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Web誌友会 板/2

1トキ:2013/01/20(日) 11:50:32 ID:UVsStHb2
「今の教え」と「本流復活」を考える・「web誌友会」 板 です。

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管理人「トキ」 敬白

5705純粋教理批判:2015/09/20(日) 23:13:52 ID:DD4jWV6M
「多元的宇宙」がマルチバースをいっておられるのであれば、わたしがいっていることとは無関係です。それとも量子力学の多世界解釈をいっておられるのでしょうか。もしそうであればこれもちがいます。多元的宇宙とはなにをいっておられるのでしょうか。パラメーターの数をいっておられるのでしょうか。

わたしはDブレーンについて語っております。もちろん専門的な知識があるわけではありませんが、理論物理学者のマルダセナによればDブレーンにおける、おそらくはひもどうしの相互作用によってホログラム映像がつくられる可能性があるということです。

ホログラム映像がつくられるとして問題は誰がそれをみているのかということです。ホログラム映像は人間の映像をつくりだすはずですが、こうした映像人間がホログラムをみている可能性はないということです。ではいったい誰がみているのか、トキさんはいかがお考えになられますでしょうか。

もちろんホロクラム映像はドリーミングボディ(大日如来)がつくりだす夢のようなものであるはずなので、トキさんがいっておられるように実体はもちろんないものと考えます。

いずれにしても問題は、誰が何をどうやってみているのかということです。理学部出身のトキさんにはぜひともこのあたりの見解をお聞かせねがいたいものです。雅春先生の御文章ではこのあたりがまったく語られておりませんので、できれば雅春先生の御文章にもとづいた見解をおねがいいたします。

5706トキ:2015/09/20(日) 23:27:48 ID:Uri1CqDQ
>>5703

 追伸です。

 難しい論考ですが、宇宙の中心が自分である、というのは、おそらく認識の場では
そうなんだと思います。多元的な宇宙観というか、宇宙のあり方については、まだ確定的
な定説は存在しません。しかし、仮にそれを前提にして考えます。そこで、多元的な宇宙
をマルチバースと呼ぶ事にすると、マルチバースが存在するような空間が存在するとし、
そういう場所がある以上は、そこに中心はあり得ます。それは、おそらくは宇宙意思とも
言うべき存在でしょうが、宇宙意思と密接に繋がっている以上は、確かに、それをもって
宇宙の中心と考える事は可能だと思います。

 しかし、それをもって、宇宙全体と考えるのが適当か、どうかは私は違うような印象は
あります。もちろん、それは否定するまではいきません。考えようによっては、宇宙の
中心でもあり、宇宙全体とも考える事も可能だと思います。

 要は、人間が三次元というレベルで宇宙を表現する以上は限界があり、それはそれで
仕方がないです。その上で宇宙を表現しようとすると、やはり齟齬は生じるのかもしれ
ませんね。

 ただ、それをもって、宇宙の中心である、ということを否定するまでにはいかないと
思っています。

5707純粋教理批判:2015/09/20(日) 23:34:11 ID:DD4jWV6M
雅春先生の御文章は最初のほうだけを読むと現象宇宙について語っておられるようですが、最後のところではいきなり実相宇宙の話になっております。いったいどの宇宙の話をなさっておられるのでしょうか。

また「映像が映像をみている」は三次元に限定されるとのことですが、これを多次元に拡大した場合にはどのような考え方がふさわしいとおもわれるのでしょうか。後学のためにもぜひともご教示ねがいたいところです。

それとマルチバースではなく今あるこの宇宙、ユニバースに限定して話をすすめていただければとおもいます。

5708トキ:2015/09/20(日) 23:38:54 ID:v4x/1O0A
>>5705

 先の投稿は、5704の投稿を拝見しないままだったので、失礼をしました。
純粋教理批判様の言われている事がまだ理解をしていませんので、的外れな点はお許し下さい。

 イメージとしては、私は、スパコンの中の世界が近いのではないか、と想像しています。
スパコンで、生命体の生理作用をシュミレートしたり、気候変動のシュミレートをしたりします。
外部に見せる時にはモニターには映し出しますが、部内で情報を処理する場合では、そういう事
は一切しません。精密講習会で、谷口雅春先生は、実相世界とは具体的な世界だ、と言われてい
ましたが、スパコンの中の情報に近いものが、実相世界のようなものではないか、と想像をして
います。

 谷口雅春先生がそれについて語られているか、という点は私は知らないのですが、おそらく
ご存知であっても、それほど語られていなかったという予感はあります。

 明日は早いので、今日は寝てしまいますが、難しい問題なので、少し思案します。
ご投稿に深く感謝申し上げます。

5709純粋教理批判:2015/09/21(月) 08:12:23 ID:DD4jWV6M
わたしの記憶では、マルチバースはインフレーション理論でもあったはずですが、この理論は旧ソビエトの科学者が考えていたもので、したがって西側に知られたのは冷戦終結後ですから、雅春先生がマルチバースについて語っておられる可能性はないとおもわれます。

話をユニバースに限定いたしますが、わたしが問題にしておりますのは、ユニバースのホログラムはひとつなのか複数なのかということです。雅春先生はひとつであると考えておられるようです。

ひとつとすると、人類はホログラム宇宙(ユニバース)にあらわれたホログラム映像ということになってしまいます。それぞれの人がホログラム映像ということになります。雅春先生はホログラムとしてあらわれた映像人間を宇宙の中心といっておられることになります。

ここで問題が生じます。このホログラム映像をみているのは誰かという問題です。この考え方ですと、それぞれの映像人間がホログラムをみていることになります。ホログラムとしてあらわれた映像人間がホログラム宇宙をみていることになります。これがわたしのいう「映像が映像をみている」状態です。

映像が映像をみる。これはありえない。それぞれが宇宙の中心とされる雅春先生は「映像が映像をみている」といっておられることになります。

5710純粋教理批判:2015/09/21(月) 09:36:09 ID:DD4jWV6M
わたしは宇宙はひとつでもホログラムは複数であると考えます。70億の人類がいれば70億のホログラム宇宙があると考えます。ここが雅春先生とのちがいです。

ホログラムをつくりだしているのは人間です。人間が大日如来です。

5711トキ:2015/09/21(月) 10:40:56 ID:1YpTHrO6
>>5710

 お返事が遅れてすみません。

 今、思い出したのですが、10年以上前、新聞に変わった死亡広告を出した人がいました。

 趣旨は、確か、

 「自分は無宗教であす。だから葬式はしない。と、同時に、今、見えている世界は自分が存在する
限りは見えているが、自分が死んだら消滅するのではないか、という疑問をいだいている。それを検証
したいので、自分が死んだら、自分がこういう事を考えていた、という広告を新聞に出すようにと、私
の家族に遺言として残した。」

というものだったと記憶しています。

 どうやら複数の新聞に掲載されたみたいで、中外日報が後日、記事にしていたのも読みました。
宗教という観点から、参考になる内容だったのでしょう。

 私がそれを読んだ、という事は、ホログラムの世界が単一である、という証明にはならないが、一つ
の資料にはなるかもしれません。(笑) どなたか、お時間のある人は中外日報や他の新聞社に尋ねて
みてください。

 上の話は、ホログラムが複数あるという考えは、昔からあった、ということでしょう。
でも、その証明は容易ではない、ということも示すものだと思います。

 それはともかく、天使の言葉の中には、「百万の鏡をおけば 一個も百万の姿をあらわす」という
言葉があります。谷口雅春先生が、ホログラムが一つなのが70億なのか、という点については、おそら
くは、その中間のような理論をお考えではなかったのではないか、と勝手に想像をしています。「一即多」
ということがそれではないかと考えています。

5712純粋教理批判:2015/09/21(月) 11:06:46 ID:DD4jWV6M
誤解があるようです。70億の人類が70億の宇宙をつくっているとすれば、個人がつくりだしているホログラムはそのうちのひとつにすぎません。これが消滅したところでほかの人たちがつくりだしているホログラムが消えるわけではありません。

5713純粋教理批判:2015/09/21(月) 16:09:18 ID:DD4jWV6M
宇宙がただひとつのホログラムでできているとすれば、あるひとりの超越者によってそのホログラムはつくられたことになります。人間もまた超越者によってつくられたホログラムのひとつということになります。

超越者によってつくられた映像に人間の意識がやどった、それが宇宙の中心としての人間である、とするのが雅春先生のお考えのようにおもわれますが、このようなモデルで映像に意識がやどる仕組みが説明できるでしょうか。人間の持つ多様な要素が説明できるでしょうか。人間関係がなぜ生じるのか、その仕組みを説明できるでしょうか。

たとえば脳には複雑な機能がありますが、それらの機能がいかにして映像に組み込まれたのかの仕組みがこうしたモデルでは説明できないでしょう。ただひとつの可能性は、超越者ではなく人間が共同でひとつのホログラムをつくりあげた、とする可能性であるとおもわれますが、これでは肝心の映像が個人を離れたところにつくられてしまい、人間は離れた場所からそれをみているだけ、ということになりはしないでしょうか。

ホログラム宇宙は人間のなかにつくられなければならない。人間は宇宙の中心でなく宇宙の作り手である。ホログラム宇宙は人間のなかにある。これがわたしの考えです。

5714純粋教理批判:2015/09/21(月) 16:12:51 ID:DD4jWV6M
ホログラム宇宙が人間のなかにあるとするのは独我論ではないか、との批判をうけそうですが、もちろん独我論ではありません。独我論であれば「自分だけが宇宙をみているのではないか」といった不安をまねきかねませんが、わたしがいっているのはこういうことではありません。

宇宙にはただひとつの実体があります。その実体における出来事を人間は、各人がつくりだしたホロクラム映像で体験している。わたしがいっているのはこういうことです。

実体?それはイデア論だ!いえいえ、ちがいます。

ここでいう実体とはDブレーンです。Dブレーンは平面ということにしておきましょう。このDブレーン上に平面世界がある。ご存知のようにこれがブレーンワールドです。人間は平面世界であるブレーンワールドの出来事や体験をホログラム映像へと変換することで立体的世界をつくりだしている。わかりやすくいいますと、ブレーンワールドの出来事はそのままでは体験できないので人間はそれを立体化して体験している。これがわたしの考えでありますので独我論とはまったく関係がありません。

新聞広告の人物は独我論に陥っていたのでありましょう。たしかにこういう考え方なら古くからあります。トキさんは、わたしの考えをこれと同列のもとみなされたようですね。

5715純粋教理批判:2015/09/21(月) 16:45:28 ID:DD4jWV6M
ブレーンワールドの出来事はカオスそのものです。これを立体化したところでカオスはカオスです。カオスをコスモスへと変える必要があります。言葉の出番です。言葉にはカオスをコスモスへと変える力があります。

「カワ」と呼んだことで川があらわれた。カオスがコスモスへと変わる瞬間です。言葉がカオスをコスモスへと変えた瞬間です。言葉がなければ人間はカオスをコスモスへと変えることができません。カオスを「カワ」と名づけた瞬間から人間はコスモスの世界の住人となります。

5716純粋教理批判:2015/09/21(月) 16:58:03 ID:DD4jWV6M
「物質はない」は絶対的真理でもなんでもありません。すべての物質は言葉でつくられています。ないのがあたりまえです。

5717トキ:2015/09/21(月) 18:22:31 ID:1YpTHrO6
 用事で出かけていました。

 Dブレーンについては私は詳しく知らないので調べている段階ですが、ある特殊な
状態で存在するものみたいです。議論されているのは、例えば、10次元とか23次元
とかの存在を前提にしている場合、人間が3次元以上の存在を認識できない理由がまだ
説明ができていないみたいです。ただ、それを現象か実相か、と言うと、私の個人的な
解釈では、やはり現象の世界になると思います。もちろん、実体を現象と理解したら、
純粋教理批判様のおっしゃる通りになるのかもしれません。

 あと、私の個人的な印象ですが、ここで言う「言葉」とは、特定の言語とかいう意味
ではなくて、もっと広い意味、例えば、プログラムに近いような気がします。

 議論から外れますが、谷口雅春先生は、この実相のあり方について詳述はされていな
いと思います。その理由として、生長の家が誕生した昭和の初期は、まだ、ユークリッド
幾何学とニュートン物理学が力を持っていましたから、現在のような理論物理学は世間に
広まっていなかった、という理由があります。

