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「まじめな話」の板

1トキ:2012/08/26(日) 17:28:59
 本島で真面目な話を書きたいが、IDが出るので書きにくい、という方のための板です。

 IDが出ないので、より身元の秘匿性が高まります。絶対に身元が知られたくない人には最適です。
なお、本島へ転載希望の方はその旨も書いて下さい。誰かが、本板へ転載をしてくれるかも!?

(管理人が気がついたら、転載します。)

7902蒼天の實相:2018/11/30(金) 17:22:47
〜寒山〜

概要
寒山(かんざん、生没年不詳)は、中国・唐代に浙江省にある天台山の国清寺にいたとされる伝説的な風狂僧。『寒山子詩』の作者とされる。後世、拾得と共に有髪の姿で禅画の画題とされる。
「寒山寺#寒山拾得」も参照
人物像
伝歴は不明な点が多く、時代も初唐の人とされるが、それは『寒山子詩』の中唐以降の詩風とは一致していない。その名は、始豊県(天台)西方70里の寒巌を居所としていたことにちなむものとされる。その風姿は、痩せこけたもので、樺の冠をかむり、衣はボロで木靴を履いた奇矯なものであったという。食事は、国清寺の厨房を任される拾得から残飯を得ていたといい、寺僧に咎められると、大笑いして走り去ったという。虎を連れた姿で知られる豊干禅師の弟子とされ、豊干を釈迦、寒山を文殊、拾得を普賢の化身に見立てるものもある。
台州刺史の閭丘胤が国清寺を訪ねた時、拾得と共に大笑しながら寒巌に姿を隠し、二度と姿を見ることは無くなったとされる(森鴎外が、「寒山拾得」として作品化している)。その後、山中の諸処に書かれていた詩300篇余りが発見され、それが『寒山子詩』であるとされている。
『宋高僧伝』巻19「感通篇」に、「唐天台山封干(豊干)師伝」があり、寒山子・拾得として附伝されており、『景徳伝灯録』巻27にも、「天台豊干禅師 天台寒山子 天台拾得」として記録されている。
なお道教史書を数々編纂した五代の杜光庭による『仙伝拾遺』中にも、寒山が収められており、そこでは道士が『寒山子詩』を集めたことになっている。

7903蒼天の實相:2018/11/30(金) 17:27:16
〜拾得〜

概要
拾得(じっとく、生没年不詳)は、中国・唐代に浙江省にある天台山の国清寺にいたとされる伝説的な風狂僧。豊干禅師に拾われて仕事を得たのが、名前の由来とされる。寒山と拾得は仲が良く、いつも子供のように遊び回っていた。その様子があまりに風変わりだったため、後世の人によって特別視され、寒山は文殊菩薩、拾得は普賢菩薩の化身とする説が生まれた。
寒山と共に有髪の姿で禅画の画題とされる。巻物を持った姿で描かれる寒山に対して、拾得は箒を持った姿で表現される。
「寒山寺#寒山拾得」も参照

7904蒼天の實相:2018/11/30(金) 17:31:06
〜豊干〜

概要
豊干(ぶかん、ほうかん、生没年不詳)は、中国・唐代の禅僧[2][3]。豊干禅師ともいわれ、寒山と拾得と共に三聖と呼ばれる[2][3]。

1.人物
出身地や出自については殆ど知られていない[2]。奇行の僧。天台山の国清寺におり、髪は総髪にして眉を整え毛皮を付けた衣(ぼろ)を着ていたという[2]。仏道の教理を問われると、いつも「随時」と答えた[2]。豊干は虎に乗って道歌を口ずさみながら門を入ってきたことがあり、虎に乗る豊干の姿は絵にも描かれた[2]。



2.寒山・拾得との関係
国清寺の厨房に寒山と拾得という二人の奇人がおり、かまどの番をしながら向かい合って一日中話をしていたが、その話を聞いても何を話しているのか分からないため、二人は風狂子と呼ばれていた[2]。ただし豊干だけは二人を理解したので、二人は豊干には懐いていたという[2]。
豊干は閭丘胤という人物に、国清寺でかまどの番をして食器を洗っている寒山と拾得は文殊・普賢の両菩薩であると告げたという[2]。

7905蒼天の實相:2018/11/30(金) 19:13:15
〜法華経〜

概要
『法華経』(ほけきょう、ほっけきょう)は、大乗仏教の代表的な経典。大乗仏教の初期に成立した経典であり、誰もが平等に成仏できるという仏教思想の原点が説かれている[2]。聖徳太子の時代に仏教とともに日本に伝来した[3]。


1.名称
『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』(梵: ・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・, Saddharma Pu??ar?ka S?tra「正しい教えである白い蓮の花の経典」の意[6])の漢訳での総称であり、梵語(サンスクリット)原題の意味は、「サッ」(sad)が「正しい」「不思議な」「優れた」、「ダルマ」(dharma)が「法」、「プンダリーカ」(pu??ar?ka)が「清浄な白い蓮華」、「スートラ」(s?tra)が「たて糸:経」であるが、漢訳に当たってこのうちの「白」だけが省略されて、例えば鳩摩羅什訳では『妙法蓮華経』となった。さらに「妙」、「蓮」が省略された表記が、『法華経』である。「法華経」が「妙法蓮華経」の略称として用いられる場合が多い。[7]
漢訳は、部分訳・異本を含めて16種が現在まで伝わっているが、完訳で残存するのは
『妙法蓮華経』8巻28品(鳩摩羅什訳、400年、大正蔵262)[8]
『添品妙法蓮華経』7巻27品(闍那崛多・達磨笈多共訳、601年、大正蔵264)
の3種で、漢訳三本と称されている。漢訳仏典圏では、鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』が、「最も優れた翻訳」[9]として流行し、天台教学や多くの宗派の信仰上の所依として広く用いられている。

7906シオン観測隊:2018/12/01(土) 04:36:30
〜日本の少数民族〜

日本の民族の一覧 名称 説明
大和民族 日本民族、倭人とも呼ばれています。
縄文時代以前より日本列島に住んでいた人々で構成されており、日本国で最多数の民族です。
アイヌ民族 日本からロシア(東北の一部、北海道、樺太、千島列島など)に住んでいた北方系の先住民族です。 縄文人と特徴が似ており、縄文文化と似たような文化を持っていたことから、縄文人の末裔とも考えられています。
古くは日本人から蝦夷(えみし、えびす、えぞ)などとも呼ばれていました。
言語にはアイヌ語を使用していましたが、現在アイヌ語を喋るアイヌの人は10数人程度とされています。 また、アイヌ語には方言も非常に多いといわれています。
ウィルタ民族 主に樺太で生活しているツングース系の民族です。アイヌ民族からは「オロッコ」と呼ばれていました。 樺太の中部以北で生活しており、現在も300人余りのウィルタ民族が居住しています。
言語にはウィルタ語を使用しています。
第二次世界大戦後に旧ソ連から追放や移住をし、北海道で生活しているウィルタ民族の方もいるようです。
ニヴフ民族 主に樺太やシベリアの一部で生活している民族です。 ロシアではギリヤークとも呼ばれています。
人口は5000人余りで、第二次世界大戦後に北海道に移住したニヴフ民族の方もいるようです。






琉球民族 琉球王国の有った沖縄や沖縄やその周辺の島々、鹿児島県の奄美諸島などに生活していた方々を、言語、文化、生活習慣などでまとめて琉球民族と呼んでいます。
琉球人、沖縄人、奄美人などとも呼ばれているようです。
言語には琉球語、喜界語、北奄美大島語 、南奄美大島語など数種類の言葉があります。
小笠原諸島欧米系島民 1876年に小笠原諸島が日本領となる以前から生活していた、アメリカ人やハワイ人の末裔を小笠原諸島欧米系島民と呼んでいます。
小笠原方言と呼ばれる日本語と英語が混じった言葉を利用していました。
サンカ 特定の民族では有りませんが、日本の山地などを移動しながら生活していた不特定の人々のことを指し、 山窩、山家、三家、散家などとも書かれます。
昭和30年代頃まで、サンカと言われる人々が居たとされています。
家船(えぶね) 特定の民族では有りませんが、主に船の上で集団生活をしていた、漂流漁民を指します。
一定の本拠地となる場所を周辺に複数の船で漁業を営み生活していました。
昭和40年ごろまで家船と言われる人々が居たとされています。

7907蒼天の實相:2018/12/01(土) 19:12:23
〜国柱会〜

概要
国柱会(こくちゅうかい 國柱會)は、元日蓮宗僧侶・田中智学によって創設された法華宗系在家仏教団体。純正日蓮主義を奉じる右派として知られる。


2.思想・信仰
国柱会の根本の理念は、寺檀制度によって形骸化した伝統宗門の改革と近代化を在家主義の立場から目指すものである。
教学における国柱会の功績は、現在でも「師子王文庫」や「真世界社」などに引き継がれている。分派した各法華宗・日蓮宗宗派の統一、更には法華一乗のもと全宗派、全宗教の統一(一天四海皆帰妙法)のための宗教革命、ならびに皇祖皇宗の日本国体を法華経のもとに体系化することを究極の目標としている。
更には、智学の思想による「全国の神社に祀られる主神はすべて皇祖神に統一されるべき」という主張や、法要時の礼服、祭壇の祀り方、数珠を一切用いない、など神道的な要素を強く残しており、法華神道の団体としての色彩も強い。
なお、本化妙宗としての信仰は、釈尊を教祖、日蓮を宗祖と仰ぎ、本尊は日蓮大聖人の「佐渡始顕の妙法曼荼羅」としている。

7908蒼天の實相:2018/12/01(土) 19:50:04
>>7907
〜国柱会〜

1.名称と標語
国柱会の名称は、日蓮の三大請願の一つ「我日本の柱とならん」から智学によって命名された。独立した宗派としての正式名称は「本化妙宗」。 また、智学の造語であり、戦前日本では国家主義のスローガンとして多用された「八紘一宇」を最初に標榜したのは国柱会であった。「日蓮主義」という表現も、国柱会によって初めて使われた。「主義」という概念が、明治以降に流入した西洋哲学に由来するものであり、後述のように日蓮主義という概念は、日蓮教学の近代的体系化の一端を表している。


3.歴史
3.1.創始期
智学が日蓮宗の宗義に疑問をいだき、還俗して最初に設立したのが「蓮華会」という組織である。1880年(明治13年)、横浜において結成され、国柱会のさきがけとなった。その後、東京進出にともない1884年(明治17年)に名称を「立正安国会」に改名。「宗教ヲ以テ経国ノ根本事業トスベシ」と宣言し、在家主義の立場から仏教の近代化を目指した。
1902年(明治35年)、日蓮仏教の教学を組織体系化した「本化妙宗式目」を発表し、1903年(明治36年)より大阪などで日蓮門下各教団の僧侶を集めて本化妙宗研究大会を開催。智学はその中でも神武天皇御陵前での講演「皇宗の建国と本化の大教」において、日蓮仏教の国教化を目指す王仏冥合思想を宣言した。

7909蒼天の實相:2018/12/01(土) 21:41:15
〜国柱会〜

7.著名な会員
金子彌平(初代京都局長)
近衛篤麿(近衛文麿の父)
宮沢賢治
石原莞爾
北原白秋夫人菊子
高山樗牛
武見太郎
藤牧義夫
神崎武雄


9.関連人物
坪内逍遥
近衛文麿
東條英機
板垣征四郎
中里介山

7910蒼天の實相:2018/12/01(土) 21:50:14
〜永平寺〜

概要
地理院地図 Googleマップ 永平寺
永平寺(えいへいじ)は、福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の寺院。總持寺と並ぶ日本曹洞宗の中心寺院(大本山)である。山号を吉祥山と称し、寺紋は久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)である。開山は道元、本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏である。


1.歴史
1.1.道元の求法
曹洞宗の宗祖道元は正治2年(1200年)に生まれた。父は村上源氏の流れをくむ名門久我家の久我通親であるとするのが通説だが、これには異説もある。
幼時に父母を亡くした道元は仏教への志が深く、14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺に上り、仏門に入った。道元には「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、本来悟っている(本覚思想)はずなのに、なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問があった。道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺の栄西に教えを請いたいと思ったが、栄西は道元が出家した2年後に、既に世を去っていた。
比叡山を下りた道元は、建保5年(1217年)建仁寺に入り、栄西の直弟子である明全に師事した。しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考えた。師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。
道元は天童山景徳寺の如浄に入門し、修行した。如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」を強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。なお、一緒に渡宋した明全は渡航2年後に現地で病に倒れ、2度と日本の地を踏むことはできなかった。
日本へ戻った道元は初め建仁寺に住し、のちには深草(京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。

7911蒼天の實相:2018/12/01(土) 22:00:56
>>7910
1.歴史
1.2.越前下向
旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、道元は信徒の1人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重の請いにより、興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。寛元元年(1243年)のことであった。
当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、道元はここでひと冬を過ごすが、翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立する。これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。
寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝のときの元号「永平」からであり、意味は「永久の和平」である。


1.歴史
1.3.道元以降
その後の永平寺は、2世孤雲懐奘、3世徹通義介のもとで整備が進められた。義介が三代相論で下山し4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり寺勢は急激に衰えた。一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた。義雲から19世祚玖まで[1]と、22世の常智祚天は寂円派の住持であった。
暦応3年(1340年)には兵火で伽藍が焼失、応仁の乱の最中の文明5年(1473年)でも焼失した。その後も火災に見舞われ、現存の諸堂は全て近世以降のものである。
天文8年(1539年)、後奈良天皇より「日本曹洞第一出世道場」の綸旨を受ける。
天正19年(1591年)、後陽成天皇より「日本曹洞の本寺並びに出世道場」の綸旨を受ける。
元和元年(1615年)、徳川幕府より法度が出され總持寺と並び大本山となる。

7912蒼天の實相:2018/12/01(土) 22:05:33
>>7911
〜永平寺〜

2.伽藍
山門 - 寛延2年(1749年)の建築。重層の門で、階上には釈迦如来像、五百羅漢像などを安置する。
中雀門
通用門
円通門
仏殿 - 明治35年(1902年)の建築。本尊の久遠実成の釈迦・方便の釈迦・無量寿の釈迦(阿弥陀如来)の三世仏(過去・現在・未来を表す)の他、禅宗初祖の達磨像、道元の師である如浄禅師像などを安置する。
法堂(はっとう) - 天保14年(1843年)の建築。聖観音(しょうかんのん)像を安置する。
大庫院 - 昭和5年(1930年)の建築。地上3階地下1階の近代木造建築で、台所兼事務所の役を果たす。建築当時のエレベーターが現存しており、これは稼動中のものとしては日本最古といわれる。
承陽殿 - 明治14年(1881年)の建築。開山道元の廟で、道元以下第5世までの住職の像を安置する。
僧堂 - 明治35年(1902年)の建築。僧堂は坐禅修行のための建物である。
傘松閣(さんしょうかく) - 昭和5年(1930年)の二祖国師・孤雲懐奘650回忌を記念して建築。道元禅師と永平寺の名は、永平寺最初の山号「傘松峰」に由来。222畳敷きの大広間があり、天井画は小室翠雲らの尽力により、荒木十畝、伊東深水、鴨下晁湖、川合玉堂、島田墨仙、野田九浦、益田玉城、水上泰生、山田敬中、山本昇雲など計144名の画家によって描かれた[2]。
吉祥閣 - 昭和46年(1971年)の建築。地上5階地下1階の宿泊研修施設で、曹洞宗に限らず参禅研修を希望する人を広く受け入れている。
浴室 - 昭和55年(1980年)の改築
東司
真陽閣
光明蔵
不老閣
宝蔵
一華蔵
孤雲閣
瑠璃聖宝閣
五葉関
祠堂殿

