[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
| |
質問スレッド (なんでもお尋ねください)
67
:
仁雛
:2006/07/24(月) 01:35:40
>>66
名無晋書さん
こんばんは。
「鬼」について研究されているとのことですが、これは日本語のあの角のはえた「オニ」ですか?
それとも漢語で言う幽霊の意味の「鬼」ですか? ニュアンス的に後者かと思うのですが、念のため^^;
鬼の出てくる話が多い書物。。。『聊斎志異』なんかはかなり面白いです。六朝期の志怪小説もあります。
68
:
菅原
:2006/07/26(水) 20:45:37
>>66
名無晋書さん
ご質問ありがとうございます。
「鬼」であれば大学の中国文学の講義でいろいろな「鬼」の出てくる話を取り上げていました。
六朝時代であれば『捜神記』や『幽明録』にそういった話が多いですね。
「鬼」といえば中国の古典文学の重要な要素のひとつだと思います。
69
:
suite
:2006/09/15(金) 19:48:32
目下、『正字通』を探しております。
書虫
商品名: 正字通(上下)
価格: 15060円 → 13560円(税込.送料無料)
商品コード: ZZTS005458
編著者: (明)張自烈 編 (清)廖文英 補
出版社: 国際文化出版
サイズ: 16開
ページ: 1493
装幀: 精装
出版年月: 1996年1月
ISBN: 7801053656
分類: 語学-古代漢語
北九州中国書店
20278 正字通・附索引(全2冊) 13800円
(精装)(影印本)/1997年/(明)張自烈(清)廖文英 中国工人
この2冊を見つけたのですが、或いはこれら以外にもお勧めの『正字通』があったら教えてください。
70
:
66
:2006/10/20(金) 18:50:48
書き込むの遅くなってしまいすみません
あれから、捜神記や幽明録などを読みました
日本では、鬼女とかでてきますが、中国でも鬼女の話ってあるのでしょうか?
自分で日本の書物(今昔物語など)もよんでるうちに、鬼女に興味をもちました
これからは鬼女について調べて生きたいとおもうので、日本でも中国でもオススメの書物あれば
おしえてください
71
:
仁雛
:2006/10/23(月) 18:14:21
>>66
さん
こんにちは。カキコミありがとうございます。
鬼女というと、女性の幽霊のことでしょうか。唐代になるといろいろと出てくると思います。(たしか)岩波文庫の『唐代伝奇』なども読まれるといいのではないでしょうか。
72
:
菅原
:2006/10/23(月) 23:23:51
>>66
さん
日本の鬼女といえば安達ヶ原に代表されるように「オニオンナ」ですが、
中国で「鬼女(こういう用例はあまりないようですが)」と書けば
仁雛さんの書き込みの通り「女性の幽霊」ですね。
仁雛さん紹介の『唐代伝奇』以外では『牡丹灯籠』もこの類に分類できるかもしれません。
それから中国で日本でのオニ的なイメージの女性では
仏教説話でおなじみの「鬼子母神」などもあり、この類の話も中国ではあると思います。
それから話はそれますが、「安達ヶ原」といえば手塚治虫のマンガに
「安達ヶ原」をモチーフにした「安達ヶ原」というそのままタイトルの短編SFマンガがあります。
日本のオニというのは大和朝廷に敵対的な異民族である蝦夷に対する蔑視から生まれたという説もあるみたいですが、
手塚治虫の「安達ヶ原」はそういった面もふまえてSF化しているところが「安達ヶ原」の翻案マンガとして秀逸な面ではないかと思います。
73
:
八頭
:2006/10/24(火) 00:49:42
中国には日本のような鬼女や山姥の話はあるのでしょうか。民話には山姥の話が
あったような気がするのですが、鬼女については私はあまり読んだことがありません。
