの表情が凍り付く。
どうやら図星を突いてしまったらしい。
( ^ν^)「……少なくとも、その女はやめといた方がいいぞ」
石のように固まってしまったアサピーとの会話を一方的に打ち切り、同僚たちに「お疲れさまでした」と言いながら職場を出る。
無駄にお洒落に見えるガラスのドアを開けて受付の女性に挨拶をした後、エレベーターのボタンを押した。
39
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:40:44 ID:tie1mNy60
( ^ν^)(…あの店のも美味いんだけどな)
エレベーターを待ちながら、先ほど見せられたアップルパイを頭の中でもう一度思い描く。
大学生の頃、たまに買いに行った店だ。最近は他の場所にも店舗を出していて、その味は昔から全く変わることはない。
決して不味くはない。いや、むしろかなり美味しい。
有名なアップルパイの店は数あるが、その中でも更に上位に入るだろう。
だが、食べる気にはならなかった。
知っている味だから、ではない。ましてや、既製品を手作りだと偽った顔も知らない女に腹を立てた訳でもない。
昔から、正確には幼馴染が菓子作りを始めた中学の時から。
手作りアップルパイは彼女のものしか食べないと決めている。
彼女が作るもの以上に美味しいスイーツなどこの世にない。これは贔屓ではなく、確信だ。
40
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:41:46 ID:tie1mNy60
ふと、見せられたアップルパイから連鎖して、アサピーがさっきしてきた話を思い出す。
“ちょっとは遊ばないのか”
アサピーだけではない。他の友人や上司からも、耳にタコが出来るほど頻繁に言われる言葉。
他人の恋愛事情など放っとけばいいのに、いつまで頭が中学生気分なのか。
心の中で毒づいてすぐに自嘲の笑いが漏れる。
いつまでも中学生の頃から進歩がないのは、自分も同じか。
( ^ν^)(一人暮らしの家に、男を軽々しくあげるか?普通)
幼馴染のことを考える。
高校を卒業してから互いに進路は別になったというのに、今でも交流が続いている異性の親友。
ζ( ― *ζ
…恋愛に興味がない訳ではない。極めて一般的な嗜好を持つと自分でも自負している。
食事をたかるのも、スイーツを貰いに行くのも、時間が少しでも空けば彼女の所を訪れるのも。
どれも、なんてことはない。ただ口実を見つけては会いに行っているだけだ。
41
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:43:30 ID:tie1mNy60
( ^ν^)(…ショソン・オ・ポム、食いてぇなぁ)
10年以上前の。ずっと昔のことを想起する。
きっと彼女は覚えていない。焼きたての、少し不格好なショソン・オ・ポム。
いつの間にか見た目も味も、当時のそれとは比較にすらならないほどに洗練されている筈なのに。
それでもどうしてだろう。あの時のパイの方が、今の彼女が作るスイーツよりずっとずっと美味しく感じた。
42
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:44:09 ID:tie1mNy60
早く帰って眠ろう。近頃はろくに睡眠すらとれていない。
思考をむりやり中断し、呆けたまま大人しくエレベーターが来るのを待つ。
( ^ν^)「………うん?」
ふと、ポケットが振動した気がしてスマホを取り出す。
画面には、つい先ほどまで脳裏に浮かべていた幼馴染の名前が表示されていた。
『今日、何時に終わる?待ってるね』
メッセージと共に添付されていた写真をタップし、拡大する。
そこに映っていたのは、今まさに自分がいるビルだった。
(; ^ν^)「…………は?」
驚きの声と共に、すぐ目の前から聞き馴染みのある機械音が鳴る。
何がなんだかよく分からないままエレベーターに飛び乗り、とにかく急がなければと1階のボタンを連打した。
43
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:45:07 ID:tie1mNy60
*
エレベーターから転がるように出て、ロビーの中を走って進む。
やけに開くのが遅く感じる自動ドアに苛々しながら外へ出る。
キョロキョロと辺りを見渡すこと数秒、視界の中に見慣れた女性が座っていることに気が付いた。
一瞬、誰だか分からなかったほどにお洒落な恰好をしていた。
ふわりと纏められた髪型に、随分と可愛らしいストライプのフレアスカートが寒風に靡いているのが見える。
少なくとも、長年の付き合いである自分ですらあまり見かけない恰好だった。
彼女がパッと顔を上げる。
向こうも自分に気付いたようで、随分と大きい荷物を持ったまま小走りでこちらに駆けてくる。
自分も行こう、そう思って足を踏み出した瞬間、彼女の姿勢が大きく崩れた。
ζ(゚、゚;ζ「きゃあっ!?」
(; ^ν^)「うおっ!?」
慣れないヒールを履いているからか、思いっきり躓いたデレを間一髪で支える。
デレは少し驚いたような表情を浮かべた後、バツが悪そうにへへっと笑った。
44
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:45:58 ID:tie1mNy60
ζ(゚ー゚;ζ「あ、あぶな〜…ナイスキャッチ!」
(; ^ν^)「ヒールならもうちょっと慎重に歩け…!」
足を捻っていないかどうかを確認した後、彼女からさっと手を離す。
鼻腔に残った甘い香りに、何故か少しの罪悪感が湧いた。
ζ(゚ー゚*ζうぇへへ…まぁまぁ!てか、今日めっちゃ早いね?どしたの?」
( ^ν^)「……たまたま、今日は早く終わった」
ζ(゚、゚*ζ「おっ!もしかして、ナイスタイミングだった?」
( ^ν^)「どっかに監視カメラでもあったのかと思うくらいには」
ζ(゚ー゚*ζ「ひゅう!私って幸運!いや〜最悪、君の車で待たせてもらおうと思ってたからさ〜」
いつもより少しだけ遅いデレの歩幅に合わせつつ、話をしながら歩き出す。
うちの事務所と提携している、ビルのすぐ隣にある駐車場。
そこに向かうことにデレから修正の声が上がらないことから、俺の車に同乗する気満々なのだろう。
45
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:47:32 ID:tie1mNy60
ζ(゚ー゚*ζ「そういえば、さっき待ってる時めっっちゃ綺麗な子がいたの!気付いた!?大学生くらいの子!」
( ^ν^)「いや知らん。どっかの誰かさんの間抜けな姿は見たけど」
ζ(゚、゚#ζ「それ蒸し返す必要あるか?」
( ^ν^)「…てか、結局どこ行きたいんだよ」
ポケットから車のキーを取り出し、片手間でロックを解除した。
大学の先輩から中古で譲り受けたものだが、中々気に入っている。
ζ(゚ー゚*ζ「えっ君の家だけど」
( ^ν^)「ああそう」
簡潔な返事を返し、後ろのドアを先にあけて荷物を適当に放り込む。
運転席に乗り込むと、いつの間にか助手席でシートベルトに四苦八苦しているデレの姿が視界の隅に見えた。
エンジンを入れると同時に、搭載されていたナビが光る。
発進しようとアクセルを踏み込んだその瞬間、俺はぐっとブレーキを踏んで止まった。
46
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:48:01 ID:tie1mNy60
ζ(゚―゚;ζ「うわっ!ちょ、ちょっと何?」
未だにシートベルトを装着できていなかったデレから非難の声があがる。
だが、そんな声に謝意の言葉を返すこともなく、俺は隣に顔を向けた。
(; ^ν^)「俺ん家!?」
ζ(゚、゚*ζ「そうだけど」
「なにびっくりしてるの」とでも言いたげな瞳がこちらをまっすぐ見つめてくる。
呆気にとられた俺を嘲笑うように、初期搭載されたカーナビが「急ブレーキは控えて下さい」と機械的な注意を述べた。
47
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:48:30 ID:tie1mNy60
*
ζ(゚、゚*ζ「わ〜!相変わらず、つまんない部屋!」
( ^ν^)「…どーも」
私では到底住めそうにないマンションの20階。
リビングの中心にぽつんと置かれたソファーに私はどさりと腰を下ろした。
一人暮らしにしては中々に広い1LDK。
リビングには冷蔵庫とテレビ、食事用のテーブルにソファー。それだけ。
広さの割には物がない。以前ここに来た時から部屋の内装はなんら変わっていないようだった。
( ^ν^)「…で、何しに来たんだよ」
自分の部屋だというのに、ニュッはどこか居心地が悪そうに突っ立ったままでいる。
いったい何に遠慮しているのだろうと疑問に思いながら、私は持ってきた荷物をテーブルに乗せた。
48
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:49:49 ID:tie1mNy60
ζ(゚、゚*ζ「前に言ったじゃん。ショソン・オ・ポム、食べさせてあげるって」
ζ(゚ー゚*ζ「どうせなら出来立て食べて欲しいんだよね。でも、君と私の時間ってあんまり合わないし、合ったとしても夜じゃん?私の店、閉まってるじゃん?」
ζ(^―^*ζ「そこで、思いついた訳なのです!」
にっこりスマイルを維持しながら、持ってきたものをドサドサと取り出していく。
冷凍パイシートに無塩バター、そして一番肝心なリンゴ。
これもただのリンゴではない。とあるツテで手に入れた、スーパーでは手に入らないレベルの立派な“秋映”だ。
49
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:53:43 ID:tie1mNy60
(; ^ν^)「…まさか、うちで作る気か!?」
ζ(゚ー゚*ζ「そ!ちょっと簡易的なものになるけど、何を隠そう私はプロ!」
ζ(^―゚*ζ「お家で作れるショソン・オ・ポム!御覧に入れて、魅せましょう!」
まだ何か言いたげなニュッを無視して、材料を抱えたままキッチンへと移動する。
彼がここに引っ越してきた時にプレゼントした調理器具や機材は、どれもそのままあるようだった。
どれも頻繁に使われた様子こそないが、汚れや埃などは溜まっていない。
丁寧に扱われているようで、私は少し気恥ずかしくなった。
(; ^ν^)「ちょ、ちょっと待て!それならわざわざ俺ん家に来なくたって…!」
ζ(^―^*ζ「まあまあ、また今度生地から作ったヤツも用意しとくから!」
ぎゃあぎゃあと喚く幼馴染をキックでキッチンから追い出し、必要なものを並べていった。
50
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:54:46 ID:tie1mNy60
冷凍パイシート。りんご3個。無塩バター30g。甜菜糖60g。少しのバニラエッセンス。光沢を出すために使う卵一つ。
大体これで10cm弱のものが12個くらい出来る量だ。
これはあくまでも私の場合だ。
甜菜糖は、夜ご飯代わりにスイーツはちょっと…という私のなけなしの乙女心からくる反骨精神が理由であり、別に普通のグラニュー糖でも構わない。
パイシートから型を取るのにはセルクルという物を使うが、これも切ったペットボトルやワイングラスなどで代用できる。
お家でも作れる材料だけでやる。それが今回の私の目標だ。
まずは丁寧に皮を剥いたカットしたリンゴを用意する。皮はあったらあったで煮崩れしないというメリットがあるのだが、今回はシンプルにナシでいく。
ちなみに皮はある程度シロップに使うので残す。まぁ、これも要らないなら捨てていい。
リンゴは火を通すと小さくなるので、予め厚めにカットしておく。
51
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:55:17 ID:tie1mNy60
ちょっと余ったリンゴ→〇ζ(゚、゚*ζ
〇ζ(゚、゚*ζ「………」
ζ(゚∩゚*ζハムッ
ζ(゚ワ゚*ζオイシー!