7913蒼天の實相:2018/12/01(土) 22:06:10
>>7912
〜永平寺〜

3.歴代貫首
第2世 孤雲懐奘 (道光普照国師)1198 - 1280
第3世 徹通義介 1219 - 1309
第4世 義演 ? - 1314
第5世 義雲 1253 - 1333
第6世 曇希 ? - 1363
第7世 以一 ? - 1388
第8世 喜純 ? - 1401
第9世 宗吾 1343 - 1406
第10世 永智 ? - 1440
第11世 祖機 ? - 1445
第12世 了鑑 ? - 1457
第13世 建綱 ? - 1469
第14世 建撕 1415 - 1474
第15世 光周 ? - 1493
第16世 宗縁 ? - 1522
第17世 以貫 ? - 1540
第18世 祚棟 ? - 1560
第19世 祚玖 ? - 1610
第20世 門鶴 ? - 1615
第21世 海巖宗奕(智光大通禅師)? - 1622
第22世 常智祚天(大説常智禅師)? - 1631
第23世 佛山秀察(佛山・照禅師)? - 1641
第24世 孤峰龍札(日照孤峰禅師)? - 1644
第25世 北岸良頓(鐵面癡頑禅師)1586 - 1648
第26世 天海良義(萬斛大鐘禅師)? - 1650
第27世 嶺巖英峻(萬照高國禅師)1589 - 1674
第28世 北州門渚(普照北州禅師)? - 1660
第29世 鐵心御州(大覺佛海禅師)? - 1664
第30世 光紹智堂(慧輪永明禅師)1610 - 1670
第31世 月洲尊海(芳山月州禅師)1609 - 1683
第32世 大了愚門(因光大了禅師)1613 - 1687
第33世 山陰徹翁(覺海智圓禅師)? - 1700
第34世 馥州高郁(大仙國光禅師)? - 1688
第35世 版饒晃全(應安萬圓禅師)1627 - 1693
第36世 融峰本祝(大證無得禅師)? - 1700
第37世 石牛天梁(本然圓明禅師)1638 - 1714
第38世 ・巖嚴柳(清了大安禅師)? - 1716
第39世 承天則地(大清撫國禅師)1655 - 1744
第40世 大虚喝玄(圓成實性禅師)1661 - 1744
第41世 義晃雄禪(圓満覺性禅師)1671 - 1740
第42世 江寂圓月(大智慧光禅師)1694 - 1750
第43世 央元密巖(廊然大行禅師)? - 1761
第44世 大晃越宗(正法保國禅師)? - 1756
第45世 寶山湛海(大珍慧鏡禅師)1690 - 1771
第46世 彌山良須(真空妙有禅師)1696 - 1771
第47世 天海薫元(金毛全威禅師)? - 1786
第48世 成山台明(佛鎮護国禅師)? - 1792
第49世 大耕國元(圓觀正覺禅師)? - 1793
第50世 玄透即中(洞宗宏振禅師)1729 - 1807
第51世 靈岳惠源 1718 - 1809
第52世 獨雄宣峰(廣寿妙濟禅師)? - 1835
第53世 佛星爲戒(昭化理宗禅師)1742 - 1818
第54世 博容卍海(大運法乘禅師)? - 1821
第55世 縁山大因(天臨高長禅師)1763 - 1826
第56世 無庵雲居 1757 - 1827
第57世 載庵禹隣(宏濟慈國禅師)? - 1845
第58世 道海大信 ? - 1844
第59世 觀禪眺宗(慈航真濟禅師)? - 1848
第60世 臥雲童龍(大晃明覺禅師)1796 - 1870
第61世 久我環溪(環溪密雲 絶學天真禅師)1817 - 1884
第62世 青蔭雪鴻(鐵肝雪鴻 圓應道鑑禅師)1832 - 1885
第63世 滝谷琢宗(魯山琢宗 真晃断際禅師)1836 - 1897
第64世 森田悟由(大休悟由 性海慈船禅師)1834 - 1915
第65世 福山默堂(壽硯默堂 慧光玄照禅師)1841 - 1916
第66世 日置默仙(維室默仙 明鑑道機禅師)1837 - 1920
第67世 北野元峰(大?元峰 圓證明修禅師)1842 - 1933
第68世 秦慧昭(默道慧昭 大規正信禅師)1862 - 1944
第69世 鈴木天山(白龍天山 密傳慈性禅師)1863 - 1941
第70世 大森禪戒(活龍禪戒)1871 - 1947
第71世 高階瓏仙(玉堂瓏仙 大鑑道光禅師)1876 - 1968
第72世 佐川玄彝(訓山玄彝)1866 - 1944
第73世 熊澤泰禪(祖學泰禪 大光圓心禅師)1873 - 1968
第74世 佐藤泰舜(博裔泰舜 直指圓性禅師)1890 - 1975
第75世 山田靈林(鷲峰靈林 佛真宏照禅師)1889 - 1980
第76世 秦慧玉(明峰慧玉 慈眼福海禅師)1896 - 1985
第77世 丹羽廉芳(瑞岳廉芳 慈光圓海禅師)1905 - 1993
第78世 宮崎奕保(栴崖奕保 黙照天心禅師)1901 - 2008
第79世 福山諦法(絶学諦法 慈航玄徳禅師)1932 -

7914蒼天の實相:2018/12/01(土) 22:14:58
〜白山信仰〜

1.成立
古くから「越のしらやま」として、詩歌に詠われた白山は、富士、立山とならび「日本三名山」のひとつに数えられる秀麗な峰であった。また、白山から流れ出る豊富な水は四方の川を満たし、それが広く田畑を潤すお蔭で、人々の生活と農事の一切が成り立っていた。このため、古代より白山は「命をつなぐ親神様」として、水神や農業神として、山そのものを神体とする原始的な山岳信仰の対象となり、白山を水源とする九頭竜川、手取川、長良川流域を中心に崇められていた。
奈良時代になると修験者が信仰対象の山岳を修験の霊山として日本各地で開山するようになり、白山においても、泰澄が登頂して開山が行われ、原始的だった白山信仰は修験道として体系化されて、今日一般に認識されている「白山信仰」が成立することとなった。

7915蒼天の實相:2018/12/01(土) 22:21:12
>>7914
1.成立
古くから「越のしらやま」として、詩歌に詠われた白山は、富士、立山とならび「日本三名山」のひとつに数えられる秀麗な峰であった。また、白山から流れ出る豊富な水は四方の川を満たし、それが広く田畑を潤すお蔭で、人々の生活と農事の一切が成り立っていた。このため、古代より白山は「命をつなぐ親神様」として、水神や農業神として、山そのものを神体とする原始的な山岳信仰の対象となり、白山を水源とする九頭竜川、手取川、長良川流域を中心に崇められていた。
奈良時代になると修験者が信仰対象の山岳を修験の霊山として日本各地で開山するようになり、白山においても、泰澄が登頂して開山が行われ、原始的だった白山信仰は修験道として体系化されて、今日一般に認識されている「白山信仰」が成立することとなった。


3.歴史
崇神天皇7年に、白山を仰ぎみる遥拝所が創建されたと伝えられる。祭神は菊理媛尊(白山比・大神)、伊邪那岐尊(伊弉諾命)、伊邪那美尊(伊弉冉命)の三柱であった。
その後、717年(養老元年)に、修験者泰澄が加賀国(当時は越前国)白山の主峰、御前峰(ごぜんがみね)に登って瞑想していた時に、緑碧池(翠ヶ池)から十一面観音の垂迹である九頭龍王(くずりゅうおう)が出現して、自らを伊弉冊尊の化身で白山明神・妙理大菩薩と名乗って顕現したのが白山修験場開創の由来と伝えられ[2][3][4][5]、以後の白山信仰の基となった。
翌718年(養老2年)に、泰澄は御前峰に社を築き、白山妙理大権現を奉祀した。
平安時代には、加賀・越前・美濃の3国に禅定道が設けられ、「三箇の馬場(ばんば)は、加賀の馬場(白山比・神社)、越前の馬場(白山神社)、美乃の馬場(白山神社)也」(三馬場)と呼ばれた[6]。そして、神仏習合により、820年(天長9年)には、それぞれの馬場に、白山寺、平泉寺、長滝寺の神宮寺が建立された。
延暦寺の末寺となった加賀国白山寺白山本宮、越前国霊応山平泉寺、美濃国白山中宮長滝寺は白山頂上本社の祭祀権を巡る争いを続けたが、寛文8年(1668年)白山麓は江戸幕府の公儀御料となり、霊応山平泉寺が白山頂上本社の祭祀権を獲得した。

7916蒼天の實相:2018/12/01(土) 22:22:12
>>7915
〜白山信仰〜

3.歴史
3.2.神仏分離・廃仏毀釈
明治維新による神仏分離・廃仏毀釈によって、修験道に基づく白山権現は廃社となった。三馬場のうち、白山寺白山本宮は廃寺となり、白山比・神社に強制的に改組された。霊応山平泉寺も同様に廃寺となり平泉寺白山神社に強制的に改組された。白山中宮長滝寺は廃寺は免れたものの、長滝白山神社と天台宗の長瀧寺に強制的に分離された。
山頂や登山道の各地に置かれていた仏像は、このとき引き下ろされて廃棄される運命にあった。しかし、銅造十一面観音菩薩立像(国の重要文化財)など8体が白峰村(現白山市)の林西寺住職(当時)、可性法師の手によって収集され、現在も同寺境内の「白山本地堂」に安置されている。

7917蒼天の實相:2018/12/02(日) 00:08:04
〜皇道派〜

1.名称と概説
名前の由来は、理論的な指導者と目される荒木貞夫が日本軍を「皇軍」と呼び、政財界(皇道派の理屈では「君側の奸」)を排除して天皇親政による国家改造を説いたことによる。
皇道派は統制派と対立していたとされるが、統制派の中心人物であった永田鉄山によれば、陸軍には荒木貞夫と真崎を頭首とする「皇道派」があるのみで「統制派」なる派閥は存在しなかった、と主張している。
皇道派が全盛期の時代、つまり荒木が陸軍大臣に就任した犬養内閣時に陸軍内の主導権を握ると、三月事件、十月事件の首謀者、皇道派に反する者に対して露骨な派閥人事を行い、左遷されたり疎外された者らが団結したグループは反皇道派として中央から退けられたが、この処置が露骨な皇道派優遇人事として多くの中堅幕僚層の反発を招いた。同じく皇道派に敵対する永田が、自らの意志と関わりなく、周囲の人間から勝手に皇道派に対する統制派なる派閥の頭領にさせられていたのである。これら非皇道派の中堅幕僚層は、後に永田鉄山や東條英機を中心に統制派として纏まり、陸軍中枢部から皇道派は排除されていくことになる。
両派の路線対立はこの後も続くが、軍中央を押さえた統制派に対して、皇道派は若手将校による過激な暴発事件(相沢事件や二・二六事件など)を引き起こして衰退していくことになる。
皇道派のメンバーを上原勇作が支援していた経緯から、旧薩摩閥も多かったとされる[1]。

7918蒼天の實相:2018/12/02(日) 00:08:48
>>7917
〜皇道派〜

2.誕生
荒木が真崎甚三郎と共に、皇道派をつくりあげる基盤は、宇垣一成陸相の下で、いわゆる宇垣軍縮が実施された時期に生まれたと言える。
宇垣は永田鉄山を陸軍省動員課長に据え、地上兵力から4個師団約9万人を削減した。その浮いた予算で、航空機・戦車部隊を新設し、歩兵に軽機関銃・重機関銃・曲射砲を装備するなど軍の近代化を推し進めた。
永田は、第一次世界大戦の観戦武官として、ヨーロッパ諸国の軍事力のあり方や、物資の生産、資源などを組織的に戦争に集中する総力戦体制を目の当たりにし、日本の軍備や政治・経済体制の遅れを痛感した。宇垣軍縮は軍事予算の縮小を求める世論におされながら、この遅れを挽回しようとするものであった。統制派の考え方はこの流れをくむものである。
一方、宇垣が軍の実権を握っている間、荒木・真崎らは宇垣閥外の人物として冷遇されていた。荒木は1918年のシベリア出兵当時、シベリア派遣軍参謀であったが、この時に革命直後のロシアの混乱や後進性を見る一方で、赤軍の「鉄の規律」や勇敢さに驚かされた。そのため荒木は反ソ・反共の思想を固めただけでなく、ソヴィエトの軍事・経済建設が進む前にこれと戦い、シベリア周辺から撃退し、ここを日本の支配下に置くべきであるという、対ソ主戦論者となった。
折から、佐官・尉官クラスの青年将校の間に『国家改造』運動が広がってきた。その動機は、
軍縮のため将校達の昇進が遅れ、待遇も以前と比べて悪化しそれに対する不平・不満が激化したこと。
農村の恐慌や不況のため、農民出身者の兵士の中に共産主義に共鳴する者が増加し、軍の規律が動揺するのではないかという危機感を将校達に与えたこと。
農村の指導層(地主・教師・社家・寺族・商家など)出身の青年将校の中には、幼馴染や部下の兵の実家・姉妹が零落したり「身売り」されたりするなど、農村の悲惨な実態を身近で見聞きしていた者が多かったため。
などである。
青年将校らは、このような状況を作り出しているのが、宇垣ら軍閥を始め、財閥・重臣・官僚閥であると考えたのである。
1931年12月、十月事件の圧力を背景に、犬養内閣で荒木が陸相に就任すると、真崎嫌いで知られる金谷範三参謀総長を軍事参議官に廻し、後任に閑院宮載仁親王を引き出す。ついで1932年1月に台湾軍司令官の真崎を参謀次長として呼び戻し、参謀本部の実権を握らせた。一方で杉山元、二宮治重らの宇垣側近を中央から遠ざけ、次官に柳川平助、軍務局長に山岡重厚を配する等、自派の勢力拡大を図った。人事局長の松浦淳六郎、軍事課長の山下奉文もこの系譜につながる。荒木は尉官クラスに官邸で連日のように酒を振る舞うなど、武力による「維新」を企てる青年将校らを鼓舞し、その支持を集めた。
荒木や真崎は、日露戦争時期を理想化し、日本をその状態に復帰させることが、軍の拡大強化や対ソ戦を早く決行できる所以だと考えた。ここから、「君側の奸」を討ち、「国体を明徴」にし、「天皇親政」を実現すべしという思想が引き出される。このような思想を抱く荒木らに対し、青年将校らは「無私誠忠の人格」として崇敬した。これが皇道派である。

