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なぜ、カインの捧げものを認められなかったのか?

1ダイボン:2004/02/05(木) 15:43
フランシスさん、また質問させていただきます。
創世記の、カインとアベルが捧げものを捧げる箇所ですが、
なぜ、カインの捧げものを認められなかったのでしょうか?
よろしくお願いします。

2ウィリアム  オブ ベッカム:2004/02/05(木) 15:43
 カインとアベルは,「神の絶対的意思主義・恣意性」を顕しています。神は完全なる主権者ですから,理性とか,「自然法」とか「公平原理」に縛られることは,論理上ありえないのです。
 このたとえ話について,「アベルは心からの犠牲を,カインは心のこもらない犠牲をささげたから」という解説がありますが,誤っていると,主意主義である私,ウィリアム オブ オッカムは考える次第です。

3パンプキン:2004/02/05(木) 15:44
ダイボンさま、はじめまして。
ヘブル語もギリシャ語もわからない私なので、語源を踏まえた詳しい解説はフラ
ンシスさまにお任せするとして、先日ちょうどそこの部分の解説を読んだばかり
なので、正統派の解釈ではありませんがひとつの例として書かせていただきます。
カインとアベルの話の前に、エデンの園の追放の話がありますが、蛇が「おまえ
は、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。」と言われた「腹ばいで
歩く」とは、天を仰ぐことをせず、肉や地上のことに固執して生きることを指す
らしいです。同様に、エデンの園から追い出された人が「土を耕すようになった」
とあるのもまた、地上のものに執着するようになり、感覚や肉体的な快楽に支配
された、物質的(形体的)な心になったというようなことを指すみたいです。
従ってその直後に出てくるカインの「土を耕すものとなった」というのもまた、
農業従事者になったというだけの意味ではなく、「地上のものに執着するように
なった」「形体的になった」と同様の意味を持つと思われます。本にはそこから
発展して「信仰が形体的になり、愛を失ったことを指す」というようなことが
書かれています。
>このたとえ話について,「アベルは心からの犠牲を,カインは心のこもらない
>犠牲をささげたから」という解説がありますが
これ、私も小さい頃聞かされましたが(笑)上の本によるとこれは間違いという
ことになりますね。まあ子どもに説明するには仕方なかったのかもしれませんが。
しかし
>神は完全なる主権者ですから,理性とか,「自然法」とか「公平原理」に縛ら
>れることは,論理上ありえない
という考え方もまた、理屈はわかるのですが、自然法や公平原理に縛られない
ことを我々人間に本にしてまで伝える理由はなんだろうかと、私は考えてしま
うのであります(^^;;
極言すると、「愛のない信仰を、神は認めたまわない」というということだと
いう解説が、上の本には書かれていました。ひとつの解釈として、ご参考までに。

4へっぽこ@同感:2004/02/05(木) 15:45
>神は完全なる主権者ですから,理性とか,「自然法」とか「公平原理」に縛ら
>れることは,論理上ありえない
という考え方もまた、理屈はわかるのですが、自然法や公平原理に縛られない
ことを我々人間に本にしてまで伝える理由はなんだろうかと、私は考えてしま
うのであります(^^;;
極言すると、「愛のない信仰を、神は認めたまわない」というということだと
いう解説が、上の本には書かれていました。ひとつの解釈として、ご参考までに。
パンプキンさま
へっぽこも同感です。へっぽこはもっと極端な解説をきいたことがあります。
「カインのささげものは、穀物だったからダメで、アベルのささげものは
”羊”だったから”義”とされた..(”羊”は”キリスト”の象徴だから)」
(ある「韓国系一致運動の教会)
んなあほな!
だったら、カインはアベルから羊を譲り受けて ささげものにしなければならなかったの?
へっぽこはむしろ、カインに「自分のささげものは優れている。弟のものより
神に喜ばれる。」というおごりたかぶりのこころがあったから、それを神に
見抜かれたと思うのですけれども。そして、受け入れられなかった後も、
まだ自分が正しいと思っているから、納得できない。神様には逆らえないから、
弟に嫉妬して、殺した。カインは「裁こう」として「裁かれた」のかも...
何か、「信仰」を自分達だけ解るもののように囲い込んでいるクリスチャンが、
カインの過ちを繰り返しそうに思えるへっぽこです。(もちろん自分も含めて)

5名無しさん:2004/02/05(木) 15:45
理性によって(人間が)神を縛ることはありえても、自然法や公平原理によって神を縛ることなんてできるのかな。
そもそもこれらの概念はそう言うことを予定していないと思うんですけど。