余った秋映をつまむ。
数あるリンゴの中でも、秋映は特にそのジューシーさが強い。
秋になってより増した甘味とほんのり香る酸味が、果汁とともに洪水のように噛めば噛むほど溢れてくる。
そのまま食べてもよし。スイーツに使ってもよし。まさに、リンゴの代表格だ。
52
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:55:52 ID:tie1mNy60
フライパンにバターを入れて熱している間、シロップも同時並行で作る。
砂糖と水、そして先ほどリンゴをカットして余った皮を手鍋に入れて煮込む。
下から泡が出てきて充分煮詰まったら火を止める。
これは後々、出来上がった完成品に塗るためのものだ。
フライパン内のバターが泡立ってきたらリンゴを投入。甜菜糖や少しのバニラエッセンスを加えつつ、中火に落としてじっくりとリンゴに火を通していく。
特に秋映は果汁が多い。水分を飛ばしつつ、なおかつ秋映特有のしっかりとした食感を残しつつ、煮詰めるのは10分程度に留めるのがポイントだ。
火が通ったら一度別皿に移して放置。
その間にパイ生地の準備だ。
53
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:56:45 ID:tie1mNy60
打ち粉をした上に乗せるのは超便利な冷凍パイシート。
パティシエなのに生地を作らないのかと問われれば、作らない。
店で出すのならまだしも、今回はあくまで仕事に疲れ切った幼馴染に出すための即席バージョンだ。
だからといって美味しくない訳ではない。冷凍パイシートは菓子作りをする人間にとってはノーベル賞ものの発明である。
準備しておいたセレクルでパイシートから生地を丸く切り取り、それらをしっかり楕円形に伸ばす。
ほんのちょっとだけ水を含ませた卵黄を溶き、パイ生地に端までしっかりと塗っていく。
その後は生地にリンゴを乗せ、餃子を作るときみたいにしっかりと生地を合わせる。
この際、焼いた時に中身が破裂しないよう少しだけを小さな穴を空けることが肝要だ。
再び生地に卵黄を塗り、包丁の背で軽く筋を入れる。これがショソン・オ・ポム特有の葉の模様だ。
後は、200度のオーブンで20分ほど焼く。
最後に焼きあがった表面にシロップをたっぷりと塗る。
これで出来上がり。待望のショソン・オ・ポムの完成だ。
54
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:57:14 ID:tie1mNy60
ζ(゚、゚*ζ「よーし、後は待つだけ…!」
私がプレゼントしたオーブンを操作し、ふぅっと小さな息を吐く。
そういえば、肝心の家主は一体何をしているのだろう。
無駄に広いキッチンを出て、リビングをのぞき込む。
部屋の中心には、律儀にテーブルの椅子に座って固まっているニュッの姿があった。
ζ(゚、゚*ζ「……何やってんの?」
( ^ν^)「…いや、その、待ってるだけ」
母親に怒られた後の子どもみたいに、どこかよそよそしさを感じさせる風体であった。
そんな風に待っているだけなら飲み物やフォークの一つでも用意して欲しいものだ。
そう考えると同時に、もう一つ私の頭に疑問がふって湧いた。
55
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:57:58 ID:tie1mNy60
ζ(゚、゚*ζ「てゆーか、そこで待ってても意味ないでしょ。ほら立つ!」
ニュッが座っている椅子を引き、半ば無理やり立ち上がらせる。
いつの間にか20cm以上離されていた背中をぐいぐいと押しながら、私は彼をベランダへと追いやった。
(; ^ν^)「お、おい!何だよ!」
ζ(゚、゚*ζ「何って、ベランダ出ないと」
(; ^ν^)「はぁ?」
ζ(゚、゚*ζ「…あ、言ってなかったっけ」
勝手知ったる我が家のように、閉じられていたカーテンを開ける。
流石は都内に聳える高層マンションの20階だ。
カーテンを開けた先に見えた窓越しの景色からでも、くっきりと目当ての淡い光が見て取れた。
56
:
名無しさん
:2023/10/04(水) 23:59:52 ID:tie1mNy60
ζ(゚ー゚*ζ「今日ね、満月なのよ」
窓を開け、置いてあったサンダルを履いてベランダに出る。
温暖だった部屋の中とはまるで異なる秋風に身を震わせながら、私は大きく腕を広げた。
ζ(゚ー゚*ζ「せっかくの満月と、こーんな広いベランダがあるんだから」
ζ(^ワ^*ζ「――やりましょ!月見酒ならぬ、月見スイーツ!」
風に吹かれる髪を手で軽く押さえながら、部屋の中で呆然と立っているニュッに向き直る。
彼は一瞬だけその切れ長の瞳を大きく見開いた後、小学生の頃みたいな笑みを浮かべて、「厳密には、今日は十六夜月だぞ」と揶揄うように言った。
57
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:00:20 ID:Q0Xg299o0
*
( ^ν^)「……よし、こんなもんか」
会社の同僚に貰ってから、ずっと寝室の隅に放置していた簡易的なキャンプセットを眺める。
まさか、自分の家のベランダで初めて使うことになるとは夢にも思っていなかった。
風で飛ばされないように、あまり前には出なさすぎないような場所にセットを広げる。
小さなテーブルに、コンパクトながら頑丈なクッション付きの椅子が二つと灯り確保用のランタンが一つ。
隅には身体が冷えすぎないよう、ヒーターも念のため置いておいた。
58
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:01:03 ID:Q0Xg299o0
先日買ってから空けていない日本酒を置き、その横にお猪口を二つ用意する。
大学生の頃、司法試験の合格が決まった直後にテンションで向かった沖縄で買ったものだ。
“琉球グラス”と言われる代物である。
片方は静かで煌びやかな青で、もう片方には絢爛で目を惹きつけられる赤で彩られている。
夜の黒を取り込んだそれは、まるで宇宙そのもので作られたかのような妖しげな魅力を放っていた。
ふと、コンコンという音が後ろからしたのに気付いた。
ふりむくと、両手が皿で塞がっているデレが立っている。
どうやらスイーツを運ぶのに精一杯で窓を開けられないらしい。
ζ(゚ー゚;ζ「うおっ寒〜!もう秋だか冬だか分かんないね〜!」
( ^ν^)「そんな時期にベランダで月見やる奴も大概分かんねぇけどな」
ζ(゚、゚*ζ「そんな女に付き合う君もね」
二人で顔を見合わせて笑った後、出しておいたテーブルの上に大きな皿が置かれた。
並んで置かれた椅子に座り、中心で湯気と甘い香りを漂わせているそれをのぞき込む。
皿の上には、ずっと待望していたショソン・オ・ポムが均等にいくつも置かれていた。
59
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:01:44 ID:Q0Xg299o0
ζ(^―^*ζ「お待たせしました!ご注文の、“ショソン・オ・ポム”です!」
自信満々に胸を張るデレが、座りながら大きな瞳をこちらに向けてくる。
どうやら先に自分から食べろと暗に言っているようだった。
手を合わせ、一番手前にあったパイを手に取った。
テーブルの隣に置いてあるランタンと上空に輝く月光がパイの表面に反射して、光り輝いているようにも見える。
表面に刻まれた普通のアップルパイにはない模様が、黄金で出来た木のようにも見えた。
顔に近付けると、焼きたて特有の何とも言えない香りが鼻に届いた。
ほのかに香るリンゴとバニラもまた、より一層お腹を空かせる。
デレから向けられる視線を気にすることなく、大きく口をあけてショソン・オ・ポムにかぶりついた。
60
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:02:13 ID:Q0Xg299o0
(* ^ν^)「…………!!」
焼いたばかりのサクサクの生地から現れた、シャクシャクとしたリンゴの食感。
最初の一口目から、口の中がじゅわりとした果汁で満たされた。
(* ^ν^)モグモグ
秋を迎えてほどよく熟れたリンゴの甘味が、果汁と共にサクサクの生地を良い具合にほぐしていく。
表面に塗られたシロップによって生地自体も美味しく感じられた。
口の中の甘ったるさも、スイーツ特有のしつこさを思わせることはない。
僅かに残されたリンゴの爽やかな酸味で見事に打ち消されているからだ。
はふはふと口の中の熱を外に逃がしながら咀嚼を続ける。
口の中から溢れた果汁を指で拭い、再び咀嚼。
無限に溢れてくる果汁を必死に飲み干していく。
分厚くカットされたリンゴは火を通した後でも、その存在を食感により強く主張していた。
それを優しく包み込んだ焼きたてのパイ生地。
美味しくない訳がない。それでも、これほどまでとは思っていなかった。
61
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:02:47 ID:Q0Xg299o0
無言のまま只管に食事を続ける。
気が付けば、割と大きめに作られていた筈のパイはリンゴの一欠片も残さず消えていた。
用意しておいたおしぼりで軽く手を拭く。
冷たい夜風が火照った頬を撫でていくと同時に、俺はずっと隣から浴びせられていた視線の存在をようやく思い出した。
ζ(゚―゚;ζ「…………」
自分の方を見ながら、刑事裁判で判決が言い渡されるのを待つ被告人を思わせるような緊張した面持ちを浮かべているデレ。
頭の中で言うべき言葉を整理し終わった俺は、ゆっくりとデレの方を向き、視線を少しずらして口を開いた。
62
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:03:46 ID:Q0Xg299o0
( ^ν^)「…………美味い」
ζ(゚、゚*ζ「………!」
( ^ν^)「美味いよ、コレ。本当に」
( ^ν^)「……少なくとも、都内でこれより美味い店は、知らない」
必死に考えた割には、小学生の読書感想文のような語彙だけが口から飛び出す。
がっかりしただろうか。拍子抜けさせてしまっただろうか。
そう思いながら、俺はちらっとデレの方に目を向ける。
ζ(― *ζ
彼女の頬が、リンゴみたいに紅くなっているのが見えた。
63
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:04:16 ID:Q0Xg299o0
ζ(、 *ζ「……そ、そっか」
さっきまで向けられていた熱視線はどこへ消えたのか。
俺と視線を合わせないどころか、こちらを見ようとすらしない。
互いに無言のまま、気まずい空気と冷風だけがベランダを流れていく。
そんな雰囲気を誤魔化すかのように、デレは「わ、私も食べよう!」と言ってパイに手を伸ばした。
ζ(´〜`*ζサクサクウマー
パイを口に入れた途端、さっきまでの表情が嘘のように間抜けな顔になった。
そのまま何も言わずにムシャムシャとパイを咀嚼していく。
ふと、パイの光沢で艶やかに光る彼女の唇に気付き、何だか気恥ずかしくなった俺はそのまま視線を月へとずらした。
64
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:04:49 ID:Q0Xg299o0
( ^ν^)「………」
もう一つパイを手に取り、食べながら空に浮かんだ月を見る。
ぱっと見ただけでは満月に見えるだろうが、よくよく目を凝らすと少し欠けているのが分かる。
人々が望むような満月は、どうやら昨日で終わっているようだった。
( ^ν^)「あっ、そうだ」
パイを一旦小皿に置き、テーブルの奥にある瓶を手に取る。
俺が持ったそれにようやく気付いたらしいデレは「おっ!」と嬉しそうな声を上げた。
ζ(゚、゚*ζ「ちょっとちょっと!何それ何それ〜!」
日本酒の存在に気付いたデレのテンションが分かりやすく上がる。
“日高見 純米 秋あがり”。
先日、銀座にある馴染みの酒店で手に入れた逸品だ。
65
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:05:45 ID:Q0Xg299o0
宮城のお酒といえば日高見だと豪語する日本酒好きも多数いるほどに、有名な銘柄である。
“日高見”といえば、兵庫県にて厳選された山田錦から生み出されるスッキリとした辛口のキレが特徴だ。
それがじっくりと秋まで熟成されたことによって、“日高見”が本来持つ香りと爽快感がゆったりとした滑らかさに包まれている。
まさに今しか飲めない、秋酒の中でも至高の一品だろう。
ζ(゚―゚*ζ「やったやった!今年初の秋酒〜!」
ニコニコしながら彼女はこちらにお猪口を差し向けてくる。
朗らかな笑みを浮かべる彼女を微笑ましく思いながら、俺はゆっくりと日本酒を注いだ。
そのまま流れる動作で瓶を渡し、今度は逆にこちらが注いでもらう。
互いに琉球グラスを軽くぶつけて乾杯をする。中で揺蕩う澄み切った透明の液体がふらりと揺れた。
66
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:06:31 ID:Q0Xg299o0
ほんの少量を口で含むやいなや、口の中で爽やかな香りが広がった。
日本酒というものは、必ずしも普通の料理にしか合わないものではない。
純米酒特有の爽快感やフルーティーな香りは、スイーツと組み合わせても見事な調和を醸し出す。
その絶妙な組み合わせは、時に普通の料理との兼ね合いすらも上回ることだろう。
ζ>、<*ζ「はぁ〜!美味しい〜!」
ちらりと隣を見ると、デレのお猪口は一瞬で空になっていた。
そのまま瓶を掴み、手酌で並々と日本酒を注いでいく。
年頃の女性とは思えないその様子に、俺は無意識にふっと鼻を鳴らした。
67
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:07:16 ID:Q0Xg299o0