 同時に、谷口雅春先生は、個人の悟りや社会の改善など、いわば「実践」の立場に力
を入れられました。青年の書で、はし書きで、霊界について青年が興味を持ちすぎること
は良くない、と言われていますが、現実世界からの乖離を恐れられたみたいです。その
例で言うと、「実相」があり、それについての基本的な知識だけで十分である、という
のが谷口雅春先生のお立場かと思います。

 さらに、これは私の憶測です。出口王仁三郎さんが、霊界物語で、自分の知識の全て
を開陳することは、神様から禁じられている、と書いています。私は、この実相論につ
いては、実は、それもあるような気がします。

 ただ、Dブレーンはについては、今後の研究により物理学に大きな影響を与える可能
性がありますが、現象と理解するべきだと個人的には思っています。ただ、将来、実相
と現象の間の橋渡しになる部分の説明になる可能性は、否定できないかもしれません。

5718純粋教理批判:2015/09/21(月) 19:31:09 ID:DD4jWV6M
実相とはなにかといっても定義不可能というのが実情でしょう。言葉とはもともと定義不可能なものであり、それを定義した気になって物事を判断するところに排他性や暴力性が生じます。実相独在といったところで外部があるのかないのか、どこまでが実相でどこからが現象なのか、それさえも決定不可能です。

ところで言葉ですが、実相の言葉はおそらくプログラムでありましょうけども、人間が用いる言葉はプログラムではなく「物事を分離させる力をもつもの」と解すべきではないでしょうか。脳のニューロンになんらかの作用をおよぼすものではないかと個人的には考えております。

マルダセナのホログラフィー理論ですが、今のところは3次元空間によく似た空間という制限があるようですし、理論が成り立つ条件としてドッジッター空間とか反ドッジーター空間とかといわれても素人にはまるでわからない世界の話です。

楕円の中心の数がそうであるように、雅春先生の御文章はけっこういい加減なことが書かれているようです。信じるか信じないかの問題であるのならともかく、「宇宙の仕組み」、「世の中の仕組み」、「人間の仕組み」を問題にしようとするときには、こうしたいい加減さが混乱をきたす原因となります。

5719純粋教理批判:2015/09/21(月) 19:45:26 ID:DD4jWV6M
邪悪なまでに難解とされるジャック・ラカンの哲学ですが、ラカンに言わせれば「これ以外の方法で語ることは彼らが許してくれない」となるようです。「彼ら」が誰かはラカンのみが知るところなのでしょうが、「神は無駄なものはつくりたまわない」などと何でもありの言説をふりまわす某御指導者様とは雲泥の差という気がいたします。

5720トキ:2015/09/21(月) 20:30:43 ID:1YpTHrO6
 うーん、このあたりは少し純粋教理批判様と認識が違うところだと思います。

 人間は、確かにそれなりの知識や知能を持っており、科学は発展していますが、
では、人間の認識している世界は、まだプリミティブな段階だと思っています。
その段階の人類に対して、実相の存在を説くのは大事ですが、一即多のあり方
など詳細に説くことが有益か、どうか、という議論があり得ると思います。

 幼稚園児をつかまえて、大学で習う内容の学問、例えばシュレジィンガーの
波動方程式を教えても、理解することなど不可能でしょう。ただ、幼稚園を
出て、ずっと大人になったら、大学という学校があり、そこでは難しい学問
を勉強する、という程度の説明をしておくだけで必要にして十分かと思います。

 谷口雅春先生が生長の家を始められたのは、純粋に「神学」の体系を作る
ためではなく、信仰を通じての人類の救済だと思います。これは谷口雅春先生
だけではなくて、釈尊でもキリストでもそうだと思います。それが後年になり
弟子が体系化して学問にしたのでしょうが、教祖自体はそういうことにはほぼ
無関心だったと思います。

 例えば、経営者なら経営の問題で四苦八苦しているでしょうし、家庭不和や
学業不振で悩んでいる人、病気で苦しんでいる人もいます。人生の意義につい
て苦悩している人もいるでしょう。

 そういう人達の救済がメインの目標であって、教学の理論化という点につい
ては二の次であった、という点が言えるのではないか、と思います。

(つづく)

5721トキ:2015/09/21(月) 20:36:06 ID:1YpTHrO6
 あと、よく宗教者の言動の不一致という点が世間から言われますが、これは実際に
活動をしている人間から見たら、驚くに当たらないと考えています。

 例えば、私はヒラの信徒ですが、もし生長の家の講師の試験で、「地獄があるか?」
という質問にイエスと答えたら、落第でしょう。しかし、自殺する直前の人間に対して
「自殺したら地獄へ落ちるぞ!」と脅したことは責められるべきではないと思っていま
す。

 釈尊でもキリストでも、対機説法というテクニックを使います。その場合、理論的な
整合性よりも結果の妥当性が重視されます。もちろん、それに不満を感じる人がいるの
は否定しませんが、私はそれを肯定します。

(つづく)

5722トキ:2015/09/21(月) 20:55:39 ID:1YpTHrO6
 例えば、Dブレーンにしても最近、ようやく証明されたもので、詳細についてはまだ議論の余地があるものだと
思います。実相とは宇宙創造の根源の存在と言えば、現段階ではそれで必要にして十分だと思います。

 純粋教理批判様の仰りたいことを煎じ詰めると、要するに、実相については詳細もわからないし、定義も不可能
なのだから、それを拝むことは意味がないし、危険である、ということかと思います。

 これに対しては、現段階の人間では、そこまでは不可能だし、その必要もない、ということを私は考えます。
人間も科学も、まだ、プリミティブな段階だから、というのがその理由です。

 ただ、神様をネタに戦争をしたり、テロを起こす人間がいます。それはそれで、政治学や宗教学の問題であり
ます。昔、ビタミンBを発見した人が、これだけは戦争に使われないだろう、と思っていたら、後で潜水艦の
乗組員がビタミンBを使って長期の作戦行動を可能にしている、という話を聞いてショックを受けた、という
記事を読んだことがあります。同じことで、信仰ですら、人間のエゴの道具になりえます。しかし、それでも
ビタミンBの存在価値には変わりはありません。それと同じことです。

 要は受け取る人間の側の問題だと思っています。

5723純粋教理批判:2015/09/21(月) 23:22:49 ID:DD4jWV6M
問題は中心化された個人です。自分を世界の中心とみなす中心化された個人、これが問題です。

中心化された個人は自分中心にしか世界をみない。すべては自分の心の影。自分が正しいと信じるものが真説で、そうでないものは虚説。自分中心に真理を理解した気になって、自己満足でしかない言説を周囲にふりまく。問題が起こればなぜそれが起こるのかを深いところまで考えようとはせず、自分が信ずるものを広めさえすればそれですべての問題が解決するとのご託宣。あげくの果てには自分の言葉を真理と思い込んでなんでもありの言いたい放題。おのれの主観にとじこもって客観性はかえりみない。雅春先生までもが人間は世界の中心と説いておられる。

>純粋教理批判様の仰りたいことを煎じ詰めると、要するに、実相については詳細もわからないし、定義も不可能なのだから、それを拝むことは意味がないし、危険である、ということかと思います。

中心化された個人にお灸をすえる。誰かがやらねばならぬことでしょう。

5724純粋教理批判:2015/09/22(火) 08:54:00 ID:DD4jWV6M
>要は受け取る人間の側の問題だと思っています。

問題が生じたとき、なぜそれが起きたのかとは考えない、教理を広めさえすれば問題は解決する、このように考えるのが宗教です。ようするに「ものを考えない人」をつくりだすのが宗教なのです。

宗教のなかでものを考えようとする人と考えようとはしない人との対立が起きたときに、考えようとはしない人をいかにして正当化するか。トキさんがなされたいのは結局こういうことでしょう。

ものを考えない人は自分中心にしかものごとをみることができないでしょう。自分中心にしかものごとを判断できないでしょう。すべては心の影。ものを考えない人はこうやっていともあっさりと自分を中心化してしまえるようです。「受け取る人間の側の問題」ではなく「受け取る人間の側に問題」というべきでしょう。

教理の体系化はなぜ必要なのでしょう。それは中心化された個人の勝手な解釈をなくすためであるのかもしれません。

5725純粋教理批判:2015/09/22(火) 10:00:49 ID:DD4jWV6M
Dブレーンをもちだすと科学的考察の問題がでてまいりますので、これは取り下げます。代わりに持ち出したいのが、プラトンが語ったコーラです(コーラについては以下を参照)。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/cola01.html

実相と現象のあいだに位置するのがコーラです。コーラは生成の場です。実相を現象へと変換する生成の場でもあるようです。コーラはわたしがDブレーンを持ち出して語ったことを裏づけているかのようですが、実際にはDブレーンを超えています。

>コーラという哲学概念のうちに、私たちは神以前のスピリットの活動を感じ取ることができる。

ここでいう「スピリット」を「外部」と置き換えれば、上記の引用は「私たちは実相以前の外部の活動をコーラに感じ取ることができる」と言い換えることができます。これが、わたしがこちらで述べてきたことです。

コーラを感じ取れるかどうか、これが問題です。コーラを感じ取るにあたって必要となるもの、これをわたしは「一回かぎりのカテゴリー」とこちらでは呼んでおります。

5726純粋教理批判:2015/09/22(火) 10:31:04 ID:DD4jWV6M
プラントといえばイデア論ではないのか。

もちろんイデア論ですが、プラトンともあろう人物がイデア論という単純きわまりない思想を信じていたとはとてもおもえませんね。

イデア論は、ヘラクレイトスの生々流転する世界とパルメニデスの永遠不滅の世界の調和をはかるためにプラトンが編み出した思想とされていますが、問題はこれに外部がくわわるかどうかです。外部がくわわらなければこれはただのイデア論です。

5727トンチンカン:2015/09/22(火) 11:03:40 ID:z9V4A.MQ

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
スゴイですね!! この『哲学』みたいなもの・・・ (曳馬野ご一統)

『生命の實相』に替わる、「マサノブ教」用≪聖典≫作成の 「下書き」 でしょうか?
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

5729曳馬野:2015/09/22(火) 11:23:04 ID:JPiKJZkg

>>5727

ここは誌友会版なんだよね。昔の高校生錬成には所謂左翼系の考え方をする高校生も来たのです。そして座談会になるとただ神の子の話がよいとして参加するレベルの信徒では話にならないような質問が出たこともあるのです。つまりあなたの言う又分派の言う虚説に対し話し合いがもたれたのです。

標語専門でなく虚説であるというのであれば、相手に受け入れられる説明が必要なのです。そういう意味であなたの態度は誌友会参加者としてはあまりにひどいと云わざるを得ません。話をするという態度ではないのです。ただ単に≪ダメ≫というイメージの擦り込みに忙しいだけの人間と認めざるを得ません。

5730トキ:2015/09/22(火) 11:24:23 ID:CeKYIz4g
純粋教理批判 様

 ご投稿、ありがとうございます。おっしゃる通り、教義は必要です。
もっとも、教祖がご存命の間は、教義の必要性は低いかもしれません。
しかし、教祖が亡くなられると、結局は教義しか頼るところがなくなります。

 釈尊の場合は、ほぼ口述での伝承でしたが、後年に至り釈尊の教えをまとめる必要があり、それが第1次と
第2次の仏典結集になりました。しかし、それが後年に至り、仏教の分裂の原因になったと言われます。

 キリストの場合は、逆で、何回かの公会議で聖書が淘汰されたことが最近になってわかっています。
その結果、教会の組織は長年統一は守られましたが、実際にキリストが説かれた教えから乖離した内容
になったし、また、異端狩りで多くの人命が失われたのも事実です。

 谷口雅春先生の場合は、ご存命中に著作や講演という形で教えを遺されましたが、それでも現在、分裂に
至っていることは残念なことです。しかし、谷口雅春先生の教えは、基本的な部分には全くブレがありませ
ん。例えば、神想観をしなさい、先祖供養をしなさい、愛行をしなさい、と言った部分には変化はありませ
んし、解釈に違いが出る余地もありません。それ以上に部分の解釈、例えば世界情勢や環境問題については
解釈に対立があります。そこに組織が分裂に至った原因があります。

 おそらく、本流復活派が考えているのは、仏典結集後の分裂した仏教団体のような状態であり、教団が
理想とするのは、公会議後に統一したキリスト教のような存在だと思います。

(つづく)

5731純粋教理批判:2015/09/22(火) 11:58:22 ID:DD4jWV6M
>>5729

たしかにそうですね。誌友会の参加者から教理にかんする疑問が提出されたときに、「生長の家は救済がメインですからそういう疑問には答えないことにしています」では話になりませんよね。