鬼女というのではなく、女に姿を変える鬼(化け物)は2,3篇読んだことがあります。
『中国怪奇小説集』(岡本綺堂 旺文社文庫1978)に若い女性に化けて人を食った夜叉(?)の話
(『酉陽雑俎』・ユウヨウザッソ(唐):王申)があります。
また、『今昔物語』の安義の橋に出没する鬼女(鬼が女に化けている)と
『稽神録』(宋代)の張エン(エン・王爰)は舞台道具は酷似しているのですが、
後者には鬼女については一言も触れられていません。
つまり、日暮れ、橋、怪しい美女、怪しい風は共通の要素で出てくるのですが(風が今昔に出てきたかはうろ覚えですが)、
後者は短編である上に(100文字足らず)、鬼女については橋に鬼女が出るという噂の設定や鬼女
の姿の描写がなく、女が旋風(つむじ風)に化して馬に乗った張エンを突然襲い、馬が倒れて傷
を負ったということしか書かれていません。
他にも日本の説話と中国の志怪には類似した話があるかもしれません。
あまり参考にならないかもしれませんが、以上です。
74
:
えちぜん
:2006/10/25(水) 00:19:26
「鬼」についてですが、
駒田信二『中国怪奇物語 幽霊編』(講談社文庫)
に、中国語でいう「鬼」のお話が沢山あります。また、このあとがきで「鬼」について述べられています。
75
:
山口博数
:2006/10/25(水) 18:47:51
列傳第二十二郤セン傳のカク注に「通典十四日。郤セン篤孝以仮葬違常。降品一等。又一百三日。太康中。衛瓘表前太子洗馬済陰郤セン。寄止衛国文学講堂十余年。母亡不致喪帰。便於堂北外下棺。…云々」(句読点は便宜上)とあり、郤センは降品一等で名を千載に残しました。太子洗馬ということで十余年も衛国文学講堂に寄止したとあります。が「衛国文学講堂」とは何物なのか。衛国も文学講堂も皆目見当がつけられません。「晋書志十四職官」には「洗馬八人、職如謁者秘書、掌図書。釈尊講経則掌其事、出則直者前駆、導威儀。」とありますが、太子洗馬も役目は同様ならば、掌図書や釈尊講経が何か此の「衛国文学講堂」と関係するのかとも思います。どうでしょうか。
76
:
えちぜん
:2006/10/27(金) 00:52:54
「釈"尊"講経則掌其事」は「釋"奠"講経則掌其事」ですね。
「衛国文学講堂」について調べてみたことをメモ。
通典にある「文学」は「太学」の誤りではないか。
『晋書』志第十一/禮下p.670〜p.671 「魏正始中,齊王每講經遍,」で始まる段落。釋奠・講経の語も見える。
『晋書』列傳第二十九/趙王倫 p.1601〜p.1602 「太學生年十六以上及在學二十年」とあり、長期間在学できた。
77
:
八頭
:2006/10/27(金) 01:24:59
山口さん、こんばんは。
間違っているかもしれませんが、
>寄止衛国文学講堂十余年
郤センが無官であるときに、地方(郡県)の学校で教授していたことをいっているのだと
推測しました。
文學講堂は儒学に関する学問を教えていた学校のような場所だと思います。
漢代では県に設置した学校を「校」といったようですが、校が晋代にあったかや
文學講堂が各地方にあったのかなどは資料がないうえ、少し調べた程度なので分かりませんでした。
だから、この書き込みも間違っているかもしれないので、流す程度に読んでください。
根拠は山口さんが読まれている『通典』假葬墙壁间三年除服议 晋に
セン文義可称,又甚貧倹とあるように
郤センが学問に優れ、名声があったこと、また、生活が不如意だったことから
官を退き、禄が支給されない期間、地方の学校で学問を生徒に講義し、生活していたのだと考えました。
以上から推測すると、衛国は県名で、司州頓丘郡の衛県だと思います。
郤センの身地はエン州済陰郡単父でした。
中国人は奔喪(他郷で親の死を聞き、急いで帰郷し喪に服すること『礼記』奔喪)
のとき、遠くから何日もかけて駆けつけるようですが、
