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Web誌友会 板/2

6004a hope:2015/11/13(金) 11:15:37 ID:cEpBaIdo

>>6003 a hope 所感)

わたしたちが「因果の法則」にできるだけ縛られないように生きて行くにはどうしたらいいのでしょうか?

神さまからのお答え その1
<<それは真理を与えることである。>>

神さまからの答え その2
<<つまりそれは神想観を修して「心の世界」で相手の実相が完全円満なることを観て称め讃えるのである。>>

それを実行すれば、

<<〝人間・神の子、無限力〝 の真理を、あなたが人々に与えて、与えられたその人が真理を使えば、真理は永遠に減るものでなく、それを繰返し使えば使うほど光を発揮し、能率は増加し、その真理を又その人が他の人に伝えるならば、恰も鼠算用のように功徳が殖えて行くから、あなたに撥ね返ってくる功徳も永遠に伸び増殖して、最初蒔いた真理の〝小さな種子〝 がついに天を摩(ま)する巨樹のように伸びて行くことにな>>り、

さらには、

<<相手が不良の子供であれば、優秀善良なる模範児童に一変し、相手が病気の人であれば、その病気が癒えることになる>>

ということです。


つまり、「因縁を超越する」ことができたキリストや釈迦、谷口雅春先生のような宗教的天才ではないわたしたち普通の人間であっても、
「人間・神の子」の真理の伝道(愛行)による『個人救済』をつづけ、常に相手の実相を観る『実相礼拝』を続けていくことにより、
善徳の業因ができて過去の悪業因が相殺され、自分の周りを光明化していくことが出来るのですね!

「生長の家の教え」ってほんとに完璧ですね!

6005a hope:2015/11/14(土) 08:41:38 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p41 3行目〜

わたしがこの世に来れる使命は「人間が神の子であり、霊的存在であり、永遠の生命である」という真理を人々に悟らせることにあるのです。


(a hope所感)

「生長の家」の信徒のみなさんは、創始者、谷口雅春先生のこの「ご使命」を御存知ですよね!

6006a hope:2015/11/15(日) 11:17:40 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p73 後から1行目〜

宗教的救いと申しますのは、人間が神そのままの自由自在の実相を実現することでありまして、病気とか貧乏とか、そんな一つ一つの外界の欲望がかなったから宗教はありがたい、かなわなかったから宗教はつまらないというようなものではないのです。

もっともっと根本的な救いが宗教的救いなのであります。

(略) p75 行目〜

では、宗教的救いとはいうものはどこから得られるか、それは宗門を叩いたり、教会を叩いたりしても、必ずしも得られるにきまってはいないのでありまして、「自分」というものの「実相」を叩くことによって得られるのであります。

「実相」と言えばなんであるかと申しますと、神がわれらを神そのままの顕現として創造(つく)り給いしままの「本当の相(すがた)」なのです。

その本当の相は、移りかわるわれらの肉体的存在――五官的存在――病み老い朽ち果てる物質的存在を言うのではないのです。

われらの五官的存在はわれらの本当の存在ではないのです。

「本当の自分」というものは金剛不壊な火にも焼けず水にも溺れぬ神に造られたままの神の子なる実相の自分なのです。

6007a hope:2015/11/15(日) 11:19:08 ID:cEpBaIdo

>>6006 a hope所感)

<<宗教的救いとはいうものはどこから得られるか、それは宗門を叩いたり、教会を叩いたりしても、必ずしも得られるにきまってはいないのでありまして、「自分」というものの「実相」を叩くことによって得られるのであります。>>

谷口雅春先生は、『本当の生長の家の本部は神界にある』とおっしゃられたと言います。

わたしは、もう、現象世界のどんな宗教団体にも所属するつもりはありません。
谷口雅春先生のお言葉を信じて、神界(「自分」の「実相」)の扉を叩き続けたいと思います。

6008a hope:2015/11/19(木) 10:12:35 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p75 後から5行目〜

人は両(ふた)つの世界に住んでいます。

その一つは「創世記」第二章七節に「エホバ神、土の塵を以て人を造り」と書いてある人間――物質的存在として、肉体的存在として幾様にも物質に縛られている人間であります。

もう一つは「創世記」第一章二十七節に「神その像(かたち)のごとくに人を創造したまえり・・・神その造りたる諸(すべ)てのものを視たまいけるに甚(はなはだ)善かりき」とある神のイメージとしての人間、至善至妙自由自在としての人間であります。


この二つの人間、実相の人間と物質の人間とが、「創世記」第二章七節の後半で交錯しているのであります。

ここに迷いの元(もと)があります。

すなわち「土の塵」という物質的制約の中へ、神はその精霊なる「生命の気(いき)を吹き入れ給うた」――それによって人間は「生ける霊」から「生ける物」へと転落したように見えているだけであります。

ここに人間は自由自在であると同時に、不自由極まる物質的制約の中にある、いわゆる現象人間が出来上がったのであります。

6009a hope:2015/11/19(木) 10:17:22 ID:cEpBaIdo

>>6008 a hope所感)

実相の人間と物質の人間の交錯・・・
「生ける霊」と「生ける物」への転落・・・
自由自在の「人間」と不自由極まりない現象人間・・・

全ての正しい宗教の本質は「唯神實相」の真理に万教帰一しているのに、それを悟りきれないわたしたち「現象人間」は、
その真理を自分たちに都合のよいように二元論的に解釈して、捻じ曲げて、伝道してしまう危険があるようです。

それは、キリスト教の歴史においても起こっていました。

ここには、わたしたち純粋な「唯神実相」を信仰する「生長の家」の信徒にとって教訓となるような、
とても興味深い現象的事実が書かれていると思いますので、続けて謹写していきます。

6010a hope:2015/11/19(木) 10:20:40 ID:cEpBaIdo
>>6009 訂正
「生ける霊」と「生ける物」への転落・・・ →「生ける霊」から「生ける物」への転落

6011a hope:2015/11/19(木) 10:45:47 ID:cEpBaIdo
>>6008つづき

「生命の實相」第23巻 p76 8行目〜

それで「土の塵」にて造られたる(換言すれば物質にて創られたる)人間ばかりを見ていて、これが「人間」であると思っている人間は、「エデンの園」(自由自在の実相境)を逐(お)い出だされた不完全な罪ある人間ばかりを観て、人間は罪人だ、罪人だと言っているのであります。

そういう人には五官に視える物質的な人間ばかりしか視えないのですから、無罪、無病、不苦、不悩な「神の造ったままの人間」(「創世記」の第一章において神が己れの像【かたち】に造った人間)が視えないのです。

そして人間は罪あるもの、病にかかるもの、苦しむもの、悩むものだと思っているのです。

そう思っているから自分の「念の創作力」によって罪を顕わし、病を現わし、苦しみ悩んでいる――言い換えれば「創世記」第二章のように、エデンの楽園から逐(お)い出されているのであります。

6012a hope:2015/11/19(木) 10:50:13 ID:cEpBaIdo

>>6011 a hope所感)

わたしたち「生長の家の教え」を信仰するものはどうでしょうか?

<<不完全な罪ある人間ばかりを観て、人間は罪人だ、罪人だ>>と言っていないでしょうか?

そして、

<<そして人間は罪あるもの、病にかかるもの、苦しむもの、悩むものだ>>と思っていないでしょうか?

わたしは自分自身の現実の姿をかえりみれば、とても返事ができません。

6013トキ:2015/11/19(木) 20:30:04 ID:nbDXBsXE
 キリスト教でも、最近、死海文書など、初期キリスト教の文献が多数出土し、
研究がされています。

 それらの本を読むと、初期のキリスト教の教えは、現在の生長の家
の教えとかなり近いものだったみたいです。現在の二元論的なキリスト教は、
イエス様の真意とは違うものだったみたいですね。

6014a hope:2015/11/20(金) 10:14:52 ID:cEpBaIdo
>>6011 つづき

「生命の實相」第23巻 p77

神は、病にかかるような人間をなぜ創造(つく)ったか。

罪を犯すような人間をなぜ創造ったか。

不完全に人間を創造っておきながら、神はなぜ人間を罰するのか。

神は力が足りないのか、理性を失っているのであるか。

反クリスチャンのこうした反駁に答えうる人はいわゆるキリスト教徒にはほとんどいないのであります。

6015a hope:2015/11/20(金) 10:23:04 ID:cEpBaIdo

>>6014 a hope所感)

その真理を体得しているかいないかは別として、「生命の實相」を拝読している「生長の家」の信徒であればこの質問には簡単に答えられますよね!

たしか、以前you tubeか何かで聴いた徳久先生の講義の中で、「生長の家の教え」に出会ったばかりの若かりしころの徳久先生が、
キリスト教の牧師さんを訪ねては、同じような質問をして相手を困らせてから、「生長の家の教え」を伝道したようなお話をされていました。

>>6013でトキさまが言及されていますが、初期キリスト教は現在のキリスト教のようではなかったようですね。

そう考えると、どんなにキリストを愛していても、どんなにキリストのご遺志を継承されようとしても、
キリストの真意(真理)を悟っていなければ、それはキリスト(真理)に反していることになってしまうのですね。

自分勝手に真理を解釈して「伝道」することがどれだけ危険なことなのかがわかります。

でも、わたしたち「生長の家」の信徒にはそんな心配はありませんね!

だって、生長の家は文書伝道が主なのですから、「生命の實相」やその他の聖典そのものを直接手渡して伝道していけば、
真理が眩まされることは永遠にありませんものね!


ところで、キリスト教はどんな風に初期の教え(真理)が「偽造」されていってしまったのでしょうか?

謹写をつづけます。

6016a hope:2015/11/22(日) 09:10:18 ID:cEpBaIdo
>>6014つづき

「生命の實相」第23巻 p77 5行目〜

そういうキリスト教徒には、「創世記」の第一章にわれらの創造主なる神が、明らかに “ Elohim” と録(しる)されており、第二章では、 “Jehovah” と録されているのに気がつかないのであります。

「エロヒム神」がわれらの創造主であり、エホバ神はわれらの「ニセ物の創造主」なのであります。

「エロヒム神」は霊なる「言葉」をもってわれら人間を神の像(みすがた)のごとく完全に罪なく悩みなく創造り給うていっさいの物を支配する権利を与え給うたのであります。

「エロヒム神」を創造主とせる人間は霊的実在であって罪もなければ病もない、悩みもなければ苦しみもないのであります。

ところが「創世記」の第二章では、われらの創造主「エロヒム神」がいつも間にか「エホバ神」という名前に擦りかえられているのであります。

諸君はここに気づかねばなりません。

諸君が自分の「本当の父」だと思っていたエホバ神は「本当の父」ではなく、戸籍謄本がいつの間にか書きかえられて、「ニセ物の父」が「本当の父」であるように公文書が偽造せられているわけであります。

「創世記」第一章にあるわれらの創造主なる父はわれらを「言葉」にて神の姿に完全無欠に霊的実在として創造(つく)り給うたにもかかわらず、エホバ神は「お前はエロヒムの子ではない。俺の子だ。お前は完全なものではない。霊的実在ではない、物質で創造(つく)ったものだ。罪を犯すものだ」とわれらに言っているのであります。

そのエホバ神の言葉を信じて、「自分は愛の神、全能の神、完全の神の子で、神そのままの像(すがた)に完全に造られていると思っているのに、それは嘘であったのか。自分は土の塵(物質)の子であり、罪を犯すように造られ、そして罪を犯したら神に罰せられるように造られているのか」と嘆き悲しんでいるのが現時多くの信仰なきクリスチャンの現成なのであります。

わたしはこのような信仰をもっているクリスチャンを本当の信仰なき人間というのであります。

なぜならこのようなキリスト教徒か神を信じているように見えているけれども、「人間を神の像(すがた)に完全無欠に創造(つく)り給うた本当の神」を信じないで、いつの間にか戸籍謄本を書きかえ、本親のような顔をして、「本来無罪の人間」を「罪あり」と恐喝している継母の神を本親だと思っているからであります。

信仰というものは、なんでもかでも信じさえすれば「信仰がある」というわけではありません。

本当の親神を信ずるのが本当の正しき信仰であります。

6017a hope:2015/11/22(日) 09:15:41 ID:cEpBaIdo

>>6016 a hope所感)

真の宗教とは、その教えを信仰することによって、まずは個人の魂が救われ、その所現として環境が良化し、人類救済・世界平和に発展するものなのだと思います。

キリスト教が分裂し救済力が急激に低下していった原因には、このような「教え」の書き換えがあったからなのですね。

本来のキリスト教は、<<「エロヒム神」を創造主とせる人間は霊的実在であって罪もなければ病もない、悩みもなければ苦しみもない>>

という「唯神実相」の教えであり、それを信仰していた信徒は魂が救われ奇蹟も起きていたのに、
知らぬ間に、その神の名前が擦りかえられて、

<<エホバ神は「お前はエロヒムの子ではない。俺の子だ。お前は完全なものではない。霊的実在ではない、物質で創造(つく)ったものだ。罪を犯すものだ」>>

とまったく正反対のことを説き始めてしまったのですね。

それも、同じ聖典中に説き始めてしまっているのですから、聖書をしっかり勉強するような、
信仰心の厚い信徒ほど混乱してしまいますよね💦

わたしは、ここに「宗教」が二元論を説く危険があると思うのです。

わたしたち聖典「生命の實相」を常に拝読している「生長の家」信徒は、そんな虚説に惑わされることは決してありませんね!

