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web誌友会参考文献板

1トキ:2013/06/26(水) 09:56:44 ID:bcz1wXIA
web誌友会参考文献板 です。

 このスレッドは、同じ掲示板の「web誌友会」の参考になるような聖典やご高弟様の誤文章を
紹介するための専門の板です。原則として、web誌友会の指導講師や司会の方以外の方の投稿は
ご遠慮下さい。どうしても投稿を希望される場合は、事前に、場合によっては事後に、講師、司会
または管理人の許可を得て下さい。許可のない投稿は、他の適当な板へ移します。

 あらかじめご理解下さい。
 
 その他、御不明の点は、お気軽にお尋ね下さい。

管理人「トキ」 敬白

4復興G:2013/06/26(水) 15:06:56 ID:AB6RqYXc

合掌 ありがとうございます。

元生長の家本部講師 榎本恵吾先生(故人)の書かれた論文
『神癒の展開としての人類光明化運動―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―』 というのがあります。
53字×19行×1000頁 すなわち約100万字にもなる膨大な量のご文章です。

これは、榎本先生が宇治別格本山の神癒祈願部長をされていたとき、平成10年から11年(1998.7.1〜1999.11.29)に、毎日「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」で神想観・神癒祈願をされたあと、この論文を書かれたのだということです。論文といっても頭で考えた論文ではなく、祈りからほとばしり出た、内なる神の声と言ってもよいものでしょう。これは、平成10年大晦日の12月31日にも、11年元日の1月1日にも、1日も休みなく書かれております。

榎本先生はパソコンは使われず手書きで書かれる。それを職員がパソコンで打ち込み、プリントアウトしたものを、当時本部に設けられていた「光明化運動・21世紀を考える検討委員会」宛に送っておられたそうです。

検討委員会では、教化部長・本部役職者・本部講師の人たちから「提言書」を募集していたのですが、「優秀提言の選考と褒賞」の対象としては平成10年6月末で締め切ったので、7月以降に提出された榎本先生の論文は選考の対象とはならなかったようですが、これを読んだ担当者は、非常な感銘を受けたと漏れ承っています。

今、私はそれを保存されていたのをいただき読み返してみて、実に「今」――行き詰まり・分裂状態を呈している(と思われる)生長の家の運動を根本から考え直すために、用意されていた光明化運動論ではないかと、深い感銘を覚えます。

「web誌友会板」は、『生命の實相』をテキストとして生長の家の真理を深く学ぶことを目的にしていますが、この榎本先生のご文章は、『生命の實相』の神髄を理会するためにも、読めば非常に助けとなるものだと思います。

それで、ここに「web誌友会参考文献板」を開設していただきましたので、まずは

榎本恵吾先生を偲び、感謝をこめて、その
『神癒の展開としての人類光明化運動』 のご文章を掲示させていただきます。

最初に、すでに「web誌友会板」に掲示させて頂いたものをまとめて転写させて頂き、明日からは毎日、その続きを1日分ずつ、ここに謹写掲載させて頂きたいと思います。

ありがとうございます。 合掌

5復興G:2013/06/26(水) 15:08:15 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

          一

 生長の家の根本聖典である『生命の實相』には、あの「人類光明化運動発進の宣言」が載せられていないのは何故であるか、ということは、まことに厳かな意味で一考を要することではなかろうか。

 さて、そのことはひと先ず別にするとして、『生命の實相』第一巻、本論の冒頭には、高らかに、

   生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります。

とうたい上げられているのである。

 生長の家人類光明化運動の根本聖典の冒頭において「神癒」について書かれているということは、生長の家人類光明化運動が神癒の展開として発進していることを意味すると同時に、ここには、その神癒とは何であり、如何にしてそれが起こり得るのか、ということが示されていると拝察させて頂くのである。

 神癒(メタフィジカル・ヒーリング)とは、生命の實相の自性円満を自覚した時に起こるところの、よろこばしき、明るきなにものか、であるということである。

 さて、神癒祈願部というのは尊師によって純粋宗教部門として出発しているのであるが、純粋とは何であろうか。純乎として純なるものとは、神であり、完全なる實在の相(すがた)であると言わなければならないのである。このことは、神癒の展開としての生長の家人類光明化運動においては、この世界及び人間について、純一に、自性円満なる實相として観じられていなければならないことを意味するのであって、現象処理が大切であるという名のもとに、いくらかでも、實相独在をはなれて、現象を認めた上での人類光明化運動であってはならないことを意味しているのである。

 この運動は 「今起て!」 という啓示によって起った光明化運動であるが、その天の声は、

 「無いものは無いのだ。知れ! 實相のみがあるのだ!」 という極まった唯神實相の自覚がそこに現成した、そのところが 「今」 であり、そこに出発が成り立ったのであり、いささかも現象への妥協によってではなかったのであることをはっきりと確認しておかなければならないのである。そのことは唯神實相、實相独在、光明一元であり、救われていないものは一人もいないということであればこそ始まったところの運動であることを意味するのである。

 ひるがえって想えば、「人類光明化運動発進の宣言」は、現象世界の状況を認めた上での方便的宣言であると言わなければならないのではないか。こちらの方は、世界が不完全であればこそはじまった運動であるというところに方便的要素があると言うことである。これはつまり状況論であると言わなければならないのである。

 一方、『生命の實相』 の方は、たとえ、そのような状況が無くなったとしても、それを超えて、神がこの天地を必要性や状況への対処のために創造され給うたのではなく、神はすべてのすべてであり、完全であればこそ、その完全なる相(すがた)の自己展開として天地創造が行われ、神は今に至るも創造され、生長されつづけているという、その創造としての、久遠の創造のすがたとしての人類光明化運動であることがそこに顕われているといわなければならないのである。

 それ故、「人類光明化運動発進の宣言」 の方は、苦しみ悲しみがあればこそ起たざるを得なかったという方便的表現であり、『生命の實相』 の方は、うれしいからこそ起たざるを得なかった、ということになっているのである。

 このことは、世紀を超え、状況を超えた運動のあり様が謳われているということなのである。そこに 『生命の實相』 が根本聖典であるゆえんがあると拝察されるのである。ここに尊師谷口雅春先生が 『生命の實相』 に、「発進宣言」 を載せられなかったゆえんの一つがあるのではなかろうか、という想いに至らざるを得ないのである。(1998.7.1)

6復興G:2013/06/26(水) 15:08:58 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

          二

 二十一世紀を目前にして想うことは、二十二世紀を想うことである。

 当面の目前に迫った二十一世紀のことを考えることと並行して、百年をかけて二十二世紀を考えて行くこと、二十二世紀を迎えるための百年として、さまざまな実験的なことを行う百年と考えては如何なものであろうか。

 例えば、カトリックの世界公会議では、百年分の方針を決めるのである。百年単位で決定するのである。百年変更しないのである。そのために、たしか、十数年間くらい会議がつづけられるというようなことを読んだことがある。

 おそらく、百年かけて次の百年分を考えて行くということになっているのではないだろうか。

 さて、人類の歴史は、天動説を経て、地動説となっているが、やがてそれは心動説へと移って行くと想われて来るのであって、歴史の区分も、天動説時代、地動説時代、心動説時代という区分のしかたとなって行くと想われるのである。

 宇宙の動きの原因が天から地へとうつり、さらに心の中に近づくにしたがって、人類は遠くに到達するということになって来ているのであって、これは、心の内に宇宙を把握することの反影であると想われるのである。心の中にすべてがあることの反影であると観ることが出来ないであろうか。

