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富士山本門寺について教えて下さい
1
:
問答迷人
:2002/02/26(火) 13:51
1 名前: チョンガー 投稿日: 2001/01/21(日) 20:22
富士山本門寺は、王仏冥合を条件とする本門戒壇であり、その起源は古く千二百五十三年
の日蓮大聖人の立宗に始まり、その御遺命に従った直弟子、日目上人は後醍醐天皇へ度々
進言し、その宗旨を理解した、後醍醐天皇の勅願に依って開山された、仏教の結論である本
門戒壇の本門正宗である。
今日、西山・北山・池上・讃岐等の各山が本門寺号を名乗るのは後醍醐天皇の勅願
に依って当富士山本門寺が成立した事に依ってである。諸山は当本門寺の各坊して
の位置に在ったのであるが、この宮方の象徴的富士山本門寺は、程なく、駿河の守
護大名、今川義元による富士山本門寺本堂焼き討ち事件により、本堂を失い各山が
本門寺号を名乗る様になった。
以上、
http://www.alphatec.or.jp/~tochihal/index.html
#INDEXより抜粋。
実は本門寺、1631年に今川義元によって焼失させられた経緯があるんです。
それまで人々は現在の富士市の地名を取り「大石寺」と呼んでいました。
そう、大石寺と名乗るお寺さんがどうにも静岡の「富士宮市」にあるようですが、
本当は「富士市」になくてはいけないんですね。
まあ焼失の際、血脈が途切れたりしたら終わりだったんですが、小野寺左京さんが
大泉寺で本尊を守ってくれたからこそ、現在の本門寺があるわけです。
さて、ここから歴史のカラクリがあって面白いんですが、この焼失した大石寺に
目を付けた人がおりました。名前は「敬台院日詔」、徳川家康のひ孫娘です。
彼女は自分の夫を弔うお寺を欲しがっていました。
しかし当時、幕府は財政難だった事からお寺を新造する事を禁止していました。
しかししかし断る事も出来なかったんです。
この敬台院さんのお祖父さん、非常に徳川家に貢献した人でこの人無しでは
徳川家の繁栄はありませんでした。しかし結局は織田信長にいちゃもんつけられて
切腹させられてしまった過去があったんです。
頼みを断れない幕府は考えました。「そうだ!ウソウソ引越し作戦だ!」
そう「富士市」大石寺焼失の翌年、お引越しという名目で「富士宮市」に
大石寺という同じ名前の全く違うお寺が建てられたのです。 ありゃりゃん。
以上、
http://www1.linkclub.or.jp/~taji/kiji3/hon.html
より抜粋。
簡単に言うと、富士山本門寺とは、日目上人の折に後醍醐天皇の勅願に依って立てられた、本門の戒壇である、という事ですね。
西山・北山・池上・讃岐等の各山が本門寺号を名乗っているのは、富士山本門寺があってのゆえである。という事です。
戒壇の御本尊は、日蓮大聖人が弘安二年十月十二日如実に像にされた「本因妙大本尊」だそうです。
もし、富士山本門寺の主張が正しければ、
すでに、本門の戒壇は建立されているという事。
また、本門の本尊が、富士山本門寺にあり、
富士宮の大石寺にあるのは、本門の本尊とは違う、という事になります。
この、富士山本門寺について、ご存知の方がいらっしゃれば、
情報を教えて下さい。
2
:
バックアップ
:2002/02/26(火) 13:53
12 名前: 独歩 投稿日: 2001/01/28(日) 21:57
お邪魔します。
本門本宗の主張について、ちょっと、記します。
私はもうかれこれ20年ほど前、教祖が小野寺直と名乗っていた頃に初めて会いました。
そのためにその後、日了と名乗りだし、本門本宗を起こす歴史を時間軸で見てきました。
その経験から記します。
小野寺さんは、もう20年ほど前、たしかに、いま言っているようなことはすでに
言っていました。初めて紹介されたときは「実業家」というふれこみでした。
後醍醐天皇から拝受したという紫衣を見せて貰い手に取ったこともあります。
あの人は創価学会のある人間とデパート・松屋の外商・お菓子の榮太郎と組んで、
当時、まだ大石寺にあった御影堂売店にお土産の羊羹を売り出そうとしたことが
あったんです。この羊羹のパッケージの外装デザインに使われたのがなんと紫衣!!
商品名は「瑞鳳」。こんなことを知っているのは何人もいません。
正直、私は広宣流布にかかるはずの日目上人の、それも天皇から貰ったという紫衣を
パッケージデザインに使うっていうのはなんたることか!と疑問にもったものです。
そのようなことから多少、あそこの初期の内部事情を知っています。
彼が実業家で、売り込みを行う人であること、これは重要な点です。
まず、あそこの本尊は保田妙本寺の万年救護のレプリカです。これが本因妙大本尊の
正体です。
また、紫衣の信憑性は手に取った限り、ほとんどありませんでした。
あと、重要な点を記します。
あそこの主張では「小野寺さんは日目上人の末裔で、大聖人の仏法を受け継げるのは
日目上人の血筋の者」ということになっているんです。まあ日目上人は日蓮大聖人・
日興上人の流れから見るのではなく、大聖人から即行日目上人としたかったのは自分が
日目上人の末裔であるという伏線によるわけです。
ところがです。日蓮正宗では明治に至るまで僧侶は妻帯をしていませんでした。上代は
もちろんのこと、三祖が妻帯をしたことはないですし、子供がいたなんて話もない。
それなのになんで日目上人の末裔がいるわけがあるんでしょうか。
僧侶は子供によって継ぐのではなく、法統によって継ぐのが慣例です。つまり、日道上人
に継いだわけです。(これに異論を唱えたのが保田の基・日郷上人でした)
ああ、それなのに彼は自分こそ日目上人の末裔だというんですね。彼は当時、大聖人以来
の僧侶が妻帯をしなかったという基本的な事実を現代の僧侶状況と同じと見て、日目上人
末裔説を作ったわけでした。(そのあと、その事実に気付き、あれこれと論を取り繕い、現在に至っているわけですね)
もちろん、そんな事情を見抜かれて大石寺からは、御影堂売店で羊羹「瑞鳳」販売する
商売の話は一蹴されました。
組んでいた創価学会の人間は面目丸つぶれ。以来、日蓮正宗と創価学会への怨念は増した
のでした。
実業家が宗教の開祖になったわけです。そこで語られる本尊・教義・宝物、信憑性があるわけないと私は思うのです。
以上、これは批判などではなく、事実です。小野寺さん自身、この私の書き込みを読めば、
私が誰であるか、だいたいの予想はつくはずです。まあ、認めないでしょうけど。
3
:
管理者
:2002/02/26(火) 13:54
このあとのレスは省略しました。下記アドレスで、バックアップを閲覧できます。
http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/fujimonkeijiban.htm
4
:
いちりん
:2002/02/26(火) 13:58
ううむ。おもしろい話ですね。
いろんな方が、おいでですねぇ。。
「富士門流おもしろ人間図鑑」というスレッドがあると楽しい。
けど、荒れるなあ。中杉氏とが出てきちゃうし。。
5
:
tokumei
:2002/02/26(火) 22:56
小野寺氏の信者は海外でも増えつつあります。
十界互具ではなく四界本尊という触れ込みだそうです。どういう意味でしょう?
