したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

PC関連スレ

1■とはずがたり:2002/11/04(月) 22:01
新規購入を検討するスレ

2045とはずがたり:2017/02/06(月) 19:27:38
【連載】
巨人Intelに挑め! ? サーバー市場に殴りこみをかけたK8
http://news.mynavi.jp/series/amd_k8/001/?lead&utm_source=MyTimeLine&utm_medium=win8&utm_campaign=win_app
吉川明日論
[2016/06/20]

[1]AMDのCPU開発史と連載を振り返る

さて、昨年3月から始めた私の連載記事は間断なく9カ月も続いたが、年明け以来、しばらく怠けていたらもう初夏になってしまった。編集部から、続きをというありがたいお話をいただいたので書き進めることとする。

…私の連載もちょっと間が空いてしまったので、ここでAMDのCPU開発歴史と連載記事の順序を振り返ってみたい。この連載はK7(Athlon)から始めた、というのもK7が私の24年にわたるAMD社での経験で一番エキサイティングな製品であり、思い出深いイベントであったからだ。K7の話の後はAMDとインテルの確執の起源から始め、80286、386、486、K5、K6と続けたが、今回のシリーズで書くのはK8である。…

ここでAMDの開発したCPUとその概要についておさらいしたい。

http://tohazugatali.web.fc2.com/PC/001l-2.jpg

私のこれまでのAMD回想録は、K7からスタートし、386のリバースエンジニアリングの話に戻り、K5、K6までを綴ったものだ。今回お話したいのはK8である。いよいよ終盤にかかってきた。

上の表のビット幅という欄でお分かりのようにK8は32bitから64bitに進化している。K8の話に入る前に、ここで少しCPUのビット幅について簡単に述べる。

CPUとビット幅

現在のCPU(コンピューター)のすべては2進法によって演算をしていて、1ビットが2進数の一桁を意味している。CPUが演算する時に一時に扱えるデータ、あるいはプログラムのビット数を"ビット幅"、あるいは"データパス幅"と言う。

よくメモリ容量でビットやバイトという言葉が出て混同されるが、ここで言うビット幅とは、どちらかと言うと高速道路の車線数のようなイメージである。車の速度はほぼ一定だとすると、道路の幅が広い(車線数が多い)ほうが一気に流れる交通量が多いのと同じように、ビット幅が広ければ広いほど(8ビット<16ビット<32ビット<64ビット)CPUの処理能力は高くなるといってよい。もっとも、高速道路との比較と違いCPUの場合は動作周波数も上がってゆくので、厳密に言えば個々の車の走る速度も上がっては行くが。

メモリの総容量の話になると、高速道路よりサッカー場のイメージのほうがぴったりくるだろう。サッカー場の座席数をイメージしてみよう。当たり前の話だが、サッカー場では座席数が大きければ大きいほど多くの観客を収容することができる。ただし実際のサッカー場の場合と半導体メモリが違うのは、サッカー場では物理的な座席のサイズは一定なので、座席数を増やそうとすれば、自然とサッカー場全体のサイズが大きくならざるを得ないが、半導体メモリでは、記憶素子数(座席数)が16ギガバイトから64ギガバイトに増えるのに、チップサイズ(サッカー場の大きさ)は変わらない。という事は、全体のサイズが変わらないサッカー場により多くの座席数を詰め込んだ状態である。これを可能とするのが半導体微細加工だ。

さて、CPU(コンピューター)のビット幅であるが、最初に固体半導体素子(1つのシリコンチップ)のCPUとして開発されたのはインテルの4004である。これはビット幅4ビットのCPUである。この4ビットのCPU4004は日本の電子計算機会社の要望で設計された。1970年のことである。それから50年弱の間にCPUは高速化し、小型化し、汎用化され今では我々の身の回りにあるスマートフォン、電子機器、白物家電など電気製品のほとんどすべてに制御用のCPUが使われている。既に4ビットのCPUはほとんどなくなってしまったといってよい。

用途別のCPUのビット幅は次のとおりである。

8ビット・16ビット:一般的な家電製品(エアコン、洗濯機、電子レンジ、それらのリモコンなど)、および、自販機、券売機、工業用の組み込みシステムなど。
32ビット:スマートフォン、セットトップボックス、ゲーム機器、薄型テレビ、デジタルカメラ、ネットワークシステムなど。
64ビット:PC,高性能ゲーム機器、ネットワークサーバ、ワークステーション、高性能ルータ、スーパーコンピューターなどの大量データを高速で処理するものなど。

要するに、高い処理能力を要求されるコンピューターほど幅広のビット数を備えたCPUを要求されると考えてよい。…

2046とはずがたり:2017/02/06(月) 19:28:03

[2] AMD K8誕生の背景とダーク・マイヤーの夢
インテルの独占状態だったデータセンター市場

これまで私が回想録で述べてきたAMDとインテルのCPU開発競争は当時爆発的成長を遂げたデジタルプラットフォームであるパソコン(PC)用のCPU市場の話であった。しかし、PCとインターネットの爆発的成長とともに圧倒的に重要性を増していった市場があった。インターネットを縦横無尽に行き来する大量のデータのトラフィックを一手に引き受けるデータセンターである。

データセンターには何千、何万台ものサーバーボードが設置されており、典型的なサーバーボード一枚には2~4個のCPUが使用されている。その市場を独占していたのがインテルだった。基本的にはパソコン用に開発したアーキテクチャをコアにし、外部インターフェース、メモリサイズなどを大きくアップグレードしたものが市場を牛耳っていたインテルのサーバー用CPU Xeon(ブランド名)である。

前述したと思うが、サーバー用CPUの個数換算での市場サイズはPCの十分の一以下であるが、それに使われるCPUの単価は5~10倍である。それをインテルは独占しているのだからどれだけの利益がそこから稼がれていたかは想像に難くない。当時のサーバー市場の状態は以下のようなものであった:

1.市場全体が高成長であるがキーコンポーネントをインテルが独占
2.故に、いろいろな市場ニーズに反して単一技術、しかも値段が高止まり
3.競争原理がはたらかないので主導権が顧客よりもベンダーに移る
4.顧客は競合の登場を待ち望んでいる

この状態はAMDにとっては、"いつか来た道"、しかも相手がインテルとあっては、参入を画策したのは当然の流れであったろう。しかし当時の市場の状況に新参者が割って入るには大きな参入障壁があった。

1.サーバーの世界はPCと違って企業ビジネス、完全にB-TO-BのITの世界。
2.当時はIT(IT:Information Technology)という言葉はまだ新しく、IS:Information System、情報システム(略して情シス)と呼ばれていて、典型的な大企業の組織では総務部、経理部に属していた。そこにいる人たちは技術者と言うより、総務部でコンピューターにちょっと明るい人。基本的には官僚みたいな保守的な人たちばかり。
3.保守的な人たちなので、コスト、技術革新にはあまり関心がない(今から考えれば信じられない話だが)。完全に減点主義の世界で、問題を起こすことが命取り。当時よく言われたたとえ話は"IBMさえ使っていれば高くてもクビにはならない"、と言うもので、当時はメインフレームからクライアント・サーバーシステムに急速に移行している状態であり、最初のころはインテルCPUのサーバーでさえかなり"先進的"なものであった。
4.AMDのCPUはインテル互換で市場シェアを広げ、独自アーキテクチャのK7 Athlonでインテルからの技術的独立を果たし、コンシューマー市場では確固たる地位を築いたが、企業系システムの関係者の間では(一部の先進的ユーザーグループを除いては)"AMD? なにそれ?"、と言うのが厳しい現実。
5.インテルはクライアント・サーバーの世界でXeonというデフォルトのCPUの地位を築くと、その世界で既に存在した他の競合(IBM、HP、NEC、富士通など)を振り切るためにIA64と呼ばれる、独自のアーキテクチャによる64ビット化を目論んでいた。CPUはItanium(アイタニアム)と言うブランドである。

AMD技術陣のカリスマ ? ダーク・マイヤー

この状況にあって、"これは勝機あり"といよいよ確信したAMD技術陣のカリスマがいた。ダーク・マイヤーである。ダークはもともとDEC(Digital Equipment Corp.)で業界初の真正64ビットCPU"アルファ"プロジェクトを主導したチーフアーキテクトであった。その頃AMDには、インテルとの技術競争に敗れ、捲土重来を期していろいろな会社から集結した技術者がたくさんいたが、ダークはその中でもリーダー的な存在だった(ダークはその後2010年にAMDのCEOとなった)。

ダークが主導したAMDでの最初の製品はK7-Athlonで、これにはEV6などの先進的なバスなどアルファで培ったノウハウが随所に使われていた。私はダークとは仕事上何度も直接話す機会があったが、ダークの技術者としての夢はサーバー用の強力なCPUを開発し、ビジネス的に実現することだったのだろうと常々思う(その分、その後に訪れるモバイル化のトレンドにAMDが大きく遅れる結果にもなったとも思うのだが…)。とにかく、ダークと彼のチームが構想したK8プロジェクトは、素人の私にも"もしこれがあらかじめ宣言した機能、性能でもって、予定通り開発できたなら多分大成功するだろうな"、とはっきり理解できるような明確な差別化とアーキテクチャ上の優位性を備えていた。

2047とはずがたり:2017/02/06(月) 19:28:59

[3] K8開発当時の背景
64ビット市場の独占をも狙うインテルだったが…

K8の基本アーキテクチャとその優位性を述べる前に、AMDが対峙するインテルの状況をもう少し簡単に説明しておいたほうが解かりやすいであろう。

1.PC用CPUの大成功に乗り、インターネットの級数的拡大でさらに加速されたクライアント・サーバーシステム市場のサーバー側のCPUを独占したインテルは、今までのPCハードウェアの世界のチャンピオンだけでなく、IT界全体のチャンピオンになりつつあった。
2.その中で、インテルはサーバーのハードウェアの要件が従来の32ビットコンピューティングから64ビット化する過程で大きな賭けに出た。当時IBMの向こうを張ってサーバー市場でぐんぐん実力をつけるHP(ヒューレット・パッカード)と組み、それまでのサーバーの遺産(レガシー)を断ち切って、全く新しいエコシステム(ハードとソフト)を提示することにより、市場独占を確固なものとするための無敵の64ビットCPU:Itanium(アイタニアム)を開発する。
3.Itaniumの基本アーキテクチャは、従来のインテルの看板だったx86命令セットとは互換性を断ち切り、VLIW(Very Long Instruction Word)の命令セットを定義した。これは提携パートナーとして選んだHPのEPICアーキテクチャを採用したものである。今までのx86の命令セットにはエミュレーションで対応。エミューレーションモードでもハードの性能が高ければ総合性能での低下をカバーできる。
4.この戦略は、インテルの上位サーバーへの本格進出を加速させるために、AMDなどの互換プロセッサの市場参入を一気に振り切り、当時同じ目的(上位サーバーへの進出)をソフトウェアの側面から加速させようとしていたマイクロソフトをけん制する意図もあった。 と言うのも、マイクロソフトは自身の競合であるUNIX陣営と対抗するために、サーバー用のWindows NTをインテル以外のプロセッサ(MIPS、 DECのアルファ、 IBMのPowerなど)に次々と対応させていたからだ。
5.ただし、Itanium独特のCPUアーキテクチャはマイクロプロセッサの設計上、製造上の複雑さを解消する代わりに(そのはずであった…)、ソフトウェア(コンパイラ)の複雑さを要求するものである。