 さて、吾々は時代を先取りするという観点からすれば次のようなことも浮かび上がって来るのではないか。

 つまり、医学が発達するということは如何に簡単に治し得るかということに帰するのであろう。そのことから考えると、神癒祈願に受付で申し込んだだけで治るということがあり、あるいは代理が申し込みに来て、受付で書類を書いて申し込みをするだけで、病気が消えてしまうというようなことが頻々と起きているというようなことになると、医学が如何に発達しても、受付で申し込むだけで治るというような時代は、果たして何百年後のことであるのだろうか。予想もつかないほどのはるか彼方の遠い先のことではないだろうか。そのはるか彼方を先取りしているのが生長の家であるということが出来るのではないかと想われるのであって、それを科学のレベルにおいて如何に説明し得るかということが重要な問題となって来るのである。

 さて、生長の家を如何にして新しい人に知らせるかということが根幹のテーマとなって来るのである。ここに 「伝わり方の研究」 ということが私のテーマとなって来ているのである。

 例えば、あの教えは“深い”とか、“崇(たか)い”とかというコトバはどのような時に、聴く人、あるいは読む人から、何を、どう受けとめたときに、自然と発せざるを得ないのであるか。

 あるいはまた、「ある時から、み教えが自分の心の内に入って来るようになった」 というコトバを発する人は、それは如何なる時にその言葉を発せざるを得ないのであるか。どのような時に、入って来るということが起きるのであろうか……等である。

 しかし、先ず心におくべきことは、『生命の實相』 の奇蹟的説法を永遠に古くなることのなきものとして参考にしなければならないことは、はっきりしているのである。何故ならば、生長の家は谷口雅春先生だけで他の全人類がすべて新しい人であった時に、感動を与え、病気さえ消えてしまうほど深く新しい人々に解せられることのできたすがたが、ここにあるからである。(1998.7.2)

7復興G:2013/06/26(水) 15:09:32 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

          三

 来たる世紀は 「心の時代」 であるとか、「宗教の時代」 であるとか言われて久しいが、その心で悩み抜いたのが谷口雅春先生であり、その心を超えたのが尊師であり、生長の家なのである。宗教も心によってあるのであるから、心を超えたということは宗教をも超えたと言えるのである。すべてを超えたのが生長の家なのである。すべてを超えて、はじめのはじめの一つなるものに還ったのが万教帰一ということなのである。万教帰一とは万物帰一ということなのである。一つであることがすべてのすべてであることなのである。

 「国際平和信仰運動」 ということにおいても、世界が一つである實相なるものの上に立ってのことであり、バラバラなるものを一つにするというのではなく、一つなるもののあらわれ又は展開としての世界平和あるいは世界調和ということであって、明るさと平安なるよろこびがその運動には満ち満ちているのである。

 それははじめのはじめが今ここに生きている明るさなのである。

 聖書の 「ヨハネ伝」 の冒頭に 「はじめに言葉あり」 と書かれているが、「はじめ」 とは英語で 「Very Beginning」 と書かれているのであり、これは 「はじめのはじめ」 ということであり、一つであることを意味しているのである。

 神癒祈願の申込書を前にして祈っていて、この 「五千名」 の人々の苦しみをいっぺんで消せないものだろうか、いや一度の祈りで全宇宙の苦しみを消せないものだろうか……、と想った時、谷口雅春先生がニコニコとした表情で神想観の中に観じられて、

「それをやったのが私だよ」

「それをやったのが生長の家だよ」

という言葉をたしかに私は聴いたのである。これこそが、はじめにあるコトバであり、はじめに帰ったすがたであると拝察されたのである。そのよろこびに満たされて出発したのが、生長の家人類光明化運動であり、国際平和信仰運動なのである。一つなるもの、完全なるもの、光明なるものとは、このはじめのはじめの意味するものなのである。即ち實相ということである。

 谷口雅春先生と縁のある人々は、本によってであろうと、同時代に生まれたというだけでも、縁を得たという魂はすでに、「それをやったのが私だよ。それをやったのが生長の家だよ」ということを知っているのであると想われるのである。このお言葉を私はどれだけ受けとめ得たかということは別として、なぜ私たちは生長の家でなければならなかったのか、ということの根本に、このお言葉の中身をその魂が知っているからなのだ、ということだけは、はっきりとしたことであるのである。生長の家にご縁をいただいているすべての魂に無限の敬意をもって接せずにはいられないのである。

 『生命の實相』 は永遠のベストセラーであると仰がれるゆえんは、bestなる世界において、bestなる著者が、bestなる読者を拝んで書かれたものであるからなのであって、一冊でもbest sellerベストセラーなのである。

 『生命の實相』 の本論が 「生命の實相の自性円満(そのままでえんまん)……」 ということからはじまっているということは、「これから生涯にわたって私の書くすべての説法は救うための本ではありません。ただただ祝福礼拝のための本であります」 ということの偉大にして荘厳きわまりなき宣言であると言わなければならないのである。bestとbestであればこそ通い合い、通じ合うということが現成しているのである。(伝わり方の研究) (1998.7.3)

8復興G:2013/06/26(水) 15:34:36 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四

 さて、今世紀最大の出来事はなんであったか。それは生長の家の出現であり、尊師谷口雅春先生が降誕されたこと、そしてご昇天されたことであると、私たち生長の家信徒は誰しもがうなずけることに違いないのである。

 「生長の家の出現は、宇宙はじまって以来の荘厳である!!」

 と思わず感嘆した人があったと聴くが、その人は、尊師の全宇宙の救済について、

 「それをやったのが私だよ」

 「それをやったのが生長の家だよ」

 というひびきの中身にふれた人であったのであろうと想われて、うらやましい限りである。

 さて、イエス・キリストの十字架上の昇天には色々の意味、解釈があってその違いによって宗派が別れているほどであるときくが、その一つであろうか。イエス・キリストは弟子の前で色々な奇蹟を起こされたのは、弟子たち一人一人の中に、神がましまし、そしてみ業(わざ)を為し給うのであり、「あなた方一人一人の中に神と神の国があるのである」 と弟子たち一人一人の内なるものを祝福し、拝み給うたのであった。

 しかし、弟子たちには、その師であるイエスがみ業をあらわせばあらわすほど、「あれは、イエスだからこそ出来るのである」 ということになってしまって、尊敬はするが自分のことではないことになってしまったのであるという。

 そこでイエスは、弟子たち(人類を含む)の前から、自分は一度は姿を消す必要がある。そして弟子たちが肉体上の自分(イエス)の方ばかりを向くのではなく、自分の内を向くようにとの願いをもって十字架につき給うたのである、という解釈である。

 これによると十字架のお姿そのものが、弟子たちの内なるものへの拝みであり、祝福であり、愛なるものの燦然たる輝きそのものであるということになるのである。

 さて、尊師谷口雅春先生は卒然として九十二歳でご昇天あそばされたのであった。そして肉体のお姿を消し給うたのであった。これは、

 「私の方ではない、皆様お一人お一人の中ですよ。自分の内を拝みなさい」

 との拝みのお姿であったのであると拝察するのである。最後に肉体をお消しになることによって、そのお消しになったそのことが、肉体を捧げるという姿において最大の拝みを成就され給うたのであるということである。

 自分の片腕を燃やして世界を明るく照らしたという御仏がいまし給うたという仏教の話があるが、尊師谷口雅春先生は、ご自分の肉体すべてを捧げ、お使いになって、それを消し給うということによって最後の拝みを成就し給うたのである。