7
:
問答迷人
:2002/02/26(火) 23:23
バックアップ2において、
>まず、あそこの本尊は保田妙本寺の万年救護のレプリカです。これが本因妙大本尊の
正体です。
と、独歩さんが述べられていますが、その本因妙大本尊の裏銘文を、リンク集に載せておきました。
http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/new_page_26.htm
これを見る限りでは、日付と聖人の花押は、直筆の模刻、あとは、文字の傾きも違い、書体も違い、合成の様に思えますが、皆さんの御意見は如何でしょうか。なお、このの銘文は、本門正宗の信徒さんから頂戴した画像です。
8
:
いちりん
:2002/03/01(金) 00:18
北山本門寺の正式名称は「富士山本門寺」なのでしょうか。
大石寺は、たしか「多宝富士大日蓮華山大石寺」でしたか。
9
:
問答迷人
:2002/03/04(月) 11:09
いちりんさん
「富士山本門寺根源」が正式名称の様です。
http://www.ba.wakwak.com/%7Ehonmonji/ryakuzu.htm
13
:
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講(元富士山東光寺預かり信徒)
:2002/10/11(金) 14:49
富士山本門寺については画期的な研究が現宗研の石川師から発表されましたよ。
小野寺氏は北山にも出入りしていろいろ困ったことがあったんだよね。
14
:
菊水護国
:2002/10/30(水) 10:23
小野寺日了に告ぐ。
平成11年8月10日の、我らとの約束に従い、早く「法皇僭称行為」を中止せよ。
さもなくば、再び出向くぞ。今度は徹底して、街宣活動を展開するぞ。
HP上での事でも許さん。
15
:
菊水護国
:2002/10/31(木) 09:29
拝啓、小野寺さん。
以下の文面を、今年暮れに送る予定です。
小野寺さん、見てたら自ら、中止してください。
それまでに自主的に中止したら、書面は送りません。
「小野寺日了よ。
汝速やかに法皇僭称行為を止め、今上の帝に陳謝せよ。
貴殿の行いに3つの大罪あるなり。
本来、法皇号は一度皇位についたお方の称号である。
しかるに、貴殿は皇位についた事も無く、法皇号を僭称するは天皇を僭称するも同様なり。
また、皇位に着くには日嗣の皇子即ち皇太子の地位におつきにならねばならぬため、皇太子の僭称にもつながるなり。
貴殿経歴には南朝正当血統とあるが、日本国南北朝合一の砌、後小松天皇に天壌無窮の霊位が継承されたのである。
それ以来、天孫の霊位は今上の血統にあるのである。
皇位は血類で継承するのではなく、霊位を継承するのである。
だからこそ、桓武天皇五世の子孫でも、将門の行為は反逆なのである。
さらに霊位継承には、即位、大嘗の二礼を行わねばならぬが貴殿は何時、その二礼を行ったのか。
また皇太子には、桐壺御剣と皇位宣揚守曼荼羅の継承が不可欠であるが、貴殿にはそれがあったか否か。
さらに貴殿が出家を名乗るからには、得度の師匠が必要であるが、貴殿の戒師はだれか、度帳はあるのか。
すなわち貴殿は「法皇号」を僭称する故に「法皇、天皇、皇太子」の三称号の僭称を犯していることになる。
この行為は、天壌無窮皇国の歴史の中で、最大の大罪なり。
ここに、赤子菊水護国、国父今上の帝になりかわり、貴殿に宣告するものなり。
日了、速やかに法皇僭称行為を止めよ。
書面到着後一ヶ月以内に、法皇僭称皇位中止の期限を返答せよ。
返答無き場合は、中止の意思無きものとみなし、我が組織及び同盟友好組織一丸となり、
抗議活動を開始する。
この活動には一死かける故に、貴殿も一死をかけて返答されよ。
平成 年 月 日
政治結社○○ 主催 菊水護国。
16
:
菊水護国
:2003/02/03(月) 10:30
最近、あまりにも馬鹿馬鹿しくなって、私は彼の事には既に手を引いたのですが、彼の御仁は未だに「日了法皇」と名乗っているようです。
ただし、書籍は「小野寺直」であり、中には「小野寺直識」とあります。どれが正式氏名なのか。
ところで、彼は、僧侶なのか在家なのかさっぱりわかりません。
僧侶なら「剃刀の師匠」は誰なのでしょうか。それとも実は在家なのでしょうか。
もし僧侶であり、法名が「日了」なら、既に捨て去った俗名を書籍上用いるのは不当ですし、ああ、分からん。
17
:
犀角独歩
:2003/02/04(火) 09:01
違う違う菊水護国さん。
小野寺直識は「小野寺直 識(しる)す」と読むんでしょうね。
ただ、続けて書くのは変で、名と「識」は少し間を空け記し、字の大きさも変えるほどの配慮は必要です。そうなっていなければ、名前と間違えられても、たしかに仕方がないですね。
18
:
菊水護国
:2003/02/04(火) 10:31
ははは、そうだったんだ(爆)。
でも配置からすると、そう読めたんですがね。
いずれにしても、俗名を使ってることは確かでしょうね。
19
:
犀角独歩
:2003/02/05(水) 21:24
> 18
俗名というか本名(笑)
だって、坊さんじゃないでしょう。
羊羹、いまでも好物?
榮太郎は喰わないか(笑)
20
:
日蓮信者
:2003/04/01(火) 19:42
手元に、昭和61年に出版された『大本尊ふたたび出現す』玉井禮一郎著と云う本があります。
著者の玉井氏は昭和29年に日蓮正宗に入信、昭和36年に創価学会に入会という信仰歴の長い人ですが
小野寺日了にだまされ、本因妙大本尊を信用して、提灯持ちの本を出版し、本門正宗機関誌『後醍醐』の
編集長もしました。
後に、玉井氏は小野寺日了とは断絶し、自分がだまされた原因と彼のもつ経歴のいいかげんさを
暴露した小冊子を発行しました。
それによれば、本門寺の日蓮聖人『生身の御影』は、以前は禅宗のものとして使用していたとか
小野寺家も代々、禅宗で日目上人とは関係無いとのことです。
しかし、信仰歴も長く出版を手がけている玉井氏をコロッと欺けるというのは、なかなかのものと
いえるかも知れません。
玉井氏によれば詐欺師に騙されたという事のようです。
21
:
本門正宗を斬る(顕正会)
:2003/08/28(木) 00:16
①「本因妙大本尊」の誑惑
小野寺の誑惑の最大なるものは、大石寺にまします「本門戒壇の大御本尊」を否定せんとして、「本因妙大本尊」と称する贋造本尊を建てたことである。
この贋造本尊は、大聖人が文永11年12月に御書顕されたいわゆる「万年救護の御本尊」(保田妙本寺蔵)を板に模刻し、裏書を大聖人の御筆跡に似せて書き入れたものである。
この贋造「板本尊」について小野寺は
「末代に之を残さんが為に大聖人はこの紙本の『大本尊』を板に彫され弘安2年10月12日、『令法久住』の為に開眼して、『板の大本尊』を『本因妙大本尊』と御自ら称せしめられたのであります」
また
「日蓮大聖人は弘安2年10月、日興上人に法の内付属に当たってこの大本尊を自ら板に彫し『勅宣・御教書』を得て『本門寺』を建立し、この『大本尊』を『冨士山本門寺』の本堂に奉安置し、末法尽未来際救護の根本本尊をしなさいと、御付属さあれたのであります」
22
:
本門正宗を斬る(顕正会)
:2003/08/28(木) 00:19
また
「日蓮大聖人御自ら和泉公日法師を助手として板に彫され、弘安2年10月12日開眼供養の大御本尊」
などと妄語を並べている。一読、これが大石寺に「戒壇の大御本尊」に関わる史実・いわれ等を盗み”スリカエ”た「作り話」であることは。大石寺の信徒なら誰でもすぐわかろう。