6018a hope:2015/11/25(水) 10:13:50 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p79 後から1行目〜

世の人々よ、ニセ信仰家に欺かるることなかれ。

わたしは神の弁護者であります。

わたしは神の完全さを証拠だてるために遣わされた使者であります。

神は決して神罰を与えるものではありません。

神は愛の神であり、全能の神であり、完全の神でありその神によって創造(つく)られたるわれわれは神そのままに完全であり、自由であり、無罪であります。

わたしが諸君に神の完全さと、人間の完全さとを証する。

継親(ままおや)の神にあざむかれて人間を土の塵(物質)にて創造(つく)られたる不自由不完全なるものだと思うことなかれ。

6019a hope:2015/11/25(水) 10:17:31 ID:cEpBaIdo

>>6018 a hope所感)

なんと力強い言葉の響きでしょう!!

谷口雅春先生は、唯神実相を大悟された真正の神さまの弁護者でした。

わたしたち「生長の家」の信徒は、その雅春先生がラッパとなり遺された聖典の言葉を素直に信じて信仰すれは、
必ず幸せになれるのですよね!

本当にありがたいことです。 合掌。


では、なぜ、この現象世界には「神罰」と見えるような状態があるのでしょうか?

その理由も、聖典にはちゃんと説明されていますね。

6020a hope:2015/11/26(木) 09:41:48 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p80 6行目〜

神は人間を神の像(すがた)に完全に創造(つく)られた――わたしはただそれを信じるのであります。

あとからできた「怒りの神」や、「妬みの神」や脅喝(きょうかつ)の神や神罰の神を信じないのであります。

では、神罰と見えるような状態がなぜあるか。

それはわれらの神罰を念(おも)う「念」がそれを外界に投影したのであります。

神罰の観念をもっているから、自分で想像して造った神罰の法則に触れるとたちまち、神罰の観念が具象化して病気となり、不幸となるのであります。

神罰の観念と、人間は物質にて創造(つく)られたという観念は「創世記」の第二章以来、なかなか抜きがたき人間の潜在意識となっており、あらゆる不幸はこの神罰の観念と、人間は物質的存在だという観念との流転展開であります。

神罰の観念を抜いたならば、ほとんどあらゆる病気不幸は消えてしまうのであります。

6021a hope:2015/11/26(木) 09:43:20 ID:cEpBaIdo

>>6020 a hope所感)

一般の人が持つ「神罰」という観念は、<自分(人間)とかけ離れた存在である神が、
不正を働いたり、犯罪を犯したり、人の心を傷つけたりした人々を不幸にして罰するようなイメージ>なのではないでしょうか?

ですが、「生長の家」の教えでは「人間神の子」もっと究極に言えば「我は神なり」なわけですから、
「生長の家」の教えにならって「神罰」を定義すれば、「自己処罰」ということになるのですね。

このわたしの解釈が正しいかどうかはわかりませんが、わたしは、

<<【神罰】の観念を抜いたならば、ほとんどあらゆる病気不幸は消えてしまうのであります。>>

というところの【神罰】を、【自己処罰】に変えたほうが、「唯心所現」の法則にぴったりくるような気がします。

6022a hope:2015/11/30(月) 00:06:12 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p81 8行目〜

谷口が「神の子」でなければ、誰が神の子でありますか?

神以外に創造主(つくりぬし)なきがゆえにすべての人間は皆「神の子」なのであります。

「イエスだけが神の子であって、人間はイエスを通さなければ神の子になれない」と言う一派のキリスト教思想がありますが、笑うに耐えた邪見であります。

「イエスを通さなければ神の子となれない」ような人間は誰の子でありますか。

神以外に創造主があり、神以外に天父(てんぷ)があり、そこから生まれたイエスを通して「貰い子」としてもらわなければ神の子になれないなどとはなんと矛盾に充ちた思想でしょう。

わたしはわたしの神性ゆえに、わが父「神」を証し、すべての人類がまたわが兄弟「神の子」たることを証する。

人間はすべて神の子であって「貰い子」も「継子」もない、みんな神の子なのであります。

わが証(あかし)を真(まこと)とするものはわれに従え。

神を「神罰を下す継父なり」と誣(し)いるものよ去れ。


キリストが「われは道なり、真理(まこと)なり、生命なり、我(われ)に由(よ)らでは誰にても父の御許にいたる者なし」(「ヨハネ伝」第十四章)と言い給いし言葉から、キリストを通さねば人間は「神の子」にしてもらえないという普通クリスチャンの一般観念が生まれ出るのでありますが、ここにキリストが「我(われ)」と言い給いしは肉体キリストではないのであります。

「道」であり「真理」であり「生命」であるキリスト、「アブラハムの生まれぬ前より我はあるなり」と言われたキリスト、すなわち肉体キリストにあらず「真理なるもの」「生命なるもの」「実相なるもの」を通さなければ、本当の父なる「神」の御許へ行くことができないと言われたのであります。

6023a hope:2015/11/30(月) 00:11:57 ID:cEpBaIdo

>>6022 a hope所感)

わたしここのところを拝読していると、
「上の文章中の『イエス』や『キリスト』という名前を『谷口雅春』と置き換えてみても、まったく同じことが言えるのですよ」と、
谷口雅春先生がわたしたち信徒に教えてくださっているように感じます。

「真理は普遍なのですから、あなたたちさえその気になって聖典(真理)を勉強すれば、
わたし(谷口雅春)に頼らなくても悟ることができるのですよ」と。

<<キリストが「われは道なり、真理(まこと)なり、生命なり、我(われ)に由(よ)らでは誰にても父の御許にいたる者なし」(「ヨハネ伝」第十四章)と言い給いし言葉から、キリストを通さねば人間は「神の子」にしてもらえないという普通クリスチャンの一般観念が生まれ出るのでありますが、ここにキリストが「我(われ)」と言い給いしは肉体キリストではないのであります。>>

もし谷口雅春先生がキリストの再臨であるというのであれば、それは正しい教え(真理)が再臨したということであり、
決して肉体的にキリストが再臨したということではありませんよね?

現象的に存在していた谷口雅春先生をキリストの再臨であり神と同等のような存在であったと崇拝し始めてしまうと、
それは偶像崇拝になってしまいますから、それは「生長の家」の教え(真理)からかけ離れた間違った信仰になってしまうと思います。

6024a hope:2015/12/01(火) 00:22:01 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p82 後から2行目〜

それは肉体キリストではない、真理キリストであります。

アブラハム以前より存在し、二千年前にはキリストの肉体に宿り、今またわが肉体に宿りて、「本当の父」(完全んる神、神罰なき神、罪も病も創造らざる神)を証(あかし)するところの真理キリストであります。

真理によらざれば本当の父を見分けることができない。

「われに由(よ)らで誰にても父の御許に至るものなし」とはこういう意味だったのであります。

(略)

p83 後から2行目〜
「実相(われ)に依らで父の御許に至ものなし。」実にそうです。

「実相」を知らないでは、継親を本親だと見間違えるほかはないのであります。

だからわれわれは常に「実相」を呼び出すことが必要なのです。


ところが、この実相というものはどこにあるかというと、遠いところにない。

自分のうちにあるのであります。

だからある禅宗の偉い坊さんは「主人公、主人公」と毎日自分を読んでまた自分で「ハイ、ハイ」と答えていたそうであります。

生長の家では「神の子、神の子」と呼んで、「ハイ、ハイ」と答えるのであります。

道を歩いている時にも「今、神の子が道を歩いていると思う」のであります。

また神想観といって自分が神の子である実相を観ずる修行をするのであります。

そして心の底から自分が土の塵にて造られたアダムの子であるという潜在意識が消え、すべての罪の意識が消えたときに、われらは完全に救われたということになり、すべての自由な完全な状態が、実相そのままの現れとして自分自身に実現するのであります。

キリストが「汝の罪赦されたり、起ちて歩め」と言って病者を癒やされたごとく、わたしもまた同じように言って病者を癒やすことができるのは自分自身の罪の観念で自縄自縛された結果、病気をあらわしている者が、罪の観念を解除された結果、自然に治るのであります。

生長の家は出現して以来、多くの信徒たちがただ、『生命の實相』の聖典を読むだけで、その『生命の實相』の内容を語り伝えるだけで多くの病者を癒やしえた体験を発表していられるのも、神の創造(つく)り給える世界には本来罪も無く神罰もないからであります。


常楽篇 終り

6025a hope:2015/12/01(火) 00:23:23 ID:cEpBaIdo

>>6024 a hope所感)

<<アブラハム以前より存在し、二千年前にはキリストの肉体に宿り、今またわが肉体に宿りて、「本当の父」(完全なる神、神罰なき神、罪も病も創造【つく】らざる神)を証(あかし)するところの真理キリストであります。>>

↑の部分に、二千年前肉体キリストに宿った同じ「真理」が雅春先生に再び宿った(再臨した)という事実が述べられています。

すべての正しい「教え」は万教帰一していますから、当然、仏教の開祖である釈迦にもその「真理」は宿っていたのでしょうね。

そうすると、正しい教えを説く宗教家であればだれであっても、再臨のキリスト、再臨の釈迦と表現されても、それはまちがいではないような気がします。


わたしは、輪廻転生を信じますが、だからと言って、自分の前世や谷口雅春先生の前世がなんであったかということにはあまり興味がありません。

それよりも大切なことは、「久遠の今」を摑み、今世を精一杯生きる事なのではないでしょうか?

6026a hope:2015/12/01(火) 00:25:59 ID:cEpBaIdo

ところで、もう、日にちが変わって12月に入ってしまいました。

本当なら、第38回web誌友会を閉会し、第39回web誌友会を開会したいのですが、まだテキストの内容を終えていないので、
今月も第38回web誌友会を継続させていただきます。

明日からは、聖経『天使の言葉』講義 に入りたいと思います。
みなさま、ご気軽にご参加くださいね!

