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質問スレッド (なんでもお尋ねください)

1仁雛:2005/12/26(月) 22:15:19
ここは素朴な疑問、スレッドたてるまでもないあらゆる質問を受け付けます。
お気軽にご質問ください。当サイトのこと、晋代(を中心とした中国古代史)のこと、などなど。。。

漢文の翻訳や晋書本文に関する質問は→「漢文翻訳スレッド」にてどうぞー!!

2マナミン:2005/12/28(水) 23:55:06
初めましてこんにちは。参考になるサイト様で本当に助かっています。
ところで周浚って結局誰と結婚したんでしょう??
絡秀は「妾にしたい」って言われたんですよね・・一体・・。

(「雑談スレッド」42 名前: マナミン 投稿日: 2005/12/22(木) 21:46:01 から仁雛が転載。)

3えちぜん:2005/12/28(水) 23:57:50
マナミンさん、初めまして。

周浚のことは全然知らなかったのですが、私なりに資料を確認してみました。
参考になりますかどうか。。。

『晋書』巻六十一列伝第三十一に周浚伝があり、次のようにあります。

  三子:邈、嵩、謨.
  (三人の男子があり、周邈・周嵩・周謨という。)

『晋書』巻六十九列伝第三十九に周邈伝が別にあります。ここではちょっと置いといて。
『晋書』巻九十六列伝第六十六の列女伝に、周邈母李氏伝があります。当サイトでも
列女伝の翻訳がありますので、詳細はそちらを。

  周邈母李氏,字絡秀,汝南人也.
  (周邈の母、李氏は、字を絡秀といい、汝南の人である。)

とあります。周浚が安東将軍の時に、絡秀の家に立ち寄り、絡秀に一目惚れ。

  獨見一女子甚美,浚因求為妾.
  (たいへん美しいひとりの女の子が見えただけだった。周浚はそこで彼女に妾となるよう求めた。)

そして、

  遂生邈及嵩、謨.
  (こうして周邈と周嵩と周謨を生んだ。)

とあります。つまり、周浚の三人の男子は全て絡秀が産んだことになりますね。
さて、ここで『晋書斠注』を見ると、「浚因求為妾」の箇所に注が付けられています。
『世説新語』賢媛第十九18に関連する記述があるようです。語句は違えど、列女伝の記述とほぼ
同じ内容です。劉孝標注に次のようにあります。

  按周氏譜,浚取同郡李伯宗女,此云為妾,妄耳.
  (按ずるに『周氏譜』には「浚は同郡の李伯宗の娘を娶った。」とある。ここで妾にしたというのは、でたらめである。)(訳は新釈漢文大系『世説新語』下 明治書院を引用) 

ところが、『晋書斠注』に戻ると、次のように注があります。

  案:本傳與世説大致相同,必有所本.竊謂伯仁昆弟既從母命,以李氏為親親,故譜中諱言,為妾未可.即斥其妄也.
  (案ずるに本伝(列女伝)と世説新語の内容はほとんどが同じであり、きっと根拠となることがあったのだ。私見では、伯仁(周邈の字)及び兄弟は母の命に従って、李氏と親しくしたとあるので、『周氏譜』で妾としたなどと悪く言うことはできなかったのだろう。なので、妾にしたというのはでたらめという説は採らない。)

絡秀が周浚の妾でないというのは、『周氏譜』の記述のみで、大勢は絡秀は妾であったとあるのですが、
私は絡秀は妾ではなく、正妻であったと思うのです。というのも、

1.周浚の男子三人は全て絡秀が産んだ子供であること。
2.『周氏譜』の記述があること。
3.『晋書斠注』が言うように列女伝と世説新語の内容がほぼ同じであるのは、むしろ列女伝が『世説新語』の内容をそっくりそのまま採用したのではないかと思われ、それを根拠に『周氏譜』を取らないとする『晋書斠注』に納得いかないこと。
4.列女伝に採用される程の女性の話としては、妾からのし上がったとする方がさらに印象が強烈になる(つまり面白くなる)ことから、誇張されたのではないかと思うこと。

私の想像なども入ってしまっていますが、こんなところです。
長々と書きましたが参考になりますでしょうか?

列女伝の訳は本サイトの列女伝訳を借用しました。
『世説新語』は『世説新語校箋』(中華書局)から引用しました。
『晋書斠注』の漢文解釈に誤りがあれば、ご教示下さい。<(_ _)>

(「雑談スレッド」45 名前: えちぜん 投稿日: 2005/12/25(日) 01:05:12 から転載しました)

4仁雛:2006/01/06(金) 14:49:46
ちょっと時間が空いてしまいすいません。風邪で正月前後、伏せっていました^^;

自分は、やはり絡秀は周浚の「妾」として迎えられたと思います。
理由はいくつかありますが、主要な点は『晋書』『世説新語』ともに妾としたと書いてある点、もう一点は、絡秀が息子たちに絡秀の家(=李氏)を「親族」として付き合うように迫り、息子たちがそれに従ってはじめて李氏の一族が「方雅之族」(貴族)となった点です。『晋書』列女伝に以下のようにあります。
「浚因求爲妾。其父兄不許,絡秀曰:「門戸殄瘁,何惜一女!若連姻貴族,將來庶有大﨟矣。」父兄許之。遂生邈及嵩、謨。而邈等既長,絡秀謂之曰:「我屈節爲汝家作妾,門戸計耳。汝不與我家爲親親者,吾亦何惜餘年!」邈等從命,由此李氏遂得爲方雅之族。」
「周浚はそこで彼女に妾となるよう求めた。彼女の父兄は許さなかったが、絡秀が「家門が病みおとろえているというのに、どうしてひとりのむすめを惜しむのでしょうか!もし貴族と姻戚となれれば、将来大きな利益をねがうこともできるでしょう」といったので、父兄はこれを許した。こうして周邈と周嵩と周謨を生んだ。周邈らが成長すると、絡秀は「わたしが節を曲げておまえたちの家の妾となったのは、実家のためを計っただけです。おまえたちがわたしの実家と親しくしない(→と親族にならない)のなら、わたしはまたどうして余命を惜しみましょう!(=余命を惜しまず自殺する覚悟です)」と彼らにいった。周邈らは母の命に従ったので、これにより李氏はとうとう貴族となることができた。」
訳は解体晋書・NAGAICHIさん訳より。カッコ内のみ仁雛注。
絡秀が正妻であったなら、周氏と絡秀の実家の李氏は無条件に親族ですが、そうではなかったからこそ、絡秀が息子たちに李氏を「親族」として認めさせる必要があったわけです。

雑談スレの56のNAGAICHIさんのカキコミにあるように、李絡秀が妾となった時にはすでに周邈は20余歳でした。ということは、周邈を生んだであろう正妻がいたからこそ、妾としてしか迎え入れられなかったわけです。
その後、正妻が死んだかなにかしたのでしょう。絡秀が息子たちに実家の李氏を親族として認めさせた、ということは事実上、正妻の座に位置したことになります。そのことを受けて、(そのことが「事実」となった後に書かれた)伝記上は『周氏譜』の記述となり、また『晋書』などで3人の子どもを産んだ、という記述になったのだと思います。
以上、ご参考までに♪

5NAGAICHI Naoto:2006/01/06(金) 21:56:01
『世説新語箋疏』賢媛篇18は面白いこと言ってます。
程炎震が云うには、「伯仁(周邈)は、永昌元年(322)壬午に年五十四で死んでいる。つまり泰始五年(269)己丑の生まれである。開林(周浚)がもし安東将軍となって李絡秀を納れたのであれば、(李絡秀の子であるはずの)伯仁はすでに二十余歳である。この話がデタラメであるのは言うまでもなく、劉孝標が『周氏譜』をもって証したのは、もっともで手堅い根拠である。それでも『晋書』がこの話を『列女伝』に取り入れたのは誤りだ」
『世説新語』賢媛篇と『晋書』列女伝の話がともに信用ならないとすると、李絡秀正妻説もありですね。

(「雑談スレッド」56 名前:NAGAICHI Naoto 投稿日: 2006/01/04(水) 20:22:14 から仁雛が一部訂正の上、転載。)

6マナミン:2006/01/11(水) 16:14:04
様々な回答ありがとうございました! 私も考えてみましたが
色んな可能性があって頭がこんがらがってしまいました・・笑

一緒に世説新語を調べてるグループのみんなとも話し合ってみます〜。
本当にありがとうございました。

ところで本当に素朴な質問なんですけど、伯仁兄弟の
名前、あれどうやって読むんですか??良ければ教えて下さい┏o

7仁雛:2006/01/12(木) 00:32:35
>>6 マナミンさんへ

自分の意見はかなり(実証部分とか原文の紹介は)省略してしまっているので本意が伝わっているか、不安ですが、ここで出た意見を、ぜひみなさんで検討してみてくださいね。

>伯仁兄弟の名前、あれどうやって読むんですか??

字(あざな)はいらないですよね?(笑)。
周邈ガイ・周嵩スウ・周謨バクですね。

8えちぜん:2006/01/13(金) 01:13:43
私は、周邈ギ・周嵩スウ・周謨ボ だと思っていました。

こういう場合、何を調べれば良いのでしょう?『説文解字』?『康煕字典』??

9仁雛:2006/01/13(金) 15:26:59
周邈ギ・周嵩スウ・周謨ボ

ですね。。。恥をさらしました。

根拠なく、偏や旁の読みにひっぱられて誤読してしまう「百姓読み」の実例になってしまいました^^;
『漢辞海』第二版で確認しました。辞書ひかないとダメですね。
えちぜんさん、ありがとうございます。

10えちぜん:2006/01/14(土) 00:03:36
邈を「ギ」と読むことに、個人的には違和感を感じています。第一印象は怖い。(^^;)

王祥伝を訳していて荀彧の子、荀邈が出てきますが、当初は「ジュンガイ」
と読んでいたのです。しばらくして何かの本で「ジュンギ」とルビが振られて
いるのを見て、邈を「ギ」と読むと知ったのでした。

今でもこの字を見ると、つい「ガイ」と読みそうになります。(^^;)

11名無晋書さん:2006/01/24(火) 11:02:08
いきなりごめんなさい。幽明録や捜神記などをよんで中国における女性のイメージというと、
どんな感じのものがありますか?私としては神聖(神女・天女)・悪女・美しいなどがると思いますが
よければおしえてください

(雑談スレッド 64 名前:名無晋書さん 投稿日: 2006/01/24(火) 01:30:55 から管理人が転載)

12仁雛:2006/01/25(水) 23:16:28
>>11
なかなかイメージとなると難しいので、簡単に答えられないのですが、下記の文章が少し参考になるかもしれません。
黒田真美子「六朝志怪小説の中の女性たち−その愛と死 (特集 中国古典小説入門1−志怪小説の世界」『月刊しにか』8-3・1997年

あと、大学時代に幽明録や捜神記あたりの六朝志怪小説を読んで、「異界や未知なる世界の象徴」としても女性が描かれている、と習いました(か、どこかの本で読みました^^;)。
男性にとっては、女性というのはやはり未知なるもの、男とは違うもの、として対比できる存在ですからね^^; そういうイメージが読み取れる記事があったと思います。

いきなりでも、質問してくださり、ありがとうございます! またどしどしどうぞ。
あと、他の人も答えられる情報をお持ちの方はぜひ書き込みしてください♪

13衛攸之:2006/01/27(金) 03:42:54
 再開おめでとうございます。旧サイトからずっと拝見させていただいておりましたが、今回王導・陶侃伝の翻訳がUPされてるのを拝見し、好きな人物なだけに非常にうれしく感じています。

 さて、陶侃といえば、青年時代貧乏生活で苦労したことで有名ですが、他にも「三横」の一人として地元の民衆から嫌われた周処や、陸機の船を略奪しようとした戴淵など、旧孫呉の出身で父祖が呉の将軍だった人物はどうも経済的な不遇を味わっていたように思えるのですが、この点について言及されている研究書はないでしょうか?もしご存知でしたら教えてください。

14菅原:2006/01/29(日) 22:27:56
>>13 衛攸之さん
代表の菅原です。ご訪問ありがとうございます。
本年も新訳を公開予定ですので、今後ともご愛顧よろしくお願いします。

ご質問の件ですが、ご質問の趣旨と少しずれるかもしれませんが、
陸遜の孫の陸機兄弟についての文章で彼らが不遇を味わった旨を読んだような記憶があります。
ただご質問の呉将の末裔の経済的な不遇について言及した研究については私は存じ上げておりませんので、
この件について知っている会員に回答をお願いしようと思いますので、
もうしばらくお待ちください。

15中根:2006/02/01(水) 20:53:20
>>13 衛攸之さん
会員の中根です。

>旧孫呉の出身で父祖が呉の将軍だった人物はどうも経済的な不遇を味わっていたように思えるのですが、この点について言及されている研究書はないでしょうか?