7919蒼天の實相:2018/12/02(日) 00:09:57
>>7918
〜皇道派〜

3.行動
この派は荒木・真崎をシンボルとし、前述の将官の他、1932年(昭和7年)2月に参謀本部第二課長(作戦担当)ついで第三部長(運輸・通信担当)となった小畑敏四郎、憲兵司令官ついで第二師団長となった秦真次、小畑の後任の作戦課長である鈴木率道、陸大教官の満井佐吉らが首脳部をなしていたが、省部の中堅将校からはほとんど孤立した存在であった。皇道派が「国家革新」の切り札と頼む武力発動の計画に当たったのは、村中孝次・磯部浅一ら尉官クラスの青年将校団である。
皇道派青年将校がクーデター計画に狂奔したのは、彼らが陸軍省部中央に近い統制派ほどに具体的な情勢判断と方針を持たず、互いに天皇への忠誠を誓い、結果を顧みずに「捨石」たらんとしたという思想的特質にもよる。
青年将校らは自分たちの行動を起こした後は、「陛下の下に一切を挙げておまかせすること」(※2・26事件の首謀者の一人、栗原安秀中尉の尋問調書より)に期待するのみであった。永田鉄山軍務局長を斬殺した相沢三郎中佐は、法廷で検察官の質問に答え「国家革新ということは絶対にない。いやしくも日本国民に革新はない。大御心に拠ってそのことを翼賛し奉ることである」と述べている。したがって彼等は「革命」「クーデター」という概念すら拒絶していた。
また、彼らの信頼を集めた荒木や真崎も、自分たちが首班となって内閣をつくることを予期するだけで、その後の計画も無く、各方面の強力な支持者もいなかった。とくに財閥や官僚には皇道派を危険視する空気が強く、彼らが政権を担当する条件そのものが欠落していたのである。
それだけに、成果の見込みの有無を問わず危険な行動に走るという特徴が表面に現れた。その特徴こそ、軍部・官僚・財閥のファッショ的支配を押し進める露払いの役割を果たしたのである。もともと荒木が陸相に就任したこと自体、三月事件・十月事件で政党首脳が恐怖を感じた結果であった。
真崎は教育総監時代、天皇機関説排斥運動の中心にあった。五・一五事件や相沢事件の公判では、排外主義、国粋主義の国民意識を利用して判決に介入させ、また政党政治は事実上このときに崩壊した。この直後に引き起こされた二・二六事件は更に準戦時体制へと途を開くのである。

7920蒼天の實相:2018/12/02(日) 00:10:55
>>7919
〜皇道派〜

4.凋落
荒木は犬養内閣、さらに齋藤内閣において陸相をつとめたが、もともと軍令・教育畑が長く政治力に欠けるところがあり、高橋是清蔵相との陸軍予算折衝でも成果を挙げることが出来なかった。また側近の多くも軍政経験が乏しく、荒木を十分に補佐したとは言い難い。このため大臣末期には省部中堅の信を失い、青年将校からは突き上げを食うなど閉塞状況に陥った。
参謀本部においても、実務を切り回す真崎次長に閑院総長宮が不快感を募らせ、内部でも小畑敏四郎第三部長と永田鉄山第二部長が対ソ・支那戦略を巡り対立。後の皇道・統制両派の抗争の端緒となる。
荒木は1934年1月、酒を飲み過ぎて風邪をこじらせ、肺炎となり陸相を辞任する。荒木は後任陸相に真崎を推薦したが、真崎の独断に閉口していた閑院宮に反対され、林銑十郎教育総監が陸相となり、真崎はその後任に回った。柳川以下の皇道派幕僚も相次いで中央を去り、さらに同年11月には青年将校らによる士官学校事件が起こり、これを契機に統制派による真崎排除の機運が高まる。1935年7月、林と閑院宮は三長官会議において強引に真崎を更迭、後任に渡辺錠太郎を据えた。
荒木の辞職、真崎の更迭によって皇道派は中央での基盤を失い、8月の相沢事件を経て、1936年には青年将校を中心とした二・二六事件の暴発につながる。その後、翌年にかけての大規模な粛軍人事によって皇道派はほぼ壊滅した。現役に残ったのは山下奉文、鈴木率道ら少数の者に過ぎなかった。
なお大戦末期の1944年、昭和天皇に木戸内大臣を通じて、「戦争指導に行き詰まり、経済、社会の赤化に向う東條とその側近に代えて、予備役の皇道派将官を起用すべき」と奏した近衛文麿に対し、天皇は次のように論駁している。「第一、真崎は参謀次長の際、国内改革案のごときものを得意になりて示す。そのなかに国家社会主義ならざるべからずという字句がありて、訂正を求めたることあり。また彼の教育総監時代の方針により養成せられし者が、今日の共産主義的という中堅将校なり。第二、柳川は二・二六直前まで第1師団長たりしも、幕下将校の蠢動を遂に抑うこと能わざりき。ただ彼は良き参謀あれば仕事を為すを得べきも、力量は方面軍司令官迄の人物にあらざるか。第三、小畑は陸軍大学校長の折、満井佐吉をつかむことを得ず。作戦家として見るべきもの有るも、軍司令官程度の人物ならん。以上これらの点につき、近衛は研究しありや否や」(木戸幸一日記)。

7921蒼天の實相:2018/12/02(日) 01:27:55
〜歎異抄より〜

『善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」


『堕天使より、復活のキリスト現れる』


こうした、事知ることは、大切なんでは、ないでありません。

7922蒼天の實相:2018/12/02(日) 04:35:56
〜日本の民族〜
2.日本での現状
日本は、大和民族であるとされる人々が大多数である一方、少数民族とされる集団も存在する。まず、先住民に類するものとして以下のような例がある(日本の民族問題や、個別の詳細を参照のこと)。
縄文人
弥生人
アイヌ:北海道の先住民族。現在は和人との同化も進み、首都圏にも多く移住しているとみられるが実態は不明な点が多い。
ウィルタ
ニヴフ
出雲族
海神族
天孫族
蝦夷
琉球民族:沖縄県や奄美群島(鹿児島県)などの旧琉球王国領域の住民
隼人
熊襲
佐伯
欧米系島民 - 小笠原諸島の開拓・移民の末裔。
ブラジル系帰化人
朝鮮系日本人 - 朝鮮籍や北朝鮮、韓国籍からの帰化者。
華僑系日本人 - 台湾や中国籍からの帰化者。
アメラジアン - GIベビー とも呼称される。連合国軍占領下の日本に、アメリカ軍を中心とした連合国軍の兵士と日本人女性との間に様々な理由で生まれた人々。戦後の落とし子、と言われ、数万人はいると考えられる。日本国籍を持つ。
家船
マタギ
サンカ
※沖縄県や奄美群島(鹿児島県)などの旧琉球王国領域の住民を、大和民族とは別個の琉球民族であるとする考えがある。
※本州、四国、九州においては、一般的には別個の先住民族は認められていない。古代の蝦夷、熊野、熊襲、隼人などが本土の先住民族であるという考えもあり、近世・近代の「サンカ」をその末裔とする向きもあるが、現在ではそのような集団も見いだしがたいため一般的ではない。もっとも、東北地方では蝦夷の反乱者が郷土の英雄として神社に祀られたりする例があり、関東以南ないし西日本との若干の歴史観の差異は存在するようである。ただし、これを民族の差と捉えることはほとんどなく、元サントリー会長による「東北熊襲発言」も、民族差別ではなく地域差別発言ととらえられた。
さらに日本の近代化後に、日本に帰化した韓国・朝鮮系、中国・台湾系、欧米系の日本人などを少数民族とする考えもある。また、国民国家の枠を限定的にとらえず、在日韓国人・朝鮮人・在日華僑なども少数民族であると主張する立場も存在するが[1]、国際法上などの通説的解釈では他国の国民であり、日本国籍を持っていない者は少数民族とはみなされない。
なお日本政府が国際人権規約に基づく国際連合への報告書に、同規約第27条に該当する少数民族として記載しているのはアイヌ民族のみである。

7923蒼天の實相:2018/12/02(日) 05:44:27
>>7922
現在日本は、混血家族は、進んでいる。現状だし、労働力不足も、現実化している。何を、夢の様な、戯言を、若い人ボザク1960型脳味噌の腐れ老人!

7924蒼天の實相:2018/12/02(日) 06:14:17
〜高砂族〜
1.中華民国(台湾)の高山族
台湾原住民のうち、山地や東海岸や離島に居住し、漢人への同化が進まなかった民族を指す総称だが、現在はほとんど用いられない。人口は約50万人。清朝時代には「生番」、日本統治時代初期には「生蕃」と呼称されていたが(「番」も「蕃」も中華文明世界の外の意、漢人への同化が進んでいたものは「熟番(蕃)」と呼称された)、日本統治時代中期である1935年(昭和10年)6月4日に台湾総督府が公布した「戸口調査規定」において、先住少数民族に対する差別的呼称「生蕃」と「熟蕃」を「高砂族」と「平埔族」に改正した。この改称は、秩父宮雍仁親王の要請によると言われている。
また高山族には首狩りの習慣があり、漢人や日本人にも首狩り族と恐れられた。

7925トンチカン信徒:2018/12/02(日) 16:46:02
〜自衛隊〜

自衛隊一流とか、宣伝するの良いが、日本は、いま、近年、労働者不足は、深刻化してる。

若い人?(日野さんくらいの)、ひ弱で、重労働に、向かない。


自衛隊も、兵力確保は大変らしいよ。

地元の消防団でさえ成りて手が無い。


自衛隊が、今に中国人採用になる日も、あるのか?

民間軍事、民間警備に、世界は、移行しつつある。

軍隊も、ロボコッブの時代かも。

7926神の子様:2018/12/02(日) 20:19:00
 これを聞いた質問者は困った、『法華経』の真理を学びたいけれども、どうしても彼は人間の心の中に仏があるとは信じられないのである。

 そこで彼は日蓮聖人にこう言う。

「十界互具の仏語分明なり然りと雖も我等が劣心に仏法界を具すること信を取り難き者なり今時之を信ぜずば必ず一闡提と成らん願くば大慈悲を起して之を信ぜしめ阿鼻の苦を救護したまえ。」

 要するに、「いくら理屈を並べられても私の心の劣った中に仏の素晴らしい教えがあることなど、信じられない。しかし、それを信じないと救われない、とはあまりにも酷い。貴方は上行菩薩とかいう偉いお坊さんなんだから、なんとか慈悲の心で私を救ってほしい。」という訳である。

 これに対する日蓮聖人の返答は冷たい。

「汝既に唯一大事因縁の経文を見聞して之を信ぜざれば釈尊より已下四依の菩薩並びに末代理即の我等如何が汝が不信を救護せんや」

 ここまでお釈迦様のお経で説明してきたのに、これを信じないのであれば、お釈迦様には遠く及ばない菩薩や私たちにお前を救うこと等できん、というのである。

 念のために言っておくと、これも「真言亡国」等と同じ方便説法である。こうして突き放して後で、日蓮聖人は「ただ、お経を理解していなくとも救われる方法はあるな」というのだ。

 どういうことかと言うと、「仏を見たてまつらざれども法華にて得道する」する例もある、仏教伝来以前に誰も救われなかったのかと言うとそういうことはない、としてこう述べる。

「其の上仏教已前は漢土の道士・月支の外道・儒教・四韋陀等を以て縁と為して正見に入る者之れ有り、又利根の菩薩凡夫等の華厳・方等・般若等の諸大乗経を聞きし縁を以て大通久遠の下種を顕示する者多々なり例せば独覚の飛花落葉の如し教外の得道是なり」

 ここでいう「外道」というのは、仏教と対立していたヒンドゥー教やジャイナ教と言った宗教のことである。こういう宗教や、中国の伝統宗教である儒教を縁として『法華経』の真理に触れて救われることもある、と述べている。

 また『法華経』以外のお経から結果的に『法華経』を悟って救われたものもいる、とも述べている。

 このように日蓮聖人は他の宗教を否定したように思われがちであるが、実際には他の宗教で救われるものもいることを、はっきり述べているのである。他宗派どころか仏教以外の宗教をも認めていたのが日蓮聖人であるから、単に他宗教を「邪教」として排斥し、同じ日蓮聖人を崇敬する仲間同士でも宗派争いをすることが日蓮聖人の説かれた「折伏」であろうはずがないのである。

http://nipponkakuryoukai.cocolog-nifty.com/blog/2018/11/post-126a.html

7927蒼天の實相:2018/12/03(月) 00:58:14
〜赤穂藩〜

概要
浅野 長直(あさの ながなお、慶長15年(1610年) - 寛文12年7月24日(1672年9月15日))は、江戸時代前期の外様大名。浅野氏では初代の播磨赤穂藩主。
生涯[編集]
慶長15年(1610年)、下野真岡藩主(のちに常陸笠間藩主)である浅野長重(浅野長政の三男、広島浅野家の傍流の一つ)の長男として生まれた。母は松平家清の娘。幼名は又一郎。正室は白河藩主・丹羽長重の娘。子に長友(長男)、娘(大石良重室)。養子に長賢、長恒。
寛永8年(1631年)12月3日、従五位下内匠頭に叙任された。同9年(1632年)10月29日、父の跡を継いで笠間藩主となる。同11年(1634年)には幕府より駿府城城代に任じられ、同13年(1636年)には江戸城西の丸の普請を手伝い、さらに大坂城の加番を命じられた。この在番中、赤穂藩主の池田輝興が正室の黒田長政の娘を殺害する事件が起こり、池田家は改易となった。この改易処分の際、幕命により城受け取りに赤穂へ赴いた浅野長直は、そのまま国替え・赤穂藩主を命じられ、以降は孫の長矩の代に改易されるまで浅野家が赤穂藩主となった。
慶安2年(1649年)から赤穂城築城工事を開始し、寛文元年(1661年)に完成させた。城下の整備も進められ、上水道の設備などがおこなわれた。さらに姫路から浜人・浜子を入植させ、塩業村を興し、赤穂塩の経営を始めた。次いで、塩水濃縮法による入浜塩田法を導入して大量増産をはかり、やがて赤穂塩は日本全国の塩の7%のシェアを占めるようになる。この入浜塩田法は、赤穂のみならず瀬戸内の諸藩の塩田に伝わっていった。一連の赤穂藩の基礎を固めた業績で、長直をもって赤穂藩歴代藩主で一番の名君とする向きが強いが、一方で長直は農民・塩田労働者から6割を超える高い年貢を取り立てたため、庶民からはとても憎まれていたらしい。
寛文元年(1661年)に京都内裏が炎上した際には、長直が新内裏造営を命じられ、筆頭家老大石良欽を派遣の上、内裏を再建させている。
また承応元年(1652年) - 万治3年(1660年)にかけては山鹿素行を1,000石の高禄で赤穂へ招いて兵学を学び、家臣たちにも講義を受けさせた。これによって、山鹿流兵学や儒学は赤穂藩の学問の主流を形成することとなる。寛文5年(1665年)に山鹿素行が幕府に睨まれて赤穂に流罪にされたときも、罪人としてではなく師として迎え入れている。
また、江戸において赤穂藩は大名火消としても評判が高かった。『松雲公御夜話』には長直自らが陣頭指揮を執り、延焼を防いだ逸話が記されている[1]。寛文8年(1668年)の大火では、屋根上で指揮を取っていた長直が、燃え始めた物置の上へ家来とともに飛び降り、押しつぶして消火した。孫の長矩が刃傷事件を起こした後、江戸の住人から同情を集めたのは、長直が率いた赤穂藩大名火消としての評判・功績があったからではないかという説もある[2]。寛永18年1月29日(1641年3月10日)、江戸京橋桶町から発生した大火災(桶町火事)は、江戸市中の消火防災体制が未熟だったために大被害をもたらした。幕閣は対策を講じるために、「奉書火消」の長直ら6人を招いて相談させ、二年後の寛永20年(1643年)に「大名火消」の制度が生まれた。
寛文11年(1671年)に長男長友に家督を譲り、翌年7月24日に死去した。享年63。墓所は赤穂の花岳寺。