6027a hope:2015/12/01(火) 00:26:58 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第38回 web誌友会 案内(改訂版)

期間   11月1日〜12月31日まで
テキスト 「生命の實相」第23巻 【常楽篇/経典篇二/宗教問答篇】
内容   久遠常楽の生活/聖経『天使の言葉』講義 /人生の悩みに答う

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

6028a hope:2015/12/03(木) 10:27:10 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第23巻 p86

○われらは、二つの王国に生きてる。

その一つの王国は外界であり、他の一つの王国は内界である。

内界はこれ心の世界であって外界一切を支配するのである。

心の有する幽玄な力よ。

その微妙な寂寞(じゃくまく)のうちに備えている不可思議な力よ。

外界は常に不断に心の力に支配され、心の力によって新生する。

外なる王国は内なる王国の映像(うつし)でしかないのである。

心を支配するものは、この二つの王国を支配する。

心を支配するには生長の家では言葉の力、文章の力によるのであって聖典および聖経の読誦によるのである。

聖経『甘露の法雨』によって多数の病者が救われたことはあまりにも有名であって繰り返して述べる必要はないが、『天使の言葉』の読誦によってもまた多くの病者が救われつつあるのである。

その一例をあぐれば広島市の中等学校教諭加藤舜太郎氏は十歳の子息が肋膜にて重症なりし時、この『天使の言葉』をその枕頭にて朗読せるに体温三十八度以上の小児が発熱のままにて起き上がり、「自分は神の子で病気は無い」と称し、遊び始めたる不思議さに数日様子を見るべく医者に乞うて医療を四日間停止して観察せるに、そのまま健康児となってその医者をして驚嘆入信せしめたという。

ともかく神秘の力を有するのがこの聖経である。

6029「訊」:2015/12/03(木) 10:36:06 ID:IVqSJWPU


>>6028

 「砂漠はキレイだね。砂漠は泉を隠しているからキレイなんだよね」(ミュージカル「リトルプリンス」劇中セリフより)
 ・・・・・昨日の、谷口あかり姫ミュージカルがまさにそんな感じ(!)。

 砂漠に不時着するパイロット、水がなくなるんですが気づいてみれば、「あたり一面は泉だった」という、そんな場面がありました。

 「本当に大切なものは目に見えないんだ」

 これが、同ミュージカルのテーマのひとつだったんですが、我々は「すべてをいったん、受け入れること」をするべきなんでしょうかね。そして、すべてをいったん受け入れて後、本当に大切なものが現れてくるという・・・・・・・



○われらは、二つの王国に生きてる。その一つの王国は外界であり、他の一つの王国は内界である。内界はこれ心の世界であって外界一切を支配するのである。


 ホンモノとニセモノの峻別です。ニセモノだけを見て、そして「それだけが自分だ」などと思っていては、なりませんよね・・・・・・砂漠と見えてもいったん受け入れてみて、砂漠へ「泉を隠しているからキレイだ」と賛辞を送る。すると・・・・



6030a hope:2015/12/03(木) 23:39:54 ID:cEpBaIdo

>>6029 「訊」さま

谷口あかり姫のミュージカルを観覧されて、「訊」さまがロマンチストになってしまわれましたね!


ところで、あかりさんですが、本当に素晴らしい方ですね。

部室板で「訊」さまご紹介してくださっていますが、あかりさんの座右の銘の、

 『苦しい時こそ ワクワクする』

ですが、わたしも 「さすが生長の家の生き方を心得ていらっしゃる」 と感動しました。


<<我々は「すべてをいったん、受け入れること」をするべきなんでしょうかね。そして、すべてをいったん受け入れて後、本当に大切なものが現れてくるという・・・・・・・>>

「生長の家の教え」風に考えると、どんなに苦しく辛い状況に陥っても、目を背けないで真っ直ぐにその現状を受け容れて、
「あー、これって自分が生長するために与えてくれた神さまからのありがたい試練なんだな」って・・・

そうすると、本当に大切なもの・・・愛? 真理? が現われてくるってことなのでしょうか?

砂漠の中の泉、わたしも見つめられるようにならなくては・・・

6031a hope:2015/12/04(金) 10:13:14 ID:brQxC10.

「生命の實相」第23巻 p87 後から3行目〜

今日は聖経『天使の言葉』を話したいと思うのであります。

これは聖経『甘露の法雨』の続きでありまして、『甘露の法雨』はあまり長いために、一遍に唱えるには長すぎるというので、一度切って、改めて別の『天使の言葉』という題の
下(もと)に書かれたものであります。

『甘露の法雨』はわたしが机に向かっている時に突然リズミカルな霊感として浮かんできたのをそのまま書き留めておいたのでありますが、それを読む人々にいろいろな霊験や奇蹟が起ってきたので、人称して聖経と称するにいたったのです。

この詩の冒頭に「天の使(てんのつかい)また語り給う」と書いてありますが、このまたという語が『甘露の法雨』の続きであるということを意味するので、ここにはまず『甘露の法雨』を語り終えられた天使が、また語り出されたその時の有様が書いてあるわけであります。

(省略)

天の使というのは何かと申しますといつも話すように神 ―― 唯一つの神から、神の念波、すなわち神の救いの念波が送られている。

しかしそれをわれわれは五感で感じることができませんから、その時に神の霊波がわれわれの第六感を通してそこにあるかのごとく姿を現す。

その現われが救いの天使として姿を現すのであります。

仏教では観世音菩薩や普賢菩薩や、またキリスト教でならミカエル、ガブリエル、あるいはケルビム等々……というのは、皆その天使の名であって、これらは皆神より出でたる救いの霊波の人格的応現なのであります。

6032a hope:2015/12/04(金) 10:15:17 ID:cEpBaIdo

>>6031 a hope所感)

わたしは、「天使」って本当はそこら中にいるような気がしています。

自分自身が、真理「実相」を見つめようとしさえすれば、どこにでも「天使」を見つけることが出来るのではないでしょうか?

たとえば、ミュージカルに感動された「訊」さまにとっては「あかり姫」が天使だったのではないでしょうか・・・?

わたしは、子供たちの笑い顔やあどけない無垢な表情をみていると、天使を見ているような気がします。

きっと、だれの周りにも、天使はいるんですよね。

それに、気づくか気づかないか・・・それだけの違いなんではないでしょうか・・・

6033「訊」:2015/12/04(金) 15:29:35 ID:Tl1pPfxg


>>6032 a hopeさま


 加えてスゴイ話は「守護神」です。以前もご紹介しましたが、徳久先生御主張では「違和感・嫌感」もそれは、祖先の守護神化だそうで・・・・・・迷っていた祖先霊が守護神となった際、我々に起こるのがあの「イヤーな感じ」なんだそうでして、これも素晴らしい話ですよね。



追伸

 で、あかり姫はまさに、「姫」です(!)。我が祖先が遣えておりました島津斉彬公ですが、その血を継ぐ姫です。加えて雅春先生の血までお継ぎなんですから、私にとっては眩しい存在です。ついでに申せば姫のルックスは・・・・・・・・・・大学時代に恋をした、あの子とウリふたつ(!)

 嗚呼、姫・・・・・・・・・(独演状態)

6034a hope:2015/12/07(月) 22:08:20 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p95 

(三)

汝らよ――
吾個神(ひとり)を善しという事勿れ。
形に現れたる神を讃(ほ)むること勿れ。
吾に宿る善きものは皆普遍なる神より来る。
汝ら吾が示すところの神を崇めよ。
吾を崇めよというには非ず。
吾はただ天の使なり、
吾れみずからの本性の神なることを観たれば、
吾れ汝らの本性の神なることを悟らしめん。
汝らの先ず悟らざるべからざる真理は、
『我(われ)』の本体がすべて神なることなり。

それで先程も言いましたように神はいろいろの姿をして現われる。

観世音菩薩とか普賢菩薩とか、ミカエルとかあるいはガブリエル、ケルビムというようなさまざまの姿をもって現われるのですが、その現われが自分個神(じぶんひとり)を拝めというのではない。

この一個の神の現われだけが尊いというのでもない。

われはただ使い、神の使いにすぎない。

神のみ心をとりつぐものにすぎないといっているのであります。

天の使いの本体であるところの本当の神、天地遍満、天地普遍の神こそ尊いのであります。

一個一個の神を、この神、この仏をお祀りして、どこそこの神様の御利益は実にあらたかであるとかなんとか言っているけれども、その御利益は一個の現われである個神(ひとりのかみ)から来るのではないのであって、実はその奥の、天地普遍の神から来るものなのであります。

ですからまた、生長の家へ入信して病気が治ったかといって、わたしという人間一個を拝んではならないのです。

また生長の家の役員が病家をお訪ねして真理の話をするだけで瀕死の病人が起ったからといって、その役員一個一個を崇めてはならない。

その場合のわたしとか、生長の家の役員とかいうのはこれ天の使いであって、その人が病気を治すのではないのです。

病気を治すというのは、「生命の実相」が治す。

これは本の名前ではない。

生命の絶対実相、普遍実相の神の働きなのであります。

また生長の家の役員でなくとも生長の家の真理を伝える人はみな天の使いでありますから、その人たちから「生長の家」の話を聞くと不思議に病気が治るということがよくあるのですが、よくなっても、その人々がえらいから病気がよくなるのでは決してない。

それは天地普遍の神、創造神の大いなる力が現われてきて、そうした働きをなさせ給うのであることを忘れてはならないのであります。

ですからここに現われられた一人の神、あの神、この神を崇めよというのではないのでありまして、一人、一人の神は皆天の使いなのですから、その天の使いから出る力とか言葉とかいうものは、とりも直さず天地に遍満する唯一の神から出るものであるので、その唯一の神を崇めよというのであります。

それで自分は神から出てきたものである。

そして神から伝えられたところのことをなんじらに伝えるだけのことであると、ここに繰返し述べられているのであります。

6035a hope:2015/12/07(月) 22:09:38 ID:cEpBaIdo

>>6034 a hope所感)

谷口雅春先生は、ご自身のことを「神のコトバを伝えるラッパ」だとおっしゃっていました。

でも、昔は谷口雅春先生でなくても、役員さんなんかでも「生長の家」の真理の話をすれば、人の病気を治して(消して)しまわれたようですね(@_@)

そんなことが日常的に起こっていれば、「生長の家」教団が大きくなるのはあたり前ですね。

だって、誰だって病気や死を恐れているでしょうから、それが「生長の家」の話を聞くだけで、それが簡単に治ってしまうのですから・・・ね。

6036トキ:2015/12/08(火) 21:12:28 ID:0DKs45Qc
>>6035

 とても大事なことだと思います。

 少し前まで、生長の家の練成会で奇跡が起きたのを何ども目撃しました。
練成だけではなく、教区の行事でも不思議な出来事がよくおきました。私の
知っているケースでは、末期の癌で葬儀の準備をしていた人の癌が消えたと
いうこともありました。

 「菩薩は何をなすべきか」という本には、講師になったら、それにふさわ
しい指導霊がつくと書かれています。この指導霊に波長を合わせると、奇跡
おきるということです。もちろん、指導霊に波長があうように修行をしない
といけないし、逆に言うと、指導霊に波長があわないと、講師といえどもお
かしい事を言うことになるみたいです。

 大事な事は、個人の救済が基本だということです。

6038a hope:2015/12/11(金) 10:46:28 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」 第23巻 p97 7行目〜

(四)

汝ら億兆の個霊(みたま)も、
悉(ことごと)くこれ唯一神霊の反映(うつし)なることを知れ。
喩(たと)えば此処に一個の物体の周囲に百万の鏡を掟(お)きて
これに相対(あいたい)せしむれば一個の物体もまた百万の姿を現ぜん。
斯(か)くの如く汝らの個霊も
甲乙(こうおつ)相分れ、
丙丁(へいてい)互に相異なる相(すがた)を現ずるとも
悉くこれ唯一神霊の反映にしてすべて一つなれば
これを汝ら互に兄弟なりと言う。
すべての生命を互に兄弟なりと知り、
すべての生命を互に姉妹なりと知り、
分かち難くすべての生命が一体なることを知り、
神をすべての生命の父なりと知れば、
汝らの内おのずから愛と讃嘆の心湧き起らん。


一人の神――生長の家の神とか、何々の神とかいう、一人一人の神を拝めとは言わない。

皆の中に本当の神が宿っている、自分が神であり、自分が仏であるというのです。

ここに現われているのは皆一人一人異(ちが)ってはいるけれども、われわれの実相(ほんとうのすがた)は同じ神の姿、仏の姿であるということをわれわれに悟らしたいために、神の霊波が天使としてここに出現して来たのであります。

(略)

中心にある真実の存在とその百万の鏡に映っている姿がまったく同じであるように、神と同じ姿が皆本当の姿であり、神が皆の生命であり、本体であるのであります。

(略)

お前たちの本体が神である。

――すなわち神こそ生命の父であると知ったら、その時に皆の心の中にありがたいという感謝の心、大いなる生命を讃嘆する心が湧きおこってくるのである、と書いてあるのであります。

6039a hope:2015/12/11(金) 10:48:06 ID:cEpBaIdo

>>6038 a hope所感)

「自他一体」「神人一体」「神はすべてのすべて」・・・

生長の家の教えでは、常にそのことを説いていますね。

さらに、雅春先生は
<<、「あなたたちが谷口雅春である」「私のことはおいておいて、貴方が住吉の大神様ですよ」>>

大聖師「谷口雅春先生は神(救いの原理であり光)」である。 (10692)
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=daityouwa&mode=res&log=4260

より引用。

とまでおっしゃっていたようです。

上に勝手に引用させていただきましたが、この記事の内容が素晴らしいと思うので、以下に紹介させていただきます。 合掌。

6040a hope:2015/12/11(金) 10:56:24 ID:cEpBaIdo

大聖師「谷口雅春先生は神(救いの原理であり光)」である。 (10692)

