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ノート

1千手★:2009/02/11(水) 02:37:28
まずは備忘録代わりに

2千手★:2009/02/11(水) 02:46:15
カエサルがゲルマン人について語るところによれば、「彼らのなかには一定の広さの
土地や自分固有の領地を所有するものは誰一人としていない。毎年、族長や有力者たちが
部族や共同生活を送る血縁集団に対して、彼らにふさわしいと判断した広さと場所の
土地を分配するが、次の年になると彼らを強制的に別の場所に移動させるのである」
(デュメジル『ミトラ・ヴァルナ』8-2)

3千手★:2009/02/11(水) 02:54:17
彼(=カエサル)の報告によれば、ゲルマン人は長いあいだ農業に従事することによって
戦争を行う意欲を失うこと、農民の貪欲さとそれに付随する不正に屈すること、
安逸な生活を追究するようになること、富を愛することによって自分たちのなかに
党派や不和が生じたりすることを恐れていたという。そして最後に、今度は
積極的な理由が挙げられているのだが、それによれば、共有制度は「自分の財産が
有力者たちの財産と平等であることをそれぞれが確認することによって」、民衆を
満足させ、彼らを抑えるのに適している。
(同前)

4千手:2009/02/11(水) 03:10:10
最古の時代から世界を説明したり管理したりする呪術・宗教的な「システム」には二種類あり、
そのうちの一方(ミトラとマヌ、フィデス=テルミヌス女神とヌマ)が血を流さない祭祀形態へと
人を導き、逆にもう一方の「システム」(ヴァルナ、ユピテル)は生き物や動物、ときには
人間の殺害を必要としていたのではないだろうか。
(デュメジル前掲書4-8)

5千手:2009/02/11(水) 03:40:18
[上記のヌマの場合の説明]
ヌマはこの上なく正確な供犠執行者であり、信頼(フィデス)の人である。にもかかわらず、
彼は最小限の出費でその義務を果たそうとする。恐ろしいユピテルの要求する人身供犠を、
策略によってまんまと玉葱と毛髪、小魚に代えただけではなく、プルタルコスによれば、彼は
一度も流血供犠を行わず、小麦粉や灌奠、「他のたいへん質素なもの」(「ヌマ伝」8)を
捧げるだけで満足していたそうである。とりわけテルミヌス女神の祭祀*を定めた際には、
「分別のある彼は、平和の守護者であり正義の証人でもある境界の神がいかなる殺生によって
汚されてもならないと知っていた」ため、生き物を殺すのを避けたという(同書16)。この種の
「ためらい」こそがローマ伝説のヌマをピュタゴラス学派に結びつけるきっかけになるわけだが、
だからといって、それが道学者風の歴史家たちによって人為的にピュタゴラスからヌマに
もたらされたなどと考えてはならないだろう。むしろそうしたためらいはあらゆる暴力を憎む
祭司=王という理想に完璧に一致している。ヌマはただ血を流すことを控えることで、理想を
極限まで押し進めているだけなのである。
(同前)中村忠男訳『ミトラ=ヴァルナ』ちくま学芸文庫より。*はわたしが訂正したところの印。

6千手:2009/02/11(水) 10:07:58
[次はこのミトラ=ヴァルナの双対に対して介入してくる第3の神インドラの話]
第二節で取り上げた負債をめぐる示唆を別とすれば、インドで問題となるのは呪術=宗教的な事例、
あえて言うならば供犠祭主と神々との交換を規制する「儀礼法」とでも言うべきものにほかならない。
すでに見たように、ミトラとヴァルナがこの法を保証しており、不手際もしくは不正な供犠執行者は、
古代ローマにおいて期限を守らない債務者が自動的に債権者のもとに繋がれたのと同じように、
ヴァルナによってただちに「縛められ」かねなかった。ところがブラーフマナ文献には供犠祭主が
思いもかけない仲裁を受けて、この暗い袋小路を抜け出す物語がいくつか語られており、これはやはり
ここで検討してしかるべきだろう。
(デュメジル前掲書6-4)