 それはまことに燦然とした愛なるものの輝きそのものであったのである。そしてそれは今も尚、さらに私たちの中において輝きを増されつづけているのである。

 谷口雅宣先生が、そのご昇天の日、山の上に夕日が燦然と輝いているのを、たしか総本山に向かう車の中でごらんになられて、

 「尊師はあの山の上にいましたのである」

 という感慨をお述べになっておられるのを拝読させて頂いたことがあったが、まことに燦然たるものを尊師谷口雅春先生のご昇天のことの中に確かめられておられたのである、と拝察せずにはいられないのである。

 「すべてを為し終えた気がする」

 と、尊師谷口雅春先生は 『生命の實相』 を完結せられた時にお述べになっておられるが、その意味は、ただ単に 「私の役目を為し終えた」 というようなある部分としての役目を果たし終えたというようなことでは決してなくて、釈尊が

 「かつてすべてのものをして吾れと等しくしたいという願いを起こしたが、その願すでに満足せり」

 と宣(の)り給うたことを、尊師谷口雅春先生は全宇宙の一人の病むものなき救済について、

 「それをやったのが私だよ」

 「それをやったのが生長の家だよ」

 という中身をもって宣り給うたのであった。それが唯神實相、實相独在論の威厳であることを銘記しなければと想うのである。(1998.7.4)

          ○

 ――榎本恵吾先生もまた、自分の肉体すべてを捧げ、使い切って、肉体を捧げるという姿において、

 「皆様お一人お一人の中ですよ。自分の内を拝んでください」 という最大の拝みを成就されたと思われます。(復興G)

9復興G:2013/06/26(水) 15:35:19 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五

 例えば組織の問題であるか何の問題であるとかを問わず、問題そのもの、現象そのものを “無し” として解決しているのが生長の家なのである。

 “現象なし” “不完全なし” と全現象宇宙を斬り捨て、全現象を “無し” と完全に現象を処理し終えているのが生長の家なのである。

 この完璧なる解決の上に立って人類光明化運動が発進しているのである。それ故、あらゆる問題にあたっては、教えの中そのものに求めよ、ということなのであり、それは充分に用意されてはじまっているということなのである。晴れ渡って進んでいるのが生長の家人類光明化運動なのである。

 “現象処埋が大切” という言葉は、針の先ほども現象を相手とし、それを認めての言葉ではないのであって、全現象宇宙を “無し” と消し給い、処理し終えて “こと終われり” なのが生長の家なのである。そしてそこに一点の曇りなき、神そのもの、實在そのものとしての価値創造としての光明化運動が純粋に持続されているのである。それが 「住吉大神宇宙を浄め終りて天照大神出でましぬ」 ということなのである。

 ありとしあらゆるものが、今、天照大御神そのものとして拝まれているのが全存在であり、天照大御神が天照大御神しているのが、光明化運動の 「光明」 ということなのである。

 「光明とは何か」

 それは、はじめのはじめより、ありとしあらゆるものとして、平等に、すでに、今あるところの “よろこばしきさやけさ” ということである。

 光りとは神であり、神はすべてのすべてであり、神の外にあるものなしであり給えば、光りははじめからすべてのすべてなのである。その光りなるものの存在には、新しい者も古い者もないのである。

 この共通なるもの、しかもはじめからあり、完全なるものがあるということが 「伝わる」 ということの基なのである。

 それ故、あまりにも、新しい人とか外の人とかということをクッキリとしすぎて、相対的な運動になっては、勿体ないことになるのである。

 「神には、新しい人も、古い人もないのですよ」

 「神には、教えの内に居る人も外に居る人もないのですよ」

 「もしも神がいるとすれば、『信仰をしたものは生かすが、信仰をしないものは生かさない』 ということは不自然なことで、そんな神に対しては 『何故、神は、平等に信仰をするように生んでおかなかったのか!!』 という不平と裁きしか生まれないのです。生長の家が感謝の教えであるといわれていますが、それは、不平、裁きの起こらない神を発見しましたよ、ということであります」

 ということが、表現はその時、その人によって様々に展開されていくのであろうが、説法、表現の基礎になっていると拝察されて来るのである。

 あらゆることの前に 「生きとし生けるものを生かし給える御祖神」 と感謝して唱えるようになっていたり、また 『生命の實相』 の冒頭に 「生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)」という言葉があり、また谷口清超先生の第一論文である 『文化の本源としての神想観』 の中に、「宗教は要するに、そのまま仏であり、神であることを知らせることである」 という意味のお言葉があるのは、内と外とを分けず、新しいものと古いものとを分けない拝みに立脚していることが、そこに尊師と基を一つにして表現されていると拝察されて来るのである。(1998.7.5)

10復興G:2013/06/26(水) 15:36:08 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六

 合掌
 さまざまな説き方の一つの試みとして、ここに『無神』という冊子を別便にてお送りいたします。
(後注参照)

 これは私が宇治に転勤して参りまして少したったころ、練成をしながら、その興奮状態の中で書きとめておいたものでした。どうせ興奮状態の中で書かれたものだから、その内に整理をして、語調も整えてと想って、想いのままに綴っておいたものでした。

 ところが、後になって、いざ整理をしようと想いますと、どうしてもそのままでしかあり得ないような気がして来たのでありました。それで句切り句切りを独立させたように、詩のような姿にして並べることにしたのでした。

 「無我」という言葉は非常に人間にとって憧れざるを得ない中身を示しているように想えるのであります。人間は何故「無我」にあこがれるか。それは元の神が「無我」であり給うから、そこから生まれ出でた人間も「無我」に憧れざるを得ないのではないか。人間のレベルで言えば「無我」ということになるが、神のレベルでは「無神」ということであります。

 生長の家の教え自体も自分を消していると想われるのであります。

 例えば、聖歌『生長の家の歌』にしても、生長の家という言葉は、ただ題名にあるだけでありまして、ご存じのように、一番はキリスト教讃歌、二番は仏教讃歌、三番は古事記讃歌、四番はこれら三つが素晴らしいとなっている万教帰一讃歌となっており、生長の家という言葉は一つもないのでありまして、ただただ万教(即ち万物)を讃え、拝むのが生長の家であることが示されていると拝察されるのであります。

 『生命の實相』 という書物にしてからが、その中に 「物質無し」 と書かれているのでありまして、本自体が 「私は無いのです」 とみずから消えているという、そこに無我の聖なる輝きのみがあって、それ故に、この書物は聖典と呼ばれているとも想われて来るのであります。

 さて、「人類光明化運動指針」の第九条

  「生長の家大神―総裁・副総裁―御教」

 という、この中には、大聖師谷口雅春先生は姿を消しておられるのであります。この指針が出来た時、これを承認なされたのは当の、谷口雅春先生でありますから、先生ははじめから、このように消え給うことの承認であったと拝察されるのでありましてまことに聖なるきわみでありまして、まことに 「大聖」 なる師という中身をもって 「大聖師」 とお呼び申し上げざるを得ないのであります。

 ご存じのように 『無門関』 の第一則の 「趙州狗子」 の公案の中に、「仏に逢いては仏を殺し、師に逢いては師を殺し……」 という一節が出てまいりますが、ある時の神想観の中にニコヤカに観じられた尊師谷口雅春先生は、
「あのね。生長の家では仏に逢いては仏を殺し、師に逢いては師を殺す、などという血生臭いことはしないんだよ。私は無いんだよ」