7928蒼天の實相:2018/12/03(月) 00:58:58
>>7927
〜赤穂藩〜



浅野 長重(あさの ながしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。
生涯[編集]
浅野長政の三男として近江国に生まれる。母の姉・ねね(おね)が豊臣秀吉に嫁いでいる関係で浅野氏は豊臣時代に優遇され、秀吉は長重を嗣子がなかった宇都宮国綱の養子にさせようと宇都宮家に働きかけを行なった。文禄2年(1593年)5月に国綱は一度了承したものの、国綱の弟である芳賀高武の反対によりこの計画は中止となった。
慶長4年(1599年)には徳川家康の命令で江戸へ移り、翌年1月から家康の三男秀忠の小姓として仕えるようになった。この年春に従五位下采女正に叙任された。また7月には秀忠が会津征伐のために出陣し、長重も従軍を希望したが、まだ15歳になっていないとの理由で江戸へ戻された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでの浅野一族の戦功は著しかったので、慶長6年(1601年)に芳賀高武の旧領である下野真岡2万石が与えられた。さらに慶長7年(1602年)には家康の養女となっていた松平家清の娘と結婚。慶長10年(1605年)、秀忠の将軍宣下のための上洛に供した。慶長16年(1611年)に父・長政の死去に伴い、隠居料として与えられていた常陸真壁5万石を相続し、真岡2万石は幕府に返上する。
長政の跡を継ぎ、関ヶ原の戦いののち紀伊国を領していた長兄の幸長が慶長18年(1613年)に死去すると、重臣の浅野氏重は徳川家と親しい長重を後継に推すが、幸長の遺言と長政正室・長生院の周旋により浅野忠吉らが推す次兄の長晟が紀州藩主を継ぐこととなった。
慶長19年(1614年)に大久保忠隣が改易された際には安藤重信・本多忠朝とともに小田原へ赴いている。また同年の大坂冬の陣にも出陣し、夏の陣の天王寺・岡山の戦いでは先陣をきって毛利勝永ら豊臣方先鋒隊と戦い、浅野家は家臣30人・雑兵100人あまりを失い敗走するものの、豊臣方の首級60をあげて一矢報いた。また同戦では大石良勝が活躍し、この戦功をもって1500石を拝領し筆頭家老となった大石家は、(長重流)浅野家の永代家老家とされた。「赤穂浪士の大石内蔵助」で有名な大石良雄は、この家系から出ている。
元和8年(1622年)に本多正純が改易となった際に宇都宮城の収城使を務める。また同年、加増転封させるという内意を受けたが、長重は真壁の領有を望んで認められ、真壁を含む5万3500石とされて笠間藩主に転じた。寛永4年(1627年)には陸奥国若松城に在番し、寛永6年(1629年)には江戸城西丸の普請に携わった。
寛永9年(1632年)9月3日に死去した。享年45。父・長政と同じ真壁伝正寺に葬られた。墓所は花岳寺にもある。家督は長男の長直が継いだ。


〇この通り、豊臣家譜代の大名の浅野氏である。

赤穂藩を、断絶した、幕府理由は、簡単だ。


日野さんの、フェイスブックは、明らか、小嘘をついてる

7929蒼天の實相:2018/12/03(月) 01:29:13
>>7928
豊臣対徳川の図式が、そこに、あるわけだ。

それに、由井正雪事件、伊達藩お家騒動も、豊臣対徳川の図式、関ヶ原の図式的構造から、行くの筋だ。

下級武士云々は、そりゃ、浪人がバッコした、戦国末期の状態(失業者対策)などの不満の噴出だろ。

世間をしらない、流石は、日野オボチャンの思考だと思った。

7930蒼天の實相:2018/12/03(月) 01:47:19
〜国柱会〜

田中智学師と226事件
5.第一次大戦後〜第二次大戦中の用例の概要と評価
5.1.二・二六事件における言及
1936年(昭和11年)に発生した二・二六事件では、反乱部隊が認(したた)めた「蹶起趣意書」に、「謹んで惟るに我が神洲たる所以は万世一系たる天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり」とある。この事件に参加した皇道派は粛清されたが、日露戦争以降の興亜論から発展したアジア・モンロー主義を推し進める当時の日本政府の政策標語として頻繁に使用されるようになった。
「八紘一宇」という表現を内閣として初めて使ったのは第一次近衛内閣であり、1937年(昭和12年)11月10日に内閣・内務省・文部省が国民精神総動員資料第4輯として発行した文部省作成パンフレット「八紘一宇の精神」であるとされる[19]。1940年(昭和15年)には、第2次近衛内閣による基本国策要綱(閣議決定文書、7月26日)で、「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ」[20]と表現し、大東亜共栄圏の建設と併せて言及された。同年9月27日には、日独伊三国同盟条約の締結を受けて下された詔書にて「大義ヲ八紘ニ宣揚シ坤輿ヲ一宇タラシムルハ実ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ朕ガ夙夜眷々措カザル所ナリ」と言及されるに至った。


4.田中智學による国体研究
大正期に日蓮宗から在家宗教団体国柱会を興した日蓮主義者・田中智學が「下則弘皇孫養正之心。然後」(正を養うの心を弘め、然る後)という神武天皇の宣言に着眼して「養正の恢弘」という文化的行動が日本国民の使命であると解釈、その結果「掩八紘而為宇」から「八紘一宇」を道徳価値の表現として造語したとされる[16]。これについては1913年(大正2年)3月11日に発行された同団体の機関紙・国柱新聞「神武天皇の建国」で言及している。田中は1922年(大正11年)出版の『日本国体の研究』に、「人種も風俗もノベラに一つにするというのではない、白人黒人東風西俗色とりどりの天地の文、それは其儘で、国家も領土も民族も人種も、各々その所を得て、各自の特色特徴を発揮し、燦然たる天地の大文を織り成して、中心の一大生命に趨帰する、それが爰にいう統一である。」と述べている[17]。もっとも、田中の国体観は日蓮主義に根ざしたものであり、「日蓮上人によって、日本国体の因縁来歴も内容も始末も、すっかり解った」[18]と述べている。

7931蒼天の實相:2018/12/03(月) 08:59:19
〜醤油〜
醤油
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1.概要
独自の発展を経て明治時代の中期に完成を見た。大豆、小麦、塩を原料とし、麹菌、乳酸菌、酵母による複雑な発酵過程を経て生成され、その過程でアルコールやバニリン等の香気成分による香り、大豆由来のアミノ酸によるうまみ、同じく大豆由来のメチオノールによる消臭作用と、小麦由来の糖による甘みを持つ。なお、赤褐色の色調は、主にメイラード反応によるものである。
鉄分はコウジカビの生育に悪影響を与えるので鉄分の少ない水を使用する[1]。鉄分が少ない方が色が薄く仕上がり、軟水の方が適する[2]。
日本料理の調理において、煮物の味付けや汁物やタレのベースにするなど、広く利用され、天ぷら・江戸前寿司・蕎麦など、日本の食文化の基本となっている調味料である。また、ほとんどの場合は濃口醤油が用いられ、一般家庭でも醤油差しに入れられて食卓に出され、食堂や日本料理店などでも同様に普通にテーブルに置かれ、料理にかけたり少量を小皿に注ぎ・浸す、「つけ・かけ」用途に用いられる。主要な産地としては千葉県・兵庫県である。

7932トンチカン信徒:2018/12/03(月) 09:02:53
>>7931

酵母は、厳密には、植物では、無い。多細胞生物体動物らしい。

ヴーガンは、純粋に植物しか食べては、行けないのだから、この決まなら、醤油、味噌は、禁止だな。

7933トンチカン信徒:2018/12/03(月) 22:15:19
日野さんの『新掲示板の投稿内容』であります。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

NAME
日野智貴
SUB
スリーパーセルに配慮する気はありません
MES

 私のいうことが総裁先生の御教えに反するのであれば、それを堂々と指摘すれば良いのです。

 それを指摘できないということは、私の言うことが総裁先生の御教えに反していないか、或いは些末な面では私の未熟さ故に誤りもあるかもしれませんが、全体として総裁先生に反していないことを貴方も判っているからです。

 総裁先生に反していない主張の拡散を嫌がるのは、貴方が反教団側の人間であるか、それとも、教団内部に潜伏するスリーパーセルであるからであります。

 少なくとも、最近の私の次のブログにおいて、総裁先生の御教えに反する部分があれば、それを具体的に指摘していただきたい、と思います。

上行菩薩・日蓮聖人は「唯神実相・唯心所現・万教帰一」の真理を説かれた――「折伏」とは「常不軽菩薩」の行の実践なり
http://nipponkakuryoukai.cocolog-nifty.com/blog/2018/11/post-126a.html

『法華経』とアニマルライツと「天皇国・日本」の実相顕現
http://nipponkakuryoukai.cocolog-nifty.com/blog/2018/12/post-d0d8.html
投稿日時
2018年12月03日 (月) 16時55分

7934トンチカン信徒:2018/12/04(火) 01:41:12
>>7933
日野さん、高校生が、優等生が、言う通り、『私は、雅宣先生の言う通り、生長の 家の行いをしてると、言いたいらしい』

>>それを指摘できないということは、私の言うことが総裁先生の御教えに反していないか、或いは些末な面では私の未熟さ故に誤りもあるかもしれませんが、全体として総裁先生に反していないことを貴方も判っているからです。

 総裁先生に反していない主張の拡散を嫌がるのは、貴方が反教団側の人間であるか、それとも、教団内部に潜伏するスリーパーセルであるからであります。<<


先日の、『清超先生の法要』の時、お話は、清超先生から法統継承された、お話でした。


①、真・善・美の教えは、清超先生が、著作をみると言うか、毎日された行事から、来ていると思う。

②法統継承の著作、『正法眼蔵を読む』の一番大切な箇所は、『面受の巻き』である。また、正法眼は、曹洞宗、道元禅師の教えである。


③、四無量心の神想観をするのは、清超先生の、真・善・美を継承する心を、実習するのと同じである。日野さんは、此方点は、総裁先生に背信的であると思われる。

7935蒼天の實相:2018/12/04(火) 02:07:56
〜天台小止観(摩可止観)〜

天台小止観
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▼目次
概要
天台小止観(てんだい しょうしかん)は、天台智・が説き、弟子の浄辨 (中国)(慧辨)が記録した、止観(坐禅の1種)についての説明書である。
「童蒙止観」とも呼ばれる。


1.概要
三種止観のうちの「漸次の止観」を説明した『禅門修証』10巻の要略書で、特に巻6の「禅のための前方便」を中心に、1巻10章編成で坐禅の作法を解説している。


1.概要
1.1.章立て
具縁 - 準備を整える
呵欲 - 欲望を喚起する物を遠ざける
棄蓋 - 5種の悪しき心(五蓋)を捨てる
調和 - 5種(飲食・睡眠・身体・呼吸・心)を調整する
方便行 - 5つの修行を行う
正修行 - 坐禅、随縁・随境修行
善根発 - 修行の結果として善い結果が現れる
覚知魔事 - 心の悪を知る
治病患 - 病を治す
証果 - 坐禅を実践して得られる成果

7936蒼天の實想:2018/12/04(火) 21:50:59
〜天台宗〜

(天台法華宗)


概要
天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経(法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる[1]。天台教学は中国に発祥し、入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられ、多くの日本仏教の宗旨がここから展開した。

7937蒼天の實相:2018/12/05(水) 12:38:17
〜天台宗=正式名称〜

1.日本の天台宗
正式名称は天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後の呼び名は日蓮教学の法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。
初め、律宗と天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍が日本に入った。次いで、伝教大師最澄(767年-822年)が延暦23年(804年)から翌年(805年)にかけて唐に渡って天台山にのぼり、天台教学を受けた。同年、日本に帰国した最澄は天台教学を広め、翌年(806年)1月に天台法華宗として認められたのが日本における天台宗のはじまりである。最澄は特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。
この時代、すでに日本には法相宗や華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄は日本へ帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。また、鑑真和上が招来した具足戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇を設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという革新的な最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。
9世紀に空海がもたらした密教は日本仏教の中心になる中、天台宗も密教を取り込もう考えるようになる(「天台密教」の項も参照)。そして、円仁と円珍の努力で密教理論が整えられていった。しかしその後、円仁と円珍双方の弟子が解釈を巡って対立するようになる。993年には円仁派が円珍派の坊舎を焼き払うという事件が起きた。そして、円珍派1000人余りの僧侶が比叡山を降り、園城寺を拠点とするようになった。以降、円仁派は「山門派」、円珍派は「寺門派」と呼ばれるようになる[2]。そのような中、平安時代中期には、第18世座主の良源によって諸堂の再建と整備、それに教学の振興が図られ、さらに弟子の源信が著した「往生要集」が、後の浄土教の発展につながった。平安時代末期から鎌倉時代初めにかけては、法然や栄西、親鸞、道元、日蓮といった各宗派の開祖たちが比叡山で学んだことから、比叡山は「日本仏教の母山」と呼ばれるようになった。16世紀、延暦寺は織田信長の焼き討ちに遭い、宗勢に陰りが見えたが、江戸時代に入ると天海が立て直し、特に寛永寺は西の比叡山に対して東叡山と呼ばれ、影響力は全国に及んだという[3]。



※上記の様に、日蓮が、天台宗改革を当初鑑みていたことが、わかる。

法華宗とは天台宗の事を指す。

日野ボンの、バカが露呈した型ですね。

7938神の子様:2018/12/05(水) 13:54:08
過去の歴史を引き合いに出すのは、過去の雅春先生の時はこうだったと云うのと同じで、頭の中に存在するだけのもの、何の価値もないです。

過去も現在も未来もなく、久遠の今のみの存在です。

幾ら物知りになったところで、生死の世界の流転を深めるばかりです。

流転しないものは何でしょうか?

