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歴史掲示板
古代史掲示板を新設しました
古代史掲示板を新設しました。画像・動画等の投稿も可能です。古代史関連の投稿をお待ちしています。
高良山北の古墳状地形
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まず、昨晩の夔鳳鏡を出土した古墳を結ぶ方位ラインを一部修正しました。昨晩の投稿図を新しいものに入れ替えておいたので、ご確認ください。
訂正箇所としては、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を出土した日田ダンワラ古墳⇔(誤・楯築墳丘墓→正・七つぐろ古墳)⇔一之宮神社古墳となります。赤ラインでそのラインを示しておきました。
その七つぐろ古墳は銅製、一之宮神社古墳は鉄製の夔鳳鏡を出土しているので、日田の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が夔鳳鏡と一緒に取得(賜与)・分配されていたことが、このことから一層明らかにしうるでしょう。
そこで、また昨晩最後に触れた、夔鳳鏡を出土した十三塚遺跡と金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を出土した日田ダンワラ古墳(そばに巨大古墳状地形がある)を結ぶ方位ライン上にある高良山北部の古墳状地形について調べを進めていますが、この古墳状地形の位置は、昨晩もお話したように、十三塚遺跡とダンワラ古墳から2:3の位置にあること等から、測量拠点として設置されたことを考えますが、その古墳状地形の航空写真は図1のとなります。
また図2の上図はその古墳状地形の測量図と、この古墳状地形の東方に位置する弥生時代末期の高地性集落の白岩遺跡、さらに古墳時代前期の箸墓の測量図を比較したものです。
こうみると、白岩遺跡等にみられる左右不均等なバチ型の前方部(右か左に大きくバチが開く)や、初期の前方後円墳にみられる多角形状の後円部をこの古墳状地形が有していることがわかります。
また図2の下図はこの古墳状地形の断面図で、箸墓のそれと比較したものですが、こうみると箸墓と同様な後円部を持つように見えます。左右均等の円墳状であることは、その方格(黒線)をみていただくと理解できるでしょう。
その前方部は山の尾根を流用する初期の前方後円墳の形をしており、箸墓のそれとはことなりますが、ただその前方部の尾根の切れ目の位置が、図のように箸墓のサイズと同じ270m前後で切れ目があり、後円部の長さも同様にほぼ同じで120〜150mとみられること、そしてその高さも30〜40m前後であることも近似するように見受けられます。
したがって、後代の箸墓・纏向型の規格に沿っている可能性がありますが、先のように形状自体は高地性集落時代の不均等な形状をしていることからみて、この古墳状地形のほうが、定型化した後の纏向型前方後円墳より古いのではないでしょうか。
ライン面で接続する日田のダンワラ古墳の上にある巨大古墳状地形も同様な左右不均等な形状をしていることは、先日もお話したとおりです。
そして、魏の時代のものとされる金銀錯嵌珠龍文鉄鏡や、2世紀後半〜の夔鳳鏡がこのライン上の古墳から出土していることからみて、2世紀後半〜3世紀中葉までの間にこの古墳状地形が造営された可能性が高いでしょう。
さらにこのラインと平行関係にある与止日女神社⇔吉野ヶ里遺跡⇔安国寺甕棺墓群において、その与止日女神社に関わる豊姫を、女王・台与とみなせるならば、3世紀中葉あたりの造営と考えうるでしょう。その場合も箸墓よりは古く、夔鳳鏡を出土する桜井茶臼山あたりと同年代となるかもしれません。
あと図3のように、この古墳状地形は祇園山古墳⇔鷲尾岳(大社歴代宗主墓)⇔奥社(武内宿禰墓?)を結ぶ20度偏角の方位ラインと関連づけうることがあり、すなわち、祇園山古墳⇔古墳状地形ラインの偏角20度偏角となり、また鷲尾岳⇔古墳状地形の偏角が45度となります、図の方格(黒線)上の交点に位置してきますので、やはり意図的にこの角度・位置にこの古墳状地形の後円部が設置されたことが明らかになります。
すでに祇園山古墳はその60体にも及ぶ殉葬の痕跡から、侍女百人が殉葬されたと記載される卑弥呼の墓とも指摘されているところで、その祇園山と同様な方墳状の鷲尾岳(歴代宗主墓)、および武内宿禰墓ともされる奥社の古墳状地形も同時代のものであろうことは以前指摘したとおりです。
そこで、この3者(ライン)と、今回の北部の古墳状地形のどちらが古いのか?が問題となるのですが、鷲尾岳(歴代宗主墓)の真北に横隈山遺跡があり、そこに5世紀中ごろとされる帆立貝型の前方後円墳がありますがここは弥生遺跡ともされており、元は纏向型前方後円墳などのもっと古い時代の墳墓だったのではないでしょうか。
その2点間の距離が14055mとなり、×3=42165mとなるので、420mの漢尺を使っているように見えます。
尺度面から考えると、この鷲尾岳あたりに、弥生時代(前漢〜後漢)の方墳があり、次に同様な方墳として弥生時代末に祇園山古墳が造営され、その後の古墳時代初期(魏・晋)にこの古墳状地形が造営されたのではないでしょうか。その魏晋尺がこの古墳状地形設置に関して使用された件は昨晩お話したとおりです。
なお、祇園山古墳出土の後漢鏡とされる鋸歯文縁方格規矩鳥文鏡と同型鏡は、先の夔鳳鏡を出土した十三塚遺跡からも出ており、年代を決めるヒントとなりそうですが、またその辺のことについては、明日あたり考えてみましょう。
豊国(とよくに) = 邪馬台国(やまたいこく)。【サンスクリット語】vimudra
https://www.youtube.com/watch?v=nFL33uoIm54
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html
[10863] 豊国(とよくに) = 邪馬台国(やまたいこく)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010864M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010864_2M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=nFL33uoIm54
朝鮮支石墓・神籠石ラインと邪馬台国
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010865M.png
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010865_2M.png
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010865_3M.png
http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=28
[10865] 朝鮮支石墓・神籠石ラインと邪馬台国
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010866M.jpg
http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_05.html
re [10866] 豐葦原之千秋長五百秋之水穗國 は、どこ?。
https://ameblo.jp/indiaindia-27/entry-11950704367.html
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html
[10867] re [10866] 豐葦原之千秋長五百秋之水穗國 は、どこ?。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010868M.jpg
鳩摩羅童子さん、正解は、図添付で身近なんです。
おまけ、古事記に勾玉は水穗國に似せて、長の百が造ったとのこと。
現在、馬山は埋め立てされ、勾玉の輪郭だけですな、津(入り江)だったのですが・・・
re [10868] ・・豐葦原之千秋長五百秋之水穗國 は、どこ?
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 馬山市
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html
[10869] re [10868] ・・豐葦原之千秋長五百秋之水穗國 は、どこ?
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010870M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=ItL8wF0vpD0
高志之八俣遠呂智、毎年來喫
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010871M.jpg
http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_03.html
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[10869] re [10868] ・・豐葦原之千秋長五百秋之水穗國 は、どこ?
https://www.youtube.com/watch?v=LkWhxZN46c0&feature=youtu.be
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html
鉾(hoko), 彦(hiko), 肥後(higo), 日向 (hyuga), 卑弥呼(himiko) の空耳アワーの件
福永晋三 は、奈良の大和三山は、豊国の英彦山(ひこさん)、がルーツ、で、奈良は copy だ
と言っている。
英彦山は、大昔は、単に、彦山(ひこさん)と呼ばれ、英彦山が有る田川(たがわ)は、鷹羽(たかは)
と呼ばれていた。鷹 hawk ホーク。 英彦山の3つの神様は、鷹、の関係者。
鹿児島 (kago-shima) も、hiko が kago に化けた ? 。
九州の名前は、何故、 hiko の関係者なのか?。 偶然とは思えません。
鉾 hoko の青銅器文化をもった渡来人が立てた国だから、hiko の名が入っている ?。
---- 誰か、教えて。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html
彦・日子
秦野さん、童子さん、面白そうな話をしてますね・・・!
彦については、卑狗が倭人伝に記されており、その分布が対馬・壱岐あたりにまで及んでいることが、朝鮮南部にまで及び可能性を示すように感じます。
馬韓に数多みえる卑彌(ヒミ)、卑難(ヒナ)のつく国名なども、どこかしら、卑弥呼とか、卑狗と関係しないでしょうか。
先日の契丹古伝を考慮すると、太陽信仰にちなむ日子の可能性が高くなりますね。日女。
そこに賀茂とか八咫の烏が関わってくる。
ご指摘の鷹も日鷹、日高と関係して、太陽信仰と関わらないでしょうか。
ある意味、そのご指摘のホークも、確かにヒクに近いのかな・・。日向もヒコウとなるのか・・。日高はどうかな?
やはり、日本語祖語を考え直す必要がありますね。また後日、日本語祖語と印欧祖語、アイヌ語との比較についての鳴海さんの本について、いくらか紹介します。
[10872] [10869] re [10868] ・・豐葦原之千秋長五百秋之水穗國 は、どこ?
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https://www.youtube.com/watch?v=LkWhxZN46c0&feature=youtu.be
[10873] 鉾(hoko), 彦(hiko), 肥後(higo), 日向 (hyuga), 卑弥呼(himiko) の空耳アワーの件
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http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_05.html
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キングダム
秦野さんへの答えになるかどうかわかりませんが、今晩の0時15分からキングダムとかいう以前ルーツさんが話してたアニメが放送されるようです・・・・。面白そう!
■あらすじ
紀元前、中国西方の秦国(しんこく)に、今は亡き親友と夢見た「天下の大将軍」を目指す若き千人将・信(しん)がいた。
かつて王都で起きたクーデターに巻き込まれ、現在の秦王・嬴政(しんおう・えいせい)と運命的に出会った信は、自身の夢をかなえ、嬴政が目指す「中華統一」をともに成し遂げるため戦場に身を置くことになる。戦地で散った師・王騎(おうき)の死を乗り越え、蒙恬(もうてん)や王賁(おうほん)ら同世代の隊長たちと切磋琢磨しながら、着実に夢への階段を上ってゆく信。 一方、嬴政もまた、壮大な目標に向け、相国・呂不韋(りょふい)から国の実権を奪い返すべく宮廷内での勢力拡大に力を注ぐ。
そんな中、軍事最重要拠点のひとつ山陽(さんよう)の攻略に成功した秦国は、これにより中華統一へ一歩近づくこととなった。だが、七国の勢力図を塗り替えかねないこの一手に危機感を抱く趙国(ちょうこく)の天才軍師・李牧(りぼく)は、楚国(そこく)の宰相・春申君(しゅんしんくん)を総大将に、楚、趙、魏(ぎ)、燕(えん)、韓(かん)、斉(せい)の六国による合従軍を興し秦国への侵攻を開始する!
未曾有の危機に、秦国は持てるすべての武力を結集して、合従軍を迎え撃つ!!
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww6.nhk.or.jp%2Fanime%2Ftopics%2Fdetail.html%3Fi%3D6317
[10877] キングダム
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https://www.youtube.com/watch?v=9cz3HLwy11s
会報誌 注文の件
会報第8号発行おめでとうございます。
荊の紀氏めに 1冊 ですが お分け下さい
送金先の口座もよろしくお願いいたします。
会報
さっそくキシさん、ご注文ありがとうございます。
とりあえず、送料含めて2000円となりますので、到着後お手数ですが、お振込みよろしくお願いします。2年分・625ページあるので分厚いです。
また、皆さんのほうでもご注文されたい方おりましたらお知らせください。
徐福と御嶽
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ 御嶽_(沖縄)
御嶽
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ 御嶽
YouTube 『沖縄弁は、言語での東洋のガラパゴス』と教科書に載せよう
沖縄県の掲示板で、沖縄弁の単語と対応インド弁の単語を、毎日投稿していたら、
YouTube に投稿して欲しい、と言われまして、....。
そんなこと言われても、作るのは私なので、疲れます。
しかし、呼び水として、おもちゃのビデオを作りました。 スライド+音声合成ソフト、の合作※。
https://www.youtube.com/watch?v=33PUn3bAc-o
※ free のビデオ編集 tool にマトモのものが無く、 water mark というロゴを付けてくる。エゲツ無いったら、ありゃしない。
beecut の中国語?、や、 filmora とか。日本の free の toolは、AviUtl でロゴは付かないが、 spec. が古過ぎて動かない。どう見ても、技術立国日本とは言えない。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html
[10883] YouTube 『沖縄弁は、言語での東洋のガラパゴス』と教科書に載せよう
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>沖縄県の掲示板で、沖縄弁の単語と対応インド弁の単語を、毎日投稿していたら、
YouTube に投稿して欲しい、と言われまして、....。
いいですね、沖縄、インド・・・伝説など、YouTubeに投稿しては、これは、誰にもまねはできない・・
現代語でお願いいたします。
YouTube
童子さんのユーチューブ拝見しました。頑張っておられますね!
最近は、コロナの件もあり、講演会なども中止となることが多く、YouTubeや生放送の需要が増えてきているようです。その辺の活用法についても、今年は考えてみたいですね。
高千穂宮の住所が判明
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http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_07.html
古代科学史掲示板の新設
新年度になりましたので、少し研究会のほうも整理をしはじめようかと考えてますが、まず縄文・超古代史掲示板のほうを、あらたに古代科学史掲示板に名称を改めました。科学ネタについては、下記の古代科学史掲示板で論議しましょう!
古代史科学史掲示板
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8023.teacup.com%2Fshimoeda%2Fbbs%3F
また、こちらの歴史掲示板では、超古代史から近現代史まで、一般の歴史全般にわたって論議していただいて構いませんので、今後ともよろしくお願いします。
夷洲
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ 衛温
[10888] 夷洲
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http://www.chukai.ne.jp/~a-yamataikoku/entrance3.html
夷州の古代犬
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ 犬食文化
[10890] 夷州の古代犬
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https://kotobank.jp/word/? 髪-1321947
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亶州
秦野さん、お返事ありがとうございます。
そう、その隋書というと、夷州の記載がありましたね。
「都斯麻國迥在 大海中又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國其人同於華夏以爲夷州疑不能明也 又經十餘國 達於海岸 自 竹斯國以東 皆附庸於倭」
この場合、秦王国、つまり周防国のことでしょうか、ここの習俗が中国のそれと似ているので、ここが夷州(夷人の住む島々の意味?)であるとは思えない、理解できないと言っているわけです。ある意味、中国的でない周辺の島々はみな夷州と呼ばれていた可能性もありそうです。
しかし、それに対して「会稽東県人海行有遭風流移至亶洲者 所在絶遠卒不可得至 但得夷洲数千人還」の亶洲ですね、これがさらに夷州より遠くにあるとされてます。
その亶については下記のような意味があります。
?あつ(厚)い。ゆたか。 ?まこと。まことに。 ?ほしいまま。もっぱら。類専・擅(セン)
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.kanjipedia.jp%2Fkanji%2F0004613900
なぜ、この亶をおそらくは琉球・沖縄方面に充てたのかが解せない感じです。
夷というのは、中国周辺の異民族を意味する用語のように感じるんですね。ある程度、従属の意を示す場合がある。
それに対して、亶は、ほしいままに好きなように生きている、つまり中国の従属圏にいない、動物や魚のような異民族という具合の観念だったと考えるとどうでしょう。
それに似た観念として、同じく琉球方面を指すと考えた会稽の東のテイ(魚へんに是)の記載がありましたね。
後漢書東夷伝
「会稽の海外に、東テイ(魚へんに是)人あり。分かれて20余国となる。また、夷洲 およびセンさんずいに亶)洲あり。 伝に言う「秦の始皇(帝)、方子の徐福を遣わし、童男・ 童女数千人を将(ひき)いて海に入り、蓬莱の神仙を求めしむれども得ず。徐福、誅(殺)を恐れ、あえて還らず。ついに此の洲に止まる」と。
世々相承けて数万家あり。人民、時に会稽に至りて市す。会稽東冶の県人、海に入り行きて風に遭い、流移してセン(さんずいに亶)洲に到る者あり。所在絶遠にして往来すべからず。」
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkamodoku.dee.cc%2Fgokanjo.html
つまり、徐福が住み着いて戻ってこなかった20国となるのですが、ここを亶洲としている。
ここでさんずいを用いるのは、水つまり海に関わる「亶」を意味しているはずですから、やはり魚のようなきままな存在を示しているのではないでしょうか。
そして、そのテイ=魚+是でイワシの意味でしたね。半魚人とでもいうべき表現の仕方です。
ただ、徐福の子孫なら、習俗も中国風だったでしょうから、夷つまり異民族風ではない可能性もあったでしょう。
だから台湾=夷州と、その遠くにある琉球方面=亶州は区別する必要があったのではないでしょうか・・・・。20国あるというのも、国として交易・通交できるだけの文化があったことを示している。
それゆえ、孫権は興味を示したのかもしれません。文化的に高ければ、戦力・財力になりますからね。しかし、結果として夷州に行っただけで、そこからあまり戦力にならない1000人を連れて帰ってきたので怒ったのでしょう。
そういう意味では、亶州については、別格の文化地域との観念が中国人にあった可能性が見えてくるでしょう。
グスクや支石墓、御嶽に見られるような高度な石造文化もそうですね。当時からそれらは存在していて、縄文時代晩期には、海のシルクロードを経て華南経由でインド系のそれらが稲作とともに琉球方面へともたらされ、一部が九州へと伝来していく。
徐福の話というのは、山海経の分析からみても、それ以前にあった同様な逃亡民の移住伝承を元にしていることもあり、それらが亶州の観念として形作られていったのでしょう。
そして亶州と邪馬台国ですね。ここがこれから重要なポイントとなってきます。
[10892] 亶州
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さっそく亶州 (センシュウ)ですか・・・
『隋書』倭国伝(裴世清、聖徳太子)
明年(六〇八年)、 上遣文林郎裴?使於俀国。 度百濟行至竹島 南望?羅國經「都斯麻國逈在大海中。 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀。」
『隋書』倭国伝の抜粋ですか・・・「・・・」部分です。この文章は既に翻訳済みです。
管理人さん、説明とは異なります、
意訳、翌年(六〇八年)、上(天子)は文林郎の裴世清を俀国に遣わす。百済(倭)に渡る、竹島(済州島)に至り、南に耼羅国(五島列島の宇久島)を望み、都斯麻国(対馬)を経て、大海中を巡る。また東の一支国(壱岐)に至り、また竹斯国(志賀島)に至り、また、東の秦=奉王国(末盧国(まつるこく)、香椎)に至る。「そこの人は華夏(中華)と同じ、以って夷洲となす。」疑(うたが)うも、解明は不能である。また十余国を経て、海岸に達した。竹斯国より以東、皆俀に属する。奉=秦、倭=俀、この2文字は異字体、書き間違い。紛らわしいな。
「都斯麻國迥在 大海中又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國其人同於華夏以爲夷州疑不能明也 又經十餘國 達於海岸 自 竹斯國以東 皆附庸於倭」倭を書き換えてますな。
この場合、秦王国、つまり周防国のことでしょうか、ここの習俗が中国のそれと似ているので、ここが夷州(夷人の住む島々の意味?)であるとは思えない、理解できないと言っているわけです。ある意味、中国的でない周辺の島々はみな夷州と呼ばれていた可能性もありそうです。管理人さんの推測ですな、・・・
詳細は古事記に書かれている、夷洲、澶洲、蓬萊の図を添付。澶洲に邪馬台国があるにです。
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東アジアの遺伝子分布が明らかになりつつあります
記事が英語ですが、191体の東アジアの古人遺伝子データから、東アジア地域の8000年来の人の群れの起源、移動と混合の歴史を解析した論文が2020年3月25日に公開されました。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.biorxiv.org%2Fcontent%2F10.1101%2F2020.03.25.004606v1
東アジアの地域では最大規模の調査です(調査地域:モンゴル・中国北方・台湾・アムール盆地・日本)。
デイヴィッド・ライク「交雑する人類」でも挙げられていた「アムール盆地集団」は紀元前6000〜前3600年に遡り、かつて北ユーラシアに広がっていたようです。また、モンゴル内では、東方(アムール盆地集団)と西方(アファナシェヴォ文化の集団、トカラ語を話しているという説が有力)などが混ざり合ったそうです。
また、縄文時代の狩猟民族についても議論がされていました。
詳しくは、下記のURLを参照してください。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.biorxiv.org%2Fcontent%2F10.1101%2F2020.03.25.004606v1.full
遺伝子
fourfoursさん、さっそく最新情報お知らせありがとうございました。
英語論文・・・、頭が英語・遺伝子モードに切り替わるまで時間かかりそうです(汗)
またゆっくり拝読させていただきますね。
[10892] 亶州 徐福
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https://www.weblio.jp/content/ 鯷
亶州 徐福
東の鯷人の件で、その鯷は一般的にイワシと解釈されているようですね。
秦野さんご指摘のように、イワシの種類によって形状に相違がある点は興味深く感じます。
なぜ、イワシと呼んだか?も課題ですが、航海民であることに加えて、頭部に比して目が大きいという意味もあったのではないでしょうか。琉球方面に多い人種のように感じます。
縄文人に近く、比較的小柄で目が二重で大きく彫が濃い人種だったのかもしれませんね。
その人たちの中に、ある時期に徐福伝承のモデルとなった集団が逃亡していったわけですね。
山海経でいけば、以前指摘した困民でしょう。逃亡伝承があります。
この集団は、江南方面から琉球、さらに九州へと移住していった可能性を考えます。
日田の古墳状地形群
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以前、日田に二つの古墳状地形があることをお知らせしましたが、その双方の位置関係について再考してみたところ、次のようなことが明らかになりました。
