したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

オショーのSadhana Pathを読んで実践する

1避難民のマジレスさん:2020/11/18(水) 21:29:41 ID:Dp/qMVVc0
Sadhana path 修行の道
第1章 ようこそ
私は深い闇に包まれた人間を見ている。彼は暗い夜にランプが消された家のようになっている。彼の中の何かが消えてしまった。しかし消えてしまったランプは再び点火することができる。

私はまた、人間がすべての方向を失っていることが分かる。彼は公海で道を失った船のようになってしまった。彼はどこに行きたいのか、何になりたいのかを忘れてしまった。しかし、忘れられていたことの記憶は、彼の中で再び目覚めさせることができる。

闇はあっても、絶望する理由はない。闇が深ければ深いほど、夜明けは近い。沖合で私は全世界の霊的な再生を見ている。新しい人間が生まれようとしており、私たちはその誕生の苦しみの中にいる。しかし、この再生には私たち一人一人の協力が必要だ。それは、私たちを通して、私たちだけで起こる。私たちはただの見物人でいる余裕はない。私たちは皆、自分自身の中でこの再生の準備をしなければならない。

新しい日が近づいてきて、夜明けを迎えるのは、私たち自身が光で満たされたときだけだ。それは、その可能性を現実に変えるのは私たち次第だ。私たちは皆、明日の建築物のレンガであり、未来の太陽が誕生するための光線なのだ。私たちはただの見物人ではなく、創造者なのだ。しかし、必要なのは未来の創造だけではなく、現在そのものの創造であり、自分自身の創造なのだ。自分自身を創造することによって、人間は人間らしさを創造するのである。個人は社会の構成要素であり、進化も革命も彼を通して起こることができる。あなたはその構成要素だ。

だからこそ、あなたを呼びたい。眠りから目覚めさせたい。あなたの人生が無意味で役に立たない、退屈なものになっているのがわからないだろうか?人生はすべての意味と目的を失っている。
――
これは1964年6月、オショーの初の瞑想キャンプでの講話です。
私が修行の道に入ったのも、何をしても最後には死によって失われてしまうと実感し、せめてその前に真実を知りたいと切望したからでした。
オショーが「記憶は、…目覚めさせることができる」と言っているのは、自我が無いときの記憶という意味なのでしょうか? それとも、何かを象徴していますか?

790避難民のマジレスさん:2022/12/18(日) 01:04:22 ID:uToyqa4E0
(つづき)   p438-439
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えているのである。そして、存在しないという認識は無関心な状態を保持する原因なのであると。その趣旨は以下の通りである。「熱のあるときには体に良いものを食べるべきである」とか「蛇に手を出すべきではない」等の言葉を聞くとすぐに、そう命じられた年長者が、体に良いものを食べ始め、また蛇に手を出そうとしていればそれをやめるのを見て、学習意欲のある子供は、命じられた年長者が活動を始めたり停止したりする原 因、すなわち欲求と嫌悪の情を推論するのである。さらに詳しく説明すれば次の通りである。年長者が活動を始めたり停止したりする原因は、それぞれ欲求と嫌悪の情で ある。何故なら、われわれが自らに基づいて活動を始めたり停止したりするのと同じように、[年長者も]自らに基づいて活動を始めたり停止したりするからである。そして、彼(年長者)の欲求と嫌悪の情は、望ましいことを実現する手投が存在することと望ましくないことをもたらす手段が存在すること一[それらは]行わなけれぱならないことという性質とともに同一の[動詞語根の]意味に内属している757一についての理解を、それぞれ前提としている。何故なら、[それらは]、われわれが活動を始めたり停止したりする原因となる欲求と嫌悪の情と同じもので、[年長者が]活動を始めたり停止したりする原因となる欲求と嫌悪の情だからである。すなわち、われわれ の場合には、欲求や嫌悪の情は、言葉や言葉の働きや[話し手である]人の意図や[過去・現在・未来の]三時によって限定されていない志向や新得力の認識を前提として生ずるわけでは決してない758。そうではなくて、[われわれの欲求や嫌悪の情は〕、繰り返し繰り返し自己自身を見つめることにより、先に述べた原因759を前提としてのみ現 れてくるのである。従って、年長者が自らに基づいて活動を始めたり停止したりすること、および年長者の様々な欲求と嫌悪の信も、望ましいことを実現する手段が存在することと望ましくないことをもたらす手段が存在すること一ー[それらは]行わなけれぱならないことという性質とともに同一の[動詞語根]の意味に内属しているーーについての理解を前提としているのである。そしてこのような順序で、原因と結果の関係が確立されるのである。従って、[先のように]命じられた年長者は、望ましいことを実現する手段が存在するという理解と望ましくないことをもたらす手段が存在するという理解とに基づいて、活動を始めたり停止したりするのだ、と確定したのである。そしてこの理解は、[言葉を聞く]以前には存在していないが、言葉を聞くとすぐに生じるので、言葉を聞くことがその原因なのである。

脚注
757
758「子供の欲求や嫌悪の情は、新得力を以て終わる言葉についての認識を前提としているわけではない。直接知覚という日常的経験の場合には、それらすべてが存在しないからである。『料理する』等の場合に、志向が認識されても、それが人に活動を開始させるわけではない」。
759「望ましいことを実現する手段が存在することと、望ましくないことをもたらす手段が存在すること 一「それらは」行わなければならないことという性質とともに同一の[動詞語根の]意味に内属している一についての理解」のこと。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

791鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/19(月) 00:25:00 ID:bw2qRRBI0
 答えたのじゃ。
 存在しないという認識は無関心な状態を保持する原因だとシャンカラが言ったというのじゃ。
 年長者が行ったことで、子供は活動を始めたり停止したりする原 因、すなわち欲求と嫌悪の情を推論するというのじゃ。
  
 年長者の欲求と嫌悪の情は、望ましいことを実現する手投が存在することと望ましくないことをもたらす手段が存在することについての理解を、それぞれ前提としているのじゃ。
 われわれの欲求や嫌悪の情は、繰り返し繰り返し自己自身を見つめることにより、先に述べた原因を前提としてのみ現れてくるからなのじゃ。
 このような順序で、原因と結果の関係が確立されるのじゃ。
 そしてこの理解は、言葉を聞く以前には存在していないが、言葉を聞くとすぐに生じるので、言葉を聞くことがその原因と言えるのじゃ。

792避難民のマジレスさん:2022/12/19(月) 01:47:17 ID:PR.wvHKw0
(つづき)    p439-440
  従って、「供犠を行うべきである」等の活動を促す文章の場合には、言葉だけが、行 わなければならないこととしての働き(言葉によって表される志向)と望ましいことを実現する手段としての働き(結果をもたらす志向)とを理解させ、また、それ(働き=志向)が望ましいことを実現する手段(結果をもたらす志向)と行わなければならないこと(言葉によって表される志向)とであることを理解させるのである760。何故なら、それら両者(行わなければならないことと望ましいことを実現する手段)は、 言葉以外からは知られず、言葉以外からは知られないものが言葉の対象(意味)だからである。しかし、「殺すべきではない」とか「飲むべきではない」等の場合に、殺すことや飲むことという活動は貪欲から生ずるように、行わなけれぱならないこととい う性質がもし[言葉]以外のものから知られるとすると、否定詞nañと結び付いた願望法等の人称語尾は、それ(行わなければならないことという性質)に再言及することによって、この両者が悪の原因であること一[そのことは、否定詞nañと結び付いた願望法の人称語尾]以外からは知られない一だけを理解させるのである。実に、 この両者(殺すことと飲むこと)が望ましいことを実現する手段であるということは、直接に理解されるのである。何故なら、さもなければ貪欲の対象ではありえないからである。従って、「殺すべきではない」とか「飲むべきではない」等の文章は、貪欲等から知られた行わなければならないことという性質に再言及することによって、[殺す ことや飲むことが]悪をもたらす手段であることを知らせることを目的としているのである。行わなければならないことを目的としている(表示している)のではないのである。それ故、禁令は行わなければならないことを表示するのではないと、すでに はっきりと述べておいたのである761。そして、禁止されていることは悪をもたらす手段であるという認識こそが、禁止されていることが存在しないという認識なのである。 実にその[認識]に基づいて、われわれ精神的存在(殺そうあるいは飲もうとしている人)は、一見魅力的なものの性質を見ても、将来[生ずるであろう結果]762を考えて、活動の非存在すなわち活動の停止に目覚め、活動を停止するのである。すなわち、自らの無関心な状態を確立するのである。
   [反対主張]もし、存在しないという認識が無関心な状態を確立するの原因であれば、[それは]無関心な状態が存在する限り継続するはずであるが、[実際には]継続することはない。何故なら、[ある対象には]無関心な人でも、他の対象にはとても執心している[ので]、それが存在しないという認識をもっていないからである。そして、確立させる原因(存在しないという認識)が存在しないときに、結果(無関心な状態)が確立されるなどということは経験されない。すなわち、柱が倒れても、宮殿が建っているということはないのである。

脚注
760 言葉によって表される志向(依言志向)と結果をもたらす志向(依果志向)については、脚注507参照。
761 本訳436頁参照。
762
(´・(ェ)・`)
(つづく)

793鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/19(月) 23:02:56 ID:DsXGvZOI0
 活動を促す文章の場合には、言葉だけが行わなければならないこととしての働きと望ましいことを実現する手段としての働きをを理解させるというのじゃ。
 さらにそれが望ましいことを実現する手段と行わなければならないこととであることを理解させるのじゃ。
 何故ならばそれら両者は、 言葉以外からは知られず、言葉以外からは知られない言葉の対象だからなのじゃ。

 「殺すべきではない」とか「飲むべきではない」等の文章は、貪欲等から知られた行わなければならないことという性質に再言及することによって、それらが悪をもたらす手段であることを知らせることを目的としているのじゃ。
 行わなければならないことを目的としているのではないのじゃ。
 禁令は行うことではないというのじゃ。

 禁止されていることは悪をもたらす手段であるという認識こそが、禁止されていることが存在しないという認識だというのじゃ。
 、禁止されていることは悪をもたらす手段であるという認識こそが、禁止されていることが存在しないという認識なのじゃ。
 実にその認識に基づいて、われわれ精神的存在は、一見魅力的なものの性質を見ても、将来を考えて、活動の非存在すなわち活動の停止に目覚め、活動を停止するのじゃ。
 すなわち、自らの無関心な状態を確立するのじゃ。

 反対なのじゃ。
 もし、存在しないという認識が無関心な状態を確立するの原因であれば、無関心な状態が存在する限り継続するはずであるが、継続することはないというのじゃ。
 何故ならばある対象には無関心な人でも、他の対象にはとても執心しているからそれが存在しないという認識をもっていないのじゃ。
 そして、確立させる原因が存在しないとき、結果が確立されるなどということはないというのじゃ。

794避難民のマジレスさん:2022/12/20(火) 00:03:02 ID:bIYX4EK60
(つづき)   p440-441 
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えているのである。さらにそれ(存在しないという認識)は、燃えてしまった薪の火のように、自ら消え去ってゆくのであると。実にまずこの人(殺そうあるいは飲もうとし ている人)は、これ(殺害や飲酒)が悪の原因であることを理解しない間は、[それら の]活動をしようとする。[だが]、これ(殺害や飲酒)が悪の原因であるという理解は、[その]活動を根こそぎ根絶やしにし、[そののち]燃えた薪の火のように消え去ってゆくのである。すなわち、その趣旨は以下の通りである。存在しないという認識が無関心な状態を確立する原因であるというのは、柱が宮殿を確立する(建てる)原因であるというのと同じではない。そうではなくて、非本来的な滅びる原因から護るという形で、確立する原因となるのである763。それはちょうど、亀の甲羅のように囲い鎧が、武器による攻撃を防ぐことによって、戦士の命を護る(確立する)原因となるようなものである。しかし、鎧がなくても、武器による攻撃がなければ、戦士の命が失われることはないのである。[そして師シャンカラは、次のように]結論づけている。従っ て、[「バラモンは殺すべきではない」等の場合には、プラジャーパティに対する誓い 等の場合とは異り]、積極的な活動を停止することという、[積極的な行為に対して] 無関心な状態こそが、[その否定の意味なのである、とわれわれは考えている]と。 すなわち、[悪の原因であるとは]知らなくても、無関心な状態は存在するので、それは、積極的な行為を停止することという偶然的な特性(upalakasana)によって特徴づけられているのである764。
   [反対主張]では、[ウパニシャッドの諸聖典旬は]行為を目的としないから無意味なのではないかと疑い、[それらが]行為を目的とすることを明らかにしていたジャイミニの見解は、全くの誤りなのであろうか。
  [答論][このような疑問を師シャンカラは]、結論という形で[次のように]退けているのである。それ故、「行為(祭式)を目的としない諸聖典句は無意味である」という[『ミーマーンサー・スートラ』の言明は]]、人間の目的に云々と。

脚注
763「実に、存在しないという認識が無始の無関心な状態(すなわち本来のアートマンの状態)を確立する原因なのではない(もしそうなら、存在しないという認識が存在しないときには、原因が存在しないわけだから、無関心な状態も存在しないであろうが)。そうではなくて、隙関心な状態を]否定するものを取り除くものなのである」。従って、存在しないという認識は、アートマ ンの本来的な状態である無関心な状態を覆い隠すようなアートマンの無関心な状態にとっては非本来的な ものから、無関心な状態という本来的な状態を護るという形で、無関心な状態を確立する原因となっているのである。
764 ものの特性には、本来的な特性、添性、偶然的な特性の三種が あるとされる。そのうち、ものの本来的な特性とは、ものに内属する本来的な特性で、たとえば、青い蓮 の青さという特性などがそうである。他の二つは、ものの非本来的な特性であるが、そのうち添性は、そのものに内属してはいないが、そのものが存在する限り認められるような特性で、たとえば、赤い水晶の赤さ(水晶は本来透明であるから、この赤さは水晶に内属してはいないが、水晶から分離することはできない)のようなものである。一方、ものの偶然的な特性とは、そのものから分離可能な特性のことで、たとえば、家に止まっている鳥(この鳥は、その家を他の家から区別しているという意味で、家の特性だと考えられるが、家に内属しているわけでも家が存在する限り存在しているわけでもない)のようなもので ある。
(´・(ェ)・`)つ

795鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/20(火) 23:22:56 ID:xvjJNvjE0
 答えたのじゃ。
 シャンカラは存在しないという認識)は、燃えてしまった薪の火のように、自ら消え去ってゆくと言ったのじゃ。
 殺害や飲酒が悪の原因であることを理解しない間は、それらをしようとするが、理解すれば消えるのじゃ。
 
 存在しないという認識が無関心な状態を確立する原因であるというのは非本来的な滅びる原因から護るという形で、確立する原因となるというのじゃ。
 
 積極的な活動を停止することという無関心な状態こそが、その否定の意味なのである、とわれわれは考えていると言うのじゃ。
 悪の原因であるとは知らなくても、無関心な状態は存在するので、それは積極的な行為を停止することという偶然的な特性によって特徴づけられているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ではウパニシャッドの諸聖典句は行為を目的とする、とを明らかにしていたジャイミニの見解は、全くの誤りなのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは行為、祭式を目的としない諸聖典句は無意味である」という『ミーマーンサー・スートラ』の言明は祭事部にのみ適用されると言ったのじゃ。




 この章では昔から言われていた、行為、祭式を目的としない諸聖典句は無意味である」という言葉が祭事部にのみ適用されるものであり、ブラフマンを説いた聖典句には適用されないと明かしたのじゃ。
 ブラフマンは唯一存在するものであり、全てであるから何かをすること、として説かれてはいないのじゃ。
 それでは前述の反対の見解と矛盾するから、それを論破したのじゃ。

796避難民のマジレスさん:2022/12/21(水) 02:24:17 ID:6LMfD5tA0
7.ウパニシャッドがすでに存在する事物(ブラフマン=アートマン)について教示していることの意義  222右/229

7.1.身体等をアートマンだとすると思い込みが取り除かれる p441-442

  [反対主張]行わなければならないことと無関係に、単独で事物についてだけ述べるのは無意味であろう。たとえば、「大地は七州からなる」等[と述べる]場合のように765。
  [答論][先にこのような反対主張が]述べられていたが、それはすでに論破されている。何故なら、「これは縄である。これは蛇ではない」という場合には、単独で事物について述べていても、[誤った認識やそれから生ずる恐怖を取り除くという]目的(意味)が認められるからである。
   [反対主張]ブラフマンについて聞いても、それ以前と同じように輪廻していることが経験されるので、[単独でブラフマンという事物についてだけ述べている箇所は]無意味である。このことはすでに述べた通りである766
   [答論]これ(反対主張)に対して[次のように]答える。ブラフマンがアートマンであると悟った者が、それ以前と同じように輪廻しているなどということを示すことはできない。何故なら、ヴェーダという正しい認識根拠から生じた事実、すなわち、ブラフマンがアートマンであるという事実に反するからである。確がに、身体等をアートマンだと思い込んでいる人には、苦しみや恐れと等が存在すると認められる。しかしだからといって、その同じ人 に、ヴェ一ダという正しい認識根拠からブラフマンがアートマンであるという悟りが生じて、その(身体等をアートマンだとする)思い込みがなくなって [も]、誤った知識に基づく苦しみや恐れ等存在すると考えることはできない。 確かに、財産のある家長であって、財産を誇っている人には、財産が失われることから生ずる苦しみが認められる。しかしだからといって、その同じ人が、 出家して、財産を誇る気持ちを捨てて[も]、財産を失うことから生ずる苦しみが存在するなどと考えることはできないのである。また、イヤリングをつけている人には、イヤリングをつけているのだという誇らしい気持ちから生 ずる楽しみが存在すると認められる。しかしだからといって、その同じ人が、イヤリングを捨て、イヤリングをしているという誇らしい気持ちをもたなくなって[も]、イヤリングをつけていることを誇る気持ちから生ずる楽しみが存在するなどということはないのである。このことが[天啓聖典句に]「実に 身体がなければ好悪に影響されることはない」767と述べられているのである。
   [反対主張]身体が滅すれば(すなわち死ねば)、身体のない状態となるであろうが、生きている者が[そのような状態になることは]ないであろう。
  [答論]そうではない。何故なら、身体があるという状態は、誤った知識に基づいているからである。というのは、身体をアートマンだと思い込むことをその特徴とする誤った知識とは別に、それ以外のものに基づいて、アートマンが身体をもつと考えることはできないからである。すでにわれわれが述べたように768、[アートマンは]行為に基づがないので、常に身体をもたないのである。

脚注
765 本訳380-381頁参照。
766 本訳380-381頁参照
767
768 本訳382-384頁参照。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

797避難民のマジレスさん:2022/12/21(水) 12:46:54 ID:dO0Uw3z20
6/22に始めました『バーマティー』は、あと10回で年内に完結する予定であります。
次の講読会では、『荘子』を取り上げようと思うのでありますが、鬼和尚、いかがでありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

798鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/21(水) 23:39:44 ID:CymlWYU60
>>797 よいことじゃ。
 どんどんやるとよいのじゃ。

799鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/21(水) 23:48:15 ID:CymlWYU60
反対なのじゃ。
 行わなければならないことと無関係に、単独で事物についてだけ述べるのは無意味ではないかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 誤った認識やそれから生ずる恐怖を取り除くという目的があり、意味が認められるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンについて聞いても、それ以前と同じように輪廻していることが経験されるので無意味であるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンがアートマンであると悟った者が、それ以前と同じように輪廻しているなどということはないというのじゃ。
 何故なら、ヴェーダという正しい認識根拠から生じた事実、すなわち、ブラフマンがアートマンであるという事実に反するからなのじゃ。
 
 身体等をアートマンだと思い込んでいる人には、苦しみや恐れと等が存在するが、ヴェ一ダという正しい認識根拠からブラフマンがアートマンであるという悟りが生じればそれはないのじゃ。
 天啓聖典句にも「実に 身体がなければ好悪に影響されることはない」と述べられているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 身体が滅すれば身体のない状態となるであろうが、生きている者がそのような状態になることはないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 身体があるという状態は、誤った知識に基づいているから、それは間違いだというのじゃ。
 身体をアートマンだと思い込むことは誤った知識なのじゃ。
 アートマンは行為に基づがないので、常に身体をもたないのじゃ。

800避難民のマジレスさん:2022/12/22(木) 00:12:27 ID:5lp/F30k0
(つづき)   p442-444
   [反対主張][アートマンは]、それ(自ら)が行ったダルマと非ダルマに基づいて身体をもつのである。
  [答論]そうではない。何故なら、(1)身体と[アートマンと]の関係が確立していないので、ダルマと非ダルマがアートマンによって行われるということも確立していないからである。(2)さらに、[このような困難を克服しようとして、アートマンと身体との関係は、ダルマと非ダルマがアートマンによって行われることに基づくのだ考えると]、[アートマンと]身体との関係と ダルマ・非ダルマがそれ(アートマン)によって行われることとが、相互に依存し合うという理論的誤謬に陥ることになる769。従って、[両者の関係は無始 であるとする]このような想定は、盲人の行列のようなもので770、[あてにならないのである]。(3)そしてさらに、アートマンは、行為と内属関係にないので、行為者たりえないからなのである。
   [反対主張]王などは、単に近くにいるだけで、[他の人を動かして]行為者となることが経験されるではないか。
   [答論]そうではない。何故なら、彼ら(王など)は、財産を与えること等 によって雇った召使と関係しているから、行為者たりうるからである。しかしアートマンの場合には、財産を与えること等のような、召使(身体等)と主人(アートマン)との関係[を生ずる]原因をなんら考えることができない。 [身体とアートマンとを]関係づける明らかな原因は、[身体等をアートマンだとする]誤った思い込みなのである。
  以上で、アートマンが祭式の執行者とされる事情を説明し終わったのである771。

  ウパニシャッドに説かれているアートマンを知ることは人間の目的ではないと考える人が、[次のように]述べていた。
   [反対主張]行わなければならないことと無関係に云々と。
   [答論]それに対して[師シャンカラは]、その意図を隠して、先にすでに述べた論駁を、[われわれに次のように]思いださせるのである。[先にこのような反対主張が]述べられていたが、それはすでに論破されていると。
  それに対して反対主張者は、自らすでに述べたことを、[われわれに次のように]思い起こさせるのである。
  [反対主張]ブラフマンについて聞いても云々と。
  [そこで]答論者(シャンカラ)は、隠していた意図を[次のように]明らかにするのである。

脚注
769 論理学上の誤りの一つで、論証すべき事柄とその論拠が、前者が成り立ってはじめて後者で成り立ち、 後者が成り立ってはじめて前者が成り立つというような形で、相互に依存しあっていることを言う。
770
771 アートマンは、自己が身体と結び付いていると誤って思い込んでいる限りにおいて、祭式の執行者であるのであり、このような思い込みはブラフマンの知識によって取り除かれるのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

801鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/22(木) 23:21:19 ID:ctleNbDI0
反対なのじゃ。
 アートマンはそれが行ったダルマと非ダルマに基づいて身体をもつというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 身体とアートマンとの関係が確立していないので、ダルマと非ダルマがアートマンによって行われるということも確立していないから違うというのじゃ。
 さらにアートマンと身体との関係と ダルマ・非ダルマがそれによって行われることとが、相互に依存し合うという理論的誤謬に陥るのじゃ。
 またアートマンは、行為と内属関係にないので、行為者たりえないから違うのじゃ。

 反対なのじゃ。
 王などは、単に近くにいるだけで、他の人を動かして行為者となることもあるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 王など)は、財産を与えること等によって雇った召使と関係しているから、行為者たりうるから違うのじゃ。
 アートマンには主従関係はないのじゃ。
 アートマンが身体の主人と考えるのは間違いなのじゃ。