6フランシス・ヒデ:2004/02/05(木) 15:47
ダイボンさま、
創世記の4章冒頭ですね。
で、まず最初に私の立場を明記しておかねばなりません。
私はキリスト教徒なので、ユダヤ教聖書の正典39巻については、あくまで
ユダヤ教徒の釈義を尊重し、私自身は突っ込んだ釈義をしないことにして
おります。
ご存知のとおり、この39巻はあくまでユダヤ教徒が著作・編集して発展させ、
おそらくは1世紀末頃にユダヤ教のラビ達の会議で39巻正典が定められた
ものです。それをキリスト教が、いわば「かってに失敬」して使ってきた
側面を、否定できません。ですから、私はユダヤ教正典39巻については
あくまでユダヤ教のラビなどにご相談なさることをお奨めしております。
例として、
http://www.outreachjudaism.org/asktherabbi.html
には、問い合わせ用フォームがありまして、英語で質問を書き込むとラビが
英語で説明してくださるようです。
これで私からの応答を終わりにしてもよいのですが、そうするとあまりにも
無愛想だと思われかねないので、まず私の上記の態度を説明しておきましょう。
この「カインとアベル」の例を引くなら、キリスト教正典(新約正典)の
以下の箇所をご覧ください。
ヘブライ11:4 (アベルの捧げものの方が、カインのそれよりも信仰に
よって優れたものであった、という釈義になっています。しかし、創世記4章
には、そうした釈義を支持する要素は見当たりません。カインが「不信仰」で
あったのなら、そもそも何ゆえにカインが捧げものをしたのでしょうか??
やはり、ヘブライ書の著者が同書では信仰を強調するがあまり、無理な釈義
例を引き出したことは否定できません。)
I ヨハネ3:12 (ここでは、捧げモノの比較はありません。この箇所は
あくまで、カインがアベルを殺したという「悪い行い」を問題にしていると
見るべきでしょう)
上記の2箇所のうちのヘブライ書のほうに、「作成・継承させた集団ではない
別集団が、勝手に釈義すること」の危険性が現れていますね。
実際、この「無断釈義・適用」という傾向は2世紀のバルナバ書などでは
もっと先鋭化しまして、まるで「ユダヤ教聖書は、実はキリスト教徒のものだ。
ユダヤ教徒は、我々キリスト教徒の釈義に従え」といわんばかりなのです。
バルナバ書から1800〜1900年を経て、現在の我々はすでにキリスト教徒による
ユダヤ教徒迫害、ゲットーなどを知っておりますし、20世紀には(キリスト教徒
がイニシアティブを取ったものではないにせよ)アウシュヴィッツさえありまし
た。
こういう歴史を反省し、私は「ユダヤ教正典は、まずユダヤ教徒の釈義を
尊重しよう」と言っているわけですね。ですから、私自身は「39巻」の
突っ込んだ釈義などを行わないわけです。
ついでに言っておくと、日本にいる我々は「聖書」というとき、「いわゆる
”旧新約”の翻訳をあわせて製本した出版物」に慣れっこになってしまって
います。しかし。私も含めてユダヤ教徒と親しく接してきた人物であれば
だれでも知ることですが、正統派のユダヤ教徒にとって、この「あわせた製本」
そのものが「とんでもない暴挙」です。上記の歴史を考えていただけば、
すぐに納得してもらえるでしょう。一緒に製本してしまうこと自体が、
正統なユダヤ教徒にとっては、「なんだ、この制本社/出版社は、要するに
ユダヤ教徒の心理は無視してキリスト教側にたってるのか?」とも言いたくなる
わけですね。
ついでながら、「旧新約聖書66巻はすべて神の言葉で・・・」などと公言する
一部教派がありますが、このcredo(信条)自体が、ユダヤ教徒への鈍感さを
裏に持つものであることは、もはや言うまでもありますまい。
なお、こういうとすぐに、「でも、個々人が”旧訳”から霊の糧を得て生きて
きた場合、それを奪う権利など誰にもないじゃないか!?」といった無理解な
反論が予想されます。ご覧のとおり、今回の問い合わせは「誰でも読める」
公の掲示板上でのことです。個々人が私生活において、どのような文書を
どのように解釈しようと、私は知ったことではありません。それは、個人の
まったく自由です。私が問題にしているのは、ユダヤ教正典の成立事情や
キリスト教徒による「無断曲解」、またキリスト教徒によるユダヤ教徒迫害など
の公的・社会的な事実です。この掲示板も、だれでもご覧になれる以上、
ある程度公的な性格を有しています。個々人がどの書物を・どのように釈義
するかについては、私はまったく関心がありませんし、「掲示板」という
メディアで扱うべき問題ではありません。
以上で終わってもよいのですが、「フランシスは冷たい」という誤解を避ける
ために、次に概略的な釈義例だけを短く紹介しておきます。

7フラソワーズ・ヒデ:2004/02/05(木) 15:48
ダイボンさま、
では、「冷たい応答」と思われないため、創世記4章冒頭の主な釈義例を、
ごく短く記しておきますね。
1)考古学その他でよく見られる説
これは、牧畜集団と農業集団の対立がこのエピソードの背後にあり、この
エピソード自体は牧畜集団側のものだったので、農業集団の「捧げもの」が
拒否されたことになっている、というものです。
この釈義はいかにも「霊性に欠ける」と言われてしまいそうです。ですが、
どうも信仰者という者はとかく「霊性」面ばかりに目を向け、社会状況や
文明の構造などの問題を無視してしまう嫌いがあります。信仰者としても、
「霊的な意味」を尊重しながらも、同時にこうした「冷たい視点」は
維持しておくべきでしょう。
2)先のヘブライ書にあるような釈義
これはやはり、あまりにも一方的な釈義だと言わざるを得ません。個々人が
私的にこうした釈義を持つ/持たないはご自由ですが、公の掲示板でこの
種の釈義を主張するのなら、「ではユダヤ教徒が成立させ選定した書物を、
キリスト教徒がキリスト教的な”信仰”の視点で釈義して、どこまで妥当
なのか?」というやっかいな問題に直ちに直面することになります。
3)ヘブライ語の人名の意味に着目
ヘブライ語のQayin(カイン)という名前には、「得る、設ける、作る」という
意味があり、これは4:1後半からも明らかでしょう。(ついでながら、ヘブ
ライ正典には、この種の「シャレ」が多数あります。)
ここまでは、特に問題ないですね。一方のHebel(アベル)は「虚しい・空虚・
すぐに消える」といった意味の形容詞とまったく同じスペルです。
これに着目して釈義を進めるなら、「YHWHは強いものではなく、弱いもの・
無力なものの捧げものに目を止められた」という釈義も可能ですね。
(なお、この箇所はいわゆるJ資料のようで、”神”の名はYHWHになっています)
この3)の釈義が、皆様のお気に召すのでは?
もしそうなら、まずは我々キリスト教徒自身が、西欧社会の多数派になった
ときに少数派のユダヤ教徒に対して何をやらかしてきたのか、その反省材料と
しても読みたいですね。
では、詳しいことはぜひユダヤ教のラビなどにお尋ねくださいね。
それと、これはダイボン様に限らずどなた様からであっても、今後は、
ヘブライ正典の釈義に関するお問い合わせを私宛にいただいても、↑の6
の返答を繰り返すかもしれません。決して悪意からそうするのではありません
ので、主旨をよくご理解いただければと願っております。

8へっぽこ@解釈:2004/02/05(木) 15:48
フランシスさま、
?解釈は一通りではないこと
?ヘブライ聖書の解釈は、ユダヤ教徒の解釈を尊重すること
この2点ですね。へっぽこも、学生時代マービントケイヤー先生の
著書を読んだことがあるので、入信前から、「ユダヤ教徒にとっては、
キリスト教徒がいうところの”旧約聖書”がそれ自体独立した
聖書である、ということは知っていました。
へっぽこが経験した教会の多くは、やはりユダヤ教徒を無視してキリスト教徒
としての旧約解釈をしていたと思います。
しかし、ここまで教えてくれる教会、なかったなあ!