まず図1のように、図左下の古墳状地形?(日田市日高・魏の曹操墓出土の鉄鏡と同類の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を出土したダンワラ古墳に隣接)があり、その東に日田古代史研究会の方が発見した古墳状地形?(日田市日高)があります。
そして、図のようにその北方にもうひとつ古墳状地形?(日田市有田)があることに気づきました。
図2はその3つがある地域の航空写真です。
この3つは、その古墳状地形周辺の道路からみてもわかるように前方後円墳状をしています。
そして、その後円部の中心点を結んだのが図1、2の青ラインです。
こうみると、30度、60度、90度の直角三角形を成していることがわかります。
距離的には1:2:√3になることは、その距離表を見てもわかるように、819m:1634m:1428mとなっていることからも明らかです。
なお、この直角三角形は図中の分度器のように9〜10度偏角を有しており、これは古墳時代前期の奈良や各地の古墳を結ぶ方位区画にみえる偏角で、北極星などを北とした場合の偏角のようにも考えうるでしょう。
距離尺としては、819m/2=409.5m=1里 もしくは、1428×3=4284m/10=428m=1里の尺単位のような気がしますが、どちらでしょうね。
また図2で、それらの古墳軸の向きに注目すると、古墳状地形?の古墳軸は古墳状地形?のほうを向いており、また古墳状地形?の古墳軸?の向きが古墳状地形?のほうを向くとともに、その古墳軸?の向きは古墳状地形?の古墳軸の向きと平行です。
これらのことから、この3つの古墳状地形の位置と方向が意図的になされたものであり、人工物であったことが明らかにしうるでしょう。
あと、図3は今回指摘した古墳状地形?の断面図ですが、サイズ的には250〜300mの箸墓サイズで、平坦に削られる前の元の高さは30m前後あったのではないでしょうか。これも箸墓の高さ30mに近いものです。
その「あやめ台」の字名のように、若干の台地になっていることからみて、その住宅地造営の際に、台地の上部を削ったことがわかります。その周囲を低地(掘)が囲んでいたはずで、そこが現在河や道路になっているのでしょう。
そのそばを求来里川が流れており、その求来里(ククリ、キュウクリ)に古い語源を見出しうるかもしれません。
その西方の會所神社で祀られる比佐(久)津媛(ひさつひめ)の久=キュウ音に関係しそうですね。
また求来里(ククリ、キュウクリ)は高句麗(コウクリ)の発音にも似てますが、同じく西方にある法恩寺山古墳群の壁画などは、後代の高句麗系渡来人とやはり関係してくるのではないでしょうか。元は高句麗と同族関係がある北燕遺民=新漢人との関連ですね。
とくにこの古墳状地形?の位置が、先日も邪馬台国の女王・台与との関係を考えた与止日女社⇔吉野ヶ里遺跡(高床倉庫群)⇔安国寺甕棺墓群⇔日田古墳状地形?を結ぶ方位ライン上にあることが重要ですが、この件についてはまた後日、改めて考えなおしてみたいと思います。
[10898] 亶州 徐福
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後漢書東夷伝を集団が逃亡ですか、 山海経でいけば、以前指摘した困民でしょう。逃亡伝承があります。
後漢書東夷伝、山海経は逃亡伝承なんですな。古代史は魏誌倭人伝に始まるが、管理人さんには、陳寿が
書いた逃亡伝承なんでしょうな。[10899] 日田の古墳状地形群 は、どう見ても、ウンコの盛り土でしょうな。
>ある時期に徐福伝承のモデルとなった集団が逃亡していったわけですね。
山海経でいけば、以前指摘した困民でしょう。逃亡伝承があります。
この集団は、江南方面から琉球、さらに九州へと移住していった可能性を考えます。
後漢書東夷伝
會稽海外有東鯷人,分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬萊神仙不,得徐福畏誅不,敢還遂止此洲,世世相承,有數萬家人。民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風,流移至澶洲者。所在?遠不,可往來。
意訳:会稽海の外に東鰯人、分れ成す20余国、また、夷洲、及び 澶洲あり。伝わる言葉、秦始皇帝使い正に侍、徐福將、童息子、娘、数える頭人、入海し、求める蓬莱に天津神、仙人なく悟る。徐福は賢く責めるない、敢えて再び、遂に止まる、この洲で行き年、受継ぐ、受ける有る数える万(よろず)、家人。民は其の頃に到る会稽市、會稽東冶縣人、入海道、遭う習わし有り。慰め移り到る澶洲といえる。所在る渡る遠いない、聞くに古(いにしえ)に来る。
令和 お楽しみに・・・
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令和の出典は万葉集からであると公表されていますね。万葉集の「梅花(うめのはな)の歌三十二首の序文」の一部にあたります。
万葉集巻第五「梅花謌卅二首 ?序」の序、を全訳する。お楽しみに・・・
天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。加以、曙嶺移雲、松掛羅而傾蓋、夕岫結霧、鳥封縠而迷林。庭舞新蝶、空歸故鴈。於是蓋天坐地、促膝飛觴。忘言一室之裏、開衿煙霞之外。淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以攄情。請紀落梅之篇。古今夫何異矣。宜賦園梅聊成短詠。
現在の令和の訳、
白文:于時初春令月氣淑風和梅披鏡前之粉蘭薫珮後之香
初春の令月にして、気淑く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす
読み:しょしゅんのれいげつにして、きよくかぜやわらぎ、うめはきょうぜんのこをひらき、らんははいごのこうをかおらす
[10894] 補足
みなさん、[10894]の記事に関心を持ってくださりありがとうございます。
大変な時期にありますが、お体にお気を付け下さい。
雑記帳さんのブログ記事に日本語でまとめてありました。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsicambre.at.webry.info%2F202004%2Farticle_41.html
もしよろしければ、ご参照ください。
[10901] 令和
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天平二年(730年) 土岐(時)の元服(げんぶく、げんぷく)になる。
于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。
於いて土岐(とき)、初春(うぶ、とし)令月(おさ、つき)、壱岐(いき)は淑(しと)やか習わし倭、梅開く鏡前(かがみ、まえ)を飾る。蘭薫(あららぎ、かおる)帯び玉、遅れ此れ香(かぐわ)しい
原文:天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。加以、曙嶺移雲、松掛羅而傾蓋、夕岫結霧、鳥封縠而迷林。庭舞新蝶、空歸故鴈。於是蓋天坐地、促膝飛觴。忘言一室之裏、開衿煙霞之外。淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以攄情。請紀落梅之篇。古今夫何異矣。宜賦園梅聊成短詠。
意訳:天平二年正月十三日、集まる、於いて帥老(しろう)これ家、重ねる宴(うたげ)に集まるなり。於いて土岐(とき)、初春(うぶ、とし)令月(おさ、つき)、壱岐(いき)は淑(しと)やか習わし倭、梅開く鏡(かがみ、)前(まえ)を飾る。蘭薫(あららぎ、かおる)帯び玉、遅れ此れ香(かぐわ)しい。加わる以ち、曙嶺(あけぼの、みね)を移し行く、松(まつ、)掛かり連なる、然るに覆し被う、夕峰(ゆう、みね、)透(す)く霧(きり、)、鳥(とり、)封じる縠(から、)然るに惑う多い。庭弄(にわ、もてあそ)ぶ、沙羅蝶(さら、ちょう)、虚ろ贈る元雁(もと、かり)、於いて此れ被う、天座る津地、迫る膝、跳ぶ盃、忘れる言葉、初家(うぶや)此れ裏、開(はだ)ける衿(えり、)、烟(けぶ)る霞(かすみ、)此れ外(そと)。うすい然り、自ら赦(ゆる)す、快い然り自ら足す。汝非(なんじ、あら)ず飛ぶ盃、何(いず)れ以ち述べる心、請(う)ける記す村、梅此れ篇(ふみ、)。古(いにしえ)今は夫、何(いず)れ妖(あや)しいだろう。宜しく分かつ庭(にわ)、梅を楽しむ成る、短く詠う。
Re: [10894] 補足
fourfoursさんへのお返事です。
>
> 雑記帳さんのブログ記事に日本語でまとめてありました。
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsicambre.at.webry.info%2F202004%2Farticle_41.html
>
> もしよろしければ、ご参照ください。
さっそく和訳ありがとうございました。また後でゆっくり拝読させていただきます!
日田の超巨大古墳状地形
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https://www.shundaichi.com/37034393402148822269123923506937444.html
「水」にみられるような語彙変化はかなり多彩だったのか?(序編)
ゴールデンウィークも終わりますが、いかがお過ごしでしょうか。
再び、金平譲司さんのブログ記事を引用いたします。興味があれば、お読みください。
金平さんによれば、日本語(縄文時代で話されていた系統ではなく、大陸で話されていた系統のほう)は、「遼河流域」で話されており、のちに「山東省」に移動し、弥生時代に話されていた言語へと進化したそうです。
「山東省」には、春秋戦国時代(BC770年〜)より若干前の時代に、
「遼河流域」には、BC6200からBC2200年の流域砂漠化までの期間にいることを想定しています。その言語は、ウラル語族(以下UR)と同祖であると推定されています。
「山東省」では、「インド・ヨーロッパ系の言語(以下IE)」「テュルク系の言語(以下TU)」「モンゴル系の言語(以下MO)」「シナ・チベット語族の言語(以下ST)」「ベトナム系の言語(以下AA)」「タイ系の言語(以下TK)」と接し、
「遼河流域」では、「かつて北ユーラシアに存在した複数(4〜5ほどを想定されている)の言語群」と接していたと仮定しています。
それぞれの言語には「水」を表す語がありますが、「水」そのものを表す語と「水」そのものを表さない語があります。
「水」そのものを表さない語は外来語であると考えられ、「川」「湿り」「干潟」「氷」「雪」「霧」「水の隣接部分」「隣接部分の盛り上がり」「高さ」「山」「天」「境」「床」「群がり」「糸」「島」「印」「方法」「向き」「耳」「手・腕・肩・脇」etc....などの意味で残っているそうです。意味変化は、非常に多岐にわたります(びっくりだ!!!!)。
現時点で、大昔に東アジア・北ユーラシアに存在した言語群のなかで、「水」のことをどういっていたかで9種類公開されています。今後新種のものが増えるかもしれません。「水」を表す語は変わりにくいため、同じように言っていれば起源が同じとしています(ただし決定事項ではありません)。
これをまとめると以下のようになりますが、バリエーションが多いことが分かります。バリエーションが多いのは、長い期間経っているためです。特に外来語として入ってくる場合変化します。
バリエーションが多いものは、より古い時代から存在していることが言えます。
?wat-/d-,wit-/d-,wut-/d-,wet-/d-,wot-/d- :UR,IE
※ただしwの部分はv,bに変わっているケースあり
?jak-/g-,jik-/g-,juk-/g-,jek-/g-,jok-/g- (jはヤ行音) :インディアン系の言語のうちの1つ,ST,AA,ニヴフ語
※ただしjの部分は?,?,?,?,t,d,s,z,lに変わっているケースあり
※jの部分は消えていることがあり
※k-/g-の部分はi-/j-に変わっているケースあり
※「母音」と「k-/g-」の間に子音nが挿入されているケースあり、それに伴い「k-/g-」が「ŋ-(ガ行の鼻濁音)」に変化しているケースあり(「jaŋk-/g-」のような語形)、さらにk-/g-がとれているケースあり(「jan-」のような語形)
?am-,um-,om- :?とは別のインディアン系の言語のうちの1つ
※mの部分はb,pに変わっているケースあり
?mVrk-/g- (Vは任意の母音) :アイヌ語・朝鮮語・ツングース諸語
※ただしmの部分はw,b,p,v,fに、rの部分はlに変わっているケースあり
※rk-のrの部分は後ろの子音に同化しkk-に変わっているケースあり
※さらにrまたはkが消えているケースあり
?sam-,sim-,sum-,sem-,som-:TU
※ただしm-の部分はb-,p-,w-,v-に変化しているケースあり
※TU(テュルク系の言語)はw-またはv-として残っているものが多い
?kata-:語源不明(遼河流域近辺)
※日本語などで外来語としてのみ存在(方、潟、片、肩など)
※?????のような意味変化をしていることが確認されている
?sula-:語源不明
※UR,IEなどに外来語としてのみ存在(フィンランド語 sulaa「溶けた」、ラテン語insula「島」)
?tura-:語源不明
※日本語などに外来語として存在(つらら、弦(turu)、蔓(turu))
?us-,is-,es-:MO(モンゴル語族)
※日本語では「石(isi)、磯(iso)」として入っていると想定
※「石」は「水や川の隣接部分に存在している」ために表すようになったのでは
≪参考≫
?to-:
※これは北アメリカのインディアンの諸言語のもので、東アジアの言語には存在していないかもしれません。
情報過多となってしまいましたので、ここまでといたします。
近いうちに続きの投稿を書きます。そこで、私の考察を加えます。
ここまでの話は、過去の金平さんのブログ記事のバックナンバーをもとにまとめています。詳しくは、バックナンバーをご覧ください。下記URLから確認することが出来ます。
http://www.jojikanehira.com/archives/list
石上?宮
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010907M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010907_2M.jpg
http://www.isonokami.jp/
Re: 石上?宮
秦野北斗さんへのお返事です。
> 石上神宮[いそのかみじんぐう]をご存知ですか、石(isi)をいそ磯(iso)と読みます。
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.isonokami.jp%2F
> 金平譲司さんの言語は紀元後の様ですな、
>
> 石上神宮は、古事記 神武東征に記される、所在は、奈良県天理市に在り、石上神宮[いそのかみじんぐう]は古事記に基づき、建てられた神宮になる。本来、石(いし)=美し(うまし)と読む、現在の学者には、読めない。美しは、韓国になる、韓国は660年までは、日本の領地であった、現在の韓国人は古代の歴史など知らない。正式名は、石上?宮(うましほとりかみみや)
>
>
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.isonokami.jp%2F
ご返事ありがとうございます。崇神天皇7年に建てられたといわれているのですね。
「石」をisiといったり、isoといったりしていましたが、砂子(isago)のように、*isaといっていた場合もあると思います。
日本語は子音で終わることが出来ないため、「i」や「a」や「o」を補って日本語として入っていったことが分かります。
崇神天皇は紀元後2〜300年頃に生きていたとするならば、2〜300年代には、「石」のことを、「いし」「いそ」「いさ」とバラバラになっていたということですが、それは、もともと日本語にあった語ではなく、近くに存在した言語群から入ってきたことを物語っています。奈良時代の日本語にも、母音の揺れが存在する単語はありますが、それらは外来語であると考えられるでしょう。
崇神天皇の生存していた時代に大陸からの移動があったかはわかりませんが、弥生時代ごろの日本語の話者が子音の連続を避けるためにiまたはuまたはaという母音を挿入していたのがわかります。
その言語群がモンゴル系の言語だということです。
ただし、後の投稿でも触れますが、「モンゴル系言語→アイヌ系言語→日本語」で日本語に入った可能性があり、否定はできません。アイヌ語にも「iso(磯)」という言葉があり、長い間アイヌ民族と大和民族は接触していました。アイヌ語はアイヌ語で過去にモンゴル語と接していた可能性はあります。そうすれば崇神天皇時代の「いし」「いそ」「いさ」のばらつきも説明できるかもしれませんね。
ひょっとしたら借用の向きは逆で「日本語→アイヌ語」もあるかもしれませんが。
長文、失礼いたしました。
Re: 石上?宮
fourfoursさんへのお返事です。
>
> 「石」をisiといったり、isoといったりしていましたが、砂子(isago)のように、*isaといっていた場合もあると思います。
>
> 日本語は子音で終わることが出来ないため、「i」や「a」や「o」を補って日本語として入っていったことが分かります。
>
そうですよね、母音で終わるのは現代の日本語の大きな特徴です。
> 崇神天皇は紀元後2〜300年頃に生きていたとするならば、2〜300年代には、「石」のことを、「いし」「いそ」「いさ」とバラバラになっていたということですが、それは、もともと日本語にあった語ではなく、近くに存在した言語群から入ってきたことを物語っています。奈良時代の日本語にも、母音の揺れが存在する単語はありますが、それらは外来語であると考えられるでしょう。
>
> 崇神天皇の生存していた時代に大陸からの移動があったかはわかりませんが、弥生時代ごろの日本語の話者が子音の連続を避けるためにiまたはuまたはaという母音を挿入していたのがわかります。
>
> その言語群がモンゴル系の言語だということです。
私も、同様に特に高句麗祖語あたりが日本列島へと入るときに、母音が加わっていく過程があったように感じてます。
逆に言えば、母音を抜くことによって、モンゴル語とか、さらにはアラム語系統の言葉などへと復元できる語彙が多いのではないかとも感じてますが、その件はまたの機会に。。
>
>
Re: 石上?宮
管理人さんへのお返事です。
ご返事ありがとうございます。
アフロ・アジア語族、ドラヴィダ語族、その他南アジア・西アジアで話されていた消滅言語(例えばシュメール語)、南アジアの孤立言語(たとえばクスンダ語)、さらにはアフリカで話されている言語は日本語と結びつくかもしれませんが、「弥生時代の言葉」に関しては、間接的は関係もあったかもしれません。
例えばある言語Aが存在したたときに、A→日本語、A→タミル語に伝わった可能性はあるかもしれません。
これらも、生き残っている言語の単語を綿密に調べることによって、示すことができますね。
また、さらに進むと、縄文時代に話されていた言語については、上記に挙げたような言語と系統関係もひょっとしたら示されるかもしれませんね。
九州北部の古墳状地形方位ライン
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先日お知らせした日田の巨大前方後円墳状地形と、以前からお知らせしてきた北九州各地の古墳状地形を結ぶ方位ラインを作成してみました。以前も同様なものを作成はしているのですが、今回は最新版です。
図1がその古墳状地形を結んだラインとなりますが、まず先日指摘した日田の巨大前方後円墳状地形?と、同じく先日分析した高良山北部にある前方後円墳状地形とが図のように東西ラインで接合してきます。その延長線上に印鑰神社があり、ここに邪馬台国時代の役所があった可能性を指摘したとおりです。
次に、この日田の古墳状地形?とその北西の伊川の巨大前方後円墳状地形(図2参照)を結ぶライン上に鎌田原遺跡(図3の前方後円墳状地形がある)が綺麗に載ることがわかります。ほぼ誤差がないことからみても、これらの二つ(日田と伊川)の1000m級の巨大古墳状地形が人工的な位置に構築されたことがわかります。
また、その伊川の巨大古墳状地形は、図1のように赤村で発見された前方後円墳状地形の真西にあたり、その延長線上に、初期の(纏向型)前方後円墳である名島4号墳が接合することも以前指摘したとおりです。
さらに、その伊川の巨大古墳状地形の真南に平塚川添遺跡があり、また図1のように鎌田原遺跡(前方後円墳状地形)と高良山北の古墳状地形を結ぶライン上に、この平塚川添遺跡が載ることもわかります。
その平塚の字名もおそらくは古墳が存在したことによるものであり、この地域が弥生時代から邪馬台国時代の中心的な都市機能を有していたであろうことは先学が指摘しているところです。
そして、これらの古墳状地形が人工的・意図的に構築されたことは、図の方格(黒線)上の交点にこれらが載ることからも確認することができ明らかです。
これらは特定の距離尺と方角に造営されたのであり、高精度な技術で測量されていると言えるでしょう。
ほぼ偏角なしの直角三角形を多用した測量を行っていることからみて、偏角がある弥生時代前期のものではなく、より精度の高い後期の測量によったことが予想されます。
これらの古墳状地形を結ぶ中に邪馬台国の諸国があり、また女王・卑弥呼・台与の都・墳墓もあったのかもしれませんが、その是非については、これらの未発掘の古墳状地形を調査することから、徐々に明らかにされていくのではないでしょうか。今後の発掘調査に期待したいところです。
[10908] Re: 石上?宮
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010912M.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 石上神宮
Re: [10908] Re: 石上?宮
秦野北斗さんへのお返事です。
失礼いたしました。
紀元前1世紀であれば、なおさら「弥生時代の言語」と関係が深そうですね。
「水」にみられるような語彙変化はかなり多彩だったのか?(中編)※完成版です。お騒がせいたしました。
http://www.jojikanehira.com/archives/15703219.html
http://www.jojikanehira.com/archives/list
Re: 石上?宮
管理人さんへのお返事です。
高句麗祖語を話していた人々が遺伝的に解明できると、他言語との関連性も見えてくるかもしれません。
今後も注目したいところです。
飯塚市遺跡情報システム
様々な情報が地図と共にご覧になれます
飯塚市遺跡情報システム /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftrc-adeac.trc.co.jp%2FHtml%2FImageView%2F4020505100%2F4020505100300010%2Fiseki-map%2Findex.html
飯塚市の遺跡情報システムのサイトでは、飯塚市に所在する「遺跡(埋蔵文化財包蔵地)」についての様々な情報が地図と共にご覧になれます。 利用上の注意 遺跡(埋蔵文化財包蔵地)は、調査の成果等によってその範囲を変更する場合や、現在空白となっている地点に新たに登録されること ...
Re[10907] 石上?宮 うましほとり..
> 引用 start
石上神宮[いそのかみじんぐう] 〜:
石上神宮は、古事記 神武東征に記される、所在は、奈良県天理市に在り、石上神宮[いそのかみじんぐう]は古事記に基づき、建てられた神宮になる。本来、石(いし)= 美し(うまし)と読む、現在の学者には、読めない。美しは、韓国になる、韓国は660年までは、日本の領地であった、現在の韓国人は古代の歴史など知らない。正式名は、石上?宮(うましほとりかみみや)
> 引用 end
の 「石(いし)= 美し(うまし)」 をインド弁辞書の 「石 stone」 で検証してみる。
【タミル語】umicam 又は ummicam(= 1. groove in the frame work of a jewel in which ★stones are to be set 石がセットされる宝石のフレームワーク(枠組み)の溝; 2. notch V字型の刻み目[切り込み] 。階段 (TLS)) うましの、いその (m 無音)
何かのヒントになりますかネ。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html
太 安万侶
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https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010918_2M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010918_3M.jpg
https://kobun.weblio.jp/content/ 美し
「水」にみられるような語彙変化はかなり多彩だったのか?(後編)
http://www.jojikanehira.com/archives/15703219.html
http://www.jojikanehira.com/archives/list
[10906][10914][10919]について
長文を多く投稿してしまいました。
うまくまとめられたかはわかりませんが、読んでいただければ幸いです。
今後もよろしくお願いします。
銛(もり)とイルカと縄文人
昔より海の幸に恵まれて
温暖な気候に恵まれた日本列島の縄文時代も、後期になると徐々に寒冷化が進み、環境も
大きく変化していった。しかも東京、神奈川の辺りでは、箱根山や富士山が噴火したこと
で、食料を山野だけで確保する事が難しくなっていた。そのため寒さの影響を受けにくい貝
や魚などの海産物を確保するため、殊に入り江や遠浅(とおあさ)の海岸に恵まれた地域などで、漁労へ
のシフトが進み、その捨て場所である貝塚が各地に多く出来て行ったと考えられる。
貝塚からはアサリやハマグリなどの貝のカラは勿論のこと、銛(もり)や釣り針などの骨角器、魚の骨、土器や石器の破片などが出土し、当時の自然環境や食生活、縄文人の暮らしを知る上で、極めて重要な手段となっている。時には人骨が発見される事も有り、貝塚は単にゴミ捨て場ではなく、死者の埋葬の場をも意味し、破棄(捨てる)という行為そのものも、現代とは違う事が伺い知れる。
横浜の称名寺(しょうみょうじ)貝塚からはイルカの骨が多数出土し、丸木舟で漁(りょう)をしたものと思われる。この貝塚の研究者である講師により、漁労の民としての縄文人の暮らしの再現を試みたい。
「世界古代文明の謎を探る」(45)「銛(もり)とイルカと縄文人」
主 催 アストライアの会 協 力 日本セカンドライフ協会
ゲスト 高橋 健 横浜ユーラシア文化館学芸員
日 時 令和2年8月25日(火)午後2時から5時
会 場 豊島区イケビズ美術室(池袋駅西口徒歩約9分)
費 用 お茶代込み参加費二千円
連絡先 TEL049(258)3218 松原まで
備 考 後半はゲストを交えたお茶会です。
イワシは、何語
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010922M.jpg
鳩摩羅童子さん、イワシ(鰯・鰛・鰮)中国語イワシ(鯷・鮷)ですが、インド弁saaradain
鮷:カタクチイワシ 鰯:沙丁魚、Sardine 鯷:ウルメイワシ?