要するに、PCで独占的地位を築いたインテルが上位サーバーへの進出を目的に、同じ目的を持ったサーバー市場の雄であるHPと組んで、本格的な64ビット市場が形成される前から市場独占を狙おうという野心的な戦略であった。これは全くもってインテルらしい思い切りの良さである。

この戦略からは、下記の市場からの反応が容易に想像できる。

1.NEC、日立などのHPのパートナー以外のサーバーベンダー(インテルにとっては顧客)からの反発。当時新興勢力であったDELLなどはその最たる例だろう。
2.上位サーバー市場でソフトウェア面から主導権を握りたいマイクロソフトとの軋轢。このあたりからPC市場で無敵のビジネスモデルと言われたウィンテルに秋風が吹き始めた。
3.インテル、マイクロソフトの覇権に対し独立路線をとろうとするSPARCアーキテクチャを擁するサン・マイクロシステムズ、そしてインテル、マイクロソフトなどの新興勢力のコンピューター市場侵攻を苦々しく思っていた御大IBMらの対抗心の増幅。
4.そして何より、これらのハード、ソフトベンダーたちの勢力争いに翻弄されながら、日進月歩の企業ITを支えるエンドユーザーである企業IT部門の不満。

極端な話に翻訳すると、ある日突然会社に出入りしているサーバーベンダーの営業が現れ、"次の64ビットではインテルが提唱するItaniumというアークテクチャに移行するらしいんですわ。それに移行すると今までの32ビットのソフトとは基本的には互換性がなくなるんですけれど、エミュレーションモードで対応するらしいんで大丈夫だと思いますわ。UNIXの対応はOKですが、マイクロソフトは今サポート開発中ですのでWindowsサーバーのソフトサポートもそのうち何とかなるでしょう…はっきり言って私らにもこの先の方向性はわからんのですわ…でも64ビット移行は市場トレンドなのでできるだけ早い時期にお願いできればと…"、などと話をされたらどうだろうか?そうでなくても、社内ユーザーからは問題発生の度に文句を言われ、上司からも予算を削れとプレッシャーをかけられ続けている。自己中心的な独占ベンダーに翻弄されるITマネージャーの不安→不満→怒りは想像に難くない。

2048とはずがたり:2017/02/06(月) 19:29:21

これらの状況を考えるに、AMDがインテル対抗軸としてPC市場だけでなく、今まさに64ビットに移行しようとしているサーバー市場に打って出るのは必然であったと思われる。x86命令セットを備える高性能CPUのベンダーとしての実力は既にPC市場で実証済みだ。あとはインテルのIA64と差別化したコンセプトをいち早く定義し、それを製品に落とし込み、いかに賢くマーケティングするかにかかっている。しかもそれが実現すれば、インテルが市場独占で荒稼ぎしているサーバー市場に手が届くことになる。AMDの将来を支える確固たる財務体質構築のための重要な足がかりの第一歩である。

嘗てDEC(Digital Equipment)社で業界初の真正64ビットCPU"アルファ"を開発したエンジニア達は続々とダーク・マイヤーのもとに集まった。彼らは週末も関係なく集まり、何度もブレーンストーム会議をやり、どうやったらこの素晴らしい機会をAMDのビジネスとして取り込めるかを昼夜話し合った。

その結果がAMD64アーキテクチャである。

[4] AMD64アーキテクチャとK8のハードウェアの特徴

"インテルをぶっ潰す"という思いを込めて、K8の社内での極秘開発コードネームは"SledgeHammer(スレッジハンマー:大型の鎚の意味)"であった。例によってこの極秘のプロジェクトは、AMDのマイクロプロセッサ設計エンジニアの精鋭部隊が集められ、基本アーキテクチャの構想から約4年の短期間でCPUの設計を終えた。その間、食いぶちのK7 Athlonの改良も進められていたのでエンジニアリングのリソースはカツカツであったが、前述したIntelの64ビットコンピューティング戦略IA64に対し、ダーク・マイヤーに率いられたAMDのチームは明確に差別化された素晴らしい製品を完成させた。その基本アーキテクチャはAMD64と命名された。以下にAMD64の概要を示す。

これまで32ビットであったx86命令を64ビット幅のデータやメモリアドレスに対応できるよう拡張した命令セットを定義。
x86命令セットを引き継ぎつつ64ビットへの拡張を行っているので、64ビットに拡張されたソフトウェアは高速に、32ビットのソフトウェアも従来に劣らぬ速度で実行することができる。
実装するCPUは同一コアでサーバー用のものとPC用のものを用意する。サーバー用CPUはUNIXおよびWindowsに対応、またPC用CPUはマイクロソフトが進めている64ビットWindowsに対応する。
このアーキテクチャが意味することは、野心的製品K7でインテル互換路線を捨てハードウェアでの独自性を打ち立て大成功した後に、ハードウェアでのみならず、ソフトウェアでもインテル互換を捨てるという大きなステップを踏み出すということである。つまり、それまでインテル互換品というイメージが付きまとっていたAMDが、本当の意味での独自のCPU経済圏を打ち立てるという画期的な意味合いがあった。 このアーキテクチャは過去のソフトウェア資産に対する互換性を継承しつつ、8ビット、16ビット、32ビットと順次性能を上げながら進化したそれまでのx86ベースのCPUのアーキテクチャの思想から考えると、至極自然かつシンプルなものである。AMDはこのアーキテクチャを実装したサーバー用CPUをOpteron、PC用CPUをAthlon64の製品ブランドで2003年にリリースした。
AMDはIntelが提唱する64ビットコンピューティングのIA64と対抗するブランドとしてその立場を明確に市場に打ち出せるように、アーキテクチャのブランドAMD64、製品ブランドOpteronとAthlon64のロゴマークを開発しマーケティング活動を開始。いずれも伝統的なAMDのロゴを頭にあしらい、その下に大きく数字の"64"と記した。このデザインは今でも個人的にはよい出来であったと思っている。

それまでのAMDの製品ブランドのロゴマークはどちらかと言うと統一性がなかったが、この時期にはAMDのマーケティングも洗練されてきた。

Opteron(オプテロン)の命名には"最適化(Optimize)"のOptとK7 Athlonの響きを継承する配慮がなされ、Athlon64はK7 Athlonの製品名に64を足した明確なメッセージがこめられた。

Opteronは独自のAMD64基本アーキテクチャに加えて、ハード面でいくつかの革新的な特徴を備えていた。以下にOpteronのハードウェアの特徴を示す。

AMD64命令セットを採用、UNIXとWindowsを32ビット・64ビットモード両方でサポート
3基のHyperTransport(ハイパー・トランスポート)インターフェース(これが超高速!!)
2・4・8ソケットのマルチプロセッサ構成可能なSocket940に対応
メインメモリとしてDDR SDRAM(ECCエラー補正機能サポート)
DDRメモリコントローラ内蔵 (これが高性能の大きな要因!!)
クロックスピード1.4GHzから世代が進むにしたがって3.2GHzまで発展
プロセスルール130nmでスタートし45nmまで進化

2049とはずがたり:2017/02/06(月) 19:29:31
今から思うと、K8の開発は多少の遅延があったにせよAMDとしては異例の早さで、私はその仕様と実際のチップのサンプルを見た時に、"本当にやっちゃったんだ…"という驚きと、高性能CPUの開発に執念を燃やしたカリスマ的リーダー、ダーク・マイヤーと彼のチームの鮮やかな仕事ぶりに心底敬意を表した。これで、長年AMDが夢見たサーバー市場に参入し、インテルを相手にもうひと暴れできるのだという興奮を感じた。同時に、AMDの営業部隊には今まで全然経験がなかったサーバー分野の技術、市場、トレンドについてトレーニングが急ピッチで行われた。

このころAMDは今までの半導体デバイス営業の方法をがらりと変え、サーバーシステムの営業の手法をどんどん取り入れるために、半導体メーカーではなく、Dell、HP、IBMなどといったPC/サーバーメーカーからどんどん人材をリクルートした。

それまでガチガチの半導体ハード営業であった私にとっては、全く新しい分野であり正直言って最初のうちは何をどうやれば良いか解からなかったが、トレーニングを必死にやったのが奏功して、1年経つうちには何とかカスタマーの前でプレゼンができるようになった。実際はOpteronという半導体デバイスの営業であるが、その半分はソフトウェア、システムレベルの話であった。 (私の場合、実はそのほとんどが完全な受け売りであったのであるが、"聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥"と割り切れば何とかできるものだという事を実感した。その時の経験は今でも役立っている。)

その頃サーバー市場はインターネットの普及で級数的に伸びてゆき、競争が激化していた。故に、カスタマーはインテルだけがCPUを独占する状態に大きな不満を抱いている。しかも、こともあろうにインテルが仰々しく発表したIA64のItaniumプロセッサは、その設計上の困難さからか、スケジュールが遅れに遅れている。ようやく最初の製品を2001年にリリースしたが、その性能は惨憺たるもので、Itaniumにコミットしたカスタマーたちは非常に憤慨していた。

これはマイクロソフトとて同じであった。と言うのも、インテル・HPとの付き合いでItanium にWindows NTを移植してはいたが、Itamiumの遅れで普及が進まず、一向に出荷台数が伸びない状況はサーバー市場に足がかりを決めたいマイクロソフトにとっては苦々しいものであった。市場の環境とK8の登場はまさに絶妙なタイミングであった。



[6] Athlon64・Opteron発表
Opteronに自信を見せるAMD - "さあ、早く売ってこい!"