9ウィリアム オッカム:2004/02/05(木) 15:49
 「神と民との契約?」
 神は,民に約束された。「私は,愛である(昔こんなしゃれたCMがあっった)。私は正義である。私は公平である。私は真理である」と。
 そのように約束された以上,神は,自己の「恣意性・主意主義」をその限りにおいて,抑制された。
 このように考えれば,「主知主義と主意主義」の調和について「一応の説明」はできるように思えます。
 そうすると「パクタ スント セルバンタ(合意ハ履行セラルベシ)」という根本的自然法に,神は,羈束されることになるから,これは,やっぱりかみの「絶対的主権性」に反するのではないかという問題に突き当たります。
 ちゃんと,オッカムを読んでみようと思っていますが,何しろ難しいし,分厚いし。

10続き:2004/02/05(木) 15:49
 神の絶対的主権性,絶対的恣意性を強調するのは,確かに危険だ。神=アサハラショウコウという曲解をもたらしかねない。
 「カトリックはカルト」という問題と通底することになろう。
 法律学者や「良い加減」な神学者は,その辺,「良い加減(落としどころ)」のところで「理論構成」するのだが,真の神学とか,真の哲学というのは,そういういい加減な姿勢ではいけないのだね。
 私は,大学生時代,ケルゼンばっかり呼んでいたので,「主権者の意志に従うべし」という命題を措定しているのだが・・・・。そうでないと,理論構成ができないから。

11続き:2004/02/05(木) 15:50
 「9」のような考え方は,やはり,「神以前に」「神以外に」「愛・正義・公平・真理」が存在するということになってしまうように思われる。これでは,やっぱり,ローマ教会やブルンナー的見解になってしまう。「愛・正義・公平・真理」の源泉は「神の意思(神の恣意)」であると言うことになってしまうが,これはまた,気持ちの悪い結論だ。

12ダイボン:2004/02/05(木) 15:59
フランシス様
いつもご返答ありがとうございます。
やはり、キリスト教はユダヤ教の聖典を勝手に失敬してしまったのですか?
私の今までの理解では、イエスはユダヤ教徒で、
旧約聖書に書かれているメシアであると思っていました。
だから、旧約聖書は新約聖書と共に神の霊感によって書かれたと思っていました。
フランシスさんの解釈によると、聖書は神の霊感で書かれていないということですか?
私の通っている教会は、そのように教えられています。
私自信も、いろいろキリスト教を勉強していき、
クリスチャン、牧師でさえも、非常に無知であることが多いことに、
危惧を覚えることがあります。
これから、聖書を読むときは、どうしたらよいかちょっと分からなくなりました。

13へっぽこ@よろしく:2004/02/05(木) 16:00
00:29
>>クリスチャン、牧師でさえも、非常に無知であることが多いことに、
>>危惧を覚えることがあります。
ダイボンさま
ご挨拶が遅れました。へっぽこです。よろしく。
↑同感ですね。もうあまり悪口は言いたくありませんが、聖書やキリスト教の
歴史など基本的なことを押さえていない牧師や信徒はなにか悲しくなります。
主イエス=受肉したロゴス。フランシスさまから教わった言葉です。
ロゴスには、「理性・知性のロゴス」と「神秘のロゴス」の両側面がある
ことも学びました。つまり、勉強することも大切であるが、”信じる”ことは
もはや理屈ではなく、体験すること、と受け取っています。
ともに学んでいきたいと思います。これからもよろしく!

14フランシス・ヒデ:2004/02/05(木) 16:23
ダイボンさま、
「聖書の霊感」については、実は非常に分かりにくい問題でして、一見同じよ
うに「66巻の霊感」を説く諸教派のあいだでも、
○ まったくinerrantで、あらゆる事項の正解が66巻に秘められている
という極端な主張もあれば、
● あくまで聖書は古生物学や政治学などの本ではなく、我々の救いに関する
啓示だ
と見なす立場もあります。
つまり、アメリカで言うfundamentalistsとneo-evangelicalsの違いなどに
示されるような多様な立場が現実にあるのですね。
で、私自身はウェストミンスター信仰告白のような「聖書(という書物)に
啓示が完結している」という立場を採用せず(この立場を採用すると、自動的に
ペンテコステやカリスマ派を排除することになります!)、どちらかというと
ルターに近い立場ですね。つまり、聖書はあくまで人間の言葉による書物でも
あることは否定できない("神の言葉”なんて、そのまま我々人間が読み解ける
はずがない!)以上、考古学や歴史研究、パピルス学、文献諸学などを反映した
高等批評もフルに活用すべきだが、聖霊が働くとき、そこにキリストを見出す
ことができる。とでも要約すればよいのか。。つまり、聖書の高等批評と
キリストへの信仰とが、必ずしも矛盾・対立しないわけですね。
また、地上での「人としての」ナザレのイエスがユダヤ教徒であった点は
間違いないのですが、初期キリスト教徒のヘブライ正典の扱い方は、本来の
テキストの意味というよりも、むしろフィロなどに近いアレゴリー解釈を
多用していますよね。そうしないと、ヘブライ正典と”新約”正典とは
結びつけるのが難しい面があるのですね。やはり、この両者のあいだには
400年の隔たりがあることを考えねばならないでしょう。ですから、「ユダヤ
教」とはいっても、主イエスが地上におられた頃の「ユダヤ教」を理解するには
ヘブライ正典も必要ですが、死海文書やアポクリファ、プセウドエピグラファ、
フィロの著作などいろいろ必要になるわけですね。こうしたものすべてを総合
的に考慮していって、主イエスの言動記録を読んでいこうとするのが、私の立場
です。当然、”66巻”であろうと、批判すべきは批判します。
なお、ダイボン様がご自分でどのような「聖書観」に立脚するかを、ご自分で
考えてお決めになればよいかと存じます。たとえば↑の2種類の「霊感説」で
あっても、○のほうは現実には「聖書以外、何も読む必要はない」といった
反知性主義を少なからず招いておりますが、●のほうは実際に穏健で健全な
福音主義諸派を生み出しております。後者の穏健な諸派の聖書学者が集まって
作成したWORDという聖書注解シリーズなどは、私も愛用しており非常に
優れた注解書です。この霊感説なら、反知性主義などに必ずしも陥らないと
いう実証ですね。
一般に、自分がタマタマ行っている/行った教派・教会の霊感説や教理などを
鵜呑みにする必要はどこにもありません。個々人の性格や環境という要素も
ありますので、最初は鵜呑みにしかけても仕方がないかもしれませんが、いずれ
ご自分で納得できる霊感説や教理などを考えていかれることも重要ですよ。