宮崎市定『九品官人法の研究 科挙前史』(中公文庫)でこのことが取り上げられています。
宮崎氏によれば、魏晋の貴族がほぼ中央政権の要職を独占してしまったために、
呉出身者は低いポストしか与えられなかったようです。晋書にも「呉の三俊」として
挙げられている陸機兄弟と顧栄ですら、出仕(起家)時には八品の郎中という低い官位が
与えられており、魏の文官の子孫が概ね五品〜七品のそこそこの官位を出仕時に与えられて
いるのに比べると著しく低い身分に留まっています。名門であった陸兄弟ですら八品ですので、
呉の一将軍の子に過ぎない陶侃に至っては伏波将軍府舎人という最低クラスの官職にやっとありついています。

16仁雛:2006/02/08(水) 14:03:07
>>13 衛攸之さん

書き込みありがとうございます。
>旧孫呉の出身で父祖が呉の将軍だった人物はどうも経済的な不遇を味わっていたように思えるのですが、この点について言及されている研究書はないでしょうか?
とのことで、>>15で中根さんのレスがありますが、あまりお役に立てませんが自分も少し調べてみたのでご紹介します。

川勝義雄『六朝貴族制社会の研究』岩波書店

学会では言わずと知れた名著ですが、第三章の三「西晋支配下の江南」に孫呉旧臣たちの西晋での状況が若干触れられている部分があります。具体的な将軍名は出てきませんが。

巴蜀の旧臣たちの西晋での状況・動向についての分析(実は私の卒論でもやりました//笑)をした研究論文は、大東文化大の中林史朗先生がいくつか書いていますが、孫呉のは不勉強ゆえ知りません^^;
探せばあるのかもしれませんし、>>14の菅原代表のレスにもあるように陸機関連で文学畑からの論文はありそうな気がします。いずれにせよ、西晋での巴蜀・孫呉の旧臣たちは西晋王朝下ではあまり出世
できない、西晋ですでに貴族制的な体制ができあがってしまっていたので、「田舎モノ」が入り込む余地がなかったのは諸資料から伺えるところです。学会的には、孫呉の場合は、その後東晋王朝の基盤
となるので、外来の東晋王朝と在来の江東豪族の関係はどうだったかという問題があり、川勝氏の上記著書にもこれに関する研究がありますし、その後研究論文もあると思います。

あとは越智重明先生の一連の六朝貴族制社会を論じた専著に当たると、もしかすれば言及されているかもしれません。ご参考までに書誌情報を下にあげます。
越智重明『魏晋南朝の政治と社会』吉川弘文館・1963年、『魏晋南朝の貴族制』研文出版・1982年、『魏晋南朝の人と社会』研文出版・1985年
また、言及している可能性は低いと思いますが「この本ってどうよ?!」スレの70で殷景仁さんが紹介くださった、安田二郎先生の『六朝政治史の研究』もあります。
衛攸之さんが大学図書館などを利用できる立場でしたら、ぜひご覧になってみてください。結果などをレスしてくださるとうれしいです。

と、このスレを書いて、魏晋南北朝の研究書籍の紹介とその目次くらいは「参考文献スレッド」にupしたいな、そうすれば便利だなと思った次第^^;

17無学:2006/03/04(土) 20:44:55
1 名前:無学 投稿日: 2006/03/04(土) 16:38:01

すみません。晉書列傳第五十九の以下の分ですが、読み下しと、どのように訳がせばよいかご教示いただけたら幸いです。
「古人有言:“君子殺身以成仁,不求生以害仁。”又雲:“非死之難,處死之難。”信哉斯言也!是知隕節苟合其宜,義夫豈吝其沒;捐軀若得其所,烈士不愛其存。故能守鐵石之深衷,窅松筠之雅操,見貞心於歲暮,標勁節于嚴風,赴鼎鑊其如歸,履危亡而不顧,書名竹帛,畫象丹青,前史以為美談,後來仰其徽烈者也。」
最初の部分は「古人言う有り。君子は身を殺して以て仁を成し、生を求めて以て仁を害せず。」となり、『論語』の「子曰、志士仁人、無求生以害仁、有殺身以成仁」からかと思うのですが。

(「お教え下さい」スレッドの1 名前:無学 投稿日: 2006/03/04(土) 16:38:01 より管理者・仁雛が転載しました)

18巫俊(ふしゅん):2006/03/04(土) 20:46:05
/新校本晋書/列伝/巻八十九 列伝第五十九/忠義/序言
- 2297 -

ですね♪
訳はともかく、読み下しは人によって変わってきたりしますから、まずは意味をとっていったら如何でしょう?
基本的な読み下しの方法は辞書にものってますし。
(しかし辞書の説明ってあんまり読んでないんですよね。やっぱり初心にかえって手引きから読んでみようかな、、)
それと、旧字体は新字体にもどしたくて仕方なくなってしまう巫俊です。。

(「お教え下さい」スレッドの2 名前:巫俊(ふしゅん) 投稿日: 2006/03/04(土) 18:40:57 より管理者・仁雛が転載しました)

19無学:2006/03/05(日) 03:30:36
管理人の仁雛さん、お手数をおかけして申し訳ございません。初めてでやり方がよく分からずにスレッドを立ててしまいました。巫俊さんご教示ありがとうございます。ただ、如何せん無学の者で、さっぱりわからないのです。又雲は又云うでしょうか。

(「お教え下さい」スレッドの7 名前:無学 投稿日: 2006/03/05(日) 01:01:45 より管理者・仁雛が転載しました)

20巫俊(ふしゅん):2006/03/05(日) 03:31:52
>又雲

又云の誤記じゃないかと思いますよ。

(「お教え下さい」スレッドの8 名前:巫俊(ふしゅん) 投稿日: 2006/03/05(日) 02:45:13 より管理者・仁雛が転載しました)

21仁雛:2006/03/05(日) 07:10:42
無学さん、どうもはじめまして。
ところで、なぜに晉書列傳第五十九の意味を知りたいのでしょうか^^; もしよろしければ教えてください。

巫俊(ふしゅん)さん、重ねてレスありがとうございます。ご指摘の通り、該当の部分は「晋書巻八十九・列伝第五十九・忠義」の冒頭部分で、「又雲」は「又云」の間違いですよね。ご指摘ありがとうございます。

とりあえず一行だけ(笑)

「古人に言あり、「君子、身を殺して以て仁を成し、生を求めて以て仁を害せず、と。また云う、死にあらざるを之れ難しとし、死に處るを之れ難しとす、と。信なるかな、この言や」
昔の人の言葉に「君子は、自分の身を滅ぼしても仁義を成し遂げるもので、生きながらえて仁義を損なうことはしない」とあります。他にも「死ぬことは簡単なことだが、どう死ぬかが難しいことだ」とも言います。まったくその通りですね、この言葉って。

前段は、無学さんの指摘の通り、『論語』衛霊公篇の「子曰、志士仁人、無求生以害仁、有殺身以成仁」を踏まえています。
後段は、おそらく。『史記』巻八十一、廉頗藺相如列伝論の「知死必勇、非死者難、處死者難」を踏まえた表現でしょう。
いずれも、「仁義・節義のためには、いたずらに生を求めることをせずに、死を選ぶのが立派な人がとる道だ」というニュアンスでの引用だと思います。

22巫俊(ふしゅん):2006/03/05(日) 09:02:20
>名を竹帛に書き

古風な言い回しなのかもしれませんが、晋の時代はまだまだ竹簡の使用される時代だったようで、
『晋書』の背景って奥が深そうですね。
忠義伝に建てられている人の名前をひとりも知らない私..
だれぞ有名な人も混じってるんでしょうか?
中国にはときどき命を放り投げる士大夫がいますが、けっこう文学作品がされで未完に終わったりしかねないんですよね..

23無学:2006/03/05(日) 13:14:35
仁雛さん、巫俊さん、ご教示ありがとうございます。
晉書列傳第五十九序については、掛物にある「松柏見貞心」の語の出典を探していて見つけたものです。
晉書の当該文はそれぞれに典拠があるようで無学者には難しいのと、まず「又雲」で躓いてしまいました。(..;
じっと見ていたら、もしかして「又云」かしらと思っては見たのですが。

24仁雛:2006/03/06(月) 05:17:55
あ!!!!
「漢文翻訳スレッド」に転載すべきことだった・・・^^;
しまった〜。。。

25仁雛:2006/03/08(水) 00:59:43
無学さん、なるほどそういうことでしたか。
晋書出典の故事成語や四字熟語など、意外にあります。いま、【解体晋書】ブログの運用を計画中で、現実になったらそちらで紹介していこうという話もあります^^;

巫俊(ふしゅん)さん、晋代はまだ木簡・竹簡が公文書では使用されていたと思います。「黄籍」という戸籍帳簿についてはいろいろな議論があって、近年魏晋南北朝の文書については大阪市立大学の中村圭爾先生がいくつか論文を書いてらっしゃいます。

ということで、ちょっと忙しいのでなかなかレスができないのですが、忠義伝の続きを少し出しておきます。

「是れ、節をに隕ちること苟しくも其の宜に合えば、義夫豈に其の沒するを吝しまんや。軀を捐てること若し其の所を得れば、烈士其の存するを愛さざるを知るなり。」
こうした言葉からは、節義のために斃れても、それが道義に適っているなら、義夫は死を惜しまないし、体をなげうっても、それが正しい道理を得ているなら、烈士は生きることを惜しまないものだ。ということが分かる。

26名無晋書さん:2006/03/08(水) 15:40:08
日本と中国の比較文化(文学)をしたいのですが、
テーマでおすすめのものありますか?
材料は中国は、六朝志怪小説など
日本は、今昔物語を使って、あるテーマ一つを比較したいです。

たとえば、上の本を読んで、『狐』をテーマにしたら、
それぞれの狐の描かれ方とかを比較していきたいのです。
何がいいのか分からなくて困ってます。

27菅原:2006/03/08(水) 20:36:09
>>26名無晋書さん
はじめまして、【解體晉書】代表の菅原です。

ご質問のおすすめテーマについてですが、はっきり特定の対象というものはありません。
なぜならこういうテーマを研究する場合はたいていはその対象に対して興味があったり、好きだったりするものであり、
逆に興味のないテーマを勧められたからといって研究してもおもしろくないですよ。
たとえば「狐」が好きなら「狐」、「猿」が好きなら「猿」、「宇宙船」が好きなら「宇宙船」がおすすめテーマになるので、
おすすめテーマは興味があったり、好きなものとなりますね。

そもそもなぜ比較文化(文学)をしたいのでしょうか?
大学のレポートでしょうか?卒業論文でしょうか?趣味の研究でしょうか?
良かったら教えてください。

それから六朝志怪小説と『今昔物語集』を比較しても、日本と中国の比較文化にはならないと思います。
あくまで六朝志怪小説と『今昔物語集』とを比較しただけですね。
日本と中国の比較文化と唱うなら、日本も中国もまず最低でもいくつか書物を研究してその国の特色を見つけ、
その日本と中国の特色を比較しないと文化の比較にならないと思います。
『今昔物語集』だけ見て日本の特色といわず、最低でも数冊の日本の説話集などを参照した方が賢明です。

『今昔物語集』を中心にするなら、一説話をピックアップをしてそれと関連する日本や中国の説話を探して
一説話の成立過程を考えた方がいいような気がしますが、
比較文化をしたい理由がわからないので、助言とすることはできません。