この「本因妙大本尊」なるものが、真っ赤な贋造物であることを、以下立証する。
(一)道理
①そもそも御真筆御本尊の模刻などということは、後人のなすことであって、御本尊の当体そして御書顕の本主にてまします日蓮大聖人が、どうして模刻などをなsる必要があろうか。
ゆえに、もし文永11年12月の御本尊が、小野寺の云うごとく「本門の事の戒壇の大御本尊の『設計図』」(後醍1号)ならば、その「万年救護本尊」を直ちに板に御みずから認められるべきで、5年後
大聖人が模刻するなどということは、絶対にありえない。
いわん文永・建治の御本尊は未究竟である。弘安2年に至って未究竟の本尊を模刻して「出世の本懐」などと、大聖人がどうして仰せられようか。
②もし、「本因妙大本尊」なるものがそれほど大事な本尊ならば、必ず代々にわたって厳格に付嘱護持されるべきである。しかるに500年もの間も行方不明、かる出所も曖昧などという事自体、誑惑たることを物語っている。
「井出の御洞に隠されたのではなかろうか」(大本尊再び出現す<以下「再現」と略称>156頁)などの作り話は、まさに弘法の「三鈷」の誑惑と同類である。
23
:
本門正宗を斬る(顕正会)
:2003/08/28(木) 00:20
(二)文証
「本因妙大本尊」なるものには、その存在を証明する文証が全く無い。
謗書には「この本門の大御本尊の相続無くしては日蓮大聖人の血脈相承は有り得ない」
などと云って、その血脈を日興上人・日目上人・日道上人、そして日郷・日伝・日宣等と立てているが、興・目・道の三師にその文証がないのは当然であるが、郷・伝・宣等の邪師にもその記録が全くない。
24
:
本門正宗を斬る(顕正会)
:2003/08/28(木) 00:21
「日興跡条々事」を曲会
小野寺は、「『日興が身に宛て給わる所の弘安2年の大御本尊は日目に之を授与す。本門寺に懸け奉る可し』と記され」などと、あたかも「日興跡条々事」の御文における「弘安2年の大御本尊」がそれに当るごとく書いているが、この厚かましさは、「精神鑑定」の必要すら感ずる。
文永11年の御本尊を模刻した「本因妙大本尊」なるものが、どうして「弘安2年の大御本尊」と云えるのか。汝はこの御文の意を盗み取るべく、贋造本尊の彫刻・開眼の日付を「弘安2年10月12日」としたのであろう。
25
:
犀角独歩
:2004/08/24(火) 09:14
『蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について』287の空き缶さんの投稿でも取り上げられている万年救護本尊の石碑を見てきました。これは「本因妙大本尊」作成に当たって拓本を取った素と言われたものです。東京谷中・領玄寺にひっそりと建っています。
領玄寺・万年救護本尊石碑
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/ryogenji_mannenkugo.jpg
石山・大講堂安置本尊も万年救護本尊でした。
この大本尊の珍重は大したものです。あちらこちらに写しがあるのですね。
これは妙本寺の中世の運営となんらかの関係があるのでしょうか。
それとも、他で写しを持っていたところが、それを元にした模写をさらに濫用した結果なのでしょうか。
関連するかどうか。ここ22の書き込みで本門正宗を斬る(顕正会)さん(はじめまして)が「そもそも御真筆御本尊の模刻などということは、後人のなすことであって、御本尊の当体そして御書顕の本主にてまします日蓮大聖人が、どうして模刻などをなsる必要があろうか」と書いておりますが、至極尤もなご意見であろうかと思います。
顕正会員でありながら、本尊彫刻を否定するということは彫刻である「本門戒壇之大御本尊」も否定することなのでしょうから、ご立派なご意見であると思った次第です。
26
:
藤川一郎
:2004/08/24(火) 11:44
独歩さん
横レス失礼します。
この21から24の見解は全て、浅井さんの「叱咤痴犬抄」の引用であります。
独歩さん御指摘の部分も浅井さんの文章そのままです。
ですから、この見解は浅井さんの見解ですので、顕正会員としては当然の御意見でしょう。
27
:
犀角独歩
:2004/08/24(火) 12:04
藤川さん、お久しぶりです。
そうですか。浅井さんは彫刻模刻反対論者だったわけですね。
そうなると丸木楠板彫刻「本門戒壇之大御本尊」を否定する言辞を吐いていたと言うことですね。これはこれは味わいのあるお話を承りました。
有り難うございました。
28
:
藤川一郎
:2004/08/24(火) 12:53
そもそも最近の顕正会員は「板で彫られた御本尊」があることすら知らない。
また、戒壇の御本尊が板であることすらも知らない。
浅井さんがどんな言説を述べようと顕正会には全く打撃はない。
以上、大爆笑な現今の顕正会を申し述べました。
29
:
犀角独歩
:2004/08/24(火) 13:26
> 顕正会員…戒壇の御本尊が板であることすらも知らない
これはそうですよね。
知り合いの日蓮宗僧侶のところに現役の顕正会員がやってきて「国立戒壇、戒壇の大御本尊」とあまりにうるさいので、わたしのサイトにアップしてある該当の写真を見せたそうです。
そうしたら、その顕正会員曰く「なんですか、この真っ黒い写真は!」
で、「だから、それが、君らが言う『戒壇の大御本尊』だろう」
「へっ? これなんですか…」と呟いて帰ってしまったとのことです。
拝したこともないものを信じさせられている彼らの頭の中の「戒壇の大御本尊」というのはどんなふうにイメージされているんでしょうか。
30
:
犀角独歩
:2004/08/24(火) 13:29
ここは小野寺さんのことを記すスレッドでした。失礼しました。
もっとも本因妙大本尊の基の石碑を実見すると、見てみなくても、誤謬に変わりなしという感慨を懐かざるを得ませんが。
31
:
ラスカル
:2005/12/10(土) 16:09:37
ちょっと横レス失礼します(といっても一段落?)いろいろなスレッドを少しずつ読んだのですが、「三大秘法」と「戒壇堂」は違うと言う事で宜しいのでしょうか。一大秘法を三大秘法(本門の)本尊・題目・戒壇の南無妙法蓮華経と読み、具体的な信・学・行の対象に準えると、五百塵点成道・久遠実成のシャクソン〈本仏を顕す仏像〉【人本尊】・法華経の五字(七字)【法本尊】・十界漫陀羅【人法一箇】が宗旨の核心と考えてよいのでしょうか。
32
:
ラスカル
:2005/12/10(土) 16:15:59
宗旨というのは、鎌倉時代の僧・日蓮の教えを「肝要」に見れば、と言う意味でお願いします。
33
:
犀角独歩
:2005/12/10(土) 16:25:59
ラスカルさん
> 「三大秘法」と「戒壇堂」
違います。三大秘法とは、日蓮の真偽未決書での成句です。
一大秘法は日寛の造語です。
開合六秘といいます。本門本尊に人と法、本門題目に信と行、本門戒壇に義と事。
一般的な戒壇は理と事といい、理は理論上、事とは築壇、建築される戒壇の建物をいいます。
> 宗旨の核心と考えてよいのでしょうか
ラスカルさんが記したことは、日寛以降の大石寺の考えです。
ここでは本門本尊を衷心と考えますが、一般的には本門題目が、ということになります。
34
:
ラスカル
:2005/12/10(土) 16:54:55