15パンプキン:2004/02/05(木) 16:49
23:54
横レス失礼します。
>キリスト教はユダヤ教の聖典を勝手に失敬してしまったのですか?
>私の今までの理解では、イエスはユダヤ教徒で、
>旧約聖書に書かれているメシアであると思っていました。
>だから、旧約聖書は新約聖書と共に神の霊感によって書かれたと思っていました。
私もダイボンさまと同じ理解です。
旧約聖書も、ユダヤ教徒の聖典であると同時に、神が我々すべての人類に与えて
くださったものと思いたい私です。(^^;
しかし、フランシス・ヒデさまの書かれたことも踏まえるならば、そう思う以上、
新約聖書もイエス・キリストもキリスト教徒の専有物ではなく、全人類に与えて
くださったものであり、たとえ他宗教の方がそれらを自己の宗教に従って解釈した
としても(例えばE証人とかでも)目くじら立てることなく、その方々がこの遺産
から何かを得ているならばそれを尊重するのでなければ、自分たちがユダヤ教に
対してしてきたことと矛盾することになるのですね。肝に銘じておきたいことです。
>クリスチャン、牧師でさえも、非常に無知であることが多いことに、
>危惧を覚えることがあります。
ワタシ自身は、いろいろ勉強しなければ、聖書にアプローチできないという考え方は
好きではありませんし、フランシス・ヒデさまがそのようなお考えではないことは
以前書かれておられたことからも承知しております。そうでなければ、ますますキリ
スト教というものの敷居が高くなりますしね。へっぽこさまの
>”信じる”ことはもはや理屈ではなく、体験すること
につきると思います。
「聖書が霊感による書物だと信じているならば、読む方も霊感によって照らされ
て読むべき」と思っているのですね。
過去にガリレオの発見を聖書の権威によって封じ込めようとしたとか、そういう
のは極端な例ですが、人間がただ読んだだけで聖書の意味がわかるのであれば、
聖書の深みというものはあまりないわけで、地の言葉によって天の言葉を
解読しようと試みているようなものだと思います。
天の言葉は、天の言葉によって解釈するべきで、人間の方が祈りの中で生ける主と
交わり、聖霊によって導かれる中で示された解釈は(もちろん一通りではなく)
それこそ無限のものを引き出すことができ、個々人がその時々で必要とする答えを
与えてくれるものだと思うのです。

16パンプキン:2004/02/05(木) 16:49
23:55
というわけで、私はフランシスさまが分類するところの
● あくまで聖書は古生物学や政治学などの本ではなく、我々の救いに関する
啓示だ
に属する人間です。(あるいは私の立場は「我々の生き方に関する啓示」と
言い換えた方が正確かも)
私も以前、通う教会を探そうとして、それこそ電話帳で片っ端から調べ、教会めぐり
をしたことがありました。それこそ好みは人それぞれですが、私自身は、背景知識
ばかり述べる牧師さんは肌に合いませんでした。フランシスさまのように「聖書の
高等批評とキリストへの信仰とが、必ずしも矛盾・対立しない」方もいらっしゃる
と思いますが、たいていはどちらか一方に偏っており、おそらくフランシスさまは
稀な部類ではと思います。(^^;
聖書の言葉を、自分自身の歩みと関係づけて、悩み、祈り、聖書を開き、答えを見
つけようとしているような牧師さんが教派を問わず私は好きで、そういう方にも何
人かお目にかかることができました。というのも、そういう体験に基づいた説教こ
そがわたし自身の歩みにも役立つからですね。説教が実生活と結びつくのです。
ですから私はまず聖書を開くとき、自分は何に対する答えを求めているのか?とい
う問題意識(読む目的)を明らかにし、そして祈りの中で示されるようにと待ち望む
ことを心がけています。教職者でもないですし、別に系統だって人に説明できる解釈
ができる必要はないんですしね。実際は、牧師さんや書物の解説に頼っている場合が
多いですが(笑)最終的には、自分の知恵で読もうとするか、天によって教えられ
ようとしているかというのが、分かれ目になるんではないかと思っております。
(あと、よい目的で読むというのも大事なんでしょうね、きっと)
ところでオッカムさま、
>「愛・正義・公平・真理」の源泉は「神の意思(神の恣意)」であると言うこと
になってしまうが,これはまた,気持ちの悪い結論だ。
どうして気持ち悪いんでしょう?(真面目な質問)

17へっぽこ@パンプキンさま:2004/02/05(木) 16:50
パンプキンさまのスレには、いつも”暖かみ”がありますね。
聖書の読み方も、「血が通っている」読み方のように思えます。