28NAGAICHI Naoto:2006/03/09(木) 01:29:55
>>26
比較文化(文学)ですか〜。僕が広大総科にいたころの専攻はちょうど比較文化でした。まあ不真面目な学生だったので、あまり実には成らなかったですし、今は畑違いの中国史趣味に転けてるので、なんなんですけどね。
テーマについてですが、菅原代表の意見に基本的には賛同します。自分の面白いと思ったところを調べたらよろしいと思います。
『今昔物語集』も、中国起源の話いくつかあるんですね。
干将莫邪の剣の話とか、今昔では莫耶の剣になってて、なんか話かなり違うし。なんだこりゃ。
王昭君が王照君になってたり。
中国屋から見ると、けっこう笑ってしまうストーリーが多いですね。

29NAGAICHI Naoto:2006/03/09(木) 04:13:07
気になったので、少しフォローを。
上で「菅原代表の意見に基本的には賛同」とか微妙な書きかたをしてしまったのですが、
>>26さんが自分の調べるテーマを他人に丸投げしてるかのようなところが今イチ感心しなかったという点で共感してるだけでして。

>それから六朝志怪小説と『今昔物語集』を比較しても、日本と中国の比較文化にはならないと思います。

と、菅原代表がおっしゃってる部分では、比較文化という学際的分野を狭い間口で捉えすぎているという点で賛同いたしかねます。
>>26さんは、比較文化(文学)をやりたいとおっしゃってますが、
比較文学においては、全く影響関係のない二者の文学を取り出してその共通点を見つけ出し、影響関係のない二者にどうしてその共通点が生まれたのか考察する…なんてアプローチすらありうるわけです。
影響関係がはっきりしている『今昔物語集』の一説話とその元説話を比べてみて、新しいことが言えれば、もちろんそれもありです。

>日本と中国の比較文化と唱うなら、日本も中国もまず最低でもいくつか書物を研究してその国の特色を見つけ、
>その日本と中国の特色を比較しないと文化の比較にならないと思います。

ということで、必ずしもそういうことは要求されません。
というか、単に国どうしの文学の比較に限らず、比較のアプローチは多数存在しますので。

30仁雛:2006/03/10(金) 00:31:51
26>>名無晋書さん

いろいろなアプローチが可能かとは思います^^;
そしておすすめは?と聞かれても、「〜〜です」とは答えられないのが現実です。
まずはご自身でそれぞれの本を読まれて、たとえば「狐」であれば、両者で書かれ方が微妙に違っている、とか、この話はそっくりだ
とか、全然違う、というのを発見できるからです。その作業は、上のお二人が言われているように、まずご自身でするべきものだと僕も思います。
いろいろ読んで、発見できなかった、ということも往々にしてあるものですし。

ただ題材に「六朝志怪小説など」と「今昔物語」を使う、とのことですが、初めはもう少し絞った方がいいのかなと思います。
「今昔物語集」は成立年代があまりよく分かっていないらしいです。12c頃でしょうか。そうなると唐宋の伝奇がもう流入していることが考えられるので、六朝志怪小説よりも(それを受けてはいますが)唐宋の説話や伝奇との比較検討がより望ましいかと思います。
「今昔物語集」は「日本霊異記」(9c)とか「三宝絵詞」(10c仏教説話集)「本朝法華験記」(11c。中国の「法華験記」を参考)などから引き写したものだと考えられているので、六朝志怪小説と比較する対象としては「日本霊異記」がふさわしいかと思います。888年の藤原佐世「日本国見在書目録」(日本にある中国書の目録)には「捜神記」「捜神後記」「続斉諧記」「神仙伝」など六朝の志怪モノがあり、唐代のものは「朝野僉載」くらいです。なので、「日本霊異記」が書かれた時に「捜神記」「捜神後記」などを見ていた可能性が高いので、同じモノが異なった書かれ方をしているなら、日中の文化の差から来るものだと言える可能性がありますから。
「捜神記」「捜神後記」は和訳がありますから、ぜひご覧になって「日本霊異記」と比較されるといいんじゃないかなぁと思います。
その中でいくつか気になるモノが出てきたら、他の書籍をあたったり広げていけばいいのではないでしょうか。

自分は歴史屋なので、比較文化(文学)についてはよく知りません^^; ただ、菅原代表の言うこともNAGAICHIさんの言うこともよく分かります。

31菅原:2006/03/10(金) 20:25:25
>>29NAGAICHIさん

>それから六朝志怪小説と『今昔物語集』を比較しても、日本と中国の比較文化にはならないと思います。

私も比較文化専攻ではないので、「比較文化」を「文化の比較」という意味で使っていますが、
専攻した方から見て幅広い学問の狭義な解釈という指摘は理解できますね。
私は学問のことではなくあくまで文化の比較のことを言っていますね。
国々の文化の比較を1,2冊の書籍だけで行うのは比較にならないという意味であり、
比較文学は念頭には置いていません。

質問の理由が不明なので、幅広い場合に答えているわけであり、
ここで言っているのは大学のレポートや卒論以外の趣味で文化の比較をやる場合の狭義の回答です。
文学という分野の多様性は明白なことであり、いちいち述べるまでもないことと私は思うところです。
どういうアプローチでも可能なのは当然のことです。むしろそれが文学という分野だと思います。
私は26>>名無晋書さんの質問の理由は、比較文化(文学)の講義で『今昔物語集』を使ったレポートの課題があったのではないかと推測するところですが、
そうだとすればますます比較文化云々の部分は蛇足であったと言えるかもしれません。
また仮に『今昔物語集』が課題だとしても、仁雛さんの意見のように『日本霊異記』を読むのもたいへん参考になると思います。

32仁雛:2006/03/13(月) 17:21:21
>>17 無学さんへ

「故能
 守鐵石之深衷、窅松筠之雅操、
 見貞心於歳暮、標勁節於嚴風
 赴鼎鑊其如歸、履危亡而不顧」
それゆえ彼らは、鉄や石(=強固なことを言う)のような意志を内心に抱き続け、松や竹(=冬でも枯れないことから強い心・節操を言う)のような節操に磨きをかけて、年の暮れ(の寒い中=世の中の道義が廃れて厳しい時期)に正しい心を現し、厳しい風の中(=世の中の道義が乱れて厳しい時期)に強い節を示すことができるのであって、(節義のために)鼎鑊に赴く(=かまゆでの刑に処せられる)ことになっても、家に帰るように平然としていて、命が危ない場面も突き進んでそれでいて躊躇することがないのだ。

「書名竹帛、畫象丹青
 前史以為美談、後來仰其徽烈者也」
(そうして彼らの)その名は歴史書に美談として記され、その像(=姿)は書籍に描かれる。前史(史記・漢書・三国志などか)は(彼らの事績を)美談とし、後世(のわれわれ)は彼らの偉業を敬うことになるのだ。

と、自分の試訳はこんな感じです^^; 参考にしていただければ幸いです。

>巫俊(ふしゅん)
すみません、なかなか忙しくて、レスをつけることができずにいます^^;
ご寛容しただければ幸いです。

33巫俊(ふしゅん):2006/03/14(火) 17:23:02
>鼎鑊
かまゆで・・なるほど(^^;
象徴的な表現が目立ちますね。

>すみません、なかなか忙しくて、レスをつけることができずにいます^^;
お気になさらず。

34無学:2006/03/15(水) 21:08:14
>>32 仁雛さん
ありがとうございました。
お忙しいところ、お手を煩わせて申し訳ございませんでした。

35仁雛:2006/03/16(木) 17:59:47
>>34 無学さん

いいえ〜。
ホントは質問のあった翌日くらいには全部できてたんですけどね(笑)。小出しにしてみました^^;
対句表現の多い箇所で、晋書らしいなと思った次第。原文を、左右に並べましたが、右と左でほぼ同内容を書いています。一種の修辞法ですね。

36巫俊(ふしゅん):2006/03/17(金) 01:11:10
晋代の歴史に関わる五胡十六国の史的考察と、谷川道雄氏の「隋唐帝国形成史論」について。

ひいては中国中世史(唐まで古代と区分するなら中国古代史)の分野で研究されてる皆さま、
あるいは中国史や歴史全般に関心のある皆さまへ、
ちょっと私の質問を投げかけてみてよろしいでしょうか?


ゲルマン民族とヨーロッパの中世史は複雑な絆で結ばれている一方、
五胡と呼ばれた諸民族と中国の中世史は、結局のところ

呉・南唐・呉越→□→南宋→元の江南→明の南京京師体制→□→(太平天国)中華民国→□
(□は江南政権でない時期)

という風に、
東晋以来の南朝の「民族」というか「南人」の政権と「南の漢族」が、
中国の中心のひとつとして存続しているばかりか、時代が経過すればするほど求心力を増していったことから、
(経済力として、政治力として、現在は上海が国際機関も置かれる窓口になっている。)

まるでビザンツ帝国と中国の江南は対照的なんですよ。

東欧ブロックの地域王権に成り下がった形で歴史に書かれるビザンツ(しかも現トルコ)と、
ゲルマンに出自を持ち、ローマカトリックを守護する王権としてのフランク王国(現フランスとドイツ)の関係。

これは北周と陳の関係にそっくりだといえます。
ひとつ決定的に違う点は、北周→隋→唐は中国を統一したのに対し、
ヨーロッパは統一されることはなかったばかりか、ビザンツはイスラム教国のオスマン朝に攻略されてしまうということ。


つまりですね、ヨーロッパは分裂状態のままで、ゲルマン人は一貫して王権を維持しているのですよ。
イギリス・フランス・ドイツ、すべてゲルマンの末裔です。
ゲルマン(西)のヨーロッパが肥大化して、ビザンツ(東)はついに回復されることがなかったのです。

西欧中心のヨーロッパ史からビザンツが排除されたのに対し、
江南と不可分に結びついた中国史が、近世と近現代というステージで成立・定着したことから、
五胡こそ中国の起源であり真髄であるというような「北族の起源神話」はついに中国に定着しなかったと言えるのです。

なおヨーロッパにおける遼・金・元征服王朝の類型としては、マジャール・ブルガール・モンゴルがそれに相当し、
ジェシェン人の清朝の類型としては、ロシア帝国がそれに相当するでしょうか。
日本の類型としてはスペインか、ユーゴスラヴィア諸国か、どこに類例を求めるといいか判断しかねますが、
朝鮮やベトナム・チベットといったものも、類型が求められるでしょう。

37巫俊(ふしゅん):2006/03/17(金) 01:12:01
こうした類型は「時代遅れのマルクス史観」の得意とするところでしたが、
五胡十六国が隋唐帝国形成の起源と位置づける谷川先生の論法は、
こうしてヨーロッパの歴史と比較してみて、

―ローマの再生に求心力を求めた中世以降のヨーロッパ―
―漢の再生に求心力を求めた中世以降の中国―

そこから統一と分裂の歴史を歩んだ過程がヨーロッパと中国ではっきり異なるということを図式化した上で、
谷川先生の隋唐帝国形成史を再検討する余地があると、踏んでおります。

個人的には、隋唐帝国の形成史に止まることなく、近世史に歩を進めて比較してこそ、混迷する近世史をときほぐし、
変転するヨーロッパの一千年史から、多いに受益するものがあると思っています。
私の知り合いのヨーロッパ史専攻のお人によりますと、ヨーロッパ史というものも、ここ数十年で大きく変貌を遂げており、
「なんとなくヨーロッパ史」なまま中国史ばかりやっておりますと、時代に置いていかれるのではないかと、これは巫俊の呟きですが。

そうやってみると、部族制などと今日はアフリカ史でも憚って使わないような言葉を使用している胡族研究に疑問も覚えたりするのです。
近年の五胡研究の論文で、五胡を「中国史上はじめて異民族が中国を征服した歴史」と書いていたのを見ましたときは、吹き出しそうになったのですが、
殷も周も異民族の中国(夏)を征服した歴史だとお考えにならないのでしょうか?
どうも中世史研究の内部だけで発想すると、そんな五胡から隋唐までで経過の切れてしまう歴史が叙述されるのだと思ってしまいます。
中世史に限定した歴史の叙述としては結構なんですけどね。

