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「まじめな話」の板

7946蒼天の實相:2018/12/08(土) 08:33:58
〜式年遷宮〜

〜式年遷宮〜

8.祭事
8.1.式年祭
式年大祭として、式年神幸祭(しきねんじんこうさい)が12年に1度の午年に行われる。境内前までの神幸祭は毎年4月15日に行われているが、式年大祭では4月15日・16日の両日に大規模に行われる。古くは「軍神祭」「軍陣祭」とも称された[44]。
この祭は、経津主神による東国平定の様子を模したものといわれる[3]。元は「式年遷宮大祭」の名で、20年に1度の式年造営に伴って行われたという[45]。しかしながら式年造営と同じく応仁の乱の頃に衰え、永禄11年(1568年)を最後として明治まで絶えていた[44]。その後、明治8年(1875年)に復興され毎年執行されていたが、明治15年(1882年)以降は午年毎の執行と定められ、現在に至っている[44]。



3.特徴
香取神宮は、常陸国一宮の鹿島神宮(茨城県鹿嶋市、位置)と古来深い関係にあり、「鹿島・香取」と並び称される一対の存在にある[4][11]。
鹿島・香取両神宮とも、古くより朝廷からの崇敬の深い神社である。その神威の背景には、両神宮が軍神として信仰されたことにある[12]。古代の関東東部には、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼を含む一帯に「香取海(かとりのうみ)」という内海が広がっており、両神宮はその入り口を扼する地勢学的重要地に鎮座する。この香取海はヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られており[12]、両神宮はその拠点とされ、両神宮の分霊は朝廷の威を示す神として東北沿岸部の各地で祀られた(後述)。
朝廷からの重要視を示すものとしては、次に示すような事例が挙げられる。
鹿島香取使
「神宮」の呼称
また藤原氏からの崇敬も強く、藤原氏の氏社として創建された奈良の春日大社では、鹿島神が第一殿、香取神が第二殿に祀られ、藤原氏の祖神たる天児屋根命(第三殿)よりも上位に位置づけられた。中世に武家の世に入ってからも、武神を祀る両神宮は武家から信仰された。現代でも武術方面から信仰は強く、道場には「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた2軸の掛軸が対で掲げられることが多い。


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