返答ありがとうございます。日寛教学と言う事は、日蓮在世の当時は、理の一念三千、事の一念三千、【仏】五百塵点成道・久遠実成シャクソン、【法】法華経五字(七字)【僧】法華経の行者(日蓮) 三宝の僧は「サンガ」といって、出家者とか信徒の集まりを表わしていると聞いたことがありますが。三宝というか本尊、教義、修行方法を考えようとすると何を鑑みて判断すればよいのか。という疑問になりました。
35
:
犀角独歩
:2005/12/11(日) 08:49:14
ラスカルさん
次々と疑問を持たれること、たいへんにけっこうだと思います。
思えば、わたしは、中学2年の時、初めて教学試験を受けて依頼、ずっと教学を考え続けてきました。いまは創価学会、日蓮正宗から、遙か遠くまでやって来ましたが、それでも考え続けています。40年の歳月が流れたことになります。
疑問を持ち、その解を得る、すると新たな疑問が涌き、また、解を得…、この繰り返しによって、時には難解な茨の樹海に迷いこともあります。
わたしがここの掲示板に来てから5年の歳月が過ぎたのだと思います。
先駆の問答さんが提示する疑問は新鮮でした。信仰者として、機械的にタブー視される本質をズバリと切り込んでいました。ここでの熟考は、多くの示唆と解をわたしに与えてくれました。また、出会えた多くの人々から、多くのことも学べました。
もし、この掲示板がなければ、わたしの解を得る速度は、それまでと同様、もっと遅々としたものであったでしょう。
しかし、反面、解を得る他面、また、応答をするために記した文書量にいや増して倍する読書量は、学生時代と比べものになりません。わたしは学生時代、年間100冊を目標にしていましたが、その頃の入門書の類に比し、ここでの議論で必要な文献は、実に濃厚で難解なものを手に取らなければなりません。わたしの知る限り、三学無縁さんは2トントラック2台分の書籍を蔵していましたし、彰往考来さんは、ご本人のお仕事の関連を除いて、石山に係る書籍資料だけで500冊以上を蔵し、読破されているとのことでした。
一字三礼さん、れんさん、独学徒さん、また、その他の方々も多くの資料を蔵され、何より、それをコレクションとするのではなく、熟読玩味し、自分なりの解を得続けておられます。顕正居士さんという賢哲のご参加も得、問答さんが運営されるこの掲示板は、まさに歴史的現場となっています。
余計なことを記しましたが、「千里の道も一歩から」と言います。
わたしもかつて歩いた道です。受けたご質問に関しては、出来る限り、お応えすることといたします。
> 日蓮在世の当時は、理の一念三千、事の一念三千
まあ、この点は、これでよろしいかと存じます。
三宝の整理の仏・法は、そのとおりでしょうが、僧については、教学的な態度からすれば四菩薩、法師等と考えられますが、門派意識としては、かくの如きであろうと思います。
> 三宝の僧は「サンガ」といって、出家者とか信徒の集まりを表わしている
サンガ(sanga)は僧伽と漢字で充てられ、集まりを意味しました。その僧だけが独立して出家者を指すようになりました。しかし、元来は四部衆といい、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷=男の出家者・女の出家者・男の在家信者・女の在家信者を言ったものです。
> 本尊、教義、修行方法を考えようとすると何を鑑みて判断すればよいの
これは確かに大問題です。
何度も繰り返し記してきたことですが、たとえば初期天台文献には本尊という語はありません。日蓮が言う場合、台密から、真言の影響の系譜があるのでしょう。
天台の段階ですら、本尊義はないわけです。ですから、元来、本尊と法華経は結びつかないものなのですが、日蓮、ひいては、この門派においては、本尊は重大な意味を有しています。教義も同様で、ことに日寛以降に創案整理された日蓮本仏論は移植を放っているわけで、ここに勝劣意識が発揮されることによって現在の有様があります。
修行法は、もちろん、この門派では、唱題に勝るものはありません。
しかし、修行は修行をして何をするのかという社会における存在価値が問われるのが現在です。また、信仰集団の有様を見ていくと、会活動そのものが、修行であるかのような論調であり、ここでは本来の修行の有様は喪失しています。
なお、一念信解を、ただ言われたとおりに信じ込めばいいという出鱈目な教え込みは、会員の思考能力を閉塞し、奴隷にする悪しき教義となっています。
一念信解とは、あなたが、ここで繰り返し、行っているように疑い考え、問い、聞き、考え、また、学び、そして、唱え、人のために役立ち、そのような繰り返しのなかで、漸くとたどり着ける一分の信、わずかな解をいいます。この信解は集団組織のなかで指導者の話を聞いて、即座にわかった気になるような感情とは、根本的に意味を異にしています。
36
:
犀角独歩
:2005/12/11(日) 08:55:13
【35の訂正】
誤)解を得る他面
正)解を得るために
誤)移植を放っている
正)異色を放っている
37
:
ラスカル
:2005/12/11(日) 10:56:39
犀角独歩さん、ありがとうございます。霧がかった道が開けるように諦めないように頑張りたいです。私の宗祖大聖人との縁は創価学会で、座談会にちょこちょこと顔をだしてました。小さい頃の話です。時を経るに連れて学会から離れる存在になり幽霊会員になってしまいました。自分の努力の足り無さがあったのでしょうが、反創価学会の人々の書き込みを見ると全体的に何かしらの違和感を感じて不具合になる人々が多いみたいです。私は霊感など超能力は鈍い方ですが社会の関心はいろいろなヒトの内面・現象にあって創価学会も変容してきたのかもしれません。迷ったら原点へ帰れというような言葉がありますが、いろいろな人の書き込みを見て人生修行の研纂に役立てれば良いなと思います。
38
:
犀角独歩
:2005/12/11(日) 11:09:17
ラスカルさん
> 諦めない
そうですね。それはとても大切なことです。
> 反創価学会の人々の書き込みを見ると全体的に何かしらの違和感を感じて不具合になる人々が多いみたいです
そうでしょうね。かつて、わたしも感じたものでした。
それが反学会の立場になると、まったく逆に見えるようになるから不思議です。
さらに学会でも、反学会もなくなると、両方を違和感と思え、さらに進むと、かつて通った道だなと思い出になります。歩んでいく先は見えないものですが、歩んできた道は認識できます。宗派はまるで違いますが、わたしの好きな青木新門さんは半歩先行く人がいちばん頼りになると記していました。
なんなりと、お気軽にお尋ねください。
39
:
ラスカル
:2005/12/11(日) 12:07:56
お気遣いありがとうございます。でも、議論は無理がでるので質疑応答のスレッドを立てた方が良いでしょう。
40
:
犀角独歩
:2005/12/11(日) 12:11:48
ラスカルさん、「素朴な疑問」は、そのためのスレッドです。
41
:
天蓋真鏡
:2007/01/22(月) 12:35:35
「束力原頁」?、建武の新政もいろいろ大変だったらしいです。後醍醐天皇が密教の加持祈祷をしていたのは事実なのでしょう。21世紀にあっては三国四師等日蓮の法門の大系を纏め信者学者行者の理解を得る事が住持などの責務ではありませんか。
42
:
素朴
:2007/01/23(火) 14:58:12
本当に素朴な疑問ですみません。ご教示頂ければ幸甚です。
道郷問題において石山の主張は理解しておりますが、保田側の見解はどうなんでしょう。
