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「まじめな話」の板

7920蒼天の實相:2018/12/02(日) 00:10:55
>>7919
〜皇道派〜

4.凋落
荒木は犬養内閣、さらに齋藤内閣において陸相をつとめたが、もともと軍令・教育畑が長く政治力に欠けるところがあり、高橋是清蔵相との陸軍予算折衝でも成果を挙げることが出来なかった。また側近の多くも軍政経験が乏しく、荒木を十分に補佐したとは言い難い。このため大臣末期には省部中堅の信を失い、青年将校からは突き上げを食うなど閉塞状況に陥った。
参謀本部においても、実務を切り回す真崎次長に閑院総長宮が不快感を募らせ、内部でも小畑敏四郎第三部長と永田鉄山第二部長が対ソ・支那戦略を巡り対立。後の皇道・統制両派の抗争の端緒となる。
荒木は1934年1月、酒を飲み過ぎて風邪をこじらせ、肺炎となり陸相を辞任する。荒木は後任陸相に真崎を推薦したが、真崎の独断に閉口していた閑院宮に反対され、林銑十郎教育総監が陸相となり、真崎はその後任に回った。柳川以下の皇道派幕僚も相次いで中央を去り、さらに同年11月には青年将校らによる士官学校事件が起こり、これを契機に統制派による真崎排除の機運が高まる。1935年7月、林と閑院宮は三長官会議において強引に真崎を更迭、後任に渡辺錠太郎を据えた。
荒木の辞職、真崎の更迭によって皇道派は中央での基盤を失い、8月の相沢事件を経て、1936年には青年将校を中心とした二・二六事件の暴発につながる。その後、翌年にかけての大規模な粛軍人事によって皇道派はほぼ壊滅した。現役に残ったのは山下奉文、鈴木率道ら少数の者に過ぎなかった。
なお大戦末期の1944年、昭和天皇に木戸内大臣を通じて、「戦争指導に行き詰まり、経済、社会の赤化に向う東條とその側近に代えて、予備役の皇道派将官を起用すべき」と奏した近衛文麿に対し、天皇は次のように論駁している。「第一、真崎は参謀次長の際、国内改革案のごときものを得意になりて示す。そのなかに国家社会主義ならざるべからずという字句がありて、訂正を求めたることあり。また彼の教育総監時代の方針により養成せられし者が、今日の共産主義的という中堅将校なり。第二、柳川は二・二六直前まで第1師団長たりしも、幕下将校の蠢動を遂に抑うこと能わざりき。ただ彼は良き参謀あれば仕事を為すを得べきも、力量は方面軍司令官迄の人物にあらざるか。第三、小畑は陸軍大学校長の折、満井佐吉をつかむことを得ず。作戦家として見るべきもの有るも、軍司令官程度の人物ならん。以上これらの点につき、近衛は研究しありや否や」(木戸幸一日記)。


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