 
 アートマンが身体の主人であり、身体を動かしているとか考えるのは間違いだというのじゃ。
 アートマンは観照者であるから、身体等の活動には関与しないのじゃ。

802避難民のマジレスさん:2022/12/22(木) 23:41:50 ID:mZKLGTVs0
(つづき)   p444
   [答論]これ(反対主張)に対して[次のように]答える。ブラフマンがアートマンであると悟った者が、[それ以前と同じように輪廻しているなどということを示すことはでき]ないと。確かに、単なるブラフマンの知識は、輪廻者であるという性質を滅する原因ではない。そうではなくて、[ブラフマンの知識が]直証(sāksātkāra)をもって終わることが、[輪廻者であるという性質を滅する原因なのである]。そして、ブラフマンの直証とは、内官の変容の一種であり、聴聞・思惟等から生ずる潜在印象に助けられて心(manas)に生ずるのである。それはちょうど、音楽理論の書を繰り返し聴聞する(学習する)ことで生じた潜在印象を備えた心に、シャドジャ等の音階を区別できる直観(sāksātkāra)生ずるようなものなのである772。そしてそれ(ブラフマンの直証)は、[われわれが]あらゆる現象という大魔術を直接に知覚しているの(sāksātkāra)を根絶し、そして自らも、現象であることには変わりがないので、根絶やしになってゆくのである。こめことは先に説明した通りである773。従って、この場合(ブラフマンについて述べる場合)にも、縄の本質について述べるのと同じで[意味が]あるのだ、 と確定した。ただしこの場合(ブラフマンについて述べる場合)には、ヴェーダという正しい認識根拠に基づいているので、[師シャンカラが]ヴェーダという正しい認識根拠から生じたと言っているのである。[さらに師シャンカラは]、このことに関して、 楽しみや苦しみが生じないという区別に応じて、[次のような]二つの例を挙げている。 確かに、財産のある云々と。[そしてさらに、師シャンカラは]このことに関して、[次 のような]天啓聖典句を引用しているのである。 「実に身体がなければ云々」と。
   [反対主張]身体が滅すれば云々。
  [答論]そうではない。何故なら、身体があるという状態は云々。もし、身体があるという状態が実在であれば、生きている者がそれ(身体のある状態)を滅することは ないであろう。だがそれ(身体のある状態)は、誤った知識に基づいているのである。 それ(身体のある状態)は、真理の知識が生ずれば、生きている者でも滅することがで きるのである。また、身体のない状態は、この者(身体のある者)の本質なので、滅することはできない。何故なら、本質を破壊すると存在が滅するという理論的誤りに陥るからである。だから、[師シャンカラが、すでにわれわれが述べたように、アートマンは行為に基づかないので]常に身体をもたないのであると述べているのである。

脚注
772 本訳288頁および脚注258参照。
773 本訳289頁以下参照。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

803鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/24(土) 00:27:29 ID:xTS7dFUc0
 答えたのじゃ。
 単なるブラフマンの知識は、輪廻者であるという性質を滅する原因にはならないが、ブラフマンを直証すれば輪廻者であるという性質を滅する原因になるのじゃ。
 そして、ブラフマンの直証とは、内官の変容の一種であり、聴聞・思惟等から生ずる潜在印象に助けられて心に生ずるというのじゃ。


 つまりは悟りを得ることじゃな。

 それはちょうど、音楽理論の書を繰り返し聴聞することで生じた潜在印象を備えた心に、シャドジャ等の音階を区別できる直観生ずるようなものじゃ。
 ブラフマンの直証は、あらゆる現象という大魔術を直接に知覚している幻想を根絶し、そして自らも現象であることには変わりがないので、自我を根絶やしになってゆくのじゃ。
 従って、このブラフマンについて述べる場合にも、意味があると確定したのじゃ。

 ただしそれはヴェーダという正しい認識根拠から生じた直証でなければならないとシャンカラは言ったのじゃ。
 さらにシャンカラはこのことに関して、 楽しみや苦しみが生じないという区別に応じて、財産のある云々とか「実に身体がなければ云々」とかの聖典句を引用しているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 それは身体が滅すれば楽しみや苦しみが生じないという意味ではないか、とか聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 もともと体などはないから違うというのじゃ。
 誤った知識で自分の体があるとか思っているだけだというのじゃ。
 
 自分の身体のあるという謬見は、真理の知識が生ずれば、生きている者でも滅することができるのじゃ。
 体のない状態は、人間の本質なので、滅することはできないのじゃ。
 何故なら、本質を破壊すると存在が滅するという理論的誤りに陥るからなのじゃ。
 そうであるからシャンカラはアートマンは行為に基づかないので、常に身体をもたないのであると述べているのじゃ。

804避難民のマジレスさん:2022/12/24(土) 00:34:40 ID:5uVmpFNs0
(つづき)   p444-445
  [反対主張]身体がある状態は誤った知識に基づくのではない。そうではなくて、ダ ルマと非ダルマに基づくのである。そしてそれ(身体のある状態)は、その原因であるダルマと非ダルマが滅しなければ滅することはない。そして、それ(ダルマと非ダルマ)が滅したときこそが死なのである。従って、生きている者が身体のない状態になることはない。このような疑問を[次のように]提示しているのである。[アートマンは]それ(自ら)が行った云々と。[ここで]それというのは、アートマンのことを言っているのである。
  [答論][このような反対主張を、師シャンカラが次のように]退けている。そうではない。何故なら、身体[アートマンと]の関係が云々と。すなわち、まず、アートマンは、直接にダルマと非ダルマを行うことができないのである。何故なら、それら (ダルマと非ダルマ)は、言語器官や統覚機能や身体の努力から生ずる[ので]、身体 と[アートマンと]の関係が存在しなければ存在しないからである。一方、それら(ダルマと非ダルマ)に基づいて身体と[アートマンとの]関係を[確立]しようとする人 は、明らかに相互依存という欠陥に陥るのである。そのことを[師シャンカラは、次の ように]述べている。[アートマンと]身体との関係と云々と。
  [反対主張]確かに相互依存は存在する。だがそれは欠陥ではない。何故なら[アートマンと身体との関係は]、種子と芽の場合のように、無始だからである。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えているのである。[両者の関係は無始であるとする]このような想定は、盲人の行列のよ うなもので、[あてにならないのである]と。
  ある人が[次のように]考えている。
  [反対主張]これ(アートマンと身体との関係)が無始であるのは、盲人の行列と同 じではない。実に、ダルマと非ダルマ<A>からアートマンと身体との関係<A>が 生じたとき、同じそれ(アートマンと身体との関係<A>)からダルマと非ダルマ<A>が生ずるのではない。そうではなくて、これ(現在のアートマンと身体との関係< A>の原因であるダルマと非ダルマ<A>)は、それ以前のアートマンと身体との関係 <B>から生じ、[そのアートマンと身体との関係<B>は]それ以前のダルマと非ダ ルマ<B>から生じているのである。一方、この(現在の)アートマンと身体との関係<A>は、ダルマと非ダルマ<A>から生じたのである。
  [答論]それ(このような反対主張)に対して、[師シャンカラは次のように]答え ている。 [そしてさらに、アートマンは]、行為と内属関係にないので云々と。
  [反対主張][王などは]、単に近くにいるだけで云々。
  [答論]そうではない云々。[この箇所で]雇ったというのは、「自分のものにした」 という意味である。しかしアートマンの場合にはそうではないというので、[師シャン カラが次のように]述べているのである。しかしアートマンの場合には... [考えることができないと。
(´・(ェ)・`)つ

805鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/25(日) 00:23:59 ID:rKwd4jgk0
 反対なのじゃ。
 身体がある状態は誤った知識に基づくのではなくて、ダ ルマと非ダルマに基づくというのじゃ。
 身体のある状態は、その原因であるダルマと非ダルマが滅しなければ滅することはないというのじゃ。
 ダルマと非ダルマが滅したときこそが死なのであり、生きている者が身体のない状態になることはないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 アートマンは、直接にダルマと非ダルマを行うことができないのじゃ。
 ダルマと非ダルマは、言語器官や統覚機能や身体の努力から生ずるので、身体 との関係が存在しなければ存在しないからなのじゃ。
 ダルマと非ダルマ)に基づいて身体との関係を確立しようとする人 は、明らかに相互依存という欠陥に陥るとシャンカラは言っているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 相互依存は存在がそれは欠陥ではないというのじゃ。
 何故ならばアートマンと身体との関係は、種子と芽の場合のように、無始だからというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 両者の関係は無始であるとするこのような想定は、盲人の行列のよ うなもので、あてにならないのであるとシャンカラは言っているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ダルマと非ダルマからアートマンと身体との関係が 生じたとき、同じそれからダルマと非ダルマが生ずるのではないというのじゃ。
 現在のアートマンと身体との関係の原因であるダルマと非ダルマは、それ以前のアートマンと身体との関係 から生じ、そのアートマンと身体との関係はそれ以前のダルマと非ダ ルマから生じているというのじゃ。
 現在のアートマンと身体との関係は、ダルマと非ダルマから生じたというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラはアートマンは、行為と内属関係にないから違うというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 王は行為をしなくともできるからアートマンも行為と内属関係でなくともできるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 王は人を雇ったりするからできるが、アートマンの場合にはそうではないとシャンカラはいうのじゃ。

806避難民のマジレスさん:2022/12/25(日) 00:28:40 ID:AIZjCESs0
7.2.身体等をアートマンだとする思い込みは比喩的なものではな くて言呉りである  p446-447 225左/229

  これに対して[反対張者が次のように]主張する。
   [反対主張]身体とは異なるアートマンが、身体等を自己のものだと思い込んでいるのは、比喩的な意味であり、誤りではないのである。
  [答論]そうではない。何故なら、事物間の違いを良く知っている人が、一 義的な意味と比喩的な意味を[用いるの]だ、というのは周知の事実だからである。すなわち、事物間の違いを良く知っている人、たとえば、一方では、肯定法と否定法によって、たてがみ等のある特定の姿をした[動物]が、「ライオン」という名称と観念の用いられる一義的なものだと良く知っており、[他方では]、それ(ライオン)とは異なる人間が、[ライオンと]共通の性質一 すなわち、残酷さや勇猛さ等一を備えていると良く知っている人の場合には、その人が人間に対して「ライオン」という名称と観念[を用いるの]は比喩的な意味である。だが、事物間の違いを良く知らない人の場合はそうではな い。すなわちその場合には、事物Aに対して名称・観念B[を用いるの]は、 まさに錯誤に基づくのであり、比喩的な意味ではないのである。たとえば、薄暗がりのなかで、「これは柱である」という形ではその特徴が把握されていな いときに、柱に対して「人間」という名称や観念が[用いられ]、またたとえ ば、真珠母貝に対して、「これは銀である」という形で、何の根拠もなく名称 と観念が確定されるが、それと同じように、アートマンと非アートマンとを 識別することなしに、身体等の集合体に対して、「私」という名称と観念が二義的な意味で(nirupacārena)774用いられるとき、[それが]どうして比喩的な意味だと言えようか。アートマンと非アートマンとを識別している学者たちでさえ、山羊飼や羊飼たちと同じように、 [アートマンと非アートマン に関しては]、名称や観念を識別して[用いて]いないのである。従って、身体とは異なるアートマンが存在すると主張する人たちの場合には、身体等に 対して「私」という観念[を用いるの]は誤りであり、比喩的な意味ではないのである。それ故、身体があるという状態は誤った観念に基づいているので、知者は生きていても身体がないのであると確定した775。
  そして同じ趣旨で、ブラフマンに関して[次のような]天啓聖典句がある。「あたかも、蛇の脱穀が脱ぎ捨てられて生命を失い、蟻塚のうえに横たわって いるように、まさしくこの身体は横たわっている。しかし、この身体のない不死の生気は、まさしくブラフマンであり、まさしく光輝なのである」776「眼があるのに眼がないかのようである。耳があるのに耳がないかのようである。言語器官があるのに言語器官がないかのようである。思考器官があるのに思考器官がないかのようである。生気があるのに生気がないかのようである」777と。 さらに聖伝書も、「知恵定まった者はどう描写したらよいのか云々」778と、知恵定まった者の特徴を述べて、知者があらゆる活動と無縁であることを示している。従って、ブラフマンがアートマンであると悟った人が、それ以前と同じように輪廻しているなどということはないのである。だが[逆に]、以前と同じように輪廻している人は、プラフマンがアートマンであると悟っていな いというのは誤りではない。

脚注
774 修辞学およびニヤーヤ・ヴァイシェーシ力学派の用語で、「完全に異なるもの二つの類似性が極めて大きいために〔互いに]異なるのだという認識をただ覆い隠してしまうこと」 「本来的な意味を捨て去ることによって、間接表示機能に基づいて、それ以外の意味を認識する」だとされ、その例として、「座席が泣く」(座席に座っている人が泣くという意味)や「男の人は火である」(男の人が非常に怒っているという意味)が挙げられている。
775これはいわゆる「生前解脱」という考え方を示すものである。
776
777 出典不明。
778
(´・(ェ)・`)
(つづく)

807鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/25(日) 23:36:55 ID:h2xQJFKA0
 反対なのじゃ。
 身体とは異なるアートマンが、身体等を自己のものだと思い込んでいるのは、比喩的な意味であり、誤りではないというのじゃ。


 答えたのじゃ。
 事物間の違いを良く知っている人が、一義的な意味と比喩的な意味を用いるというのは周知の事実だから違うというのじゃ。
 アートマンと非アートマンとを識別することなしに、身体等の集合体に対して、「私」という名称と観念が二義的な意味で用いられることは比喩的な意味ではないのじゃ。
 
 アートマンと非アートマンとを識別している学者たちでさえ、アートマンと非アートマン に関しては、名称や観念を識別して用いていないのじゃ。
 身体とは異なるアートマンが存在すると主張する人たちは、身体等に 対して「私」という観念を用いるのは誤りであり、比喩的な意味ではないのじゃ。
 それ故に、身体があるという状態は誤った観念に基づいているので、知者は生きていても身体がないのであると確定したのじゃ。
 
 それに関して次のような聖典句があるのじゃ。
 「あたかも、蛇の脱穀が脱ぎ捨てられて生命を失い、蟻塚のうえに横たわって いるように、まさしくこの身体は横たわっている。
 しかし、この身体のない不死の生気は、まさしくブラフマンであり、まさしく光輝なのである」

 「眼があるのに眼がないかのようである。耳があるのに耳がないかのようである。言語器官があるのに言語器官がないかのようである。思考器官があるのに思考器官がないかのようである。生気があるのに生気がないかのようである」
 

 さらに聖伝もあるのじゃ。
 「知恵定まった者はどう描写したらよいのか云々」
 知恵定まった者の特徴を述べて、知者があらゆる活動と無縁であることを示しているというのじゃ。
 ブラフマンがアートマンであると悟った人が、それ以前と同じように輪廻しているなどということはないのじゃ。
 以前と同じように輪廻している人は、プラフマンがアートマンであると悟っていな いというのは誤りではないのじゃ。

808避難民のマジレスさん:2022/12/26(月) 00:29:29 ID:QvGBnO/o0
(つづき)   p447-449
  ところである者たちは[次のように]考えている。
  [反対主張]身体等をアートマンだと思い込むのは、誤りではなくて比喩的なもので ある。それはちょうど、若者などをライオンだと思い込む(考える)ようなものなので ある。
  [答論][師シャンカラは]、このような人の考えを、これに対して[反対主張者が次 のように]主張する云々と紹介して、[そののち]批判しているのである。ある人に事 物間の違いが良く知られているとき、その人がこのように(事物問の違いを良く知っ ている人と)言われているのである。そしてこのこと(事物間の違いを良く知ってい る人が、一義的な意味と比喩的な意味を用いるということ)は、附託の章(序論)です でに説明したので779、ここでは説明しないこととする。
  薄暗がりのなかで、ある事物が「これは柱である」という形で人間と区別して把握さ れていないときには、疑問の余地は残しながらも、柱に対して「人間」という名称や観念が[用いられる]。この場合には実に、人間という性質は、不確定なものではあるが、附託されたものなのである。このように疑間の場合には、不確実なものが附託されるという例を挙げたのち、[師シャンカラは次のように]、誤認の場合には確実なものが [附託される]という例を挙げている。またたとえば、真珠母貝に対して云々と。[こ(こ)でもし、真珠母員を銀だと誤認する原因が両者に共通な属性の基体だとすると]、白く輝く実体は真珠母貝と銀[の両者とも]に共通の基体であるのだから、それ(目の前にある白く輝く実体)が銀だと確定されるのなら、どうして真珠母貝だと確定されることはないのだううか。疑問であるというのが二通りの意味で正しいのである。何故なら、 (1)[両者に]共通な属性をもった基体が知覚されているので、[どちらかの属性が]知覚されることもないし、[どちらかの属性が]知覚されないということもないからであり、また、(2)両者の特性が想起されているので、潜在印象を生み出す原因である類似 は両者に存在するわけであるから、それ(類似性)は両者に共通だからである780。
  だから[師シャンカラが]、何の根拠もなくと言っているのである。すなわち、こう述べることによって、「目に見える[誤認の]原因は[真珠母貝と銀の両者に]共通であっても、目に見えない[誤認の]原因[が存在する]」と述べているのである。そしてそれ(目に見えない原因)は、結果を見ることによって推論されるので、[両者に] 共通ではない。これが〔何の根拠もなくという箇所の]意味なのである。また、アートマンと非アートマンとを識別している[学者たちでさえ]とは、単に聴聞と思惟に長けているだけの学者たち、すなわち、真理をいまだ直証していない人たち等々の意味である。このことはすでに[以前に]、動物等と区別がないからであると述べた通りである781。なお[『註解』の]その他の箇所に関しては、その意味は明らかである。
  そして、知者は生きながら身体をもたないということに関して、[師シャンカラは次 のように]天啓聖典と聖伝書を引用している。そして同じ趣旨で云々と。理解は容易である。[そして最後に、師シャンカラは次のように]主題を結論づけている。従って、 ブラフマンがアートマンであると悟った人が云々と。
(´・(ェ)・`)つ

809避難民のマジレスさん:2022/12/26(月) 00:30:12 ID:QvGBnO/o0
つづき

脚注
779 本訳210-211頁参照。
780この箇所では次のような問題が論じられているとされ ている。すなわち、真珠母貝と銀との両者に共通な基体(白く輝く実体)が知覚されているときに、(1) その共通の基体のみが錯誤の原因なのか、それとも、(2)両者の類似性等の欠陥と混ざりあった共通の基 体が錯誤の原因なのか、ということがまず問題とされる。このうち、前者を否定しているのが、「白く輝く 実体が...確定されることはないのだろうか」という箇所である。一方、後者を否定しているのかが、「そう でなければ、疑問であるというのが二通りの意味で正しいのである」以下の箇所である。ここで、真珠母 貝を銀だと誤認するのは、錯誤ではなくて、疑問であるとされたのであるが、 それが、「二通りの意味で正しい」とされるのは、次の理由によるのである。すなわち、まず第一の理由 は、「錯誤の場合には、『これは銀である』という形で、銀に確定する根拠(たとえ誤ったものにせよ)が あるはずである。そしてその根拠は、『銀の属性は認められるが、真珠母員の属性は認められない」とする知覚と無知覚なのである。だが、銀と真珠母員の両者は、共通の属性 をもった基体として知覚されているのであるから、錯誤であるとは言えない。従って疑問なのである」と いうところにあるのである。さらに、もう一つの理由は、「二つの特性が想起される場合が疑問であるが、 この(真珠母員と銀の)場合には、銀であるということだけが想起されているのだから、錯誤ではないか」 という反村主張に対する答えだとされるのであるが、以下の通りである。すなわち、「生じてきた潜在印象が想起の原因である。それ(想起)を生み出す原因が類似性である。それ(類似性)は真珠母貝と銀と の両者に存在しているのだから、その類似性は[両者に]共通である」という理由によるのである。
781 本訳256頁参照。
(´・(ェ)・`)つ

810鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/26(月) 23:34:02 ID:IhRfASI.0

 昨日と同じなのじゃ。

 アートマンの知識と直証は違うというのじゃ。
 アートマンの知識だけでは身体は厭離できないのじゃ。
 しかしアートマンを直証した者は、身体を厭離して生きながら身体がない者になるのじゃ。
 身体という観念から離れるから。なのじゃ

811避難民のマジレスさん:2022/12/27(火) 03:13:27 ID:TAUgXWLM0
8.『ブラフマ・スートラ』が開始された意義  p449-450 226右/229 最終章

  [反対主張][聖典句によれば、ブラフマンについて]聞いた(聴聞した)のち、[それを]思惟、瞑想すべきことが示されているので、ブラフマンは儀軌に従属するのであって、それ自体で完結している(の)ではない。
  [答論]さきにこのように述べられていたが782、そうではない。何故なら、 思惟と瞑想は[ブラフマンを]悟るためのものだがらである。すなわち、もし、悟られたブラフマンが、それ以外のもののために用いられるのであれば、 [ブラフマンは]儀軌に従属することになろう。だがそのようなことはない。何故なら、思惟も瞑想も、聴聞とおなじように悟りのために存在しているからである。従って、「ブラフマンは、知ることを命ずる儀軌の対象なので、聖典がその典拠なのである」などということはありえないのである。それ故、「諸ウパニシャッドは、[ブラフマンを教示するという点でその趣意が]ー致しているので、ブラフマンはまさに独自に聖典を典拠としているのである」と確定した。
  そしてもしそうだとすれば、「そこで、この故に、ブラフマンの考究が[開始されるべきである]」783という形で、それ(ブラフマンの考究)を対象とする別個の聖典が開始されるのは妥当なのである。実にもし、[ブラフマンが] 知ることを命ずる儀軌に従属するとすれば、「そこで、この故に、ダルマの考究が[開始されるべきである]」784という形で、[すでに『ミーマーンサー・ スートラ』が]開始されているのであるから、[ブラフマンを対象とする]別個の聖典(『ブラフマ・スートラ』)が開始されることはないであろう。さらにもし、[儀軌に従属する形でブラフマンの考究が]開始されるとすれば、[それは]「そこで、この故に、[考察し]残されたダルマの考究が[開始されるべきである]」という形で開始されるはずである。それはちょうど、[『ミーマーンサー・スートラ』に]「そこで、この故に、供犠に役立つものと人間に役立つ ものとの考究が[開始されるべきである]」785とあるようなものである。しか しながら、ブラフマンとアートマンとの同一性は、[『ミーマーンサー・スートラ』では]論議の対象とされていない。たがら、それ(ブラフマンとアートマンとの同一性)を主題として、「そこで、この故に、ブラフマンの考究が[開始されるべきである]」という形で、聖典(『ブラフマ・スートラ』)を開始するのは妥当なのである。
  従って、儀軌すべてとその他すべての認識根拠は、「私はブラフマンである」786というこれ(悟り)をもって終わるのである。何故なら、取捨とは無縁な不二のアートマンが悟られれば、対象もなくなり、認識主体もなくなり、認識根拠は存在しえないからである。[そしてこのことが]さらに、[次のように] 説かれている。「比喩的な意味でのアートマンと誤ったアートマンが存在しなければ、息子や身体等[と自己との同一視が]否定される。従って、『私は実在ブラフマンであり、アートマンである』という覚り、すなわち、実現しなければならないことがどうして存在しえようか。探究の対象であるアートマンが認識される以前には、アートマンは認識主体なのである。[だが]探究し終われば、[それは]まさに罪や欠点等と無縁な認識主体(最高のアートマン)となろう。[日常的には]身体をアートマンだとする観念が認識根拠だと見なされているように、実にこの日常的な認識根拠は、アートマンが確知されるま では妥当するのである」787と。

脚注
782本訳381頁参照
783 784 785 786 787
(´・(ェ)・`)
(つづく)

812鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/27(火) 23:17:30 ID:S1FOI8Gw0
 反対なのじゃ。
 聖典句によればブラフマンについて]聞いたのち、思惟、瞑想すべきことが示されているからブラフマンは儀軌に従属するのであり、それ自体で完結していないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 その思惟と瞑想はブラフマンを悟るためのものだから違うというのじゃ。
 もし、悟られたブラフマンが、それ以外のもののために用いられるのであれば、 ブラフマンは儀軌に従属することになるがそのようなことはないのじゃ。
 思惟も瞑想も、聴聞とおなじように悟りのために存在しているからなのじゃ。

 「ブラフマンは、知ることを命ずる儀軌の対象なので、聖典がその典拠なのである」などということはありえないのじゃ。
 「諸ウパニシャッドは、[ブラフマンを教示するという点でその趣意が]ー致しているので、ブラフマンはまさに独自に聖典を典拠としているのである」と確定したのじゃ。

 ブラフマンとアートマンとの同一性は、『ミーマーンサー・スートラ』では論議の対象とされていないのじゃ。
 ブラフマンとアートマンとの同一性を主題として、「そこで、この故に、ブラフマンの考究が開始されるべきである」と、聖典『ブラフマ・スートラ』を開始するのは妥当なのじゃ。

 従って、儀軌すべてとその他すべての認識根拠は、「私はブラフマンである」という悟りをもって終わるのじゃ。
 取捨とは無縁な不二のアートマンが悟られれば、対象もなくなり、認識主体もなくなり、認識根拠は存在しえないからだというのじゃ。

 次のように] 説かれているのじゃ。
 
 「比喩的な意味でのアートマンと誤ったアートマンが存在しなければ、息子や身体等[と自己との同一視が]否定される。
 従って、『私は実在ブラフマンであり、アートマンである』という覚り、すなわち、実現しなければならないことがどうして存在しえようか。
 探究の対象であるアートマンが認識される以前には、アートマンは認識主体なのである。
 
 探究し終われば、まさに罪や欠点等と無縁な認識主体なろう。
 身体をアートマンだとする観念が認識根拠だと見なされているように、実にこの日常的な認識根拠は、アートマンが確知されるま では妥当するのである」

