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摂折について。

1川蝉:2005/06/10(金) 13:54:45
「摂受を行ずる時は、僧と成つて正法を弘持する」について。

「摂受を行ずる時は、僧と成つて正法を弘持する」の直ぐ前に
「今末法の始め小を以て大を打ち権を以て実を破し、東西共に之を失し、天地顛倒せり。・・・此の時地涌の菩薩始めて世に出現し、但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ。因謗堕悪必由得益とは是なり。」(昭定719頁・学会版253頁)
とあります。

この文意は
「末法の初めである今は、謗法盛んであるから、妙法蓮華経の五字をもって下種結縁しなければならない時である。汝の信仰は謗法であると強く批判されれば当然、反発し日蓮に怒りを抱き日蓮を誹謗迫害するであろう。しかし、下種結縁によって、やがては法華経を信受する暁を迎えるであろう。
日蓮の採るこの而強毒之の弘経方法は、不軽菩薩が強いて、二十四字を専ら説き礼拝する事を誹謗した者達が、悪道に堕ちたものの、結縁の因縁をもって、やがて信受し救われた、と云う事と同例である。」
と云うものでしょう。

末法の初めは、大判すれば、本未有善の機、謗法の機なので、一念三千の仏種である妙法五字を強いて聞かせ下種結縁しなければならないと云う五義判からの結論に立って、当然起こる法難迫害を忍んで(摂受して)他の謗法を批判し妙法信受を強く迫る化導法を採る(道門折伏)というのが本尊抄の立場であることが分かります。

このように大判としては道門折伏ですが、細判としては道門折伏一辺倒ではありません。
富木殿の再度の法論を止められたことなどが例です。

次直ぐ後の
「摂受を行ずる時は、僧と成つて正法を弘持する」
と矛盾があるのではないかという意見が出てくるのですが、日蓮聖人の思考が分裂していない限り、同一論文の中で異なる見解を述べる筈はないわけです。

そこで、
「折伏を現ずる時は」の折伏とは涅槃経の有徳王の如き、俗人、身行の折伏で、行門の折伏であり、「摂受を行ずる時」の摂受とは行門の摂受で、日蓮聖人は折伏はせられたが、それは出家、口、意の折伏で、教門の折伏であり、行門の折伏でないと古来から会通されています。

そうした先師の見解に基づき
「日蓮聖人御遺文講義2」に担当の石川海典師が
「摂受を行ずる時の聖僧は『正法を弘持す』とあるから、此の摂受は口業の師子吼を意味する。
此の聖僧の師子吼を摂受としているが、其の実は折伏である。事実聖人御一期の大師子吼は本化の上首たる上行菩薩が、聖僧と示現して正法を弘持した以外のものではない。・・・何が故に標準御書の観心本尊抄に之を摂受としてあるかを究める要がある。そしてそれは結局、在家と出家、僧と俗と異なるによって其の修行の形式に寛厳の相違があり、出家たり僧たる者の折伏は、之を在家たり俗たる者の折伏に比する時は摂受と云われる。口業の師子吼は身業の武力に比すれば猶摂受なりという意味に外ならない。・・・大師子吼は折伏ではあるが、之を刀杖斬首の如き行門の折伏に比する時は、なお多分に摂受の傾向を含むから、聖僧の正法弘持を摂受とされたのであろう。」(321頁)
と解釈しています。

2川蝉:2005/06/10(金) 13:55:44
また、
山川智応博士も
「謗法華経の宗教を、不軽菩薩の逆化の如く、法華経不軽品、勧持品の如く、道力折伏をして諸々の法難を摂受し、法難摂受ごとに真義を発揚して、遂に本門の三大秘法を建立する。その不軽菩薩の如き法難摂受を行ぜられる時は、僧となって(仏種の)正法を弘持(建立)せられるのです。」(観心本尊抄口語意訳・98頁)

と意訳しています。

両師のように解釈すれば、「因謗堕悪必由得益とは是なり。」とする日蓮聖人の実際上の化導方法と矛盾が有りません。

今成教授は
「聖人は『折伏』を実践すべき事を説かれてはいるが、しかしそれは積極的に言っておられるわけではなく、『批判に対する対抗』である『仕方なく折伏を実践』されていたのである。また聖人は摂折を重視していなかった。

折伏主義は龍口・佐渡法難時の『今日斬る明日を斬る』という非常時対策としての『時限立法』である。

摂折に関する遺文数が少ない。このことはそれほど摂折問題を重視していなかったことを物語っている。・・摂受・折伏の言葉が出てくる御書は全て依智から佐渡時代のもので、その後は全く出てこないことも、摂・折は瑣末な問題であったことを裏付けている。」
等と論じているとのことですが、

