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日本語の起源
初めて投稿いたします。fourfoursと申します。
日本語の起源に興味がある理系の大学院生です。
いろいろ知らないことがあり、この掲示板にて、勉強させていただいております。
この掲示板では、日本語とシナ・チベット語族が近縁であると仰っている方々がいらっしゃるようですね。
ただ、金平譲司氏の見解によれば、日本語はウラル語族とも関係があるそうで、そちらがベースかもしれないようです。言語は「意味の変化パターン」を捉えると系統関係が見えてくるようですね。
このサイト、はじめは「本当なの?」といった疑問が生じていましたが、納得する部分も増えてきました。
具体的には、以下のようです↓
http://www.jojikanehira.com/archives/number1.html
言語の成立について
早速、連投失礼いたします。
言語の成立について追記いたします。
かつて、言語は、現代よりはるかに多く存在していたと考えられます。それのごく一部が現在まで生き残っているのでしょう。
そのため、生き残った言語は、消えていった言語の話者と語彙を大量に取り込んで生き残っていることを忘れてはいけないと考えています。
テュルク諸語・モンゴル諸語・ツングース諸語・ウラル語族などが共通の語彙を持っていると議論されるのも、かつて北ユーラシアに広がっていた言語の語彙(インディアン諸語・ケット語などのエニセイ語族、その他諸々)を大量に取り込んでいるからなのでしょうね。
デイヴィッド・ライクの「交雑する人類」にも記載されている通り、かつて北ユーラシアに住んでいた「ゴースト集団」が存在するので、その人らの言語の語彙も、現代の言語に取り込んでいるのかもしれません。
他言語から取り入れられてきた語彙を明らかにすることが大切そうですね。
RE 日本語の起源
fourfoursさん、はじめまして!わかちあいありがとうございます。
私自身は、言語についてはずぶの素人なのですが、最近までこちらに(^_-)を出しておられた方が、よく日本語とシナ・チベット語族との比較をなされていましたね。
またご紹介ありましたホームページで指摘されているウラル語族とY-N系統の流れ、そこにかかわる遼河文明と日本語への影響は大変興味深く感じます。
Y-N系統の割合は日本語では2〜7%と少ないようですが、その言語的な影響が大きかったとすると、かつては現在以上に勢力があったことも考えうることですし、逆に現在ではゴースト集団に近くなってしまっているのかもしれませんね。
また言語面での詳しいことは、みなさんからのご意見をお待ちしたいと思いますが、今後ともよろしくお願いします。
中国文明・縄文方位ライン
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ 新楽遺跡
fourfoursさん、[10757] 日本語の起源
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https://www.youtube.com/watch?v=sZQp5gfQvLs
[10759],[10761]へのご返信
管理人様、秦野北斗様
ご連絡ありがとうございます。
秦、渡来の記録に関しては今後の勉強にさせていただきます。
こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします。
日本語と古代中国・朝鮮語
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http://www.jojikanehira.com/archives/number14
[10763]の返信
早速、「日本語の意外な歴史」を読み進めてくださり、誠にありがとうございます。このブログの記事で、実りある内容を知っていただければと思います。
朝鮮半島でなにかあったのか(4)
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.jojikanehira.com%2Farchives%2Faugust2018-5
でも挙げられていますが、この記事でも「消滅した言語についての考察」をしていることで、日本語の複雑な語彙の構成を明らかにしようとしており、ユニークです。
同記事で「?」にされている部分も、以降の記事で明らかにされてきていますよ。
下記リンクの「97〜122」の記事で、消滅した言語についての説得力の高い説明をされていますので、気が向いたら是非お読みになってください。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.jojikanehira.com%2Farchives%2Flist
私はHLAハプロに関しては詳しく把握していないため、HLAハプロの各民族が見せる傾向など、どのような事実が分かるのか、勉強させてください。
HLAハプロタイプとゴースト集団
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https://en.wikipedia.org/wiki/HLA-B46
渤海・契丹と日本
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ 渤海_(国)
契丹古伝と和訓
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http://sazanami.sitemix.jp/koden001.html
[10767] 契丹古伝と和訓
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契丹古伝を意訳してみます、欠落字があるな・・・ 意訳は別ものだな、
辰?繾翅報 斡南易羅祺 駿蔘冉謨律辨扈陪
意訳:辰(東南東)・・報せる、巡る南に代わる、並べ安らか勝れる、朝鮮、危うい図る則、わきまえる、広い従う、
蘊杜乍喃吟 綿杜乍喃密 伊寧枚?汶枚氣冉
意訳:穏やか杜(もり)、忽ち、喋る歌う、列なる杜(もり)、忽ち、喋る親しい、伊(い)平?る、汚れ、平氣危うい、
原文
辰?繾翅報 斡南易羅祺 駿蔘冉謨律辨扈陪
蘊杜乍喃吟 綿杜乍喃密 伊寧枚?汶枚氣冉
滿婆載娜摩矩泥克 羊袁暘弭沚緬
辰?繾翅報 斡南遏浪祺
億扈瑪尹冉濟 紆凱湄烏架樂遊
絶斿麗奄斿例 斡浸播圭婁可洛
資斿麗絆斿例 耶那奈資婁可洛
固牟畢滿呂魏克 遏浪謨納岐
辰?繾翅報 案斜踧岐 賁申釐倪叔斿厲
珂洛秦弁支廉 勃剌差笏那蒙緬
契丹古伝と濊貊
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https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010769_3M.png
http://sazanami.sitemix.jp/koden001.html
[10769] 契丹古伝と濊貊
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翻訳が出鱈目ですな、何を言ってるのか、訳と一致しない・・・
[10769] >また、その2つ前の38条では、匈奴の冒頓単于の時代に、殷と関わる淮伯?族、つまりワイ族が安泰となった後、情勢変化で再び行き場を失って、そこで「至是辰招以率發符婁之谿臼斯旦烏厭旦之壤。高令乃之臻。」、つまり彼らを朝鮮に招いて土地を提供したというように見て取れますね。
どうも、朝鮮に開港を求めている模様・・・
至是辰招以率發符婁之谿臼斯旦烏厭旦之壤。高令乃之臻
意訳:
到る此れ辰(東南東)、招く以って率いる。開く割符を繋ぐ、谷臼、此処に明らか、烏(えぼし)は嫌う、
此れ湊。高まる則、即ち此れ多い、
此処に卑弥呼が埋めた大量の銅鐸23個が眠っている !!