夏、殷、周は三代と呼ばれて、晋代から唐代にかけても中国の起源として尊重されましたが、
当の晋代から唐代にかけての士大夫たちは、夏、殷、周の三代が、広い意味での「北族」の牧畜民に由来する王権だと気付いてはいたのでしょうか?
現在のところ、夏は牧畜民の王権だとする根拠はありませんが、夏の禹が西夷の人だったことは、五胡の士人たちの知るところだったと思います。
西夏の国号の遠い由来で、陝北の夏州に統万城をつくったのは、匈奴の夏王朝です。
西方の砂漠に近い森林・草原地帯の王権に、夏の国号を選んだのはそのような理由からだと推測しています。

つまり、五胡(鮮卑ふくむ)の政権が江南を併呑せずに、北中国に割拠し続けて、何らかの変容を経験しながら、近現代を迎えた「架空の歴史」では、
おそらく五胡は中国の起源になっているのです。
それは夏・殷・周が本拠を置いた北中国が中国の起源になったことで、戎狄感とも言うべきものが夏・殷・周の歴史で限りなく控えめに語られたように。
戦国秦に戎狄の風俗があるといいながら、すっかり秦が中国王朝として扱われるように、
五胡は中国王朝として顕彰される機会を逸した不遇な民族といえましょう。

五胡と殷周の「民族」としての比較を行なってみることが、次の計画と課題
―五胡とは何か―
を克服する上で「五胡形成史論」になるものと思われます。

漢代および晋代に新来の民族で、漢人の奴隷として暮らしたことのある五胡は、
おそらく新来の民族を奴隷として扱う「中国」に怨嗟の念を抱いたことでしょう。
それが「中国の打倒」という決起に及び、自ら「中国」と化してしまうということで、「中国」という理念に挑戦したのです。

(殷王朝の使い走り的扱いだった周も、胡族に立場が似ている。)
(ヨーロッパで言う「キリスト教国」は、「中国」に近い発想をしている。ここら辺は『北の十字軍』(講談社選書メチエ)読んでないとピンと来ないかもしれないけど)
(あとは周と五胡の歩んだ歴史の差異とか、殷と周の関係と、匈奴と匈奴に支配されたほかの五胡との関係の相似とか。)

こんな感じに五胡史論を起こしてしまったんですけど、変テコな誤りとか、アドバイスとか、
谷川道雄先生や「隋唐帝国形成史論」についてのことか、ちょっと相談に乗って頂けると感謝します。
本当に中世史(〜唐代の古代史)は初心者なもので、率直な反応を聞いてみたいです。
常々、、「隋唐帝国形成史論」についてはこう思ってた、、とか、中国中世史はこういうものだと思ってる、、とか。

http://ip.tosp.co.jp/i.asp?I=uruseiyatsura_com
(サイト開設しました、まだ作成途上ですが、歴史関係のテキストや掲示板を置こうと思っています。)

38巫俊(ふしゅん):2006/03/17(金) 03:17:55
長文すいません・・・
自サイトに編集して載せようかな・・

フランク王国=北周
ビザンツ=陳

ということで。

谷川先生は隋唐時代というものを理解するには、五胡十六国の変動にカギがあると判断なされて、
五胡の民族移動は、ゲルマン族の民族大移動に匹敵する中国史上の大変革だと考えられ、
中国の中世の始まりを五胡の民族が移動してくる晋代に求めたものと思われます。

39巫俊(ふしゅん):2006/03/17(金) 03:21:01
そして部族制軍事封建体制とかそんな感じの言葉で、五胡から隋唐までを押さえる用語にしようとなさったのでしょうか。

http://ip.tosp.co.jp/i.asp?I=uruseiyatsura_com
(自サイトです)

40巫俊(ふしゅん):2006/03/17(金) 04:05:33
>呉・南唐・呉越→□→南宋→元の江南→明の南京京師体制→□→(太平天国)中華民国→□
>(□は江南政権でない時期)

に江南政権でない「元の江南」が交じってるのは愛嬌ということで(^^;

41菅原:2006/03/17(金) 22:22:22
>>36〜40巫俊(ふしゅん)さん
たいへん興味深い話ですね。
夏・殷・周と五胡の対比などはたいへん示唆に富む提議だと思います。
ただ中国の方には決して受け入れられないことでしょうが。
なかなか簡単にはお答えするのが難しい質問だと思いますので、どうぞお時間をください。

サイト開設おめでとうございます。
ぜひ拝見させていただきますね。

42殷景仁:2006/03/17(金) 23:52:58
>巫俊さんへ

>フランク王国=北周
>ビザンツ=陳

この比較は無茶でしょう。ビザンツの国力をあまりに過小評価しています。
中国史とはあまり関係ないので、簡単に触れる程度にしておきますが、まず、フランク帝国と同時期のビザンツは、相次ぐ改革によって、国力的には回復期にかかっていたという事実に注意すべきです。むしろ政治制度・経済・文化のあらゆる面において、ビザンツは当時の西欧を凌駕したと考えた方がいいでしょう(経済面だけでも、帝国の発行するノミスマ金貨は、地中海の国際通貨として扱われており、「中世のドル」という歴史家もいるほどです)。さらに軍事面でも、10世紀から11世紀前半にかけては、地中海最強の国家として君臨しております。実際に「東欧ブロックの地域王権に成り下がった」といえるような状態になったのは、帝国のずっと末期(パライロゴス朝)の13世紀後半以降になってからですので、感単にそう決めつけることはできないでしょう。

中世ヨーロッパというと、西欧中心に考えてしまう傾向がつよく、どうしてもビザンツを軽視してしまうようですので、このあたりは注意した方がいいです。

43えちぜん:2006/03/18(土) 01:08:40
>「晋書巻八十九・列伝第五十九・忠義」
レスのタイミングを完全に誤ってますが、一応書き込みします。

古人有言:「君子殺身以成仁,不求生以害仁.」

『論語』衛霊公篇を参考にすれば翻訳は問題ないと思うのですが、「不」の用法が気になりました。
最初は「生を求めずして以て仁を害す」と読んでしまってわけが分からなくなったのですが、『漢辞海』によると「不」には「無」と同じく体言を打ち消す用法があるとのことです。ということは、「生を求めて以て仁を害することなし」と読み下すのが良いのかなと思いました。


又云:「非死之難,處死之難.」

対句として読みたい所ですが、ここは違うのでしょうね。「死は之れ難きに非ず、死を処するは之れ難し」


書名竹帛,畫象丹青,

「丹青」は書籍の意味もあるようですが、ここは絵画の意味だと思います。「畫」という字も使われていますし。「名を竹帛に書き、象を丹青に畫(えが)く」 (忠義の士の)名前を書籍に記録し、姿を絵画に描く。

44巫俊(ふしゅん):2006/03/18(土) 15:50:30
お返事ありがとうございます。
>夏・殷・周と五胡の対比などはたいへん示唆に富む提議だと思います。

陝西の周も最初は異質な文化をもった「民族」だったと思います。
ところが、殷に服属し、殷の祭司制度や軍役に従うことで、
地方勢力の周は明らかに「殷化」していきます。
そのことは殷末の陝西から出土した周の甲骨「周原甲骨」から、
非常に濃厚な殷の文化を感じることができます。

周が富を集積し、やがて殷に取って替わるとき、「殷の文化を持った周の支配者」というスタイルが選ばれたことは、
やはり周初の青銅器などから、周の支配者が殷の文化を引き継いでいたことで分かります。

さて五胡、とくに最初から中国の内部(山西など)に勢力をつくっていた匈奴は、晋に服属する立場でした。
中国の制度によって一軍を率いる職務を有した匈奴の貴族たちは、あるいは晋の諸王の子飼いになることで、
中国文化の担い手である士大夫に自身を擬したこともあったと思います。
そうして匈奴はいち早く山西から降下して洛陽を接収して王朝を開いた訳ですが、
何らかの中国の制度(システム)に従ったと思われます。
一方匈奴らしさというか、匈奴の伝統も、匈奴としての「民族」を結集する「部族長」という性質がある単于からすると、必要なものだったと思われます。

こうしたものは、ゲルマンのフランク族にも近いものがあったのではないかと推測しますが、とりあえず推測段階です。
それから数百年を経過した隋唐時代になると、「民族」としての意識が薄れて漢化したと一般に表現されていますが、
「中国」と「民族」は矛盾するものではないと、あえて思うのです。

それは中国という建前はそれとして、「民族」としての結集が必要だったある時期までは並存しており、
そこから「民族」としての結集の必要がなくなるほど、王朝が安定したことを示していると思います。
普段、漢化した豪族となって貴族制のもとで安定していることで「民族」が希薄化していくのですが、
墓誌によると、南北朝時代になっても匈奴の子孫は、

―自分たちを漢人で匈奴に亡命し、北方の草原から帰還した李陵の子孫―

と称していたそうです。

45巫俊(ふしゅん):2006/03/18(土) 15:51:19
「南北朝時代における匈奴劉氏の祖先伝説とその形成」
園田俊介、『中央大学大学院研究年報』 (34) (文学研究科篇) [2004]。

これは初期の匈奴からは大きく変質しているのですが、それでも匈奴というアイデンティティを捨てていないことが看守できると思います。

ちょっと詳しくはないのですが、北魏の中での抗争で、民族的な色を帯びたことがあったら傍証になると思われるのですが。
そうして北朝では、宇文氏の姓を臣下に下賜するということも盛んだったと聞きます。
この辺は、支配者は中国の人で士大夫であるという、「中国」が成立する基本条件を備えながら、「氏」というものではなお民族に拘りがあったように感じています。

ふたつは「知らぬふりをして共存する」という関係にあったのかな、という気がしてきます。
理詰めでいけば中国ろは士大夫のものなんですが、鮮卑であるという。

そうした伝統が近世の五代の抗争で、サダ族や鮮卑系の系譜を持たない漢人に権力を掌握されたことで、五胡の中国起源の可能性は吹っ飛んでしまったとも考えられます。
貴族制の時代は終了するし、宋が江南を接収する上でも、五胡に拘る必要は薄いです。
そうして、五胡という言葉が、はっきりと異分子として記録されることになったのでしょうか。

46巫俊(ふしゅん):2006/03/18(土) 15:51:52
>ビザンツ
浅薄の至りです。
ビザンツについては、中公のオールカラーの緑色表紙『世界の歴史』シリーズのビザンツの巻をめくったぐらいなんですが、
過少評価するつもりはなかったのです。
むしろ西欧中心の歴史でビザンツが冷遇されたことと、
北方民族が何度も支配した中国の歴史で、河北と結びついた江南はかえって歴史叙述の中心になったことを比較したかったので。

そいで北周と陳ですが、中国が統一される唐以前の時期を、ビザンツの末期と結びつけたことが尚早でした。

五胡=ゲルマン
江南=ビザンツ

と図式化した方がよかったですね。
もっともフランク王国は神聖ローマ帝国とフランス王国に分離するのですが、
それは北周と北斉に比較することができるでしょうか。

とにかく神聖ローマ帝国とフランス王国は近世・近代まで存続するのに対して、
北周と北斉→隋→唐は統一を成し遂げた後に、異民族と節度使の離反で分裂崩壊してしまった点が決定的に異なります。

これは唐の盛時の玄宗以前を主な研究対象にした従来(かなり昔)の唐代史では、抜け落ちて論じられなかったのではないかと想像してしまうのですが、
そうでもないのでしょうか?

とにかくゲルマン民族の大移動を五胡の民族移動のモチーフ・フレーズに使う現在、忘れてはいけないことだと思いますが如何でしょうか?