謗法を強く批判し妙法五字を以て下種せしむと云う化導方法は五義判(五綱教判)から、必然的に生じる化導方法であることを認識して貰いたいです。
「摂・折は瑣末な問題であった」などとは、とうてい言い得ないことです。

「佐渡以後、摂・折はについての教示が全く出てこない」という事ですが、摂折についての教示が行われて、已に門下に周知されたので、あえて重ねて教示する必要がなかったからでありましょう。

しかし、弘安三年の「諌暁八幡抄」に
「末法には一乗の強敵充満すべし。不軽菩薩の利益此なり。各各我が弟子等はげませ給へ、はげませ給へ。」(真蹟・昭定1850頁・学会版589頁)
とも
弘安元年の「檀越某御返事」に
「雪山童子の跡ををひ、不軽菩薩の身になり候はん。いたづらにやくびやう(疫病)にやをかさ(侵)れ候はんずらむ。をいじに(老死)にや死に候はんずらむ。あらあさましあさまし。願くは法華経のゆへに国王にあだまれて今度生死をはなれ候ばや。」(真蹟・昭定1493頁・学会版1295頁)
とも
弘安二年の「上野殿御返事」に
「願くは我弟子等大願ををこせ。・・・おなじくはかり(仮)にも法華経のゆへに命をすてよ」(真蹟・昭定1709頁・学会版1561頁)
とも
弘安三年の「智妙房御返事」に
「阿闍世王の提婆をいましめしやうに、真言師、念仏者、禅宗の者どもをいましめて、すこしつみをゆるくせさせ給かし、」(真蹟・昭定1827頁・学会版1287頁)
ともあることより身延御入山以後においても、折伏逆化の化導方法を教示されていたことが分かります。

3川蝉:2005/06/13(月) 12:13:18
今成教授は、
《折伏とは、「受難を怖れぬ常不軽菩薩の礼拝行」のごときものではなく、悪口雑言の類であり、物理的な暴力も辞さない強引な布教方法である。》
と定義されているそうですが、もし折伏の語意が「悪口雑言の類であり、物理的な暴力も辞さない強引な布教」と云う意味に限定されるのであれば、日蓮聖人の化導方法は折伏でないと言い得ましょう。

しかし、日蓮聖人が実際に行われた化導形態は、「受難を怖れぬ常不軽菩薩の礼拝行のごときもの」と今成教授が言うところのもので、「今ま日蓮。強盛に国土の謗法を責むれば」(開目抄・昭定603・学会版233)と云う姿でした。古来宗門ではそれを折伏と称しています。

日蓮聖人が不軽菩薩の化導方法に倣われた事は、

弘長二年二月の「教機時国鈔」
「又謗法の者に向ては一向に法華経を説くべし、毒鼓の縁と成さんが為なり。例せば不軽菩薩の如し。」(昭定242。学会版438)

文永十二年三月の「曽谷入道殿許御書」(真蹟)
「今は既に末法に入りて在世の結縁の者は、漸漸に衰微して権、実の二機皆悉く尽きぬ。彼の不軽菩薩末世に出現して、毒鼓を撃たしむるの時也。」(昭定897。学会版1027)

文永十一年(或いは建治元年)の「聖人知三世事」(真蹟)に
「日蓮は是れ法華経の行者なり。不軽の跡を紹継するの故に 」
(昭定843。学会版974)
等の御書によって分かります。

古来から宗門では、宗祖はご自分の化導方法を折伏であるとされていたと、古来言い習わして来た根拠は、
「開目抄」に
「邪智謗法の者の多き時は折伏を前とす、不軽品のごとし。」
(学会版235頁)
とあるからです。
ただし、今成教授が、ここにある「不軽品のごとし。」の言葉は真蹟に無く後人の付加と指摘していますので、真蹟在・曾存遺文でない御書は証拠と認めない人もいるので、別な面から検討してみます。

文永十二年三月の「曽谷入道殿許御書」に
「今は既に末法に入りて在世の結縁の者は、漸漸に衰微して権、実の二機皆悉く尽きぬ。彼の不軽菩薩末世に出現して、毒鼓を撃たしむるの時也。」(昭定897。学会版1027頁)

「今末法に入つて二百二十余年、五濁強盛にして、三災頻りに起り。衆と見との二濁、国中に充満し、逆と謗との二輩四海に散在す。専ら一闡提の輩を仰いで棟梁と恃怙、謗法の者を尊重して国師と為す。」(昭定900。学会版1030頁)

とあります。
日蓮聖人は当時を大判して、謗法者充満・本未有善者充満と判じら
れたのですから、「開目抄」に
「邪智謗法の者の多き時は折伏を前とす」(学会版235頁)
とある通り、日蓮聖人の採られた化導方法は当然の事に、「折伏を前とす」する化導方法であったと云わざるを得ません。