ζ(゚、゚*ζ「そういえば、“ひやおろし”と“秋上がり”ってどう違うの?」
右手に酒、左手にパイを持ったままのデレが問いかけてくる。
味わっているのかいないのか、ムシャムシャと判然のつかない食べ方&飲み方をしているデレに内心呆れながら、俺はうろ覚えの知識を口にした。
( ^ν^)「あー…端的に言えば、“ひやおろし”は名称で、“秋上がり”は状態のことらしい」
そもそも、日本酒というのは基本的に二回“火入れ”という加熱殺菌作業が行われる。
“ひやおろし”とは、冬に絞った新種を春に一度だけ火入れし、二度目の火入れはせずにそのまま秋まで寝かせた酒のことだ。
普通の日本酒と違い、香りがより穏やかになるのと、味わいが濃厚かつまろやかになるのが特徴である。
そして“秋上がり”とは、秋までおいていた酒の質が変わることでより美味になったものの酒全般を指す。
要するに酒蔵によって呼び方を変えているにすぎない。
どちらにせよ、秋にしか飲めない美味しい日本酒のことだと理解していればそれで充分だろう。
68
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:09:10 ID:Q0Xg299o0
ζ(゚、゚*ζ「ふーん。大した違いないんだ」
ζ(^ワ^*ζ「それってめんどくさいね〜!あっはは!」
空になったお猪口に酒を注いではまた飲み干すという行為をしながら軽快に笑うデレ。
今まさにめんどくさくなってきている彼女に言われては、全国の酒蔵も鼻白むというものだろう。
一人で盛り上がっているデレを尻目に、再びパイを齧る。
秋風に吹かれてちょうどいい温度になったパイもまた、先ほどとは違うしっとりとした甘さを感じられて実に美味であった。
まだ洋菓子の甘さが残っているうちに、すかさず日本酒を口に含む。
純米酒ならではの爽快感が、パイとリンゴの甘さを破壊することなく鮮やかに流していった。
ほのかに残る日本酒の苦みも、再びパイを食べれば濃厚な甘みを引き立てるエッセンスとなる。
まさに無限ループ。食べては飲み、飲んでは食べるの繰り返し。
これこそまさに、“良いペアリング”と呼んでも差し支えないものなのだろう。
69
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:10:41 ID:Q0Xg299o0
ζ(゚ワ゚*ζ「あっ、ほら見てニュッ!おっきい〜!」
普段より1.3倍ほど大きいデレの声量に眉をしかめる。
隣を見ると、すっかり出来上がっているデレが真直ぐに月を指差していた。
余談であるが、デレがそこまで酒に強い訳ではない。
にもかかわらず、飲むペースを深く考えず水のように酒を飲むのだ。
ビールやハイボールならまだいい。だが彼女は日本酒やカクテルなど、比較的アルコール度数が高いものも関係なくゴクゴクといく。
お陰で彼女と外で飲むことに対し、強い忌避感を覚えるようになってしまった。
70
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:11:40 ID:Q0Xg299o0
ζ(´―`*ζ「ふふ、満月見ながらお酒とスイーツ!さ〜いこ〜う!」
( ^ν^)「だから、満月じゃないっての…」
ζ(゚、゚*ζ「細かいことはいいのっ!欠けてるほうが美しいの、あの、なんか変な像のように!」
( ^ν^)「ミロのヴィーナスくらいさっと出してくれませんかね」
俺の指摘など全く気にしていないかのように、デレはへらりと笑ってもぐもぐと口を動かす。
そんな彼女に呆れながらも、俺はまたパイを食べようとテーブルの中心に手を伸ばした。
( ^ν^)「にしても、めっちゃ作ったな」
ζ(^ー^*ζ「余った分は冷蔵庫に入れといたからね!」
( ^ν^)「おかわりあんのかよ」
“マジでどれだけ作ったんだ”と少し不安に思いながら口を開く。
その寸前、デレははぁっと白い息を漏らしながらこう言った。
71
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:15:22 ID:Q0Xg299o0
ζ(゚ー゚*ζ「月が綺麗ですねぇ」
パイを迎えようとしていた口が、ポカンと開いたまま制止する。
目を見開いて隣を見てみれば、発言した張本人は月を見ながら呑気に口をモグモグと動かしていた。
デレはお世辞にも勉強が得意ではない。
中学から高校まで、いくら彼女に勉強を教えても平均点が50を超えることはなかった。
“海がない県なんてあるの?”と問われた時は流石に面食らったものだ。
そんな彼女が、ミロのヴィーナスすら言えなかった彼女が、某文豪が訳したとされる一句を知っている訳がない。
そう思いながらも、どう返答すればいいのか分からなくなった俺は、思考を上手く纏められないまま漫然と口を動かした。
( ^ν^)「……"死んでもいいわ"…ってか」
ζ(゚、゚*ζ「はぁ?いきなり何言ってんの?」
少し震えていただろう俺の返答に、デレは眉をひそめながら首をかしげる。
呆気にとられる俺など目にも入っていないかのように、彼女は再びお猪口を傾けた。
72
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:16:09 ID:Q0Xg299o0
( ^ν^)「……馬鹿みたいだな」
ζ(゚、゚*ζ「だれがぁ?」
( ^ν^)「俺もお前も」
ζ(゚ー゚#ζ「なんやと!誰がバカだぁ!」
既に焦点が合っていない目をシカトしつつ、勢いよくお猪口を呷る。
勢いよく流れる大量の日本酒が、その豊かな味わいを舌の上で広がることもないままにスルリと喉を焼いていった。
73
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:16:42 ID:Q0Xg299o0
*
ζ(- -*ζスースー
(; ^ν^)「……よくこんな寒い中で寝れるな…」
ベランダで月見を始めておよそ2時間。
すっかり空になった瓶を片付けて戻ってみれば、先ほどまでうんざりするほど喧しかった幼馴染は静かに寝息をたてていた。
もう一度部屋に戻り、持ってきた手頃な毛布をデレにかける。
幸せそうに口をもにゅもにゅと動かす彼女を一瞥した後、俺は再び隣の椅子に腰を下ろした。
74
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:17:25 ID:Q0Xg299o0
肘掛けを使いながら拳に頬をあて、夜空に輝く月を見る。
自然の光とはとても思えない、淡いながらも強い光。
テーブルにぽつんと置かれた最後のショソン・オ・ポムを手に取る。
月を見ながら齧ったそれは、すっかり焼きたての熱を失っていた。
( ^ν^)モグモグ
だからといって、その美味しさまで失われた訳ではない。
むしろ、生地やリンゴのしっとり感が増していて、これはこれで別の美味しさが感じられて良い。
温度が下がったことでぎゅっと中に閉じられた果汁が、凝縮された旨味とともに舌を踊る。
冷めても美味しいどころか、冷めたからこそ新たな良さが生まれるように作られた菓子。
それを作ったのが間抜け面で眠っている同い年の幼馴染だというのだから、人は見かけによらないものだとつくづく思い知る。
75
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:18:20 ID:Q0Xg299o0
( ^ν^)人「………ごちそうさま」
手を合わせ、空になった小皿を見る。
眠っているデレの方向に、何も乗っていない小皿を動かした。
昔から俺が彼女によくやる、“おかわり”のサインである。
中学生の頃、デレと会話をするのがなんとなく気恥ずかしく思う時期があった、
学校ではとんと喋らない。だが、彼女が新しく始めた祖父の手伝いとやらには駆り出される。
当然、話をしないといけない。なのに、上手く彼女と話すことができない。
そんな中、“おかわり”とすら上手く言えなかった臆病者の自分が生み出した、精一杯のコミュニケーションがこれだった。
大人になった今では、そんな思春期特有の感情などは流石にない。
それでも、自分でもよくわからないが、このサインだけは続けていた。
76
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:19:28 ID:Q0Xg299o0
( ^ν^)(……一人暮らしの男の家で、無防備に寝るようにもなったか)
月から視線を外し、眠ったままのデレを見る。
信頼されているのか、それとも舐められているのか。
どちらにせよ、一人の男としてはどうしても情けなさを感じざるを得ない状況であることには間違いない。
さきほど、デレの口から飛び出た言葉を想起する。
ζ(゚ー゚*ζ『月が綺麗ですねぇ』
彼女としては、何とはなしに言った言葉なのだろう。
なけなしの勇気を総動員して振り絞った返答にも首を傾げていたことから、まず間違いなく“そういう意味”はない。そもそも、よく考えれば彼女がこんな風流な意訳を知っているとは思えない。
それでも、彼女にとっては何の意味もない筈の言葉が、鼓膜に焼き付いて離れなかった。
77
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:20:20 ID:Q0Xg299o0
( ^ν^)「………」
無言のままデレの顔を見つめる。
幼少の頃からずっと、恋焦がれていた女の子が今目の前にいる。
“いつかこの寝顔も、俺以外の男が見ることになるのだろうか”
自分でも思わず引くレベルの女々しい考えが頭に浮かんだ。
こうやって一人うじうじとして、何も伝えないまま、伝えようともしないまま大人になってしまっていた自分にほとほと呆れる。
肝心な言葉を口にする気もない癖に、無理な理由をこじつけて彼女の隣だけはキープしようとみっともなくあがく男に、一体誰が振り向いてくれるというのか。
78
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:20:51 ID:Q0Xg299o0
月を見る。
満月ではない、ほんの少しだけ欠けた、いわば不完全な月だ。
創作やドラマでは求められないような、そんな月。
なのにどうしてだろう。不完全なはずの欠けた月が、今の俺にはこれ以上ないほどに美しく感じられた。
( ^ν^)(…この月も、お前はきっと忘れてしまうんだろうな)
ずっと昔、初めてデレが作った洋菓子のことを思い出す。
彼女が祖父から教わったという、歪な形をしたショソン・オ・ポム。
デレにとっては、何気ない過去のエピソードに違いない。
だけど俺にとっては、何よりも大事な思い出だった。
もし俺の人生が映画だったとしたら、間違いなくハイライトになるであろうと思えるほどに、それくらい、今でも鮮明に思い出せるような、鮮やかに色づいたままの記憶だった。
79
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:21:29 ID:Q0Xg299o0
デレが隣にいたというだけで、どんな思い出も宝物になる。
中学から借りたオーブンを破壊して、二人で先生にしこたま怒られたこと。
高校生の頃、デレに無理やり乗せられたジェットコースターで気絶して笑われたこと。
大学生の頃、司法試験の勉強中に呼び出され、いきなり冬の海につれていかれた挙句にずぶ濡れにされたこと。
今日の夜もきっとそうなる。
ショソン・オ・ポムの甘さも、日本酒の苦みも、淡く光る月光も、安らかに眠る想い人の横顔も。
報われなくてもいい。
ただ長く、お前の隣にいられればそれでいい。
お前が作る菓子さえ食べられるのなら、それでいい。
自分を誤魔化すように、昔からずっと抱いている思いを心中で繰り返す。
ベランダに差し込む月光が、デレの横顔を優しく照らす。
彼女の白い肌によって光が反射するその様を見ていると、“月下美人”という言葉が浮かんだ。
80
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:22:14 ID:Q0Xg299o0
昔、“I love you”を“月が綺麗ですね”と訳した文豪がいたらしい。
今となっては典拠不明の、一種の都市伝説であるという話だ。
情報飽和社会と揶揄されるこの現代。その程度のこと、今ではそこらの高校生ですら知っている雑学の類。
それなのに、この無駄に気取った言い回しを好んで使いたがる輩が、科学が発達しきった今の世でも未だにわんさかといる。
文通だのなんだのと不便だった明治・大正とは違い、今では隣人どころか地球の裏側にいる人間にだって、指先一つで愛を囁ける時代だ。
告白というものがそんな気軽で簡易なものになり下がった今でも、“そんなこと”すら出来ない人間でこの国や世界は満ちている。なんとも嘆かわしいことだと思う。
81
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:23:06 ID:Q0Xg299o0
グラスを置き、空を見上げる。
宝石箱をひっくり返した海の中を思わせる夜の中心に、丸々と、それでいて煌々と輝いている月が見える。
よく見れば、それは満月ではなかった。人々が望むような、創作の中でむやみやたらに持て囃されがちな満月は昨日で終わっている。
それでも少し欠けたその十六夜は、芸術の類に疎い自分でも、目が離せなくなる不思議な魅力を湛えて夜の街を照らしていた。
視線をちらりと横に移す。
そこには淡い月光も文豪の形容も笑い飛ばすかのように、すやすやと眠る幼馴染の横顔があった。
彼女を見ながら、ふと、とあることに気が付いた。
そうか。きっと、“月が綺麗”なんて、気障な言い回しを考えた者は。
きっとそいつは、博識な文豪でも、瀟洒を気取った訳でも、はたまた日本人に古来から伝わる奥ゆかしさなんてものを重視した訳でもなく。
今の自分と同じように。
そいつは、単純に、ただ、きっと――。
82
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:24:08 ID:Q0Xg299o0