郤センの母が単父にいたとすると、直線距離で100キロほどですから、
比較的近い距離にいたということだと思います。
78
:
むじん
:2006/10/27(金) 06:44:04
『通典』巻103に、
> 太康年間に衛瓘が上表した。
> 「前の太子洗馬である済陰の郤詵は、衛国の文学講堂に寄宿すること十年余り、
> 母が亡くなっても遺体を帰さず、講堂の北壁の外側に棺を収めて『仮の埋葬だ』と申しておりました。」
> 郤詵は自己弁護して言った。
> 「先祖代々の墓が緱氏にありますが、たびたび洪水に遭いました。
> この地方は低湿で、ただ城内だけが高みにありますので、
> 居住していた邸宅に葬り、扶養していた堂(座敷)でお祭りしたのです。」
と、ありますね。ttp://ef.cdpa.nsysu.edu.tw/ccw/02/dd12.htm
衛国というのは衛県を指しているように見えますが、
郤詵の言葉によると埋葬地は緱氏の城内であるようにも思えます。
史書には「太学講堂」という言葉が見えますが、
その講堂は洛陽の南八里ほどの場所にあったようで、緱氏にも近いです。
「衛国」二字が衍字の可能性も考えた方がいいと思います。
ただ、賀循伝に「石冰の大将の抗寵が会稽郡の講堂に駐屯した」ともあり、
衛国のような地方都市にも学問所があったのかも知れませんね。
79
:
山口博数
:2006/10/27(金) 09:52:03
えちぜんさん、八頭さん、むじんさん有難うございます。「釈"尊"講経則掌其事」は「釋"奠"講経則掌其事」で間違いでした。
>「衛国文学講堂」について通典にある「文学」は「太学」の誤りではないか。また「衛国」二字が衍字の可能性も考えた方がいいという見方は参考になりました。
>生活が不如意だったことから官を退き、禄が支給されない期間、地方の学校で学問を生徒に講義し、生活し衛国は県名で、司州頓丘郡の衛県だとする八頭説は、むじんさんの賀循伝に「石冰の大将の抗寵が会稽郡の講堂に駐屯した」ともあり、衛国のような地方都市にも学問所があったのかも知れない説と大いに考えさせられました。
なお>寄止衛国文学講堂十余年郤センが無官説は検討したいと思います。
80
:
山口博数
:2006/10/27(金) 09:53:08
また郤セン傳ですが、「母憂去職。セン母病,苦無車,及亡,不欲車載柩,家貧無以市馬,乃於所住堂北壁外假葬,開戸,朝夕拜哭。養鶏種蒜,竭其方術。喪過三年,得馬八匹,輿柩至冢,負土成墳。未畢,召爲征東參軍。」とあります。そこで「養鶏種蒜,竭其方術。」ですが「鶏を養い蒜を種え、其の方術を竭くす」ことで母の看病を郤センがしたのなら、「母憂去職」の前になり、むじんさんは>母が単父にいたとすると、直線距離で100キロほどですから、比較的近い距離にいたされましたが、やはり同居でないと難しく思います。そうすると「寄止衛国文学講堂十余年」の衛国文学講堂で母は生前から一緒だったと思うのです。ならば寄止…十余年からと「喪過三年,…未畢,召爲征東參軍。」からで衛国文学講堂の寄止は在職中のことで、この寄止は前太子洗馬の職と関係してはいないのかと考えました。何故なら「講堂」と太子洗馬の役目の一つかも知れない「掌図書。釈"奠"講経則掌其事」と結びつくのではないかと思うのです。それならば洗馬の役目と同じで、「太学講堂」説で洗馬と太子洗馬が同様の仕事をするのでしょうか。また官立大学校たる太学の講堂に母と住み着くものでしょうか。太子のための専用施設は無かったのでしょうか。その一部が「衛国文学講堂」なら分かりやすいのですが。どうでしょうか。
81
:
八頭
:2006/10/29(日) 14:37:21
山口さん、こんにちは。八頭です。
先に書き込みました衛国文學講堂については衛国に着目した一つの候補にすぎませんし、
郤センが洛陽にいたのかどうかなどの考察がたらず、また邑党が洛陽で関係のあったグループなのかどうか、文学が太学なのかなど検討すべきことが