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https://8023.teacup.com/shimoeda/bbs
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-1.html
神功皇后の陵(みささぎ)
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世徳私纂に遂建寺、神功皇后の陵(みささぎ)の大きさが記録される。
宮内庁、神社本庁は知らないのですな
神功皇后の陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市山陵町にある狹城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのえのみささぎ、位置)と云われるが、世徳私纂(岸和田)に寛永17年(1640)に岸和田藩により補修
される。神功皇后の古墳、また、宗教施設、遂建寺と遂建寺領地は堺にある。
神功皇后の陵(みささぎ)は、方形墳になる(世徳私纂に大きさが記録されている)墳の長さは1km
になる。
宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「五社神古墳」で、墳丘長275メートルの前方後円墳である。
「五社神古墳」など小さい、
世徳私纂(セトク シサン)三宅 源
世徳私纂は岸和田の資料であるが、岸和田では内容を読取れない、解読できる人材がない。
内容は織田信秀から岸和田(当時、堺は岸和田に属する)の歴史になる、正親町天皇の神野、栄の離宮を千の利休に譲り、開国(ポルトガル)、戦国時代に入り、織田信長の死で江戸時代、図の湾は現在、堺と読むが、本来は栄である。この栄を霊元天皇が埋め鎖国にはいる。栄の神、神功皇后は戦乱中は転封、遷封される、亀山、福知山、大垣、龍野、高槻、岸和田(現在の堺)最終は岸城に落ち着く。神功皇后の陵(城)は岸和田(現在の堺)にある。以上が大まかだが・・・三宅 源 は、元は宮家と読める。
契丹古伝の分析
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http://sazanami.sitemix.jp/koden001.html
[10774] 契丹古伝の分析
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ 契丹
本能寺の変 愛宕百韻
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[10772] 神功皇后の陵(みささぎ)の 世徳私纂 で行動が読取れる、
愛宕百韻によると、本能寺の変は数年前から計画され、天正10年(1582年)5月24日明智光秀が山城国愛宕山で計画を遺すため「明智光秀張行百韻」「天正十年愛宕百韻」とした。百韻は正親町天皇の命令からはじまる。「ときは今 あめが下知る 五月かな」
明智光秀が徳川家康に堺見物を勧める、実の処は、堺は栄のことで神功皇后、遂建寺見物である。図
栄には千の利休、神野の茶屋(離宮)で茶をいっぷくした模様、尚、徳川家康の伊賀越えは利休の案
織田信長は配下(公家に接待され、本能寺にはいない)の者はいない、本能寺で側近と・・・
新月の明け方近くに明智光秀が討ち入る・・・
明智光秀は豊臣秀吉を馬鹿にしていたのが命取りになる・・・
愛宕百韻によると、本能寺の変は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の暗殺計画では・・・。
織田信長は直接殺害する。一人の処を、恨みたらたら殺害
徳川家康は罠に掛ける。逃げ惑わせ、追い詰め殺害
豊臣秀吉は銃殺を計画する。火縄銃で蜂の巣にして、殺害
全て失敗、ただし、織田信長は自殺する。
暗殺計画者は正親町天皇、実行者(殺し屋)は明智光秀
go サインは「ときは今 あめが下知る 五月かな」
本能寺の変、計画失敗 豊臣秀吉が関白につく、関白の意味:「関(あず)かり白(もう)す」
正親町天皇は権威剥奪、豊臣秀吉、徳川家康が監視する。謹慎ですな。
明智光秀は計画失敗で死亡
先輩方の創造には恐れ入ります。愛宕百韻は全訳しています。秦野北斗
栄を霊元天皇が埋め鎖国
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https://kotobank.jp/word/ 新田開発-82285
本能寺の変は世界史的な大事件
昔から、以下の3人が主犯であるという説があって、私もその説が最も合理的だと考える。さらに足利義昭が光秀に援護射撃をし、正親町天皇は黙認していた、というのが真相だろう。
近衛前久
勧修寺晴豊
吉田兼見
そういう説の一つの例として、以下のものがある。
「立花京子氏の朝廷黒幕説」
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Feikorekken.client.jp%2Fcollaborate%2Fhon-nohji%2Ftheory%2F3.htm
国体を守るのは、皇族や公家の本質的な使命である。それは彼らの存在の前提に関わることで、相手がどんなに恐ろしい独裁者であっても、やる時はやる。
民族としての日本人の立場からも、明智光秀は国体を守った英雄であると言える。
信長ならば、倭寇と同じルートで中国南部沿岸から大型船で明に侵入したはず。(宣教師もそのような話を聞いていたらしい。)
そこからジワジワと勢力を拡大したら、明の征服が成功したかもしれない。そうしたら、今頃日本人は中国人との混血になって、違う生き物・文明になっていたとも考えられる。
また、東南アジア・アメリカ大陸を巡って、欧州諸国との長期間の抗争に巻き込まれたり、カトリックの介入を招いたりして、基本的に良いことはなかっただろう。
光秀の日本史における巨大な功績は、もっと評価されるべき。
カトリック
信長は功績も大きいが、危険性も大きい。彼はカトリックの布教活動に寛大だったが、あのままカトリック勢力が拡大していたら、日本の歴史におけるその弊害は、かなり酷いものになっただろう。
信長は、日本統一の道筋を準備し、本願寺を抑え込んだあの時点で死ぬのが正しかったとしか、いいようがない。
[10779] カトリック
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https://www.youtube.com/watch?v=VWZ__gzSRuk
本能寺の変
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https://www.amazon.co.jp/ 「本能寺の変」本当の謎-円堂-晃/dp/4890631852
触らぬ神(暴論)に祟りなし^^?
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https://8023.teacup.com/shimoeda/bbs
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entry-31.html
カトリック
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千の利休はカトリックなんです。
管理人さんもお茶、いっぷくどうですか・・?
立花京子氏
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http://eikorekken.client.jp/collaborate/hon-nohji/theory/3.htm
魏誌倭人伝 投馬国
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http://www7b.biglobe.ne.jp/~smkodai/28touma.html
巨大な心中でもあったのでは。
古代史と関係がない話だが、光秀と信長の関係は心理的な依存関係が強かったと思う。京都の伝統的勢力との調整役だった光秀と伝統を破壊する信長は、対称的なまでに性格が違うので、かえって信長にとって貴重な人材だった。
信長のような赤ん坊がそのまま大きくなったタイプの人は、母親・父親のような存在に依存することになるが、光秀がそのような存在になったのだろう。信長と光秀がたびたび口論していたことは、宣教師の記録などにも書かれている。
信長に逆らったら、殺されてもおかしくない。むしろ、殺されるくらいことが起きるのが普通なのに、光秀は口論をしている。信長にとって光秀は特別な存在だった。
本願寺勢力が光秀の立て籠もる天王寺砦を大軍で包囲した時に、信長は少ない兵力で突撃して光秀たちを救い出したことがあった。この時、信長は足を銃で撃たれて負傷している。信長自ら体を張って突撃したと思われる。
末期の信長は、狂的な行為が過激化し、国体を破壊しようとしていた。本能寺の変は、朝廷・伝統勢力と信長の板挟みにあった光秀が、保護者が責任を取るようにして信長を処分した、という面もあったと思う。
つまり、大きな親子心中みたいな要素もあって、そのことが、信長が明智の来襲と聞いて「是非もなし」と言った背景だったのだと思う。
モンタヌス日本誌
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https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879653
本能寺の変2
こんばんは。みなさん、ご興味あるようなので、ちょっと脱線して、このまま本能寺の変について推理していきましょう・・。
壬申の乱などもそうですが、一般的に古代史家は理詰めで推理したいものですね。あまり偶然とか、深層心理といったものは根拠にしないものです。
ただ、元首さんのおっしゃるように、深層心理面での動きというのはもっとこれから歴史学でも取り込んでいってもよいように感じるんですね。先に紹介した円堂氏もユングの話を持ち出してますし、参考になります。
昨晩お話した忌部氏、源氏といった家系的なものにかかわる心理も影響を与えているように感じますし・・・。