トキさま、いかがでしょうか。

5732トキ:2015/09/22(火) 12:02:57 ID:CeKYIz4g
>>5731

 ご投稿、ありがとうございます。

 例えば、誌友会の参加者から教義に関する質問があったときには、疑問には答えるべきです。
また、私の知る限りは、そういう努力はなされてきたと認識をしています。

5733純粋教理批判:2015/09/22(火) 12:19:26 ID:DD4jWV6M
>例えば、誌友会の参加者から教義に関する質問があったときには、疑問には答えるべきです。
また、私の知る限りは、そういう努力はなされてきたと認識をしています。

こちらの誌友会板でも努力はなされるということですね。

5734トキ:2015/09/22(火) 12:21:09 ID:CeKYIz4g
>>5730

 教祖の想いを考えると、分派というのはさけたいところです。

 ただ、分派が出る余地がないような教義の設定や解釈の強要をすると、行くつく先は
独裁の正当化という世界になるような気がします。しかし、それでも限界はあるでしょう。

 教義の一本化に正当化したキリスト教ですら、プロテスタントやイギリス国教会やギリシャ
正教が生まれています。「個人の勝手な解釈」を撲滅するのは、不可能ではないか、と思って
おります。生長の家も、これから世界規模で拡大すると、国ごとに解釈に相違が出てくるのは
当然に出てくると思います。ましてや、これだけ価値観の多様化した現代では、ファンダメンタル
な部分ではみなさん同じ思考でも、それ以上の部分になり、統一することは無理だと思います。

 その上で、分裂を回避したい、となると、これは組織はファンダメンタルな部分にのみ特化し
それ以上の部分では、「個人の勝手な解釈」を認める、という方向しかないのではないか、と
感じております。

5735トキ:2015/09/22(火) 12:24:48 ID:CeKYIz4g
>>5733

 努力はします。ただ、必ずしも期待できる返答があるとは限りません。

 うのはな様が、ここの管理人は無能だ、という正しい指摘をされています
が、能力の限界はあります。それもかなり低いですよ。

例えば、戦前の生長の家の云々という質問だと、ここではなくて、別の人
への質問のほうが適当かもしれません。

 また、マニアックな内容のやりとりだと、長期に至る場合は場所をかえ
てゆっくりと対話をしたほうが良いかもしれません。

5736トキ:2015/09/22(火) 12:29:01 ID:CeKYIz4g
>>5729

曳馬野様

 私自身は、「虚説」という表現を使ったことはありません。が、教団発表する教義についての
批判をする意見の中には、的確な内容のものがあります。それに教団側がまともな回答をした事
は知りません。

 先日も、某教区で、教団の幹部が現在の総裁の方針の正しさを説明に地域の会合にこられたの
ですが、出席者から矢継ぎ早の質問をされ、右往左往し、ついに、

 「実は、私もよくわからないのです。」

と告白していました。

5737トキ:2015/09/22(火) 12:29:54 ID:CeKYIz4g
>>5736

 ここは、やはり、教団側も「虚説」との批判には、丁寧に説明をするべきだと思います。

5738トキ:2015/09/22(火) 12:56:50 ID:CeKYIz4g
>>5725

 Dブレーンの話題を引っ込めてくださり感謝します。

 何せ、Dブレーンを勉強しようと思ったら、相対性理論や量子力学の勉強からやり直す必要がある
とのことで、純粋教理批判様は頭が良いので簡単に理解できるでしょうが、私は返答がいつできるか
不明な状態だったのです。(笑)

 コーラの話ですが、私もまだ十分に理解をしているとは思いません。ただ、神以前の存在という
のですが、ここに言う「神」とは第2義の神と理解すべきなのかもしれません。第1義の宇宙創造の
神様以前の存在だとしたら、人間が認識ができる存在なのか、どうか、という疑問を感じております。

 しかし、それはそれで、否定するまでの見識を私は持っていないので、一応は肯定したとします。

 このコーラの話とか、あるいはスピリチュアルな世界から、宇宙も、地球も、その構成物である
鉱物や自然も神の表れである、という発想自体は、谷口雅春先生は否定されていなかったと記憶し
ておりますし、私も否定するつもりはありません。が、私は優先順位については、かなり強く主張
します。おそらく、谷口雅春先生もその点は否定されないのではないか、と勝手に考えております。

 例えば、人間でも、法律ではどの人間も同じ価値を持つとされています。しかし、主観的には、自分
の親兄弟と赤の他人では、同じ人間でも、重さは当然違います。生物でも、人間と人間以外の生物は、
スピリチュアルな観点では同等かもしれませんが、人間の視点からは当然に違います。いや、それは
間違っている、という反論はあるかもしれませんが、そうなると、もう、元禄時代の「生類憐みの令」
の世界になります。そういう世界に普通の人は住みたいとは思わないでしょう。

 生長の家の信仰は、あくまでも普通の市民生活をしている人間の生活を対象にすべきだと思います。

 確かにスピリチュアルな世界観を徹底したら、私の考えは否定されるべきなのでしょう。しかし
人類はまだプリミティブな段階というべきで、そんな高尚な段階にはまだ至っていないです。法律に
詳しい人に尋ねると、動物と人間を救助するべき場面で動物を救い、人間を見殺しにすると、現在の
刑法では殺人や遺棄罪などの犯罪になるそうです。もちろん、純粋教理批判様がそういう主義でこれ
から生活をする、というのなら、それは純粋教理批判様の自由ですから、止めませんが、おそらくは
他の人の共感は呼ばないでしょう。

 ただ、無制限な環境破壊などは肯定されないのは当然で、それはそれで、スピリチュアルな世界観
やコーラの話で正当化されるとも思っています。

5739純粋教理批判:2015/09/22(火) 13:56:13 ID:DD4jWV6M
トキさま

>ここは、やはり、教団側も「虚説」との批判には、丁寧に説明をするべきだと思います。

教団は何が虚説だと批判されているのですか。

5740純粋教理批判:2015/09/22(火) 14:12:02 ID:DD4jWV6M
>純粋教理批判様がそういう主義でこれから生活をする、というのなら、

「そういう主義」とは何でしょうか。わたしの主義をあえていうなら「人類ほんらいの能力をとりもどす」という主義です。あらためてたずねますがわたしがどこで「そういう主義」を語っておりますでしょうか。

それと第一義、第二義といった型にはまった応答は避けるべきでしょう。コーラはこのような単純な話で片づけられる問題ではないと考えております。生長の家の人は決まりきった型にどうしても思考を閉じ込めてしまいますよねえ、

5741純粋教理批判:2015/09/22(火) 14:14:25 ID:DD4jWV6M
「個人の勝手な解釈」が「この教えを広めさえすればすべての問題が解決する」や「この教えにしたがわない考え方は虚説である」となったときに、解釈は原理主義とみまがうばかりの危険思想に近づく可能性があるのではないでしょうか。

ユダヤ教のタルムードをご存じでしょうか。これは解釈だけで成り立っているような経典のようなものだろうと推測いたしますが、いつの時代にあっても対立するふたつの解釈があって激しい議論のやりとりがおこなわれるようです。やりとりの様子は両論併記という形でタルムードにつぎつぎと書き込まれていくものであるようです。

解釈とはいっても「個人の勝手な解釈」が許されるわけではなく、解釈の仕方に一定のルールがあり、それをまもることで「終わりなきやりとり」が可能となるようです。ようするに、やりとりを継続するための知恵があるということです。生長の家にそのような知恵があるでしょうか。個人の勝手な解釈による議論を継続できるような知恵が、生長の家にあるでしょうか。歯止めなき解釈、知恵なき解釈、議論なき解釈は解釈の暴走をまねくだけです。

議論ができるかどうか、これが問題とおもわれますが、現状をみるかぎりそれは不可能といわざるをえません。反証不可能な超越項の乱用はつつしむ。説明責任を果たす。議論を継続するためのこれは最低限のルールであるとおもわれます(説明責任をきれいごとで放棄し、反証不可能な超越項による反論しかできない人がいましたよね)。

5742純粋教理批判:2015/09/22(火) 14:18:37 ID:DD4jWV6M
Dブレーンにかんして、わたしはど素人ですからトキさんに勉強していただいて教えていただくつもりです。

5743曳馬野:2015/09/22(火) 14:52:11 ID:JPiKJZkg

>>5738 .>宇宙も、地球も、その構成物である鉱物や自然も神の表れである、という 『発想自体』 は、谷口雅春先生は否定されていなかったと記憶しておりますし、私も否定するつもりはありません。が、私は 『優先順位』 については、かなり強く主張します。おそらく、谷口雅春先生もその点は否定されないのではないか、と勝手に考えております。

確かに 『スピリチュアルな世界観を徹底したら、私の考えは否定されるべきなのでしょう』。 しかし 『人類はまだプリミティブな段階というべき』 で、そんな 『高尚な段階には』 まだ至っていないです。 『   』は私が付けました。


●「発想自体」ですか?実相の大地に降り立ったのだ、と言われているのです。存在の実相を観た上での立教ということになります。この「実相」なる言葉が何を指しているかは、至った人しか解りません。『優先順位』という見方は、この世の森羅万象が分離したものとして存在している、との六識の「差別智」からの見方であり、八識と云われる「実相智」からのものでないと思います。その実相智に至るための行事として「神想観」はあるのではありませんか?色々聖典を読むことは良いけれど、いよいよというところは神想観によらなければならない、と説かれていませんでしたか。トキさんは神想観により究極の存在に至りその上で、この肉体人間がこの世界の経綸の主催者と云われるのですか?

人類は原始と呼ぶべき精神発達段階であり、『高尚な段階には』 まだ至っていないです。これも上の説明と同じで現象を差別智から見たものではありませんか?「人間神の子」「無限の智慧徳相を具す」との生長の家に外れていませんか?

現象のお蔭を与えるべく真理の話をするのは、火のついた家の中で遊びに夢中になる子供を外に連れ出すための方便であると、法華経の喩えを引いて説かれたのではないですか?「すべては与えてある」との世界の体験こそが一番でしょ。然るにお蔭を与えようとしないのは救済の否定だぐらいの感想が在るのは如何なものでしょうか。「神想観」により到る世界の体得が生長の家の目的でないですか?これこそが生長の家の救済でしょう。私も本当には知りませんが、その世界にたどり着いたという人に遇いたいものです。そんな人であれば今の状態を解決するのは容易いものと考えます。

到らない人(こんな日本語にも真理が見えます)同士で話をするのは夢の中で喧嘩していると夢見ているのと同じことでないのでしょうか。このトキさんの言葉には私が思っている生長の家とは大分違うものを感じます。

5744純粋教理批判:2015/09/22(火) 16:43:16 ID:DD4jWV6M
リンクを貼ったさきが間違っていたのか、話がスピリチュアルの方向に向かってしまいました。スピリチュアルにはまったく関心がないので、とりあえず話の矛先をかえていただきましょう

コーラとは生成の場であるとともに外部への通路がひらかれた場所です。Dブレーンをコーラに、ホログラムをドリーミング(夢見)に置き換えていただければ話は通じるはずです。

Dブレーンをコーラに置き換えたことで、直観的にも、体験的にも、想像的にも話せるようになったはずです。生成の仕組みについてはすでに述べたとおりです。

5745純粋教理批判:2015/09/22(火) 16:59:28 ID:DD4jWV6M
個人の勝手な解釈どうしのひらかれた議論。ひらかれた生長の家実現のためにこれを実現しましょう。ルールは、説明責任を果たす、反証不可能な超越項の乱用はつつしむ、これでいいでしょう。

誌友会参加者として質問させていただきます。

「すべては心の影」とはどういうことをいっているのでしょう。

そもそも心とは何なのでしょう。

以上ふたつの質問に答えていただけることを期待いたします。

5746トキ:2015/09/22(火) 17:52:28 ID:CeKYIz4g
 ご投稿、ありがとうございます。いくつもご投稿やご質問を頂戴したので、どれから返答を
したらよいやら、と思案しています。極力、説明をいたしますが、宗教の説明は科学の分野と
異なり、最終的には、「信じるか、信じないか」の世界になるので、ご期待にそえない可能性
が高いのであらかじめお許しください。

 まずは、5745から自分の意見を申し上げます。

 生長の家の世界観は、唯神実相論という考えから出発をしています。

 平たく言うと、この世界で実在するものは神のみであり、ビッグバン以後に誕生した世界は
あくまでも全てバーチャルな世界だという発想です。この発想は古代ギリシャ時代にも存在し
たという話は聞いた事がありますし、最近の死海文書などの研究から原始キリスト教もほぼ
同じ発想をしていたと読んだ記憶があります。