AMDは満を持して(といえば聞こえがいいが、非常に野心的なプロジェクトだったので実際の製品のリリースにはいくらかの遅延があったと覚えているが、詳細は忘れてしまった)、AMD64を実装した最初の製品であるサーバー用のCPU Opteronを発表した。2003年の4月のことである。 戦略的配慮からサーバー用のOpteronを先にリリースし、クライアントPC用の製品Athlon64 を9月に発表した。 戦略的という意味は下記の通りである。

サーバーの世界では64ビットコンピューティングは大きな関心事になっていた。Intelの64ビットのソリューションは市場の受けが良くない状況で、AMD64は十分に差別化が発揮される製品となるのは明らかである。
それに比べて、クライアントPCでの64ビット化はユーザーへの価値の訴求がいまいちで、マイクロソフトもVistaを準備するうえで64ビットコンピューティングを前面に出すべきかどうかについてなかなか明確なメッセージが出せていない。
Intelのサーバー用CPU Xeonと同じように、OpteronとAthlon64は基本のCPUコアを共有しているので先にどちらの製品をリリースするかは製造上の問題は大きくない。

こんな状況で当時AMDのマーケティング部にいた私は、Opteronの市場開拓をするための戦略策定でとんでもなく忙しかった。また、前述したようにクライアントPCの世界しか経験していなかったのでサーバー市場を理解するための勉強も大変だった。しかも日本のサーバー市場は非常に保守的で新しい技術を積極的に取り入れる状況ではない。K6/K7をコンシューマー市場で売るのにあれほど難儀したのに、全く実績がないサーバー市場にAMD製品を拡販するのは大きなチャレンジだと思った。勝機はAMDのOpteronが競合インテルに対してどれだけ差別化された製品で賢くマーケティングするかにかかっている。

本社はOpteronにかなりの自信を持っていた。"これだけの製品を仕上げたのだからさあ早く売ってこい"、という感じで大きなプレッシャーを感じたが、同時に闘志が沸いた。さすがにインテルの64ビットに対し明らかに優位性があり、カスタマーへの浸透は理屈だけで言えば容易なはずであるが、これが実際にはそう簡単に行かないのがビジネスの不思議なところでもあり、面白いところでもある。

2050とはずがたり:2017/02/06(月) 19:33:09

業界がAMDのサポートを表明

次第に業界でのサポーターも増えてきた。マイクロソフトはインテルの64ビットCPUにWindows NTを対応していたが、何しろItanium の出荷の遅れと性能の悪さで市場に普及しないのにイライラしていた。業を煮やしたマイクロソフトは、AMDのOpteronの発表直前に(多分2003年の1月か2月だったと思う)、世界のソフト開発パートナーを集めて行う年間行事Developer Conference(通称デべコン)で突然AMD64のサポートを表明して業界を驚かせた。

マーケティング部の私はその発表が行われることは本社から知らされていたが、他言することはもちろんできない。その発表の直後、当時の業界有力誌の記者で懇意にしていたK氏から(K氏は今でも現役で頑張っていらっしゃる!!)私の携帯に電話がかかってきた。"吉川さん、マイクロソフトがデべコンでAMD64へのサポートを表明しましたよ!!これは大変なことですよ!!"、と興奮した声で現地からのリアルタイム報告である。これには非常に元気が出た。UNIX/LINUX陣営は早々にAMD64へのサポートを表明していたがマイクロソフトのサポートは業界全体へのインパクトは非常に大きい。

もう1つ大きな味方が加わった。HPC業界である。HPCはHigh Performance Computingの略語で、所謂スパコン(スーパー・コンピューター)の業界の人たちである。この分野ではもともとコンピューターの知識が圧倒的に豊富な人たちがやっているので、Opteronの優位性を説明する必要など何もない。それまでに発表されていたAMDの技術情報をいち早く入手していて、日本法人のマーケティングである我々よりも理解している人たちばかりだった。

そこで私は非常に重要な人物と運命的な出会いを経験した。東京工業大学の松岡聡教授である。当時CPUの性能が飛躍的に向上したのにつれて、PCを何百台、何千台とクラスター接合するなど、汎用CPUを利用してスパコンを組み立てる考え方が始まっていた。それまではベクター型の専用CPUをわざわざスパコン用に開発して膨大な費用をかけて組み上げるのが主流であったが、費用の問題と開発期間の問題で大きなチャレンジに直面していた。

松岡教授はOpteronの優位性にいち早く注目していた。シングルコアOpteronの発表後しばらくして、松岡教授率いる東工大チームは、2006年にデュアルコアのOpteronをベースにしたスーパークラスター“TSUBAME 1.0"を構築した。Top500の王座に2002年から2004年まで君臨していたNECのベクター型スパコンの雄、地球シミュレーター(地球上のあらゆる事象をこのスパコンで再現できるという意味でこの名前が付いた)を抜き去り、2006年6月のTop500初登場でいきなり7位にランクされた。この快挙に日本の、いや世界のスパコン業界が仰天し、"MATSUOKA・TSUBAME“はその後のスーパークラスター技術の主導権を握った。 この経緯については別のコラムで先生のお許しをいただいて、特別に話を展開したいと思う。私のAMDでの経験でかなり記憶に残る、また大きな誇りをもってお話しできるイベントであった。

前述のOpteronの発表会にはLinux、Suse、マイクロソフトなど企業系アプリケーションベンダー各社の代表がサポート表明のために登壇してプレゼンを行ってくれたが、ハードベンダーからのサポートはIBMだけであった。IBMはE325というHPC用のサーバーをOpteronで開発して、AMDのOpteron発表とともにサーバー製品をリリースしたが、その用途はHPC(PCサーバークラスター:スパコン)に限るという条件を付けて非常に慎重な態度であった。

いくらOpteronがインテルに対して優位性があるといえども、企業ユーザーはコンシューマー市場と違ってみな慎重だ。新しい技術の取り込みには時間がかかる。ただし、HPCのハイエンド・ユーザーはOpteronの優位性をはっきり認めているので実需要があるわけだから製品を出す、という大変に解かりやすい市場原理を適用したということだ。我々AMDのマーケティング戦略が輪郭を帯びてきた一方で、なかなか短期間には市場浸透は難しいという事を実感した。

2051とはずがたり:2017/02/06(月) 19:34:27

[7-9] 【番外編】AMDでのマーケティングで私が学んだこと

CPUのメーカーAMDのマーケッターとして1986年に入社した当時、私は半導体の技術的知識はおろか、マーケティングの基本的知識も持ち合わせていなかった。今から思えばよく入れたなというのが実感だが、入社後に経験したことがその後の私の成長を可能としてくれたことは幸運であったし、試行錯誤しながら学んだマーケティングというのは、ビジネスにおける感覚的な面を磨く上では非常に重要だと思っている。

初期の半導体のマーケティングは、技術者がデーターシート(製品仕様書)を片手に、手あたり次第主要顧客(相手もエンジニア)をまわる、という単純なものであった。営業は客のニーズを吸い上げるために飲み会に顧客を誘い関係を築き、購買部長を味方につける(抱き込む)、という解かりやすい方式である。

その当時のマーケッターとしての私のメインの仕事は、英文の技術資料、マーケティング用パンフレットなどの日本語化と、広告宣伝、PRなどであった。…

私が入社するまでは本社USで作成した広告のイメージに日本語訳をつけると言うものであった。この広告からスタートした一連の"日本ものシリーズ"は、日本で企画・立案・制作を全てやるという手の込んだものであるが、当時AMDは日本市場に注目していて(私が採用された理由の大きな要因はこれである)、日本独自のマーケティング活動の解かりやすい結果として社内では大変注目を浴びた。

今だから話せるが、実はこの広告の私の狙いはもう1つあった。結果がすぐに出なければ解雇もありうるという外資系で腰を落ち着けて働こうとすれば、まず自分のポジションを確立するのが先決だと思い、広告イメージのアピール先を日本の顧客だけでなく、US本社の連中にも向けていた。この点では大いに効果があった。

前述したAMDのCEOジェリー・サンダースは広告好きで有名だった。要するに目立ちたがり屋で、自分の会社がどう外部に表現されているかについては常に興味を抱いている。これは、広告宣伝部長にとって最悪のケースである。社長の鶴の一声で仕込んだ企画がおじゃんになったり、突然新しいキャンペーンの指令が下ったりといったことが日常茶飯事であった。

ある日私の直属の上司、AMD本社宣伝部長のダン・バーンハートから電話があった。前回の電話の時は次の日の便でロス・アンゼルスに飛び乗り、ジェリーに日本語パンフレットを手渡しに行く羽目になったことがあったので、電話があって"広告の件だが"、と言われた時には少し身構えた。ダンは"ジェリーが今回の日本ものシリーズを大変気に入っている、CMOSの広告を大きなポスター用に何部か作ってすぐ送ってほしい"、という事だった(実際その後本社を出張で訪問した際に、この広告のポスターが本社の事務所の壁に額に飾ってあったのを見た時には本当にうれしかった)。ほっとして電話を置こうとするとダンは続けて、"ところで次のISDNの広告だけれど、ゲラを見たが日本画のテーマが実に面白い、ジェリーは最終稿には色を一切つけないで白黒調で通すようにと言っているが大丈夫だろうね"、と言う。私は"もちろんそのつもりですよ、水墨画ですからね"、と答えた。1000人規模の会社になっていたAMDのCEOがそこまで見てくれているのは大変ありがたく、私のAMD全体でのポジションが認知される点では大成功であったが、同時に"ヘマをしたら危ない"という実感がわいた。

その後も、私と某広告代理店のチームは結構ド派手な広告を連発した。ある広告では"飛び出す絵本"、の技法を使い、右と左で違う色(赤と青)の専用メガネを広告に挿入し、6-8ページにわたる大々的な広告をやり、ある雑誌の年間広告大賞を戴いたこともある。

これらの広告は業界で注目されたが、実際の売り上げにどれだけ貢献したかは測定もしなかったので解からない(今では考えられない話である)が、大変楽しかったのは確かである。古き良き時代の事だとご容赦願いたい。

このような感じで、私のAMDでのマーケッターとしての仕事が始まった。私はもともとマーケティングの基本を勉強したことはないが、本社の人間とのやり取りで実に多くのことを学んだ。