( ^ν^)(“好き”の一言すらちゃんと言えない、臆病者だったんだろうな)
今の自分のように、と自虐気味の思考を付け足した。
デレの寝顔を正面から見つめる。
……どうせ、眠っていて聞こえていないのなら。
今日の夜のことも、彼女はいつか忘れてしまうというのなら。
数分ほどじっと彼女を見ていた俺は、自分にすら聞こえない声量でぼそりと呟いた。
83
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:24:59 ID:Q0Xg299o0
( ^ν^)「――月が、綺麗ですね」
十数年以上、ずっと抱えていた想いを口にした。
眠っているとはいえ、初めて想い人の前で披露した秘めた想いの言葉。
口にしたそれは以外にも、さきほどからずっと頬を撫でている秋風のように爽やかな心地で自分を満たしていった。
( ^ν^)(……何を言っているんだろうな、俺は)
髪をくしゃくしゃと掻き、空になった皿をまとめようとする。
その瞬間だった。
84
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:26:31 ID:Q0Xg299o0
ζ(― *ζ「――だからさ、ちゃんと言ってよ」
聞き慣れた、それでいて今聞こえるはずのない声色が耳を打った。
ゆっくりと、それでいて慎重に右を向く。
そこには、今まで一度も見たことのないような表情をした幼馴染の姿があった。
85
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:30:59 ID:Q0Xg299o0
(; ^ν^)「えっ…?お、おまえ、起きて――」
ζ(゚、゚*ζ「…いくら幼馴染でも、一人暮らしの男の家で寝る訳ないでしょ。馬鹿じゃないの?」
俺の言葉にデレは口を尖らせる。
彼女は俺の方をじっと見たまま“そんなことより”と二の句を継いだ。
ζ(゚、゚*ζ「…知ってるなら、反応すればいいじゃん。知らないフリしちゃってさ、いじわる」
( ^ν^)「は…?」
ζ(゚、゚;ζ「だ、だから…夏目漱石だって」
視線を泳がせながら、彼女はおずおずと月を指差す。
一際冷たい風がベランダに吹く。それでも、俺のオーバーヒート寸前の頭は少しも冷えてくれなかった。
86
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:32:29 ID:Q0Xg299o0
(; ^ν^)「い、いや…だから、"死んでもいい"、って……」
ζ(゚、゚#ζ「だから何よそれ!分かってるなら、ちゃんと返事してくれればよかったじゃん!」
顔を真っ赤にしながら、懸命に声を張り上げて主張するデレ。
――そうか、彼女は“返答”のことまでは知らなかったのか。
ストンと納得すると同時に、俺はなんだかおかしくて堪らなくなって、声を上げて笑ってしまった。
(* ^ν^)「ふ、…ふふ、は!あっはっは!」
ζ(゚、゚;ζ「な、何で笑うのよ!こっちは真面目な話を…!」
(* ^ν^)「いや……悪い、ほんっとに、馬鹿だなぁと思って」
ζ(゚―゚;ζ「ま、また馬鹿にした!?」
( ^ν^)「違ぇよ。…今回ばかりは、俺の方だ」
笑いすぎて目尻に浮かんだ涙を指で掬いとる。
いや、そもそも今回に限った話ではない。
彼女への想いを自覚した時から、俺はずっと、彼女以上の阿呆だったのだ。
87
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:33:32 ID:Q0Xg299o0
ζ(゚、゚*ζ「……それで、どう、なの」
左手で髪をいじりながら、デレが遠慮がちにこちらを見る。
少しの不安と照れが見えるその表情は、今までの何よりも可愛らしく思えた。
ζ(゚、゚*ζ「…今度は、ちゃんと、言ってくれる?」
目と目が合う。
痛いくらいに真直ぐなデレの視線が、揺れることなくこちらに向けられる。
無言のまま、再び頭を巡らせる。
もう、変な意地を張っていたあの頃の自分ではない。
眼前の彼女が望んでいるのは、どこぞの文豪が言いそうな、遠回しな比喩では決してない。
意を決して、いつもより大きく息を吸う。
真摯に浴びせられる視線から少し目を外しながら、俺はテーブルの上の小皿を手に取った。
(; ^ν^)「……………その、」
88
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:34:22 ID:Q0Xg299o0
(; ^ν^)「――おかわり、くれるか」
ζ(゚、゚*ζ「………………………へ?」
89
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:36:12 ID:Q0Xg299o0
素っ頓狂な俺の言葉に、デレもまた素っ頓狂な声を上げる。
再び、静寂がベランダ全体を包み込んだ。
数分か、それとも数秒にも満たない時間だったのか。
時が止まったのかと思うくらいに静かな空間を切り裂いたのは、デレの踊るような笑い声だった。
ζ(― *ζ「ふ……ふ、ふふ、ふふっ、ふふ!」
ζ( ワ *ζ「ふふふっ……あ、あーはっはっはっは!!」
もう堪えきれないといった具合に、腹を抱えて笑い出すデレ。
ベランダに彼女の笑い声が充満する中、俺はやたらと熱くなった頬を抑えながら、じっと情けなく俯いていた。
ζ(― *ζ「ふふ、あはは…あーおっかしぃ…」
ζ(^―^*ζ「…オッケー、おかわりね。はいはい、分かりましたっ!」
空いた大皿を手に取り、デレは楽し気に窓を開ける。
ニコリとした笑みを一切崩すことのないまま、部屋に戻る直前、彼女はクルリとこちらに振り向いた。
90
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:37:26 ID:Q0Xg299o0
ζ(゚、゚*ζ「……おかわり持ってくるまでに、ちゃんと準備、しててよね」
ζ(゚ー゚*ζ「十数年、ず〜っと待ったんだもん。これ以上は待ってあげないんだから!」
瞬きすら忘れるほどの笑顔を携えたまま、彼女は部屋に戻っていく。
パタパタと駆けていく彼女の足音を聞きながら、俺はぐったりと椅子に背中を預けた。
91
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:38:09 ID:Q0Xg299o0
( ∩ν^)「…………腹、くくるか」
目頭に手を当てながら、頭の中にある語彙を集めては、どう伝えようかと考えては次々と思考が霧散していく。
テーブルに残されたままの小皿を見る。
“まだ食べられるだろうか”と自分の腹事情に関する、場違いな考えが頭をよぎった。
92
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:41:17 ID:Q0Xg299o0
心臓が爆発しそうなくらいに鳴っている。
昔受けた司法試験本番の日でも、こんなに緊張したことはない。
不安、恐怖、絶望、失恋、失敗と、嫌な言葉が切れることなく頭を回る。
何を言えばいいのか。シンプルでいいのか。それで本当に呆れられないか。
俺は本当に彼女の隣に立つに足る人間なのか。そんなことばかり考える。
それでも、向き合わなくてはならない。きちんと言葉にしなければならない。
ずっとずっと待たせ続けていたのだ。せめて肝心な今日くらい、びしっと決めて始めたい。
93
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:43:25 ID:Q0Xg299o0
空を見上げる。
きっとこの先、百年経っても忘れられなさそうな月光が煌びやかに輝いているのが見える。
今にも破裂しそうな胸を抑えながら、ショソン・オ・ポムのおかわりが来るのを待っていた。
94
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 00:46:45 ID:Q0Xg299o0
( ^ν^)ショソン・オ・ポムにアンコールを、のようです
〜おしまい〜
95
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 16:33:23 ID:AJqqTmPY0
乙!ショソン・オ・ポム食べてみたくなった
96
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 16:36:36 ID:0FDJmueo0
乙
スイーツの描写好き
十数年待ってたデレの凄さよ
ニュッ君は責任もって幸せにしてくれ
97
:
名無しさん
:2023/10/05(木) 19:10:49 ID:h0kkaZMA0
乙!綺麗にまとまってておもしろかった
焼きたてアップルパイたべたいなあ
98
:
名無しさん
:2023/10/06(金) 09:55:48 ID:WgutI6p60
乙〜〜〜〜〜〜
99
:
名無しさん
:2023/10/06(金) 12:02:59 ID:yR0QoJSY0
“I love you”を“おかわり、くれるか”と訳した弁護士がいるらしい。
100
:
名無しさん
:2023/10/06(金) 20:37:09 ID:S1fZKBRQ0
乙乙
ショソン・オ・ポム、つい手に取りたくなるフォルムよね…
101
:
名無しさん
:2023/10/11(水) 21:37:52 ID:rcD/GuOA0
甘酸っぺぇ〜〜〜〜〜〜!!乙乙
102
:
名無しさん
:2023/10/15(日) 01:48:05 ID:9/yQvIoA0
おつおつ
じれったくて最高
103
:
名無しさん
:2023/10/15(日) 16:58:36 ID:jKBxzhsk0
ゆっくり確実に進められてく描写が丁寧
乙
104
:
名無しさん
:2025/03/28(金) 20:56:50 ID:MaTp9ea60
ちょっとした番外編を投下します。初めてのスマホによる執筆&投下なので、読みにくかったらごめんなさい。
本編より5年くらい前のお話。
105
:
名無しさん
:2025/03/28(金) 20:59:20 ID:MaTp9ea60
最近、やけにあいつの聞き分けが悪い。
ペットの話ではない。
確かに私は、買い物途中によく見かけるワンちゃんを凝視したり店の前でお昼寝をするネコちゃんを撮りまくったりするほどに動物好きだが、将来食べ物を扱う仕事に就く以上ペットは飼わないと断腸の思いで決めている。
かと言って家電の話でもない。
専門学校の入学と同時に親から貰った最新家電たちは今でも全て不調なく働いてくれているし、現に今日の夕食として食べたビーフシチューは今話題の自動調理器で仕上げたものだ。
私は調理師学校の学生であり目指す職業も一般的な料理人とは少し毛色こそ違うものの、『機械でもここまで美味しいものを作れるのか』と若干のジェラシーを覚えるほどよく働いてくれている。
日頃使っている洗濯機や掃除機なども、不調の影すら見当たらない。どれも頑張り屋で丈夫な良い子たちである。
存在しないペットでもないし、日々頑張ってくれている愛しき家電たちでもない。
まるでこちらの言うことを聞かない、私の目下の悩み事。それは。
106
:
名無しさん
:2025/03/28(金) 21:01:18 ID:MaTp9ea60
( ^ν^)「うわ今日の金ローまたジブリかよ……デレ、なんか録画してる映画とかねぇの」
ζ(゚皿゚#ζ「先に食器とか片付けろや!!!」
学業とバイトで疲れた体を引きずり、なんとか入浴まで済ませた金曜の夜。そんな日にアポ無しで来ては夕食をたかり、片付けもしないまま胡座をかいて、耳を掻きながらテレビの番組表にケチをつけだしたこの野郎。
私の幼馴染が最近、まるで言うことを聞かないのである。
107
:
名無しさん
:2025/03/28(金) 21:02:05 ID:MaTp9ea60
ζ(゚ー゚*ζ杓子は耳掻きになりたいようです
.
108
:
名無しさん
:2025/03/28(金) 21:04:59 ID:MaTp9ea60
ζ(゚ー゚#ζ「だーかーらー……食べ終わったらせめて水に浸けるくらいしてよ! 何度言ったら分かんの!?」
( ^ν^)「……」
ζ(゚、゚#ζ「ちょっとニュッ! 聞いてる!?」
( ^ν^)「へ? あぁ、今日のデザートなに?」
ζ(゚皿゚#ζ「もう私のエクレア食っただろうがッ!!」
私の怒号も聞こえていないかのように無反応のまま、いつの間にか無駄にデカくなりやがった体をテレビ側に向ける。
お互い今年で20歳。互いに出会ってからの年月だけを数えても16年。それだけの付き合いであればこそ「手伝う」とか「ありがとう」とか、そういうありきたりな言葉や態度が必要なのではないだろうか。
そんなことを考える私を嘲笑うかのように、最近のニュッは人の話を聞かない。皿を持ってこいと言っても来ないし、おかわりは自分でつげと言っても昔と同じように黙って茶碗をこちらに寄越すだけ。
耳をつねり頬をはたき鳩尾に拳を入れてようやくこちらの言葉に反応する始末だ。なんだこの野郎。ちょっとばかし良い大学行ったからって調子乗りやがって。
109
:
名無しさん
:2025/03/28(金) 21:06:45 ID:MaTp9ea60
憤りながらもニュッの分の食器も含めて片っ端から水に浸けつつ、洗剤を含んだスポンジでさっと洗っていく。
本当は食洗機が欲しいものだが、他の調理器具や製菓器具、最新家電に手を出したせいで首が回らなくなってしまったのだ。
私の食に対する拘りやノーアポで食事をせびりにくる幼馴染の事情を鑑みれば、どう考えても食洗機こそ最優先で買うべきであったのに。
我が人生史に残るほどの大失敗である。
ζ(゚、゚*ζ「ねぇちょっと、ビーフシチューの鍋とか持ってきてよー」
洗い物を続けたまま声をかけるも返事はない。
さっとリビングの方に視線を向けると、ニュッは未だテーブルに肘をつきつつ、だらけた様子でテレビを見ていた。
可愛い幼馴染のちょっとした頼みにすらコレである。飯を食わせてもらった人間の態度とはとても思えない。なんだコイツは。そういう妖怪か?