深層心理というのは、当人が意識しないままに、勝手に必然的な行動を起こすことを前提とするものでしょう。
逆にいえば、特定人物の明らかに不合理な行動や言動を列挙していくなかで、その深層心理を読み解くことができるかもしれません。
円堂氏が最後にふれている安土城の天守閣の構造なども、読んでいくと、信長の心理を映し出しているようにみえますし、別の視点で切り込むと、これは石窟寺院にもみえる八角形と四角形天井の組み合わせ、つまり生死と復活を意味する図形なわけです。
だから、あの天守閣は、円堂氏が述べるように、軍事的なものではなく、信長の天皇より上にたつ神に近い存在としての心理を象徴する塔のようなものだったでしょう。
強いていえば、天上へと復活する儀式の場に近いものだったのかもしれません。天皇より上のものになれるとの観念を誰が植ええつけたか?ここがまずひとつの重要なポイントでしょう。
円堂氏の推理としては、本能寺の変の当日、信長が明智兵を意図的に呼び返して、そのまま天皇のところに向かい、軍事的に脅しかけて、信長を将軍職につかせるよう計画していたとのことで、しかし光秀はそれを行うと逆賊扱いとなるので、その意には従えず、それを聞いてすぐに、各地の大名に謀反を起こす旨を手紙で送っていたとのことのようですね。
もともと光秀が、織田家とは縁が薄く、かつての主人の足利将軍家を再興したいと考えていたことも確かでしょうし、偶然にもよい機会が巡ってきたので、すぐに実行に移したとのことなのでしょう。
その偶然という要素を、なんとか理詰めで解釈したいと歴史家は考えるわけですが、偶然は偶然、それこそ必然として受け止めることもありかなと感じます。
大災害が現実化する際にいわれることは、それ以前に無数の小さな災害・予兆があり、その氷山の一角が、あるときにタイミングが一致して、それが大きく膨れ上がって現実化する、どんな場合でも後から見直すと予兆が多くあるものです。
原発災害にしても、大地震にしてもそうですね。
本能寺の変にしても、おそらくは、それ以前に謀反に近い行動がいくらか信長の周りにあったのかもしれません。ただタイミング悪く、つかまったり、表面化しなかったのかもしれませんが、光秀のときは、すべてがうまくいくタイミングだったのでしょう。それで見事に成功した。
しかし、その後の計画は、逆にタイミングがくるっていて、彼の描いたストーリー通りにはいかず、ああいう結果になったわけです。
大局的な流れとしては、光秀がやらなくても、いずれ信長は殺されていたのかもしれません。
信長自身も近い将来、自身が殺されることを予想していたかもしれませんね・・・。
その偶発的ともいえる、絶好のタイミングを造り出すものは何か?が次の課題といえそうですが、これも確率論で考えるのには、あまり賛同できないように感じます。
やはり、そのタイミングを造り出すかのように、人間集団がその目的とでもいうべきものに向かって、無意識的、人によっては意識的に動いていく、その結果として、そのタイミングがやってくるわけです。
本能寺の変についていえば、やはり秀吉が遠くに行ったというのが大きな要素だったのでしょう。戻ってくるのには、かなり時間のかかるところにいたわけです。しかも交戦中ですぐには動けない。
信長のボディガードが欠けたような状態がまず造り出されることが必須条件にあったはずです。
ただ、暗殺という視点からいけば、何も茶に毒を飲ませることで済むわけで、それをしようと思えばできるのも多くいたでしょう。
それをあえてする人が出てこなかったのは、まだ信長を使う必要があると周囲が認めていたからかもしれませんね。
天下を統一するには、信長と秀吉が必要だと誰もが認めていた・・・・。
しかし、状況が変化して、信長が必要ないと判断する時期に差し掛かっていったので、明智がそれを実行したのではないでしょうか。
どうして必要なくなったのかですが、ひとつには、秀吉が信長に取って代わるだけの力量をもちはじめていたから、またさらにいえば家康も同様に力をつけていたからかもしれません。
かれらの上に乗っかっている重しのような信長を取り払う必要があったんでしょう。信長がいるかぎり、かれらは自由に動けないわけです。
カリスマ性のあるリーダーがいなくなった後には、やはり混乱があるものですが、それなりの後継者が現れて、その権威を引き継いでいく、その後継者たちが育つところまでは、そのリーダーの役割なわけですね。
その交代時期が、信長の場合は、他の大名よりも比較して早く来てしまったというか、彼の言う人生五十年で、彼の意図通りに起こった交替だったわけです。
ただ、息子に引き継がせようと考えていたところが計算外で、実際は臣下がそれを引き継いだ。織田の血縁者を残す方向で、謀反が動いていたら、また展開がかわっていたかもしれませんが、外様の光秀が謀反を起こしたことと、秀吉がそれを討伐する手柄を手にしたことにより、生き残った織田の血縁者は権力を引き継げなくなったわけです。
そういう意味でも、光秀が織田信忠を殺し、織田家家臣団にダメージを与え、秀吉がさらに光秀を殺して手柄を挙げて、織田家や家臣団を黙らせる、このストーリーが、ある時期から見え隠れしはじめていたのでしょう。
そのストーリーどおりに、合目的的な力にしたがって、各人が演技とでもいうべき動きを無意識・意識的におこなっていった結果として、ああなった。
結局、朝廷も足利も権威を回復することなく、秀吉、家康へと権力が引き継がれていったのですが、それは前者がいくらあれこれ画策しても、大局的な流れからいって覆せるものではなかったんでしょうね。
ただ、光秀を動かすには、もうひとつふたつ条件が整う必要があり、やはり秀吉の高松城攻めがキーだったのではないでしょうか。
秀吉的には勝算があり、それは時間の問題でもあったのですが、なぜか援軍を求めるように使いを出す。
そこに、光秀が動くことまで彼が読んでいたかどうかが気になるところですが、残っていた武士が、信忠や光秀だけだったとすれば、やはりどちらかが来ることは理解していたのかもしれません。
そのまま毛利と足利を潰すならば、やはり光秀を送ると読んだかもしれませんね。
ただ光秀的には足利義昭の討伐には向かいたくなかった、しかし信長は近江の領地をとりあげてでも、光秀に向かうように急き立てたので、仕方なく秀吉の援軍として向かわざるを得ない状況に追い込まれた。
そこで、足利と織田のどちらを主人に選ぶかの選択をしなおした結果として、信長を殺すことにした。
そこでユダにサタンが入ったごとくして、見事なまでの策略で信長を葬ったのでしょう。
信長は光秀がひきかえしてくることを理解していたかどうか?ここが面白いところですが、円堂氏は信長が意図的に光秀の大軍を呼び寄せたことを立証している点で興味深い。
信長はなぜ光秀を呼ぶことを考えだしたのか?ここが、おそらくは無意識のなす実に興味深い行動形態なのかもしれません。自分で死を引き寄せる。自ら進んで武装を解き、丸裸にされるような状況へと追い込んでいくわけです。
実に奇異なことが続けざまに起こっていったはずですが、大局的にみれば、それも偶然のようで必然だったのかもしれませんね。
あと、家康の動き、彼はすぐそばにいたのに、起きる直前に逃げるかのようにして、自国へと戻ってしまった。
動物的なまでに危険察知能力が高かったのか、するりと災難をかわすことに長けてますね。生き残る人というのは、そういうものなのかもしれません。
大物とされる戦国大名で、戦死したのは、その戦数に比して実に少ないですね。信玄、謙信、秀吉、家康、毛利、伊達・・・。ほとんどは戦死してないのは、単に家臣団が守ったからというわけではなく、そういう歴史的必要性とでもいうべきものが終わるまでの間、死ぬに死ねないようになっていたのかもしれません。あえて死ぬ場合は、真田とか石田のような死に方でしょう。ぎりぎりまで生き延びて、死を自分で決める。
大物の中で、ただ信長だけが、早い死を選んでいる、そこが彼の面白いところなのかもしれませんね・・・。
日本で独裁は可能だったか。
明智は源氏で、織田は源氏ではない。(自称平家)これは、意識的・無意識的に影響していたと思う。当時の武士・公家たちにとっては、そういうことは常識だったと思う。源氏問題が徳川に強く関わっていることは、表面的な歴史でも明らかである。
秦の始皇帝と信長は明らかに類似型、同型の独裁者なのだが、その人生の結末には大きな違いがある。この違いを考えることは、日本で中国やロシアで行われたような独裁が困難である理由を考えることにもなる。
やはり、日本の独裁者は、根強い伝統文化(国体)の壁とぶつかり、それを破壊しようとすると、潰されてしまうということがある。朝廷から国師号を与えられた快川紹喜を焼殺したことは、伝統勢力に対する信長の挑戦状だったはずで、公家たちもあの時点で信長との対決を覚悟したことだろう。
信長の残虐性は赤ん坊性の一面であって、赤ん坊状態では、ある種の精神分裂が起きやすい状態だったろう。本能寺の変に至るまでの経過に、自滅的・自殺的要素が感じられる。始皇帝のような殺伐とした心理状態の中でも、光秀との関係においては、人間関係らしきものや愛情らしきものが見られる。
光秀が長期間かけて構築した長宗我部人脈を突如廃棄して、長宗我部征伐路線に切り替えた理由は、信長王国の中で作られていた光秀人脈に対する攻撃だったとも疑われる。信長は、自分が考える将来の織田政権にとって邪魔になりそうなものは破壊したかったろう。
しかし、赤ん坊ゆえに心理的に光秀から自立できず、伝統勢力と結託した光秀の心中攻撃には勝てなかった。客観的に自殺にも見える要素があるが、精神分裂がもたらした自殺という要素もあったような感じがする。
伝統と人間性の力が強い日本的な風土では、独裁者はそれに反発する必要もあって戯画的なまでの独裁者になっていったが、結局は伝統と人間性に負けて失敗してしまう。
ほとんど自殺に近い形で、唯一人間関係らしきものがある部下に、ほとんど心中に近い形で殺害される。本能寺の変には独特の哀しさが漂うが、昔からこの辺の事情が日本人に感じられているからだと思う。
モンタヌス日本誌が理解できないようですな、
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国家元首さん 洗脳が・・・
>秦の始皇帝と信長は明らかに類似型、同型の独裁者なのだが、????