18ドゥンス・スコトス(騙り):2004/02/05(木) 16:51
 業務連絡>東大阪さんand/orフランシスさん
 このスレッドは,「神学」のカテゴリに丸ごと移転できませんでしょうか? かなり奥が深い問題だと思います。
 お詫び
 このたびは,不詳の弟子,オッカム君が,極端なことを言って,皆さんを混乱させてしまいました。
 普通「学者」という者は,初代は,とんがったラジカルな学説を説き,2代目は,それをマイルドにし,3代目は,初代の学説を忘れてしまうものですが,オッカム君は,私より,とんがってしまいまスタ。

19オッカム:2004/02/05(木) 16:51
 以下は,私淑する神学者富井健先生との問答です。
 私は,富井先生から,「転載全面許諾」を得ていることをお断りします。
http://www.path.ne.jp/~millnm/no33.html
自然法ではだめ part2
(Q)先生は、自然法の存在に肯定的な掲示をしておられます。これは、「自然法」という概念をどのように定義するかという半ばロゴマギーの問題でしょうが……。 自然法思想の「典型」は、トマス・アキナス以前から連綿と続くカトリック神学・カトリック法思想です。この神学は、かのエミール・ブルンナーの「自然」神学と本質的に同様であり、「人間は、聖書による特別啓示なくしても、自然や・人間の本性を理性的に観察することにより、神の存在や、客観的絶対的な正義を認識できる。」という思想が根本にあると思います。
 先生が言及する「自然法」もこれと同値と考えて良いのでしょうか? これは、神による世界の創造・倫理規範や律法の制定「以前」にあるいは,それとは「別に」客観的な「正義」が存在したという考えにつながるように思えるのです。 「人間以外が=神が−意思によって−定めた法」
を自然法と定義するなら、先生の用語法も理解できます。しかし,「自然法」という言葉を「人であれ神であれ−意思による制定行為なくして−客観的に存在する法」と定義するならば、先生のご見解は、ブルンナーやカトリックに近いように思えます。
(A)自然法について肯定的な発言をしたのは、自然法が社会や個人の倫理規範としてある程度まで秩序を保つのに役立つからであって、それが最終的なものであると考えておりません。聖書的キリスト教はあくまでも、宇宙が神によって創造され、神の法によって統治されていると考えます。それは、神という人格者の意思によって統治されており、この意思の外において起こることは一切ないし、また、神の意志に反して行われることはすべて刑罰の対象となるという意味で、神の法は絶対なのです。ですから、聖書の三位一体の神とは無関係に存在する自然法などというものは、聖書的キリスト教において絶対に認められないのです。それゆえ、聖書的キリスト教は、自然法と闘っているのです。自然法という虚妄を排除し、神の制定された法に矛盾するいかなる法も無効にしていくことがクリスチャンの責務なのです。
 19世紀までの自然法への信頼は、カントとダーウィンによって打ち砕かれました。個人や社会の倫理を決定するものが「誰かはわからないが、とにかく宇宙を統治している神的存在」であるという信仰は、適者生存、自然淘汰の「弱肉強食」的世界観によって破壊されたのです。秩序や倫理は人間が作り出していくものであって、それを超越者の制定した法に照らしてチェックしていくという考えはもはや時代遅れとなっています。ですから、倫理は時代や場所によって変化してもよいのです。これは、もはや universe ではなく、multiverse です。つまり、多神教の世界観なのです。唯一神による統一的宇宙ではなく、多くの神々の支配する多元的宇宙なのです。20世紀は、自然法の死と同時に、多神教の時代を迎えたのです。この意味で、アダムにおいてサタンが実現した「法の制定者としての人間」像が復活しました。

20続き:2004/02/05(木) 16:52
 人間が神とは無関係に善悪を決定していくという考えは、今日世界に満ちています。中絶賛成、死刑制度反対、自由恋愛・・・。こういった無秩序は、人間が宇宙に統一的な法を認めないことから起こっています。聖書的キリスト教を土台として作り上げられた西洋キリスト教文明はこのような多神教的無律法主義によって破滅の危機に瀕しているのです。
 では、どこからこのような問題が発生したのか。その発端は、キリスト教が、理性を堕落の影響の埒外において、神の法によらずとも、人間理性のみによって認識し、統治できる領域を許容したところにあります。このようなギリシャ無神論に起源を持つ自然法思想の混入を許したところにキリスト教の堕落が始まったと見ることができるのです。宗教改革はある程度この問題を解決しました。「聖書のみ。信仰のみ」の原則は、自然法へのある程度の制限を設けました。しかし、それが徹底したものでないところに、十分な改革が行われず、今日のような世俗化を許した元凶があると見ることができます。カルヴァンは、申命記の説教の中ではっきりと聖書律法による世界統治の原則を打ち出しています(ゲイリー・ノース著「カルヴァンはセオノミストだったのか」福音総合研究所(武蔵野市中町)刊、参照)。しかし、残念なことに「キリスト教綱要」の中では自然法を認めるかのような発言をしているのです。
 「しかしながら、私は、ことのついでに、国家が神の御前で敬虔に用いなければならない法律はどの様なものでなければならないのか、そして、国家の正しい統治の仕方はどの様なものなのかということについて少しく述べてみたい。もしこの問題で多くの人々が危険な間違いに陥っているという事実がなければ、私は、このような問題に関わる気はない。というのは、ある人々は、モーセの政体(polity)を無視する国家も正しく統治されており、諸国民の普通法(common law)にしたがってうまく治められているのだということを否定しているからである。この意見の危険性と煽動的性格の証明は他の人に任せることにして、私はその誤謬性と馬鹿馬鹿しさを明らかにしたいと思う。」(「キリスト教綱要」第4巻20章14節)
 しかし、彼において明確にされた「全的堕落」の教理により、理性も堕落の影響を免れていないこと、したがって、正しい世界認識は、啓示と聖霊によらなければならないという原則が確立されていたことは、カルヴァン主義におけるその後の有神論的世界観の発展を可能にしました(渡部公平著「カルヴァンとカルビニストたち」小峯書店)。人間理性の自律を絶対に許さず、万物を聖書律法によって統治しなければならないことが、今日人間に与えられた唯一の解決策であると考える次第です。