7939神の子様:2018/12/05(水) 14:15:21
>>7926
独覚の飛花落葉の如し教外の得道是なり

そうですね、教によって萬物は存在しているのではないです。
教外別伝と云われているのは、凡ての教えは月を指す指、今此処にある浄円月を知れよとの意。

生長の家にしても、言葉の教え「生命の実相」に書かれていること、又雅春先生が云われた言葉に意味付けしてもしかたない。
神想観の果てに自我の脱落を得て初めて、存在の実相を決定するものです。

早い話が言葉の世界に居ては何もならないと云うことです。

7940トンチカン信徒:2018/12/05(水) 18:30:35
この?隠しハンネ=神の子様のコメント、怪しいね。

隠しハンネ=神の子様だしね(笑い)


===========

2722:神の子様
18/12/03(月) 16:13:01
楠本というのも生長の家か。
掲示板管理人は菊川、渡辺、楠本のいずれかの人物。

キケこと島津は掲示板管理人を通じて
生長の家総裁の発言を菅野完に渡してる。

===========

※呼び捨てにしてるね。
訊けさんが、嫌いらしいね、この、隠しハンネ=神の子様

7941蒼天の實相:2018/12/06(木) 00:45:55
〜西田天香先生の示された伝導の範例〜

<わたしは伝導のきびしさを憶(おも)うとき、いつも一燈園の創始者の西田天香先生の聖なるきびしさを思い出すのである。天香先生の嫡子保太郎氏が重症で、いつ臨終となるやも測り知ることが出来ないで近親者がその机辺(きへん)に集まっているとき、天香先生は『人類が救いを求めて私を呼んでいるのだ。私はその方に赴かねばならない。それがまた保太郎の菩提のためであるのだ。さようなら』といって危篤の子供を残して人類救済のために旅立っていかれるのであった。それは最近親者たる母に向かって『われと汝と何な関係あらや』と淡々と言い切って、『わが時はいまだ来らず、また時が来たら会おうよ』と十字架上で母と再会する約束をせられたイエスの心境とよく似ているのである。義は重く、真理伝道の使命は重く、肉親の愛情はそれに比べれは軽いのである。>


〜信仰の活人剣『P121〜P122』の “伝道のきびしさ”より。

7942トンチカン信徒:2018/12/06(木) 21:37:59
シャンソンさん

機関誌=生長の家が、志恩さんこないのは、聖使命会費を自己支払い、して、正式な=生長の家会員じゃないかいからですよ、シャンソンさん。

志恩さんの義兄が生長の家なんで、志恩さんは何十年も、前に引退したとコメントしてますよ。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

3680:志恩

18/04/26(木) 23:06:31 ID:6hRUvSRg
私は、フリーなので、教団の方も学ぶ会の方も、行けるのです。

============
(トンチンカン=志恩さんが、生長の家を、何十年もに、脱会されている、証拠のコメント)

※→私も私で、私が義兄に、「今は 払いたくないんです」と払わないように

お願いしているにもかかわらず、

義兄は、夫と私の二人分の聖使命会費を、「そういうわけには、まいりません」と、


①聖使命を、第三者奉納なので?すでに?信徒?信者で無い亊は?明確な事実です♪

==========


NAME
志恩
SUB
トキ:機関誌を拝読して
MES
新・トキ掲示板より
━-━-━-━-━-━-━-━-━-━-━-━-━━-━-━-━-
機関誌を拝読して (8067)
日時:2018年12月04日 (火) 19時26分
名前:トキ

 12月号の機関誌を拝見しました。

 11月にあった本部のフェスタの記事が大半で、
手工芸品を作ったとか、自転車競走をしたとか、舞台での演芸披露とか、
模擬店の料理とかの説明が大半です。

 別に本部がこの手の「文化祭」をするのにケチをつけるつもりはないです。

自衛隊でも大学でも、一般の人を対象にした文化祭などを開催しています。
問題は、この手の内容が「運動」の主流となっており、本来の求道と伝道が
ほとんど無視されているのです。

 これについて、記事を読むと、どうやら、この手の行事を開催することで、
一般人に宗教への偏見をなくして、広く生長の家に親しんでもらうという目的を
持っているみたいです。

しかし、一緒に遊んだからと言って、その宗教に入信するとかいうのは
期待できません。

 それで思い出したのは、昔、Mさんという有名な歌手がいました。
名前は伏せますが、大ヒットを一時期は連発しましたが、
次第に忘れ去られて行きました。
 
 このMさんが、銀座の有名なクラブに 友人知人を連れて
よく奢っていました。

その散財を気にしたある人が忠告したところ、
Mさんは、
「こうやって奢っておけば、そのうち仕事に繋がるかもしれない。」
と返答したそうです。

 しかし、いざMさんが落ち目になると、
そうやって奢ってあげた人は、すぐに離れてゆき、
何の手伝いもしてくれなかったそうです。

 本当の信仰を持つ人を育てず、
安易な人気取に走ると、あとで しっぺ返しが 来るのではないか、
と危惧しています。
投稿日時
2018年12月04日 (火) 21時53分


=========

7943トンチカン信徒:2018/12/06(木) 21:39:29
>>7942
志恩さんて、捏造婆さんですよねよね、シャンソンさん

7944蒼天の實相:2018/12/08(土) 02:37:12
〜楢山節孝〜

概要
『楢山節考』(ならやまぶしこう)は、深沢七郎の短編小説。民間伝承の棄老伝説を題材とした作品で、当代の有力作家や辛口批評家たちに衝撃を与え、絶賛された、当時42歳の深沢の処女作である[1]。山深い貧しい部落の因習に従い、年老いた母を背板に乗せて真冬の楢山へ捨てにゆく物語。自ら進んで「楢山まいり」の日を早める母と、優しい孝行息子との間の無言の情愛が、厳しく悲惨な行為と相まって描かれ、独特な強さのある世界を醸し出している。
1956年(昭和31年)、雑誌『中央公論』11月号に掲載され、第1回中央公論新人賞を受賞した[1]。単行本は翌年1957年(昭和32年)2月1日に中央公論社より刊行された。ベストセラーとなり、これまでに2度、映画化された。文庫版は新潮文庫で刊行されている。翻訳版は1958年(昭和33年)のベルナール・フランク訳(仏題:“La Ballade de Narayama”)をはじめ、各国で行われている。(1959年のガリマール版(ベルナール・フランク訳)の表題はETUDE A PROPOS DES CHANSONS DE NARAYAMA)。


1.作品成立・背景
深沢七郎は、「姥捨伝説」を、山梨県境川村大黒坂(現在・笛吹市境川町大黒坂)の農家の年寄りから聞き、それを、肝臓癌を患った実母・さとじの「自分自らの意思で死におもむくために餓死しようとしている」壮絶な死に重ねながら、老母・おりんと息子・辰平という親子の登場人物を創造した[2]。また、おりんの人物造型には、キリストと釈迦の両方を入れているという[3]。
なお、作品舞台は「信州」となっているが、描かれている人情や地形は山梨県の大黒坂の地であることを深沢は以下のように語っている。
拙作「楢山節考」は 姥捨の伝説から題材を得たので信州の姥捨山が舞台だと思われているようだが、あの小説の人情や地形などは、ここ山梨県東八代郡境川村大黒坂なのである。もちろん現在のここの風習ではなく、もっと以前のこの土地の純粋な人情から想像してあの小説はできたのだった。だから「楢山節考」に出てくる言葉―方言は信州ではなく甲州弁である。
?・深沢七郎「楢山節考・舞台再訪」[4]
また、作中には、「三」と「七」という数字が多用され、「三つ目の山を登って行けば池がある。池を三度廻って」、「七曲りの道があって、そこが七谷というところ」などと語られ、「楢まいり」に行く年齢が70歳、おりんの歯が33本、といったような神秘性がある[2]。深沢七郎の「七郎」という名前も、故郷の身延山の山奥にある七面山から由来しており、仏教信仰の厚い両親が、その神聖な山に因んで名付けたという[2]。
深沢は『楢山節考』執筆当時、ギタリストとして様々な公演に参加し、作品は家と日劇ミュージックホールの楽屋で書いていた[5]。そして、そのとき公演の構成演出をしていた丸尾長顕の勧めで、雑誌『中央公論』の新人賞に応募して、中央公論新人賞を受賞した[5]。なお、審査の選考委員は、三島由紀夫、伊藤整、武田泰淳であった[1]。
[6]


。三島由紀夫は、その読後感を、「総身に水を浴びたような感じがした」と選評し[8]、「何かこわいというか『説教師』や『賽の河原』や『和讃』、ああいうものを読むと気分がずっと沈んでくる、それと同じ効果を感じる」とも語っている[9]。
また三島は、後年のエッセイの中で、審査員が新人の作品を読む時の心境を、年ごとに祭の神輿の若い担ぎ手が下手になっていくのを嘆く町会の旦那衆の心境に喩え、同時に審査員は「これが小説だ」という新人の出現を密かに期待して、「天才の珠玉の前にひれ伏したい気持」も伴っているとし[10]、そういった「慄然たる思ひ」を只一度感じたのが、深沢七郎の『楢山節考』の生原稿を読了した時だったと振り返り、「はじめのうちは、なんだかたるい話の展開で、タカをくくつて読んでゐたのであるが、五枚読み十枚読むうちに只ならぬ予感がしてきた。そしてあの凄絶なクライマックスまで、息もつがせず読み終ると、文句なしに傑作を発見したといふ感動に搏たれたのである」と述懐しながら[10]、以下のように語っている。
しかしそれは不快な傑作であつた。何かわれわれにとつて、美と秩序への根本的な欲求をあざ笑はれ、われわれが「人間性」と呼んでゐるところの一種の合意と約束を踏みにじられ、ふだんは外気にさらされぬ臓器の感覚が急に空気にさらされたやうな感じにされ、崇高と卑小とが故意にごちやまぜにされ、「悲劇」が軽蔑され、理性も情念も二つながら無意味にされ、読後この世にたよるべきものが何一つなくなつたやうな気持にさせられるものを秘めてゐる不快な傑作であつた。今にいたるも、深沢氏の作品に対する私の恐怖は、「楢山節考」のこの最初の読後感に源してゐる[11]。
?・三島由紀夫「小説とは何か」[10]

7945蒼天の實相:2018/12/08(土) 02:43:04
>>7944
三島由紀夫氏が、理解出来ないかった、『楢山節考』の『無常』実学の武士道は、劇画〜子連れ狼の『冥府魔道』に繋がる〜

7946蒼天の實相:2018/12/08(土) 08:33:58
〜式年遷宮〜

〜式年遷宮〜

8.祭事
8.1.式年祭
式年大祭として、式年神幸祭(しきねんじんこうさい)が12年に1度の午年に行われる。境内前までの神幸祭は毎年4月15日に行われているが、式年大祭では4月15日・16日の両日に大規模に行われる。古くは「軍神祭」「軍陣祭」とも称された[44]。
この祭は、経津主神による東国平定の様子を模したものといわれる[3]。元は「式年遷宮大祭」の名で、20年に1度の式年造営に伴って行われたという[45]。しかしながら式年造営と同じく応仁の乱の頃に衰え、永禄11年(1568年)を最後として明治まで絶えていた[44]。その後、明治8年(1875年)に復興され毎年執行されていたが、明治15年(1882年)以降は午年毎の執行と定められ、現在に至っている[44]。



3.特徴
香取神宮は、常陸国一宮の鹿島神宮(茨城県鹿嶋市、位置)と古来深い関係にあり、「鹿島・香取」と並び称される一対の存在にある[4][11]。
鹿島・香取両神宮とも、古くより朝廷からの崇敬の深い神社である。その神威の背景には、両神宮が軍神として信仰されたことにある[12]。古代の関東東部には、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼を含む一帯に「香取海(かとりのうみ)」という内海が広がっており、両神宮はその入り口を扼する地勢学的重要地に鎮座する。この香取海はヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られており[12]、両神宮はその拠点とされ、両神宮の分霊は朝廷の威を示す神として東北沿岸部の各地で祀られた(後述)。
朝廷からの重要視を示すものとしては、次に示すような事例が挙げられる。
鹿島香取使
「神宮」の呼称
また藤原氏からの崇敬も強く、藤原氏の氏社として創建された奈良の春日大社では、鹿島神が第一殿、香取神が第二殿に祀られ、藤原氏の祖神たる天児屋根命(第三殿)よりも上位に位置づけられた。中世に武家の世に入ってからも、武神を祀る両神宮は武家から信仰された。現代でも武術方面から信仰は強く、道場には「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた2軸の掛軸が対で掲げられることが多い。

7947蒼天の實相:2018/12/08(土) 14:50:39
〜アイヌ・倭人戦争〜

▼目次
概要
コシャマインの戦い(コシャマインのたたかい)は、1457年に発生したアイヌと和人との戦い。


1.概要
応仁の乱のちょうど10年前の1457年(康正3年、長禄元年)に起きた和人に対するアイヌの武装蜂起。現在の北海道函館市にあたる志濃里(志苔、志海苔、志法)の和人鍛冶屋と客であるアイヌの男性の間に起きた口論をきっかけに、渡島半島東部の首領コシャマイン(胡奢魔犬[1]、コサマイヌとも呼ばれる)を中心とするアイヌが蜂起、和人を大いに苦しめたが最終的には平定され、松前藩形成の元となった。
当時、和人は既に渡島半島から道南に進出しており(渡党、道南十二館などを参照)、製鉄技術を持たなかったアイヌと鉄製品などを交易していた。アイヌの男性[2]が志濃里の鍛冶屋に小刀(マキリ)を注文したところ、品質と価格について争いが発生した。怒った鍛冶屋がその小刀でアイヌの男性を刺殺したのがこの戦いのきっかけである。
1456年(康正2年)に発生したこの殺人事件の後、首領コシャマインを中心にアイヌが団結し、1457年5月に和人に向け戦端を開いた。胆振の鵡川から後志の余市までの広い範囲で戦闘が行われ、事件の現場である志濃里に結集したアイヌ軍は小林良景の館を攻め落とした。アイヌ軍は更に進撃を続け、和人の拠点である道南十二館の内10までを落としたものの、1458年(長禄2年)に武田信広によって七重浜でコシャマイン父子が弓で射殺されるとアイヌ軍は崩壊した。
この事件の前年まで道南に滞在していた安東政季の動向などから、事件の背景に当時の北奥羽における南部氏と安東氏の抗争を見る入間田宣夫の見解や、武田信広と下国家政による蝦夷地統一の過程を復元しようとする小林真人の説がある[3]。
アイヌ対和人の抗争はこの後も1世紀にわたって続いたが、最終的には武田信広を中心にした和人側が支配権を得た。しかし信広の子孫により松前藩が成った後もアイヌの大規模な蜂起は起こっている(シャクシャインの戦い、クナシリ・メナシの戦い)。
なお、1994年(平成6年)より毎年7月上旬、北海道上ノ国町の夷王山で、アイヌ・和人の有志による慰霊祭が行われている。
[6]次ページ

7948シオン観測隊:2018/12/08(土) 19:15:13
志恩さんの変身ハンネ〜クレタスまきの一人芝居で、訊けさんを覗き見する、志恩さん。

NAME
クエスターまき
MES
志恩さん大変!

