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「まじめな話」の板

7847トンチカン信徒:2018/11/19(月) 04:11:54
>>7845
また

なんで、そう言うんです?

ヒネて、東の伏見とか、ワザと、言って。

みずほ銀行なんて、行きませんよ?私ね。

誰です?真面目に。
〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇

7845:シャンソン
18/11/18(日) 20:57:33
>誰ですか、珍文団の二人て。

 みずほ銀行に立ち寄る者さんと、東の伏見。

7848シャンソン:2018/11/19(月) 06:26:59

 トンチンカン信徒さんの妄想の海シリーズがはじまりました!
 閲覧者の皆さまは免疫力をつけるためがんばってください。

7849名文紹介:2018/11/19(月) 06:36:01
6612 :アクエリアン :2018/08/29(水) 20:01:26
おい、このふざけたアホは、管理人の言葉を読め、二度と、まとわりつくな、わかったか

トキ :2012/07/26(木) 11:42:30 例えば、聖典板で感動しても、聖典以外の事は書き込みに躊躇します。
そんな時に感想を書けたり、自分の書き込みたい板で会話が盛り上がっていて
割り込みはしたくないけど、他は板の趣旨に合わないから書けないなぁという時に
ボソッと独り言を書き込める板です。

基本的に会話禁止で、いちいち「割り込み」を意識しないで書ける板です。

長文で思いの丈を吐いたり、短文でボソッと他板や他掲示板に突っ込みを入れたり
そういう自由にひとりごとを呟ける板としてお使い下さい。

7850トンチカン信徒:2018/11/20(火) 09:43:02
>>7848
何時の、まにか、シャンソンさんが、志恩さんと、同じ事口走り始めましましたね(笑)

シャンソンさん?もし?もし?

貴方は、志恩さんとるん基調が?嫌いなんですよ?可笑しいじゃないですか?矛盾してますよ?こうした、コメントて?
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
7848:シャンソン
18/11/19(月) 06:26:59

 トンチンカン信徒さんの妄想の海シリーズがはじまりました!
 閲覧者の皆さまは免疫力をつけるためがんばってください。

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

シャンソンさん?

志恩さんやるん基調に、反対してた、貴方のコメントの、矛盾ですよ(笑)

7851トンチカン信徒:2018/11/20(火) 09:45:11
シャンソンさんは?

自分の欲望を叶えるためなら、矛盾したコメントもいとわないようです。

7852シャンソン:2018/11/20(火) 15:12:07
私ごとだが、トンチカン信徒は、自慢じゃ無いが、江戸城を、上空から上から、眺めたことある。
勿論、皇居や、江戸城天守閣跡も見えた。<


 私も皇居や京都御所や御寺に関して自慢できることがある。
 でも、自慢しても何の徳にもならないし
 差引残高0なので書きません。

7853トンチカン信徒:2018/11/20(火) 17:36:51
>>7852
シャンソンさん(笑)

書いたら、良いのではわ。

志恩さんの用な、孫の話をしてるより、良いでは、無いですか。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
7852:シャンソン
18/11/20(火) 15:12:07
私ごとだが、トンチカン信徒は、自慢じゃ無いが、江戸城を、上空から上から、眺めたことある。
勿論、皇居や、江戸城天守閣跡も見えた。<


 私も皇居や京都御所や御寺に関して自慢できることがある。
 でも、自慢しても何の徳にもならないし
 差引残高0なので書きません

7854決算書の読み方:2018/11/20(火) 17:42:40
シャンソンさん(笑)

書いたら、良いのではわ。

志恩さんの用な、孫の話をしてるより、良いでは、無いですか。<

  私は無職老婆とちがって、損得勘定しながら生きているので
  書きません。
  自分のバカをさらけ出すのは、他の場でやっています。

7855トンチカン信徒:2018/11/20(火) 17:58:08
>>7854
そうですか、それは、失礼しました。シャンソンさん。

志恩さんは、日の丸掲示板で、雅宣先生に対して、親しげな、馴れ馴れしいたいど、『私は、本流よ』とか?現在は、無資格、無信仰なのに、さも、幹部信徒の様な態度で、偉そうな態度で、コメントしてます?

疑問を感じてますが?志恩さんは?元原宿職員なんですかね?

何か?嘘つき婆さんじゃと感じてますが?

7856トンチカン信徒:2018/11/24(土) 06:22:07
シャンソンさん

志恩さんの収入=年金

ですよ。

188:シャンソン
18/11/23(金) 17:50:59
日時:2018年11月23日 (金) 17時10分
名前:志恩

神の子ってさん、
あなたは、「現象」と「実相」を ごちゃ混ぜに してるわ。

そうおっしゃるなら、今、すぐの時点で、
あなたが、教団からも学ぶ会からも好かれてお手本を見せてください。<


  こんなの反証になっていない気がする。
  神の子さん、これといって収入もないのに
  人からの恨みは大量に買い込む元本部職員なんて無視してくださいね。

7857トンチカン信徒:2018/11/24(土) 06:58:58
>>7856
不思議です。新羅人の志恩さんが、どうして、日本の年金もらえるだろか?

7858トンチカン信徒:2018/11/24(土) 07:08:37
新掲示板では、トキさんが、シャンソンさんのベージを最長にして、表示してる為、読むのに大変である。

7859トンチカン信徒:2018/11/24(土) 07:11:33
本当に、苛めである。

シャンソンさん対して。
たぶん、ワザとだとろ

7860トンチカン信徒:2018/11/24(土) 07:15:33
>>7852
シャンソンさん?

だっら、自慢すれば良いではないか。

そんな、差し引き0とか、訳のわからない事言ってないてないでさ?

===========
7852:シャンソン

18/11/20(火) 15:12:07
私ごとだが、トンチカン信徒は、自慢じゃ無いが、江戸城を、上空から上から、眺めたことある。
勿論、皇居や、江戸城天守閣跡も見えた。<


 私も皇居や京都御所や御寺に関して自慢できることがある。
 でも、自慢しても何の徳にもならないし
 差引残高0なので書きません。

7861トンチカン信徒:2018/11/24(土) 09:01:10
ハンネ=神の子様

この人は、誰?

===========

6012:神の子様
18/11/22(木) 21:01:30
シャンソンさんの志恩さんへ見解 (7778)
日時:2018年11月22日 (木) 17時37分
名前:シオン観測隊

シャンソンさんの志恩さんへ見解。

(見解)

志恩さんは、頭が可笑しいと、シャンソンさんの見解です。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓


 それを、トキさんも志恩もお咎めはしません、ってなんですか?
 頭おかしいのではないですか?


 というか、どうも志恩さんとは言葉が通じなく意志の疎通が困難なので、この件は追及しないことにします。

7862シャンソン:2018/11/24(土) 09:33:13
>日野さんは、此方について、なん説明もなく、逃げています!志恩さんソックリ!

トンチンカン信徒さんのアドリブ言語活動には、
 清楚な元本部職員のお母様から、一般の男性信徒から、
 人の恨みを大量に買い込むお山のしゃしゃり出るのが使命の性格ブスから、
 博識訊け氏や無能男や、あらし認定者から
 さまざまな人が逃げていきます。

 対応困難なトンチンカン信徒さんです。

7863シャンソン:2018/11/24(土) 09:38:18
結論は (7805)
日時:2018年11月23日 (金) 18時43分
名前:トキ

 ここの管理人は変態です、と言うことでさやを納めて下さり(笑)、皆様で谷口雅春先生への感謝の気持ちを改めて表明しましょう。<

  トキ管理人が変態だ、というのは一理あります。
  本人が自白するのは意外でしたが。

7864シャンソン:2018/11/24(土) 09:43:48
>>7855

年長者なんだから、えらそうなのは当たり前でしょう。

7865トンチカン信徒:2018/11/24(土) 10:44:15
>>7864
じゃ?天皇陛下にも、偉そうに、してましたよ、志恩さん?天皇陛下より、志恩さんの実年齢て?年長なんですね?シャンソンさん?

この、コメントだと?
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

7864:シャンソン
18/11/24(土) 09:43:48
>>7855

年長者なんだから、えらそうなのは当たり前でしょう。

7866トンチカン信徒:2018/11/24(土) 12:55:37
>>7865
なんだ?沈黙のシャンソンさんですね。錦の御幡に沈黙するのが、西の伏見の特徴ですね。

7867蒼天の實相:2018/11/24(土) 13:25:10
〜求めよ、與られん〜

 >
求めよ、さらば与えられん
【読み】 もとめよ、さらばあたえられん
【意味】 求めよさらば与えられんとは、与えられるのを待つのではなく、自ら積極的に努力すれば、必ずよい結果が得られるということ。
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【求めよさらば与えられんの解説】
【注釈】 ひたすら神に祈れば、神は必ず正しい信仰心を与えてくれるだろうということ。
転じて、何事も進んで努力する姿勢が大切だという意味。
『新約聖書。マタイ伝』の山上の垂訓にある言葉で、「求めよさらば与えられん、叩けよさらば開かれん」とあるのに基づく。
「さらば(然らば)」は、そうすれば、それならばという意味。
【出典】 『新約聖書』
【注意】 -
【類義】 叩けよ、さらば開かれん
【対義】 -
【英語】 Ask, and it will be given to you.(求めよ、さらば与えられん)
【例文】 「求めよ さらば与えられんだ。ただじっと待っているだけじゃ何も好転しないぞ」
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谷口雅春先生より、遥か以前に、偉大な関東の宗教者の著作本が、明治時代に、刊行されていました。

これは、事実であります。

7868蒼天の實相:2018/11/24(土) 15:09:53
〜武神・植芝盛平先生〜
日野さんのシェアした、大熊先生のFBに、極真・大山氏の写真が、掲載されていて、可の人は、韓国系日本人と言うべきかなのか?尊敬すべき人物ではあるが、可の力道山と同じで素性になる。

日本人意識は、大山先生は、遥かに優れいたろ。
だが、この大山師も、越える、弟子になろとしたが、なれなかったのが、この、植芝盛平先生だ。
この、神技をみたら、仰天する。

この、老人に触ることするさできないのだからね。

関東の勇、植芝先生。
出口王仁三郎、五井昌久の両師に付き、谷口雅春先生に、付かなかったの、何故か?

7869シャンソン:2018/11/24(土) 16:15:07

 トンチンカン信徒さんは、もうあんたに聞いたってしょうがない理数系が
 「老婆の集い」に出講中のときは、10個ぐらいスレ立てするのは
 やめたほうがいいです。

7870神の子様:2018/11/24(土) 17:58:09
>>7868
植芝先生は、ケネディ大統領まえ、実演されている

7871トンチカン信徒:2018/11/24(土) 18:00:13
>>7869
シャンソンさんは、最近、西日本人的コメントが、多くなってきた。

東日本人は嫌いらしい。

7872シャンソン:2018/11/24(土) 18:32:27

 新掲示板で高偏差値だけどなぜかわら人形の在庫だけは増やす
 管理人が、なんとかヒストリーの重要性について書いていました。

 しかし、この方は、傍流で「聖典サイト」のようなものを作る構想を
 述べたまま、他の人の意見も出ていながらなにもまとめることができず、
 9月にいってた清掃作業もまだですよ。

 教団からも学ぶ会からも嫌われている男とはこういうもんなんですね。

7873トンチカン信徒:2018/11/24(土) 22:49:05
大阪万博は、ハッキリ言って、西日本人のやっぱ幻想だったんだね。

首都圏=23区+横浜+さいまた+千葉

なのよ?

バカ西日本人?

7874蒼天の實相:2018/11/25(日) 01:25:43
東日本復興を言わなくた、西日本人たち!