それからイタリアを回復したビザンツの盛時は劉宋に、
地中海の覇者は、水郷世界の王者としてすり替えて呼ぶことができないこともないですね。
そして南朝が、北朝から島夷と呼ばれたことと、カトリックが正教に不信感を抱いていたことと、、、

比較していったら「見た目」は一致していますが、、、

>ただ中国の方には決して受け入れられないことでしょうが。
すべての中国に同化した民族を、中華民族と呼ぶのですから、
いつか胡が果たした役割を認識してほしいですね。
(現代的な意味で)胡が中国人ではないとは言わないですから(^^;

47parsifal1988:2006/04/10(月) 22:43:36
初めてお便りいたします。
私も東洋史が専攻だったことで貴ホームページを拝見して懐かしく思いました。
ところで、資料のところで、郭璞伝を森賀一恵先生が御訳しになられているという記載がございましたが、もしよろしければ出典をお教えいただけませんでしょうか。
福州市を作ったとされ子城として記録に残っていますし、山海経の伝もありますが、やはり晋書の伝が正統でしょうね。
やたら占いが当たったということが書いてありますが、読みきれない部分があり、全訳があれば見てみたいと思っていました。
国会図書館でしらべたらないようですが、何か一部の抄訳でしょうか。


(「出典教えてください。」スレッド1番、投稿日: 2006/04/05(水) 17:36:56  より、管理人・仁雛が転載いたしました。)

48parsifal1988:2006/04/10(月) 22:44:46
追伸:よくみてみたら 六朝詩人伝興膳宏編 大修館書店、2000のことのようですね。現物を見ていないのですが、抄訳ですか。
占いが当たった話とか云々あるのかしら。現物お持ちでしたら教えてください。


(「出典教えてください。」スレッド2番、投稿日: 2006/04/05(水) 17:41:20  より、管理人・仁雛が転載いたしました。)

49仁雛:2006/04/10(月) 22:45:55
parsifal1988さん、ご訪問、ご質問ありがとうございます!

はい。おっしゃるとおり、『六朝詩人伝』の中に収録されているものです。
現物を持っていないのですが、この本に収録された伝記はほとんどが抄訳です。ただ、郭璞伝の真ん中に位置している上奏文を除いた部分は訳されているのでは?とも思います。
また、これも現物を持っていないので確実なことは言えないのですが、
長谷川滋成「六朝文人伝:「晋書」郭璞伝」『中国中世文学研究』16号(p28-43)、1983年
もあります。全訳か抄訳が分からないのですが、地方の図書館でも雑誌名・ページ数が分かれば、国会図書館にコピー依頼ができるはずですので、ご興味がありましたらどうぞ。

郭璞伝は『晋書』巻七十二にありますが、占いの話、死ぬ時の話と、非常に面白いですね!まだ【解体晋書】で翻訳してないのが残念ですが、翻訳しがいのある伝だと思いました。

ところで、
> 福州市を作ったとされ子城として記録に残っています
とありますが、よろしければ、出典をお教え願えますでしょうか?


(「出典教えてください。」スレッド3番、投稿日: 2006/04/05(水) 21:55:15  より、管理人・仁雛が転載いたしました。)

50菅原:2006/04/10(月) 22:46:59
parsifal1988さん、はじめまして。
ご質問ありがとうございました。

parsifal1988さんは新規のスレッドを作成されましたが、
【解體晉書】では質問は質問スレにまとめさせていただいているので、
後日parsifal1988さんの書き込みを質問スレに転載することをご容赦ください。


(「出典教えてください。」スレッド4番、投稿日: 2006/04/06(木) 22:37:47  より、管理人・仁雛が転載いたしました。)

51parsifal1988:2006/04/24(月) 10:48:02
レスありがとうございました。返事が遅れてすみません
福州の子城については、台湾総督府熱帯産業調査会昭和12年「福州攷」に出てきます。
晋の太康三年建安郡より分かれて晋安郡ができた。四年晋安郡の太守厳高は城の狭小にしてかつ南面ならざるをうれひ、郭に諮って子城を築いたといいます。
出典が出ていないのですが、福建省志にいろいろ地方志がまとめられています。

52kmgtm:2006/04/25(火) 02:15:21
はじめまして。

ただいま石勒の「深目、高鼻、多須」という特徴の出典を調べています。
『晋書』の石勒の載記を読んでいますがどうもそれらしいところがつからず…
西域伝などで間接的に同じような表現なら何箇所かあるんですが、
直接石勒のことを形容している所はないものでしょうか。
もしお知りの方がいましたらご教授願います。

53NAGAICHI Naoto:2006/04/27(木) 23:51:51
kmgtmさん、はじめまして。
石勒について、直接「深目、高鼻、多鬚」と表現している箇所は『晋書』にないと思います。

崔約が孫珍の目がくぼんでいるのをからかっていること(載記第六、中華書局版P2776)や
冉閔が羯族を殺戮したときに「高鼻多鬚」の者を無差別に殺したような記述が見えること(戴記第七、中華書局版P2792)から
羯族の形質的特徴として認識されていたとは言えるんでしょうけど。

54NAGAICHI Naoto:2006/04/28(金) 00:18:05
>>49>>51
ネット上では、例えば
http://www.fj.xinhuanet.com/dszx/2003-10/17/content_1070558.htm
では、「晋の太康三年(西暦282年)、郡守厳高が子城を築いた」ことになっています。
類似したことが書かれているところが複数あります。
http://unn.people.com.cn/GB/22220/33319/33343/2483637.html
http://www.fj.xinhuanet.com/dszx/2003-10/16/content_1064792.htm
「無諸が治城を建て、厳高が子城を建て、唐が羅城を建て、梁が夾城を建て、宋が外城を拓き、明が府城を建て〜」ということで、晋代にはじめて福州が開かれたわけではないようです。
郭璞『遷城記』というのは気になりますね。

「郭に諮って子城を築いた」と書かれているのであれば、やはり子城を築いたのは厳高ということになりませんか?

55kmgtm:2006/04/29(土) 00:29:06
>>53
やはりなかったのですね。
孫珍と冉閔の所は見つけましたのでそれで傍証として使おうと思います。
ありがとうございました。

56仁雛:2006/04/29(土) 02:16:42
>>52 kmgtmさん

ご質問ありがとうございます。できたら、石勒が「深目、高鼻、多須」であるとしている記事の出典を教えていただけたらな、なんと思ってました。
自分も『晋書』『世説新語』『十六国春秋』などの石勒の箇所を見てみたのですが、>>53のNAGAICHIさんがすでに指摘されたように、直接そのように記述した例はないようですね。
羯族の民族的な「形質的特徴として認識されていた」というNAGAICHIさんの意見、大変勉強になりました。ありがとうございます!

『北魏書』西域伝の康国の項に「人皆深目高鼻、多髯」とあって、今の唐代研究の売れっ子、ソグド人の形容としても出てきていました^^;
また高昌国以西はすべて深目高鼻だ、という記事もあったり。

kmgtmさんが「深目、高鼻、多須」が石勒のあるいは羯族の形容だと孫珍と冉閔の記事から傍証するのは、少し難しいかなぁなんて思ってしまいます。
あ、NAGAICHIさん、ご返事ありがとうございます。

57中根:2006/04/29(土) 20:53:08
>仁雛さん
>kmgtmさんが「深目、高鼻、多須」が石勒のあるいは羯族の形容だと
>孫珍と冉閔の記事から傍証するのは、少し難しいかなぁなんて思ってしまいます。
そうでしょうね、どうも中原の人々は漠然と西方の人々は高鼻多鬚だと
思っていたのではないでしょうか。
一応、通鑑晋紀の胡注に「高鼻多鬚は其の状、羯に似たるなり」とありますね。

58NAGAICHI Naoto:2006/05/02(火) 20:44:21
>「深目、高鼻、多須」が石勒のあるいは羯族の形容だと孫珍と冉閔の記事から傍証するのは、少し難しいかなぁなんて思ってしまいます。

川勝義雄『魏晋南北朝』(講談社学術文庫)P39〜P40は、そういう論法なんですけどね。(^^;)

あと参考としては、
三崎良章『五胡十六国 中国史上の民族大移動』(東方書店)P62
--
しかし町田隆吉氏の研究により、「深目」「高鼻」「多鬚」などとされる身体的特徴から、おそらく西方系の種族を中心とする諸種族の混血したいわゆる雑胡で、政治的に匈奴に従属してその文化的要素を多く受け入れていた人々と考えるのが妥当であろう。
--
町田隆吉氏の研究ってのが、よく分からないんで、請うご指教。

59中根:2006/05/03(水) 21:58:33
町田隆吉氏という方を、浅学にして知らなかったので検索してみたのですが、
桜美林大学教授でトゥルファン出土文書の研究をされている方なのですね。
だとすると、「深目」「高鼻」「多鬚」は「諸種族の混血したいわゆる雑胡」
という話もトゥルファン出土文書の研究の過程で分かってきたことなんでしょう
かね。

60kmgtm:2006/05/04(木) 00:38:48
>>56->>59

皆さんいろいろとありがとうございます。
「深目高鼻多須」という形容は特に羯族に限った特徴とは言えないようですね。
その辺り踏まえてもう少し調べてみます。謝謝 m(__)m

61suite:2006/05/07(日) 00:21:58
 あ、ちょっと失礼します。

 漢籍を電子化するに際して最も切実なのは、やはり文字の問題だと思います。「この字が打ち込めない」云々という嘆きは、おそらく少なくとも一度は経験したことと思います。

 つまり、自国の所謂学者が編纂し、自国の出版社より出版され、自国で売られている漢和辞典に載っている漢字すら打ち込めないというのは、これは悲劇、否、喜劇です。

 そこで質問なのですが、「JIS 登録文字を増やしてくれ」とか「Unicode 登録文字を増やしてくれ」と主張し、かつ具体的に行動されている所謂学者の方はおられるのでしょうか? 並びに所謂学者さんはこの「PC 上に於ける漢字問題」に関してどのような行動を起こしているのでしょうか?

 Windows のロングホーン(所謂Vista)より標準搭載される、新JIS を眺めてみても、漢字がちっとも増えてないんですよ。実に微々たるものです。

 OS はTRON ベースの超漢字を使用すれば解決されるそうですが、やはりあまり一般的ではありません。
 画像をはりつければ解決されますが、ブラウザによってはそれが乱れて、見た目的に美しくありません。
 ファイルを全て画像化すれば解決されますが、コピペできないので、これは論外です。

 何が言いたいかといいますと、所謂学者は行動しておるのか、ということです。

62えちぜん:2006/05/07(日) 02:49:16
えちぜんです。

>漢籍を電子化するに際して最も切実なのは、やはり文字の問題だと思います。「この字が打ち込めない」云々という嘆きは、おそらく少なくとも一度は経験したことと思います。

suiteさん、私も同感です。私は一度ならず何度も経験しています。(^^;)
漢字の情報処理に関して専門家ではないのですが、私見も交えて書いてみようと思います。

suiteさんのご質問は、ある前提に基づいていて、いくつかの切り口があるように思われますので、小刻みにしてコメントしたいと思います。


>何が言いたいかといいますと、所謂学者は行動しておるのか

行動しておるのだと思います。61でお書きになったTRONなどは、東大の方が開発されたのではなかったでしょうか?TRONは文字の完全表示が最大目的ではなく、一部に過ぎないと思いますが、150万字分のコードを用意しているのは、その行動の結果でしょう。

「TRON PROJECT OFFICIAL HOME PAGE」
http://www.tron.org/


>所謂学者さんはこの「PC 上に於ける漢字問題」に関してどのような行動を起こしているのでしょうか?

ご存じだとは思いますが、下記のようなHPがあります。

「漢字文献情報処理研究会ホームページ」
http://www.jaet.gr.jp/

「PC上に於ける」というのが、Windowsの使用を前提としているのであれば、上記のHPで紹介されている『電脳中国学』『電脳中国学Ⅱ』や、『漢字文献情報処理研究』という機関誌を読めばだいたい分かるのではないかと思います。私は、『電脳中国学』しか持っていませんが。
ただ、「どのような行動を起こしている」のかというよりも、現在のWindows環境および近い将来のWindows環境での漢字の扱い方などを説明したものであるように思います。


>「JIS 登録文字を増やしてくれ」とか「Unicode 登録文字を増やしてくれ」と主張し、かつ具体的に行動されている所謂学者の方はおられるのでしょうか? 