訊けさんが破邪さんを讃えてます(〇_〇)←

☆奇跡が発生しました☆

以前、破邪さんのご講話をリアルに拝聴したことがあります
おやじギャグ(sorry)満載のめちゃ楽しい時間でしたし
お話のテンポが小気味よくて好きな本部講師さんでしたので
これまた好きな(tempo)訊けさんが珍しく褒められてるので
嬉しくなりました(*^ω^*)
投稿日時
2018年02月26日 (月) 16時02分

7949シオン観測隊:2018/12/08(土) 19:16:19
>>7948
志恩さんは、クレタスまきに変身して、訊けさんを、覗き見してまた(笑)

7950シャンソン:2018/12/09(日) 18:49:11
>機関誌=生長の家が、志恩さんこないのは、聖使命会費を自己支払い、して、正式な=生長の家会員じゃないかいからですよ、シャンソンさん。

7951シャンソン:2018/12/09(日) 18:54:08

 でも、ここの管理人が、自分がいったことのまちがいや、
 親友の訊け氏の意向も理解できず、なにが正しいのかわからないという
 とんでもない人だし、そういう訊け氏でもるん吉でもさくらでも志恩さんでも
「生長の家の縁のあるだけの人」をえこひいきしているような印象があります。

 もともと、会員限定の掲示板ではないのだし、こんなところでは年齢さえも
 なにが嘘で本当でって簡単に立証できません。

 だから、前からいっているように、上記のような話題を何回も持ち出すほうが
 おかしいです。

 青年から老婆のは単なる思い出話、と評されているように
 読む人が勝手に、評価していたらいいだけだと思います。

7952蒼天の實相:2018/12/09(日) 19:16:17
◎一般には、こうなります。
1)塩竈神社(所在地:宮城県)陸奥国一宮の総鎮守。
2)鹿島神宮(所在地:茨城県)常陸之国一宮総鎮守

3)香取神宮(所在地:千葉県)下総国之一宮総鎮守


こうなります。したがて、塩竈神社のホムペをちゃんと、読んでいだだけば、わかりますが、鹿島神も、香取神も、自宅は、茨城県と、千葉県なので、帰宅されたのです。
平和が回復したので、塩作りしながら、東北の人たち過ごされのです。

それに、明治以前に、"神宮"と名前の付く、神社は、鹿島神宮、鹿島神宮、伊勢神宮の3神宮のみです。
今も、12年に一度の"遷宮"には、天皇陛下から勅書あるのだそです。

7953トンチカン信徒:2018/12/09(日) 21:41:10
シャンソンさん

今日の朝日新聞の広告に、『日時計日記:著作谷口純子』てありました。

また、横浜日吉駅のお婆さんが、ライバル心剥き出して、『お日様日記:著作金 志恩』とか書いて、駅前や慶応キャンパス前で売らないいいですね(笑)

7954シオン観測隊:2018/12/09(日) 23:59:26
〜この、じい様風の、コメターは、シャンソンさん言う、『江戸のジイサン』ですかね?志恩さんの仲間の〜

NAME
個別訪問
SUB
練成は錬成ではない。
MES
それは何年前の話ですか
貴方の崇拝する総裁はその伝統がお嫌いだと思うが。
楠本元本部講師は長老という呼称も取り上げられているのじゃ?
もっとも信仰の活人にとっては、無問題の稚拙な仕打ちであるとは思う。

お互いああいえばこういうやり取りは不毛じゃのぅ。
ここらで、失礼。
投稿日時
2018年12月09日 (日) 20時58分

7955蒼天の實相:2018/12/10(月) 03:34:14
〜遷宮〜

概要
遷宮(せんぐう)とは、神社の本殿の造営または修理の際に、神体を従前とは異なる本殿に移すことである。


1.概要
本殿が従前とは異なる境内に新築移転したり、同じ境内で別の位置に新築移転したりする際のほか、本殿の修理や新築の際に一時的に神体を移動する場合にも遷宮という。たいてい祭礼を伴う。
定期的な遷宮を式年遷宮(しきねんせんぐう)と言う。「式年」とは「定められた年」の意。単に「式年遷宮」という時、伊勢神宮(三重県伊勢市)の神宮式年遷宮を指すことが多い。式年遷宮は式年祭の一種といわれる。社殿を建て替えるだけでなく、氏子の信仰心を再確認する意味がある[1]。
予定通りの遷宮を正遷宮、天災・人災により予定外の本殿の修繕・建て替えが必要になった場合に仮の建物に移す遷宮を仮殿遷宮、予定外に本殿を新たに建てた上で正遷宮と同様の儀式を行ない移す遷宮を臨時遷宮と区別する場合がある。
遷座
なお、本殿を造営・修理することなく、神体を遷すことを遷座(せんざ)といい、仏(本尊)を他の場所に移転する場合にも用いる言葉である。また、天皇についても用いることがある[2]。
古材は、宇治橋の鳥居のように伊勢神宮内で使われたり、戦災や災害の被災神社の再建・復興に使われる。熱田神宮では、社殿は伊勢神宮の式年遷宮の際の古用材を譲り受け、1955年(昭和30年)10月に再建された。皇學館大学の櫻井治男教授によると、2013年の伊勢神宮の式年遷宮の古材も東日本大震災で津波に流された東北地方の神社社殿復興に使われる予定[3]。




式年遷宮の周期はそれぞれの神社で異なる[1]。
鹽竈神社(宮城県塩竈市。20年毎。1704年以降は修理のみ)
穂高神社(長野県安曇野市。20年毎。現制は江戸時代から)
香良洲神社(三重県津市。20年毎)[4]
伊勢神宮(三重県伊勢市。20年毎。690年から) - 「神宮式年遷宮」参照
神明神社(三重県志摩市。20年毎。1764年から)
賀茂別雷神社(上賀茂神社)(京都府京都市。21年毎[5])
豊受大神社(京都府福知山市。60年毎。平安時代から)
住吉大社(大阪市住吉区。30年毎。1810年以降は修理のみ)
天照皇大神宮(福岡県糟屋郡。20年毎)
かつては香取神宮・鹿島神宮・宇佐神宮・春日大社・諏訪大社(⇒御柱祭)などでも行われた。賀茂御祖神社は21年ごとに行われてきたが、東・西本殿とも国宝に指定されたため、現在は一部を修復するのみである[6]。春日大社ではほぼ20年に一度、本殿の位置を変えずに建て替えもしくは修復を行ってきたため「式年遷宮」ではなく「式年造替」と呼称している[7]。
また、出雲大社は概ね60〜70年毎に建て替えられてきた[8]が、必ずしも定期的ではないので「式年遷宮」に該当しない[9]。


※大熊先生のフェイスブックで、四宮氏が『遷宮』間違えた見解を、コメントしていた。

出雲大社も、鹿島神宮も、沢山の有名な、神社が実際は、遷宮をしてる。『古事記』や『日本書紀』に明記されて物まである。思い込みは、止めてもしいものだ。

7956トンチカン信徒:2018/12/10(月) 03:58:32
>>7955
日野ボンが、日本国紀とか書いた、人批判してが、日野ボンのフェイスブックのシェアされてた、大熊先生の四宮氏の『遷宮』の知識や日本史も満額並みだね??

大熊先生は、誉めていたが、日本国紀の作者も、四宮氏も、最低の日本史だよ。


遷宮の知識もないんだよ。
確か?出雲大社は、60年ぶりに遷宮しただよ。遷宮は、各地の有名神社で、されているよ。伊勢神宮だけの特権じゃない。
ほんと、コテコテの関西人丸出しなのわかる四宮氏だ。日本国紀の作者そのあたりは、同じだね。

二人とも、漫才台本でも書いたほうがよいな。

7957トンチカン信徒:2018/12/10(月) 09:27:37
摩可不思議?

シャンソンさん?

大熊先生?

韓国式空手→極真系空手の師範代になってるよ?

日野ボンが?新羅人の志恩さんの味方になるわけだね?

小沢さんて?新羅系だよ?噂でね?

シャンソンさん


日野ボン落ちたな?

極真はテコンドウの従兄弟関係にあるんだぜ?


宇治は、部落民多いからな。


純潔日本武道じゃないよ。極真は。

沖縄日本空手とは違うんだ。それだは、知ってる。

7958トンチカン信徒:2018/12/10(月) 09:29:31
>>7957
私の知り合いの、人は鹿島神道流。純潔日本武道です。

7959トンチカン信徒:2018/12/10(月) 09:30:57
霊魂を切るを出来るのが、純潔日本武道なのです。

7960トンチカン信徒:2018/12/10(月) 10:26:01
〜面白本見つけた〜

新天皇陛下は、私と同じ関東中心の関東天皇家〜北朝正統説のようだ!

真に、正解である!

西日本に、天皇国日本主義者は、亡霊で拝でいればよい

7961トンチカン信徒:2018/12/10(月) 10:29:37
>>7960
関西人の日野ボンに読ませてやりたいね(笑)

南朝の亡霊に取りつかれたから、おわりだよ

7962トンチカン信徒:2018/12/10(月) 10:32:51
関東天皇家(北朝天皇家)こそが、我が日本の中心であり、関東こそ日本の中心なのだ!

7963🚈:2018/12/10(月) 13:00:38

小さな夜のたけし@fgo_takeha
フォローする
電車に間に合いたい男子高生達が階段降りてったんだけど、1人靴脱げてうわーって叫んでて、先に行った子たちが「シンデレラァ!」「何やってんだシンデレラァ!!」「あばよシンデレラァ!!」って見捨ててて超面白かった

7964蒼天の實相:2018/12/11(火) 10:21:56
〜北朝正統説(関東天皇家正統論)〜

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園太暦(読み)えんたいりゃく
.
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
園太暦
えんたいりゃく
洞院公賢の日記。現存するのは応長1 (1311) 年の自筆原本と,のちに甘露寺親長が抜粋した興国5=康永3 (44) 〜正平 15=延文5 (60) 年の部分。記名は公賢が中園太相国と呼ばれたことによる。南北朝時代の貴族の日記の代表とされる。続群書類従完成会より刊行。
.
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
デジタル大辞泉の解説
えんたいりゃく〔ヱンタイリヤク〕【園太暦】
南北朝時代の日記。洞院公賢(とういんきんかた)著。正式書名は「中園太相国暦記」。重要な政治史料で、応長元年から正平14=延文4年(1311〜59)までに、120余巻が書かれたが、応長元年の完本と興国5=康永3年(1344)以降の抄本だけが残る。園太記。
.
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
百科事典マイペディアの解説
園太暦【えんたいりゃく】
鎌倉時代末期から南北朝時代前半の公家である洞院公賢(とういんきんかた)の日記。公賢は〈中園太相国(なかぞのだいしょうこく)〉と称され,当時の人々は具注暦(ぐちゅうれき)という暦に日記を記したため,この名がある。記事は1311年(応長1年)から1360年に至るが,散逸した部分が多く,現存するのは〈応長元年記〉のみ。残りは甘露寺親長(かんろじちかなが)が原本を買得していた中院通秀(なかのいんみちひで)から借り受け,抄出書写したものが中心。公賢は太政(だいじょう)大臣の地位にまで昇り,南北両朝に分裂後は北朝に仕えた。そのため当時の政治史などを知ることができる好史料となっている。
→関連項目仁木頼章
.
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
世界大百科事典 第2版の解説
えんたいりゃく【園太暦】
鎌倉時代末〜南北朝時代初期の貴族洞院公賢の日記。記事は1311年(応長1)より60年(正平15∥延文5)に至るが,散逸した部分も多い。公賢は藤原氏閑院流の左大臣実泰の子で,官位は太政大臣従一位に至り,60年に70歳で没した。南北両朝に分裂後は北朝に仕えて重用されたから,その内容は枢機にわたることも多く,いわゆる〈正平の一統〉とその破綻の経緯など,南北朝時代前半の欠くことのできない重要な記録である。書名は,公賢が“中園太相国”といわれたので,その暦記(当時の人は,具注暦という暦に日記を書いた)の意味である。
.
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
大辞林 第三版の解説
えんたいりゃく【園太暦】
洞院公賢とういんきんかたの日記。正称「中園太相国暦記」。1311年の完本と1344年から60年までの抄本が現存する。南北朝時代の重要な政治史料。園太記。

7965蒼天の實相:2018/12/11(火) 10:23:43
>>7964
〜北朝正統論(関東天皇家正統論)〜


.
出典 三省堂大辞林 第三版について 情報
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
園太暦
えんたいりゃく
南北朝時代の公卿(くぎょう)洞院公賢(とういんきんかた)の日記。書名は公賢が中園太政(だいじょう)大臣と称され、具注暦(ぐちゅうれき)に記されていることによる。もと120余巻あり、50余年にわたって書き継がれたものであったが、元弘(げんこう)・建武(けんむ)(1331〜37)の動乱期を含む33年分は早く失われた。現在は1311年(応長1)の1巻以外正本は伝わらず、甘露寺親長(かんろじちかなが)、三条西実隆(さんじょうにしさねたか)、広橋守光(もりみつ)らの抄出本のみが伝わる。南北朝時代の政治史料として貴重なものである。『史料纂集(さんしゅう)』所収。[桑山浩然]
.
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
精選版 日本国語大辞典の解説
えんたいりゃく ヱンタイリャク【園太暦】
洞院公賢(とういんきんかた)の日記。正称「中園太相国暦記」。応長元年(一三一一)から正平一五年(一三六〇)までで、南北朝時代の重要な史料であり、朝廷の儀式の根拠としても尊重された。原本は百二十余巻というが、現存は応長元年の分の完本と、興国五年(一三四四)から正平一五年までの抄本。園太記。
.
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
世界大百科事典内の園太暦の言及
【洞院家】より
…実雄の女のうち,佶子は亀山天皇の皇后として後宇多天皇を生んで京極院の院号を受け,・子は後深草天皇の後宮に入って伏見天皇を生み玄輝門院の院号を受け,季子も伏見天皇の後宮に入って花園天皇を生み顕親門院の院号を受けるなど,大覚寺・持明院両皇統の国母を出したため,実雄をはじめ歴代が大臣に任ぜられる家柄となり,また実雄の男公雄が小倉家を,2代公守の男実明が正親町(おおぎまち)家を起こすなど庶流も分立し,家に多くの典籍を蓄え,博識の人も多く出た。中でも4代公賢(きんかた)は学殖もあり,《皇代暦》《歴代最要鈔》などの著作があり,《拾芥抄》もその著作といわれ,また南北朝初期の重要資料である日記《園太暦》の記主で,北朝の重鎮であった。また6代公定(きんさだ)(1340‐99)は諸家の系図を集成した《尊卑分脈》の著者として知られる。…
.
※「園太暦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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7966シオン観測隊:2018/12/11(火) 10:42:57
〜日本空手道連盟〜

概要
公益財団法人全日本空手道連盟(ぜんにほんからてどうれんめい、英語: Japan Karatedo Federation、略称:全空連もしくはJKF)は、空手道の統一と普及を目指して設立された公益財団法人[1]である。日本オリンピック委員会(JOC)・日本スポーツ協会(JSA)・日本武道協議会(JBA)・世界空手連盟(WKF)に加盟している。

7967シオン観測隊:2018/12/11(火) 12:07:16
>>7966
大熊先生が?