イワシは何語ですか、
後漢書倭伝
會稽海外有東鯷人,分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬萊神仙不,得徐福畏誅不,敢還遂止此洲,世世相承,有數萬家人。民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風,流移至澶洲者。所在絶遠不,可往來。
会稽海(上海)の外に東鰯人、分れ成す20余国、また、夷洲、及び 澶洲あり。伝わる言葉、秦始皇帝使い正に侍、徐福將、童息子、娘、数える頭人、入海し、求める蓬莱に天津神、仙人なく悟る。徐福は賢く責めるない、敢えて再び、遂に止まる、この洲で行き年、受継ぐ、受ける有る数える万(よろず)、家人。民は其の頃に到る会稽市、會稽東冶縣人、入海道、遭う習わし有り。慰め移り到る澶洲といえる。所在る渡る遠いない、聞くに古(いにしえ)に来る。
http://
Re [10922] イワシは、何語
> 引用 start
鳩摩羅童子さん、イワシ(鰯・鰛・鰮)中国語イワシ(鯷・鮷)ですが、インド弁saaradain
鮷:カタクチイワシ 鰯:沙丁魚、Sardine 鯷:ウルメイワシ?
イワシは何語ですか
> 引用 end
インド弁saaradain 、と 書いてありますが、ケルン大のインド弁辞書には「saaradain」は、載っていません。
どこからの参照でしょうか?。
---
しかし、「いわし」は、多分、インド弁です。
【タミル語】cUTaippoTi(= ★sardine) かたいわし (c-k)
【タミル語】cUTai(= 02 1. ★sardine, bluish-green, clupea fimbriata ; 2. sardine, golden spot with purple, attaining 4 in. in length, clupea lile ; 3. sea-fish, silvery, attaining 20 in. in length, pellona lechenaultii) かた (c-k)
【タミル語】naRcALai(= a superior kind of ★oil-sardine or ca1l2ai) めざらい → 目刺し、イワシ (n 無音)
c. 「鰯の頭も信心から (「鰯」は「いわし」が正しい)」 in 上方いろはかるた
→ 「かぶり」の同音異義語の言葉遊び。
【タミル語】kavalai(= 02 1. a rooted creeper; 2. malabar ★sardine of beautiful green colour, attaining 7 in. in length dussumieria acuta) かぶり
【サンスクリット語】kavarIbhara (= m. a fine ★head of hair Gi1t.) かぶりばら
【タミル語】kOpAlam (= a ★religious vow to beg on Saturdays in the month) かぶり
c. 沖縄弁では、「ミジュン」と言うが、これも、インド弁にある。
■ミジュン(みじゅん)/ ミジュン/ / 意味/ 鰯
【タミル語】naRcALai (= a superior kind of oil-★sardine オイルサーディン or ca1l2ai) ミジュン (L-n)
c. oil sardine とは、魚の名前である。日本では、油漬(オイルサーディン)と、料理の名前であるが、 wikipedia で 「oil sardine」を引くと、「Indian oil sardine - Wikipedia」が一番に表示され、魚の名前である。「サージン」鰯(イワシ)のことである。インド弁辞書には sardine では、下記 7 個の名前が登録されている。「いわし」の発音似は、無い。
ayigkavalai/ cALai/ cITai/ cUTai/ cUTaippoTi/ kavalai/ naRcALai
→ しかし、cUTaippoTi は、「かたイワシ」、-- 「かたくち イワシ」に見える。
c. ロシア語のイヴァシー (иваси) も日本語からの借用である。 from wikipedia 「イワシ」
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html
RE[10923]
> インド弁saaradain
と、あるのは、Google 翻訳の 【英】sardine に対する 「ヒンディー語」の結果
???????
saaradain
みたいですね。 「インド弁」という言葉は、対象が広いので、
私が「インド弁」という言葉を使っているのは、良くないかも知れない。
「古代インド弁」と言う名前に変えた方がイイかも、と、考える、今日この頃、でオマス。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html
イワシ と ニシン
https://medakasuisan.com/sardine/post-1854/
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html
かど
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010926M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010926_2M.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 門松
http://
門松の由来 平安時代
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010927_2M.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 日本書紀
過去の言語・歴史の復元
またみなさん、わかちあいありがとうございます。
言語・語彙関連で盛り上がっておられるようですね。
コロナウイルスも短期間で遺伝子配列が変化しているそうで、過去のウイルスの原型を探し出す、つまり歴史を調べることも必要となってきそうです。
歴史研究とは、ある意味、すでに断片的にしか存在しないものを、法則性とともに復元していくことだともいえそうですね。
その法則性を明らかにすること、これが重要だと言えるでしょう。
日本語の変遷でもそうですね。過去に発音されていたものが、現在は半ば失われているようなケースもご指摘にあったとおりです。
ある大きな変異が、その大きな流れの中で起こるわけですね。その大きな変異が、また時間とともに、形を少しづつ変えていく。
渡来人の渡来、その技術革新などは、その大きな変異に属するものでしょう。
その技術が徐々に日本風土に合わせたものへと変遷していく、大陸では石材でできていたものが、日本では木材へと変化していく、そういう事例が多くあります。
日本的という媒介項がそこに影響を与えていくわけですが、イワシという語彙にも、どこか日本語特有の要素が加わっているのかもしれません。母音が云々とか。
その法則性を明らかにできれば、すべての歴史上の語彙や言語を調べなくても、ある程度の予測がつくようになるでしょう。
人工的に、過去のある時代の特定地域の言語をシュミレートするわけですね。
その変異をもたらすべき要因が、どういうものなのか?、ここも重要な視点で、環境的要因、人種的、技術的要因…と様々ですが、それらがランダムに突発的にもたられるように見えることもあれば、あるいは気候変動周期のように周期的に繰り返されるものもあり、拡散、消滅、結合の過程というのもまた考えていく必要があるのですが、その辺を、これから日本古代史の中で明らかにしていく必要があります。
すでに、日本語の変遷に関する研究において、そのような試みがなされてきてますが、古墳や土器の形状、形質、そういうものも、やはり同様に特定の条件を加えたときに、どういう風にそれらが変遷するかをシュミレートすべき指標を構築すべきでしょう。
同様に、渡来人にもたらした金属精錬技術などについても、その渡来人の人口なり、年代、世代数・・といった要因をもとにしながら、結果として、こうなった!、こうなるためには、こういう変遷過程がそこに加わるべきだ、そのためにはこのくらいの年代が必要だという部分の法則性を追求していく必要があるでしょうし、同様に、その宗教観や習俗、伝承の変遷・拡散過程についても、記録に残っているものだけを分析するのではなくて、その記録の元となった文章なりを、人工的に復元していくシステム化を立ち上げていく必要があるでしょう。
元テキスト論とも言いますが、その元テキスト、元文面といったものが、どういうものであったのか?その復元のためには、何が必要なのか?、方程式のxを説く試みですね、ここの部分を明らかにすべき時期が来ているように感じます。ある程度しっかりした資料群が手に入る時代になってきましたから、あとはそこから法則性を見出す知恵、その辺を、ぜひみなさんにとりくんでいただきたいところです!
>ニシン(かど)一見なんの関係があるの?ですが、関係があるんですな・・・
ガド族の一支族がマナの壷を継承し、それが、日本にもたらされ伊勢神宮の外宮にあるという説…
鰊 レン・にしん…かど(鰊)…束柱???2020年 5月15日(金)08時47分30秒 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%3F
東トウ(ひがし)とは別字。柬(えらぶ)⇒東に変化する。
レンという魚。レンのイメージは不明。日本では、にしんに当てる。古くは鯡 ヒと書くことが多かった… /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fd%2F20141005
鯡 ヒ…「まだ成魚になりきっていない魚」…
二身(にしん)…
「ニシン」の語源には、「二親」説と「二身」説がある。「二親」とは父母のことであり、盆や正月に両親の長寿を祈って食べる魚であったことに由来する説である。「二身」は身を二つに割いて食べることに由来する説である。他にも、二つに身を割ることから「妊娠」を語源とする説もある。
漢字の「鰊」のつくり「柬」は「若い」という意味。小魚を指すことからニシンに字が当てられた。また、「鯡」のつくり「非」は否定を表し、「まだ成魚になりきっていない魚」という意味を表す。「鰊」と「鯡」どちらが先にできたかは不明だが、室町時代の『節用集せつようしゅう』に両方の字が出ている。
祖先…
日ユ同祖論と伊勢神宮
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010930M.jpg
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https://nihonshinwa.com/archives/75
アメリカ大陸北極域とシベリアにおける人類集団の変遷(追記有)
雑記帳さんのブログ記事です。
ご存じの方も多いと思いますが、シベリア北東部に、31600年前頃に人が住んでいた証拠があるようですね。
現時点で最古のシベリア北東部の遺跡です。ヤナRHSと呼んでいます。
Sikoraら(2019)は、シベリア北東部における後期更新世〜完新世にかけての人類集団の3回の主要な拡大と、それに続く大規模な置換を明らかにしました。
1度目は、ヤナRHSに関連する民族である。2度目はアメリカ大陸先住民に関連する民族で、20000〜18000年前頃。そして3度目は、新シベリア集団。13000頃。
新シベリア集団は、13000年前頃の2度目の民族との交雑と、5000年前頃以後の、アジア中央部草原地帯からの青銅器時代集団との交雑を通じて、1度目の民族との遺伝的影響を間接的に受けている。
https://sicambre.at.webry.info/201906/article_17.html
>中国語イワシ(鯷・鮷)…おおなまず…
>中国語イワシ(鯷・鮷)
鯷(テイ)
訓読み
しこ
ひしこ
意味
大きななまず。おおなまず。魚の名。ナマズ科の淡水魚。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkanji.jitenon.jp%2Fkanjio%2F7006.html
日本しこ。ひしこ。カタクチイワシ科の海水魚
ナマズ科…
祖先?…体は鱗のない、ツルツルの魚のような姿…
>かんむり座は、紀元前3200年頃にはできていた星座ですが、ギリシャ神話では、コップ座とも関係する酒神・ディオニュソス(バッカス)に結び付けられています。
神話の物語によると、この冠はディオニュソスがミノス王の娘・アリアドネに贈った冠だと伝えられています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fseiza.imagestyle.biz%2Fsinwa%2Fkanmuri.shtml
コップ座…
コップ座は春に見られる星座で、からす座と一緒に、うみへび座の背中に乗っているように描かれています。
四等星と五等星からできているので暗い星座ですが、うみへび座の尻尾辺りを頼りにして探してみれば、案外簡単に見つけることのできる星座です。
コップ座はギリシャ時代につくられた古い星座で、このコップは、ギリシャ神話に伝えられている酒神・ディオニュソスがもっていた杯だと言われています。
ディオニュソスは、大神・ゼウスとテーバイ王の娘・セメレとの間に生まれた若者で、半分はゼウスの血を引いているので、神のような力を持っていると伝えられています。
このディオニュソスがいつも愛用していた杯がコップ座になっているのですが、「コップ」と名前についていますが、このコップは現在使われているような形ではなく、耳飾りの付いた杯の形で描かれています。
…ディオニュソスの周りには鳥や獣達が現れ、周りを固めて海賊たちを寄せ付けません。
驚いた海賊たちは海に飛び込んで逃げようとしますが、手足はひれに変わり、体は鱗のない、ツルツルの魚のような姿になってしまいます。
このような物語がギリシャ神話に伝わっていますが、イルカはこの時に生まれたものだとも伝えられています。
体は鱗のない、ツルツルの魚のような姿…イルカはこの時に生まれたもの…紀元前3200年頃?…
紀元前3500年頃 - 岡山県総社市の南溝手遺跡で、熱帯ジャポニカのプラント・オパールが見つかっている。
西暦による紀元前4000年から紀元前3001年 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
「クルガン文化」? - スレドニ・ストグ文化(アゾフ海流域)とマイコープ文化(コーカサス地方)を包含する仮説の文化、インド・ヨーロッパ語族の候補。
紀元前4000年頃、黒海北部から南ロシアに懸けての草原地帯で、はじめて野生種の馬が家畜化された。アンデスの高地でリャマの飼育が始まった。リャマは、毛と皮を利用するほか食用や運搬用に用いられている。稲の栽培がインド北東部のアッサム地方から中国雲南の雲貴高原にかけての山岳地帯でも始まった。
紀元前40世紀 - メソポタミアの都市国家ウルの創建
紀元前4000年-3000年頃 - ナイル川流域にナカダ文化(en:Naqada culture)
紀元前3761年 - 近代ユダヤ暦の起算年;10月7日を起算日とする
紀元前3760年 - ユダヤ歴による天地創造の始まり:9月25日または3月29日
紀元前36世紀 - シュメール文明、都市国家分立
紀元前3500年頃 - 岡山県総社市の南溝手遺跡で、熱帯ジャポニカのプラント・オパールが見つかっている。この頃すでに日本で陸稲稲作が始まっていたと思われる。
メソポタミア、キシュ第1王朝から第4王朝
イヌイットの祖先、ベーリング海峡を超え、アジアからアラスカへ至る
中国で龍山文化が誕生。黄河文明がおこる。
紀元前3123年 - この年の6月29日にオーストリア上空付近で小天体が爆発し、地球の環境に多大な影響を与えたと推測されている
紀元前3114年 - この年の8月13日または8月11日にマヤ文明の長期暦(GMT対照法)が始まる(=マヤ文明による天地創造の日)
紀元前3102年2月18日 - ヒンドゥー教神話によるカリ・ユガ時代の始まり、伝承によるクリシュナの没日
紀元前3000年 - エジプトで、メネス王が上エジプトと下エジプトの二王国を統一。ファラオとなる。
クルガン文化…
インド・ヨーロッパ語族の拡散を、騎馬民族に起源するクルガン文化の … /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Frepository.kulib.kyoto-u.ac.jp%2Fdspace%2Fbitstream%2F2433%2F240160%2F1%2Fshirin_094_1_5.pdf
インド・ヨーロッパ語族…
19世紀後半、インド・ヨーロッパ祖語の話し手を「アーリヤ人」とする説をドイツ生まれのオックスフォード大学教授マックス・ミュラーが唱える。
「アーリヤ」とはサンスクリット語で「高貴な人」を表し初期のインド・ヨーロッパ語族の研究ではサンスクリット語がインド・ヨーロッパ諸語の祖先言語であるという考え方があり、話し手を「アーリヤ人」という人種として捉えるようになった。
20世紀に入るとナチスによって、インド・ヨーロッパ語族を「高貴なアーリヤ人」=優秀な人種とみなし、ユダヤ人の言語ヘブライ語はセム・ハム語族に属するとし排斥した。ナチスの影響の強い時代は、祖地をゲルマン民族の地に求めた。
戦後、(言語学では)インド・ヨーロッパ祖語の祖地をめぐる研究はタブー視されてしまった。
ギンブタスとクルガン文化説
1950〜60年にかけて、カリフォルニア大学の考古学者マリヤ・ギンブタスが、クルガン文化説を提唱。クルガン文化とはヴォルガ川下流域からアラル海にかけて広がる考古学上の文化の総称。紀元前4500年前からはじまるクルガン文化とインド・ヨーロッパ語族の話し手を同一とみなしている。
黒海沿岸ステップ起源説(南東ヨーロッパ説)
支持学者:キンブタスなど
※言語学者はこちらを支持している人が多い。
理由は、「紀元前2000年以後におけるインド・ヨーロッパ語族のメソポタミヤ、アナトリアへの侵入、さらに遡ってはウラル語派、フィン・ウゴール語族との接触、河川名などの固有名詞のつながりなど、古い資料を持つ語派の動きは、この地域を始点にすることによって比較的無理なく説明できる。」からである。
クルガン文化…海豚(イルカ)と河豚(ふぐ…)
>紀元前3200年頃…イルカはこの時に生まれたものだとも…
クルガン(кургáн, kurgan)は、ユーラシア大陸中緯度のステップ帯に分布する、青銅器時代の土による墳丘を伴う墓もしくは積石塚のマウンドを伴う墳墓である。墳丘墓の一種で、日本の古墳に近い。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
「クルガン」はトルコ語起源のスラヴ人の単語である。 クルガン型の墳墓は、青銅器時代のステップで活動した遊牧民の特徴を表す墳墓であって、アルタイ 地方から コーカサス、ルーマニアにまでまたがる範囲に分布している。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.rui.jp%2Fruinet.html%3Fi%3D200%26c%3D400%26m%3D244319
スラヴ人
ユダヤ教に改宗した スラヴ人 がアシュケナジムの主体となったと説明しており [27] 、 ハザール起源説と言うよりスラヴ起源説の色がある /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkabukachan.exblog.jp%2F25167733%2F
ギンブタスは、地中海世界の地母神信仰が、ゼウスの語源に見られるような言語的に軍事的性格を持つ雷神信仰に代るこの文化的転換がより暴力的に行なわれたことをますます強調するようになった。これは、フェミニスト考古学の形成にかかる特有の議論である。インド・ヨーロッパ語族の移民説を受け入れる多くの研究者は、インド・ヨーロッパ化への移行は、ギンブタスが考えるよりももっと平和的で漸進的なものであったと考えている。 原インド・ヨーロッパ語族の移民は、確かに突然で、協同的な軍事行動ではなかったが、まとまりのない雑多な民族や文化、何世代にもわたる勢力の拡大であった。 しかし、インド・ヨーロッパ化への定着が、古ヨーロッパ文化とどの程度平和的に融合していったのか、又は、暴力的とさえいいうるほど強制的に置き換わっていったのかは、クルガン仮説の支持者たちに間での論争の課題となった。
ジェームス・マロリー (James Mallory) は、クルガン仮説をインド・ヨーロッパ語族の起源についての事実上の定説として支持した。しかし、ギンブタスの軍事的侵略による変化というラディカルなシナリオに対して妥当といえる批判を加えている。「軍事的侵略とか文化の転換というような議論は大体において、クルガンの分布の拡大に言及することを除いた場合には、非常にうまい説明になっている。」 ドイツの考古学者であるアレクサンデル・ホイスラー (Alexander Häusler) は、ギンブタスの考えている黄土墓文化や竪穴墓文化などいくつかの独自の文化が融合したものとしての「クルガン文化」 という概念について鋭い批判を展開してきた。(ただし竪穴墓文化では埋葬に黄土を他に比べてはるかに大量に用いており、現在では黄土墓文化と竪穴墓文化は用語としては同じ文化区分を指す。)
クルガン仮説のシナリオは、インド・ヨーロッパ語族の起源についての尤もな答えとして広く受け入れられてきたが、あくまでも推論の域を出ていない。ギンブタスのクルガン仮説に対する主要な代替論としては、コーリン・レンフリュー (Colin Renfrew) によるアナトリアを「原郷」として、インド・ヨーロッパ語族の言語のひろがりは、農業の普及の結果であると考える説である。 この見解は、クルガン仮説のような約6000年前という見解とは全く異なって約10000年前頃が、インド・ヨーロッパ語族にとって画期となる重要な時代であったと考える説でもあるのだが、言語学者の間では、言語年代学上の根拠のみならずインド・ヨーロッパ語族が分岐して地理的にひろがっていく過程から考えても農業の発展と関連づけるのは難しいことから、クルガン仮説よりも支持を得られていない。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
クルガン文化の担い手の遺伝的特徴
Y染色体ハプロタイプSNPマーカーR1a という特殊な遺伝的形質をもつ人々は、いくつかの点でクルガン文化と関連性がある。この遺伝的形質は、中央アジアから西アジア、インド、イラン、ヨーロッパ中部や東部のスラヴ人、ヨーロッパ北部のスカンジナヴィア人にもっとも頻繁に見られ、その周辺に向かってだんだんと稀になっていく特徴である。ヨーロッパで全般的にR1aが最も顕著に出る民族集団はスラヴ人、次いでスカンジナヴィア人(デンマークを除く)である。特に、先史時代に球状アンフォラ文化の中心地であったポーランドで顕著。スカンジナヴィアではノルウェーで顕著である。一方、このR1aはヨーロッパの最西端にあたるバスク地方、イベリア半島西部、ブリテン島西部といった、西からの男系の家系が社会的支配層(すなわち上流階級)を除くとほとんど入り込まなかった地域には広がらなかったようである([1][2]参照) 。
Ornella Semino などの研究者によると([3]を参照) 、バスク人など Eu18 に属するハプロタイプの人々やハンガリー人やウクライナ人に見られる Eu19 に属するハプロタイプの人々は、2万年前から1万3千年前の最終氷期(ヴュルム氷期)に(アフリカから)イベリア半島を経由して移り住んできたことが確かめられたとする。そして、パキスタン、インド、中央アジアに見られる Eu19 に属するハプロタイプの人々が移り住んだ範囲が拡大していくこととクルガン文化の広がっていく過程と関連づける。
対立仮説
アナトリア仮説 - 約9000年前の古代アナトリアがインド・ヨーロッパ語族の源流であるとする仮説。ラッセル・グレー(英: Russell D. Gray)とクェンティン・アトキンスン(英: Quentin D. Atkinson)両博士が2003年に発表した言語年代学による研究の中で強く主張し、「クルガン文化」のほうが第二次原郷である可能性も示唆していた[2]。しかしこれはあくまで言語学研究であり、アナトリアが原郷であったという地理的証拠とはなっていない。グレー博士の研究結果は単に古い時代にヒッタイト語派に発展する集団が、ほかのインド・ヨーロッパ祖語の集団からの言語学的な分化が紀元前7千年紀に開始されたことを示すのみである。この研究では非ヒッタイトのインド・ヨーロッパ祖語の集団がアナトリアから北へ移動したのか、それともヒッタイトのほうが非ヒッタイトのインド・ヨーロッパ祖語の集団から分かれて南下していったのか、いずれにしてもはっきりした証拠を示していない。ちなみに従来の考古学研究では、ヒッタイトに発展した集団のほうがほかのインド・ヨーロッパ祖語の集団から分かれて南下していったとする後者の説が支持されており、この説でもグレー博士による言語年代学の研究結果そのものと矛盾していない。ところがグレー博士は2003年の論文のなかでアナトリア学説、すなわち地理的結論を行ってしまった。
アーリアン学説 - 現在は完全に否定されている。
ケルト人に関連する遺伝子としてハプログループR-S116が挙げられる。ハプログループR-S116はイタリック語派とも関連しており、イタロ・ケルト語派仮説を支持するものである。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
アーリア人はハプログループR1a (Y染色体)が高頻度である。インド北部では48.9%[9]、パシュトゥーン人に51%[10]、タジク人に44.7%[11]みられる。
アーリア人と関連した出来事 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
インド
紀元前2千年紀に、北西インド、パンジャーブでの牧畜が確認される[12]。インド・アーリア人となる。
中央アジア
イラン・アーリア人となる。
一部が古代アフガニスタンのアーリヤーナ(Aryana、アーリア人の土地の意味)に興る。
中央アジアにはその後もアーリア人種が残り、後にスキタイ人が黒海からアゼルバイジャンまでの範囲に栄える。
紀元前2500年頃には、アーリア人種のものと思われるアンドロノヴォ文化や類似する様式がアラル海やキプチャク草原、南西のトルキスタンで見られる。東トルキスタンでは紀元前4000年頃より遊牧が始められていた。
紀元前10世紀頃より、インド北西部から東のガンジス川に向かって移動するにつれ、宗教的な融合も始まる。後にアーリア人は、言語と宗教により認識されるようになる。
紀元前5世紀頃になり、ヴェーダが完成し、バラモン教の宗教的な形式が整えられる。
紀元前5世紀に成立した仏教がブラフミンの特殊性を否定したため、ブラフミンの支配を良く思わなかった王族クシャトリヤ階級に支持され、ブラフミンの地位は落ちて行く。
4世紀、新しい王の支持を受け、バラモン教を発展・継承するヒンドゥー教が作られる。
>それまで存在しなかったイルカ…
河豚計画(ふぐけいかく)とは、1930年代に日本で進められた、ユダヤ難民の移住計画である。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
イルカはなぜ「海豚」と書くのですか? /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkanjibunka.com%2Fkanji-faq%2Fmean%2Fq0323%2F
イルカ(海豚)…
いるか座(いるかざ、海豚座、Delphinus)は、天の川の近くにある星座で、トレミーの48星座の1つ。最も明るい星でも4等星と暗い星座ではあるが、星々が密集しているため見つけやすい。
神話 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
偽エラトステネスは、ポセイドンの妻になることを拒んで逃げたアムピトリーテーを探し出して連れ戻ったイルカを記念したもの、としている[1]。
ヒュギーヌスやオウィディウスは、紀元前7世紀の詩人アリオン (詩人)(英語版)にまつわる話を伝えている。アリオンがシチリア島や南イタリアの音楽会から故郷に帰る際、彼の持つ報酬に目がくらんだ船員がアリオンを殺害しようとした。アリオンは死ぬ前に琴を弾かせて欲しいと願い、船員たちはこれを許した。アリオンが弾き始めると、どこからともなくイルカの群れがやってきて、曲を鑑賞した。アリオンが身を投げると、イルカがその背にアリオンを乗せて故郷に連れ帰った。イルカはその功績が称えられ星座になったとされる[1]
イルカをポセイドンが創造…
一説にはそれまで存在しなかったイルカをポセイドンが創造し、贈り物にすることでアムピトリテとの仲が深まったという説もあります。こうしてイルカの働きによってポセイドンはアムピトリテと結婚することができたのでした。ポセイドンはイルカの功績を讃え、感謝のしるしにイルカを空に輝く「いるか座」に変えました。ポセイドンとアムピトリテのあいだには、魚の下半身を持つ「海神トリトン」、太陽神ヘリオスの妻となる「ロデー」、トラキア王エウモルポスを育てる「ベンテシキューメー」が産まれています。地震引き起こす大地の神だったポセイドンはアムピトリテとの結婚により、海洋を支配する海の力を手に入れたといわれています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.gibe-on.info%2Fentry%2Fposeidon%2F
ゼウス(弟)とハーデス(兄)は兄弟であることをご存知の方は多いと思います。もうひとり有名な兄弟で「ポセイドン」がいますね。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fpachiseven.jp%2Farticles%2Fdetail%2F255
日本の歴史書に見るイルカの姿
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010934M.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/ イルカ
卑弥呼の都と宮殿
ちょっとまた邪馬台国について考えはじめているのですが、卑弥呼の宮殿記載で、侍女が1000人いたとされますね。そのうち100人は卑弥呼とともに殉死してます。
1000人の侍女が住むとなると、住居も必要でしょうし、1日3000食は容易しないといけないわけですから、相当な経済基盤が必要でしょう。
邪馬台国7万戸とされますから、1戸5人で計算すると35万人いたとして、そこから侍女を1000人かき集めたわけですね。
しかし、1000人もいて、彼女たちが日々何をしていたのかも気になります。
巫女集団として祈祷ばかりしていたわけでもないでしょうし・・・・。
文官として文書行政をしていたのでしょうか。畑を耕していたとは思えない。
裁縫とか衣服を造っていたのか??