ζ(゚ー゚#ζ「……」
流れる水を止め、タオルで軽く手を拭く。
そして、抜き足でも忍足でもない至って普通の歩行のまま、私はリビングで呑気に某有名アニメ映画を鑑賞中の幼馴染の背後を取った。
110
:
名無しさん
:2025/03/28(金) 21:08:53 ID:MaTp9ea60
ζ(゚ー゚*ζ「もしもーし」
( ^ν^)「……」
ζ(^―^*ζ「ちょっとー? お鍋くれると嬉しいなー?」
( ^ν^)「……」
ζ(^―^#ζ「ねぇ聞いてるー? ロクに働いてもない大学生の分際でなにサボってんのー? 今日も遅くまでバイトしてた私を労わろうとかそういう気遣いないのー?」
( ^ν^)∂「……」ポリポリ
ζ(゚ー゚;*ζ「……ニ、ニュッくーん?」
( ^ν^)「……」
( ^ν^) ∂ポリポリ
ζ(゚ー゚#ζ「……」カチン
返事がない。ただのしかばねにしてやろうか。
なんならそれも許されるかもしれない。なにせ、懐かしき幼稚園時代の呼び方までしてやったというのにこの始末なのだ。背後からパレットナイフで一突きしたって誰も文句は言わないだろう。
だがしかし私は志しているのは殺人鬼ではなくパティシエ。そして眼前にいるボケナス野郎にとっては心優しい親友かつ幼馴染なのだ。そんな私がとる少しの反抗だって、それ相応の可愛らしい物でなくてはならない。
なので。
111
:
名無しさん
:2025/03/28(金) 21:10:10 ID:MaTp9ea60
⊂ ζ(゚、゚#ζピトッ
さっきまで流水に晒されていた手をニュッの首筋に当てた。
すると。
っ(; ^ν^)「うおおおっ!?」
成人男性とは思えないほどの情けない叫声が部屋に響いた。
ざまあみろ。
112
:
名無しさん
:2025/03/28(金) 21:13:15 ID:MaTp9ea60
∩(; ^ν^)「はっ!? な、なんだ!? なにすんだ急に!!」
ζ(゚、゚#ζ「皿洗え」
( ^ν^)「……は? 今なんて……」
ζ(゚皿゚#ζ「さ〜ら〜あ〜ら〜え〜!!!」
怒気と少しの殺気を込めつつ、流水で冷え切った両手でニュッの首を鷲掴みにする。
君が首弱いなんてことくらい、6歳の頃から知っているのだ。弱点を晒しながらこちらに背を向けていた彼が百パー悪い。私を誰だと思っている。
時には力を込め、時には爪の先で鎖骨あたりをくすぐりながら呪いを込めるとようやく観念したのか、彼は「わかったわかった!」と言いつつキッチンへと走り出した。
やはり実力行使こそ至高である。普段から法律がどうだの司法がなんだのとぼさいている奴が、ちょっと首筋を触っただけで動くのだから。次はフライパンで後頭部をフルスイングしてやろうか。
113
:
名無しさん
:2025/03/28(金) 21:16:18 ID:MaTp9ea60
(; ^ν^)「終わったぞ……」
やけにげっそりした顔でリビングから出てきたニュッに一瞬目配せをする。食器洗い如きでどうして疲れているんだろう。情けない男だ。
ζ(゚、゚*ζ「ちゃんとタオルでよく水気拭いた?」
(; ^ν^)「拭いたし、台所の掃除もして排水溝の生ゴミも捨てた……」
ζ(゚ー゚*ζ「よろしい、褒美として私にお茶を出す権利をやろう!」
( ^ν^)「いや俺が淹れんのかよ」
ζ(^―^*ζ「夜九時前に『腹減った』とかほざいて上がり込んできた輩にビーフシチューもハンバーグもサラダも出してあげたの誰だったかしらー?」
何も反論材料が浮かばなかったからなのか、ニュッは数秒黙った後、耳を弄りながらまたゆっくりと台所の方へ戻っていった。
私の言葉に彼が黙り込むところなどもう百回ほど見た光景だが、この国で一番頭が良いとされている大学の学生を口でやり込めたと思うと些か気分が良いものである。何度も目にしても飽きそうにない。
114
:
名無しさん
:2025/03/28(金) 21:17:44 ID:MaTp9ea60
ニュッが持ってきたお茶を飲みながら、二人でテーブルを挟んで映画を観る。そういえば、中学生くらいの頃に一度観たきりで、こうして改めて観ると中々どうして新鮮だ。
テレビの中で、少年が少女にお弁当箱を渡すシーンが流れた。
お弁当の大きさにケチをつけて去っていく少年。当時は特になんとも思わなかったが、今見ると確かにこれは少々嫌だ。見ず知らずの、それも同世代の異性から一々食べる量について指摘などされたくもない。
ζ(゚ー゚*ζ「そういえば、ニュッてば中学の頃さ……」
お弁当で一つ思い出した話があって、肘をついたまま隣でテレビを見ている幼馴染を揶揄おうと口火を切る。
だが、彼は私の話に反応することなく黙ってこちら側にあったリモコンを手に取った。
115
:
名無しさん
:2025/03/28(金) 21:21:57 ID:MaTp9ea60
ζ(゚ー゚;ζ「ちょ、ちょっとまた無視!?」
( ^ν^)「ん? 何が?」
ζ(゚、゚#ζ「何がじゃない…って字幕つけないでよ!」
( ^ν^)∂「何言ってんのかよく聞こえねぇから」ポリポリ
ζ(゚、゚#ζ「見辛いのよ字幕あると! 音量上げるなりすればいいでしょ!」
( ^ν^)っ「へいへい」ピピピ…
ζ(゚Д゚#ζ「ぎゃあああうるさい上げすぎあげすぎ!!」
途端に大きくなったテレビの音量に驚き、慌ててニュッの手からリモコンを奪い取る。
ここは一軒家でもなければ防音のしっかりした高級マンションでもない。専門学校生が一人暮らしに選ぶようなごく普通の学生アパートなのだ。
広さには多少の自信があるものの防音生などといった贅沢な要素にはまるで気遣いなどない。ただでさえ学校とアルバイトで疲れているのにご近所トラブルまで抱え込むなど心底お断りである。
116
:
名無しさん
:2025/03/28(金) 21:25:07 ID:b.a83sZc0
ζ(゚ワ゚*ζ「わ〜……楽器弾けるのカッコいいよね〜」
( ^ν^)「……」
この映画をきちんと観たことがない人でも、このシーンだけは知っているという方は多いかもしれない。バラエティ番組でもたまに取り上げられたりするし、私も結構好きなシーンの一つだ。
ちらりと隣の男を盗み見る。
眉間に皺を寄せながらつまらなさそうに観ているが、別にこれは楽しんでない訳ではない。本当につまらなければ彼は途中で容赦なくチャンネルを変える。
というかよく目を見るとその奥には愉快そうな色が浮かんでいる。分かりづらいことこの上ないが。
ζ(゚ー゚*ζ(…ま、私くらいしか分かんないだろーけど)
特定の誰かに向けたものでもない優越感に浸りながら映画に視線を戻した。
中学生の淡い恋模様を描いた王道的ボーイミーツガール。大人になった私たちでも楽しめるのだから、中学生が観たらピンポイントで刺さるのだろう。
現に、中学生の頃の私にはかなり刺さった。
まぁ残念ながら情緒もへったくれもない何処ぞの朴念仁のせいで、甘苦いエピソードなどが生まれたことはなかったが。
117
:
名無しさん
:2025/03/28(金) 21:34:45 ID:BqZFKf2Y0
ζ(゚ー゚*ζ「……やっぱいいよねぇ、恋」
わざとらしくならないようにぼそっと呟く。普段はあまりこういう話題は振らないようにしているが、今なら少しくらい出来るかもしれない。
ζ(゚ー゚;ζ「わ、私ももうハタチだしなー! いい加減、恋人とかちゃんと考えないとだよね!」
ζ(゚、゚;ζ「ほ、欲しいとかじゃなくてね? 年齢相応というか、一般的というか、そういうの考えるのが普通っていうか……」
ζ(゚ー゚;ζ「君は、その……どう? 欲しかったりする? あの、ほら……」
ζ( ― *ζ「か、か………彼女、とか……」
118
:
名無しさん
:2025/03/28(金) 21:36:11 ID:Uay.BByA0
今までニュッに彼女が出来たところなど見たことがない。
四捨五入すれば20年にもなる付き合いの中で、彼が異性との付き合いを欲した場面を本当に一度も見たことがないのだ。
まぁ、そんな事態にならないよう私がこっそり立ち回ってきたというのも少なからず関係があるのだろうが。
だがどれだけ鈍感ボケナス野郎でも、彼とて今年ようやく20代へ足をかける健康な成人男性だ。内心、すこしくらい色恋に興味があるに違いない。というかないと困る。主に私が。
ほんのりとした期待を抱きつつ、こそっと横に目を向けてみる。
……が。
( ^ν^)∂「……」ポリポリ
反応はプラスでもマイナスでもない、紛うことなきゼロ。
要するにフル無視であった。
119
:
名無しさん
:2025/03/28(金) 21:41:57 ID:QGNfqeUA0
ー⊂ζ(゚Д゚#ζ「いい加減にしろボケェ!!」ブン
(; ^ν^)「うおっ!?」
リモコンを持って頬を狙うも、ギリギリのところで避けられてしまった。
高校まで体育の成績ずっと悪かった分際でなんだその反射神経は。ニュッの癖に生意気だ。
(; ^ν^)「な、なんだよさっきから……! 映画観てるんじゃねぇのかよ!?」
ζ(゚、゚#ζ「こっちのセリフよ! さっきから……いや最近なに!? 私の話全然聞いてくれないじゃん!」
(; ^ν^)「話……? なんか話あんの?」
ζ(゚ー゚#ζ「違うわよバカナス!!」
私の怒号にも彼はただ目を白黒させるばかり。
注意も、お願いも、他愛ない話も、少し勇気を出した話題も、何もかもが私の独り言で終わる。その徒労と寂しさがどれだけのものか彼に分かるものか。
ろくな語彙もない私の脳では怒りを上手く表すことも出来ず、今どき小学生でも使わないような表現ばかりが口をつく。
これでは本当に馬鹿みたいじゃないか。
今日もまた少しは話せると思って、彼女気取りで夕飯まで用意した私が、本当の馬鹿みたいじゃないか。
120
:
名無しさん
:2025/03/28(金) 21:44:21 ID:NKqRmeIk0
ζ( ― #ζ「話しかけても全然反応しないじゃん…! やってって言ったこともやってくんないし、ちょっとした話にも付き合ってくれないし!」
( ^ν^)∂「話しかけて……?」ポリポリ
ζ(゚ー゚#ζ「無視してたでしょ! いっつもいっつもそっぽ向いて、そうやって呑気に耳掻いてさ……!」
そこまで言ってふと、とあることに気がついた。
ニュッを見る。まただ。また、痒そうに耳を掻いている。
耳に頻繁に触れるなどといった奇妙な癖は彼にない。伊達に16年以上幼馴染をやってないのだ。それくらいは分かる。
ゆっくりと、ここ最近の記憶を遡ってみる。
ニュッの反応が悪くなった日々。彼の様子はどうだったか。疲労はありそうだったが、顔色は悪くなかった。食事だっていつもの量を摂っている。
そんな中で唯一、一つだけおかしかったことは。
121
:
名無しさん
:2025/03/28(金) 21:45:33 ID:PlyI.kkI0
ζ(゚ー゚*ζ「……ねぇ、ニュッ」
いつもより少し大きめの声量で呼びかける。
( ^ν^)「なんだよ」
訝しげに眉を顰めながらではあるが、今回は確かに私の呼びかけに反応した。
いつもより声を大きくした呼びかけには、ちゃんと反応する。
ということは。まさか。単純に。
ζ(゚ー゚*ζ「もしかして、さ」
ニュッの目を真っ直ぐ見ながら、私は自分の耳を指差してこう言った。
ζ(゚ー゚*ζ「………耳、汚れてる?」
122
:
名無しさん
:2025/03/28(金) 21:46:21 ID:PlyI.kkI0
続きは後日投下します。
123
:
名無しさん
:2025/03/31(月) 19:13:30 ID:XtnUbWA20
おつ
124
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 21:27:43 ID:c6dlnqEQ0
*
(; ∩ν^)「……いや、なんでこうなる」
本日何度目かも分からない『なんで』を口にしながら不満げに幼馴染を睨む。
目の前にいる彼女は自分と違い、遠足前の幼稚園児のように楽しげな雰囲気を纏っていた。
ζ(^―^*ζ「いいじゃない! むしろ感謝してほしいくらいだけどね〜優しい幼馴染が直々に耳掃除してあげるんだからさ!」
半ばスキップのような足取りで戻ってきたデレの右手には随分と良さげな竹の耳掻き棒に可愛らしいピンクのピンセットが、左手にはよく分からないボトルと布が握られている。
いそいそと何を持ってくるかと思えば、現れたのは随分と本格的な品揃えであった。
125
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 21:28:51 ID:c6dlnqEQ0
( ^ν^)「てかなんだよ、そのちょっと良さげな道具たちは」
ζ(゚ー゚*ζ「えへへ、先月買ったんだ! まさかこんなにすぐ使えるチャンスが来るなんて思わなかったけど」
( ^ν^)「……まぁ、耳掻きじゃなくて杓子持ってこられるよりかはマシか」
ζ(゚、゚*ζ「え? 杓子? なんで?」
( ^ν^)「なんでもねえ」
『昔教えた筈なのに』という言葉は胸中にしまっておく。
中学や高校の頃に覚えた諺や慣用句など、大人になった後では英単語の十分の一も役に立たない。
耳掻きという単語を用いた言葉も昔教えたはずだが、そもそもデレは学校の勉強はあまり得意ではなかった。そりゃあ覚えている筈もないだろう。
126
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 21:29:39 ID:c6dlnqEQ0
( ^ν^)っ「サンキュ。あとは自分で……」
|⊂ζ(゚ー゚*ζサッ
( ^”ν^)っ
|⊂ζ(゚ー゚*ζササッ
デレの持っている耳掻きを貰おうとするも、予知していたかのような速度で後ろに避けられる。
つい数分前に放たれた「私が耳掃除してあげる!」という言葉はどうやら俺の聞き間違いではなかったらしい。
( ^ν^)「なんでそんなやりたがるんだ? てかお前、人の耳掃除なんて経験……」