 と師みずから消えておられたのであります。ここに、生長の家は、教団自体がみずから消えて、澄み切っていて、まことに、「生長の家は感謝の教え」 であると言える姿がそこに拝せられるのである。澄み切りの教え即ち感謝、礼拝の教えということだと想うのであります。再拝三拝合掌 (1998.7.6)

 (注。『無神』 という冊子の内容は、「榎本恵吾記念館」 サイト
http://homepage2.nifty.com/hanabira/
の 「文書館 Ⅱ」 に公開されていますので、ご覧ください――復興G)

11復興G:2013/06/26(水) 15:37:03 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七

 『聖使命菩薩讃偈』 には 「己れ未だ度(わた)らざる前(さき)に、一切衆生を度さん」 とするものが最上、最尊、甚深微妙(じんじんみみょう)不可思議と讃えられているのである。

 しかしながら 『生命の實相』 の中には、自分が先ず救われなければ、救われたという状態はどのような状態であるかが解らないから他を渡しようがなく、救いようがないのであるということを、「自分に深切であれ」 という教えの言葉が引用されて説かれているのである。

 また別のところで、あるキリスト教の牧師が “神様と約束した人数を集めることが出来なかったので、神様に申し訳ない” と言って神経衰弱にかかっているのを尊師がお聞きになって、こういう人は、数という外のものによって傷つけられるところのものが自分であると想っているからであり、外が崩れると自分も崩れてしまうような気持になるのであって、その点キリストは、右の頬を打つ者があったら左をも打たせよ、と言われ、十里の公役を強(し)いられたならば二十里を行け、と言われて外の形によって決して傷つくことのない實相の自分というものの自覚があったために、イエスは悩み給わなかったのである。というふうにお説きになっているのである。

 このように、自分が救われることが先であるとし、数は外であり、形であり、すなわち現象であるから、それは無いのであるという観方は現在ゆるされるのであろうか、ということである。

 即ち、神想観で 「吾れ今五官の世界を去って……」 と言った時、『自分も他人も、光明化運動も去って……』 ということであるとしてよいかどうか、ということである。

 五官の世界の説明において 「五官の世界は現象と言って、不完全もあれば完全に近いものもあり、貧乏もあれば金持ちもある。病人もあれば健康な人もある。戦争もあれば平和もある。そして、人類光明化運動の進んでいるところもあれば、遅れているところもある………」 と言ってしまってよいかどうかということである。

 『生命の實相』 の全読運動をおしすすめるということは、このように書かれていることを見逃さず、全面的に拝読せよ、ということになっているのだ、ということを銘記すべきである、と想うのである。

 また、かつて終戦直後、尊師谷口雅春先生は愛媛県の宇和島にご進講になられた時の話であるが、外を歩いている時、雨が降って来そうだったのでお伴をしていた河野初喜(こうのはつき)さんというご婦人に傘を、家まで取りに行ってもらった。少しして引っ返して来たそのご婦人は傘を持っていないのである。事情をきいてみると、「主人は雨はふらんよ、と言いましたので持って来ませんでした」 ということであった。

 そのことについて 「無病常楽の神示講義」 の中で、これでこそ本当の妻の生き方であり、主人に向かってこのご婦人がもしも 「あなたより偉い谷口先生がおっしゃっているのだから持っていく」 ということになると 「お前、どこの奥さんじゃ?」 ということになってしまってそれは生長の家ではない、と言われ、本当に愛していたらその人のいうようにしてあげたくなるのであると話されて、ご講習会に奥さんが行こうとしている時、主人は映画を見に行く、と言われたら一緒に行ってあげたくなるのが愛であって、 「あなたは映画に行きなさい。私はご講習会に行きます」 では、生長の家ではないことになるというお話である。尊師谷口雅春先生のご講義を聴きなさいということは、このようなお示しを素直に聴き入れなさい、ということなのである。(1998.7.7)

12復興G:2013/06/27(木) 06:02:13 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         八

 「實相顕現」という言葉は、實相は円満完全であるから、みずから顕現する力をもっている、その實相がみずから顕現して来ることを意味しているのである。

 實相のほかに、それをあやつり、それを顕現させる別の何ものかが必要であるというのでは、實相は自性(そのままで)円満ではないということになるのである。顕れて来る力がみずからの内に円満されていないということになるのである。

 實相は完全であり、神であり、すべてのすべてであるから、實相とはなれたところで、それを観じたり、自覚したり、しなかったりというようなはなれたもののはたらきは要らないのである。

 それ故、五官によって、本を読むことによって、話を聴くことによって、心の中にイメージされたところから予想されるところのものはいくら尊げなものであっても、それは實相ではないのである。五官がなければ成り立たないもの、五官という外のものによって認められなければ存在しないもの、何ものかによって、観じられ、自覚せられ、みとめられなければならないものは決して實相ではないのである。それは實相ではなく、現象であり、無いものなのである。

 實相は観じられなければ、自覚されなければ無い、というようなものではなく、観る観ない、自覚するしないを超えてみずから在りて在るところのものなのである。

 實相は観る必要のないもの、自覚する必要のないもの、知る必要のないもの、みずから存在するものである。そのようなものとしてよろこぶことが、そしてそれが自分そのものであって、はなれていない、従って今ここに既にはじめのはじめから“それでよい”ところのものとして、よろこぶことが、尊師谷口雅春先生が 『生命の實相』 の中でお示し下さっている、「観ること」 であり、「自覚すること」 なのである。

 自覚するとは、自(みずか)ら覚めるという意味を表現した言葉なのである。

 自ら覚めるのであって、他から、五官を通して外から入って来たものによって覚めさせられるのは自覚ではなく他覚であると言わなければならないのである。

 實相なるもの、自性円満であるものが先ずあって、それが自(おの)ずから覚めて顕れ出て来て、本を読む姿となったり、話を聴く姿となって顕れて、自己展開しているのが 「自覚」 ということなのである。

 これが出龍宮顕斎殿(しゅつりゅうぐうけんさいでん)の建立が象徴しているものなのである。その建立の主旨として、「最早や人間の力では及ばない、神に直接お出まし願う」 ということが尊師谷口雅春先生のお言葉としてあるのであるが、即ち、神=實相には直接自分で顕現する力が備わっていると観じられているのである。

 人間の側の心によっていわゆる自覚や観ずることによって實相を引き出し、顕し出すということによってではなく、實相には自分で顕現し、展開する力が備わっているのであり、天照大御神は、天之岩戸(あまのいわと)を外の力によって開かれるというのではなく、外に居る神々も岩戸も高天原(たかあまはら)もすべては天照大御神が生み給い、生かし給うているのであるから、天之岩戸の内も外もすべては天照大御神そのものであるということであり、天照大御神はご自分の力で出(い)でまされたのであり、また、渾(すべ)ての渾てであり給う天照大御神は一度も隠れ給わず、露(ろ)堂々として全宇宙となって輝き出でましつづけであることを認めることが、あるべきものがあるべき姿にあること、浄まっていることなのである、と観じ、そして、はじめから 「天照大神出でましぬ」 となっていることを観じる時代(世紀)を迎えていることを象徴しているのが、出龍宮顕斎殿の建立なのであると拝察申し上げるのである。(1998.7.8)

13復興G:2013/06/28(金) 05:55:34 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         九

