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信仰は役に立つか

72パンナコッタ:2005/02/15(火) 00:24:38
たしか御書に
 「和泉式部は和歌で雨を降らす・・」
なんてのがありましたね(何でしたっけ。真筆ありましたっけ?)結構、蓮祖も
言霊を信じていたんでしょう。いや、昔ほどその力は大きかったんでしょう。

73パンナコッタ:2005/02/15(火) 00:31:53
> 70 お肉じゃ、判んないと思いますが。だって、汗かいているんですよ。
> 71 ホントに打ってたかも知れませんよ。

74愚鈍凡夫:2005/02/15(火) 00:34:11

パンナコッタさん、初めまして。この文証ですが。

「いづみしきぶ(和泉式部)いろごのみの身にして八斎戒にせいせるうたをよみて雨をふらし、能因法師が破戒の身としてうたをよみて天雨を下らせしに、いかに二百五十戒の人人百千人あつまりて七日二七日せめさせ給うに雨の下らざる上に大風は吹き候ぞ、」(「種種御振舞御書」学会版P912)

むむっ、場違いのギャグがすべったみたいですね。もう寝ます。お休みなさい。

75パンナコッタ:2005/02/15(火) 00:59:34
> 73 失礼しました。(^_^;)
 言霊について簡潔に書くと

『言霊の国に「言論の自由」はない。「自分の国は自分で守る」と言う「世界
の常識」を口にすると、「平和の敵」とレッテルを貼られてしまう。「平和」
を唱えていれば努力をしなくても「平和」が続くと信じられているこの国では
「有事に備えようとする者」は「戦争を望む者」とみなされるのだ。
「日本は負けるかも知れない」と本当のことを言えなかった戦時中と、いった
いどこが違うのか?
 日本を「世界の非常識国家」にしてしまったコトダマイストの言論統制の
実体を井沢元彦氏が分かりやすく「解体」してゆく
           井沢元彦「言霊の国」解体新書の裏表紙より

なんだか宣伝みたくなってしまいましたが、すんません。
要は言葉の”アヤ”なんですが、負のイメージが一寸大きいかも知れません。

正の言霊だってあるんですよ。ダジャレです。雨は降らせられないけど、笑い
は降らすことができるかもしれません。サムいのが多く、ハズすのが多いけど。

76犀角独歩:2005/02/15(火) 01:04:23

寝る前に、見たら、パンナコッタさんと、愚鈍凡夫さんのご投稿、思わず、吹き出し眠気も覚めましたが、老婆心は休ませていただきます。

愉快な一夜でした。有り難うございます。

77パンナコッタ:2005/02/15(火) 12:38:06
> 74  愚鈍凡夫さん、ありがとうございます。 種種御振舞でしたか。でも
あれはC3だけど怪しさ120%だしなぁ。でも、蓮祖はちょっぴりでも書い
ていたのかなぁ。燃えちゃったしなぁ。残っていれば字体とか継ぎ接ぎなんか
がわかるのになぁ。 

 と、正直な気持ちなんですが、それを頭っから「御金言」として尊ばせる集
団の意向、手練手管に乗せられていた事が判ってしまったため、苦しんでいる
人がいるですね。つまり人を幸せにするための仏法(教団のことですな)には、
不幸せにする要因が含まれている事を巧くカモフラージュしている。一般の信
者は只、幸せになる要因としか思いこまされていない。これは不幸ですよ。

ですから、(教団)信仰は「幸福」をもたらす事もありますが『不幸』をもた
らすこともありますよ と、最初に注意書きが必要なんじゃないかなと思います。

78大勇者:2005/02/15(火) 15:12:35
パンナコッタさん。 宜しくお願い致します。
>77 まったく仰る通りと存じます。

しかし逆説的に考えると、
幸せになる要因としか思いこまないことが信仰なのではないでしょうか?
教団や教義に不幸をもたらす要因があったとしても、人が神仏に向き合おうとする時に
不信を持ち込む事が出来ないから・・・信仰が信仰でなくなってしまいますから。

別な言い方をすると、「不幸を感じる」とは一瞬間でも自分の過去を投影する作業です。
信仰とは瞬間でも先を投じる作業であると思うのです。

79パンナコッタ:2005/02/15(火) 22:28:21
大勇者さん。ありがとうございます。

たしかに(純粋な意味での)祈りは、人間にとっては非常に大切な物と思ってますし、
不幸せになる要因があるなんて、熱心にやってる人はいないですね。

 >信仰とは瞬間でも先を投じる作業であると思うのです。
いいですね。このような向上心を発揮させる為の信仰だったと思いますから。

でもこの信仰の形態をみると、これは渇仰した信仰の形だと思います。(カテゴライズは
良くないかも知れませんが) 
一般世間を見渡してみるとプチ信仰(変な言葉だけど)て、いっぱいありますよね。
おみくじ、雑誌なんかの星占い、血液型占い、手相、人相、開運ペンダント、ヒランヤ、
タキオン、喫茶店のカプセル(いまでもあるのか?) などなど・・・。
ラッキーカラーはブルー、何て書いてあると青い服装で出かけてしまうようなのも信仰の一
形態ですよね。
いいことがあればラッキー、無ければ捨てればいい、程度の物でも信仰の対象物になりえますね。
だから効き目が無くても不幸というリスクをあまり背負わないんでしょうね。
こんな形の(さほど求めてはいない)信仰もある、と言うことです。好き嫌いとか高尚であるか
どうかなんかは、全く別の話しですけど。

前に出した宗教の法則ってやつの、
 【法則 4】 宗教は毒にも薬にもなる。

     すべての宗教は、人間の幸せを追求する。
     しかし、問題は、「幸せ」の内容とその追求方法である。
     信者の「幸せ」が、非信者の「不幸せ」になることもある。

 よく「信じる者は救われる!」といいますが、信じなければ「救われる」対象にはならないのが
 宗教の基本です。信者でもない人間、つまり全人類までも幸せする、というふところの深い宗教
 は、それほど多くないのが現実です。逆にいえば、「救われる」という条件とひきかえに信者に
 なったわけですから、このことは当然といえば当然です。

と、云うのはどうでしょうか?

80犀角独歩:2005/02/16(水) 11:33:42

> 67

亀レスですが、「言霊」ということですが、

「南無妙法蓮華経は、神人の霊通する神秘の音である。これを言霊と云ふ。理屈ではない。法悦の極地に於て心霊の底から鳴り渡る神の御音である」(『皇道仏教行道会講習摘録』)という一節が思い起こされました。

ここでいう神は神仏習合の、それも神本仏迹の神を言うのでしょう。

敢えて脱線すれば、皇道仏教で言われるところは「天皇本尊論」でした。
わたしは、最近、この言葉を読み直し「!」と思ったのです。

天皇本尊とは天皇は現人神、天皇=人(のなかの最高位)=神という構図なのでしょうが、これは○○本仏論と理論構成が一緒です。○○=人(のなかの最高位)=仏、日蓮本仏、派祖本仏、住持本仏、会長本仏というも、人(のなかの最高位)=仏という等式が成り立つとき、実は「本尊」足り得るわけです。

わたしが学生時代、地元幹部から「池田先生と思って挙げる題目も、日蓮大聖人と思って上げる題目も、一緒」と「指導」を受けたことがありました。本尊は南無妙法蓮華経で、故に蓮師を南無妙法蓮華経如来とするのが寛師説と窺えます。この類推からすれば、○○本仏論という「言葉」は○○本尊と置換可能であることになります。

その他、皇道仏教を概観すると、石山教学というのは、意外にこの影響を受けている、もしくは共通性を持っていると思えました。

まあ、当スレッドとは離れますが、言霊から連想で記してみました。

81犀角独歩:2005/02/18(金) 00:15:13

> 80

自己レス。この書き込み、人気がありませんでしたね。
けれど、皇道仏教、田中智学、この比較対照をしないと学会を含む石山系の真実相は明確化できないでしょうね。

82パンナコッタ:2005/02/18(金) 00:45:58
>80 神本仏迹論が台頭したのは、元寇が契機とみなさんお考えでしょうか?

83愚鈍凡夫:2005/02/18(金) 11:58:25

平安時代の「本地垂迹」と鎌倉時代の「神本仏迹(反本地垂迹)」。思想にも流行廃りがあるという典型例のような気もします(「誰がこんな事、決めたんだ」との心の声がするのは気のせいだろうか)。
日本人特有の「神仏共存共栄思想」というか、「信者置いてけ堀思想」というか、各々のお家の事情による「妥協の産物思想」とも言えるでしょうか。

ちなみに、「神本仏迹」は蓮祖遺文になく、「本地垂迹」は「産湯相承事(偽書)」「四条金吾許御文(未決書)」に有ります。

資料

神道(しんとう)
http://www.miyagawa.com/syuha/syu/sinto.html

本地垂迹説
http://www.tabiken.com/history/doc/R/R103R200.HTM

神仏習合
http://www.ichinomiya.gr.jp/web/HTML/SinbutuShugo.htm

84パンナコッタ:2005/02/18(金) 12:21:47
愚鈍凡夫さん、ありがとうございます。
自分は平安・鎌倉期の本地垂迹説は、密教の影響が大と考えているのですが。

85犀角独歩:2005/02/18(金) 14:26:55

パンナコッタさん、横レス失礼します。

> 平安・鎌倉期の本地垂迹説は、密教の影響が大

これは当然でしょうね、そもそも本地垂迹説は密教から生じたものというのが定説ですから。
ただし、その原形となったのは、本迹法門であるといいますから、法華(顕経)から密教に流入したと見るべき点はあります。けれど、たぶん、密教のそれは、本・迹の言を籍りているものの、その原形はインドの権化思想なのではないのかと、わたしは考えています。

いずれにしても、本地垂迹説は日本に仏教が伝来して形成された神仏習合よりも後天的なもので、初期の段階では区別され、空海以降、本地垂迹説と「習合」したと、さらに細分化して考証すべきではないのかと考えています。

86愚鈍凡夫:2005/02/18(金) 20:10:21

「天照大神」と「大日如来」は雰囲気的に結びつきやすいですよね。
それと、俗な言い方をすれば、問題解決のためにそれぞれ専門的な神を勧請するということが、密教曼陀羅と相通じるものがあるんでしょうかね。
確か、キリスト教を日本で最初に布教する時、キリスト教の神を「大日如来」と勘違いさせたとか、信者が勝手に勘違いしたとか、聞いたことがあります。

87犀角独歩:2005/02/18(金) 20:29:59


宗教の本質はシンクレティズムだと断言したのは、故岩本裕師でした。
もっともな賢察であろうかと存じます。

「良いとこ取り」は、どこの信仰集団でもやることで、これを貫名英俊師はパッチワークと、説明しました。正しい分析であろうかと思います。

自分たちが謗法だというレトリックを、自分たちの集団で使うと謗法でなくなるというお笑いが石山系集団、特に顕正会(員)の特徴であるといえますね。

わたしは、顕正会の所謂『諫暁書』の表紙を見て、堂々と(彼らが邪宗、謗法という)中山法華経寺所蔵の『立正安国論』の真筆写真が掲載されていたので、大笑いしました。そもそも、これは不許可転載なのでしょう。この非常識、違法性こそ、この団体と、その団体に‘未だに所属して所識がどうだ’と語る自分の背を見えない人の実態をよく反映していると思ったものです。

本地垂迹などという便利な言葉を使うのであれば、この掲示板は仏意仏勅に基づいて運営されることになったもので、管理人さん、そして、わたしたちこそ、如来の使いとして、彫刻やら、お肉やら、他所から持ってきた相伝文書やら、真偽未決のインチキ文書で、「日蓮大聖人」の聖意を穢す悪党ども、ばったばったと切り倒す正義の味方、真の菩薩と宣言でもしましょうか。つまり、わたしどもは、その菩薩にましまして、垂迹して凡夫身に現れた如来使であると(笑)

わたしは、そんな誇大妄想は、毛頭ありません。反面、いまだに特定集団の肯定化のために蓮師、並びにそれ以降の文書を使って、自己肯定化の駄文を作り、恥じないナルシズムには嘔吐を禁じ得ないと断言しておくことにしておきます。

いわば、そんな現在で見られる醜悪な実態こそ、本地垂迹説によって、何でも「良いとこ取り」をしてきたシンクレティズムと同轍の類であるという点を、敢えてわたしは特記しておくものです。

88パンナコッタ:2005/02/19(土) 00:10:24
やはり空海がひとつの境目みたいですね。権化思想もとより、中国では儒教、民間信仰の道教
との摺り合わせがあったわけですから、師匠の恵果和尚の頃には、何でもアリだったのかな。
だから大日、金剛系の統合ができたのかもしれません。

石山の伽藍配置を四神相応の地(確か仏哲辞典と記憶)と位置づけていましたが、おもいっきり
陰陽道ですよねぇ。

89犀角独歩:2005/02/19(土) 04:30:26

そう。だから、教学の成り立ち、もしくは伽藍形式、なんでもいいから徹底的に分析してみれば、日本の神と仏教の習合、その仏教は中国では道教と、さらにインドではインドの神々と、インドの神々は、イラン、ギリシャの神々と、では、シャキャムニはといえば、当時のバラモン思想を基礎にして、そのバラモン思想はまた、アーリア人の元来の信仰にドラビダ人の土俗信仰を包摂し、さらにセム系の信仰も包摂してと。習合、統合を繰り返してきているわけです。

このように見てくれば、いったい、なにが「純粋な」かということは言えないわけで、神社参拝が駄目とか、他の神仏を拝んでは駄目とか、それが謗法だというのであれば、蓮師の漫荼羅は、そんな他の神仏が習合して、デパートみたいなものです。不動・愛染、大日の要素まで孕んでいます。

かつて創価学会の『折伏経典』で、身延を神仏雑乱の魔の巣窟みたいな書き方をしていました。まあ、こんな口調は顕正会も継承しているわけです。しかし、蓮師漫荼羅の諸尊勧請を一つひとつ見て、そのルーツを探れば、一体仏造立に比して、まさに神仏雑乱の体と言えなくもないわけです。以下のサイトは、ほんの参考ですが、漫荼羅に勧請されている神仏が、石山が言う他宗、それも異国の「邪宗」の神々であることは容易に理解できます。それらを勧請した漫荼羅を本尊と拝み、「他宗の神仏に手を合わせるのは謗法だ」という神経は、わたしには理解できません。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~india/home60-6.htm

一経・一仏のみを「信仰」というのであれば、法華経と釈尊一体仏、それを題目と日蓮本仏と言うのであれば、主題(南無妙法蓮華経七字)のみを背に掛けた日蓮座像を拝まなければ、矛盾を来します。しかし、蓮師漫荼羅を信仰すれば、すでに上述の如き、神仏をまとめて、拝んでいることを認識すべきだとわたしは思います。漫荼羅の文字だといいが、それが神仏像になると駄目と言っても、拝んでいる対象に代わりがあることにはなりません。

さて、いったい、漫荼羅本尊「信仰」とはなんでしょうか。謗法とはなんでしょうか。

90犀角独歩:2005/02/19(土) 04:57:52

> 石山の伽藍配置を四神相応の地(確か仏哲辞典

仏哲(笑)
以下の文をご参考に

富士一跡門徒存知の事「駿河の国・富士山は広博の地なり。一には扶桑国なり。二には四神相応の勝地なり。尤も本門寺と王城と一所なるべき由」

本尊三度相伝「四天を書く時は北方多聞天と云つて鬼門の方を守る」「西面に立つ自ら鬼門の方と成る」
六巻抄文底秘沈抄第二「正しく王城の鬼門に當たるが故」「佛法の住処は鬼門の方に三國倶に建つるなり、此等は相承の法門」「凡そ富士大日蓮華山は日本第一の名山にして正しく王城の鬼門に当たれり、故に本門の戒壇応に此の地に建立すべき故」
開目抄下愚記「鬼門は即ち丑寅の方なり。霊鷲山は王舎城の鬼門なり、天台山は漢陽宮の鬼門なり、比叡山は平安城の鬼門なり。類聚第一巻の如し。富士山もまた王城の鬼門なり」
撰時抄愚記上「王城の鬼門」
取要抄文段「正に王城の鬼門に当る故」

91犀角独歩:2005/02/19(土) 05:22:16

> 89の補足

インドの神と日本名対照表
http://www.ffortune.net/symbol/indo/sinwa/nihon.htm

92犀角独歩[TRACKBACK]:2005/02/19(土) 06:18:49

> -87まで

当スレッドで「本地垂迹」につき、雑駁な議論となりました。
確か、この点については、過去にかなり議論したことがあったと思い探してみたら、ありました。

ずっと濃密で参考になろうかと存じます。

『蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について』における本地垂迹議論
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1084417030/r52-r200