それもそのはずで、シリコンバレーの有名企業となったAMDには現地ではスタンフォード大学、カリフォルニア州立大学などでマーケティングの最先端を勉強した優秀な人たちがこぞって働いていたのだから、申し分ない環境だった。しかも、給料をもらいながら勉強できるのだから最高である。

2052とはずがたり:2017/02/06(月) 19:34:45

半導体市場が急速に成長するにしたがって、マーケティングの在り方もどんどん発達していった。それまでのシリコンバレー企業のやり方―経営者の直感で、新しい分野でのポジションの確立を狙って差別化された製品をとにかく早く出して、他社を出し抜く―というやり方はだんだん通用しなくなっていった。初期の半導体ビジネスではマーケティングは"本当の技術が解からない人たちの胡散臭い仕事"と言うイメージがつきまとっていたが、技術主導のやり方に限界が生じマーケティングの重要性が増していった。そこにいち早く目をつけた企業がインテルである。

インテルが1990年代に始めた"インテル・インサイド"マーケティング・キャンペーンは今でもMBAのクラスでは度々取り上げられるケース・スタディーで、近代ハイテク・マーケティングの草分けである。私はAMDで働いてはいたが、実はインテルと争うためにインテルのマーケティングから多くを学んでいたのだ。

インテルの"インテルインサイド"キャンペーンの起源については諸説あるが、最近私が読んだ"インテル"と言う本(書評を書いたのでご興味がある方はこちらをご参照)によると、このキャンペーンを主導したのは当時のマーケティングVPのデニス・カーターで、その草案を社内で検討した際にほとんどの幹部が反対したが最終的には当時CEOのアンディー・グローブが鶴の一声で決済したのだという。

カーターはインテルインサイドの構想にたどり着く前に"286レッドX キャンペーン"、というのを成功させていた(このキャンペーンについては私の連載の386の章>>2041で詳しく述べている)。要するに、AMDが286の改良阪でインテルの市場シェアを取り始めた時に、市場をインテルの新製品386に出来るだけ早く移行させようと286に赤いバッテンをつけて386に強引に移行させるという大胆なキャンペーンである。

パソコンの頭脳であるCPUの集積度が増して、メモリ以外のほとんどの半導体要素がCPUに取り込まれていく過程でインテルはもはやCPUの会社ではなく、PC(パソコン)そのものを売る会社に意識が変わっていった。CPUはPCに搭載されて初めてエンドユーザーに使われる。市場がどんどん成長するPCにとって一番重要な部品のCPUの市場を独占するのであれば、PCを造るメーカーはどこでもいいわけだ。要するにインテルの直接の顧客であるPCメーカーはインテルにとってはディストリビューター(流通)であるという考え方である。大変大胆で不遜な考え方であるが同時に的を射ている。

独占した市場で更に成長したければ、重要なのは“市場そのものを大きくする"、また“自分の売りたいマージンの高い製品を市場に受け入れさせる"ことであろう。これはマーケティング的に考えれば至極当然な結論である。もちろん、インテル=PCというイメージを定着させることによってAMDなどの競合を寄せ付けないというのが主目的であったことは言うまでもない。インテルは1990年代にこのキャンペーンに5億ドル以上(500億円以上)使ったという。インテルのテレビコマーシャルはPCのエンドユーザーに、普段は目にすることのないCPUという半導体製品がPCの頭脳としてPCのマザーボードの真ん中に鎮座していることを認知させることから始まった(CPUを見るためには、ねじを外してPCの箱を開ける必要がある)。

今でもはっきり覚えているが、このテレビコマーシャルを初めて見た時には何を訴求したいのか全く分からなかった。いきなり観客の視点がパソコンのフロッピーディスク(こんな言葉も今は死語である)の入り口からPCの中に入りCPUの上まで来て、"パソコンの頭脳インテルのCPU"と言って終わる30秒のクリップを見た時に"なんじゃこりゃ?"、としか反応できなかったのを覚えている。当時の私にとってはあまりにも斬新な考え方だったので、インテルの意図が全く分からなかった。インテルはこのキャンペーンで自らがパソコン市場のサプライチェーンの頂点に立つ独占企業としてのポジションをはっきり市場に示したのである。この含意について私がその全貌を知るのにはしばらく時間がかかったが、その後インテルの市場独占戦略は独禁法に絡むAMD対インテルの法廷闘争に発展し、その収束まで見届けた今の私にはよく理解できる。

驚くべき効果

最初に私が当惑したのは、インテルインサイド・キャンペーンの費用対効果である。

当時パソコンの宣伝は大変に多かったが、その中で私が強烈に覚えているのはアップルのMACの“Think Different"キャンペーンだ。そのキャンペーンが盛んだった頃、ちょうど私は出張でサンフランシスコにいて町のいたるところでこの素晴らしいキャンペーンのポスターを見てため息が出るほど感銘したのを覚えている。アップルマーケティングのブレインであるシリコンバレー・マーケティングのレジェンド、レジス・マッケンナの発案によるその後の歴史に残る傑作キャンペーンである。このキャンペーンの広告の要素はたったの3つである。

2053とはずがたり:2017/02/06(月) 19:35:00

1.Think Different というメッセージ
2.アップルのロゴマーク
3.独自な考え、斬新なアイディアでもって新しい世界を切り開いた歴史上の人々の写真:スティーブ・ジョブズ、ジョン・レノン、アルベルト・アインシュタイン、マハトマ・ガンジー、キング牧師、パブロ・ピカソ、などなど…

これが白黒の写真の中にシンプルに配置されていてともかくかっこいい。MACパソコン本体製品の写真は全く登場しない。"アップルのMACを使う人たちは、こういう独特の価値観を持ったひとたちなのです、あなたは?"、という消費者の自意識をくすぐる強烈なブランドメッセージでだれもがいきなりパンチを食らったような感じがしたに違いない。この広告はパソコン市場で激突するWindowsとアップルという構造で、“1つ上のランクのMACパソコンを1つ上のランクのあなたに"という非常に解かりやすいメッセージだし、そのセンスの良さで大きな広告効果を上げたことは容易に想像できる。インターネットを手繰ればたくさんイメージが出てくるが、著作権の都合上掲載できないのが残念である。インターネット上にはパロディー版も出ているので当時いかに注目されたかがわかるであろう。ため息の出るような広告なので是非チェックすることをお勧めする。

さて、インテルインサイド・キャンペーンであるが、こちらはいささか事情が込み入っている。インテルのCPU製品はPCに組み込まれて初めてエンドユーザーに届けられる。一般消費者が普段目にしない部品について一般ユーザーにブランドの意識を喚起することができるのだろうか?

マーケティング的に言えば、"Ingredients Marketing(素材マーケティング)"という分野は昔からあって、主にB to Bの場合が多いが、消費財でも成功例がある。例えばスタミナドリンクなどの宣伝で"XXXX何百ミリグラム配合!!"と連呼されるといかにもXXXXという配合されている物質が効果のあるありがたみのあるものに思えてくる。そもそも消費者はXXXXなどと言う物質がどういうものかを調べたり、意識しないだろうが、"なんちゃらというのが何百ミリグラム入っているんだったらビンビンに効くのであろう"、と思うし、その上位製品の“何千ミリグラム配合"の製品はさぞかし効果満点なのであろうという期待にもつながる。

インテルインサイド・キャンペーンはこの手法を高度な電子機器であるPCに持ち込み、莫大な資金を投じて世界的に展開した点で半導体業界では唯一無二の成功例である。キャンペーンCMの最後には“インテル入ってる、タンタンタンタン"、という印象に残る(私的には大変耳障りな)チャイムのような音(英語ではJingleと言う)で終わるところも広告効果に大きく貢献したと思う。AMDではキャンペーンの効果を確かめるために、Focus Group(一般の人に何人か集まってもらい、目的を伝えずに答えてもらうマーケット・リサーチの手法)をやった。手順は以下の通りである。

1.無作為に選ばれた一般の人に集まってもらう(いくらかの謝礼を渡す)。リサーチの目的は説明しない。ただこれからCMを見せますのでその後の質問に答えてくださいとだけ言う。
2.インテルインサイドを採用した複数のPCメーカーのPCのテレビ広告を見せる。
3.簡単な質問をする A) 何の宣伝かわかりましたか? B) 宣伝を見た後覚えているブランドを挙げてください
このリサーチでは驚くべき結果が得られた。複数のPCメーカーが流すCMを流すのであるから、NEC,富士通、ソニー、IBMと言ったPCブランドが連呼されるCMを聞かされているにもかかわらず、被験者の大多数が。

1.パソコンの広告ですね
2.インテル…かな〜
と答えたのだ。この結果は我々に大きな衝撃を与えた。広告主がパソコンメーカーであるにもかかわらず、各CMに最後に挿入される“インテル入ってる、タンタンタンタン"と言うエンディングが共通の認識になっていたという事である。インテルの目的は見事に達成されたという事だ。

私は、無敵の半導体技術リーダーとしてのインテルに加えて、巨額な資金を惜しみなく使ってこのキャンペーンを押し進める強力なマーケターとしてのインテルを意識した。

前述したように、初期の半導体のビジネスのやり方は技術者がデーターシート(製品仕様書)を片手に手あたり次第主要顧客(相手もエンジニア)をまわる、という単純なものであった。それまで我々がCPUを売りに行く対象はあくまでもCPUを買う直接の顧客(パソコンメーカー)であった。しかし、インテルのマーケティングがそれを変えた。

2054とはずがたり:2017/02/06(月) 19:35:19

お客のお客(エンドユーザー)に自社製品の価値を分からせるという点で今までのマーケティングとは大きく違っていた。"市場をセグメント化し、各セグメント毎に一番有効なメッセージを定義し、そのセグメントでのメッセージ発信に一番有効なメディアを使い、効率よくターゲットにリーチする"、などと言うMBAのコースでは定番の基本的なマーチャンダイズの考え方は現在のマーケッターにとっては常識だが、当時の半導体業界のマーケティングは黎明期でいろいろな試みが行われていた。その中で非常に独自で、突出して大規模なマーケティング・キャンペーン"インテルインサイド"は我々にとってはまさに仕事をしながら進化するマーケティングを同時に勉強する格好の機会となった。ただし、インテルインサイドは主にコンシューマー・ユーザー(個人ユーザー)を対象としたキャンペーンだった。当時、我々AMDが新しい商材として抱えていたのはOpteronというサーバー用のCPUである