 エマーソンがどこかで 「引用」 について書いていたことを、内容は憶えていないが想い出した。

 生長の家では引用するもしないも、聖典自体が 「物質無し」 と自分で消えてしまっているのである。

 神誌などに盛んに、聖典からの転載があるが、たとえば、尊師谷口雅春先生が生きておられて、直接ごらんになったならば 「私はここには別のを載せたかった」 とおっしゃるかも知れないのである。善い悪いは別としてそこには編集者の心が載せられているのである。

 これらすべて、五官の世界の出来ごとである。物質なし、肉体なし、本なし、に徹して實在の實相に帰っているとき、すべては自分自身の世界であり、自分の展開としてそこにあるのである。

 尊師谷口雅春先生が 「万教帰一要典」 をつくられ、聖書、仏典の言葉を用いられても、それは借りものの引用であるとはどうしても想われないのはなぜであるか。そこに書物みずからの死に切り、消え切りがあり、そこに實在なるものの聖なる輝きそのものがあるからなのである。

 現象を超えて實相なるもの、いのちなるものがそこに満ち、輝いている時、それは価値そのものであり、借りものでは決してなくなっているのである。「宗教のデパート」 と言われても、そこには無限の価値なる實在の實相が生きている絶対価値がそこには輝いているのである。

 万教帰一ということにおいて、万教は何故一に帰ることが出来るのであるか。それは一つなるものから発しているからなのである。一つなるものとは、現象即ち五官の世界を超えたところの實在の實相なのである。そこに帰って、自己と本源とが一つである、一つなるものの展開としてそこにある姿が万教となっているのであり、そこに、引用があっても、常の引用ではなく、『引用これ引用に非ず、これを引用と言う』 態(てい)の姿、輝きとなっているのである。

 著者が死に切り、書物が死に切り、読むものの澄み切りとなっているのが、聖典拝誦と言われているものなのである。

 聖なるものとは何か、ということである。聖なるものとは 「ひじりなるもの」 であり、ひじりとは 「日がいちじるしく輝く」 ことなのである。日とは神であり、自我が死に切り、消え去っている姿こそが聖なるものなのである。「物質なし」 と書物自体が死に切り、消え切っている。生長の家の書物はまさしく聖典と拝まれるのが自然なことなのである。

 現象としての自分に対立しているものとして見ているかぎりにおいて引用はやはり借り物であることから逃れることは出来ない。そこに引用するものの創造性から来るところの姿ではないものが出て来るのである。引用した文章が自分と対立的に存在しており、そしてそれと取り組んでいるかぎりにおいて、それは創造性の姿ではなく、依存のすがた、うめ合わせの姿、求めている姿であって、そこには生長と創造の輝きはないのである。

 五官を去り、現象を超え、物質無し、現象無しと去って本源に還ることによって吾々は、見るものすべて、その世界から借り物として引用するのではなく、本源よりの創造のすがたとして、そこに自己展開の解放を味わうことが出来、神と偕(とも)に創造するよろこびを味わうことが出来るのである。ここでは引用ではなく創造そのもののすがたと変わるのである。(1998.7.9)

14復興G:2013/06/29(土) 08:31:32 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         十

 『真理』 第七巻の冒頭には、新体制が出来て 「聖使命」 会制度が出来て、はじめてのご講義と想われる、尊師のご講話からのご文章が載せられている。そこには人間が、神から生み出されたという、親が子を生むように神が人間を生んだというのは、哲学的思索の幼い人々に解りやすく説いたものであって、生んだものと生み出されたものとの相対関係のある見方からは、どこやらに許すものと許されるものとの対立があり、どこやらに人間そのものを神が審判するというような考えがひそんでいて、まだまだ本当ではないのであって、仏教の重無礙(じゅうむげ)の見方が正しいものであると説かれているのである。一つの鏡の前に百万の鏡を置けば、同時に百万のすがたが写るように神と人間とは同時、同一の存在であり、生むものと生み出されるものとの相対的な存在ではない観方を説かれているのである。

 尊師のこのような重無礙の説き方はそれまでもよくなされたことではあったが、神が人間を生んだという考えは本当ではない、という説き方をされたのは他にあまりなかったのではないかと想われるのであって、ここには、聖使命会制度の発進に当たって、はっきりとさせておかなければならないことをお想いになられたからであったと拝察するのである。それはちょうど 「発進宣言」 をなされた時に尊師がみずからに心定めをされた時のことと重なって想われていたのではないかと拝察申し上げるのである。

 即ち、人間は神そのものであって、神と人間とは、はなれた相対関係にあるのではないこと、会費によって神とくっついたり離れたりする存在ではないこと、そのことが聖なる存在たり得る唯一のすがたである、ということ、神は離れたところから、会費を沢山納めた者と、納め方の少ない者、納めない者を区別され給うというような考え方の起こることを懸念されたからではなかったかと拝察せずにはいられないのである。生きとし生けるものを平等に完全に生かし給えるみ親神は、生かすものと生かされるものとの離れたる相対関係ではないということを、はっきりとさせておかれたのではなかったか。「生かされている」ということは、決してはなれたる存在ではないことをよろこんでいる姿なのである。

 生かされるために聖使命会費を納めるのではないということである。神と人間とは一体不離、同体の存在であり、生かされていることは久遠の昔より久遠の未来に向かってつづいていることなのである。それでこそ聖なるものであり得るのであって、会費によって聖なる存在は買うことはできないのである。それ故に、聖経の 『四部経』 においては、「聖使命菩薩讃偈」 よりも先に、「招神歌」 が載せられているのである。

 「汝に面するものは誰ぞ!」 「山も川も草も木も国土も悉く仏である」 (『真理』第七巻) それは未来のことではないのである。一億七千万年後のことでは話にならない。今、現に成仏しているのである。今現に、山も川も草も木も有情非情(うじょうひじょう)皆聖なる命そのものである。先に度(わた)るものと後に度るものとの別はないのである。

 「己れ未だ度(わた)らざる前に他を度す」 というのはここでは、先なるものも後なるものも最高最尊なるものが、お互いに、「あなた様のお陰です」 と他を先に拝み合っている。その拝み合いの姿そのものが形にあらわれて 「聖使命会員」 の姿となっているのである。

 聖なるものとは何か。それは何ものによっても崩れることなく、汚れることなきものである。その崩れることなき切なるものの生きる姿が 「聖使命会活動」 ということなのである。聖になるための運動ではなく、聖なるものの運動なのである。聖なるものの運動が、よろこびなるものの運動であり、これが 「よろこびの光明化運動」 であり、このよろこびは神より来たった神であるよろこびなのである。(1998.7.10)

15復興G:2013/06/30(日) 07:20:18 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         十一

 運動の目標は数によって表現せられているが、そもそも目標数という数はどうして決められたのであるか。

 新体制をつくる時に、全国を組織化するに当たって、何を基準にするかという時に、信仰というものは全く各人それぞれの個中の消息であって、外から計量し、判別することは出来ない。そこで数というものに着目したというのである。これは、新体制の生みの親である山口悌治先生が常々話されていたことである。その数によって、あそこは発展しているとか、していないとかを判定することにしたのである。そして、その頃の国会を動かすためには、このくらいの数の国会議員をつくらなければならない、その国会議員を出すためには、この位の選挙の得票数がなければならない、その得票数を全国に割り当てるというようにしたのである。そして、たしか、その時に算定した数は全国で五百万の票の獲得数であったのである。このことが基準となって 「神誌」 や 「聖使命会員」 や 「ご講習会」 の目標数が各県に決められていったのである。要するに、目標数の数の根拠というものはそこにあったのである。