多いと思いますので、えちぜんさん、むじんさんの書き込みもご参考になってください。
>養鶏種蒜,竭其方術
の意味ですが、そのままでは意味をとりづらいので、
文脈からいくつか仮説(候補)を考え、妥当なものを選ぶのがよいのではないかと思います。
>①「鶏を養い蒜を種え、其の方術を竭くす」ことで母の看病を郤センがしたのなら
山口さんは母の病を治すためとお考えですね。
私は、
②養鶏種蒜,竭其方術の直前の朝夕拝哭に着目した場合
郤センの孝を示すものと考え、菜園で鷄とニンニクを育てていたが、朝晩哭していたため、
それをやめてしまった。
→竭其方術 竭はなくす、と考えました。
しかし、方術が、技術を表す語と考えても、養鶏種蒜を指すのか迷います。
→孝を表すのにそんな表現で当時の人は納得したとは考えにくいかもしれません。
③段落の始めから文脈を考え、母憂去職...不欲車載柩,家貧無以市馬から
喪過三年,得馬八匹までに着目し、時間軸を表すと、
家貧無以市馬→?→喪過三年,得馬八匹
となります。
郤センは「家貧」とあり、また
>未畢,召爲征東參軍とあるように、無官で国からの俸給はなかった思われます。
それなのに、喪から3年が経って馬を八頭得たというのは、
郤センは馬を買う現金(銅銭?)を獲得するために鷄を育て大蒜を栽培していた
のではないでしょうか。
ただ、疑問は竭其方術で其は何を指すのかよく分かりません。
だから、これもただの仮説として読んでください。
82
:
むじん
:2006/10/29(日) 17:25:13
すこし読み込みが足りませんでしたが、前の引用の「この地方は低湿で」というのは緱氏ではなく、
当時、郤詵が住まいしていた場所(衛国文学講堂)のことを言っていたようです。
『通典』巻103にはこれに続けてこうあります。
> 魏舒が山濤に手紙を送った。『郤詵は至孝の人で、先ごろ郎を退職したのも正しく母のためでした。
> 父の遺体は緱氏にあり、改葬しようと思っても実行する手立てがなく、すぐに埋葬しませんでした。
> のちに家の堂の北側に仮の埋葬をし、埋葬から何年か経ってから平輿監軍長史に任用されました。』」
ttp://ef.cdpa.nsysu.edu.tw/ccw/02/dd12.htm
「郎を退職した」というのは『晋書』本伝にある議郎のことでしょう。
母が病気になったので議郎を退職し、「衛国文学講堂」で母の世話をしていたが、
母が亡くなると、緱氏の墓地はたびたび水害に遭うし、現住居の城外も低湿なので、
城内の住居の側に埋葬した、ということになると思います。
83
:
山口博数
:2006/10/30(月) 12:21:28
八頭さん、むじんさん有難うございます。養鶏種蒜,竭其方術のニュアンスがよく分からないのが残念です。寄止というからには官舎でもない「衛国文学講堂」の側で養鶏種蒜できるのは、やはり太子洗馬の職場とは考えにくい気もします。郤詵伝のカク注に「詵表自理曰臣生三月而孤随母依外祖舅為縣悉家以咸寧二年母亡家自祖以下十四墳在緱氏而墓地数有水規悉遷改常多悉病遂使留此、此方下湿唯城中高故遂葬於所居之宅祭於所養之堂、不知其不可也。」とあるのですが、うまく句読点がうてません。どう訓むのでしょう。
84
:
仁雛
:2006/10/30(月) 15:43:33
掲示板管理人の仁雛です。
的確に誘導する機会を逸してしまい、大変申し訳ないのですが、漢文の読みなどに関する質問については「漢文翻訳スレッド」の方に書き込みいただければ幸いです。
とりあえず、
>>83
の山口さんの書き込みはお手数ですが「漢文翻訳スレッド」に再度投稿いただき、レスもそちらにつけていただきたくお願いいたします。
アナウンスが遅れて、すみませんでした。
85
:
しょうた
:2007/01/19(金) 20:03:35
はじめまして!