7875トンチカン信徒:2018/11/25(日) 11:35:05
神の子様と、汚点ちゃん、気にくわないの、今日も投稿しました。内部アラシ
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

270:神の子様
18/11/25(日) 08:34:21

HARU@LIGHTのボーカル@yayoicawatan
フォローする
声かけられて咄嗟に「先を急ぐ身ですゆえ」ってうっかり武士でちゃったから未成年って思われなかったかもしれない不覚


271:・
18/11/25(日) 08:38:08

海坂侑 / 眞駒@ameni1952
フォローする
営業やってた頃どうにも眠くて、電車で隣に座る知らんオッサンに「本当に申し訳ないのですが菊名に着いたら起こしてほしい」とお願いして即座に爆睡し、するとい
(文字略)

272:・
18/11/25(日) 08:41:43

ゆうやん-文系@HBRyuyan
フォローする
電車乗ってたら 「昭和53年って、平成何年?」 って質問してる人いてんけど、 今日も日本は平和です。


273:・
18/11/25(日) 08:45:53

人気面白ツイート大集合【つぶやき編】@ninki_tweet
フォローする
会社に取引先からお歳暮が届いたので「社員全員で美味しくいただきました。有り難うございます」とメールを送った後、よく見たら石鹸の
(文字略)

7876神の子様:2018/11/25(日) 17:11:52
7870 :神の子様 :2018/11/24(土) 17:58:09
>>7868
植芝先生は、ケネディ大統領まえ、実演されている

7877トンチカン信徒:2018/11/26(月) 00:15:12
シャンソンさんは、自分の自己満足と我儘為に、こうした、コメントしてるだけの、承知してます。

この、ハンネ=閲覧者3は、この前のハンネ=閲覧者3と違う人物ですね。

傍流住民権は、当初決めた通りですし、当初、シャンソンさんを、私が、助けいたは明らかです。↓↓↓↓↓↓↓↓↓
2704:シャンソン
18/11/25(日) 19:53:15
(7834)
日時:2018年11月25日 (日) 15時46分
名前:閲覧者3

この掲示板も
ある種、憑依されている部分がありますね(笑)
しかし、トキ管理人さんという中心がゆらぎ無いので無事で
なによりです。
〜〜

 閲覧者3さんの絶妙なるコメント、いつも楽しみです。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓


ハンネ=うのはな8年目が?コメントしても、もう助けませんよ。

絶妙な、言い回しですよね、ハンネ=うのはな8年

7878シャンソン:2018/11/26(月) 05:09:00
>傍流住民権は、当初決めた通りですし、当初、シャンソンさんを、私が、助けいたは明らかです。

  住民権なんて誰も決めていませんよ。
  ここも管理人が不誠実なために、かなり迷惑な人たちが入り込んでいたし、
  もうすぐ閉鎖するそうです。

7879トンチカン信徒:2018/11/26(月) 06:09:26
>>7878
だって、実際に、住民になってるんだから、仕方ありませんよ。

シャンソンさんの本音は、閉鎖したく無いんですかね?表面?閉鎖したいてコメントしてますが?
言ってるコメントだって?変化してるしね。トキさんと、内密に本当は、打合せしてたりしてね(笑)
===========
7878:シャンソン
18/11/26(月) 05:09:00
>傍流住民権は、当初決めた通りですし、当初、シャンソンさんを、私が、助けいたは明らかです。

  住民権なんて誰も決めていませんよ。
  ここも管理人が不誠実なために、かなり迷惑な人たちが入り込んでいたし、
  もうすぐ閉鎖するそうです
==========


ハンネ=うのはな8年目さん、なんか、私何回も、シャンソンさんが、嫌がるから、捕縛したりしたし。

ハンネ=カモの子だって、捕縛したね。

本当、シャンソンさんて、酷いですねよ。

7880蒼天の實相:2018/11/27(火) 06:06:15
〜興禅護国論〜
(日本を守る会の本当の本流派)

興禅護国論(読み)こうぜんごこくろん
.
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
興禅護国論
こうぜんごこくろん
鎌倉時代の栄西の著わした日本最初の禅の書。3巻。建久9 (1198) 年成立。栄西が中国から臨済宗黄竜派を受けて帰朝し,日本に初めて禅を広めたが,南都北嶺の諸宗から非難攻撃を受けたため,禅が一つの宗旨として独立することが,鎮護国家のためにも仏教のためにも必要であることを力説したのが本書である。この書によって日本における禅宗が歩みはじめた。
.
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
デジタル大辞泉の解説
こうぜんごこくろん【興禅護国論】
鎌倉時代の仏教書。3巻。栄西(えいさい)著。建久9年(1198)成立。旧仏教側からの非難に対し、禅宗は異端ではなく国家の繁栄のために必要であると説いたもの。
.
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
世界大百科事典 第2版の解説
こうぜんごこくろん【興禅護国論】
栄西の主著。1198年(建久9)成立。3巻。全体を10門に分ける。第1,2門は,仏教永続のため戒律実践が不可欠とし,これを看板とする栄西の禅宗こそ鎮護国家に役だつと論ずる。第3門で比叡山や朝廷の弾圧をかわし多様な疑問に答えながら,朝廷による禅宗承認の宣旨を繰り返し要請して,本書の直接のねらいを明かす。第4,5,6門は,日本の禅の先例,栄西の伝えた禅の系譜,禅宗教理の経典的裏づけ。第7門に至って初めて宋代の禅宗に特有の論法を展開してみせる。
.
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
大辞林 第三版の解説
こうぜんごこくろん【興禅護国論】
日本最初の禅書。栄西著。三巻。1198年成立。宋から帰国した栄西が、論難に対し、臨済禅の護国思想を主張した書。禅宗独立を宣言し、宗義を述べる。

.
出典 三省堂大辞林 第三版について 情報
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
興禅護国論
こうぜんごこくろん
鎌倉時代の仏教書。3巻。日本臨済禅(りんざいぜん)の開祖栄西(えいさい)が、二度にわたる入宋(にっそう)で中国臨済宗の法を受け、日本に臨済宗を広めようとして1198年(建久9)に著した書物。当時はまだ叡山(えいざん)の天台宗を中心とする旧仏教の影響力が強く、新来の禅宗は排斥攻撃を受けたので、それに対し禅をおこすことが護国繁栄につながると力説したもので、日本における禅宗独立宣言の書とみられる。原文は漢文で、10門よりなり、引用などはすべて典拠を掲げて厳密を期している。巻首には作者不明の栄西の伝記、巻後には栄西自身の未来記を付す。[藤井教公]
『市川白弦他校注『日本思想大系16 中世禅家の思想』(1972・岩波書店)』
.
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
世界大百科事典内の興禅護国論の言及
【栄西】より
… これに反感を抱いた筥崎の良弁や比叡山の意向をうけ,朝廷は94年達磨宗停止の宣旨を下し,大日房能忍のそれと合わせて栄西の禅宗を禁じている。これに対する反論と主張は98年《興禅護国論》にまとめられた。栄西は,禅宗が末法の時代にこそふさわしく,鎮護国家にいかに有用かを説き,比叡山における禅の先蹤を明らかにして巧みにその非難をかわし,朝廷はこの禅宗の弘通を勅許すべきだと論じている。…
.
【鎮護国家】より
…摂関政治・院政期には鎮護国家の概念に代わって,むしろ王法仏法(王法)の観念が強まってくるが,鎌倉時代には禅宗,日蓮宗の勃興とともに仏法による護国論が提起された。栄西は《興禅護国論》を著して禅院の建立は国家を守護し民衆を利するものとし,道元は永平寺を建立してこれを実践したし,日蓮は《立正安国論》《守護国家論》を著した。1338年(延元3∥暦応1)から足利氏が諸国に設けた安国寺は,〈安国利生〉に基づく創建で,これも南北朝動乱の終焉を祈るとともに国家の安寧平和を目的としたものであった。…
.
※「興禅護国論」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
関連語をあわせて調べる
明庵栄西
末法思想
鎌倉時代
建仁寺
宗義
論難

7881蒼天の實相:2018/11/27(火) 07:15:30
>>7880
〜日本を守るの本当の本流派は興禅護国会〜

興禅護国論を基本理念とした、興禅護国会が、主軸になり、『日本を守る会』が、できました。


いま、学ぶ会(生長の家・異端派〜自称本流派)が、の、主軸思想でありません。間違えないように。

7882シオン観測隊:2018/11/28(水) 03:04:25
〜日野さんは、恐れてる。訊けさんに、『殺処分』の本音を追求された、過去歴を〜

彼が、ヴィーガンに、執着をみてるも、訊けさんに、恐怖心を植え付けらたからだと思う。


可なり、異常な執着だ。

7883トンチカン信徒:2018/11/28(水) 13:48:22
〜真霊観〜

日野ボン、『霊観、霊観』と『大魔境』勘違いされていました。

小霊観と申しましょか、真霊観と、こんな感じです。


これは、実例です。

南禅寺で、『夜坐』の『独椄心』中に、雲水さんの膝の上で、野ウザキ暖をとり寝ているのです。坐禅が終わる時間くらいに、居なくなりなり。


雲水さんが、坐禅中『三昧の境地=空』だったから、こそ、野ウサギは、雲水さんの膝の上で、安心て、眠りついたですね。

人の心に感応したといえますね。調和した瞬間だから、神様の智恵、仏の智恵はたらいたから、こうした、瞬間生たんです。

これが、本当の霊観です。

私こうした、霊観をした、人を、数人してます。

7884シャンソン:2018/11/29(木) 09:43:22

 閉鎖やそんなことについて、何回書いてると思ってるのか?
 ここの無能男が閉鎖すると言いながらなにもしないから
 こんなやりとりをしなくてはならないようになるのです。

 最近も、鈍感老婆が新掲示板で、彼女の希望をかなえてあげたらとか
 バカ丸出しの自己中心的なコメントをトキさんにしていましたが、
 それもトキさんがなにもやらないからこんないざこざが起こるのです。

 みんな他人のせいにしているように聞こえるかもしれませんが、
 冷静に客観的に考えて書いています。
 とにかく、無能男が雑話だけしていているところへ
 トンチンカン信徒さんはたびたび訪問しないほうがいいでしょう。

7885トンチカン信徒:2018/11/29(木) 09:55:28
>>7884
いま、新掲示板では。

日野氏が、自分の内面=超肉好きなのを、白露され、訊け氏に、色々噛みつき亀の様に、噛みついています。


日野氏は、あの年で表面を売りにしたのは、トキ管理人、志恩さんと言う、嘘つき先輩のおかげですね(笑)

シャンソンさん、行くないう、御指摘はわかりますが、トキ新掲示板は、吉本新喜劇になり始めています。

(笑)

7886トンチカン信徒:2018/11/29(木) 10:01:22
本当は、肉好きだた、日野くん(笑)

訊け氏が、暴露してくれました。

いいじゃなか、魔さすこともあるさ〜。

人間だもの

7887🐯:2018/11/29(木) 10:05:22
返信先:
@chounamoul
さん
作家のCWニコルは、アナタの様な人をこう表現していました。
『ウエット・ブランケット』まさにアナタは濡れ毛布ですな。

7888トンチカン信徒:2018/11/29(木) 12:31:07
また、汚点ちゃんになり、CWニコル〜味素のコマーシャです(笑)

人間だも〜沢木派の教えを継ぐ曾孫居士の一人。
流行り、ことばだね。

私は、好きじゃないよ、人間だものはね。

7889シャンソン:2018/11/29(木) 14:58:54

 お肉はそんなに体にいいものではないと思っていますが、
 江原啓之さんなども書いているように、
 戦後日本人の寿命が延びたのは肉食のおかげもある。というように、
 お肉のパワーも凄いものがあるようで、長寿で元気な人の
 中でも、週に何度かお肉をたべるという健康法があるみたいです。

 40代くらいの女性タレントさんでも、お肉大好き人間で
 夫と二人で焼肉やそんなものを盛大に食べている様子がテレビで出ていたけど、
 医者は、彼女の場合はまだ40代で代謝もいいから、これだけ肉を食べても心配ないという
 ことをコメントしていました。

 だから何がダメというのはないと思いますよ。
 日野氏の場合は、ブログ写真で魚の切り身を出していたと思いますが
 ヴィーガンは魚も食べないと言い出したりよくわかりません。

 べつに、そんなことを揚げ足とるために書いているわけではありませんが、
 沢木派の教えだとか、トンチンカン信徒さんは意味不明です。
 どうでもいいことは、この傍流を使うようにして
 無能男の新掲示板にいくつもスレッド作らないでください。

 これが無能男が「料金がかかるのがイタイです」といってた
 有料でセキュリティのしっかりしていない掲示板か、と思うと
 気分が憂鬱になってくるので。
 まるで無能を絵にかいたような掲示板ですね。

7890トンチカン信徒:2018/11/29(木) 16:05:56
>>7889
自分だけが、基準だから、意味不明なんじゃないの。シャンソンさん

田中忠雄先生始め、岡田先生など、生長の家駒大系は沢木派系だよ。そう言うこと。別に意味ないよ、シャンソンさんが、興味ないだけだろ。


日野さんが肉を食してるは、以前からです。揚げ足は、取って無い。
シャンソンさん気に入らないは、訊け氏とやり取りですかね。
無能掲示板と言いながら、ね・・・・・

7891トンチカン信徒:2018/11/29(木) 16:32:30
>>7889
シャンソンさん

ハンネ=神の子様に、騙されますね。

私は、法句経もわけのわかならインド宗教のことも書いてない。

完全=不法侵入者ですね。アクエリアンかもしれませんよ。可能性は、ありますよ。

7892神の子様:2018/11/29(木) 19:12:28
トキさん依怙贔屓 (7926)
日時:2018年11月29日 (木) 14時20分
名前:シオン観測隊

志恩さんを依怙贔屓してましたね。

7893トンチカン信徒:2018/11/29(木) 20:03:28
隠しハンネ=神の子様を、緊急不法侵入者として<捕縛>しました。

隠しハンネ=神の子様は、正式な=ハンネを提出ください。

シャンソンさん指定捕縛です

7894トンチカン信徒:2018/11/29(木) 20:05:24
7893:トンチカン信徒
18/11/29(木) 20:03:28
隠しハンネ=神の子様を、緊急不法侵入者として<捕縛>しました。