Opteronが目指した市場は私が今までに全く経験したことがないIT(Information Technology)の市場であった。CPU・PCの市場を概観すると、その中身は個人相手のコンシューマー市場、大企業のIT部門が一手に購入決定をするエンタープライズ市場、企業であるが個別の案件のサイズが小さい中小企業市場、政府・官公庁などのパブリック市場、HPCなどの研究開発機関のR&D市場など、いろいろに分かれていてそれぞれが購入決定についての独自の要件を持っている。

前述したとおり、当時のAMDではいつの間にかトラディショナルな半導体営業、マーケッターは少数派となり、Dell、HP、IBM、SUNといったPC/サーバーのメーカーからリクルートされた人たちがどんどん入社してきた。これらの人たちは半導体については素人だがサーバーの市場原理をよく理解していた。 AMDが直接のお客のそのまたお客に直接売り込むのであれば、お客から経験豊富な営業、マーケッターを引き抜いてしまえというわけだ。私はトラディショナルな半導体屋であったが、これらの人たちのお蔭で何とかサーバーの市場原理を理解することができた。

営業はその業界での経験、人脈が決定的要素だが、マーケティングではそれほど関係なく原理的にはほとんど全ての市場でその手法は通用する。成功する手法の要件は、

1.明確な差別化、付加価値のメッセージ(これは多分に商品の出来にかかっている)。
2.製品自体のスペックもさることながら、製品が提供する総合的な価値が重要。
3.対象となるメッセージの受け手(Audience)の定義と、それらの人々のプロファイルの理解。
4.マーケティングにかけられる予算の確定とそれらを効率よく行うプログラムの策定。

それまで未知のサーバー市場を相手にマーケティングを開始する私は不安で一杯だったが、同時に何とかなるだろうという直感があった。その第一の根拠はOpteronという製品の出来の良さだった。インテルの競合製品に対し非常に明瞭な、かつ事実に裏付けられた優位性があったからだ。そこから導き出されるマーケーティング・メッセージは次の通りである。

1.32ビット・64ビットソフトウェアに同一ハードウェア(CPU)で高速に対応可能。
2.将来的なアップグレードが周波数向上とCPUコアの多重化(デュアルコア)で対応。
3.インテルのIA64よりも安価なプラットフォームの提供。

これだけいいことずくめだったら売れないはずがないと直感したわけだ。また、サーバー市場はコンシューマー市場と比較してAudienceのサイズははるかに小さく、彼らの技術的理解度は非常に高い、という事は大量の資金を投じた一般コンシューマー相手のインテルインサイドのような大規模マーケティングでなくとも、うまい方法さえ考えれば効率よく効果的な活動が可能であると思った。

2055とはずがたり:2017/02/06(月) 19:36:05
一番強力なのはOpteronを使った成功例を集めてそれをいかにも最新のトレンドであるかのように宣伝することだ。いわゆる、有名人が登場し"私も使ってます"というCMのあの手法である。もっとも、BtoBの世界であるのだから有名タレントを使う必要はない。サーバー業界で先進的だと認知されているパートナーと組んで、そのパートナーのブランドを借りてAMD/Opteronのブランドを宣伝するのだ。英語ではPiggy Back(人の背中に乗っかるという意味)Marketingというクラシックな手法である。そんな状況でパーフェクトなパートナーが名乗りを上げた。サン・マイクロシステムズ(Sun Microsystems)である。SUNはその名が示す通り(SUN:Stanford University Network)シリコンバレーのど真ん中にキャンパスを抱えるスタンフォード大学(この大学のキャンパスは本当に美しい)出身のスコット・マクニーリーと伝説のエンジニア、アンディー・ベクトルシャイムが1982年に創立したワークステーション、サーバーのベンチャー企業である。

2010年にオラクルに買収されてしまったのでSUNという会社は今では存在しないが、創立からの20年は飛ぶ鳥を落とす勢いだった。インターネットが登場するあたりから早くからサーバー・ネットワークに目をつけ、独自開発の高性能CPU SPARCとUNIXベースの独自OS Solarisを武器にUNIXベースのサーバー市場では独り勝ちの一大勢力となった。しかし、市場全体が急成長するにしたがって次第にインテルCPU+WindowsサーバーOSの組み合わせのいわゆるPCサーバーにビジネスをじわじわと侵食されていった。結局サーバー市場の急成長を支えていたのはボリュームの大きい汎用低価格帯の市場であって、独自開発のプラットフォームで成長したSUNのコスト構造はそれについていけなかった。

事実、SUNはこの市場を防衛するためにCobaltというインテルCPUを使ったサーバーの会社を買収しインテルCPUの客になっていた。しかし、独自路線で時代の寵児となったスコット・マクニーリーにとってWintelの軍門に下るのは本意でなかったのは明らかだ。そこにインテルの宿敵AMDがOpteronという高性能CPUで市場参入したのだから、AMDとSUNが手を組むのは当然の成り行きだった。SUNはOpteronをベースにしたサーバーを完成させると猛烈な勢いで拡販を開始した。AMDにとってはパーフェクトなパートナーである所以だ。

この素晴らしい商材を得て、私の日本市場でのOpteronのマーケティング活動は大変にエキサイティングな経験であった。第一世代のシングルコアOpteronではなかったが、デュアルコアOpteron(CPUコアが二つ集積されている)になってOpteronの優位性が頂点に達する頃に、とんでもないエンドユーザーが現れた。東京工業大学の松岡聡教授率いるスーパーコンピューターのチームだ。松岡教授のチームのスーパークラスターTSUBAMEは2006年6月の世界のスーパーコンピューターのオリンピックと言われるTop500初登場でいきなり7位にランクされた(この辺の事情については裏話も含めて別記事を掲載予定)。

この事実はOpteronに大きなブランド価値を与えた。それ以来、Opteronはスパコンの市場では完全に市民権を獲得し、世界中でOpteronを使ったクラスターマシンが登場した。我々マーケティングの使命はこの成功を梃に他のサーバーメーカーと組んで他の大手エンドユーザーを取り込むことであった。

【番外編】Athlon64とコンシューマー市場のマーケティング
Opteronの発表の半年後、AMDは2003年9月にK8コア実装のPC用CPU Athlon64を発表した。その前にマイクロソフトがWindows XPを発表し、今までの32ビットに加えて64ビットのアプリケーションのサポートを開始していたので、AMDは64ビットWindowsをサポートするPC用のCPUとしてはインテルに先んじて一般PCユーザー向けのコンシューマー市場に参入したことになる。

Athlon64はその前に大ヒットしたK7コアのAthlonのアップグレードとしてのポジショニングで、マイクロソフトの64ビット戦略ともぴったりと一致したので大いに盛り上がると思ったのだが、実際はそう簡単にはいかなかった。一番の理由は、64ビットコンピューティングがPCの個人ユーザーに提供できる付加価値が明確でなかったことだあろう。サーバーユーザーにとってはネット上で級数的に増大する膨大なデータを処理するのに64ビットは必須であったが、個人PCユーザーレベルでは必要な性能を既存の32ビットコンピューターで実現可能なので64ビットの恩恵をはっきり感じることができない。当たり前といえば当たり前の話である。

我々はマイクロソフトとも協力して、音楽、動画編集、ゲーム、生産性などの切り口でどうやって64ビットの優位性を訴求しようかと頭をひねったが、なかなかうまくいかない。

2056とはずがたり:2017/02/06(月) 19:40:20

どのような製品であっても、個人ユーズのコンシューマー市場というのは大変にマーケティングが難しい市場だ。ユーザープロファイルが多岐にわたっているのと、流通チャネルが複雑である。

1.…(コンシューマーに対して)何に訴えれば響くのかはやってみないとわからないところがある。
2.流通チャネルは主にリテイラー(家電量販店)であるが、量販店との付き合いは、家電業界が長年作り上げたものでなかなか複雑であるし、プロモーション用の資金も必要である。
3.素人目には、テレビの広告を大々的にやってしま…うことができれば手っ取り早いが、CPUを訴求するメッセージの複雑さ、コストの高さで費用対効果が非常に悪いことは我々のリサーチの結果でわかっているのでやらない。
4.当時のコンシューマー市場は圧倒的に家電量販店を通るものが多く、家電量販店も全盛期を迎えていて、いろいろなブランドが全国主要都市に軒並み店舗を構えている状態であった。

これらの店に訪問して"AMDのCPU Athlon64を使ったXXXXパソコンを拡販してください"、と言って回るのだが、"64ビット?メモリのこと?"(もともとコンシューマーは記憶容量の数字のメモリサイズは頭に入っているが、コンピューター処理のビット幅の64ビットなどと言われてもピンとこない、量販店の店員にわからせるのも至難の業である)。

そこで我々は、仮説を立てた。例えば個人ユーザーで新しいPCを買おうとしている女性がいたとしよう。その女性はあまりパソコンのことが分からない。…多分その女性はパソコンをよく知っている友達(あるいはボーイフレンドの友達)にどれがいいか聞くであろう。ということはパワーユーザーにマーケティングをフォーカスし、Athlon64の優位性をすり込めばいいのではないか。というものである。これも近代マーケティングのイロハである"Early Adopter(新しいものをまず試してみる技術に明るい、こだわりのある人たち)"への訴求である。

…もともとPC DYI(自作派)の人たちは、AMDがK7をインテルに対抗して出した時に一番ホットに迎えてくれた人たちなのでAMDとの相性もいい。ということで、私のPCチャネル・マーケティング部隊はPCパーツショップに積極的にイベント攻勢をかけた。このキャンペーンは盛り上がり一応の成功をみたが、このセグメントでの成功が一般ユーザーのパソコン選びに大きく影響したかは疑問である。自作派のユーザーと女性個人ユーザーの間に相関性が取れなかったのかもしれない。(とは註:これだなw)

PCチャネルで見落としてはいけないのがテレビ直販チャネルである。同じ機種を一挙に何千台も売ってしまうので、一押しモデルに入ってしまえばあとは組み合わされる製品とトータルのパッケージの値段が訴求ポイントとなる。"これだけの製品をみんなまとめて今回限りXX円でご提供"、というあれである。その場合でも、売っている商品にどれだけ付加価値があるのかという簡単な説明は非常に重要なファクターである。

