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摂折について。

4川蝉:2005/06/16(木) 15:21:53
不軽品と安楽行品

「法華玄賛」の
「安楽行を行じて威勢比無きことを顕わさんと欲し、我れ不軽と為って安楽行を行ず、衆生時に我れを損害せんと行じて初めは苦を受くと雖も還りて我が力に由りて並に仏道を得」(国訳一切経経疏部五・369頁)

と云う解釈に対して、妙楽大師は安楽行品と不軽品とは儀に(化導形態に)十別があるとしています。
(数えたら十一別ありました)
十別の内、八別を挙げてみますと、

一、彼は(安楽行品は)則ち法座に安処して、問いに随って為めに説く。此れは(不軽品は)乃ち遠く四衆を見て故らに往いて礼拝す。

二、彼は則ち難問する所あらば、方に乃ち為めに答う。
此れは乃ち瓦石を以て打擲するに猶強いて之を宣ぶ。

三、彼は則ち常に座禅を好んで空閑の処に在り。
此れは乃ち読誦を専らにせず、衆に入って申通す。

四、彼は則ち深く法を愛する者には為めに多く説かず。
此れは乃ち虚妄の謗りを被るとも、仍を強いて称揚す。

五、彼は則ち初めに云何してかこの経を読説せんと問う。
此れは乃ち但だ作仏の一句を流通すと云う。

六、彼は則ち初めに理観を修して十八空を観ず。
此れは乃ち但だ一句作仏の解を懐けり。

九、彼は則ち解髻の譬えに約して二乗の権を開す。
此れは乃ち結縁に約して一乗の実を表す。

十、彼は則ち順化なるを以ての故に軌儀を存す。
此れは乃ち逆化なるを以ての故に恒の迹を忘る。
(法華文句記巻十中・大正348・b)
等と化導形態の違いを挙げています。

天台大師は端的に
「本未だ善有らざれば、不軽は大を以て而して強いて之を毒す」
と述べている意を広げて、妙楽大師は十別を挙げていると見るべきです。
両大師とも、不軽菩薩の化儀(化導形態)は、安楽行品の化儀とは異なっていると見ていたことは明らかです。

「法華文句」に
「軽んぜずして深く敬うは、是れ如来の座なり。打罵を忍は是れ如来の衣を著するなり。慈悲心を以て常に行じて替へざるは即ち如来の室なり。
又深く敬うは是れ意業、不軽の説は是れ口業、故に往いて礼拝するは是れ身業なり、此の三と慈悲と倶なるは即ち誓願安楽行なり。」
と有ります。
「 即ち誓願安楽行なり。」とあるから、「不軽は安楽行であり、不軽=摂受の安楽であれば、不軽を折伏に配することは矛盾を来す」と解釈する人がいます。

上掲の「法華文句」の文意は、不軽菩薩の化儀は、法師品の衣座室の三軌に通じ、不軽菩薩の慈悲を基にした化導の心地は、安楽行品の誓願安楽行の心地と変わりないと云う意味であって、不軽菩薩の化儀と安楽行品の化儀と同じであると云う意はありません。


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