卑弥呼の身の回りの世話だけなら10人いれば足りるでしょう。
強いて言うと、日本でも後代存在していた後宮がありますが、日本型ではなく、中国の後宮を参考にすべきなのかもしれません。
こちらはそのwiki説明。
中国で後宮とは、宮廷内で天子が家庭生活を営む場所であり、また皇后以下、妃嬪が暮らす場所でもあった。そのため后妃のこと自体を後宮ということがある。その他、後宮には多くの女官や宦官たちが暮らし、後宮内での職務に従事した。
前漢の制度では、昭儀、婕妤、?娥、容華、美人、八子、充衣、七子、良人、長使、少使、五官、順常、無涓、共和、娯霊、保林、良使、夜者を指す。後漢の光武帝は節約を理由に後宮の簡素化を施行し、妃嬪の位号も4級(貴人、美人、宮人、采女)にした。
晋代の制度では、三妃(貴嬪、夫人、貴人)、九嬪(淑妃、淑媛、淑儀、修華、修容、修儀、婕妤、容華、充華)、美人、才人、中才人。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%25BE%258C%25E5%25AE%25AE
特に、上記にみえる?娥の「娥」は美人の意味で、以前分析した『翰苑』では卑弥娥として、つまり卑弥という美人として表現していることと関係してきます。
その文面は下記のとおり。
倭國
憑山負海 鎭馬臺以建都 分軄命官 統女王而列部 卑弥娥惑翻叶群情 臺與幼齒 方諧衆望 文身點面 猶稱太伯之苗 阿輩雞弥 自表天兒之稱 因禮義而標袟 即智信以命官 邪屆伊都 傍連斯馬 中元之際 紫綬之榮 景初之辰 恭文錦之獻
倭國
山に憑き海を負い、馬臺に鎭し以って都を建つ。 軄を分かち官を命じ、女王に統(す)べて部を列す。 卑弥娥は惑翻(わくほん)して群情(ぐんじょう)に叶う。 臺與は幼齒にして、方(まさ)に衆望に諧(かな)う。 文身點(鯨)面し、猶(なお)太伯の苗と稱す。 阿輩雞弥は、自ら天兒の稱を表す。 禮義に因りて袟を標す。 即ち智信を以って官を命ず。 邪は伊都に屆き、傍ら斯馬に連なる。 中元の際、紫綬の榮あり。 景初の辰、文錦の獻を恭ず。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww001.upp.so-net.ne.jp%2Fdassai%2Fkannenn%2Fkannenn_mame.html
この書物の記載は、魏志倭人伝ではない伝承に由来すること、特に物部氏のそれと関係することを以前考えたことがありましたが、再考してみると、
「山に憑き海を負い、馬臺に鎭し以って都を建つ。」の部分は、前述のように、高良山や女山神籠石のように、当時の海岸沿いのそばにある山地で、台地となった部分に、都を建てたと解釈できるかもしれません。
高良山神籠石ならば、筑後川ですね、これが当時、海に近い状態として存在していたでしょうし、女山神籠石でも同様に瀬高西部の山門のあたりが海に近かったはずです。
そして、そこの都では「軄を分かち官を命じ、女王に統(す)べて部を列す。」とあるように、女官たちが、前述の中国の後宮のような形で部として分類されていたこともわかります。
「卑弥娥は惑翻(わくほん)して群情(ぐんじょう)に叶う。 臺與は幼齒にして、方(まさ)に衆望に諧(かな)う。」とあるのは、これは卑弥呼が呪術や美貌で惑わせていたのに対して、台与は幼少である故にちょうど当時の王族たちにとって擁立するのによい存在であったことを対比的な形で記しているわけですね。
この両人が孝元・開化妃の物部系の鬱色許(うつしこ)と、その姪の伊香色許(いかがしこ)のことであることも、以前お話した次第です。
その鬱は惑わせる美人の意味ですね。名の伊香(いこう)は、つまり台与を記し違えて壱興(いこう)と解釈したために生じているわけです。この両人の女王の伝承は、後代の物部系譜に継承されているわけです。
「 文身點(鯨)面し、猶(なお)太伯の苗と稱す。 阿輩雞弥は、自ら天兒の稱を表す。 禮義に因りて袟を標す。 即ち智信を以って官を命ず。」は、後代の隋唐大の日本についての文献から引用したものでしょう。
また「邪は伊都に屆き、傍ら斯馬に連なる。 中元の際、紫綬の榮あり。 景初の辰、文錦の獻を恭ず。」も、同様に中国の史書からとったもの、つまり魏志倭人伝のそれですが、邪馬台国とはいわずに邪として馬台とは分けている点が重要です。
邪を国名、馬台を地形・地名として理解しているわけですね。邪国=倭国でしょうか。
傍ら斯馬は、倭人伝で略載された20国の最初に出てくる「斯馬国」のことですが、つまり、この20国は邪(馬台)国ではないと理解しているわけです。
伊都國から奴・不彌国までが邪(馬台)国の支配領域と考えたのでしょう。
この筆者は、(馬台)を地形・地名を示す語であることを、何らかの中国的な知識で理解していたように見えます。だからそれをはずした邪だけを正式な国名だと考えたのでしょう。
そういう意味では、邪国の中にある「馬台」な地形の地域に、女王の都があったとの理解をしているわけで、その都は海岸そばの山地であったことも、別の文献などから知識として仕入れていたことがわかります。
だから、卑弥呼以前、あるいは以後の王の都は平地にあったのかもしれませんが、卑弥呼の時代の都は海岸沿いの山地にあったと理解すべきかもしれません。
そして、その地形の「馬台」ですが、馬の背中のような台地と理解すると、山の尾根を馬の背中として、その上を平らにしたような場所となりそうですね。
確かに高良山も女山も尾根沿いですし、頂部が平らになっているので、それに見合う土地とも感じます。
そして、1000人を住まわすだけの空間が卑弥呼の宮殿には存在していたはずで、少なくとも100戸くらいの大型住居が建てられていたのでしょう。
あるいは学校みたいなサイズの巨大建造物の中に部屋を区切って住んでいたのか・・・。
巫女集団がこもる山岳地帯の城郭みたいな場所だったとすると、やはり高良山や女山のような神籠石で囲まれた領域内に男子禁制で女性のみ1000人が住んでいて、その周囲の平地にさらに男性の兵士なり、官人、農夫が住んでいたのではないでしょうか。
しかし1日3000食を必要とするわけですから、相当大型の食料備蓄用の倉庫なり、台所や大型の竈なども必要だったでしょうし、機能的に宮殿内が配置されている必要があるわけです。
そして、水源となる湧き水や井戸が必要ですね。神籠石内だったとすると、そのどこかに水源があったでしょう。
それらの様子を記録しているのは、魏志倭人伝だけですが、後代の記紀伝承や高良山縁起などにも断片的に残っている可能性はありそうですね。
卑弥呼の後の男王は、卑弥呼の侍女900人をどうしたのか?も気になるところですが、その後の台与がそれを継承した可能性が高いように感じます。
台与は幼少なので、10年以上摂政をした人物がいたでしょう。武内宿祢の伝承にそれに近いものがありますね。
高良山奥社に武内宿祢の墓所があるのも気になるところですが、高良山の構造を再確認する必要がありそうです。
祇園山古墳からは60名以上の殉死者とみられる痕跡もあるようですから、その宮殿に関係していた可能性はあるでしょう。
卑弥呼の前の男王たちの時代の宮殿と、その卑弥呼の宮殿とは構造的にも大きく異なっていた可能性を感じますね。
その男王時代は、吉野ヶ里や岡本遺跡のような平地に居を構えるタイプの宮殿構造であったのに対して、卑弥呼は巫女として山奥に籠る、つまり神籠石タイプの宮殿域を構築した可能性があります。
ただ、卑弥呼と10人くらいのみがこもるのではなくて、1000人も籠るわけですから、その領域も町ひとつくらいの大きさが必要となるのですが、奇しくも高良山も女山もそのサイズに見合うような領域をその神籠石で囲んでいるわけです。
神籠石の高さが、後代の山城の城壁に比して低いのは防御面での必要性を有していたかったと考えるべきでしょうか。
ただ、女性のみの禁域としての囲みが必要だったのかもしれません。
そもそも、女性1000人がこもったところで戦いにはならないでしょうから、防御という観念はその当時薄かったのかもしれませんね。
その代わり、その周辺に別に男性兵士用の集落が散在していた可能性があります。
ともあれ、こう考えていくと、卑弥呼の時代の都・宮殿は、九州各地にある神籠石内にあった可能性が高いのではないでしょうか。
もう少し神籠石の発掘や地形調査を行う必要がありますね。そして、現在の九州の邪馬台国研究家自体の神籠石への研究意識が低いことを、今年は改善する必要があるように感じますね。
>太伯の苗と稱す。…呉の祖 苗族?
苗族の、頭飾りのデザインと、蚩尤の漢字が良く似ているようにも、私は思います。太伯(たいはく)は、中国周王朝の古公亶父の長男で、呉の祖とされる人物です。
苗族(倭人と刺青)
魏志倭人伝によると、倭人は「皆面黥面文身」というように男子はみな顔や体に入れ墨し、墨や朱や丹を塗っており、古くから、中国に来た倭の使者はみんな自らを太伯(呉の祖;周の系譜)の子孫と称していると記されています。
黥面とは顔に刺青を施すことであり、文身とは身体に刺青を施すことであり、南方の海洋民族によくみられる特徴のようであります。
漁師なら分かりますが、何故に魏への使者が刺青者?と思われると思いますが、倭人の祖が苗族と考えれば話があいます。
中国の伝説によれば、BC26世紀頃に漢民族の原型である華夏民族の君主・黄帝が蚩尤(しゅう)を破り、敗れた蚩尤民族は苗(みゃお)族と黎(リー)族に分裂。 周王朝時代に華夏民族と同化し、一部は春秋の強国である楚や呉を建国します。
蚩尤(しゅう)…
蚩尤は牛のような顔をしており、背中には二本の羽があったといいます。
今から4500年くらい前に、九黎と炎帝及び黄帝の部族が涿鹿(たくろく)の戦いを起こしました。この戦いで蚩尤は敗北し戦死したとも言われており、蚩尤の率いた部族連盟は黄帝と炎帝に吸収融合されました。prometheusblog.net/2017/01/27/post-2571/
蚩尤と九黎、三苗族
蚩尤は九黎の首領であるという記載は多く、論争もあります。蚩尤は九黎と三苗の関係を代表しています。《尚書》と《国語》などの多くの古籍に記載が見られ、三苗は九黎から別れて形成されました。九黎が戦争に敗れた後、一族は流散し、三苗に変わりました。この三苗は今の苗族とは無関係です。
マオリ人…
イギリス人流入前 マオリの伝承では1,000年前にポリネシアのハワイキという島からカヌーで来たことになっています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.compathy.net%2Fmagazine%2F2016%2F05%2F05%2Flets-learn-about-the-culture-of-maori-newzealand%2F
ポリネシア…
ポリネシア・ミクロネシア・メラネシアの違い /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fworld-note.com%2Fpolynesia-micronesia-melanesia%2F
南太平洋のアジア人 今から3600年ほど前、ポリネシアに一番乗りしたのは、後世にラピタと名づけられた人々だったと考えられています
広大な海を開拓したポリネシアの人々(前編)
ラピタ文化が花開いたのは、紀元前1500年から紀元500年頃と考えられていますが、ラピタ人のルーツについては、アジア起源説が最も有力です。ラピタ土器には文化面で先行していた台湾の土器と似通った部分があります。また、人類学の観点からも、注目すべき点があります。東アジアの日本人や中国人から発見され、「アジア人特有遺伝子」と呼ばれているミトコンドリアDNAの9塩基対欠損という特殊な遺伝子が、ラピタ人がかつて分布した地域やラピタ人がルーツであると考えられるポリネシア人に、さらに高頻度で見つかっています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.wastours.jp%2Fweb_tabihiro%2Fhyakka_ryoran%2F2015%2F0807.html
ラピタ人の航海 (約3,000年前) Voyage of Lapita Peaple Expedition ラピタ文化は、今から約3,000年前に太平洋のメラネシア(Melanesia)で発生、高度な土器文化を持ちラピタ土器(Lapita pottery)を残しました。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.stampmates.sakura.ne.jp%2Fgv-Lapta.html
呉族(ごぞく)は、中国福建省辺りの発祥と考えられる海洋民族であるが、大元は「ポリネシア群島辺りから中国大陸に沿岸部に移り住んだ人々ではないか?」と考えられる。
呉族(ごぞく/海洋民族) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fjiyodan.exblog.jp%2F13523256%2F
…任那(みまな)の国そのものの国内も農耕山岳民族(加羅族系)と海洋民族(呉族系/加那・カナ)は混在し、日本列島同様に覇権を争い新羅(シルラ/しらぎ)に後押しされた農耕山岳民族(加羅族)と百済(ペクチュ/くだら)に後押しされた海洋民族(呉族)との勢力争いは存在した。
一方で隼人系の「呉族」の様に一旦中国大陸で大国(呉帝国)を作り、文明を携えて一気に東シナ海を渡り日本列島に渡来して来た者達も居ただろう。
今に伝わる浦島竜宮伝説などは、その名残とされている。
この農耕山岳民族(天一族・加羅系)と海洋民族(隼人族・呉族系)と言う二つのまったく違う民族が、幾つかのルートを経て九州の地で遭遇し、生きる為の土地をかけて覇権を争う。
この争いの期間が、神代の時代だったのだ。
…日本列島の氏族が呉族(ポリネシア)系部族と加羅族(中国雲南省発祥の山の民)系部族の二系統が存在する証拠は、漢字と呼ばれる文字の読み方にも名残を残している。
例えば原(はら)の文字は、呉族(ポリネシア)系の「海の民」が原(バル)が「はら」と読み、加羅族(中国雲南省発祥)系の「農耕民族(山の民)」の原(ユェン)が「げん」と読むのではないだろうか?
倭人は「皆面黥面文身」
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010937M.jpg
『魏志倭人伝』(黥面文身)間違ってますよ・・・
>魏志倭人伝によると、倭人は「皆面黥面文身」というように男子はみな顔や体に入れ墨し、墨や朱や丹を塗っており、古くから、中国に来た倭の使者はみんな自らを太伯(呉の祖;周の系譜)の子孫と称していると記されています。
よくやるよ、引用は誤訳です。現在と文法は少し異なるのです。例は英語と日本語は文法、同じですか?