7千手:2009/02/11(水) 10:18:47
[つづき]
さて、ここで問題にする最初の物語は、すでに第三章第六節で紹介したものである。
すなわち、鬼神の祭官たちの求めに応じて、自分の妻を生贄にしようとしたシュラッダーの奴隷、
マヌの説話がそれだ。ここではメカニズムは歯止めを失い、致命的な暴走状態に陥っている。
もしもマヌが最後までやり遂げず、突如として人間性に目覚めたならば、彼は供犠の法に背くことになり、
ヴァルナの縛めに落ちることになるだろう。そこで彼はためらわずに最後までやり抜こうとする。
するとそこに、ミトラでもヴァルナでもない神が突然現われ、憐れみの情からこの恐るべきディレンマを
率先して打ち破ると、さらにその責任を取り、たとえ供犠が行なわれなくてもマヌはその恩恵に
浴するだろうと決定したのである。この神とはまさにインドラにほかならない。
(同前)

8千手:2009/02/11(水) 10:30:55
[ヴァルナの補足説明]
ヴァルナとは「緊縛神」に他ならない。サティアムとシュラッダー、すなわち
さまざまなかたちの正確さを尊重する者がミトラによって守護されるのに対し、
それらに背く者は誰であろうと、語の即物的な意味でヴァルナによってたちまちに
縛められてしまうからである。
(前掲書6-1)

9千手:2009/02/11(水) 10:47:03
[ミトラとヴァルナの活動範囲が儀礼と供犠の領域を越え、負債とかかわるところで、連帯的に、法的な意味をもっていたことを示すテキスト]

「法によりて汝等(=ミトラ、ヴァルナ)堅く結ばれ、規則によって人間たちに約束を守らせしものなり」
(前掲書6-2)

10千手:2009/02/11(水) 10:51:34
[上記テキストについてのデュメジルの解釈]
一方、儀礼文献がうんざりするほど繰り返しているように、縛めは何よりもヴァルナの専門である。
だとするならば、ここでもやはりミトラが規則に適った交換を温かく見守り、ヴァルナが
支払いの悪いものを「縛める」というかたちで、両者のあいだに連帯関係があることが窺えることになる。
(前掲書6-2)

11千手:2009/02/11(水) 11:15:29
[ヴァルナの縛めを解くインドラ。ヴァルナ→アグニ→一切神群→インドラ→アシュヴィン双神へのたらい回しの後]
ところが、アシュヴィン双神が「曙光」に祈りかけるように彼(=王の息子の身代わりに
生贄に買われた若いバラモン、シュナハシェーパ)に助言したところ、奇跡が起こった。
彼が詩節を一節ずつ唱えるにつれ、王を縛めていたヴァルナの「縄策」がゆるんでいき、
水腫は消えうせ、ついに生贄を捧げる必要がなくなってしまったのである。
(デュメジル前掲書6-4)

12千手:2009/02/11(水) 11:22:18
[承前]
おそらくインドラの介入はこれほど祭司的ではない形態の物語ではもっと決定的なものであったことだろう。
というのも、ヴァルナによって定められた古い王の聖別儀礼(ラージャスーヤ)が、本来は人身供犠という汚点を
有していたのに対し、後代の文献ではインドラによって定められた王の聖別儀礼(アシュバメーダ)が対置されており、
そこには人間の生贄が含まれていないからである。
(前掲書6-4)

13千手:2009/02/11(水) 11:57:06
次に上記6-4のインドラの介入というシーンについてのデュメジルの受け止めを紹介する。
こじの節はデュメジルの著書のなかで最も偉大なページだろう。
ドゥルーズの戦争機械論はこのデュメジルの発見から理解することができるのだが、それをまともに解釈したものをわたしは寡聞ながら知らない。

ここでは自ら戦う神であり、兄弟神マルト神群で最も優れた、英雄集団を統率するインドラが、
ガンダルヴァの王である呪術神ヴァルナに対置されている。すなわち、もはやわれわれは
祭司的な「至上者」固有の神話体系を越え、それが軍事的指導者の神話体系と激しくぶつかり合う
劇的な合流点に立っているのである。
(デュメジル前掲書6-5)

戦士結社が浮かび出てくるのだ!