上記のような主張をして、具体的に行動されている学者の方の事を耳にしたことはありませんが、仮にいたとしてそれが、JISやUnicodeに反映されるのは難しいのではないかと思うのです。
というのも、現在のUnicodeに収録されている漢字は約2万だったと思いますが、それ以外の漢字(諸橋大漢和の約5万を基準にすると)約3万をUnicodeに収録して意味があるのか、言い方を変えれば、その約3万の漢字をどれだけの人が必要としているのか、ということになるかと思います。
無論、我々のように漢籍翻訳をしているものにとっては必要ですし、私も是非取り込んで欲しいと思うのですが、多くの一般の人々にはまず「無用の長物」であるでしょう。

ということは、これらは基本OSでカバーする話ではなく、アプリケーションで解決する問題になると思います。
つまり、基本的には2万字を用意しておくから、残りの部分は必要な人が必要なだけ用意しろということでしょう。その解決策の一つが「今昔文字鏡」となるでしょうか。(他にも「e-漢字」というのもあったように思いますが、詳細は知りません。)

「今昔文字鏡」
http://www.mojikyo.org/html/index.html

これは同じ文字コードを使って、フォントファイルを切り替えることによって見せる漢字を変えるという手法をとっているようで、33個のフォントファイルをダウンロードしなくてはいけませんし、文書作成時にフォント指定を正しく行わなければいけませんが、それさえ気をつければ、Windows環境で10万以上の文字が扱えます。


長々と書きましたが、WindowsにこだわらなければTRONベースの超漢字を使うという選択肢があり、Windowsにこだわるならば、OS搭載は期待薄で、アプリケーションで使い易いものを選択するというところでしょうか。

それと、「学者の行動」を問題視されておるようですが、この漢字の情報処理の問題が、学者が取り扱う問題であるのかどうかというのも疑問に思いました。特に中国史や中国文学を研究する学者の方の目的は、漢字の情報処理の最適化ではないからです。
もちろん、テキストの電子化・共有化をおこなう上で漢字の情報処理が最適化されていれば申し分ないですが、そういう環境が不足している、なんとかしろと苦情を言うことであれば、学者の行動だけが問題とは言えないと思うのです。確かに改善要望を(どこにかははっきりしませんが)伝えやすい位置にいるとは思いますが、最近は個人でも情報発信できる時代ですから、学者にこだわることもないのかなと思いました。

ホントに長々と書きましたが、誤り・不足があると思います。お詳しい方、フォローお願いします。m(_ _)m

63むじん:2006/05/07(日) 15:24:02
こんにちは。
Unicode Version 4.0で70000字以上がすでに収録されています。
http://www.unicode.org/faq/basic_q.html#10

どの文字をunicodeに収録し、どうやってコードを割り当てていくかについて、
『漢字文献情報処理研究』第二号に千田先生のリポート、
『漢情研メルマガ』第七号に二階堂先生のリポートがあります。
http://jaet.econ.hc.keio.ac.jp/archives/journal/jj02.pdf
http://blog.mag2.com/m/log/0000083458/60275275?page=6#60275275

中国の書同文公司は『四庫全書』『四部叢刊』などの電子データ化をしていますが、
その作業の際に発見された、コードの割り当てられていない字をunicode側に報告、
それが正式にunicode拡張に取り込まれているとのことで、
むしろ書同文公司自体がunicode制定に関わっていると見るべきのようです。

70000字以上にコードが割り当てられているということと、
フォントやOSレベルで文字表示が実装されているということは別の問題ですが。

64suite:2006/05/08(月) 01:37:04
 Unicode Version 4.0

 これはすごそうですね・・・いづれは対応されるでしょう。期待してまつことにします。
 やはり中国本土が動いていましたか・・・簡体字メインなのに。
 ありがとうございました。

65えちぜん:2006/05/08(月) 23:21:50
むじんさんのブログ「思いて学ばざれば」の2006/5/8の記事に、UnicodeのExtention-Bのフォントのダウンロードの仕方が書いてあります。すごいです。数値文字参照入力で「龍x4」が表示できます。

66名無晋書さん:2006/07/23(日) 21:28:49
鬼について研究しているものです。
自分は大学にはかよっていないので、図書館でかりた本をよむくらいしかできませんが
鬼について調べたいと思っています。

和訳されている本で、鬼の出てくる話が多い書物をさがしています。
オススメの書物ありませんでしょうか??

67仁雛:2006/07/24(月) 01:35:40
>>66 名無晋書さん

こんばんは。
「鬼」について研究されているとのことですが、これは日本語のあの角のはえた「オニ」ですか?
それとも漢語で言う幽霊の意味の「鬼」ですか? ニュアンス的に後者かと思うのですが、念のため^^;

鬼の出てくる話が多い書物。。。『聊斎志異』なんかはかなり面白いです。六朝期の志怪小説もあります。

68菅原:2006/07/26(水) 20:45:37
>>66 名無晋書さん

ご質問ありがとうございます。
「鬼」であれば大学の中国文学の講義でいろいろな「鬼」の出てくる話を取り上げていました。
六朝時代であれば『捜神記』や『幽明録』にそういった話が多いですね。
「鬼」といえば中国の古典文学の重要な要素のひとつだと思います。

69suite:2006/09/15(金) 19:48:32

 目下、『正字通』を探しております。

 書虫

 商品名: 正字通(上下)
 価格: 15060円 → 13560円(税込.送料無料)
 商品コード: ZZTS005458
 編著者: (明)張自烈 編 (清)廖文英 補
 出版社: 国際文化出版
 サイズ: 16開
 ページ: 1493
 装幀: 精装  
 出版年月: 1996年1月
 ISBN: 7801053656
 分類: 語学-古代漢語 

 北九州中国書店

 20278 正字通・附索引(全2冊) 13800円
  (精装)(影印本)/1997年/(明)張自烈(清)廖文英 中国工人

 この2冊を見つけたのですが、或いはこれら以外にもお勧めの『正字通』があったら教えてください。

7066:2006/10/20(金) 18:50:48
書き込むの遅くなってしまいすみません
あれから、捜神記や幽明録などを読みました

日本では、鬼女とかでてきますが、中国でも鬼女の話ってあるのでしょうか?

自分で日本の書物(今昔物語など)もよんでるうちに、鬼女に興味をもちました
これからは鬼女について調べて生きたいとおもうので、日本でも中国でもオススメの書物あれば
おしえてください

71仁雛:2006/10/23(月) 18:14:21
>>66さん

こんにちは。カキコミありがとうございます。
鬼女というと、女性の幽霊のことでしょうか。唐代になるといろいろと出てくると思います。(たしか)岩波文庫の『唐代伝奇』なども読まれるといいのではないでしょうか。

72菅原:2006/10/23(月) 23:23:51
>>66さん

日本の鬼女といえば安達ヶ原に代表されるように「オニオンナ」ですが、
中国で「鬼女(こういう用例はあまりないようですが)」と書けば
仁雛さんの書き込みの通り「女性の幽霊」ですね。
仁雛さん紹介の『唐代伝奇』以外では『牡丹灯籠』もこの類に分類できるかもしれません。

それから中国で日本でのオニ的なイメージの女性では
仏教説話でおなじみの「鬼子母神」などもあり、この類の話も中国ではあると思います。

それから話はそれますが、「安達ヶ原」といえば手塚治虫のマンガに
「安達ヶ原」をモチーフにした「安達ヶ原」というそのままタイトルの短編SFマンガがあります。
日本のオニというのは大和朝廷に敵対的な異民族である蝦夷に対する蔑視から生まれたという説もあるみたいですが、
手塚治虫の「安達ヶ原」はそういった面もふまえてSF化しているところが「安達ヶ原」の翻案マンガとして秀逸な面ではないかと思います。

73八頭:2006/10/24(火) 00:49:42
中国には日本のような鬼女や山姥の話はあるのでしょうか。民話には山姥の話が
あったような気がするのですが、鬼女については私はあまり読んだことがありません。

鬼女というのではなく、女に姿を変える鬼(化け物)は2,3篇読んだことがあります。
『中国怪奇小説集』(岡本綺堂 旺文社文庫1978)に若い女性に化けて人を食った夜叉(?)の話
(『酉陽雑俎』・ユウヨウザッソ(唐):王申)があります。

また、『今昔物語』の安義の橋に出没する鬼女(鬼が女に化けている)と
『稽神録』(宋代)の張エン(エン・王爰)は舞台道具は酷似しているのですが、
後者には鬼女については一言も触れられていません。
つまり、日暮れ、橋、怪しい美女、怪しい風は共通の要素で出てくるのですが(風が今昔に出てきたかはうろ覚えですが)、
後者は短編である上に(100文字足らず)、鬼女については橋に鬼女が出るという噂の設定や鬼女
の姿の描写がなく、女が旋風(つむじ風)に化して馬に乗った張エンを突然襲い、馬が倒れて傷
を負ったということしか書かれていません。

他にも日本の説話と中国の志怪には類似した話があるかもしれません。
あまり参考にならないかもしれませんが、以上です。

74えちぜん:2006/10/25(水) 00:19:26
「鬼」についてですが、

駒田信二『中国怪奇物語 幽霊編』(講談社文庫)

に、中国語でいう「鬼」のお話が沢山あります。また、このあとがきで「鬼」について述べられています。

75山口博数:2006/10/25(水) 18:47:51
列傳第二十二郤セン傳のカク注に「通典十四日。郤セン篤孝以仮葬違常。降品一等。又一百三日。太康中。衛瓘表前太子洗馬済陰郤セン。寄止衛国文学講堂十余年。母亡不致喪帰。便於堂北外下棺。…云々」(句読点は便宜上)とあり、郤センは降品一等で名を千載に残しました。太子洗馬ということで十余年も衛国文学講堂に寄止したとあります。が「衛国文学講堂」とは何物なのか。衛国も文学講堂も皆目見当がつけられません。「晋書志十四職官」には「洗馬八人、職如謁者秘書、掌図書。釈尊講経則掌其事、出則直者前駆、導威儀。」とありますが、太子洗馬も役目は同様ならば、掌図書や釈尊講経が何か此の「衛国文学講堂」と関係するのかとも思います。どうでしょうか。

76えちぜん:2006/10/27(金) 00:52:54
「釈"尊"講経則掌其事」は「釋"奠"講経則掌其事」ですね。

「衛国文学講堂」について調べてみたことをメモ。

通典にある「文学」は「太学」の誤りではないか。
『晋書』志第十一/禮下p.670〜p.671 「魏正始中,齊王每講經遍,」で始まる段落。釋奠・講経の語も見える。
『晋書』列傳第二十九/趙王倫 p.1601〜p.1602 「太學生年十六以上及在學二十年」とあり、長期間在学できた。

77八頭:2006/10/27(金) 01:24:59
山口さん、こんばんは。

間違っているかもしれませんが、
>寄止衛国文学講堂十余年
郤センが無官であるときに、地方(郡県)の学校で教授していたことをいっているのだと
推測しました。
文學講堂は儒学に関する学問を教えていた学校のような場所だと思います。

漢代では県に設置した学校を「校」といったようですが、校が晋代にあったかや
文學講堂が各地方にあったのかなどは資料がないうえ、少し調べた程度なので分かりませんでした。
だから、この書き込みも間違っているかもしれないので、流す程度に読んでください。

根拠は山口さんが読まれている『通典』假葬墙壁间三年除服议 晋に
セン文義可称,又甚貧倹とあるように
郤センが学問に優れ、名声があったこと、また、生活が不如意だったことから
官を退き、禄が支給されない期間、地方の学校で学問を生徒に講義し、生活していたのだと考えました。

以上から推測すると、衛国は県名で、司州頓丘郡の衛県だと思います。
郤センの身地はエン州済陰郡単父でした。

中国人は奔喪(他郷で親の死を聞き、急いで帰郷し喪に服すること『礼記』奔喪)
のとき、遠くから何日もかけて駆けつけるようですが、
郤センの母が単父にいたとすると、直線距離で100キロほどですから、
比較的近い距離にいたということだと思います。