隠しハンネ=神の子様は、正式な=ハンネを提出ください。

シャンソンさん指定捕縛です

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
下へ▼
7892:神の子様
18/11/29(木) 19:12:28
トキさん依怙贔屓 (7926)
日時:2018年11月29日 (木) 14時20分
名前:シオン観測隊

志恩さんを依怙贔屓してましたね。

7895トンチカン信徒:2018/11/29(木) 20:07:27
>>7894
名乗れいばわいは、処分されますが、よいですね。

↓↓↓↓↓↓↓↓↓
7893:トンチカン信徒
18/11/29(木) 20:03:28
隠しハンネ=神の子様を、緊急不法侵入者として<捕縛>しました。

隠しハンネ=神の子様は、正式な=ハンネを提出ください。

シャンソンさん指定捕縛です

7896トンチカン信徒:2018/11/30(金) 08:23:20
日野ボンは、<小沢さん>好き見たいだね。

だから、志恩さんを新羅人と書いたら、噛み亀になったんだね(笑)

理由が、わかって来たな(笑)

シャンソンさんには、意味不明かもしれないけどね(笑)

7897蒼天の實相:2018/11/30(金) 09:37:41
〜聖一国師〜

円爾
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1.生涯
建仁2年(1202年)、駿河国安倍郡栃沢(現・静岡市葵区)に生まれる。幼時より久能山久能寺の堯弁に師事し、倶舎論・天台を学んだ。18歳で得度(園城寺にて落髪し、東大寺で受戒[1]。)し、上野国長楽寺の栄朝、次いで鎌倉寿福寺の行勇に師事して臨済禅を学ぶ。嘉禎元年(1235年)、宋に渡航して無準師範の法を嗣いだ。法諱は初め弁円と称し、円爾は房号であったが、後に房号の円爾を法諱とした(道号はなし)。なお、「円爾弁円」と4字で表記される場合もあるが、前述のとおり円爾には道号はなく、新旧の法諱を併記した「円爾弁円」という表記は適切ではない。
仁治2年(1241年)、宋から日本へ帰国後、上陸地の博多にて承天寺を開山、のち上洛して東福寺を開山する。宮中にて禅を講じ、臨済宗の流布に力を尽くした。その宗風は純一な禅でなく禅密兼修で、臨済宗を諸宗の根本とするものの、禅のみを説くことなく真言・天台とまじって禅宗を広めた。このため、東大寺大勧進職に就くなど、臨済宗以外の宗派でも活躍し、信望を得た。
晩年は故郷の駿河国に戻り、母親の実家近くの蕨野に医王山回春院を開き禅宗の流布を行った。また、宋から持ち帰った茶の実を植えさせ、茶の栽培も広めたことから静岡茶(本山茶)の始祖とも称される。墓所ともなった「医王山回春院」の名は茶の持つ不老長寿の効能をうたったものと伝えられる。 なお、静岡市では、円爾の誕生日(新暦)である11月1日を「静岡市お茶の日」に制定し、茶業振興のPRに努めている。
没後の応長元年(1311年)、花園天皇から「聖一」の国師号が贈られた。頂相も比較的多く残っており、3種類に大別できる。また自賛像だけでも、南禅寺天授庵に1点(重要文化財)、万寿寺に1点(重文、京都国立博物館寄託)、東福寺に4点が確認されている。

7898蒼天の實相:2018/11/30(金) 09:42:27
>>7897

理数系→理致の間違いでは。

7899シオン観測隊:2018/11/30(金) 11:20:34
日野ボンのフェスブックを見て、笑った。

離乳食をつくっていました。赤ちゃんから脱しきれないない!日野ボン!(笑)!

訊け氏に、突っ込まれ、逃げまくり!赤ちゃん自炊生活!

7900シャンソン:2018/11/30(金) 16:51:37

 アクエリアン様は、トンチンカン信徒さんの攻撃に疲れ、
 新掲示板へ引き抜かれたようです。(笑)

7901トンチカン信徒:2018/11/30(金) 17:10:33
>>7900
じゃ?

隠しハンネ=神の子様?
曳馬野さんですかね(笑)
別に、誰でもよいです。トンチカン信徒ではないです(笑)

シャンソンさんが、気に入らない様子なので、久々捕縛しました。
==========
7900:シャンソン
18/11/30(金) 16:51:37

 アクエリアン様は、トンチンカン信徒さんの攻撃に疲れ、
 新掲示板へ引き抜かれたようです。(笑)

7902蒼天の實相:2018/11/30(金) 17:22:47
〜寒山〜

概要
寒山(かんざん、生没年不詳)は、中国・唐代に浙江省にある天台山の国清寺にいたとされる伝説的な風狂僧。『寒山子詩』の作者とされる。後世、拾得と共に有髪の姿で禅画の画題とされる。
「寒山寺#寒山拾得」も参照
人物像
伝歴は不明な点が多く、時代も初唐の人とされるが、それは『寒山子詩』の中唐以降の詩風とは一致していない。その名は、始豊県(天台)西方70里の寒巌を居所としていたことにちなむものとされる。その風姿は、痩せこけたもので、樺の冠をかむり、衣はボロで木靴を履いた奇矯なものであったという。食事は、国清寺の厨房を任される拾得から残飯を得ていたといい、寺僧に咎められると、大笑いして走り去ったという。虎を連れた姿で知られる豊干禅師の弟子とされ、豊干を釈迦、寒山を文殊、拾得を普賢の化身に見立てるものもある。
台州刺史の閭丘胤が国清寺を訪ねた時、拾得と共に大笑しながら寒巌に姿を隠し、二度と姿を見ることは無くなったとされる(森鴎外が、「寒山拾得」として作品化している)。その後、山中の諸処に書かれていた詩300篇余りが発見され、それが『寒山子詩』であるとされている。
『宋高僧伝』巻19「感通篇」に、「唐天台山封干(豊干)師伝」があり、寒山子・拾得として附伝されており、『景徳伝灯録』巻27にも、「天台豊干禅師 天台寒山子 天台拾得」として記録されている。
なお道教史書を数々編纂した五代の杜光庭による『仙伝拾遺』中にも、寒山が収められており、そこでは道士が『寒山子詩』を集めたことになっている。

7903蒼天の實相:2018/11/30(金) 17:27:16
〜拾得〜

概要
拾得(じっとく、生没年不詳)は、中国・唐代に浙江省にある天台山の国清寺にいたとされる伝説的な風狂僧。豊干禅師に拾われて仕事を得たのが、名前の由来とされる。寒山と拾得は仲が良く、いつも子供のように遊び回っていた。その様子があまりに風変わりだったため、後世の人によって特別視され、寒山は文殊菩薩、拾得は普賢菩薩の化身とする説が生まれた。
寒山と共に有髪の姿で禅画の画題とされる。巻物を持った姿で描かれる寒山に対して、拾得は箒を持った姿で表現される。
「寒山寺#寒山拾得」も参照

7904蒼天の實相:2018/11/30(金) 17:31:06
〜豊干〜

概要
豊干(ぶかん、ほうかん、生没年不詳)は、中国・唐代の禅僧[2][3]。豊干禅師ともいわれ、寒山と拾得と共に三聖と呼ばれる[2][3]。

1.人物
出身地や出自については殆ど知られていない[2]。奇行の僧。天台山の国清寺におり、髪は総髪にして眉を整え毛皮を付けた衣(ぼろ)を着ていたという[2]。仏道の教理を問われると、いつも「随時」と答えた[2]。豊干は虎に乗って道歌を口ずさみながら門を入ってきたことがあり、虎に乗る豊干の姿は絵にも描かれた[2]。



2.寒山・拾得との関係
国清寺の厨房に寒山と拾得という二人の奇人がおり、かまどの番をしながら向かい合って一日中話をしていたが、その話を聞いても何を話しているのか分からないため、二人は風狂子と呼ばれていた[2]。ただし豊干だけは二人を理解したので、二人は豊干には懐いていたという[2]。
豊干は閭丘胤という人物に、国清寺でかまどの番をして食器を洗っている寒山と拾得は文殊・普賢の両菩薩であると告げたという[2]。

7905蒼天の實相:2018/11/30(金) 19:13:15
〜法華経〜

概要
『法華経』(ほけきょう、ほっけきょう)は、大乗仏教の代表的な経典。大乗仏教の初期に成立した経典であり、誰もが平等に成仏できるという仏教思想の原点が説かれている[2]。聖徳太子の時代に仏教とともに日本に伝来した[3]。


1.名称
『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』(梵: ・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・, Saddharma Pu??ar?ka S?tra「正しい教えである白い蓮の花の経典」の意[6])の漢訳での総称であり、梵語(サンスクリット)原題の意味は、「サッ」(sad)が「正しい」「不思議な」「優れた」、「ダルマ」(dharma)が「法」、「プンダリーカ」(pu??ar?ka)が「清浄な白い蓮華」、「スートラ」(s?tra)が「たて糸:経」であるが、漢訳に当たってこのうちの「白」だけが省略されて、例えば鳩摩羅什訳では『妙法蓮華経』となった。さらに「妙」、「蓮」が省略された表記が、『法華経』である。「法華経」が「妙法蓮華経」の略称として用いられる場合が多い。[7]
漢訳は、部分訳・異本を含めて16種が現在まで伝わっているが、完訳で残存するのは
『妙法蓮華経』8巻28品(鳩摩羅什訳、400年、大正蔵262)[8]
『添品妙法蓮華経』7巻27品(闍那崛多・達磨笈多共訳、601年、大正蔵264)
の3種で、漢訳三本と称されている。漢訳仏典圏では、鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』が、「最も優れた翻訳」[9]として流行し、天台教学や多くの宗派の信仰上の所依として広く用いられている。

7906シオン観測隊:2018/12/01(土) 04:36:30
〜日本の少数民族〜

日本の民族の一覧 名称 説明
大和民族 日本民族、倭人とも呼ばれています。
縄文時代以前より日本列島に住んでいた人々で構成されており、日本国で最多数の民族です。
アイヌ民族 日本からロシア(東北の一部、北海道、樺太、千島列島など)に住んでいた北方系の先住民族です。 縄文人と特徴が似ており、縄文文化と似たような文化を持っていたことから、縄文人の末裔とも考えられています。
古くは日本人から蝦夷(えみし、えびす、えぞ)などとも呼ばれていました。
言語にはアイヌ語を使用していましたが、現在アイヌ語を喋るアイヌの人は10数人程度とされています。 また、アイヌ語には方言も非常に多いといわれています。
ウィルタ民族 主に樺太で生活しているツングース系の民族です。アイヌ民族からは「オロッコ」と呼ばれていました。 樺太の中部以北で生活しており、現在も300人余りのウィルタ民族が居住しています。
言語にはウィルタ語を使用しています。
第二次世界大戦後に旧ソ連から追放や移住をし、北海道で生活しているウィルタ民族の方もいるようです。
ニヴフ民族 主に樺太やシベリアの一部で生活している民族です。 ロシアではギリヤークとも呼ばれています。
人口は5000人余りで、第二次世界大戦後に北海道に移住したニヴフ民族の方もいるようです。






琉球民族 琉球王国の有った沖縄や沖縄やその周辺の島々、鹿児島県の奄美諸島などに生活していた方々を、言語、文化、生活習慣などでまとめて琉球民族と呼んでいます。
琉球人、沖縄人、奄美人などとも呼ばれているようです。
言語には琉球語、喜界語、北奄美大島語 、南奄美大島語など数種類の言葉があります。
小笠原諸島欧米系島民 1876年に小笠原諸島が日本領となる以前から生活していた、アメリカ人やハワイ人の末裔を小笠原諸島欧米系島民と呼んでいます。
小笠原方言と呼ばれる日本語と英語が混じった言葉を利用していました。
サンカ 特定の民族では有りませんが、日本の山地などを移動しながら生活していた不特定の人々のことを指し、 山窩、山家、三家、散家などとも書かれます。
昭和30年代頃まで、サンカと言われる人々が居たとされています。
家船(えぶね) 特定の民族では有りませんが、主に船の上で集団生活をしていた、漂流漁民を指します。
一定の本拠地となる場所を周辺に複数の船で漁業を営み生活していました。
昭和40年ごろまで家船と言われる人々が居たとされています。