813避難民のマジレスさん:2022/12/28(水) 01:46:14 ID:.1auzAos0
(つづき) p450-451

  [反対主張]もし、個人存在がブラフマンをアートマンだと悟ることこそが、輪廻者であるという性質を滅する原因であれば、思惟等を命ずる儀軌はなんと、無意味であることになってしまうではないか。従って、諸ウパニシャッドは知ることを命ずる儀軌に従属するのである。
   [答論]このように先に述べられていたが788、[師シャンカラは次のように]そのことに再び言及し、批判してゆくのである。「[聖典句によれば、ブラフマンについて]聞いた(聴聞した)のち云々」と、先に述べられていたが云々と。思惟も瞑想も儀軌ではない。何故なら、それらの果報は一致と矛盾(anvayavyatireka)によって確立され た直証なので、それら(思惟と瞑想)は儀軌に似た聖典の言葉によって再言及されているからである。そのことを[師シャンカラが、次のように]述べている。[何故なら、 思惟と瞑想はブラフマンを]悟るためのものだからであると。悟りとはブラフマンの 直証のことであり、思惟と瞑想がそれ(悟り)のためのものであることは、肯定法と否定法(anvayavyatireka).によって確立されるからである789。これが[『註解』のこの 箇所の]趣旨である。
   [反対主張]何故、思惟等を命ずる儀軌ではないのか。
   [答論]だから[師シャンカラは、次のように]答えているのである。すなわち、もし、悟られた云々と。まず、思惟と瞑想は、新得力を対象としかつ不死性を果報とする ような主要祭ではない、ということについては先に述べた通りである790。従ってそれ らは、[穀粒を]ついたり[穀粒に]水をかけたりするのと同じで、従属祭である791という可能性が残ることになる。だがそれも正しくない。何故なら、アートマンの場合 には、それ以外のものに[これまで]用いられたこともないし、また[これから]用いられることもないからである792。というのは、ウパニシャッドに説かれている[アートマン]は、特に、祭式の執行とは対立するからである。これが[『註解』のこの箇所 の]趣旨である。[そして最後に、師シャンカラは、次のように]主題を結論づけている。従って云々と。
  このように、諸ウパニシャッドは、すでに存在するブラフマンを専ら教示しているのである。そして、[『ブラフマ・スートラ』という)聖典の教えるブラフマンはダルマとは異なり、また、主題が異なれば[それについて教える]聖典も異なるので、「そこで、この故に、ブラフマンの考究が[開始されるべきである]」というこれ(『ブラフマ・ スートラ』I.1.1)が、『ブラフマ・スートラ』という]聖典の始まりとなるのは、理にかなっているのである。だから[師シャンカラが]、そしてもしそうだとすれば云々と 述べているのである。
   [反対主張]だがもしそうでなけれぱ、[このスートラも]、ダルマの考究にすぎない ことになり、その結果別個の聖典ではないことになり、従って聖典の始まりではないことになろう。

脚注
788 本訳373頁以下参照。
789 anvayavyatirekaをここで「一致と矛盾」と「肯定法と否定法」と訳し分けたが、前者の意味、および直証が一致と矛盾の方法によって確立されるということに関しては、脚注325および本訳411頁参照。 また後者の意味および思惟と瞑想が悟りに必要不可欠である点に関しては、脚注473および島 岩,参照のこと。
790 本訳382頁以下参照。
791
792 従属祭が、祭式ですでに用いたものを浄化する祭式とこれから祭式で用いるものを浄化する祭式の二種に分かれることに関しては、脚注541参照のこと。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

814鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/28(水) 23:47:52 ID:ICV94VMw0
 反対なのじゃ。
 もし個人存在がブラフマンをアートマンだと悟ることこそが、輪廻者であるという性質を滅する原因であれば、思惟等を命ずる儀軌は無意味になるというのじゃ。
 そうであるから諸ウパニシャッドは知ることを命ずる儀軌に従属するというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 思惟も瞑想も儀軌ではないというのじゃ。
 なぜならばそれらの果報は一致と矛盾によって確立され た直証なので、それらは儀軌に似た聖典の言葉によって再言及されているからなのじゃ。
 それらは悟るためのものだからとシャンカラも言っているのじゃ。
 悟りとはブラフマンの直証のことであり、思惟と瞑想がそのためのものであることは、肯定法と否定法によって確立されているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 なぜ思惟等を命ずる儀軌ではないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 まず、思惟と瞑想は、新得力を対象としかつ不死性を果報とする ような主要祭ではないというのじゃ。
 従属祭でもないというのじゃ。
 何故ならばアートマンの場合には、それ以外のものに用いられたこともないし、また用いられることもないからだというのじゃ。
 ウパニシャッドに説かれているアートマンは、特に、祭式の執行とは対立するからなのじゃ。

 諸ウパニシャッドは、すでに存在するブラフマンを専ら教示しているのじゃ。
 『ブラフマ・スートラ』という聖典の教えるブラフマンはダルマとは異なり、また、主題が異なれば聖典も異なるのじゃ。
 それ故にブラフマンの考究が[開始されるべきである]という文が、『ブラフマ・スートラ』の始まりとなるのは、理にかなっているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 もしそうでなけれぱ、これもダルマの考究にすぎない ことになり、その結果別個の聖典ではないことになり、従って聖典の始まりではないことになるのではないかというのじゃ。

815避難民のマジレスさん:2022/12/29(木) 07:37:10 ID:orjQ3/iE0
(つづき)   p451-452
   [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して、次のように]答えているのである。[実にもし、ブラフマンが]知ることを命ずる儀軌に従属するとすれ ば云々と。ただ単にすでに存在するものであるからという理由で、ブラフマンとアートマンとの同一性がダルマとは異なるのではない。そうではなくて[ダルマと]矛盾するからなのである。このことを[師シャンカラが、次のように]結論という形で述べている。従って、[儀軌すべてとその他のすべての認識典拠は]、「私はブラフマンである」という云々と。[ここで]という(iti)という語は、知識に言及しているのである。実に諸儀軌は、ダルマを認識する根拠である。そしてそれら(諸儀軌)は、目的 (sādhya)と手段(sādhana)と方法(itikartavyatā)の区別に基づいて、ダルマを生ずる793。だが、ブラフマンとアートマンとの同一性が存在するときには、それら[の 区別]に基づくことはできない。何故なら、[ブラフマンとアートマンとの同一性は、それらの区別と]矛盾しているからである。これが[『註解』のこの箇所の]趣旨である。[ところで]このことは、ダルマの認識根拠となる聖典だけの運命ではない。そうではなくて、すべての認識根拠の[運命なの]である。だから[師シャンカラが]、その他のすべての認識根拠は云々と述べているのである。何故か。何故なら、[取捨とは 無縁な不二のアートマンが悟られれば...]ないからである。すなわち、不二なるものは、主観と客観という関係が存在しないのである。また行為者であるという性質も存在しない。何故なら、行わなければならないことが存在しないからである。また、手段という性質も同じ理由で存在しないのである。このことが、認識主体もなくなりとあるなかのもという言葉で述べられているのである。

脚注
793ここで言うダルマとは、「三つの要件をもつ志向」だとされているので、それに従えば次のように考えられる。志向には、「言葉によって表される志向」 と「結果をもたらす志向」の二種があることについてはすでに述べた 通りであるが(脚注760の箇所参照)、それぞれ三つの要件を必要とするとされる。それらは目的と手段と方法であるが、その三つの要件はそれぞれ、「何を生じさせるべきか」「何によって生じさせるべきか」「どのようにして生じさせるべきか」という問に答えるものでなければならない。まず、「言葉によって表される志向」の場合には、それらはそれぞれ、目的が三つの要件を備えた「結果をもたらす志向」で、手段が願望法等に関する知識で、方法が釈義等に述べられている祭式の効果に対する賛美であるとされる。一方、「結累をもたらす志向」の場合には、目的が天界等の果報で、手段が供犠等で、方法がその供犠に従属する従属祭であるとされる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

816鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/30(金) 00:11:24 ID:Dp94ztNg0
 答えたのじゃ。
 ただ単にすでに存在するものであるからという理由で、ブラフマンとアートマンとの同一性がダルマとは異なるのではなく、ダルマと矛盾するからなのじゃ。
 
 諸儀軌はダルマを認識する根拠であり、目的と手段と方法の区別に基づいて、ダルマを生ずるというのじゃ。
 だが、ブラフマンとアートマンとの同一性が存在するときには、それらに基づくことはできないのじゃ。
 何故なら、ブラフマンとアートマンとの同一性は、それらの区別と矛盾しているからなのじゃ。
 このことは、ダルマの認識根拠となる聖典だけの運命ではなくて、すべての認識根拠の運命なのじゃ。

 不二なるものは、主観と客観という関係が存在しないからなのじゃ。
 また行為者であるという性質も存在しないのじゃ。
 何故なら、行わなければならないことが存在しないからなのじゃ。
 
 また行為者であるという性質も存在しないのじゃ。
 何故なら、行わなければならないことが存在しないからなのじゃ。
 また、手段という性質も同じ理由で存在しないのじゃ。
 このことが、認識主体もなくなりという言葉で述べられているのじゃ。


 つまりアートマンとブラフマンを直証する手段は聖典に法として書いてあるのじゃ。
 しかしアートマンとブラフマンが直証されてしまえば、それらは全て捨て去られる運命なのじゃ。
 もはや観念がないからなのじゃ。
 主客もなくなり、行為も行為者もなくなり、無為にあるのみなのじゃ。

817避難民のマジレスさん:2022/12/30(金) 02:50:58 ID:UB9I6rQs0
(つづき)   p452-453
  まさにこの同じことに関して、[師シャンカラは次のように]、ブラフマンを知る者794の 詩句(偈)を引用している。[そしてこのことが]さらに[次のように]説かれている 云々と。息子や妻をアートマン(自己)だと思い込むのは、比喩的なものである。たとえば、自己の苦しみによって苦しみ、自己の楽しみによって楽しむように、息子等の [苦しみや楽しみによって]も[自らが苦しんだり楽しんだりするの]である。従って、これは比喩的なものなのである。だが[この場合には、息子と自己とが]同一だと思い 込んでいるわけではない。何故なら、[息子等と自己との]違いが経験によって確立しているからである。従って[これは]、「ヴァーヒカーという国の人は雄牛である」795という場合と同じで、比喩的な意味なのである。しかし、身体等をアートマンだと思い込むのは、[両者の]違いが経験されていないので、比喩的なものではない。そうではなくて、真珠母貝を銀だと認識するのと同じで、誤りなのである。このように、アートマンに関するこの二種の思い込みが、日常的な世界を支えているのである。だが、それ(この二種の思い込み)存在しなければ、日常的な世界も存在しないし、しいては、 ブラフマンとアートマンとが同一であるという開眼も存在しないのである。何故なら、 それ(開眼)の手投である聴聞・思惟等が存在しないからである。まさにこのことが、 [次のように]述べられているのである。息子や身体等[と自己との同一視]が否定されるとと。比喩的な意味でのアートマンが存在しなければ、息子や妻など[との同一 視]が否定される。すなわち、「私のもの」という意識が存在しなければ等々という意味である。誤った思い込みが存在しなければ、身体・器官等[との同一視]が否定され、聴聞等も否定される。従って、ただ単に日常的な世界が破壊されるだけではなく、 「私は実在ブラフマンであり、アートマンである」という覚りという性質をもつ、実現しなければならないこと、すなわち不二なるものを直証すること等々も、どうして存在しえようか。
  [反対主張]それは何故存在しえないのか。
  [答論]だから、探究の対象であるアートマンが認識される以前には、アートマンは 認識主体なのであると述べられているのである。[ここで]これ(認識主体であるというの)は、偶然的な特性(upaalkasana)であり、認識・認識対象・認識根拠という区別も[そのなかに含まれていると]理解すべきである。その趣旨は以下の通りである。 すなわち、これらの区別が不二なるものを直証する原因なのである。何故なら、[それは]常にそれ(不二なるものの直証)以前に存在しているからである。従って、それ (認識・認識対象等の区別)が存在しなければ、結果は生じないのである。さらに、認識主体であるアートマン以外にアートマンを探究すべきではないというので、[だが] 探究し終われば、[それは]まさに罪や欠点とは無縁な認識主体(最高のアートマン) となろうと述べられているのである。[なお]首に掛かっているネックレスの例につい ては、すでに述べたところである796。

脚注
794このブラフマンを知るものとは、スンダラ・バンディヤであるされれる。
795 雄牛のように力強いという意味。
796 本訳369頁参照。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

818鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/31(土) 00:28:30 ID:T.EvGghI0
 身体等をアートマンだと思い込むのは、両者の違いが経験されていないので、比喩的なものではないというのじゃ。
 アートマンに関するこの二種の思い込みが、日常的な世界を支えているの

 この二種の思い込み)存在しなければ、日常的な世界も存在しないし、しいては、 ブラフマンとアートマンとが同一であるという開眼も存在しないのじゃ。
 何故なら、 それ(開眼)の手投である聴聞・思惟等が存在しないからなのじゃ。

 誤った思い込みが存在しなければ、身体・器官等[との同一視]が否定され、聴聞等も否定されるのじゃ。
 ただ単に日常的な世界が破壊されるだけではなく、 「私は実在ブラフマンであり、アートマンである」という覚り、不二なるものを直証すること等々も存在しないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 なぜそれらは存在しないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 探究の対象であるアートマンが認識される以前には、アートマンは 認識主体なのであると述べられているのじゃ。
 認識主体であるというの)は、偶然的な特性であり、認識・認識対象・認識根拠という区別もそのなかに含まれていると理解すべきなのじゃ。

 これらの区別が不二なるものを直証する原因になるのじゃ。
 常にそれ以前に存在しているからなのじゃ。
 従って認識・認識対象等の区別が存在しなければ、結果は生じないのじゃ。

 さらに、認識主体であるアートマン以外にアートマンを探究すべきではないというのじゃ。
 しかし 探究し終われば、まさに罪や欠点とは無縁な認識主体となろうと述べられているのじゃ。





 アートマンの実現、直証には、認識、認識主体、認識根拠という心の働きの区別が必要だというのじゃ。
 それらを心を観察して詳しく区別したならば、アートマンの直証の原因になるのじゃ。
 そしてアートマンを直証してしまえば、もはや法もアートマンもブラフマンも世界も存在しないのじゃ。
 全てはただ一つであるからなのじゃ。
 それが不二一元なのじゃ。

819避難民のマジレスさん:2022/12/31(土) 01:37:47 ID:rk9kXnYA0
(最終回) p453-454 229/229
  [反対主張]正しい認識根拠でないものから、どうして究極的な不二なるものへの開眼が生ずるのか。
   [答論]だから、[日常的には]身体をアートマンだとする観念が認識根拠だと見なされているように、実にこの日常的な認識根拠は妥当するのであると言われているのである。そしてこの限界を、アートマンが確知されるまではと述べているのである。 すなわち、ブラフマンの本質を直証するまでは等々という意味である。その趣旨は以下の通りである。現象世界が究極な実在であると主張する人たちでも、身体等をアートマンだとする思い込みは誤りであると言うべきである。何故なら、[それは]正しい認識根拠によって否定されるからである。[だが]それ(身体等をアートマンだと思い込むこと)が、あらゆる認識根拠の原因であり、現実の日常的な世界を支えているのだと認めるべきである。そして、まさにそれ(身体等をアートマンだとする思い込み)が、われわれの場合にも、不二なるものを直証する際に、手だてとなるであろう。さらに、この不二なるものの直証も、内官の変容の一種であって、完全には究極的なものではないのである797。そうではなくて、責実の直証は、実現されるようなものではないのである。何故ならそれは、ブラフマンを本質としているからである。一方、無明は、[他の]無明を滅ぼそうと生み出そうと、その場合にはなんら理解しがたいことはない。同じ趣旨で[次のような]天啓聖典句がある。「無明と明知の両者をともに知る者は、無明によって死を超え。明知によって不死を享受する」798と。以上ですべてが 明らかとなった。

脚注
797,798
(´・(ェ)・`)
(おわり)

次回、新春より、荘子の講読会を開始します。

820鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/01(日) 00:09:05 ID:X58HOuLs0
 反対なのじゃ。
 正しい認識根拠でないものから、どうして究極的な不二なるものへの開眼が生ずるのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 現象世界が究極な実在であると主張する人たちでも、身体等をアートマンだとする思い込みは誤りであると言うべきだというのじゃ。
 何故なら正しい認識根拠によって否定されるからなのじゃ。
 しかしそれが、あらゆる認識根拠の原因であり、現実の日常的な世界を支えているのだと認めるべきなのじゃ。

 そして、まさにそれが、われわれの場合にも、不二なるものを直証する際に、手だてとなるというのじゃ。
 さらに、この不二なるものの直証も、内官の変容の一種であって、完全には究極的なものではないのじゃ。

 責実の直証は、実現されるようなものではないからなのじゃ。
 何故ならそれは、ブラフマンを本質としているからなのじゃ。

 無明は、無明を滅ぼそうと生み出そうと、その場合にはなんら理解しがたいことはないというのじゃ。
 次のような天啓聖典句があるのじゃ。
 「無明と明知の両者をともに知る者は、無明によって死を超え。明知によって不死を享受する」

 アートマンを身体と混同する無明そのものが、アートマンを直証する手段となるというのじゃ。
 仏教で言えば煩悩即菩提じゃな。
 
 無明や煩悩を知り尽くし、極めつくせば明知であるからなのじゃ。
 悟りはそこに訪れるのじゃ。
 もはや悟りきってしまえば、悟りもないのじゃ。

 悟りすらもやはりブラフマンに回帰するための手段と言えるのじゃ。
 悟りを得ることによって、無明と明知を知り尽くし、ブラフマンに回帰するのじゃ。

821避難民のマジレスさん:2023/01/01(日) 00:27:59 ID:akDRw6KA0
明けまして おめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。

荘子1.
原文、書き下し文及び註解は主に ↓ に従い、
荘子 (哲学館第10学年度漢学専修科講義録) - 国立国会図書館デジタルコレクション

段落分け、活字は ↓ に従った。
荘子内篇の素読(漢字家族)
(´・(ェ)・`)b

822避難民のマジレスさん:2023/01/01(日) 01:19:34 ID:akDRw6KA0
荘子1.
内篇
逍遙游 斉物論の序章

逍遙游第一(1) 
北 冥 有 魚 。 其 名 為 鯤 鯤 之 大 、 不 知 其 幾 千 里 也 。 化 而 為 鳥 。 其 名 為 鵬 。 鵬 之 背 、不 知 其 幾 千 里 也 。 怒 而 飛 、其 翼 若 垂 天 之 雲 。 是 鳥 也 、 海 運 則 將 徙 於 南 冥 。 南 冥 者, 天 池 也 。  

北 冥 に 魚あり、其の名を鯤(コン)と為す。鯤は大。其の幾千里なるを知られざる。化して鳥と為る。其の名を鵬(ホウ)と為す。鵬の背(そびら)は、其の幾千里なるを知られざる。怒(ド)して飛べば其の翼(つばさ)は垂天(スイテン) の雲の若(ごと)し。是(こ)の鳥や、海運すれば則将(まさ)に南冥(ナンメイ)に徙(うつ)らんとす。南冥とは天池(テンチ)なり。

注:
冥:めい、海
怒して:力を入れて、
魚は海中広く前後左右に泳ぎ回れども、上下すること能はず故に鳥に化せしめて、四方上下の六合に通達するようにしたる也。

逍遥遊第一(2)
 齊 諧 者 、志 怪 者 也 。 諧 之 言 曰 鵬 之 徙 於 南 冥 也 、 水 擊 三 千 里 、摶 扶 搖 而 上 者 九 萬 里 、 去 以 六 月 息 者 也 。 野 馬 也 塵 埃 也 、生 物 之 以 息 相 吹 也 。 天 之 蒼 蒼 、其 正 色 邪 。其 遠 而 無 所 至 極 邪 。上 視 下 也 、亦 如 是 則 已 矣 。  

齊諧(セイカイ)とは怪(カイ)を志(し)るす者なり。諧の言に曰(い)わく、「鵬の南冥に徙(うつ)るや、水擊する(水を撃(う)つ)こと三千里、扶搖(フヨウ・つむじかぜ)に摶(う)ちて上(のぼ)ること九万里、去りて六月を以て息(いこ)ふ者なりと。  野馬(ヤバ・かげろう)や塵埃(ジンアイ)や、生物の息を以て相(あ)い吹くなり。天の蒼蒼(ソウソウ)たるは其れ正色(セイショク・まことのいろ)なるか、其れ遠くして至極(シキョク)する所なければか。上の下を視(み)るや、亦(ま)た是(か)くの如(ごと)きのみ。

注:
斉諧記(せいかいき):六朝時代の文語志怪小説集。宋
 の東陽无疑 (むぎ) の著。
扶 搖:風の下より上に向きて吹くものなり
以六月息:(南海に行くまでには幾年を要するや知る
 能はざれども)六ヶ月にて一休息する
野馬也 、塵埃也 、生物之以息相吹也 :かげろうの如
 き、塵埃の如きもの、生物の息を以て相吹けるも
 の即ち風気。(この僅かなる風気に乗りて彼の大鵬
 は南海にうつりしなり)
天の蒼蒼たるは其の定りたる色なるか、将(は)た其
 の高く遠きが為に、かかる色を為せるか、必ずや
 多く重なりたるが為の色なるべし、然れば大鵬が
 上より下を見るもまた、下より上を見ると同じこ
 となるべし、誠に斯くの如く多くを積むにあらざ
 れば、大鵬を乗することは成しえざるなり、大鵬
 を乗するを見ても、天地間の高大なるを知るべし
 となり
(´・(ェ)・`)つ

823避難民のマジレスさん:2023/01/01(日) 22:38:34 ID:Dp/qMVVc0
>>270
>>>268
書籍化の進行は如何なものでしょうか?