故に、古来から日蓮聖人の化導方法は折伏と称されているのです。
また日蓮聖人が不軽菩薩の化導形式を折伏と観ておられたことも確かです。

4川蝉:2005/06/16(木) 15:21:53
不軽品と安楽行品

「法華玄賛」の
「安楽行を行じて威勢比無きことを顕わさんと欲し、我れ不軽と為って安楽行を行ず、衆生時に我れを損害せんと行じて初めは苦を受くと雖も還りて我が力に由りて並に仏道を得」(国訳一切経経疏部五・369頁)

と云う解釈に対して、妙楽大師は安楽行品と不軽品とは儀に(化導形態に)十別があるとしています。
(数えたら十一別ありました)
十別の内、八別を挙げてみますと、

一、彼は(安楽行品は)則ち法座に安処して、問いに随って為めに説く。此れは(不軽品は)乃ち遠く四衆を見て故らに往いて礼拝す。

二、彼は則ち難問する所あらば、方に乃ち為めに答う。
此れは乃ち瓦石を以て打擲するに猶強いて之を宣ぶ。

三、彼は則ち常に座禅を好んで空閑の処に在り。
此れは乃ち読誦を専らにせず、衆に入って申通す。

四、彼は則ち深く法を愛する者には為めに多く説かず。
此れは乃ち虚妄の謗りを被るとも、仍を強いて称揚す。

五、彼は則ち初めに云何してかこの経を読説せんと問う。
此れは乃ち但だ作仏の一句を流通すと云う。

六、彼は則ち初めに理観を修して十八空を観ず。
此れは乃ち但だ一句作仏の解を懐けり。

九、彼は則ち解髻の譬えに約して二乗の権を開す。
此れは乃ち結縁に約して一乗の実を表す。

十、彼は則ち順化なるを以ての故に軌儀を存す。
此れは乃ち逆化なるを以ての故に恒の迹を忘る。
(法華文句記巻十中・大正348・b)
等と化導形態の違いを挙げています。

天台大師は端的に
「本未だ善有らざれば、不軽は大を以て而して強いて之を毒す」
と述べている意を広げて、妙楽大師は十別を挙げていると見るべきです。
両大師とも、不軽菩薩の化儀(化導形態)は、安楽行品の化儀とは異なっていると見ていたことは明らかです。

「法華文句」に
「軽んぜずして深く敬うは、是れ如来の座なり。打罵を忍は是れ如来の衣を著するなり。慈悲心を以て常に行じて替へざるは即ち如来の室なり。
又深く敬うは是れ意業、不軽の説は是れ口業、故に往いて礼拝するは是れ身業なり、此の三と慈悲と倶なるは即ち誓願安楽行なり。」
と有ります。
「 即ち誓願安楽行なり。」とあるから、「不軽は安楽行であり、不軽=摂受の安楽であれば、不軽を折伏に配することは矛盾を来す」と解釈する人がいます。

上掲の「法華文句」の文意は、不軽菩薩の化儀は、法師品の衣座室の三軌に通じ、不軽菩薩の慈悲を基にした化導の心地は、安楽行品の誓願安楽行の心地と変わりないと云う意味であって、不軽菩薩の化儀と安楽行品の化儀と同じであると云う意はありません。

5川蝉:2005/06/16(木) 15:22:52

このことは
「又文殊師利、菩薩摩訶薩後の末世の法滅せんと欲せん時に於て法華経を受持することあらん者は、在家・出家の人の中に於て大慈の心を生じ、菩薩に非る人の中に於て大悲の心を生じて、是の念を作すべし、是の如きの人は則ち為れ大に如来の方便随宜の説法を失えり。聞かず知らず覚らず、問わず信ぜず解せず。其の人是の経を問わず信ぜず解せずと雖も、我阿耨多羅三藐三菩提を得ん時、随って何れの地に在っても、神通力・智慧力を以て、之を引いて是の法の中に住することを得せしめん。」
と云う誓願安楽行の説明からも明らかです。

上掲の「法華文句」の文は、不軽菩薩の化導の形が(化儀が)安楽行品の身安楽行・口安楽行・意安楽行と全同と述べている文ではありません。

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レッドカード

7ラキ:2005/06/17(金) 21:32:23
管理人様。
NO,6の書き込みは、ここの掲示板のルール違反。
削除対象に思われます。
>誹謗・中傷等は、即刻削除します。又、掲示板に相応しくない書き込みも、削除します。

8川蝉:2005/06/20(月) 09:56:58
○安楽行品の『於末法中、末世法滅時』についての日蓮宗側の解釈。

天台宗の圓信の「破日蓮義」に

「(天台)大師釈して云く。『初心始行の菩薩は未だ悪世に苦行して経を通ずること能はざるを引かんが為に、復た安楽行品を開かんと欲するなり。』と。(かかる)勧持安楽の生起を汝じ何ぞ之を見ざるや。安楽行品に云く、『後の悪に於いて云何が能く是の経を説ん』と。安楽行は豈に悪世の方軌に非ずや。」