21パンプキン:2004/02/05(木) 16:53
私の質問に対する答えをいただいたのかな?と思いますので、レスしようと
思ったのですが、頭が悪いもので、オッカムさまの書き込みが十分理解で
きたとは言えません(^_^;
しかし、「聖書的キリスト教は、自然法と闘っているのです」というくだりは、なかなか
センセーショナルですね。(^^;まあ、先日新聞に載っていましたイタリアにおける判決、
つまり不妊治療におけるクローンの禁止や、受精卵の凍結禁止や第三者の精子による
受精卵を他人の母胎に植えることの禁止、あと同性愛者同士の結婚の禁止などはそうした
闘いのひとつということなのでしょうか。
しかしオッカムさま自身も述べておられたように、
>神の絶対的主権性,絶対的恣意性を強調するのは,確かに危険だ。神=アサハラ
>ショウコウという曲解をもたらしかねない。
という危険性は、やっぱりあるんですよね。何しろ、神の制定された法の中心となる
もの(神への愛と隣人愛)を中心にすることを忘れると、とんでもないことになりま
すし、神の法と矛盾するかどうかを判断するのが人間という絶対ではありえない存在
であることを考えると・・・。
バイブルカルトにも通じる問題ですね。
それでも、「神はいかなる存在か」ということは常に考える必要があり、それが
「私を見たのは、父を見たのです」といわれたイエスの人格から垣間見られるもの
であると考えるならば、自然法というものは神の法の、程度が弱まった形(不完全な形)、
あるいは雛型のようなものと考えることができますね。ベストではないにしろ、
セカンドベストというべきで、まあ「最終的なものではない」ということには同意
するものであります。
人間の理性の中には、自己が起源のものもあれば、神が起源のものもあるでしょう。
すべてが相反するものでもないのでしょうが、しかし自分の理性が神を起源にして
いる(よく祈ってもいないで)という思い込みにはゆめゆめ注意しなければなり
ませんね。

22タチバナ@灰羽連盟:2004/02/05(木) 17:08
>19世紀までの自然法への信頼は、カントとダーウィンによって打ち砕かれました。

ぜんぜん意味わからんですね。自然法が虚構であろうがなんだろうが、現代法学で完全に捨て去られてたりしてますかね。
カント、ダーウィンを出してくる脈絡も私にはまったく理解できないですが。なんで適者生存という生物学理論(仮説)が法秩序と関係あるのかしらん。ひとむかしまえの社会進化論の誤謬を思い出させます。
>秩序や倫理は人間が作り出していくものであって、それを超越者の制定した法に照らしてチェックしていくという考えはもはや時代遅れとなっています。ですから、倫理は時代や場所によって変化してもよいのです。
もちろんカント倫理学からこんな妙な結論は出てきません。カントの「定言命法」はまさしく無条件な(普遍的な)倫理を指すからです。
カントはよく「相対主義者」が利用したりしますが、私はカントは元来反「相対主義」の立場だと思う。そうでなければあれだけ「純粋(無条件)」にこだわるはずがない。

23オッカム(騙り):2004/02/05(木) 20:14
 私が何者であるかは,バレバレでしょうが,敢えてこのスレッドでは,別ハンドルを使いましょう。
 何で,「神学の場で,法哲学の話になるの?」と思われるかもしれませんが,神学・信仰と法哲学・法律学は,かなり近い関係にあります。
 それから,このような問題は,本当は参考文献を熟読しなければならないのですが,ちょっと気力が続かないので,力を入れた書き込みは,後日とします。
 まず,「自然法」ですが,「国会とか国王とか人民(憲法制定権者)」とかが定める法(実定法)を超えた法,とでも定義しておきましょう。「超えた法」ですから,「自然法に反する実定法は無効」なのです。例えば,国王とか人民とかが憲法(実定法)で,「ユダヤ教徒は見つけ次第ぶち殺せ。ぶち殺さないものは死刑に処する」と制定しても,「自然法違反だから無効」というのが自然法論者の言い分です(つまり,「宗教ガ違ウト言ウ理由ダケデ隣人ヲ害シテハナラナイ」とか「人ヲムヤミニ殺シテハイケナイ」いう自然法がある,ということですね。)
 これに反対する考え方が,「法実証主義」です。「自然法なんてない。実定法を制約するような(実定法を超えるような)ものは存在しない,という考え方で,上記のような「異教徒ぶち殺し法」も「有効」です。
 さて,問題は,「自然法なんて,条文集があるわけじゃないのに,どうして,自然法の内容を認識できるの? 自然法があるという根拠は何なの?」と言うことになります。いろいろな考え方(有力なのは社会契約説)がありますが,一番由緒正しいのは,「カトリック法哲学」です。
 この「カトリック法哲学」というのが,かなりのくせ者なのです。「十戒・旧新約律法」にその淵源・条文を求めるのならば,話は直線的で,明解です。しかし,連中はそうは言わないのです(聖トマス。古代教父がどう言っていたかは文献を読まないと分からない)。
 人間は,「神の存在」「神による特別啓示(聖書)」を抜きにしても「理性」とか「良心」とか「事物の本性」とかそういったもので,自然法を認識できるのだ! と言うことです。だから,無神論者や仏教徒でも自然法を認識できるわけです。
 で,バルトとか,富井先生とか,私ことオッカム(騙り)は,「そういう理性主義・主知主義」は突き詰めれば,「無神論になってしまうぞ。『神の全能性』のテーゼを放棄することになってしまうぞ。神を制約する『自然』とか『理性』とか言うものを仮設していいのかね?」と言っているわけです(かなり極端な単純化ですが)。