以前、某冊子において保田側の資料を一部公開しておりましたが、
内容的には、目師は郷師を大変信頼なされており、郷師に会いたいと恋慕の情を募らせていたと
いう内容を読んだことがあります。私にはその目師の手紙の真偽もわかりませんし、
目師がどのように郷師を思われていたのかも不明でございます。
どなたがご教示いただけませんでしょうか。
43
:
顕正居士
:2007/02/16(金) 17:52:41
道郷両師とその後継者・後援者による大石寺領をめぐる百年紛争の経過については
2ちゃんねるに昨日、妙本寺文書に基づいた、よくまとまった投稿がありました。
80-82番
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1169849897/l50
44
:
犀角独歩
:2007/02/17(土) 09:29:08
顕正居士さんのご紹介、閲覧しました。
たしかに、よくまとまっていますね。
45
:
れん
:2007/02/17(土) 10:45:34
日道が石山に押し掛けたという同時代の記録はないですね。日道は南条館の後身である下之坊に住していたのが同時代の記録に見えます。房山日伝師の石山図には石山西坊地は南条時光の子息南条左衛門三郎から日行が相続した旨が記されます。日道の時点では石山に関わってなかった。つまり、実質的に争論を行ったのは、西坊地を得た日行と東坊地の支配者たる日郷師門下という構図であったのでしょうね。
ただ、日目より最後の自筆漫荼羅を授与された日盛の日目滅後の事績が分明でないのは後の日道門下により事績が消された可能性もあるのではと愚考します。
46
:
独学徒
:2007/02/17(土) 14:27:34
2チャンネルの記事拝見しました。
どなたかは存じませんが、顕正居士さんが評価されるだけの事はあるのでしょうね。
係争の流れは理解できるのですが、何故、郷門が御影を遷座したのかがわかりません。
文献上は日時は、御影の返還は要求しましたが、所謂「万年救護大本尊」の返還を求めたことは聞き及びません。
また、日時が御影の返還を求めたのは小泉久遠寺に対してであり、中谷山妙本寺ではありませんね。
複雑ですが、この係争は目師の後継者がどうというものではなく、「大石寺」という建物・土地の相続権争いということではないのでしょうか。
そうでなければ、日郷が日伝という稚児貫首を次に指名する理由がありません。
日伝は稚児貫首ですので、日伝の文書がどこまで信憑性があるかは疑問が残ります。
西坊地の初代支配者は日興であり、東西の坊地の主が東=日目、西=日興というのが、興風談所の見解であったと思いますが、この二仏並座ならぬ二師支配制が妥当な見解であるとすれば、西坊地の相続は日興⇒日代⇒日行という系図が考えられると思います。
ただし、日代と日行の間に、代官として日道が関わった可能性はあると思います。
かたや東坊地は、日目⇒日郷⇒日伝ですが、実際には日目⇒日仙(代官)⇒日郷⇒日賢(代官)⇒日伝となるのだと思います。
日代日仙の問答を契機に、東西統一貫首の必要性が求められ、係争が勃発したと考えれば、大石寺の主住争いの中身は本尊やら相伝やらではなく、建物・土地の支配権の争いということだと思うのです。
47
:
れん
:2007/02/17(土) 16:39:30
独学徒さん
大筋で独学徒さんの仰る如くと存じますが、一点だけ疑点を申し上げれば、西坊地の初代支配者が日興というのはやや違うのではと存じます。というのも、日興や日目への南条氏よりの石山の不動産の正式な寄進状や譲状はありません。その点では日興や日目やその門弟は“管理人”ではあっても「支配者」ではなかったでしょう。石山の西坊地は時光から庶子の左衛門三郎へ、東坊地は時光から時綱へ相続され、興目両師の死後、それぞれ日行と日郷に寄進されたという流れだと思うのですが?
48
:
犀角独歩
:2007/02/17(土) 18:24:14
独学徒さん
れんさん
石山を日興・日目が2分していたというのは信憑性のあることなのでしょうか。
興風の文書理解というのは、基本的に日興正嫡、興目相続、日蓮本仏、彫刻肯定という臭みがあって、危なっかしくて、無批判に採用する蛮勇が生じません。
重須に檀所を構えたわけですから、日興はここが本拠で、特に石山に拘る理由はないように思えます。執行師だったか失念しました。日興は身延で地頭と不和で山を下り、上野に着くも、ここは日目が主で休まるところではなく、ようやくと安堵したのは重須であったという記述を読みました。要は南条という地頭は日目とのつながりが強く、実質的中心者は日目で、日興はお飾り的な閑職となり不快な面持ちであったのが石山という場所であった。となれば、そこを2分するほどの力もなかったように思うのですが、この点はどうでしょうか。
49
:
独学徒
:2007/02/17(土) 19:27:21
犀角独歩さん、
れんさん、
ご意見ありがとう御座います。
私の投稿は少々乱暴だったと思います。
私は大石寺の歴代に、日郷や郷門僧の入る余地は無いと思っています。
当然、大石寺が正統な日蓮の血脈を伝えるだとか、彫刻が出世本懐などという議論に同調する気はさらさらありません。
しかし、たとえそれが横領であったとしても、裁判の結果だったにせよ、東西を最初に知行したのは日行であり、そして正式に裁判の結果知行することになったのは日時である事は、妙本寺文書からも明らかです。
ところが郷門は、あくまでも東坊地の知行を争論したのであって、一度たりとも西坊地の知行に乗り出していないし、実際知行もしていないと思います。
ある意味、郷門は東西はそれぞれの当主によって納められるべきといった、二当主制を支持していたように感じます。
西坊地側は、日代の退出の悲劇もあって、東西を統一した知行者を立てるべきと思っていたのかは分かりませんが、実際問題として、東坊地の知行に乗り出しているわけです。
私は大石寺が正しい云々の議論ではなく、大石寺の歴代系譜は、現在大石寺が主張している通りで良いと思います。
日蓮から日道は勧請歴代で、日行が実質的な初代当主だろうと思っています。
繰り返しになりますが、そこには日郷や郷門僧の入る余地は無いと思います。
「2ちゃん」での日郷が大石寺の第4世だなどとの議論は、私からしてみれば的外れな議論だと思います。
50
:
れん
:2007/02/17(土) 19:36:19
犀角独歩さんの仰るとおりですが、さらに言えば、南条氏は石山の主僧と目された日目にすら石山の不動産を譲渡することが出来なかったということです。当時の資料から察するに、興目在世の石山の不動産はあくまで南条氏の所有で、西坊地=日興、東坊地=日目という図式は、当時の資料からは立証できません。ですから、わたしは興目両師を支配者ではなく管理者と書きました。興目両師は南条氏にとって“帰依僧”ですから、南条氏は当然僧俗の筋目を守り師弟の礼をもって両師に給仕されたでしょうが、当時の資料を読むと、現実には上野南条氏は地頭職ながら貧乏な地頭の部類に入る様で、石山の所有権を興師または目師に寄進ないし譲渡できる程裕福ではなかったのではと考えます。日興は「大石持仏堂本尊日代闍梨」と脇書した漫荼羅を元享年間に書写しておりますから、この時期、日代師を石山の興師の坊を代官として日代に管理させたことはあったろうと思いますが、あくまで管理で、土地の所有権は南条氏であって西坊地の所有権が日興−日代と相続されたことはなかったと愚考します(この点、日目と東坊地の関係も同様と考えます)。興目在世の石山は建物たる坊そのものの管理は各々の坊の住僧がおこなったでしょうが、土地の所有権は地頭の南条氏の経済的理由により興目両師に寄進譲渡出来ずに南条氏にあった。で、興目両師の死後、時光氏の子息の時代に、各々有縁の僧にやっと相続または寄進するに至る。だらだら書きましたが、ここのあたりの経緯に、石山初期の係争の淵源があるのではないかと思います。