と云う反質問がありますが、
真迢も
「既に(安楽行品の)文の中に『於末法中、末世法滅時』とも云へり。故に末法今時法華を弘通せん者は叶わぬまでも安楽行を学ぶべし。是れ正しく初心始行の弘経なり。勧持品の深位の弘経は末法の凡師に相応すべからず」

と圓信と同様の反質問を向けています。

圓信の「破日蓮義」に対する批判書である円明日澄の「日出台隠記」には、この反質問に対して、時・位・戒・定恵・順逆二門等に約して安楽行品の行儀は末法正規の化導形態ではないと返答していますが、長文なので、代わりに、真迢に対する日遵上人の返答を紹介します。
(以下引用)
安楽行品の説相を以て、総じて末法弘経の方軌なりと云う事、いわれなき義分なり。
経文の心をたずね見るに勧持品に於いて深位の菩薩の弘経の相、至って鄭重なり。
是れに因って文殊菩薩ふかく是れを歎じて、『是諸菩薩甚為難有敬順仏故発大誓願於後悪世』等と宣べて、深位の菩薩の発誓弘経の相、事すでに畢んぬ。
時に文殊、重ねて悪世法滅の時節に於いて、亦た初心始行の菩薩は、いかんが法華経を弘通すべしやと問いたまえり。
時に如来、文殊に対して答えたまわく『末世法滅の時に於いて初心始行の菩薩、法華を弘通せば摂受門に住して随力演説すべし』と有って、四安楽行の法規を説きたまえり。
是れ則ち、後心の菩薩は折伏の弘通、初心の菩薩は摂受門の伝法なり。
然るを安楽行品の摂受門を以て、総じて末法弘経の方規なりと治定する事、是れ真迢が一つの不可なり。

次に末法は本未有善の逆機なり。最も折伏門の弘経を以て毒鼓の縁をなし、下種益を盛んにし大機を建立すべし。何ぞ順機摂受の弘経を取って総じて末法弘通の格式とせんや。是れ真迢が二つの不可なり。

次に末法は五濁熾然にして、正法を弘通し順逆の二縁に逗ずること甚だ以て大切なり。
権者の所為は且く論ぜず、実行の初心の菩薩、耐えざるところなり。
深位の菩薩、和光同塵の徳を施し、いかにも権実の法門に達識して五濁の悩乱を恐れず、強いて一乗妙法の奥義を演暢すべし。しかるを初心始行の凡師を以て、末法弘経の師範に擬せんと云う是れ真迢が三つの不可なり。

譬えば強敵に向かう時は仁義血気知略の三徳をかねたる名将をえらんで大将に立つべきが如し。

9川蝉:2005/06/20(月) 09:57:47

問う、しからば安楽行品に末法弘経の方規を顕示したまうは只、教門一途の施設にして実に此の法軌を用て弘経する人なしと云うべしやいかん。

答う、しからず四安楽行の方規、何ぞ所用なきに、むなしく設けたまうべきや。
凡そ末法の弘経は五濁障重の時節なり。不軽菩薩の弘経は像法の時なるすら、尚を本未有善の機縁なれば而強毒之の逆化をなしたまえり。況や末世法滅の時に於いてをや。
最も深位の菩薩、強障を忍受し、折伏門の弘経を正意とし、逆機に対して来縁をなしたまうべし。
されば釈尊、末法の弘経をば尚を迹化深位の諸菩薩を簡去したまえり。況や実行初心の菩薩をや。

しかれども法華弘通の功徳広大なれば、始行初心の菩薩も我が器量に相応して、十悩乱を遠離し、山林幽谷に閑処して身口を慎み、門者あれば答し、随力演説の弘経、摂受門の説法あるべし。

故に安楽行品の方規むなしく施設したまうには非ず。さればとて末法正意の伝持とは心得べからず。只だ人に約する一義のみ、通総するには非ず。不軽の記に十義を以て不同を判じたまえり。学者往見したもうべし。(諌迷論四・57紙左〜59紙左)
(引用終わり)

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12犀角独歩:2005/06/22(水) 00:07:23

一度だけ書きます。わたし犀角独歩に異論があるので在れば、わたしが書いていないとこで、書いても始まらないでしょう。
富士門流信徒の掲示板でお受けします。

「まったく素晴らしい」ご意見をお待ちしましょう(大笑)

13犀角独歩:2005/06/22(水) 00:28:57

こちらの管理人さんには突然、お邪魔失礼します。

川蝉さん、富士門流信徒の啓示場でお待ちします。
shamonさんも来る度胸と根性と度量があればどうぞ(嗤)


以下質問です。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1117079987/335

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15ROM専:2005/06/22(水) 20:06:07
>川蝉さん、富士門流信徒の啓示場でお待ちします。

掲示板の訂正もないほど興奮してらっしゃいますね(苦笑)
ここは日蓮系にしては落ち着いた場に思えます。
このような挑発は削除対象にしてもいいのでは?