93犀角独歩[TRACKBACK]:2005/02/19(土) 06:29:02

> 92

記述が大量で読むのが辛いと思われる方に。
当時、わたしが投稿した本地垂迹起源は、以下のとおり

*** 以下転載 ***

本地垂迹説、今更ながら、考えさせられるものでした。
地名さんの影響を受け、数日前、近隣の図書館に行き、何か関連する良い書籍はないものかと探していたのです。見つけたのは村山修一師著『本地垂迹』<日本歴史叢書33>吉川弘文館刊でした。

わたしはこの本を一読して「おや」と思ったのです。個人的には本地垂迹説を本門・迹門とはまるで違う観点で考えてきたのですが、この本の中では、その起源をインドに権化思想に置き、羅什から僧肇を経、天台に至り本迹法門を生んだと言い、その影響が日本の本地垂迹説となっていくという粗筋に基づくのでした。また、この書の冒頭に

「近代史において、はじめて本地垂迹を体系的にとりあげたのは辻善之助博士であった。『史学雑誌』第18巻(明治40年)にのせられた「本地垂迹説の起源」のはじめのところで、博士はその概念を次のように説明されている。
  この説は本地即本有の妙理無始無終の絶対なる仏陀が、人間を利益し衆生を済度せんが為めに、迹を諸所に垂れて、神となって種々の形を顕はすをいふので、我邦の神祇は、其本源をたづぬればみな仏菩薩にあり、仏も神も帰する処は一つであるといふのである。
  この語の起りは、法華寿量品にあり、もとは久遠実成の釈迦即絶対的理想の仏陀を本地とし、始成正覚の釈迦即現実的の歴史上の釈迦を垂迹とするのである。日本の本地垂迹説は、この説を拡張応用したのである」(P1)

と紹介します。また、僧肇については

「その名著『註維摩』の中で、
  本に非ずして以て跡を垂るる無く、跡に非ずして以て本を顕す無し、本跡殊なりと雖も不思議一なり。
 とのべ、本地垂迹の深淵な関係を強調して注目をひき、仏身論に関してこの説は以後の学者に盛んに利用せられ、やがて天台宗をはじめた智邈や三論宗をはじめた吉蔵にもとりいれられ、『法華経』寿量品にみえる、上に引用した辻博士の後段に文にある定義、つまり本地仏と垂迹仏の解釈となってあらわれた。そうしてこの解釈はやがて喇嘛(ラマ)教などにみられるような外道諸神の密教的習合の上にもおしひろげられて適用されることになり、次第に仏神論より他の方向へも発展する形勢となった。(P4)

と解説します。この記述はしかし、最近の法華経解釈で日本のスタンダードになりつつある菅野博史師が

「本と迹は、『荘子』の説かれる聖人の具体的な行為を『迹』(足跡にたとえられる)といい、その行為の出てくる根拠を「迹する所以(履き物にたとえられる)といったことに基づき、5世紀のはじめ、仏教の側で『迹する所以』を『本』と改めたものである。智邈はこの概念を『法華経』の分科に利用したのである」(『法華経入門』岩波新書 P91)

という説と必ずしも一致しません。

本地垂迹が本門迹門であるというのはしかし、頷けません。
天台が指摘する本迹の相違は特に始成正覚として久遠実成を隠すということに特に力点があり、履き物と足跡の関係というより、権(かり)実の差と言ったほうが当を得ている気がするからです。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1084417030/r142

94愚鈍凡夫:2005/02/19(土) 09:28:15

平安時代には、神の本地が仏であると言い、鎌倉時代には、逆に仏は神の権化(化身)であると言い、そして、江戸時代には豊臣秀吉を豊国神社、徳川家康を日光東照宮に神として奉じるわけです。そして明治にはいると、名もなき戦没者を祀った「長州桜山招魂社」を模した「東京招魂社」を建て、後に政府の統帥を受けない天皇直属の軍隊であることを理由に、山県有朋ら軍閥によって「靖国神社」と改名します。
時代によって思惑は違うようですが、その時々の都合に合わせて神と仏・菩薩の習合が繰り返されてきたように思います。また、日本の場合は天皇家と関わり合いの深い神社と、仏教を折衷する手法として神仏習合が行われていったのではないでしょうか。その理由付けに、法華経寿量品が利用されたように思います。
しかし、神仏習合の観点から見た時、「信仰」とは何なんでしょうか。
この漫荼羅に全てが備わっているのだから、この漫荼羅を本尊と仰いで「信仰」すればよい。というのは、今風にいうと、あそこに行けば何でも揃うといった、専門店が軒を連ねる一大ショッピングセンターを連想させます。
漫荼羅を本尊とすることは、実は、一神教ではなく多神教を意味するのではないでしょうか。

**************************************************
天照大神 = 大日如来、観音菩薩
八幡神 = 阿弥陀如来
熊野権現 = 阿弥陀如来
日吉 =天照大神=大日如来
市杵島姫 = 弁才天
愛宕権現 = 秋葉権現 = 地蔵菩薩
素盞鳴 = 牛頭天王
大国主 = 大黒天
東照大権現(徳川家康) = 薬師如来
松尾 = 薬師如来

ウィキペディアより
**************************************************

95犀角独歩:2005/02/19(土) 10:34:46

愚鈍凡夫さん

「先生は、日蓮大聖人の生まれ変わり」「先生は、日目上人の生まれ変わり」なんていうのは、一種の本地垂迹説なんでしょうかね。

こんな考えは血脉両抄に見られますね。もっと、言えば、蓮師の上行応誕論も、これでしょうか。

あと、反論・異議というわけではありませんが天照・八幡が大日・観音というウィキペディアの該当箇所は、真言系に係る記述ですか。差し詰め、石山系が記せば「悉く日蓮」、通日蓮なら「悉く釈尊」とでもするところでしょうか。

その釈尊も、ヒンドゥー教ではビシュヌ(毘紐天=維持神)の化身にされていましたけれど。

96犀角独歩:2005/02/19(土) 11:05:35

もう40年近く前、テレビで時折、ヤコペッティの世界残酷物語とかいうドキュメント番組をよく再放送していたんですね。

そのなかで、アフリカかどこかの未開部族が飛行機を木や葉っぱで作ってご神体にして拝んでいるというのがありました。
その人たち曰く、「あの空を飛んでいるものは、神様の乗り物で、それを我々から奪い取った…」

なんで、こういう話になるのか?
子供であったわたしは思わず笑ったのですが、しかし、いまになると、この実話、本地垂迹やら、習合やらをしてきた宗教事情と何も変わらないと思えます。他教、異教の神々を次々と自分たちの神仏の配下に位置づけて優位性を誇ったり、人々の畏敬と尊敬を集めている神仏の生まれ変わり、お使いであるとしたりしてきたわけですから。

結局のところ、こういった精神構造は、救世主渇望を利用したものであり、かつ、支配隷属構造の一変形と見ることができるのでしょうか。

97愚鈍凡夫:2005/02/19(土) 11:35:37

犀角独歩さん、どうもです。
ややこしい名前の仏・菩薩を身近な神に置き換える事は、宗祖を神仏に置き換えるといった祖師信仰にも容易に繋がる発想だと思います。
親近感を持たせながら、難信難解な理論を説いて崇拝させる。原始の時代から変わらぬ、未知なるものへの恐怖と畏敬という心理を巧みに利用しているように思います。
宗教に於ける罰と利益、二極を使い分けた見事な人心操作ですよね。ひょっとして、一流の宗教指導者は、臨床心理学の専門家なのかも知れませんね。

98犀角独歩:2005/02/19(土) 13:00:30

97 愚鈍凡夫さん:

>難信難解

本当に難信難解なのかという思いがわたしにはあります。

天台六大部なんかは、難解と言うより、ともかく量が多くて、辟易して、理解しようと取り組んでいると、信がどうのは、すっ飛んでしまうところがあります。

その天台を基礎にする蓮師教学は、では難解かというと、それほどとは思えませんよね。難解な部分は、むしろ、要は蓮師が本当に解いたのはどんなものかが、中世以降の解釈が入りすぎて、その実像が見えないこと。

いまの学会を含む石山系教学が難解かと言えば、少しもそんなことはありません。寛師にしても対して難しいものではないですね。

ただ、それを冷静に分析するとき、難解ではないけれど、こんなことが信じられるかという意味では、たしかに「難信」ではあるかもしれません(笑)

> 一流の宗教指導者は、臨床心理学の専門家

破壊的カルト・マインド・コントロールの、日本の第一人者・静岡県理大学の西田公昭先生は「宗教の現場で行われている社会心理学的要素に、大学その他研究が追いつかない」と漏らしていたことがありました。

ただ、本当の専門家であれば、心理的詐術で人を操ったりしないでしょう。
彼らは悪用の達人だと言うことでしょうね。

99犀角独歩:2005/02/19(土) 13:19:02

「もっと全体主義的なグループは、自分たちの教義は科学的に証明されていると主張する。その教義は、あらゆる問題と状況についてのあらゆる疑問に答えるものだと主張する。個々のメンバーは、自分で考える必要はない。教義が彼にかわって考えてくれるのだから」(『マインド・コントロールの恐怖』(恒友出版P118)

「カルトのいちばん効果的な教義とは、エリック・ホファーの言葉を使うなら『証明も評価もできな い』教義である。それは非常に複雑なため、解くのに何年もの努力が必要だということになってい る(もちろんそのころには、人々は教義を学ぶことよりも資金集めとか勧誘のようなもっと実際的な仕事へ向かってしまっている)。
教義は受け入れるべきものであって理解すべきものではない(という)。それゆえ、教義は、漠然 としていて包括的で、しかもじゅうぶんに調和がとれて一貫しているように見えなければいけない。その威力は、これこそ万物を包摂する唯一の真理なのだと断言するところからくる。
マインド・コントロールの正否は、その人の中に新しい人格を作りあげることにかかっているので、カルトの教義は、きまって、あなたは自分自身を信じてはならないと要求する。教義が、思想と感 情と行動のすべてを決める『マスター・プログラム』となる。それは完全で絶対的な真理そのもの なので、教義のどんな欠陥も、信者自身が不完全だからそう見えるのだとされる。信者は、たとい 本当には理解できなくても、決められたとおりの信条に従わなければならないと教えられる。同時に、真理をもっとはっきり『理解』できるようになるには、もっと働き、もっと信仰を深めなければならないといわれる」(同P168)

100愚鈍凡夫:2005/02/19(土) 17:22:19

その信仰が神仏に対する「信仰」なのか、それとも、教義や指導者の言葉に対する「信仰」なのか、はたまた、集団に所属する安心感に対する「信仰」なのか。
自らに問うてみた時、「信仰」の本質が見えてくるのかも知れませんね。

101大勇者:2005/02/19(土) 22:07:36
愚鈍凡夫さん
>94
>天皇家と関わり合いの深い神社と、仏教を折衷する手法として神仏習合が行われていったのではないでしょうか。その理由付けに、法華経寿量品が利用されたように思います

教えてください。
如来加持の文 破地獄の文は歴代天子誕生の時に贈られていると記憶しています。(著作題名忘れてしまいました)
これは現在も今後も行われるのでしょうか?又、いつ頃から行われていたのでしょう?
桓武天皇からでしょうか?

102犀角独歩:2005/02/20(日) 00:33:02

空即是進化さん、このスレッドを立てる原点に戻るためにお尋ねしますが、なんで、それほどまでに信じることに拘っていらっしゃるのでしょうか。

宗教=信仰だと少しも思わないわたしからすると、実に不可思議なのです。
ご見解をお聞かせいただければ参考になります。

103愚鈍凡夫:2005/02/20(日) 00:33:39

「うっ、言葉が喉に詰まった。だっ、だれかお茶を!!」 (;゚゚)ウッ!

大勇者さん、どうもです。

> 如来加持の文 破地獄の文は歴代天子誕生の時に贈られていると記憶しています。(著作題名忘れてしまいました)
> これは現在も今後も行われるのでしょうか?又、いつ頃から行われていたのでしょう?

大勇者さんが仰ってるのは、この文証の事だと思うのですが、

「毎自作是念。以何令衆生。得入無上道。速成就佛身。(毎に自ら是の念を作す。何を以てか衆生をして無上道に入り、速かに仏身を成就することを得せしめんと。)」(妙法蓮華經如來壽量品第十六)
如来の慈悲に溢れた誓願を表した文証として有名ですよね。

行事としていつ頃からとか、今も行われているかといった知識は持ち合わせていませんので、どなたか詳しい方にお尋ね下さい。 m(_ _;)m ゴメン!!

ただ、葬儀の面から見ると、平安時代から江戸時代の天皇家では火葬してから埋葬するという仏教式の葬儀をしていたようです。明治に入ってから神道の葬儀を取り入れ、火葬は止めたようですね。

天皇の信仰に見る日本人と仏教
http://www.kcn.ne.jp/~tkia/mjf/mjf-77.html

104空即是進化:2005/02/20(日) 10:58:13
 犀角独歩さん、呼びかけをしていただいて大変うれしく思います。
 >102 何故「信」に拘るのか?
 
 私も今は宗教に対する「信」を全くといってよいほど持ってません。曼荼羅など落書きしようが
書写しようが好きにすればよいと考えています。芸術性のあるものや苦労して作成したものについ
ては、それなりに敬意をはらいますが。
 
 ただ、独歩さんにしてもはじめから「宗教=信仰だと少しも思わないわたし」ではなかったでし
ょう。私も以前は信じていた(信じようと努力していた)わけです。
 私の場合、元々信じる力が弱いのか、中学3年の初登山以来十数回、大御本尊にお目通りをする
たび、今度こそ感激の涙を流したいと切望していましたが、一度も果たすことが出来ませんでした。
また、池田先生に近づければ自分が本当に変われるのではないか、との思いからS大学に入りました。
それにより、わずかながら直接話をする機会も得ましたが、それほど劇的に変われるものでなく、
簡単に涙を流すことができる人達をいつもうらやましく思っていました。
 
 そんな私ですら、ある時ふと「御本尊がただの紙切れでしかないのでは」「世の中に絶対のもの
など無い」と思った瞬間があり、それがとてつもない恐怖というか、空虚というか、絶望感という
のを味わったのです。その時はまもなく「信」を取り戻し、平静を保つことができましたが。

「信」を無くすことは怖いことです。従来の「信」から離れた皆さんが平静でいられるのは、別の
「何か」を信じられるようになったからではないですか? 神仏とは限らず、自分自身の心の安定を
はかれる何らかの「理念」を各人持っているのではないか。デカルトの「我思う、ゆえに我有り」は
至言の一つだと思います。ということで、皆様の考えを少しでもわけていただきたく存じます。
 私にも少しは考えがあるのだが整理ができていないため、またの機会ということでお許しを。

 独歩さんの『21世紀の日蓮』について、皆さんもそうでしょうがものすごい期待感を持っています。
しかし、日蓮さんでいいんだろうか、とも。 
 これからも、よろしくお願いします。

105犀角独歩:2005/02/20(日) 19:38:51

空即是進化さん:

レス、有り難うがとうございます。

> 「信」から離れた皆さんが平静でいられるのは、別の
> 「何か」を信じられるようになったからではないですか

少なくとも、わたしは違います。
仰るように、信に絶対の価値を置いてきた40年でした。
わたしは、ある雑誌のインタビューに、集団をやめたときのいちばんの発見は人間は宗教(団体・教義)がなくてもいきていける、それは新たな発見だったと答えました。

わたしは、新たに信じられるものを発見したのではなく、信じなくても生きていけることを知ったと言うことでした。

このように言うと、人間はたとえば、道を歩くのに、その道が崩れたりしないと「信じているから、歩いている。だから、信なくして何も成り立たない」とか言います。しかし、わたしはまるでそうは思っていません。自分が歩いている道が足を置いても崩れ落ちないのは、過去50年の経験的統計に基づくのであって、次の一歩で崩れるかもしれないという覚悟に基づいているに過ぎません。

わたしはまるで「信」など当てにしていません。
人もそうです。いま、信じているなどといっている人は、次の瞬間には敵になり、愛している、信じているなどといっている人が次の瞬間は、さっさと去っていくのが現実です。