14千手:2009/02/11(水) 12:04:55
さまざまな証言を総合してみると、これらの戦士たちの経済道徳は、性道徳や行動様式全般と同様に、
たとえ平時であろうと戦時であろうと、他の社会階層を規則づける原則となんら共通するところが
なかったようである。タキトゥスがカッティ族の「戦士結社」について述べるところによれば、
「彼らのなかの誰一人として家や畑をもたず、またなんの煩いの種ももたない。彼らは誰の家であろうと
勝手に上がり込んでは、食物をもらい、他人の財産を乱費し、自分の財産を軽蔑している……」
(デュメジル前掲書6-5)

15千手:2009/02/12(木) 00:46:26
[承前]
ところで、こうした「男性結社」の神は多くの点から見て恐るべき存在であるにもかかわらず、
インドの説話では呪術師的な「緊縛神」との対立で、あたかも慈悲深い神、すなわち定期的な生贄、
ヴァルナの生贄となる人間を解放する神であるかのように見えるが、これもなんら不思議なことでは
ないだろう。戦士と魔術師、別の次元で言えば兵士と警官は、ともに必要とあらば同胞の自由と生命を
侵害するのに躊躇しないが、両者は互いに相手が嫌悪するような方法でそれを遂行するからである。
(同前)

16千手:2009/02/12(木) 00:50:56
[つづき]
とりわけ戦士は法の埒外、あるいはその上位に置かれていることから、赦免権であるとか、
規範的メカニズムのなかでもとくに「厳格な正義」のメカニズムを打ち砕く権利、要するに、
恐るべき決定論に陥った人間関係の中に人間性という奇跡を導き入れる権利をわがものとしている。
(同前)

17千手:2009/02/12(木) 13:39:40
[シュラッダーに関して 供犠の全能性]
実を言えばさまざまな儀礼文献が示唆していたり、いくつかの箇所でははっきりと
明言しているのだが、そのシステムは供犠の全能性という教義にもとづいているのである。
すなわち、そこでは供犠こそがその規則や執行者ともども神々とは無関係に、あるいは神々を超え、
ついにはわれわれの世界をはじめとする他のすべての世界を動かす唯一の原動力となるのである。
(前掲書3-5)

18毛蟹:2009/02/12(木) 18:05:04
僕がたぶん一番好きな映画のタイトルが漸く分かった。
「バベットの晩餐会」というのだ。
忘れないようにここに書いておこう。

19千手:2009/02/22(日) 00:40:17
プルタルコスによればヌマが第2代のローマの王位につく時、カピトーリウムに登って、神の徴が現われるのを待った。
そして吉兆の鳥が現われたのだが。
オバマがアメリカ大統領に就任する時、彼は聖書に手を置いて宣誓をしたが、しかし神の吉兆を待つことはしなかった。
この違いは、きっと小さくないことだろう。

20千手:2009/02/24(火) 13:58:42
『沙石集』1-8「生類を神明に供ずる不審の事」
「諏訪の勘文」に似た話。広がりと考えられる。

21毛蟹:2009/02/26(木) 01:26:38
漸くアメリカも「地球温暖化」を救世主にするらしい。
いま金になるのは温暖化しかないと思ったんだろう。
神を信じない輩、「神なんていない」という輩も「温暖化なんて嘘だ」とは公言しにくい。
今世紀の神様は温暖化なんだ。
汝神の存在を疑うべからず。
今度の神様はバブルをもう一度もたらしてくれる有り難い神様なんだから。

22千手:2009/03/03(火) 10:30:15
http://www.youtube.com/watch?v=r9fZTXC5E1M&feature=related
オニナニケケ。おもしろい。

23千手:2009/03/07(土) 01:46:36
今西錦司「自然学の提唱」
>形態にしろ行動にしろ、この突然変異が適者である場合にのみ、彼は競争に勝ちのこることになるのだが、
その反面において生存競争に破れたものの死滅ということが、いつも考えられている。神様はつねに
エリートの味方をしているということだ。そのへんのところが、キリスト教徒である西欧人には魅力的なのか、
今年はダーウィン没後一〇一年目だがいまだに共鳴者がたえない。(pp.277-278)
 これは今西がダーウィン進化論の説明をしているところだが、ダーウィンの「エリートが適者だ」という論理に対して
ニーチェは正反対の主張をする。「月並みな(平凡な)者(群をなす弱者たち)がもっとも適応しやすいのだ」と。
 社会ダーウィニズムの主張を容れて「白人がもっとも進化した生物だ」という主張を認めるとして、このことは
ニーチェ的な見方からすれば、「白人がもっとも平凡な生物だ」という意味になる。
 このニーチェの見方があまり人に知られていないのは、ニーチェのいう「強者」の像の方が
ほとんど理解されないからであろう。