いきなり質問させていただきます。
芭蕉の俳諧に影響を与えた古文真宝について
どんなものなのか全くわかりません。
これから勉強しようと考えているんですが、
よかったら何か教えてください
86
:
中根
:2007/01/20(土) 12:26:38
>しょうたさん
はじめまして。
>芭蕉の俳諧に影響を与えた古文真宝について
>どんなものなのか全くわかりません。
この本は室町の五山文学の僧侶や江戸初期の文人はよく読んで
いたようですが、俗書のためWEB上に余り情報がないので、
「全くわかりません」というのもよくわかります。
成立年代不明、編者は黄堅(経歴不詳)の漢詩文集です。
奥平卓氏によれば推定される成立年代は南宋末〜元、
初歩的な誤りがあるので黄堅は一流の学者ではなかったろうとのこと。
訳書は星川清孝訳が明治書院(新釈漢文大系)から出ています。
柚木利博編の新書版にまとめたダイジェスト版も出ています。
とりあえず、ダイジェスト版はアマゾンでも買えるようですので、
これを読んでみてはどうでしょう?
なお、古文真宝は李密(唐の人ではなく、晋の武帝に仕えた人)・
陶淵明などの晋書関係の人物の文章も収録しております。
87
:
のりPの教え子
:2009/01/04(日) 19:08:26
はじめまして。いきなりですが質問させてください。
わけあって「蛍雪の功」について、どこに由来があるのかを調べていました。その中で疑問に当たってしまいました。
蛍雪の功、ネット検索してみると、大抵は晋書に由来している、という情報がヒットします。実際、車胤伝には、車胤が蛍の光で勉強した、という感じの記述があるようです。
ここまでは良いのです。
問題は雪の方です。
ヤフー辞書(大辞泉)によれば、孫康伝の故事から、と書いてあるのですが、wikiで晋書を調べてみると、孫康伝というのは存在しないようです。車胤伝は確かにありますし、孫康の祖父である孫盛の列伝はあるようなのですが……
晋書に孫康に関する記述はあるのでしょうか。検索した限りでは、無いように感じました。
更に調べてみると、どうも蛍雪の功という言葉は、蒙求の孫康映雪、車胤聚蛍から有名になっているらしいと分かりました。
孫康映雪を調べてみると、グー辞書で、『初学記』が出典だと載っていました。
初学記は唐の徐堅が725年に偏したもので、蒙求は唐の李瀚が746年に編したもの、のようです。孫康も晋の時代の人物なのに唐にいたるまで史料に登場しなかった、ということでしょうか。よく忘れ去られなかったものだと思います。
前置きが長くなりましたが、ここからが質問の要点です。
「蛍雪の功の出典は、端的に言って何なのか?」
どう解釈するか、の問題にもなるかと思うのですが。
蛍の部分に関しては晋書で間違いないのでしょうが、半分だけであっても、蛍雪の功の出典が晋書であると言ってしまっても良いものか?
それとも、蛍も雪も両方揃っている蒙求というべきなのか。
やっぱり正確を期して晋書と初学記とするべきなのか……
……なんか、書いているうちに、わざわざ質問するべきことでもないように思えてきてしまったのですが……ご回答いただけますと幸いです。
88
:
菅原
:2009/01/04(日) 22:24:32
のりPの教え子さん、はじめまして。代表の菅原です。
わけあって「蛍雪の功」の由来について調べているとのことなのですが、
大学か高校か何かのレポートで調べているのでしょうか?
それとも卒業論文等の研究に近い調査なのでしょうか?
またすべてネットで検索されて書物を一つもご覧になっていないようですが、
書物を使わずにネットで検索するレポートなのでしょうか?
ネット検索は手軽ですが、ネットの情報には間違いもあるので、
利用には注意が必要だと思います。
故事について知りたいのならまず故事について書かれた書物を見るのが
一番手っ取り早いことと思います。
たとえば『三省堂中国故事成語辞典』(三省堂・1996)などを見れば
『晋書』「車胤伝」と『蒙求』注となっています。
それから『初学記』が出典というのは『初学記』の性質上ありえません。
goo辞書には「『初学記』」ではなく「『初学記しょがくき』二に引く『宋斉語そうせいご』 」となっていますよ。
なぜ『初学記』が出典にならないかは『初学記』という本を調べればわかると思うので、
せっかくの機会ですから調べてみたらいかがでしょうか?