こんなことがあった。ある日私は佐世保に本社を置く全国テレビショッピング大手(とは註:たかただ!)のスタジオにいた。そのスタジオでは、その日のテレビ販売プログラムをずらりと並んでいる個別スタジオで収録し、集録した分からどんどんとテレビに流す。そこに、かの有名な某T社長がすらりとしたスーツ姿で現れた。これから売るパソコンに使われているCPUについて、長所を聞きたいのだという。私は、Athlon64の優位性をずらずらと述べたプレゼンを手に懸命に説明した。

T社長は私の説明を一通り聞いた後、"吉川さん、ということはこのCPUは非常に頭がいいということですね?頭がいいといえばアインシュタインですね、このCPUにはアインシュタインの頭脳が何人分くらい入っているんですかねえ?"、と非常に真剣な顔で聞くので、思わず、"そうですね、100人以上は確実にいると思います"、と答えてしまった。全く根拠のない言い方であるが、それを否定する根拠もない、などと考えていると、T氏は"ありがとうございます"と言っていそいそとスタジオに入って行ってしまった。収録をするためだ。

ホテルに戻ると…テレビをつけて何度も繰り返されるT社長の放映を観た。確かに言っている。"このパソコンには大変賢いAthlon64 CPUというコンピューターの頭脳が使われています、アインシュタイン100人分の超頭のいいパソコンなのです、それにデジタルビデオカメラ、プリンターをつけて特別価格XX円…"、私はあっけにとられて観ていたが、同時にそのスピードとユーザー目線にピタッと合わせたコンシューマー・マーケティングの神髄を観た気がした。大変に思い出深い強烈な経験であった。

Athlon64にはその後は廉価版のSempron、モバイルパソコン用のTurionなどの派生製品が出てどんどんとパソコンメーカーに組み込まれて売れていったが、正直言って64ビットコンピューティングが訴求できたかというとかなり疑問である。…

2057とはずがたり:2017/02/06(月) 19:41:13
[11] 背筋を凍らせたプロジェクトYamhill

乾坤一擲のAMD Opteron

AMDに24年間勤めていていつも疑問に思っていたことは、"この会社にはバックアッププランと言うものはないのだろうか?"、という事であった。昨今では株主に対する企業価値のアピールの重要な項目のうちに"当社はサステーナブルな成長を目指します"、と言うものがある。"サステーナブル=維持可能な"、というのは簡単に言ってしまえば、"成長し続ける自信があるのでしょうね?それなら今の戦略がダメだったらどういうプランで生き残るのかちゃんと説明してください"、という株主の質問に答えるものである。

一般的に企業のサステナビリティは、キャッシュフロー、保有現金、債務、運転資金、果敢な投資の継続などというそれぞれが背反する項目の適正なバランス、市場の変化に柔軟に対応するための組織の構築、などで説明されるようであるが、当時のAMDのCEOジェリー・サンダースの答えは呆気にとられるようなシンプルなものであった。

1.AMDは将来の成長を担保するために赤字の時でも売り上げの25%を研究開発に投資します。
2.今の戦略は間違っていません、故にバックアッププランなどはありません。目標に向かって驀進するのみです。

こんなことをあけっぴろげに言っていたサンダースの度量には凄いものがあるが、古き良き時代のシリコンバレーの新興企業は皆そうだったのであろう。事実、バックアッププランなどを用意する余裕などなかったのが現実である。こんなかっこいい啖呵をきっていたサンダースであるが、実際には赤字続きの時には寅さん映画に出てくるタコ社長よろしく常に金策に走り回っていた(AMDはジャンクボンドの王様と言われていた時期もある)。

そして、シリーズのK5の話で述べたように戦略的プランに重大な欠陥が見つかった時(とは註:吉川氏のコラムは投下し損ねてるみたいだが>>269参照)にはすかさず次のプランの策定に自ら乗り出さなければならない。こんなことを思い出していたら、私のAMDのTシャツコレクションの中に面白いスローガンを見つけた。背中に大きく"There is no plan B !!"と書いてある。プランBというのはバックアッププランという意味だ。

その意味では、AMDが満を持してリリースしたすべてのインテル対抗製品には実際にバックアッププランは存在せず、常に一発勝負にかけていたのだ。K8コアで全く経験のなかったサーバー市場に打って出たOpteronもAMDにとってはまさに乾坤一擲の製品だったのだ。

インテルのバックアッププラン

AMDがOpteronでサーバー市場に攻め込んでいたころ、インテルの64ビットコンピューター戦略IA64とそのメインCPU製品Itaniumは明らかに大きな問題を抱えていた。

1.既存の32ビット・x86のアーキテクチャとの互換性を断ち切って無敵の高性能64ビットコンピューティングを標榜したインテルのIA64であるが、肝心のメインCPUの仕上がりがよくなく、延期に次ぐ延期の繰り返し。IA64はインテルとHPの独占志向が見え見えで、なかなか他のサーバーメーカーへの普及が進まない。
2.UNIX/LinuxがデフォルトOSである高性能サーバー市場の中に割って入ろうとしていたマイクロソフトは、インテルのIA64が一向に市場拡大できないことで苛立ってきていた。

AMDがOpteronを発表して、SUNが強力にOpteronベースのサーバーを拡販していた頃であったと思うが、私はAMD社内である噂を聞いた。その噂とは"インテルがどこか秘密の研究所でAMD64そっくりのCPUを開発していて、その開発コードネームはYamhill(ヤムヒル)という"、ということだった。調べてみると、Yamhillというのはインテルの工場があるオレゴンあたりを流れる川の名前であった。インテルはCPUの開発コードネームを川の名前にするのが伝統である(ItaniumのコードネームはMerced)のでこの噂はいよいよ現実味を帯びてきた。

噂はさらに続く。"インテル社内では数々のプロジェクトが並行して動いている。64ビットコンピューティングについては社内で意見が分かれていた。32ビットx86との互換性を取りながら64ビットの拡張命令を実装する方式(これがAMDがとった方法である)を主張するグループと、ハード・ソフトの過去資産への互換性を断ち切り全く新しいアーキテクチャでぶっちぎりのソリューションを打ち立てようとするIA64を主張するグループである。両者が激論をした結果、後者で行くというトップの決定が下って今まで開発予算がつけられてきたが、度重なる遅延、AMD Opteronの登場、マイクロソフトからの圧力でとうとう幹部連中も方向転換を迫られている。x86の拡張命令で64ビットをサポートしようとした開発グループは、それまで人数も絞られ残されたエンジニアで細々と開発を継続してきていたが、ここに来てまたお座敷がかかったと…"。

2058とはずがたり:2017/02/06(月) 19:41:26
386から486に移行させる時もそうだったように、K7でAMDがシェアを取った時もそうだったように、見栄もメンツも捨ててしゃにむにインテルが一直線に走り始めるとどんなことが起こるか、長年の経験でそれをよく知っていた私は背筋に寒いものを感じた。インテルは本気なのだ…インテルはOpteronを排除しなければならない敵と認識した。インテルは必ずやってくる、それはもはや時間の問題だ。

しかしAMDもただじっと待っているだけではない。AMD各部門のするべきことは明らかだった。開発部隊は次の製品をどんどんロードマップ通りに完成させ、製造部隊は増加する需要にしっかり答え、我々営業・マーケティングはインテルが追い付いてくるまでにどれだけお客を取り込み、市場での地位を確固としたものにするかだ。私は、背後から荒々しい息をしながら必死に追いかけてくるすごい形相の猛獣をイメージした。

Yamhillの噂は正しかった。しばらくすると鼻の利くメディアがそういったプロジェクトがあることを嗅ぎ付けてインテルのプレス発表会などで質問するのだが、インテルの幹部はこれをなかなか認めない。インテルのジレンマは下記の通りだった。

1.x86の64ビット拡張を実装するということは、AMD64を認めることになる。CPUの王者のメンツがつぶれる。Opteronが市場でさらに地位を固めるとインテルがAMD互換機を出すことになる。
2.これを認めると、それでなくても市場浸透が遅れているIA64を殺すことになる。それでは今までの巨額の投資を回収できない。株主にはどう説明する?
3.マイクロソフトはもうすでに業を煮やしてAMD64を64ビットOSに採用してどんどん圧力をかけてくる。Opteronは市場受けがいいのでカスタマはどんどん増えている。そこに後発で参入するということはOpteronよりも安い値付けをしなければならない。利益率が下がる。
4.バックアップの開発は細々と継続していたとはいえ、まだ開発中の製品を量産までもっていくのには時間がかかる。しかもマイクロソフトが採用したAMD64との互換を取らなければならない。
2004年の1月、インテルの当時のCEOポール・オッテリー二はついにインテルがx86の64ビット拡張を行うことを公にした。株主相手のインタビューなので執拗に食い下がる質問者をのらりくらりと避けていたが嘘を言うわけにはいかない。2003年4月のAMD Opteronの発表に遅れること9カ月だ。ここでYamhillプロジェクトの存在を認めるということは、開発はかなり進んでいて製品発表ももうすぐだということであろう。いよいよインテルの猛追が始まった。

[12] 付け焼き刃だったインテルのEM64T

それでもインテルに対し優位性を保ったAMDのK8アーキテクチャ

インテルが秘密裏に開発を継続していたYamhillプロジェクトはいよいよ正式なものとなり、AMDのOpteronに1年遅れる形で2004年にEM64Tというx86の64ビット拡張命令を実装するアーキテクチャが発表された。細部は多少違うものの、インテルのEM64Tは蓋を開けてみればAMD64と同じもので、結果的にはインテルがAMDをコピーする形になった。その大きな要因となったのがマイクロソフトのAMDサポートへの決定であることは前述したとおりである。AMDにサーバー市場への参入を許すというビジネス上のリスクを低減するために、インテルはメンツを捨てて一気にx86の64ビット化へと舵を切った。

しかしAMDのK8アーキテクチャはAMD64というソフトウェアのアーキテクチャでの優位性に加えてハードウェアでの優位性も備えていた。AMDのK8アーキテクチャはK7の基本アーキテクチャをかなりの部分で踏襲していたが、大きく違ったのはメモリーコントローラーを内蔵したことだ。