>shamonさんも来る度胸と根性と度量があればどうぞ(嗤)

チンピラ以下の三下でしょう。
今時高校生の喧嘩でも出ない上等文句ですね。(大笑)
度胸も根性も度量もさぞかし御ありのようですが、残念ながらこう言った言を吐くものほど、格がないばかりかおっしゃる三拍子は無い可哀想なゴロツキと言うのが世の常でしょう。

二度と立ち入らぬよう管理人様にはお願いいたしたいものです。
また通りすがり様もおっしゃっておりましたが、「一度だけ〜」と自分で銘打って書き込みをされているので、二度と来ないで欲しいものです。

1601:2005/06/22(水) 22:06:50
>15
あんたも人のこといえたほどのもんじゃないんじゃないの。

1702:2005/06/23(木) 00:43:01
>16
そういうあんたはどんなもんでしょう。

18shamon:2005/06/23(木) 14:04:46
管理人さんへ

「彼の富士門流信徒の掲示板では、日蓮聖人は在家に折伏(悪口雑言・暴力)を煽って、自らは安楽行品のように摂受に留まった(>315)と、全く素晴らしい結論に落ち着いたようですね。」との内容は、私の投稿です。

誹謗中傷を目的とした投稿ではありませんね。御覧のように、12,13に代表されるの発言内容が繰り返されるな方との論議も、そのような方が主たる論客となり、それを擁護されているような掲示板内では、整斉たる論議は出来ないのは必然です。

19shamon:2005/06/23(木) 14:26:03
「富士門流信徒の掲示板」での川蝉さんへの、犀角独歩さんなどがされている尊大な応答も良く吟味して、管理人さんは圧力に屈することなく公平に判断されて下さい。
雑談はこちらでの、削除を希望しておきます。

20管理者:2005/06/23(木) 15:11:37
shamonさん、初めまして。

「富士門流信徒の掲示板」での討論は其方の板で、との趣旨と、
sangha板のshamon師のHNを騙っての荒らし、と判断して削除しました。


「雑談はこちらで」のレスは削除しておきました。

shamonさんの18.19のレスを観まして、荒らしでないことが分かりました。
今後、当板のスレッドの項目等にレスをお書き下さいませ。項目に無きことは新規にスレを立ち上げても構いません。

>圧力に屈することなく公平に判断されて下さい
その積もりで居ります。

以上スレ違いですが、あえて此処に書きました。

21shamon:2005/06/23(木) 15:51:52
有り難う御座いました。今後とも宜しく御願い致します。

22shamon:2005/06/23(木) 22:27:46
日蓮聖人が真蹟「開目抄」で、涅槃経を引いて僧の折伏(降伏・呵責)について述べたものです。

『不能降伏非法悪人。如是比丘不能自利及利衆生。当知是輩懈怠懶惰。雖能持戒守護浄行当知是人無所能為。
乃至時有破戒者聞是語已咸共瞋恚害是法師。是説法者設復命終故名持戒自利利他等[云云]』

『非法の悪人を降伏すること能わず。かくのごとき比丘は自利し及び衆生を利すること能わず。まさに知るべし、この輩は懈怠懶惰なり。能く戒を持ちて、浄行を守護すといえども、まさに知るべし、この人は能くなすところなからん。
乃至、時に破戒の者あつて、この語を聞き已つて、咸(みな)共に瞋恚(しんに)して、この法師(ほつし)を害せん。この説法の者、たといまた命終(みようじゆう)すとも、故(なお)持戒自利利他と名づく」等云云』

非法の悪人を降伏することをしない僧侶は怠け者であって、自利も利他も出来ぬ者である。たとえ持戒し浄行すると雖も、全く何の役にも立たぬ者である。
もし、非法の悪人を降伏させようとした僧侶が、その破戒の者からの怒りを買って迫害されて命を落とすようなことがあっても、そのような僧侶は持戒し自利利他を為した者である。

『念仏者・禅宗等を責て彼等にあだまれたる、いかなる利益かあるや。答云 涅槃経云 若善比丘見壊法者置不呵責駈遺挙処当知是人仏法中怨。若能駈遺呵責挙処是我弟子真声聞也等[云云]』。

『問(とう)て云く、念仏者・禅宗等を責めて彼等にあだまれたる、いかなる利益(りやく)かあるや。答(こたえ)て云く、涅槃経に云く「もし善比丘、法を壊る者を見て、置いて呵責し駈遣し、挙処せずんば、まさに知るべし、この人は仏法の中の怨(あだ)なり。もし能く駈遣し、呵責し、挙処せば、これ我が弟子、真の声聞なり」等云云』