 その意味では、谷口雅春先生の発想ですが、歴史上、他の宗教家も言っていたとは言えるで
しょう。これは生長の家の発想ですが、神様の啓示と考えたら、共通するのは当然だと言える
でしょう。

 さて、バーチャルな存在だとしたら、人間を含めて、全ての存在が仮想の存在という事に
なってしまいます。当然、本来なら「心」もない、ということになります。しかし、論理的
には、バーチャルな世界でも、そのバーチャル自体は神様のある種の意思の反映ですから、
神様とは全く無関係ではありません。

 聖書には、神様は人間を造られた時に、「はなはだ善かりき」と言われたとあります。
その意味では、神の最高の自己実現である、という事になります。同時に、神は人間に
自由な意思も与えた、と書かれています。

 余談ですが、よく小説家や漫画家が、作品を書いていると、登場人物が勝手に動きだす
と言います。それに近い状態ではないかと思います。

 バーチャルな世界とはいえ、そこに神様の意思が反映している以上、人間は神の最高の自己実現
である、という論理が成り立ちます。同時に、そこにある意思は、神の意思がそのまま反映したもの
ではない以上、ある種、独立した意思が成り立ちうる事になります。

 これを、仮に「心」と命名します。

(つづく)

5747トキ:2015/09/22(火) 18:10:45 ID:CeKYIz4g
 この「心」は、神様のご意思とは密接な関連がある以上は、心の動きとバーチャルな仮想世界
とも密接な関係があります。生長の家では、このバーチャルな仮想世界を「現象」の世界と言います。

 神がそのバーチャルな世界上にある人間の意思に自由を与えた以上は、直接には、神が人間
を操り人形のように動かすことは、しない、ということになります。が、結果は密接に「現象」
の世界に反映することになります。

 環境は心の影、というのは、この密接な連動を指します。

 以上は生長の家の発想を一般の人向きに咀嚼した(つもり)です。

 では、この以上の理論を検証することは可能か、というと、一般論としては
不可能です。ただし、個々の人間が、それを信じる、信じないかを決めるため
に検証をすることは、可能です。以上の理論については、谷口雅春先生が膨大
な書物に書かれているので、それを読んで、自分が実践し、それで自分の生活
や仕事が良い方向へと変化したなら、それは信じる契機となる、というもので
す。それで、多くの人が実践し、生活が向上したり、その他、納得ができる結果
が出たので、信じている、ということです。

 悪い言い方をすると、英語で、Take it, or leave it.という考えがあります。
信じるか、信じないか、という世界になってしまいます。

 演繹的なアプローチでは検証は不可能。実践するしかない、というもので
す。その意味では、残念ながら、ご期待にそえない結論になってしまいまし
た。

5748曳馬野:2015/09/22(火) 18:12:05 ID:JPiKJZkg
純粋教理批判さんの意味する「スピリチュアル」「反証不可能な超越項」とはどのような事を指しますか?

私のような禅と生長の家しか知らないものにはカタカナを使っての話が分かりにくいのです。

意識に上った風光に対して日本語であれば「心象」の言葉で用足りると思うのですが。ホログラムとかドリーミングの言葉を使われますと日本語でさえ人によって汲み取る意味が変わっていることが度々ですので、カタカナは先にこのような意味で使うと定義出来れば話は進むと思いますが、『現象』の定義ひとつでも難しいものになると思いますよ。

心にしても「私がいると認識する心」と「本来の心」と二通りに生長の家では説きますよね、禅では意識になる前の対象物に同化しているものを本心とし、その一瞬後に出来事に意味づけした状態の「念」に変化したものを心の変成作用としているようです。

ですから「心とは何なのでしょうか」?と問われましても、説明はできても、本心の方は禅で言えば究極の存在そのものとされていますので、言葉の世界では決して理解不能ということになります。

「すべては心の影」とはどういうことをいっているのでしょう。にしても説明としては心に応じて二通りに説明はできますが、本心の働きにより出来上がった世界は心を極めた人にしか納得できないと思われます。

『不立文字教外別伝』と云われる存在の根源を言葉で知ろうとすることがそもそもの間違いであろうと考えます。禅では自分の本来の姿を知ることを持って悟りとするようですが、考えで知るのでなく、自分というものが存在し生きているという意識が抜けなければ達することはできないようです。ですから今の私は、自分という限られた意識体があるとしたうえでの話は、全て本質に行き着くとは考えていません。

5749トキ:2015/09/22(火) 18:18:21 ID:CeKYIz4g
>>5741

 私はタルムードについては詳細は知りませんが、その内容はかなり生活に密接に関連したものだ
という印象を受けています。それと、ユダヤ教のラビも基本的には、普通の仕事をしながら信仰の
活動をするとも聞いています。(まちがいだったらゴメンなさい。)

 その意味では、生長の家とも近い存在ではないかと思います。その意味は、世俗から独立した
存在になる事による危険性への対応だと思います。

 過去、生長の家がかかえていた、または現在かかえている問題は、組織が大きくなり、その
中で、官僚化や形式化が進んだことにあると感じています。

 信仰の暴走、ということよりも、自分は活動や組織の暴走、という印象を受けています。
それは、かなり世俗的な部分もあります。活動や組織の暴走を防止することは、組織内の
システムを改善することで十分に可能です。

5750トキ:2015/09/22(火) 18:45:18 ID:CeKYIz4g
>>5742

 Dブレインについては、難しいので私も四苦八苦しています。
まあ、何年か先にはわかるかもしれません(笑)。

5751純粋教理批判:2015/09/22(火) 18:48:38 ID:DD4jWV6M
>純粋教理批判さんの意味する「スピリチュアル」「反証不可能な超越項」とはどのような事を指しますか?

まずは「反証不可能な超越項」とは「神が完全なる実相世界をつくった」といったような表現です。このようなことをいわれても反論のしようがない。実相世界が創造される様子を多少なりともイメージできるような表現をしてもらわなければ反論のしようがないということです。

「スピリチュアル」にかんしてはわたしもよくわかりません。世間ではふつうに使われているようです。かつてブログでスピリチュアルにかんしての質問をうけたことがありますが、答えられないので適当にごまかしました。

ところでドリーミングですが、これは北米やオーストラリアの先住民が用いている言葉のようです(ちょくせつ聞いたことはありません)。世界はある何者かが夢見ることでつくられているとする考え方、これがドリーミングです。

ドリーミングとは世界はある何者かの夢の中の出来事であるとする考え方ですが、こうした考え方がDブレーンのところで説明した「70億の人類に70億の宇宙あり(70億の人類が70億の夢をみている)」とちょうど符合するので、ホログラムの使用はやめてドリーミングの用語に置き換えました。

ドリーミングは心理学者のアーノルド・ミンデルがいたるところで用いておりますので、詳しくはこちらを参照してください。こちらの掲示板ではドリーミングという言葉が何度も用いられているようなので意味の説明ははぶいたという次第です。トキさんも聞かれたことがあるはずです。

「すべては心の影とはどういうことをいうのか」はこちらの板で「すべては心の影」と言い続けている一信徒にたずねたものです。「個人の勝手な解釈どうしのひらかれた議論」としてたずねたものです。

この方は「心の影」を乱発しておられるようなので、どういう意味でそれを使っておられるのか、まずは確認する必要があったというわけです。トキさんに答えていただいてももちろんかまいません。

5752トキ:2015/09/22(火) 18:54:43 ID:CeKYIz4g
>>5748

 純粋教理批判様が言いたいのは、議論に負けそうになると、神様とか真理とかいう実証
不可能な事柄を持ち出して、議論を打ち切るのは卑怯だ、ということなのでしょう。

 私もある部分ではその考えに共鳴しますが、宗教の場合、最終的には「信じるか、信じないか」
という結論になってしまうので、難しい点でもあります。

 それでも議論をするのは、何かの結論をだす、というよりも、それを読んだ人が自分の
宗教観や信仰のあり方の参考にするための資料として有益である、ということでしょう。

 ところで、純粋教理批判様が生長の家について、いくつかの批判を書かれています。
生長の家の信仰に限らず、宗教団体がある個人を傷つける言動をする場合はないとは限り
ません。生長の家では、愛と知恵との十字架で、と言います。

 知恵が足りないか、愛が足りないか、またはその両方が足りないかで、意図しなくても
誰かを傷つける場合はあります。

 それはそれで、私も一人の信仰者としては、謙虚に反省すべきだとは思います。

5753純粋教理批判:2015/09/22(火) 19:11:45 ID:DD4jWV6M
トキさま

わたしが「心の影とは何か」を問題にするのは、人類が心をもったのはたかだか二千年以前と考えられているからです。ではそれ以前はどうだったのか。「人類には心がある」といっても人類の歴史から考えればそれは一瞬のこと。「自由なる意思をあたえた」といってもそれも一瞬のこと。人類の歴史の中でいきなり心があらわれて、それから「すべては心の影」の時代がはじまったということなのでしょうか。

すべては心の影。これは現代人のおごりではないかとおもわれる次第です。

5754純粋教理批判:2015/09/22(火) 19:20:26 ID:DD4jWV6M
UFOが存在するかしないかも信じるか信じないかの問題ですが、UFOを実際にみた人はそのときの様子をくわしく説明できるはずです。宗教が詳しい説明をしないというのは、信じる信じないとはべつの問題のような気がします。

5755曳馬野:2015/09/22(火) 20:53:25 ID:JPiKJZkg
>>「実相世界が創造される様子を多少なりともイメージできるような表現をしてもらわなければ反論のしようがないということです。」


理想的な良いものばかりの世界という説きかたが生長の家でされますが、禅ではあるままの姿をして実相としているように思われます。因縁の法で物事が出来上がっているので、善悪の判断以前の物事そのものを実相と云っているようです。

この意味では実相の意味する物が違っているようです。五官に触れた瞬間には其の儘のものに触れているのを、一瞬の後に念のオブラートで隠したものを認識作用の上で理解している、そんな意味では「70億の人類に70億の宇宙あり(70億の人類が70億の夢をみている)」と言えると思います。

「心の影」と云うのも同じ現実はある一瞬においては世界中唯一つであるけれども、一瞬後には各人夫々の念のレンズを通して意味づけしたものとして認識しているのです。物事があるというけれど、ある瞬間の結果としての生成流動そのものでないでしょうか。記憶の中にのみ物事は存在するもので、前後裁断された善悪などの判断の入る余地のないものみたいです。ですから心の影と云いましても心によって作り出されたものという意味と、心によってそのように認識しているという二つの意味があると思います。

「人は自分と同じものを相手に見出す。あらゆる場合において、人は相手そのものを見るのではない。自分の心を相手と云う鏡に映してみるのである。」と言われているのですが、お前の環境はお前の所為だというように責任の所在を知らすための真理ではなく、環境を見ていろいろ感じるのはそのように感じる心を持っているのだから、嫌な奴などと感じるその心を考え直せ、という意味でしょう。

教団の在り様を見れば総裁の心が分かるなんて言う意味での心の影というものではないでしょう。でないと継母にひどい扱いを受け長じても心の傷云えず悲しむべき運命に泣いている人の個人指導に、それでさえ感謝できるものを探して感謝しなさい、ということができ感謝の結果よき状態になったというがごときは説明できません。感謝の心少なき結果としてそのようになっているのであって、継母の心が冷たいのではないということを表す真理として説かれているのでしょう。

しかしこれはどちらからもいえる真理ではあります、裁きの為の真理ではないということですね。

5756トキ:2015/09/22(火) 21:10:02 ID:PeyOW5Zk
>>5753

純粋教理批判様

 すみません、出先からパソコンを借りて書いています。

 生長の家の現役の会員が言及するのは不適当かもしれませんが、かって生長の家の本部講師で、
後年、高橋信次さんの教団に移籍し、その後、独自の教団を立てた園頭さんが、心の法則につい
て疑問を感じたことを書いています。園頭さんがその事を高橋さんに質問をすると、高橋さんに
キリストの霊が乗り移り(まあ、このあたりは本当かどうかは不明ですが)

 『愛の心のない人に心の法則を教えてはいけません」

と返答をしたそうです。実は、どこだか忘れましたが、谷口雅春先生も同じ趣旨のことを書かれて
いたのも憶えています。

 心の法則というのは、もともと、自分が反省し、進歩向上するために教えられたものですが、
それを中には、自分が他人を裁くために使う人もいる、ということでしょう。

 あと、人類が登場する前の地球はどうだったのか、というと、それは同じ事だったのではないで
しょうか。

 スピリチュアルな説明になってすみませんが、いろいろな本を調べてみると、有名なモンロー
研究所について書かれた「死後体験 3」という本に、人間はマイクロコスモス、つまり小宇宙
である、という説明がされていました。人体を更正する細胞まで意思を持っている、という説明
をしていました。それが分子や原始、さらにヒモまで言っても意思がある、という説明です。