一部意訳しましょう。
男子無大小(むすこ、むだいしょう)、皆黥面(みな、いれずみつら)文身(もんしん)。自古(みずからいにしえ)以來(もってくる)、其使(そのつかい)詣中國(もうでる葦原中国)、皆自(みなみずから)稱大夫(たたえるタイフ)。夏后(夏・殷・周)少康(夏朝の第6代帝)之子、(先祖は夏后の少康これこ)・・・
原文
男子無大小、皆黥面文身。自古以來、其使詣中國(葦原中国)、皆自稱大夫。夏后(夏・殷・周)少康(夏朝の第6代帝)之子、封於會稽、斷髪文身、以避蛟龍之害。今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。計其道里、當在會稽東治之東。
黥面文身…「黥首ゲイシュ」…
「黥面ゲイメン」(入れ墨をした顔)「黥徒ゲイト」(入れ墨の刑罰を受けた罪人)
黥 ゲイ・ケイ・いれずみ 黒部 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2Faa3426a2edf8a959fc448e3f22c8127d
解字 「黒の旧字(くろ)+京(ケイ)」の形声。ケイは刑ケイ(刑罰)に通じ、顔に黒い入れ墨をする刑罰をいう。多くは目の周辺、鼻の上、額(ひたい)・頬(ほお)などに施したという。ゲイの発音はケイが変化した慣用音。
意味 いれずみ(黥)。罪人の顔に墨をいれる刑罰。「黥首ゲイシュ」(刑罰で顔に入れ墨をすること)「黥面ゲイメン」(入れ墨をした顔)「黥徒ゲイト」(入れ墨の刑罰を受けた罪人)
ブリトン人 ( Briton 、ブリタニアの住民である ケルト 人 ) は皆、自分の体を 細葉大青 ( ホソバタイセイ ) [ アブラナ科の 菘藍 ( ショウラン ) ] で染めている。この薬草からは青色染料が取れ、戦闘中の野性的な外観を与える
と記していましたが、体に文様を書き色を塗る ボディ ・ ペインティング ( Body Painting ) だけではなく、 入れ墨もしていました。西暦前 54年の ブリタニア遠征から帰還した ローマ軍団の兵士により、 ブリトン人の入れ墨の風習 が ローマ帝国全土に広がりましたが、古代 ローマ皇帝 コンスタンチヌス一世 ( 在位306〜337年 ) の頃には、 キリスト教徒の間では顔と腕に十字の印を入れ墨する者が増えました。
[ 4:入れ墨文化の日本への伝搬 ] /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.rose.ne.jp%2F%7Eooha%2Firezumi.htm
入れ墨の伝搬経路をたどることは、とりもなおさず日本人の ルーツに直接関係してきます。南方系、北方系、大陸系 ( 半島系を含む ) の混血である日本人の中で、次項で述べる魏志倭人伝に書かれた 三世紀頃に [ 入れ墨文化 ] が存在したことが知られていますが、ではそれがいつの時代に、どこからもたらされたのか正確には分かりません。
黒潮に乗って島伝いにやって来た南方系の人々 ( 原日本人の一部 ) がもたらした [ 入れ墨文化 ] は、大和朝廷成立後から奈良時代初めまでの間に消滅しましたが、一説によれば [ 入れ墨文化を持たない ] 別の部族によって [ 入れ墨文化 ] を持った人々が征服されたためであり、新しい支配者が入れ墨を野蛮な風習とみなしたためとされました。
しかし大和文化圏から遠く離れた沖縄や、北方系の人々の間では オホーツク文化、 擦文 ( さつもん )文化が [ アイヌ文化 ] へと発展し、東北、北海道の アイヌ人の間では、明治時代まで何千年もの間 入れ墨の風習が受け継がれてきました。
…台湾の先住民のうちで高砂 ( たかさご ) 族 といわれた [ タイヤル族 ] ですが、中国大陸系ではなく 南方系の種族といわれています 。
倭人の黥面 ( げいめん )も、このような [ 入れ墨 ] を顔にしていたのかも知れませんが、残念なことに日本の気候風土が湿潤温暖なために、特別な場合を除き日本では ミイラや死蝋化した遺体は発見されませんので、僅かに埴輪 ( はにわ ) や土偶 ( どぐう ) などに描かれた文様を基に、推測せざるを得なくなります。
黥面 ( げいめん、入れ墨をした顔 )をした猪甘 ( いかい、朝廷の豚を飼う仕事の猪飼部 )…
猪飼部:大化前代、大王へ献上する猪を飼養するのを職とした部民。
部…
部は〈ベ〉とも〈トモ〉ともよむ。日本では大化改新以前に,朝廷あるいは天皇・后妃・皇子・豪族などに隷属し,労役を提供し,また生産物を貢納した人々の集団をいう。部は,中国・朝鮮などにもひろく存在した社会制度で,日本の部の制度も,それらの影響下に成立したと思われる。中国では漢・魏から唐代にかけて,豪族のもとに部曲(ぶきよく)とよばれる集団が隷属し,その内容も軍伍→私兵→私賤というように変化したが,奴婢よりは上位の身分とされた。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
一定の地域に住み同族意識をもつ集団
部 ブ・べ 阝部おおざと /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2Fb3a3971b92ef5f8b7336fc1550647ac7
解字 「阝(邑。人の住む地域)+咅(分かれる)」の会意形声。いくつかに分かれている人の住む地域。
意味 (1)集落。むれ。「部族ブゾク」(一定の地域に住み同族意識をもつ集団) (2)分ける。分けたものの一つ一つ。「部品ブヒン」「部分ブブン」「一部イチブ」 (3)組織上の区分。「部署ブショ」「部員ブイン」
分ける…
放浪をイスラエル人たちに課す…
モーセはシナイ山にて神との契約である『十戒』を受けることとなる。
このため、モーセは「立法者」と呼ばれることとなる。
この戒律は、神と人との関係と、人と人に関する法を意味している。
この後に、モーセは土地の王と戦いつつカナンの地へ至った。
しかし、カナンを前に民が神とモーセに不平を言ったため、神はさらに40年の放浪をイスラエル人たちに課す。
モーセもまたメリバの泉で、神の命令に従わなかったため、カナンの地へ入ることを許されなかった。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fw.atwiki.jp%2Fminnasaba%2Fpages%2F271.html
メリバの泉…
彼らは徒党を組んでモーセとアロンに逆らった /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.tomisatochristchurch-baptist.net%2Findex.php%3F%25E3%2583%25A1%25E3%2583%25AA%25E3%2583%2590%25E3%2581%25AE%25E6%25B0%25B4%25E3%2580%2580%25EF%25BC%2588%25E6%25B0%2591%25E6%2595%25B0%25E8%25A8%2598%25EF%25BC%2592%25EF%25BC%2590%25EF%25BC%259A%25EF%25BC%2592%25EF%25BD%259E%25EF%25BC%2591%25EF%25BC%2593%25EF%25BC%2589
「あなたたちは、ツインの荒れ野にあるカデシュのメリバの泉で、イスラエルの人々の中で私に背き、イスラエルの人々の間で私の聖なることを示さなかったからである。あなたはそれゆえ、わたしがイスラエルの人々に与える土地をはるかに望み見るが、そこにはいることはできない。」(申命記32:51〜52)
メリバの水は、わたしたちすべての罪を洗い清めて下さる恵みの水なのです。この命の水を出して下さる岩こそ、十字架のイエス・キリストご自身だったのです。…
水人…
こうした水人たちの棲息する広域の沿岸地域が「倭」とよばれていたのである。 中国書物に「倭」という文字が登場する最古のものは『山海経』である。(『隋書』倭国伝が使っている倭の異字体と同じものが『史記』にも登場する /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fdogs_ear%2Fe%2Fb2a87dcc6a49e0117405dc7b36b94037
…水人に共通するのが「裸足・断髪・文身(刺青)」である。
雲南省西南部には、左衽(左前の襟合わせ)・裸足・断髪・文身の習俗をもつ少数民族がいるが、こうした南方民族のことと思われる記録が後漢代に成立した『論衡』にみえる。
周の時、越掌、白雉を献じ、倭人、□草を貢す。
成王の時、越掌、雉を献じ、倭人、暢草を貢す。
周の成王は紀元前1100年ごろの人物である。この時期の列島は縄文時代にあたるから、時代的にもここでいう倭人は、やはり原義に近い人種(南方沿海の倭人)ではなかったと思われる。越掌はベトナムあたりを指し、白雉は白いキジ、□草は祭祀薬草(一説によるとマンネンタケ)のことをいう。暢草も芳香性の祭祀薬草である。
紀元前1100年…
紀元前1100年前後 モーセの後継者であるヨシュアがリーダーとなって、パレスチナ侵略を開始。獲得した土地を各支族ごとに分割統治する。 士師のもとで、イスラエル民族史は200年の暗黒時代に入る。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Finri.client.jp%2Fhexagon%2FfloorA1F%2Fa1f1101.html
「倭」…
倭 ワ・イ・やまと イ部
解字 「イ(ひと)+委(曲がって低い)」の会意形声。背が曲がって低い人。
委 イ <女が身体をなよなよさせる> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2Fd54b192c223e1a1bb600e10a9e17d690
「禾(穂先がなよやかに垂れたイネ)+女」の会意…
穂+女… 女神の穂(スピカ)…
??豊穣を司る女神 オセロニア ペルソナ2 罪と罰 麦の穂 乙女座 愛娘ペルセポネ(コレー)の身に起こった悲劇 母心が大飢饉を起こす 冥界の女王と四季の誕生 デメテル(メーテル)〜冥界の女王と四季を誕生させた豊穣の女神〜 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fmonspedia.com%2Fdemeter%2F
古代ヘレニズム世界で、智慧を象徴する女神とも考えられた。 グノーシス主義やユダヤ教などではアイオーンの名で、この世の起源に関して重要な役割を持つ。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
アイオーンは「時代」や「ある期間」を意味し、占星術における魚座の時代、水瓶座の時代などの時代と通じるところがある。魔術やオカルトにおいては、「テレマ」の概念と関係する
ホーラは単数形で、複数形ではホーライ(?ραι, Hōrai)という。いずれも時間の意味。また、季節女神とも意訳される /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwpedia.goo.ne.jp%2Fwiki%2F
ヘーラーあるいはアプロディーテーの侍女であり、ディオニューソス、ペルセポネー、デーメーテール、アポローンなどにも従ったりしている。それゆえ彼女達は、花あるいは植物を手にした優雅な三人の美しい乙女の姿で表される[2]。
ホーライ… 蓬莱…
史記の三神山(蓬莱山、方丈山、瀛洲山)は日本にあるのか。富士山の名の由来は方丈山だった?
蓬莱岩、蓬莱峡、蓬莱町と、全国に蓬莱の地名が散らばってるのは、おそらく徐福渡来伝説に関係してるのかもです。日本が蓬莱山の土地であるとの伝承を踏まえて、日本各地に蓬莱の名が名付けられていったとすれば、日本は古来より秦の影響を強く受けていたのは間違いないです。
蓬莱が「よもぎ」だとすると、よもぎと黄泉(よみ、よも)は関係するかもですが。発音からしても似ていますし。何故かと言うと『出雲国風土記』で、蓬莱山のことを「常世国」と言っているからなのですね。常世国と黄泉は、いずれも出雲に関係があるとされます。
瀛洲(エイシュウ/ヨウシュウ)について /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftacchan.hatenablog.com%2Fentry%2F2015%2F05%2F25%2F041719
『学研漢和大字典』によると「瀛洲」とは「中国の伝説にある三神山の一つ。東海(渤海)中にあって仙人が住んでいると伝えられる。「海中有三神山、名曰蓬莱、方丈、瀛洲、僊人居之海中に三神山有り、名付けて、蓬莱、方丈、瀛洲と曰ふ、僊人ここに居す」『史記』新始皇」とあります。
そういえば、瀛洲山に似た名前を、日本人は知ってるではないですか。
阿蘇山。『隋書』に倭国を代表する山として登場しています。富士山ではなく九州の阿蘇山なのが重要ポイント。瀛洲(えーしゅ)阿蘇(あそ)はなんとなく似てるので、もしかするともしかします。
瀛洲が日本を表す言葉なのは、本来阿蘇山=瀛洲山のある九州こそが倭国だったことを表していると思えるのですが。
九州こそが倭国だった…
蓬莱山の用語解説 - 中国,古代における想像上の神山。三神山 (蓬莱,方丈,瀛〈えい〉洲) の一つ。山東地方の東海中にあり,仙人が住み,不死の薬をつくっており,宮殿は金玉,白色の鳥獣がおり,玉の木が生えているとされた。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
瀛〈えい〉…
(秦と江は同じ嬴姓の国で、同盟もしていたようです)
古代の笠氏…?嬴姓高丘系図 https://8220.teacup.com/toraijin/bbs/4137
その子孫らは殷に仕え諸侯となり、周の 穆王の頃、造父が馬をよく御するので寵幸された。造父は四疋の珍しい色の馬を献し たり御者として乱が起こった地に馬を馳せ、乱を鎮めた。そこで穆王は趙城に造父を封じ た。
リリス(Lilith)は、ユダヤの伝承において男児を害すると信じられていた女性の悪霊である /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
タルムードにおいてリリスは翼と長い髪を持つとされているが、これは現存する最古の言及(ギルガメシュ叙事詩)にまで遡る。
女性の悪霊…現代ではリリスは女性解放運動の象徴の一つとなっている。
倭水人が女王国を含んでいる…
大陸の書物には、倭人の祖は自称"夏"系列の越とか、自称"周"系列の呉という記載がある。しかし、魏志倭人伝のココでは、倭水人が女王国を含んでいるからといって、同一概念とは限らない。
これより古い時代の倭人とは、山東半島対岸の朝鮮半島東南部を中心とした勢力。広義ではおそらく、多島海〜済州島〜対馬/壱岐〜北部九州。奈良盆地を含む日本列島を「倭」とみなしていたとは思えないからだ。www.randdmanagement.com/c_gs/gs_004.html
黥面文身 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.randdmanagement.com%2Fc_gs%2Fgs_004.html
日本列島では、黥面や文身型土偶は珍しくないから、入墨風習は古くからあったのは間違いないところ。その点では、呉越との共通海人文化を共有しているのは間違いない。
「古事記」でも、伊須氣余理比賣のもとに、天皇の婚姻申し出を伝えるべく出向いた大久米命の黥利目は驚きを持って受け止められている。
入れ墨…
神秘的な入れ墨は、湾岸で不運を保つと信じられており、何世紀もの間、カンボジア人に保護を提供してきました。 伝統、マジックタトゥー、または サック・ヤント クメール語では、悪霊を追い払い、危険を避け、所有者を不幸から守ると言われています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.yourtripagent.com%2Fhow-magical-tattoo-artists-in-cambodia-ward-off-bad-luck-8683
弥生人の化粧や入墨の風習
顔や手、足などに白粉や紅を塗り、美しく飾る慣習は大昔からあるものです。古代エジプトでは前1200年にはすでに化粧の慣習が存在しました。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fcamera-gakkou.com%2F6-yayoijin%2Fentry45.html
日本では3世紀後半の古墳時代の遺跡から、顔や身体に化粧がなされた埴輪が出土しており、今のところ、これが日本人が化粧をしていたことを示す最古の史料となっています。
…魏志倭人伝の記述を裏付けるように、弥生後期からは入墨を表した土偶が出現しています。このような入墨は、上記の記述にあるように漁の際、大魚を威嚇する目的に彫られたほか、成人や戦士の印に通過儀礼として与えられたものだとも考えられています。
魏志倭人伝には、弥生時代終わり頃の倭人の髪型についての記述があります。
【※引用 男子はかぶり物を付けず、木綿の布で頭をしばる(以木緜招頭) 衣服は幅広い布を(其衣横幅)ただ結んでつないでいるだけで(但結束相連)、縫ってはいない(略無縫)。夫人はかぶり物をし、後ろで髪を結っていた(婦人被髪屈?)※】
弥生人の髪型が美豆良に再現される理由とは…
>美豆良(みずら)の正体はユーラシア大陸の奥地に見つかる ... /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftacchan.hatenablog.com%2Fentry%2F2014%2F10%2F23%2F173718
みずら状髪型の年代を追っていくと、最も古いのは中央アジアのアーリア人であると見られました。紀元前1500年頃のみずら状髪型の人形が見つかってます。
『魏志倭人伝』(黥面文身)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010939M.jpg
原文
男子無大小、皆黥面文身。自古以來、其使詣中國(葦原中国)、皆自稱大夫。夏后(夏・殷・周)少康(夏朝の第6代帝)之子、封於會稽、斷髪文身、以避蛟龍之害。今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。計其道里、當在會稽東治之東。
男子無大小(むすこ、むだいしょう)、皆黥面(みな、いれずみつら)文身(もんしん)。自古(みずからいにしえ)以來(もってくる)、其使(そのつかい)詣中國(もうでる葦原中国)、皆自(みなみずから)稱大夫(たたえるタイフ)。夏后(夏・殷・周)少康(夏朝の第6代帝)之子、(先祖は夏后の少康これこ)・・・
封於(ほうずるおいて)會稽(かいけい)、斷髪(さだめるかみ)文身(もんしん)。以避(もってさける)蛟龍(みずちりゅう)之害(これわざわい)。今倭(いまみなと)水人(うみひと)好沈(このむうき)没捕(しずむとらえる)魚蛤(さかなはまぐり)、文身(もんしん)亦以(またもって)厭大魚(きらうもとさかな)水禽(うみとりこ)、後稍(おくれるようやく)以爲飾(もってなすかざる)。諸國(もろもろくに)文身(もんしん)各異(おのおのあやしい)、或左(あるたがう)或右(あるたすける)、或大(あるもと)或小(あるさ)、尊卑(うやまうひくめる)有差(あるたがう)。計(かぞえる)、其道里(それたとえるみちのり)、當在(まさにいます)、會稽東治(かいけいとうじ)之東(これひがし)。
「倭」…
倭 ワ・イ・やまと イ部
これは、やまと、とは読まないのだ、みなと、読む。万葉集にある。
http://
[10935] 卑弥呼の都と宮殿
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010940M.jpg
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/kannenn/kannenn_mame.html
>倭國(みなと、くに)
「倭」…参宿…みなと・あつまる…オリオン座ζ星(三つ星の東端)…
日本へと 波状的に海を渡って行った。聖書のどこに「東の島々の国」と書いてありますか?
多くのイスラエルの民は、遠く離れた大陸の端に浮かぶ東の島々を夢見ながら旅をすることになります。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.historyjp.com%2Farticle.asp%3Fkiji%3D52
漢字の起源 参 私 ム /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F4742
三つ星が古代から航海の神として重要な位置にありましたが、東の方位にあり天上界の 登り口として宮古島では捉えられていますから、ここから神様や死者 .... 耒 鋤 耜 犂 鍬 臿【唐鋤星】からすきぼし 〔補説〕 唐鋤に見立てていう 二十八宿の参(しん)宿の和名。 ... /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F716
「三女神」というのは、航海の守り神であったオリオンの三ツ星から来て いる可能性もあります。 この宗像大社の祭神である市耒姫(いちきひめ)を移したのが 、広島にある厳島神社です。
「三輪神社」の命名にも、三ツ星が関係しているかもしれません…。
航海の守り神…
倭 >みなと読む。…みなと(湊)…奏(あつまる)
湊 ソウ・みなと・あつまる 氵部
解字 「氵(みず)+奏(あつまる)」の会意形声。水上で人や物資を載せた船があつまる場所をいい、みなと・あつまる意となる。
意味 (1)みなと(湊)。ふなつきば。「湊泊ソウハク」(船が湊に停泊すること) (2)あつまる(湊まる)。あつめる。「輻湊フクソウ」(輻は車のスポークで集まる意、湊も集まる意、方々から一か所にあつまること)
輳 ソウ・あつまる 車部
解字 「車(車輪)+奏(あつまる)」の形声。車輪の輻(スポーク)が軸にあつまること。
意味 あつまる(輳まる)。一か所にあつまる。「輻輳フクソウ」(スポークが軸にあつまるように、四方からあつまる。=輻湊)
若木の枝+…
下部が天に変化した(若木が「屮+大+十」の形)奏になった。秦(シン)…二つの禾(こくもつ)をうつ形。(変光している・スピカ)…
禾(穂が実ってたれたイネ等)…女が身体をなよなよとさせる形…(変光している)… /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fturupura.com%2Fguide%2Fstar%2Fsupika.html
「委イ」 と 「季キ」 <禾の下に女と子がついた字> と「魏ギ」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2Fd54b192c223e1a1bb600e10a9e17d690
解字 「禾(穂先がなよやかに垂れたイネ)+女」の会意。女が身体をなよなよとさせる形で、力なく他人に身をまかせる女の意。ゆだねる、まかせる意味を表わす[学研漢和]。
意味 (1)ゆだねる(委ねる)。「委任イニン」「委託イタク」 (2)まかせる(委せる)。「委員会イインカイ」「委譲イジョウ」 (3)くわしい(委しい)。こまかい。「委細イサイ」
イメージ
女が身体をなよなよさせる形から「身をゆだねる」(委)
「曲がって低い」(萎・倭・矮)
「その他」(魏・巍)
音の変化 イ:委・萎 ギ:魏・巍 ワ:倭 ワイ:矮
委 イ・ゆだねる …禾(穂)+女(女神)…
麦の穂 女神 生死 翼 低い…検索 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F5075
翼:麦の穂を持っち翼のあるこの女神は、大地を守る農業の神です
女神:乙女座は黄道12星座のひとつで、現在の秋分点でもあります。左手に麦の穂を持っちのあるこの女神は、大地を守る農業の神です。
麦の穂:スピカは女神の持つ麦の穂先に輝く星です。青みがかった光を放つ星ですが、低い空では、真珠のように白く輝いて見えます。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.ksky.ne.jp%2F%7Etatsuo%2Fbirthday%2F10-2.htm
低い(南): /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.city.tottori.lg.jp%2Fwww%2Fcontents%2F1425107882625%2Fhtml%2Fcommon%2F54f66b0d107.htm
生死: 生と死 の世界をつなぐ存在…豊穣の女神デメテル…
おとめ座は,正義の女神アストライア,穀物神デメテルの娘ペルセフォネ,あるいはデメテル自身の姿に見立てられ,スピカは女神の手にした麦の穂の位置に輝いている。
おとめ座のα星。この名はラテン語で麦などの穂を意味する。おとめ座は,正義の女神アストライア,穀物神デメテルの娘ペルセフォネ,あるいはデメテル自身の姿に見立てられ,スピカは女神の手にした麦の穂の位置に輝いている。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
おとめ座:天関(天にあるとする関所の番人)。七曜の行く所。この星が明らかであると王道は太平。
二十八宿とは 古代中国28星座 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkomonjyo.net%2F28syuku.html
おとめ座:内朝(宮中で天子の居る室)。疫病を司る
…世界中で使われている七曜と十二星座を組織的に広めたのは、ミトラ教である。
インドの占星術は、『宿曜経』という経典にもとづくもので、「宿」は月を中心とするインド伝統のもので「曜」は惑星や太陽を中心とする西方起源のもの。この占星術は中央アジアを経て中国で整備されたものが日本に伝わった。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Ftaishi6764%2Fentry-12001563058.html
「ミトラ教と妙見信仰と秦氏のなぞ 1」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblogs.yahoo.co.jp%2Fyopico_0105%2F17213431.html
秦氏は大陸にルーツを持つ渡来人です。マダラのルーツがミトラであるなら、秦氏のルーツもインドかペルシヤかローマ帝国に求めることができます。
『古代ユダヤの暗号』(月海黄樹・石沢貞夫著、日本文芸社)の中の「魔陀羅の色は、ペルシャにおける最高神を表わす色であり、広隆寺の本尊が弥勒菩薩であることから考えると、この牛にまたがっている魔陀羅が、ミトラであることは間違いない」という記述です。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Frandynewman%2Fe%2Fc207024621bea1ab0516917e4c302917
弥勒=ミトラ=シリウスの信仰が日本に公的に伝わったと考えるのがわかりやすい シリウス信仰の聖方位という ...
この期間、太陽が獅子座に入り、シリウスが地球とオリオン座の三つ星を ライオンズゲートは毎年開くそうです。
ライオンズゲートは、毎年8月8日から12日に開きます。この期間、太陽が獅子座に入り、シリウスが地球とオリオン座の三つ星をつなぐ位置に入るのです。
太陽が獅子座!