モンタヌス日本誌が理解できないようですな、
戦国城跡方位ライン
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ 明智光秀#南光坊天海説
新田・太田・徳川氏と関東城跡ライン
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ 世良田氏
名探偵明智小五郎
明智光秀は源氏の武士という印象の強い人だと思います。本当に土岐源氏の流れの人でもおかしくないと思います。
家康は源氏を名乗りますが、寺の前で行き倒れ(のふりをし)て寺に入り込んで、寺を乗っ取ってゲリラ集団を結成した男の2・3代目だというような説をテレビで見た記憶があります。
そのテレビ番組では、インチキくさい小さな金属製のオブジェが出てきましたが、それが家康と源氏の間を繋ぐ証拠だとされているとか。
関東武士の血が少しでも流れているなら、少しは源氏の末裔である可能性が高いし、源氏的な存在形態を受け継いでいるのであれば、源氏と名乗ってもあまり問題がないでしょう。
ウィキペディア「源氏長者」より
「・・・武家源氏で源氏長者となったのは、清和源氏の足利義満が最初であり、足利将軍家と徳川家康に始まる徳川将軍家(清和源氏の新田氏の流れを汲むと自称)は武家のまま源氏長者になっている。・・・」
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
[10793] 名探偵明智小五郎
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010794M.jpg
https://news.livedoor.com/article/detail/6977367/
テュルク系言語の位置づけについて
戦国武将から日本の文化を知ろうとする視点がなかったため、今後は戦国武将など、日本史を勉強しようと思います。
今回も金平譲司氏のブログの引用です。
戦国武将の議題からかなりそれますが、テュルク系言語は、消えてしまった大語族(もしかしたらシナ・チベット語族も?)と関係があるそうですね。
朝鮮語・アイヌ語の起源もいずれ公開されるそうです。
同じ人の記事の貼り付けばかりで申し訳ございません。正説のように感じられ、共有したい気持ちが強くなりました。
http://www.jojikanehira.com/archives/17088428.html
土師氏と関西城跡ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010796M.png
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/toki_k.html
日本語の変遷
fourfoursさん、さっそくまたお知らせありがとうございます!金平さんのブログ、拝読させていただきました。
テュルク系言語の件は興味深く感じます。ウラル、ツングース、モンゴル語とも大きく相違するのですね。そして比較的新しい時代に拡散した可能性があるとのことも、スキタイ系集団の東遷とか関わってこないかとも感じます・・・。
そして、日本語とも共通性が多いことも、以前、こちらでも指摘されていた方が数人おられたかと感じます。
あと、以前から感じているのですが、記紀や万葉集にみられるような日本語の語彙と、平安時代のそれ、また関東武士の影響が出てくる時代のそれとで、少しづつ変化しているように感じるんです。
それで縄文人由来の日本語の場合は、アイヌ語や九州・琉球方言とも関係してくるでしょうから、そこからその古さの度合いがはかれるとおもいますし、金平さんのブログでもアイヌ語関連も発表されるとのことでとても興味深いのですが、一方で、まったく、記紀万葉はもとより、アイヌ語などにもみられない語彙群ですね、これをどう考えるかも課題になってくるでしょう。
具体的には先日もお話した紀元後1100年ごろから日本人に現れ始めるHLAB44にみられるような北朝鮮、渤海、契丹といった集団との関わりが見えないかと感じます。
なお契丹語については、下記のようにモンゴル諸語との見方があるようです。
契丹語
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%25A5%2591%25E4%25B8%25B9%25E8%25AA%259E
それで、最近思うのは、日本語というのは文法的にはおおむね一つの言語のように感じるのですが、語彙的にみると、2つ、3つの言語を使い分けているような気がするんです。
先の金平さんのブログでも紹介されていた水関連の語彙や動詞についても、そうですし・・・。
たとえば「食」だと、たぶ、はむ、くふ・・など2〜3の言語を使い分けているように見えます。それに加えて漢語のショクも加わりますから、日本語が難しいわけです(汗)
だから、あらかじめ、3つなら3つの言語が先に前提とあるとの設定で、それに今ある日本語の語彙を、カテゴライズして振り分けしていくと、その3つにならずに2つしかない語彙とかがあれば、すでに消えた語彙なり言語なりが浮かび上がってきたするのではないでしょうか。
この辺の統計技法とでもいうべきシステム化ができてくると、古代史面でも応用がききますし、そこから文献史料の成立年代なども逆算できるかもしれない点で重要です。
スパコンの時代ですから、これからの新進気鋭の研究さんさんたちに、ぜひ期待したいところですね!
[10797]への返信
http://www.jojikanehira.com/archives/october2018-2
http://www.jojikanehira.com/archives/14818949.html
記紀万葉に出現することばについて
記紀万葉で出てくる言葉も、消滅した言語群の一部で、他の言語群と結びつくのかもしれませんね。
契丹語について
契丹語は謎に包まれていますが、この言葉はモンゴル系言語をベースとし、様々な言語が混じっているのでしょうね。
解読できれば、モンゴル系言語・ツングース系言語などの、北ユーラシアに広がっていた言語群の接点が見えてきそうですね。
言語と認識方法
fourfourさん、お返事ありがとうございます!
ご紹介ありました「足」や「水」にみられるような多彩な語彙変化についても、視野にいれながら進めていく必要がありそうですね。
またご紹介あった金平さんのブログを読んでいて感じたのは、人間や人種の認識論にまで踏み込む必要がありそうだとのことでしょう。
ちょうど先ほどは知人に関する別件で、特定の単語を被験者に発音させたり、連想させるときに、言語脳の特定部位に血流が流れて反応するものの、個人差があるようで、それが精神病疾患の判定などにも応用されているとのことを知ったところでした。
ご興味ある方は下記サイトなどご参照ください。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fstyle.nikkei.com%2Farticle%2FDGXDZO54372730V20C13A4EL1P01%2F
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.research.johas.go.jp%2Fbooklet%2Fpdf%2F10-2.pdf
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkogusoku.com%2Farchives%2F10407
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.kanazawa-med.ac.jp%2Fgraduate%2Foutline%2Fgakui%2Fdoc%2Ffullk450.pdf
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.carenet.com%2Fnews%2Fgeneral%2Fcarenet%2F38831
そして驚いたのは一卵性双生児では、その部位の反応が高い比率で同じなのにたいして、二卵性では低いと相違するようなケースがあることです。
ある意味、遺伝的な脳構造に由来するのでしょうけど、その遺伝をつきつめると、人種にまでいくつくかもしれず、そうすると、特定の人種は、特定の言語に対して、特定の認識方法をするというところまで明らかになってきそうです。
関連して、最近アイヌ語の本を最近読んでいて、その語彙認識の仕方が、日本人のそれとは少し異なるように感じたことを思い出します。
下記のアイヌ語の語彙一覧をみると、その件を理解できると思います。
アイヌ語語彙一覧
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E3%2582%25A2%25E3%2582%25A4%25E3%2583%258C%25E8%25AA%259E%25E3%2581%25AE%25E8%25AA%259E%25E5%25BD%2599%25E4%25B8%2580%25E8%25A6%25A7
たとえば、カイ(kai)が、強い(怖い≒強い の意味を含む)※アイヌ人が自らをさす時の名称との説もある。
とありますね。つまり日本語のコワイなのですが、強い(つよい)の意味とも重なっていて、かつての原日本語の忘れられた意味付け方法だったのかもしれません。
オンカミonkami拝む、拝礼するなども、日本語のオガムとなりそうですが、元はオン+カムイ(カミ)の二つの単語の合成語だった可能性もありそうです。
オンは尊敬語の御でしょうか・・・。
また カムイノミ(kamuynomi) 神に祈る も、神(カミ)と祈る(イノル)の合成語のようにみえますね。この場合は、アイヌ語のほうが合成語として伝わっていったようにもみえます。
先ほどのオンカミ(onkami)の拝礼の意味と、この語は日本人的には同じような気がするのですが、アイヌ人における神に祈りることと、目上の人に礼をすることとの意味付けの相違が、これらの異なる語彙を生み出していったようにもみえますし、そこにはアイヌ独特の観念なり習俗が影響していたのかもしれません。
ただ、概して、上記のようにアイヌ語と日本語との間には、やはり相関性があるように見えますし、まったく関係が見出せないとしていたらしい?かつての言語学が、どうしてそう理解したのがかいまいち理解できないんですよね。
文法的な面では大きくことなるので、そのことを言っているのか、語彙的なことも含めてそうしたのかも気になります。
語彙と文法の相違とともに、その認識方法がどうであるかについても、判定基準を造っていくべきかもしれませんし、それがないと、スパコンでカテゴライズする上で支障が出てくるでしょう(笑)
あと、こちらは上代日本語の語彙一覧(一部のようですが)です、よろしくご参照ください。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E4%25B8%258A%25E4%25BB%25A3%25E6%2597%25A5%25E6%259C%25AC%25E8%25AA%259E
鴨方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010802M.png
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010802_2M.png
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 土岐頼貞