(釈尊を捨てよと教義を立てていた)念仏や禅宗等を責め、その恨みを買うことに何の意味があるか。その問いには涅槃経を引いて答えよう。
「もし法を壊る者見て、呵責せず、追い出さず、見逃すような僧侶は仏法の怨である。その様な者を、追い出し、呵責し、見逃さぬ者こそ、真の我が弟子である。

日蓮聖人は、すぐ後に涅槃経疏を引いて、罪を糾治(正して治す)ことの慈を述べています。

23レッドカード:レッドカード
レッドカード

24shamon:2005/06/24(金) 18:17:34
通りすがりさんでは、誰だか解らずのでハンドルネームから変えねばなりま
せん。夜郎自大と言われないためには、公正な第3者の掲示板で討論するこ
とが大事です。私は掲示板に張り付ける時間が殆どありませんので、御相手
するならば、第3者の掲示板(sanghaやこの掲示板等)をお借りできれば有
り難く思います。それも一方的に述べることなく、交互に述べることができ
るようでなければなりません。なにせレベルの低い言葉を投げ掛けられるこ
とに費やすほどの暇と無駄な時間がありません。

犀角独歩+顕正居士 vs 川蝉+shamonなんて楽しそうですね。

25川蝉:2005/06/24(金) 20:26:54
23番・通りすがりさんへ。
今晩は。
私は冨士門流信徒でないので冨士門流信徒掲示板に書き込むのは何となくはばかれるし、何せ、結構沢山、コメントの文中に賛同できない見解が散見されるので、それらも一緒に本題の外にも論じるのは面倒なので、議論参加が億劫に感じます。
それで、特に気になった誤解を取り上げて摂折の問題を自分なりにまとめてみようと思ってスレッドを立てさせて貰ったわけです。
まあ相当先方は刺激を受けてしまったようですね。

どうせまともな議論にならないとおもいましたが、あちらの掲示板に、一応、質問と反論にたいするコメントを入れておきましたので閲覧してみてください。。

真摯な反論でなければ、時間の無駄にもなるので後は応じるのは止めようかとも思っています。

>俺は本人に直接会って折伏する。
がんばってください。期待しております。
通りすがりさんは、あちらの掲示板の議論には参加しないのですか。

26shamon:2005/06/24(金) 20:51:35
通りすがりさん

嘘はいけません。早く本人にあって折伏しなさい。日蓮聖人は在家に折伏
(悪口雑言・暴力)を煽ってたとなると、僧ではない在家集団である創価
学会は、日蓮大聖人の教えの通りに実践したのだと喜んでしまいます。

27ロム専:2005/06/24(金) 23:19:19
なんだか怪しいHNがガタガタ目障りですね。まー内容からして察しは誰の目からもわかりますけどね、一度だけ書きますさん(大笑)バレバレ。それとも[黙して語る]さんだっけ?I.Sさん(笑)あっちでやってなさいってば。
あと川蝉さん、無理しないで下さいね。精神的に良くないですよ。ひたすら貴方の落ち着いた見識に多くの方は耳を傾けるのです。

28shamon:2005/06/25(土) 10:24:47
>真跡遺文に蓮師が出家折伏を示す遺文がなければ、それにも拘わらず、蓮師折伏を言うのが的はずれなのです。
つまり、この返答は答えられないと言うことですね。

犀角独歩さんの唯一の論拠は、折伏とは「頸を刎ねること」等の暴力であると主張し、日蓮聖人は僧としての折伏については言及していないと言うものでした。その上に立って、反論者を罵倒しています。当人も、当掲示板を御覧になっているようですが、>22の常識的な文証を皆さんに誤解の無きように提示しておきました。

これは、日蓮聖人が、まず摂折の二門について述べ、そして御自分の立場を述べたものでが、両方ともに、比丘即ち僧侶は如何にあるべきかを説いています。勿論、暴力を以てせよ等とは述べられていませんが、降伏・呵責とは摂受的なものでなく、折伏に相当するのは明らかです。余程の恣意的思考の持ち主でなかったら理解できるはずですね。
「富士門流信徒の掲示板」で、どのような面白い反論が出来るのか、皆さんで楽しみにしておきましょう。

29レッドカード:レッドカード
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31shamon:2005/06/25(土) 23:19:44
「富士門流信徒の掲示板」のやり取りと見る限り、やはり犀角独歩さん=通りすがりは、まとまな議論の出来る輩ではありませんでしたね(笑)。