どうしてもわからなければお教えしてもかまわないので、また質問してください。
この出典に関しては初学記や蒙求の編纂年の前後で判断するものではないと思います。
>晋書に孫康に関する記述はあるのでしょうか。検索した限りでは、無いように感じました。
現在の『晋書』には「孫康伝」はありませんし、記述も見当たりません。
ただそれが過去いかなる時も『晋書』に孫康の記述が一切ないということとは一致しません。
>孫康も晋の時代の人物なのに唐にいたるまで史料に登場しなかった、ということでしょうか。よく忘れ去られなかったものだと思います。
現行の『晋書』も唐代に作られたものなので、のりPの教え子さんの理論を用いると
『晋書』に登場する全員がよく忘れ去られなかったということになりますが、
そんなことはありません。
正史だけが唯一の史料というわけではありませんし、唐代以前にもいくつかの『晋書』はありました。
とりあえずのりPの教え子さんの「わけ」がわからないので、こういった答えになりました。
理由がわかればもう少し希望に近い回答ができるのではないかと思いますので、
もし今後質問される場合は差し支えない範囲で理由を書いてくだされば幸いです。
89
:
のりPの教え子
:2009/01/05(月) 22:40:12
菅原さま、さっそく丁寧なご回答をいただき、ありがとうございます。
と、同時に、質問文が雑で不備なために、余分な手間をおかけしてしまったようで、もうしわけございません。
私は趣味で小説を書いており、その中で一文、蛍雪の功について元ネタの説明を軽く出したいと思っただけです。極端な話、出典について一切書かずに省略したとしても、作品としては問題なく成り立ちます。
ですので、レポートのような本格的なレベルではなく、どうでもいいと言ってしまえばどうでもいいレベルです。
質問文の中に書かなかったのが悪かったのですが、ネットだけで調べたわけではありません。
三省堂新明解四字熟語辞典(1998年)で孫康映雪を調べました。【意味】のところに意味の解説があり、最後に、蒙求の一句。と書かれていました。【出典】は『初学記』二に引く『宋斉語』でした。
車胤聚蛍を調べると、【意味】のところの最後に蒙求の一句。【出典】は晋書車胤伝でした。
再度よく調べてみると蛍雪之功も載っていたので見てみますと、【故事】のところに、『晋書』「車胤伝」と『初学記』二に引く『宋斉語』から。【出典】が蒙求でした。
……うーん、改めて見てみると、ますますわけが分からなくなってしまいました。
どうも私は【故事】と【出典】をごっちゃにしていたみたいです。私が求めていたのは出典ではなく、「蛍の光や窓の雪で苦労して勉強した、というエピソードの元ネタはどこから来ているのか」ということなので、どちらかというと故事に近いのかもしれません。
故事だとすると、蛍はいいとして、雪の方がやはりどう考えるべきなのか分からなくなってしまいます。
「『晋書(車胤伝)』等に記されている、苦労して学問に励んだ故事に由来する成語【蛍雪の功】。」
とでも書けば、間違いではない、……のかな?と思います。
雪の方は思い切って「等」でごまかしてしまったけど、それでも文章としてはすわりが悪く、イマイチな感じがするのですが。
90
:
えちぜん
:2009/01/06(火) 00:47:41
のりPの教え子さん、こんばんは。解體晉書会員のえちぜんと申します。
小説をお書きになるのですね。文才のある方はうらやましいです。若くして司馬氏に弑された高貴郷公曹髦などは小説の主人公に成りうるのではないかと思いつつ、どなたか小説に仕立ててくださらないかとひたすら他力本願です。
さて、「蛍雪之功」につきましては、のりPの教え子さんがお知りになりたい、あるいは十分に参考になるものとして書籍を一冊紹介させていただきます。
早川光三郎著『新釈漢文大系58 蒙求(上)』(明治書院)