日時:2015年12月08日 (火) 14時37分
名前:生命の教育実践者

私の元部下から、この掲示板に書き込みをせよと、メールが来ました。管理者、寄稿者のみな様には大変申し訳ありませんが、私はこのような「雑談」広場のような掲示板は大嫌いです。しかし大事なことですので、一言だけ書かせていただきます。

谷口雅春先生は釈迦の再臨であり、キリストの再臨です。

しかし、その表現は厳密に言うと、正しくない。

谷口雅春先生は神(救いの原理であり光)でありその神の現れが、ある時代は「お釈迦様」であり「キリスト様」であったのです。


神の視座から「例えば私が釈迦であった時」と語られているのです。

同じく「例えば私がキリストであった時」という言葉も個人的には聞いた幹部もあるでしょう。そのお一人が愛媛の寄能美枝先生のような方(霊的な先達)でありましょう。私も数人このような方を存じ上げております。これは、故人に限らず現在活躍しておられる講師にも、そういうお人がおられます。

実に、生長の家(教団ではなく本来の實相の展開という意味での「生長の家」)には素晴らしい先生方がおられたものです。そして今もなお、多くの素晴らしい先生がご活躍と、私は信じております。なぜなら、生長の家の御教えこそが、宇宙開闢以来の荘厳であるのですから。


どうか、皆さん。

教団にいても、教団を出ても、どこにどういうカタチであろうとも、神の子として、真理を生きてください。そして谷口雅春先生こそが神である。住吉の大御神であることを直視して戴きたいのです。「住吉の大御神」としての禊ぎ祓い。それをいのちを懸けて人生をかけて為すことこそが、「あなたたちが谷口雅春である」「私のことはおいておいて、貴方が住吉の大神様ですよ」と言われた栄誉に報いる道でありましょう。

谷口雅春先生が自から「ラッパである」といわれたからといって、ラッパだというものは、尊師である谷口雅春先生の實相をいまだ、一度たりとも観たことの無い者である。おそらくは、御自分の實相さえも、一度も観たことがないのである。御自分の「實相が神」であることを知れば「谷口雅春先生がラッパの働き」をされたとてラッパではない。神であることを知るでありましょう。

どこにどういうカタチであろうとも、神の子として、真理を生きる。尊師の「御悲願(宇宙清め)に命を捧げる」そのことで「住吉の大御神」としての禊ぎ祓い成り。「来たる日」の、天照大御神御出御となるでありましょう。

私はそこに人生もいのちも捧げさせていただきます。

生長の家の出現の意味も、使命も、生長の家の全ての全てが、そこにあるのですから。


http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=daityouwa&mode=res&log=4260

<愛国本流掲示板>さまより、引用させていただきました。 感謝 合掌。

6053a hope:2015/12/13(日) 10:10:16 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p116 後から3行目〜

三宅いくえさんといわれる熱心な信徒がおられました。

この方のご主人は、生前牛肉屋をしておられた。

牛肉屋といっても、大阪有数の肉屋であって一カ月に数千円の収益があるというほど、繁昌する大きな店を営んでおられたのでありました。

それに御主人の没後は、いくえさんが店をきり廻しておられたのですが、生長の家へ這入られて、熱心に本を読んでいられるうちに、自分の商売がだんだんいやになってきた。

特に『久遠の實在』に書いてある採食論のところを読んでからというものは、どうしても、牛肉屋という商売をしていることが堪えられなくなってきて、思い切って店をやめてしまおうとせられたのでありました。

6054a hope:2015/12/13(日) 10:11:59 ID:cEpBaIdo

>>6053 a hope所感)

確かに「生命の實相」を拝読し、神想観をしていると、どんな生き物にも尊い生命がやどっていていることが自覚されてきます。

ですから、特に生命を奪われるときに苦痛を感じるであろう霊性の高い哺乳動物を殺して商売をしたり、
その肉を食するということに抵抗を感じるようになると思います。

わたし自身も、最近はそういう気持ちが強くなってきていています。

ここに登場されている牛肉屋を経営されている三宅さんは店をやめてしまわれようと決心されますが、
お父様に大反対されてしまい、さらにお父様が代わりに肉屋をやると言いだされます。

そうなると、自分の代わりにお父様に殺生をさせることになり、結果的には「親不孝」をすることになり、
「生長の家の教え」に反してしまわれます。

そこで、三宅いくえさんは、谷口雅春先生にお手紙を書かれ事情を説明されて、その後、面接されます。

雅春先生は、はたして、三宅さんにどのようにご指導されたのでしょうか?

6055a hope:2015/12/14(月) 10:25:07 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p117 後から2行目〜

そこでわたしはすぐ「何日に来られよ」と返事して差し上げますと、さっそくと上京して来られて、朝東京に着くとすぐわたしの家へやって来て話されるのに「先生、わたしいったいどうしたらよいのでございましょう」とこういうことだったのです。

それでわたしは「あなたのどうしてもこの商売をやめたいというお心はわかります。やめたいという心は善い。善いけれどもあなたがやめたら父上が続いてやると言われるのでしょう。まあ、父上はあなたが説法してやめさせることができるでしょう。が、しかし、そんな御繁昌な店だったら、あなたがやめ父上がやめると言われればまた他の者がそこで開店するでしょう。で結局あなたは自分でやめても、一軒も牛肉屋をやめさせることにはならない」と申しました。

「それではいったい わたしは どうしたらよいのですか」と訊かれますから、「それではあなたは、牛肉屋をしてどんどん儲けなさい。そしてその儲けた資金で、世の中の人全体が肉食をしないような心になる運動に参加するのです。それはどうしたらよいかと言えば、生長の家の光明思想をどしどし世間に普及させるのです。世間の人がどしどし生長の家へ入って全人類が生長の家の信徒となり、人間は牛肉なんぞ食べなくっても健康を保つことができ、また肉食をよしたためにかえって健康になることがわかれば全人類の肉食量が減ってくる。また無理に肉食をやめさせなくとも、生長の家の光明思想に触れると、食欲が自然に正しくなって、野菜の方が好きになったという人が、実際にこれまででもたくさんいるのですから、そうすると、世の中の牛肉屋は自然に消滅してくるものです。今あなたの牛肉屋を一軒だけやめたとてなんにもなりはしません。それよりもっと根本的に全世界の牛肉屋をやめさす工夫、肉食をやめさす工夫をしなければ本当ではないでしょう?」といってさしあげたのでありました。

わたしが話し終わった時、三宅いくえさんは顔を上げて庭の方を見ておられましたが、突然「わたし、これまで乱視で片眼がぼんやりとしか見えなかったのですのに、今先生のお話を伺って眼を上げましたら、今まで見えなかった方の眼がハッキリしてお庭の景色が木の葉一枚一枚見えます。まァ美しい樹の葉が一枚一枚、はっきりと見えるのでございます」と言われるのです。

わたしはこの方が乱視であられたのを、その瞬間まで少しも知らなかった。

もとより三宅さんも自分の乱視を治そうと思って上京して来られたのではありませんでした。

ところがわたしがその方の人生上の煩悶を訊いていろいろと話してさしあげているうちに、三宅さんの心の中から迷いがとれて、心の目が開けて、はじめて実相が見えるようになられた。

その時今まで乱視ではっきりしなかった肉眼の目も開けて、庭の木々の一つ一つの葉まではっきりと眺められるようになったのであります。

6056a hope:2015/12/14(月) 10:26:50 ID:cEpBaIdo

>>6055 a hope所感)

わたしにとって、この体験談は「生命の實相」の中でもとくに心に残っている体験談の一つです。

現象世界って実相世界の現われなんでしょうけれども、それが歪んで反映されているために矛盾に充ちた世界なんですよね。

その「歪み」や「矛盾」を現象世界への働きかけだけでどんなにがんばって正そうとしても無理があることを教えてくださっているのが、
この体験談なんです。

自分が殺生をしたくないから、自分が肉食が嫌になったからと言って、周りに肉食をやめることを強制しても、
結局、人々の根本の「心」が変わらなければ、その努力も、その場限りの小さな善行に終わってしまうということなのだと思います。


<<「それではあなたは、牛肉屋をしてどんどん儲けなさい。そしてその儲けた資金で、世の中の人全体が肉食をしないような心になる運動に参加するのです。それはどうしたらよいかと言えば、生長の家の光明思想をどしどし世間に普及させるのです。世間の人がどしどし生長の家へ入って全人類が生長の家の信徒となり、人間は牛肉なんぞ食べなくっても健康を保つことができ、また肉食をよしたためにかえって健康になることがわかれば全人類の肉食量が減ってくる。また無理に肉食をやめさせなくとも、生長の家の光明思想に触れると、食欲が自然に正しくなって、野菜の方が好きになったという人が、実際にこれまででもたくさんいるのですから、そうすると、世の中の牛肉屋は自然に消滅してくるものです。今あなたの牛肉屋を一軒だけやめたとてなんにもなりはしません。それよりもっと根本的に全世界の牛肉屋をやめさす工夫、肉食をやめさす工夫をしなければ本当ではないでしょう?」>>

強制のない、「ねばならない」がないのが「生長の家の教え」なんですね!
そして、全世界を「生長の家」として救済するのが「生長の家」の光明思想化運動なんですね!

6057a hope:2015/12/15(火) 16:17:37 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p120 後から3行目〜

近眼の治った、実に素晴らしい体験をもっていられる方があります。

それは川村よし子さんという双葉女学校の二年生の方なのですが、数日前道場へ来られて、御自分の目の治ったおもしろい体験談をされたのでありました。

川村よし子さんのおばさんというのが、生長の家の熱心な信徒でしたが、よし子さんが某日(あるひ)、そのおばさんの家に遊びに行かれた。

その時におばさんが、生長の家の話を、いろいろとよし子さんに話されたそうであります。

よし子さんは、五度というひどい近眼だった。

それで、目などは心に従ってどうにでも変わるものだという話を、おばさんが諄々(じゅんじゅん)と説かれて、それから「よし子さん、この『甘露の法雨』を読んでごらん」と言ってよし子さんに『甘露の法雨』を読ませられたのでありました。

ところが、その時夜は大分ふけているので、『甘露の法雨』を半分ほど読んでゆくうちに、よし子さんはとてもねむたくなってきた。

一緒に読んでいられたおばさんが、よし子さんがあまり眠そうにするのでかわいそうになってきて、「あなたはもうお休みなさい。わたしが代わって続きを読んであげますから」と言ってよし子さんを臥(ふ)せさせ、その枕元で『甘露の法雨』の後半を声高に読まれたのでありました。

しかしよし子さんは眠ってしまわず、まだ「伯母さん、実相って何に?」などと言って分からぬところを聞いていたそうです。

そして翌日目をさまして、眼鏡をかけない眼で、ふとあたりを見廻すと不思議なことにいろんなものがはっきりと見える。

川村よし子さんの近眼は・・・

(略)

・・・その朝目をさましてみると、昨日まで眼鏡なしでは全然見えなかったものが、一夜のうちに、はっきりとみえるようになっているんですね。

額の絵の菊の花やら、障子の桟から、柱にかかっている時計の針まではっきり見える、世界中が急に明るくなってきた。

よし子さんは嬉しくて嬉しくてたまらない。

さっそくと眼鏡を捨ててしまわれたのでありました。

それでその日、七月二十九日の晩、初めて本部に来られて喜んでその話を皆の前でされたのでした。

その日はちょうど、明治大帝の御崩御の日に当たるので、代々木練兵場でたくさんの花火が打ち上げられた。

ぽーッと空に上がる花火が眼鏡をはずしても、見えるようになっているのです。

ところがこれまで眼鏡をかけて花火を見ているころには、花火は直径一尺ぐらいに小さくしか見えなかった。

それで花火なんて小っぽけなもんだと思っていられたそうですが、肉眼でみると、どうしてどうして、とても大きくて立派な花火なのです。

で、「伯母さん、花火はなんて大きくて美しいものなのでしょう」とよし子さんは感嘆されたと言います。

その翌日のこと、その日はからッと晴れた実に気持ちのよい日でありました。

空は紺碧に澄み渡って一点の雲も漂っていないというような日だった。

川村さんはこれまで厚い眼鏡をかけて、そのレンズでものを凝縮して見ていられたのでしたから、空の碧色(みどりいろ)もなんだかはっきり分からない白っぽい色ばかり見えていた。

ところがその朝、肉眼で紺碧の美しく晴れ渡った空を見て、はじめて「空はなんて美しい碧色だろう」と思われたのです。

「碧色の美しい空を、わたしは今まで知らなかった。空はこんなに美しいものだったのか」と思われたということです。

6058a hope:2015/12/15(火) 16:18:50 ID:cEpBaIdo

>>6057 a hope所感)

「甘露の法雨」の功徳って、ほんとにすごいものなんですね!