そこまで言ってハッと自分の失言に気がついた。
途端、一秒にも満たないわずかな時間で嫌な想像が無数に脳を満たしていく。
まさか、経験あるのだろうか。誰か他の男にしたのか。それとも、する予定があるから俺を実験台にしたいのだろうか。
127
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 21:32:27 ID:c6dlnqEQ0
ζ(゚、゚*ζ「ん? なに?」
(; ^ν^)「いや……」
タオルやベビーオイルといった道具を順序よく並べているデレから咄嗟に目を逸らした。
デレはモテる。それはもう、どこぞの少女漫画から飛び出したのかというくらいには男からモテる。
今更深く考えるまでもないことだ。
見た目はめちゃくちゃ可愛い。スタイルも良い。俺みたいな性根が捻じ曲がった男と未だ幼馴染としての友だち付き合いを続けてくれているくらいには性格もいい。おまけに趣味は菓子作りで、将来はパティシエになるのが夢ときた。
どこをとっても男受け抜群。彼女がモテなくて誰がモテるのかという話である。
高校を卒業して進路が分かれてからも同タイミングで東京に引っ越し、住んでいる所も近いためこうして未だ互いの家によく遊びに行ったりする。
それでも高校までとは違って、デレの細かな交友関係までは把握していない。
彼女が通う専門学校やアルバイト先で出会いがあり、俺の知らない男と知らない関係を知らない内に構築している可能性もゼロではないのだ。
128
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 21:33:35 ID:c6dlnqEQ0
(; ^ν^)「…その、なんだ、誰かに耳掃除やったことあんのか?」
首筋に流れ出した冷や汗と爆音を鳴らし始めた心臓音を懸命に隠しながら問う。
するとデレはあっけらかんとした表情で
ζ(゚、゚*ζ「あるよ?」
と言った。
(; ^ν^)「…………は」
胃液が逆流しそうになるのを必死で耐え、ふらつきそうになった足元を寸での所で持ち直す。
目眩がする。頭痛もしてきた。今の今までよく音が聞こえないくらいの不調しかなかったのが嘘のように、全身が悲鳴を上げている。
いつ、どこで、だれに、なにを、なんで。
どんな男に、俺以外のヤツに、耳掃除なんて、そんなーー。
129
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 21:34:44 ID:c6dlnqEQ0
ζ(゚ー゚*ζ「従姉妹のツンちゃんに! 先月2人で温泉行ったんだけどね、そこのお土産コーナーに耳掃除の道具が売ってて、やってあげたら楽しくてさ〜!」
ζ(^―^*ζ「この耳掻き棒もそこで買ったの! ほら見て先っぽに付いてる梵天、可愛いでしょ!」
今年飲酒が可能になる年齢の女性とは思えないような幼い笑顔と共に、フワフワとした白い梵天がこちらに向けられる。
呆気に取られて何の返答も出せないままとりあえず頷くと、彼女は満足したように他の道具について語り始めた。
こちらは安堵感と自己嫌悪で何も言えなくなっただけだというのに。もちろん話すにはあまりに情けなさすぎる理由なので表に出さずに呑み込むことにする。
ζ(゚ー゚*ζ「でね! ツンちゃんったら途中で寝ちゃって……って、あれ、どうしたの?」
(; ∩ν^)「……別に」
額を手のひらで抑えながら上手く顔の表情を隠す。
たたでさえここ最近は再来月の学祭の準備に司法試験の勉強、更には夏のインターンに向けた用意などで疲労が溜まっているのだ。
それを癒やすため幼馴染の部屋へと足を運んだというのに、これ以上の無駄な心労は御免被りたいものである。
130
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 21:35:43 ID:c6dlnqEQ0
家に帰ったら軽く耳掃除でもしようと思っていたが、こうなっては仕方がない。
デレのことだ。やらせるまで文句を言い続けるだろうし、何よりアポ無しで食事を振る舞ってもらった身分としてはおいそれと断る訳にもいかない。
自分と違って彼女は昔から手先が器用な方だし、任せてもまぁ、聴覚が未来永劫失われるといった悲劇までは起こらないだろう。
そう結論付け、デレの隣まで移動し床に座った次の瞬間。
視界が凄まじいスピードで一気に90度変化した。
( ^ν^)「……うん?」
側頭部に柔らかな感触がある。まるで、重力に従うまま新品のクッションに身を預けているような。
視界の先は角度こそ違うものの未だにテレビが鎮座しており、顔しか知らない俳優が大袈裟なリアクションでビールを飲むCMが流れている。
ζ(゚ワ゚*ζ「よーし、じゃ、始めるねー」
首を少し捻って声がした方向を見上げる。すると、やや陰が差した幼馴染の晴れやかな笑顔が浮かんでいる。
頭から伝わってくる感覚に、妙な重力のかかり心地。何故か自分より上にあるデレの顔。
決して数多くない要素を鈍い頭で懸命に整理して、ようやく自分が置かれている状況に気がついた。
そうか。
膝枕されているのか、自分は。
131
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 21:37:02 ID:c6dlnqEQ0
(; ^ν^)「ちょっ…まてまてまてまて!!」
ζ(゚、゚;ζ「きゃっ! なによいきなり!」
伸びてきたデレの手を掴み、慌てて抗議の声を上げる。
自分のものとは大きさも感触もまるで異なる幼馴染の手に些かの動揺を覚えつつも、俺は彼女の目から一切の視線を逸らさず続けて喉を絞った。
(; ^ν^)「なんで膝枕なんだよ! やる必要ねえだろ!」
ζ(゚、゚*ζ「なんでって…これが一番やりやすいんだもん。ツンちゃんの時も色々試したんだけどねー」
(; ^ν^)「だからってこんな母親が子どもにやるような……もうとっくに大人なんだぞ俺たちは。こんなやり方なら自分で……」
ζ(゚ー゚*ζ「……へぇ」
起きあがろうとした途端、額を押されて邪魔される。
何をするんだと文句を言おうとした口を慌てて噤んだのは、頭上の幼馴染がやけに怒気を含んだ表情をしていたからであった。
132
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 21:38:11 ID:c6dlnqEQ0
ζ( ― *ζ「なんだ、分かってたんだ。てっきり気付いてないんだと思ってた」
( ^ν^)「は……?」
ζ( ― *ζ「そうだよ。私たち、もうお互い大人だよ。今年でお酒も煙草も大丈夫になるんだよ。もうとっくに子どもじゃないんだよ」
いつもより数段小さな声でボソボソと呟くデレに何も言えないまま、ただ彼女の膝に頭を乗せている。
怒っているのかと思ったが、少し違う。
幼稚園児の頃から知っている相手にこのような形容をするのも変な話だが、今の彼女の目や雰囲気はどこか扇情的にも感じられた。
ζ( ― *ζ「……だから、さ」
細い指が髪にかかる。
日頃から学校やアルバイト先のパティスリーなどで菓子作りに没頭しているせいだろう。所々に切り傷の痕がうっすらと見える。それでも元来の白さや細やかな普段のケアも相まって、宝石のような美しさすら伺えた。
いつになく真面目な視線がこちらを射抜いている。
俺は何も言えず、ただぼんやりと頬に触れたデレの手の冷たさに思考を奪われたまま呆けている。
彼女の手に、ぐっと力が加わった。
133
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 21:39:07 ID:c6dlnqEQ0
ζ(゚ー゚*ζ「観念、しなさいっ!」
(; ^”ν^)「いだっ!」グギッ
無理やり頭を押さえつけられ、更には強制的に横を向かされる。グギッとかいう不気味すぎる音が聞こえた気がするのだが気のせいだろうか。心なしか首に痛みを感じるのだが。
ζ(゚ー゚*ζ「いい大人なんだからグダグダ言わないの! さ〜て、やりますよ〜!」
( ∩”ν^)「…最悪だ……」
ζ(゚ー゚*ζ「大人なんだから、大人しく!」
( ^ν^)「しょーもないこと思いついたからって言い直さなくていいぞ」
結局強引に寝かされ、頭の上からは上機嫌そうな幼馴染の声が降り注いでくる。
今年で酒も煙草も解禁になる成人だというのに、同い年の、それも異性に力負けして膝に寝かされるなど何の笑い話であろうか。
134
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 21:40:06 ID:c6dlnqEQ0
( -ν-)(…まぁ、大人しくしとくか)
ここ最近は忙しくてゆったりとした時間を過ごす余裕すらなかったのもまた事実である。耳掃除なんて細やかなケア、忘れるのも仕方がないというもの。
この際くだらない屈辱感や羞恥心などには目を瞑り、無心にアニメ映画でも見ながら時が過ぎるのを待つことこそが最善の策に違いない。
そんな言い訳染みた結論は稲妻の如く耳に走った感覚によって瞬く間に霧散した。
(; ^ν^)「うおっ!?」
ζ(゚、゚;ζ「あ、ごめん。痛かった?」
(; ^ν^)「い、いや…痛くは……」
突然耳の表面を滑った冷ややかな感触に思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
視線を上げると、耳かきの先に少量のベビーオイルをつけているデレの姿があった。
なるほど、先ほどの冷たさはアレが原因か。
135
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 21:41:02 ID:c6dlnqEQ0
ζ(゚ー゚*ζ「よかった! じゃ、やってくね。痛かったら言ってね〜」
「わかった」と返事をする前に、ひんやりとした感覚が耳の内部を再び疾走した。
表面部分、耳介をゆっくり、丁寧になぞられていく。容易に指で触れられる所から、溝の所も。
まだそれだけであるのに、細かな汚れが取れていく度にゾワゾワと神経が刺激された。
ζ( ― *ζ「ゆっくりするからね」
普段と違う、慈悲のような高尚性を帯びた幼馴染の声がじんわりと鼓膜を揺らす。
言葉の通り、彼女は焦ることなくじっくりと耳掻きを肌に沿わせながら細やかな汚れを取っていった。
(; -ν-)(…声、出そうになる)
なんとも言えないゾワゾワした感覚に対して、懸命に口を真一文字に結んで耐える。
耳には迷走神経が走っているから触られると気持ちが良いとは聞くが、ここまでとは思わなかった。
というか、自分でやる時とは随分と違うような気がする。これほどの差が出るものなのか。
136
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 21:42:16 ID:c6dlnqEQ0
ζ( ― *ζ「…よし。じゃ、中もやってくよー……」
集中しているのか、どこか平坦な声だった。
宣言通りに耳掻きはゆっくりの内部は侵入し、浅い穴の入り口のところをカリカリとかく。
( -ν-)「ん……」
かりかり、かりかり。
一定のリズムで耳の中に響く音が、不思議と全く不快に感じない。
むしろ少し眠くなってくるような安心感さえ覚えるような音だった。
ζ( ― *ζ「あ、やっぱり結構汚れてるね」
ζ( 、 *ζ「忙しいからって、ダメだぞー……」
子どもを叱るような口調だが、どこか楽しそうな雰囲気が伝わってくる。
やり甲斐を感じているのだろうか。中学や高校の頃もそれくらい勉学にやる気を出して欲しかったものだが。
そんな類のことを言うより前に、中の耳掃除が始まった。
耳の表面をなぞっていた先ほどとは違う。力は少し強く、それでいて細かく匙が中を掻いていく。
中で固まった汚れを少しずつ取り出しながら、段々と奥へ進んでいくのが分かる。
がりがり、ごりごり。
がざがざ、かりかり。
( -ν-)(……ねむい、な)
耳の中からする音は最初に比べて間違いなく大きくなっているというのに、耳掻きが進むにつれて眠気も比例するように増すばかり。
意識を失いかけたその瞬間、がざりと一際大きな音がした。
137
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 21:42:54 ID:c6dlnqEQ0
ζ( 、 ;ζ「わ! 大物…! ニュッ、ちょっと動かないでね。力抜いてて……!」
またやる気が上がった幼馴染に身を任せ、「おう」とだけ短く返事をする。
最近少し聞こえ辛いと思ったら、やはり中に大きな汚れがあったのか。
デレだけじゃない。大学でも偶に「話聞いてる?」と注意されることはあった。
耳掃除なんてこれまでの人生で気にしたことなど皆無だが、これからは定期的にした方がいいのかもしれない。
かりかり、ごぞごぞ、がさがさ。
様々な角度からアプローチを試みているのだろう。全体的に満遍なく耳中をなぞる匙が、痒い所を絶妙な力で掻いてくれている。
その気持ちよさともどかしさに、俺はいつの間にか両目を瞑って、床のカーペットを握りしめていた。
ζ( ― *ζ「声、我慢しなくていいからねー…」
強がった心を見透かされたような言葉だが、反論の声も上げられないまま気持ちよさに溺れていく。
まさか、人にやってもらう耳掃除がここまで気持ちいいものとは思わなかった。
138
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 21:43:45 ID:c6dlnqEQ0
かさり、ぺりぺり、ぺりぺり。
壁に貼り付いていた汚れがスーッと剥がされていくのが分かる。
半開きになった口から情けない声が漏れるも、眠気と気持ちよさが相まってもう上手く我慢できそうにない。
ζ( 、 *ζ「もう…ちょっと……」
耳の側にいるのだから当然であるが、普段よりも数倍潜んだデレの声が間近で聞こえる。