極真空手分流の京都支部師範代とて、出てますね。

極真空手は本流(松井館長)も、韓国系だし、故・大山館長も、韓国系です。

日野ボンが、志恩さんを、新羅人と言うたびに、文句言って来た、理由は、こうした、ところにあるんだと、思います。

7968シオン観測隊:2018/12/11(火) 12:51:21
〜シオン出来事〜

マキに変身する〜志恩さん。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
NAME
マキ
MES
クニサマblog、ブクマしました・
投稿日時
2018年12月11日 (火) 12時16分

7969シャンソン:2018/12/11(火) 14:11:51
7959 :トンチカン信徒 :2018/12/10(月) 09:30:57
霊魂を切るを出来るのが、純潔日本武道なのです。

 そうです。除霊に専念してくださいなんていって
 削除も何もできない無能男を切り落としてください。

7970🚗:2018/12/11(火) 14:15:44

高橋祥子@Shokotan_takaha
フォローする
昔、海デートをしたことがあったときに「昆布が海でダシ出ないのなんでだろうね」と聞かれたので「何言ってんの?海水の塩分濃度が約3%とするとファントホッフの式で約25×10^5Paの浸透圧があるからでしょ。」と答えてその日はお開きになったことを料理でダシ取るたびに思い出します。

7971トンチカン信徒:2018/12/11(火) 14:44:43
>>7969
シャンソンさん


トキ管理人の→生霊をそんな切り落として、欲しいんですか。

訊けさん管理人→生霊はどうしますか?薩摩示現流を使うと、豪語してますが?

薩摩示現流は?鹿島神道流の分流ですけどね。

===========
7969:シャンソン
18/12/11(火) 14:11:51
7959 :トンチカン信徒 :2018/12/10(月) 09:30:57
霊魂を切るを出来るのが、純潔日本武道なのです。

 そうです。除霊に専念してくださいなんていって
 削除も何もできない無能男を切り落としてください。
===========

大熊先生が、新羅流空手の師範代なのは、ビックリですね?

志恩さんと、日吉子供ハウスと同じですかね?

シャンソンさん的には志恩子供ハウスより、るん基地子供ハウスが、関西出来るくらい、いやですね。

7972トンチカン信徒:2018/12/11(火) 15:17:00
>>7971
四国の山林を、新羅人業者買い占めてるらしですね。

シャンソンさん。

こうした。動きは、新羅国の、天然木材ブームにあるようですね。

西日本の山林買い占められますね。


こうした、実態を、知ってるのでしょうかね。

日野ボンや西日本の人達て?

7973トンチカン信徒:2018/12/11(火) 15:36:39
志恩さん阿呆な、コメント

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
志恩ー
>>2997 でも、
ID:5/x0W7nIさんは

楠本行孝先生の副総裁就任を、楠本先生に呼びかけておられますけれど、

生長の家の信徒の私に、そのような 横柄な口を きく人が、

いくら楠本先生に呼びかけても、そのような品のない人間の誘いに乗るような
楠本先生では、ありません。

だって、バックに 楠木正成公が付いておられるお方なんですから。
楠本先生の背後霊は、天皇を尊敬されてる楠木正成公。

ですから
あなたのような人を見下すような口のきき方をする品のない人間の要請に
従ったら、
楠本先生は、楠木正成公に叱られちゃいますからね、あなたにはお気の毒ですが、
あなたの副総裁 就任要請には、楠本先生は、お応えにならないのではないでしょうか。

===========
志恩さんは、この様に、掲示板上で、偉そうに<雅宣先生へ→貴方>とか?<誰でも雅宣>を展開するである。

これは、rei様のコメントの時変わっていない、表現である事が、観測記録から、わかる。

7974シオン観測隊:2018/12/11(火) 15:40:36
志恩さんが、二枚舌なのは、観測記録から、明らかである。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

(志恩さんの、二枚舌の、セールス伝道者だからできる、こうした、得意の二枚舌コメント)

※現在のコメントと、過去の志恩さんのコメントの整合性取れない、二枚舌コメント→これは、勧誘伝道者だから、できるんですね。(対比してみしょうね)
※(現在)
______
志恩ー
いえいえ、政治で、選挙のために票をいただくために「お願いする」のと
宗教活動のためにお誘いし、我々の青年会のお仲間になりませんかと、「お願いする」のとでは、
全然、種類が違いますし、別物の世界だと思います。

国会へも議員会館へも、あの当時、随分、おおはざま先生に一緒に行ってくれ、と頼まれてまして、
私、仕方なしに、しぶしぶ行ってましたが、政治の空気と宗教の空気では、空気が全然違うのです。

私は、あの頃から政治関係は、悪いけれど、本音を言うと、大嫌いでした。
波長が合うか、合わないかと言う点が、あると思います。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
※→(過去のコメント①)

629:志恩

11/11/17(木) 20:36:53 ID:psrFh/ZU

〜確率の高い勧誘方法〜

私が、本部時代に、青年会を新設したときの、効率のいい、誌友拡大、青年会員や白鳩会員を、無理なく増やした方法ですが、

今は、個人保護法がキツくなってるので,可能かどうかわかりませんが、
あのときは、私が戸別訪問しようとした地区の、かって、神誌(普及誌)をとったことのある人を、まず普及教会に行きまして、
徹底的に下調べしたのです。
自分でとった人、他人からプレゼントで送ってもらってる人、そして、過去にとった経験のある人も調べることができたのです。あのときは。

つまり、一度は、生長の家が、どういうことを説いているか、読んで知っているということですね。
これが、ポイントでした。これは、私が自分で考えたんですけれどね。

それで、行くまえに地図に印しをつけまして、アポなしで、突撃戸別訪問しまくったのです。
当時は、電話もあまり普及してなかったので、、

訪問先の人は。生長の家を知ってるから、話がはやくて。すごく効率よく、青年会に勧誘できたわけです。
行き当たりばったりでは、別の宗教されてる場合が、多いと思いましてね。

本部の帰りがけに、戸別訪問していました。

今は,セキュリティの問題がありますから、それが、できないかもしれませんが、、

7975シオン観測隊:2018/12/11(火) 15:46:22
〜シオンな出来事〜

新掲示板では、志恩さんが、クレスタマキに変身して、一人芝居をまた、しています。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

鈴木邦男氏の読書
┣クニサマblog
┣アクエリアンさま
┣志恩サマ、 なん
┗マキちん、クニサ



※鈴木さん、例の場所の一階で、講習してましたね。

7976シオン観測隊:2018/12/11(火) 16:12:18
一人芝居(志恩さん&マキ)
NAME
マキ
MES
志恩サマ、
なんやて!クニサマの
左右合わせもった神思想、あんま好きくないとは何事(・_・)

半分本気のジョークです・


ここからはひとりごとです

それにしてもT信徒はわからんちんですねぇぇ
マキと志恩サマは、まるっきりの別人やと言っとるのに
しつこすぎる謎。
キミの街でキミ宛てに街宣かけるで..。
投稿日時
2018年12月11日 (火) 13時42分


NAME
志恩
SUB
マキちん、クニサマが「昭和の読書王」と 言われてんの、シットッた?
MES
あのね、昨年のお正月の クニサマブログを みたら、

「昭和の読書王」のクニサマと
「平成の読書王」の高木尋士サマが「新春読書談義」というテーマで
対談してたんやけど、

一昨年1年間で、ふたりが、読んだ本の数、

クニサマが、417冊
高木サマが、515冊

って言ってたわ。

クニサマの左右合わせもった神思想、そんなに本を読まないと
保持できんのかしらとかんがえたら、あたしは、ちょっと すきくないと思ったわけよ。

クニサマたちみたいに、ぎょうさん、本、読むひとら も おるけれど、

100歳の伝説の灘高の橋本先生のように、たった1冊の本を教材にして、
その本を ふくらませたり、ヨコに伸ばしたり タテに伸ばしたりして
生徒たちに おしえている先生も おる。

本を読まなすぎても、よくないと思うけれど、
ぎょうさん、本を読んだからといって、
だれでも クニサマのように
左右合わせもった神思想に 達することができるかというと、
それは、ひとに よるような 気がするの。


100歳の伝説の灘高講師(2013年9月帰幽)橋本武先生の特別授業 -(9:40)
https://www.youtube.com/watch?v=oXzn_1G8ojU



マキちんとシオは、政治の好みや 人間の好みは、異なるけれど、
曲の好みや、何か、物事に対するいいな、と思う感覚とか、
しゃべり方がちょっとばかし、おなじやんと シオも おもうときがある。
投稿日時
2018年12月11日 (火) 15時04分

===========

一生懸命、否定してる、クレスタマキ=志恩さん。

トンチカンの失敗繰り返したくないらしい(笑)


トンチカン信徒の粘り強さに舌巻いてる事は、確かである。

7977トンチカン信徒:2018/12/11(火) 16:18:08
日本道場は、機能不全だ感じたらし。

志恩さんの行動が、変化したのも、その為だろ。

伝道練成が、できる道場作るきらしい。

学ぶ会→志恩式勧誘伝道→悪評なんだと思う。

7978シャンソン:2018/12/11(火) 16:43:21
7973 :トンチカン信徒 :2018/12/11(火) 15:36:39
志恩さん阿呆な、コメント

 この人は以前、トキさんが楠本先生の御子息かなにかのように
 書いてたし、私の引用した作家文に対してさくら嬢がコメントしただけなのに
 かんちがいして、攻撃的なことは書いてくるし、
 いろいろ見当違いの多い人なんです。

 相手にしないでください。

7979シャンソン:2018/12/11(火) 16:44:47
>トキ管理人の→生霊をそんな切り落として、欲しいんですか。

 誰かが代わりにやってくれるなら「ラク」です(笑)

7980シャンソン:2018/12/11(火) 16:46:36
>トキさんに五寸釘なんてやめてください。

 今は、電気工具で、かんたんに釘が打てる機械がありますね。
 便利。

7981シャンソン:2018/12/11(火) 19:48:11
>訊けさん管理人→生霊はどうしますか?薩摩示現流を使うと、豪語してますが?

  キケサンニハ、何のわだかまりもないわけではありませんが、
 ある時期から彼は人を苦しめることから進化して
 今は余計なことをいってこないんだから、退治する必要はありません。

7982真の除霊とは:2018/12/11(火) 21:20:18

 そんなことより、読解力もなく鈍感で去年から昔から
 カモの子の低次元な投稿を新したらばに掲載して
 人の恨みを大量に買い込んでいる、生長の家に縁があっただけの人たちが
 また今年の暮れも私をひどいめにあわせることがあったら
 トンチンカン信徒さんが出来る範囲で彼女や彼女の娘などを
 攻撃して復讐してください。

 わたしはキケブロ愚のナンセンものコメント者たちや
 傍流や独占版について人を騙したトキ管理人の横やりに
 疲れ果てているのでよろしくお願いします。

 なんか自分では気は心だって思ったけど
 医者や看護師からは、すごく疲れてるねっていわれました。
 また年末も仕事があるし、少し養生したいと思っています。

 読解力がなく、人を深く傷つけてくる人たちがまたなにか
 いってきたら、私の代わりに戦ってください。
 無視するのが一番なのですが、潰してやるのもいいかもしれません。

7983トンチカン信徒:2018/12/11(火) 22:18:53
〜シオンな出来事〜

フリー信徒の志恩さんも、新羅人ですが、やはり、志恩と言う名は、新羅民族名ですね。
===========

概要
谷原 志音(たにはら しおん)は日本のミュージカル女優である。大韓民国出身で、本名は崔 志銀(チェ・ジウン)。劇団四季所属。ミュージカル『リトル・マーメイド』日本版、アリエル役のオリジナルキャストとして知られる。
人物・来歴[編集]
ミュージカル女優を志し、ソウル芸術大学で演技と声楽を学ぶ。
2009年10月、劇団四季のオーディションに合格。翌2010年3月に来日。
2011年4月にキャナルシティ劇場(元福岡シティ劇場)にて『ウィキッド』のアンサンブルで四季での初舞台を踏む。『ウィキッド』では、出演はしていないものの、主役の一人エルファバ役にもキャスティングされたことがある。その後『ライオンキング』のヒロイン、ナラ役を演じた。また、2013年には『リトル・マーメイド』ヒロインのアリエル役の日本初演キャストに抜擢され好演。CDレコーディングにもアリエル役として参加。2014年4月、ウィキッドの主役の一人、グリンダ役としてデビュー。2015年4月、マンマ・ミーア!のソフィ役としてデビュー。2018年2月に開幕したジーザスクライストスーパースターエルサレムバージョン全国公演ではマグダラのマリア役としてのデビューを果たした。

7984シャンソン:2018/12/11(火) 22:35:02
>トキ管理人の→生霊をそんな切り落として、欲しいんですか。

 でも生霊は、死霊より手ごわいからね。

7985トンチカン信徒:2018/12/11(火) 22:44:18
>>7982
〜シオンな出来事〜

3680:志恩

18/04/26(木) 23:06:31 ID:6hRUvSRg
私は、フリーなので、教団の方も学ぶ会の方も、行けるのです。

============
(トンチンカン=志恩さんが、生長の家を、何十年もに、脱会されている、証拠のコメント)

※→私も私で、私が義兄に、「今は 払いたくないんです」と払わないように

お願いしているにもかかわらず、

義兄は、夫と私の二人分の聖使命会費を、「そういうわけには、まいりません」と、


①聖使命を、第三者奉納なので?すでに?信徒?信者で無い亊は?明確な事実です♪

②従って、愛国だろと?トキ掲示版だろと?生長の家や谷口雅春先生や?清超先、雅宣先生、その他谷口家の人や?生長の家の講師や関係者に?対し?コメントするは?出来ないし?資格も無いのです?

③②を侵して、コメントしてるのは、単なる、自己満足者、マニア、愛玩者です♪

============


629:志恩

11/11/17(木) 20:36:53 ID:psrFh/ZU

〜確率の高い勧誘方法〜

私が、本部時代に、青年会を新設したときの、効率のいい、誌友拡大、青年会員や白鳩会員を、無理なく増やした方法ですが、

今は、個人保護法がキツくなってるので,可能かどうかわかりませんが、
あのときは、私が戸別訪問しようとした地区の、かって、神誌(普及誌)をとったことのある人を、まず普及教会に行きまして、
徹底的に下調べしたのです。
自分でとった人、他人からプレゼントで送ってもらってる人、そして、過去にとった経験のある人も調べることができたのです。あのときは。

つまり、一度は、生長の家が、どういうことを説いているか、読んで知っているということですね。
これが、ポイントでした。これは、私が自分で考えたんですけれどね。

それで、行くまえに地図に印しをつけまして、アポなしで、突撃戸別訪問しまくったのです。
当時は、電話もあまり普及してなかったので、、

訪問先の人は。生長の家を知ってるから、話がはやくて。すごく効率よく、青年会に勧誘できたわけです。
行き当たりばったりでは、別の宗教されてる場合が、多いと思いましてね。

本部の帰りがけに、戸別訪問していました。

今は,セキュリティの問題がありますから、それが、できないかもしれませんが、、

7662:志恩

17/03/13(月) 14:21:53 ID:6hRUvSRg
森友学園の件は、新小学校の開校は、認可されなかったし、
あの理事長も辞職になったのだそうですね。

あの件は、民進党、社会党、共産党の、言ってたこと、やってたことの嘘がバレて
ブーメラン現象が起きていましたが、今度は、政府与党、理事長にも、
ブーメランが現象が来て、何が何だか、ややこしくて、わからない状況。

塚本幼稚園を創った人は、あの理事長の奥さんのお父さんだった。
そして、
二代目を引き継いだのは、奥さんの夫になった人で、
初代から見たら、義理の息子が、後を継いだのだそうです。

初代のお方の、開校の精神、愛国で、素晴らしかったのかもしれませんが、
継承した
二代目ご夫妻の、やり方が、汚かったのかどうなのか、よくわかりませんが、
この度は、開校が、おじゃんになり、
亡くなられた初代のお方のことが、お気の毒に思えました。

7986トンチカン信徒:2018/12/11(火) 22:44:59
>>7985
>>7982
〜シオンな出来事〜

3680:志恩

18/04/26(木) 23:06:31 ID:6hRUvSRg
私は、フリーなので、教団の方も学ぶ会の方も、行けるのです。

============
(トンチンカン=志恩さんが、生長の家を、何十年もに、脱会されている、証拠のコメント)

※→私も私で、私が義兄に、「今は 払いたくないんです」と払わないように

お願いしているにもかかわらず、

義兄は、夫と私の二人分の聖使命会費を、「そういうわけには、まいりません」と、


①聖使命を、第三者奉納なので?すでに?信徒?信者で無い亊は?明確な事実です♪

②従って、愛国だろと?トキ掲示版だろと?生長の家や谷口雅春先生や?清超先、雅宣先生、その他谷口家の人や?生長の家の講師や関係者に?対し?コメントするは?出来ないし?資格も無いのです?