でも、その「甘露の法雨」を何百回読誦しても、何千回読誦しても、何万回読誦しても、死ぬまで読誦し続けても功徳のないことってあるんでしょうか・・・?

わたしは、人によってはそういうこともあると思います。

その人に、その真理を素直に受け入れる「心」がなかったら、何億回読誦してもなんの功徳もないのではないかと思います。

聖典拝読にしても同じなのではないでしょうか・・・?

また、「信じる者は救われる」といいますが、「生長の家」の体験談にしても「偶然だ」とか「集団催眠だ」などと常に疑いの心をもって聞いていると、
その人が同じように救われるということは決してないと思います。

続けて謹写していきます。

6059a hope:2015/12/15(火) 17:25:48 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p123 3行目〜

そういうあんばいにして、川村さんの視る限り世界中の姿がすっかり変わってしまったのでありました。

川村さんは、素直な幼児(おさなご)の心で真理を受け入れられたから、たった一度『甘露の法雨』を読んだというだけで、かくも偉大な功徳を得られたのであります。

『甘露の法雨』の功徳というのは、要するに『甘露の法雨』に書いてある真理の功徳にほかならないのであります。

そこで、この真理を読んで実相を見る目が開けた時に世界中の姿が変わってくるということになるのであります。

『維摩経』の中に、天人の世界へ行って御飯を出されると、同じ真っ白なご飯を出されても食べる者の心に従ってその色が変わる、ということが書いてありますが、これと同じことで、われわれも心が変われば、その心に従って世界が姿を変えてくるのであります。

今まで花火は小さいものだと思っていたのが実は花火は大きいものだと分かる。

空の色も心の目が開けた時に、ああこんなにも美しい碧色だったのかとわかってくるのです。

この世は苦しい世だ、憎しみに充ちた醜い世だと、厭世的に世界を眺めている人もある。

しかし、苦しみの世界は、あるのではない。

そういう人は心の目を開かない人なのです。

心のチカメなのです。

心がチカメであるから、楽しい、よきことのみに充ち満ちた実相の世界を見ることができないで、この世は憂いの充ちた世界と見えているのです。

それが一度真理に触れて、心の目がぱっと開いた時に、この世はこのままで極楽浄土となるのであります。

目の治った話はまだいくらでもあるのです。

昨日も『主婦之友』の記事で有名な栗原保介氏の令弟で栗原清吉さんが来られて皆の前で話されたのでありますが、この方は川村さんの五度よりもきつい三度と四度というまことにひどい近眼を二、三度話をするだけでたちまちにして治されたという、実際の話をされまして、お話をうかがった多勢(おおぜい)のもの皆大変に感動したのでありました。

栗原さんは今日そこに見えていられますから、あとで御自身の口からくわしくお話をしていただくと大変によいと思うのであります。

かくのごとくわれわれは、この眼という物質で物をみるのではなく、心によって見るので、心の目が開けたら、地獄も天国になるということを、生長の家で多くの方が体験され、またその体験によって実証されているわけなのであります。

6060a hope:2015/12/15(火) 17:29:22 ID:cEpBaIdo

>>6059 a hope 所感)

心の目が開ける(悟る)と、実際の視力も回復してしまう・・・

すごいですね!

そういえば、わたしは、ほぼ毎日「生命の實相」を拝読し、長時間パソコンやスマホに向かっていますが、視力の衰えはほとんどありません。

むしろ、以前より良くなっている気がします。

悲しいかな、同年代の友人の中にはもう「老眼鏡」が必要な人もいますが(@_@)、わたしにはまだまだ必要ないようです(笑)

それで、思い出したのですが、宇治の練成で練成員の名前を読み上げる楠本加美野先生は老眼鏡をかけていらっしゃいませんでした。

「生長の家」を信仰していれば、いつまでも健康で若々しくいられる、というわけですね!

6061a hope:2015/12/17(木) 10:38:42 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p131 9行目〜

さて、各種の波動を感ずる感覚器官に起る障害、半身麻痺であるとか、あるいは眼が悪いとか、耳が悪い、味がない、鼻が悪いというのは、要するに皆波動を受けいれるこちらの念波のまちがいなのであります。

ラジオでも受信機の波長が放送装置の起こす波長に合わなければ、感じない。

この感覚器官の波長の不調和はどこから来るかというと、すべて事物をありがたい、と受け入れる感謝の心の欠乏から来るのです。

有りとしあらゆるものはすべて神の無限の愛、無限の知恵、無限の生命に充ち満ちている。

その神の生命、神の愛、神の知恵を、素直に受け容れる人が少ない時にそういうわれわれの生活に必要な波動を感受できない――できないのではない、感受しない状態が起ってくるのであります。

顔面麻痺などというのも、面の皮があんまり厚くて、他人のよろこびも悲しみも鉄面皮で少しも感じない。

冷酷無情な、いつも他(ひと)のことは考えようとしない、自分だけを突張る頑固(かたくな)な心が現われて顔が突張っているので、その心が直ったら顔の突張りも自然にとれ、感覚の麻痺も治ってくるのであります。

中風で体が痺れているというのも実は心が痺れているのです。

心が痺れていて神様や、家族や、いろいろの恩人の厚い恵み、愛などに本当に喜びを感じることができない、その心が現われて身体に麻痺という状態をおこしているのです。

その心が現われて身体に麻痺という状態を起しているのです。

また近眼とか、蓄膿症とかも、総括的に言えば皆大体同じことで、目が見えなかったり、耳が遠かったりするのは、他(ひと)の心を受け入れる心がない証拠といってよいのです。

天地に満つる神の恵みを、正しく受け入れる心が少ないのであります。

受け入れたにしても本当にあるものをすっかり受けないで、半分くらいしか受け取らない場合には片目が見えないとか、片耳が聞こえないとか、近くは見えても遠くは見えないとか、半分しか感受機関が働かなくなるのであるのであります。

それがすべての愛、すべての知恵、すべてのよろこびを素直に受け入れる人になった時に外に現われた感覚器官の障害も消えてしまうのであります。

肉体は心の影でありますから、心のとおりに外部の現れが変わってくるのは当然のことであります。

6062a hope:2015/12/17(木) 10:41:48 ID:cEpBaIdo

>>6061 a hope所感)

「生長の家」の教えを信仰すると、体の不調和が調って病気が治ってしまう・・・

その本当の理由は、「生長の家」の信徒になったからではなく、毎日「生命の實相」を拝読しているからでなく、
神想観をしているからではなく、「甘露の法雨」を読誦しているからではないのですね。

<<この感覚器官の波長の不調和はどこから来るかというと、すべて事物をありがたい、と受け入れる感謝の心の欠乏から来るのです。>>
<<すべての愛、すべての知恵、すべてのよろこびを素直に受け入れる人になった時に外に現われた感覚器官の障害も消えてしまうのであります。
肉体は心の影でありますから、心のとおりに外部の現れが変わってくるのは当然のことであります。>>

「生長の家(聖典・聖経)」の真理を素直に受け入れる「心」が調った時に、「心」が感謝の気持ちで満たされ、肉体も環境も調和するというわけですね!

6063a hope:2015/12/21(月) 12:35:49 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p138 後から5行目〜

「しかしいくら肉体は痛くないと思おうにも痛いのは事実です」などと言われる方がありますが、そういう方はまだ「心の痛み」ということが本当に分かってはおられないのです。

心の痛みというのは肉体にあるのではい。

それだのにそういう方は「心の痛み」と言っても、その痛みというのは肉体の痛みを指して言っているかのように考えて、「この肉体は痛くないと思うと努力しても痛い」などと言われるのです。

それはまちがいです。

肉体を離れて心に着眼点をもってこなければならない。

それでは心の痛みとは何か?

家庭の中の不調和とか、人を憎む心とか、口惜しい残念だとかいう心、妬む心、癇癪を起こす心、これらが要するに心の痛みなのです。

腹が立ってどうしてもそれが制しきれないということが往々ある。

それも心の痛みです。

あるいは愛する子供や親を失って悲しみに暮れるということもある。

これも心の痛みです。

子を失う人の痛みは、われわれにとって最も大きい苦痛です。

その苦痛の蓄積の後に神経痛を起こす人もある。

この肉体は死んでも本当は人間はしなない生きとおしの生命であると知ると心の痛みが次第に癒えてくるのです。

そういうふうにして心の痛みが根本的にとれてしまったら肉体の痛みはすぐになくなってしまうのです。

こういう意味で肉体がいたいのではない、というのだと言いますと、それでも痛くないと思っても事実痛いものを、と言われる方は、まだ肉体を指さしておられるのです。

肉体に痛みはないのですから、その時省(かえり)みて、自分の心にある悲しみ、憎しみ、恨み、嫉み、というような心の痛みを、すっぱり捨ててしまった時、肉体の痛みも忽然と治るということになるのであります。

だから、痛いというのは、この肉体が痛いのではない、神経が痛いのでもない、ただ痛いという念が痛いのであります。

ですから、この肉体から念というものを奪い去ってしまった時に、もう肉体はなんの苦しみも痛みもなくなってしまうのです。

だからこの一節には「『念』全く去りたるものを死体と云う。汝ら死体が痛みを感じたるを見しことありや」と書いてあるのであります。

この肉体はまったく念の影なのでありますから、われわれが健康を念じたら健康になり、病いを念じたら病になるのであります。

それでは健康を念じさえすれば、癇癪を起こしてもどうしても健康でいられるかというとそうではない、われわれの念そのものがいつも健康な状態であることが必要なのであります。

念が健全だということは、痛いということを念じまいとすることや、健康健康と、その肉体の健康だけを思うことではない。

念そのものが大調和の状態になることであります。

普段はどうでも神想観の時だけ、健全な心になって念ずるなどというのは駄目で常住坐臥(じょうじゅうざが)に健全なる、大調和の念を持っていることが、すなわち健康を念ずるということになるのです。われわれが常に神の子の念を持つ。

これによって健康を生ずるということになるわけであります。

6064a hope:2015/12/21(月) 12:36:58 ID:cEpBaIdo

>>6063 a hope所感)

家庭の中の不調和・・・人を憎む心・・・口惜しい残念だとかいう心・・・妬む心・・・癇癪を起こす心・・・
腹が立ってどうしてもそれが制しきれない・・・
あるいは愛する子供や親を失って悲しみに暮れる・・・

すべてが「心の痛み」なんですね。

でも、この人生で生きていて、そのような「心の痛み」を全く感じないで生きている人なんているのでしょうか?

自分自身では制御しきれないような「憎しみ」や「妬み」や「怒り」「悲しみ」等の悪感情を、なぜわたしたちは体験しなければならないのでしょうか?

「生命の實相」に出会う前のわたしは、それは人間が不完全である証拠であり、そんな人間を創造した「神」がもし存在しているのなら、
「神」はわたしにとっては一番憎むべき存在である、とさえ思っていました。

ところが、「生命の實相」には、そんな不完全な人間や不完全な心は本来存在しないもので、在るもの実相、「完全円満」な人間の姿だけである、
つまりは「人間こそ神(神の子)」でありこの世は「唯神実相」の世界であると書かれてあるではありませんか・・・

わたしにとってそれは、本当に、「衝撃的」な真実でした。

ところで、そのような素晴らしい真理を説く「生長の家」の信仰者としてのわたしたちの使命っていったいなんなんでしょうか?


現象世界の不完全さを憂い、嘆き、悲しむことでしょか?

わたしは聖典の文章に答えがあると思います。

<<念そのものが大調和の状態になることであります。
普段はどうでも神想観の時だけ、健全な心になって念ずるなどというのは駄目で常住坐臥(じょうじゅうざが)に健全なる、大調和の念を持っていることが、すなわち健康を念ずるということになるのです。われわれが常に神の子の念を持つ。
これによって健康を生ずるということになるわけであります。>>

一般の人間がそういう心境になるのはなかなか難しいのでしょうが、「生長の家」の真理を知っているわたしたちにとっては、それはとても有難い信仰目標(使命)ですよね!

6065a hope:2015/12/21(月) 12:40:13 ID:cEpBaIdo

山川海さま

こちらをご覧になってくださっているでしょうか?