51
:
れん
:2007/02/17(土) 19:45:18
犀角独歩さんへの投稿文を作成している間に、独学徒さんの御投稿がありました。独学徒さんのご意見に同感です。参考になりました。
52
:
犀角独歩
:2007/02/17(土) 19:47:16
独学徒さん
れんさん
有り難うございます。
「泣く子と地頭には勝てぬ」という格言があります。
子は関係ありませんし、南条が分からず屋の地頭であったと思いませんが、仰るような権限を有していたのでしょうね。
そのうえで二分律はあったのかどうか。さらに日目の日興への態度とはどんなものであったか。富士から消された日郷の実像はどうであったか。
さらにご賢察を窺えることを楽しみにしております。
53
:
独学徒
:2007/02/17(土) 20:42:06
犀角独歩さん、
れんさん、
早々のご返信恐縮です。
また、れんさんには、一部私の愚考にご賛同も戴き、ありがとう御座います。
>二分律はあったのかどうか。
興目両師の代は分かりませんね。
しかし日郷及び郷門の態度は、あくまで東坊地の知行に拘ったように感じられます。
西側に手を伸ばした形跡は見当たりません。その意味で日郷や郷門の態度は、上野は二分律制でとの考えがあったように感じられます
私は日郷の小泉蓮蔵坊(後の富士山久遠寺)への御影遷座は、西坊地?の日興が重須に御影を遷座(これも?ですが)した故事に習ったのではないか、などと愚考しているのです。
つまり日郷及び郷門では、西坊地と重須の知行は日興・日代それ以降は、色々あって日行。東坊地と小泉は日目・日郷以降郷門僧、このような意図があったのではないかと思索をしています。
また私は日目の日興に対する態度は、重須側や執行師ら日蓮宗側の言い分は、的を射ていないと思います。
日目は弟子分への本尊授与を日興に依頼し、授与書を加えて授与していたことが、日興本尊授与書の筆跡鑑定からも明らかになっています。
それは日興晩年近くまでそうであった事を考えれば、日目が日興と仲違していたとか、反目していたなどということは考えられません。
54
:
犀角独歩
:2007/02/18(日) 07:21:10
> 日目が日興と仲違…反目
これは、ちょっとニュアンスが違うと思います。
そのようなことを言っているのではなく、日目は、いま考えられるような師資の関係とは違っていたのではないかということです。
石山が東西2分していた。もし、これが事実であれば、師弟間でこんなことをするでしょうか。この二等配分は対等関係ではないでしょうか。もし師として立てるのであれば、こんな肩を並べるような真似は断じてしないでしょう。だいたい、弟子の分際で師匠在生の時から、半分を管領するなど、不届きな所行といえませんか。
仮に日目がこのようなことができたとすれば、その背景は、上野が自分の縁故であるから、そして、新田卿といい、小野寺の流れという当時の身分制度では、日興の出を圧する血筋をもった日目は人脈といい、財産といい、日興を凌駕していたと想像できます。日蓮との関係は、日目を凌ぐものの、実質的な財力、権力は日目が勝っていたのではないのかというのが、わたしの見方です。
漫荼羅その他のことは、当時の規律として、日興門下では日興以外は書かないと言う決まりを守っていただけではないでしょうか。
たとえば、いまの正信会が、石山を批判したところで、では、自前で本尊を書くかと言えば、そうはしていない。では、石山に従っているかと言えば従っていない、漫荼羅を自分が書写しなければ従っているということにはなっていません。この点は、創価学会も、顕正会も同様です。それぞれ、石山に矢を射ながら、本尊については、石山のものを使っています。
また、妙本寺、上行院、住本寺といった文献を見るに、その相伝譜は日蓮・日目で、そこに日興が介在することが確定するのは後代のことではないでしょうか。
現代の例を採るのはナンセンスかも知れませんが、大石寺の正嫡は、その相不の実否はどうとしても、「御法主上人猊下」であることは論をまちません。ところが、その膨大な財力と人力を誇る「名誉会長」は、それを凌駕し、会員の上に君臨しています。実際、大石寺内にその財力を持って、自分の名前を刻み続けたのですが、実質的中心者である「御法主上人猊下」は、これを苦々しく思っていました。
わたしが石山二分管領という資料から受けるイメージは以上のようなところです。ストレートな言い方をすれば、金と人脈にものを言わせて、師匠を凌駕する不届きな奴という印象しか懐けないということです。
55
:
独学徒
:2007/02/18(日) 09:06:51
犀角独歩さん、
>石山が東西2分していた。もし、これが事実であれば、・・・不届きな所行といえませんか。
私はむしろ逆の考えでいます。
日興は重須に居たわけです。その重須にいる日興に対して常に居場所を確保されていたと考えます。
その場に日興はいなくとも、常に日興の存在を意識し続けた、それが日目であろうと考えます。
日目は最後、天奏の途上で亡くなるわけですが、「富士山本門寺」この構想が日蓮ではなく日興の独自思想であれば、この命がけの天奏もまさに日興を意識したもであり、師日興の意思を実現せんとする行動だと思います。
>漫荼羅その他のことは、当時の規律として、・・・石山に矢を射ながら、本尊については、石山のものを使っています。
日目の行為と、学会・顕正会等の所業とは一緒に出来ないと思います。
日目は弟子分へ授与の曼荼羅を日興に申請し、そこに授与書を加えて授与していたわけですから、勝手に印刷本尊を配布していることとは全く逆の行為だと思います。
>また、妙本寺、上行院、住本寺といった文献を見るに、その相伝譜は日蓮・日目で、そこに日興が介在することが確定するのは後代のことではないでしょうか。
以前ブログで紹介したことがありますが、日郷の直筆系譜にも日興の介在はあります。
日興を入れた系譜と入れない系譜(受法と学法)と二種あって、たて分けられてとはいえると思います。
郷門僧の書写する曼荼羅に、「日目上人遺弟」の文言が入るのは日要以降ですので、むしろ日目直授相伝(学法)が強調されはじめることの方が後代成立ではないでしょうか。
日尊についても、重須で日興の講義中に破門になった故事は有名ですが、郷門以上に日興の介在を意識した系譜ではないかと考えます。
>師匠を凌駕する不届きな奴という印象しか懐けないということです。
私は日目また日目の後続者達が日興を敬い、決して不届きなものではなかったことを、その後の事跡などから判断しています。
先にも記しましたが、日目と日興の関係は、一部の重須や日蓮宗系の方の考えよりは、興風談所の考えが妥当だと考えます。
56
:
犀角独歩
:2007/02/18(日) 10:39:52
独学徒さん
> 日興に対して常に居場所を確保されていた
その目的であれば、隠居坊を一つ置けば住むことです。
大石寺の実質的責任者を、日興にするか、日目にするか、半分にするかということですよ。わたしが師を仰ぐならば、自分をさておいて、師を立てます。半分ではなく全部を師のものとします。それが師資の道です。
> 「富士山本門寺」…天奏もまさに日興を意識した…師日興の意思を実現せんとする行動