シリウスが地球とオリオン座の三つ星をつなぐ位置に入る!
三つ星をつなぐ…
住吉三神はオリオンの三ツ星 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Flunabura.exblog.jp%2F15412072%2F
底筒男命(そこつつのおのみこと)
中筒男命(なかつつのおのみこと)
表筒男命(うわつつのおのみこと)
「筒」とは「星」の事です。
宗像三女神は、三柱が並んでいることから星の中でも重要視されるオリオン座の真ん中の3つの星(オリオンのベルト)を神格化したと言われます。宗像三女神はオリオンのベルトを意味するという説
宗像三女神を辺津宮・中津宮・沖津宮に配置…
津…みなと。渡し場。…みなと(湊)
先が三本にわかれた筆を手にもつ形。
津 シン・つ 氵部 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2Fb94201e8602dd9f5260317dfbba6e9c3
解字 「氵(かわ)+聿(シン)」の形声。シンは進シン(すすむ)に通じ、川を舟で進んでついた向こう岸、船の渡し場をいう。また、滲シン(しみ出る)に通じ、身体からしみ出てくる汗・なみだなどをいう。
意味 (1)つ(津)。みなと。渡し場。「津駅シンエキ」(船着き場の宿場)「津波つなみ」(津を襲う大波)「大津おおつ」(地名)(2)しる(汁)。あせ・なみだ・つばき、など。「津液シンエキ」(つばき)「津津シンシン」(つばがわくように次々とわき出る)「興味津々キョウミシンシン」
向こう岸、船の渡し場をいう。また、滲シン…
おとめ座のα (アルファ) 星の固有名。 スピカとはラテン語で「小麦の穂」の意で、正義の女神アストライアが左手に持つ小麦の穂の位置にあたる部分にある。アラビア名はアジメクAzimechで「守られていない」の意。実視等級は0.97等(変光している) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
線スペクトルの形も種々のモードの非動径振動(星が球形からずれて揺さぶられる振動)のため複雑に時間変化している。
滲シン…参宿(しんしゅく)、和名は唐鋤星(からすきぼし)、二十八宿の一つで西方白虎七宿の第7宿。距星はオリオン座ζ星(三つ星の東端の星)。
参[參] サン・シン まいる ム部 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F489450704ba013e5ab07530b3b83e43e
解字 金文第一字は、三本のかんざしを頭に挿した人が、ひざまずいている形。第二字は、かんざしの玉が光ることを示す彡サンを加えた形。かんざしを付けて盛装した人が宮中などに参内しひざまずく形で、「まいる・もうでる」意となる。多くの人が行くので、加わる・集まる意ともなる。旧字は「厽 ルイ(三本のかんざし)+人+彡サン」の形になり、新字体は旧字の厽 ⇒ムに簡略化され、「ム+大+彡」の参となった。
意味 (1)まいる(参る)。目上の人の所へゆく。宮中などへ行く。「参内サンダイ」「見参ケンザン」 (2)寺社などに詣でる。「参詣サンケイ」 (3)加わる。集まる。まじわる。いりまじる。「参加サンカ」「参集サンシュウ」「参差シンサ」(いりまじる。ふぞろい。ちぐはぐ) (4)くらべる。しらべる。「参考サンコウ」「参照サンショウ」 (5)人蔘ニンジンの代用字。「人参」 (6)「三」の代用字。
イメージ 「まいる・くわわる」 (参・驂)
「同音代替」 (惨・滲・蔘)
「その他」 (鰺)
ひざまずいている形…ムムム
春の大三角 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftentaitenmon.com%2F664.html
冬の大三角 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkids.yahoo.co.jp%2Fzukan%2Fastro%2Fwinter%2F0015.html
夏の大三角 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkids.yahoo.co.jp%2Fzukan%2Fastro%2Fsummer%2F0016.html
スピカ
スピカは二十八宿の起点角宿の「すぼし」だった
中国星座の黄道12星座に相当するのが「二十八宿」と呼ばれる28の星座です。
月が27.5日かけて天球を1周するとき,一晩ごとに1つの「星座=星宿(せいしゅく)」を移動するように割り振られたもの。
黄道12星座の出発点は春分点(現在のうお座)ですが二十八宿の起点は秋分点に近い「角宿(かくしゅく)おとめ座中央部」にあります。
星宿名 角宿
和訳名 スボシ
現代星座での概略位置 おとめ座中央部
距星 おとめ座α(スピカ)…春の三角形…冬の星座オリオン座のベテルギウス、
四季の大三角形と大四辺形ペガススの大四辺形を「秋の大四辺形」と呼んでいる
冬のダイヤモンド(大六角形) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fstella-record.net%2Fsiki_daisankaku
おおいぬ座の「シリウス」と、オリオン座の「リゲル」、おうし座の「アルデバラン」、ぎょしゃ座の「カペラ」、ふたご座の「ポルックス」、こいぬ座の「プロキオン」の6つの星を結んだもの
冬の星座を紹介する上で欠かせないのが、「冬の大三角形」と「冬のダイヤモンド(六角形)」です。
六角形 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.nobikoto.com%2Fentry%2Forionza_huyunoseiza_daisankakkei
冬の大三角形は、おおいぬ座のシリウス(写真下)、こいぬ座のプロキオン(写真左)、オリオン座のベテルギウス(写真右)によって構成されます。
夏の大三角形と春の大三角系が気になりました。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fyukistage3%2Fentry-12387729487.html
三角 四角…台形…平行な2本の対辺を台形の底辺といい、そのうち一方を上底(じょうてい)、他方を下底(かてい)とよぶ。
上底…昊天上帝(こうてんじょうてい)…
昊天は中国神話中の至高神である天帝の尊号です。夏文明における上帝で、古くより朝廷の公式な祭祀で祀られました。古い文献には、虞舜、夏禹の時代にすでに上帝があったと記載されています。
天帝:中国の天帝って誰の事?天帝について徹底解説 prometheusblog.net/2018/01/21/post-7375/
東皇太一は楚人の屈原の《九歌》の中に見られます。この九歌中には天神として描写され、中国の戦国時代の楚国の最高神で、天空星辰を主宰していました。
太一は天一とも言われ《晋書・天文志上》には、”天一星は紫宮門の右にある。”とあり、《星経》には、”太一星は紫宮門外の天一星の南にある。紫宮は北極星がある天区であり、天一、太一ともに大変暗い。”とあります。
太一は神の名であり泰一とも書きます。《史記・封禅書》には、”天神貴太一”とあり北極神の別名と書かれています。《天官書》には、”中宮天極星、その一明者、太一は常に居るなり。”とあり、”泰一は天帝の別名なり、泰一は天神の最も尊貴者なり。”とあり北極神であり天帝とされています。
泰…大と両手を合わせて 「三+人」の形 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F7d0b4e9827abfaa51a0f89d4e7dc84b7
太一神が九宮を巡行…
長安城の南東郊に薄忌(はくき)太一とよばれる祠壇が設けられたのを最初としそこでは天一,地一,太一の3神が祭られた。… /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
太一(たいいつ、拼音: tàiyī)とは古代中国における宇宙の根元を表す哲学的概念、または天の中心に位置する星官(星座)、またはその神格。大一・泰一・太乙とも書く。
「中宮天極星、其の一に明るきは太一の常居」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
太は至高を、一は唯一・根元を表す語であり、『荘子』天下篇に戦国時代の諸子百家のうち道家が軽んじたものとして登場する。また『呂氏春秋』大楽篇では道のこととし、道は形がなく、名づけることもできないが、強いて名づけるなら「太一」であるとし、太一から始まって太一、両儀、陰陽、万物という宇宙生成論を唱えた。また1993年、郭店楚墓から出土した竹簡『太一生水』に太一から始まる太一、水、天、地、神明、陰陽、四時、倉熱、湿燥、歳という生成論が見られる。
漢代の『淮南子』天文訓において「紫宮は太一の居」としたり、『史記』天官書において「中宮天極星、其の一に明るきは太一の常居」とされるように、天上世界における宮殿である紫微宮のなかに位置する星として認識されるようにもなっていた。また『史記』封禅書では謬忌なるものが漢の武帝に太一を祀ることを進言しており、そこでは太一を天神の尊きものとし、太一の補佐を五帝としている。武帝はこの進言を入れ、太一壇を設けて天一・地一・太一の3神を祀っている。
中国古書『荊州占』では、「黄竜は太一の妻」とある。 以後、太一は天の中心に位置する北極神と解され、天皇大帝や昊天上帝といった至高神と同定されることもあった。後漢の鄭玄は『易』の注釈において太一を北辰(北極)の神とするとともに八卦に配当された9つの宮殿(九宮)を順次めぐってゆく「太一九宮の法」を記した。唐・宋代には太一・摂提・軒轅・招揺・天符・青竜・咸池・太陰・天一の9神が支配する9つの宮殿とし(九宮貴神)、太一神が九宮を巡行としてそれにもとづき禍福を占ったり、九宮貴神壇を設けて祭祀を行ったりした。
東から西へ大きな弧を描きながら、時計の針と同じ方向に、1時間で15°ずつ動く。
四季の星座www.hello-school.net/primrika006001.html
(2)1年の動き
同じ時刻に見える星の位置は1日に約1°、1ヶ月で30°東から西にずれる。
星が同じ位置に見える時刻は1日に約4分、1ヶ月で約2時間ずつ早くなる。
古事記を翻訳
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010942M.jpg
http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_02.html
http://
三女神…
アマテラスとスサノオのウケイから誕生した三女神とはいかなる神か。これら三女神の出現を記す神代紀(じんだいき)の六段本文では単に筑紫の宗像君(むなかたのきみ)らの祭神とするのみで降臨の場所さえ記していない
記紀以前に知れ渡っていた三女神=玉依姫 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkenkokusi.web.fc2.com%2Fhimiko%2F2.1.html
…712年以前には玉依姫七社、三女神一社、比売大神一社であった。それ以降から宝亀元年(770)までを見ると、三女神九社、玉依姫三社、比売(ひめ)大神一社、木花開耶姫(このはなさく や ひめ)一社とトップが入れかわっている。すなわち、比売大神とは本来玉依姫であって、その後、三女神(田心姫(たこりひめ)[多紀理姫(たきりびめ)]、瑞津姫(たぎつひめ)、市杵島姫(いちきしまひめ))へと変化していったことがわかった。
『書紀』は『古事記』の八年後に完成しているので、その頃、三女神=玉依姫は公然の事実であったといってよかろう。 ここにこの公然の事実を通じて、『書紀』の第二のメッセージ(アマテラス=三女神)と、第三のメッセージ(アマテラス=日向の姫[玉依姫])の左辺どうしが結びつき、よって、アマテラス=三女神=玉依姫が単なる妄想でなかったことが確認できるのである。
三女神は玉依姫と結びついているだけではない。日向の姫のもう一神、木花開耶姫とも強く結びついている。
三女神と木花開耶姫の不思議な接点 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkenkokusi.web.fc2.com%2Fhimiko%2F2.2.html
アマテラスの化身である三女神が玉依姫であり、かつ木花開耶姫でもあるという一見不可思議な関係が導かれるのである。
神代紀(じんだい き )上下巻に横たわる系譜の謎kenkokusi.web.fc2.com/himiko/3.1.html
木花開耶姫と玉依姫とが異名同体の可能性が暗示されている。
神武が、200〜210年に三十五歳で即位したとすれば、神武の誕生年は165〜175年頃ということになるので、玉依姫が神武の母とすれば、玉依姫は150年前後の誕生年ということになる。一方、ヒミコは247、8年頃没したと『魏志』にあるので、もし玉依姫=ヒミコが成り立つならば、ヒミコはおよそ百歳の長寿を全(まっと)うしたことになるのであるが、古代人の寿命はせいぜい五十歳程度とする学説に惑わされて、ヒミコ百歳はありえないと確信しているような論調に出会うことが多いので、次にこの点を考証してみたい。
ヒミコの生涯は生誕150年前後〜没247、8年 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkenkokusi.web.fc2.com%2Fhimiko%2F3.3.html
玉依日女の三柱の神は、蓼倉の里にある三井の社に坐す…
北緯34度30分線上の都(その10)−伊豆の式内社「伊古奈比咩神社」のある「賀茂郡」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fmagnoliachizu.blogspot.com%2F2016%2F05%2F34302.html
「下賀茂 鵜の羽葺不合の尊、叔母、玉依姫を后となして、神武帝を産めり。是を人王の始となす。下賀茂の社、御祖の神と称し、玉依姫を勧請し奉るものなりと。」とあります。
…逸文の最後に可茂建角身命、丹波伊可古夜日女、玉依日女の三柱の神は、蓼倉の里にある三井の社に坐すとあります。「蓼倉」は和名抄にある 山城国愛宕郡蓼倉郷で、現在の京都市左京区下鴨蓼倉町にあたり、下賀茂神社と隣接したところとなっています。三井の社は、式内社三井神社で、「三井」は『三身』で、先の三柱をさします。現在は、下賀茂社の境内摂社として鎮まっています。可茂建角身命・丹波伊可古夜日女は、玉依日女の両親です。
…「山城国風土記」(逸文)に「葛野河と賀茂河との會ふ所に至りまし、賀茂川を見迥かして、言りたまひしく、『狹小くあれども、石川の?川なり』とのりたまひき。仍りて、名づけて石川の瀬見の小川と曰ふ。彼の川より上りまして、久我の國の北の山基に定まりましき。」
…大和から移ってきた「カモ」一族は、この川の合流点に居を構え、後にすぐそばの上流側に下賀茂神社を立てたのでしょう。その位置が、松尾大社-比叡山を結ぶ直線上に位置しているということは、偶然かもしれませんがおもしろいものです。
松尾大社は、その位置からして、松尾山にある磐座を対象とした信仰の場の山口の神社と考えられます。松尾大社からの夏至の日の日の出のシミュレーション図を上にあげました。その日の出は、比叡山山頂から少し南にずれます。このずれを、気にするかしないかは、難しい所です。
ということで、もっともらしい理屈をつけるため、松尾山に近い桂川沿いの、夏至の日の出が比叡山から見られる、松尾山のふもとの地として、妙珠寺(京都府京都市西京区嵐山元録山町 緯度35.003599 経度135.682446)を選びました。目印として選んだだけで、此の地の由緒に何か意味があるわけではありません。ここからなら、比叡山からの夏至の日の出が観察されそうです。ここは、松尾大社から、北北西 500m弱、磐座のある松尾山から西 600m弱の位置になります。現在の松尾大社は、比叡山からの夏至の日の出を意識した地にあるとみてもいいかと考えています。これらを結ぶ線上に下賀茂神社を建てたことは大いに考えられるところです。上賀茂神社はさらに後で建てられたと考えています。下賀茂神社が、川合の地に建てられたのなら、それは陰で、当然陽を考えなければなりません。そのため近くにある神南備型をした山「神山」を対象とした陽の神社として上賀茂神社がたてられたのでしょう。その神体山である「神山」の山容は、日吉大社の神体山八王子山に酷似しています。
なお、比叡山からの夏至日の出に関係する神社として、木嶋坐天照御魂神社があります。この神社は、三柱鳥居で有名で「天照」を名前に持つことから「天照大御神」を考えるとき重要な神社です。境内の北西隅には「元糺の池」と称する神泉があるそうです。
[10944] 玉依日女の三柱の神は、
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https://magnoliachizu.blogspot.com/2016/05/34302.html
>・・・こんな文章はない 誓約(ウケイ)…
古事記からの引用
宗像三女神の誕生 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fnihonsinwa.com%2Fpage%2F2014.html
すると速須佐之男命(ハヤスサノオノミコト)が 「誓約(ウケイ)をして子供を生みましょう」 と言いました。
宗像三女神の誕生 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fhimeluna.exblog.jp%2F14644654%2F
そこで、天の安の河(天の川)を中に置いて、ウケイをする時に、アマテラス大御神が先に、スサノオの命の佩(は)いた十拳剣(とつかのつるぎ)を貰い受けて、三段に折ってユラユラと揺らして、天の真名井の水で振りすすいで、噛みに噛んで、フッと吹き捨てた時、息吹きの霧に生まれた神の名は、タキリビメの命。
またの名は奥津島(おきつしま)ヒメの命と言います。
次に、イチキシマヒメの命。またの名はサヨリビメの命と言います。
次にタギツヒメの命。三柱です。
…、最初に生まれた神、タキリビメの命は宗像の奥津宮にまします。
次にイチキシマヒメの命は宗像の中津宮にまします。
次にタキツヒメの命は宗像の辺津宮にまします。
この三柱の神は宗像の君らが斎きまつる三柱の大神です。
こうして、スサノオの命がアマテラス大御神に言いました。
「私の心は清く、正しかった。だから、私の生んだ子は手弱女(たおやめ)でした。ウケイの結果から言うと、私の勝ちですね。」
宇氣布:誓約(ウケイ)…
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ 本居宣長
http://
>[10947] 宇氣布:誓約(ウケイ)…
爾天照大御?詔「然者、汝心之?明、何以知。」於是、速須佐之男命答白「各宇氣比而生子。」(自宇以下三字以音、下效此。)
故爾各中置天安河而、宇氣布時、天照大御?、先乞度建速須佐之男命所佩十拳劒、打折三段而、奴那登母母由良邇(此八字以音)、下效此振滌天之眞名井而、佐賀美邇迦美而(自佐下六字以音、下效此)、… 古事記
*天照大?復問曰「若然者、將何以明爾之赤心也。」對曰「請與姉共誓。夫誓約之中(誓約之中、此云宇氣譬能美儺箇)必當生子。如吾所生是女者則可以爲有濁心、若是男者則可以爲有?心。」… 書紀
*一書曰、…時天照大?、復問曰「汝言虚實、將何以爲驗。」對曰「請吾與姉共立誓約。誓約之間、生女爲?心、生男爲赤心。」… 書紀
*一書曰、日?與素戔嗚尊、隔天安河、而相對乃立誓約曰「汝若不有奸賊之心者、汝所生子必男矣。如生男者、予以爲子而令治天原也。」… 書紀
宇氣比 ウケヒ 宇氣布 ウケフ ウケヒは四段活用連用形、ウケフは連体形。
書紀では、誓約または誓とある。
書紀の作者は、ウケヒ=誓約と解釈してたようです。卜占ですね。
[10948] >[10947] 宇氣布:
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https://www.youtube.com/watch?v=-lX9gssexrk
(無題)
古事記・日本書紀・万葉集を読む
無文字文化としてのヤマトコトバ研究 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fkatodesuryoheidesu%2Fe%2Fc25f2294a819159811a27a466c9939e2
「古事記」も「日本書紀」も、日本の国がどのようにして出来たのか、皇室は先祖からどんなに立派なものであったかということを、人々にわからせようしたのです。
古事記・日本書紀・風土記・万葉集・懐風藻!書物が作られた奈良時代! /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwakariyasuku-rekishi.com%2Farchives%2F714
古事記の万葉仮名づかいは、中国600年頃の切韻によるもので、太安麻呂が、日本語を分析し、50音図にあたるものを作った上で万葉仮名を使用したらしい。
古事記の表記法 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fplaza.rakuten.co.jp%2Fpopomi2575%2Fdiary%2F200903010000%2F
実は『古事記』と『日本書紀』は、似て非なるもの。ぜんぜん違う性質をもつ書物だったのです。
『古事記』と『日本書紀』のちがい〜なぜ日本神話は2つ必要だったのか〜inishie.atelier-aditi.jp/2018/11/10/kojikitonihonsyoki/
つまり『古事記』も『日本書紀』も、日本が一つの国としてまとまるために絶対必要なアイテムだったのです。
日本が一つの国としてまとまるために絶対必要なアイテムだったのです。
古事記(712年)と日本書紀(720年)は大和朝廷側の歴史書・伝承であり、朝廷側に不利な事や都合の悪い事はなるべく避けて記されています。あるいは粉飾して都合の良いように書かれています
古事記・日本書紀・万葉集 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fenkieden.exblog.jp%2F18924843%2F
「古事記」には、「イザナギ」と「イザナミ」の結婚式の話が出て来ます。その時、二人は柱のまわりを回ったとありますが、元駐日イスラエル大使エリ・コーヘン氏は、この場面はユダヤ教の結婚式を思わせると言います。
古事記の天地創造と、旧約聖書の天地創造は確かに似ています。
ヨセフアイデルバーグ氏は、古事記や日本書紀が形を変えた旧約聖書であるといっておれれるようです。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsoudan1.biglobe.ne.jp%2Fqa3776554.html
古事記や日本書紀が形を変えた旧約聖書である理由について
イザナギ神話に潜むイスラエルの影 ! ! |www.historyjp.com/article.asp?kiji=50
『聖書』と『古事記』の創世神話 …
??2020年 5月20日(水)11時42分0秒 https://8906.teacup.com/toraijin/bbs
『聖書』はユダヤ教徒だけでなく、キリスト 教徒やイスラム教徒にとっても聖典とされ、世界宗 教の基盤となっているといえる。世界で最も読まれ てきた書物であり、ゆえに聖書の世界観は、文字通 りグローバルな世界観ということもできると思われ る。
…『古事記』の神々は、 「獨神」で「身を隠しき」とされ、存在自体も「観 念的」とされることで実在を否定されてさえいるよ うな感がある。神の名前さえも、象徴やシンボルな のではないだろうかと考えさせられるからである。 古代から神道には明確な教義や経典がないことも、
…このように目に見えないものを目に見えないままで 受容し、その存在を確かに信じるという心意構造に よるのかもしれない。これは、キリストの次の言葉 を思い起こさせる。
…『聖書』と『古事記』の創世の世界観からそ れぞれの神の観念を比較してみると、意外にも思え るが、その神観念には共通の要素が見られるように 思われる。創世の前に何かがあったか、なかったか の根本的な違いは否めないが、それも「無」の観念 の相違によるとする解釈も可能であるといえる。も し、そのように考えてもよいならば、両者の神観念 には、非常に興味深い相似が見えてくるように思わ れる。
聖書の天地創造と「記紀」のそれが似ているのではと思う人もいるようです。 ちなみに厩戸皇子は、厩戸の前で出生したことによるとの伝説があるがこれなどもそ
一説によると、古事記の書かれた時期にユダヤ系の移民が存在しており
朝廷内ですでに地位を確立していたためと思われます
秦氏と呼ばれる一族がそうではないかと /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp%2Fqa%2Fquestion_detail%2Fq1138886201
当時日本国ができた時、唐の書物がたくさん輸入されたというか、持ち込まれました。
その中に、当時唐で大流行した大秦景教という宗教がありました。
大秦(ローマ)景教(Nestorian Christianity 380年~451年が起こしたキリスト教)以下ウィきより
【中国へは、唐の太宗の時代にペルシア人司祭「阿羅本」(アラボン、オロボン、アロペン等)らによって伝えられ、
景教と呼ばれた。当初、唐の朝廷は、初期には皇族を含めて支配層が濃厚な北族(鮮卑・匈奴など)的要素を有したこともあり、景教や仏教など、非中華由来の宗教に寛容で、
信仰を容認、保護したため、盛んであった。】
ということで、日本の信仰を創作するときに参考にしたと推測してもしすぎではないでしょう。
なにしろアマテラスとお話しできる不比等の先祖の祭司は=アメノコヤネとかいいまして、
あの鎌足の先祖という設定(もちろん信仰)ですね。
アメは、当時の倭王の系統で、問題は「コヤネ」は英語風に言うとコーエン
イスラエル人のヨセフアイデルバーグは、日本の神社に修行に入り、失われた十支族との共通点を探ったようですが、その過程で司祭を意味するヘブライ語のコヘンと非常ににていることを発見しました。
つまり、景教の聖書のなかから参考にしたのでは?と思える事例です。
・・・・
古事記
奈良時代の歴史書。3巻。天武天皇の勅命で稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦習(しょうしゅう)した帝紀や先代旧辞を、元明天皇の命で太安万侶(おおのやすまろ)が文章に記録し、和銅5年(712)に献進。(デジタル大辞泉)
…稗田阿礼が文字で書かれたものを誦習すべく一度声音に翻訳。その誦習を太安万侶が耳で解釈して文字で記録した歴史書(翻訳)。稗田阿礼⇔太安万侶の間でどのような伝授があったか具体的なものはわからない。安万侶が無垢のまま阿礼の誦習を聞いたのならそれはほとんど音楽であったでしょう。音を意味のある文字に写す際、安万侶の知的操作だけでなく阿礼のサジェスチョンがあったやもしれぬ。…どうしてもうまい写しができないときは音に一文字づつあててクラスターの旋律をそのまま表記したでしょう。その時の文字の選びはやはり才能が要るでしょうね^^
>爾天照大御?詔「然者、汝心之?明、何以知。」於是、速須佐之男命答白「各宇氣比而生子。」(自宇以下三字以音、下效此。)
故爾各中置天安河而、宇氣布時、天照大御?、先乞度建速須佐之男命所佩十拳劒、打折三段而、奴那登母母由良邇(此八字以音)、下效此振滌天之眞名井而、佐賀美邇迦美而(自佐下六字以音、下效此)、… 古事記
[10952] 古事記
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古事記 の世界も知ることです。
>爾天照大御?詔「然者、汝心之?明、何以知。」於是、速須佐之男命答白「各宇氣比而生子。」(自宇以下三字以音、下效此。)
故爾各中置天安河而、宇氣布時、天照大御?、先乞度建速須佐之男命所佩十拳劒、打折三段而、奴那登母母由良邇(此八字以音)、下效此振滌天之眞名井而、佐賀美邇迦美而(自佐下六字以音、下效此)、… 古事記
翻訳
近し天照大御?を諭し、「然りと云えり、汝、裏此れ、爽やか明ける、何れ、以って知らせる。」於いて此れ、速須佐之男命 答え、九十九「おのおの、宇、氣、並ぶ、然るに、成す子。」
もと、近し、おのおの、当て置き、天の安んじる河、然るに、宇、氣、広げる其のとき、天照大御?、先ず乞う、渡り帰る速須佐之男命のする所の帯び玉、十拳劒、打つ挫け三つきざはし(十拳劒の三つにだんだんの打ち傷)、然るに、奴はなに登る母、母由り眞近い、下る倣う此れ掬う洗う、天これ眞名、井、然るに、佐は悦び、美し近いであろう、美し然るに、
九十九と美し、は地図添付
本居宣長は、この程度の詐欺師です、庶民を馬鹿にしている、秦野も騙された、日本中ですがね
宇氣布、これが、誓約(ウケイ)馬鹿にしている・・・、この意味が理解できる。
古事記は、どの様に書かれたか
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…稗田阿礼が文字で書かれたものを誦習すべく一度声音に翻訳。その誦習を太安万侶が耳で解釈して文字で記録した歴史書(翻訳)。稗田阿礼⇔太安万侶の間でどのような伝授があったか具体的なものはわからない。
古事記は、どの様に書かれたかは、文章中にある。
太安万侶の監督、稗田阿礼は万葉集を記憶(内容が多少異なる)し、膨大な資料800年間をまとめる、筆記者の3名で書かれた。歴史書は紀元前2世紀からになる、未だ古い万葉集6世紀があるが確認できていない。
6世紀は史記に頼ることになる。太安万侶は万葉集6世紀、史記、古事記、日本書記、魏志倭人伝を通読している。
稗田阿礼⇔太安万侶…
古事記がギリシャ神話や東南アジアの神話に似ているところがある事からこの時代も渡来人が多かったのでもしかしたらと思いました。
稗田阿礼は渡来人という事はないですか?