24千手:2009/03/07(土) 02:07:29
ダーウィン型進化論に対する今西の批判は、全生物は同じ地球から生れた存在であるから、
進化が競争であるはずがない、という主張だと理解してよいのだろうか。
 進化は分化であるというとき、ニーチェの主張は、この分化は強者がおのれの生存の余地を開拓することによって生じるのだ、
という主張だと言っていいだろうか。「棲み分け」を分化と説く今西はニーチェに対して何を言っていることになるのだろうか。
反発は少ないかもしれない。それが東洋の知恵だといえるのだろうか。
 今西が見えなくしている「創造の過程」があるとおもう。
 誰にとっても見えにくいものだが、確実にそれはある。直観音楽の誕生がたとえばそれだ。
 天の火を受け取る時がそれだ(ヘルダーリン)。

25千手:2009/03/07(土) 02:18:26
>進化は個体からはじまるのではなくて、種社会を形成している種個体の全体が、
変わるべきときがきたら、みな一斉に変わるのである(p.270)
 この今西の主張の「種個体の全体が一斉に変わる」というところを、
「ひとつの種個体、もしくは一グループの種個体が変わる」とし、
ここにある種の分断の原理を入れなければならないと思う。
種社会の個体全部が一斉に(同じ方向に)変わることはない、と。

26千手:2009/03/07(土) 02:24:06
それにしても今西の議論は魅力がある。駄弁ではなく、明確な批判、否定があるからだ。

27千手:2009/03/07(土) 10:23:16
上述の「分断の原理」としてひとつ「地域性」というものが提案できないか。
わたしは今西の著作として上掲の「自然学の提唱」以外全く何も読んでいないのだが、
だからこそここで「地域種社会」という概念を提唱しておきたい。
とりあえずは「種社会」の下位概念としてである。今西はこう言っている。
>以上からおわかりのように、この三つの構造単位のあいだは、全体と部分という関係で
結ばれている。すなわち生物全体社会の構成単位は種社会であり、種社会の構成単位は
種個体であるというように。逆にいうなら種個体のすべてで種社会が成立し、
種社会のすべてによって生物全体社会が成立している。生物の種類がいかに多くとも、
この三重構造の体系外にはみだして存在するようなものはいない。この構造の把握こそ、
生物的自然認識の出発点であり、同時に客観的自然観の出発点でもある。(p.267)

28千手:2009/03/07(土) 10:54:54
この話をしておこう。
飛騨には嶽(ダケ)がある。乗鞍嶽、笠ヶ岳。
飛騨の熊はいざという時には嶽の方に入っていくはずだ。
そこまで人間は入ってゆくことができない。
一度乗鞍の山腹に熊を追っていって、霧氷の流れる河を体験した、と橋本繁藏さんは言っていた。
その流れにちょっとでも触れたら、何百メートルも飛ばされてしまう。
熊でもぶっ飛ばされてしまう。
---こんな光景を誰も見たことがないのではないか? 見て、生きて帰った人が他にいるのか、と思う。
その向こう側に熊がいるはずだった。
その、嶽から吹き降ろしてくる霧氷の流れる河を、二キロも三キロも下がって、やっと向こう側に渡れたという。
 嶽があるから飛騨の熊は生きてゆける。橋本さんもそう考えているようだった。

29千手:2009/03/09(月) 19:19:10
『土佐日記』(岩波文庫pp.44-45)
>おもしろきところに船をよせて、「こゝやいどこ。」と問ひければ、「土佐の泊。」といひけり。
むかし、土佐といひけるところに住みける女、この船にまじれりけり。そが言ひけらく、
「昔、しばしありし所の●なくひ●にぞあなる。あはれ。」といひて、詠めるうた、
  としごろをすみしところのなにしおへばきよるなみをもあはれとぞみる
とぞいへる。