 果たして、これが人類光明化運動にふさわしい目標の決め方であったかどうか。政治をもとにしたということがふさわしかったかどうか、ということも省察してみる必要があるかも知れないと想われるのであって、今ごろになって根本聖典である 『生命の實相』 の全読をあらためて呼びかけなければならない、というような状況であってみれば尚更のことなのである。また、来たる二十一世紀は 「心の世紀」 「宗教の世紀」 と言われていることは、あるいは 「個中の消息を重んずる世紀」 ということになるのかも知れないということも想えて来るのである。

 この数の決め方と、谷口輝子先生が伏見の稲荷神社に参詣されて 『生長の家』 誌の誌友が一万名になったら、稲荷神社をつくりますとお誓いされた時の、この一万という数の決め方とはどこか違っているように想われるのである。これは政治的な状況というよりも、内から自然に湧き上がって来た願いとして表現されたお言葉としての誌数であったと拝察されるのであるということは、それは何ヵ年計画で、昭和何年に達成するとかという、年限をおっしやっていないことからもうなずけるのではないだろうか。この目標は、天からの天降りであり、内からの自然なもよおしとして生まれているのではないかということを心新たに想うのである。

「汝、誓う勿れ」 ということは必ずしも目標を立てるな、計画するな、ということではないにしても、 「吾が内に神が今ここに、そして天国は今ここにある」 という、宗教的個中の消息の雰囲気とはおのずと様相を異にしていることはたしかなことであるであろう。釈尊が 「天上天下唯我独尊」 と宣り給い、 「山川草木国土悉皆成仏、有情非情同時成道」 と宣り給うている偉大なる個中の消息のことも想い起こされるのである。天皇の六合照徹光明遍照も中心(偉大なる、あるいは絶対なる、すべてのすべてなる個)の消息と言わなければならないのではないか。神は偉大なる一人であり給い、 『古事記』 の独神(ひとりがみ)のことも想われて来るのであるが、これらはすべて幽の幽なる入龍宮不可思議の境涯の消息なのである。

 尊師谷口雅春先生は宗教は全くの個中の消息である、とお説きになられていることは周知の通りである。神想観は個中の消息、ということが出来るであろうし、 「三界唯心所現」 の理からしてもそれは肯けることであり、 『甘露の法雨』 の 「内にのみ神の国はあるなり」 とは個中なるものの妙々不可思議境なのである。そして、新体制を発案した山口悌治先生も、宗教は各々の個中の消息である、ということを認めた上での発案であったということだけははっきりとしており、あの組織の中に居られながら悠々と 『萬葉の世界と精神』 という和歌という個中の消息を追いつづけ、讃嘆をつづけることが出来られたのであった。ここには国を憂え、 「自未得度先度他」 の急迫したとも見える状況の中に、不思議なゆとりを生きている生命の妙々さを想わずには居られないのである。

 谷口家のある渋谷区がきわだって組織的な発展があったかどうかということも問題にならなければ、隣保班をあれほど強調された山ロ先生の住んでおられた目黒区の鷹番町がきわだって運動が発展したかどうかということが問題になったということもついぞ聴かれないのであり、それが自然なことに想われるのである。( 『弟子像』 ―私の中の山口悌治先生―参照) (1998.7.11)

16復興G:2013/07/01(月) 07:54:57 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         十二

 生長の家にいのち懸けとなるということは、 「……してから」 をいのち懸けで捨て切り、死に切ることにあるのである。そして、はじめのはじめのいのちを今ここに生きることなのである。

 實相、實在ははじめのはじめから、既に、完成せるものとして在りつづけなのである。それ故、 「自分が……してから」 というものは一切要らないのであり、一切入るスキ間は無いのである。自分そのものが要らないのである。如何に尊いと想えるものであっても、それを自分がしてから、ではないのである。

 すべてを捨てるのである。それこそ捨てて死ぬなら死んでもよいのである。神を信じてから、でもなければ、仏を信じてからでもないのである。先達が言ったように、捨てて無くなるような神であり、仏であれば、それははじめから神でもなければ、仏でもないのである。捨てれば捨てるほど生き生きと生きてくるのが、はじめのいのち即ち神であり、仏であるのである。捨てて捨てて死に切った時に生きて来るもの、自我の要らないものを、聖といい、光りというのである。

 私が以前、神癒祈願部に居た時のことである。それは大聖師谷口雅春先生が昇天されてから、七日目のことである。毎日の勤めの祈願の神想観中に、フッと想ったのである。

「谷口雅春先生は九十二歳で亡くなられたが、九十二年の間には一日ぐらいは曇った日もあったのではなかろうか……。いや、一日とは言わずとも半日くらいは、いや一時間くらいは……」

と、このような思いが浮かぶ反面、

「谷口雅春先生は、一時間でも曇ったらいやだ!!」

という思いも浮かぶのである。その曇りも 「もっと人類に役立ちたかった」 とか、あるいは 「もっともっと本を書きあらわしたかった」 とか、その崇高さにおいては自分とはくらべものにならないものではあるにしても、 「……したかった!!」 という悔いというか、心を曇らせるものがあったのではないか、と想った時であった。朝焼けのようなさえぎるものなき明るさの中に、満面笑みを浮かべて、尊師が観じられたといおうか、想われたといおうか、そのよろこばしさ、幸いなるものが私を包んだのである。そして、

「私は無いのだよ」

とおっしやったのである。細かい情景のようなものは憶えていないが、ただただ 「自分が無い」 ということはこんなにも嬉しいことなのかッ、ということだけがはっきりと想われたのであった。

 私が曇るも曇らぬもない。私そのものが無いのである。何年何月に自分が生まれて、その自分が悟って、光明化運動をはじめて、これだけの聖典を著して、これだけ人々によろこびを与えて、役だって………というものを捨てて、捨てて、死んで死んで死に切って素っ裸になって、はじめのはじめなるいのちがそこに在し給うたのであった。

 私はここに、光明という光明、よろこびというよろこびというものに包まれたのを、私の魂は観じたのであろう。一週間くらいの間、うれしくてうれしくて、まるで宙に浮いているような感じを味わったのである。

 自分がこうしたから、ああしたからを全く捨てて捨てて、超えて超えて、死に切って、全宇宙を無しと死に切って、はじめなるが故に、今であり、久遠であり、渾(すべ)ての渾てなるもの、それこそ自分のいのちと引き替えに、久遠の甦りそのものとして尊師は立ち給うたのであり、光明化運動も立ったのであった。(1998.7.12)

17復興G:2013/07/02(火) 06:46:41 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         十三

「数は力なり」 というのは唯物論である、と言った人があったが、それは数を集めるためには時間がかかるからであり、時間のかかるものは完全ではなく、實在ではなく、 「現象無し」 の宣言によって、吹き消されているものであることを知ったいのちの言葉であったのだと信ずるのである。

 数はそれを使ってよろこばしさを顕わすためのものであって、それのあるなしによって、こちらの価値なるものが上がったり、下がったりするものではないのである。

 また、生長の家は、集める教えではなく、すべてのものの、そのままの相(すがた)を拝みに出て行く教えなのである。そして、全宇宙をそっくりそのまま生長の家であるとして拝んでいる教えなのである。

 ○○学会が十万人も集めてマスゲームを神宮外苑で挙行したことがあって、その十日も経たないうちに、私たち学生がお山の谷口雅春先生宅で座談会をしていただいて、ご指導に浴したことがあった。その時、一人の学生が尊師に、