この書籍は上下ありますけれども、上だけで大丈夫です。「孫康映雪 車胤聚蛍」も収録されておりますし、巻頭の「序説」にも「蛍雪の功」が取り上げられております。
大きめの図書館などには所蔵されておると思いますので、ご参考になさってください。
91
:
NAGAICHI Naoto
:2009/01/06(火) 01:03:01
横から失礼します。
「蛍雪の功」(螢窗雪案)ですが、
『晋書』巻83列伝53の車胤伝の
「家貧不常得油,夏月則練嚢盛數十螢火以照書,以夜繼日焉。」と
『初学記』巻2の雪2の
「宋齊語曰,孫康家貧,常映雪書。」の
ふたつの故事が合わさって
『蒙求』巻上の
「孫康映雪,車胤聚螢」の記述が生まれ、
日本では「蛍雪の功」として(中国では螢窗雪案として)知られているのだと思います。
92
:
のりPの教え子
:2009/01/09(金) 22:39:12
えちぜんさま、NAGAICHI Naotoさま、回答ありがとうございます。
蒙求、日本に与えた影響は随分大きいようですね。
私は個人的に四字熟語が大好きなので、掲載されている内容も大変興味深いです。
よくよく考えてみたら、必ずしも出典となる史料の名前を小説に出さなければならないというのでもないし、車胤も孫康も、出てくる史料はともかくとして晋人であることには違いなさそうだし、
「中国・晋の時代に、車胤が蛍の光で、孫康が窓の雪で苦労して勉強に励んだ故事に由来する成語【蛍雪の功】。」
とかでもいいかなー、とも思い始めました。かなり推敲の余地はありそうです。
末筆になりましたが、貴サイトの晋書翻訳活動がより充実したものとなりますよう、陰ながら応援いたしております。
93
:
菅原
:2009/01/18(日) 11:29:39
のりPの教え子さん、こんにちは。菅原です。
【解體晉書】に対して応援いただきありがとうございました。
出典について非常に気になられているようでしたので、
てっきり学校のレポート等で調査されているのかと思いましたが、
小説内で使うのでしたら、特に出典にこだわる必要はないと思いますので、
おっしゃるとおり「中国・晋の時代に、車胤が蛍の光で、孫康が窓の雪で苦労して勉強に励んだ故事に由来する成語【蛍雪の功】。」
で十分だと思います。
書籍名を出したいのでしたら出典ではなく「『蒙求』の一節に使われていることで有名。」
といったような補足説明をすればより良いのではないかと思います。
小説のご執筆はいろいろとたいへんだと思いますが、頑張ってください。
それでは失礼します。
94
:
vanilla
:2009/07/28(火) 13:40:09
周処が陸雲に教えを請う話というのは、どの本のどのあたりに載っているか、教えていただけないでしょうか?
95
:
菅原
:2009/07/29(水) 23:07:22
vanillaさん、はじめまして。代表の菅原です。
ご質問の件は正史でいえば【解體晉書】が訳している本の『晋書』の「周処伝」にあります。ただ現行の『晋書』はそれ以前の各種の『晋書』や稗史小説等を集めて編纂したものであります。現行の『晋書』以前の書物であればたとえば『世説新語』「自新篇」に『晋書』と同種の逸話があります。
96
:
vanilla
:2009/07/31(金) 10:27:22
菅原さま
丁寧なご説明本当にありがとうございました。
その資料がなかなかみつからず困っていたので、本当に助かりました。
「晋書」は図書館などでみつかるか分かりませんが、行ってみようと思います。
ありがとうございました☆
97
:
八頭
:2009/10/11(日) 20:34:55
『続日本紀』神護景三年(769)に
「大宰府言。此府人物殷繁。天下之一都会也。子弟之徒。学者稍衆。而府庫但蓄五経。
未有三史正本。渉猟之人。其道不広。伏乞。列代諸史。各給一本。伝習管内。以興学業。
詔賜史記。漢書。後漢書。三国志。晋書各一部。」とあります。
当時、都の大学には、五経はもちろん、『史記』、『漢書』、『後漢書』(東観漢記?)