鴨方位ラインと修験道
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010803M.png
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010803_2M.png
https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=30386&item_no=1&attribute_id=19&file_no=1
カモ
上賀茂神社HP
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.kamigamojinja.jp%2F
「・・・賀茂別雷神社は、通称「上賀茂神社」「上社」の名で親しまれる神社です。御祭神は賀茂別雷大神。」
下鴨神社HP
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.shimogamo-jinja.or.jp%2F
「・・・鴨川の下流にまつられているお社というところから「下鴨(しもがも)さん」とか「下鴨神社(しもがもじんじゃ)」と親しくよばれています。・・・
ご祭神
賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと) 西殿
玉依媛命(たまよりひめのみこと) ??東殿
・・・」
ウィキペディア「賀茂建角身命」
「・・・『新撰姓氏録』によれば、賀茂建角身命は神魂命(かみむすびのみこと)の孫である。神武東征の際、高木神・天照大神の命を受けて日向の曾の峰に天降り、大和の葛木山に至り、八咫烏に化身して神武天皇を先導し、金鵄として勝利に貢献した。・・・
賀茂建角身命には建玉依比古命(たけたまよりひこのみこと)と建玉依比売命(建玉依姫命、たけたまよりひめのみこと)の2柱の御子神がいる。建玉依比古命は後に賀茂県主となる。建玉依比売命は、丹塗矢に化身した火雷神(ほのいかづちのかみ)を床の近くに置いていたところ、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと、上賀茂神社の祭神)を懐妊し出産したとされる。 ・・・」
中国文明、縄文、朝鮮考古
ちょっと調べものをしていて興味をひいた動画をお知らせします。参考まで。
《中??秘》 中原?古 大河村?址博物? 凝聚仰韶文化灵魂
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3De_ttWBrv13A
彩陶,仰韶文化,河姆渡文化
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3Df8yTVHPsPhc
ところ遺跡の館 縄文時代の解説
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DPD8EEztmq5s
常呂遺跡の館 旧石器時代の解説
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DeHMhdj3u62I
【国宝は語る】(9)甲骨文字
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DrXP2xkYGNu0
世界??在中国 E31 河南殷墟
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DP90CXQIlqwY
(3)Jomon Letters = Quipe Theory 縄文文字=キープ(結縄文字)byはやし浩司Hiroshi Hayashi, Japan
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3D4iNB4KcA0Sc
神秘の古代王国伽耶
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DAevyvZtR7ow
知られざる文明、滇(てん)王国
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DrtNaycM308U
全国邪馬台国連絡協議会 第5回 全国大会 (2日目)
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DrNx4WuwiFNs%26list%3DPL1whCoQaFL1Z0I1KUV2AUVNfGTnciBYwP
賀茂氏、光秀=天海説
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https://www.youtube.com/watch?v=0uQ0PSdShXg
秀吉と賀茂氏
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ 豊臣秀吉#cite_ref-18
データ提供ありがとうございます
上代日本語の語彙一覧を提供してくださり、誠にありがとうございました。
「占」が、中央方言では「ura」、東国方言では「mura」となっています。
このデータではサンプルが少ないですが、中方方言と東国方言で「頭子音mの有無」の違いがみられる単語がある程度存在するのではないかと予想しています。原因として、「まれに起こる音韻変化がおこった」または「聞き取る人がそれぞれ異なった解釈をした」のでしょう。
もしこの「まれに起こる違い」が世界に普遍的な音韻変化であると立証されれば、ツングース系言語満州語"muke"(水)、モンゴル系言語"us"(水)は、もとは同じ単語の可能性があるかもしれません。
ツングース系言語でke/geとなっている言葉でモンゴル系言語でse/ze/?e/?e/?e/?e/tse/dzeになっている単語は複数存在する(満州語eigen(夫)⇔モンゴル語ezen(ぬし)など)で、"us"と"muke"も対応するかもしれません。
モンゴル民族はインド=ヨーロッパ民族やテュルク民族の影響を受けて遊牧化したと考えられていますが、そこで言葉の認識方法が大きく変わった可能性もありますね。
モンゴル系言語を深く研究することは、そのような認識方法をどう変わったか把握するのに役立つ可能性がありますね。
秀吉ライン
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fourfoursさん、こちらもお役に立てたようでうれしいです。
また、後日、アイヌ語と日本語祖語、印欧祖語についての本も借りてきたので、いくらかサンプルお知らせできると思います。しばしお待ちください。
また昨晩の秀吉の出自について考えているのですが、昨晩紹介した秀吉の出自伝承に関連する地名を結んだものが図1となります。
昨晩の一宮市の加茂、中村区の鴨付、水野氏のいた常滑城、安土城を結ぶラインに加えて、伊勢国の木下氏の伊勢国鈴鹿郡木下邑、遠江国の木下氏に関連する天野景泰文書、手負人数に「木下藤三、木下虎景」とあるその天野氏の居城の秋葉城、そして、その天野氏の出身地である伊豆の国市を結んだのが図1です。
こうみると、秋葉城⇔岡崎城の東西ラインがあります。岡崎城は加茂郡ですから、やはり秋葉城も賀茂氏との兼ね合いが予想しうるでしょう。
秀吉が木下氏を名乗っていたことと、中村区にいたことの背景には、おそらくは親族の秋葉城にいた木下氏とのつながりで、意図的に秀吉の祖先が中村区に移住していったことに関係するのではないでしょうか。
そこにはもちろん賀茂氏の特殊技能者集団との関わりがあったろうと感じます。
その特殊技能なしで、秀吉や家康、光秀の高度で戦略的な動きはありえなかったのではないでしょうか。
その辺を見込んで彼らを取り込んでいった信長という男も驚くべき人物だったような気がしますが、あるいはまたその信長のカリスマ性を見込んで近づいていった集団がいたのかもしれませんね。
日本祖語と印欧祖語
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先日お話した日本語祖語やアイヌ語と印欧祖語との関係について、以前も紹介した鳴海 日出志 『日本祖語とインド・ヨーロッパ祖語―共通語根を探る 』から、先日話題にありました占(ura),(mura)に関する項目についての記載を引用したものが図1となります。
ここで注目すべきは、村(mura) 群れ(mure)万葉集の群立(uradatu) ⇔ 印欧祖語のflock??(群れ) のへ変換でしょうか。
mur<pur/pul>pleuk と整理されてますね。
図2、3はそれに続くm行の単語についてですが、こうみると鳴海氏は、日本語祖語:m⇔P:印欧祖語の語音変換を予想しているようにも見えます。
なぜそうなるのかはわかりませんが、語音変換には法則性があるとのことなのでしょう。
ぜひ、この本も参考にしてみてください。
Re 日本祖語と印欧祖語
https://shimakotoba-navi.jp/use/speak/
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html
[10811] Re 日本祖語と印欧祖語
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010812M.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=QYi8jGJ7e08
http://
「こめかみ」の語源 from インド弁
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/2005-tusker-musth-crop_convert_20160305114608.jpg
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html
シュメール文字と甲骨文字
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https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010814_2M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010814_3M.jpg
https://www.amazon.co.jp/ 世界最古の文字-シュメール語入門-飯島-紀/dp/4812101271/ref=sr_1_22?qid=1582210597&s=books&sr=1-22
古代アメリカ文明方位ライン
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https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010815_2M.png
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ テオティワカン
Re[10814] シュメール文字と甲骨文字
>なるほど、「p-m」で検索すると、興味深い対応が複数でてきますね。
>日本語祖語の動詞のm(ム)が、インド語ではp(プ)に対応するとのことでしょうか。
→ 伝言ゲームの途中で、p が m に化けたのです。 空耳アワーの連鎖で、
子音は化けるのです。