>>5978で山川海さまがご紹介してくださったので、わたしはあれから毎朝晩、父母への感謝の言葉を唱えています。

そして、数日前、素晴らしい功徳をいただきました!

本当ならここで感動の体験談を詳しくお話したいのですが・・・

なかなか解決しなかった娘のある問題が感謝行をはじめてすぐに良い方に向かいだし、そして1か月半後見事に解決したのです。

そして本当に娘の運命が、“ バッ ”と変わりました!!


この感謝行を続けていると、父母への感謝だけではなく、ご先祖さまや周りの全ての人々にも感謝の気持ちを持つことができるようになるような気がしています。

よいことを教えてくださって、本当にありがとうございました。 合掌。

6066a hope:2015/12/25(金) 23:52:49 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第23巻 p151 4行目〜

(十一)

されば汝ら、
心の中に常に円満完全清浄なる実相の姿を描けよ。
常に円満完全無病なる神の子の相(すがた)を描けよ。
人は神の子にして其の他の何者にも非(あら)ざるなり。
円満完全なる神より不幸は生ぜず、
円満完全なる神より病は生ぜず、
不幸と病とは唯これ五官の妄想(まよい)に過ぎざるなり。
汝ら病を恐るること勿(なか)れ。
五官の感覚に描かれたる病は
一毫(いちごう)も汝らの生命の実相を病ましむること能わず、
一毫も汝らの生命の実相を不幸ならしむること能わず、
如何なる病も
如何なる不幸も
ただ『生命の実相』の表面を掩(おお)える
叢雲(むらくも)の如き幻に過ぎざるなり。
その幻はすべて
『生命の実相』を知らざる迷いより生ず、
汝ら『生命の実相』を知り、
迷い滅すれば恐怖滅し、
恐怖滅すれば
一切の不幸おのずから滅せん。


ここにはいっさいの不幸、病気、災難などというものは恐怖が因(もと)になって生ずるということが書いてあるのであります。

(略)

恐怖心を起こしたが最後、もう自由自在の知恵が出なくなる。

下手な考え休むに似たりというようになってくる。

たまたま考えついた考えは失敗だらけの支離滅裂なものとなる。

だからどうしても事業を大成するには恐怖心を滅しなくてはならぬ。

恐怖心を滅するにはどうしたらよいかというと、『般若心経』には「顛倒夢想を遠離すれば恐怖なし」と書いてあります。

恐怖の因(もと)は、顛倒夢想から生ずるのであります。

顛倒というのは「サカサマ」――有るものを無いと思い、無いものを有ると思う、これが「サカサマ」であります。

「夢想」というのも、無いものをあるかのごとく妄想によってえがき出すのが夢想であります。

では何がサカサマであり顛倒夢想であるかと申しますと、肉体は本来無いのに有ると思い、本来有る完全円満な神の子なる実相身をアベコベに無いと思う――これが顛倒夢想であります。

本来この世は神の国であり仏土であるのに、苦娑婆であるとか、地獄であるとか、穢土(えど)であるとか思う――これが顛倒夢想であります。

(略)

この顛倒夢想を覚ますには、夢にうなされてる人を覚ますのに大声でどなるように、われわれは言葉の力を用いるのであります。

「そんな病気の相(すがた)や貧乏の相は本来無いんだぞ」と耳元で大声を出してやると、「ムニャムニャ」と言いながら目を覚ます。

眼を覚ましてみると、今まで自分は貧乏なルンペンであってしかも病気をしていると思っていたのが豈(あ)に計らんや、その実(じつ)自分は無限の長者の後継者(あとつぎ)であって金殿玉楼(きんでんぎょくろう)に錦繍(きんしゅう)の夜具の上に実に楽々と寝ていたのだということがわかるのであります。

心が真理を悟り、実相に目覚めれば、天国浄土は今、このまま、ここにあることを見いだすことができるのであります。

その状態を説明して聖経『天使の言葉』には次のごとく書かれているのであります。

(つづく)

6067a hope:2015/12/25(金) 23:53:38 ID:cEpBaIdo
(つづき)

「生命の實相」第23巻 p154 後から4行目〜

(十二)

かく天使(てんのつかい)語り給えば――

虚空に蓬莱島(ほうらいとう)の如き理想郷実現し
島の頂(いただき)には水晶にて造られる宮殿ありて
その甍も柱も悉く水晶なり。
天使その主座に坐したまえば
天童たちその甍(いらか)を透過(つらぬ)きて天より舞い降りて
悉く天使の周囲に輪を描く。
此時いずこともなく天楽の音(ね)嚠喨(りゅうりょう)として聞え、
天童これに和し羅綾(うすもの)を流(ながれ)の如く引いて舞えば
島をめぐれる紺青の海に
ヴェニスのゴンドラ船の如き
半月の船静かに辷(すべ)りていと平和なる状態(すがた)なり。
此の時天使の声水晶宮より出でて虚空に轟(とどろ)き、
地を指(ゆびさ)して宣(のたま)わく、
『見よ、これ実相世界なり、
実相世界は父の国なり、
天国なり、
浄土なり。
父の国には住居(すまい)多し。
実相世界の住居は悉(ことごと)くこれ「生長の家」なれば
住民(すむひと)に飢えなく、
悲しみなく、
争いなく、
病なく、
万(よろず)の物ことごとく意(こころ)に従って出現し、
用足りておのずから姿を消す。
円満具足清浄微妙の世界、
これ実相世界、
これ汝らの世界、
そのほかに世界あることなし。
斯く天使の宣うとき、
天使の指(ゆびさ)し給う方を見れば
『生長の家』無数に立ち並びて
甍列をなし
炊煙(すいえん)春の霞の如く棚引きて
住民悉く鼓腹撃壌(こふくげきじょう)し、
其処はただ常楽の世界を現じたりき。(聖経終)

(略)

生長の家というのは実相世界全体を称して生長の家と申すのでありますが、その実相世界の如意円満具足清浄微妙の状態を顕現している国家、社会、家庭の一個一個がやはり生長の家であります。

よく生長の家の信徒で、実相を悟ってから欲しいものが自然に集まって来たという体験を話される方がありますが、それは環境は念の影でありますから、悟りに従って実相世界の「万(よろず)の物ことごとく意(こころ)に従って出現し、用足りておのずから姿を消す」状態が現象界に投影する結果そうなるのであります。

一切人(いっさいじん)の現象生活がそうなりました時、われらの地上生活は実相世界の影を完全に映出して、この世に地上天国が建設せられるのであります。

こえで聖経『甘露の法雨の後編『天使の言葉』の講義を終ることにいたします。
長々御清聴を煩(わずら)わしましてありがとうぞんじます。

6068a hope:2015/12/25(金) 23:56:04 ID:cEpBaIdo

(>>6066 >>6067 a hope所感)

実はわたしは「聖経」を読誦するのは苦手でした。

ですが聖典「生命の實相」の「聖経」の講義を拝読していると、「聖経」の意味が良くわかるのでとても幸せな気分になります。

そして今は「聖経」の言葉一つ一つの荘厳な響きに、以前よりずっとわたしの魂が共振するようになった気がしています。

6069a hope:2015/12/26(土) 00:00:02 ID:cEpBaIdo

トキさま みなさま

わたくしごとですが、年末年始は忙しくなるのでなかなか書き込みできません。
もし、わたしの代わりにこのweb誌友会の司会進行をしてくださる方がいらしたらお願いしたいのですが・・・
年末年始はみんさまもお忙しいのではないかと拝察いたします。

来月(1月)の半ばくらいになりましたら、第39回、web誌友会開会させていただけると思いますので、
それまでは、第38回web誌友会を続行という形にさせていただきたいです。

勝手を言って申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いいたしますm(__)m

6070a hope:2016/01/17(日) 10:00:24 ID:cEpBaIdo

みなさま おはようございます。
遅くなりましたが、第39回 web誌友会を開会させていただきます。
それでは、開会にあたり、祈りの言葉を掲載させていただきます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
 
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
住吉大神様、今月の「今の教え」と「本流復活」を考える WEB誌友会板/2 に於ける
生命の実相 輪読誌友会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための 
必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り

神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。


光明思念の歌

天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

6071a hope:2016/01/17(日) 10:03:11 ID:cEpBaIdo

それでは、第24巻(頭注版)のカバーの帯の文章を紹介させていただきます。


「あなたの希望を実現させる力とは」

一年前ごろまで常に病気やら何々と不幸の連続であったA氏が、生まれ変わったように溌剌としていたので、「何が彼をそうさせたか」とたずねた。

A氏 「わたしは運命は心しだいでどうにでも変化できることを知ったのです。わたしたちはなろうとおもうとおりのものになれるのです。今まで自分は不幸になるという恐怖心が常につきまとっていましたが、今は反対に『わたしの生活には幸福のみあり』といえるようになりました。」

彼はここまで言うと「すべての問題解決のカギはここにある。君もこれを読んで幸せになって下さい」といって去った。

その本がこの本書です。

本書には心の力をいかんなく強め、すべてを解決する力を掌中におさめる方法が、わかりやすく書かれています。

6072a hope:2016/01/17(日) 10:06:25 ID:cEpBaIdo

>>6071 a hope 所感)

わたしは「生命の實相」のカバーの帯の部分の紹介文を読んでも感動し、啓発されてしまいます。(笑)

実相世界を完全に悟っていないわたしたちは、この現象世界で魂を生長させるために色々な問題にぶつかりながら生きて行く宿命を背負っているのだと思います。

でもどんな困難な問題にぶち当たっても、わたしたちには「生長の家の教え」がありますから大船に乗っているような気分ですよね!

人間知ではどうにもならない現象問題に心を煩わせたり、歎いたりしている時間があるのなら、
その代わりに1ページでもいいので聖典「生命の實相」の言葉を拝読したほうが問題はすみやかに解決に向かうのではないかと感じています。

今年もこのトキ掲示板で聖典「生命の實相」の輪読会であるweb誌友会を続けさせていただけることに、心より感謝しています。

合掌。

6073a hope:2016/01/17(日) 10:10:56 ID:brQxC10.

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第39回 web誌友会 案内

期間   平成28年1月17日〜2月29日まで
テキスト 「生命の實相」第24巻 参考篇 / 質疑篇
内容   心が肉体に及ぼす力 / 真理の応用および拾遺

     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

6078a hope:2016/01/18(月) 09:38:55 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第24巻 p7 後から2行目〜

「文化高き」と称するところのわれわれにはぐくまれた最も不幸なる事柄は、自己の内に宿っている自然療能の力を信じなくなったということである。

われわれの住んでいる大都市ではあまりにも病気治療の設備が多いのである。

自然、われわれは病気を予想し、病気を予期し、その結果、心の法則にしたがって病気となってしまうのである。

辻から辻までの間に一軒、少なくとも二辻につき一軒の医院がある。

薬局はどの辻にも看板を麗々しくかかげている。

ちょっと病気らしい兆候があらわれたら来いとばかりに医者と薬やとが誘惑している。

それでわれらは外部の助けにいっそうたよりたがるようになり、内在の療力(なおすちから)が麻痺してしまって肉体の不調和を自力で治すことができなくなるのである。


文化低き時代には、小さな町や村には医者がめったに姿を見せなかった。

それで住民は内の癒力(ゆりょく)に頼って何物にも外物に頼らず、強壮で、強い抗病力(こうびょうりょく)を発揮したのである。


すぐ医者を呼ぶような家庭では、その家庭に育つ子供の健康はみじめな状態になりやすい。

これは医者が来るということによって子供に「自分は弱い」という暗示をかなり強く与えることになるのである。

ちょっと子供の加減が悪いようだとすぐ医者を呼ぶような母親が非常に多いがその結果、その子供の心の奥底には「病気」「医者」「薬剤」などの観念が刻みこまれることになり、生長してからも、その全生涯に影響を与えるものである。


やがて、小児と薬剤とは実に不一致な組み合わせだということが考えられる時代が来ると思う。

小児は愛の暗示のうちに、真理の暗示のうちに、調和の暗示のうちに育てるべきものである。

6079a hope:2016/01/18(月) 09:40:41 ID:cEpBaIdo

>>6078 a hope所感)

いったいどれだけの生長の家の信徒が「肉体は心の影である」という真理を体得しているのでしょうか・・・?