 これも現象のレベルの話ですが、宇宙意思が細胞や分子のレベルまでも存在すると考えるのな
ら、心の影が連動するのも不思議ではない、と考えることは可能です。

5758純粋教理批判:2015/09/22(火) 23:57:21 ID:DD4jWV6M
>この意味では実相の意味する物が違っているようです。五官に触れた瞬間には其の儘のものに触れているのを、一瞬の後に念のオブラートで隠したものを認識作用の上で理解している、そんな意味では「70億の人類に70億の宇宙あり(70億の人類が70億の夢をみている)」と言えると思います。

生長の家では五官を迷いであるかのごとく説きますが、五官はたしかに実相なのです。五官によって得た情報のようなものを何らかの方法で変換することで人間はそれをドリーミング(ホログラム映像)として翻訳しているはずなのですね。

夢(現象)は映像です。映像に力の入り込む余地はありません。映像で力を伝えることはできない、と言い換えることもできるでしょう。映像の世界を生きていながら、それでも人間は五官によって力を感じています。したがってその力は映像以前のもの、つまりは現象以前のものと考えるより他はないと考えます。

>「人は自分と同じものを相手に見出す。あらゆる場合において、人は相手そのものを見るのではない。自分の心を相手と云う鏡に映してみるのである。」と言われているのですが、お前の環境はお前の所為だというように責任の所在を知らすための真理ではなく、環境を見ていろいろ感じるのはそのように感じる心を持っているのだから、嫌な奴などと感じるその心を考え直せ、という意味でしょう。

自分のなかにあるものを相手にみいだすことを心理学では投影といいますね。相手にたいする敵意があるとき、本当は自分の中にあるはずのものなのに相手が自分に敵意をもっていると思い込んでしまう現象が投影ですが、生長の家で説く「心の影」は投影についていっているのかとずっと疑問におもっておりました。その可能性もあるということを理解いたしました。

ただ心理学者のミンデルは(ミンデルはMITで量子力学を専攻していました)、投影にも量子力学的な背景があることを示唆しており、投影としての「心の影」にもなんらかの物理的実体がある可能性が残るのではないかと考えます。このあたりはトキさんの研究を待つしかありません。

5759純粋教理批判:2015/09/23(水) 00:29:01 ID:DD4jWV6M
>聖書には、神様は人間を造られた時に、「はなはだ善かりき」と言われたとあります。
その意味では、神の最高の自己実現である、という事になります。同時に、神は人間に
自由な意思も与えた、と書かれています。

自由とはなにかが問題ですね。スピノザは神一元の世界を思い描いていたといいますが、自由というものがどうしても説明できなかったようです。なぜかといえば一元論は決定論だからです。一元論ははじめから結末がどうなるかが決められている決定論だからです。

神一元の世界観では神と対立するものは存在しません。これはいってみれば一人でゲームをやっているようなものですから予想外の展開というものがありません。予想外の展開にもちこもうとおもったところで、それも自分がやるわけですから予想外といえるはずがありません。

すべてが予想の範囲内でゲームがすすめられて最終的な決着をみる。これが一元論です。自由というものがどこにある。スピノザはこの問題で悩みつづけ結論をだすことはついにできなかったようです。

自由とはなんでしょう。一元論が決定論であることを認めること。この苦渋の決断こそが人間にあたえられた唯一の自由という気がいたします。

5760純粋教理批判:2015/09/23(水) 12:56:00 ID:DD4jWV6M
実相にもいろいろある。

「物質はない」ということはいえるでしょう。しかしたとえば行く手に電信柱があるのに「電信柱はないんだ」とそのまままっすぐ歩いていけばぶつかって痛いおもいをします。電信柱はないはずなのになぜぶつかるのかといえばそこに力が働いているからです。

電信柱にぶつかった瞬間、それは力を感じた瞬間でもあるわけですが、この一瞬、人は実相世界にいるともいえる。しかしそのすぐあとに「痛い」とか「こんちくしょう」とかの思いが湧いてきて人はたちまちにして現象の世界にひきずりこまれる。

こういうことが起きているとすれば力はそれじたいが実相ともいえるが、人間が解釈や判断をくわえた途端に力は現象へと落ち込んでいく。力は実相でもあれば現象でもある。しかしここでいう実相とは「究極の実相」ではないということだけはいえる。

「それがある」、「それがただある」、これが究極の実相です。究極の実相を想像するのはそれほどむつかしくはない。宇宙のなかに自分一人だけがいると想像できれば、これが究極の実相です。

自分以外には何もない。もちろん自分もない。自分という感覚は他人があればこそであって、他人がいなければ自分という感覚もない。ただそこにあるだけ。まわりには何もない。
いや、まわりというものさえない。それがある。ただそれがある。

実相独在とはこういう意味です。ほかに何もない。「ほか」という観念もない。ほんとうになにもない。「ない」ということもない。「ただあるだけ」としかいいようがない。これが究極の実相です。

5761純粋教理批判:2015/09/23(水) 13:20:16 ID:DD4jWV6M
究極の実相を活性化させたのが外部です。外部が内部に侵入した。外部に侵入された実相は収縮を余儀なくされた。実相は内部のさらなる内部へのひきこもりを開始した。実相は他者との関係をもったことでこのときはじめて「自分」の感覚をもった。

心とはなんでしょう。言葉と情動がまざりあったもの、これが心です。かつての人類は言葉と情動が分離されていたために心をもてなかった。何千年かまえに言葉と情動がまざりあったことで人類ははじめて心をもつことができた。

心はしかし心を体験することはできない。心を体験しているものはべつにいる。心はほんとうの自分ではない。心を体験しているほんとうの自分がべつにいる。

心を体験しているもの、それが内部のさらなる内部へとひきこもった究極の実相です。心を体験している究極の実相こそがほんとうの自分です。「赤肉団上に一無位の真人」と臨済が呼んだ一無位の真人こそが究極の実相でありほんとうの自分です(このあたり、正統の解釈とはズレている可能性あり。正統の解釈があればの話ですが、存じておりません)。

わたしのいう一無位の真人はただみているだけです。心の中の出来事をただみているだけ。人は誰もが一無位の真人として世界をみている。このことだけはいえる。しかし多くの人はそのことを自覚できずにいる。

自分のなかの一無位の真人を自覚するには自分をべつの場所に置く必要がある。外部とつながった場所におく必要がある。外部とつながった場所に自分をおいたとき、人は一無位の真人を感じられるようになる。究極の実相を感じることができるのは外部だけだからです。

5762神の子さん:2015/09/23(水) 14:21:29 ID:???
臨済は言った。


「この赤肉団上(肉体のこと)に一無位の真人がいて、常にお前たちの面門を出たり入ったりしている。まだこの真人を見届けていない者はさあ看よ! さあ看よ」


 この言葉を聞くと、修行僧たちは、悟りに到達すると、自由闊達な真正の自分、つまり一無位の真人(そういった意識)が体を自由に出入りし、あらゆる差別を超越した大自由、大自在の境地になれるものだと思わない者はいないだろう。宗教学者や禅僧たちまでが、知ったかぶりして一無位の真人を真摯に解説している者もいる。

 しかし、これは悟りに到達して得意げになっている臨済の、上から目線の最もらしく作った造語で、よく先行した者があとに続くものに優越感を持って幻惑するようなヒントを与えたりする心境と酷似している。


 たぶん本来の自己を、臨済一流の言い回しで飛躍して言ったものと思われるが、真に親切心があるならば一無位の真人なんてまぎらわしい言い方はすべきではないと思う。聞いた者はよけい混乱するだろう。


 釈迦以降、悟りに到達した者は沢山いるが、だれ一人として一無位の真人なんて言葉はおろか、それに類似したような言葉を述べたものはいない。


 わたしは臨済と同じ禅の奥儀に到達したが、もし、わたしが臨済と同じように修行僧たちにヒントを与えるとしたら、やはり上から目線で宇宙の一握を実感せよ、とでも言うだろうか。すると修行僧たちは、悟りに到達すると、宇宙を一握できるぐらいの壮大な心境に浸れるぐらいに思うのではないだろうか。しかし、これは、わたしが最もらしく作った、悟りとは何の関連もない造語である。先行した者はどうしても上から目線になりやすいものである。しかし、そういった態度は人間として間違っているのである。


 べつに悟りに到達しても、宇宙を一握できるような壮大な心境になれるわけではない。しかし、悟りの何たるかを知らない修行僧たちは、ひょっとすれば金科玉条のように宇宙の一握にこだわってしまうかも知れない。もっとも融通無碍の法をもってすれば宇宙を一握できぬこともないが、それは芥子粒に須弥山を閉じ込めるのとおなじような、「法」の世界での話であって現実味は乏しい話である。


 だから、禅を学ぶ人たちは、いかにも最もらしい一無位の真人なんて造語に惑わされぬことである。何回もいうが、一無位の真人なんてものは、悟りとは何の関連もない、臨済が上から目線で、言い得て妙に作った造語でしかない。

 北宗禅の臥輪禅師の偈に

 伎倆あり、よく百思想を断ず。境に対して心起こらず、菩提は日々に長ず。(わたしには巧みな技能があって、百種の妄想を断ち切ることができる。対象に向かっても心は動かず、悟りへの道は日に日に成長している)


 というのがあるが、この偈を聞いた六祖慧能は次のような偈を示して、臥輪禅師の誤りを暗に指摘した。


 伎倆なしに、百思想を断ぜず、境に対して心しばしば起こる。菩提なんぞ長ぜん。(わたしには巧みな技能などない。百種の妄想を断ち切りもしない。対象に向かって心はそのつど動く。悟りへの道がどうして成長しようか)


 禅の奥儀を極めたわたしには、慧能の偈こそ真実とわかる。もし臨済の時代に慧能が生存していたならきっとこういうだろう。

「わたしには、一無位の真人なんてものは、影も形も見えない」

5763純粋教理批判:2015/09/23(水) 15:11:38 ID:DD4jWV6M
たしかに「一無位の真人」の表現をもちいはしましたが、それがなんであるかは理論的に説明したはずです。「内部の内部へと収縮した究極の実相」と説明したはずです。

そのときの様子をより詳しく理論化せよ、と言われても無理ですね。「一無位の真人」という言葉を用いたためにわたしが禅の悟りについて語っているとおもわれたのかもしれませんが、わたしがやろうとしているのは真理を理論化することです。

「一無位の真人」をもちいたのは、この掲示板にきている人たちが宗教関係者だからです。宗教関係者にこの言葉は有効であろう、と考えたからです。「生長の家の用語をもちいて説明せよ」との注文をつけられることもあります。

宗教関係者でなければ、わたしは「主体」という言葉をもちいたでしょう。ふつうの人たちが相手であれば「主体」という言葉をもちいて事態を説明したでしょう。もちろん「究極の実相」という言葉をもちいることもありません。

5764純粋教理批判:2015/09/23(水) 15:24:52 ID:DD4jWV6M
「一無位の真人が出入りしている」というのはわたしにはわかりません。これは理論化することができません。「正統の解釈とのズレ」といったのは、この意味です。

5765曳馬野:2015/09/23(水) 17:56:50 ID:JPiKJZkg

東都之市有大隱  飽来眠兮覺来嚬

不作善又不作惡  不拘舊又不拘新

生來無名併無姓  人呼之無位眞人

咄是眞人何奇怪  三百六旬氣如春


これは明治のある居士が詠んだものです。その人物に対し西有穆山は「彼の如き境涯に達するには、一生二生の修行では出来るものに非ずと驚嘆していた」と弟子の秋野孝道はいう。その西有穆山の弟子に丘 宗潭がい、秋野孝道、丘 宗潭から原田 祖岳が出ている。原田 祖岳から安谷 白雲がでつぎに山田耕雲がいる。彼の「禅の正門」の中に岩崎財閥のある24,5のお嬢さんが多分結核であろうが、病い重くまもなく死に至るという一月ほどの内に見性のみならず大悟したことが載っている。

また「彼は凡人ではない、吾等の遠く及ばぬところがある」と由理滴水天龍寺管長が云ったと孫弟子の天龍寺管長をした關精拙は云う。その次に関牧翁が出、次に大森曹玄、平田精耕、荒金天倫がいる。

『曹源一滴』という言葉がある。六祖慧能禅師によって大成し、臨済、雲門、洞山、潙山、法眼という禅匠たちによって、臨済宗、雲門宗、曹洞宗、潙仰宗、法眼宗の五家と、これに臨済宗の二派、楊岐派と黄龍派を加えて五家七宗に分化し日本に伝来した禅の法流です。先の詠を歌った人を明治大正の日本禅界を背負った方々が褒め讃えるのか、『曹源一滴』の慧能の悟りを継いでいるからに他ならない。その人間が「人呼之無位眞人」と云い「咄是眞人何奇怪  三百六旬氣如春」と謳う。「釈迦以降、悟りに到達した者は沢山いるが、だれ一人として一無位の真人なんて言葉はおろか、それに類似したような言葉を述べたものはいない。」が如何に戯言か知られるものである。臨済と同じ悟りに達したとは?