売太神社(めたじんじゃ)は奈良県大和郡山市の稗田環濠集落の端にある神社である。式内社で、旧社格は県社。
古事記編纂に携わった稗田阿礼を主斎神(主祭神)、天鈿女命、猿田彦命を副斎神(配祀神)として祭る。
稗田阿礼命は学問の神、物語の神。天鈿女命は芸能の始祖神。猿田彦命は土地・方位の神であり、天鈿女命の夫神である。稗田阿礼は猿女君稗田氏の出で、天鈿女命は猿女君の祖神・氏神である。
但し、中世には「祭神不詳」とされていた。毎年8月16日に行われる阿礼祭(あれいさい)は、稗田阿礼の遺徳を偲ぶ祭である。その他として亀岡市街地の西、湯ノ花温泉の入口近くに鎮座する稗田野(ひえだの)神社がある。但し此処は、古事記の編纂者「稗田阿礼(ひえだのあれ)」とは無関係見たい。
稗田阿礼と太安万侶の背後にいたのは、渡来人系書記官人組織・史(ふひと)。
彼らが唐の漢字を使って日本の歴史書を編纂したのです。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fnewjomon.exblog.jp%2F29751070%2F
…女帝を擁立すれば、渡来人の藤原氏が側近となり意のままにこの国を動かすことができる。
超古代からの日本の歴史に封印を施し、
秩序ではなく序列の世界を構築してこの国は自然の法則に逆らった世界を体験することになったのです。
…藤原不比等(史)は記紀編纂のフィクサー。
記紀は稗田阿礼による口伝のとおりに記述されたものか確かめようもないけれど、この国は国造りの神々を封じて、逆さまの世界を体験する必要があったのです。
大和郡山…
【邪馬台国大和郡山説】yamataikokudaiou.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-0bee.html
北九州から東征し、当時の河内湖現在の東大阪から侵攻し大和の豪族長脛彦を制圧帰順させ、大和郡山矢田に都を築き、北は富雄、南は桜井の忍坂まで勢力を拡大していたと考えられます。
『太安万侶の暗号シリーズ』の第四巻である。いつも通り編集も表紙カバー作成も福士亜矢子の手になる。感謝の意と共に紹介しておきたい。さて、日の本国の大規模な攻撃により、百済系の崇神天皇以来続いた王朝は新羅系の助力を得るため息長帯媛を仲哀天皇の皇后とする。… /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.amazon.co.jp%2F
太安万侶をネットで探すと、多(太)氏は新羅系とか、百済系とか、出てきます。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp%2Fqa%2Fquestion_detail%2Fq1096695130
「日本書紀天智紀元年条」の前の所に「織冠を百済の王子豊璋に授け、また、多臣蒋敷(おおのおみこもしき)の妹を妻(めあは)せたまひき」とあります。
百済復国の為の一大事に、本国に帰還する百済王の妻に「多氏」の娘を選定しています。
「多氏」が百済系の官僚であるのは間違いないことです。
また「天智」が、「白村江」で唐ー新羅の連合軍により大打撃を受けて、その戦後処理に大混乱の最中に、近江に百済からの亡命王族や遺民を結集して政権を樹立します(天智の乱)」。
でもこの政権は、「九州倭国」の承認などありません、「壬申の乱」により「九州倭国」に潰されてしまいます。
その後、「九州倭国」は、対唐対策や、対新羅対策もあり、近畿地方に遷都してきます、その時に大活躍するのが「多治比嶋(丹比真人嶋)」と言う人物です。
「日本書紀」は「天智ー藤原系」に先行先在した「九州倭国」の存在を隠蔽していますが、「九州倭国」が関与する大事な記事には、必ず「多氏」が登場します。
「多氏」と言うのは、半島百済にも、九州倭国内にも、勢力基盤を持っていた百済からの渡来氏族ではないでしょうか。
彼、太安万侶は、そのような流れを受け継いでいる人物だと思われますが如何でしょうか。
藤原鎌足として知られることになる中臣鎌足。中大兄皇子と協力して大化の改新を成功させ、時の権力者となった中臣鎌足は、 百済からの渡来人なのではないか という説があることをご存知でしたか? /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fizinden.net%2Fkamatari%2F
藤原鎌足とは何者だったのでしょうか。この阿武山古墳を造営したのは、息子の 不比等 になりますね。そして、 定恵 がここから鎌足の遺体をほりだして多武峯に移したことになっています。
鎌足の墓は何処か? /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftizudesiru.exblog.jp%2F23775565%2F
藤原鎌足は明日香村の大原で生まれたといいます。飛鳥寺や飛鳥坐神社のある辺の東で大原神社があり、今は小原という地名になっているそうです。
大和郡山・鎌足神社
鎌足神社は、奈良県大和郡山市にある藤原鎌足を祭る神社。 鎌足墓所の多武峰にある談山神社は、かつて豊臣秀長の命で大和郡山城下に遷座させられた。 数年で多武峰に戻ったが、この神社はその旧跡を偲ぶものである。ただし、鎮座地は、談山神社があった跡地とは異なる位置と思われる。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fshinden.boo.jp%2Fwiki%2F
大和郡山にはこの様な伝説が伝わっています。 推古21年(613)、太子が稗田の里に寄られた時、村人から稗飯を出されました。
推古21年(613)、太子が稗田の里に寄られた時、村人から稗飯を出されました。なぜ稗飯なのかと問いただすと、村に水が無く稲が実らないと村人が嘆いたので太子は不憫に思い、菩提山川の水を引きいれる溜池を造らせ西へ2km離れた稗田郷(稗田町・上三橋町・下三橋町)へ灌漑用の水を送られました。
また太子はこの池の近くに広大寺を建立したと伝えられています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkikimanyo.info%2Ftaishi%2Fstorymap%2F
百済からの渡来人であろうと推測できる天智や 藤原鎌足と王家との争いを考えてみます。 ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)
中臣鎌足と藤原鎌足、藤原氏の謎 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fnagusa777%2Fe%2F2d6e6ac9257efa30225f76b96a79223e
百済から亡命してきた人々が多数いました。
この渡来百済人と、以前から渡来していた渡来人が百済復興の兵をあげたのです。
本来は、倭国、唐、新羅の三国同盟だったのです。
この時代の唐との国力の差を考えれば、唐と敵対する選択をするはずがありません。
倭国は、唐、新羅と結び百済を討とうとしていたのです。
その百済討伐のための朝鮮出兵が、渡来人によるクーデターにより百済救援の出兵に代わってしまったのです。
その中心人物が、百済復興を画策していた渡来人である天智と後の藤原鎌足である。
661年から、天智が白村江に兵を派遣する663年まで渡来人と王家の争いが起きている。
…正史である日本書紀に記述があるから真実であるといつまでもこういう姿勢では真の歴史はみえない。
彼らを謀反の疑いで静粛し、百済復興のために朝鮮に出兵した天智や藤原鎌足は渡来人である。
渡来人である天智は王であるはずがない。天智は天皇に即位していたと改竄したのは桓武天皇である。
その天智から繋がる桓武は渡来人の王である。
百済救援を画策していた、百済からの渡来人であろうと推測できる藤原鎌足と王家との争いを
考えてみます。古代の王家は藤原に乗っ取られている。
…藤原氏は、近江にも関係します。その近江には多数の百済から亡命してきた王族などの人物の居住地だということが日本書紀などにも記述されています。
桓武天皇のお母さんである高野 新笠は、百済からの渡来人である和乙継の娘であり、この和氏は百済武寧王の子孫を称しています。
本当に武寧王の子孫かどうかはともかく、本来は言いたくはないところでもあるので、渡来人であるのは事実だと思われます。
そして、この百済からの渡来人が中臣氏と繋がりを持つのは、この中臣氏の本拠地は山科だからなのではないのか?
秦氏の山背国と近江に挟まれた位置にあるのが山科です。
…「白鳳−朱鳥−朱雀−大宝・・・九州年号の謎」のところで書きましたが、・・・
天智天皇は大化の改新と呼ばれる改革を断行したとされます。しかし、そうではないとの木簡が出土しました。
「評」から「郡」に変更されているはずなのに使用されている。
そして、日本書紀に記述されている大化の改新は、およそ60年後に完成した大宝律令と一致する文が存在するのです。
どうしてこんなことをしたかというと、この時大王だったのが長屋王だからです。
つまり、大宝律令は長屋大王が作った律令だということになります。大化の改新ではなく、本来は、長屋大王や忍壁大王が行った「大宝の改革」ということになります。
その功績を天智天皇の功績として取り込んでいる。それは、桓武天皇は天智系天皇だからです。
日本書紀は編纂後に改竄された偽書である。
古事記や日本書紀は古史古伝を参考にして編集された…
天照大神は異民族文化を取り入れたとか。特に文化神パール(バアル神)の貢献を大いに喜んだようです。
神武天皇は鳥見山(奈良県宇陀市と桜井市の境に位置する山)に天神エホバ(ヤハウェ)をお祭りしたとか。
ヒッタイト帝国はセム族によって押し出され、日本の島にやってきたのだとか。ところがセム族は彼らを北海道まで追い上げるのでした。
今も歌い継がれる民謡にはヘブル語がいっぱいだ。「ヨーイヤサ」「ドッコイショ」「チョエナ チョエナ」「スチャラカホイ」「エンヤラサ」「ヨチャエ ヨチャエ」「アーリャ アーリャ」「ションガイナー」沢山あるものですネ。
…
海石榴市の八十の街… https://8628.teacup.com/toraijin/bbs
日本古代の市の一つ。《万葉集》に〈海石榴市の八十衢(やそのちまた)〉とあり,《日本書紀》武烈即位前紀に〈海柘榴市巷(ちまた)〉,同推古16年(608)条に難波より大和川を遡上してきた隋使裴世清(はいせいせい)一行を〈海石榴市街(ちまた)〉に迎えたとあるごとく,水陸交通の要衝に立地した。比定地としては,横大路と山辺の道の交点付近の桜井市金屋の集落付近,横大路と上ッ道の交点近くの同市三輪字上市〜金屋字上市口付近が考えられるが,前者から後者への変遷も想定しうる。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
桜井市金屋…
金屋集落 そこは古代王城の地「しきしま」 港「海拓榴市」 の一帯は「やまと」の「まくらことば」である「しきしま」(磯城嶋)の地。 金屋集落へ入る橋のたもとに仏教伝来の地の碑が建っている
古代 初期大和政権(三輪王権)が王城の地に求めた産鉄の地 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.infokkkna.com%2Fironroad%2F2011htm%2Firon7%2F4iron08.pdf
大和盆地を大阪に流れ下る大和川(初瀬川)が青垣・吉野の峰々が連なる東の壁から大和盆地に流れ出る所に 秀麗なピラミッド型の三輪山がそびえている。この奈良県桜井市「三輪山」の麓は古代日本誕生の黎明の時 代「やまと」の枕詞「しきしま」と呼ばれた王城の地。4世紀三輪王権と呼ばれる初期大和政権成立の舞台。 ここで大和朝廷の基礎が養われたという。 また、北に伸びる三輪山山麓には3世紀に遡れる巻向 地区には纏向古墳群があり、邪馬台国畿内説を唱える 人はこのこの三輪山北山麓の地が卑弥呼 邪馬台国の 地という。 この山裾を縫って明日香から北へ古代の道 山辺の道 が王城の地を貫き、麓にはこの三輪山をご神体とし、 出雲の神「大物主命」を祭神とする日本最古の神社大 神神社がある。 鉄との深い関連が考えられる神社で、産鉄地・産鉄の 民と関係の深い地と見られ、今もその山麓には金屋・ 穴師・金刺などの産鉄地名が残り、南麓の金屋からは 鉄滓が出るとの文献もある。 そう考えるとこの三輪山山麓は古代の重要な産 鉄地で三輪山は鉄の山ではなかったか・・・。 この地を得た人たちが、この三輪山の鉄および 鉄の技術を背景にこの地を本拠として、日本誕 生がなしとげられたのではないか・・・・・・ おぼろげに三輪山は古代の産鉄地と思っていま したが、もっと強く 三輪山の鉄が直接に日本 誕生に重要な役割
額田王 万葉集、第一巻:0020
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010957M.jpg
第一巻:0020 茜草指武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
翻訳
茜は伽耶を指す、武士よく先、田舎やに行く、標す田舎や道、田舎や守と言えるない、あらわれるかな。君(天智天皇)そで広げながす。(仲裁する)
意味
新羅を茜と言う、新羅は高句麗とよく揉めていた、其の都度、天智天皇は、仲裁に田舎や守に行く、そで広げながす。
天智天皇は(六五四年) 永徽五年十二月に唐の高宗に朝貢している。内容は新羅は高句麗とよく揉めていた、其の都度、仲裁に・・・である。
文章は以下、原文『唐会要』倭国・日本国伝
永徽五年十二月。遣使獻琥珀瑪瑙。琥珀大如斗。瑪瑙大如五升器。高宗降書慰撫之。仍云。王國與新羅接近。新羅素為高麗百濟所侵。若有危急。王宜遣兵救之。倭國東海嶼中野人。有耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。頗有絲綿。出瑪瑙。有黄白二色。其琥珀好者。云海中湧出。
現在の万葉集の意味
(茜色の光に満ちている)紫(むらさき)の野、天智天皇の御領地の野で、あぁ、あなたはそんなに袖を振ってらして、野守が見るかもしれませんよ。歴史記録には此れはないでしょう。
海人は宗像の女神を祭っている。…
宗像系の神社は日本で5番目に多いとされ、そのほとんどが大和及び伊勢、志摩から熊野灘、瀬戸内海を通って大陸へ行く経路に沿った所にある
宗像三女神 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
宗像三女神(むなかたさんじょしん)は、宗像大社(福岡県宗像市)を総本宮として、日本全国各地に祀られている三柱の女神の総称である。記紀に於いてアマテラスとスサノオの誓約で生まれた女神らで宗像大神(むなかたのおおかみ)、道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれ、あらゆる「道」の最高神として航海の安全や交通安全などを祈願する神様として崇敬を集めている。
この三女神は、日本から大陸及び古代朝鮮半島への海上交通の平安を守護する玄界灘の神、要として海北道中の島々(沖津宮・沖ノ島、中津宮・筑前大島、辺津宮・宗像田島)に祀られ、大和朝廷によって古くから重視された神々。遣隋使や遣唐使もこの島を目印として渡海した。ムナカタの表記は、『記・紀』では胸形・胸肩・宗形の文字で表している。
天照大神が国つくりの前(天孫降臨より以前)、「うけい」により生まれたこの三女神に対し「九州から半島、大陸へつながる海の道(海北道中)へ降りて、歴代の天皇をお助けすると共に歴代の天皇から篤いお祭りを受けられよ」と神勅を示した。このことから、三女神は現在のそれぞれの地に降臨し、祀されるようになった。これが宗像大社が祀る、沖津宮の「田心姫神(タゴリヒメ)」、中津宮の「湍津姫神(タギツヒメ)」、辺津宮の「市杵島姫神(イチキシマヒメ)」である。
この三女神は天照と素戔男の誓(うけい)の結果から生まれたという。素戔男の邪心を疑った天照は彼の本心を確かめるために誓約する。素戔男がたばさんでいる剣を天の真名井ですすぎ、口で噛みくだいてキリとして吐き出した。そうして生まれたという。娘たちに「あなたたち三神は、道中(みちなか)に降臨して天孫を助け奉り、天孫に祭(いつ)かれよ」と命じた。道中とは玄界灘である[1]。
『古事記』神代上巻に「この三柱の神は、胸形君等のもち拝(いつ)く三前(みまえ)の大神なり」とあり、元来は宗像氏(胸形氏)ら筑紫(九州北部)の海人族が古代より集団で祀る神であったとされる。海を隔てた大陸や半島との関係が緊密化(神功皇后による三韓征伐神話など)により土着神であった三神が4世紀以降、国家神として祭られるようになったとされる。
アマテラス…海女照らす…星?