7907蒼天の實相:2018/12/01(土) 19:12:23
〜国柱会〜

概要
国柱会(こくちゅうかい 國柱會)は、元日蓮宗僧侶・田中智学によって創設された法華宗系在家仏教団体。純正日蓮主義を奉じる右派として知られる。


2.思想・信仰
国柱会の根本の理念は、寺檀制度によって形骸化した伝統宗門の改革と近代化を在家主義の立場から目指すものである。
教学における国柱会の功績は、現在でも「師子王文庫」や「真世界社」などに引き継がれている。分派した各法華宗・日蓮宗宗派の統一、更には法華一乗のもと全宗派、全宗教の統一(一天四海皆帰妙法)のための宗教革命、ならびに皇祖皇宗の日本国体を法華経のもとに体系化することを究極の目標としている。
更には、智学の思想による「全国の神社に祀られる主神はすべて皇祖神に統一されるべき」という主張や、法要時の礼服、祭壇の祀り方、数珠を一切用いない、など神道的な要素を強く残しており、法華神道の団体としての色彩も強い。
なお、本化妙宗としての信仰は、釈尊を教祖、日蓮を宗祖と仰ぎ、本尊は日蓮大聖人の「佐渡始顕の妙法曼荼羅」としている。

7908蒼天の實相:2018/12/01(土) 19:50:04
>>7907
〜国柱会〜

1.名称と標語
国柱会の名称は、日蓮の三大請願の一つ「我日本の柱とならん」から智学によって命名された。独立した宗派としての正式名称は「本化妙宗」。 また、智学の造語であり、戦前日本では国家主義のスローガンとして多用された「八紘一宇」を最初に標榜したのは国柱会であった。「日蓮主義」という表現も、国柱会によって初めて使われた。「主義」という概念が、明治以降に流入した西洋哲学に由来するものであり、後述のように日蓮主義という概念は、日蓮教学の近代的体系化の一端を表している。


3.歴史
3.1.創始期
智学が日蓮宗の宗義に疑問をいだき、還俗して最初に設立したのが「蓮華会」という組織である。1880年(明治13年)、横浜において結成され、国柱会のさきがけとなった。その後、東京進出にともない1884年(明治17年)に名称を「立正安国会」に改名。「宗教ヲ以テ経国ノ根本事業トスベシ」と宣言し、在家主義の立場から仏教の近代化を目指した。
1902年(明治35年)、日蓮仏教の教学を組織体系化した「本化妙宗式目」を発表し、1903年(明治36年)より大阪などで日蓮門下各教団の僧侶を集めて本化妙宗研究大会を開催。智学はその中でも神武天皇御陵前での講演「皇宗の建国と本化の大教」において、日蓮仏教の国教化を目指す王仏冥合思想を宣言した。

7909蒼天の實相:2018/12/01(土) 21:41:15
〜国柱会〜

7.著名な会員
金子彌平(初代京都局長)
近衛篤麿(近衛文麿の父)
宮沢賢治
石原莞爾
北原白秋夫人菊子
高山樗牛
武見太郎
藤牧義夫
神崎武雄


9.関連人物
坪内逍遥
近衛文麿
東條英機
板垣征四郎
中里介山

7910蒼天の實相:2018/12/01(土) 21:50:14
〜永平寺〜

概要
地理院地図 Googleマップ 永平寺
永平寺(えいへいじ)は、福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の寺院。總持寺と並ぶ日本曹洞宗の中心寺院(大本山)である。山号を吉祥山と称し、寺紋は久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)である。開山は道元、本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏である。


1.歴史
1.1.道元の求法
曹洞宗の宗祖道元は正治2年(1200年)に生まれた。父は村上源氏の流れをくむ名門久我家の久我通親であるとするのが通説だが、これには異説もある。
幼時に父母を亡くした道元は仏教への志が深く、14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺に上り、仏門に入った。道元には「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、本来悟っている(本覚思想)はずなのに、なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問があった。道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺の栄西に教えを請いたいと思ったが、栄西は道元が出家した2年後に、既に世を去っていた。
比叡山を下りた道元は、建保5年(1217年)建仁寺に入り、栄西の直弟子である明全に師事した。しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考えた。師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。
道元は天童山景徳寺の如浄に入門し、修行した。如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」を強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。なお、一緒に渡宋した明全は渡航2年後に現地で病に倒れ、2度と日本の地を踏むことはできなかった。
日本へ戻った道元は初め建仁寺に住し、のちには深草(京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。

7911蒼天の實相:2018/12/01(土) 22:00:56
>>7910
1.歴史
1.2.越前下向
旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、道元は信徒の1人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重の請いにより、興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。寛元元年(1243年)のことであった。
当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、道元はここでひと冬を過ごすが、翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立する。これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。
寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝のときの元号「永平」からであり、意味は「永久の和平」である。


1.歴史
1.3.道元以降
その後の永平寺は、2世孤雲懐奘、3世徹通義介のもとで整備が進められた。義介が三代相論で下山し4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり寺勢は急激に衰えた。一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた。義雲から19世祚玖まで[1]と、22世の常智祚天は寂円派の住持であった。
暦応3年(1340年)には兵火で伽藍が焼失、応仁の乱の最中の文明5年(1473年)でも焼失した。その後も火災に見舞われ、現存の諸堂は全て近世以降のものである。
天文8年(1539年)、後奈良天皇より「日本曹洞第一出世道場」の綸旨を受ける。
天正19年(1591年)、後陽成天皇より「日本曹洞の本寺並びに出世道場」の綸旨を受ける。
元和元年(1615年)、徳川幕府より法度が出され總持寺と並び大本山となる。

7912蒼天の實相:2018/12/01(土) 22:05:33
>>7911
〜永平寺〜

2.伽藍
山門 - 寛延2年(1749年)の建築。重層の門で、階上には釈迦如来像、五百羅漢像などを安置する。
中雀門
通用門
円通門
仏殿 - 明治35年(1902年)の建築。本尊の久遠実成の釈迦・方便の釈迦・無量寿の釈迦(阿弥陀如来)の三世仏(過去・現在・未来を表す)の他、禅宗初祖の達磨像、道元の師である如浄禅師像などを安置する。
法堂(はっとう) - 天保14年(1843年)の建築。聖観音(しょうかんのん)像を安置する。
大庫院 - 昭和5年(1930年)の建築。地上3階地下1階の近代木造建築で、台所兼事務所の役を果たす。建築当時のエレベーターが現存しており、これは稼動中のものとしては日本最古といわれる。
承陽殿 - 明治14年(1881年)の建築。開山道元の廟で、道元以下第5世までの住職の像を安置する。
僧堂 - 明治35年(1902年)の建築。僧堂は坐禅修行のための建物である。
傘松閣(さんしょうかく) - 昭和5年(1930年)の二祖国師・孤雲懐奘650回忌を記念して建築。道元禅師と永平寺の名は、永平寺最初の山号「傘松峰」に由来。222畳敷きの大広間があり、天井画は小室翠雲らの尽力により、荒木十畝、伊東深水、鴨下晁湖、川合玉堂、島田墨仙、野田九浦、益田玉城、水上泰生、山田敬中、山本昇雲など計144名の画家によって描かれた[2]。
吉祥閣 - 昭和46年(1971年)の建築。地上5階地下1階の宿泊研修施設で、曹洞宗に限らず参禅研修を希望する人を広く受け入れている。
浴室 - 昭和55年(1980年)の改築
東司
真陽閣
光明蔵
不老閣
宝蔵
一華蔵
孤雲閣
瑠璃聖宝閣
五葉関
祠堂殿

7913蒼天の實相:2018/12/01(土) 22:06:10
>>7912
〜永平寺〜

3.歴代貫首
第2世 孤雲懐奘 (道光普照国師)1198 - 1280
第3世 徹通義介 1219 - 1309
第4世 義演 ? - 1314
第5世 義雲 1253 - 1333
第6世 曇希 ? - 1363
第7世 以一 ? - 1388
第8世 喜純 ? - 1401
第9世 宗吾 1343 - 1406
第10世 永智 ? - 1440
第11世 祖機 ? - 1445
第12世 了鑑 ? - 1457
第13世 建綱 ? - 1469
第14世 建撕 1415 - 1474
第15世 光周 ? - 1493
第16世 宗縁 ? - 1522
第17世 以貫 ? - 1540
第18世 祚棟 ? - 1560
第19世 祚玖 ? - 1610
第20世 門鶴 ? - 1615
第21世 海巖宗奕(智光大通禅師)? - 1622
第22世 常智祚天(大説常智禅師)? - 1631
第23世 佛山秀察(佛山・照禅師)? - 1641
第24世 孤峰龍札(日照孤峰禅師)? - 1644
第25世 北岸良頓(鐵面癡頑禅師)1586 - 1648
第26世 天海良義(萬斛大鐘禅師)? - 1650
第27世 嶺巖英峻(萬照高國禅師)1589 - 1674
第28世 北州門渚(普照北州禅師)? - 1660
第29世 鐵心御州(大覺佛海禅師)? - 1664
第30世 光紹智堂(慧輪永明禅師)1610 - 1670
第31世 月洲尊海(芳山月州禅師)1609 - 1683
第32世 大了愚門(因光大了禅師)1613 - 1687
第33世 山陰徹翁(覺海智圓禅師)? - 1700
第34世 馥州高郁(大仙國光禅師)? - 1688
第35世 版饒晃全(應安萬圓禅師)1627 - 1693
第36世 融峰本祝(大證無得禅師)? - 1700
第37世 石牛天梁(本然圓明禅師)1638 - 1714
第38世 ・巖嚴柳(清了大安禅師)? - 1716
第39世 承天則地(大清撫國禅師)1655 - 1744
第40世 大虚喝玄(圓成實性禅師)1661 - 1744
第41世 義晃雄禪(圓満覺性禅師)1671 - 1740
第42世 江寂圓月(大智慧光禅師)1694 - 1750
第43世 央元密巖(廊然大行禅師)? - 1761
第44世 大晃越宗(正法保國禅師)? - 1756
第45世 寶山湛海(大珍慧鏡禅師)1690 - 1771
第46世 彌山良須(真空妙有禅師)1696 - 1771
第47世 天海薫元(金毛全威禅師)? - 1786
第48世 成山台明(佛鎮護国禅師)? - 1792
第49世 大耕國元(圓觀正覺禅師)? - 1793
第50世 玄透即中(洞宗宏振禅師)1729 - 1807
第51世 靈岳惠源 1718 - 1809
第52世 獨雄宣峰(廣寿妙濟禅師)? - 1835
第53世 佛星爲戒(昭化理宗禅師)1742 - 1818
第54世 博容卍海(大運法乘禅師)? - 1821
第55世 縁山大因(天臨高長禅師)1763 - 1826
第56世 無庵雲居 1757 - 1827
第57世 載庵禹隣(宏濟慈國禅師)? - 1845
第58世 道海大信 ? - 1844
第59世 觀禪眺宗(慈航真濟禅師)? - 1848
第60世 臥雲童龍(大晃明覺禅師)1796 - 1870
第61世 久我環溪(環溪密雲 絶學天真禅師)1817 - 1884
第62世 青蔭雪鴻(鐵肝雪鴻 圓應道鑑禅師)1832 - 1885
第63世 滝谷琢宗(魯山琢宗 真晃断際禅師)1836 - 1897
第64世 森田悟由(大休悟由 性海慈船禅師)1834 - 1915
第65世 福山默堂(壽硯默堂 慧光玄照禅師)1841 - 1916
第66世 日置默仙(維室默仙 明鑑道機禅師)1837 - 1920
第67世 北野元峰(大?元峰 圓證明修禅師)1842 - 1933
第68世 秦慧昭(默道慧昭 大規正信禅師)1862 - 1944
第69世 鈴木天山(白龍天山 密傳慈性禅師)1863 - 1941
第70世 大森禪戒(活龍禪戒)1871 - 1947
第71世 高階瓏仙(玉堂瓏仙 大鑑道光禅師)1876 - 1968
第72世 佐川玄彝(訓山玄彝)1866 - 1944
第73世 熊澤泰禪(祖學泰禪 大光圓心禅師)1873 - 1968
第74世 佐藤泰舜(博裔泰舜 直指圓性禅師)1890 - 1975
第75世 山田靈林(鷲峰靈林 佛真宏照禅師)1889 - 1980
第76世 秦慧玉(明峰慧玉 慈眼福海禅師)1896 - 1985
第77世 丹羽廉芳(瑞岳廉芳 慈光圓海禅師)1905 - 1993
第78世 宮崎奕保(栴崖奕保 黙照天心禅師)1901 - 2008
第79世 福山諦法(絶学諦法 慈航玄徳禅師)1932 -

7914蒼天の實相:2018/12/01(土) 22:14:58
〜白山信仰〜

1.成立
古くから「越のしらやま」として、詩歌に詠われた白山は、富士、立山とならび「日本三名山」のひとつに数えられる秀麗な峰であった。また、白山から流れ出る豊富な水は四方の川を満たし、それが広く田畑を潤すお蔭で、人々の生活と農事の一切が成り立っていた。このため、古代より白山は「命をつなぐ親神様」として、水神や農業神として、山そのものを神体とする原始的な山岳信仰の対象となり、白山を水源とする九頭竜川、手取川、長良川流域を中心に崇められていた。
奈良時代になると修験者が信仰対象の山岳を修験の霊山として日本各地で開山するようになり、白山においても、泰澄が登頂して開山が行われ、原始的だった白山信仰は修験道として体系化されて、今日一般に認識されている「白山信仰」が成立することとなった。