32伝六:2005/06/28(火) 09:21:53
これはメモのようなものですが、安楽行品は浅位始行の菩薩のために説いたというのが、台家の釈のようで、当家でもそれを採用していると思います。勧持品は深位後心の菩薩といいます。勧持品の迫害の予言を聞いて、これはとても自分達にできることではないと恐れをなした人達のために、刀に及ぶような迫害のこない布教を説かれたのが安楽行品ということになっています。そのために十悩乱を離れるというようなことが説かれています。ところで本尊抄の摂受は後心も後心、本化の菩薩の行じられるところです。だから本地の摂受行です。それで、安楽行品の摂受との関係はどうなるだろうかという疑問があります。蛇足ですが、我々は浅位始行というところまでも行っていないのです。

33shamon:2005/06/28(火) 10:12:01
犀角独歩さん(この掲示板で罵詈雑言を残していった通りすがり)は、自分の主張に違う文証はあくまで否定して、相も変わらず宗祖の言う折伏とは「首を刎ねること」のみであると威勢が良いようです。御遺文も、恣意的にしか読まないのでしょう。ついには、話が噛み合わないから、彼の「富士門流信徒の掲示板」では「話しかけるな、大聖人門下掲示板でも勝手にやれと言うようなことを川蝉さんに書いていますね(笑)。

「立正安国論」において、「客の曰く、もし謗法の輩を断じ、もし仏禁の違を絶たんには、彼の経文のごとく、斬罪に行うべきか。(涅槃経のように謗法の者の首を刎ねるべきか)」との問いに対して、宗祖は「夫れ釈迦の以前の仏教はその罪を斬るといえども、能仁の以後の経説はすなわちその施を止む。(それは釈尊がこの世にお現われになる前の仏教の話で、今の釈尊がこの世に現われてからは、殺害という罪を犯さず布施を止めて謗法を対治することである」と述べられています。即ち、日蓮聖人の「折伏」の思想では、釈尊も宗祖も「首を刎ねる」意味は取らないのは明らかです。

さて、観心本尊抄の「この四菩薩、折伏を現ずる時は、賢王となって愚王を誡責し、摂受を行ずる時は、僧となって正法を弘持す。」ですが、したがってこの折伏も「首を刎ねること」ではありません。ちなみに、誡責の「誡」は言偏に戒めると書きます。四菩薩である賢王は愚王を、誡責することによって折伏するのです。

また、宗祖が述べられている「摂受を行ずる時は、僧となって正法を弘持す」とは、ここで問題になっている安楽行品の如き摂受のことではなく、勝鬘経に説かれた「摂受正法」の意味でありましょう。この「摂受正法」とは、真実の教え(法)を受持することで、そのためには自らの身命を顧みることなく、他を利益せんと心がけることであると勝鬘経には説かれています。即ち四菩薩である僧は、不軽菩薩の如くに、他の利益のために不自借身命で正法を受持するのだと宗祖は述べられているのです。

34shamon:2005/06/28(火) 10:21:17
弘持とありますので、「正法を受持するのだと」→「正法を受持し弘めるのだと」に訂正

35伝六:2005/06/29(水) 09:31:18
今成師は如説修行抄を偽書だという。その理由の一つは「如説修行」という言葉は他の御書のどこにもないから、他の御書にない言葉の出てくる「如説修行抄」は偽書だという。あきれた理由である。如説修行は法華経の金文にあるではないか。本尊はあれども不如説の修行では利益をあらわすことはできない。真筆の御書はかけがえのないもので、これからも厳重におまもりしていかないといけないが、真筆のない御書にはよらないというのは、乱暴な話で、天台三大部の真筆はのこっていないだろう。真筆以外は依らないことにすれば、天台宗はなくなってしまう。コーランのマホメットの真筆などない。コーランに依らないとなるとイスラム教は成立しない。真筆御書以外は依らないというのは、世界の宗教のなかでも例外的ゆきかたである。何を苦しんでそういう例外的やりかたをするのか。日蓮聖人は「如説修行抄」末法今のときの「如説修行」は折伏であると言われている。

36伝六:2005/06/29(水) 09:40:26
訂正します。日蓮聖人は「如説修行抄」に、末法今のときの「如説修行」は折伏である・・・・で「に」が脱落しました。蛇足に似ますが、日蓮聖人の行動が折伏のお手本で似非折伏は問題外です。

37犀角独歩:2005/06/29(水) 11:49:29

お邪魔します。ここに投稿する気にはなれないのですが、どうも、ここは、わたしのことを話題にしたいようなので、致し方がありません。わたしを名指しにしたときは書くことにします。

shamonさん、わたしに異論があるのであれば、わたしに言いなさい。
議論が噛み合わないと入ったのは、わたしではなく、川蝉さんです。
わたしのことを威勢がいい。文句は直接、本人に言わないと、ただの虚勢を張った恐がりと映るんじゃないのかな(笑)