>それゆえ、聖書的キリスト教は、自然法と闘っているのです。自然
>法という虚妄を排除し、神の制定された法に矛盾するいかなる法も無
>効にしていくことがクリスチャンの責務なのです。
 と言う,富井先生の極端な物言いは,こういう考え方が背景にあります。
 この問題は,ロマ書1・20を巡って,「神学プロパー」の問題にも深刻な影響を与えています。ご承知の方もいると思いますが,バルト対ブルンナーの論争です。
(続く)

24続き:2004/02/05(木) 20:42
>>「愛・正義・公平・真理」の源泉は「神の意思(神の恣意)」であると言
>>うことになってしまうが,これはまた,気持ちの悪い結論だ。
>どうして気持ち悪いんでしょう?(真面目な質問)

 気持ちの悪さを説明するのは,結構骨が折れます。どうしても「自然法論」と「法実証主義」の話になってしまうので,その辺は,ご容赦ください。
 「理性」「良心」「公平原理」「物事の道理」等々といったものは,「人の心(霊)」の中に深く深く刻み込まれています。それは,「自明」ですよね。そして,そのような「理性」「良心」「公平原理」「物事の道理」は,クリスチャン以外でも持っていることはもちろんです(それは,「神−ヤハウェ−を淵源とする一般啓示だ」,という考えもありますが,寄り道になるので,この辺は別に書く)。
 「法実証主義」というのは,「理性」「良心」「公平原理」「物事の道理」等々といった,「人の心(霊)」の中に深く深く刻み込まれているものをワザと「法的思考原理」の外に置くのです。ガビー氏お得意の「現象学」流に言えば「括弧に入れる」ということになりましょうか?
 このような「法実証主義」は,ある意味単純明快で,(論理は飛躍しますが)「聖書字義信奉者」と思考形態が似ています。「法トハ主権者ノ意思デアル−オースティン?」「『主権者ノ意志ニ従ウベシ』と言う根本規範を措定すればそれで良いのだ。ケルゼン」。
 「聖書ニ書イテアルカラ,ソレハ,神ノ言葉ダカラソレデイ良イノダ」と言うのは,良く似た思考形態でしょう。

 このような考え方(法実証主義・聖書字義信奉主義)は,単純明快であると同時に,どーーーしても「人工的・技巧的思考」となってしまいます。だって,「理性」「良心」「公平原理」「物事の道理」等々といった,「人の心(霊)」の中に深く深く刻み込まれているものは「自明」でしょう? 
 これで,「実証主義者」・「聖書主義者(と敢えて自己にレッテルを貼っておく)」の私ことオッカムが心の中に抱く「気持ちの悪さ」は分かっていいただけるのではないでしょうか?

25パンプキン:2004/02/10(火) 08:04
レスありがとうございました。
うーむむずかしいですね(^^;何度も読んでみたのですが。

オッカムさまは実証主義者であるのですね。で、実証主義者は主権者の意志に従う
べしとする。たとえそれが我々の理性や良心や公平原理と反しようとも。というわけ
ですね。
うーんまとはずれなことを言っていたらごめんなさいなのですが、主権者を、私たち
は選ぶことができるわけですよね。まあ日本なら主権者は国民のはずですが、首相と
かは一応国民の選択ということになっていますし。従うことのできるような主権者
(理性や良心や公平原理と反しない主権者)を選ぶことも、大事ですね。
神様でいえば、理性や良心や公平原理に反しない神さま(宗教・教義)を選ぶという
ことも、同様に大事かと思われるのですね。

こういうと神様は人間が存在する前から存在する唯一のお方であり、人間が選ぶも
選ばないもないと、言われるかもしれないのですけども、世界というものは存在
しても、人間が認識しない限り、その人間にとっては存在しないと同じことです
ものね。世界観も神観も、つまるところその人間が作り出すものでもあるわけ
ですね。こういうの、何主義というのかわかりませんが(^^;

人間には、神の存在を受容する自由も否定する自由も与えられていると思うの
ですが、同時に神観(教義)を選ぶ自由も与えられているような気がします。
残酷でもありうる神を選んだとしたら、それを作り出したのは他ならぬその人
でもあるわけですから、「自然法に縛られない神」を想定し、それに基づいて
行動した場合、責任はあくまでその人間にあるのではないかと。(たとえ「神
に命じられた」としても)

私が上記のような質問をしましたのは、まさに

>(それは,「神−ヤハウェ−を淵源とする一般啓示だ」,という考えもあり
>ますが,寄り道になるので,この辺は別に書く)。

という考えを私がもっているからで、どのような気持ち悪さがあるのかな、
と思って質問させていただいた次第です。

26パンプキン:2004/02/10(火) 08:04
ちょっと脱線するのですが、旧約聖書といって思い出すのは、一昔前流行り、
私も夢中になってしまった(^_^;グラハム・ハンコック『神々の指紋』という本
です。まあこの本がトンデモ本かどうかということは別として、私がとても
面白いなと思ったのは、古代の人々は、天体などの法則をはじめ、ある概念を
次の世代に残し伝えるときに「神話」という形をとったということですね。
そのまま天体法則などを伝えればすぐに忘れられてしまうけれど、神話という
形ならもとの形に近いままで後世まで口述されて残されるわけです。ある意味、
「情報のコード化」というようなものが行われていたのではないかという考え
が主張されていました。

古代の人々の神話を私たちは「非科学的だ」といって時に馬鹿にしたりもする
わけですが、実は古代の人々の科学は私たちが思うよりもっと発達しており、
ただ同時に「神話化」「表象化」という技術も持っていたがゆえに、私たち
にはコード化された情報のみが残された。ところが、表象化の技術をもたない
私たちは、コード化された情報をもとに戻すことができない。そこでコード、
つまり「神話」だけを見て「非科学的だ」と判断しているということも考え
られるわけです。

旧約聖書をこれにあてはめると、旧約聖書の言葉もまた、古代の人々が、
(霊感によってであれ、そうでないのであれ)ある事柄を伝えるために
「神話」という媒体を使った、という考え方も成り立つわけですね。
私たちに残されているのは、いわばコード化された、概念を運ぶために
用いられた乗り物としての言葉であると。そう考えると、その「物語」
ひとつひとつの文字通りの字義的な意味よりもむしろ、そこに乗せて
伝えられた概念に注目する必要があるのかな、と思ったことでした。
これもひとつの聖書の読み方になるのではと思います。