わたしは、過去10年間、社会活動で、カルト脱会支援、脱会ご支援を行ってきました。その延べ数は、メール、電話、面談を併せて、数万人に及びます。
わたしは、そこで発見した法則は、「あなたは恩人です。あなたの言うことを信じます」などということをいった人々は、しばらくすると、わたしは批判し始め、ここがいい、ここが悪いと評論を始めるのです。信に重点を置いていたとき、正直、わたしは、こんな不誠実な対応にいつも腹を立てていました。しかし、いまは違います。人間というのは、そんな動物であると言うことです。
わたしの先輩は、「カウンセラーはクライアントに批判されて一人前。来るものは拒まず、去る者は追わず」と泰然と述べたものでした。結局、底に信じること・信じられることの一切に何の期待もしていないと言うことです。

しかも、信じることがないことは、ことさら、怖いことでも、不安なことでもありません。
ある意味、「空」とは、そんな側面も持っているのかもしれません。

> 『21世紀の日蓮』…しかし、日蓮さんでいいんだろうか

さすが。空即是進化さんは本質をズバリと突かれますね。
ここ、富士門の掲示板では21世紀の日蓮ということです。
それがキリストでも、親鸞でも、シャキャムニでもかまいません。
それぞれの分野で、新たな何かを生み出していくことはけっこうなことであると思います。

ただ、わたしは、日蓮の家に生まれ、日蓮と共に50年を生きてきました。
他のことは詳細にはわかりません。また、日蓮を通じて、喜怒哀楽を生き、そして、人に喜怒哀楽を与えても来ました。ですから、わたしが受け持つのは「日蓮」、それも日蓮本部津、彫刻、お肉と言われてきた中世の捏造を含めた伝承です。

ここ50年のお祭り騒ぎの「お掃除」をし、いま始まった100年のニーズに応える基礎を素描できればと思うばかりなのです。

こちらこそ、よろしくお願い申し上げます。
もっと、ゆっくりといろいろお話がしたいと希望もしています。

106空即是進化:2005/02/20(日) 23:41:13
犀角独歩さん、さすがですね。あなたの強さの理由がわかったような気がします。

 しかし、他の多くの方々はそこまで割り切れず、何らかの答えを求めてここに集っているのではないで
しょうか。
 私も今となっては神仏不要ですが、それなりの過程は必要でした。学会組織の否定、I先生の否定、日蓮
正宗の否定、御本尊の否定、あらゆる神仏及び奇跡の否定。それでも自分自身は否定しないで生きる、とい
うことは容易ではないですね。
 
 「死んだらどうなる?」そんなことは死んでみなければ分からない。しかし、死ねば嫌でも分かる。もし
くは無か。生きている人間の認識能力では、たとえ釈尊でも不可。そんなことを思い患うより、精子・卵子
レベルでも(自分が精子Aだとして)一兆分の一以下の確立で競争に勝ち、我が父母の子として誕生した幸
運を感謝すべきでないか。(精子Aは「生物」?「生命」?「我」?)(負けた精子・卵子の立場は?) 
 
 >ある意味、「空」とは、そんな側面も持っているのかもしれません。
 私もそう思います。「信」にも執着すべきでない、ということでしょうか。この世に不変のもの、絶対の
のなど無い、というのが仏教の基本中の基本のはずなのに、いつの間にか「有り難いもの」を造ってしまう。
その愚を繰り返してしまう。何故でしょう?
 
 釈尊が死の床で、未だ覚悟していないアーナンダに「法燈明」「自燈明」を説いたという話がありますが
(詳細略)、改めて釈尊の偉大さを感じます。
 釈尊の真の教えを現代科学で検証しながら、21世紀の精神的支柱としていければ、少しは未来を変えら
れるのではないか、などと考えています。

 やっぱり考えがうまく表現できません。というか、考えそのものが至っておりません。多少なりともくみ
とっていただければ幸いです。

107犀角独歩:2005/02/21(月) 00:07:38

空即是進化さん:

> 釈尊の真の教えを現代科学で検証

この点ですが、たぶん、シャキャムニという方は、いまでいう科学に係ることは何一つご自身のテーマにしていなかったのではないでしょうか。

ですから、科学的に検証する部分は何一つないのではないのかというのが、わたしの結論です。
もちろん、禅定時の脳内代謝といったことは、科学的検証は出来ようかと思います。しかし、実際の平安の境地は、たぶん、科学に検証してもらわなくても、到達した当人は文字通り平安の境地に住していますね。これと薬物、もしくは脳内ホルモンの自家中毒状態とは一線を画すことであるとわたしには思えます。もちろん、生化学的に何でも分析していくことはもちろん出来ようかと思いますが。

変な表現かもしれませんが、お釈迦様という方は、人類史のなかで確認できる最古の合理主義者…、いや、ダンマに生きた方ですから合‘法’主義者というべきかもしれませんが、論理的に考え・その論理に従って行動することに勤めた最初の人ではなかったのかと、わたしはいつも考えています。
それが空即是進化さんが引用された法(合理・合法)と自ら(行動する主体)を灯明とするいうことだと解しています。

死を人が恐れるのは、死を考えるからで、生を精一杯考えていくとき、死を考える余裕は失せます。
死はやがて辿り着く、終着点です。その日まで精一杯、如何に生きるかを考えていこうと思っています。

ただ、その精一杯は、気張ったり、熱狂的なではなく、禅定的な、寂とし、平穏、平安に、という意味を超えません。

これからも、どうか、お気軽に話しかけてください。そして、うまく表現できないことでも、語り続けてください。そのなかで、たぶん、言葉と気持ちは整理され、少しずつ、目指されている境地は明確になってくると思えます。

善き語らいを空即是進化さんといたしたいとお願い申し上げておきます。

108犀角独歩:2005/02/21(月) 00:48:40

参考までに

「ブッダは厭世観に溺れることなく、現実の苦悩を直視して、その本質を見きわめることに成功した。すなわち、「さとり」を開いたのである。そして、その「さとり」の立場から「苦」の克服を提唱し、そのための実践道を説き、その思想体系の基礎をうち立てた。そこにはもはや厭世主義は見られない。それにもかかわらず、佛教はその長い歴史の過程において厭世主義をその中心思想とするものと見られてきた。これは特に、中国およびわが国においてははなはだしい。人間としての生活活動を避けて、個人的な陶酔の生活に逃避するという厭世主義に生きた人は、中国およびわが国の仏教者に多いことを知られている。
それではなぜに、特に中国およびわが国において、現実逃避的な厭世主義思想が仏教の中心思想であるかのように見られるにいたったかというと、二世紀の後半以後、中国に佛教が流伝した時代の影響によるものである。当時の中国は後漢末期の混乱期で、社会の混乱とともに人心は虚無的になっていた。したがって、道教(老子を教祖とする宗教)が勢力を得て、その説く無為自然を道徳の標準とし虚無を宇宙の本源とするような思想による逃避が流行していた時代である。したがって佛教とくに大乗の空思想を理解するのに道教の思想が対比されたのであり、仏教者もこれを利用したことが知られている。すなわち、仏教の教義を説明するのに道教で尊ぶ『老子』とか『荘子』という書の思想を借りたのである。その結果、佛教そのものが逃避的・厭世的なものと理解されるようになったのは当然である。
わが国では平安朝中期以後、世の動乱とともに大きくクローズアップされ、一方では欣求浄土(心から喜んで浄土に往生することを願い求める)が礼讃され、他方では出家遁世するものがふえた。『方丈記』の鴨長明(1153-1216)はこうした遁世者の一人であり、曹洞宗の開祖道元(1200-1253)でさえ消極的・退嬰的な隠遁をすすめている。
ブッダの積極主義が二千年の歳月とともに道元の消極主義に変貌している事実は見逃してはならない。そこに歴史があり、また退歩があると言わねばならないであろう」(岩本裕師著『佛教入門』P86)

109空即是進化:2005/02/22(火) 01:21:01
犀角独歩さん、貴重なご教示と資料ありがとうございます。できるだけ学びたいとは
思いますが、再スタートが遅すぎたかもしれない。しかし、空白の時間も無駄だったとは
思ってませんがね。
 少し考えを進めてみました。幼稚だとは思いますが、お言葉に甘え、思いついたことを
羅列し、書き逃げします。
 
 「現代科学で検証する」ということについては、今後何らかの法を広め定着させるため
には、「科学」が不可欠と考えるのです。
 「科学的社会主義」、S学会の「生命と科学」など、近年世界的に広まった思想には、
後年化けの皮がはがれようと「科学」がつきものではないでしょうか。少なくとも信者
は「科学的」と思ったから。
 
 「梵我一如」と「諸法無我」、どちらがより科学的か。「梵我」の思想はあまりに魅力
的だが、「大日如来」「創造神」「ヤーベ」などと同様「科学」の検証には耐えられない
と思う。それでも何億もの人間が信じたふりを続けているのは、「信じたい」との願望が
なせる業ではないのか。
 
 「無我」については、もっともっと深い解釈があるのでしょうが、とりあえず私の理解
では、「精神は特定の機能をもった物質の集合体の中でのみ生まれる」、そして物質を集
合させるものが「縁」。生前も死後も肉体を構成するものは「空」であり、死後分解した
物質は新たな生命の土台となる。
 死後存続する生命や、特別の力を持った<仏像・曼荼羅>などあるわけない。
 
 精神エネルギーは、素粒子レベルの運動に対しては影響を与えうるのでは。誰か実験し
てくれないかな。

 生命は絶対に在りえない確率で発生し、さらに在りえない確率で人間にまで進化した。
進化を促進する何らかの大きな力・法則は存在する。

 宇宙はひたすらエントロピーを増大させながら拡大している。それに真っ向から逆らう
ように物質が集合し、星を創り、生命を発生させ、人間の脳を創った。次々により複雑な
もの、高度なものを生み出すために、試行錯誤を繰り返し、仲間と協力し仲間を犠牲にし
ながら、進化を続けている。
 すなわち宇宙は「空」であり、「進化」を目的とする。

 人種を超え、何十億の人間が受け入れられる思想は、「科学的」であり、かつ極めて
「シンプル」、そして「歴史的権威」を持ったものではないか。
 それこそが「釈尊オリジナルの思想」だと思う。その再発見と現代科学による肉付けが成功
すれば、未来への希望を持てる気がする。

 
 いい年してこんな書き方しかできない自分が情けないですが、興味を持たれた方はご意
見下さい。ただし、人格攻撃は止めてね。
 また、質問されてもたぶん回答できないと思いますので、ご容赦を。

110大勇者:2005/02/22(火) 13:49:36
>109
稚拙な投稿お許し下さいませ、、
大変興味を持ちました。
空即是進化さんが自分とは全く違うスタンスで「梵我」や「無我」を考察されていることに正直驚きました。

私は生命の実相に興味を惹かれて自己信仰の再考を思い立った時に先にインド思想史に触れたいと考えJゴンダの「インド思想史」(岩波文庫)を読みました。サンスクリットを忠実に表現しようする著者と渡辺照男氏に影響受けたとの鎧氏の訳は素晴しいと思いました。
何故インド思想かと言いますと、シャーキャムニが斥けたと云われる「アートマン」の思想とはどのような概念なのかを知らなければ「諸法無我」の理解に近づけないと考えたからです。
私は「無我」とは、「アートマンの否定」と捉えてます。「アートマン」とは「実在する結合因子」が発端で揚々にグナやプラクリィティなどに展開して行くのだと思います。苦行により発生する「ブラフマン」はもっと生々しいエネジーをイメージしますし、先に挙げた著書でもリグヴェーダの時期に於いては「梵」と「我」は別々に発展した思想としています。
「縁」は実に顕れる変化の連続性、ついでに「法」は「縁」の連続性に対する規則性や一貫性を捉えた概念、「空」は数字の「0」の起源からも解かるように元々は「ポッカリ」「幻」(中観も勉強不足で理解してませんが)と捉えています。

<仏像・曼荼羅>が特別な力を持っているとは思いませんが、何らかの思想や概念に名前をつける事の出来たインド人は「名前の一致」と理解によっての益がある事を古代から知っていたし、それは現代でも通用すると思っています。

111真実 探求者:2005/02/22(火) 18:53:31
失礼します。 明治の文明開化の激動時代、 黒船の後遺症から西欧の文化を「有り難がる=脱亜から入欧、」まで、なぜ、??? 急進したのでしょうか、、??  欧米の文化が「、、オイシク見えた、、??」のでしょうか、、?? これなら、、「、、オイシイ物(公金)にムラガリ、周りの下っ端どもは従わざるを得ない、、」という下地、、は、、「、、北海道警察の裏金問題〜〜大阪市職員厚遇問題、、、」、、とイコール、、?? では、、?? 早々。

112真実 探求者:2005/02/22(火) 19:54:01
ドーモです、、。 比喩という点で「若干の行き過ぎ、、、、??」がございました、、。 御勘弁のほどを、、、。 早々、、。

113犀角独歩:2005/02/23(水) 08:19:15

109 空即是進化さん:

> …「科学」が不可欠

これは仰るとおりであろうかと存じます。
わたしが強調したかった点は、以下のことで、お考えは同様かと存じます。

> 信者は「科学的」

所謂カルトと目される団体は、例外なく、自分たちの教義の科学性を主張します。
この点はリフトン師、ハッサン師、西田師などが指摘しています。
ご承知のところかもしれませんが、ロムの方の便宜に紹介します。

リフトン師は『思想改造の心理』のなかで八つの基準を挙げていることは有名です。
環境コントロール・神秘的操作・言語の詰め込み・教義の優先・聖なる科学・告白の儀式・純粋性の要求・存在の配分の八つです。
このうち、聖なる科学とは「全体主義的集団では、自分たちの教義は科学的であり、道徳的にも真理であると信じられています。他の見解をもつことは許されず、教義に疑問をいだくことも禁止」を挙げています。

ハッサン師は『マインド・コントロールの恐怖』で「もっと全体主義的なグループは、自分たちの教義は科学的に証明されていると主張する。その教義は、あらゆる問題と状況についてのあらゆる疑問に答えるものだと主張する。個々のメンバーは、自分で考える必要はない。教義が彼にかわって考えてくれるのだから」と記しています。

西田師は違う視点から『マインド・コントロールとは何か』で「神秘主義と科学(自然科学)の区別がつかない学生が多いとも指摘されている。これも、思考の固さと関係があるのかもしれない。人間や自然界の謎を前に、はっきりした明白な解答をすぐにも求めようとしたならば、現代の科学にはまだまだ未解決な問題が多いことはいうまでもない。しかし、それをすぐさま「科学の限界」ととらえ、霊界や超能力といった神秘的な解答で納得してしまうのはいかがなものであろうか。そうした神秘的で単純な解答を、人びとにもたらしている源は、現代ではマス・メディアや出版界に代表されよう。科学とは何かについて、各人がもう一度理解しようと試みる必要がある」と適切な分析もしています。

なにより、西田師が同書でいう「何か集団のメンバーになっていても、もし何か矛盾する事実に突き当たったら、徹底的に疑ってみることが大切である。もし、個人が疑うことに対して、何か罪的な否定的意識を教えこまれているとしたら、それは科学的思考を一切否定していることと知るべきだ」という薦めに従って、わたしは富士門流の問題を考えてきました。

ちなみに師の同書における「科学」への考えを列挙すれば、

「社会心理学とはどういう学問であるかを一言で説明すると、実在する他者や想像の上で他者を想定することによって、個人や集団の行動がどのようになるのかを科学的に研究する学問である」

「グループ・ダイナミックスは、もともと集団にはたらく力についての学問であり、何が集団に力を与えるのか、どんな条件がその力を変えるのか、その力はどんな結果を集団にもたらすのかといったことを科学的に研究する。それが今日では、グループ・ダイナミックスは、個人の心理学的過程を含めたもっと広範な対象を扱う社会心理学に統合されて、対人関係論、組織行動論、集合行動論などに分けられて研究されてきている。
集団にはたらく力としてのグループ・ダイナミックスは、一般にマインド・コントロールにどういう作用を与えるのだろうか。結論を先にいうと、群集心理とリアリティの構築、つまり知覚された現実感の構築である」

> 「梵我一如」…

この言葉は、ある面、一人歩きをしているところがあります。
わたしもよく調べてから既に数十年が経っているので記憶は曖昧ですが、ともかく、二道五火説を基礎にしたものであり、火葬の肯定理論でもあるわけです。遺体を焼いた煙が天に昇って梵天と一体化する・反面、一体化しない場合は煙は地上に落ち、土に入り、植物に入り、その植物を食べた自分の祖先の精子となって、また、この世に再生する、大ざっぱにいえば、こんな考え方です。科学的なものではありません。他は繁くなりますので略します。

> 「無我」…私の理解

このようにお考えですか。

> 生命は絶対に在りえない確率で発生し、さらに在りえない確率で人間にまで進化した。
> 進化を促進する何らかの大きな力・法則は存在する。

この点を、ブラウンモデルと、対峙し、定常宇宙論を提唱したのが、彼のフレッド・ホイル師でした。チャンドラ・ウイクラマシンゲ師との共著も興味深いものがありました。

114空即是進化:2005/03/04(金) 00:32:53
「マインド・コントロールとは何か(西田公昭氏著)」をやっと読み終わりました。
格別忙しいわけでもないのに、なかなか集中できず、情けないことです。

 なるほど、と思うことばかりですが、破壊的カルトによるマインド・コントロール
を強調されているものの、これって一般の宗教団体でも、政治集団でも、企業でも、
果ては親子関係にあっても日常的に使われているのでは?
 