「生長の家は世界一の教えであるのに、なぜ、○○学会のように集まらないんですか?」

とお尋ねしたのである。幸いに満ちたよろこばしさの雰囲気の中に、尊師は

「今のうちにあのように集める練習をしておいて貰って、そのうちにこちらが話しに行くようになるのです」

 と言われたのであった。それからもう三十年近くもたっているが、天地一切礼拝感謝の教えである生長の家は、集める教えではなく、そのままの完全な相(すがた)を拝みに行く教えであり、それであればこそ、全宇宙組織がそのまま生長の家の組織であると、そっくりそのまま置き換えることの出来る教えである、と尊師がお示し下さっていたのであると、日に日に新たに想えて来るのである。

 ここに、 「ある狭い範囲は多勢(即ち数)で救えるが、全宇宙の救いは一人によらなければならない」 という命題に逢着せざるを得ないのである。

 釈尊の 「山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくこくどしっかいじょうぶつ)、有情非情同時成道(うじょうひじょうどうじじょうどう)」 もキリストの 「Kingdom of heaven is at hand」 も、個々の魂を救って行くのは、自分一人だけ救われればよいという声聞縁覚(しょうもんえんがく)に比べればやや上乗なれども 「佛の正覚(しょうがく)は全宇宙の成佛を一度に観る」 (谷口雅春先生著 『天皇絶體論とその影響』 ―謹序―)という尊師のお言葉、これらはすべて、一が渾(すべ)ての渾てである消息なのである。聖経 『甘露の法雨』 には 「悟れば忽ち此の世界は光明楽土となり、人間は光明生命なる實相を顕現せん」 と唱われているのである。

 これらはすべて、神はあるか否かということに帰着するのである。不完全があれば神は無いのであり、神があれば不完全は無いのである。それ故、如何なる種類のものであれ、不完全は無いのである。ただただこのことによってのみ、即ち、神は極楽そのものであり給うが故に、今ここに世界には救われていないものは一人もいない、ということはあり得るのである。それは多数の人間が集まって決めることでもなければ、造り出すものでもないのである。ただただ 「神は完全である」 というこの厳かなる真実がそれ自体で在りて在るのみなのである。

 天皇の六合照徹(りくごうしょうてつ)光明遍照の世界が 「今ここ」 に在るという 「今ここ」 が 「今上(きんじょう)」 ということなのである。天地(あめつち)の創り主なる、渾(すべ)ての渾てであり給うことが拝せられるのである。天皇は絶対にましまして、天皇によって救われていないものは一人もなき世界の統べみ親(すめらみこと)にましますのである。(1998.7.13)

18復興G:2013/07/03(水) 05:44:52 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         十四

 誰が言い出したものか、生長の家の説く真理には、縦の真理と横の真理とがあるということを言われるのを時々ではなく、生長の家の常識のように聴く場合が多いのである。

 横の真理を説くということは、心の法則を説くことであり、いわゆる三界唯心所現を説くことであり、現在意識や潜在意識の話などもこれに当たっており、しかし、これは現象世界のことなのであるが、一応現象の法則として、現象を認めた上での話である、というのである。

 これに対して、縦の真理とは現象無しを説き、そして、實相の独在を説くことであるということになっているのではなかろうか。

「あの人は縦の真理を説く人である」

とか

「あの人は横の真理を説いた」

と云う場合は、この分け方をしていることになっているのではないかと想われるのである。しかしながら、尊師谷口雅春先生が 『生命の實相』 においてお示しになっていられるのは多少趣きを異にしているのに気づかされたのである。

 なるほど、生長の家の説く真理には縦の真理と横の真理とがある、ということは同じであるが、その説明は、尊師は縦の真理と横の真理とがあると言われたのであるから、その説明の順序としては、縦の真理からはじめられるのが順当であると想われるのであるが、ここでは違っていて 「横の真理とは」 と、横の真理の説明が先にされているのである。( 『生命の實相』 第十七巻の 「はしがき」 など)

 その説明によれば、横の真理とは三界は唯心の所現ということ、即ち、現象無しと悟ることである、と 「現象無し」 が横の真理であると説明されているのである。

 そして、縦の真理とは、人間は久遠不滅の神のいのちそのままである、と悟ることであると説明されているのである。即ち實相の独在を悟ることが縦の真理である、と説明されているのである。

 つまり、横の真理は 「現象無し」 であり、縦の真理は 「實相独在」 ということなのであって、現象を多少でも認められた部分は縦横の説き方の中には入っていないということなのである。 「現象無し」 「實相独在」 で縦横がつくされているということであって、私たちは通常 「現象無し、實相独在」 という順序で受けとっているのであるから、この通常の順序にしたがって、横の真理すなわち 「現象無し」 から先に説明されたものと拝察されるのである。

 それにしても、 『生命の實相』 の中には、私たちが通常よく耳にするほどにはひんぱんには縦横ということが説かれていないことを 『生命の實相』 を全読した方ならば気づかれるにちがいないのであるが、ひとたびご説明されるとこのようにはっきりとご説明下さっていることに心を新たにするのである。

「現象無し。實相独在」 で縦横がつくされているということは、これ以外に生長の家は無いということなのである。これこそが生長の家の人類光明化運動が神癒の展開として出発していることの根拠であると拝察させて頂くのである。

 現象無しと現象を超えた時にのみ、神=實相独在があり、そこに自性(じしょう)円満の生命の實相を認めた時にあらわれるメタフィジカル・ヒーリング(神癒)が認められるのであって、現象を何らかの意味において、横の真理として認めたところには、神なく、實相なく、したがって神癒は無く、そこには神なき迷妄の展開があるのみなのである。(1998.7.14)

19復興G:2013/07/04(木) 09:32:29 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         十五  (1日1文ずつ謹写掲示。cf.>>4

 講師として講話をする時、誰しも一度は、 「自分が話しているところは、自分の都合のよいところを話しているのではなかろうか……」 という反省の想いにさそわれるのではないだろうか。

 ここに常に、尊師谷口雅春先生の悩みは何であったのか。そして、何によって、どのように道が開け給うたのであるか、ということを心新たに確かめつつ歩ませて頂きたいものとの念願が起こるのである。

 常に常にここに還りつつ、いのちをここより汲みつつ進みたいものである。

 お悟りになった、啓示を受けられたところの最後のところは、 「自分もまた明治26年の11月22日に母の胎内から生まれたのではなかった」 のであり、そして

「今はじめて悟ったのでもなく、久遠の昔より、そして今このまま久遠の仏そのものであった」 というよろこびで結ばれているのである。

 これは父母未生以前の自己の発見であったと拝察するのである。

 一切を超えられたお姿がここにあるのである。自分自身をも超えられたのである。

 神は何ものにも依らない、在りて在り給うそのいのちのよろこびをご自分自身に体現せられたのであった。

 それ故、組織のど真ん中にあっても次の言葉はゆるされる筈である。

「三正行すなわち、聖典を拝読すること、神想観をすること、そして愛行をすることは尊いことの極みではあるが、それをやってから私は生まれて来たのではない。」

 このことは、いつ如何なる時にも発せられることのゆるされている言葉であり、この言葉を発せられることが、よろこびということなのである。これは因縁を超えたる円相的自由ということなのである。このよろこびを以て進められるのが、いわゆる 「よろこびの光明化運動」 というものなのである。宇宙いっぱいの自由、神なる自由ということなのである。