5766曳馬野:2015/09/23(水) 18:18:36 ID:JPiKJZkg

>>5762さん

何処から引用されたか知りませんが、禅の悟りには決して至っていない人のものと思います。単に言葉としての引用であれば意味がないと思いますよ、あなたが理解した上で同じく「一無位の眞人」を否定するのであればよろしいでんが。

臨済宗、曹洞宗の両宗の老師方が共に吾等の遠く及ばぬところがあると断言した人間の言葉を否定できるのであれば、述べて頂きたい。

5767曳馬野:2015/09/23(水) 20:27:52 ID:JPiKJZkg
中庸に「致中和、天地位焉、万物育焉」とあります。そこの前の所を雅春先生はよく引用して

「喜怒哀楽の未だ発せざる之を中と謂ひ、発して皆節に中る之を和と謂ふ。中は天下の大本なり、和は天下の達道なり。中和を致して、天地位し万物育す。」と言われていた。

ここの天地位焉、万物育焉を指して無位の眞人と云うのでしょう。天地万物に実相生命が宿り生かす、その大生命を指して無位の眞人と、立ち位置のない様のを表現する言葉です。

5768純粋教理批判:2015/09/24(木) 00:41:15 ID:DD4jWV6M
対話の相手があらわれずに間延びしているようなので書き込ませていただきます。

「主体」という言葉をもちいた以上、「主体とはなにか」の説明が必要でしょう。ふつう一般に心といわれているものを、わたしは意識、自我、主体の三つ組にわけて考えています。

主体とは「それがただある」が主体生成の過程をへて誕生したものです。この過程は、「それがただある」の収縮と言語的世界の誕生によって説明されますが、くわしいことはわかりません。

「それがただある」をとりあえずはエスと名づけましょう。主体生成はエスが主体として活動できる場の生成によって成し遂げられますが、場の生成にあたって主導的な役割を果たしたのが言語であったと考えられます。

人類が主体という概念にはじめて出会ったのはおそらくデカルトの「われおもう、ゆえにわれあり」ではなかったでしょうか。デカルト的主体はコギトと呼ばれ、現代の思想界や言論界においてはあまり評判がよくありません。

そんな中にあってコギトを高く持ち上げるのが、あのひねくれもののラカン派哲学者スラヴォイ・ジジェクです。ジジェクはデカルトがコギトをみいだすに至ったときの思索の内容よりも、そのときの「身ぶり」を問題にします。

デカルトがコギトをみいだしたのはある冬の寒い一日でした。寒さを避けるためにデカルトは日がな一日暖炉部屋にひきこもったのです。このひきこもりの身ぶりこそがコギトであるとジジェクは言います。

主体はひきこもることで主体となった。ジジェクがいいたいのはこういうことでしょう。エスもまた内部の内部へとひきこもることで主体生成の場と出会い主体となったのです。
ジジェクのコギトはエスとおそらくおなじものなのでしょう。

ジジェクは「主体は空無である」といいます。エスも空無です。しかしジジェクはこれにつけくわえて、主体は狂気のさなかにあるともいいます。ジジェクが正しければエスもまた狂気のさなかにあることになります。エスはいまだに救われていない。そういうことのようです。

「一無位の真人こそが究極の実相でありほんとうの自分です」などと光明思想を気取ろうといたしましたが、さっそくクレームが入ってまいりました。なれぬことはせぬほうがよいということでしょう。

5769純粋教理批判:2015/09/24(木) 00:50:17 ID:DD4jWV6M
主体を中心化した個人として批判するのがポスト構造主義です。ポスト構造主義は主体を言葉に支配されたあやつり人形とみなします、言葉の効果そのものとみなします。何を言ったところでそれは言葉によって言わされたにすぎない。何をなしたところでそれは言葉によってやらされたにすぎない。このように考えるのがポスト構造主義です。

人は誰もが自分で自由にものを言い、自由にことをなしていると考えますが実はそうではない、すべては言葉がそうさせているのだ、といわれたらどうでしょう。多くの人が「そうではない」と反論するでしょう。しかしその反論でさえもが言葉にあやつられてのことだとすればどうでしょう。

みずからを中心化させた個人は言葉を道具と考えますが、ほんとうはあなたこそが言葉の道具なのかもしれません。

5770純粋教理批判:2015/09/24(木) 00:56:43 ID:DD4jWV6M
教えを広めさえすれば環境問題は解決するといわんばかりの人への質問です。

「神は無駄なものをあたえたまわない。原子力エネルギーは神が人間にあたえたもうたものである」と説く生長の家が「神は無駄なものをあたえたまわない。地球の資源は神が人間にあたえたもうたものである」と主張する人々を教えみちびけるとおもえるのはなぜなのでしょう。

5771a hope:2015/09/24(木) 08:14:22 ID:cEpBaIdo

みなさま おはようございます。

ようやくパソコンがつかえるようになりました(*^▽^*)
わたしの留守中に、ご参加くださったみなさまありがとうございます。

わたしも今日からまた、自分のペースでこのweb誌友会に参加して、
聖典「生命の實相」の真理を学んでいきたいと思いますのでよろしくお願いいいたします。

5772a hope:2015/09/24(木) 08:15:03 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第36回 web誌友会 案内 (改訂版)

期間   8月2日〜9月30日まで
テキスト 「生命の實相」第21巻 経典篇 
内容  『甘露の法雨』講義
     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

5773a hope:2015/09/24(木) 08:15:43 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」 第21巻 p106 後から3行目〜

われわれは光の子である。

すなわち光から生まれ出でたものですから、われわれは常に光の中に在る、と同時に自分の中に光があるのであります。

わがうちに光があり、光のうちにわれわれはあるのですから、われわれは絶対に暗(やみ)を知らない。

いっさいの暗黒はない。

すなわちわれわれを躓(つまず)かせる障礙(さわり)などはいっさいないのであります。

(略)

それだのにわれわれが不自由に、いろいろのものに妨げられたりするのはわれわれが本当の力を出しきっていないからで、その時、そこに暗(やみ)が姿を仮に表わして本来ない躓きを、あるかのごとくに表わすのにすぎないのであります。

(略)

智慧とは実相の悟りの智慧であります。

(略)

暗(やみ)とは光の欠乏せる状態に他ならないのです。

5774a hope:2015/09/24(木) 08:17:46 ID:cEpBaIdo

>>5773 a hope所感)

みなさんは、聖典「生命の實相」の文章を拝読してるとあらゆる迷いが消えて、
『本当の自分は実相そのものなんだ』という実感がわき出てきませんか?

わたしたちがこの現世に投影されている時間にはリミットがあります。
無駄な時間はありませんよね?

わたしはこれからも聖典「生命の實相」の真理を真剣に学んで生長し続けたいです。

5775純粋教理批判:2015/09/24(木) 10:44:56 ID:DD4jWV6M
考えがちがう相手と話をするのは時間の無駄。ようするに「個人の勝手な解釈どうしのひらかれた議論」は必要ないということですね(排他性ここに極まれり)。

ところでホープさんは「テキストに関係のない内容はお控えいただきたいです。ですが、わたしの所感に対する反論は歓迎させていただきます」といっておられますよね。歓迎していただけるものと無信じております。

5776純粋教理批判:2015/09/24(木) 11:16:59 ID:DD4jWV6M
>わがうちに光があり、光のうちにわれわれはあるのですから、われわれは絶対に暗(やみ)を知らない。
いっさいの暗黒はない。

これがわたしのいう排他性ですね。光と暗の二項対立を立てて劣位項である暗を外部へと排除することで優先項である光を内部にとどめおく。こういうことを延々とつづけていれば、誰だって排他的な性格が身につくことでしょう。現に「時間の無駄」といって問答無用とばかりに排除しようとしているではありませんか。

5777純粋教理批判:2015/09/24(木) 12:02:26 ID:DD4jWV6M
ずっと以前にもこちらの掲示板で「元本部講師」を名のる人が「時間の無駄」といっていましたが、そういう人にかぎってじつは何も考えてこなかった人であり、必要な知識を身につけてこなかった人なのですよ。

なにも考えずにきたからいまだに単純なことしか考えられない。必要な知識を身につけてこなかったから誰もが言えるようなことしか言えない。おおやけの場で発言をするのであればもっと考えておくべきでしたね。必要な知識を身につけておくべきでしたね。時間を無駄になさいましたね。

5778純粋教理批判:2015/09/24(木) 16:02:17 ID:DD4jWV6M
状況を説明いたしましょう。まずホープさんは以下のごとくいっておられます。

>生長の家の信仰により環境保護運動をするのであれば、そのような現象に対応するような形ではなくて、
まずは信徒一人一人が「本来罪なし」の「実相独在」を自覚し(悟り)、それを人類に伝道していく方法が正道だと思います。

「現象に対応するような形」とはあきらかに総裁がおしすすめておられる環境運動についてのことです。ホープさんが総裁の方針を批判しておられるのはあきらかです。

代わりにどうすればよいのかというと「教えを伝えることだ」といっておられます。そこでわたしは以下のごとく質問いたしました。

「原子力エネルギーは神が人類にあたえたもうたものだ」と説く生長の家の教えで問題解決が可能なのか。

この「原子力エネルギー」のところには、欲望のおもむくままにどのような言葉でも入れることができます。地下資源、水産資源、生物資源、森林資源、大地、海、川、どんな言葉でもいれることができます。

環境問題とはけっきょく人類が「〇〇は神が人類にあたえたもうたものだ」と考えたことからはじまったと考えます。生長の家もこれとまったく変わらぬことを説いています。おなじことをいっているにもかかわらず生長の家の教えが環境問題の解決にむすびつくとおもえるのはなぜかと、「私の所感にたいする反論は歓迎する」といわれたホープさんに問いかけたところ「答えるのは時間の無駄」との返事をいただいたというのが今の状況です。

5779a hope:2015/09/24(木) 18:31:24 ID:cEpBaIdo
>>5778

<<「原子力エネルギーは神が人類にあたえたもうたものだ」と説く生長の家の教えで問題解決が可能なのか。>>

とおっしゃていますが、それってほんとに生長の家の教えですか?

「生長の家の教え」では「神とは人間の実相」のことですから、
「神が人間に与えたもうたもの」ということになると、
「人間が人間自身に与えたもうたもの」ということになってしまい表現自体に違和感を覚えるのですが・・・。

その教えが説かれている引用文献を教えてくださいませんか?