従来のK7アーキテクチャでは集積度や歩留まりの問題などから、CPUが主メモリにアクセスする時のプロトコルを管理するメモリーコントローラー機能はチップセット側に持たせていた。これはインテルのアーキテクチャでも同じことである。ところがAMDのK8ではこの機能をCPUチップの上に集積するものとなっている。これにより従来ではCPUからメモリにアクセスする場合、"CPU→チップセット→メモリ→チップセット→CPU"という経路を取っていたのに対し、"CPU→メモリ→CPU"と劇的に短縮することができる。そのため、CPUのメモリ読み込み要求からデータ受け取りまでの遅延を大きく短縮することができるようになり、結果的にCPUを使ったシステム全体のスループット(とは註:処理能力)が大幅に改善される。これは大量のデータを高速に処理するサーバーのアプリケーションにおいては大きな優位性となったわけだ。

K8は、かつてDEC(Digital Equipment Corp.) で当時最先端だったAlphaアーキテクチャのチーフアーキテクトであったダーク・マイヤーがAMDに移籍するまで長年温めてきたサーバー用のCPUの要件をできるだけ満たすものとして開発されただけあって、インテルがにわか仕込みのEM64Tで追い付くのはそう簡単ではなかった。

2059とはずがたり:2017/02/06(月) 19:42:40
インテルの悩み

一方インテルはそのCPUハードアーキクチャの主眼をひたすら周波数の向上に置いていた。インテルのマーケティング手法は386/486世代あたりからCPUの価値を周波数の向上に置き換えて市場をリードする"周波数マーケティング"を確立していった。これは技術的な詳細がわからない一般ユーザーに対しては大変効果的なマーケティングである。何しろメッセージが単純である。"100MHzより120MHz、120MHzより133MHzの方が性能がはるかに上です"というのは大変にわかりやすいメッセージで、これが"386より486が性能が上です、486よりPentium(586)の方が性能が上です"、というメッセージに被らせて世代交代を図ってきたのであるから、その頃のインテルにとっては金科玉条のテーゼであり、技術部門もこれに沿ってCPUアーキテクチャの開発を行ってきた。

しかしAMDのK7の登場で、インテルだけでCPUのマーケティングを主導することが難しくなってきた状況が現出した。それでもインテルはひたすら周波数の向上にこだわった。そこで登場したのがNetburst(ネットバースト)アーキテクチャである。インテルは従来のPentium IIIからPentium 4への移行に際してネットバーストというアーキテクチャを導入して周波数の飛躍的な向上を目指した。単純に言ってしまうとパイプライン(とは註:処理要素を直列に連結する仕組みの事の様だ)を深くして周波数を上げやすくする構造である。因みにPentium IIIの最後の製品のパイプラインは12段であるのに対し、ネットバースト・アーキテクチャを実装した初代Pentium 4(開発コードネーム:Willamette)は20段に、後期のPentium 4であるPrescottになるとパイプラインは31段にも達した。

これを製品での周波数向上にしっかり反映させたのは業界他社を寄せ付けないインテルの優れたプロセス技術である。インテルは180nmプロセスで周波数1GHzであったものが、130nmでは3.4GHzまでに達するほどの優秀なプロセス技術を誇っていた。これが可能となったのは周波数を上げるための方策としてのパイプライン・アーキテクチャを極めるCPUデザインチームと、半導体技術の根幹であるプロセスエンジニアが1つになって、ひたすらトランジスタの周波数向上に邁進したからである。しかし、ここに物理の法則が立ちはだかった。リーク電流による消費電力の上昇である。インテルは一時ネットバースト・アーキテクチャで10GHzまでを視野に入れているという発表を行いそのロードマップを公表した。しかし実際にはPentium 4の後期製品であるTejasでは2.8Ghzを達成したが、消費電力は120Wを超えることとなり、パソコン基板の熱設計上、非常に困難な結果を招いた。

これに対して、プロセス技術では常にインテルの一世代後を追いかけていたAMDは、インテルがBulkシリコンを使用するのに対し、SOI(Silicon On Insulator)ウェハを増産ラインに導入するという大きな賭けに出た。Bulkシリコンを使って微細加工をひたすら追求する(これには巨額な開発投資が伴う)インテルに対抗するために、AMDはMOSFET構造の下側に絶縁膜を形成するSOIと言われる特殊なシリコンウェハを使用した。SOIウェハは値段が高い上に、大量製品の基板材料としてはかなりデリケートなものであるが、"リーク電流を抑えながら動作周波数を上げる"、という点では効果がある。AMDは初期の130nmの製品ではかなり苦労したが、90nmへの移行のころには次第に量産ラインにうまく乗るようになっていた。

サーバーの現場では性能向上もさることながら、消費電力の低減も大きな課題となってきていたので、AMDはOpteronのマーケティング・メッセージを性能一本から、電力当たりの性能に切り替えていった。インテルはここに来てネットバースト・アーキテクチャで周波数の向上をひたすら図るという基本姿勢を見直す必要に迫られた。結局、インテルは2004年発表のTejasコアのPentium 4の発表をもってネットバースト・アーキテクチャの終息を決定した。これに続くアーキテクチャが現在まで継承されているCore(コア)アーキテクチャである。

[13] デュアルコアで花開いたK8アーキテクチャ

デュアルコアAthlon64X2登場

朝出社したら、コンシューマー・チャネル・マーケティング部のМ君が眠そうな目をこすりながら、しかしかなり興奮気味に話しかけてきた。本社から到着した新製品のサンプルの性能評価を頼んでいたのだ。多分昨晩は性能試験ラボの中で徹夜だったに違いない。日本AMDでは新製品のサンプルが到着すると、いろいろな性能評価を行いその結果をもってマーケティングの計画を練るのだ。性能評価にはもちろんインテルの競合製品との性能比較も含まれている。М君によれば、"デュアルコア、ぶっちぎりで速いっす!!。どのベンチマークでやってもインテルに完全に勝ちます!!"、ということだ。М君が今回テストしていたのはK8シリーズで初めてのデュアルコア製品であった。 後にAthlon64X2として発表されたものである。

2060とはずがたり:2017/02/06(月) 19:42:57
K8の基本設計は初めからマルチコアが念頭に置かれていた。今ではスマートフォンのCPUでさえデュアルコア(CPUコアが2つ同じチップに集積されている)になっているが、2000年の中期ではかなり先進的なものであった。

デュアルコアになると総トランジスタ数は単純に2倍になるが、チップのサイズが2倍にならないのはプロセス技術が130nmから90nmに進化したからである。このチップをAMDはコンシューマーPC用のAthlon64X2とデュアルコアOpteronのブランドで真正マルチコアチップとして大いにプロモーションした。

一方、インテルは対抗策としてPentium 4コアをMCP(Multi-Chip-Package)に封止したPentium Dをぶつけてきたが、この製品は1つのチップにCPUを2個集積するのではなく、2個の独立したCPUチップを基板の上で接続しただけのものだったので、CPU同士、あるいはCPUからキャッシュメモリにアクセスする場合にいったんCPUチップの外に出なければならないことになるのでそれだけアクセス速度のペナルティーが生じる。結果的に総合性能ではAthlon64X2の敵ではなかった。AMDの攻勢に対しインテルが苦肉の策を繰り出してきたわけである。

Athlon64X2の性能は非常に高かったので、特に秋葉原の自作派ユーザーには圧倒的な人気があった。我々はこのCPUをマルチタスキングに最適なCPUと位置づけ、ゲーム、グラフィック処理、MP3音楽編集などCPU負荷の大きいアプリケーションソフトのベンダーと組んでプロモーションを行った。…

自作派の人たちには、Athlon64X2の生産過程で不良品になったチップを当時のドイツ・ドレスデンにある主力工場からわざわざ日本に送ってもらい、それをアクリル材に封止した携帯ストラップを作成して、リテール販売の時にチップにおまけとしてつけた。これは非常に評判がよく、後になってこのストラップがネットオークションで結構いい値段で売れられているのを見た時はさすがに驚いた。

AMDにとってまさに乾坤一擲のK8アーキテクチャはその持てるポテンシャルを目いっぱいに花さかせ、AMDの業績に大きく貢献し、株価もみるみる上がって会社中がその成功に驚喜していた。

確かに王者インテルのK8への対応は完全に後手に回っていたし、やることすべてが裏目に出ていた。しかし私はその中にあって心の奥では常に一抹の不安を感じていた。インテルは必ず逆襲に来る。その時は満を持して開発した非常に革新的な新しいアーキテクチャで、一部の隙もないほどの攻勢をかけてくるに違いない。これは長年インテルを相手に戦ってきた私の確信であった。 私の予感は2008年にインテルが発表したコアアーキテクチャで現実のものとなった。

[14] インテルの逆襲

2003年のOpteronの発表以来、2006年のデュアルコア製品の発表くらいまでの3年間はK8アーキテクチャはまさに無敵であった。K8アーキテクチャはAMDのPC市場での復権と、サーバー市場への参入を可能とした点においてまさに画期的な出来事であった。しかしマイクロプロセッサの王者インテルを相手とする技術競争はそんなに甘いものではなかった。K8の快進撃にインテルの最新アーキテクチャ"Core(コア)マイクロアーキテクチャ"が立ちはだかった(インテルの正式発表は2006年の第一四半期)。それまでの深いパイプライン構造と業界随一のプロセス技術(微細加工技術)を強力に組み合わせ、ひたすら動作周波数を上げていって他を圧倒するというネットバースト・アーキテクチャの限界を悟ったインテルは、数年前からイスラエルのデザインチームに全く新しいアーキテクチャの開発を急がせていた。その結果がコア・アーキテクチャである。

以下にコア・アーキテクチャの概要を示す。

・基本設計の一番の目的を、クロック周波数自体の向上から一クロック毎の性能向上に転換。
・コンピューターとしての性能を追求しながら、消費電力の低減も追及。
・当初から複数のCPUコアを実装することを念頭に基本アーキテクチャを最適化。
・最先端微細加工技術により可能となる比較的大きい内蔵キャッシュ(6MB)を搭載、そのキャッシュをL2キャッシュとして二つのCPUコアがシェアする効率の良いキャッシュ設計。
・消費電力を少しでも抑えるためにプロセッサコアの回路ごとのパワー・マネジメントの導入。

このようなアーキテクチャを見ると、インテルは明らかにK8を研究し、それを凌ぐCPUの設計を目指していたことがわかる。この設計チームが本国アメリカではなく、本拠地がイスラエルのデザインセンターであったことも興味深い。