7915蒼天の實相:2018/12/01(土) 22:21:12
>>7914
1.成立
古くから「越のしらやま」として、詩歌に詠われた白山は、富士、立山とならび「日本三名山」のひとつに数えられる秀麗な峰であった。また、白山から流れ出る豊富な水は四方の川を満たし、それが広く田畑を潤すお蔭で、人々の生活と農事の一切が成り立っていた。このため、古代より白山は「命をつなぐ親神様」として、水神や農業神として、山そのものを神体とする原始的な山岳信仰の対象となり、白山を水源とする九頭竜川、手取川、長良川流域を中心に崇められていた。
奈良時代になると修験者が信仰対象の山岳を修験の霊山として日本各地で開山するようになり、白山においても、泰澄が登頂して開山が行われ、原始的だった白山信仰は修験道として体系化されて、今日一般に認識されている「白山信仰」が成立することとなった。


3.歴史
崇神天皇7年に、白山を仰ぎみる遥拝所が創建されたと伝えられる。祭神は菊理媛尊(白山比・大神)、伊邪那岐尊(伊弉諾命)、伊邪那美尊(伊弉冉命)の三柱であった。
その後、717年(養老元年)に、修験者泰澄が加賀国(当時は越前国)白山の主峰、御前峰(ごぜんがみね)に登って瞑想していた時に、緑碧池(翠ヶ池)から十一面観音の垂迹である九頭龍王(くずりゅうおう)が出現して、自らを伊弉冊尊の化身で白山明神・妙理大菩薩と名乗って顕現したのが白山修験場開創の由来と伝えられ[2][3][4][5]、以後の白山信仰の基となった。
翌718年(養老2年)に、泰澄は御前峰に社を築き、白山妙理大権現を奉祀した。
平安時代には、加賀・越前・美濃の3国に禅定道が設けられ、「三箇の馬場(ばんば)は、加賀の馬場(白山比・神社)、越前の馬場(白山神社)、美乃の馬場(白山神社)也」(三馬場)と呼ばれた[6]。そして、神仏習合により、820年(天長9年)には、それぞれの馬場に、白山寺、平泉寺、長滝寺の神宮寺が建立された。
延暦寺の末寺となった加賀国白山寺白山本宮、越前国霊応山平泉寺、美濃国白山中宮長滝寺は白山頂上本社の祭祀権を巡る争いを続けたが、寛文8年(1668年)白山麓は江戸幕府の公儀御料となり、霊応山平泉寺が白山頂上本社の祭祀権を獲得した。

7916蒼天の實相:2018/12/01(土) 22:22:12
>>7915
〜白山信仰〜

3.歴史
3.2.神仏分離・廃仏毀釈
明治維新による神仏分離・廃仏毀釈によって、修験道に基づく白山権現は廃社となった。三馬場のうち、白山寺白山本宮は廃寺となり、白山比・神社に強制的に改組された。霊応山平泉寺も同様に廃寺となり平泉寺白山神社に強制的に改組された。白山中宮長滝寺は廃寺は免れたものの、長滝白山神社と天台宗の長瀧寺に強制的に分離された。
山頂や登山道の各地に置かれていた仏像は、このとき引き下ろされて廃棄される運命にあった。しかし、銅造十一面観音菩薩立像(国の重要文化財)など8体が白峰村(現白山市)の林西寺住職(当時)、可性法師の手によって収集され、現在も同寺境内の「白山本地堂」に安置されている。

7917蒼天の實相:2018/12/02(日) 00:08:04
〜皇道派〜

1.名称と概説
名前の由来は、理論的な指導者と目される荒木貞夫が日本軍を「皇軍」と呼び、政財界(皇道派の理屈では「君側の奸」)を排除して天皇親政による国家改造を説いたことによる。
皇道派は統制派と対立していたとされるが、統制派の中心人物であった永田鉄山によれば、陸軍には荒木貞夫と真崎を頭首とする「皇道派」があるのみで「統制派」なる派閥は存在しなかった、と主張している。
皇道派が全盛期の時代、つまり荒木が陸軍大臣に就任した犬養内閣時に陸軍内の主導権を握ると、三月事件、十月事件の首謀者、皇道派に反する者に対して露骨な派閥人事を行い、左遷されたり疎外された者らが団結したグループは反皇道派として中央から退けられたが、この処置が露骨な皇道派優遇人事として多くの中堅幕僚層の反発を招いた。同じく皇道派に敵対する永田が、自らの意志と関わりなく、周囲の人間から勝手に皇道派に対する統制派なる派閥の頭領にさせられていたのである。これら非皇道派の中堅幕僚層は、後に永田鉄山や東條英機を中心に統制派として纏まり、陸軍中枢部から皇道派は排除されていくことになる。
両派の路線対立はこの後も続くが、軍中央を押さえた統制派に対して、皇道派は若手将校による過激な暴発事件(相沢事件や二・二六事件など)を引き起こして衰退していくことになる。
皇道派のメンバーを上原勇作が支援していた経緯から、旧薩摩閥も多かったとされる[1]。

7918蒼天の實相:2018/12/02(日) 00:08:48
>>7917
〜皇道派〜

2.誕生
荒木が真崎甚三郎と共に、皇道派をつくりあげる基盤は、宇垣一成陸相の下で、いわゆる宇垣軍縮が実施された時期に生まれたと言える。
宇垣は永田鉄山を陸軍省動員課長に据え、地上兵力から4個師団約9万人を削減した。その浮いた予算で、航空機・戦車部隊を新設し、歩兵に軽機関銃・重機関銃・曲射砲を装備するなど軍の近代化を推し進めた。
永田は、第一次世界大戦の観戦武官として、ヨーロッパ諸国の軍事力のあり方や、物資の生産、資源などを組織的に戦争に集中する総力戦体制を目の当たりにし、日本の軍備や政治・経済体制の遅れを痛感した。宇垣軍縮は軍事予算の縮小を求める世論におされながら、この遅れを挽回しようとするものであった。統制派の考え方はこの流れをくむものである。
一方、宇垣が軍の実権を握っている間、荒木・真崎らは宇垣閥外の人物として冷遇されていた。荒木は1918年のシベリア出兵当時、シベリア派遣軍参謀であったが、この時に革命直後のロシアの混乱や後進性を見る一方で、赤軍の「鉄の規律」や勇敢さに驚かされた。そのため荒木は反ソ・反共の思想を固めただけでなく、ソヴィエトの軍事・経済建設が進む前にこれと戦い、シベリア周辺から撃退し、ここを日本の支配下に置くべきであるという、対ソ主戦論者となった。
折から、佐官・尉官クラスの青年将校の間に『国家改造』運動が広がってきた。その動機は、
軍縮のため将校達の昇進が遅れ、待遇も以前と比べて悪化しそれに対する不平・不満が激化したこと。
農村の恐慌や不況のため、農民出身者の兵士の中に共産主義に共鳴する者が増加し、軍の規律が動揺するのではないかという危機感を将校達に与えたこと。
農村の指導層(地主・教師・社家・寺族・商家など)出身の青年将校の中には、幼馴染や部下の兵の実家・姉妹が零落したり「身売り」されたりするなど、農村の悲惨な実態を身近で見聞きしていた者が多かったため。
などである。
青年将校らは、このような状況を作り出しているのが、宇垣ら軍閥を始め、財閥・重臣・官僚閥であると考えたのである。
1931年12月、十月事件の圧力を背景に、犬養内閣で荒木が陸相に就任すると、真崎嫌いで知られる金谷範三参謀総長を軍事参議官に廻し、後任に閑院宮載仁親王を引き出す。ついで1932年1月に台湾軍司令官の真崎を参謀次長として呼び戻し、参謀本部の実権を握らせた。一方で杉山元、二宮治重らの宇垣側近を中央から遠ざけ、次官に柳川平助、軍務局長に山岡重厚を配する等、自派の勢力拡大を図った。人事局長の松浦淳六郎、軍事課長の山下奉文もこの系譜につながる。荒木は尉官クラスに官邸で連日のように酒を振る舞うなど、武力による「維新」を企てる青年将校らを鼓舞し、その支持を集めた。
荒木や真崎は、日露戦争時期を理想化し、日本をその状態に復帰させることが、軍の拡大強化や対ソ戦を早く決行できる所以だと考えた。ここから、「君側の奸」を討ち、「国体を明徴」にし、「天皇親政」を実現すべしという思想が引き出される。このような思想を抱く荒木らに対し、青年将校らは「無私誠忠の人格」として崇敬した。これが皇道派である。

7919蒼天の實相:2018/12/02(日) 00:09:57
>>7918
〜皇道派〜

3.行動
この派は荒木・真崎をシンボルとし、前述の将官の他、1932年(昭和7年)2月に参謀本部第二課長(作戦担当)ついで第三部長(運輸・通信担当)となった小畑敏四郎、憲兵司令官ついで第二師団長となった秦真次、小畑の後任の作戦課長である鈴木率道、陸大教官の満井佐吉らが首脳部をなしていたが、省部の中堅将校からはほとんど孤立した存在であった。皇道派が「国家革新」の切り札と頼む武力発動の計画に当たったのは、村中孝次・磯部浅一ら尉官クラスの青年将校団である。
皇道派青年将校がクーデター計画に狂奔したのは、彼らが陸軍省部中央に近い統制派ほどに具体的な情勢判断と方針を持たず、互いに天皇への忠誠を誓い、結果を顧みずに「捨石」たらんとしたという思想的特質にもよる。
青年将校らは自分たちの行動を起こした後は、「陛下の下に一切を挙げておまかせすること」(※2・26事件の首謀者の一人、栗原安秀中尉の尋問調書より)に期待するのみであった。永田鉄山軍務局長を斬殺した相沢三郎中佐は、法廷で検察官の質問に答え「国家革新ということは絶対にない。いやしくも日本国民に革新はない。大御心に拠ってそのことを翼賛し奉ることである」と述べている。したがって彼等は「革命」「クーデター」という概念すら拒絶していた。
また、彼らの信頼を集めた荒木や真崎も、自分たちが首班となって内閣をつくることを予期するだけで、その後の計画も無く、各方面の強力な支持者もいなかった。とくに財閥や官僚には皇道派を危険視する空気が強く、彼らが政権を担当する条件そのものが欠落していたのである。
それだけに、成果の見込みの有無を問わず危険な行動に走るという特徴が表面に現れた。その特徴こそ、軍部・官僚・財閥のファッショ的支配を押し進める露払いの役割を果たしたのである。もともと荒木が陸相に就任したこと自体、三月事件・十月事件で政党首脳が恐怖を感じた結果であった。
真崎は教育総監時代、天皇機関説排斥運動の中心にあった。五・一五事件や相沢事件の公判では、排外主義、国粋主義の国民意識を利用して判決に介入させ、また政党政治は事実上このときに崩壊した。この直後に引き起こされた二・二六事件は更に準戦時体制へと途を開くのである。

7920蒼天の實相:2018/12/02(日) 00:10:55
>>7919
〜皇道派〜

4.凋落
荒木は犬養内閣、さらに齋藤内閣において陸相をつとめたが、もともと軍令・教育畑が長く政治力に欠けるところがあり、高橋是清蔵相との陸軍予算折衝でも成果を挙げることが出来なかった。また側近の多くも軍政経験が乏しく、荒木を十分に補佐したとは言い難い。このため大臣末期には省部中堅の信を失い、青年将校からは突き上げを食うなど閉塞状況に陥った。
参謀本部においても、実務を切り回す真崎次長に閑院総長宮が不快感を募らせ、内部でも小畑敏四郎第三部長と永田鉄山第二部長が対ソ・支那戦略を巡り対立。後の皇道・統制両派の抗争の端緒となる。
荒木は1934年1月、酒を飲み過ぎて風邪をこじらせ、肺炎となり陸相を辞任する。荒木は後任陸相に真崎を推薦したが、真崎の独断に閉口していた閑院宮に反対され、林銑十郎教育総監が陸相となり、真崎はその後任に回った。柳川以下の皇道派幕僚も相次いで中央を去り、さらに同年11月には青年将校らによる士官学校事件が起こり、これを契機に統制派による真崎排除の機運が高まる。1935年7月、林と閑院宮は三長官会議において強引に真崎を更迭、後任に渡辺錠太郎を据えた。
荒木の辞職、真崎の更迭によって皇道派は中央での基盤を失い、8月の相沢事件を経て、1936年には青年将校を中心とした二・二六事件の暴発につながる。その後、翌年にかけての大規模な粛軍人事によって皇道派はほぼ壊滅した。現役に残ったのは山下奉文、鈴木率道ら少数の者に過ぎなかった。
なお大戦末期の1944年、昭和天皇に木戸内大臣を通じて、「戦争指導に行き詰まり、経済、社会の赤化に向う東條とその側近に代えて、予備役の皇道派将官を起用すべき」と奏した近衛文麿に対し、天皇は次のように論駁している。「第一、真崎は参謀次長の際、国内改革案のごときものを得意になりて示す。そのなかに国家社会主義ならざるべからずという字句がありて、訂正を求めたることあり。また彼の教育総監時代の方針により養成せられし者が、今日の共産主義的という中堅将校なり。第二、柳川は二・二六直前まで第1師団長たりしも、幕下将校の蠢動を遂に抑うこと能わざりき。ただ彼は良き参謀あれば仕事を為すを得べきも、力量は方面軍司令官迄の人物にあらざるか。第三、小畑は陸軍大学校長の折、満井佐吉をつかむことを得ず。作戦家として見るべきもの有るも、軍司令官程度の人物ならん。以上これらの点につき、近衛は研究しありや否や」(木戸幸一日記)。