大変お待たせしました。さしあたりオショーの講演の翻訳分を電子書籍化しました。読みやすくするために、意味を変えないようにして元記事から修正した部分があります。
また、鬼和尚のコメント入りのものは現在作成中です。

https://bccks.jp/bcck/172187

824鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/02(月) 00:01:49 ID:HVCklxms0
あけおめことよろなのじゃ。


 荘子は2300年ぐらい昔の人じゃな。
 道家の元祖の一人というのじゃ。
 実は老子の道徳経も大部分は荘子の書いたものではないかというのじゃ。
 道家の教えは荘子でほぼわかるのじゃ。

825鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/02(月) 00:04:26 ID:HVCklxms0

 北の極地にでかい魚がいるというのじゃ。
 変化してでかい鳥になるというのじゃ。
 海を飛んで天の池に行くというのじゃ。

 昔の怪奇本にも書いてあるのじゃ。

826避難民のマジレスさん:2023/01/02(月) 05:10:18 ID:eP38pctc0
荘子2.
逍遥遊第一(3)且夫水之積也不厚 、則其負大舟也無力 。覆杯
水於坳堂之上 則芥為之舟 。 置杯焉則膠。水
淺而舟大也 。風之積也不厚 則其負大翼也無
力 。 故九萬里 、則風斯在下矣 。而後乃今培
風 背負青天 、而莫之夭閼者。 而後乃今將圖
南 。 且つ夫(そ)れ水の積むや厚からざれば、則ち
其の大舟を負(おお)ふ力なし。杯水を坳堂
(オウドウ・ヨウドウ)の上に覆(くつが)えせ
ば、則ち芥(カイ•あくた)これが舟と為り、
杯を焉(ここ)に置けば則ち膠(コウ)す。水浅
くして舟大なればなり。風の積もる厚からざ
れば、則ち其の大翼を負(おお)ふ力なし。故
に九万里なれば即ち風斯(かよう)に下に在
り。而る後乃今や風に培(の•つちかひ)り、
背に青天を負ふて、これを夭閼(ヨウアツ・さ
えぎる)する者なし。而る後乃今や将に南する
を図らんとす。

注:
坳堂(オウドウ・ヨウドウ):凹みある所なり
膠:ぴたりと付くこと
風:気を指す
培風:風を揺すること
夭閼(ヨウアツ・さえぎる): 夭は折、閼は
 止、又は塞ぐ
*以上により、鵬の大を説き、鵬に因りて宇  
 宙の大なるを説く

逍遥遊第一(4)蜩 與 學 鳩 笑 之 曰 、 我 決 起 而 飛 搶 楡
枋 、時 則 不 至 而 控 於 地 而 已 矣 。奚 以
之 九 萬 里 而 南 為 。適 莽 蒼 者 、三 餐 而
反 腹 猶 果 然 。適 百 里 者 、宿 舂 糧 。適 千
里 者、三 月 聚 糧 。 之 二 虫 又 何 知 。小 知
不 及 大 知 、小 年 不 及 大 年 。  蜩(チョウ・ひぐらし)学鳩(ガクキュ
ウ・こばと)とこれを笑いて曰(い)わく、
「我れ決起(ケッキ)して飛べば、楡枋(ユ
ボウ)を搶(つ)く、時には則ち至らずして
地に控(なげう)つのみ。奚(なに)を以て
九万里にして南するを以て為さんと。莽蒼
(モウソウ)に適(ゆ)く者は三餐(サンサ
ン)にして反(かえ)れば、腹なお果然(カ
ゼン・ふくれ)たり。百里に適(ゆ)く者は
宿(シュク)に糧(かて)を舂(うすづ)
き、千里に適(ゆ)く者は三月(みつき)糧
(かて)を聚(あつ)む。之(こ)の二虫は
また何をか知らんや。小知は大知に及ばず、
小年は大年に及ばず。

注:
蜩(チョウ):小蟬(ひぐらし)
学鳩(ガクキュウ):小鳩
搶(つ)く:突く、つきすすむ
楡:にれ、檀:まゆみ 小木、低木
莽蒼(モウソウ): 莽(くさ)の蒼みたる近
 き野原(に行く者)
三餐:三度の食事
果然:腹満つる
宿に:前日に
㫪(うすづ)く:糧の用意をする
ニ虫: 蜩と学鳩
(´・(ェ)・`)つ

827避難民のマジレスさん:2023/01/02(月) 05:13:03 ID:eP38pctc0
>>823
有難うであります。
続編もあるのでありますか?
(´・(ェ)・`)b

828避難民のマジレスさん:2023/01/02(月) 21:23:11 ID:Dp/qMVVc0
>>827
今回のはオショーの講話のみですが、今、鬼和尚の解説が講話の間に入っているものを作っています。Sadhana pathはこれまで日本語訳がなかったようですので、それだけを読みたい人もいるかと思い、先に発行しました。

829鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/02(月) 23:57:56 ID:mCQRrvfA0

 水か少なければ船も浮かばないというのじゃ。
 杯の水を机にたらせば塵は船に見えるが杯を置けば固まるのじゃ。
 水が小さくて船が大きいからなのじゃ。

 空気が多くなければ大きい鳥も飛べないのじゃ。
 九万里もはばたいてやっと飛べるのじゃ。
 そしてやっと南に向かえるのじゃ。

830避難民のマジレスさん:2023/01/03(火) 02:23:01 ID:4TRupBI60
荘子3.
逍遥遊第一(5)奚 以 知 其 然 也 。 朝 菌 不 知 晦 朔 、蟪 蛄
不 知 春 秋 。此 小 年 也 。 楚 之 南 有 冥 靈
者 。 以 五 百 歳 為 春 、 五 百 歳 為 秋 。上
古 有 大 椿 者 。 以 八 千 歳 為 春 、八 千 歳
為 秋 。 而 彭 祖 乃 今 以 久 特 聞 、衆 人 匹
之、 不 亦 悲 乎 。
奚(なに)を以て其の然(しか)るを知る
や。朝菌(チョウキン)は晦朔(カイサク)
を知らず、蟪蛄(ケイコ)は春秋を知らず。此
れ小年なり。楚(ソ)の南に、冥霊(メイレ
イ)なる者あり、五百歳を以て春と為し、五
百を秋となす。上古に大椿(タイチン)なる
者あり、八千歳を以て春と為し、八千歳を秋
と為す。而るに彭祖(ホウソ)は乃(すな
わ)ち今、久(ひさし•いのちなが)きを以て
特(ひと)り聞こえ、衆人これに匹(ひつ)
せんとす、亦(ま)た悲しからずや。

注:
朝菌(チョウキン):夜生じて、朝枯るる菌
晦朔(カイサク): みそかと、ついたち。一
 か月間。朝と晩。一日間。
蟪蛄(稽古)ツクツクボウシをいう。夏だけ生
 存して春や秋を知らないところから、短命
 のたとえとする。
冥霊(メイレイ):木の名。葉の出を春とな
 し、葉の落つるを秋となす。二千歳を以て
 一年となす。
大椿(タイチン):木の名。三万二千歳を以て
 一年となす。
彭祖(ホウソ): 神話の中で長寿の仙人であ
 り、八百歳の寿命を保ったことで有名

逍遥遊第一(6)湯 之 問 棘 也 是 已 。 窮 髮 之 北 有 冥 者 、
天 池 也 。 有 魚 焉 、其 廣 數 千 里。未 有 知
其 脩 者 。 其 名 為 鯤 。 有 鳥 焉 、其 名 為
鵬 。背 若 泰 山 、 翼 若 垂 天 之 雲 。摶 扶
搖 羊 角 而 上 者 九 萬 里 、絶 雲 氣 、負 青
天 、然 後圖 南 。 且 適 南 冥 也 。 斥 鷃 笑
之 曰 。彼 且 奚 適 也 。 我 騰 躍 而 上 、不
過 數 仞 。而 下 翱 翔 蓬 蒿 之 間 。此 亦 飛
之 至 也 。而 彼 且 奚 適 也 。 此 小 大 之 辯
也 。  湯(トウ)の棘(キョク)に問ふや、是
(こ)れのみ。窮髮(キュウハツ)の北に冥 
海(メイカイ)あり。天池(テンチ)なり。
魚あり、その広さ数千里。未(いま)だ其の
脩(なが)さを知る者あらず。其の名を鯤
(コン)と為す。鳥あり、其の名を鵬(ホ
ウ)と為す。背(せ)は泰山(タイザン)の
若(ごと)く、翼は垂天(スイテン)の雲の
若し。扶搖(フヨウ・つむじかぜ)に摶
(う)ち羊角(ヨウカク)して上ること九万
里、雲気(ウンキ)を絶ち、青天を負いて然
る後に南するを図(はか)る、且(まさ)に
南冥(ナンメイ)に適(ゆ)かんとするな
り。 斥鷃(セキアン•うずら)これを笑いて
曰わく、彼且(まさ)に奚(いず)くに適
(ゆ)かんとするや。我れ騰躍(トウヤク)
して上るも数仞(スウジン)に過ぎずして下
(お)ち、蓬蒿(ホウコウ•よもぎ)の間に
翱翔(コウショウ)す。此(こ)れ亦
(ま)た飛ぶの至りなり。而るを彼且(ま
さ)に奚(いず)くに適(ゆ)かんとするや
と。此(こ)れ小大の辯(ベン・ちがい)な
り。
注:
これらの話は大に過ぎて、偽りと思うものあ
 るべし、されども、このことは、斉諧にも
 記してあり、又、古昔、湯王が棘に問いし
 ことも是と同じである。
棘(キョク): 湯(トウ)の時の賢人
湯王:中国古代の 殷 いん 王朝の創始者。
窮髮(キュウハツ): 窮は猶ほ無の如し、髪
は猶ほ毛の如し。毛は草也、故に藭髪は不毛
の謂いなり。
羊角:旋風、つむじ風のこと。羊の角のように
 風が曲がって吹くこと。巻曲(けんきよく):
 まがりくねる。
騰躍(トウヤク):躍り上がる
仭(じん):7尺≒175cm
蓬 蒿 (ほうこう):よもぎ。1m前後の多年草
翱翔(コウショウ):翔(か)け廻る
至:至極 この上なしと思うこと
小 大 之 辯 :大きな者と小さな者の見解の違い
(´・(ェ)・`)つ

831鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/04(水) 00:04:15 ID:PUhIq.bY0

 どのようにしてそんなことを知ることができるのかというのじゃ。
 朝に生えるきのこは夕べにはしおれ、小さい虫は一年も生きていないのじゃ。
 寿命がすくないからなのじゃ。
 
 楚国の南に冥霊という者がいて、五百年で成長し、五百年で衰えたのじゃ。
 昔には大椿というものがいて、八百年で成長し八百年で衰えたのじゃ。
 
 今は彭祖という者が八百歳の長寿でみんなそのようになりたいとか思っているのじゃ。
 悲しいものじゃ。

832避難民のマジレスさん:2023/01/04(水) 00:40:45 ID:B4tcI.nA0
荘子4.
逍遥遊第一(7)故 夫 知 效 一 官 、 行 比 一 鄕 、德 合 一 君
而 徴 一 國 者 、其 自 視 也 、亦 若 此 矣 。
而 宋 榮 子 猶 然 笑 之 。 且 舉 世 而 譽 之 而
不 加 勸 、舉 世 而 非 之 而 不 加 沮 、定 乎
内 外 之 分 、辯 乎 榮 辱 之 境 。斯 已 矣 。
彼 其 於 世 未 數 數 然 也 。 雖 然 猶 有 未 樹
也 。 夫 列 子 御 風 而 行 、冷 然 善 也 。旬
有 五 日 而 後 反 。 彼 於 致 福 者 未 數 數 然
也 。 此 雖 免 乎 行 猶 有 所 待 者 也 。若 夫
乘 天 地 之 正 、 而 御 六 氣 之 辯 、以 游 無
窮 者 、彼 且 惡 乎 待 哉 。故 曰 至 人 無
己 、神 人 無 功 、聖 人 無 名 。
故に夫(か)の知は一官に効あり、行いは一
郷を比(した)しませ、徳は一君に合(がっ)
し 而(のう)は一国に徴(しるし)ある者
は、其の自(みずか)ら視るや、また此
(か)くの若(ごと)し。而(しかるに)宋
の栄子(エイシ)は猶然(ユウゼン)として
之(人中の最小なる者)を笑う。 且つ世を挙
(こぞ)りて、これを誉(ほ)むれども勤
(つとむ•はげみ)を加(くわへ)ず、世を挙
(こぞ)りてこれを非(そし)れども沮(は
ばむ•くじけ)を加(くわへ)ず、内外の分を
定め、栄辱の境(キョウ)を弁(つまびらか
に)す。斯(こ)れのみ。彼れ其の世に於
(お)けるや未だ数数然(サクサクゼン)た
らざるなり。然りと雖(いえど)も猶(な)
お未だ樹(た)たざるものあるなり。夫
(そ)の列子(レッシ)は風に御(ギョ)し
て行く、冷然(レイゼン)として善(よ)き
也。旬有五(ジュンユウゴ)日にして後(の
ち)に反(かえ)る。彼れ福を致す者に於いて
未だ数数然たらざるなり。此れ行(ある)くこ
とを免(まぬか)ると雖も、猶お恃(たの)む所
あるなり。若(も)し夫(そ)れ天地の正に乗じ
て六気の弁に御し、以て無窮に遊ぶ者は、彼
且(まさに)悪(いずく)にか恃(たの)まんとす
るや。故に曰わく、至人(シジン)は己(おの)
れなく、神人(シンジン)は功なく、聖人(セ
イジン)は名なしと。

注:
比:親しむ
徴:証、成功あること
而(のう):能、才能
其 自 視 也 、亦 若 此 矣(其の自(みずか)ら
 視るや、また此(か)くの若(ごと)
 し。) :その知識は一つの官職に功績あるに
 足るのみの者、その為すところは一地方の
 人々と親しむに足るのみの者、その道徳と
 する所は一君の心に合するに足るのみにし
 て、充分その道を行い得ると雖も、只一国
 に功績あるのみなる知行徳共に僅少なる者
 も、其の自ら其の身をみれば、うずらがよ
 もぎの間を飛び回ることこそが、至高の飛
 ぶと言うことだと思い、却って大鵬が天外
 に飛ぶのを笑う如く、己を越えたる者あれ
 ば、即ち之を笑うなり、蓋し是等は人中の
 最小なる者なり。
榮 子 猶 然 笑 之: 栄子は猶然として之(=人中
 の最小なる者)を笑う
彼 其 於 世 :彼、世に立つや、(僅少のことに
 心煩わすことなどない)
数数然(さくさくぜん):常に間事に心を労し、
 終日心に暇なきをいう。
樹つ(たつ):独立して他に依頼せざる心をいう
列子:戦国時代の諸子百家の一人列禦寇(れつ
 ぎょこう)
御風:風に乗って
冷然:軽妙なり
旬:十日なり
致福:我身に幸福を致すをいふ
免乎行(行(ある)くことを免(まぬか)る:風に
 乗りて行くを以て、歩くことは免れるなり
猶有所恃者也(恃(たの)む所あるなり):(歩く
 ことは免れても)風を恃(また)ざれば、行く
 こと能わざるなり
天地の正に乗じ:天地:万物、正:正気、自然の
 気。其性に随い、強いて之を求めざるなり
六 氣 之 辯:左傳(春秋左氏伝)に陰・陽・風・
 雨・晦 ・明を六気と称しあり。辯は変と音
 通、即ち万物の変化を謂ひ、上句の正気に
 対す。
無窮: 南溟(なんめい)はるか南方にひろがる
 海に対して言う

*若し夫れ真誠の逍遙游は物を須(また)ず、
至る所界限なく、其の世に存在するとも、年
歳日月を以て限る能わずとなり、上文鯤鵬の
逍遙游にあらざるは此に至りて益々明らかな
らん、至人(しじん)には己なし、己なきが故
に、万物に逢いひて直に其の物に順ひ得るな
り。神人は万物の成滅を以て至理と一となす
、故に功なし、聖人とは万物其性を得るの名
なりとす、故に物を成敗し、事を救溺する皆
自然となす、是れ聖人名なりき所以なり、此
の末段稍(やや)齋物論の意を顕せり。
(´・(ェ)・`)つ

833鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/05(木) 00:12:35 ID:QZnwmUrw0

 儒教の批判じゃな。
 儒教では知とか行とか徳とか能を尊ぶのじゃ。
 そんなものは卑小なものだというのじゃ。
 儒教の知とは役人の小賢しい保身に役立つだけというのじゃ。
 儒教の行とは地方の人々と親しくなるだけというのじゃ。
 徳とは一人の君主の心に合致するだけというのじゃ。
 能は一つの国で重宝とされるだけというのじゃ。
 そんな者たちはうずらがよもぎの間を飛びまわって、大きな鳥を笑うようなものじゃ。 
 人の中でも器の小さいものなのじゃ。
 
 そんなものより宋国の栄子というものは、そんな者を悠然として笑うのじゃ。
 そのようなものたちは俗事に塗れて終日ひまがないものじゃ。
 
 列子は風に乗って風に乗って歩かなくて済む仙人だったのじゃ。
 しかしそのような者でさえ風がなければどこにもいけないのじゃ。
 
 天地の正気に乗る者はその本性に従い、なにも要らないのじゃ。
 自然の陰陽等の六気を制御して極めつくしているからなのじゃ。

 悟りに至った至人は無我であり、神の人、神人は何もしない無為であり、聖人は名声を求めないのじゃ。

834避難民のマジレスさん:2023/01/05(木) 00:34:08 ID:U7vFdjbk0
荘子5.
逍遥遊第一(8)
堯 讓 天 下 於 許 由 曰 。日 月 出 矣 而 爝 火
不 息 、其 於 光 也 不 亦 難 乎 。時 雨 降 矣而
猶 浸 灌、其 於 澤 也 不 亦 勞 乎 。夫 子 立 而
天 下 治 。而 我 猶 尸 之、吾 自 視 缺 然 。請
致 天 下 。許 由 曰 。子 治 天 下 、天 下 既 已
治 也 。而 我 猶 代 子、吾 將 為 名 乎 。名 者
實 之 賓 也 、吾 將 為 賓 乎 。鷦 鷯 巣 於 深
林 、不 過 一 枝、偃 鼠 飲 河 、不 過 滿 腹 。
歸 休 乎 君 、 予 無 所 用 天 下 為 。庖 人 雖
不 治 庖 、 尸 祝 不 越 樽 俎 而 代 之 矣 。
 
堯(ギョウ)、天下を許由(キョユウ)に譲(ゆ
ず)りて曰わく、日月出(い)で ぬ 而、爝火
(シャクカ)息(や)まざれば、其の光に於ける
や亦た難(かた)からずや。 時雨(ジウ)の降(
ふ)りぬ而、猶(な)お浸灌(シンカン)せば、
其の沢(うるおい)に於けるや亦た労(いたず
き)ならずや。夫子(フウシ)立たば而、天下治
まらん。而我れ猶おこれを尸(つかさど)ら
ば、吾れ自ら視るに欠然(ケツゼン)たり。
請(こ)う天下を致さんと。 許由曰わく、
子、天下を治めて、天下既已(すで)に治ま
る。而(しかるに)我れ猶お子に代らば、吾れ
将に名の為にせんとするか。名は実(じつ)
の賓(ヒン)なり。吾れは将に実の為にせん
とするか。鷦鷯(ショウリョウ・みそさざ
い)は森林に巣くうも一枝(イッシ)に過ぎ
ず。偃鼠(エンソ・むぐらもち)は河に飲(み
ずの)むも腹を満たすに過ぎず。休(いこえ)
君(きみ)に帰せん。予(わ)れは天下を用
(もちい)て為(な)す所なし。包人(ホウ
ジン)、包を治めずと雖も、尸祝(シシュ
ク)は樽俎(ソンソ)を越(うば)いてこれ
に代わらず。

注:
堯(ぎょう):神話上の君主
天下:天子の位
許由:伝説上の隠士(いんし)
日月:許由に喩う
爝火(しゃくか):僅少の火 燈火の如き小火は 
 夜中は物を照らして明らかなりと雖も、日
 月出る時は其の光薄らぐものなり、然る
 に、日月出たる後尚其の光を日月と争はし
 めんとするは甚だ難事にあらずや
時雨: 許由に喩う
浸灌(シンカン):田に水をそそぐこと
労(いたずき):ほねおり、苦労
夫子:許由を指す
尸:(つかさど)る、その位にある、
欠然(けつぜん): 自ら省みて及ばざる所あるを
 いう。
賓(ヒン):そえもの
鷦鷯(ショウリョウ):みそさざい、小鳥
偃鼠(エンソ):むぐらもち、田に居る鼠
包人(ホウジン):厨(くりや、厨房)を掌る人
尸祝(シシュク): 神主、尸は神を祭る時に
 当て、その代わりになる人、祝は、神人の
 間に立ちて双方の意を紹介する人
樽俎(ソンソ):祭祀の器物
越:うばうの意、他人の職分、権限を犯すこ
 と。越権行為。
*此の一段は至人無為を引証す。

逍遥遊第一(9)
肩 吾 問 於 連 叔 曰 。吾 聞 言 於 接 輿 。大
而 無 當 、往 而 不 返 。 吾 驚 怖 其 言 猶 河
漢 而 無 極 也 。大 有 徑 庭 、不 近 人 情
焉 。

肩吾(ケンゴ)、連叔(レンシュク)に問ふ
て曰わく、吾れ言(ゲン)を接輿(セツヨ)
に聞けり。大にして当たるなく往(ゆ)きて
反(かえ)らず、吾れ其の言の猶(な)お河漢
のごとくにして極まりなきに驚怖せり。大い
に徑庭ありて人情に近からずと。

注:
肩吾(ケンゴ)、連叔(レンシュク):古の賢人
接輿(セツヨ):楚人、躬(みずか)ら耕す。王之
 を召せども応ぜざりしという人也。
無当:言語宏大にして徴証なきをいう。
河漢: 黄河と漢水
大:甚だ
徑庭(けいてい):小道と広場、遠隔
(´・(ェ)・`)つ

835鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/05(木) 23:06:18 ID:itNjT.X60

 昔ギョウという者が天下をとって、天下を許由にゆずろうとしたのじゃ。
 しかし許由は天下などいらないといって受けなかったのじゃ。

 ケンゴという者が連叔(レンシュク)に聞いたのじゃ。
 セツヨというものにものを聞いたらわけがわからないことを言ったというのじゃ。
 まるで大河のようであり、世間の話とはまるで違うのじゃ。

836避難民のマジレスさん:2023/01/05(木) 23:12:44 ID:VEckXysQ0
荘子6. 
荘子:逍遥遊第一(10)
連 叔 曰 其 言 謂 何 哉 。曰 藐 姑 射 之 山 有
神 人 居 焉 。 肌 膚 若 冰 雪 、 綽 約 若 處
子 。不 食 五 穀 。 吹 風 飲 露 。乘 雲 氣 御
飛 龍 而 游 乎 四 海 之 外 。其 神 凝 使 物 不
疵 癘 而 年 穀 熟 。 吾 以 是 狂 而 不 信 也 。

連叔曰わく、其の言は何と謂(い)ひしか
と。曰わく、藐(はる)かなる姑射(コヤ)
の山に神人 (シンジン)のありて居る。肌膚
(キフ)は冰雪(ヒョウセツ)のごとく、綽
約(シャクヤク)たること処子(ショシ)の
若(ごと)し。五穀を食(くら)わ ず、風を
吹 き 露を飲み、雲気に乗じ、飛龍に 御(ギ
ョ)し、而(しこう)して四海の外に遊ぶ。
其の神(シン)凝(こ)れば、物をして疵 癘
(しれい)せず、(疵(きず)つけ癘 (や)ま
しめず)、年穀(ネンコク)をぞ熟せしむ。
と。吾れ是れを以て狂として信ぜざるなり
と。

注:
藐(はるか): 遠なり、遠くはなれたさま。
姑射(コヤ):北海中にある山、不老不死の仙
 人が住んでいるという想像上の山。
 藐姑射之山(ハコヤのやま):日本語>上皇を  
  祝って上皇の御所をいふ。長寿の仙人に
  たとえていう。仙洞(セントウ)御所とも。
肌膚(きふ): 皮膚
綽約(シャクヤク):弱々しいさま。しなやか
 なさま。 女性のたおやかで美しいさま。
処子:未婚の女性。 おとめ。 処女。
吹 風 (風を吹き←テキストに吹風とあり、吹
 キとある。):(熟語としては、吸 風 飲 露(き
 ゅうふういんろ):仙人などの清浄な暮らし
 のこと。五穀を食べずに、風を吸い露を飲
 んで生活する意から。
 五穀(ゴコク):五種の穀物。稲(米)・黍(シ
  ョ・もちきび)・稷(ショク・こうりゃん)・
  麦・菽(シュク豆)のこと。一説に、麻・
  黍・稷・麦・豆とも。穀物類の総称。
  日本語>米・麦・黍(きび)・粟(あわ)・豆。
其 神 凝 (其のしん凝れば):精神を凝集すれば
疵厲(シレイ):災害。わざわい。やまい。病
 気。
(´・(ェ)・`)つ

837避難民のマジレスさん:2023/01/06(金) 20:16:43 ID:Olzm/byY0
>>823
270です。あけおめことよろ。いつもありがとうございます。

南無ステ南無ステ(ー人ー)感謝!

838鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/06(金) 23:28:25 ID:X67rR5xk0

 連叔は何と言ったのか聞いたのじゃ。
 遠くの姑射の山に神人がいて肌は白くものごしはやわらかく
 五穀を食べず風を吹かせ霧を飲み雲に乗り飛竜にのって四海の外まで遊ぶのじゃ。
 精神を集中すれば病を治し穀物を成長させるのじゃ。
 こんな人がいるなとどは、狂っているとしか思えないというのじゃ。

839避難民のマジレスさん:2023/01/07(土) 07:18:08 ID:N1Nhmr4k0
荘子7.
逍遥遊第一(11)
連 叔 曰 然 。瞽 者 無 以 與 乎 文 章 之 觀 、
聾 者 無 以 與 乎 鐘 鼓 之 聲 。 豈 唯 形 骸 有
聾 盲 哉 。夫 知 亦 有 之 。 是 其 言 也 猶 時
女 也 。 之 人 也 、之 德 也 、 將 旁 礴 萬 物
以 為 一 。世 蘄 乎 亂 孰 弊 弊 焉 以 天 下 為
事 。 之 人 也 物 莫 之 傷 。 大 浸 稽 天 而 不
溺 、 大 旱 金 石 流、 土 山 焦 而 不 熱 。 是
其 塵 垢 秕 糠 將 猶 陶 鑄 堯 舜 者 也 。孰 肯
以 物 為 事 。

連叔曰わく、然り。瞽者(コシャ)は以て文
章の観に与(あずか)ることなく、聾者(ロウ
シャ)は以て鐘鼓(ショウコ)の声(こえ)に与
かることなし。豈(あ)に唯(た)だ形骸にのみ
聾盲(ロウモウ)あらんや。夫(そ)の知にも亦
(ま)たこれありと。是れその言や猶お時女の
ごとくなり。之(こ)の人や、之の徳や、将
(まさ)に万物を旁礴(ほうはく)して以て一と
為(な)さんとす。世(よ)乱(おさ)めんことを
蘄(もと)むるも、孰(たれ)か弊弊焉(ヘイヘ
イエン)として天下を以て事と為(な)さん
や。之(こ)の人や、物(なにもの)も之(これ)
を傷つくることなし。大浸(タイシン・おおみ
ず)の天に稽(とどく)るとも溺れず、大旱(タ
イカン・おおひでり)して金石流れ土山焦(こ
が)げるとも、熱せず。是(こ)れ其の塵垢秕
糠(ジンコウヒコウ・ふけあかくいかす)も、
将に猶お堯舜(ギョウ・シュン)を陶鋳(トウチ
ュウ)せんとする者なり。孰(たれ)か肯(あ)
えて物を以て事と為さんや。

注:
然:接輿の言は然るか。然りと雖も汝之を会得
 し得ざるは、至言の極妙を知らざればなり
瞽者(コシャ):盲者
文章:采色模様、あやいろどり、風采と顔色
観:観月、観梅の如く文彩(あやいろどり)あ
 るものを見て之を娯しむなり。
瞽者は文采粲然足るを観て娯しむことを得 
 ず、聾者は鐘鼓鏗鏘たるを聴きで楽しむこ
 とを得ざるなり
文采粲然:文才が発揮され、美しく見事である
鐘鼓鏗鏘(しょうここうしょう): 楽器の美し 
 いひびきのさま
形骸:聾瞽を受けていふ。その形骸上耳目が人
 に異なるのみにあらず。形骸(からだ)の能
 力だけに限ったことではない。
時女:猶ほ処女の如し、処女は虚静柔順(先入
 観なく、素直)にして、喧噪ならず。時女は
 異説多し。→自ら至理自然を判定弁別する
 を得ざる者は又此の智識上の楽しみを得る
 こと能わざるなり、汝が接輿の言を以て狂
 となし、痴となすも此が為のみ、接輿の言
 は恰も処女の恬淡柔順にして、功名を争う
 の念起さざるが如しと
恬淡(てんたん):あっさりとしていて、名誉・
 利益などに執着しないさま。
旁礴(ほうはく):混同、充塞なり、万物の長
 短高低貴賤等を混同するの謂なり
蘄(もと)むる:求る
亂•乱:治むと読む
弊弊焉(ヘイヘイエン)として:齷齪(あくせく)
 として、
莫 之 傷(これを傷つくることなし)
塵 垢 秕 糠(ジンコウヒコウ・ふけあかくいか
 す):些末なものを謂ふ
陶鋳(トウチュウ):陶治、鋳造
此の神人は絶対的の大徳ある者なれば堯舜く
 らいの徳は垢 秕 の如き些末のところにて為 
 し得らるるなり  
*此の一段は、神人無効を引証す  
(´・(ェ)・`)つ

840鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/07(土) 23:32:02 ID:c7DDMUiw0

 連叔は接輿は正しいといったのじゃ。
 目が見えなければ文の美がわからず、耳が聞こう無ければ音楽はわからないように知恵も足りなければ真実がわからないのじゃ。
 
 この神人はその徳が万物を全て包含して一とするものじゃ。
 天下が乱れても苦労しておさめることもないのじゃ。
 
 このような神人はなにものも傷つけることはできないのじゃ。
 水害にもおぼれず、日照りにも熱くなることもないのじゃ。
 
 その体のあかから昔の聖人のぎょうとしゅんを作り出すほどじゃ。
 世俗のことに勤めることも無いのじゃ。

841避難民のマジレスさん:2023/01/08(日) 04:47:31 ID:fNDcKFYY0
荘子8.
逍遥遊第一(12)
宋 人 資 章 甫 而 適 諸 越 。越 人 斷 髮 文
身 。無 所 用 之 。 堯 治 天 下 之 民 、平 海
内 之 政 、往 見 四 子 藐 姑 射 之 山 。汾 水
之 陽 、窅 然 喪 其 天 下 焉 。

宋人(ソウひと)、章甫(ショウホ)を資し
て諸越(ショエツ)に適(ゆ)く。越人(エ
ツひと)は髪を断て身を文く。これを用うる
所なし。堯(ギョウ)は天下の民を治め、海
内(カイダイ)の政(セイ・まつりごと)を
平 に し、往きて四子に藐(はる)かなる姑射
(コヤ)の山に見る 。汾水(フンスイ)の陽
(きた)にて窅 然(ヨウゼン)として其の天
下を喪 ふ。

注:
章甫(しょうほ) :緇布(しえ)(=くろぎぬ)
 の冠で、中国殷(いん)代のもの。孔子がか
 ぶったので、儒者が多く用いた。
資:資本の資にて蓄えの意。
諸越:諸字は越は部落多きを以ていふ
四 子:誰なりや判然せず、或は云ふ、許由、
 齧缺(げきけつ)、王倪(おうげい)、被衣(蒲
 衣子)の四人なりと。
汾 水: 黄河の2番目に大きな支流。堯の都は
 此の近傍にあり、陽は山は南を陽といひ、
 川は北を陽といふ。
窅然(ヨウゼン):茫然として忘れたる心をいふ
 窅:目が窪んでいる様子を意味する。遠くを
眺めるという意味もある。
喪:四子と談話して、其の志を大にし、遂に
 役々として天下を治むるが如き心を喪ひた 
 るなり。役々:苦心して努める様
*此の一段は至人己無しを引証す
(´・(ェ)・`)つ

842鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/08(日) 22:55:32 ID:c28Ln87k0

 宋国の人が冠を仕入れて越国にうりにいったが、越人は髪を切る風俗でそんなものは買わなかったのじゃ。
 堯は天下を取ってから仙人の住む山に行って四人の仙人に会って話しをしたのし゛ゃ。
 川の北あたりにきところで天下を忘れてしまったのじゃ。

 神人に会えば万人が望む天下も世俗のこととして、忘れてしまうということじゃな。

843避難民のマジレスさん:2023/01/09(月) 05:38:34 ID:G4ovvSpQ0
荘子9.
逍遥遊第一(13)
惠 子 謂 莊 子 曰 。 魏 王 貽 我 大 瓠 之 種 。
我 樹 之 成 、而 實 五 石 。 以 盛 水 漿 、 其
堅 不 能 自 舉 也 。 剖 之 以 為 瓢 、 則 瓠 落
無 所 容 。 非 不 呺 然 大 也 。 吾 為 其 無 用
而 掊 之 。

莊 子 曰 。 夫 子 固 拙 於 用 大 矣 。 宋 人 有
善 為 不 龜 手 之 藥 者 。 世 世 以 洴 澼 絖 為
事 。 客 聞 之 、 請 買 其 方 百 金 、聚 族 而
謀 曰 。我 世 世 為 洴 澼 絖 不 過 數 金 。 今
一 朝 而 鬻 技 百 金 請 與 之 。 客 得 之 以 說
吳 王 。 越 有 難 、吳 王 使 之 將 。 冬 與 越
人 水 戰 大 敗 越 人 。裂 地 而 封 之 。 能 不
龜 手 一 也 。 或 以 封 、 或 不 免 於 洴 澼
絖 、則 所 用 之 異 也。 今 子 有 五 石 之
瓠 、何 不 慮 以 為 大 樽 而 浮 乎 江 湖 、而
憂 其 瓠 落 無 所 容 。則 夫 子 猶 有 蓬 之 心
也 夫 。

恵子(ケイシ)、荘子に謂(い)ふて曰わ
く、魏王(ギオウ)、我れに大瓠(ダイコ)
の種 を貽(おく)れり。我れこれを樹(う
え)て成る、而して実(みみのる)五 石(ゴコ
ク)なり。以て水漿(スイショウ)を盛れ
ば、其の堅(おも)くして自ら挙(あ)ぐる
能(あた)わず。これを剖(さ)きて以て瓢
(ひしゃく)と為せば、則ち瓠落(カクラ
ク)として容(い)る る 所 な し。呺然(キ
ョウゼン)として大 ならざるに非ざる。吾れ
其の無用なるが為(た)めに掊(うつ)と。

荘子曰わく、夫子(フウシ)は固(もと)よ
り大(ダイ)を用ふるに拙(つたな)し。宋
人(ソウひと)に善(よ)く不亀手(フキン
シュ)の薬を為す者あり、世世(よよ)絖(ぬ
め•わた)を洴澼(さら)するを以て事(こと)
と為す。客これを聞き、其の方 を百金にて買
わんことを請(こ)う。族を聚(あつ)めて謀
(はか)りて曰わく、我れ世世に絖(ぬめ)
を洴澼(さら)すことを為するも、数金に過
ぎず。今一朝にして技(わざ)を百金に鬻(ひ
さ)かば 請(こ)うこれを与 えんと。客これを
得て、以て呉王に説けり。越(エツ)に難あ
り、呉王これをぞ将たらしむ。冬、越人(エ
ツひと)と水戦して、大いに越人を敗(やぶ)
る。地を裂(さ)きてこれに封(ホウ)ず。不
亀手を能(よ)くするは一なるに、或(ある)い
は以て封ぜられ、或いは絖(ぬめ)を洴澼
(さら)すより免(まぬか)れざるは、則ち
用ふる所の異なるなり。今、子に五石(ゴコ
ク)の瓢(ふくべ)あらば、何ぞ以て大樽と
為(な)して江湖に浮か ぶ を 慮(おもわ)ずし
て、其の瓠落(カクラク)と ぞ 容(い)るる
所なきを憂(うれ)うるや。則ち夫 子 は 猶
(な)お蓬(ホウ・とらわれたる)の 心 あ る
か な と。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

844避難民のマジレスさん:2023/01/09(月) 05:39:11 ID:G4ovvSpQ0
注:
恵子(けいし、:惠子•恵 施)(紀元前370年頃
 - 紀元前310年頃)、古代戦国時代の政治
 家・思想家。宋の出身。魏の宰相。諸子百
 家の名家の筆頭。
大瓠(ダイコ): 瓠・瓢(ふくべ)夕顔の一変
 種。果実は干してかんぴょうとして食用。
 また果肉をとり去って加工し、炭入れや花
 器などを作り、これも「ふくべ」と言う。
 瓢はひさごにあらず、柄杓の如き物なり。
 瓠を割りて柄杓の如き物を作りしに、本と
 甚だ大なりしが故に、平にして浅く、水を
 要るべき凹みなくなりしなり。
瓠落(カクラク):其の形平く且つ浅く、物を
 要るること能わざるを形容したるなり。
五石:瓢の重量。一石は百二十斤。
水漿(スイショウ)の漿:米を洗ひて得たる白
 き水。
呺 然(きょうぜん):呺(こう•ごう):大きいさ
 ま。からっぽで大 きいさま。
掊(うつ):打破ること
*大瓠が甚だ大なるが故に実用に用いる処な
 し、故に之を打ち破りたりと、大言用ふる
 所なきをいふ。
亀手:手の皮膚亀甲の如く拆(さ)くるをいふ、
 俗に云ふ、ひびあかぎれの類なり
絖(ぬめ): 生糸を用いて繻子織 (しゅすおり) に
 して精練した絹織物。
洴澼(絹、綿の糸を洗いさら)す
客:或人
方族:製法
族:親族
鬻(ひさぐ):売る、養い育てる、粥
封 之:大名に取立たるなり
大 樽(おおだる):樽に縄を結びつけ、江湖を渡
 るの具となす、南人之を腰舟といふ、言い
 しは、斯かる大瓠なら、これを腰に付けて
 域外(宇宙の外)に逍遙すべしとなり
蓬 心(ほうしん):欲にとらわれている心。のび
 のびとしていない気持。蓬(よもぎ)の如
 く、根浅く、其考慮浅狭なりといふ意。
(´・(ェ)・`)つ

845鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/09(月) 23:37:29 ID:tChNJCqc0
恵子が荘子に言ったのじゃ。
 魏王がでかいひょうたんの種をくれたが、でかすぎて役に立たなかった。

 荘子は恵子に言ったのじゃ。
 それはでかいものの使い方がわかっていないからなのじゃ。
 あかぎれの薬もうまく売り込めば大金になるのじゃ。
 でかいひょうたんも船にすればよいだけなのじゃ。

 
 つまりでかいことを言っても役に立たないではないかという批判に、でかいものは使い方で役に立つといったのじゃな。

846避難民のマジレスさん:2023/01/09(月) 23:59:15 ID:rcvDr6Oo0
荘子10.
逍遥遊第一(14)
惠 子 謂 莊 子 曰 吾 有 大 樹 。人 謂 之 樗 。
其 大 本 擁 腫 而 不 中 繩 墨 。 其 小 枝 卷 曲
而 不 中 規 矩 。 立 之 塗 、 匠 者 不 顧 。 今
子 之 言 大 而 無 用 。衆 所 同 去 也 。 莊 子
曰 、 子 獨 不 見 狸 牲 乎 。卑 身 而 伏 、以
候 敖 者 、東 西 跳 梁 不 辟 高 下 。中 於 機
辟 、 死 於 罔 罟 。 今 夫 斄牛 , 其 大 若 垂
天 之 雲 。 此 能 為 大 矣 。 而 不 能 執 鼠 。
今 子 有 大 樹 患 其 無 用 、何 不 樹 之 於 無
何 有 之 鄕 廣 莫 之 野 、彷 徨 乎 無 為 其
側 、逍 遙 乎 寢 臥 其 下 。 不 夭 斤 斧 物 無
害 者 。 無 所 可 用 安 所 困 苦 哉 。

恵子 荘子に謂(い)ふて曰わく、吾に大樹あ
り、人これを樗(おうち)と謂ふ。其の大本
(タイホン・みき)は擁腫(ヨウショウ)し
て縄墨(ジョウボク)に中(あ)たらず、そ
の小枝は巻曲(ケンキョク)して規矩(キ
ク)に中たらず。これを塗(みち)に立つる
も、匠者(ショウシャ)顧みず。今、子の言
は大にして用無し、衆の同く去る所なりと。
荘子曰わく、子は独(ひと)り狸牲(リセ
イ)を見ざるか。身を卑(ひく)くして伏
し、以て敖者(ゴウシャ)を候(うかが)
ふ。東西に跳梁(チョウリョウ)して高下を
避(さ)けず。機辟(キヘキ・わな)に中
(あ)たり、罔罟(モウコ・あみ)に死す。
今、夫 れ 斄 牛(リギュウ)は、其の大なる
こと垂天(スイテン)の雲の若(ごと)し。
此れ能く大 と 為 す。而(しかれど)も鼠
(ねずみ)を執(と)る 能(あた)わず。
今、子に大樹ありてその用無きを患(うれ)
ふ。何ぞこれを無何有(ムカユウ)の郷(キ
ョウ)広漠(コウバク)の野(ヤ)に樹(う)
え、彷徨乎(ホウコウ)として其の側(そば)
に無為(ムイ)にし、逍遥(ショウヨウ)と
して其の下に寝臥(シンガ)せざるや。斤斧
(キンフ)に夭(たちき)られず、物の害す
る者なし。用ふべき所なきも、安(なん)ぞ困
苦する所あらんやと。

注:
樗(おうち、ちょ、ごんずい、せんだん)落葉
 小高木。 役に立たないもののたとえ。悪木
 にして用ひ所なきなり。
大本:幹の根
擁腫(ヨウショウ):人体に腫物生じたるが如く 
 腫れ上りたるをいふ。
縄墨(じょうぼく)すみなわ、直線を引く道 
 具。のり、規則、標準。
規矩(キク): 規(ぶんまわし=コンパス)や
 矩(さしがね)
塗(みち)
匠者(しょうしゃ):大工
狸牲(リセイ):野猫の類、いたち
敖者(ゴウシャ):小さな獲物。遨翔の者:遨 (ご
 う、あそぶ)、翔(しょう、かける、飛ぶ)
機辟(キヘキ・わな)にはまり、
罔罟(もうこ•あみ)にかかって
斄 牛(リギュウ•からうし): 斑牛:黄と黒と
 のまじった、うすぎたない耕牛。まだら牛。
 斄 牛は垂天の雲の様に大きいが、鼠を捕ま
 えることさえ成し得ず。然れども、狸牲の
 ように罠に掛かって死ぬことはない。
無何有之鄕 及び 廣莫之野:共に寂絶無用の地
彷徨乎(ホウコウ):さまよう
(´・(ェ)・`)つ

847鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/10(火) 23:32:53 ID:XhN7owFA0
 恵子が荘子にさらに言ったのじゃ。
 自分のところにはでかい木があるが何にも使えないのじゃ。
 荘子のいうこともでかすぎて何の用もできないからみんな聞かないのだと。

 荘子は言ったのじゃ。
 いたちは小さいがあまりに動きすぎて網に捕まって殺されてしまうのじゃ。
 牛はねずみをとれないが、雄大なのじゃ。

 でかい樹があるならばその下で無為になればよいのじゃ。
 無用の木はそのために人に刈られず長生きなのじゃ。

 無用の用ということじゃな。
 世間の価値や役割とは無縁でいるから長生きで真の道に違うことがないというのじゃな。

848避難民のマジレスさん:2023/01/10(火) 23:44:02 ID:5oa.khJE0
内篇
斉物論
荘子11.
荘子:斉物論第二(1)
南 郭 子 綦 隱 几 而 坐 、仰 天 而 嘘 、荅 焉
似 喪 其 耦 。 顏 成 子 游 立 侍 乎 前 曰 。何
居 乎。形 固 可 使 如 槁 木 、而 心 固 可 使 如
死 灰 乎 。今 之 隱 几 者 、 非 昔 之 隱 几 者
也 。
子 綦 曰 。偃 不 亦 善 乎 、而 問 之 也。今 者
吾 喪 我 。汝 知 之 乎 。女 聞 人 籟 而 未 聞
地 籟 、女 聞 地 籟 而 未 聞 天 籟 夫 。

南郭子綦(ナンカクシキ)、几(キ・つく
え)に隠(よ)りて坐(ザ)し、天を仰いで
嘘(いき)し、荅焉(トウエン)として其の
耦(からだ)を喪(わす)るるに似たり。(別
読み: 其の偶(つま)の喪にあるに似る。)顔
成子游(ガンセイシユウ)、立ちて前に侍し
て曰わく。何居(なん)ぞや、形 (からだ)
は固(もと)より槁木(コウボク)のごとく
ならしむべく、心は固より死灰(シカイ)の
ごとくならしむべきか。今の几(つくえ)に
隠(よ)る者 は、昔(さき)の几に隠(よ)
る者に非(あら)ざるなりわと。
子綦曰わく、偃(エン)や、亦(ま)た善か
らずや、而(なんじ)のこれを問ふ。今者(い
まは)、吾れ我れを喪(うしなへ)り、汝(なん
じ)これを 知れるか。汝人籟(ジンライ)を聞
き、未(いま)だ地籟(チライ)を聞かず。汝地
籟を聞き、未だ天籟(テンライ)をきかざる
と。

注:
南郭子綦(ナンカクシキ):城郭(まち)の南 
 はずれに住んでいた子綦。楚の昭王の庶
 弟、哲人。
嘘(いき)し:ほっと息を吐き、
荅焉•荅然(トウエン):萬事萬物皆忘れ、その
 容姿茫然自失したるが如き貌(すがた)
耦•偶(ぐう•つま•つれあいからだ•われ):対耦 
 (タイグウ)、例えば、男女善悪邪正方円等
 の如く、全て相対するものあるをいふ。
顔成子游(ガンセイシユウ):南郭子綦の弟子。
 名は偃(えん)
何 居 乎(何ぞや)居:與に通して助語なり。
形: 形貌、からだ
槁 木(こうぼく):枯れた木
而 問 之: 而 (汝)が之を問ふ
吾 喪 我: 我に対する耦を喪ふのみならず、我
 が身まで之を忘れたりと、
籟(らい):風なり
人籟(ジンライ): 人間が奏でる楽器より発する声音
地籟(チライ): 大地の営みが風として発する音
天籟(テンライ): 天の発する音、物論を指す
(´・(ェ)・`)つ

849鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/11(水) 23:52:45 ID:JPTL/99Y0

 南郭子?ナンカクシキという者が机によりかかって座して天を仰いで息を吐いたのじゃ。
 肉体をも忘れたかのようであったというのじゃ。
 顔成子游が前に立って言ったのじゃ。
 体が枯れ木になり、心は灰になったようじゃ。
 いつもどおりではないのじゃ。
 
 子?は答えたのじゃ。
 よい質問なのじゃ。
 わしは今我を忘れる忘我にあったのじゃ。
 
 おぬしはそれを知れるじゃろう。
 おぬしは今人の笛は知っているが、地の笛を知らない、地の笛をしっていても天の笛はしらんのじゃ。


 忘我であるとはサマーディに達していたということじゃな。
 自我の働きを無くし、無為に座っていたのじゃ。

850避難民のマジレスさん:2023/01/11(水) 23:59:30 ID:zC.HohMw0
荘子12.
荘子:斉物論第二(2)
子 游 曰 敢 問 其 方 。 子 綦 曰 夫 大 塊 噫
氣 、其 名 為 風 。 是 惟 無 作 。 作 則 萬 竅
怒 呺 。 而 獨 不 聞 之 翏 翏 乎。 山 林 之 畏
佳 、 大 木 百 圍 之 竅 穴 似 鼻 似 口 似 耳
似 枅 似 圈 似 臼 似 洼 者 似 汚 者 。 激 者
謞 者 叱 者 吸 者 叫 者 譹 者 宎 者 咬 者。
前 者 唱 于 而 隨 者 唱 喁 。泠 風 則 小 和 、
飄 風 則 大 和 。 厲 風 濟 則 衆 竅 為 虛 。 而
獨 不 見 之 調 調 之 刀 刀 乎。

子游(シユウ)曰わく、敢えて其の方を問う
と。子綦曰わく夫(そ)れ、大塊(タイカイ)の
噫気(アイキ・おくび)、其の名を風と為(な)
す。是れ惟(ただ)作(おこ)る無し。作れば則
ち萬 竅 怒 呺(バンキョウドゴウ)す。而(なん
じ)は独り之の翏翏(リュウリュウ)たるを聞か
ざるか。山林の畏隹(いし•ワイサイ)なる、大
木百囲の竅穴(キョウケツ)は、鼻に似、口に
似、耳に似、枅(ますがた)に似、圈(さかず
き)に似、臼に似、洼(ふかきくぼみ)に似るも
の、汚(オ・ひろきくぼみ)に似るものあり。
激(げき•しぶき)する者(おと)、謞(コウ•さけ
ぶ)する者(おと)、叱(しっ)する者(おと)、吸
う者(おと)、呌(きょう•さけぶ)する者(お
と)、譹(ごう•なきさけぶ)する者(おと)、宎
(ヨウ•くぐもる)する者(おと)、咬(コウ•か
む)する者(おと)。前(さき)なる者は于(ウ・
ふうっ)と唱え、而して隨(したがう・あとな
る)者は喁(ギョウ・ごうっ)と唱ふ。泠風(レ
イフウ)なればは則ち小和し、飄風(ヒョウフ
ウ)なれば則ち大和す。厲風(レイフウ)済
(や)めば則ち衆竅(シュウキョウ)も虚と為
(な)る。而(すなわ)ち独り之(こ)の調調(チョ
ウチョウ)と之の刀刀(チョウチョウ)たるを見
ざるかと。

(´・(ェ)・`)つ

851避難民のマジレスさん:2023/01/12(木) 00:00:11 ID:zC.HohMw0
注:
方:類と同じ、方物(ほうぶつ): 識別すると。
 雑り合ったものを正しく分けること。
 三籟(三らい、人籟•地籟•天籟)の種類や如
 何、強いて告げ給ふべしと。
大 塊(たいかい):地球、大地
噫 氣:(アイキ•おくび):天地間に風吹くは、人
 の惓(う)みてアクビするが如く、地球上に
 生じる一種の気なりといふなり。
萬 竅 怒 呺(バンキョウドゴウ): 竅 (キョウ):
 穴。一朝風起これば、幾万の大地の穴を吹   
 きて、種々の音響を出して怒 呺(ドゴウ)す
 るものなり。
翏翏乎:風の長く吹く貌
畏隹(いし):嵔崔(いさい)と同じ:山岳の或は
 突出し、或は窪入(陥没)して自然竅穴とな
 りたる処、即ち小風にては音響を発せざれ
 ども、大風に逢えば大音を発する所なり。
 別読:(ワイサイ)畏(ざわ)めき隹(ゆ)れる
百圍之竅穴(百かかえのきょうけつ): 百圍、
 (囲)(い•かかえ):百拱(かかえ)の如し。: 拱
 は両手の指を以て円を作る貌。畏隹よりは
 小なりと雖も、他の竅穴あるものに比して
 は大なる竅穴あるものなり。
枅(ますがた):柱の上に置き棟を支える角材。
圈 (さかずき):木をまげて作りたる杯
洼 (ア・ふかきくぼみ):窪、洿(くぼみ)
汚(オ・ひろきくぼみ)
激(しぶき):水の石に当たる時の勢いなり、転
 じて其の時に発する音を形容したるなり
吸者(吸う音):気を吸い込む時の音
宎者(くぐもれる音•ヨウ): 風が洞穴になどに
 吹き通って発する音。音のこもったさま。
 音が、かすかに響くさま。
咬者(かむ音):俗にいふ金切声の誠に哀れにし
 て、身に染み渡るが如き音をいふ
唱 于(于(う)を唱 (とな)え):声の前後相和す
 音なり
唱 喁(喁ギョウ・ごうっ)と唱え
泠 風 :小さくして軽き風
則小和:風小なれば、此に和して鳴る音も亦小
 なり
飄 風 (ヒョウフウ):大風
則 大 和:風大なれば、此に和して鳴る音も亦
 大なり
厲 風:(レイフウ):飄風よりは一層大なる猛風
濟(やめば)則 衆 竅 為 虛 :猛風千万の竅穴を
 ふきて後やむをいふ
而 獨 不 見 、別読み、而(なんじ)獨(ひと
 り)〜を見ざるか
之調 調 之刀刀:風静まりて後猶樹上の枝葉微
 かに動揺する貌
*人の見る処異なるによりて、是非善悪成敗
 得失を相差するが如く、風一吹して衆竅の
 音を発すること各異なるをいふ。
*衆竅が受くる所に随いて各音を発し、又止
 む。夫れ物論の聚多なる、甲是乙非、停止
 することなきは、恰も萬 竅 怒 呺するが如
 し、然れど、飄風は朝を終えず(老子23章•
 つむじ風が朝の間じゅう吹きつづけること
 はない。不自然な出来事は長くは続かな
 い)、遂に静虚に帰す、汝ら今の調 調 刀刀
 たるを見ずや、其の形既に異なれるにあら
 ずや、夫れ声異にして、形同じからずと雖 
 も、主鳴者は即ち風、被鳴者は即ち穴、其
 の帰するを要すれば、風の物を吹くのみと
*所見に就きてその実を説くなり。
(´・(ェ)・`)つ

852鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/12(木) 23:14:25 ID:htgEM7JI0
子 游はあえてそのことわりを聞いたのじゃ。

シキは答えたのじゃ。
大地が吐き出す息を風というのじゃ。
さまざまな形の穴にふきつけるとさまざまな音が出るのじゃ。
おぬしはそれをみたことがないのかと聞いたのじゃ。

853避難民のマジレスさん:2023/01/12(木) 23:47:37 ID:.WEBYE5o0
荘子13.
荘子:斉物論第二(3)
子 游 曰。 地 籟 則 衆 竅 是 已 。 人 籟 則 比
竹 是 已。 敢 問 天 籟。

子 綦 曰。 夫 吹 萬 不 同。 而 使 其 自 己 也、
咸 其 自 取 。 怒 者 其 誰 邪 。

子游曰わく。地籟(チライ)は則ち衆竅(シュ
ウキョウ)これのみ。人籟(ジンライ)は則ち
比竹これのみ。敢えて天籟(テンライ)を問う
と。

子綦(シキ)曰わく。夫(そ)れ吹く万(よろず)
同じからず。而(しか)も其の己(おのれ)自
(よ)り使(つかわ)せしむ。咸(み)な其れ自か
ら取る。怒らす者は、其れ誰ぞやと。

注:
萬 不 同:不同萬種とのこと、即ち萬音萬別な 
 ることなり。 
咸: みな・ことごとく,かん
怒 者:怒號せしむる者は何ぞや即ち風なり號:
 号の旧字体。ごう、さけぶ、よびな
比 竹 : (しょう・ふえ)
*地籟、人籟による音は、萬 不 同にして、而
 も各々其の己より発するを以て自ら我が専
 有となせり。怒(おと)たてしむる者は風
 であり、背後において響きとならしめる格  
 別の何者かが存在するわけではない。(それ
 は、天籟に於いても同じである)

荘子:斉物論第二(4)
大 知 閑 閑、小 知 閒 閒。大 言 炎 炎、小
言 詹 詹。其 寐 也 魂 交、其 覺 也 形 開。
與 接 爲 搆、 日 以 心 鬪。 縵 者 窖 者 密 者。
小 恐 惴 惴、大 恐 縵 縵。 其 發 若 機 栝、其
司 是 非 之 謂 也、其 留 如 詛 盟、其 守 勝 之
謂 也、其 殺 若 秋 冬、以 言 其 日 消 也、其
溺 之 所 爲 之、不 可 使 復 之 也、其 厭 也 如
緘、以 言 其 老 洫 也、

大知は閑閑(カンカン)たり、小知は間間
(カンカン)たり。大言は炎炎(タンタン=
淡淡)たり、小言は 詹詹(センセン)たり。 
其の寝(い)ぬるや魂(ゆめ)交わり、其の覚
(さ)むるや形(からだ)開く、与(とも)に
接して構(コウ)を為し、日心を以て闘ふ。
縵(マン)なる者、窖(コウ)なる者、密な
る者。小恐は惴惴(ズイズイ) 大恐は縵縵
(マンマン)。其の発する機 栝(キカツ)の
若(ごと)しとは 其の是非を司(つかさ)ど
るものの謂いなり。其の留まる詛盟(ソメ
イ)の如しとは、其の勝ちを守るの謂いな
り。其の殺(サイ)する秋冬の若しとは、以
て其の日に消するを言うなり。其の溺るる
の之(ゆ)くを爲 (な)す所は、これを復
(かえ)らしむべからざるなり。其の厭(あ
っ)せらるること緘(カン)の如しとは、
以て其の老洫(ロウキョク)するや 死に近
き心は、復(ま)た陽(よみが)えらしむる
莫(な)きを言ふなり。
(´・(ェ)・`)つ

854避難民のマジレスさん:2023/01/12(木) 23:48:17 ID:.WEBYE5o0
注:
閑閑:寛裕にして静正、其の量大にして能く物
 論を容る、而も未だ一切の物論を同視する
 こと能わざるなり。寛裕: 心が広くてゆっ  
 たりしていること。また、そのさま。
 斉物論(せいぶつろん):諸子の様々な論を帰
  一させるという意,物を一源に基づかせ
  るという意などと解する説がある。人間
  の認識は虚妄,相対的であるから,否定
  的思弁によって,無の境地にたって絶対
  的,一元的認識があることを説く。
間間:其の量狭小にして、万物を間別し、善悪
 正邪の外に出づること能わざるなり
 炎々(淡々(たんたん)):淡々:あっさりと淡白
 である様
詹詹(センセン): 齷齪(あくせく)然として唯
 多く詞(ことば)を費やすの貌
魂 交:((寝てる時は)夢に交り:精神物と交わり
 て夢中に相争ふなり。別読み、夢に交(う
 なさ)れ
形 開: (目覚めてる時は) (体開く):肉体が外界 
 に開かれ身体の感覚がはたらいて心が乱さ
 れ、落ち着きがなくなる。形骸(体)相開き
 是非を争ひて相闘ふ。別読み、体おちつき
 なく
與 接 爲 搆:ともに接して搆を為し:大小相交際
 して互に争ふなり。別読み、與(かたみ)に
 接(う)ちあたりて、搆(わずら)ひを 爲(ひ)
 きおこし、
日 以 心 鬪: 日心を以て闘ふ。別読み、日 ご
 とに心を以 (くだ)きて鬪(せめ)ぎたたかふ
縵 (まん•せめ•おおまかなる):寛(ゆるやか)
 に過ぎて却って決断を失えるが如き貌
窖 (コウなる•暗く険しき•):地を穿たる穴にし
 て、隱險測るべからざる貌。窖:穴
密 (密なる •こまかき ):緻密にして僅少の差
 も能く比較する貌
惴惴(ずいずい):物に恐怖し易く心寧(やす)か
 らざる貌
縵縵(まんまん):恐るることありと雖も他より
 見分けのつかざるが如き貌
機栝:機: 弩の弦を掛くる牙、括は箭(やは
 ず)の弦に触るる所。石弓の引き金。僅少の
 物にして非常の働きを成す物
其 司 是 非 之 謂 也:別読み、(其の是非を司
 (あげつらふ)の謂ひなり。事毎に是非の見
 解を下すを謂ふ。(=知者)
其 留 如 詛 盟:別読み、(其の留(まも)ること
 詛盟(かみにちか)へるが如し。留:固く守り
 て動かざるを謂ふ
其 守 勝 之 謂 也:別読み、其の勝ちを守(お)
 しとほさんとするの謂ひなり
其 殺 若 秋 冬:別読み、其の殺(しぼ)みかかる
 こと秋冬の如し
其 溺 之 所 爲 之:別読み、其の溺(まどひ)の
 之(すす)み為(ゆ)くところ、
不 可 使 復 之 也:別読み、之を復(さと)らし
 むべくもあらず
其 厭 也 如 緘:別読み、其の厭(おほ)はれたる
 こと緘(とざ)されたるが如し。厭: 壓(圧)
 搾と同じ、緘:封緘と同じ。
以 言 其 老 洫 也:別読み、以て其の老洫(ろう
 きょく)せるを謂ふ。老洫:衰弱なり
其 日 消 也:別読み、其の日に消(おとろ)ふ
 以 言 其 老 洫 也:別読み、以て老 洫せるを
 言ふ。
近 死 之 心、莫 使 復 陽 也:別読み、死に近づ
 ける心は、復(また)陽(よみが)へらしむる
 術莫し。
(´・(ェ)・`)つ

855鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/13(金) 23:42:12 ID:KvLKz.gQ0
子游が言ったのじゃ。
 地籟はいろいろな穴であり、人籟は竹である。
 天籟とはなにか

 シキは答えたのじゃ。
 さまざまな笛が鳴るのは同じではなく、自らの本性に従うのじゃ。
 その背後には誰がいるというのじゃ?


 全ては無我にして自然に起こるというのじゃな。

856鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/13(金) 23:59:44 ID:KvLKz.gQ0
  大いなる知恵は広々として隙間があるようじゃ。
 小さな知恵はこまごまとして隙間がないようじゃ。
 大いなる言葉は簡単であるものじゃ。
 小さな言葉は煩雑なものじゃ。

 そのような小さな知恵と言葉に囚われていれば、寝る時には魂が全てと交わっているが、起きれば他人とあれこれ争うものじゃ。
 さまざまに心が囚われるのじゃ。
 小事を恐れればびくびくするものであるが、自然に畏敬の念を持つものは落ち着いていられるのじゃ。

 石弓の如く発するというのは他人の是非をあげつらうことなのじゃ。
 留まることが神の誓いのようだというのは、勝利の権利を守ることなのじゃ。
 しおれていくこと秋冬の如くであるというのは、そのようにして時間を失うことなのじゃ。
 日々の雑事におぼれれて戻ることがない時間を失うのじゃ。
 そのようにして老いて死に近づけば戻ることはできないのじゃ。

857避難民のマジレスさん:2023/01/14(土) 00:03:06 ID:ZD6iVm.o0
荘子14.
荘子:斉物論第二(5)
喜 怒 哀 樂 慮 嘆 變 慹 姚 佚 啟 態 。 樂 出 虛
蒸 成 菌 。 日 夜 相 代 乎 前 而 莫 知 其 所
萌 。 已 乎 已 乎 。旦 暮 得 此 其 所 由 以 生
乎 。 非 彼 無 我 。 非 我 無 所 取 。 是 亦 近
矣 。 而 不 知 其 所 為 使 。 若 有 真 宰 而 特
不 得 其 眹 。 可 行 已 信 而 不 見 其 形 。 有
情 而 無 形 。 百 骸 九 竅 六 藏 賅 而 存
焉 。 吾 誰 與 為 親。 汝 皆 說 之 乎、 其 有
私 焉。 如 是 皆 有 為 臣 妾 乎。 其 臣 妾 不
足 以 相 治 乎。 其 遞 相 為 君 臣 乎。 其 有
真 君 存 焉。 如 求 得 其 情 與 不 得、 無 益
損 乎 其 真。

喜怒哀楽(キドアイラク)慮嘆変慹(リョタ
ンヘンシュウ)姚佚啓態(ヨウイツケイタ
イ)あ り。楽(ガク)は虚(キョ)より出
(い)で、蒸(ジョウ)して菌を成す。日夜
前に相代わりて、其の萌(きざ)す所を知る
莫(な)し。已(や)めん已(や)めん、旦暮
(たんぼ)に此の、其の由(よ)りて以て生
ずる所を得ん。彼に非ざれば我なし、我に非
ざれば取る所なし。是れ亦近し。而(しか)
も其の使 (せし)むるを為す所を知らず。真
宰(シンサイ)有るが若(ごと)くして、而
(しか)も特 に 其の朕(あと)を得ず。行な
う可(べ)きはわ已(すで)に 信(まこと)
なれども、而(しか)も其の形を見ず。情
(まこと)は有れども形無なればなり。百骸
(ガイ)九竅(キョウ)六藏 賅(かにょ)ヰ
て存す。吾れ誰と与(とも)にか親(しん)
を為さんや。汝(なんじ)皆これを説(よろ
こ)ばんか、其れ私すること有るか、是
(か)くの如 (ごと)くんば、皆臣妾(シン
ショウ)と為すことあるか。其臣妾は以て相
治むるに足らざるか。其れ遞(たが)いに君
臣と相為るか。其れ真君(シンクン)の 存す
る有るか。其の情を求め得ると得ざるとの
如きは、其の真に益損(エキソン)なし。

注:
慮嘆変慹(リョタンヘンシュウ):慮(りょ):思量
 なり。變(へん):志の定まらざるな り、移
 り気。慹(しゅう):固く執りて動かざるな
 り、執念深い。
姚佚啓態(ヨウイツケイタイ): 煩わしいことと
 安らかなこと、姚(しなつ)くるかとみれば
 佚(きまま)にふるまい、啓(あけすけ)なる
ものあり、態(もったい)ぶるものあり
萌(きざ)す:何かが起ころうとする動きが感じ 
 られる。また、心が動く。草木の芽がわず
 かに出る。芽ぐむ。芽ばえる。
已(すで)に:そうでないと疑う余地がないほど
 の状態である意。
百骸(ガイ):多くの骨
九竅(キョウ): 口・両眼・両耳・両鼻孔・ 
 尿道口・肛門 の総称
六藏 :古より心肺肝脾腎の五臓をいへども六
 藏 の出処明らかならず。
賅:兼なり(かにょ)い。別読み、賅(そなわ)
 りて。賅:足りる。備わる。完備している。
 包括する。含む。普通でない。不思議
為 親: 百 骸 九 竅 六 藏の内何れに最も親し
 むべきか、
説:愛するなり
私:偏頗(へんぱ)の私 :片寄って不公平な私
真君:身体上の真宰なり
真宰:宇宙の主宰者造化の神。造物主。
(´・(ェ)・`)つ

858鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/14(土) 23:08:13 ID:GX8SFBx60
 喜怒哀楽とか慮嘆変執とか姚佚啓態等の感情は、虚しいものであり朝に生まれて夕べにはなくなるきのこのようなものじゃ。
 囚われてはいかんのじゃ。
 そのような感情を自分だと思ったり、それ以外に自分はないと思うのが妄想なのじゃ。
 感情がどこから起こるのかしらんのじゃ。

 その主体があると思っているだけで、実際にはとらえられないのじゃ。
 感情はたしかにあると認識できるのに、主体はないのじゃ。
 
 肉体は確かにあると認識できるがのう。
 情がどようなものか認識できないのじゃ。
 それなのにそれを喜びとして、自分があるとしているのじゃ。

 それがどのように自分のものとか自分とか思うのか、観てみるのじゃ。
 そのようにして本当の感情の生起、縁起を見れば喜怒哀楽等が起きても、実は何も存したり利益を得たりしていないとわかるのじゃ。



 つまり感情についてよく注意して観察すれば、何も利益も損失もない観念遊戯とわかるというのじゃな。
 感情を満足させるために生きるのは時間の無駄ということじゃな。

859避難民のマジレスさん:2023/01/15(日) 04:14:25 ID:hB6eOluY0
荘子15.
荘子:斉物論第二(6)
一 受 其 成 形 不 亡 以 待 盡 。 與 物 相 刃 相 靡
其 行 盡 如 馳 而 莫 之 能 止 。 不 亦 悲 乎 。 終 身
役 役 而 不 見 其 成 功 。 薾 然 疲 役 而 不 知 其 所
歸 。 可 不 哀 邪 。人 謂 之 不 死 奚 益 。其 形 化
其 心 與 之 然 。 可 不 謂 大 哀 乎 。 人 之 生 也 固
若 是 芒 乎 。 其 我 獨 芒 。 而 人 亦 有 不 芒 者 乎


一たび其の成形(セイケイ)を受けてより、亡(ほ
ろ)ばずして以て尽くるを待つ。物と相い刃(せつ)
し相い靡(ま)し、其の行き尽くること馳(は)する
が如(ごと)くして、これを能(よ)く止(とど)
むるなし。亦(また)悲しからずや。終身役役(エ
キエキ)として其の成功を見ず。薾(苶)然(デツゼン)
とぞ疲役(ヒエキ)して、其の帰(キ)するところ
を知らず。哀(かな)しまざるべけんや。人は之を
死なずと謂うも 奚(なん)の益あらん。其の形(か
たち)化すれは 其の心も之と然り。大哀(タイアイ
)と謂わざる べけんや。人の生くるや 固 (もと)
より(か)くの若(ごと)く芒(ぼう) たり。其れ我
れ独(ひと)り芒(ぼう)か。人 亦(また)芒(ぼ
う)ならざる者あらんや。

注:
一 受 其 成 形 不 亡 以 待 盡 。別読み、一たび其の
 成形(セイケイ)を受くれば、亡(ほろぼ)さず
 して以て尽くるを待つ。
與 物 相 刃 相 靡 、別読み、①物と相い刃(さから)い
 相い靡(そこな)い、② 相い靡(なび)き、
 刃:切ること。靡:磨(す)ること。
薾(苶)然(でつぜん):疲労する貌
化:死して土化するをいふ。
若 是 芒 乎 、別読み、是(か)くの若(ごと)く芒
 (くら) きか
其 我 獨 芒 。 而 人 亦 有 不 芒 者 乎、別読み、其れ
 我れ独(ひと)り芒(くら)くして、人も亦(ま
 た)芒(くら)からざる者あるか。芒:取り留めな
 き形容なり。(芒然=形 固 可 使 如 槁 木 、而 心 固
  可 使 如 死 灰 乎 。 荘子11 斉物論第二(1))

荘子:斉物論第二(7)
夫 隨 其 成 心 而 師 之 誰 獨 且 無 師 乎 。 奚 必 知
代 而 心 自 取 者 有 之 。 愚 者 與 有 焉 。 未 成 乎
心 而 有 是 非 是 今 日 適 越 而 昔 至 也 。 是 以 無
有 為 有 。 無 有 為 有 、 雖 有 神 禹 且 不 能 知。
吾 獨 且 奈 何 哉 。

夫(そ)れ其の成心(セイシン)に随(したが)ひ
て之を師とせば、誰か独り且 師 無 から ん と す る
や。 奚(なん)ぞ必ずしも代(か)わるを知りて、
而(しか)して心に自ら取る者のみ之あらん。愚者も
与(とも)に有り。未(いま)だ心に成さずして是
非有るは 是れ今日越に適(ゆ)きて昔 至るなり。
是(こ)れ 有る無しを以て有ると為さば。有る無きを
有と為さば、神禹(シンウ)有りと 雖(いえど)も
、且(まさ)に知ること能(あた)わざらんとす。
吾れ独り且(は)た奈何(いかん)せんとするや。

注:
*この節は、11.の『而 心 固 可 使 如 死 灰 乎 』に対するなり。
知 代:15の『日 夜 相 代 乎 前』を受けたるなり。
成心:是非利害善悪等に就き一定の識見あるをいふ。
成心なくして是非有るは、今日出発して昨日到着す
 ると同じく必無の事なり。
是 以 無 有 為 有:別読み、 是れ無有(ムユウ)を以
 て有と為(な)すなり。
無 有 為 有:別読み、無有を有と為さば、
(´・(ェ)・`)つ

860鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/16(月) 00:20:53 ID:qwgtQU1s0
 人間としてこの世に肉体を成したならば、その寿命が尽きるまで生きるのがよいのじゃ。
 しかし大方の者は他人と争ったりして寿命の前に死んでしまうのじゃ。
 悲しいことじゃ。
 
 生涯働いても成功せずに自分がどこに帰るのかも知らずに死ぬのじゃ。
 それも悲しいことじゃ。

 それが生きることだと言っても何の利益もないのじゃ。
 肉体が滅びれば心もなくなるのじゃ。
 大変悲しいことじゃ。

 人間が生きるということはもとからこのように暗いものじゃ。
 わしだけが暗いのか。
 それとも皆暗いのじゃろうか。

 

 人間が自分の心の中にある智恵を師匠とすれば、皆心に師匠をもっていることになるのじゃ。
 そのような智恵は賢者だけが持つものではなく、愚者にもあるのじゃ。
 
 しかしそれができないものは自分の浅知恵で、これはよいとかこれはわるいとかいうのは、おろかな事じゃ。
 無い物をあるといい、有る物をないというおろかさには古代の賢者もどうしようもないのじゃ。

861避難民のマジレスさん:2023/01/16(月) 08:55:03 ID:A/U4a9YE0
荘子16.
荘子:斉物論第二(8)
夫 言 非 吹 也 。 言 者 有 言 其 所 言 者 特 未
定 也 。 果 有 言 邪 、 其 未 嘗 有 言 邪 。 其
以 為 異 於 鷇 音 、 亦 有 辯 乎 、其 無 辯 乎。

道 惡 乎 隱 而 有 眞 僞 、 言 惡 乎 隱 而 有 是
非 。道 惡 乎 往 而 不 存 。 言 惡 乎 存 而 不
可 。 道 隱 於 小 成 、 言 隱 於 榮 華 。

故 有 儒 墨 之 是 非 、 以 是 其 所 非 而 非 其
所 是 。 欲 是 其 所 非 而 非 其 所 是 、 則 莫
若 以 明。

夫(そ)れ言(ゲン)は吹(スイ)に非(あ
ら)ざるや。言ふ者の言(げん)あるは、其
(そ)の言う所の者、特に未(いま)だ定ま
らざるなり。果たして言ありや、其れ未だ嘗
(かつ)て言あらざるか。其の以(もっ)て
鷇(コウ)の音(ね)に異なりと為(な)す
も、亦(また)弁(ベン・けじめ)ありや、
其れ弁無きや。

道は悪(いず)くにか隠れて真偽ある、言は
悪(いず)くにか隠れて是非有る。道は悪(い
ず)くにか往(ゆ)くとして存せざらん。言は
悪(いず)くにか存して可ならざらん。道は小
成に隠れ、言は栄華に隠る。

故(ゆえ)に儒墨(ジュボク)の是非有り、
以て其の非とする所を是として、其の是とす
る所を非とす。其の非とする所を是として、
其の是とする所を非とせんと欲するは、則
(すなわ)ち明(メイ)を以てするに若
(し)くは莫(な)し。

注:
夫 言 非 吹 也:夫れ天下の種々なる言論は恰も
 風の吹くが如くなる者にあらずや
言 者 有 言 其 所 言 者 特 未 定 也:人々の互
 いに言論ある所以の者は、各種の説が未だ
 一定せざるよらは起ることなり。
鷇(こう):鳥の卵を割りて出たるばかりの雛。
 未定の言論ならば、其の或は卵を割り出た
 る雛鳥の其の言一定せざるが如くなり。
文頭の疑問詞(何、誰、安、悪、孰、寧、
 等)+文末の助字(乎、耶、也、邪等):ど
 こで(名を成す)だろうか。:いづクニ
力、どこへ.どこで
 道の口頭に上りたるは言、言の未だ口頭に
 上らざるは道なり。
小成:大成の反対。全く成らざるものなり。
榮 華:慢心なり
明: 真の明智(明明白白の理)
(´・(ェ)・`)つ

862鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/16(月) 23:32:00 ID:1sgI5yis0

 言葉は息ではないから意味があるはずだが、無意味なことを言うのも言葉というべきかというのじゃ。
 道というものは真偽すらも無い筈だが、生悟りの者によって真偽がどうとかの論議のまとになるのじゃ。
 それも栄華を求める言葉によるものじゃ。

 それ故に儒者と墨者が道について自分のいうことが正しいとか論争したりするのじゃ。
 そのような者たちには明知が無いといえるのじゃ。

 
 道とはタオといわれる老荘の根本の真理じゃな。
 それは真偽すらも離れた言葉にいえないものなのじゃ。
 インドの教義でいえばブラフマンのようなものじゃ。
 言葉によって把握できないものを、延々と議論するのは明知があるとはいえないのじゃ。