 人間の本質的欲求に係るものであれば、ある意味必要悪とも言える。やはり信じれる
モノが欲しい。他者の目を通さないと自分自身の価値を見出せないのが、普通の人間?
自分の役割や居場所がどうしても欲しいんだよね。
 
「信仰は役に立つか」といえば、もちろん「役に立ってる」と思います。
 私も、中学生の時にS会との出会いがなければ、不登校のままどん底の人生を歩むか、
とっくに死んでいたのではないかと思います。今でこそ完全に信仰の対象としては除外
してますが、あのタイミングとしてはまさに「地獄で仏」でした。
 
 キリスト教だって科学的な視点から見れば馬鹿々々しいと言わざるを得ないが、それ
でもあれだけの人間が捨てられないでいるわけだし、その信者が世界のリーダーになっ
ている。

 理性に反してもそれだけ魅力的ということか。「宗教はアヘン」というのも至言です
ね。使い方を誤らなければ幸せに役立ちます。
 また、カルトにしても人類の進化の面では、何らかの役に立っているかもしれない。

 あらためて、より多くの人間が受け入れ可能で、かつ幸福に役立つ「信じてもよい」
モノは、皆さんにとって何なのか、教えていただきたいものです。

115犀角独歩:2005/03/04(金) 11:28:50

空即是進化さん:

> 「マインド・コントロールとは何か(西田公昭氏著)」
> マインド・コントロール…一般の宗教団体…政治集団…企業…
> 親子関係にあっても日常的に使われているのでは?

マインド・コントロールは仰るとおりでしょうが、「破壊的」という使用法に問題があります。要は、本人のため、と言いながら操作される側の利益にしかならない点が問題にされるわけです。ここが読み取りのポイントでしょうね。

R・チャルディーニ師著『影響力の武器』と読み比べるとその差はわかるかも知れません。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4414302692/249-1923762-3156313

なお、破壊的カルトとは、何も宗教に限ることではなく、企業、政治においても当然、言われることです。また、それが親子関係、夫婦関係などにおける心理問題は、しかし、また、別の問題になるでしょうね。むしろ、abuse で考えたほうがよいと思います。

> キリスト教だって科学的な視点から見れば馬鹿々々しい…信者が世界のリーダー

これは、極論ではないでしょうか。
ルネッサンス以前の魔女狩りでは、地球が太陽の周りを回っていると言うだけで聖書に違反した魔女だの騒ぎで火炙りでしょう。つまり、その時代のリーダーは、天地創造だなんだという部分を特化した。しかし、今は博愛の精神といったような点を中心にするから、人々に受け入れられるわけでしょう。それを非科学的な部分に拘れば、エホバのような展開にならざるを得ないわけでしょう。

「キリスト教が」「仏教が」ということではなく、それぞれの思想・制度の中で功罪を選別し、不要な部分を切り捨てて、どう活用するかということではないでしょうか。

> カルトにしても人類の進化の面では、何らかの役に立っているかもしれない。

時まさにオウム真理教地下鉄サリン事件から3月20日で10周年を迎えます。
前日、19日はサリンで地下鉄職員のご主人を亡くされた高橋シヅエさん達による集会があります。少し無神経ではありませんか。

極端な例を引けば、ヒロシマ・ナガサキのピカドンは科学の発展に役に立ったというようなものでしょう。実際に亡くなり、被害に遭った方があるのに、このような発言にはわたしは強い違和感を感じます。

116犀角独歩:2005/03/04(金) 11:29:42

【115の訂正】

誤)操作される側の利益にしかならない点が問題
正)操作する側の利益にしかならない点が問題

117真実 探求者:2005/03/04(金) 20:07:53
、、失礼、、。 現時点での実感を述べるあつかましさをお許しを、、。 宗教は、、益にも、、はたまた取り扱いの方法によっては、、害毒のも傾きかねない、、ようです、、? 人生イロイロ、、宗教もイロイロ、、しかしながら、少なからずの、暗示も示唆してくれました、、。 ドーモでした、、。

118犀角独歩:2005/03/04(金) 22:41:35

空即是進化さん:

115、自分の投稿を読み直して、「無神経」とは、言葉が過ぎたと反省しました。

高橋シヅエさんとは、数年前にお会いし、その体験をお聞きし、文章にまとめたことがあります。また、カルト問題に関わるようになって、10年、その間の思いの丈があります。しかし、不躾な言辞を吐いたことはいいわけにはなりません。謹んでお詫び申し上げます。

なお、早稲田大学法学部教授・棚村政行師の、以下の文章は参考になるところはあろうかと存じます。

http://www.cnet-sc.ne.jp/jdcc/open/ol001_tanamura.html


真実 探求者さん:

フォロー、有り難く思っています。

119真実 探求者:2005/03/04(金) 23:03:20
118 様 どーも、です、。  いつも、、革新的な御提供、、ご発言は、誠に、天才〜か、または鬼才、かと、、存じております、。  今後も、、深心の深い御洞察によりまする御提言に御期待致す所存、、は多大、、でございます、、。

120空即是進化:2005/03/04(金) 23:21:19
犀角独歩さん、
 私の意見に不快感を持った方がいらっしゃるのなら申し訳ないと思います。
しかし、「カルトにしても人類の進化の面では、何らかの役に立っているかもしれ
ない。」ということについては間違っていないと思います。
 また、「ピカドンは科学の発展に役立った」ということも否定はできないでしょう。

 事件の当事者や今ギリギリの戦いをしている人にしてみれば感情的には許しがたく
とも、「進化」は多くの試行錯誤と犠牲を踏み台にしてなされてきたのは事実と思います。
 今回の発言は極論かもしれませんが、本掲示板の流れからいって許されないものとは思
えないのですが?

 話は飛びますが、「進化」への欲求は、善悪でなく、元素レベル以下の単位であらゆる
存在が、本来的に持っているものではないか、というのが私のテーマです。人間の脳はそ
の最高傑作であると。少なくとも脳といえるものを持たないモノに「精神的実在」など在
りえない、との結論に達しています。

 「宗教」って本当に信じきっている人は案外少なく、上手に暮らしの中で活用している
人が大半かもしれない。特に日本人に多そう。それなりの儀式もあったほうが楽だし、
ひな祭りやクリスマスなんかも無いとさびしい。

 たちの悪いカルトの存在は許すべきでない。

 また、根拠の薄い発言をしてしまいました。これからしばらくロムに専念したいと思い
ます。勉強させてください。

121パンナコッタ:2005/03/05(土) 00:48:17

〉カルトにしても人類の進化の面では、何らかの役に立つ・・・。

自分はカルト=毒、社会の膿だとおもっているのですが、独の精神科医クレッチマーは
「精神病質者は常に存在する。しかし、平穏な時代には我々が彼らを鑑定し、疾風怒濤の
時代には彼らが我々を支配する」との言葉にふれて、役立つと言うより歴史的に影響
はしていると思います。
唯、ここでのカルトとは広義的な意味での宗教の一部と思われますが、カルトと宗教を
明確に区別できるのでしょうか? 自分は指標として以下がいいと思っていますが。

「カルトと真の宗教とは本質的に異質なものだ。宗教が、自分たちよりすぐれた何者かを
あがめることを目的として人々を集めるのに対して、カルトは、その指導者をあがめる
ことを目的に人々を集めるのである」
      ロバートKレスラー著 FBI心理分析官2 より引用

この定義に従えば、A会長やN猊下、I名誉会長をあがめる目的で人々を集めると
カルトと認定されますね。

122犀角独歩:2005/03/05(土) 06:51:59

120 空即是進化さん:

> 「カルトにしても人類の進化の面では、何らかの役に立っているかもしれ
ない。」ということについては間違っていない
>「ピカドンは科学の発展に役立った」ということも否定はできない
> …「進化」は多くの試行錯誤と犠牲を踏み台にしてなされてきたのは事実

「戦争は科学を発達させた」もしくは、「ヒットラーは、ユダヤ人を大量虐殺し、さらに人体実験に使ったたので医学を進化させたので、肯定される」
カルトは中国語では「邪教」、すなわち、邪な教えということだが、役に立つ。
殺人は人を減らすのに役に立つ。
戦争は増えすぎた人間を減らすのに役に立つ。また、莫大な武器消費によって経済効果をもたらし、役に立つ。
ヒロシマ・ナガサキの原爆で数十万の人が死に、苦しんだが、科学の発展の犠牲だからよい…。
等々、わたしは、このような論法は、とうてい、頷けません。
もし、実際の被害者であれば、以上のような論法を言えば、「では、あなた自身が苦しみ、犠牲になって死ねばいい」と反論されることでしょう。

> 今回の発言は極論

そうでしょうね。

> 本掲示板の流れからいって許されないものとは思えないのですが?

掲示板の流れからして許されるとしても、実際の被害者、犠牲者、またその関係者は、絶対に許さないでしょう。これは「感情的に許し難い」のではなく、人道的に許されないということではないでしょうか。

議論は、自分の主張を曲げず押し進めることに意義があるのではなく、間違いその他は、議論を通じて、修正する柔軟さ、勇気を持って望むことによってその意義を有します。
言い出したことに固執するのではなく、日々訂正し、自身の考えを進化させることに活用することを期待します。

その意味で、ロム専に回るのではなく、以上の点については、議論を継続することを望みます。
また、人の痛み、苦しみを度外視した机上の空論から、生身の人間の痛み、悲しみを肌身に感じたところから、今一度、再考されることを願うものです。

123犀角独歩:2005/03/05(土) 07:02:34

> 121

この投稿には概ね賛同します。
カルトと宗教は何が違うのか、という議論は繰り返しされてきたことで、十分な答えはたぶん、いまのところ出ていないでしょう。

この問題を考えるうえで、カルト問題は、単に宗教上の問題としてとらえるのではなく、社会心理学的見地から分析をすることが必要である。また、その際、メンバーの心理とリーダーの心理とは、同一論法で分析すると間違いを来す。操作される側と操作する側では、心理的側面は異なっている。

以上の点は留意しなければならないでしょう。

124空即是進化:2005/03/05(土) 08:05:47

 >122 引きこもる前に一言。

 私はカルトを容認しているわけでもなく、ピカドンを許してるわけでもなく、
科学の進歩のために犠牲は必要だと言いたいわけでもありません。ただ、「事実」
として‘ある’と考えているのです。
 また、部外者が高みの見物をきめて発言しているのでなく、当事者でありながら
一歩引いて見たつもりなのです。
 カルト問題は、ここに参加している人は皆当事者でしょう。最悪の事態は免れて
いても、大きな傷を負って生きている。
 独歩さんの情熱は分かるが、‘らしくない’と感じたのは私だけでしょうか?

125空即是進化:2005/03/05(土) 08:25:56
 
>123 カルトの「メンバーの心理とリーダーの心理」

 メンバーの心理はかなり分析がなされているようですが、リーダーの心理の方は
どうなんでしょう。よい資料があったらご教示ください。(不勉強ですいません)

126彰往考来:2005/03/05(土) 09:05:20

空即是進化さん、

>120「ピカドンは科学の発展に役立った」ということも否定はできないでしょう。
>124ピカドンを許してるわけでもなく、科学の進歩のために犠牲は必要だと言いたいわけでもありません。ただ、「事実」
として‘ある’と考えているのです。

私は一エンジニアです。常に科学技術の発展を促していく立場です。
ピカドンのどこが科学の発展に役立ったのですか?
ピカドンは科学技術の悪用にすぎません。いわば科学者としての良心
を悪魔に売ったような代物なのです。
原子力発電の技術とピカドンの技術は違いますよ。ピカドンなどなく
ても量子化学は存在するのです。原子力発電は安全性などで賛否両論
があるのは事実ですが、少なくとも現在の私たちの生活は原子力発電
によってもたらされた電気なくして成り立たず、恩恵を受けています。
ピカドンのどこが役立っているのですか?
私にはピカドンが科学の発展に役立ったなどという意見は受け入れま
せん。それは一部の悪徳経営者が公害も考えずに有害な廃棄物を処理
もせず、垂れ流すのと変わりません。悪徳経営者はそれで利益を得ま
す。そしてそれが会社の発展に役立ったと言っているのと同じでしょ
う。

ピカドンのどこが科学の発展に役立ったのですか? お答え願います。

彰往考来

127犀角独歩:2005/03/05(土) 10:08:25

空即是進化さん

いま、けっこう、大事な部分を話していると思います。
‘らしくない’のではなく、このような点を鮮明にしてきたのが、わたしという人間です。

まず、核兵器についてですが、以下のような切り抜きをわたしは大事に取ってあります。

「水爆の父」テラー博士
『「威嚇投下で十分だった」
  原爆開発計画参加「日本の犠牲、残念」
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/ikaku.gif
(クリックしても表示されませんでしたら、アドレスバーにコピペしてください)

この発言のなかで

「東京湾上空で夕刻に爆発させればよかった。1000万人の市民とヒロヒト(昭和天皇)が真昼のように明るくなった空を目撃し、戦争終結を決めたかもしれない。そうした機会を与えず、犠牲者を出したことを残念に思う」

と述べたと報道しています。ここでいう「爆発」は威嚇であり、殺傷破壊を目的にしたものではありません。'98の報道です。テラー博士は当時、既に90歳でした。晩年に50年前、丁度わたしの今の年齢の頃にときに参画した殺傷を懺悔する意味もあっての発言であるとわたしは受け止めました。ご参考にしていただければと思います。

> 「カルトにしても人類の進化の面では、何らかの役に立っているかもしれない
> 事実として…

この点ですが、仰ろうとされる意味は、もちろん、わたしはわかっているつもりです。
ただ、わたしが申し上げているのは、事実であれば、記述していいというハードルの外し方は誤解を招くということです。

それ以前に、空即是進化さんの破壊的カルト・マインド・コントロール論の理解が、たとえば、西田師が述べんとした肝心の「ツボ」を外しているようにお見受けするわけです。その前提とすべき理論の理解に、やや難があったうえで、即断されたことであるのではないのかと観察しています。

つまり、

> 破壊的カルトによるマインド・コントロールを強調されているものの、これって一般の宗教団体でも、政治集団でも、企業でも、果ては親子関係にあっても日常的に使われている

という点です。これはしかし、西田師の述べる意を必ずしも正確に認識された結果とはわたしには思えません。師はわたしの恩人ですし、知り合って既に10年近い歳月が流れています。ですから、著述ばかりではなく、時には酒を飲み交わしながら、話を聞く機会もたびたびあります。そこからわたしが斟酌する師の理論は、空即是進化さんの感想とはかけ離れています。

ただし、空即是進化さんが感じた‘共通性’は、社会心理学では「社会的影響力」と言われる部分であろうかと思えます。また、このような「誤解」は、よく見聞することで、特に社会心理学、また、ハッサン師その他の著述を熟読せず、マスコミその他一人歩きした「マインド・コントロール」語で理解したと思い込んだ場合に散見できます。(空即是進化山河相であると断定しているわけではありません)

この点については、以下のサイトが参考になろうかと思います。

『マインド・コントロール』を取り巻く2つの誤解
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1847/gokai.html

以上のことから、わたしは、今回の空即是進化さんが「事実」であると呈示されたことが、前提の部分で正確さを欠いた即断である点を指摘したわけです。

また、何より、実際に死傷者が出た事柄で「犠牲は付き物」的な発言は、配慮を欠いたものである点を棚上げにして、わたしは議論に継続することは、道義に反すると申し上げた次第です。