わたしに直接、ものを言わず、ここで悪口を書いているあなたに比べれば、威勢がいいことになりますか。

なお、刎頭が折伏とは日蓮聖人が『開目抄』に引用の以下の文です。

「止観に云く ̄夫仏両説。一摂二折。如安楽行不称長短是摂義。大経執持刀杖 乃至 斬首是折義。雖与奪殊途倶令利益〔夫れ仏に両説あり。一には摂・二には折。安楽行に不称長短という如きは是れ摂の義なり。大経に刀杖を執持し、乃至 首を斬るというは、是れ折の義なり。」

首を斬れと書いてありませんか。
また、わたしは、この止観、大経の如く斬首=折伏を日蓮聖人はやっていないと書いてもいますが。

38犀角独歩:2005/06/29(水) 12:17:58

掲示板管理者様
shamonsさん

もう一点、書いておかなければいけません。

> 犀角独歩さん(この掲示板で罵詈雑言を残していった通りすがり)

既に富士門流信徒の掲示板では調査もされましたが、わたしは「通りすがりさん」ではありません。

このような言いがかりはたいへんに不愉快であり、わたしの名誉を傷つけます。

フリーBBSをわたしも使っていますが、『管理者メニュー』は投稿者IPを見ることが出きます。同時間に違うIP投稿などできるはずはありません。このIPの件については、富士門流信徒の掲示板で、通りすがり氏も記していました。(この通りすがり氏がどなたであるか、既にメールも頂戴し、お会いもいたし、確認済みですが、匿名性を有するこの場でそれを記すことは、また、名誉とプライバシーを侵害することなので、敢えていたしません)

管理者様におかせられては、速やかに調査され、33の削除を申し入れるものです。

わたしは当掲示板に参加する意志もありませんし、ましてや荒らしと誤解を招くこともいたす気はありません。しかし、今後とも、shamonさんには、陰口をたたき、わたしの名誉を傷つけるのであれば、逐一、こちらに投稿し、抗議することを申し添えるものです。わたしは、そのような投稿を積極的にしたいわけではありません。致し方のない措置であると
管理者様にはご了解いただくほかありません。
掲示板が示す「大聖人」の御名を傷つけぬ運営を説にお願い申し上げるものです。

以上です。

39川蝉:2005/06/29(水) 14:59:55
日向上人の「金綱集 」

日向上人の著述に「金綱集 」があります。由来所伝等は中条暁秀教授の「日蓮宗上代教学の研究」(平楽寺刊)に詳説してあります。

日蓮宗事典では「日向が日蓮聖人より聴聞したところに基づいて諸宗の大綱を記述した著書」としています。
その「金綱集・第十下・法華経の事 」に、

「天台大師は一代聖教を摂受折伏に摂す。
一、摂受とは、世間(世界悉檀)の文に当たる。安楽行品の意、世界歓喜為人生善之意なり。・・・

一、折伏門とは、世間の武に当たれり。不軽品の意、対治破悪是れなり。・・・」
(宗学全集第十四巻495〜502頁往見すべし)

と摂折について記述しています。

「金綱集」は「一代五時図 」に基づく日蓮聖人の講義が骨幹になっていると見てよいと思います。
故に、日蓮聖人が不軽菩薩品を折伏門に当てられていたことを証する資料と云えましょう。

40伝六:2005/06/29(水) 22:19:32
川蝉さん、今晩は。御教示ありがとうございます。金綱集は見たことがないので、参考になりました。竜樹菩薩の大論によれば、四悉檀に一代聖教を摂することができるわけで、それをさらに簡単?にして摂受折伏に摂するということだと考えます。不軽品が対治悉檀であることも論理的にうなづけます。ただ引用の部分だけですと、天台大師はこう考えていたということのようで、日蓮聖人の見地は別ではないでしょうか。というのは下種の法門があるからです。

41伝六:2005/06/30(木) 16:31:32
仏が佛教を説いたのは、衆生を救うためである。その救い方を二つに大別すると摂受と折伏である。摂受のほうは、平たく言うとほめたりすかしたり、あぶなく思ってもハラハラしながら、見ていて、機会をみて教えてやろうというようなやり方で、折伏というのは、きつく言って、ときにはどやしつけるようなやりかたで、悪いことをやめさせる説法ということになると考えます。慈悲の発動の二方面で、摂受になるか折伏になるかは衆生の「機」によるのです。「機」の集合したものが、「時」であり「国」と考えられます。我我に「機」を判定する力はない。日蓮聖人も「機」の判定は佛説によられたと信じます。話はかわりますが、今の世はどうですか、立正安国はどうなっていますか。煽邪亡国の動きが大きいのでありませんんか。どうしても対治悉檀としての折伏を発動しなければ、(本化上行の折伏とはちがいます)。世は救えません。世が救えない佛教なら、苦しんでやる必要はない。


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