などの史書なども揃っていたと思われますが、
この記事から大宰府の府学、そして恐らく各地の国学にも、史書が行き渡っていなかった
ことが想像されます。
この文を読んでふと疑問に思ったのですが、
『晋書』が公式に日本にもたらされた年はいつなのでしょうか。手元に史料が少なくてよく分かりません。
『晋書』が成立したのが、唐の貞観二十二年(648)です。
『旧唐書』巻六十六 房玄齡伝
「尋與中書侍郎褚遂良受詔重撰晉書,……至二十年,書成,凡一百三十卷,
詔藏于祕府,頒賜加級各有差.」
また、
同書の巻百九十九 東夷伝新羅国に
「二十二年,真紱遣其弟國相、伊贊干金春秋及其子文王來朝[五].詔授春秋為特進,
文王為左武衛將軍.春秋請詣國學觀釋奠及講論,太宗因賜以所制溫湯及晉祠碑并新
撰晉書.」
と、唐の太宗は、648年に新羅の使者である金春秋に『晋書』を与えたとあります。金春秋は、654年に
新羅王に即位した人物のようです。
『日本書紀』巻第二十五 白雉五年(654)七月の記事に、
「是月、褒美西海使等、奉対唐国天子、多得文書宝物、授小山上大使吉士長丹、
以少花下。」とあります。
当時、唐に朝貢していた新羅の使者に『晋書』を与えられたとすれば、日本の使者にも与えられた可能性は
高いと思います。『日本書紀』の「多得文書」の中に『晋書』が存在した
のではないでしょうか。
よって、日本に『晋書』がもたらされたのは、
第二回遣唐使の吉士長丹が帰朝した白雉五年(654)頃?かもしれないと勝手に憶測しているのですが、
素人なのでよく分かりません。それとも、記録は残っていないので詮索しても意味がないのでしょうか。
詳しい方がいらしたら、教えていただけないでしょうか。
よろしくお願い致します。
厳密な年は分からなくても『晋書』が成立して間もなく日本に輸入されたとすれば、7世紀半ば過ぎと
おさえておけばよいとも思います。そうすると、今から大体1350〜1360年ぐらい前に、日本の教育機関で
講義されるようになったといえるでしょうか。
今の学生で読む人は、研究者を除けば、三国志関連で興味を持ったという場合が多いようですが、
当時の学生にとって、中国の史書は先端知識で、官吏になるための必読の書物の一つだったのでしょうね。
ただ、成立から150年経っても地方の大きな教育機関に普及していなかったというのは、
驚きました。しかも一冊だというから、学生の中には部分的に書写した人もいたのでしょうか。
当時は相当高価だったのでしょうね。
98
:
mai
:2009/11/14(土) 20:58:35
初めまして突然申し訳ありません、
司馬一族(司馬懿 司馬師 司馬昭)の事を知りたいのですが三国志関係で司馬師 司馬昭の事が書かれている書籍を持っていません。
司馬一族の事が詳しく書かれている書籍を探しています、オススメな書籍などを教えていただけませんか?
突然で申し訳ございませんが教えていただけないでしょうか?
よろしくお願いします
(「司馬一族について」1 名前:mai 投稿日: 2008/07/29(火) 19:15:11 から菅原が転載。)
99
:
えちぜん
:2009/11/14(土) 20:59:52
司馬一族の関連書籍と聞いて、思いつくのは下記2点です。
松本一男『司馬仲達―「三国志」の覇者』 (PHP文庫)
福原啓郎『西晉の武帝 司馬炎』(白帝社)
2点目はご指定の(司馬懿 司馬師 司馬昭)でもありませんし、私も未見です。(思わずAmazonで勢いで注文してしまいました。。。)
それと、
坂口和澄『三国志群雄録』(徳間文庫)には司馬懿の項があって分量は少ないので詳しくとは言えなさそうですが紹介されています。
あとは、曹操や諸葛亮、諸葛亮死後について書かれたものを探してみると、出てくるかもしれません。
(「司馬一族について」2 名前:えちぜん 投稿日: 2008/07/29(火) 21:22:12 から菅原が転載。)
100
:
mai
:2009/11/14(土) 21:00:46
えちぜんさん
ご返答有難うございます、3点早速購入致しました、司馬一族の書籍はあまり無いのですね。
三国志の中で司馬懿は好きな人物の一人なので詳しく知りたいと思い出したらその子等まで興味が湧いてきました。
これからじっくりと調べていきたいと思います、色々と教えて下さいまして有難うございました。
(「司馬一族について」3 名前:mai 投稿日: 2008/07/31(木) 15:36:08 から菅原が転載。)
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板