わたし自身は聖典の真理は信じていますが、病気になれば(ほとんどなりませんが・・・)すぐに病院に行き治療を受けます。

自分の病気は過去のわたし自身の悪しき心の影響、もしくは他者からの悪念波の影響で起こることですから、
その自分の悪しき心を直せば、もしくは他者からの悪念波を受けないような良い波動を自分が発すれば病気も治ってしまうことは頭ではわかっているのですが、
わたしの今の信仰状態ではそう簡単に自分の心をコントロールできないこともわかっていますので・・・(;´∀`)

それに、谷口雅春先生も真理の実践の強制はしていなかったと思います。

現在のわたしの信仰状態や悟りの深さでは、もし病気になったらなら医者の治療を受けながら、
「生命の實相」を拝読して真理を悟り、自己内在の治癒力を高めていくというのがベストな方法だと思っています。

6081a hope:2016/01/18(月) 11:54:06 ID:cEpBaIdo
>>6080

最初から、コメント欄に投稿していれば削除もされず、意見交換も可能なのに、
掲示板の規則と秩序を守らない方から、わたしがそのようなご批判を受ける筋合いはありません。

トキさま >>6080 とこの投稿の削除をお願いいたします。
今日はこれから出勤ですので、今後もweb誌友会板に同じような投稿がありましたら削除してください。

6084a hope:2016/01/20(水) 09:47:22 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第24巻 p9 7行目〜

神は決して彼の愛もて造りたるものを、ただの偶然の暴威や、運命の残忍の手にゆだねて放っておくものではない。

神の造り給いし子供らの生命、健康、幸福は、外部的治療薬の上に万一を慮(おもんばか)ってぶらさげておいては決してないのである。

人間の生命、健康および幸福は、たまたま付近に薬になるべき植物や鉱物が見出されると見出されないとで影響をこうむるようには決して造っていないのである。


神は極小部分の人類しか発見できないような地球の遠隔地にある雑草や鉱物の中に人間を癒やす薬をかくしておいて多数の人間がそれを知らずに死んでしまうような不合理なことはしておくまいと思われる。

人間の病気その他の不幸を癒やす薬をいつまでもすぐ間に合うところの人間の内部に――彼自身のうちに――置いたという考え方がいっそう合理的ではあるまいか。


人間ひとりひとりの内部にはかくれたる力、破壊不能の生命、尽きぬ健康の泉が潜んでいて、それが発揮されれば、われらのあらゆる傷を癒やし、われらのあらゆる不幸を治す薬剤となるのではないか。

6085a hope:2016/01/20(水) 09:49:01 ID:cEpBaIdo

>>6084 a hope所感)

思えば、「生命の實相」に出会う前のわたしは、精神世界には目覚めてはいましたが、
生きとおしの生命や金剛不壊の実相、というものをよく理解してしませんでした。

ですから、自分や家族が病になれば、某大学病院の名医だとか、あるいは気功の名手だとか、アメリカンインディアンの秘薬だとか・・・
常に外部の何か特別に有効そうな何かに頼ってしまうことがとても多かったです。

現在であっても家族が病気になれば普通に病院に連れて行きますし、自分自身も仕事の健康診断で結果が悪ければすみやかに治療を受けています。

それは「病気になったら医者に行く」という、現代の日本社会の常識(集団意識)に逆ってまで、
『真理』を証明する自信もありませんし、その必要も感じないからです。
 
それに、「ねばならぬ」がないのが「生長の家の教え」ですものね!

特別なことをしなくても、普通に今の生活をしながら信仰(聖典拝読)していれば、いつかは必ず『真理』を悟ることができるのが、
「生長の家の教え」だとわたしは思っています。

追伸・・・
「生命の實相」の『真理』に対する肯定的なご意見、もしくはわたしの解釈が違うのではないかというご意見等は大歓迎ですが、
「生命の實相」の『真理』自体に否定的なご意見のご投稿はこのweb誌友会板にはご遠慮ください。(コメント板にご投稿ください。)

6086a hope:2016/01/24(日) 12:06:50 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第24巻 p24 5行目〜

ごく最近聡明な一婦人にあったところ、彼女は雑誌小説から受けた憂鬱な暗示のために、その日半日以上まるで病気にでもなっていたといった。

その小説は有名な作家の書いたもで、優麗な筆で残忍な事件を描写してあった。

その強き筆致の印象が彼女の心の底にあった病的層に触れて彼女をすっかり病気にしてしまったのであった。


医科の学生が解剖実験室で受ける恐ろしい暗示作用や、病気のことをたえず研究していることからくる恐怖的影響のために病気になることはよくある例である。


これとは逆に、たえず愉快な、希望に満ちた、健全な思考が、肉体に好影響を与えて、病弱をも健康に甦生(よみがえ)らすことができることは当然と言わねばならない。

病者の心は多少ともどちらといえば弱くて、主観的で、消極的である。

そしてまた感じが非常に強くて善悪とも暗示に非常に感化されやすいのである。


これに反して健康者の心は自主的な積極的な自己創造的な態度であって、暗示に対して反発力が強く、病的な思想など吹っとばしてしまうのである。


誰でもたいていはその人が病気の際に、愉快な楽天的な知人から見舞いを受け、希望と勇気とを心のうちにつぎこまれて急に気分が快活になり、その時から病気がよくなるような光明を受けた経験をもっているであろう。


またわれわれは、その病気の際に憂鬱な悲観した気の晴れない見舞客に接すると、自分もまた光明を失っていっそう暗い気分に誘われた経験があるであろう。

6087a hope:2016/01/24(日) 12:08:30 ID:cEpBaIdo

>>6086 a hope所感)

その人(作品・文章)の思想が、「光明思想」であれば、出会った人は希望や喜び、生きる力の影響を受けて健康になる・・・、
反対にその人(作品・文章)の思想が「暗黒思想」であれば、出会った人は希望を失い、陰鬱になり、生きる力を奪われて病気になる・・・


昔と違って、現代の過剰情報化社会では、わたしたちはいろんな「思想」に簡単に触れることができます。

例えば、インターネットで「光明思想」と検索しただけでも2,750,000件もの情報が飛び込んできます。(嬉しいことに、生長の家関係の記事が多いです!)

そういえば、「生長の家の教え」を信仰しているわたしたちは、常に、「愉快な、希望に満ちた、健全な思考」を持ち続け、人類を光明化することが使命なのでしたね・・・。


<<病者の心は多少ともどちらといえば弱くて、主観的で、消極的である。
そしてまた感じが非常に強くて善悪とも暗示に非常に感化されやすいのである。
これに反して健康者の心は自主的な積極的な自己創造的な態度であって、暗示に対して反発力が強く、病的な思想など吹っとばしてしまうのである。>>

心が健康であれば、どんな「暗黒思想」に出会おうとも影響を受けることはないのですね。

テキストを勉強していると、心の健康を保つことの重要性をとても感じます。

6088a hope:2016/01/30(土) 00:12:38 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第24巻 p36 

不老長寿の秘薬は「心」にあるのであって、ほかのどこにもない。

若く見せようとして若々しい着物を着、若々しい化粧をしたからとて若くなるものではないのだ。

何よりもわれわれはまず自分は年をとりつつあるとの心の念(おもい)を打破らなくてはならぬ。

年をとりつつあるとの念(おもい)が心のうちに根をはっている以上若々しい衣装や化粧が肉体を若返らす力はほとんどないといってよいのだ。

信念をまずかえねばならない。

年齢を肉体に彫刻した念(おもい)をまずくつがえしてしまわねばならぬのだ。


自分は若いのだ!

かく感ずる永遠の若さの信念をもて!

この信念をもつときすでに諸君は老齢との戦いに第一塁をおとしいれたのである。

これを信ぜよ――年齢について自身が心にいだく念(おもい)はすべて肉体にあらわれてくるものであるということを。

肉体は心の習慣的念(おもい)、習慣的感じのあらわれであるから、あなたが今までどんなに長らくこの世に生きながらえてきたからって、遠慮なしに自身を若いと思え。

これはあなたが永遠の若さをいつまでも失わぬようになるために非情な助けとなるのだ。

神は永遠に若い。

神の子は永遠に若くてよいのだ。

晴々した、陽気な、楽天的な希望をもった、愉快な青年のすがたを輝かしく描いて、それを自分自身であると思え。

青年の持ちまえである若々しい夢と理想と希望と、あらゆる輝かしい若さを自分自身のものであると思え。

この考えほど自分自身の年齢の歩みを遅らすものはないのだ。

6089a hope:2016/01/30(土) 00:17:10 ID:cEpBaIdo

>>6088 a hope所感)

<<若く見せようとして若々しい着物を着、若々しい化粧をしたからとて若くなるものではないのだ。>>

これは、ほんとにそうだな〜と感じることが多いです。

わたしも気をつけたいのですが、ある程度の年齢がいった女性が(男性もですが)外見だけがんばって若作りしているほど痛いものはありませんよね・・・(;´∀`)

内面の若々しさがある人って、どんな服装をしても、すっぴんでも若く見えてしまいますよね。

よっしゃ、聖典よんで、神想観して、わたしの内面革命がんばろうっと!

6090a hope:2016/01/31(日) 11:03:39 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第24巻 p41

「わたしは舞台に立って芝居の客に台詞(せりふ)を聞かすと同じように、年齢にむかってこう叫ぶのである――『年齢よ、おまえがいかにさからうとも、わたしは汝を征服する!』と。」

諸君はここに永遠の若さを保って決して老いざりし世界的名女優の魂の叫びを聞くのである。

彼サラ・ベルナールを知れるものは、年齢に対するこの彼女の挑戦が、ただ豪語でないことを決して疑わなかったであろう。

サラ・ベルナールは六十歳のときなお生き生きした若さを失わず、四十歳を一日も越したようには見えなかったのである。


マダム・バーンハードその他の麗人たちが年齢よりわかく見えていたのは、特に彼らに対してのみ自然の恩寵が深かったというわけではないのであって、それは彼ら自身の年齢に対する心の態度に原因するのである。

彼らは年齢をして容貌にその皺をふるわすことを断固として拒絶したからではないか。

彼らは普通の意味では年寄りにならないことを心のうちに宣言したのだ。

(略)

諸君よ、自己自身の神性を自覚せよ。

人間の生命は「二二ンが四」を支配している数学の法則のように不滅であることを自覚せよ。

如何なる人生の事変も、労苦も、艱難も、自己の本質であるところの不滅の部分には触れることができないことを自覚せよ。

人間の生命は無限の創造活動をつづけているところの宇宙生命の一部分であるということを自覚せよ。

かくのごとき聡明なる自覚に達するならば、彼は決してなお壮年時代の若さにおいて精神力と肉体力の衰退を来すべきはずのものではないのである。


諸君よ、年齢をして断じてその醜悪なる鑿(のみ)のあとを刻ましめないと決心せよ。

しかして心に絶え間なく「吾れ若し」という暗示を与えて肉体の老衰を防止せよ。

人は極力かくのごとき心的努力を払わないかぎりは、人類全体のもつ「老衰」するという心的習慣に打ち負けて、いつまでも容貌にも精神力にも若さを保たせておくことはできないものである。

普通われわれは青年時代にすでに年齢の観念を心の世界に種蒔きはじめる。

そして四十五歳にしてその種の芽生えを見、五十歳にして老年の坂を下るとはなんたることぞ!

6091a hope:2016/01/31(日) 11:04:26 ID:cEpBaIdo

>>6090 a hope所感)

「生長の家」の教えって、ホント常識外れのすごい教えですね。(@_@)

だって、わたしたちに「人類全体のもつ心的習慣に打ち勝って、人類の常識を破りなさい!」と〝 喝〝 をいれてますものね。

これは、唯物論者には受け入れがたい「教え」ですね・・・絶対に・・・。

6092a hope:2016/01/31(日) 11:46:43 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第39回 web誌友会 案内

期間   平成28年1月17日〜2月29日まで
テキスト 「生命の實相」第24巻 参考篇 / 質疑篇
内容   心が肉体に及ぼす力 / 真理の応用および拾遺
     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

今日が今月の最終日ですが、2月末日まで第39回web誌友会を続けて開催させていただきます。

みなさまのご参加を心よりお待ちしています!