ただし、以上の指摘は、けっして空即是進化さんの人格を攻撃したり、言葉狩りをしたりすることを目的にするのではなく、誤解、もしくは実際の被害者の気持ちを配慮したうえで語るという一定のルールを「お窺い」したものであったことをご理解いただき、さらに議論を継続したいと願うものです。

なお、これから外出しなければならず、125のご質問の点は、追ってレスさせていただく所存です。

128犀角独歩:2005/03/05(土) 10:10:55

【127の訂正】

誤)空即是進化山河相であると
正)空即是進化さんが、そうであると

129パンナコッタ:2005/03/05(土) 13:48:39
〉123  犀角独歩さん、ありがとうございます。リーダーの心理は同書では、

『オウム真理教と麻原にまぎれもなく日本特有の側面があることを否定する
事は出来ないものの、「日本にしか見られない」といいきるのは極端だと私は
思う。その理由は以下のとおりだ。
 多くのカルト指導者を研究してきたわたしは、麻原と、アメリカの「家族型
カルト」の指導者チャールズ・マンソン、ブランチ・ダヴィディアンの教祖
デイヴィド・コレシュ、リビアの政治家ムアマル、カダフィ、そしてかつての
ウガンダの酋長イディ・アミンなどには、多くの共通する心理的動向がある事
に気づいた。彼らはみな貧しい生い立ちで、幼少期に苦労している。世に出た
当初は、全員、詐欺師のたぐいで、ことば巧みに人々から金銭をまきあげたり
味方につけたりした。ひとつ成功するたびに自己評価を高め、しまいに自分は
なにをやっても罰せられることはない、人間のつくった法律では自分を裁くこ
とはできないという気になりだした。その誇大妄想的な人格は着々と悪化、ほ
とんど病的な段階に達し、ついに社会に対する脅威になる。こういう人物は、
国家と国民と資産をほしいままにしかねない可能性があり、じっさいに上記
の何人かはそれを実行しているのだ。』
              ロバートKレスラー著 FBI心理分析官2
と、指摘しています。

130パンナコッタ:2005/03/05(土) 13:49:21
〉125 空即是進化さん、更に同書では、こう分類しています。

『オウム真理教を全面的にテロリスト・グループと分類するのは正しくないが、
両者に共通点は多い ― なかでも、教団内で階級を作り上げ、信者がそれぞ
れの役割になりきっている点がそうだ。むかしからいわれているそうした階級
は、つぎの三つのグループに分かれる。指導者、行動主義的扇動家、そして
理想主義者だ。
「指導者」は、ふつうは全身全霊をうちこんでいる人物で、理屈がうまく、強
烈な個性を持つ人物。純粋なテロリスト・グループではないカルトの場合、指
導者の人格はかなり誇大妄想的であるのがふつうだ。どちらにせよ、指導者は
かならず偏狭で、ひたむきで、過剰にうたぐり深い精神傾向を示す。自分の失
敗や力不足を他人のせいにし、反対する者は悪意があると非難する。指導者は
自分を中心に据えて、唯一無二の存在であるかのようにみなした手のこんだ
信仰体系をつくりあげるものだ。
 指導者になる人間は、自分ひとりではほとんどなにも完遂できない。指導者
の「使命」を全うするには、部下の存在が必要不可欠だ。 ― それも、単な
る手下ではなく、おもに以下に述べるふたつの分類にあてはまる部下が。

131パンナコッタ:2005/03/05(土) 13:50:00
続き
行動主義的扇動家は、反社会的な性格をもつ日和見主義者だ。彼らは自分の所
属するカルトなりテロリスト・グループなりを富と権力の道とみなしている。
 〜 こういう人物は精神に異常があるわけでなく、たいていの場合、他人の
欲求に鈍感で、罪悪感や共感おぼえる能力にとぼしい。この種の性格立場の人
間を調査したある研究家は以下のように結論している。彼らは、「暴力にひる
まない。それどころか、その刺激にひきつけられた。おなじ中流階級出身の仲
間とちがって、幼いころから合法的な行動や、勤勉やがまんといったことでは
なく、トラブルや突っ張りや抜け目のなさや刺激を求めて生きる」。

理想主義者はいつまでたってもおとなになりきれない。永遠に「真実」を追い
求めて生きるタイプで、大学中退者も多い。このタイプはグループ内でマイナ
ーな役割を演じ、その才能や特技が ― 一級品ではないことが多い ― し
ばしば必要とされるにもかかわらず、行動主義的扇動家や指導者ほどの権力を
行使することは許されない。彼は命令を唯唯諾諾として実行に移す一兵卒なの
で、そうすることで指導者への忠節を示し、教団の目標を達成できるかぎり、
サリンの袋を地下鉄の車両に置くこともいとわなかっただろう。
 〜盲従者を取り上げた古典的著書 THE TRUE BELIEVER
のなかで、エリック・ホッファーは理想主義的盲従者の性格を、こう特徴づけ
ている。
「彼は罪の意識にさいなまれたヒッチハイカーで、車が通ればそれがキリスト
教から共産主義までだれのものであってもおかまいなしに乗せてくれと親指を
つきだす。スターリンでもキリストでもいいから、命がけで崇拝する対象がな
くてはやっていけない狂信主義者なのだ。彼は命あるかぎり現世に敵対し、見
果てぬ夢のために身命を賭してもかまわないとおもう」この手の理想主義者は、
罪悪感を表現する手段のひとつとして、つらい極貧生活をおこなう。彼らは自
己評価が低いので、精神的支柱としてのグループなしでは敗残者になったよう
な気がする。彼らが集団を離れようとしないのは、自分の人生はそこにとど
まってこそ、意味と目標のあるものだと感じているからだ。
              ロバートKレスラー著 FBI心理分析官2

長くなって、すみません。空即是進化さんのご参考と、までに記してみました。

132空即是進化:2005/03/05(土) 18:25:53
 
 >彰往考来さん、犀角独歩さん、
 
 「ピカドン」については、核開発全体を象徴的な意味で使ったのであって、投下の事実のみを
言ったつもりはないのですが、確かに「ピカドンは科学の発展に役立った」と書くと甚だまずい
ですね。誤解されてもしかたないか。かなりはしょっているため、本意が伝わらないんですね。
というか全く力不足です。それとも人格にも問題があるのかな。

 それにしても、少し違う受け止め方をしてくれる人がいれば、自説の掘り下げや肉付けをやっ
てみたかったのですが、無理があったようです。

 正義の名のもとに(そして神の加護のもと)原爆は投下され、人類史上最大の虐殺が行われた
わけですが、こんなことは無神論者にはできない。信仰してるからできるんじゃないでしょうか。
これもマインド・コントロールとは無関係ですか?

 理解が足りない、生半可と言われれば全く否定はできません。それゆえ勉強したいと思ってい
るのです。もう少し時間をください。

 >バンナコッタさん  

 資料ありがとうございます。

 >問答迷人さん、愚鈍凡夫さん、吉祥仙人さん、大勇者さん、真実探求者さん

 ご意見、ご指導大変ありがとうございました。


 >追伸  お別れのあいさつではありません。

133愚鈍凡夫:2005/03/05(土) 19:37:02

どなたか、小生を呼びましたか。 ��(。・Д・。)アン?

神の名の下に実行される虐殺は、国家にとっては、マインドコントロールと言うよりも、自己弁護のための卑劣な言い訳に過ぎないと思います。
自分たちと反対側の信念体系に属する人々を悪と決めつけて、そして、それを排除することが正義だと意義付け、自国民をマインドコントロールの罠に嵌めていくんでしょうね。我々は神より選ばれし民である、我々の反映こそが神の意志に叶う唯一の道である。とかなんとか、劣等感に凝り固まった民衆に、ささやかな優越感を与えるのでしょうね。
原爆投下は、今更取り返しがつかないですから、反面教師として永久に伝えていかなければならないことだと思います。

134大勇者:2005/03/05(土) 20:26:12
>>132 空即是進化さん。
こちらこそ、空即是進化さん及び皆さんの投稿に得るものは大きいです。

<原爆投下の大虐殺>作戦行為の奥を煎ずればやはり「差別意識」があり、
他の命を軽んずる差別意識の根には愚鈍凡夫さんが仰る様に信仰や宗教が関わってくるのでしょうね。

分離でも統合でもない何かの<世界共通意識>が必要なのだと思うのですが・・・

135犀角独歩:2005/03/05(土) 22:04:54

空即是進化さん、まあ、ゆっくりと話し合いましょうよ。

>自説の掘り下げや肉付けをやってみたかったのですが、無理があった

これから、ゆっくりなさればよいと思います。

> 無神論者にはできない。信仰してるからできるんじゃないでしょうか

わたしはこのご意見には賛成します。
滝本太郎弁護士がいみじくも同様の発言をしています。

「悪意の殺人には限度があるが、善意の殺人は際限がない」

これはたぶん「悪意の殺人には限度が、正義の殺人には際限がない」との意を含むと思います。

> 少し時間をください

時間はたっぷりあります。資料もたっぷりあります。語るに足りるここサンガの住人も充分におります。

それにしても、日本が白人国家であったら、原爆は投下されなかったでしょうね。
宗教だけの問題ではなく、人種差別の要素を孕んでいる点を、わたしは決して見逃しません。

136真実 探求者:2005/03/05(土) 22:19:23
、、さすがは、鋭い卓見、、。 一度、ロス〜シスコ辺りを散策するだけで、、黄色、、キイロンボ、、へのいやみを実感可能です、、。 白人でもメキシコからの不法移入者は排除盛んでしたネ、、。(今も同じ)、、。 いまや米国でのスパイ活動の一番はキイロンボの中国のようです、、。 米国は黄色人種はアフリカ並みと確信しているでしょう、、!! 難儀ですネーーー、、。

137真実 探求者:2005/03/05(土) 22:42:36
御免下さい、、。 「悪魔のマーケッテング(津田、上野訳、日経BP社)」を読んだ、、。 タバコ産業の恐るべき戦略が詳細だった、、。 さすが米国は自由の国、、??です、、。 露製のカラシニコフ、中国製のノリンコという、自動小銃を、ベネズエラの闇商人と組み、お隣のコロンビアの右派〜〜左派陣営に売り込み
(吊り上げ)をしたのは
、マイアミに本拠とする武器商社(朝日新聞より)が判明した、、。 力===正義、、??とカン違いの、、御乱行には、、??? でしょうか、、??

138彰往考来:2005/03/05(土) 23:41:21

空即是進化さん、

>132
>「ピカドン」については、核開発全体を象徴的な意味で使ったのであって、投下の事実のみを
言ったつもりはない

重箱の隅をつっつくようで申し訳けありませんが、核開発全体であれ“核”は許せないのです。
あなたは北朝鮮の核開発を是とされるのでしょうか?

核=原子力ではありません。核は兵器です。それも他に転用できない兵器なのです。
きっと貴殿は核=原子力として使っておられるのでしょうが、誤解される表現です。
なお、核分裂反応であれば兵器だけの言葉ではありません。

彰往考来

139犀角独歩:2005/03/06(日) 00:31:17

138 彰往考来さん:

横レスになる?かもしれませんが。

わたしは、今後の歴史のなかで、実は核兵器より原発のほうが遙かに危険であると考えています。記憶も醒めやらぬ東海原発の杜撰さ、近代で見れば、チェルノブイリの‘事件’。

かつて世界経済は金で動き、化石燃料で動き、さらに今ではウランで動いています。
しかし、その中で最も危険なビジネスは原発ではないでしょうか。

必要性云々ではなく、本当に原発は安全なのでしょうか。
地震・津波が起きて、その施設が壊れたとき、テロが起きたとき、何より、その施設が廃棄された跡地、その廃棄物、これほど、杜撰且つ危険な存在が他にあるのでしょうか。

わたしは、原発に断固、反対です。「では、代替電力はどこから」などという議論ではなく、危険であるから危険であるという意味での反対論です。

この点を、彰往考来さんはどう考えていらっしゃるのでしょうか。平和利用はいいとして、そんなこと以前にその安全性に対する問いです。

140彰往考来:2005/03/06(日) 11:32:45
>139犀角独歩さん

ちょっと熱があり医者にいくとインフルエンザB型の疑いということでトホホ。

個人的には原発は反対です。安全性に疑問があるからです。それと原発からでる
廃棄物は私たちの子孫に禍根を残しかねません。

安全なタ代替エネルギー・・・これが今求められているものです。本来技術者たる
もの、このような困難なテーマにいどむべきなのです。

なお、我が茨城県は東海原発の臨海事故での被害者でもあるのです。

本当に原発が安全でかつ必要なら都庁の脇につくればよいという考え
もあります。それができない以上、安全なものではないのです。

彰往考来

141大勇者:2005/03/06(日) 12:39:41
>139 犀角独歩さん 横レス失礼致します。

私も浜岡原発に近い地域に住んで居りますので、必ず起こるであろう東海地震を考えると本当に他人事ではありません。
浜岡原発に事故が起これば首都圏にも死の灰が降る事になるそうです。

計画中を含めると人類は438基の原発を所有する事になります。
http://www.pref.ibaraki.jp/bukyoku/seikan/gentai/chisiki/02ima/0213b.htm
若し事故の確立が一万年の一であったとしても、23年に一度起こる計算です。
因みに原爆の世界保有数は3万発・・・

142犀角独歩:2005/03/06(日) 12:51:27

140 彰往考来さん:

インフルエンザですか。お大事になさってください。

そうですね。東海原発は茨城県ですね。
わたしは三代続いた江戸っ子ですが、しかし、先祖は水戸藩の武士でした。父はとおの昔に鬼籍には入りましたが、戦前から東京に住んでいたのにも拘わらず、最後まで本籍を移すことはありませんでした。わたしは、生まれながら東京に住み続けていますが、本籍は今でも茨城県のままです。

ですから、原発反対は、もちろん東海原発反対に特に力点があります。

「原発反対」のご意見に接し、安堵しました。
広大な海洋、すなわち、水の惑星、地球、さんさんと降り注ぐ太陽光、既に科学は水素・酸素・太陽光から安全なエネルギーを作る技術に到達しているのではないでしょうか。しかし、それを阻んでいるのは、化石燃料と、ウラン・プルトニウムを牛耳る一部特権階級と、それに連なる国家利権…。

こう申し上げると「いや、そんな簡単に代替エネルギーは完成しない」とエンジニアである彰往考来さんとお応えになるでしょうか。しかし、その研究と、その利用を阻むのは、科学進歩の遅ればかりではないであろうとわたしには思えます。

やや話は滑りますが、わたしは禁煙してから、10年近く経ちました。
最近ではさらに嫌煙運動、禁煙運動は盛んになりました。しかし、それよりもっと、深刻である自動車排気ガス、工場排煙による大気汚染には、まったく無頓着ですね。煙草産業に連なる資産には厳しく、化石燃料に関してはメディアも沈黙。このような不均衡がいったいどこから生じるのでしょうか。

仮に膨大な電力を発電する技術は完成しなくても、1トン足らずの車1台を稼働させるガソリンに代わる無公害燃料すら開発流通しない「インチキ」に、わたしは憤慨を禁じ得ません。

科学応用のさじ加減も、大資本家や、大企業の利益次第。
マイナーチェンジをちょっとずつして、消費を煽る商品流通もそんな延長にあるのでしょう。

お大事になさってください。

143犀角独歩:2005/03/06(日) 13:00:45

141 大勇者さん:

わたしはかつて『静かな被爆』という近未来SFを書いたことがありました、ボツ稿となり未完ですが。

老朽化した原発が次々と事故を起こし、その報道を国家政府が秘匿している間に日本が滅んでいくというあらましで書いたのです。

わたしは、しかし、このようなことは決して絵空事であると思っていません。人類を次に重大な危機を及ぼすものがあれば、それは間違いなく、原発事故であると考えています。北朝鮮や、中国が日本を軍事侵略する確立より、はるかに高いだろうと思えます。そんな危惧感は、示してくださった「1万年からの換算で23年に1度」を拝読し、さらに高まりました。

しかし、これは決して皮肉でも攻撃でもなく、このような憂慮する事態にありながら、政府与党の一員である公明党は、何等対策も講ぜず、自民党の原発マネー路線に足並みを揃えていることに深い憂慮を禁じ得ないのです。

144大勇者:2005/03/06(日) 15:08:54
>>143 犀角独歩さん
>原発マネー路線に足並みを揃えていることに深い憂慮を禁じ得ないのです。
仰る通りと思います。
現段階では政治や政府は、国益(企業)第一優先であるのは致し方ないかとも思います。
そこで、非政府組織であるNGO、NPO、CSOへの期待が高まるわけですが、
これは持論ですが(独歩さんに復怒られるかもしれませんが)これらの団体が決して非営利団体でなければならない理由はないと思っています。
商業ベースに乗って企業と提携しながら成長した勢力になっていく事が揚々実現への早道ではないかと思います。

145パンナコッタ:2005/03/06(日) 23:22:20
〉142 犀角独歩さん、自動車の排気ガスはまったく無頓着だったのでしょうか?