いつもより静かで、落ち着いた声。ずっと聞いていられるほどに綺麗な声色と、僅かに滲んだ吐息が合わさって、ダメなことをしているようにも錯覚してしまう。
かり、かり、ごぞぞ。
目を瞑り、幼馴染の声に聞き入っていると、やはり耳垢を取っている音にも敏感になってしまう。
悔しいが認める。デレの耳掻きはとても上手い。
元々手先が器用なのは知っていたが、人への耳掃除まで出来るとは思いもよらなかった。
曲がった先端の匙の部分で、汚れだけを的確に取っていく。無闇に肌を掻いたりはせず、優しく、丁寧に細かな垢を剥がしていく。
耳の中を掃除されるのが、これほどのものとは思わなかった。
139
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 21:44:28 ID:c6dlnqEQ0
ζ( ― *ζ「…ふふ。気持ちよさそう」
かりかり、ざざあ、ずず。
ζ( ― *ζ「眠たかったら、寝てもいいよー…」
「ん」という短い肯定の意を辛うじて告げて、再び目を瞑り快楽に身を委ねる。
耳掃除中に観ようと思っていた映画は、もはやBGMにすらなっていない。
ζ( ― *ζ「…よーし。あとはコレで……ちょっとジッとしててねー…」
がりがりという音が止み、どうしたのだろうかと少し目を開く。耳掻き棒を一旦机に置いた彼女は、新しい銀色の器具を手に取った。
一般的な物より少し小さい、耳掻き用のピンセットだ。
先端が耳に突き刺さることのないよう、慎重に中へと挿入されていく。
穴を塞いでいる原因の端を上手く掴めたのか、耳の奥が少し揺らいだような気もする。
すぐには引き抜かれない。少し揺らしたり、左右に引っ張ったりと、焦らず慎重に引っ張っていく。
ぺりぺりと、癒着が剥がれていく音がした。
140
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 21:45:24 ID:c6dlnqEQ0
ζ( 、 ;ζ「もう…ちょっ、と……!」
力と集中の籠もった声が聞こえた数秒後、ずぞぞと一際大きな音が鼓膜を震わせた。
(; -ν-)「うおっ…!」
ζ( ワ *ζ「……はぁっ! 取れた〜!」
奥に詰まっていた大きな塊が、すぽんと取れた。
耳に入った水が抜けた時のような、いや、それ以上の解放感。
満足そうなデレの声と共に、さっきまでは聞こえ辛かったテレビの音が自然に聞こえてきた。
ζ(゚ー゚;ζ「うわ、米粒くらいあるよ…こんなの入れてよく今まで生活してたね」
( -ν-)「うるせぇ……」
けらけらと揶揄うような口調にも、気恥ずかしさと眠気で上手く言葉を返せない。
まともに感謝の一つも言えないまま、今はただ、クリアに聞こえるようになった耳の新鮮さに微睡むのみだった。
141
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 21:46:13 ID:c6dlnqEQ0
ζ(゚ー゚*ζ「じゃ、最後に梵天ね」
耳掻き棒の先、ウサギの尻尾みたいにフワフワとした毛玉がざりざりと音を立てて耳を回る。
大きな汚れが取れた後だからか、寄せては返す波の音を浜辺で聞いているような心地よさがあった。
ζ(゚ー゚*ζ「はい! じゃあ反対向いて〜」
( -ν^)「ん? おう……」
気持ちよさの余韻に浸ったまま体を反対方向に向ける。
随分と暖かく、柔軟剤と甘い香りが混じった匂いがした。何故か圧迫感があるものの、不思議と嫌な感じは全くしない。
どこか懐かしいような、安心するような。
142
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 21:49:47 ID:c6dlnqEQ0
(; ^ν^)「……おいちょっと待て」
眠気に抗いながら慌てて顔を上げる。
目を開けていても視界が暗くなった時点で気付くべきだった。
いくら幼馴染といえども、異性の腹に顔を付け続けるなど余りにも無理すぎる。それもただの異性ではなく、十数年レベルの想い人なのだ。冷静でなんていられるものか。
ζ(゚、゚*ζ「なによ、片方だけやんないなんてそんな馬鹿な話ないわよ?」
(; ^ν^)「いやちがっ…お前、マジか? 恥ずかしくないのか? そういう感情ないのか?」
俺の戸惑いに対しても、デレはただ首を傾げるだけ。
僅かな顰められた眉からは、半端に耳掃除を中断させられたことへの苛立ちすら感じられた。
143
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 21:50:36 ID:c6dlnqEQ0
ζ(゚ー゚*ζ「…今更なに言ってんのよ。ほらさっさと寝っ転がって! 君は明日も大学でしょ!」
(; ^ν^)「や、やめろ押すなって…せめて、向き変えさせてくれ!」
ζ(゚、゚*ζ「向き? 別にどっちでも変わんないよ?」
(; ^ν^)「いや変わる、めちゃくちゃ変わるから変えさせてくださいお願いします」
デレが何かを言う前に体を縦に回転させ、強制的に向きを変える。
そうして改めて彼女の膝に頭を落ち着けると、「あ、テレビ見たかったの?」という呑気な声が聞こえた。
一々説明するのも面倒なので、「そう」とだけ答えておくことにする。
ζ(゚ー゚*ζ「はい、それじゃ片方もやるよ〜」
( -ν^)「おー……」
先ほど同様、反対側にもゆっくりと耳掻きが入ってきた。
一回目で慣れたのか、さっきよりも手慣れた様子でカリカリと音が響く。
( -ν^)(……あー、やばい)
( -ν-)(マジで……寝る……)
144
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 21:51:34 ID:c6dlnqEQ0
既に眠気が蓄積された状態のまま、再び始まった耳掃除によってゆっくりと瞼が落ちていく。
「寝てもいい」。反対側の耳に掛けられた声が残響のように在る。
( -ν-)(…よくやるよな、コイツも)
夢の中へと誘われる最中、脳裏に浮かぶのはお節介な幼馴染のことだった。
いくら友人関係が長いとはいえ、恋人でもない年頃の異性を膝枕するなど正気なのだろうか。はたまた、異性として認識されていないのか。
今までの振る舞いを見る限り、残念ながら間違いなく後者であろうが。
145
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 21:52:19 ID:c6dlnqEQ0
( -ν-)(…試験、うかったら……今度、こそ…)
再来月。五月に行われる司法試験のことを考える。
国内最難関とも揶揄される国家試験の一つ。受験資格を手に入れるのにも相応の時間と努力が求められるが、それをパスした人々ですら合格率は高くない。
もしもそれに受かったら。この国で最も難しいと称される試験に合格した人間になれたのなら、その時は。
君の隣に、堂々と立てるだろうか。
今まで何度もタイミングを逃してきた自覚はある。
夏祭りの帰り道。遊園地で乗った観覧車。高校の卒業。上京に伴った大学の入学。想いを告げるには上等すぎる機会を、もう幾度となく逃してしまった。
けれど流石に今度こそは言いたい。
幼馴染という言い訳を用いずとも、堂々と隣を歩けるようになりたい。
耳中で響く安らかな音に身を委ねながら、俺はそのまま意識を手放した。
146
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 21:53:23 ID:c6dlnqEQ0
*
ζ(゚ー゚*ζ「よ〜し、こっちも終わり! どう? 少しは聞こえやすく…って」
両方の耳掃除が完了し、感想を尋ねてみようと下を見る。
期待した返答が一音も返ってこないのも当然。いつの間にか、施術相手であった幼馴染は私の膝上で安らかな寝息をたてていた。
( -ν-)スースー
ζ(^ー^*ζ「……ふふ、昔とおんなじ」
子どもの頃を彷彿とさせるような寝顔にほのかな笑みが溢れる。
隣の県にあるうちの実家に帰れば、真下の彼とそっくりな少年の寝顔を写したアルバムが出てくるだろう。
147
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 21:55:14 ID:c6dlnqEQ0
耳掻き棒を手早く消毒液とタオルで洗い、ニュッの眉間を指でなぞる。
年が経つにつれて皺が増えていったが、寝る時だけは泡のように消える。それがなんだか無性に面白くて、私はじっと彼の寝顔を見つめた。
ζ(゚ー゚*ζ「意外と変わってないよね、君」
たまに彼の両親と話す時がある。おじさんもおばさんも揃ってニュッの話をする時は、「昔はまだ可愛げあったのに」という言葉がお決まりだ。
けれど、私は知っている。ニュッの昔から変わってない所は数え上げてみると存外多いことを。
寝顔。少し癖っ毛のある黒髪。首筋の弱さ。
甘党なところ。おかわりを要求するときのサイン。好きな食べ物。
朝弱いこと。一度寝ると全く起きないこと。
言いづらい何かがある時は、食べる量が増えること。
耳掃除などしなくても分かっている。
彼がいつも、いや、昔からずっと頑張っていることなんて。
148
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 21:56:44 ID:c6dlnqEQ0
昔、祖父が営んでいた洋菓子店に危機が迫ったことがあった。東京に店を移すより、数年前のことである。
詳細は今も知らない。当時の私はまだ小学生だったし、両親も祖父も気を遣ったのか、詳しい説明をしてくれなかったから。
それを救ってくれたのは、とある一人の弁護士であった。
顔はよく覚えていない。
それでも、当時の両親よりもずっと若かったそのお兄さんは、ボサボサの髪の毛と少し汚れたスーツを纏いながら、何ヶ月も懸命にあちこち動き回り、祖父の店が無くならないようにしてくれたことをよく覚えている。
それを見て燥いだ私は、隣にいたニュッに言ったのだ。
「弁護士さんって、カッコいいね」、と。
ζ(゚ー゚*ζ「多分、それだよね」
高校の頃、ニュッが東京の大学を目指していると聞いた私は随分と焦った。彼が私から離れてしまうと思ったから。
理由を尋ねると、彼はやけに長い間押し黙った後、少し小さな声で呟いた。
( ^ν^)『…… 弁護士に、なるから』
常に冷めた口調でものを語っていた彼の口から、そんな発言が出てきたことに当時は随分と驚いたものだ。
それ以降、何を聞いても返ってくるのは曖昧な返答ばかり。去年またよく知らないが難しいらしい試験に受かった彼に「何故そんなに頑張るのか」と改めて尋ねたが、どれも要領を得なかった。
最終的に面倒になったのか、「金」としか答えなくなった彼の後頭部を叩いて終了した覚えがある。
149
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 21:57:59 ID:c6dlnqEQ0
確信はない。しかし思い当たる節もコレしかない。
彼は、幼い頃の私が言った言葉で、難関極まる進路を歩み出したのではないだろうか。
私が彼を縛ったのではないか。間接的とはいえ、彼が日夜疲れているのは私のせいなのではないだろうか。
それほどに、私は彼にとって大きな存在なのだと、自惚れてもいいのだろうか。
ζ(゚、゚*ζ「…それなら、もうちょっとこっち見て欲しいもんだけど」
撫でるように前髪に触れた後、そのまま彼の輪郭を手のひらでなぞる。
これでも、自分なりにあれこれ手を打ってきたつもりなのだ。
バレンタインのチョコ程度にとどまらず。この国の行事ごとは毎年大抵彼と参加したし、近所の神社で開かれる夏祭りにも毎年行った。
スイーツだけじゃなく家庭料理も振る舞って、胃袋もとっくに掴んでいる筈なのに。
ζ(゚ー゚*ζ「国語のテスト、ホントはなんかズルしてたんじゃないのー?」
高校生の頃に受けた試験を思い出す。
『作者の述べたいことを要約しなさい』だの、『登場人物の気持ちを述べなさい』だの、国語の試験で一番最後に高確率で出てくるあの難問。
それすらもニュッは当たり前のように満点を取っていたが、今考えるとあれは何か小細工をしていたのではなかろうか。
見ず知らずの人間の感情は分かるのに十数年を共にした幼馴染の気持ちは分からないなんて、そんな都合がいい話があるものか。やはりどう考えてもおかしい。
150
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 21:59:23 ID:c6dlnqEQ0
人差し指で鼻先を軽く突く。
何をしても特に反応はなく、たまに幸せそうに口角をモニュモニュと上げるだけ。
これほど熟睡されるとはそれだけ信頼されているのか。それともやはり女性として見られていないのか。後者の可能性の方が高そうで溜息が出た。
ζ(゚ー゚*ζ「そうだ。君が耳掻きの前に言おうとした言葉、当てようか」
ζ(゚ー゚*ζ「『杓子は耳掻きにならず』……でしょ」
『杓子は耳掻きにならず』。
大きい物が必ずしも小さい物の代わりになるとは限らない、という意味のことわざだ。
私は別に勉強が得意だった訳じゃない。いや、寧ろ苦手な方だった。
国語と社会はまだマシだったが英語や理科は毎回赤点ギリギリ。数学に至っては二桁取れればまだマシで、いつもテスト期間直前にニュッに泣きついていた始末。
だが、そんな私でも、いくつか覚えている知識はある訳で。
151
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 22:00:35 ID:c6dlnqEQ0
「誰に教わったと思ってるの」、と一人言を漏らしながら、机の上で乱雑に並べていた道具たちをまとめる。
ちょっとした悪戯心が芽生え、耳掻き棒の梵天でこそっとニュッの首筋を払う。