863避難民のマジレスさん:2023/01/16(月) 23:44:38 ID:4G3H0hEw0
荘子17.
荘子:斉物論第二(9)
物 無 非 彼 、 物 無 非 是 。 自 彼 則 不 見 、
自 知 則 知 之 。 故 曰 彼 出 於 是 、 是 亦 因
彼 。 彼 是 方 生 之 說 也 。 雖 然 方 生 方
死 、 方 死 方 生 、方 可 方 不 可 、 方 不 可
方 可 、因 是 因 非、 因 非 、因 是 。 是 以 聖
人 不 由 而 照 之 于 天 (亦 )因 是 也 。 是 亦
彼 也 、 彼 亦 是 也 。 彼 亦 一 是 非 。 此 亦
一 是 非 。 果 且 有 彼 是 乎 哉 、果 且 無 彼
是 乎 哉 。彼 是 莫 得 其 偶 、 謂 之 道 樞 。
樞 始 得 其 環 中 以 應 無 窮 。 是 亦 一 無
窮 、 非 亦 一 無 窮 也 。 故 曰 莫 若 以 明。

物は彼に非ざる無く、物は是(こ)れに非ざ
るなし。彼にすれば則ち見へず、自ら知れり
とすれば則ち之を知る。故に曰く、彼は是に
出づ、是れ亦た彼に因ると。彼是(ひぜ)は方
生(ほうせい)の説なり。然りと雖(いえど)
も、方(ほう) に生ずれば方に死し、方に死
すれば方に生ず。方に可なれば方に不可な
り、方に不可なれば方に可なり。因て是なれ
ば因て非なり、因て非なれば、因て是なり。
是(ここ)を以て聖人は、由らずして之を天
に照(て)らす。(亦)是とするに因るなり。
是(こ) れもまた彼なり、彼もまた是れな
り。彼もまた一是非(いちゼヒ)。此れもま
た一是非なり。果して且(そ)もあらん彼
是、果して且(そ)も無からん彼是。彼 是 其
の偶を得る莫(な)きを、之を道樞(ドウス
ウ)と謂ふ。樞(スウ・とぼそ)始めて其の
環中を得て、以て無窮に應ず。是(ゼ)もま
た一無窮、非(ヒ)もまた一無窮なり。故に
曰く明を以てするに若(し)くは莫しと。

注:
彼 是 方 生 之 說 也:別読み、彼と是れと方
 (なら)び生ずるの説なり。
方 生 方 死、方 死 方 生、方 可 方 不 可、 方
 不 可 方 可 :別読み、方(なら)び生じ方(な
 ら)び死し、方 (なら)び死し方(なら)び生
 ず。方(なら)び可にして方(なら)び不可、
 方(なら)び不可にして方(なら)び可なり
果 且 有 彼 是 乎 哉 、果 且 無 彼 是 乎 哉:別
 読み、果して且(そ)も彼是ありや、果
 して且(そ)も彼是なきや。
樞(すう):戸の樞(とぼそ、くるる木)なり、要なり。

環中(かんちゅう):「環」は戸の回転軸である
 枢(とぼそ)をうけるまるい穴。対立や矛盾
 を超越して、あらゆる現象に対応する絶対  
 境。
道枢:道の根本にして、世に所謂善悪邪正は共
 に此の道枢によりて分出するなり。
莫 若 以 明:(他方を立て、彼是を見るが如く)
 其の天然自然を見分け得る大明を用いざる
 べからずなり。
(´・(ェ)・`)つ

864鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/17(火) 23:59:40 ID:FHLQ8KT60

 ものごとは全て主体と客体で認識されていると古人の説なのじゃ。
 
 しかしそれは互いに依存しあう相対的なものなのじゃ。
 主体があれば客体があり、客体があれば主体があるのじゃ。
 逆になれば両方ないのじゃ。

 聖人は主体と客体を分けて認識したりしないのじゃ。
 そのような相対的な観念を離れているのじゃ。
 それが道枢なのじゃ。
 道の肝心な真理なのじゃ。
 
 それがあれば道を体得して全て極めつくせない境地に至るのじゃ。
 そして主体も客体も一つなのじゃ。
 それが明知なのじゃ。

865避難民のマジレスさん:2023/01/18(水) 00:06:48 ID:3wstc7Bc0
荘子18.
荘子:斉物論第二(10)
以 指 喻 指 之 非 指 、 不 若 以 非 指 喻 指 之
非 指 也 。以 馬 喻 馬 之 非 馬 , 不 若 以 非
馬 喻 馬 之 非 馬 也 。天 地 一 指 也 、 萬 物
一 馬 也 。

指を以て指の指に非ざるを喩(さと)さんよ
り、指に非ざるを以て指の指に非ざるを喩す
に若(し)かず。馬を以て馬の馬に非ざるを
喩さんより、馬に非ざるを以て馬の馬に非ざ
るを喩さんに若かざるなり。天地は一指な
り、萬物は一馬なり。

注:
指: 意指の指なり。意指:意のあるところ。意
 図。意向。心ばせ。心で感じるところのも
 の。心にとまるもの。
  第一、第五、第六の指は我が指。第二、
 第三、第四の指は他人の指。(馬も同)
以 指 ①喻 指 ②之 非 指③ :我が指①を基準
 (真の指)として、他人の指②は指ではない
 ③と論ず るより
不 若 以 非 指 ④喻 指⑤ 之 非 指 ⑥也: 真の 
 指ではない他人の指④を基準にして、我が
 指⑤は、指ではない⑥と論じた方が良い。
天 地 一 指 也 、萬 物 一 馬 也 :天地は無形上
 の観察をいひ、万物は実体のある者をいふ

荘子:斉物論第二(11)
可 乎 可 、不 可 乎 不 可。 道 行 之 而 成 、
物 謂 之 而 然 。 惡 乎 然 、 然 於 然 。惡 乎
不 然 、不 然 於 不 然 。物 固 有 所 然 、 物
固 有 所 可 。無 物 不 然 , 無 物 不 可 。

可を可とし、不可を不可とす。道は之(こ
れ)を行ふて成し、物は之を謂ふて然りと
す。悪(いず)くにか 然りとす、然るを然り
とす。悪くにか然らずとす、然らざるを然ら
ずとす。物は固(もと)より然る所あり。物
は固より可なる所あり。物とし て然らざる無
く、物として可ならざる無し。
(´・(ェ)・`)つ

866避難民のマジレスさん:2023/01/18(水) 00:18:34 ID:3wstc7Bc0
>>864
主体など無い。あるのはブラフマンだけ。
そのブラフマンも観念に過ぎない。結果でして『無』と言い切れたのが、釈迦だったのでありますね。
釈迦はインド哲学を超えて、悟ったという理解であります。
(´・(ェ)・`)b

867鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/19(木) 00:03:57 ID:CI4zCtpI0
↑そうじゃ、観念を超えてすべてがひとつと知れるのじゃ。
 無の境地なのじゃ。

868鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/19(木) 00:06:21 ID:CI4zCtpI0

 指を説いて指が指ではないと教えるより、指でないもので指が指ではないと教えるがよいのじゃ。
 馬を説いて馬が馬ではないと説くより、馬ではないもので馬が馬ではないと教えるがよいのじゃ。
 そうすれば天地万物が一つであると知れるのじゃ。

869鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/19(木) 00:11:57 ID:CI4zCtpI0

 人が可を可とし、不可を不可とするのは世間にあわせただけというのじゃ。
 それは本来の物を理解したのではなく、世間にあわせただけなのじゃ。
 観念がなければ全ては可であり、自然にあるものじゃ。

870避難民のマジレスさん:2023/01/19(木) 05:41:09 ID:2h/W.vW20
荘子19.
荘子:斉物論第二(12)
故 為 是 舉 莛 與 楹、厲 與 西 施 恢 詭 譎 怪、
道 通 為 一 。 其 分 也 成 也、 其 成 也 毀
也 。 凡 物 無 成 與 毀、 復 通 為 一 。唯 達
者 知 通 為 一。 為 是 不 用 而 寓 諸 庸 。 庸
也 者 用 也、 用 也 者 通 也、通 也 者 得 也。
適 得 而 幾 矣 。 因 是 已。 已 而 不 知 其 然
謂 之 道。

故に是(こ)れが為(ため)に 莛(テイ・う
つばり)と楹(エイ・はしら)、厲(ライ・
かったい)と西 施(セイシ)と、恢詭譎怪
(カイキキッカイ)なるを挙ぐるも、道は通
じて一となす。其の分かるるは成るなり、其
の成るは毀(そこな)わるるなり。凡(お
よ)そ物は 成ると毀(そこな)わるると無
く、復(ま)た通じて一と為す。唯(た)だ
達者(タッシャ)は通じて一と為すを知る。
是れが為に用いずして諸 (これ)を庸(ヨ
ウ)に寓(グウ)す。庸なる者は用なり、用
なる者 は通 なり、通なる者は得(やすらか)
なり。得(やすら)かなるに適 (いたり)きて
幾(まつたしと)す矣。是(ゼ)とするに因
(よ)る已(のみ)。已(の み)にして其の
然るを知らず、これ道と謂(い)ふ。

注:
莛(テイ、うつぱり): 梁(はり)。←横にわたす
 もの。
楹(エイ、はしら) : 天井と床の間にはった太
 い柱。 屋柱。←縦に立てるもの
厲(ライ、かったい):らい病人
西 施(せいし):美人の名
恢 詭 譎 怪(かいききっかい): 恢:大なり。 詭:
 戻るなり。 譎:乖(そむ)くなり。 怪:異(け)
 しきなり
↑四者は常人と形を同じくせざるを云ふ。
適 得 而 幾 矣 :別読み、適(たま)たま得
 て、幾(ちか)し。

荘子:斉物論第二(13)
勞 神 明 為 一 、 而 不 知 其 同 也 。 謂 之 朝
三 。 何 謂 朝 三。  曰 狙 公 賦 芧。曰 朝 三
而 莫 四 。 衆 狙 皆 怒 。 曰 然 則 朝 四 而 莫
三。 衆 狙 皆 悅 。 名 實 未 虧 而 喜 怒 為
用。 亦 因 是 也 。 是 以 聖 人 和 之 以 是
非、 而 休 乎 天 鈞。 是 之 謂 兩 行。

神明(シンメイ)を労して一(いつ)と為
す、而(しか)も其(そ)の同(じき)を知 ら
ざるなり。之(これ)を朝三(チョウサン)
と謂(い)ふ。何をか朝三と謂ふ。曰(い)
わく、狙公(ソコウ)、芧(とちのみ)を賦
(ふす)るに、朝は三にして、莫(くれ=
暮)は四なりと。衆狙(シュウソ・あまたの
さる)は皆怒(いか)る。然らば則ち、朝は
四にして莫(く れ)は三と。衆狙は皆悦(よ
ろこ)ぶ。名実未(いま)だ虧(か)けざる
に、而して喜怒用を為す。亦(また)是
(ゼ)とするに因(よ) る。
 是(ここ)を以て聖人は、之を和するに是
非を以てして天鈞(テンキン)に休す。是
(こ)れを之れ両行(リョウコウ)と謂う。

注:
神明:精神
賦 芧: 芧:くぬぎ(つるばみ)。とちのき、と
 ちの実。どんぐり。賦:フ、みつぎ、わかつ
狙公:典狙官、猿を飼う人。猿回し。
天鈞:天のはかりなり、天の権衡にかけて相平
 均せしむるなり
兩 行:『道 行 之 而 成 、 物 謂 之 而 然 』
 (斉物論第二(11))を云ふ
(´・(ェ)・`)つ

871鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/19(木) 23:53:54 ID:nURM//Q60

 そうてあるから柱とはりの違いとか、美人と不細工の違いもあると思うのじゃ。
 しかし実はそのような相対的な観念はなく、全ては一つなのじゃ。
 
 そのようなわけ方をすれば、間違いなのじゃ。
 さらに言えば分別も間違いも無い一つなのじゃ。
 
 道に達した者はそれらすべてを一とするのじゃ。
 分別を用いないから心安らかなのじゃ。
 それを最高の境地とするのじゃ。
 観念によってではなく、ただありのままにあることで最高の境地なのじゃ。
 それが道なのじゃ。

872鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/19(木) 23:59:50 ID:nURM//Q60

 心に観念を抱いて一としてはいかんのじゃ。
 それは猿が木の実を誤魔化されて喜ぶようなものじゃ。
 真の道ではないのじゃ。

 名前や物の観念がまだあり、喜怒哀楽の感情が残っているのじゃ。
 是非の観念もあるのじゃ。
 
 聖人は是非の観念もなくしているのじゃ。
 これを是も非もともにありえる両行というのじゃ。



 観念によって全ては一つであるとかいうのは、まだ自分を゛騙しているというのじゃ。
 本当に相対的な観念をなくせば、良し悪しがともにある境地に至るというのじゃ。
 それが聖人の境地なのじゃ。

873避難民のマジレスさん:2023/01/20(金) 05:38:00 ID:9Pw/Jo.Y0
荘子20.
荘子:斉物論第二(14)
古 之 人 其 知 有 所 至 矣 。 惡 乎 至 。 有 以
為 未 始 有 物 者 。 至 矣 盡 矣 。 不 可 以 加
矣 。 其 次 以 為 有 物 矣 、 而 未 始 有 封
也 。 其 次 以 為 有 封 焉 、 而 未 始 有 是 非
也 。 是 非 之 彰 也 、 道 之 所 以 虧 也 、 道
之 所 以 虧 、 愛 之 所 以 成 。 果 且 有 成 與
虧 乎 哉 、 果 且 無 成 與 虧 乎 哉 。

古(いにしえ)の人は、其の知に至 る所有
り。悪(いずく)にか到る。以て未 (いま)
だ始めより物有らずと為す者有り。至れり尽
くせり。以て加(くわ)うべからず。其の次
は以て物有りと為す、しかも未だ始めより封
(ホウ・かぎるこ と)有らざるなり。其の次
は以て封(ホウ・かぎること)有りと為す、
しかも始めより是非(ゼヒ)有らざるなり。
是非の影(あら)わるるや、道の虧(か)く
る所以(ゆえん)なり。道の虧(か)くる所
以(ゆえん)は、愛の成(な)る所以(ゆえ
ん)なり。果たして且(そ)も成ると虧
(か)くると有りや、果たして且 (そ)も成
ると虧(か)くると無きや。

注:
有 封 : 封 は一本對(対)に作るを可とす。(道
 の実在性は意識され ながらも、渾沌であっ
 て、そこにはまだなんらの「封」すなわ
 ち、境界ないしは秩序も発見されない)
其 知 有 所 至:① 為 未 始 有 物 者=聖人。其
 の次② 為 有 物→対偶なるもの(境界)は始 
 めより無し。其の次③→ 対偶なるもの(境
 界)は始めより有りとすれども、→是非は 
 始めより有りしものとせず。④→、→ 是非
 は始めより有りとするとものなり。
*荘子の意は、成 虧なきを断定し居るなり。

荘子:斉物論第二(15)
有 成 與 虧 故 、昭 氏 之 鼓 琴 也 。無 成 與
虧 故 、昭 氏 之 不 鼓 琴 也 。 昭 文 之 鼓 琴
也 、師 曠 之 枝 策 也 、惠 子 之 據 梧 也 。
三 子 之 知 幾 乎 皆 其 盛 者 也 。 故 載 之 末
年 。 唯 其 好 之 也 以 異 於 彼 其 好 之 也
欲 以 明 之 彼。 非 所 明 而 明 之 。 故 以 堅
白 之 昧 終。而 其 子 又 以 文 之 綸 終 。 終
身 無 成 。若 是 而 可 謂 成 乎 、雖 我 亦 成
也 。 若 是 而 不 可 謂 成 乎 、 物 與 我 無 成
也 。

成ると虧(か)くるとの故有るは、昭氏(シ
ョウシ)の琴(こと)を鼓するなり。成ると
虧(か)くるとの故無きは、昭氏(ショウ
シ)の琴(こと)を鼓せざるなり。昭文(シ
ョウブン)の琴を鼓するや、師曠(シコウ)
の策(サク)を枝(うち)ふるや、恵子の梧
(ゴ・つくえ)に拠(よ)るや。三子の知は
皆 其の盛んなるに幾(ちか)き者なり。故(ゆ
え)に之(これ)を末年に載す。唯(た)だ
其の之を好むや 彼れに異なるを以てなり、 其の之を好むや 以て之を彼に明かさんと欲すなり。明かす所に非ずして 而(しか)して 之を明かす。故に堅白(ケンパク)の昧(マイ・くらき)を以て終われり。而して其の子また文の 綸(論・あげつらい)以て終わり。終 身 為す 無 し。是(か)くの若(ごと)くして成と謂うべきか、我と雖(いえど)も亦た成るなり。是 (か)くの若(ごと)くにして成ると謂うべからざるか、物と我と与(ともに)成る無きなり。
(´・(ェ)・`)つづく

874避難民のマジレスさん:2023/01/20(金) 05:40:24 ID:9Pw/Jo.Y0
注:
有 成 與 虧 故:物に成就すると虧 欠(きけつ)
 するとありとするが故に、
昭文: 琴の奏者。師曠: 音楽家。恵施: 弁論
 家。(優れた技能・才覚を持つ三人)を題材
 に、人間の有意の行為(利点)による限界
 性を示し、必然的に起こる『道(普遍)』
 との隔たりを説く。
鼓 琴:奏者が琴をかき鳴らす。
枝 策:策:杖なり。之を挙げて以て柏節を為す
 もの。柏節機•拍節器(はくせつき):メトロ
 ノーム。枝:(うつ、ほどこす):→音楽家が
 琴の調を調整する。
據 梧: 弁論家が机にもたれて思想・論理を論
 じる。
三 子 之 知 幾 乎 皆 其 盛 者 也:此の三人は、
 皆その一世に盛なるものだけありて、(数百
 年の今日にも伝わるものなり)。幾 :別読
 み、幾(つ)くす。→三人の知性技能は最高
 に優れたものである→だからこそ、その偉
 大さが書き残され後世に伝えられた。別読
 み、故に之を末(のち)の年(よ)に載 
 (しる)す
載 之 末 年 :今に至るまで書冊(書物)に載せ伝
 ふることなり。
綸:緒なり。琴瑟(きんしつ)の弦なり。瑟:大
 琴
唯 其 好 之 也 以 異 於 彼 其 好 之 也 欲 以
 明 之 彼:此の三子の好む所は衆人に異れば
 なり。然るを自ら衆人を悟し、明かならし
 めんとす。
非 所 明 而 明 之 :衆人は容易く明むべきもの
 にはあらねども、明めようとする。
故 以 堅 白 之 昧 終。而 其 子 又 以 文 之 綸
 終 。:だから、弁論家の恵子は堅白異同 
 (けんぱくいどう)の論という愚昧な議論
 を行い続けて終わり、その子もまた父と同
 じ無意味な論理をあげつらって終わり、い
 ずれも道を成し遂げることは出来なかった
堅白異同: 戦国時代、趙ちょうの公孫竜は
「堅くて白い石は、目で見ると白いことはわ
 かるが、堅さはわからない。手でさわると
 堅いことはわかるが、色はわからない。だ
 から堅い石と白い石とは異なるもので、同
 一のものではない」という論法で詭弁を弄
 した。まったく矛盾することを無理やりこ
 じつけることのたとえ。詭弁きべんを弄ろ
 うすることのたとえ。
(´・(ェ)・`)つ

875鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/20(金) 23:42:51 ID:yPmdjpFA0
 昔には知恵の極地に至った人がいたのじゃ。
 はじめから物はないという無の境地に至っていたのじゃ。
 悟りの境地に至り、それも極めつくしていたのじゃ。
 もはやそこから足すことのできる境地はなかったのじゃ。

 下の次の境地は物はあると認識するのじゃ。
 しかしその境界はないという境地なのじゃ。

 その下は物はあり、境界もあると認識するのじゃ。
 しかしそれが良いとか悪いとかはないのじゃ。
 
 良いとか悪いとかの思いがあればもはや道は隠れてしまっているのじゃ。
 愛着があるからなのじゃ。

 しかし本来、道が隠れるとか悟りが成就するとかもないものじゃ。
 

 
 悟りが成就するとか、道が隠れるとかがあるのは琴の名人の昭氏が演奏するようなものじゃ。
 それがないというのは、昭氏が琴を演奏しないようなものじゃ。

 つまり人の苦や無明があるから悟りがあり、初めから苦や無明がなければ悟りもということじゃな。


 昭文、師曠、恵子はいずれも知者に近い者じゃ。
 後に伝えられるほどのものじゃ。

 しかし彼らもまた悟った者ではないのじゃ。
 
 なぜならば悟りの境地を知識で解き明かそうとしているからなのじゃ。
 それは知識で明かせるものではないのじゃ。
 無駄な努力をしているうちに死んでしまうじゃろう。
 そのようなものを悟ったとはいえないのじゃ。

 わしのように悟っていないのじゃ。
 そもそも悟りなどないのじゃ。
 悟りも悟るものもないからなのじゃ。
 それが悟りなのじゃ。

876避難民のマジレスさん:2023/01/20(金) 23:56:55 ID:hr15LcsI0
荘子21.
荘子:斉物論第二(16)
是 故 滑 疑 之 耀 聖 人 之 所 圖 也 。 為 是 不
用 而 寓 諸 庸, 此 之 謂 以 明 。

是の故に滑疑(コツギ)の耀(かがや)き
は、聖人の図(はか)る所なり。是(こ)れ
が為(ため)に用いずして諸(これ)を庸
(ヨウ)に寓(グウ)す。此れを之(こ)れ
明を以てすと謂う。

注:
滑 疑 之 耀: 耀:智なり、滑:乱なり、其の智見
 を乱疑の中に置く事なり
為 是 不 用 而 寓 諸 庸, 此 之 謂 以 明 :聖人
 が万物を庸常に併せて特異の見を用ひず(=
 是非の分別をしない)、以て各其の安ずべき
 所に安ぜしむ、故に物として用を為さざる   
 はなし、是を之れ真の大明を用ふといふな
 り。寓 諸 庸: 別読み、諸(これ)を庸(つ
 ね)あるに寓(まか)す。

荘子:斉物論第二(17)
今 且 有 言 於 此。 不 知 其 與 是 類 乎 其 與
是 不 類 乎 。 類 與 不 類 相 與 爲 類 、則 與
彼 無 以 異 矣 。 雖 然 , 請 嘗 試 言 之。

今且(まさ)に此(ここ)に言ふ有らんと
す。其の是(これ•ぜ)と類 するや、其の是
と 類 せざるやを知らず。類と不 類と、相
(あ)い与(とも)に類をぞ為さば、則ち彼
れと以て異なる無からん。然りと雖も 請
(こ)う、嘗 試(こころ)みに之を言わん。

注:
今 且 有 言 於 此。: 今またここで言えること
 は、道には是非の分別がないということで 
 あった。別読み、今且(しば)らく此(こ
 こ)に言えること有り。
不 知 其 與 是 類 乎 其 與 是 不 類 乎 : それは
 世間一般の是非分別の議論と同類のものな
 のか、同類のものではないのか。
類 與 不 類 相 與 爲 類 。則 與 彼 無 以 異
 矣 。: 同類であろうとなかろうと、(『是非
 がある』という世間の議論と『是非がな
 い』という荘子の議論は)構造的に同類な部
 分があるので、世間一般の是非分別の議論
 と異なるものではないのである。
雖 然 請 嘗 試 言 之。:とは言え、敢えてここ
 で、試みに道について言おうと思うのだ。
 嘗試(しょう‐し):食物の味などの良否をな
 めてたしかめてみること。また、物事をた
 めしてみること。経験すること。

荘子:斉物論第二(18)
有 始 也 者 。 有 未 始 有 始 也 者 。 有 未 始
有 夫 未 始 有 始 也 者 。 有 有 也 者 。 有 無
也 者 。 有 未 始 有 無 也 者 , 有 未 始 有 夫
未 始 有 無 也 者 。 俄 而 有 無 異 而。 未 知
有 無 之 果 孰 有 孰 無 也 。 今 我 則 已 有 謂
矣 。 而 未 知 吾 所 謂 之 其 果 有 謂 乎 其 果
無 謂 乎。

始めといふもの有り。未だ始めより始め有ら
ずというものあり。未だ始めより、夫(か)
の未だ始めより 始め有らざること有らずとい
うものあり。有(ユウ)というもの有り。無
(ム)というもの有り。未だ始めより無有ら
ずというもの有り。未だ始めより、夫 (か)
の未だ始めより無有らず、も有らずというも
の有り。俄かに有無異なり而。未だ有無の果
たして孰(いず)れか有 孰(いず)れか無 な
るを知らざるなり。今我れ則ち已(すで)に
謂(い)ふ有り。而(しか)も未だ吾が謂
(い)ふ所の其の果たして謂ふ有りや 其れ果
たして謂ふ無きやを知らざるなり。

