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摂折について。

1川蝉:2005/06/10(金) 13:54:45
「摂受を行ずる時は、僧と成つて正法を弘持する」について。

「摂受を行ずる時は、僧と成つて正法を弘持する」の直ぐ前に
「今末法の始め小を以て大を打ち権を以て実を破し、東西共に之を失し、天地顛倒せり。・・・此の時地涌の菩薩始めて世に出現し、但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ。因謗堕悪必由得益とは是なり。」(昭定719頁・学会版253頁)
とあります。

この文意は
「末法の初めである今は、謗法盛んであるから、妙法蓮華経の五字をもって下種結縁しなければならない時である。汝の信仰は謗法であると強く批判されれば当然、反発し日蓮に怒りを抱き日蓮を誹謗迫害するであろう。しかし、下種結縁によって、やがては法華経を信受する暁を迎えるであろう。
日蓮の採るこの而強毒之の弘経方法は、不軽菩薩が強いて、二十四字を専ら説き礼拝する事を誹謗した者達が、悪道に堕ちたものの、結縁の因縁をもって、やがて信受し救われた、と云う事と同例である。」
と云うものでしょう。

末法の初めは、大判すれば、本未有善の機、謗法の機なので、一念三千の仏種である妙法五字を強いて聞かせ下種結縁しなければならないと云う五義判からの結論に立って、当然起こる法難迫害を忍んで(摂受して)他の謗法を批判し妙法信受を強く迫る化導法を採る(道門折伏)というのが本尊抄の立場であることが分かります。

このように大判としては道門折伏ですが、細判としては道門折伏一辺倒ではありません。
富木殿の再度の法論を止められたことなどが例です。

次直ぐ後の
「摂受を行ずる時は、僧と成つて正法を弘持する」
と矛盾があるのではないかという意見が出てくるのですが、日蓮聖人の思考が分裂していない限り、同一論文の中で異なる見解を述べる筈はないわけです。

そこで、
「折伏を現ずる時は」の折伏とは涅槃経の有徳王の如き、俗人、身行の折伏で、行門の折伏であり、「摂受を行ずる時」の摂受とは行門の摂受で、日蓮聖人は折伏はせられたが、それは出家、口、意の折伏で、教門の折伏であり、行門の折伏でないと古来から会通されています。

そうした先師の見解に基づき
「日蓮聖人御遺文講義2」に担当の石川海典師が
「摂受を行ずる時の聖僧は『正法を弘持す』とあるから、此の摂受は口業の師子吼を意味する。
此の聖僧の師子吼を摂受としているが、其の実は折伏である。事実聖人御一期の大師子吼は本化の上首たる上行菩薩が、聖僧と示現して正法を弘持した以外のものではない。・・・何が故に標準御書の観心本尊抄に之を摂受としてあるかを究める要がある。そしてそれは結局、在家と出家、僧と俗と異なるによって其の修行の形式に寛厳の相違があり、出家たり僧たる者の折伏は、之を在家たり俗たる者の折伏に比する時は摂受と云われる。口業の師子吼は身業の武力に比すれば猶摂受なりという意味に外ならない。・・・大師子吼は折伏ではあるが、之を刀杖斬首の如き行門の折伏に比する時は、なお多分に摂受の傾向を含むから、聖僧の正法弘持を摂受とされたのであろう。」(321頁)
と解釈しています。


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