7921蒼天の實相:2018/12/02(日) 01:27:55
〜歎異抄より〜

『善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」


『堕天使より、復活のキリスト現れる』


こうした、事知ることは、大切なんでは、ないでありません。

7922蒼天の實相:2018/12/02(日) 04:35:56
〜日本の民族〜
2.日本での現状
日本は、大和民族であるとされる人々が大多数である一方、少数民族とされる集団も存在する。まず、先住民に類するものとして以下のような例がある(日本の民族問題や、個別の詳細を参照のこと)。
縄文人
弥生人
アイヌ:北海道の先住民族。現在は和人との同化も進み、首都圏にも多く移住しているとみられるが実態は不明な点が多い。
ウィルタ
ニヴフ
出雲族
海神族
天孫族
蝦夷
琉球民族:沖縄県や奄美群島(鹿児島県)などの旧琉球王国領域の住民
隼人
熊襲
佐伯
欧米系島民 - 小笠原諸島の開拓・移民の末裔。
ブラジル系帰化人
朝鮮系日本人 - 朝鮮籍や北朝鮮、韓国籍からの帰化者。
華僑系日本人 - 台湾や中国籍からの帰化者。
アメラジアン - GIベビー とも呼称される。連合国軍占領下の日本に、アメリカ軍を中心とした連合国軍の兵士と日本人女性との間に様々な理由で生まれた人々。戦後の落とし子、と言われ、数万人はいると考えられる。日本国籍を持つ。
家船
マタギ
サンカ
※沖縄県や奄美群島(鹿児島県)などの旧琉球王国領域の住民を、大和民族とは別個の琉球民族であるとする考えがある。
※本州、四国、九州においては、一般的には別個の先住民族は認められていない。古代の蝦夷、熊野、熊襲、隼人などが本土の先住民族であるという考えもあり、近世・近代の「サンカ」をその末裔とする向きもあるが、現在ではそのような集団も見いだしがたいため一般的ではない。もっとも、東北地方では蝦夷の反乱者が郷土の英雄として神社に祀られたりする例があり、関東以南ないし西日本との若干の歴史観の差異は存在するようである。ただし、これを民族の差と捉えることはほとんどなく、元サントリー会長による「東北熊襲発言」も、民族差別ではなく地域差別発言ととらえられた。
さらに日本の近代化後に、日本に帰化した韓国・朝鮮系、中国・台湾系、欧米系の日本人などを少数民族とする考えもある。また、国民国家の枠を限定的にとらえず、在日韓国人・朝鮮人・在日華僑なども少数民族であると主張する立場も存在するが[1]、国際法上などの通説的解釈では他国の国民であり、日本国籍を持っていない者は少数民族とはみなされない。
なお日本政府が国際人権規約に基づく国際連合への報告書に、同規約第27条に該当する少数民族として記載しているのはアイヌ民族のみである。

7923蒼天の實相:2018/12/02(日) 05:44:27
>>7922
現在日本は、混血家族は、進んでいる。現状だし、労働力不足も、現実化している。何を、夢の様な、戯言を、若い人ボザク1960型脳味噌の腐れ老人!

7924蒼天の實相:2018/12/02(日) 06:14:17
〜高砂族〜
1.中華民国(台湾)の高山族
台湾原住民のうち、山地や東海岸や離島に居住し、漢人への同化が進まなかった民族を指す総称だが、現在はほとんど用いられない。人口は約50万人。清朝時代には「生番」、日本統治時代初期には「生蕃」と呼称されていたが(「番」も「蕃」も中華文明世界の外の意、漢人への同化が進んでいたものは「熟番(蕃)」と呼称された)、日本統治時代中期である1935年(昭和10年)6月4日に台湾総督府が公布した「戸口調査規定」において、先住少数民族に対する差別的呼称「生蕃」と「熟蕃」を「高砂族」と「平埔族」に改正した。この改称は、秩父宮雍仁親王の要請によると言われている。
また高山族には首狩りの習慣があり、漢人や日本人にも首狩り族と恐れられた。

7925トンチカン信徒:2018/12/02(日) 16:46:02
〜自衛隊〜

自衛隊一流とか、宣伝するの良いが、日本は、いま、近年、労働者不足は、深刻化してる。

若い人?(日野さんくらいの)、ひ弱で、重労働に、向かない。


自衛隊も、兵力確保は大変らしいよ。

地元の消防団でさえ成りて手が無い。


自衛隊が、今に中国人採用になる日も、あるのか?

民間軍事、民間警備に、世界は、移行しつつある。

軍隊も、ロボコッブの時代かも。

7926神の子様:2018/12/02(日) 20:19:00
 これを聞いた質問者は困った、『法華経』の真理を学びたいけれども、どうしても彼は人間の心の中に仏があるとは信じられないのである。

 そこで彼は日蓮聖人にこう言う。

「十界互具の仏語分明なり然りと雖も我等が劣心に仏法界を具すること信を取り難き者なり今時之を信ぜずば必ず一闡提と成らん願くば大慈悲を起して之を信ぜしめ阿鼻の苦を救護したまえ。」

 要するに、「いくら理屈を並べられても私の心の劣った中に仏の素晴らしい教えがあることなど、信じられない。しかし、それを信じないと救われない、とはあまりにも酷い。貴方は上行菩薩とかいう偉いお坊さんなんだから、なんとか慈悲の心で私を救ってほしい。」という訳である。

 これに対する日蓮聖人の返答は冷たい。

「汝既に唯一大事因縁の経文を見聞して之を信ぜざれば釈尊より已下四依の菩薩並びに末代理即の我等如何が汝が不信を救護せんや」

 ここまでお釈迦様のお経で説明してきたのに、これを信じないのであれば、お釈迦様には遠く及ばない菩薩や私たちにお前を救うこと等できん、というのである。

 念のために言っておくと、これも「真言亡国」等と同じ方便説法である。こうして突き放して後で、日蓮聖人は「ただ、お経を理解していなくとも救われる方法はあるな」というのだ。

 どういうことかと言うと、「仏を見たてまつらざれども法華にて得道する」する例もある、仏教伝来以前に誰も救われなかったのかと言うとそういうことはない、としてこう述べる。

「其の上仏教已前は漢土の道士・月支の外道・儒教・四韋陀等を以て縁と為して正見に入る者之れ有り、又利根の菩薩凡夫等の華厳・方等・般若等の諸大乗経を聞きし縁を以て大通久遠の下種を顕示する者多々なり例せば独覚の飛花落葉の如し教外の得道是なり」

 ここでいう「外道」というのは、仏教と対立していたヒンドゥー教やジャイナ教と言った宗教のことである。こういう宗教や、中国の伝統宗教である儒教を縁として『法華経』の真理に触れて救われることもある、と述べている。

 また『法華経』以外のお経から結果的に『法華経』を悟って救われたものもいる、とも述べている。

 このように日蓮聖人は他の宗教を否定したように思われがちであるが、実際には他の宗教で救われるものもいることを、はっきり述べているのである。他宗派どころか仏教以外の宗教をも認めていたのが日蓮聖人であるから、単に他宗教を「邪教」として排斥し、同じ日蓮聖人を崇敬する仲間同士でも宗派争いをすることが日蓮聖人の説かれた「折伏」であろうはずがないのである。

http://nipponkakuryoukai.cocolog-nifty.com/blog/2018/11/post-126a.html

7927蒼天の實相:2018/12/03(月) 00:58:14
〜赤穂藩〜

概要
浅野 長直(あさの ながなお、慶長15年(1610年) - 寛文12年7月24日(1672年9月15日))は、江戸時代前期の外様大名。浅野氏では初代の播磨赤穂藩主。
生涯[編集]
慶長15年(1610年)、下野真岡藩主(のちに常陸笠間藩主)である浅野長重(浅野長政の三男、広島浅野家の傍流の一つ)の長男として生まれた。母は松平家清の娘。幼名は又一郎。正室は白河藩主・丹羽長重の娘。子に長友(長男)、娘(大石良重室)。養子に長賢、長恒。
寛永8年(1631年)12月3日、従五位下内匠頭に叙任された。同9年(1632年)10月29日、父の跡を継いで笠間藩主となる。同11年(1634年)には幕府より駿府城城代に任じられ、同13年(1636年)には江戸城西の丸の普請を手伝い、さらに大坂城の加番を命じられた。この在番中、赤穂藩主の池田輝興が正室の黒田長政の娘を殺害する事件が起こり、池田家は改易となった。この改易処分の際、幕命により城受け取りに赤穂へ赴いた浅野長直は、そのまま国替え・赤穂藩主を命じられ、以降は孫の長矩の代に改易されるまで浅野家が赤穂藩主となった。
慶安2年(1649年)から赤穂城築城工事を開始し、寛文元年(1661年)に完成させた。城下の整備も進められ、上水道の設備などがおこなわれた。さらに姫路から浜人・浜子を入植させ、塩業村を興し、赤穂塩の経営を始めた。次いで、塩水濃縮法による入浜塩田法を導入して大量増産をはかり、やがて赤穂塩は日本全国の塩の7%のシェアを占めるようになる。この入浜塩田法は、赤穂のみならず瀬戸内の諸藩の塩田に伝わっていった。一連の赤穂藩の基礎を固めた業績で、長直をもって赤穂藩歴代藩主で一番の名君とする向きが強いが、一方で長直は農民・塩田労働者から6割を超える高い年貢を取り立てたため、庶民からはとても憎まれていたらしい。
寛文元年(1661年)に京都内裏が炎上した際には、長直が新内裏造営を命じられ、筆頭家老大石良欽を派遣の上、内裏を再建させている。
また承応元年(1652年) - 万治3年(1660年)にかけては山鹿素行を1,000石の高禄で赤穂へ招いて兵学を学び、家臣たちにも講義を受けさせた。これによって、山鹿流兵学や儒学は赤穂藩の学問の主流を形成することとなる。寛文5年(1665年)に山鹿素行が幕府に睨まれて赤穂に流罪にされたときも、罪人としてではなく師として迎え入れている。
また、江戸において赤穂藩は大名火消としても評判が高かった。『松雲公御夜話』には長直自らが陣頭指揮を執り、延焼を防いだ逸話が記されている[1]。寛文8年(1668年)の大火では、屋根上で指揮を取っていた長直が、燃え始めた物置の上へ家来とともに飛び降り、押しつぶして消火した。孫の長矩が刃傷事件を起こした後、江戸の住人から同情を集めたのは、長直が率いた赤穂藩大名火消としての評判・功績があったからではないかという説もある[2]。寛永18年1月29日(1641年3月10日)、江戸京橋桶町から発生した大火災(桶町火事)は、江戸市中の消火防災体制が未熟だったために大被害をもたらした。幕閣は対策を講じるために、「奉書火消」の長直ら6人を招いて相談させ、二年後の寛永20年(1643年)に「大名火消」の制度が生まれた。
寛文11年(1671年)に長男長友に家督を譲り、翌年7月24日に死去した。享年63。墓所は赤穂の花岳寺。