一番有名なのは、「グリムの法則」という、グリム童話の作者のグリム兄弟が見つけた音通則です。
濁音化、破裂音化、強意化、等で、別の音に「空耳アワー」します。
伝達途中で、音感がオカシイ民族がいたら、なおさらです。
例えば、 m が n に化けるの(鼻音化)と、 k が g に化ける(濁音化)のは、
p が m に化けるのと、大差無いです。
m を濁音化 「 ム゛」の発音がどうなるか、脳内想像してみて下さい。v に近いかも。
「赤(あか)」は、強調すると「真っ赤(まっか)」に化け、子音の m が付与されます。
honest ホネストは、 h??がサイレント化し、 オネスト に化けます。
Henry ヘンリー、は、仏(フランス)読みは、 「アンリ」 です。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html
700年周期の惑星発見
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010817M.png
https://sorae.info/030201/2016_07_12_2015.html
弥生人と南インド
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010818M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010818_2M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010818_3M.jpg
https://www.amazon.co.jp/ 弥生文明と南インド-大野-晋/dp/4000023233
「こめかみ」の語源 のつづき
https://ja.wikipedia.org/wiki/ こめかみ
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html
海のシルクロード
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010820M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010820_2M.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010820_3M.jpg
http://www5a.biglobe.ne.jp/~mt2000/Kyushu2a.htm
タミル・ナードゥ州 の件 in [10818]
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/240px-Karthigai_Deepam.jpg
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html
(無題)
タイムカプセルから現れた美しい人たち
日本考古学史上の一大発見として世間の耳目を集めた高松塚古墳の玄室壁画、とりわけ
西壁の鮮やかな色彩の女子群像は、額田(ぬかだ)の王(おおきみ)もかくやと思われる鮮やかさで、後に「飛鳥
美人」の呼称で親しまれることとなる。
しかし保存の不行き届きにより、やがて絵に黒カビが生じ、一部では剥落が始まっていた。
この知らせを受けた関係者たちの顔色がみるみる土色(つちいろ)に変り、部屋の空気が重苦しく沈ん
でゆくのを、当時居合わせた講師は目撃しているという。墓を暴いた祟りで次々と人が亡く
なって行ったという風説とともに、この文化遺産に暗い影を投げ掛け、修復の見通しは未だ
公表されていない。
それはそれとして、この古墳はいわゆる古墳時代の末期に作られた円墳で、時代的には紀元700年前後の飛鳥時代の終わり、奈良に都が出来る前の藤原京を中心に白鳳文化が栄えていた。大宝律令が完成し、歌人の柿本人麻呂などが活躍した頃でもある。墓は何のために
作られ、どんな願望が秘められてていたのか、再考して行きたい。
「世界古代文明の謎を探る」(41)高松塚古墳とその時代
主 催 アストライアの会 協 力 日本セカンドライフ協会
ゲスト 谷口陽子筑波大学准教授
日 時 令和2年3月27日(金)午後2時から5時
会 場 豊島区イケビズ第2会議室(池袋駅西口約9分)
費 用 お茶代込み参加費二千円
連絡先 TEL049(258)3218 松原まで
日本と古代インド
顔つきとか雰囲気だけで言うと、千葉県・茨城県の一部に、インド人ぽい人たちがいます。政治家とか、活躍している人が多い感じがします。
インド人の源流の一つに、千葉・茨城県人がいると考えるべきなのか、千葉・茨城県人の中に古代インドの一部が流れ込んだのか。
石原慎太郎は、自分の父はインド人みたいで、母は中国人みたいだったと言っています。そういえば、子供たちには、濃い顔をした人たちがいますね。
ちなみに、慎太郎の母親は、中国人だったという説があります。裕次郎と母親が違うというのですね。
九州支石墓方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010824M.png
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010824_2M.png
http://www5a.biglobe.ne.jp/~mt2000/Kyushu2a.htm
【出雲弁】からさでさん
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010825M.jpg
https://chashi-uniwa.com/blog/2017/12/21/ 【基礎知識】天津神と国津神の違い。/
沖縄弁語彙は、インド弁語彙の完全部分集合
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/oki.gif
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html
朝鮮支石墓方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010827M.png
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https://map.konest.com/
[402] 大量の銅鐸銅剣、地名繋がり!
https://8023.teacup.com/shimoeda/bbs
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entry-0.html
朝鮮方位ライン02
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また昨晩の続きで、朝鮮の支石墓群の方位ラインについて考えているのですが、昨晩紹介したものとは別に図1のようなラインも別に見えてきます。
ここでは、まず起点となる下通理五流川支石墓⇔大洞徳山里支石墓の南北ライン、下通理五流川支石墓⇔駕鶴洞支石墓⇔八道山支石墓群⇔新基支石墓へと延びる50度偏角のラインがあります。
また同じく下通理五流川支石墓⇔康津松江里支石墓⇔邑里支石墓⇔済州島記念物2号支石墓へと延びる5度偏角のラインがあります。
そして、その済州島記念物2号支石墓⇔鶴山里支石墓⇔茂渓里支石墓⇔新基支石墓⇔倉平洞支石墓群へと延びる50度偏角のラインがみえます。
さらに、その倉平洞支石墓群⇔近南面守山里支石墓群を結ぶ南北ライン、そして、その近南面守山里支石墓群⇔下通理五流川支石墓ラインが20度偏角となります。
図のように、これらの拠点は方格メッシュ(黒ライン)上に載ることから、正確な距離尺の下で、上記の5度、10度偏角単位で測量をしていたことは、先日からお知らせしている支石墓のラインと同様です。
あと、九州の支石墓ラインとの接続については、また後刻別途お知らせいたします。
九州・朝鮮支石墓方位ライン
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朝鮮支石墓方位ライン03
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追記;20/03/02 また添付図に支石墓とラインを追加し文面も追加修正しました。これで概ねの韓国の支石墓群はこのライン上に掲載したことになります。
ちなみに、図の方格メッシュ(黒線)の1区画が約36.5km前後なので、これがそのまま当時の尺単位となっていたことがわかります。元は36.5m×千里の尺度になるでしょうか。36.5m×2≒73m尺でいわゆる短里=75m説に近くなるでしょう。後代の朝鮮や九州の弥生遺跡を結ぶ52.5m×千里の超短里(秦野さんご指摘の秦野距離)とは異なりますね。
追記:20/02/29、昨晩の添付図と文明の一部を追加・訂正しました。
−−−−
また昨晩の続きで、朝鮮の支石墓を結ぶ方位ラインを作成しています。
今回は、また先日の朝鮮支石墓方位ラインに、あらたに複数の支石墓群を入れてライン図を作成してみました。添付の図1のとおりです。
こうみると、以前弥生時代の九州の遺跡を結んだ際にみえたような四角形の方格区割が複数見えてきます。
具体的には図のように、江華支石墓群⇔大洞徳山里支石墓⇔海南蓮井里支石墓群へと延びる西端の南北ラインがあり、また東端には倉平洞支石墓群⇔近南面守山里支石墓群の南北ラインがあります。
そして、江華島支石墓群⇔洪川君業里支石墓群の東西ラインや高敞支石墓群⇔丹月里支石墓群⇔昌寧支石墓群の東西ラインあたりも、それらの方格区割の四角形を構成しています。
また目立つラインとしては、江華島支石墓群⇔駕鶴洞支石墓⇔八達山支石墓群⇔清道凡谷里支石墓群⇔新基里支石墓群へと延びる50度偏角のラインがあり、さらに江華支石墓群⇔扶安亀岩里支石墓群⇔康津松江里支石墓⇔莞島古今島支石墓群⇔邑里支石墓⇔済州島記念物2号支石墓へと延びる西5度偏角のライン、済州島記念物2号支石墓⇔広里支石墓⇔新基支石墓⇔倉平洞支石墓群へと延びる50度偏角のラインがあります。
その他、康津松江里支石墓⇔鳳西里・求礼竹麻里支石墓群⇔近南面守山里支石墓群へと延びる50度ライン、高敞支石墓群⇔鳳西里支石墓群⇔新碧洞支石墓⇔鶴林里支石墓⇔広里支石墓を結ぶ20度偏角のライン、大洞徳山里支石墓⇔鳳西里支石墓群⇔新基里支石墓を結ぶ10度偏角のライン、海南蓮井里支石墓群⇔康津松江里支石墓⇔高興桃原里支石墓⇔広里支石墓を結ぶ10度偏角のライン、扶安亀岩里支石墓群⇔昌寧支石墓群⇔新基支石墓を結ぶ10度偏角のライン、清道凡谷里支石墓群⇔早洞里支石墓群⇔鉄原郡の支石墓を結ぶ60度偏角のライン、康津松江里支石墓⇔和順碧松里支石墓⇔丹月里支石墓群⇔如意谷支石墓群⇔早洞里支石墓群への70度偏角ライン、八道山支石墓群⇔孟里支石墓群⇔早洞里支石墓群への20度偏角ラインなどにも注目すべきでしょう。
そして図の方格メッシュ(黒線)上に支石墓群および方位ラインの多くが載ることからみても、その距離・位置どもに正確な尺度のもとで、10度偏角単位で測量されていったことがわかります。
あと、さらに沢山の支石墓群があるので、それも考慮していく必要があるのですが、ともあれ、大まかな朝鮮の支石墓の方位ラインの構造はこれで明らかになったと思います。
年代的には日本でいけば支石墓の現れる縄文時代晩期から弥生時代初期、中国ならば戦国時代の構築となりそうですが、朝鮮半島でいえば、その紀元前500年代となると、北部の箕子朝鮮や燕、あるいはその南にあったとされる真番や馬韓の影響下にあったことが予想されますね。