③②を侵して、コメントしてるのは、単なる、自己満足者、マニア、愛玩者です♪

============


629:志恩

11/11/17(木) 20:36:53 ID:psrFh/ZU

〜確率の高い勧誘方法〜

私が、本部時代に、青年会を新設したときの、効率のいい、誌友拡大、青年会員や白鳩会員を、無理なく増やした方法ですが、

今は、個人保護法がキツくなってるので,可能かどうかわかりませんが、
あのときは、私が戸別訪問しようとした地区の、かって、神誌(普及誌)をとったことのある人を、まず普及教会に行きまして、
徹底的に下調べしたのです。
自分でとった人、他人からプレゼントで送ってもらってる人、そして、過去にとった経験のある人も調べることができたのです。あのときは。

つまり、一度は、生長の家が、どういうことを説いているか、読んで知っているということですね。
これが、ポイントでした。これは、私が自分で考えたんですけれどね。

それで、行くまえに地図に印しをつけまして、アポなしで、突撃戸別訪問しまくったのです。
当時は、電話もあまり普及してなかったので、、

訪問先の人は。生長の家を知ってるから、話がはやくて。すごく効率よく、青年会に勧誘できたわけです。
行き当たりばったりでは、別の宗教されてる場合が、多いと思いましてね。

本部の帰りがけに、戸別訪問していました。

今は,セキュリティの問題がありますから、それが、できないかもしれませんが、、

7662:志恩

17/03/13(月) 14:21:53 ID:6hRUvSRg
森友学園の件は、新小学校の開校は、認可されなかったし、
あの理事長も辞職になったのだそうですね。

あの件は、民進党、社会党、共産党の、言ってたこと、やってたことの嘘がバレて
ブーメラン現象が起きていましたが、今度は、政府与党、理事長にも、
ブーメランが現象が来て、何が何だか、ややこしくて、わからない状況。

塚本幼稚園を創った人は、あの理事長の奥さんのお父さんだった。
そして、
二代目を引き継いだのは、奥さんの夫になった人で、
初代から見たら、義理の息子が、後を継いだのだそうです。

初代のお方の、開校の精神、愛国で、素晴らしかったのかもしれませんが、
継承した
二代目ご夫妻の、やり方が、汚かったのかどうなのか、よくわかりませんが、
この度は、開校が、おじゃんになり、
亡くなられた初代のお方のことが、お気の毒に思えました。

7987トキ:2018/12/11(火) 23:02:43
シオン観測隊 さんへ

 本板へのアラシ投稿はそろそろ諦めてください。

 こちらだけの投稿にしてください。

7988シャンソン:2018/12/11(火) 23:18:50

 トキさんは、新掲示板になったらあらし対策ができると広告していたのに
 なにをいってるんですか?

 機械的にできない事情が発生したのなら
 それなりに他の解決策を自分で考えなさいよ。

 人を深く傷つける鈍感老婆に仕切らてるようでは無理でしょうけどね。

7989シャンソン:2018/12/11(火) 23:20:41

>学ぶ会→志恩式勧誘伝道→悪評なんだと思う。

 学ぶ会とぺーぺー信徒の志恩さんは関係ありません。
 おかしな風評被害を起こさないように。

7990シャンソン:2018/12/11(火) 23:26:08
>志恩式勧誘伝道

 だいたい、志恩さんは、帰りましょう掲示板=学ぶ会と勝手に勘違いして
なんか学ぶ会や他の管理人さんに必死にいちゃもんをいっていましたね。
こんな人が勧誘や伝道なんてできるのでしょうか?

 トンチンカン信徒さんの投稿は横暴すぎるんですよ。
 こんな人の恨みを買うしかのうがないような老人を反面教師として
 少しはましな人間になれるように、お互いにがんばりましょう。

7991シャンソン:2018/12/11(火) 23:27:51
 ● 読解力のない無能男へ

 要件がすんだら出ていけ!

7992シャンソン:2018/12/11(火) 23:31:24
3680:志恩

18/04/26(木) 23:06:31 ID:6hRUvSRg
私は、フリーなので、教団の方も学ぶ会の方も、行けるのです。<

 前にも書いたけど、こういう思い込みこそ、この人が自己中心的な証拠です。
 いくら雅春先生からほめられようが、自己中心的な人は
 人が離れていくんですよ。

 これは宗派に関係のない宇宙の法則みたいなものだと思います。

7993シャンソン:2018/12/12(水) 00:38:32
>私は、フリーなので、教団の方も学ぶ会の方も、行けるのです。

 しかし、教団からも本流からも嫌われているそうです。
 御本人が前にそんなことを書いていました。

7994シャンソン:2018/12/12(水) 00:43:12
>>7991

シオンさんと同様、読解力がなく、
 自分に都合の悪い質問は無視する不誠実なトキさんですが、

 トキさんは以前、管理人が行き届かないのを謝りますから
 うのはなさんも他の人に謝ってくれといっていました。
 それで、私が、どんなところが行き届かないのか
 具体的に例をあげて書いてくれといっているのに
 いまだに説明できていません。

 そういうことなど、未解決な問題について
 よく考えてから書き込むようにしてください。
 でないと、無能男のひまつぶしにしかなりません。

7995シャンソン:2018/12/12(水) 01:11:12

 しかし百万運動時代から人から嫌われていた男が
 いまこういう運営をしているのかと思うと
 なんとなくあわれです。

7996シャンソン:2018/12/12(水) 01:14:37
>学ぶ会→志恩式勧誘伝道→悪評なんだと思う。

 どこの会でも悪くいう人はいますよ。
 しかし、志恩さんの場合は、「私はどっちの話でもできますよ」
 っていってくるから大迷惑です。

 本気でそう思い込んでいるみたいで気持ち悪いです。

7997シャンソン:2018/12/12(水) 01:16:17
>>7987

トキさんがいっても説得力ないと思うので
 次回からこういうことは本板でいって解決してください。

7998シャンソン:2018/12/12(水) 01:25:01

ああ、この傍流ができる何年も前から
 シオンさんやトキさんに誤読されたり横やりを入れられたり
 いろいろいやな目にあったことが蘇ってきそうで、
発作でもおこりそう。

 せっかくきょうは病院へ行って落ち着いていたのに
 また無能男がひまなことを言いに来て。
 自分の掲示板なんだから自分で始末しろ!

 きょうはこれでおやすみします。

7999トンチカン信徒:2018/12/12(水) 07:35:22
>>7998
シャンソンさん。

日野氏は、『脳内思考的には、新羅人=志恩さんと同じに成った』から、志恩さんが、『日野くん、日野くん』叫ぶですね。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
NAME
日野智貴
SUB
雅春先生の憲法論は「帝国憲法の復原・改正」につきます
MES
 初めに言っておきますが、私は谷口雅宣先生に中心帰一する者です。

 そのことを大前提としたうえで、雅春先生の御教えは一貫して『大日本帝国憲法』の復原・改正です。

 そして、学ぶ会もそれを否定しています。

 帝国憲法の復原・改正を組織として訴えているのは、ときみつる会だけです。

 帝国憲法の復原・改正についての主張は、以下の動画とそのリンク先にある配布プリントを見ると、お分かりいただけると思います。この動画では私も演説しています。(1時間42分辺りから)

https://www.youtube.com/watch?v=0h4FnWqyw44
投稿日時
2018年12月11日 (火) 18時35分

8000トンチカン信徒:2018/12/12(水) 07:43:34
=シオン観測隊=

〜いのち環より*教団教え
ふじえ
 日本国憲法が、国民の基本的人権を保障していることはよくご存じでしょう。では、人権とはそもそも何かと問われたら、どう答えればよいでしょうか? 人権は、「人が生まれながらに当然にもつ権利」「人間が人間として生きて行くために不可欠の権利」などと説明されます。このような権利は、18世紀の市民革命の激流の中で確立されてきたもので、「自然権」とも呼ばれます(*1)。 歴史上初めての人権宣言といわれるアメリカ独立革命期の「ヴァージニア権利章典」(1776年)は、「すべて人は生来(せいらい)ひとしく自由かつ独立しており、一定の生来の権利を有するものである」と記しています。また、フランス革命期の「人および市民の権利宣言」(1789年)は、「あらゆる政治的団結の目的は、人の消滅することのない自然権を保全することにある。これらの権利とは、自由、所有権、安全および圧政への抵抗である」としています(*2)。 つまり、人権とは元をたどれば宗教の自由や言論・出版の自由であり、財産を不当な税金などの形で搾取(さくしゅ)されない所有権の保障であり、法律の定めによらなければ逮捕・処罰(しょばつ)されることのない身体の自由のことだったのです。このような考え方は、現在ではごく当たり前のことと思われるでしょう。しかし、革命の担い手であった市民たちにとっては、すべては現実的で生死にも関わる切実な要求だったのです(*3)。 とはいえ、それがいかに切実な要求であったとしても、限られた市民にとってではなく、すべての人間に必要なことであると認められなければ、人権とはいえません。それを理論化して示した代表的な思想家が、イギリスのジョン・ロック(1632─1704)です。ロックは、各人の生命は神から与えられたものであり、自由は生命を守るための不可欠な条件、所有物は生命を自由に用いた働きによって各人が得たものとして、人間の生存に不可欠な固有の権利と位置付けました(*4)。 また、人権とは何かという考え方は、その後の歴史とともに発展していきました。例えば、19世紀末から20世紀にかけて資本主義が拡大するとともに、大企業が市場を支配し、その独占的な利潤(りじゅん)の追求の下で、労働者は低賃金や劣悪な条件での労働を強(し)いられるようになりました。そのことが、独占(どくせん)資本の自由な活動への規制を求める運動を生み、社会保障や労働者を保護する制度の整備につながっていきます。このような過程を経て、労働基本権を含む社会権が、新たな人権と考えられるようになったのです。日本国憲法もこうした歴史の流れに立ち、経済的自由を「公共の福祉」による制限の対象とするとともに、社会権を27条等で保障しています(*5)。 このように、人権とは権力者によって国民の財産や自由や生命さえもが侵害(しんがい)されてきた歴史の中で培(つちか)われてきた考え方であり、国民の人権を憲法によって権力の暴走から守るという立憲主義のあり方は、人類共通の英知の結晶であるといえるでしょう(*6)。 日本国憲法の12条には、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」と定められています。人権を守ることは、不断の努力を要する私たち国民の努めであり、人類の歴史の教訓を受け継ぐことでもあります。私たちは自身の人権を侵害されることを決して許してはならないのです。参考文献 
浦部法穂著『世界史の中の憲法』(共栄書房、2 0 0 8年)
谷口雅宣監修『 “人間・神の子”は立憲主義の基礎』(生長の家、2 0 1 6年)

8001蒼天の實相:2018/12/12(水) 08:41:45
〜今上天皇陛下言葉〜
(象徴天皇と日本国憲法順守)

象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(平成28年8月8日)
<英文>へ
戦後70年という大きな節目を過ぎ,2年後には,平成30年を迎えます。 私も80を越え,体力の面などから様々な制約を覚えることもあり,ここ数年,天皇としての自らの歩みを振り返るとともに,この先の自分の在り方や務めにつき,思いを致すようになりました。 本日は,社会の高齢化が進む中,天皇もまた高齢となった場合,どのような在り方が望ましいか,天皇という立場上,現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら,私が個人として,これまでに考えて来たことを話したいと思います。
即位以来,私は国事行為を行うと共に,日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を,日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として,これを守り続ける責任に深く思いを致し,更に日々新たになる日本と世界の中にあって,日本の皇室が,いかに伝統を現代に生かし,いきいきとして社会に内在し,人々の期待に応えていくかを考えつつ,今日に至っています。
そのような中,何年か前のことになりますが,2度の外科手術を受け,加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から,これから先,従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合,どのように身を処していくことが,国にとり,国民にとり,また,私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき,考えるようになりました。既に80を越え,幸いに健康であるとは申せ,次第に進む身体の衰えを考慮する時,これまでのように,全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが,難しくなるのではないかと案じています。
私が天皇の位についてから,ほぼ28年,この間(かん)私は,我が国における多くの喜びの時,また悲しみの時を,人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして,何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが,同時に事にあたっては,時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に,国民統合の象徴としての役割を果たすためには,天皇が国民に,天皇という象徴の立場への理解を求めると共に,天皇もまた,自らのありように深く心し,国民に対する理解を深め,常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において,日本の各地,とりわけ遠隔の地や島々への旅も,私は天皇の象徴的行為として,大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め,これまで私が皇后と共に行(おこな)って来たほぼ全国に及ぶ旅は,国内のどこにおいても,その地域を愛し,その共同体を地道に支える市井(しせい)の人々のあることを私に認識させ,私がこの認識をもって,天皇として大切な,国民を思い,国民のために祈るという務めを,人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは,幸せなことでした。
天皇の高齢化に伴う対処の仕方が,国事行為や,その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには,無理があろうと思われます。また,天皇が未成年であったり,重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には,天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし,この場合も,天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま,生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。 天皇が健康を損ない,深刻な状態に立ち至った場合,これまでにも見られたように,社会が停滞し,国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして,天皇の終焉に当たっては,重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き,その後喪儀(そうぎ)に関連する行事が,1年間続きます。その様々な行事と,新時代に関わる諸行事が同時に進行することから,行事に関わる人々,とりわけ残される家族は,非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが,胸に去来することもあります。
始めにも述べましたように,憲法の下(もと),天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で,このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ,これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり,相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう,そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく,安定的に続いていくことをひとえに念じ,ここに私の気持ちをお話しいたしました。 国民の理解を得られることを,切に願っています。


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