5780純粋教理批判:2015/09/24(木) 22:52:46 ID:DD4jWV6M
生長の家に「神は〇〇を人間にあたえたもうた」とする教えや考えはないといわれるのですね。〇〇に入るのは「自由」でも「豊かさ」でも他のなにかでもよいわけですが、このような教えや考え方はないといわれるのですね。

「神は無駄なものをあたえたまわない」とする教えも考え方もない、ということですね(何度も聞いたような気がいたしますが、わたしの思い込みなのでしょう)。「神は無駄なものをあたえたまわないのであるから原子力エネルギーは神からあたえられたものである」とする発想が出てくる可能性はないということですね。

それなら問題はありません。そういう教えや考え方は「ない」ということを確認いたしました。こうした考え方が少しでもあれば、キリスト教のように拡大解釈されて人間中心主義にむすびつくおそれがあります。「ない」といわれるのであればそのおそれはないということで、これはこれでよろしいかと存じます。

引用文献をだせといわれてもそれは不可能です。教えはたしかにそういうものだと理解してきたということです。「ない」といわれるのであればわたしの理解がまちがっていのでしょう。すべては杞憂であったということでしょう。

神を主語にして人間に都合のよいことを述べてはならない。これはわたしの信条のようなものです。教えにたいする理解がまちがっていたようです。

5781神の子さん:2015/09/25(金) 01:44:30 ID:DD4jWV6M
>「生長の家の教え」では「神とは人間の実相」のことですから、

この表現も”あの表現も「生長の家の教え」からしたら違和感ありだけどだれも文献出せとは言わないふつう。生命の実相やたら引用してるからとて生長の家のしゆうかいではやはり思えない。シルバーウィークでおわりまた独占板にもどりましょう

5782a hope:2015/09/25(金) 09:33:56 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p118後から6行目〜


「悟る」ということでも迷っている凡夫の貧しき智慧が真理を教えられてだんだん向上して悟るのだなどと考えていますと間違いであります。

悟るというのは内在の神の智慧がポカリと浮かび上がってくるのであって、脳髄意識が悟るのではない、脳髄意識が悟るのなら、宗教的悟りというものは、肉体が死んで脳髄が灰になった後に通用しない悟りであって、それでは死後まで救う宗教的悟りだとは言えないのであります。

「いや智慧は脳髄の中にあるんだ」なんて言う人があるかもしれませんが、智慧は脳髄の中にあるのではない。

いったいこの脳髄という器官は、これは自分で作った、自分の心で都合のよいように作り出した道具にすぎないので、わたしたちはそれを利用しているだけであって、決して脳髄という物質の中から智慧が発生したのではないのであります。

それでまた、われわれの智慧は、ここにあり、かしこにありというように甲の人、乙の人の智慧と一つ一つばらばらに離れて孤立しているものではない。

天地一切のものに満ち充ちている智慧とまったく一つのものである、これを知ることがすなわち生長の家の悟りであります。

自分の智慧は、天地万物を生かしているところの大いなる智慧と一つのものであると分かると自分の智慧は小さい自分の中にだけ這入るようなそんな小(ち)っぽけなものではない。

実に広大無辺のものであって、わが念ずることがただちに天地に満つる節理の智慧に相感応すべきものであることが分かってくるのであります。

5783a hope:2015/09/25(金) 09:35:56 ID:cEpBaIdo

>>5782 a hope所感)

<<悟るというのは内在の神の智慧がポカリと浮かび上がってくるのであって、・・・>>

とありますが、これは、
「甘露の法雨」の『神』の項の一説に、

神があらわるれば乃ち、
善となり、義となり、慈悲となり、
調和おのずから備わり、
一切の生物処を得て争うものなく、
相食むものなく、
病むものなく、
苦しむものなく、
乏しきものなし、

とあるところの、<<神があらわるれば乃ち、>>という状態と同じことなのだと思います。

「神」とは自分の外側に存在するものでなく、自分の中に内在するものであって、そのことをわれわれが本当に悟れば、
すべてが大調和して、この現象世界に地上天国が顕われるのではないでしょうか?

ですから、原子力エネルギーにしても、地下資源にしても水産資源にしても、生物資源にしても、なににしても、
実相を悟った(神が顕現した)人間が利用すれば、『善となり、義となり、慈悲となり、
調和おのずから備わり、一切の生物処を得て争うものなく、相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし、』という、
大調和の関係が保たれるのだと思われます。

わたしが、「生長の家」の『唯神実相』や『実相独在』真理の伝道をして人々を目覚めさせることの方が、
現象問題に対応する運動よりも重要で、もっとも優先すべきことだと考えるのはそういう理由からです。

具体的に例えれば、よく切れるナイフがあったとして、それを良心的な人間が利用すればすばらしい料理を作って人々を喜ばすでしょうが、
復讐心や、悪意や、狂気の人間が利用すればとんでもない事件に利用されてしまうかもしれません。

この現象世界にあるすべてのものはすべて実相世界の投影ですから、ひとつも無駄なものはないのだと思います。

「神は人間に選択の自由を与えたもうた」それが生長の家の教えかどうかはわかりませんが、
地球上のすべての資源をどう利用するかは、わたしたち人間の選択にゆだねらているのだと思います。

5784純粋教理批判:2015/09/25(金) 11:34:54 ID:DD4jWV6M
>「生長の家の教え」では「神とは人間の実相」のことですから、
「神が人間に与えたもうたもの」ということになると、
「人間が人間自身に与えたもうたもの」ということになってしまい表現自体に違和感を覚えるのですが・・・。

「神とは人間の実相」というのはわたしもはじめて聞いた言いまわしです。しかし、神一元の世界であればすべては神ということなので間違いではないのでしょう。

文献をだせといわれても無理です。「神は人間に自由なる意思をあたえた」とする表現が仮にあるとするなら、ホープさん流の神一元の考えでは「人間が人間に自由なる意思をあたえた」となってしまい、違和感を覚えるに十分な表現となってしまいます。

しかしこれを言い換えれば「神は神に自由なる意思をあたえた」となるわけですが、これはいい得て妙といった表現です。「神は完全なる世界をつくった」とする表現は「神は完全なる神をつくった」となり、「神は完全なる人間をつくった」はこれもまた「神は完全なる神をつくった」となるからです。

「神は〇〇に〇〇をあたえた」は「神は神に神をあたえた」となり「神は〇〇なる〇〇をつくった」は「神は神なる神をつくった」となります。神一元の神は、ふれるものすべてを金に変えたというミダス王のごとく、あらゆる対象を神へと変えてしまうようです。教えを信じていたころから教えにたいする違和感をどうしても解消できずにおりました。もしかしたら違和感の正体はこれであったのかもしれません。

「完全なる証明には外部が必要」とするゲーデルの定理が示すごとく、内部だけですべてを説明しようとするものは、すべてのものを自分に回帰させてしまうミダス王になるよりほかはない。そんな気がいたしました。

5785純粋教理批判:2015/09/25(金) 12:54:49 ID:DD4jWV6M
「神が神なる神をつくった」とする考え方が成り立たないわけではありません。チリの生物学者ウンベルト・マトゥラーナが提唱するオートポイエーシスがまさにこの一例と考えます。

オートポイエーシスとは自分で自分をつくりだすシステムとわたしは理解していますが、マトゥラーナ本人も「オートポイエーシスは自分で自分を持ち上げようとするようなものだから、すっきりと理解できる筋合いのものではない」と認めているようです。

オートポイエーシスを理解できるか、といわれても「理解できる」とはどうしても言えません。わかった気にはなれるが理解した気にはどうしてもなれない。オートポイエーシスはこうした事態の代表格のような気がいたします。

オートポイエーシスにしても外部はあります。外部からの入力も、外部への出力もない、これがオートポイエーシスのようです。しかもそれでいてオートポイエーシスは外部からの影響をうけている。

内部は外部にたいして完璧に独立している。にもかかわらず外部は内部に入り込んで内部に影響をあたえつづけている。わたしが考えているのはこうしたシステムのような気がいたします。

5786純粋教理批判:2015/09/25(金) 19:34:23 ID:DD4jWV6M
>わたしが、「生長の家」の『唯神実相』や『実相独在』真理の伝道をして人々を目覚めさせることの方が、
現象問題に対応する運動よりも重要で、もっとも優先すべきことだと考えるのはそういう理由からです。

そうですか。それなら信ずることをなさればよいでしょう。そのようにおもわれるのであれば、教えを広めて環境問題を解決する運動をまずは身近なところから起こされればよいでしょう。

総裁はすでに実際的な活動をはじめておられます。ホープさんの考えが実際の環境運動よりも重要といわれるのであれば、ホープさんが実際の活動をはじめられて、総裁の考えが間違っており自分の考えが正しいことをお示しになればよいでしょう。その結果や途中経過をこちらで発表なさればよいでしょう。

教えを信じることでホープさんじしんにどのような変化がおきているのか、これも重要な要素です。ホープさんのなかで環境問題の解決に向けた重要な変化がどのような形で起きているのか、それをこちらで発表していただかなければ、なにをいわれても説得力に欠けるというものです。ホープさんの変化をまずは語ってください。希望的観測はそのあとでも十分でしょう。

生長の家が立教して80年だそうですが、その間にも日本国内で数々の公害問題が発生しています。生長の家は公害防止のための役割を果たしたのでしょうか。わたしにはどうもそのようにはおもえません。

生長の家の教えが広まっていさえすれば公害問題は起きなかった。ホープさんはこのようにおっしゃりたいのでしょうか。たとえそうであっても、80年の年月をついやしたところで日本国内にさえ広まっていない教えを全世界に広めるのに、いったい何百年まてというのでしょう。

現実味のある提案とはおもえませんが、復興Gさんをはじめとして多くの方々がホープさんを支持しておられるようです。教えが広まるまで何百年でもまて。責任ある人の言葉とはとてもおもえません。

5787a hope:2015/09/25(金) 22:36:35 ID:cEpBaIdo
わたしあてにいろいろなご意見ご提案などいただいているようですが、
特に『a hopeの「生命の實相」の解釈が間違っているのではないか?』
というような内容ではないようなので安心しました。

わたし自身は日常に追われている普通の主婦ですから、
生長の家の総裁・副総裁先生というような公人の方とは立場がまったく違います。

ですからわたしが「生長の家」のために実際の活動を起こして、その内容をここで説明する義務などないと思っています。

わたしは聖典「生命の實相」の素晴らしい真理をここでお勉強させてもらっていることが、
今現在、自分自身のできる精一杯の光明化運動だと思っています。

5788純粋教理批判:2015/09/25(金) 23:07:05 ID:DD4jWV6M
ホープさんは自分の考えの正しさや有効性をためしたわけでもないのに、総裁に「これをやれ」といっておられるのですか。本を読んだだけで、実際にはなにも体験していないのに、総裁に「これをやれ」といっておられるのですか。正しさや有効性がわからぬものを「何百年もかけて実現せよ」といっておられるのですか。

自分がやる気もないことを人には「やれ」という。無責任にもなるはずです。しかも「教えの解釈が間違っていなかったので安心した」とのこと。環境問題などどうでもよい。教えの解釈が正しければそれでよい。こういうことなのでしょうか。

5789a hope:2015/09/25(金) 23:35:55 ID:cEpBaIdo

<<ホープさんは自分の考えの正しさや有効性をためしたわけでもないのに、総裁に「これをやれ」といっておられるのですか。
本を読んだだけで、実際にはなにも体験していないのに、総裁に「これをやれ」といっておられるのですか。>>


わたしは今はもう雅宣先生にも純子先生にも何もお願いなどしていませんよ。
過去に何度も何度もお願いしましたが、結局、わたしのような一信徒の掲示板でのお願いなど一度も聞いて頂けなかったですから・・・。


わたしは「生命の實相」を拝読しだして5年ほどたちますが、その有効性(?)はものすごく実感していますよ。
自分の周りの人たちへの影響力がどんどん強まってきているのを感じています。

身ばれをするので控えていますが、具体的体験もたくさんあります。

「生長の家の教え」はほんとにすごいので、その真理が「迷い」に眩まされないようにこれからもこの掲示板で発言しつづけるつもりです。

5790a hope:2015/09/25(金) 23:51:36 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p123 後から行5行目〜

・・・人間は罪があるから宗教が必要なのではなく、罪が無いから罪の無いことを知らせるために宗教が必要なのであります。


(a hope所感)

宗教とは人を教育して善人に仕立て上げるためにあるのではないのですね。
人々に真理を知らせ、目覚めさせるためにあるのですね!

5791純粋教理批判:2015/09/26(土) 00:03:33 ID:DD4jWV6M
環境問題解決の有効性?