そして、先日お話したように、インド南部から中国華南、東南アジアを経て、朝鮮南西部から、これらの支石墓や甕棺墓を構築した集団が、九州含めて朝鮮周辺に渡来したと考える場合、この朝鮮の支石墓の分布の特徴として挙げうることとしては、済州島や江華島など、島地や海岸沿いに支石墓をしていることでしょう。
これは、同じ朝鮮の方位ラインでも、その前代の夏・殷代に関係するそれや、後代の漢代のそれとも異なり、海洋民的な特徴を備えた立地といえるでしょう。
この件は先日の九州の長崎、島原、糸島半島といった海岸沿いの支石墓群を結ぶ方位ラインにもみられる特徴です。
ここから、航海民の交易拠点としての位置づけがこれらのライン分析から明らかにしうるのではないかと感じますね。
その航海民としての特性が、また言語面や習俗にも関連してみえてくると面白いのですが、また皆さんのほうで、何か気づくことありましたら、よろしくわかちあいください。
東アジア支石墓方位ライン
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https://baike.baidu.com/item/ 石棚墓
中国の支石墓と倭人
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https://baike.baidu.com/item/ 棋?山/18183009
Re [10833]
>奄美群島のハジチ
>奄美・琉球では「ハジチ(針突・ハドゥチ・パリツク・ピッツギ)」と呼ばれる入れ墨文化があった。
沖縄弁の検証
【タミル語】paccai(= 1. green colour 緑色; greenness; 2. emerald; 3. pulse or cereals; 4. betel leaf; 5. seaside Indian saltwort; 6. a fragrant grass; 7. ★tattoo 入れ墨;) ハジチ
【タミル語】paccaippoTTu (= 01 a round mark ★tattooed on the forehead おでこの入れ墨) ハドゥチ (c-t)
【タミル語】poTTukkuttu-tal(= to ★tattoo with a kind of vegetable extract 野菜の汁で入れ墨をする) ピッツギつ
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html
支石墓
支石墓(読み)しせきぼ (ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)
「朝鮮半島を中心として,中国東北地区から日本の北九州地方にまで広がる巨石墓の一種。ドルメンと共通する要素が多い。扁平な4枚の板石を地上に立てて四角に組み,その上に大きなふた石を載せた卓子式 (北方式) 支石墓と,地下に石棺や石室をもち,数個の支石の上に塊石を載せる碁盤式 (南方式あるいは変形) 支石墓がある。前数世紀頃から紀元前後頃までの初期金属器時代のものである。日本では弥生時代の前・中期に行われ,その分布は北九州が中心となっている。」
まあ、誰しも思いつく形ですから、民族の分布や移動を考える場合のヒントにはなりにくいものだと思いますね。
世界のあちこちに、似たようなものがあるようですし。
しかし、日本では北九州を中心に分布している、というのは、民族的な背景がありそうですね。
支石墓の種類とルーツ
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http://inoues.net/ruins/sito_sisekibo.html
誰が作っても同じようになる。
支石墓のアイデアは平凡で必然的。大きな石を立てて、大きな石を載せたら、自然にああなる。
どこの誰でも思いつきうるし、同じような構造になる。
広域・長時間の範囲における、支石墓の種類と分布に関しては、とくに重要な意味はないと思う。
エチオピアにゲタと(コーヒー)茶道があると聞いたことがあるが、
それも日本のゲタと茶道と関係があると、必ずしも考える必要はない。
ゲタについては、あるいは何か関係があるかもしれないが。
両国とも「失われたアークがあるのではないか」という話があるし。
アジア支石墓ライン
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ サータヴァーハナ朝
近畿説は破綻だな
今年に入り、あるブログで近畿説を徹底批判していたので読んでみたが、その中で紹介されてた中島 信文 著「陳寿『三国志』が語る 知られざる 驚異の古代日本」を読んでみたが、これが文献学的にすごい。ブログ者も述べているが、近畿説はこの作品に対して反論できないであろうし、近畿説を主張するなら、この本を否定できる論証を出すべきと言ってるくらいだ。
邪馬台国所在論議をする人間は、この本を読んで検証すべきだね。近畿説は完全に破綻だよ。
[10839] 近畿説は破綻だな
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https://www.youtube.com/watch?v=dhHFr26Vp5g
『沖縄弁は、言語での東洋のガラパゴス』と教科書に載せよう
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/Grimm's_Law_in_J_20_O.html
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html
『沖縄弁は、言語での東洋のガラパゴス』と教科書に載せよう
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/Grimm's_Law_in_J_20_O.html
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html
韓国古墳方位ライン
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https://translate.weblio.jp/web/korean?lp=&url=https://www.google.co.kr/search?source=hp&ei=_ERmXu3IIfKEr7wP8YGSuAI&q=%EA%B3%A0%EB%B6%84&oq=%EA%B3%A0%EB%B6%84&gs_l=psy-ab.3..0j0i30l7.828651.828651..829641...1.0..0.154.297.0j2......0....2j1..gws-wiz.....6..0i362i308i154i357.N2QHWNB91gE&ved=0ahUKEwjttpqRwI3oAhVywosBHfGABCcQ4dUDCAg&uact=5&rdt=tl&sentenceStyle=spoken
美人≠きれいな Beautiful woman
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http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html
RE 美人≠きれいな Beautiful woman
https://ja.wikipedia.org/wiki/ 首里
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html
九州神籠石・支石墓ライン
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秦野さん、童子さん、わかちあいありがとうございます。
美人王族といえばやはり・・・卑弥呼でしょうね・・・、沖縄とも関係するか・・。
先日の九州の支石墓を結ぶ方位ラインと、同じく以前分析した九州の神籠石を結ぶ方位ラインとの関係を図にしてみました。図1のとおりです。図2はその拡大図です。
まず、先日の分析でも指摘したように、大野台支石墓群、桑田遺跡、志登支石墓群あたりの縄文晩期から弥生初期の支石墓群がラインの起点となります。
その大野台支石墓群⇔風観岳支石墓群⇔桑田遺跡ライン、同じく大野台支石墓群⇔菜畑遺跡⇔志登支石墓群ラインも、先日指摘したとおりで、その菜畑遺跡、桑田遺跡からは、ジャポニカ米のプラントオパールが出土しています。
そして、図のように大野台支石墓群⇔高良山(神籠石)⇔玖珠方面にいたる東西ラインがあり、また志登支石墓群⇔高良山(神籠石)⇔国見山⇔阿蘇山(高岳?)に至る45度偏角のラインがあります。
ここで、図のように、この国見山と阿蘇山(高岳もしくは中岳)あたりがこの当時の測量の目印となっていたことがわかります。
すなわち、国見山を起点とするものとしては、桑田遺跡⇔国見山⇔把木神籠石へと至る南北ライン、原山支石墓群⇔国見山⇔玖珠付近へと至る40度偏角のライン、国見山⇔女山神籠石⇔大野台支石墓群への10度偏角のライン、国見山⇔高良神社の東西ライン等があり、また阿蘇山を起点としたものとしては、阿蘇山⇔風観岳支石墓群の東西ライン、阿蘇山⇔おつぼ山神籠石⇔大野台支石墓群への20度偏角のライン、阿蘇山⇔玖珠周辺への南北ライン等があります。
なお、図の方格(黒線)を見てもわかるように、他の多くの拠点がその方格上に載ることに比して、阿蘇山の位置は、その方格上には載っておらず、これは自然地形を測量起点とした際に、その尺度・位置を変更できないことによるものです。
この図をみるかぎり、最初の測量起点は最西の大野台支石墓群、あるいは最南の桑田遺跡であり、また阿蘇山⇔国見⇔高良山神籠石⇔志登支石墓群の45度ラインをもとにして、その他の周辺拠点の位置を定めたのではないでしょうか。
あと、志登支石墓群を起点としたものとしては、新町支石墓群⇔志登支石墓群⇔板付遺跡北部⇔宇美神社周辺へと至る東西ライン、また志登支石墓群⇔金立支石墓群⇔桑田遺跡へと至る70度偏角のライン、志登支石墓群⇔吉野ヶ里遺跡北部(北墳丘墓付近)⇔女山神籠石へと延びる60度偏角のライン、志登支石墓群⇔原山支石墓への南北ライン等があり、ここも二次的な測量起点だったことがわかります。
その他、菜畑遺跡⇔おつぼ山神籠石周辺⇔原山支石墓群への75度偏角のライン、菜畑遺跡⇔国見山への25度偏角のライン、大野台支石墓群⇔金立支石墓群⇔吉野ヶ里遺跡最北辺⇔把木神籠石へのライン、新町支石墓群⇔おつぼ山神籠石付近⇔風観岳支石墓群へと至る10度偏角のラインなども見えてきます。
ただ、把木神籠石やおつぼ山神籠石の位置などが方位ラインから若干のずれがあり、これが山城としての性格を保つために、海岸部や平地を避けた結果だと考えれば理解しやすくなります。
関連して以前会報でも指摘した宇美神社⇔大野城(大城山)⇔基肄城(基山)⇔女山神籠石への南北ラインについては、それぞれ魏志倭人伝の不彌国⇔烏奴国⇔支惟国⇔(不彌国の南の)邪馬台国方面へと至る諸国であることは、先日も述べたとおりです。
そして、これらの支石墓群や神籠石、弥生遺跡が、その倭人伝の諸国の中心拠点であったことは間違いないでしょう。
また先の測量拠点としてみえてくる国見山については、全国各地にある国見山が国を見渡す場所とのことで支配や測量地点を意味することがあり、その件は先日お話した奈良の秋津にある国見山と天香久山、三輪山を結ぶ方位ラインの件からもうかがえます。