78むじん:2006/10/27(金) 06:44:04
『通典』巻103に、
> 太康年間に衛瓘が上表した。
> 「前の太子洗馬である済陰の郤詵は、衛国の文学講堂に寄宿すること十年余り、
>  母が亡くなっても遺体を帰さず、講堂の北壁の外側に棺を収めて『仮の埋葬だ』と申しておりました。」
> 郤詵は自己弁護して言った。
> 「先祖代々の墓が緱氏にありますが、たびたび洪水に遭いました。
>  この地方は低湿で、ただ城内だけが高みにありますので、
>  居住していた邸宅に葬り、扶養していた堂(座敷)でお祭りしたのです。」
と、ありますね。ttp://ef.cdpa.nsysu.edu.tw/ccw/02/dd12.htm

衛国というのは衛県を指しているように見えますが、
郤詵の言葉によると埋葬地は緱氏の城内であるようにも思えます。
史書には「太学講堂」という言葉が見えますが、
その講堂は洛陽の南八里ほどの場所にあったようで、緱氏にも近いです。
「衛国」二字が衍字の可能性も考えた方がいいと思います。
ただ、賀循伝に「石冰の大将の抗寵が会稽郡の講堂に駐屯した」ともあり、
衛国のような地方都市にも学問所があったのかも知れませんね。

79山口博数:2006/10/27(金) 09:52:03
えちぜんさん、八頭さん、むじんさん有難うございます。「釈"尊"講経則掌其事」は「釋"奠"講経則掌其事」で間違いでした。
>「衛国文学講堂」について通典にある「文学」は「太学」の誤りではないか。また「衛国」二字が衍字の可能性も考えた方がいいという見方は参考になりました。
>生活が不如意だったことから官を退き、禄が支給されない期間、地方の学校で学問を生徒に講義し、生活し衛国は県名で、司州頓丘郡の衛県だとする八頭説は、むじんさんの賀循伝に「石冰の大将の抗寵が会稽郡の講堂に駐屯した」ともあり、衛国のような地方都市にも学問所があったのかも知れない説と大いに考えさせられました。
なお>寄止衛国文学講堂十余年郤センが無官説は検討したいと思います。

80山口博数:2006/10/27(金) 09:53:08
また郤セン傳ですが、「母憂去職。セン母病,苦無車,及亡,不欲車載柩,家貧無以市馬,乃於所住堂北壁外假葬,開戸,朝夕拜哭。養鶏種蒜,竭其方術。喪過三年,得馬八匹,輿柩至冢,負土成墳。未畢,召爲征東參軍。」とあります。そこで「養鶏種蒜,竭其方術。」ですが「鶏を養い蒜を種え、其の方術を竭くす」ことで母の看病を郤センがしたのなら、「母憂去職」の前になり、むじんさんは>母が単父にいたとすると、直線距離で100キロほどですから、比較的近い距離にいたされましたが、やはり同居でないと難しく思います。そうすると「寄止衛国文学講堂十余年」の衛国文学講堂で母は生前から一緒だったと思うのです。ならば寄止…十余年からと「喪過三年,…未畢,召爲征東參軍。」からで衛国文学講堂の寄止は在職中のことで、この寄止は前太子洗馬の職と関係してはいないのかと考えました。何故なら「講堂」と太子洗馬の役目の一つかも知れない「掌図書。釈"奠"講経則掌其事」と結びつくのではないかと思うのです。それならば洗馬の役目と同じで、「太学講堂」説で洗馬と太子洗馬が同様の仕事をするのでしょうか。また官立大学校たる太学の講堂に母と住み着くものでしょうか。太子のための専用施設は無かったのでしょうか。その一部が「衛国文学講堂」なら分かりやすいのですが。どうでしょうか。

81八頭:2006/10/29(日) 14:37:21
山口さん、こんにちは。八頭です。

先に書き込みました衛国文學講堂については衛国に着目した一つの候補にすぎませんし、
郤センが洛陽にいたのかどうかなどの考察がたらず、また邑党が洛陽で関係のあったグループなのかどうか、文学が太学なのかなど検討すべきことが
多いと思いますので、えちぜんさん、むじんさんの書き込みもご参考になってください。

>養鶏種蒜,竭其方術
の意味ですが、そのままでは意味をとりづらいので、
文脈からいくつか仮説(候補)を考え、妥当なものを選ぶのがよいのではないかと思います。
>①「鶏を養い蒜を種え、其の方術を竭くす」ことで母の看病を郤センがしたのなら
山口さんは母の病を治すためとお考えですね。

私は、
②養鶏種蒜,竭其方術の直前の朝夕拝哭に着目した場合
郤センの孝を示すものと考え、菜園で鷄とニンニクを育てていたが、朝晩哭していたため、
それをやめてしまった。
→竭其方術 竭はなくす、と考えました。
しかし、方術が、技術を表す語と考えても、養鶏種蒜を指すのか迷います。
→孝を表すのにそんな表現で当時の人は納得したとは考えにくいかもしれません。

③段落の始めから文脈を考え、母憂去職...不欲車載柩,家貧無以市馬から
喪過三年,得馬八匹までに着目し、時間軸を表すと、

家貧無以市馬→?→喪過三年,得馬八匹

となります。
郤センは「家貧」とあり、また
>未畢,召爲征東參軍とあるように、無官で国からの俸給はなかった思われます。

それなのに、喪から3年が経って馬を八頭得たというのは、
郤センは馬を買う現金(銅銭?)を獲得するために鷄を育て大蒜を栽培していた
のではないでしょうか。

ただ、疑問は竭其方術で其は何を指すのかよく分かりません。
だから、これもただの仮説として読んでください。

82むじん:2006/10/29(日) 17:25:13
すこし読み込みが足りませんでしたが、前の引用の「この地方は低湿で」というのは緱氏ではなく、
当時、郤詵が住まいしていた場所(衛国文学講堂)のことを言っていたようです。

『通典』巻103にはこれに続けてこうあります。
> 魏舒が山濤に手紙を送った。『郤詵は至孝の人で、先ごろ郎を退職したのも正しく母のためでした。
> 父の遺体は緱氏にあり、改葬しようと思っても実行する手立てがなく、すぐに埋葬しませんでした。
> のちに家の堂の北側に仮の埋葬をし、埋葬から何年か経ってから平輿監軍長史に任用されました。』」
ttp://ef.cdpa.nsysu.edu.tw/ccw/02/dd12.htm

「郎を退職した」というのは『晋書』本伝にある議郎のことでしょう。
母が病気になったので議郎を退職し、「衛国文学講堂」で母の世話をしていたが、
母が亡くなると、緱氏の墓地はたびたび水害に遭うし、現住居の城外も低湿なので、
城内の住居の側に埋葬した、ということになると思います。

83山口博数:2006/10/30(月) 12:21:28
八頭さん、むじんさん有難うございます。養鶏種蒜,竭其方術のニュアンスがよく分からないのが残念です。寄止というからには官舎でもない「衛国文学講堂」の側で養鶏種蒜できるのは、やはり太子洗馬の職場とは考えにくい気もします。郤詵伝のカク注に「詵表自理曰臣生三月而孤随母依外祖舅為縣悉家以咸寧二年母亡家自祖以下十四墳在緱氏而墓地数有水規悉遷改常多悉病遂使留此、此方下湿唯城中高故遂葬於所居之宅祭於所養之堂、不知其不可也。」とあるのですが、うまく句読点がうてません。どう訓むのでしょう。

84仁雛:2006/10/30(月) 15:43:33
掲示板管理人の仁雛です。
的確に誘導する機会を逸してしまい、大変申し訳ないのですが、漢文の読みなどに関する質問については「漢文翻訳スレッド」の方に書き込みいただければ幸いです。
とりあえず、>>83の山口さんの書き込みはお手数ですが「漢文翻訳スレッド」に再度投稿いただき、レスもそちらにつけていただきたくお願いいたします。

アナウンスが遅れて、すみませんでした。

85しょうた:2007/01/19(金) 20:03:35
はじめまして!
いきなり質問させていただきます。

芭蕉の俳諧に影響を与えた古文真宝について

どんなものなのか全くわかりません。

これから勉強しようと考えているんですが、

よかったら何か教えてください

86中根:2007/01/20(土) 12:26:38
>しょうたさん

はじめまして。

>芭蕉の俳諧に影響を与えた古文真宝について
>どんなものなのか全くわかりません。

この本は室町の五山文学の僧侶や江戸初期の文人はよく読んで
いたようですが、俗書のためWEB上に余り情報がないので、
「全くわかりません」というのもよくわかります。

成立年代不明、編者は黄堅(経歴不詳)の漢詩文集です。
奥平卓氏によれば推定される成立年代は南宋末〜元、
初歩的な誤りがあるので黄堅は一流の学者ではなかったろうとのこと。
訳書は星川清孝訳が明治書院(新釈漢文大系)から出ています。
柚木利博編の新書版にまとめたダイジェスト版も出ています。
とりあえず、ダイジェスト版はアマゾンでも買えるようですので、
これを読んでみてはどうでしょう?

なお、古文真宝は李密(唐の人ではなく、晋の武帝に仕えた人)・
陶淵明などの晋書関係の人物の文章も収録しております。

87のりPの教え子:2009/01/04(日) 19:08:26
はじめまして。いきなりですが質問させてください。
わけあって「蛍雪の功」について、どこに由来があるのかを調べていました。その中で疑問に当たってしまいました。
蛍雪の功、ネット検索してみると、大抵は晋書に由来している、という情報がヒットします。実際、車胤伝には、車胤が蛍の光で勉強した、という感じの記述があるようです。
ここまでは良いのです。
問題は雪の方です。
ヤフー辞書(大辞泉)によれば、孫康伝の故事から、と書いてあるのですが、wikiで晋書を調べてみると、孫康伝というのは存在しないようです。車胤伝は確かにありますし、孫康の祖父である孫盛の列伝はあるようなのですが……
晋書に孫康に関する記述はあるのでしょうか。検索した限りでは、無いように感じました。
更に調べてみると、どうも蛍雪の功という言葉は、蒙求の孫康映雪、車胤聚蛍から有名になっているらしいと分かりました。
孫康映雪を調べてみると、グー辞書で、『初学記』が出典だと載っていました。
初学記は唐の徐堅が725年に偏したもので、蒙求は唐の李瀚が746年に編したもの、のようです。孫康も晋の時代の人物なのに唐にいたるまで史料に登場しなかった、ということでしょうか。よく忘れ去られなかったものだと思います。

前置きが長くなりましたが、ここからが質問の要点です。
「蛍雪の功の出典は、端的に言って何なのか?」
どう解釈するか、の問題にもなるかと思うのですが。
蛍の部分に関しては晋書で間違いないのでしょうが、半分だけであっても、蛍雪の功の出典が晋書であると言ってしまっても良いものか?
それとも、蛍も雪も両方揃っている蒙求というべきなのか。
やっぱり正確を期して晋書と初学記とするべきなのか……

……なんか、書いているうちに、わざわざ質問するべきことでもないように思えてきてしまったのですが……ご回答いただけますと幸いです。

88菅原:2009/01/04(日) 22:24:32
のりPの教え子さん、はじめまして。代表の菅原です。

わけあって「蛍雪の功」の由来について調べているとのことなのですが、
大学か高校か何かのレポートで調べているのでしょうか?
それとも卒業論文等の研究に近い調査なのでしょうか?
またすべてネットで検索されて書物を一つもご覧になっていないようですが、
書物を使わずにネットで検索するレポートなのでしょうか?
ネット検索は手軽ですが、ネットの情報には間違いもあるので、
利用には注意が必要だと思います。

故事について知りたいのならまず故事について書かれた書物を見るのが
一番手っ取り早いことと思います。
たとえば『三省堂中国故事成語辞典』(三省堂・1996)などを見れば
『晋書』「車胤伝」と『蒙求』注となっています。

それから『初学記』が出典というのは『初学記』の性質上ありえません。
goo辞書には「『初学記』」ではなく「『初学記しょがくき』二に引く『宋斉語そうせいご』 」となっていますよ。
なぜ『初学記』が出典にならないかは『初学記』という本を調べればわかると思うので、
せっかくの機会ですから調べてみたらいかがでしょうか?
どうしてもわからなければお教えしてもかまわないので、また質問してください。