それはすごいですね。身バレしない程度に教えてください。

個別の事案ではなく、こういう考え方をすれば環境問題解決につながるこのような行動があらわれる、といった具合の提案をおこなってください。生長の家が80年かけてできなかったことをホープさんはやっておられるわけですから、これは「すごい」の一語につきます。

5792a hope:2015/09/26(土) 00:36:52 ID:cEpBaIdo

<<個別の事案ではなく、こういう考え方をすれば環境問題解決につながるこのような行動があらわれる、といった具合の提案をおこなってください。>>

人類が聖典「生命の實相」の拝読をして唯神実相の考え方になれば環境問題の解決につながりますよ。

環境問題なんて本来無い現象なんですから・・・。

前から、そう言っているではないですか・・・。


もう、ねむいのでこれ以上のお返事はできません。

初心者さま みなさま おやすみなさい。

5793純粋教理批判:2015/09/26(土) 10:43:14 ID:DD4jWV6M
>人類が聖典「生命の實相」の拝読をして唯神実相の考え方になれば環境問題の解決につながりますよ。
環境問題なんて本来無い現象なんですから・・・。

生長の家の実際の活動においても、何か問題がおきてそれを解決しようとすると、ホープさんのように「それはほんらいない現象なのだから具体的行動は何もしなくてよい」という人がかならずあらわれていたという話を聞きます。それで何もできなくなって問題はけっきょくそのままであったのだそうです。

「現象なのだから何もしなくてよい」といっている人は気持ちがよいのでしょうが、まわりの人は迷惑です。

かつて日本は公害問題でたいそう苦しみましたが、生長の家の一部の人たちは「これは現象だから何もしなくてよい」と具体的な取り組みには反対したはずです。問題はほぼ解決したとおもわれますが、それは何もしなかったからではなく技術や法規制が大きな役割を果たしたからです。

今でも生長の家には、日本が公害問題を技術や法規制で解決したことにたいして「ない現象に取り組んだ」といって批判している人がいるのでしょう。

雅春先生は戦後左翼の問題に取り組んでおられたはずです。詳しい内情はわかりませんが「左翼問題は現象だから具体的行動はしなくてよい」とはいっておられなかったはずです。現象に取り組んでおられる雅春先生にたいする批判があったのかどうか、これはわかりません。

5794純粋教理批判:2015/09/26(土) 12:32:31 ID:DD4jWV6M
生長の家の活動で問題がおきたのでその問題を解決しようとすると、「それは迷いだ。現象にひっかかっているから問題を解決しようなどとおもうのだ」との反対論が一部の人からでてくることがあるといいます。

教えをそのように大上段にふりかざされてしまうと問題への対応ができなくなり、問題はそのままということになります。たとえ問題はそのままであっても、反対論をふりかざした人が責任を感じるわけでもありません。

その人のなかでは「問題はない」わけですから解決がないのもあたりまえ。教えをふりかざせたことでその人は大満足です。

環境活動にたいする批判もこれとおなじです。環境問題はない。なにひとつ対処しなくて環境破壊がそのままつづいたとしても、その人のなかでは「環境破壊はない」のですから解決がなくてもあたりまえ。

教えが広まるまで何百年かかろうが関係ない。環境破壊はないのだから、迷った人たちが勝手にあるとおもっているだけだから、何百年かかろうが関係ない。まわりはえらく迷惑するとおもいますが、本人は教えをふりかざせたことで大満足のようです。

5795純粋教理批判:2015/09/26(土) 14:49:42 ID:DD4jWV6M
>わたし自身は日常に追われている普通の主婦ですから、
生長の家の総裁・副総裁先生というような公人の方とは立場がまったく違います。
ですからわたしが「生長の家」のために実際の活動を起こして、その内容をここで説明する義務などないと思っています。
わたしは聖典「生命の實相」の素晴らしい真理をここでお勉強させてもらっていることが、
今現在、自分自身のできる精一杯の光明化運動だと思っています。

たとえ主婦であっても実際的な活動をしている人は大勢おられるのでは。「主婦だからできない」と言い訳するような人にたいしては「あなたは神の子だからかならずできます」との励ましがなされるようです。

「この教えで人類は救われる」といっておられるわりには、ずいぶんと消極的なお考えですね。自分のこととなるとあれやこれやの都合がでてきて「それはできません」となるわけですか。

ここで勉強することが自分のできる精一杯の光明化運動。生長の家にこのような考え方があるとは知りませんでした。自己限定を取っ払うというのが生長の家の考え方ではないのですか。「自分ができるのはこれが限界」。こういうことをいうためにホープさんは教えを学んでおられるのですか。

「日常に追われる」というのも妙ないいわけですね。日常に追われないのが神の子ではないのですか(文献をだせといわれても無理です)。いったい何を学んでこられたのですか。自分のこととなるといいわけたらたらの「現象あり」で、人には「現象なし」を押しつける。わかってもいないのにわかったふりをして人に説教したがる信徒によくあるパターンです。

おまえこそわかってもいないのにわかったふりをして人に説教するな。

ばれましたか。仰せのとおりにいたしましょう。

5796a hope:2015/09/26(土) 19:30:32 ID:cEpBaIdo

ここは 聖典「生命の實相」の真理を学ぶ誌友会です。

わたし個人の人格や行動に関してご批判またご助言くださるのはご遠慮くださいませんか?

わたしは「実際的な活動をしていない」などと一言も言っていませんし、
「生活に追われているからできない」などと云い訳もしていません。

『「生長の家」の総裁・副総裁先生とは立場が違うから、自分のしていることを公にする義務はない』
と言ったつもりです。

ですから、だれからもそのことでご批判を受けるような立場ではありませんので、
これからは、そのようなご投稿にはお返事は控えさせていただきます。

今月中に21巻のお勉強を終らせたいと思っているので、御理解をどうぞよろしくお願いいたします。

5797a hope:2015/09/27(日) 10:23:21 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p126 9行目〜

神を絶対的なものと観ないで、相対的な神をわれわれが信ずることになりますと、どうしてもわたしたちは本当の安心に到達することはできないことになります。

絶対者だからこそ安心して信頼もできるのだけれども自分の頼っているものは相対的な存在でそれに対するやはり強い力をもって対立している何かがあって、いつどこからかせめてくるかもわからないということになれば、不安で、どうしたって本当の安心を得られるはずはない。

相対的な神を信じている限り、安心は得られません。

絶対的な神を信じた時、われわれは初めて安心が得られる。

もし罪業が神から出てきたものならば、神が罪を作ったということになれば、罪は実在します。

しかし罪を作ったりするような不完全な神や、やりそこないの世界や人間をこしらえて、またやり直しをやるような神を信じていて本当に安心していられるはずはありません。

われわれが本当の安心を得るには絶対的な、完全円満なもののみを創り給うた神を信ずる他はないのであります。


われわれは神の子である。

神の無限の善でありますから罪を創り給うはずがない。

神の生命が宿ってわれわれは生かされているのであるから、神の無限に善なる生命すなわち我であるところの大自覚に入った時のみ、いっさいの不安や、罪苦は消え去って、本当の善なる実相が現われ、この世が光明楽土と化するということになるのです。

5798a hope:2015/09/27(日) 10:25:25 ID:cEpBaIdo

>>5797 a hope 所感)

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大辞林 第三版の解説

そうたい‐てき〔サウタイ‐〕【相対的】
[形動]他との関係において成り立つさま。また、他との比較の上に成り立つさま。「―な価値」「物事を―に見る」⇔絶対的。

ぜったいてき【絶対的】
( 形動 )
物事が絶対であるさま。何物にも制限されないさま。 ↔ 相対的 「 -な権力」 「 -な優位に立つ」

https://kotobank.jp/word/%E7%B5%B6%E5%AF%BE%E7%9A%84-548310#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89

------------------------------------------------------------------

この「相対的神観」と「絶対的神観」の違いですが、とても重要だと感じています。

世の中のほとんどの人が「神さま」といえば、自分とかけ離れた別の存在だと観じているのではないでしょか?

ですから、そのような考え方の人々に、いきなり「あなた自身が神なんですよ」と説いても、
すぐに「あーそうなんですか」と納得してその自覚(悟り)に到る人は少ないと思います。

ですから、「生長の家」では、ワンクッションおいて「神の子」という表現をつかって人々に伝道しているとわたしは学びました。

ですが本当は、生長の家は「絶対的神観」つまり『唯神実相』が教えの根本なんですよね!

5799a hope:2015/09/28(月) 08:04:19 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p138 6行目〜


話す人が、真理を知って話せば、同じ話でも効果が多いのであります。

どういって話すかというと、あなたの痛む肉体、物質は本来無いのでそれは心の影である。

痛むのは物質という形体だけの塊が痛むのではなくて、本当は心が痛んでいるのだ。

何かあなたは心に痛みを持っていますね。

たとえば発病の前に人に口惜しい、憎たらしいと思って腹を立てた、その痛み、苦しみが心のうちに鬱積して、表現できずにいるとかいったようなことがあるでしょうと伺いますと、きっとそういうことがあるのです。

しかし、よく考えてみれば自分が口惜しい、憎いというような思いをするのは、他の人からいじめられるのはやっぱり自分の心のせいなのです。

自分の心のうちに業を積んでいるから、それで人からいじめられるように自然になってくる。

しかしいじめられることによって業が消えるのでありますから、いじめてくれる人も神の子であったということが分かれば、ああ怒って申しわけなかったと、詫びる気持ちになると同時に怒りの念が消えてそのまま神経痛が治ってしまうという例がたくさんあるのであります。

5800a hope:2015/09/28(月) 08:06:16 ID:cEpBaIdo

>>5799 a hope所感)

「心が病気を作る」ということが分かれば、自分の心をコントロールすることがどれだけ重要かがわかります。

ですが、谷口雅春先生ですら「唯神実相」の真理を悟られる直前まで、心をコントロールするのが難しいと嘆かれていました。(「生命の實相」第20巻 p132〜)

唯心所現の真理から考えれば病気は悪しき心(業・罪)の影であり、
唯神実相の真理から考えれば悪しき心(業・罪)などない、ということになります。

生長の家の縦横の真理は、どちらもとても大切な真理なんですね。

5801a hope:2015/09/28(月) 08:44:43 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p143 後から3行目〜


病気や不幸は何からくるというと、病気や不幸は迷いから来るという。

その迷いはどこから来るかというと「迷いは無い」という、これが生長の家の解釈であります。

「迷い」はどこから来たと言われる方が往々にありますが、どこから来たということが答えられるくらいならば、「迷い」はあることになる、「迷い」は無いから出所(でどころ)もない。

迷いをアルと言ったら迷いから出たというあらゆる悪も肯定しなければならない、それが現実界の実際の状態であります。

しかしながらこの「迷い」は無いから、迷いから生じた憂苦満つる世界も本来無いのであります。


わたしがある時、「この世界には幸福ばかりが満ちている。人間は健康の人ばかりで病気の人は一人も無い。いっさいの生物は、互に争う者なく、生存競争で血みどろな戦いをして入る者のない」と講演いたしますと、「何を貴様は事実を見ないで空想ばかり言っているのであるか。この現実の人生の悲惨な戦いを見よ」と言って来られた方がありました。

わたしの申しましたのは現実世界のことでなく、実相世界のことであって、そこにはなんの悪も存在しないということが自覚されてくるのであります。

これが分からない人は生長の家に反駁(はんばく)して来られるのですが、こういう人たちはその反駁の根拠を現象界に置いて、いろいろのことを言ってくるのです。

5802a hope:2015/09/28(月) 08:46:29 ID:cEpBaIdo

>>5801 a hope所感)

<<「何を貴様は事実を見ないで空想ばかり言っているのであるか。この現実の人生の悲惨な戦いを見よ」と言って来られた方がありました。>>

わたしはつい最近、この掲示板上で同じようにどなたかに反論されたような気がします。
わたし自身、現実世界への対応はとても大切であると感じています。

ですがその対応方法も、実相世界の完全円満さを悟った上で対応するのと、そうでないのでは結果に雲泥の差が出て来てしまうと思っています。

谷口雅春先生は完全に「唯神実相」を悟られていました。

ですから現実世界への対応も、その時起きている現実問題に自由自在に対応されていたのではないかと拝察しています。

「生長の家」信徒であるならば、まずは教えを学び、「唯神実相」を悟り、その上での環境保護運動、政治運動、・・・でなければ、
すべてが間違った方向へ向かってしまう可能性があるのではないでしょうか?

5803a hope:2015/09/29(火) 07:32:39 ID:cEpBaIdo
>>5801 つづき)

「生命の實相」第21巻 p144 後から4行目〜


現象界すべてのものはわれわれの描く念のフィルムに従って「無」の展開せる諸相なのです。

その「無」の展開せる諸相の奥に、ちょうど芝居の楽屋裏に本当の人間がいるように、生長の家でいう生命の実相があるのであります。

それは実に無限の生命に満ちる世界でありますが、それは直観によって体得するより他はない。

ここに見よ、かしこに身よと言って示されるものではない。

示されるものはすでに現象で実相ではないのですから、実相は、このままここにあると、パッと悟るより仕方ないのであります。

5804a hope:2015/09/29(火) 07:34:24 ID:cEpBaIdo

>>5803 a hope所感)

実相とは 「ここに見よ、かしこに身よと言って示されるものではない。」
「このままここにあると、パッと悟るより仕方ないのであります。」というようなものなのですね。

ですが、雅春先生はそのあとに、現象世界に於いても、「実相の写し」ならば見せて示すことはできるとおっしゃっておられます。
いったい、「実相の写し」というのは、どのような現象のことをいうのでしょうか?

つづけて謹写していきます。


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