この「なくひ」のところ、脚注は<意味不明。文意から考えると、「同じ名」「似た名」の意と思われる>と記し、さらに補注を付けている。
その補注も優れた説がないことを記している。
 だがわたしの考えだとこれは簡単なことなのだ。
 つまり「なくひ」=「名食ひ」なのだ。
 むかし人がしばしばやっていた「名食い」をしているのだ、と訳せるだろうか。
有名な土地の地名を食って、別の土地名前にしてしまうというやり方だ。今で言えば「田園調布」というなをどこかの町名に付けてしまう、というようなやり方だ。
このことを「なくひ」と言っていたのではないか。 あるいは民俗例があるかもしれないが、今はそれを探すひまがない。
だがほとんど確かなことだと思える。

30千手:2009/03/10(火) 01:08:41
『土佐日記』は貫之の土佐との別れを書き遺したものだが、ここにはひと土地(地域)との関わりの最も本質的なものがあると思う。
ひとつ別れの視線であること。その土地から永遠に別れる者の視線で描かれていること。
そしてその土地に心を、断つに断ち難い思いを残していること。
 この観点は、ある地域についての語りの最も本質的なものを含んでいるであろう。
 ひとは、この世を去る時、おそらくこの観点をもつ。

貫之は、任地の土佐で、ひとりの娘を亡くした。その地で埋葬したのであろう。
しかしやがて年月がすぎ、国守としての任期が終わる。土佐を離れ、京に戻らなければならない。
その辛さ、別れがたさ。

この思いこそ地域学のテーマではないか。最も重要なテーマのひとつのはずだ。

31千手:2009/03/10(火) 01:38:12
川勝平太氏は鶴見和子の内発的発展論を十二の特徴に分けて説明しているが、その中にこんな言い方が出てくる。
>第九に、内発的発展論の分析対象の単位は地域である。内発的に発展するのは人間であるが、人は空中に生れてくるのではない。文化の刻印をおされた地域社会に生れてくる。人間は地域文化の刻印をおされた具体的存在である。(『「内発的発展」とは何か』藤原書店p.22)
わたしはここにある違和感を感じる。たとえば貫之にとって土佐は何だったのか? 貫之は土佐文化の刻印をおされた具体的存在なのか?
多少は土佐の文化のかおりもあるだろう。だが文化的なところでいえばほとんど京的なものだ。そしてその奥底まで国家の刻印を押されている。
貫之のような人間は土佐の内発的発展には何の関わりもないような人間なのだろうか。その通りだろう。
だがわたしは貫之がいた延長八(930)年から承平四(934)年の土佐も土佐という土地の地域学の問題と考えたいのだ。
 地域における異人の問題といえるだろうか。地域学はこの観点を欠かしてはならないと思う。

32千手:2009/03/10(火) 01:50:04
わたしはその土地(の生活)を去る者のまなざしから、土地や地域の問題を考えたいのだ。
人はみな、死によって、その土地の生活からは去るのであるから。
そういう存在として、その土地のことをどう語り遺したいのか。
ある地域についての語りは、去り行くもののまなざしによって、この上なく愛おしいものになるのではないだろうか。
地域について語り遺すこと、たとえばかつての一揆について語り遺すこと、語り遺されたこと、ここから幾らかは地域の文化ということが語られるだろう。

33千手:2009/03/10(火) 01:56:20
『土佐物語』のなかの貫之の最後の歌。

みしひとのまつのちとせにみましかばとほくかなしきわかれせましや

きちんと読み取れないのだが、「まつのちとせにみましかば」というのは、土佐に赴任することなく、京にいられたならばという意味が含まれているのだろうか。
そんな気がする。

34千手:2009/03/10(火) 03:53:49
>>33
訂正
『土佐物語』→『土佐日記』

35千手:2009/03/10(火) 22:31:06
>>31
に紹介した川勝理論にに対して。
わたしが考える「内発的発展」あるいは「詩的な場所」の考えでは、
運きの源になるのは、個人かグループであり、
その源になるのが「天から降りた火」ないしは「雷光」なのだ。
ヘルダーリンから「詩的な場所」を考えてゆく限り、「詩人」による「火」ないしは「雷光」の受取りが最初の出来事で、
次でその(グループによる)反復的な広めがある。直観音楽も同じだ。
そうしてたとえばキュルテンは詩的な場所になってゆく。

