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蒼天の實相
:2018/12/11(火) 10:21:56
〜北朝正統説(関東天皇家正統論)〜
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園太暦(読み)えんたいりゃく
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
園太暦
えんたいりゃく
洞院公賢の日記。現存するのは応長1 (1311) 年の自筆原本と,のちに甘露寺親長が抜粋した興国5=康永3 (44) 〜正平 15=延文5 (60) 年の部分。記名は公賢が中園太相国と呼ばれたことによる。南北朝時代の貴族の日記の代表とされる。続群書類従完成会より刊行。
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
デジタル大辞泉の解説
えんたいりゃく〔ヱンタイリヤク〕【園太暦】
南北朝時代の日記。洞院公賢(とういんきんかた)著。正式書名は「中園太相国暦記」。重要な政治史料で、応長元年から正平14=延文4年(1311〜59)までに、120余巻が書かれたが、応長元年の完本と興国5=康永3年(1344)以降の抄本だけが残る。園太記。
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出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
百科事典マイペディアの解説
園太暦【えんたいりゃく】
鎌倉時代末期から南北朝時代前半の公家である洞院公賢(とういんきんかた)の日記。公賢は〈中園太相国(なかぞのだいしょうこく)〉と称され,当時の人々は具注暦(ぐちゅうれき)という暦に日記を記したため,この名がある。記事は1311年(応長1年)から1360年に至るが,散逸した部分が多く,現存するのは〈応長元年記〉のみ。残りは甘露寺親長(かんろじちかなが)が原本を買得していた中院通秀(なかのいんみちひで)から借り受け,抄出書写したものが中心。公賢は太政(だいじょう)大臣の地位にまで昇り,南北両朝に分裂後は北朝に仕えた。そのため当時の政治史などを知ることができる好史料となっている。
→関連項目仁木頼章
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出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
世界大百科事典 第2版の解説
えんたいりゃく【園太暦】
鎌倉時代末〜南北朝時代初期の貴族洞院公賢の日記。記事は1311年(応長1)より60年(正平15∥延文5)に至るが,散逸した部分も多い。公賢は藤原氏閑院流の左大臣実泰の子で,官位は太政大臣従一位に至り,60年に70歳で没した。南北両朝に分裂後は北朝に仕えて重用されたから,その内容は枢機にわたることも多く,いわゆる〈正平の一統〉とその破綻の経緯など,南北朝時代前半の欠くことのできない重要な記録である。書名は,公賢が“中園太相国”といわれたので,その暦記(当時の人は,具注暦という暦に日記を書いた)の意味である。
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出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
大辞林 第三版の解説
えんたいりゃく【園太暦】
洞院公賢とういんきんかたの日記。正称「中園太相国暦記」。1311年の完本と1344年から60年までの抄本が現存する。南北朝時代の重要な政治史料。園太記。
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