そうでしょうか。では、なぜ、日目の『申状』は「日蓮聖人の弟子日目誠惶誠恐謹んで言す」としているのでしょうか。ここに日興の弟子といわず、日蓮の弟子といっています。
日道・日行は「日蓮聖人の弟子日興の遺弟」としていることとは好対照をなしていませんか。
> 日目…勝手に印刷本尊を配布していることとは全く逆の行為
いや、そのようなことをいっているわけではありません。
印刷本尊など例に出していません。もし、創価学会で例を採れば、むしろ、模刻板を挙げる方が至当でしょう。しかし、そのようなことからいったのでもありません。書写という観点からです。
日興は、日蓮から本弟子六人に認められると共に漫荼羅書写に関する允可を得ていたのではないでしょうか。日目が晩年まで、漫荼羅を書かなかったのは、日興から、その允可がなかったからでしょう。漫荼羅の書き方がわからなかった、もしくは許可をされなかったということではないですか。その意味からわたしは記したのです。
> 郷門僧の書写する曼荼羅に、「日目上人遺弟」の文言…日目直授相伝(学法)が強調されはじめることの方が後代成立ではないでしょうか。
教学的な確定としては、そうでしょうが、日目の本尊は日興とは違います。しかし、日郷の本尊は日目と似ています。このことがいったい、何を意味するかです。
> 日尊…破門になった故事は有名…郷門以上に日興の介在を意識
意識することと、認められることは別のことでしょう。
> 日目と日興の関係は、一部の重須や日蓮宗系の方の考えよりは、興風談所の考えが妥当だと考えます。
考え違いをされては困るのは、わたしは重須・日蓮宗からなど、ものは言っていません。独歩して自分の考えを述べているのです。その点では、興風談所も全く関係ありません。
ここでの議論は独学徒さんとわたしの議論なのであって、独学徒さんが興風談所を負い、わたしが日蓮宗を負った議論ではありません。
わたしは重須とも日蓮宗とも、興風談所とも考えは違います。
もし、そこかしこに異論を言うのであれば、直接、いいます。
57
:
犀角独歩
:2007/02/18(日) 11:30:27
もう少し創価学会のことについて、補填しておきます。
独学徒さんが関わっている創価学会と、わたしが関わった創価学会は違います。わたしがいた創価学会は、平成2年までのそれです。
御本尊を独自印刷も、頒布もしていませんでした。
日達さんに申請をし、下付されていました。授与書は「創価学会会長/法華講総講頭/池田大作」と必ず、ありました。石山に申請し、本尊は下付されていました。信徒となるということは、末寺に出向き御授戒をするという意味でした。
創価学会は表向きでは、石山をよく立てていましたし、日達さんに尊敬を示していました。
しかし、正本堂建立後から、雲行きは怪しくなっていきました。
わたしが、石山二分の記事を見て、思い出したのは、以下の事件です。
日興を僭称する偽作板本尊を安置する妙光寺の出来事です。
何か会議が、ここで開催されました。その時に、池田さんは、「猊下」の末座に据えられたと激怒したのです。
創価学会の主張は会長と「猊下」は横並び、並座でなければならないというものでした。この話を聞いたとき、正直、わたしは「そんなばかな」と思ったのを覚えています。
東西に分けて二分したという記事を読んだとき、この事件が彷彿と思い起こされたということです。
日目が「日蓮聖人の弟子」を名乗るということは、僧侶社会を少しでも見聞してきたわたしからすれば、僭越だと思います。強い師匠であれば、場合によっては破門するでしょう。
しかし、日興はそれができなかったか、もしくはしなかった。。
天奏までできる日目の財力と人脈は看過できなかったのではないか、穿った言い方をすれば、そう見えます。
この点でも、あの傲慢な態度を取った創価学会会長を直ちに破門できなかった石山の風景とダブります。
要は、日目というのは、弟子にしては頭が高い。ただし、それは出身がなせる業で、当人はあまり悪気もなく、自覚がなかった、日興も気にしていなかったのかも知れません。しかし700年を経たいま、端から見た日目の態度を弟子にあるべからざる態度と映じると言うことです。
58
:
天蓋真鏡
:2007/02/18(日) 14:40:08
横レス失礼します。●日蓮仏法≒漫荼羅は一子相伝では無くて日蓮の判形(形式)で無ければ成らない。●六弟子任命、墓守輪番制は事実なのでしょうか。
59
:
独学徒
:2007/02/18(日) 16:05:30
犀角独歩さん、
>その目的であれば、隠居坊を一つ置けば住むことです。・・・それが師資の道です。
日興は既に重巣に拠点を移していたわけで、本来日目一人の官僚でよいはずです。
しかし日目はそうしなかったところに、日興に対する敬意をみます。
>日目の『申状』は・・・日道・日行は「日蓮聖人の弟子日興の遺弟」としていることとは好対照をなしていませんか。
日目の例と、日道・日行の例を一緒に出来るかどうかはわかりません。仰せの趣旨であれば、むしろ日道は「日目の遺弟」、日行は「日道の遺弟」と記すべきだと思います。
日目の天奏は、事実命がけであったわけで、その行為・行動は日興遺弟としての振舞に微塵も相違なしといえると思います。
>日興は、日蓮から本弟子六人に認められる・・・その意味からわたしは記したのです。
元徳三年十二月に日目が書写した本尊が保田妙本寺にありますので、本尊書写自体は日目も行っていたと思います。
>日目の本尊は日興とは違います。しかし、日郷の本尊は日目と似ています。このことがいったい、何を意味するかです。
この点は正直判断できません。似ているものもありますが、そうでないものもあります。
小泉久遠寺の日目守と、同寺所蔵の日郷本尊は確かに似ていると思います。
こちらも以前ブログで紹介しましたが、日郷本尊は主題直下の例をとれば「日蓮聖人」と「日蓮御判」と記すものが混在していますし、主題などは独特の書風が感じられます。
保田妙本寺は写真を撮らせてくれないので、具体的に鑑別できないのが現状です。
>意識することと、認められることは別のことでしょう。
であれば、尊門の歴代には日興が明らかに認められると思います。
>考え違いをされては困るのは、・・・わたしが日蓮宗を負った議論ではありません。
仰ることは分かりますが、そもそも私が「重須側や執行師ら日蓮宗側の言い分は・・」と記したのは、>48の「執行師だったか失念しました。日興は身延で地頭と不和で山を下り、・・・」に対してです。確かに重須系や日蓮宗側からかような議論があることを、見聞した記憶がありました。それに対して、私は現在のところ興風談所の東西分離制といいますか、そのような考えの方を支持しているということです。
>もう少し創価学会のことについて、補填しておきます。・・・
私は創価学会と宗門のような不純な関係は、日興・日目の関係とはまったくダブりません。
日目は日興の高弟であることは動かないと思います。
60
:
犀角独歩
:2007/02/18(日) 16:49:14
独学徒さん
> 日興は既に重須に拠点を移していた
そうですね。では、なぜ、弟子日目は日興に随身給仕しなかったのでしょうか。
弟子でありながら、なぜ日興の膝元にいなかったのでしょうか。
石山は、たかだか南条の氏寺でしょう。管領は南条家だったのではないでしょうか。
>仰せの趣旨であれば
違います。日道・日行の例ではなく、「日目は日蓮聖人の弟子」だと言っているところに重があります。日興の弟子と日目が言っていない点はどうですか。