74年のマスキー法以来、常に排出ガス削減は開発エンジニアの命題です。
三元触媒や燃料噴射の電子化等で常に高いハードルをクリアしてきた研究者の
努力がある、という事を考慮の片隅に入れて置いてください。
無公害のガソリンの代替車の開発はしております。ただ、莫大な開発費とガソ
リンスタンドに変わる燃料インフラ整備などが流通の大きな妨げになっている
のが現状であります。燃料電池車がそうですが、エコビークルとしてLPG、
天然ガス、現実的なのはモーターとの組み合わせのハイブリッドなど。

主題からずいぶん外れているな。 無粋なツッコミ、ごめんなさい。

146犀角独歩:2005/03/07(月) 12:04:36

> 145

わたしの投稿の主意は、健康被害云々で喫煙ばかりを取り沙汰するが、排気ガス被害のほうが遙かに深刻であるということです。

147彰往考来:2005/03/09(水) 09:58:46
>146 犀角独歩さん、

7、8日と無理をして九州へ出張で、大したことにならず
無事帰ってきました。20日出席は問題なさそうです。

>健康被害云々で喫煙

本件、日本国政府がタバコ税の増税をする前になると、不思議
とテレビなどで、健康被害だとか他人のタバコが迷惑だとかの
キャンペーンが流されるんですよね。タバコ税の増税に不満な
輩は吸わなければよいといわんがばかりに。

ちなみに私はタバコを吸いませんが、吸ってる方はドンドン国
に税金を納めておられるのでエライなと思っています。私はこん
なこことで税金を払うのはまっぴらですが。

148犀角独歩:2005/03/09(水) 11:09:37

147 彰往考来さん:

> 7、8日と無理をして九州へ出張で、大したことにならず
> 無事帰ってきました。20日出席は問題なさそうです。

よかったです。インフルエンザでも出張ですか。たいへんですね。
ご無事で何よりでした。
20日のご発表、楽しみにしております。

>> 健康被害云々で喫煙
> …タバコ税の増税…前…健康被害キャンペーン

なるほど、この因果関係ですか。
納得できますした。

149パンナコッタ:2005/03/12(土) 20:11:28
信仰ということについて、ちょっと面白い考察があったので、載せてみます。

◇はるか古代には人間社会と神の社会派全く別個に、しかも神の社会の方がは
るか上位に存在し、人はただ神を恐れ、祭祀を執り行い、その怒りが軽いよう
に、われわれを苦しめないように、とオダてスカして、なんとか生き延びさせ
てもらってきたのじゃな。 〜 ところがそのうち、人間の生活技術が発達し、
ある程度の自然災害に対してもそれを防ぐことが可能になり、人々の意識が
”生き延びる”ということから”よりよく生きる”という方に向かい始めた
とき、神は”害を与えないよう願う”存在から、より積極的に”向上を実現
させる”手段へと成り下がった。つまりは人間の方が神より上位になったん
じゃな。 〜 牛馬と同じく、神は人間の道具に格下げされたわけじゃ。
▲神に供物を供える、というところからさらに一歩進んで、神をひどい目に
あわせ幸福を強要、という信仰方法もある。お地蔵さまに縄をかけて縛り、
功徳を願う縛り地蔵の風習は各地にあるし、なじみ深いところではあの選挙の
時のダルマの目入れ。あれも、最初ダルマに目を描かず、片方だけに目を入れ、
福をもたらしたらもう一方も入れてやる、という、いわば脅迫なのである。
                唐沢俊一著 「ウラグラ!」 より

どうでしょう、我々は敬っているように見えても実は人間以下の道具の使用
として、この信仰をしてたんじゃないでしょうか。”幸福製造器”なんての
はまさに典型的な例えでしょうし、道具以下ですからオカルト風味の歯や偽書・
偽史、といったものも躊躇無く受け入れて自分の派閥に肉付けしていったの
でしょう。

151空即是進化:2005/05/14(土) 00:31:45
 皆様、ご無沙汰してました。
 もっと自分自身のレベルアップを図ってから再登場しようかと思っていたのですが、
さっぱり研鑽も進まず、このままでは永久に出れなくなってしまう、などと考えてい
ました。
 ただ、板曼荼羅・学会へのこだわりが消えてしまった今、「本尊論」への興味が薄
れてしまっているのも事実でした。
 
 その中で犀角独歩さんの
 >本尊抄に「寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめたもう」
 この五字はしかし、問答さんがお示しのとおり、上行所伝付属です。
  では、この「授与」の二文字ですが、具体的には、どのように授与されるのでしょうか。
 すなわち、これがまさに漫荼羅の形で授与されるということではないでしょうか。
  実際のところ、漫荼羅には「授与」の文字を以て弟子・檀那に下されていったわけです。
  さらにこの漫荼羅図は実に懇切丁寧です。この妙法蓮華経が、どのような形で所伝された
 かを図案を以て説明されています。「南無妙法蓮華経」と大書され、それが多宝塔内の妙法
 蓮華経であり、釈迦・多宝は並座し、これを示し、付属弘通の四菩薩は釈尊の脇士として、
 その法が付属されたことを示します。その儀式が行われたのは在世八年八品に限ることは図
 示を見れば即座に理解できます。こうして八年八品において、四菩薩に付属された妙法蓮華
 経は、今度は、具体的に、その弟子檀那に、日蓮花押の認めを以て授与されるところが漫荼
 羅ではないのかと、わたしは考えるわけです。これはまた、末法法華経の行者の所持の法、
 事行の法が何であるかを明示された証文でもあるでしょう。
  ですから、漫荼羅は事行の南無妙法蓮華経の授与書ではないのか、となれば、これは、本
 門本尊の性質とは役割を異にしていると、わたしは考えるわけです。
 
 >「漫荼羅が授与書」、いわば允可、もしくは免許の意味がある

 これには、まさに‘目からうろこ’でした。弟子たちにとっては本尊代わりに唱題の対境と
しても使える、真に‘ありがたいもの’といったところでしょうか。
 まったく、独歩さんの進化には、驚くよりあきれています。

 ちょっとした疑問なのですが、授与書だとすれば、弟子たちの中には、複数の曼荼羅を下付
された方もいたのでしょうか?その訳は?(不勉強ですいません)

 ともあれ、「信仰は役に立つか」というよりは、‘何を、どうすれば’今ある信仰を役に立つ
ようにできるのか。探求していきたいと思います。

 14日のオフ会は残念ながら参加できませんが、次の機会に是非よろしくお願いします。

152犀角独歩:2005/05/14(土) 00:42:40

空即是進化さん、お久しぶりです。

わたし、呆れられているのですね(笑)

宮崎英修師の受け売りですが、『創価学会批判』のなかで、師が書いていたことですが、漫荼羅は1人1舗が原則で、ちょっと、拡大解釈すれば、複数でもらっているように見える場合、ほとんどが偽作というニュアンスとわたしは読みました。

また、是非、お運びください。
お会いできることを楽しみにしております。

153吉祥仙人:2005/05/15(日) 11:29:25
 >「なにを、どうすれば」今ある信仰を役立てられるか

 個人的リアリティーではない価値を出せと言われると、正直答えに窮します。

 日蓮大聖人はなぜ「文証・理証は現証にすぎず」とおっしゃられたのでしょうか

 この金言も「偽書」の中の御文なのでしょうか。

154犀角独歩:2005/05/15(日) 13:09:07

> 「文証・理証は現証にすぎず」

ではなく、「道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」です。

この意は、仏法をこころみるのに、道理と文章証拠にすぎるものはない。しかし、道理と証文があるからといって、実際の証拠がなければ理論・空文となる、故に道理証文が実際に証明される現証に過ぎるものはない、という意味でしょう。道理・証文を現証と比較して取捨しているのではなく、その三つ取りそろえて必要であると言っているのでしょう。文を改竄して、意を変えるべきではありません。

ここで、道理・証文がなくても、現証だけでよいという「個人的リアリティーではない価値」という考えは、むしろ、牧口値論の考えで、蓮師の法門とは関係のないものでしょう。たぶん、牧口さんは、自分の値論のこのような点に限界が感じ、大石寺に帰伏したのではないでしょうか。もし現証だけでよければ禊だけでもよかったわけですから。

155吉祥仙人:2005/05/16(月) 05:29:02
 犀角独歩さんへ

 ありがとうございました。

 「三証」についての学会教学は、やはり独自のものなのですね。

   >「改竄して、意を変える」

 厳しいご指摘です。ただし、たとえ牧口価値論だとしても、「宗教は現実の
人生に有意義でなければ存在価値は無い。」という考えに私は同意します。
 創価学会が社会に有意義な存在であることは、事実と思います。

156犀角独歩:2005/05/16(月) 07:04:06

吉祥仙人さん、わたしは創価学会の過去50年は、実は誤った器物崇拝、教義に基づいたけれど、実際のところ、数百万人の歓喜と実体験があったことを知っています。この観察を通じて「本尊が正しいから、教義が正しいから、所謂‘功徳’がある」という定義は必ずしも、そうは言えないということを知りました。

また、あなたのように創価学会が、功利的にはたらいた人とは裏腹に、たぶん、1千万規模で、創価学会のために時間と労力、財産を無駄にした人々もいるということも、よく知っています。この現実に眼を背けて、善いことばかりを喧伝するのは、事実と反します。

わたしは創価学会に35年いましたから、その善い面も悪い面も、表も裏も見てきました。
ですから、その公平な判断をここで考えたいと思っています。

しかし、少しの反省、見直しもせず、ただ善い面ばかりを書き連ね、弁明に終始するような態度は、外部からは受け入れられないということを、もっともよく知っています。これはどのような組織にも言える普遍の原理です。

あなたの投稿に対する態度が、以上の点から見直され、善い部分ばかりの一方的な通知ではなく、会構成員の責任として、、是正するべき点を積極的に考え、前向きに修正するための投稿であれば、ちゃんとした議論になっていくでしょう。

善い面ばかりを述べるのでは、無反省、無自覚の咎を免れないということです。

157吉祥仙人:2005/05/16(月) 22:49:00
 犀角独歩さんへ

 私が創価学会のよい部分を書き連ね、独歩さんが悪い部分を指摘することで
掲示板全体としては、バランスが取れているのではないでしょうか。
 私に犀角独歩さんと共同歩調をとれと言われても、やはり立場の違いという
ものが出てくるのではないでしょうか。
 この掲示板は創価学会を糾弾するものではないと理解しております。

158犀角独歩:2005/05/16(月) 23:02:37

吉祥仙人さん、わたしは、あなたと一緒にバランスを取ろうなどという気は毛頭ありません。
わたしはわたしで完結しておりますので、わたしが考える、創価学会の功罪両面を書きます。

だいたい、当板は、学会糾弾の場でないことはもとより、学会宣伝の場では断じてありません。
その点が理解できないあなたの非常識が受け入れられないことを気付けない点が鬱陶しいのです。

159パンナコッタ:2008/02/22(金) 16:14:23
 【法則1】 宗教は社会現象である。

宗教は、人間の相互作用(コミュニケーション)から生まれた社会現象である。
したがって、それぞれの社会・時代・地域によって、その内容は変化するものである。
  まず、宗教社会学の大前提からお話しましょう。
神の存在や宗教的体験についての意見は、大きく二つにわかれます。ひとつは、神のイメージや宗教的体験は、脳の中にプログラムされたもので、
実際には存在しないという立場で、これをかりに「唯脳論」(ゆいのうろん)と呼んでおきましょう。もうひとつの立場は、
「いや、神や宗教体験は実在する」というものです。これを「実在論」と呼んでおきます。
 さて、学問的に考えた場合、このいずれにも問題点があります。唯脳論についていえば、たしかに、宗教体験や神のイメージは、脳の中の構造と密接に関係があります。
しかし、人間が集団をつくって、それぞれの文化のなかで、さまざまな宗教を生み出していくプロセスは、単純に脳の中のプログラムに還元して説明することはできません。
また、実在論が主張する神の存在も実証不可能で、学問的な議論にはなじみません。
  そこで、第三の立場が求められます。つまり、宗教という現象は、人間の相互作用(コミュニケーション)から生まれた社会現象である、という見方です。
では、「社会現象」とは何でしょうか。「自然現象」と対比させてみましょう。
 テルテル坊主を作って、雨が降らないように願うことや、雨乞いの儀式をする、アフリカのある部族を想像してみましょう。いくら願おうとも、降るときは降る、
降らないときは降らない、というほかありません。人間の願いや祈り、思いや解釈は、直接、自然の動きには影響を及ぼしません。自然現象は、基本的には、自然の摂理にしたがって動いているのです。
しかし、「社会現象」、つまり人間の相互作用から生まれた現象は、さまざまな人々の思惑や解釈によって影響されます。宗教も、そのような社会現象のひとつであると考えられます。
したがって、人間が作った宗教は、人間によってになわれている以上、それぞれの社会、時代、地域などの状況に影響されて変化する、ということができます。
しばしば誤解されているように、ブッダやキリストの教えが、現代にそのままのかたちで伝わっている、などということはありえません。宗教は、必ず人間の相互作用の中で変化するものなのです。

 【法則1-1】

    宗教とは、本来自明ではない超自然的なものに関する事柄を自明なものに変換し、人々をそのようにふるまわせる社会的装置である。

では、「宗教」をどのように定義すればよいかでしょうか(実は、宗教の定義は学者の数だけある、といわれている)。一般の辞書類にのせられている定義の最大公約数をとれば、
「神仏などの超自然的な存在に関する教義・信仰・儀礼・組織」などということになります。
しかし、もうすこし別の角度から、宗教の本質に即した定義を考えてみると、【法則1-1】のようになります。 
神や(大乗仏教以降に神格化された)仏の存在やそれらによる救いは、もともと「自明」(あたりまえ)ではありません。しかし、宗教はそれを不問に伏して、自明のことにすることからはじまります。
また、人々も自明のこととしてふるまいます。
さて、このように人々の心やふるまいを、ある方向にむけさせる仕組みが宗教です。それは、人間が作り出したしくみ(装置)であり、その意味で「社会的」装置といえます。
  この宗教というシステムは、「ハードウェア」「ソフトウェア」「実践」の三つからなるといえます。「ハードウェア」と「ソフトウェア」はコンピュータの用語です。
MDをもっていても、MDプレーヤーがなければ音楽は聞けません。逆に、MDプレーヤーがあってもMDがなければ音楽が聞けません。
このように、ハード(ここではMDプレーヤー)とソフト(MD)は、常に連動しています。 ハードウェアとソフトウェアは連動し、ともに信仰に信憑性(もっともらしさ)をあたえ、
組織を維持するための「道具立て」の役割をはたします。そして、この両者をつなぐのが、人間の身体的な動作(実践)です。
 この図式にしたがうならば、新しい儀礼用具の導入は、そのモノに対する教義上の意味づけを必要とし、それが使用される儀礼全体のありかたや身体の動作も変化する。
逆に、思想面での変化は、その思想を補強し、信憑性をあたえるような場所やモノを必要とし、新しい思想に適合した儀礼の実践を生むことになります。
  (岩井洋 関西国際大学人間学部助教授 宗教の法則より引用)

160パンナコッタ:2008/02/22(金) 16:14:59
 【法則2】 宗教の中心は空洞である。
   神や仏がたとえ存在しないとしても、宗教という装置は成立する。
   重要なのは、神や仏が存在すると、人々に信じさせることである。