注:
有 未 始 有 始 也 者: まだはじめがなかった時
 始めから始めはないという“無始”の概念
有 未 始 有 夫 未 始 有 始 也 者: 『まだはじめ
 がなかった時』がなかった時
 始めから始めはないという“無始”の概念を
 否定する“無無始”の概念
有 未 始 有 無 也 者: まだ無がなかった状態
 始めから無はないという“無無”の概念
有 未 始 有 夫 未 始 有 無 也 者 : 『まだ無が
 なかった状態』がなかった状態
 始めから無はないという“無無”の概念を否
 定する“無無無”の概念
俄 而 有 無 異 而: (言葉の作用が)にわかに
 有無を生み出す。
而 未 知 吾 所 謂 之 其 果 有 謂 乎 其 果 無 謂
 乎: 私が言っていることに本質的な意味が
 あるのか無いのか、それは分からないの
 だ。 ➡︎ ことばによって有無の根源をたずねようと
すると、それははてしなくつづき、けっきょ
くその根源をつきとめることはできない。
(´・(ェ)・`)つ

877鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/22(日) 00:02:35 ID:cT6THwes0
 それ故に聖人はまだ明らかでないことを明らかにすることを専らにするのじゃ。
 己のためでなく、知恵を磨くことを明知というのじゃ。



 今まさにその明知で道について言うのじゃ。
 道には是非も類同不同もないが、あえてここでいうのじゃ。


 全てには始めがあり、その始めにも始めがあるじゃろう。
 さらに遡れば有があり、さらに先には無があったじゃろう。
 その無について語ったところで何かを語ったことになるじゃろうか?
 言うことすらもないじゃめろう。

 
 つまりは道について語ることは、無であるというのじゃ。
 無について語った所で、何かを語ったことになるかというのじゃ。

878避難民のマジレスさん:2023/01/22(日) 00:48:58 ID:.1auzAos0
荘子22.
荘子:斉物論第二(19)
天 下 莫 大 於 秋 豪 之 末 , 而 大 山 為 小 。
莫 壽 於 殤 子 , 而 彭 祖 為 夭 。 天 地 與 我
並 生 , 而 萬 物 與 我 為 一 。 

天下は、秋豪(=秋毫 シュウゴウ)の末(す
ゑ)より大なるは莫(な)し、而して泰山を小
と為す。殤子(ショウシ)より寿(ジュ)な
るは莫(な)し、而して彭祖(ホウソ)を夭
(ヨウ)と為す。天地 我れと並び生じて、万
物 我れと一(いつ)なり。

注:
此の一節は、上文(斉物論第二(18))有無の
 両説に就きて、荘子の説を述ぶ。→有無何
 れが是なるや知るべからず、即ち、有にも
 あらず、無にもあらざるものこそ、真の道
 なるべけれ、今又これを喩ふれば、至大は 
 秋豪の末にありて、至小は大山にあるやも
 知れず
秋豪(秋毫 ): 秋に抜け替わった、獣のきわめ
 て細い毛の意から》きわめて小さいこと。
 微細なこと。わずかなこと。
殤子(ショウシ):短命者也。
彭祖(ホウソ): 長寿の代表。古代、伝説上の 
 仙人。帝尭(ギョウ)の臣。殷(イン =商)の
 末までおよそ八百年生きたという。
*『相対的な差』小(秋毫)大(大山)、短(殤
  子)長(彭祖) に囚われない、
 『絶対的な道』天 地 =我 、 萬 物 = 我 為  

荘子:斉物論第二(20)
既 已 為 一 矣 。 且 得 有 言 乎 。既 已 謂 之
一 矣 。 且 得 無 言 乎 。一 與 言 為 二 。 二
與 一 為 三 。 自 此 以 往 巧 歷 不 能 得 。 而
況 其 凡 乎 。故 自 無 適 有 以 至 於 三 。而
況 自 有 適 有 乎 。無 適 焉 因 是 已。

既に已(すで)に一と為す。且 言ふ有るを得
んとするや。既に已(すで)に之を一と謂
(い)ふ。且 言ふ無きを得んとするや。一と
言と二と為(な)り。二と一と 三と為り。此
(こ)れ自(よ)り以往(イオウ)は 巧歴
(コウレキ)も得る能(あ た)わず。而(し
か)るを況(いわ)んや其の凡(ボン)を
や。故に無より有に適き以て三に至る。而
(しか)るを況(いわ)んや有より有に適
(ゆ)くをや。適(ゆ)くこと無し 是 とする
に因(よ)るのみ。

注:
且 得 有 言 乎: 一という言葉(概念)がある
 と言えるだろうか、(言えない)
且 得 無 言 乎: 一という言葉(概念)が無い
 と言えるだろうか、(言えない)
*三より以上を考えていけば、膨大な数の計
算の達人であっても数え尽くすことはできな
い。 まして凡人の我々においては数えること
などできない。だから、多の世界にいくこと
はない。絶対的な一の道に拠るだけである。

荘子:斉物論第二(21)
夫 道 未 始 有 封 。 言 未 始 有 常 。 為 是 而
有 畛 也 。 請 言 其 畛 。 有 左 有 右 。 有 倫
有 義 。 有 分 有 辯 。 有 競 有 爭 。 此 之 謂
八 德 。

夫(そ)れ道は未だ始めより封(ホウ・くぎ
ること)有らず。言は未だ始めより常(つ
ね・さだまれるなかみ)有らず。是(こ)れ
を為せば畛(シン・くぎらるること)ある。
請(こ)う其の畛(シン・くぎり)を言わ
ん。左あり右あり、倫(あげつらうこと)有
り義(ギ・はかること)有り。分(ブン・わ
かつこと)有り辯(辨 ベン・さだむること)
有り、競(キョウ・きそうこと)有り争(ソ
ウ・あらそうこと)有り。此(こ)れを之
(こ)れ八徳(ハットク)と謂ふ。

注:
畛(シン・くぎらるること):界なり
封→對(対)、倫→論、義→議
辨:美醜正邪を弁難(言い立てて非難)すること
八徳:徳は心掛け位なり。
*道→行くとして存せざるなし。相対のもの
   ではない。
 言→事物により異なりて、常に定まらず、
   又、対偶あるものではない。
 ⬅︎然るに、道に對あり、言に常ありとする
  は、或る一つの境界を定める為なり。➡︎
  右と謂ふより左を生じ、論議するが故
  に、物と我、我と彼、美と醜との別、或
  は其の行為によりて、或は其の言語によ
  りて相分かるるが故に対偶が生じるなり
  →境界を定めて相守り、相防がんとする
  心掛けから生じるに過ぎない。
➡︎若し畛域を定めざれば即ち道に近きなり。
(´・(ェ)・`)つ

879鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/22(日) 23:23:32 ID:u8RDfexw0

 道家がよくやる逆説なのじゃ。

 世界は毛の先端より小さく、山も小さいのじゃ。
 夭折したものより長生きのものはなく、五百歳の仙人も若死になのじゃ。
 天地もわしと同じ年であり、万物もわしと同じであるからそれも正しいのじゃ。

 観念がないからなんでも言えるのじゃ。


 全てははじめから一なのじゃ。
 そのように言えるものではないが、あえて一というのじゃ。
 一といえば二もあることになるのじゃ。
 一と二があれば、三もあることになるのじゃ。
 そして数字はどんどん増えて数学者もわからぬことになり、凡夫にはますますわからんのじゃ。

 無であるものを無理に言えばそのようになるのじゃ。
 無とするのがよいのじゃ。

880鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/22(日) 23:30:47 ID:u8RDfexw0

 道には始めから観念分別はなかっのじゃ。
 言葉も無かったのじゃ。
 
 観念があってから分別もあり、左右があり、倫理や正義もできたのじゃ。
 そして分裂があり、競争があり、争いもおこったのじゃ。
 これが儒教の言う八の徳なのじゃ。

 観念から悪徳が起こり、正義とか論理もおこったというのじゃな。
 老子の道徳経と同じなのじゃ。

881避難民のマジレスさん:2023/01/22(日) 23:58:03 ID:2686lnqM0
荘子23.
荘子:斉物論第二(22)
六 合 之 外 聖 人 存 而 不 論 。六 合 之 內 聖
人 論 而 不 議 。 春 秋 經 世 先 王 之 志 。 聖
人 議 而 不 辯 。 故 分 也 者 有 不 分 也 。 辯
也 者 有 不 辯 也 。 曰 何 也 。 聖 人 懷 之 。
眾 人 辯 之 以 相 示 也 。 故 曰 辯 也 者 有 不
見 也。 

六合(リクゴウ・せかい)の外は聖人存して
論ぜず、六合の内は聖人論じて議せず。春秋
は世を経(けい)するは先王の志(シ)なり。
聖人議して弁ぜず。故に分かつとは分かたざ
る有ればなり。弁ずるとは、弁ぜざる有れば
なり。曰わく何ぞや。聖人は之を懐 にす。衆
人は之を弁じて以て相示すなり。故に曰はく
弁ずる者は見えざる有るなりと。

注:
六合(リクゴウ)之外:天地四方(天地東西南
 北)。すなわち宇宙の外(にある超越的なも
 の、測り知るべからざるもの)
論 而 不 議 : 普遍的なことは論じるが細かな
 問題は 詮索しない。
春 秋 經 世 先 王 之 志 春 :『春秋』の書物は
 世を治めた古代の王の記録である
聖 人 議 而 不 辯:聖人は事実について議論す
 るが、事実の判断(主観的意味づけ)はし
 ないのである。
故 分 也 者 有 不 分 也 。 辯 也 者 有 不 辯
 也 : だから、分別するとは分別しないこと
 なのである。価値を判断する(明らかにす 
 る)とは判断しないことなのである。
曰 何 也 。 聖 人 懷 之 : 聖人は分別(差異と
 対立)をそのまま懐(いだ)き、
眾 人 辯 之 以 相 示 也 : 衆人はこれを区別・ 
 判断してそのさ差異を示すのである。
故 曰 辯 也 者 有 不 見 也: だから、「価値を
 明らかにするとは、差異・対立を他者に
 示さないことである」と言われているのだ。

荘子:斉物論第二(23)
夫 大 道 不 稱 。 大 辯 不 言 。 大 仁 不 仁 。
大 廉 不 嗛 。 大 勇 不 忮 。 道 昭 而 不 道 。
言 辯 而 不 及 。 仁 常 而 不 成 。 廉 清 而 不
信 。 勇 忮 而 不 成 。 五 者 园(圓) 而 幾 向
方 矣。

夫(そ)れ 大道は称へず。大弁は言はず。大
仁は仁ならず。大廉(タイレン)は嗛(ケン
=謙)ならず。大勇は忮(そこな)はず。道
は昭(あきら)かなれば而(すなわ)ち道な
らず。言は弁なれば而ち及ばず。仁 常なれば
而ち成 らず。廉(レン)は清なれば而ち信
(まこと)ならず。勇は忮(そこなう)なれば
而ち成らず。五者は园(まどか•えん)にして
方(ホウ・かどある)に向かうに幾(ちか)
し。

注:
大道:真の実在
不 稱 :(となへず、たたへず、称あらず、称せ
 ず、ことあげ(言挙げ)せず)、名づけるべき
 ことばがな
廉:欲少なきをいふ
嗛:物足らぬように見ゆるなり
忮 :害(そこな)ふ、さからふなり
园:円き貌なり
五者圓而幾向方矣:大道、大辯、大仁、大廉、大勇の
 五者は、あたかも円周があらゆる角を自ずからの
 内に包むがごとく、本来融通無碍であるが、それ は また、円周が直線によって截(き)られると、 そこに三角形や四角形が成立するように、大道は 概念によって害(そこな)われ、大弁は言論によ
 って害われ、大 仁は固執によって害われ、大廉は 狷介(ケンカイ)によって害われ、大勇は暴力に
 よって害われるという限定化・不自由化の傾向性
 を内有しているのである。
(´・(ェ)・`)つ

882鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/23(月) 23:23:16 ID:GkithaDo0

 聖人は世界の外を知っていても論じないというのじゃ。
 世界の内のことは論じても議論しないのじゃ。
 歴史書は先王がしるしたものであるが、議論しても語らないのじゃ。

 分別すれば分別できないものが残るからなのじゃ。
 語れば語れないものが残るからなのじゃ。
 
 聖人はそれゆえに分別せず語らないのじゃ。
 凡人は語っては誰がどうとか批評するのじゃ。
 格言でも知らないものが語るというのじゃ。

 言葉も論議も限界があると聖人は知っているから語らないというのじゃ。
 それを知らない凡人が語るというのじゃ。

883鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/23(月) 23:43:41 ID:GkithaDo0

 大いなる道には名がないのじゃ。
 偉大な弁舌とは無言なのじゃ。
 大いなる仁愛は仁愛ではないのじゃ。
 大いに清廉なものは謙虚ではないのじゃ。
 大いなる勇気は誰も害さないのじゃ。

 名前があれば道ではないのじゃ。
 弁舌が多ければ多いほど真実から遠ざかるのじゃ。
 仁愛がいつもあれば全てにいきわたらないのじゃ。
 清廉が過ぎれば信用がないのじゃ。
 他人を害するのは恐れからであるら勇気はないのじゃ。

 この五つは円満成就しようと思えば、四角くなるようなものじゃ。
 

 これも道家の逆説なのじゃ。
 道徳を極めるには逆に実践すべきだというのじゃ。

884避難民のマジレスさん:2023/01/23(月) 23:52:53 ID:z1.x52uA0
荘子24.
荘子:斉物論第二(24)
故 知 止 其 所 不 知 至 矣 。孰 知 不 言 之 辯
不 道 之 道 。若 有 能 知 、此 之 謂 天 府 。注
焉 而 不 滿 。酌 焉 而 不 竭 。而 不 知 其 所
由 來 。此 之 謂 葆 光 。

故に知は其の知らざる所に止(とど)まれば
到れり。孰(たれ)か不言の弁、不動の道を
知らん。若 (も)し能(よ)く知る有らば、
此れを之(こ)れ、天府と謂(い)ふ。注
(そそ)げども満たず。酌(く)めども竭
(つ)き ず。而(しか)も其の由来する所を
知らず。此れを之(こ)れを葆光(ホウコ
ウ)と謂う。

注:
故 知 止 其 所 不 知 至 矣 :(大道は如何にとい
 ふに、)知の及ばぬ処にて止まるは、是こそ
 至知といふべさなれ。
孰 知 不 言 之 辯 :別読み、孰か(たれか)言
 わざる弁い(あげつらい)、道とせられざ
 る道を知るものぞ。
天府:天然自然の府庫。府庫: 財物・文書など
 を入れておく蔵。
葆 光: 葆 :包むの義にして、その知を包み隠し
 て顕さざるをいふ。滑疑之耀(コツギのヨ
 ウ)と同じ。(荘子21.斉物論第二(16)

荘子:斉物論第二(25)
故 昔 者 堯 問 於 舜 曰。我 欲 伐 宗 膾 胥 敖。
南 面 而 不 釋 然 其 故 何 也 。 舜 曰。夫 三
子 者 猶 存 乎 蓬 艾 之 間 若 不 釋 然 何 哉 。
昔 者 十 日 並 出 、 萬 物 皆 照 。而 況 德 之
進 乎 日 者 乎 。

故に昔者(むかし)堯 (ギョウ) 舜(シュ
ン)に問ふて曰わく。我れ宗(スウ=崇)膾
(カイ)胥敖(ショゴウ)を伐たんと欲し。
南面して釋 然(シャクゼン)たらざるは 其の
故は何ぞやと。舜曰はく。夫(か)の三子
は、猶(な)お蓬 艾 (ホウガイ・よもぎう)
の間に存するがごとし 若(なんじ)の釋 然
(シャクゼン)たらざるは何ぞや。昔者(む
かし)十日(ジュウジツ)並び出(い)で
て、萬物皆照らさる。而(しか)るを況(い
わ)んや徳の日(ひ)より進める者をやと。

注:
堯: 古代伝説上の聖天子。舜の有能さを認めて
 天下を譲った。儒家から理想の君主政治と
 された。
舜 : 古代、伝説上の聖天子
宗(スウ=崇)膾(カイ)胥敖(ショゴウ):
 舜にまつろわない(帰順しない)三国
南 面 : 武力を用いて他国を伐つこと
猶 存 乎 蓬 艾 之 間:まだヨモギが生茂る未開
 の地にある
十日並出:古伝。十個の太陽が空に現れるとい
 う意味、これは気流の変化による気象現象
 の異変を説話化したものであろう。現在の
 蒙古でも時々このような現象が見られると
 いう。
德 之 進 乎 日 者 乎 : 王者の徳が太陽よりも劣
 っていることがあるでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ

885鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/24(火) 23:17:14 ID:xaB3K0r.0

 それ故に知恵は知識が無くなれば最高の知恵なのじゃ。
 誰か言葉の無い弁舌、動かない道を知るものがいるじゃろうか。
 もしそれを知る者がいれば、それこそ天府、天をも司る者なのじゃ。
 叡智をどれほど注いでも満ちることは無く、どれほど費やしても枯れることは無いからなのじゃ。
 しかもその叡智がどこから来るのかも知られないのじゃ。
 これを光を抱くものともいうのじゃ。

 
 最高の知恵とは小ざかしい知識も無いものというのじゃ。
 言葉も無い境地であり、それこそ不動普遍の道なのじゃ。

886鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/24(火) 23:24:50 ID:xaB3K0r.0

 昔王様のギョウが 舜(シュン)に聞いたのじゃ。
 「わしは三つの国を討伐したいが釈然としないのはなぜか」
 舜は答えのたのじゃ。
 「その三国は未開の国なのじゃ。
 釈然としないのは何でだと思うのじゃ?
昔は10の太陽があったというが徳とはそれよりも万物を照らすものじゃ」

 太陽のように万物を照らすものでなければ徳ではないというのじゃな。
 蛮族であるから討伐するのは徳ではないのじゃ。

887避難民のマジレスさん:2023/01/25(水) 00:01:10 ID:eP38pctc0
荘子25.
荘子:斉物論第二(26)
齧 缺 問 乎 王 倪 曰。子 知 物 之 所 同 是 乎。
曰 吾 惡 乎 知 之 。子 知 子 之 所 不 知 邪 。
曰 吾 惡 乎 知 之 。然 則 物 無 知 邪 。曰 吾
惡 乎 知 之 。雖 然 嘗 試 言 之 。 庸 詎 知 吾
所 謂 知 之 非 不 知 邪 。庸 詎 知 吾 所 謂 不
知 之 非 知 邪 。

齧 缺 (ゲッケツ)王 倪(オウゲイ)に問ふ
て曰はく。子は物の同(ひとし)く是(ゼ)
とする所を知るかと。曰はく吾れ悪(いず)
くんぞ之を知らんと。子は子の知らざる所を
知れるか。曰はく吾れ悪(いず)くんぞ之を
知らんと。然(しか)らば則ち物は知らるる
こと無きや。曰はく吾れ悪(いず)くんぞ之
を知らん。然りと雖(いへど)も嘗試(ここ
ろみ)に之を言わん。庸 詎(いず)くんぞ吾
れ謂う所の知の不知に非ざるを知らんや。庸
詎(いず)くんぞ吾れ謂う所の不知の知に非
ざるを知らんや。

注:
万物が同じように是となり肯定される道を知
ってますか→知らない
知らないということは知ってますか。 →知ら
ない
物について人は知ることができないのか→知
らないが、試しにそれに付きはなしてみる。
どうやって『知っていること』が『知らない
こと』ではないと知ることができるか。どう
やって『知らないこと』が『知っているこ
と』ではないと知ることができるか。

*人間の偏見と独断を排除すると、『知るこ
と』と『知らないこと』の差異や対立が消失
する。王倪の真意は『知ることの言語概念に
よる表現の限界=相対主義の普遍的な判断軸
(知ることと知らないことの相即性)』を示
すことにあったのである。

荘子:斉物論第二(27)
且吾嘗試問乎女。民濕寢則腰疾偏死。鰌然乎
哉。 木處則惴慄恂懼。猿猴然乎哉。 三者孰知
正處。 民食芻豢。麋鹿食薦。蝍蛆甘帶。鴟
鴉耆鼠。四者孰知正味。 猨猵狙以為雌。麋
與鹿交。鰌與魚游。毛嬙麗姬人之所美也。魚
見之深入。鳥見之高飛。麋鹿見之決驟。四者
孰知天下之正色哉。自我觀之。仁義之端。是
非之塗。樊然殽亂。吾惡能知其辯。

且(か)つ吾れ嘗試(こころみ)に女(なん
じ=汝)に問はん。民は湿(シツ)に寝
(い)ぬれば、則ち腰疾(ヨウシツ)して偏
死(ヘンシ)す。鰌(シュウ・どじょう)は
然らんや。木に処すれば則ち惴慄恂懼(ズイ
リツジュンク)す。猿猴(エンコウ)は然ら
んや。三者、孰(いず)れか正処(セイショ•
正しきところ)を知らん。民は芻豢(スウカ
ン・スウケン)を食らひ。麋鹿(ビロク)は
薦(セン)を食らひ。蝍蛆(ショクソ・む
かで)は帯(へび)を甘(うま)しとす。鴟
鴉(シア)は鼠(ねずみ)を耆(この)む。
四 者 孰(いず)れか正味(セイミ)を知ら
ん。猨(エン)は猵狙(ヘンソ)以て雌
(めす)と為す。麋(ビ)は鹿と交わり。鰌
は魚と游ぶ。毛嬙(モウショウ)麗姬(リ
キ)は、人の美とする所なり。魚 は之を見れ
ば深く入り。鳥は之を見れば高く飛ぶ。麋鹿
は之を見れば決驟(しゅう)す。四者、孰
(いず)れか天下の正色を知らん。我れ自
(よ)り之を観(み)れば。仁義の端(タ
ン)。是非の塗(ト・みち=途)。樊然(ハ
ンゼン)として殽亂(コウラン)せり。吾れ
惡(いず)くんぞ能(よ)く其の弁を知らん。
(´・(ェ)・`)つづく

888避難民のマジレスさん:2023/01/25(水) 00:01:57 ID:eP38pctc0
注:
濕:=湿
腰疾偏死:別読み、腰の疾いと偏死(ちゅう
 き)をやむ。偏死:枯死なり。(人間は湿っ
 た場所で寝ていると、病気を患うが、鰌
 (どじょう)はどうであろうか)
惴慄恂懼(ズイリツジュンク):おそれて縮み
 上がることなり:別読み、(人間は木の上に
処めば(すめば)則ち)惴え(ふるえ)
 慄れて(おそれて)恂(まこと)に懼うる 
 (うれうる)が、猿は然らんか
猿猴:猿:手長猿、猴:通常の豢(かん、けん)
 なり
三者孰知正處: 人間、鰌、猿の三者のうちで
 誰が正しい住処を知っているのだろうか
民食芻豢:人間は牛、豚を食べ、
麋鹿食薦:鹿は草を食べ
蝍蛆甘帶: むかでは蛇を美味しいと食べ、
鴟鴉耆鼠: 鴟(とび)と烏は鼠を好んで食べ
四者孰知正味: 人間、鹿、むかで、鳥の四者
 では誰が正しい食事の味を知っているのか
猵狙:想像上の いぬざる。猿は別種の猿とつ
 がいになり、
鹿は別種の鹿と交わり、
鰌(どじょう)は他の魚と戯れる。
毛嬙麗姬人之所美也: 毛嬙(もうしょう)と
 麗姫(りき)は人が絶世の美人とする女性
魚見之深入: 魚は彼女たちを見れば深く隠れ、
鳥見之高飛: 鳥は高く飛び上がり、
麋鹿見之決驟: 鹿はすぐに走り去ってしまう。
四者孰知天下之正色哉: 人間、猿、鹿、鰌の
 四者では誰が天下の正しい色情というもの
 を知っているのだろうか
仁義之端:仁義の境目、
是非之塗:是非の分別
樊然殽亂: 樊然(ハンゼン):煩雑に入り組み
 て何れを何れと分かち能はざるなり。殽亂
 (コウラン): 殽も亦亂(乱)るる貌なり
吾惡能知其辯:私はどうして仁義・是非の絶対
 的な基準を知っていると言えるだろうか
(´・(ェ)・`)つ

889鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2023/01/25(水) 23:54:39 ID:elkdio1U0
ゲッケツがオウゲイにきいのじゃ。
おぬしはすべてが同じく正しい真理をしっているか、と

答えたのじゃ。
知らんと

聞いたのじゃ。
知らないということを知っているのか、

答えたのじゃ。

どうしてそんなことを知れるか、

聞いたのじゃ。

真理は知ることができないのかと、

答えたのじゃ。

わしはどのようにしてそれを知れるのか、と
しかし、ためしにあえて言うのじゃ。

どのようにして知が不知ではないと知れるのか
どのようにして不知が知ではないと知れるのか



不知もまた知識に囚われないようにする観念であるからそれにも囚われないようにというのじゃな。
全てにとらわれないようにするのじゃ。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板