> 日目の天奏は、事実命がけであったわけで、その行為・行動は日興遺弟としての振舞に微塵も相違なしといえると思います。
これは決めつけでしょう。日目は「日蓮聖人の弟子」といって、天奏しているではないですか。日目の天奏が命がけであったことは事実としても、日興につなぐのは短絡でしょう。日目は日蓮聖人の弟子といって天奏をしたのですから、日蓮のために為したことでしょう。
また、本門寺と天奏と、どのような関係があるでしょうか。
> 元徳三年十二月に日目が書写した本尊が保田妙本寺にありますので、本尊書写自体は日目も行っていたと思います。
では、なんのために、日興から本尊を下げてもらったのでしょうか。矛盾しませんか。この会通はどうなりますか。
> であれば、尊門の歴代には日興が明らかに認められる
具体的な例を挙げてください。
上行院には、日興のどの本尊が懸かっていたのでしょうか。
日像は帝都弘教をし、菩薩号を授かるに、日蓮に大菩薩号を先駆けました。
では、日尊は油小路に土地を配領し、日興をどのように扱ったのですか。
>わたしが日蓮宗を負った議論ではありません。
執行師の例を引きましたが、それはあくまで例です。
わたしは、大石寺から、なぜ日興が退出したかという点から考えています。
> 東西分離制
しかし、実際のところ、日興は重須で弟子を育成していたのは、事実ではないですか。ここは檀所で、日興の管轄です。
しかし、大石寺は南条の氏寺、日興が云々という話とはならないでしょう。
当時の大石寺を、いまのような本山のように扱った議論は現状からずれていると思いますが、この点はどうなんでしょうか。
また、東西分離は、では、誰がしたのですか、日興ですか、日目ですか、それとも南条ですか。独学徒さんは、日目だというわけでしょう。
日興が師匠なのに、日目がすること自体、既に外れていませんか。
日興がしたのであればわかります。
だいたい、譲座本尊など、伝説に過ぎないわけです。では、日目が大石寺の住職であり、かつ、日興にその半分を与えたという証拠は何を以て言うわけでしょうか。
> 日目は日興の高弟であることは動かない
同じことを繰り返すことになりますが、わたしは日目が日興の高弟ではないとは、ひと言も言っていませんよ。日興の弟子なのに、日蓮の弟子を名乗ったと言っているのです。孫弟子の分際で、直弟子を名乗ったという意味です。僭越でしょう。
61
:
れん
:2007/02/18(日) 18:04:36
横レス失礼します。
議論の参考までに申し上げると、日道申状二通の内、富要に掲載された延元元年の物は堀師が「日寛上人補足して現申状を作りて其志を満せり」との説を紹介しており、延元の日道申状に関しては、日寛の手が入っている可能性がある故、全文を日道作とは断定出来ないところで、「日蓮聖人の弟子“日興の遺弟”日道」の署名も額面通りには受け入れがたいものがあります。もう一通の日道申状は、日時の三師伝の奥に筆写された日道申状の草稿(宗学全書に収録)で、写本の時代が日寛より遥かに日道に近いこともあり、こちらは信頼できる部類のものと愚考します。その三師伝奥の日道申状では日道は「日蓮聖人の弟子日道」と記しており、日郷の申状でも「日蓮聖人の遺弟日郷」日尊の申状でも「日蓮聖人の門弟日尊」とあります。このように日目門弟は署名は概ね日目の申状の署名式に倣っております。この点重須系の日代が「駿河国富士山隠侶日興の遺弟日善・日代・日助等」日妙が「日蓮聖人の弟子日興の遺弟等」と、重須日興膝下の諸師が日興の遺弟と明記しているのと対照的ですね。
62
:
れん
:2007/02/18(日) 19:39:29
横レスその2
>尊門の歴代には日興が明らかに認められる
独学徒さんが言われたのは日尹師書写本尊のことでしょうか。京都要法寺蔵日尹師書写漫荼羅には「応安三年十月十三日、富士日興上人日目上人日尊上人、日尹(花押)/沙弥尼妙義授与之」とあり、この当時の尊門の法統意識が分かりますね。
日目筆申状には写真を見るに「日蓮聖人弟子日目」とありますが、「副進(中略)一通 先師日興上人申状 元徳二年」と日興に“先師”と冠していることは注意するべきところでしょう。
重須は、正中二年十一月十三日付けの石河能忠「寄進状」に「右ニ日れんしやう人のみゑいたたせ候間、ひやくれんあさりの御房、妙源かししやうたる間、いちゑんふしうにゑいたいをかきりてきしんしたてまつる所也」とあり、その濫殤を示すものですが、日興の死後、日興の後継者たる日代が重須を出した背景は日代の「目安」によると地頭の石河氏との不和もあると思われ、重須もまた石河氏の私寺(日代目安に「彼の所は妙源私に寄進の地なり」とあり)氏寺という性格であったと言えるでしょう。重須は正中年間に下りますが正式に日興に寄進されたから、日興は安住出来ただけの話であるとも思います。
63
:
独学徒
:2007/02/18(日) 19:47:27
犀角独歩さん
> 弟子日目は日興に随身給仕しなかったのでしょうか。・・・管領は南条家だったのではないでしょうか。
日目・日仙・日善の連名で書かれた、「日興上人御遺跡事」には、「日興上人の仰せによって支配し奉る事件の如し」というわけですから、日目が重須で給仕しなかったことも、全ては師日興の仰せによったのだと解釈しています。
>日興の弟子と日目が言っていない点はどうですか。
日興・日目の時代は、「天台沙門」と名乗るべきか、「日蓮聖人の弟子」と名乗るべきかの時代であって、師日興が「日蓮聖人の弟子」と名乗るべきといっている以上、師の仰せに従順に従ったのだと思います。
>これは決めつけでしょう。日目は「日蓮聖人の弟子」といって、・・・本門寺と天奏と、どのような関係があるでしょうか。
決めつけといってしまえば、全てが決めつけになってしまうと思います。
「日蓮聖人の弟子」との名乗りは、日興の思想によっている以上、この一事をもって日興と日目との間を云々は出来ないと考えます。
>では、なんのために、日興から本尊を下げてもらったのでしょうか。矛盾しませんか。この会通はどうなりますか。
これは自分の弟子は、日興の弟子でもあるという意思表示ではないかと考えています。
>具体的な例を挙げてください。
現に要法寺の本堂は日興の曼荼羅ですし、尊門が日興を歴代系譜から外してした事跡の方こそ、上代文書から現代に至るまで私は存じ上げません。
>しかし、実際のところ、日興は重須で弟子を育成していたのは、事実ではないですか。ここは檀所で、日興の管轄です。
この点は全く異議御座いません。
>しかし、大石寺は南条の氏寺、日興が云々という話とはならないでしょう。・・・この点はどうなんでしょうか。
日目の態度は、あくまでも日興の仰せによっているのではないかと考えています。
大石寺が南条の私寺というのが、私は良くわからないのですが、何か南条家の文書か何かにそうあるのでしょうか。
>また、東西分離は、では、誰がしたのですか、日興ですか、日目ですか、それとも南条ですか。独学徒さんは、日目だというわけでしょう。
違います。
私は東西分離を日目がした等は判断できません。
よってこの点は、興風談所の見解を支持していると申し上げているのです。
今すぐにその文献を引くことが出来ませんが、興風誌上で読んだ記憶があります。
>孫弟子の分際で、直弟子を名乗ったという意味です。僭越でしょう。
私は日目が僭越な弟子だとは思いません。
どこをどうとっても、日目は日興の弟子としてなんら問題を感ずるところはありません。
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