36千手:2009/03/10(火) 22:49:44
>>31の川勝氏の「第十」も記しておこう。
>第十に、内発的発展論は多様な地域性、多様な発展系列、多様な人間群像を寿ぐ価値多元論である。
>地域の固有性が重視されることによって、そのまま価値の多元性があたたかく肯定され、発展形態の多様性が称揚されるのである。
>地域の数だけ発展の形態がある。西欧の発展も発展の一つの形である。(p.23)
 わたしには川勝氏が具体的にどのような問題を掴まえているのかよくわからない。理想化された抽象的な観念を語っているとしか理解できないのだが、
それはきっと「地域の固有性」がどうやって生れるかがよく分からないからだ。そういうものがはじめから存在するかのように言われると、とてもついてゆけない気がする。
ある地域について、わたしは国家とその外部がそこでどう関わっているか、権力がどんな形で存在しているかにまず関心をもつ。
それこそがある土地の地域性を形づくってゆくものだと思うからだ。たとえば飛騨における大原騒動という農民一揆。それがどうしてそこで生じ得たのか?
 しかし間違いなく大原騒動はその後の飛騨の地域性を形づくっている。

37千手:2009/03/10(火) 23:15:57
<変わるべきときがきたらみな一斉に変わるのだ>
という今西の洞察には、
一揆がなぜ成立するかという問いの本質にまで到達する何かがあるように思う。
そしてそこには住民の生存方の布置に関する共通性があるはずだ。
第二回の安永騒動は、大原代官による検地の方法の変更、余歩の削減、に対する反対運動として、
飛騨の多くの村で「一斉に」農民が起ち上がったものだ。余歩の削減は、多くの農民を困窮に陥れるものだっただろう。
余歩とは勤労控除のようなものだと林格男先生は記す。具体的にもいろいろな余歩について説明してもらったことがあるが。

38千手:2009/03/15(日) 14:23:11
YouTube 2009.3.8 サンデープロジェクト 田中真紀子
http://www.youtube.com/watch?v=XBvEUWHvDEY&eurl=http://snsi-j.jp/boyakif/diary.cgi?start=1&pass=&feature=player_embedded

39千手:2009/03/18(水) 04:47:27
>>31,>>33のまとめ
http://25237720.at.webry.info/200903/article_8.html

40<削除しました>:<削除しました>
<削除しました>

41千手:2009/03/27(金) 03:40:46
http://www.foia.cia.gov/2020/2020.pdf
Mapping the Global Future

Report of the National Intelligence Council's 2020 Project
Based on Consultations With Nongovernmental Experts Around the World
NIC
から部分を引用。pdfを「文字」にするだけでも意味があるだろう。



p.116
"For Washington, dealing with a rising Asia may be the most challenging of all its regional relationships."

Asia is particularly important as an engine for change over the next 15 years. A key uncertainty is whether the rese of China and India will occur smoothly. A number of issues will be in play, icluding the future of the world trading system, advances in technology, and the shape and scope of globalization. For Washington, dealing with a rising Asia may be the most challengeing of all its regional relationships. One could envisage a range of possibilities from the US enhancing the role as regional balancer between contending forces to Washington being seen as inceasingly irrelevant. Both the Korea and Taiwan issues are likely to come to head, and how they are dealt with will be important factors shaping future US-Asia ties as well as the US role in the region. Japan's position in the region is also likely to be transformed as it faces the challenge of more independent seculity role.

42千手:2009/04/29(水) 21:49:35
上橋菜穂子『精霊の守り人』的確でまた冒険物語として面白いのはそれとして、文化事象の解釈としても新しいところがある。
村境などにあるしめ縄に鳥の骨が挟まれていることがある。
1.村に侵入しようとする悪霊に「お前もこうなるぞ」と脅して帰らせる。
2.村に侵入入ろうとする悪霊に、美味しいものを食べてもらって、お引き取りを願う。
 普通はこんな風に解釈されるだろう。
上掲書が示唆しているのは、
3.村の安寧を成立させる出来事が成立するために不可欠な存在である鳥そのものの霊威によって、悪意ある侵入者を防ぐとともに、鳥の崇高な使命を村人の記憶に残す。
 文化人類学者が単に知識として知っていることを越えて、具体的に思考できているところが少しだがある。

43千手:2009/05/22(金) 18:19:48
そこはちやうど両方の空間が二重になつてゐるところで
おれたちのやうな初心のものに
居られる場処では決してない
(宮沢賢治「宗教風の恋」)

上記上橋作品の空間性へのコメントとして


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