6093トキ ◆UMw6UoGELo:2016/02/01(月) 21:05:21 ID:VYinVpl.
>>6089

 真剣に行じておられる白鳩さんは、ご高齢になっても、品のある人が多かった思います。
内面からの美しさというのは事実だと思います。

6094a hope:2016/02/03(水) 00:28:22 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第24巻 p60 2行目〜

諸君よ、暇あるごとに、ポカンとしている一分間の暇に、電車の座席に座るごとに、本当に理想的な完全さを備えた自分自身の相(すがた)を心に描け、健康そのものの姿において、若さそのものの姿において、力そのものの姿において、自分自身を心のうちに思い浮かべよ。

健康を思え。

男は「永遠の男性」とも言うべき最も理想的な男性の姿において、女は「永遠の女性」とも言うべき最も理想的な女性の姿において、最も完全な自分自身を心に描け。

この最も善い方法が神想観である。(頭注版・携帯版八巻「観行篇」参照)

6095a hope:2016/02/03(水) 00:30:06 ID:cEpBaIdo
>>6094 a hope所感)

神想観とは「神さまを想い観ずる」と書きますね。
最近、生長の家総裁である雅宣先生が、FBにとても信仰深いお言葉を載せてくださっているので紹介させていただきます。

『「自分は独りで孤立していると感じるとき、「神さま」と呼びかけて神の御徳を観じよう。そして、「私はあなたの知恵と愛と命の表現者ですから、すべてと一体であり調和しています」と深く何度も念じよう。」

『自分を無力だと感じるとき、空を見上げ、胸をはって「神さま」と明るく呼びかけよう。そして、「私はあなたの無限の力のただ中にあります」と何度も唱えよう。』

『心が波立ち騒ぐとき、端座瞑目して「神さま」と静かに念じよう。そして、「私は魂の深奥において、あなたと一体です」と繰り返し唱えよう。』

どれも素晴らしい「神想観」だと感動しました。

6096a hope:2016/02/07(日) 10:10:16 ID:cEpBaIdo

『生長の家』信徒行持要目

一、 天地一切のものに感謝すべし。

皇恩に感謝せよ。汝の父母に感謝せよ。汝の夫又は妻に感謝せよ。汝の子に感謝せよ。汝の召使に感謝せよ。一切の人々に感謝せよ。天地の万物に感謝せよ。


二、 そのままの心を大切にすべし。

そのままは零なり、一切なり、〇なり。円満なり、無礙なり、無限供給なり、調和なり、病なきなり、一切の不幸、災厄、病難はそのままを外したるときあらわれるなり、顧みてそのままの心に復(かえ)るとき、一切の不幸は滅す。


三、 何事にも真心を出すべし。

憂患は外界より来るに非ず。真心顕れざるを憂患と言う。内に真心なきに非ず。それを顕さざるに過ぎず。真心とは全心なり、全力なり、一生懸命なり。『今』を生かすなり。真心あらわすとき、直ちに此処が天国浄土と化するなり。


四、 一切の人に物に事に行届くべし。

真心顕わるれば自然一切の人に、物に、事に行届くなり、人には必ず深切なるべし、和顔なるべし、声やさしく愛語すべし、如何なる小事にも行届くことを心掛けよ、若し行き届かざることあらば弁解すべからず。真心を顕わすことを怠りたる自分の罪なりとして懺悔すべし。

五、 常に人と事と物との光明面を見て暗黒面を見るべからず。

暗黒面を見る心ある時、その人に暗黒あらわるるなり、光明面を見る心ある時、その人に光明あらわるるなり。人に陰にて誹るべからず。善き面を見つけて賞賛すべし。凡て事と物とに不平言わず、感謝すべし。


六、 常に自我を死に切るべし。

常に肉体本来なく、物質本来なく、自我本来なく、唯神の生命、今此処にあらわれて生くると思いて感謝して作務すべし。


七、 人生を神生となし常に必勝を信じて邁進すべし。

自我を死に切りたるとき、既に『我』なく神の生命のみ生くるが故に、決して失敗を予想せず、明るき心にて日々の業務に獅子奮迅(ふんじん)すべし。失敗と見ゆることも真の失敗に非ず。樹は落葉したるうちに春の花の用意整いつつあるなり。


八、 毎日一回は必ず神想観を実修して、心を光明化すべし。

『菩薩何を為すべきか』より

6097a hope:2016/02/07(日) 10:14:42 ID:cEpBaIdo
>>6096 a hope所感)

テキストの内容から外れますが、何をすることが「生長の家」を信仰するということなのか、わからなくなったので、
『生長の家』信徒行持要目と、その解説を謹写してみました。

これが、「菩薩」つまり、わたしたち「生長の家」の信徒の為すべきことでしたね!

あらためまして、素晴らしい「生長の家の教え」に出会えたことに心から感謝します。合掌。

6098a hope:2016/02/10(水) 00:13:04 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第24巻 p88 後から3行目〜

二、現象なしの自覚について

(問)―― 病はないということはない。病は現象としてあるのである。それはただ実在ではないのである。
それを「病なし」と言いきるのは言いすぎである。現象は無いことはない、現象を全否定してしまうのはまちがいである。
現象は本体的実在ではないことはもちろんであるが、本体展開して現象となるのであって、現象なしと言いきってしまうのは奇矯だと言う人があります。(中根氏出題)


(答)―― 生長の家では「現象は実在ではない、病は実在ではない」という言葉を各所のページで説いておりますが、また時には、非実在と書いて「あらず」とか「ない」とふりがなをつけたところもあります。

が、近ごろはいっそう平易なわかり易い言葉で、直截的(ちょくせつてき)簡明に『病気はない』『現象はあるようにみえてもない』と力強く言いきることにしているのであります。

わたしがなぜこう言うかは悟った人は知っていると思います。

われわれが平常使っている言葉は、現象界を言いあらわす言葉であって、実相に直参する言葉ではありませんから、その言葉をそのまま利用して、至妙の実相に直参せしめるためには、ふつうとちょっと違う「奇妙に見えるかもしれない」言葉を使うのであります。

言葉は月を指す指であって、言葉の表現にとらわれていては、月を指す指の形が太いとか細いとか議論していると同じで、いつも月が見えないことになるのであります。

6099a hope:2016/02/10(水) 00:14:17 ID:cEpBaIdo

>>6098 a hope所感)

まことの「真理の言葉」というのは、“悟った心”で書かれていますから心に響き気持ちが明るくなりますね。

6100a hope:2016/02/13(土) 08:51:39 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第24巻 p91 8行目〜

生長の家で、「現象は無い、肉体は無い」とハッキリ「無い」と言いきることに反対する人に二種類あります。

その一説は、色即是空の「空」という字は単に「ない」という言葉と異(ちが)う、アルにはアルのであって何かアル、それは実在でないというだけだ、と言う人であり、その二は「諸法実相」という仏教上の言葉を「現象即実相」と解する人であります。

ところが、仏典には「空」をハッキリ「無し」と断言してあるところもあります。

『般若心経』にも「五蘊皆空」と書いてあって、その「空」を説明するためには、「色受想行識もまた無し」とか、「老死無し」とか、「老死の尽くることも無し」とか、仏教でもやはり「無い」という言葉を持ってきて説明するほかに仕方ないのであります。

「老死」すなわち老いたり死んだりすることは現象でありますが、『般若心経』には「老死というものは単に無いのではない、現象としてはあるのである」というように、長たらしい緩慢な表現の仕方をしてないので、端的に簡明直截的に「老死無し」と一喝し、始めから人間に老死は無いのだから、これから悟って無くなるというようなものでもないという意味をふくめて「老死の尽くることも無し」と言っているのであります。

『般若心経』の用語などでも「空」とは単に無とはちがうというような批評をせられる人から見たら、「老死なし」というのは言葉が奇矯である。

老死は実在に非ずと言わなければまちがっている。

もし「老死無し」というような奇矯なことを『般若心経』に書いたら人心を惑わすものであると経文の結集者抗議を申し込まねばならぬのでありましょうが、その当時は言葉に引っかかる人がなく、用語がまずくても経文の神髄をつかむ人が多くて、その経を読んでも気狂(きちがい)になる人もなく、かえって気狂が治るくらいで、今に到るまで、この経文が改竄されたということを聴かないのであります。


実際に『生長の家』を読んで「不完全な現象はあるように見えてもないのだ」また「ただ至妙の実相のみがあるのだ」と教えられても、続々と病気が治る、環境が治る、経済状態がよくなる実例があらわれるのはなぜでしょうか。

はたして「現象はない」「病気はない」「不幸はない」等々……というふうに「ない」という言葉を使うことが、不適当なのであれば、そういうよい結果が起こることはありません。

6101a hope:2016/02/13(土) 08:54:23 ID:cEpBaIdo

>>6100 a hope所感)

「物質なし」「肉体なし」「悪なし」「病なし」「死なし」・・・「現象なし」と『実相』以外の現象すべてを「なし」と言いきるのが、
まことの「生長の家の教え」ですね。

でもこのことは「生長の家」の教えを知らない一般の人が聞いたら、きっととても奇矯に聞こえてしまうのでしょうね…。


ですが、

「病なし 迷いなし 罪なし これが生長の家の根本真理であります。それでは神さま ただいまより眠らせていただきます。」

とご昇天の直前に、谷口雅春先生は言い遺されました。(最期のお言葉)

この「生長の家の根本真理」を信仰するのが、まことの「生長の家」の信徒の姿ですよね!

6102a hope:2016/02/18(木) 00:11:55 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第24巻 p97 2行目〜

薬剤に併用禁忌(きんき)の薬があります。

たとえば鉄剤を飲んでから、タンニンを含有するものを飲むと、鉄とタンニンとが結合して、吸収不能のタンニン鉄になるのであります。

生長の家で「病気はない、老死はない、あるように見えても現象はない」と言いきるところに飲み易い(無学者にも解り易いの意)美妙な言葉の鉄剤となるのですが、その「ない」という言葉に茶々を入れる批評を読むときには、その「茶々」の中にはタンニンが含まれていますので、そのタンニンがせっかくの「ない」という言葉の鉄剤と結合して吸収不能のタンニン鉄となり、読者の心に「無」の字の吸収を不完全ならしめ、心の鉄剤の効果を薄めますので、わたしはこれを避けたいと思っているのであります。


近ごろ、生長の家思想の有名なると効果の顕著なるにつれて、その全体の思想を踏襲して包装や名称だけを加えて、一旗あげてみようとし、かつあまり同じことを書いても受け売りであると一見わかるので、同じ意味を異なる文章で書き表し、「何々会」等という別意の名称で雑誌などを出される方がありますが、そういう雑誌の文章は「無」の字の言葉の調合法がちがうので、わたしの処方した「言葉の鉄剤」に「茶々」を入れることになります。

茶々を入れられるとその人の心のうちで、「無」字のバランスがこわれるので『生長の家』を読んで万事好転していた人がその種の雑誌を併用したために「無」字の鉄剤の吸収率が鈍ってふらつく人があります。

そうしてその種の、雑誌の現象はあるとかないとか論じてある文章を読んだ日には、心のバランスが破れてなんとなく不安で、会社にいても思うように仕事が運ばなかったり、集金が集まらなかったり、ついぞ起こらなかった歯痛が起こってきた人などもあります。

「無」を説くのは仏教でも、一燈園でも説いている。

キリスト教でも解釈の仕様によれば「無」を説いているのです。

生長の家と、それらの宗教とどこが違うかと言いますと、「無」字の扱い方が「ない」と易しく言いきって、その「ない」がわたしの文章全体の流れの上に巧みに効果的に織り混ぜられていて、古今に多く類例を見ないような、読む人のこころに端的に作用して、病を即座になおすほどに心の開放を与え、「無」を説くとも隠遁的にならず、かえって積極的な活動力を与える点にあるのであります。

6103a hope:2016/02/18(木) 00:16:47 ID:cEpBaIdo
(a hope所感)

実はこの部分の文章は、5年ほど前に「本流宣言掲示板」で山科さまが紹介してくださっていました。

そしてそのスレッドを拝見したわたしa hopeがコメントし、その後、山科さまからご指導いただいています。

当時のわたしがなぜ、「生長の家」を信仰していたのにもかかわらず、精神不安に陥ったり、体調を壊したりしていたのか、
その原因がハッキリとしたとても重要なご指導でしたので、あらためまして紹介させていただきます。 

http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=383&submitlog=383


ところで、先日、三重県の練成道場で、とても悲しい事件が起きましたね。

本来なら、「神の子」の実相が顕現して精神不安や病気が治ってしまうハズの練成道場で、なぜ、今回のような事件が起きてしまったのでしょうか?

聖典「生命の實相」の中にちゃんと答えが書いてありましたね。


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