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「まじめな話」の板

7919蒼天の實相:2018/12/02(日) 00:09:57
>>7918
〜皇道派〜

3.行動
この派は荒木・真崎をシンボルとし、前述の将官の他、1932年(昭和7年)2月に参謀本部第二課長(作戦担当)ついで第三部長(運輸・通信担当)となった小畑敏四郎、憲兵司令官ついで第二師団長となった秦真次、小畑の後任の作戦課長である鈴木率道、陸大教官の満井佐吉らが首脳部をなしていたが、省部の中堅将校からはほとんど孤立した存在であった。皇道派が「国家革新」の切り札と頼む武力発動の計画に当たったのは、村中孝次・磯部浅一ら尉官クラスの青年将校団である。
皇道派青年将校がクーデター計画に狂奔したのは、彼らが陸軍省部中央に近い統制派ほどに具体的な情勢判断と方針を持たず、互いに天皇への忠誠を誓い、結果を顧みずに「捨石」たらんとしたという思想的特質にもよる。
青年将校らは自分たちの行動を起こした後は、「陛下の下に一切を挙げておまかせすること」(※2・26事件の首謀者の一人、栗原安秀中尉の尋問調書より)に期待するのみであった。永田鉄山軍務局長を斬殺した相沢三郎中佐は、法廷で検察官の質問に答え「国家革新ということは絶対にない。いやしくも日本国民に革新はない。大御心に拠ってそのことを翼賛し奉ることである」と述べている。したがって彼等は「革命」「クーデター」という概念すら拒絶していた。
また、彼らの信頼を集めた荒木や真崎も、自分たちが首班となって内閣をつくることを予期するだけで、その後の計画も無く、各方面の強力な支持者もいなかった。とくに財閥や官僚には皇道派を危険視する空気が強く、彼らが政権を担当する条件そのものが欠落していたのである。
それだけに、成果の見込みの有無を問わず危険な行動に走るという特徴が表面に現れた。その特徴こそ、軍部・官僚・財閥のファッショ的支配を押し進める露払いの役割を果たしたのである。もともと荒木が陸相に就任したこと自体、三月事件・十月事件で政党首脳が恐怖を感じた結果であった。
真崎は教育総監時代、天皇機関説排斥運動の中心にあった。五・一五事件や相沢事件の公判では、排外主義、国粋主義の国民意識を利用して判決に介入させ、また政党政治は事実上このときに崩壊した。この直後に引き起こされた二・二六事件は更に準戦時体制へと途を開くのである。


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