7928蒼天の實相:2018/12/03(月) 00:58:58
>>7927
〜赤穂藩〜



浅野 長重(あさの ながしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。
生涯[編集]
浅野長政の三男として近江国に生まれる。母の姉・ねね(おね)が豊臣秀吉に嫁いでいる関係で浅野氏は豊臣時代に優遇され、秀吉は長重を嗣子がなかった宇都宮国綱の養子にさせようと宇都宮家に働きかけを行なった。文禄2年(1593年)5月に国綱は一度了承したものの、国綱の弟である芳賀高武の反対によりこの計画は中止となった。
慶長4年(1599年)には徳川家康の命令で江戸へ移り、翌年1月から家康の三男秀忠の小姓として仕えるようになった。この年春に従五位下采女正に叙任された。また7月には秀忠が会津征伐のために出陣し、長重も従軍を希望したが、まだ15歳になっていないとの理由で江戸へ戻された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでの浅野一族の戦功は著しかったので、慶長6年(1601年)に芳賀高武の旧領である下野真岡2万石が与えられた。さらに慶長7年(1602年)には家康の養女となっていた松平家清の娘と結婚。慶長10年(1605年)、秀忠の将軍宣下のための上洛に供した。慶長16年(1611年)に父・長政の死去に伴い、隠居料として与えられていた常陸真壁5万石を相続し、真岡2万石は幕府に返上する。
長政の跡を継ぎ、関ヶ原の戦いののち紀伊国を領していた長兄の幸長が慶長18年(1613年)に死去すると、重臣の浅野氏重は徳川家と親しい長重を後継に推すが、幸長の遺言と長政正室・長生院の周旋により浅野忠吉らが推す次兄の長晟が紀州藩主を継ぐこととなった。
慶長19年(1614年)に大久保忠隣が改易された際には安藤重信・本多忠朝とともに小田原へ赴いている。また同年の大坂冬の陣にも出陣し、夏の陣の天王寺・岡山の戦いでは先陣をきって毛利勝永ら豊臣方先鋒隊と戦い、浅野家は家臣30人・雑兵100人あまりを失い敗走するものの、豊臣方の首級60をあげて一矢報いた。また同戦では大石良勝が活躍し、この戦功をもって1500石を拝領し筆頭家老となった大石家は、(長重流)浅野家の永代家老家とされた。「赤穂浪士の大石内蔵助」で有名な大石良雄は、この家系から出ている。
元和8年(1622年)に本多正純が改易となった際に宇都宮城の収城使を務める。また同年、加増転封させるという内意を受けたが、長重は真壁の領有を望んで認められ、真壁を含む5万3500石とされて笠間藩主に転じた。寛永4年(1627年)には陸奥国若松城に在番し、寛永6年(1629年)には江戸城西丸の普請に携わった。
寛永9年(1632年)9月3日に死去した。享年45。父・長政と同じ真壁伝正寺に葬られた。墓所は花岳寺にもある。家督は長男の長直が継いだ。


〇この通り、豊臣家譜代の大名の浅野氏である。

赤穂藩を、断絶した、幕府理由は、簡単だ。


日野さんの、フェイスブックは、明らか、小嘘をついてる

7929蒼天の實相:2018/12/03(月) 01:29:13
>>7928
豊臣対徳川の図式が、そこに、あるわけだ。

それに、由井正雪事件、伊達藩お家騒動も、豊臣対徳川の図式、関ヶ原の図式的構造から、行くの筋だ。

下級武士云々は、そりゃ、浪人がバッコした、戦国末期の状態(失業者対策)などの不満の噴出だろ。

世間をしらない、流石は、日野オボチャンの思考だと思った。

7930蒼天の實相:2018/12/03(月) 01:47:19
〜国柱会〜

田中智学師と226事件
5.第一次大戦後〜第二次大戦中の用例の概要と評価
5.1.二・二六事件における言及
1936年(昭和11年)に発生した二・二六事件では、反乱部隊が認(したた)めた「蹶起趣意書」に、「謹んで惟るに我が神洲たる所以は万世一系たる天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり」とある。この事件に参加した皇道派は粛清されたが、日露戦争以降の興亜論から発展したアジア・モンロー主義を推し進める当時の日本政府の政策標語として頻繁に使用されるようになった。
「八紘一宇」という表現を内閣として初めて使ったのは第一次近衛内閣であり、1937年(昭和12年)11月10日に内閣・内務省・文部省が国民精神総動員資料第4輯として発行した文部省作成パンフレット「八紘一宇の精神」であるとされる[19]。1940年(昭和15年)には、第2次近衛内閣による基本国策要綱(閣議決定文書、7月26日)で、「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ」[20]と表現し、大東亜共栄圏の建設と併せて言及された。同年9月27日には、日独伊三国同盟条約の締結を受けて下された詔書にて「大義ヲ八紘ニ宣揚シ坤輿ヲ一宇タラシムルハ実ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ朕ガ夙夜眷々措カザル所ナリ」と言及されるに至った。


4.田中智學による国体研究
大正期に日蓮宗から在家宗教団体国柱会を興した日蓮主義者・田中智學が「下則弘皇孫養正之心。然後」(正を養うの心を弘め、然る後)という神武天皇の宣言に着眼して「養正の恢弘」という文化的行動が日本国民の使命であると解釈、その結果「掩八紘而為宇」から「八紘一宇」を道徳価値の表現として造語したとされる[16]。これについては1913年(大正2年)3月11日に発行された同団体の機関紙・国柱新聞「神武天皇の建国」で言及している。田中は1922年(大正11年)出版の『日本国体の研究』に、「人種も風俗もノベラに一つにするというのではない、白人黒人東風西俗色とりどりの天地の文、それは其儘で、国家も領土も民族も人種も、各々その所を得て、各自の特色特徴を発揮し、燦然たる天地の大文を織り成して、中心の一大生命に趨帰する、それが爰にいう統一である。」と述べている[17]。もっとも、田中の国体観は日蓮主義に根ざしたものであり、「日蓮上人によって、日本国体の因縁来歴も内容も始末も、すっかり解った」[18]と述べている。

7931蒼天の實相:2018/12/03(月) 08:59:19
〜醤油〜
醤油
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1.概要
独自の発展を経て明治時代の中期に完成を見た。大豆、小麦、塩を原料とし、麹菌、乳酸菌、酵母による複雑な発酵過程を経て生成され、その過程でアルコールやバニリン等の香気成分による香り、大豆由来のアミノ酸によるうまみ、同じく大豆由来のメチオノールによる消臭作用と、小麦由来の糖による甘みを持つ。なお、赤褐色の色調は、主にメイラード反応によるものである。
鉄分はコウジカビの生育に悪影響を与えるので鉄分の少ない水を使用する[1]。鉄分が少ない方が色が薄く仕上がり、軟水の方が適する[2]。
日本料理の調理において、煮物の味付けや汁物やタレのベースにするなど、広く利用され、天ぷら・江戸前寿司・蕎麦など、日本の食文化の基本となっている調味料である。また、ほとんどの場合は濃口醤油が用いられ、一般家庭でも醤油差しに入れられて食卓に出され、食堂や日本料理店などでも同様に普通にテーブルに置かれ、料理にかけたり少量を小皿に注ぎ・浸す、「つけ・かけ」用途に用いられる。主要な産地としては千葉県・兵庫県である。

7932トンチカン信徒:2018/12/03(月) 09:02:53
>>7931

酵母は、厳密には、植物では、無い。多細胞生物体動物らしい。

ヴーガンは、純粋に植物しか食べては、行けないのだから、この決まなら、醤油、味噌は、禁止だな。

7933トンチカン信徒:2018/12/03(月) 22:15:19
日野さんの『新掲示板の投稿内容』であります。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

NAME
日野智貴
SUB
スリーパーセルに配慮する気はありません
MES

 私のいうことが総裁先生の御教えに反するのであれば、それを堂々と指摘すれば良いのです。

 それを指摘できないということは、私の言うことが総裁先生の御教えに反していないか、或いは些末な面では私の未熟さ故に誤りもあるかもしれませんが、全体として総裁先生に反していないことを貴方も判っているからです。

 総裁先生に反していない主張の拡散を嫌がるのは、貴方が反教団側の人間であるか、それとも、教団内部に潜伏するスリーパーセルであるからであります。

 少なくとも、最近の私の次のブログにおいて、総裁先生の御教えに反する部分があれば、それを具体的に指摘していただきたい、と思います。

上行菩薩・日蓮聖人は「唯神実相・唯心所現・万教帰一」の真理を説かれた――「折伏」とは「常不軽菩薩」の行の実践なり
http://nipponkakuryoukai.cocolog-nifty.com/blog/2018/11/post-126a.html

『法華経』とアニマルライツと「天皇国・日本」の実相顕現
http://nipponkakuryoukai.cocolog-nifty.com/blog/2018/12/post-d0d8.html
投稿日時
2018年12月03日 (月) 16時55分

7934トンチカン信徒:2018/12/04(火) 01:41:12
>>7933
日野さん、高校生が、優等生が、言う通り、『私は、雅宣先生の言う通り、生長の 家の行いをしてると、言いたいらしい』

>>それを指摘できないということは、私の言うことが総裁先生の御教えに反していないか、或いは些末な面では私の未熟さ故に誤りもあるかもしれませんが、全体として総裁先生に反していないことを貴方も判っているからです。

 総裁先生に反していない主張の拡散を嫌がるのは、貴方が反教団側の人間であるか、それとも、教団内部に潜伏するスリーパーセルであるからであります。<<


先日の、『清超先生の法要』の時、お話は、清超先生から法統継承された、お話でした。


①、真・善・美の教えは、清超先生が、著作をみると言うか、毎日された行事から、来ていると思う。

②法統継承の著作、『正法眼蔵を読む』の一番大切な箇所は、『面受の巻き』である。また、正法眼は、曹洞宗、道元禅師の教えである。


③、四無量心の神想観をするのは、清超先生の、真・善・美を継承する心を、実習するのと同じである。日野さんは、此方点は、総裁先生に背信的であると思われる。

7935蒼天の實相:2018/12/04(火) 02:07:56
〜天台小止観(摩可止観)〜

天台小止観
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▼目次
概要
天台小止観(てんだい しょうしかん)は、天台智・が説き、弟子の浄辨 (中国)(慧辨)が記録した、止観(坐禅の1種)についての説明書である。
「童蒙止観」とも呼ばれる。


1.概要
三種止観のうちの「漸次の止観」を説明した『禅門修証』10巻の要略書で、特に巻6の「禅のための前方便」を中心に、1巻10章編成で坐禅の作法を解説している。


1.概要
1.1.章立て
具縁 - 準備を整える
呵欲 - 欲望を喚起する物を遠ざける
棄蓋 - 5種の悪しき心(五蓋)を捨てる
調和 - 5種(飲食・睡眠・身体・呼吸・心)を調整する
方便行 - 5つの修行を行う
正修行 - 坐禅、随縁・随境修行
善根発 - 修行の結果として善い結果が現れる
覚知魔事 - 心の悪を知る
治病患 - 病を治す
証果 - 坐禅を実践して得られる成果

7936蒼天の實想:2018/12/04(火) 21:50:59
〜天台宗〜

(天台法華宗)


概要
天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経(法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる[1]。天台教学は中国に発祥し、入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられ、多くの日本仏教の宗旨がここから展開した。

7937蒼天の實相:2018/12/05(水) 12:38:17
〜天台宗=正式名称〜

1.日本の天台宗
正式名称は天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後の呼び名は日蓮教学の法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。
初め、律宗と天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍が日本に入った。次いで、伝教大師最澄(767年-822年)が延暦23年(804年)から翌年(805年)にかけて唐に渡って天台山にのぼり、天台教学を受けた。同年、日本に帰国した最澄は天台教学を広め、翌年(806年)1月に天台法華宗として認められたのが日本における天台宗のはじまりである。最澄は特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。
この時代、すでに日本には法相宗や華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄は日本へ帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。また、鑑真和上が招来した具足戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇を設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという革新的な最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。
9世紀に空海がもたらした密教は日本仏教の中心になる中、天台宗も密教を取り込もう考えるようになる(「天台密教」の項も参照)。そして、円仁と円珍の努力で密教理論が整えられていった。しかしその後、円仁と円珍双方の弟子が解釈を巡って対立するようになる。993年には円仁派が円珍派の坊舎を焼き払うという事件が起きた。そして、円珍派1000人余りの僧侶が比叡山を降り、園城寺を拠点とするようになった。以降、円仁派は「山門派」、円珍派は「寺門派」と呼ばれるようになる[2]。そのような中、平安時代中期には、第18世座主の良源によって諸堂の再建と整備、それに教学の振興が図られ、さらに弟子の源信が著した「往生要集」が、後の浄土教の発展につながった。平安時代末期から鎌倉時代初めにかけては、法然や栄西、親鸞、道元、日蓮といった各宗派の開祖たちが比叡山で学んだことから、比叡山は「日本仏教の母山」と呼ばれるようになった。16世紀、延暦寺は織田信長の焼き討ちに遭い、宗勢に陰りが見えたが、江戸時代に入ると天海が立て直し、特に寛永寺は西の比叡山に対して東叡山と呼ばれ、影響力は全国に及んだという[3]。



※上記の様に、日蓮が、天台宗改革を当初鑑みていたことが、わかる。

法華宗とは天台宗の事を指す。

日野ボンの、バカが露呈した型ですね。

7938神の子様:2018/12/05(水) 13:54:08
過去の歴史を引き合いに出すのは、過去の雅春先生の時はこうだったと云うのと同じで、頭の中に存在するだけのもの、何の価値もないです。

過去も現在も未来もなく、久遠の今のみの存在です。

幾ら物知りになったところで、生死の世界の流転を深めるばかりです。

流転しないものは何でしょうか?