  一般に、「神さまや仏さまは本当にいるのか?」という質問がよくあります。
【法則1】ですでに述べたように、神や仏が存在するかどうかは、実証不可能なことです。
しかし、宗教というしくみは、神や仏がたとえ存在しないとしても成立するという、面白い性質をもっています。
  そこで、このしくみを、マジックミラーを例にとって説明してみましょう。
ある部屋に大きな鏡がはられているとします。AさんとBさんが部屋に入ってきました。Aさんは、すぐに人の気配と視線を察知し、部屋にはられている鏡は、
本当はマジックミラーで、向こう側では、きっと誰かが自分達を見ているに違いない、と考えはじめます。
Bさんも、しだいにAさんと同じような気配を感じるようになります。二人は、自分達が感じた気配を率直に語り合い、「キミもそう思った」「やっぱり、オレもそうだ」と、マジックミラーの存在に確信をもちはじめます。
 さて、この部屋の鏡は、本当にマジックミラーだったのでしょうか? 真相はわかりません。しかし、鏡がマジックミラーにちがいないという考えを、たがいのコミュニケーションを通して確信するようになりました。
そうなると、二人にとってその鏡は、「マジックミラー」以外のなにものでもなくなります。そして、二人は、マジックミラーの向こう側で自分たちを見ている視線を気にして行動することになります。
  「気持ち悪ければ、その部屋を出ればいいじゃないか」とおっしゃるかもしれませんが、これは、宗教のしくみを説明するためのたとえ話だと、単純に考えてください。
このような奇妙な例をあげたのは、ほかでもありません。人々が、コミュニケーションを通じて、あることを確信するプロセスを示したかったからです。マジックミラーの後ろにいる(と思われている)人間は、神や仏にたとえることができます。
 さて、ここで、部屋の鏡がマジックミラーであるかどうかは問題ではありません。二人がマジックミラーだと思いこんでしまえば、すくなくとも二人にとっては、それはマジックミラー以外のものではありません。
ということは、鏡の後ろに人間がいようがいまいが関係ないのです。「思いこみ」だけが一人歩きしはじめているのです。

 宗教の場合も同じで、かりに神や仏が存在しないとしても、人々が「いる」と確信することによって、宗教というしくみは作動しはじめるのです。
ここで重要なのは、一度「思いこみ」でできあがると、それが人々の「ふるまい」に大きな影響を及ぼすことです。マジックミラーの前の二人が、向こう側の視線を気にして行動せざるをえないように、
神や仏の存在を確信した人々は、その存在を疑うべきもないこととしてふるまうようになります。
  神や仏の存在に関する確信を強化し、さらにもっともらしいものするのが、【法則1-1】で説明した、「ハードウェア」と「ソフトウェア」の組み合わせです。
儀礼の荘厳さや、詳細な儀礼の手順、厳しい戒律、救われたという奇跡の物語、などなどが、信仰を強化することになります。
  (岩井洋 関西国際大学人間学部助教授 宗教の法則より引用)

161パンナコッタ:2008/02/22(金) 16:16:30
 【法則 4】 宗教は毒にも薬にもなる。
   すべての宗教は、人間の幸せを追求する。
   しかし、問題は、「幸せ」の内容とその追求方法である。
   信者の「幸せ」が、非信者の「不幸せ」になることもある。

地下鉄サリン事件をはじめとするオウム事件が明るみにでたとき、世間の反応として印象的だったのは、「人を幸せにするはずの宗教が、なぜ人殺しなどしたのか?」
「いや、あれは宗教などではない。殺人集団だ!」というものでした。しかし、この意見をそのまま鵜呑みにしていいものでしょうか、すこし考えてみましょう。
たしかに、古今東西のあらゆる宗教は、人間の幸せを追求してきました。しかし、「宗教が人間を幸せにする」というのは、宗教の一面でしかありません。特定の人々が、
「宗教」の名のもとに「幸せ」を追求することで、それ以外の人々とのあいだに葛藤を生みだすという側面も宗教にはある、ということを認識しておくべきでしょう。
「宗教は人間を幸せにするはずだ!」という固定観念は、宗教が関係した深刻な社会問題をあまり体験したことのない日本人にとっては、ある意味では当然のことかもしれません。
日本人が「宗教」というとき、暗黙のうちに、キリスト教や仏教をモデルにしているようです。これらは、(少なくとも日本では)事件を起こす可能性のきわめて少ない「おとなしい」宗教で、
比較的プラスの評価を受けているものです。しかし、歴史をひもとけばすぐにわかることですが、そんなキリスト教や仏教でさえ、それぞれの教えを追求する過程で、社会との葛藤を経験してきました。
そして、現にこうしているあいだにも、(単純に宗教だけが原因ではないにせよ)世界各地で宗教にかかわる紛争が続いています。
このようにいうと、世界で宗教紛争が起こっているのは、「宗教が本来の道からはずれて、間違った方向にいってしまったからだ!」などという人もいます。
しかし、「正しい道/間違った道」というものがあると考えるよりも、宗教は人間に救いをあたえる反面、人々を戦いへと向かわせるような力ももっていると見たほうが、はるかに現実的ではないかと思います。
 つまり、、宗教には人間をプラスとマイナスの両方に向かわせる二面性があるわけです。このことをふまえたうえで、「宗教は人間を幸せにする」というときに問題となるのが、
「幸せ」の具体的内容と、それを追求する方法です。
 たとえば、宗教Aはこう説く。「できるだけ質素な生活をして、毎日神に祈りなさい。そして、他人のために役立つことをするように、日々こころがけなさい。
そうすれば、平穏な人生と安らかな死、さらには来世での豊かな生活が保証されるであろう」と。
一方、宗教Bはこう説く。「この世の中は悪に満ちている。いくらわれわれが頑張っても、もはや救いようがない。神の命令にしたがって、今の世の中を徹底的に破壊し、
ゼロから人類をやり直すことが、人類を幸せにみちびく唯一の道である」と。この二つの宗教は、いずれも人間の幸せを説いているし、それをめざそうとしていますが、その方向性はまったく対照的です。
  この例は極端なものですが、いずれも現実に存在した宗教の教えです。このように、宗教が説く「幸せ」という基準も、ひとつではないのです。
また、「人間の幸せ」というときの「人間」とは一体誰のことなのか、ということも重要なポイントです。よく「信じる者は救われる!」といいますが、信じなければ「救われる」対象にはならないのが宗教の基本です。
信者でもない人間、つまり全人類までも幸せする、というふところの深い宗教は、それほど多くないのが現実です。逆にいえば、「救われる」という条件とひきかえに信者になったわけですから、このことは当然といえば当然です。
  (岩井洋 関西国際大学人間学部助教授 宗教の法則より引用)

162パンナコッタ:2008/02/22(金) 16:17:55
 【法則 6】 宗教組織が成功するカギは秘密の隠蔽と開示にある。
   およそすべての宗教にとって不可欠なのは「秘密」である。
   秘密を隠したり見せたりすることが、宗教組織が成功するひとつのカギである。
     
およそすべての宗教には、かたちはさまざまですが、なんらかの「秘密」があります。「秘密」といっても、聖典(経典)に隠された秘密や教祖だけが知っている秘密といった、
特定の人間しか知らない「知識」だけではなく、教祖だけがもっている超能力といった、特定の人間しか身につけられない「力」も含みます。
  秘密は人をひきつける魅力をもっています。よくある昔話を思い出してみてください。ある男が、「竹と梅の蔵はのぞいてもいいけど、松の蔵だけは絶対にのぞくな!」と主人に釘をさされ、留守番をまかされる。
しかし、のぞくなといわれればのぞきたくなるのが人の心。ついに松の蔵をのぞいてしまう。すると・・・。人間の深層心理をうまくあらわした昔話です。
宗教の場合も、秘密をつくっておくことで、人々をひきつけることができます。たとえば、修行しだいで超能力が身につくという宣伝文句は、人々をひきつけます。
超能力という秘密を知りたくて、宗教に足をふみいれる人もいるでしょう。しかし、それによって信者が集まりすぎるのも、また問題です。多くの信者がいっせいに修行をはじめると、
ある時点で、多くの信者が一定の超能力を身につけてしまいます。教団側も、信者のニーズにこたえるために、一定の修行をした信者には、ある程度の超能力が身についたとして、
それを認めてやる必要があります。これがなぜ問題かというと、「超能力のインフレーション」がおこるからです。
 お金がでまわりすぎると、お金の価値が極端にさがって、いわゆる「インフレ」になります。これと同じように、たとえ第一段階の超能力であったとしても、超能力者が増えすぎると、
超能力自体の価値や「ありがたみ」がなくなってしまいます。これが「超能力のインフレーション」です。そもそも人間は「限定商品」が大好きな生き物です。
「100個限定!」などといわれると、すぐにとびついてしまうでしょ。
そこで、教団側が何をすべきかというと、いうまでもなく、「インフレ抑制策」をとることです。
具体的には、茶道や華道の免許のように、資格制度をもうけたりして、修行の段階に応じて、超能力に位をつけるのです。
そして、第一段階から第二段階に昇格するためには、3年間の修行が必要で、その次の段階にいくにはさらに5年必要だ、という具合に、
なかなか昇格できないようにしておく必要があります。そうすることで、信者の競争心をかきたてることもできるし、
昇格した達成感と優越感は、さらに修行しようという意欲を生むことにもなります。
しかし、なかなか昇格できなくても、これまた信者の不満がつのることになります。そこで今度は、すこし規制緩和をして、昇格を簡単にする必要もでています。
つまり、宗教組織が信者をひきつけ続けるためには、規制と規制緩和、秘密の隠蔽と開示とを、うまくバランスをとりながらおこなうことが必要なのです。
 さて、「インフレ」の問題は、超能力を売り物にするような新宗教だけのものではありません。キリスト教のカトリックのような伝統的な宗教も、実は同じ問題をかかえています。
たとえば、「奇跡」をとりあげてみましょう。人々が「奇跡」と呼ぶような現象は、こうしているうちにも、世界中でおこっています。しかし、カトリックが「奇跡」として認めているものは、ほんのひとにぎりです。
自分が「奇跡」だと思えば、それは「奇跡」以外のなにものでもないはずですが、カトリックの世界では違います。現在、年間200〜300程度の奇跡がローマ法王庁に報告されています。
たとえば、聖母マリアが出現したとか、聖母マリアが血の涙を流した、などというものです。報告された「奇跡」の90%は、ただちに「インチキ」として除外され、残りの10%を法王庁が綿密に調査するそうです。
しかし、「奇跡」として認定されるのは、ほんのひとにぎりで、しかもその認定には、長いもので数十年の月日がかかるそうです。
 では、なぜこのような認定作業が必要なのでしょうか? もうおわかりのように、「超能力のインフレーション」と同じように、「奇跡のインフレーション」を抑制するためです。
あっちこっちで奇跡がおこってもらってはこまる。奇跡の価値や「ありがたみ」がなくなってしまうので、一定の基準にしたがって、奇跡を認定していく必要があるのです。
  (岩井洋 関西国際大学人間学部助教授 宗教の法則より引用)

163パンナコッタ:2008/02/22(金) 16:18:50
 【法則 7】 宗教の秘密はつくられる。
   宗教の秘密は、最初から存在するものではない。
   宗教組織や聖職者たちは、自分たちの地位を正当化するために秘密をつくりだす。
   宗教の秘密に中身がなくてもよい。中身があると思わせるだけでよい。
     
宗教に秘密が不可欠であることは、【法則 6】でお話しました。宗教自体が、なんだか秘密めいていますし、
聖典(経典)に隠された秘密がある、などときくと、宗教には最初から秘密が隠されていたのだと勘違いしてしまいます。
しかし、宗教の秘密も、そのときどきの事情によって、人間がつくりあげてきたものです。
 話をわかりやすくするために、古代の宗教を例にとってみましょう。古代において、さまざまな自然現象は、神の怒りや、なにか超自然的な力のしわざだと考えられていました。
 そして、わざわいを鎮めるのは呪術師や司祭といった聖職者の役目でした。人々は、彼らに頼るしか方法がなかったので、彼らのいいなりになって、いけにえを捧げたり、
 金品を奉納したりしてきました。聖職者たちは、右に三回、左に三回まわり、水を五回ふりかけて・・・と複雑な動作を器用にこなして儀式をすすめていきます。
 一般人にとっては、とてもその意味は理解できないし、また簡単にまねできるようなものでもありません。そのため、聖職者の権威は高まり、人々は彼らに従わざるをえません。
 つまり、聖職者たちは、自分たちの地位を高めるのに、まんまと成功したわけです。
しかし、聖職者たちの儀式の意味をつきつめて考えていくと、その多くには、ほとんど根拠がないことがわかってきます。たとえば、水を五回ふりかけなければならないところを四回ではいけないのか? 
聖職者は、五回でなければならない理由を長々と語るでしょう。でも、その多くはあとから考えだされた理屈です。とはいうものの、一般人にとってはわかりにくいだけに、
あいかわらず、「聖職者は不思議な力と秘密をもっている」ということになってしまいます。
 そうなると、秘密の中身はなくてもよい、ということになります。特定の人間が秘密をもっていて、われわれはそれを知ることができない、と思わせるだけでよいのです。
すでに【法則 2】でもお話しましたが、宗教の本質は、中心がたとえ空洞であっても、そこには何かがある、と人々に思わせることです。秘密の場合も、これと理屈は同じです。
さて、一般信者もバカではないですから、聖職者の知識に疑問をもちはじめることがあります。聖職者が一般信者に論破されるようなことがおこれば、その宗教組織はもうおわりです。
しかし、多くの宗教組織は、聖職者の地位を保護するような制度をつくりあげてきました。たとえば、神学校や学林といった聖職者の養成機関をつくり、聖職者になるためには、
そこで専門教育を受けなければならないという規則をつくることです。そして、そこでしか獲得できないような知識や技能をつくりだすことで、聖職者と一般信者との明確な区別をつくりだせばよいのです。
このように、宗教の秘密はつねに生産され、それを独占するような仕組みをつくることによって、宗教組織は聖職者の地位を安定させてきたといえます。
  (岩井洋 関西国際大学人間学部助教授 宗教の法則より引用)

164パンナコッタ:2008/02/22(金) 16:19:27
 【法則 8】 宗教にも免疫反応がある。
   異端の発生や異宗教の登場は、宗教を活性化させ、体系化させる。
     
一般に「免疫」は、人間のからだをバイ菌から守る仕組み程度に理解されています。しかし、本質的には、「免疫」とは、「自己」と「非自己」を区別する仕組みなのです。
免疫の仕組みを、臓器移植を例にとってみてみましょう。兄弟や親子の臓器なら、他人の臓器よりも移植がうまくいくと考えられがちですが、そんなことはありません。
人間のからだにとっては、たとえ兄弟や親子の臓器であっても、「自分のものはでない」という意味では、「他人の臓器」でしかありません。
臓器が移植されるときにおこる問題は、拒否反応です。つまり、からだが「自分のものではない」と判断すると、あたらしい臓器を「敵」だと思って攻撃しはじめるのです。
そこで、患者に免疫力低下剤を投与し、「自分」と「自分ではないもの」を区別をする能力を一時的に鈍らせて、新しい臓器が定着するようにするのです。
 ここまでは、われわれのからだの話。しかし、宗教にも、同じように「自己/非自己」を区別しようとする力がはたらいています。
たとえば、キリスト教における聖書の誕生をみてみましょう。イエス・キリストが紀元30年頃にはりつけになり、それから100年以上たったころ、マルキオンという男の一派が、
のちに「マルキオン聖書」と呼ばれる、現在の聖書の原型のまた原型をつくります。このことは、すでに【法則 5】でもふれました。
マルキオンという男は、実は「異端」として処罰された人物です。彼は、この世の中は悪に満ちている、だから禁欲せよ、と説きました。このどこが悪いのか? 
「この世の中は悪に満ちている」というのがよくない。「この世の中は神がつくられた。その世の中が悪いということは神が悪いということか」という三段論法です。
いずれにしても、異端とされた一派が、はじめて聖書の原型をつくってしまったわけですから、キリスト教の主流はあわてはじめます。そして、主流派も、自分達なりに聖書の編集に着手します。
 このように、宗教も異質なものの登場によって、自分についてあらためて考えるようになり、体制をととのえようとしはじめます。
このことは、日本の神道にもあてはまります。「神道」(「しんとう」と読んでください)は、日本古来の宗教であるといいますが、その教えは、最初から体系化されていたわけではありませんし、
自分たちの宗教が「神道」であると認識されていたわけでもありません。神道が自分たちの宗教に自覚的になったのは、仏教の登場以来だといえます。仏教が輸入された当初、
仏という外国の神がひとつ加わった程度にしか認識されていませんでしたが、仏教が勢力を伸ばすにつれ、神道側も体制をととのえる必要がでてきました。
そこで、教えや儀礼をすこしずつ整備していったのです。

  宗教は、異端や異宗教があらわれないかぎり、なかなか自分の姿をたしかめようとしません。
異端や宗教の登場で、あわてふためいて自分をふりかえる、というのが宗教の歴史において繰り返されてきました。
  (岩井洋 関西国際大学人間学部助教授 宗教の法則より引用)