27タチバナ@灰羽連盟:2004/02/10(火) 09:30
>オッカムさまは実証主義者であるのですね。で、実証主義者は主権者の意志に従う
べしとする。たとえそれが我々の理性や良心や公平原理と反しようとも。というわけ
ですね。

いったいどこをどう読めばこうなるんだろう・・

28タチバナ@灰羽連盟:2004/02/10(火) 09:43
ああ、そうか。
「法実証主義」→「実証主義」(???)
という流れになっとるのね。
ただの「実証主義」と「法実証主義」は異なるはずですが、それをごちゃまぜにしているわけだ。
「法実証主義」=「聖書字義信奉主義」という図式もむちゃくちゃだけど。

29パンプキン:2004/02/10(火) 19:47
げっわたくし、なんか激しく勘違いしとりますか?

えーとオッカムさまは「主意主義」ですよね。
>神は完全なる主権者ですから,理性とか,「自然法」とか「公平原理」に縛られる
ことは,論理上ありえない

わけですから、少なくともオッカムさまは自然法論者ではない。
ここまではよいのでしょうか?(^^;
自然法論者と反対するのが法実証主義ということなので、そう思ったわけです。
しかし「実証主義」と「法実証主義」が違うとなると、お手上げです(^^;実証主義
の定義がここにはないもので・・・。
まあ、背景知識がないもんで、難しいです。

あと、2番目の書き込みはスレ主さんのアベルとカインの話の流れ
で出てきた、旧約聖書の捉えかたに関するひとつの話題でした。

30タチバナ@灰羽連盟:2004/02/11(水) 09:15
あ、いえいえパンプキンさまはおかしくないです。
オッカム氏の脈絡のない日本語が、私にはまったく解読できないだけです。

はげしく単純にいうと「法実証主義」は一元論で、実定法しか法と認めないわけです。実定法の正否を判断する別の基準を認めない。
逆にいえば、いまある法はいつでも変更可能ということになります。
「聖書字義信奉主義」は申すまでもなく、聖書の一字一句を変えてはならんという立場。
これでなんで「法実証主義」と「聖書字義信奉主義」の思考形態が似ている、なんて言えるんでしょうねえ???

31タチバナ@灰羽連盟:2004/02/12(木) 18:13
「神々の指紋」は他人の業績をつきはぎして作っており、ト本の中でもかなりレベルが低いのですが、いちおう以下のような批判ページがあります。ご参考までに。

http://bosei.cc.u-tokai.ac.jp/~haruta/hancock/index.html

32パンプキン:2004/02/14(土) 08:13
>タチバナさま

面白いサイトのご紹介ありがとうございます。つい、全ページ読んでしまいました。(笑)

まあ、「神々の指紋」がトンデモ本であるとしても、門外漢の私にはこれを読んでしても
判断する能力がなく、(どちらが本当のことを言っているのか、根拠を確かめるすべも
能力もなく)どちらにも「なるほど」と思うしかなく、それが「言いくるめられている」
というレベルであることは変わりないのですが。(^^;

ただひとつ私が自分で判断できるレベルで「ん?」と思ったのは、例えば「オリオン・
ミステリー」で南中高度が低いとか、明るさがそれほどでもないという理由から古代の
人々の信仰の中心になっていたとは考えにくいという批判は、説得力が乏しいとは思いま
した。明るければ、目だってさえいれば古代の人々の信仰の対象になったとかいうのは
どうも古代の人々を単純にとらえすぎているのではないか、と。
もっと表象的なものとしてとらえていると考えることもできるわけですから。
配置とか、方位とか、そういうものの方が重要だったと考えることもできるわけです。

まあ脱線するのであまり話を突っ込んでもなんですけども、
しかしこの本は最終的に「終末論」を展開していますから、このようにトンデモ本に
分類されていることは、いいことかもしれません。(^^;
終末論を強調しすぎると、いいことないですからね。
どうせ「概念を運ぶ乗り物としての言葉(神話)」に着目したのなら、この終末論
そのものも、何かの概念を運ぶ乗り物(表象)と捉えることもできるわけなのに・・・。

一方で紹介いただいたサイトの「大槻義彦『神々のトリック』」だけは聖書の話なので
執筆者の論旨の展開が裏づけを伴って完全に理解でき、非常に楽しめました。

33タチバナ@灰羽連盟:2004/02/14(土) 09:39
あのサイト、ちょっと読みにくいですよね。目次をもっと整理すればいいのに・・

>ただひとつ私が自分で判断できるレベルで「ん?」と思ったのは、例えば「オリオン・
ミステリー」で南中高度が低いとか、明るさがそれほどでもないという理由から古代の
人々の信仰の中心になっていたとは考えにくいという批判は、説得力が乏しいとは思いま
した。明るければ、目だってさえいれば古代の人々の信仰の対象になったとかいうのは
どうも古代の人々を単純にとらえすぎているのではないか、と。
もっと表象的なものとしてとらえていると考えることもできるわけですから。
配置とか、方位とか、そういうものの方が重要だったと考えることもできるわけです。

それでは反論になりえません。どういう意味でどのように「配置とか、方位とか、そういうものの方が重要」であったかを具体的に立証しなければなりません。
ただの憶測でなにを言ってもいいのなら、ト学説とまともな学説の区別はできなくなります。
古代人が現代人よりも高度な「科学」(???)をもっていたと主張するためには、単にあれこれの「解釈」によってではなく、誰でも納得するに足る明確な証拠がいります。
古代人は現代の「文明人」よりももっと高貴で文明的だった!という意見は、さかのぼればルソー以来ある、大戦後うんざりするほど量産された逆立ちしたヨーロッパ中心主義ですが、依然「解釈」レベルの問題でしかない。


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