ほんの一瞬、彼の背中がビクっと震えたのが分かった。
20歳を目前に控えた今でもほぼ毎日のように付き合いがあるとはいえ、それでも互いに年頃の男女。
幼稚園児だった頃のように、相手の顔や身体にペタペタと触れられる機会なんてほとんど皆無といっていい。
そんな時分を逃すほど、私は聖人でもお人好しでも、君に興味がない女でもないのだ。
ζ(゚ー゚*ζ「あのことわざ、私は覚えてないだろうって思ったんでしょうけど」
ζ(゚ー゚*ζ「ちゃんと覚えてないのは君の方なんじゃないの?」
『大は小を兼ねる』という言葉もあるが、現実では何事にも例外というものがある。
杓子なんて大きな物では耳掻きなんて出来ないように、大きな物が小さい物の代役を果たせるとは限らない。
分かっていたことだった。
薪では爪楊枝みたいに苺を刺せないように。
出刃包丁ではケーキを上手く切り分けられないように。
料理も耳掃除もしてくれる幼馴染では、彼女のように手を繋いで歩けたりしないのである。
152
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 22:01:38 ID:c6dlnqEQ0
ζ(゚、゚*ζ「…ミスったのかなぁ、私」
彼にとって、一番近い異性であろうと努力してきた。
彼の隣に立っても恥ずかしくないような人間であろうと、日々研鑽を積んできた。
それらが最近どうも、裏目に出てしまっているように思えて仕方がないのだ。
ご飯を作る、スイーツも作る。家に来たって追い返さないし、逆にこちらが向こうの家に行ったりもする。
休日が合えば二人で出かけるし、どちらかが体調不良になれば何も言わずとも片方が看病をする。
挙句の果てには、膝枕で耳掃除だってしてあげた。
ζ(゚ー゚*ζ「……普通の彼女さんでも、ここまでやってあげないと思うんだけどなぁ」
客観視できる限りの要素を脳内で羅列してみると、その甲斐甲斐しさに我ながら呆れを覚えるほどだった。
きっと世間一般の彼女でも、彼氏にここまで干渉したりはしないだろう。
学校やバイト先にいる恋人持ちの友人たちから、十年以上手料理や手作り菓子をあげているなんて話は聞いたこともない。
153
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 22:02:47 ID:c6dlnqEQ0
きっと私は少しやり過ぎてしまった。
どんな人がニュッの近くに現れても負けないようにと、あれこれ我武者羅になっている内に、大きくなりすぎてしまったのだ。
ここまでいくと異性というより、姉や母親のようなものだろう。恋心を向けてもらうには適したサイズでなくなってしまったということか。
笑えない、いや、もう笑うしかない話である。
貴方に相応しい人間になろうと、少しでも大きくなろうとした結果、なりたくもない杓子になってしまった。不必要な大きさにまで成長してしまった。
私は、耳掻きでよかったのに。
154
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 22:03:37 ID:c6dlnqEQ0
ζ(゚、゚*ζ「なにが『恥ずかしくないのか』よ。馬鹿じゃないの?」
ζ(゚ー゚*ζ「……恥ずかしいに決まってんじゃん」
左耳の処置が終わった後、向きを変えた途端に慌てふためきだした彼の姿を想起する。
ちょっとお腹が近くなったからって何だ、ずっと私に膝枕されてたことについては無反応か。
こっちは始まった時からずっと、赤くなった頬を隠してたっていうのに。意識されてるのかされてないのかハッキリしてほしいものだ。腹が立つ。
デコピンでもしてやろうかとニュッの額に指を近付ける。すると、映画の中の少年が、小っ恥ずかしい言葉を大きな声で叫んだ。どうやらもう映画はおしまいらしい。
割愛されたエンドロールと来週放送される予告を見て、リモコンを手に取りテレビの電源を消す。
ついでにもういいか、ともう一つの白いリモコンを手に取って部屋の電気も消した。
155
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 22:06:36 ID:c6dlnqEQ0
ふと、涼やかな風が頬を撫でた。
ベランダの方に視線を移すと、ほんのわずかに空いた窓の隙間から風が零れて、カーテンを靡かせている。
不用心だなぁなんて他人事のような感想を抱きながらニュッの頭をゆっくり床に置き立ち上がる。
ベランダに近づき、窓を閉めようとカーテンの裏に手を伸ばす。
カーテンの隙間から、淡く煌めいた灯りが見えた。
なんだろうかと疑問に思い、厚い布を捲った窓先。
遥か遠くの夜空には、瞬きすら忘れるほどの大きな月が浮かんでいた。
よく見れば、それは満月ではなかった。人々が望むような、創作の中でむやみやたらに持て囃されがちな満月は昨日で終わっている。
それでも少し欠けたその十六夜は、芸術の類に疎い自分でも、目が離せなくなる不思議な魅力を湛えて夜の街を照らしていた。
視線をちらりと下に移す。
そこには淡い月光も文豪の形容も笑い飛ばすかのように、すやすやと眠る幼馴染の横顔があった。
156
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 22:07:23 ID:c6dlnqEQ0
彼を見ながら、ふと、ちょっとしたことを思いついた。
再び座り込んで、掃除を終えたばかりの耳を覗き見る。窓から差し込む月明かりがちょうど彼の横顔を照らしていて、道具を使わずともよく見える。
すっかり汚れは取れていて、随分と聞こえが良さそうになった耳。
ζ( ー *ζ「………ニュッ」
目覚めさせないよう慎重に、それでいて聞こえるように彼の耳元で名前を囁いた。
もう一度読んでみる。イタズラっぽくフッと息を吹きかけてみる。
何をしても少し体がモゾモゾと動いただけで、起きる気配はない。
さっきまで流れていた映画のラストシーンを思い出す。
あの少年のように、堂々と大きな声で言うなんて出来ないけれど。
ましてやしっかり意識のある相手にだなんて、情けないことにまだ、そんな勇気はないけれど。
157
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 22:08:07 ID:c6dlnqEQ0
唇をより耳に近づける。ほとんど触れるくらいの距離だ。
私とは異なるシャンプーの香りが鼻先を擽る。
うるさいくらいに心臓が痛む。
普段は言わないし、言えない。言って欲しいけど、言ってもらえたことはない。
言いたいと十年以上燻っているけれど、臆病な私は大人になった今でも後生大事に抱えたままの言葉。
私は勉強が苦手だ。難しい言葉や語彙なんて知らないし、知識もない。
だから、他になんと言えばいいのか分からない。
例えも、翻訳も、気障な言い回しも思いつかない。
けれど、今夜くらいならば。
君が寝ている時ならば。一言くらいならば。
月以外、誰も見ていない今ならば。
こんなありきたりな言葉でも。
息を吸う。
そして、ほんの一瞬だけ止める。
さぞ聞こえ心地が良さそうな鼓膜に向かって、私はゆっくりと口を開いた。
158
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 22:08:47 ID:c6dlnqEQ0
ζ( ー *ζ「大好き、だよー………」
.
159
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 22:09:30 ID:c6dlnqEQ0
ずっと言えずにいた言葉を告げて、ゆっくりと顔を上げた。
おそるおそる幼馴染の表情を伺ってみる。
表情は変わっていない、変わらずの熟睡中。
これだけ聞こえを良くしてやったというのに、私の勇気は届かなかったようだった。
安心したのか、それともがっかりしたのか。
自分でもよく分からないモヤモヤを抱えたまま、私はニュッを起こさないようにゆっくりと立ち上がる。
行き先はリビングの隣にある、寝室のクローゼット。
中から取り出したのは、去年の年末に購入した大きめの毛布であった。
毛布を持ってきて、ふわりと優しくニュッにかける。
三月も末を迎えて暖かくなってきたので、最近はあまり使っていなかったが、先月くらいまではとても重宝していた。
お値段以上を謳う某大手家具メーカーの製品だったことから、一枚でも十分に温かいし肌触りは優しく、面積も大きい。
どのくらい大きいかというと、例えるなら、そう。
男女二人くらいなら、少し詰めれば一枚で覆えるくらいには。
160
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 22:10:56 ID:c6dlnqEQ0
毛布を軽くめくり、隣にできた隙間に体を入れた。
上には毛布、下にはカーペット、そして隣には幼馴染の温もりがあってすぐにでも眠れそうなほどに心地良い。
子どもの頃を思い出す。最後に同じ毛布で寝たのは一体いつだっただろうか。
記憶を辿ってみると、ほのかであるが塩素の香りがした。
そうだ。思い出した。確か小学四年生の夏休み、二人で近所の市民プールへ遊びに行った日の夕方。
並んで夕暮れに染まる蝉の声を聞きながら、私の家の畳で眠ったのが最後か。
ζ(゚ー゚*ζ「………」
ちょっとだけ。ほんのちょっとだけ彼の方に身を寄せる。
こうして並ぶと、私と彼の間にどれだけの体格差があるのかありありと分かる。
お互いにもう大人だ。変わってしまったことより、あの頃のままのことの方がずっと少ないなんて理解している。
161
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 22:11:51 ID:c6dlnqEQ0
いつまでこの関係が続くのかと、変化を願う私がいる。
もう少し今のままでもいいかなと、変化を拒む私もいる。
我ながらなんて面倒な女だと心中で自嘲しながら、こっそりと私は幼馴染の胸に顔を埋めた。
落ち着いた心臓の音が聞こえる。それがなんとも耳触りが良くて、ゆっくりと瞼が重くなっていく。
変わりたい。まだ変わりたくない。
今日は散々な程に思考の反復横跳びをしたものだが、今夜の私は結局、後者らしい。
完全に閉じられようとしている瞼の隙間から、月明かりに照らされた彼の顔がよく見える。
今年、お互いに誕生日を迎えて20歳になったら、月見酒なんて風流なことをしてみるのも良いかもしれない。
なんて、お酒の力に頼る気満々の企みが頭の片隅に転がった。
162
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 22:12:51 ID:c6dlnqEQ0
いつか近い未来。
煌めいた月光を浴びなからお酒を呑むなんて、オシャレなことをする日が来るのかもしれない。
月を見ながら美味しいものを食べるなんて、そんな甘い日が来るのかもしれない。
もし、そんな素敵な日が来たら。どうか。
( -ν-) ζ(-、-*ζ
私の隣で笑っている人が、どうか貴方でありますように。
163
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 22:14:05 ID:c6dlnqEQ0
ζ(゚ー゚*ζ杓子は耳掻きになりたいようです
〜おしまい〜
164
:
名無しさん
:2025/04/01(火) 22:15:02 ID:c6dlnqEQ0
終わりです。読んでいただき、ありがとうございました。
普通に投下できてたのなら嬉しいです。
165
:
名無しさん
:2025/05/09(金) 23:08:38 ID:TrJuMkmA0
乙!
166
:
名無しさん
:2025/06/11(水) 09:33:25 ID:w0O1C1ZY0
乙!
167
:
名無しさん
:2025/06/11(水) 17:49:39 ID:eWHu11M60
おつ、番外編あったのね甘々でよきよ
プラ心作品のきなみ上がっててなんでだろうと思ったけど、物理本になってたから?
ほしかったな
168
:
名無しさん
:2025/06/11(水) 21:02:08 ID:XBUkBxog0
物理本?
169
:
名無しさん
:2025/06/11(水) 22:04:13 ID:9VKTNLaA0
>>167
えっ
170
:
名無しさん
:2025/06/11(水) 22:44:05 ID:PxZmAE4c0
どこ情報?
171
:
名無しさん
:2025/06/12(木) 11:01:22 ID:abcBi7/o0
ごめん軽率だったかも
プラ心のひまわり畑の話好きで読み返そうと思ってググったら、イベントのカタログ?が出てきたんよ、表紙もあった、すんごい上手い絵のやつ
自分が知らないだけで他の系民たちは本買ってたんかないいなーくらいに思ったんやが違うんかな、、
172
:
名無しさん
:2025/06/12(木) 19:54:26 ID:j6TT22Iw0
みつからん、ガセ?
てかヴィオラとかならまだしもプラ心って1スレ丸々使った長編だし、物理本にはできないのでは
173
:
名無しさん
:2025/06/13(金) 08:09:33 ID:5UApL4/A0
なーんだ
174
:
名無しさん
:2025/06/13(金) 17:32:54 ID:p45oC8TA0
https://c.bunfree.net/p/tokyo40/47858
これだ、ページ数やば
えーマジか、ショックだ…もうないんかな
言ってくれればさあ…これこそ自慢をぽわんすべきなんでは
175
:
名無しさん
:2025/06/14(土) 09:13:19 ID:9mvEuRqg0
売ってくれ
買うから
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