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80山口博数:2006/10/27(金) 09:53:08
また郤セン傳ですが、「母憂去職。セン母病,苦無車,及亡,不欲車載柩,家貧無以市馬,乃於所住堂北壁外假葬,開戸,朝夕拜哭。養鶏種蒜,竭其方術。喪過三年,得馬八匹,輿柩至冢,負土成墳。未畢,召爲征東參軍。」とあります。そこで「養鶏種蒜,竭其方術。」ですが「鶏を養い蒜を種え、其の方術を竭くす」ことで母の看病を郤センがしたのなら、「母憂去職」の前になり、むじんさんは>母が単父にいたとすると、直線距離で100キロほどですから、比較的近い距離にいたされましたが、やはり同居でないと難しく思います。そうすると「寄止衛国文学講堂十余年」の衛国文学講堂で母は生前から一緒だったと思うのです。ならば寄止…十余年からと「喪過三年,…未畢,召爲征東參軍。」からで衛国文学講堂の寄止は在職中のことで、この寄止は前太子洗馬の職と関係してはいないのかと考えました。何故なら「講堂」と太子洗馬の役目の一つかも知れない「掌図書。釈"奠"講経則掌其事」と結びつくのではないかと思うのです。それならば洗馬の役目と同じで、「太学講堂」説で洗馬と太子洗馬が同様の仕事をするのでしょうか。また官立大学校たる太学の講堂に母と住み着くものでしょうか。太子のための専用施設は無かったのでしょうか。その一部が「衛国文学講堂」なら分かりやすいのですが。どうでしょうか。


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