この出典に関しては初学記や蒙求の編纂年の前後で判断するものではないと思います。

>晋書に孫康に関する記述はあるのでしょうか。検索した限りでは、無いように感じました。

現在の『晋書』には「孫康伝」はありませんし、記述も見当たりません。
ただそれが過去いかなる時も『晋書』に孫康の記述が一切ないということとは一致しません。

>孫康も晋の時代の人物なのに唐にいたるまで史料に登場しなかった、ということでしょうか。よく忘れ去られなかったものだと思います。

現行の『晋書』も唐代に作られたものなので、のりPの教え子さんの理論を用いると
『晋書』に登場する全員がよく忘れ去られなかったということになりますが、
そんなことはありません。
正史だけが唯一の史料というわけではありませんし、唐代以前にもいくつかの『晋書』はありました。

とりあえずのりPの教え子さんの「わけ」がわからないので、こういった答えになりました。
理由がわかればもう少し希望に近い回答ができるのではないかと思いますので、
もし今後質問される場合は差し支えない範囲で理由を書いてくだされば幸いです。

89のりPの教え子:2009/01/05(月) 22:40:12
菅原さま、さっそく丁寧なご回答をいただき、ありがとうございます。
と、同時に、質問文が雑で不備なために、余分な手間をおかけしてしまったようで、もうしわけございません。

私は趣味で小説を書いており、その中で一文、蛍雪の功について元ネタの説明を軽く出したいと思っただけです。極端な話、出典について一切書かずに省略したとしても、作品としては問題なく成り立ちます。
ですので、レポートのような本格的なレベルではなく、どうでもいいと言ってしまえばどうでもいいレベルです。

質問文の中に書かなかったのが悪かったのですが、ネットだけで調べたわけではありません。
三省堂新明解四字熟語辞典(1998年)で孫康映雪を調べました。【意味】のところに意味の解説があり、最後に、蒙求の一句。と書かれていました。【出典】は『初学記』二に引く『宋斉語』でした。
車胤聚蛍を調べると、【意味】のところの最後に蒙求の一句。【出典】は晋書車胤伝でした。

再度よく調べてみると蛍雪之功も載っていたので見てみますと、【故事】のところに、『晋書』「車胤伝」と『初学記』二に引く『宋斉語』から。【出典】が蒙求でした。

……うーん、改めて見てみると、ますますわけが分からなくなってしまいました。
どうも私は【故事】と【出典】をごっちゃにしていたみたいです。私が求めていたのは出典ではなく、「蛍の光や窓の雪で苦労して勉強した、というエピソードの元ネタはどこから来ているのか」ということなので、どちらかというと故事に近いのかもしれません。
故事だとすると、蛍はいいとして、雪の方がやはりどう考えるべきなのか分からなくなってしまいます。


「『晋書(車胤伝)』等に記されている、苦労して学問に励んだ故事に由来する成語【蛍雪の功】。」
とでも書けば、間違いではない、……のかな?と思います。
雪の方は思い切って「等」でごまかしてしまったけど、それでも文章としてはすわりが悪く、イマイチな感じがするのですが。

90えちぜん:2009/01/06(火) 00:47:41
のりPの教え子さん、こんばんは。解體晉書会員のえちぜんと申します。

小説をお書きになるのですね。文才のある方はうらやましいです。若くして司馬氏に弑された高貴郷公曹髦などは小説の主人公に成りうるのではないかと思いつつ、どなたか小説に仕立ててくださらないかとひたすら他力本願です。
さて、「蛍雪之功」につきましては、のりPの教え子さんがお知りになりたい、あるいは十分に参考になるものとして書籍を一冊紹介させていただきます。

早川光三郎著『新釈漢文大系58 蒙求(上)』(明治書院)

この書籍は上下ありますけれども、上だけで大丈夫です。「孫康映雪 車胤聚蛍」も収録されておりますし、巻頭の「序説」にも「蛍雪の功」が取り上げられております。
大きめの図書館などには所蔵されておると思いますので、ご参考になさってください。

91NAGAICHI Naoto:2009/01/06(火) 01:03:01
横から失礼します。
「蛍雪の功」(螢窗雪案)ですが、

『晋書』巻83列伝53の車胤伝の
「家貧不常得油,夏月則練嚢盛數十螢火以照書,以夜繼日焉。」と
『初学記』巻2の雪2の
「宋齊語曰,孫康家貧,常映雪書。」の
ふたつの故事が合わさって
『蒙求』巻上の
「孫康映雪,車胤聚螢」の記述が生まれ、
日本では「蛍雪の功」として(中国では螢窗雪案として)知られているのだと思います。

92のりPの教え子:2009/01/09(金) 22:39:12
えちぜんさま、NAGAICHI Naotoさま、回答ありがとうございます。
蒙求、日本に与えた影響は随分大きいようですね。
私は個人的に四字熟語が大好きなので、掲載されている内容も大変興味深いです。

よくよく考えてみたら、必ずしも出典となる史料の名前を小説に出さなければならないというのでもないし、車胤も孫康も、出てくる史料はともかくとして晋人であることには違いなさそうだし、
「中国・晋の時代に、車胤が蛍の光で、孫康が窓の雪で苦労して勉強に励んだ故事に由来する成語【蛍雪の功】。」
とかでもいいかなー、とも思い始めました。かなり推敲の余地はありそうです。

末筆になりましたが、貴サイトの晋書翻訳活動がより充実したものとなりますよう、陰ながら応援いたしております。

93菅原:2009/01/18(日) 11:29:39
のりPの教え子さん、こんにちは。菅原です。
【解體晉書】に対して応援いただきありがとうございました。

出典について非常に気になられているようでしたので、
てっきり学校のレポート等で調査されているのかと思いましたが、
小説内で使うのでしたら、特に出典にこだわる必要はないと思いますので、
おっしゃるとおり「中国・晋の時代に、車胤が蛍の光で、孫康が窓の雪で苦労して勉強に励んだ故事に由来する成語【蛍雪の功】。」
で十分だと思います。
書籍名を出したいのでしたら出典ではなく「『蒙求』の一節に使われていることで有名。」
といったような補足説明をすればより良いのではないかと思います。
小説のご執筆はいろいろとたいへんだと思いますが、頑張ってください。

それでは失礼します。

94vanilla:2009/07/28(火) 13:40:09
周処が陸雲に教えを請う話というのは、どの本のどのあたりに載っているか、教えていただけないでしょうか?

95菅原:2009/07/29(水) 23:07:22
vanillaさん、はじめまして。代表の菅原です。
ご質問の件は正史でいえば【解體晉書】が訳している本の『晋書』の「周処伝」にあります。ただ現行の『晋書』はそれ以前の各種の『晋書』や稗史小説等を集めて編纂したものであります。現行の『晋書』以前の書物であればたとえば『世説新語』「自新篇」に『晋書』と同種の逸話があります。

96vanilla:2009/07/31(金) 10:27:22
菅原さま
丁寧なご説明本当にありがとうございました。
その資料がなかなかみつからず困っていたので、本当に助かりました。
「晋書」は図書館などでみつかるか分かりませんが、行ってみようと思います。
ありがとうございました☆

97八頭:2009/10/11(日) 20:34:55
『続日本紀』神護景三年(769)に
「大宰府言。此府人物殷繁。天下之一都会也。子弟之徒。学者稍衆。而府庫但蓄五経。
未有三史正本。渉猟之人。其道不広。伏乞。列代諸史。各給一本。伝習管内。以興学業。
詔賜史記。漢書。後漢書。三国志。晋書各一部。」とあります。

当時、都の大学には、五経はもちろん、『史記』、『漢書』、『後漢書』(東観漢記?)
などの史書なども揃っていたと思われますが、
この記事から大宰府の府学、そして恐らく各地の国学にも、史書が行き渡っていなかった
ことが想像されます。

この文を読んでふと疑問に思ったのですが、
『晋書』が公式に日本にもたらされた年はいつなのでしょうか。手元に史料が少なくてよく分かりません。

『晋書』が成立したのが、唐の貞観二十二年(648)です。
『旧唐書』巻六十六 房玄齡伝
「尋與中書侍郎褚遂良受詔重撰晉書,……至二十年,書成,凡一百三十卷,
詔藏于祕府,頒賜加級各有差.」
また、
同書の巻百九十九 東夷伝新羅国に
「二十二年,真紱遣其弟國相、伊贊干金春秋及其子文王來朝[五].詔授春秋為特進,
文王為左武衛將軍.春秋請詣國學觀釋奠及講論,太宗因賜以所制溫湯及晉祠碑并新
撰晉書.」
と、唐の太宗は、648年に新羅の使者である金春秋に『晋書』を与えたとあります。金春秋は、654年に
新羅王に即位した人物のようです。

『日本書紀』巻第二十五 白雉五年(654)七月の記事に、
「是月、褒美西海使等、奉対唐国天子、多得文書宝物、授小山上大使吉士長丹、
以少花下。」とあります。
当時、唐に朝貢していた新羅の使者に『晋書』を与えられたとすれば、日本の使者にも与えられた可能性は
高いと思います。『日本書紀』の「多得文書」の中に『晋書』が存在した
のではないでしょうか。

よって、日本に『晋書』がもたらされたのは、
第二回遣唐使の吉士長丹が帰朝した白雉五年(654)頃?かもしれないと勝手に憶測しているのですが、
素人なのでよく分かりません。それとも、記録は残っていないので詮索しても意味がないのでしょうか。
詳しい方がいらしたら、教えていただけないでしょうか。
よろしくお願い致します。

厳密な年は分からなくても『晋書』が成立して間もなく日本に輸入されたとすれば、7世紀半ば過ぎと
おさえておけばよいとも思います。そうすると、今から大体1350〜1360年ぐらい前に、日本の教育機関で
講義されるようになったといえるでしょうか。

今の学生で読む人は、研究者を除けば、三国志関連で興味を持ったという場合が多いようですが、
当時の学生にとって、中国の史書は先端知識で、官吏になるための必読の書物の一つだったのでしょうね。

ただ、成立から150年経っても地方の大きな教育機関に普及していなかったというのは、
驚きました。しかも一冊だというから、学生の中には部分的に書写した人もいたのでしょうか。
当時は相当高価だったのでしょうね。

98mai:2009/11/14(土) 20:58:35
初めまして突然申し訳ありません、

司馬一族(司馬懿 司馬師 司馬昭)の事を知りたいのですが三国志関係で司馬師 司馬昭の事が書かれている書籍を持っていません。
司馬一族の事が詳しく書かれている書籍を探しています、オススメな書籍などを教えていただけませんか?

突然で申し訳ございませんが教えていただけないでしょうか?
よろしくお願いします

(「司馬一族について」1 名前:mai 投稿日: 2008/07/29(火) 19:15:11 から菅原が転載。)

99えちぜん:2009/11/14(土) 20:59:52
司馬一族の関連書籍と聞いて、思いつくのは下記2点です。

松本一男『司馬仲達―「三国志」の覇者』 (PHP文庫)
福原啓郎『西晉の武帝 司馬炎』(白帝社)

2点目はご指定の(司馬懿 司馬師 司馬昭)でもありませんし、私も未見です。(思わずAmazonで勢いで注文してしまいました。。。)
それと、

坂口和澄『三国志群雄録』(徳間文庫)には司馬懿の項があって分量は少ないので詳しくとは言えなさそうですが紹介されています。

あとは、曹操や諸葛亮、諸葛亮死後について書かれたものを探してみると、出てくるかもしれません。

(「司馬一族について」2 名前:えちぜん 投稿日: 2008/07/29(火) 21:22:12  から菅原が転載。)

100mai:2009/11/14(土) 21:00:46
えちぜんさん

ご返答有難うございます、3点早速購入致しました、司馬一族の書籍はあまり無いのですね。
三国志の中で司馬懿は好きな人物の一人なので詳しく知りたいと思い出したらその子等まで興味が湧いてきました。
これからじっくりと調べていきたいと思います、色々と教えて下さいまして有難うございました。

(「司馬一族について」3 名前:mai 投稿日: 2008/07/31(木) 15:36:08  から菅原が転載。)


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