海女は全国でおよそ2000人、そのうち志摩760人、鳥羽250人と半数を占める。それだけの数のプロが存在するということは生業(なりわい)として成立しているからだ。ちなみに能登半島・輪島の海女は200人だ。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Ff-uno%2Fe%2F248715b5091fceadd19ec0ec8a657818
海女さんの発祥の地…
古代、宗像海人族と呼ばれた海の民の末裔たちは、今もなお、漁業に従事しています。しかし、日々かれらの生業の場である海の環境が変化し、彼らの生活を脅かしています。 例えば、海女さんの発祥の地であるここ宗像鐘崎には、後継者はおらず、残すところ1名のみになりました。
福岡県 宗像鐘崎 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Freadyfor.jp%2Fprojects%2Fumi-sodate
鐘崎は海女発祥の地です。 2017年に世界文化遺産に登録された、「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群。宗像の漁師たちは古代からずっと宗像大社の三女神への信仰篤く、今も禁忌を守り続けます。 そ
「みあれ祭」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fchiakimatsuyama.com%2Famaaruki-kanesaki%2F
みあれ…水脈(みを)我(あれ)…
我(あれ)を頼めて あさましものを 」 巻14−3429 作者未詳 ( 遠江の引佐細江(いなさほそえ:浜松市、浜名湖の入江)の みをつくし。 その澪標のように私をあてにさせておいて、やがて疎ましくするのでしょう。
澪標とは「水脈(みを)つ串」の意で、船が安全に通過できる水深を示すための標識として立てられた杭のことです。
この歌の「みをつくし」の原文表記は「水咫衛石」となっています。
「咫:あた」は中国の尺度を表し、1咫は約8寸 (約24cm) 。
八咫烏(ヤタガラス)は大きいカラスだったのですねぇ。
「難波の澪標」は杭の上に三角形のしるしをつけたもので、後の人々に多く詠われ、現在大阪市の市章にもなっています。
三角形のしるし…三つの星を中国では心宿三星としまし田…商星(さそり座の三つ星)…
神武天皇を迎えた宇佐都比古、宇佐都比売は兄妹で三女神の神裔だといいます。(三女神社縁起)。水沼族は三女神を祀る氏族ですが、ここ安心院でも祀っていたことが分かりました。
賀茂神社(3)足一騰宮2・賀茂氏と安曇族と水沼族と中臣氏の大連合 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Flunabura.exblog.jp%2F24574876%2F
神武天皇は母の玉依姫を祀るための仕組みを作りました。それは安心院が安曇族の統治する地だという宣言でもあります。
安曇族…
御生れ/御阿礼(みあれ)とは。意味や解説、類語。《「あれ」は生まれることの意》神または貴人の誕生・来臨をいう語。ご生誕。ご来臨。⇒賀茂 (かも) の御生 (みあれ) 賀茂神社の異称。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdictionary.goo.ne.jp%2Fword%2F
「あれ」は生まれること…神または貴人…
アレース…ギリシア神話に登場する神…
アレースもしくはアーレース(ΑΡΗΣ、Arēs、?ρης, Ārēs)は、ギリシア神話に登場する神で、戦を司る[1] /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
ローマ神話のマールスに相当し[1]、また火星と同一視される。このため黄道上に位置し火星とよく似た赤い輝きを放つ天体であるさそり座のα星はアンタレス[注 1]と呼ばれる[14][15]。火星の衛星フォボスとダイモスはアレースの子の名から採られている。
アンタレス…航海の道標…
アンタレスは、さそり座の心臓部分にある一等星です。古来より、船乗りの間では『目当て星』『方角星』と呼ばれ、航海の道標とされてきました。また、『かごかつぎ』『豊年星』『商人星』とも呼ばれ、アンタレスが赤く輝くほど豊作だと言われています。
蠍座-中国の神話。
中国では、この星座を進賢冠という冠をかぶって空に立つ巨人と見ていました。
蠍の頭部(房宿)が巨人の口と鼻となり、その上にある星が冠をつくり、アルファと左右の星(心宿三星)が背と肩で、尾宿の九つの星が、衣が風にひるがえる形としています。
蠍座のアルファは、変光星で高度1〜1.8等星、距離600光年で、ギリシャ語でアンチ・アーレスがつまったものとされています。
「火星に敵対するもの」という意味で、それはこの星が火星と同じように赤い星だからだそうで、古くから火、大火、火星と呼んだそうです。
アンタレスを挟んで前後に二つの星があり、この三つの星を中国では心宿三星としました。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fpleasuremind.jp%2FASTRO%2FASTROsummer012B.html
「心宿の火星(アンタレス)は天王で、前後の星は太子である」と説明されています。
ビクトリア州北西部のブーロン族は、この恒星とさそり座τ星をアンタレス(Djuit)の妻とみなしていた[17]。
心宿 三星…さそり座σ星(さそりざシグマせい、σ Sco, σ Scorpii)は、さそり座にある恒星で3等星。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
三星…
商星(さそり座の三つ星) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
? (正しくは「しんしょう」。参星(しんせい)と商星の意で、参星は西、商星は東にあって遠く隔たっているところから) 互いに離れていて会うことのできないたとえにいう。
天津甕星??宗像三女神の龍脈
宗像三女神の伝説は、本島と石垣島で伝えられてきた。
「大和の国から琉球に渡来した三女神
その長女は首里の弁ヶ岳に、
次女はこの於茂登岳に、
三女は久米島に降臨した」のだと。
五芒星は道教の太一。水金火木土の5つの門を図案化したもの。
別名セーマンは安倍清明の「せいめい」が訛った。
ちなみにダビデの星はドーマンで、ライバル芦屋道満から。
いずれも蛇を示す三角紋の組み合わせと考える。
星、蛇、土は道教最高のもの。
三つ星は蛇であり、オリオン座。
一つ星は北極星、7つは北斗、5つは蠍座あるいは南十字?1,3,5,7の聖数を足すと16になる。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.oct-net.ne.jp%2Fhatahata%2Fkouryuuji.html
天皇家の御紋16菊花紋。空想ですよ。
セーマンドーマンまたはドーマンセーマンとは、三重県志摩地方(現・鳥羽市と志摩市)の海女が身につける魔除けである。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
能登半島では、海女(あま)とはかつて北東アジア海域で漂流生活をしていた人々だと言い伝えられている /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fourworld.unu.edu%2Fjp%2Fjapans-ama-free-divers-keep-their-traditions
安曇の海人神社と対比される、宗像三女神をまつる宗像神社…
安曇の海人神社を奉ずる海人族… /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.honnet.jp%2Fmetro%2Fkodaishi%2Fk228%2Fkodaishi10.html
インドシナ系苗族の航海漁労民と江南から発した隼人系の潜水漁労民という二つの系統が南方から九州に入っている。 安曇の海人神社を奉ずる海人族は漁業を専従とする海人ではなくて、舟をこぐほうの海人であった
-ふたたび海人族・倭について-www.honnet.jp/metro/kodaishi/k228/kodaishi10.html
三世紀の「魏志倭人伝」よりも遙かに古い「山海経」に倭という文字がでてくることを、前回の「わだつみに生きる海人・倭(人)」で紹介した。
ここに登場する倭は、紀元前の昔から、日本列島周辺をはじめ、遙かに中国の南部沿岸から山東半島、遼東半島、南朝鮮の多島海の島々、済州島などの広い世界で活躍する海人であったと想像できる。
子安貝
何故、中国人が倭(人)に関心を示し、古い歴史書に「倭」が登場するのだろうかという謎の答に、「貴重な子安貝(タカラガイ)を中国にもたらすのが倭人だったからだ」という説明をしたのは、ロマンあふれる壮大な仮説「騎馬民族征服王朝説」を提唱した故江上波夫氏である。
若い頃、江上氏は「極東における子安貝の流伝に就きて」という論文を「人類学雑誌」に発表している。
1932年のことであるが、当時はまだ沖縄諸島での子安貝の産出は確認されておらず、中国での子安貝の使われ方に重きをおいた研究であった。中国大陸では、日本の縄文後期、晩期、弥生時代、古墳時代、その後の時代にかけて、子安貝は貨幣に相当する価値をもつものとして珍重されていた。「財」や「貯」など、今日、経済活動に関する漢字には貝偏が多く、旧字体の「賣」「買」などにも貝がついている。
…日本人の起源を考える上で重要な「古事記」と「日本書紀」の神代の説話に、中国の江南、呉あたりの南方海人族と共通の「海幸・山幸」の伝説、また北方民族に共通の「国の成り立ちは天から降臨した神によるものである」という神話がふくまれていること、即ち南北の伝説が合体していることに注目すべきであるという。
このことは南から北から海を渡っていろいろな人種が列島にやってきて定着し混血したことをしめしている。
海人族すなわち漁労民と言っても、そのなかには潜水漁労民、釣り漁民、網漁民といった職業の技術的な違いが明らかに存在する。
海にもぐる刺青をした海人は隼人系であり、薩摩・大隅の南九州だけでなく、九州の沿岸に広く分布していた。土蜘蛛・女酋といわれていたのは、隼人系の特に女を中心にした潜水海女の集団であったと考えられる。
もう一つは安曇系で漂海民的、航海民的な種族としての特長が強く、苗族が漢民族に追われて海上に去り、漂海民として生活するようになったのが、ずっと北上して九州の北岸まで来て安曇になったのではないか?
このインドシナ系苗族の航海漁労民と江南から発した隼人系の潜水漁労民という二つの系統が南方から九州に入っている。
安曇の海人神社を奉ずる海人族は漁業を専従とする海人ではなくて、舟をこぐほうの海人であった。家船系統の漂海民的海人であって、やがて九州から瀬戸内海に入り、朝鮮半島と九州、瀬戸内を通して大和との通商航海に活躍する。
安曇の海人神社と対比されるのが、宗像三女神をまつる宗像神社であるが、これを信仰する海人は九州から日本海を北に越の国まで、すなわち潜水漁労民の潜れる海の範囲まで出て行く。現在でも能登半島・舳倉の海人は宗像の女神を祭っている。
アミス族…中国,台湾省の原住民諸種族のこと。そのうち漢族化したものを熟蕃(じゆくばん),そうでないものを生蕃(せいばん)と呼んだが,これは日本の台湾領有(1895‐1945)に先立つ清朝時代からの称呼であり,たとえば大陸の少数民族であるミヤオ(苗)族を,その漢族化の程度によって,熟苗と生苗とに分ける流儀である。しかし〈蕃〉には軽侮の語感を伴うので,日本時代の中ごろから生蕃という称呼を高砂族と改め,公文書などにもそれが用いられるようになった。…
台湾…高砂族…
約5200年前に一部が台湾を後にして南方に向かった。台湾に残ったグループは台湾諸語となった
オーストロネシア語族の祖形を残す台湾原住民(中国語では高山族、日本語では高砂族)諸部族の言語はアタヤル語(タイヤル語)群、ツオウ語群、パイワン語群に大別され、このうちパイワン語群に属するアミ語の話者が10万人前後と最も多く、その他の言語の話者は数千人以下である。
オーストロネシア語族(オーストロネシアごぞく)は台湾から東南アジア島嶼部、太平洋の島々、マダガスカルに広がる語族である。アウストロネシア語族とも。日本語では南島語族とも訳される。
かつてはマレー・ポリネシア語族と呼ばれていたが、台湾原住民諸語との類縁性が証明された。この台湾原住民の諸語が言語学的にもっとも古い形を保っており、考古学的な証拠と併せて、オーストロネシア語族は台湾からフィリピン、インドネシア、マレー半島と南下し、西暦 5 世紀にインド洋を越えてマダガスカル島に達し、さらに東の太平洋の島々に拡散したとされる。ただしパプア・ニューギニアの大部分(パプア諸語)とオーストラリアの原住民の言語(オーストラリア・アボリジニ諸語)は含まない。
1世紀頃にオーストロネシア系が扶南をたてた…
3世紀頃の南京にあった呉の官僚の報告書に同時代の東南アジアの国家が出ている。しかし、扶南という名称は出ておらず、当時の現地人がどのような名前で国を呼んでいたかは明らかではない。後述する民族についての考察からも、1世紀頃にオーストロネシア系が扶南をたてたとする説が有力である。
扶南国(ふなんこく)は、1世紀から7世紀にかけてメコン川下流域(現在のカンボジア、ベトナム南部)からチャオプラヤーデルタにかけて栄えたヒンドゥー教・仏教(5世紀以降)の古代国家。
1世紀…ローマ帝国の金貨が出土…
オケオとは ポイントはローマ帝国の金貨が出土していることです。
オケオ遺跡は、カンボジアから南部ベトナムにかけて繁栄した扶南国の中心都市であるオケオの遺跡です。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fglossary.sekainet.com%2Foc-eo-remains
このことから、ローマ帝国と東南アジアを結ぶ、海上交易が行われていたことがわかります。
他にも、インドの仏像やヒンドゥー教の神像、後漢時代の鏡なども出土しています。
たくさんの地域の物品が出土していることで、オケオがいかに海上交易の中心地として発展していたかがわかりますね。
オケオ(ベトナム語: Óc Eo/ 喔?、クメール語: ??????, ラテン文字転写: O'keo)は、ベトナム南部のメコンデルタ地方、アンザン省南部のトアイソン県にある考古学的な遺跡群。また今日において、オケオ市鎮(ベトナム語版)はトアイソン県を構成する行政区画である。「オ・ケオ」はクメール語で「水晶の運河」を意味する。
1世紀から7世紀にかけて、扶南国の最も賑わった港があったとされる。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
オケオは、メコンデルタの低地平原を縦横に結ぶ古代の運河ネットワークの中に位置しており、オケオと海の港を繋ぐ運河の一つは、北北西に約67km離れたアンコール・ボレイまで繋がっていた。オケオは運河によって南北に分断され、更に4つの運河が東西に走り、その運河はメコンデルタ地域に現在でも見られる高床式の水上住宅に囲まれていたと思われる[1]。
オケオは、メコンデルタで紀元1世紀から6世紀に存在した歴史上の王国である扶南に属していたと考えられる。扶南については、旅行者や外交官の証言、朝貢使節の記録に基づき正史を編纂した、古代中国の多くの史家たちの記録によって知られている。
扶南は中国史にその名を残しているが、ベトナムやカンボジアの古文書には「扶南」の名は見られない。しかし漢文史料によって、中国人によって扶南と呼ばれた国が、メコンデルタにおける支配的な政体であったと判断できる。その結果、この地域で発見されるこの時代の遺物は歴史上の扶南のものと認識され、オケオとその関連遺跡での発掘品は扶南の存在を示す重要な情報源となっている。
古代クメール領域の地理の記憶を伝える名前を採用し、「扶南」の名は使わないようにすべきだというクロード・ジャック(Claude Jacques)の観点[7] も支持している。
新石器時代後期から金属器時代初期に、オケオは徐々にメコンデルタの経済と文化の中心になってゆき、また東南アジアの航路上の重要な位置を占めることによって職人や交易人の集まる場所となり、インドのような外部文化の影響が十分な都市化を促したとも、ハー・ヴァン・タンは論じている[8]。
また扶南は、インド人たちが「スヴァルナブーミ(英語版)」(黄金の野原)と呼んだ東南アジアの地域の最初の現れであった可能性がある[9]。
[10958] 海人は宗像の女神を祭っている。…
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010959M.jpg
>宗像三女神(むなかたさんじょしん)は、宗像大社(福岡県宗像市)を総本宮として、日本全国各地に祀られている三柱の女神の総称である。記紀に於いてアマテラスとスサノオの誓約で生まれた女神らで宗像大神(むなかたのおおかみ)、道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれ、あらゆる「道」の最高神として航海の安全や交通安全などを祈願する神様として崇敬を集めている。
外野席さん、古事記伝の、宇氣布 ウケフ ウケヒ、誓約の出所が日本書紀だと教えてくれた。
*一書曰、日?與素戔嗚尊、隔天安河、而相對乃立誓約曰「汝若不有奸賊之心者、汝所生子必男矣。如生男者、予以爲子而令治天原也。」… 書紀
翻訳
*一書曰、日?、与える、素戔嗚尊、距てる天安河、然るに、相対して、すなわち立てる、誓約、曰く、「汝もしなく、有り奸賊のこころ者、汝ところ、生む子必ず男だろう、如し生む男者、予め以って爲る子、然るに、令(のり)治める天原也。」… 何を考えているのか、誓約(うけい)を説明している。
本居宣長さん、日本書紀をカンニングしたんですな、単語が読めないですな。当時は資料はない・・・
荊の紀氏 さん、誓約(うけい)は、ないんです、宗像三女神は、ないんです。
赤き心…赤い星…「…アンタレスは天王で、前後の星は太子である」…
「 汝若(も)し賊(あたな)う心有らざれば汝が生める子は必ず男ならん。如(も)し男を生まば、予(われ)以ちて子と爲して天原(あまのはら)を治(しら)しめん」
www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/shoki/frame/01/06_03/fr.htm
赤き心…【日本書紀 卷第一 第六段 一書第三 原文】
其の素戔嗚尊の生める兒は皆已に男なり。 故、日の?、方(まさ)に素戔嗚尊の元より赤き心有るを知りて、便(すなわ)ち其の六はしらの男を取りて、以ちて日の?の子と爲し、天原(あまのはら)を治(しら)しむ。 即ち日の?の生める三はしらの女?を以ちては葦原中國(あしはらのなかつくに)の宇佐嶋(うさのしま)に降(あまくだ)り居(ま)さしむ。 今には海の北道の中に在り、號(なづ)けて道主貴(ちぬしのむち)と曰う。 此は筑紫の水沼君(みぬまのきみ)等の祭(いつきまつ)る?、是也。
>蠍座-中国の神話。
中国では、この星座を進賢冠という冠をかぶって空に立つ巨人と見ていました。
蠍の頭部(房宿)が巨人の口と鼻となり、その上にある星が冠をつくり、アルファと左右の星(心宿三星)が背と肩で、尾宿の九つの星が、衣が風にひるがえる形としています。
蠍座のアルファは、変光星で高度1〜1.8等星、距離600光年で、ギリシャ語でアンチ・アーレスがつまったものとされています。
「火星に敵対するもの」という意味で、それはこの星が火星と同じように赤い星だからだそうで、古くから火、大火、火星と呼んだそうです。
アンタレスを挟んで前後に二つの星があり、この三つの星を中国では心宿三星としました。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fpleasuremind.jp%2FASTRO%2FASTROsummer012B.html
「心宿の火星(アンタレス)は天王で、前後の星は太子である」と説明されています。
[10963] 赤き心…赤い星
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010966M.jpg
賊(あたな)う、如(も)し、治(しら)しめん 凄いな、こんな読みないぞ・・・
どこから、引用したのですか??? ヤケクソだな。
>「 汝若(も)し賊(あたな)う心有らざれば汝が生める子は必ず男ならん。如(も)し男を生まば、予(われ)以ちて子と爲して天原(あまのはら)を治(しら)しめん」
www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/shoki/frame/01/06_03/fr.htm
赤き心…【日本書紀 卷第一 第六段 一書第三 原文】
其の素戔嗚尊の生める兒は皆已に男なり。 故、日の?、方(まさ)に素戔嗚尊の元より赤き心有るを知りて、便(すなわ)ち其の六はしらの男を取りて、以ちて日の?の子と爲し、天原(あまのはら)を治(しら)しむ。 即ち日の?の生める三はしらの女?を以ちては葦原中國(あしはらのなかつくに)の宇佐嶋(うさのしま)に降(あまくだ)り居(ま)さしむ。 今には海の北道の中に在り、號(なづ)けて道主貴(ちぬしのむち)と曰う。 此は筑紫の水沼君(みぬまのきみ)等の祭(いつきまつ)る?、是也。
賊(あたな)う、如(も)し、治(しら)しめん…
賊…
戎 ジュウ・えびす…ユダヤ?
意味 (1)つわもの。兵士。軍隊。 (2)いくさ。戦争。「戎器ジュウキ」(戦争に使用する刀剣・銃砲など) (3)えびす(戎)。古代中国の西方異民族。「戎夷ジュウイ」(野蛮な国の人。戎は中国西方の、夷は東方の異民族)
あたな?…世の中の秩序を武力でそこなう悪者の意。そこなう・秩序に刃向かう悪者・どろぼう、の意となる。
賊 ゾク 貝部 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F51ad4b26b2b98069f14a0eec204e92aa
解字 金文は左から、「逆向きの刀+鼎(かなえ)+戈(ほこ)」の形。「刀+鼎(かなえ)」は鼎に刀で刻した銘文のことで則ソク(のり・規範)を表す。篆文は鼎⇒貝になった、「則(貝+刀)+戈(ほこ)」の会意形声。世の中の規範(則)を戈(ほこ)で打ち破ること。世の中の秩序を武力でそこなう悪者の意。そこなう・秩序に刃向かう悪者・どろぼう、の意となる。現代字は、篆文の刀⇒十に変化した賊になった。篆文から形が大きく変わったので戎と結びつけて覚えると便利。ただし、発音は則ソクが濁音になったゾクである。
覚え方 「貝(財貨)+戎(武装した兵士)」で、武装した兵士が財貨を奪って盗賊になる。
意味 (1)そこなう。傷つける。「賊害ゾクガイ」(そこなう)(2)ぞく(賊)。国家や君主にそむく。「国賊コクゾク」「賊臣ゾクシン」(3)ぬすむ。どろぼう。「山賊サンゾク」「盗賊トウゾク」
如(も)し…神意を「はかる」?
如(も)
如は、女(みこ)が神へ願いをかけ、また、その結果として神のお告げを受ける状態をいう。そこから神意を「はかる」、神意に「したがう」意となる。また、甲骨文は女の手の向きが通常と逆で、女が身をよじって口(器)に向く形で、祈祷や神託をうける時に、神がかりとなる動作を伴ったものと思われる。そんな巫女の状態をあらわす「ごとし」の意となる[字統を参考]。
如 ジョ <神のお告げをうける>
如 ジョ・ニョ・ごとし 女部 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2Fe216a624463d8319de4417bd6a1de18d
ごとし…不確実な断定を表す。…のようだ。…らしい。→ごとき
如し(ごとし)とは。意味や解説、類語。[助動][ |ごとく|ごとし|ごとき| | ]活用語の連体形、体言、助詞「の」「が」に付く。1 比喩 (ひゆ) 的に、同等・類似の意を表す。…と同じだ。…のとおりだ。…のようだ。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdictionary.goo.ne.jp%2Fword%2F
治(しら)しめなさい /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fphoton1122%2Fe%2F5fbb52723ea6be3716b227cdc2806aeb
治(しら)せ。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.solyruna.com%2F
下治(しら)しめしし /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww004.upp.so-net.ne.jp%2Fdassai1%2Fgangoji%2Fgangoji_yomi1.htm
しらしめ…その音から「司(シ)」に通じ、おさめるの意 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp%2Fqa%2Fquestion_detail%2Fq13132906988
祈りの言葉を「神へつげる」(詞) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F289ab71a0eec58e2b520d495662b39cf
「治」は、〔さんずい+台〕ですから、まず、水に関係のある字であることがわかります。そして、音符である台(イ)は、その音から「司(シ)」に通じ、おさめるの意味を表しているのだそうです。
治 チ・ジ・おさめる・おさまる・なおる・なおす 氵部 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F40334e1d50763cb0661e877626a8b32b
解字 「氵(水)+台(ジ・シ)」 の形声。台の古音シは司シ(つかさどる)に通じ、水をおさめる意。台に始シの音がある。さらに転じて、世の中をおさめる、病気をおさめる意ともなる。
意味 (1)おさめる(治める)。おさまる(治まる)。整える。取り締まる。「治水チスイ」「治安チアン」「政治セイジ」 (2)なおす(治す)。なおる(治る)。「治療チリョウ」「治癒チユ」「全治ゼンチ」
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