165パンナコッタ:2008/02/22(金) 16:20:06
 【法則 9】 宗教には、「脅し」と「慰め」がつきものである。
   宗教は、人を慰めるだけではうまくいかない。
   時には、脅すことも必要である。

「脅し」などという言葉を使うと、なんだか物騒ですが、あえて使います。一般に、宗教は人の心をいやし、人を慰めるものだと思われています。
しかし、これも宗教の一面にすぎません。もし、慰め続けるだけだったらどうなるでしょうか? 人々は骨抜きになり、向上心をうしなってしまうでしょう。
 経済学者・社会学者のカール・マルクスが「宗教は阿片である」といったのは、実はこのことです(厳密には、すこしいいまわしが違いますが)。
マルクスは、宗教が人々の心を安らかにしていることも十分に理解していましたが、宗教によって、人々がいったん気持ちよくなってしまうと、社会を変えていこうという気がなくなってしまいます。
まさにその意味で、宗教は阿片みたいなものだ、というのです。
 さて、事実、どの宗教にも「脅し」の部分と「慰め」の部分が存在します。「アメとムチ」といいかえてもいいでしょう。なによりも、「天国と地獄」「極楽と地獄」などという考えかたが、それをよくあらわしています。
つまり、教えどおりの生き方をしないと「地獄に行くぞ!」と脅すと同時に、教えどおりの生き方をすれば天国や極楽に行ける、というわけです。これが、もし天国や極楽だけで地獄がなかったら、
誘惑に弱い人間を、品行方正にすることは困難だったでしょう。だから、地獄のイメージをできるだけ恐ろしく描くほうが、人々の行動を律するのに効果的なのです。
 社会学の古典として有名な、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という本には、こんなことが書いてあります。
自分が天国に行くか地獄に行くかは、すでに神さまによって決められている。そして、それを何人もかえることはできない。
このキリスト教のプロテスタントが説いた「予定説」と呼ばれる教えは、人々を恐怖のどん底におとしいれた。そこで人々は、自分は天国に行くように決められているはずだ、
と自分にいいきかせるために、勤勉に働き、禁欲生活をおくり、そのことが金もうけのシステム(資本主義)を生んでいった(かなり途中を飛ばしたので、くわしくは岩波書店から出ている翻訳か、
井上順孝編『現代日本の宗教社会学』世界思想社に書いた、作者の解説をお読みください)。このように、天国と地獄のイメージは、人々にひじょうに大きな力をおよぼすのです。
ちなみに、日本において、地獄のイメージがはっきりと描かれるようになったのは、平安時代に源信によって書かれた『往生要集』という本からです。

 ところで、どの宗教にも「脅し」と「慰め」があるといっても、行きすぎは問題です。昨今、問題になっているような宗教は、人の心のすきまをねらって、
不安をあおったあとに、「いや、でもウチの宗教なら救われますよ」となだめるわけです。これではあからさまですが、
いずれにせよ、宗教において「脅し」と「慰め」は車の両輪みたいなものだといえるでしょう。 
  (岩井洋 関西国際大学人間学部助教授 宗教の法則より引用)

166パンナコッタ:2008/02/22(金) 16:24:45
【法則 3】 宗教も進化する。
  宗教も、社会の発展とともに変化してきた。
  そして、それぞれの時代や社会のニーズに応えられない宗教は衰退していく。

宗教の起源については、従来から多くの説があり、これといった決定版があるわけではありません。
宗教がいったいいつごろから存在するのか、という疑問についても、よくある質問でふれたように、約6万年前のネアンデルタール人の化石から、
葬送のあとが発見されているものの、人類がいつごろから信仰や宗教らしきものをもったかという、明確な年代はわかりません。
とはいえ、理論的に考えて、直立二足歩行と大脳の発達、言語の誕生、道具の発明などが、宗教の誕生に重要な意味をもったということはできます。
 つまり、大脳が発達したことによって、人類は、目の前にないものを想像する力(イメージ能力)を身につけました。このことは、神という超自然的な存在を想定する、宗教の本質に大きく関わります。
言語の誕生は、主観的な考えを伝達し、共有することを可能にしました。さらに、道具の発明は、考えを具体的な形に表現し、伝達することを可能にしました。
このように、人類進化の過程のなかで、イメージ能力の発達とコミュニケーション技術の発達が、宗教の誕生に重要な役割をはたした、といってもよいでしょう。
 さて、人間が進化して宗教を生みだしたように、宗教も社会の発展にあわせて進化してきたといえます。では、どのように進化してきたのか。
それは、人間につきまとう「不確実性」、つまり、先行きの見えない不確かさに対応して、進化してきたといえます。
生命体としての人間には、常に不確実性(不確かさ)がつきまといます。その不確実性は、以下の三つに分けられる。
  自然的不確実性
   災害をはじめとする自然環境に関する不確実性。
   →いつどのような自然災害がおこるかわからない。
  社会的不確実性
   自己の社会的・経済的位置づけに関する不確実性。
   →いつどのようにして、社会的地位を失ったり、生活がかわるかわからない。
  根源的不確実性
   疾病・障害や老化・死に関する不確実性。
   →いつどのようなかたちで、病気にかかったり死んだりするかわからない。
 宗教は、これらの不確実性に対応し、それぞれの時代に姿を変えてきたといえます。原初の社会においては、自然的不確実性の度合いが高く、
自然の脅威を超自然的な存在によるものと考え、予測不可能な自然環境に対応する宗教のかたちが生まれました。たとえば、雨乞いや豊作・大漁祈願などです。
しかし、技術の発達とともに、自然環境の予測や制御がある程度可能になると、宗教も様変わりしてきます。社会の形態が複雑になると、社会的不確実性が増大し、
それに対応する宗教があらわれてきました。たとえば、ストレスの多い社会のなかで、いかに生きるのかといったことを教える宗教です。
 もちろん、自然環境に対する不確実性は常に存在しますから、このような移行は、不確実性に対するウェイトの置き方が変化してきたと考えたほうがよいでしょう。
また、根源的不確実性も、生命体としての人間には、常につきまといます。これについても、宗教は、病気や生死についての意味づけをあたえてきました。
また、人間がかかえる不確実性の変化は、生産技術の変化とも関わってきたといえます。狩猟・採集→農耕・牧畜→産業化という変化のなかで、不確実性のタイプも、「自然的」から「社会的」へと変化してきた。
以上のことを簡単にいえば、それぞれの時代や社会のニーズにあわない宗教は生き残れない、ということです。
    (岩井洋 関西国際大学人間学部助教授 宗教の法則より引用)

167パンナコッタ:2008/02/22(金) 16:25:08
 【法則3-1】 宗教は「ハードウェア型宗教」から「ソフトウェア型宗教」へと進化する。

 さて、人類史の大きな流れをみると、宗教を大きく二つのタイプにわけることができます。ひとつは、宗教が存在する根拠を「モノ」(物質)に求める宗教であり、
これを「ハードウェア型宗教」と呼んでおきます。もうひとつは、宗教の根拠を「情報」に求める宗教で、これを「ソフトウェア型宗教」と呼んでおきましょう。
仏教、ユダヤ教、キリスト教、イスラームなどの「世界宗教」と呼ばれるものに共通する点は、いずれも「教義」(教え)という情報に宗教の根拠を置いていることです
(このことは、小室直樹さんが『天皇の原理』文藝春秋社、1993、で指摘していることです)。
たとえば、ユダヤ教の場合、モーセが神から授かったとされる、十戒(十の戒め)が刻まれた石版を大事にしていました。それを「契約の箱」(アーク)と呼ばれるものに納めて、
神殿に安置しておいたのですが、神殿が破壊された際、どこかに消えてしまいました。それは現在も見つかっていません。だからこそ、スピルバーグの『インディージョーンズ:失われたアーク』などという映画が作られるのです。
もし、ユダヤ教が契約の箱を宗教の根拠とし、それにこだわり続けたとしたら、ユダヤ教はもっと違った姿になっていたでしょう。しかし、ユダヤ教は、契約の箱が失われたのをきっかけに、宗教の根拠を教えに置くという、
方向転換を行ないます。このことは、ユダヤ教にとって重要な展開であったと思われます。
 古代の宗教や「未開」の宗教と呼ばれるものの多くは、不思議な石や精霊が宿る木といった、モノを中心に組み立てられていました。そのため、もし、宗教の根拠になっている石や木が破壊されたり、
盗まれてしまえば、宗教は存亡の危機をむかえます。つまり、モノに根拠を求めるハードウェア型宗教は、ひじょうに弱い側面をもっています(ただし、生き残りの方法がないわけではありません。
ひとつの方法としては、宗教が根拠とするモノのコピーをつくり、それを教えと一緒に広めることです。これについては、また別のところでお話します。)。
 これに対して、情報(教義)に根拠を求めるソフトウェア型宗教は、持ち運びできるという情報の利点をいかして、広い範囲に布教することができます。ハードウェア型のように、「〜村の木」とか「〜寺院の石」といった、
特定の空間や場所にしばられませんから、活動範囲が格段に広くなります。
ただし、注意しておかなければならないのは、【法則1-1】でもふれたように、宗教にはハードとソフトの両方が必要です。だから、ハードウェア型からソフトウェア型への変化というのは、
ウェイトの置きかたが変化したといったほうが適切です。
  (岩井洋 関西国際大学人間学部助教授 宗教の法則より引用)

168パンナコッタ:2008/02/22(金) 16:25:37
 【法則 5】 聖典は一日にしてならず。
   宗教の聖典(正典)は、社会・時代・地域との妥協の産物である。
   人々のニーズにあうように、聖典は編集しなおされてきた。
     
われわれは、印刷文化になれしたしんでいるせいか、キリスト教の聖書をはじめ、宗教の聖典が最初から、一冊の本として存在したかのような誤解をしていることが多いようです。
しかし、おもだった宗教をみてみると、おおかたの場合、ひじょうに長い時間をかけて聖典が編集されてきたことがわかります。
 イスラームの聖典『コーラン』(クルアーン)の場合、比較的早い時期にまとめられていますが、キリスト教などの場合、現在の『新約聖書』の原型のまた原型となる、
『マルキオン聖書』と呼ばれるものが成立したのが、イエス・キリストが死んでほぼ100年以上たってからのことです。仏教のお経にしても、お釈迦さんがなくなってから、
しばらくは弟子たちの記憶力によって教えが維持されていましたが、文字に書かれたのは、かなり後のことです。よく誤解されていることですが、イエス・キリストは、
聖書に一言も自分で文章を残していませんし、お釈迦さんも、自分で書いたお経を残していません。
このようなことがなぜ起こるのでしょうか? 理由は三つほど考えられます。第一に、布教上の理由、第二に技術史上の理由、第三に組織上の理由、などです。
まず、布教上の理由です。ある人が神のお告げを受けて、それを広めようとしている場面を想像してください。最初から一冊の本をもってきて、「これを読め!」と大衆に叫んでも、なかなか読んでくれるわけがありません。
学校の教科書のように、それを読まないと勉強ができないとなれば話は別ですが・・・。それに、世の中にはさまざなな考えをもった人々がいます。もし、活字にしたものをもって教えを広めようとしても、
そのすべてが人々に受け入れられるとはかぎりません。それに、ひとたび文字に書かれたものは、なかなかあとで修正することができません。この手間は、新聞や雑誌が謝罪や訂正の広告をだすのを考えればわかることです。
 しかし、口頭の説教ならば、臨機応変に対応できるし、人々の反応もフィードバックできます。そこで、多くの宗教は、口頭による布教からはじまり、いわば「マーケティング・リサーチ」をしたうえで、
受け入れられやすい教えを編集し、最終的に一冊の聖典に仕上げていったということができます。

169パンナコッタ:2008/02/22(金) 16:25:57
 【法則 5】 聖典は一日にしてならず のつづき
 
次に、第二の技術史上の理由です。われわれは、紙に印刷された本になれていますが、古代にそんなものはありませんでした。最初は、粘土版・竹・木や、
「パピルス」と呼ばれる植物から作った、紙の原型しかありませんでした。パピルスは巻物として使われましたから、「一冊」という感覚はまだ芽生えていません。
次に登場したのが羊皮紙です。羊の皮と書きますが、実際には子牛の皮が珍重されたようです。この段階になると、すこしおりたたみができるようになり、冊子の感覚もでてきます。
さて、最終的に紙が登場したことで、現在のルーズリーフ・ノートのように差し替え(編集)の効率が良くなり、とじることも容易になったので、一冊という感覚が明確になってきます。
このような技術史的な変遷を考えてみると、「宗教の中心となる一冊の本」という感覚は、かなり後になって出てきたと考えられます。
さて、技術史的な背景について、もうひとつ付け加えておく必要があります。それは「異本」(variant)というものについてです。そこで、『源氏物語』を例にとってみましょう。
この小説は、いうまでもなく、11世紀に紫式部によって書かれたものですが、驚くべきことに、その原本はいまだ発見されていません。では、なぜ『源氏物語』が存在するかというと、
原本を書き写した「写本」がいくつも存在するからです。印刷技術が発達する以前には、人間の手によって、原本を書き写すしかなかったのです。
しかし、人の手によって書き写されていくうちに、いつしか原本の内容は変化していきます。これは写し間違いや意図的な創作によるもので、
場合によっては、登場人物の名前や筋書きまで変化するものもあります。このようにしてできた、原本とは異なる写本のことを「異本」(variant)といいます。たとえば、『源氏物語』の場合、
多くの異本が残されており、それらの情報を総合することで、成立年代や作者が判明したのです。
異本が多くなれば、それだけ十人十色に内容がバラバラになっていくようにも思われますが、実際には、内容の類似性から、いくつかの系統に分けることができます。
 さて、話を宗教にもどすと、原本から異本が生まれていく過程は、そのまま宗教の聖典が成立する過程にもみられます。
ユダヤ教やキリスト教などの聖典も、たくさんの異本のなかから文書が取捨選択され、ながい時間をかけて編集されて、「正典」にまとめられたのです。
ちなみに、「正典」とは、宗教の中心となる権威ある教義を、一定の基準にしたがってまとめたものです。
 さて、第三の組織上の理由についてです。世界の宗教の展開をみると、聖典が編集されるきっかけとして、ふたつの出来事があげられます。ひとつは創始者や教祖の死、いまひとつは、教団分裂の危機です。
創始者や教祖が存命中は、教えについてわからないことがあれば、師匠に聞けばよいのですが、なくなってしまえば、それができません。
そこで、教えが忘れられてしまう前に、一度まとめておこうという動きがでます。お釈迦さんの死後に行なわれた、世界史用語でおなじみの「仏典結集」などもそのひとつです。
このような動きには、教えを再確認すると同時に、間違った解釈が広がることを、未然に防ごうという意図もふくまれています。とはいっても、さまざなな解釈が出てくることを完全に抑えられないのが、宗教の常ですが・・・。
また、宗教教団がある程度成長してくると、かならず分裂騒動が起こります。その際に、自分達の信仰を再確認し、分派活動を抑制する意味でも、聖典の編集が行なわれます。
さて、以上のようにみてきますと、古代の教えが、現代に100%そのまま伝わるなどということは不可能に近いし、聖典は、それぞれの社会・時代・地域のニーズにあったように、
長い時間をかけて編集されてきた、ということがわかります。
  (岩井洋 関西国際大学人間学部助教授 宗教の法則より引用)

170顕正居士:2008/02/25(月) 04:35:27
信仰への誡め(『カーラーマ・スッタ』その他)

「何事かを信じてはいけない…
そう聞いただけの理由では。

伝承されて来たからといって伝統を信じてはいけない。
多くの人が語り広まっているからといって何事かを信じてはいけない。
聖典に記されているからといって何事かを信じてはいけない。
単に教師や長老の解説を根拠に何事かを信じてはいけない。
しかし観察し分析した後に理性に合致する事柄があればそれを受け容れ
全生類を善と福とに導く事柄があればそれに基づいて生活すべきである」

http://www.metta.lk/english/not_believe.htm

171顕正居士:2008/03/27(木) 20:27:42
信じてもいい理由と信じてはいけない理由  リチャード・ドーキンス

'and warn you against three bad reasons for believing anything.
They are called "tradition," "authority," and "revelation" '

「わたしはお前に何事かを信じる3つのよからぬ根拠について警告しよう。
それは「伝統」、「権威」、「啓示」と呼ばれるものである」

http://po3a.blogspot.com/2006/03/blog-post_114298809344017542.html


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