7939神の子様:2018/12/05(水) 14:15:21
>>7926
独覚の飛花落葉の如し教外の得道是なり

そうですね、教によって萬物は存在しているのではないです。
教外別伝と云われているのは、凡ての教えは月を指す指、今此処にある浄円月を知れよとの意。

生長の家にしても、言葉の教え「生命の実相」に書かれていること、又雅春先生が云われた言葉に意味付けしてもしかたない。
神想観の果てに自我の脱落を得て初めて、存在の実相を決定するものです。

早い話が言葉の世界に居ては何もならないと云うことです。

7940トンチカン信徒:2018/12/05(水) 18:30:35
この?隠しハンネ=神の子様のコメント、怪しいね。

隠しハンネ=神の子様だしね(笑い)


===========

2722:神の子様
18/12/03(月) 16:13:01
楠本というのも生長の家か。
掲示板管理人は菊川、渡辺、楠本のいずれかの人物。

キケこと島津は掲示板管理人を通じて
生長の家総裁の発言を菅野完に渡してる。

===========

※呼び捨てにしてるね。
訊けさんが、嫌いらしいね、この、隠しハンネ=神の子様

7941蒼天の實相:2018/12/06(木) 00:45:55
〜西田天香先生の示された伝導の範例〜

<わたしは伝導のきびしさを憶(おも)うとき、いつも一燈園の創始者の西田天香先生の聖なるきびしさを思い出すのである。天香先生の嫡子保太郎氏が重症で、いつ臨終となるやも測り知ることが出来ないで近親者がその机辺(きへん)に集まっているとき、天香先生は『人類が救いを求めて私を呼んでいるのだ。私はその方に赴かねばならない。それがまた保太郎の菩提のためであるのだ。さようなら』といって危篤の子供を残して人類救済のために旅立っていかれるのであった。それは最近親者たる母に向かって『われと汝と何な関係あらや』と淡々と言い切って、『わが時はいまだ来らず、また時が来たら会おうよ』と十字架上で母と再会する約束をせられたイエスの心境とよく似ているのである。義は重く、真理伝道の使命は重く、肉親の愛情はそれに比べれは軽いのである。>


〜信仰の活人剣『P121〜P122』の “伝道のきびしさ”より。

7942トンチカン信徒:2018/12/06(木) 21:37:59
シャンソンさん

機関誌=生長の家が、志恩さんこないのは、聖使命会費を自己支払い、して、正式な=生長の家会員じゃないかいからですよ、シャンソンさん。

志恩さんの義兄が生長の家なんで、志恩さんは何十年も、前に引退したとコメントしてますよ。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

3680:志恩

18/04/26(木) 23:06:31 ID:6hRUvSRg
私は、フリーなので、教団の方も学ぶ会の方も、行けるのです。

============
(トンチンカン=志恩さんが、生長の家を、何十年もに、脱会されている、証拠のコメント)

※→私も私で、私が義兄に、「今は 払いたくないんです」と払わないように

お願いしているにもかかわらず、

義兄は、夫と私の二人分の聖使命会費を、「そういうわけには、まいりません」と、


①聖使命を、第三者奉納なので?すでに?信徒?信者で無い亊は?明確な事実です♪

==========


NAME
志恩
SUB
トキ:機関誌を拝読して
MES
新・トキ掲示板より
━-━-━-━-━-━-━-━-━-━-━-━-━━-━-━-━-
機関誌を拝読して (8067)
日時:2018年12月04日 (火) 19時26分
名前:トキ

 12月号の機関誌を拝見しました。

 11月にあった本部のフェスタの記事が大半で、
手工芸品を作ったとか、自転車競走をしたとか、舞台での演芸披露とか、
模擬店の料理とかの説明が大半です。

 別に本部がこの手の「文化祭」をするのにケチをつけるつもりはないです。

自衛隊でも大学でも、一般の人を対象にした文化祭などを開催しています。
問題は、この手の内容が「運動」の主流となっており、本来の求道と伝道が
ほとんど無視されているのです。

 これについて、記事を読むと、どうやら、この手の行事を開催することで、
一般人に宗教への偏見をなくして、広く生長の家に親しんでもらうという目的を
持っているみたいです。

しかし、一緒に遊んだからと言って、その宗教に入信するとかいうのは
期待できません。

 それで思い出したのは、昔、Mさんという有名な歌手がいました。
名前は伏せますが、大ヒットを一時期は連発しましたが、
次第に忘れ去られて行きました。
 
 このMさんが、銀座の有名なクラブに 友人知人を連れて
よく奢っていました。

その散財を気にしたある人が忠告したところ、
Mさんは、
「こうやって奢っておけば、そのうち仕事に繋がるかもしれない。」
と返答したそうです。

 しかし、いざMさんが落ち目になると、
そうやって奢ってあげた人は、すぐに離れてゆき、
何の手伝いもしてくれなかったそうです。

 本当の信仰を持つ人を育てず、
安易な人気取に走ると、あとで しっぺ返しが 来るのではないか、
と危惧しています。
投稿日時
2018年12月04日 (火) 21時53分


=========

7943トンチカン信徒:2018/12/06(木) 21:39:29
>>7942
志恩さんて、捏造婆さんですよねよね、シャンソンさん

7944蒼天の實相:2018/12/08(土) 02:37:12
〜楢山節孝〜

概要
『楢山節考』(ならやまぶしこう)は、深沢七郎の短編小説。民間伝承の棄老伝説を題材とした作品で、当代の有力作家や辛口批評家たちに衝撃を与え、絶賛された、当時42歳の深沢の処女作である[1]。山深い貧しい部落の因習に従い、年老いた母を背板に乗せて真冬の楢山へ捨てにゆく物語。自ら進んで「楢山まいり」の日を早める母と、優しい孝行息子との間の無言の情愛が、厳しく悲惨な行為と相まって描かれ、独特な強さのある世界を醸し出している。
1956年(昭和31年)、雑誌『中央公論』11月号に掲載され、第1回中央公論新人賞を受賞した[1]。単行本は翌年1957年(昭和32年)2月1日に中央公論社より刊行された。ベストセラーとなり、これまでに2度、映画化された。文庫版は新潮文庫で刊行されている。翻訳版は1958年(昭和33年)のベルナール・フランク訳(仏題:“La Ballade de Narayama”)をはじめ、各国で行われている。(1959年のガリマール版(ベルナール・フランク訳)の表題はETUDE A PROPOS DES CHANSONS DE NARAYAMA)。


1.作品成立・背景
深沢七郎は、「姥捨伝説」を、山梨県境川村大黒坂(現在・笛吹市境川町大黒坂)の農家の年寄りから聞き、それを、肝臓癌を患った実母・さとじの「自分自らの意思で死におもむくために餓死しようとしている」壮絶な死に重ねながら、老母・おりんと息子・辰平という親子の登場人物を創造した[2]。また、おりんの人物造型には、キリストと釈迦の両方を入れているという[3]。
なお、作品舞台は「信州」となっているが、描かれている人情や地形は山梨県の大黒坂の地であることを深沢は以下のように語っている。
拙作「楢山節考」は 姥捨の伝説から題材を得たので信州の姥捨山が舞台だと思われているようだが、あの小説の人情や地形などは、ここ山梨県東八代郡境川村大黒坂なのである。もちろん現在のここの風習ではなく、もっと以前のこの土地の純粋な人情から想像してあの小説はできたのだった。だから「楢山節考」に出てくる言葉―方言は信州ではなく甲州弁である。
?・深沢七郎「楢山節考・舞台再訪」[4]
また、作中には、「三」と「七」という数字が多用され、「三つ目の山を登って行けば池がある。池を三度廻って」、「七曲りの道があって、そこが七谷というところ」などと語られ、「楢まいり」に行く年齢が70歳、おりんの歯が33本、といったような神秘性がある[2]。深沢七郎の「七郎」という名前も、故郷の身延山の山奥にある七面山から由来しており、仏教信仰の厚い両親が、その神聖な山に因んで名付けたという[2]。
深沢は『楢山節考』執筆当時、ギタリストとして様々な公演に参加し、作品は家と日劇ミュージックホールの楽屋で書いていた[5]。そして、そのとき公演の構成演出をしていた丸尾長顕の勧めで、雑誌『中央公論』の新人賞に応募して、中央公論新人賞を受賞した[5]。なお、審査の選考委員は、三島由紀夫、伊藤整、武田泰淳であった[1]。
[6]


。三島由紀夫は、その読後感を、「総身に水を浴びたような感じがした」と選評し[8]、「何かこわいというか『説教師』や『賽の河原』や『和讃』、ああいうものを読むと気分がずっと沈んでくる、それと同じ効果を感じる」とも語っている[9]。
また三島は、後年のエッセイの中で、審査員が新人の作品を読む時の心境を、年ごとに祭の神輿の若い担ぎ手が下手になっていくのを嘆く町会の旦那衆の心境に喩え、同時に審査員は「これが小説だ」という新人の出現を密かに期待して、「天才の珠玉の前にひれ伏したい気持」も伴っているとし[10]、そういった「慄然たる思ひ」を只一度感じたのが、深沢七郎の『楢山節考』の生原稿を読了した時だったと振り返り、「はじめのうちは、なんだかたるい話の展開で、タカをくくつて読んでゐたのであるが、五枚読み十枚読むうちに只ならぬ予感がしてきた。そしてあの凄絶なクライマックスまで、息もつがせず読み終ると、文句なしに傑作を発見したといふ感動に搏たれたのである」と述懐しながら[10]、以下のように語っている。
しかしそれは不快な傑作であつた。何かわれわれにとつて、美と秩序への根本的な欲求をあざ笑はれ、われわれが「人間性」と呼んでゐるところの一種の合意と約束を踏みにじられ、ふだんは外気にさらされぬ臓器の感覚が急に空気にさらされたやうな感じにされ、崇高と卑小とが故意にごちやまぜにされ、「悲劇」が軽蔑され、理性も情念も二つながら無意味にされ、読後この世にたよるべきものが何一つなくなつたやうな気持にさせられるものを秘めてゐる不快な傑作であつた。今にいたるも、深沢氏の作品に対する私の恐怖は、「楢山節考」のこの最初の読後感に源してゐる[11]。
?・三島由紀夫「小説とは何か」[10]

7945蒼天の實相:2018/12/08(土) 02:43:04
>>7944
三島由紀夫氏が、理解出来ないかった、『楢山節考』の『無常』実学の武士道は、劇画〜子連れ狼の『冥府魔道』に繋がる〜

7946蒼天の實相:2018/12/08(土) 08:33:58
〜式年遷宮〜

〜式年遷宮〜

8.祭事
8.1.式年祭
式年大祭として、式年神幸祭(しきねんじんこうさい)が12年に1度の午年に行われる。境内前までの神幸祭は毎年4月15日に行われているが、式年大祭では4月15日・16日の両日に大規模に行われる。古くは「軍神祭」「軍陣祭」とも称された[44]。
この祭は、経津主神による東国平定の様子を模したものといわれる[3]。元は「式年遷宮大祭」の名で、20年に1度の式年造営に伴って行われたという[45]。しかしながら式年造営と同じく応仁の乱の頃に衰え、永禄11年(1568年)を最後として明治まで絶えていた[44]。その後、明治8年(1875年)に復興され毎年執行されていたが、明治15年(1882年)以降は午年毎の執行と定められ、現在に至っている[44]。



3.特徴
香取神宮は、常陸国一宮の鹿島神宮(茨城県鹿嶋市、位置)と古来深い関係にあり、「鹿島・香取」と並び称される一対の存在にある[4][11]。
鹿島・香取両神宮とも、古くより朝廷からの崇敬の深い神社である。その神威の背景には、両神宮が軍神として信仰されたことにある[12]。古代の関東東部には、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼を含む一帯に「香取海(かとりのうみ)」という内海が広がっており、両神宮はその入り口を扼する地勢学的重要地に鎮座する。この香取海はヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られており[12]、両神宮はその拠点とされ、両神宮の分霊は朝廷の威を示す神として東北沿岸部の各地で祀られた(後述)。
朝廷からの重要視を示すものとしては、次に示すような事例が挙げられる。
鹿島香取使
「神宮」の呼称
また藤原氏からの崇敬も強く、藤原氏の氏社として創建された奈良の春日大社では、鹿島神が第一殿、香取神が第二殿に祀られ、藤原氏の祖神たる天児屋根命(第三殿)よりも上位に位置づけられた。中世に武家の世に入ってからも、武神を祀る両神宮は武家から信仰された。現代でも武術方面から信仰は強く、道場には「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた2軸の掛軸が対で掲げられることが多い。


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