2061とはずがたり:2017/02/06(月) 19:43:17
インテルはコア・アーキテクチャを採用した製品を3種類リリースした、モバイル用のMerom、デスクトップ用のConroe、そしてサーバー用のWoodcrestである。通常AMDもインテルも新製品のリリースの6か月くらい前から社内で性能試験をした結果などを踏まえ、自社製品の優位性をまとめたプレゼンをお客に配り始める。もちろんNDAベースであるが、こういった情報はいろいろなチャネルから漏れてくるのが常識だ。

我々も情報を集めてOpteron、AthlonX2とインテルの新製品との性能比較に注目した。すると、どうも今回のコア・アーキテクチャはかなり出来がいいことがわかってきた。Opteronのデュアルコアの登場で、前述したスパコンへの採用などでも証明されたように、向かうところ敵なしだったK8にも強力なライバルが出現したことが明らかになった。正式な製品のリリースは6か月先とはいえ、こうした情報をすでに入手している顧客側の反応が次第に変わってきたのが感じられた。"AMDのK8ベースの将来製品はインテルのコアに本当に対抗できるのか?"、という質問をほとんどの顧客から受けるようになった。

そこで、できるだけ広く集めた情報、客の反応などを本社と共有し我々の危惧を伝えるのだが、本社は、"コア・アーキテクチャ恐れるに足らず"、の強気の姿勢を一向に変えない。この本社の態度に業を煮やした同僚は私に、"本社はOpteronの成功に酔っているのではないのか? 我々の警鐘に全く耳を貸さないというのはどういうことだ?"、と憤慨している。こういった状況は本社のマーケティングと各国の営業では日常茶飯事だ。

つまり、本社のマーケティングは"この製品はこれだけの優位性があるのだから営業がしっかりしていれば高い値段で必ず売れるはずだ"、と言い、現場を預かっている営業は、"この製品は競合に比較して優位性がないので値段を下げないと売れない"という違う立場どうしの議論だ。私の30余年にわたる営業、マーケティングの経験でこうした会話が何千回と繰り返されたことか。営業対マーケティングの議論は典型的に下記の状況のどれかで行われる。

1.営業も製品もしっかりしているので放っておいても売れる - この場合、議論は起こらず、ひたすら売りまくるだけである。
2.製品は優秀なのだが営業がだらしないので客から足元を見られている - この議論は本当に営業がしっかりしていない場合は正論だが、製品力が落ちてきている場合は果てしない議論となる。
3.営業はしっかりしているのだが、製品の競合に対する優位性が左程ない、あるいは劣っているので値段を下げでもしなければ売れない - 2. の変形だが、製品力がないのを本社が認めない場合にこの議論が起こる。本社が市場を理解しないで言っているのであれば営業の説明力が足りないのである。本社が市場を理解したうえで言っているのであれば、営業は殆どなす術がなく、営業成績でやはり責められる。

Opteronが登場したころは明らかに1. の状況であった。しかし、コア・アーキテクチャの登場を前にして状況が1. から3. へとシフトしていくのを肌で感じ取った私は、ある日、本社から来日していたマーケティングの人間を連れ出してホテルのバーで一杯やることにした。そこで私は、"本当のところはどうなんだ?"、と聞くと彼は、"コア・アーキテクチャの優秀性は本社が一番よく知っている。製品テストの結果もOpteronの強力なライバルになることを示している。しかし、我々には現在Opteronの延長でコア・アーキテクチャの進撃を封じるものはない。デュアル・コア(2コア)の次に控えるクアッド・コア(4コア)の製品が出てくるまで何とか踏ん張るしかないのだ"、という答えだった。

そのころAMD本社では初の4コア製品(コードネームBarcelona)の設計が粛々と進められていた。

…バルセロナは前回話したデュアルコアOpteronの後継機種クアッド・コア(4コア)Opteronの開発コードネームであったというだけだ。私も含めて、当時このプロジェクトに関わっていたAMDの人間には、バルセロナロはそのマンチックな響きとは相反して苦い思い出を想起させるかもしれない。

2062とはずがたり:2017/02/06(月) 19:43:52
技術の高度さが裏目に

K8コアベースのOpteronでサーバー市場に打って出たAMDは、デュアルコア(2コア)までは非常に順調に製品投入が行われ、さすがの王者インテルも前述のコア・アーキテクチャベースデュアルコアWoodcrestの投入まではAMDに押されっぱなしの状態であった。2003年のOpteron登場から少なくとも3-4年はAMDのサーバー市場、ハイエンドPC市場への進撃が続いた。AMD始まって以来、競合インテルへの技術的優位性を印象付けた素晴らしい時期であったに違いない。インテルがWoodcrestで逆襲を試みる中でも、この3-4年で築いたAMDのサーバー市場での優位性はしばらく続いたのである。とりわけ番外編で紹介した東京工業大学(東工大)のスパコンプロジェクトTSUBAMEは業界に大きなインパクトを与え、その後の他の大学のスパコンプロジェクトでAMD CPUの採用が真剣に検討され、遂には東京大学(東大)、筑波大学(筑波大)、京都大学(京大)、の3大学のスパコンにAMD Opteronが使われることとなった(我々はこれらの大学の頭文字をとってT2Kプロジェクトと呼んでいた)。東工大のTSUBAMEと大きく異なる点はメインのCPUにデュアル(2コア)ではなく クアッド・コア(4コア)のOpteron(コードネーム、バルセロナ)を採用したことだ。

デュアルコアの時もそうであったように、4コアのバルセロナは非常に野心的なプロジェクトであった。45nm/SOIの最先端プロセスで、4/8 Wayのハイエンドサーバー向けに、単一シリコンチップに4つのCPUコアを集積するという高度な技術であり、文字通りインテルの猛追を一気に振り切るポテンシャルがあった。そこで、大学スパコンの中心的存在であった東大、筑波大、京大 -T2Kは早々にバルセロナの採用を決定し、実際に大規模スパコンの構築プロジェクトを立ち上げた。T2Kのプロジェクトはそれぞれが東工大のTSUBAMEと同等、あるいはそれ以上の規模だったため、3大学のトータルの規模は非常に大きく、日本市場を預かる我々だけでなくAMD全社から注目された。しかし、バルセロナはその技術の高度さ故、最終的に出荷されるまで以下のような遅延が発生した。

1.2007年3月、AMDはバルセロナは同年8月から出荷開始と発表。
2.2007年8月、AMDはバルセロナは9月から出荷開始と訂正、少量出荷が9月から開始。
3.2007年11月、AMDはB2(B1シリコンの改訂版)にバグが発見されたという理由でバルセロナの出荷を停止。
4.2008年4月、AMDはB3(B2シリコンの改訂版)にてバルセロナの出荷再開。
この時のバグの内容について詳しくは覚えていないが、(ごく稀なケースではあるが)システムがロックアップを起こすというかなり厄介な問題で、当初はBIOSの変更などで回避しようとしたが、何しろ使われるシステムがハイエンドの高性能システムであるから、シリコンのスピン(半導体業界で増産用のシリコンのマスクに手を加えることをスピンという、一回やるごとに最低でも3-4か月の遅延が生じる)を今一度やることになりバルセロナは最終出荷までに3版のマスクが作られたわけだ。

バルセロナを待っていた世界中のお客さんは非常に困った。特に、T2Kは国家予算に裏付けられた公共プロジェクトであるから遅延は許されない。本社デザインチームも必死に頑張ったのだが、B3が出てくるまでの我々前線営業は相当なプレッシャーにさらされた。

バルセロナの遅延が大きな問題となった2007年の営業会議では、世界から集まった500人の営業を前に、当時COOのマリオ・リヴァスがステージに突然バスケットボール選手のユニフォームで現れ(マリオはプロバスケットボールの大ファン)、“ビジネスはチームワークだ!!"と叫びながら、本物のバスケットボールを営業の聴衆に次々と投げ入れ、営業が投げ返すのをしっかり受け止めるというパフォーマンスを披露して、開発、製造、マーケティング、営業の全社的結束を訴えた。

すったもんだの挙句、度重なる遅延ののちバルセロナはやっと出荷され、東大、筑波大、京大のスパコンは稼働したのだが、当時のお客様には大変な心労をかけたし、私を含めAMDの担当者にはバルセロナと聞くとこの苦い思い出が付きまとう。

バルセロナの遅延で競合インテルに挽回の機会を与えてしまったことは、その後のAMDのサーバー戦略への大きなインパクトとなったのは言うまでもない。


2063とはずがたり:2017/02/06(月) 19:44:03
[19] 日米半導体摩擦の時代

世界の半導体市場を日本勢が席巻

アメリカの大統領選挙は大方の予想に反して共和党(?)のトランプ氏が勝利した。トランプ氏は保護貿易政策の擁護者である。我々はこれから自由貿易の推進者=アメリカという図式が大きく転換して行く過程を身をもって体験することになるだろう。そこでこの閑話を書くことにした。

さかのぼること30年、アメリカの大統領は共和党のレーガン氏、日本側は中曽根総理のロン・ヤスの時代だ。私がAMDに入社した1986年頃の世界の半導体市場は現在のものとはかなり様相が違っていた。その後も業界の動きは加速的に継続され、今ではファンドリーの台頭とファブレス企業の躍進、買収・合併などにより、各半導体ブランドの世界ランキングは一様には比較できなくなってしまった。グローバル化が加速した現在の半導体市場では、そもそもその企業の国籍を問うこと自体があまり意味のないことになってしまった感があるが、本稿の資料として、1987年と2013年の世界ランキングを表にまとめてみた(ほぼ私のAMDでの勤務と重なる期間)。ここでは敢えて、販売されている半導体製品ブランドでの市場ランキングをまとめてみた(ブランドでのランキングであるのでTSMC、GFなどのファンドリーで生産されたものはこのうちのブランドに含まれている)。なぜトップ10ではなく12なのかというのはご覧の通り明らかなように、12位まで入れないと我が愛するAMDが出てこないからである。

___  1987年    2013年
ランク メーカー 国籍 メーカー 国籍
1 NEC 日本 インテル 米国
2 東芝 日本 サムスン 韓国
3 日立 日本 クアルコム 米国
4 モトローラ 米国 マイクロン 米国
5 TI 米国 ハイニックス 韓国
6 富士通 日本 東芝 日本
7 フィリップス オランダ TI 米国
8 NS 米国 ブロードコム 米国
9 三菱 日本 STマイクロ 仏伊
10 インテル 米国 ルネサス 日本
11 松下 日本 インフィニオン ドイツ
12 AMD 米国 AMD 米国
様々な統計資料を見て筆者が作成

この表からはいろいろなことが見て取れる。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板