阿蘇山と同様に、この国見山、あるいはその両者の延長線上にある高良山あたりが起点となっていることも、その支配・測量拠点としての意味合いが強かったことを示しますが、高良山の場合は特に神籠石という形で石列が残っており、その石造加工技術が、また支石墓のそれとも関係し、元はインド中南部の支石墓文化にあった可能性も考慮すべきでしょう。
少なくとも、上記のように5度、10度偏角単位での測量は、先日お知らせした中国、朝鮮の支石墓群を結ぶ方位ラインと同類であり、その技術系譜をこの弥生人が継承していることはあきらかです。
そして、そのインドの場合は当時すでに高度な鉄製道具による石材加工技術があり、これらの石材加工技術が、中国華南を経て、南西諸島経由で、九州に至ったと考えるならば、そのルート沿いにも同様な石造物が残っていることも考えうることです。
特に沖縄のグスク群については、高度な石材加工技術が見られており、その起源は弥生時代まで遡るのではないかともいわれているとおりです。
そして華南やインドにも同様な石造物や石材加工技術の系譜がたどれるならば、ここまで明らかにしてきた支石墓や甕棺、タミル語に類似する語彙を日本にもたらした集団がいたことの傍証となるかもしれない点で重要です。
さらに言えば、邪馬台国についても、弥生時代がはじまった当初からあったその支配に相応しい神聖な場にある拠点を、その図のライン上から導きだすことによって、明らかにしうるのかもしれません。高良山、女山の位置とその神籠石の存在は、それに適う場であるように感じます。
首里(しゅり、沖縄方言: シュイ)
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ 首里
新銅鐸方位ライン
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http://japantemple.com/2017/03/28/post-2321/
元伊勢方位ライン
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ 元伊勢
「群れ」と*pleukの対応について
金平さんのブログから引用します。
mとpが対応する語が存在するのは、以下???のようなカラクリがあるのでしょう。
?「固さ」を表す語が「集まり」を意味するようになる語になることの説明
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.jojikanehira.com%2Farchives%2F1988759.html
?「氷」を表す語が「固さ」を意味するようになる語になることの説明
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.jojikanehira.com%2Farchives%2F14818949.html
?「群れ」(もしかして*pleukも?)の元々の言葉の詳細についての説明
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.jojikanehira.com%2Farchives%2F10052106.html
また、私は言語学を専攻しているわけではありませんが、日本語の起源解明のためには、以下の6項目を念頭に入れることが、早期解決のための必要十分条件でしょうね。そのように感じます。
i) 比較言語学の拡張をすること
ii) 予想できないような音韻対応を発見すること
iii) 日本語とアルタイ諸語を過度に結び付けないこと
(起源が複数存在する可能性を捨てないこと)
iv) 琉球語も視野に入れ、再構を試みること
v) アイヌ語・朝鮮語・ニヴフ語などの周囲言語の再構も試してみること
vi) 日本語が完全に孤立言語である可能性を捨てないこと
「涙」を意味する言葉の様子
閑話休題、「涙」を意味する言葉についてです。
「水」を表す語が「水」以外の液体を表すことはあると思いますが、「涙」を表す語は「目」と「水」を組み合わせて作るケースが多いですよね。
例えば東アジア・東南アジアの言語では、
・朝鮮語 nunmul(nun「目」+mul「水」)
・インドネシア語 air mata(air「水」+mata「目」)
・チベット語 mig chu(mig「目」+chu「水」)
と組み合わせています。
なので、モンゴル語もひょっとして
「目」と「水」の組み合わせではないのかと考えるようになりました。
現代のモンゴル語で「涙」は"nulims"です。(古形は"*nilbusunと推測されることが多いようです)
また、「目」は"nud"、「水」は"us"です。「目」と「水」の組み合わせだとしたら、"nulims"の前半部分"nu~"の部分が「目」でありそうです。では、"ms"の部分は何なのでしょうか。特に"m"の部分は、格助詞ではなさそうであり、「水」が"ms"に対応しそうです。
もしこれが正しければ、元来、モンゴル語の「水」は唇音(上唇と下唇を使って作る音)が初めに来たのかもしれませんね。
現在、契丹語は言語学者によって再構の途中ですが、契丹語の「涙」が解明すると、モンゴル祖語がどのような語であったか解明でくるでしょう。
ツングース祖語にも結びつけられるのかもしれません。
[10854] 「涙」を意味する言葉の様子
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https://www.google.com/search?q= 閑話休題&rlz=1C1ASRM_us-enJP559JP586&oq=閑話休題&aqs=chrome..69i57.1450j0j8&sourceid=chrome&ie=UTF-8
re 10855「涙」を意味する言葉の様子
>「泪」は千利休の後悔「なみだ」の意味でしょうな。
〜
>文脈から後悔になれば、正解ですな。
千利休の茶杓の名の「なみだ」は、「後悔」の象徴なのですか?。 --- 知りませんでした。
インド弁で 「後悔」 を確認しました。
【サンスクリット語】manastApa (= m. `" burning of the mind "' , mental pain 精神的痛み, anguish 〔精神的・肉体的な激しい〕苦痛、苦悶、苦悩, ★repentance 後悔 MBh.) なみだパ
【タミル語】man2astApam(= 1. grief 悲しみ, heart-burning 焦燥; 2. displeasure, aversion; 3. being illdisposed, being on unfriendly terms; 4. ★repentance) なみだーの
【サンスクリット語】kaukRtya(= n. (fr. %{ku-kRta} , or %{-kRtya}) , evil doing , wickedness L. ; ★repentance L.) ぐ ぐやしー (R-y)
■涙(なみだ)とインド弁
【宮城弁】べんぞ(= (泣き)べそ。)
【賛】 bASpa (= m. (sgl.) ★tears 涙(なみだ), vapour.) べんぞ
【賛】 bASpakaNTha (= f. {I} choking with tears (lit. having ★tears in the throat) 涙で喉が詰まった.) べそかいた
-なみだ 系-
【賛】 nirmath (= or %{manth} P. A1. %{-manthati} , %{-te} RV. ; %{-mathati} , %{-te} MBh. ; %{-mathnAti} Ka1t2h. (fut. %{-mathiSyati} ind. p. %{-mathya} MBh.) ; to grind (fire) out of (wood) , to produce (fire) by rubbing (wood together) , rub or churn anything out of anything (double acc.) RV. ; to stir or churn (the sea) MBh. ; to ★tear or draw or shake out of , extract MBh. ; to shake , agitate (the mind) MBh. ; to grind down , crush , destroy MBh. : Pass. %{-mathyate} (p. %{-yamAna}) , to be rubbed or churned &c.) なみた◎
【民】 nIrmuTTu-tal (= 01 1. to be full to the the brim, as eyes with ★tears; 2. to make water) なみた ◎
【韓】 ヌン?ムル? 〇 --- 近い。
■世界
【アッカド語】nadû (nadā'u) (= v.; 1. to throw water or fire....3.to excreate, discharge saliva 唾, mucus 粘液, ★tears 涙, blood 血, feces 糞, semen 精子, vomit げろ, sweat 汗, ... 涙(なみだ)[涙が代表として、動詞が日本で名詞に化けた。 or 目+水(めみず→なみだ)である。]) なだ △
もっと似ているのは、アフリカ。
file 11-300. 涙(なみた) - tears | mundi (=★tears) @Niger ナイジェリア/ Benin, manyochi (=★tears) @Tanzania タンザニア, nyembezi (=★tear, tears) @South Africa 南アフリカ (Zulu)
c. アフリカ・オンパレード でおます。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html
[10856] re 10855「涙」を意味する言葉の様子
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https://sengoku-his.com/836
夔鳳鏡方位ライン
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https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010859_2M.png
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010859_3M.png
http://wi12000.starfree.jp/forGmap/html/kihou_kyou.html
楽浪・九州方位ラインと金銀錯嵌珠龍文鉄鏡
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http://wi12000.starfree.jp/forGmap/html/kihou_kyou.html
[10860] 楽浪・九州方位ラインと金銀錯嵌珠龍文鉄鏡
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ 楽浪国
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