「常に神なら如何にあり給うかを想え」 ということこそ、よろこびのもとなのである。それは決して、神のなし給うことを参考にして生きよ、ということではないのである。何故ならば、神は何ものにも依り給わない存在であり給うからである。それ故、神なら如何にあり給うか、とは何ものも参考として依ることの要らない姿として今ここにあれ、ということなのである。

「吾れ神の内にあり、神吾れの内にあり」 である。神に祈ると言えども、神吾れの内にありである。この上に立っての 「御祖神(みおやがみ)」 である。

「實相を成就せしめ給え」 との祈りは、實相が成り就(な)りひびくことであり、純粋なる實相なるもの、完成なるものの持続を、實相なる神の子が宣(の)りごとしているのである。

 ここには實相は現象に現れなければ何にもならぬ、もしくは、實相は現象に顕れはするが、しかし現象に顕れなければ値打ちがないというような、現象に価値づけして貰わなければならないというものでは決してないのである。
 もしそのようなものであれば、神もまた全宇宙的に實相を完全には顕してはおられないのであるから、神もまた完全全能ではないということになるのである。

 人生の目的は、實相を現象に投影し出すというような、影の創造ではないのであって、實相の成就すなわち、實在が實在し、實相が實相するのであって、尊師谷口雅春先生がお示し下さった 「愛行はむなしからず」 とは、影のための人生ではないことをお示し下さっているのである。諸行は無常ではないのである。諸行は實在にして常恒なのである。(1998.7.15)

20復興G:2013/07/05(金) 08:15:55 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―         榎 本 恵 吾 

         十六

 ここに 「光明一元」 であり、 「實相独在」 であり、 「救われていないものは一人もいない世界のみがある」 という世界において、何故、光明化運動というものが必要であるのかという問題になって来ざるを得ないのである。

 神想観において 「吾れ今五官の世界を去って實相の世界に入る」 と言ったとき、すでに五官の世界のすべては消えているのである。光明化運動のひろがっている世界もひろがっていない世界もないのである。現象を針の先ほどでも認めるということは、 “神はない” ということなのである。神のない光明化運動というものは有り得ないのである。

 神は天地創造を何の必要があってなされたもうたのであろうか。神は必要性のために天地を創造せられたのではないのである。神の前に、神より先に “必要性” というものが存在するとか、神以前に何かがあり、神がそれに従わなければならないということは決してないのである。神はただただ嬉しくて、よろこびで、創造したいから創造せられ給うたのである。

 人間は神の子であって完全であるのに何故迷うのか。それは神が人間に自由を与え給うたからである。神は強制され給うことはない。自由のないところには価値がないからである。迷う自由がありながら、自由性の中に迷わないところに善があるのである。一応この説明は方便説としては説かれているところではある。

 しかし、それならば聖経 『甘露の法雨』 の中の 「罪を犯さんと欲するも罪を犯すこと能わず」 ということはどうなるのであるか。

 神の前に、神がしたがわなくてはならないという法則などはないのである。 「自由のあるところにのみ善がある」 というような法則が神より先にあって、神はその法則に従って創造をしなければならないなどということは有り得ないことなのである。神は神のコトバの発し給う通りでよいのである。

 それ故、神は、迷う自由を無くして、しかもそこに善があり、無限のよろこびがあるという相に人間を創造したもうたのが本当の相なのである。

 人間は未だかつて迷ったことはないのである。迷う自由は無いのである。此の世もまた一度も不完全であったことも、暗であったことも、迷いのあったこともないのが真実の相なのである。

 ここに不完全であるからこそ救済しなければならない、という姿は消えてしまったのである。不完全を、暗をもとにする光明化運動ではなくなったのである。
『未だかつて、一度も一人も救ったことはない』 ということが光明化運動の本当のすがたなのである。
 ただただ、光明が光明し、實相が實相し、光明一元だからこそ、實相円満完全であり、迷うもの一人もなく、迷いそのもの、暗そのもの不完全そのものが存在しないからこそ、光明であり、光明化運動があるのである、ということが真実の運動のすがたなのである。

 唯神實相、光明一元であれば、なぜ運動の必要があるのか、ということの説明において、現象というものを針の先ほども持ち込まないで説明し得るか、ということは、二十一世紀の百年をかけて研究されてもされ尽くすことの出来ない、美しいテーマであろうと想われるのである。(1998.7.16)

21復興G:2013/07/06(土) 06:58:59 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         十七

 實相は今すでに、はじめのはじめから完全円満なのである。これに引きかえ現象は時間をかけて徐々に良くなって行く存在である。それ故、時間をかけて、これから浄まって行くという、現在意識によって左右されるところの潜在意識というものは現象であって、無いのである。現象無しと言った時、潜在意識は無いのであり、それだからこそ實相はそのままで円満完全であるということが出来るのである。

 それ故に、實相円満完全という言葉は、事実なのであって、これを潜在意識にたたき込むためのものとしてしまってはならないのである。潜在意識を認めている以上は、實相の円満完全は實在の相ではなくなってしまっているのである。實相円満完全は真実、今ここに “ある” ものであるからこそ實相円満完全なのである。

 生長の家の説く實相円満完全論をすべて潜在意識のためのものとして、潜在意識のレベルにダウンさせてしまってはならないのである。生長の家の説くところは、潜在意識を超えて、読者の實在の實相の完全円満、自性円満を礼拝して説かれているのである。それは現象を認めての激励のものではないのである。

 あれほど沢山の本やご諧話によってもたらされた唯神實相の偉大なる説法も、潜在意識にたたき込むために聴き、受けとめていては、話す方と受け取る方とに食いちがいが生じていると言わなければならないのである。

 なるほど見えないものの存在の説明に潜在意識を持ち出すことは大変便利なように一見見えるのではあるが、潜在意識という現象を認めてしまうことになってしまっては、永遠にそれを超えた實相に超入することは出来ないのであって、遠まわりになってしまうどころではなくなってしまうのである。

 聖経 『甘露の法雨』 には 「罪は不完全なるが故に實在にあらず」 と歌われているのである。それ故 「潜在意識は不完全なるが故に實在に非ず」 ということなのである。

 ひるがえって想ってみれば、練成会で行われている浄心行は、この潜在意識を相手とする行事の最たるものではなかろうか。しかも、ともすればこれが練成会の最重要行事のようにさえ思われているということもなきにしもあらずなのではないだろうか。

 しかも、聖経 『甘露の法雨』 の一斉読誦のうちに焼却が行われるのである。聖経に鳴り響いている實相讃嘆のひびきと、本来具有している参加者本人の内なる實相円満とがひびきあって、實相がおのずから顕れて不完全が消えるということを想わないで、説明で聴いた潜在意識に、真理をたたき込んだが故に不完全が消えたと錯覚してしまうということが無きにしもあらずなのである。それでは生長の家の結論である唯神實相の説かれている聖経 『甘露の法雨』 の中身から遠ざかっていること、はなはだしいといわなければならないのである。

 なるほど聖典 『生命の實相』 には潜在意識という言葉は使われているところも確かにあるのである。しかし、それを超えることは現象はないこと、潜在意識は不完全なるが故に實在には非ざることを知ることによってのみなのである。潜在意識に實相の完全円満なる想いを注入するといえども、その中身は、潜在意識という現象は無い、ということを知ることにほかならないのである。 「現象無し」 が、 「實相のみ在り」 が生長の家である。知らぬ間に現象あり、したがって實相無しの中身にすり替わっていることのなきよう心すべき事とみずからに言いきかせているのである。(1998.7.17)


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